ヘブライ語-最古の言語?

標準

今回は、ゆきこさんとヘブライ語について語り合います。

ゆきこさんはJWの教えの通り、ヘブライ語が人類で最初の言語であり、今の体制が滅びた後に生き残った人類が用いることになるのもヘブライ語であると信じてきました。
ところが、テレビで「新たに発掘されたエジプトの王族の墓」のニュースで、当時使われていたヒエログリフが最も古い言語のひとつであることを知り、jw.orgからヘブライ語について検索してみました。


ゆきこ

ねえ、このサイトの説明、今一つ納得いかないのよ。(洞察:ヘブライ語の項)
「聖書は,ヘブライ語として知られている言語の起源に関する信頼できる証拠を提供している唯一の史料です。」って書いてあるけど、本当かしら。聖書以外でヘブライ語について知られている資料はないの?先日見たテレビではヒエログリフは紀元前数千年前には遡れるって言っていたのよ。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2013646

ささら

いいところに気がついたわね。
聖書では、ノアの洪水の少し後に人々が集まってバベルの塔を作り、神の怒りをかったために多くの言語に分かたれた・・・って説明されているものね。
創世記の11章の最初の部分からだったわね。
「さて,全地は一つの言語,一式の言葉のままであった。そして,東に向かって旅をしているうちに,人々はやがてシナルの地に谷あいの平原を見つけて,そこに住むようになった。そして,彼らは各々互いにこう言いだした。「さあ,れんがを造り,焼いてそれを焼き固めよう」。それで,彼らにとっては煉瓦が石の代わりとなり,歴青がモルタルの代わりとなった。そうして彼らは言った,『さあ,我々のために都市を,そして塔を建て,その頂を天に届かせよう。そして,大いに我々の名を揚げて,地の全面に散らされることのないようにしよう』。それからエホバは,人の子らの建てた都市と塔とを見るために下って来られた。その後エホバは言われた,『見よ,彼らは一つの民で,彼らのすべてにとって言語もただ一つである。そして,このようなことを彼らは行ない始めるのだ。今や彼らが行なおうとすることでそのなし得ないものはないではないか。さあ,わたしたちは下って行って,あそこで彼らの言語を混乱させ,彼らが互いの言語を聴き分けられないようにしよう』。こうしてエホバは彼らをそこから地の全面に散らし,彼らはその都市を建てることからしだいに離れていった。それゆえにそこの名はバベルと呼ばれた。そこにおいてエホバは全地の言語を混乱させたからであり,エホバは彼らをそこから地の全面に散らされた。」
確かに聖書では、「全地は一つの言語、一式の言葉のままであった」と述べているし、神が言語を混乱させたために人々が全地に散って暮すようになったと書かれているわね。
JWは聖書の記述を「事実」として説明しているわ。
では、本当はどうだったのか、調べてみましょうよ。

ゆきこ

バベルでの言葉の混乱はいつのことだったかしら?
聖書によると、ノアの洪水の後しばらく経ったころということだったわ。

ささら

そうね。バベルの塔の件で中心になっていた人物はニムロデ、そして彼はノアのひ孫に当たるからだいたいの年代はわかるわね。
そして、聖書によると、どうもアダムとエバは始めから言語を使っていたわ。
では、バベルで西暦前2000年より少し前に、突然言語が別れたとするわね。でも、文字って数年で完成するのかしら?日本語のひらがな、カタカナ、漢字はもちろんのこと、英語のアルファベット、ヘブライ語、エジプト語・・・当然ながら、一夜にして文字はでき上らないわ。
ところが、信仰という「思い込み」ができてしまうと全くそんなことは気にならなくなってしまう、信仰って不思議ね。

ゆきこ

わたしも「うん、そうか!どの言語も同じように発達してきたのか。一度に多くの言葉が出来上がって・・・。だから、今は意志の疎通も難しいのだろうな。将来は言語の壁も取り除かれるから、今よりずっと平和な関係が築きやすいだろう。罪の影響がなくなったら万々歳だ!」なんて思っていたわ。

ささら

本当は、文字にも歴史があり、時と共に簡略化されてきたのよ。もし、文字がバベルでの出来事よりも前に確かに存在したなら、そのために言葉も当然その時より前から存在していたことになるから、ノアの洪水の記録も含めた聖書の記述に、ここでまた疑問のメスが入ることになるわね。
ところで、ここでひとつ確認しておきたいことがあるの。ノアの洪水やバベルの塔の崩壊について計算してきたのはJW独特のものかという点なのだけど、実はカトリックや種々のプロテスタントでさえ行ってきたのよ。
実際にはどの訳本を用いるかとかで違っていたり、聖書そのものの系図もどうも一致していなかったりするのだけれど、一応はざっと計算することはできるの。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%81%96%E6%9B%B8%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E5%AD%A6001.png

なので、今はノアの日の洪水は約4300~4400年くらい前、そしてバベルの塔の崩壊は(ニムロデはノアのひ孫であるため)それから更に100~200年後の出来事と考えることにしましょう。

ゆきこ

なるほど、わかったわ。

ささら

さて、文字と呼ばれるものの定義を調べてみたわ。

・意志の伝達を目的としている。
・書記記号の集合体である。
・意味のある音声の系統的配列と関係のある記号、意志の伝達がなされるような記号的な要素を用いている。

そうなると、初期の文字は最初のひとつを満たしていても全てを満たしていない場合があるの。
でも、人が人とコミュニケーションを謀る、あるいは物事の記憶を助ける等の目的で用いられているものも人が思考し、意志を伝達する手段として用いた・・・故に話し言葉は存在していたという点においては大変重要なことよね。
まずは、人類初期の頃にはどんな手段を用いていたのかを知っておくのは助けになると思うからざっとみてみましょう。

【結縄(結び目文字)】
これは、記憶を助けるために用いられていたと考えられていて、古くは新石器時代に用いられていたことが知られているわ。
一本の紐に一重の結び目をいくつか作ったものや、色つき紐でいくつもの結び目を作って複雑につなげ、それを更に別の紐に結びつけたりして記憶・伝達に用いていたのですって!インカ帝国のキープと呼ばれているものは、それのかなり発達したものと言われているわ。

ゆきこ

あ、知っているわ!沖縄でも古くからその方法は使われていたわ。

ささら

【ノッチ(刻み目)】
これは、木の樹皮や骨、石などに線を刻みつけたものよ。
人類の祖先が、そのような印をつけるようになったのは約10万年前ということらしいわよ。
それらには一貫した特徴がって、それが意図的な彫り物であることを物語っているそうなの。
例えば、南アフリカのブロンボス洞窟で発見された斜行平行線の刻まれた2片の黄土、ザイールのイシャンゴ・ボーンと呼ばれる骨片は、紀元前9000年のものと言われているけど、
数字、あるいは暦を記したものかも知れないと言われているそうよ。

【絵文字】
とても古い絵文字は、洞窟などで多く発見されているわ。
ラスコー洞窟、フレール洞窟などは有名ね。
目的については理解されていないけど、絵文字の発達したものは「手紙」としての用を足していたらしいのよ。アメリカのシャイアン族はいくつもの部族が伝達手段として使っていたらしいの。
アフリカのアシャンティ族は、ことわざを絵文字であらわし、教訓を伝える手段としていたのですって。後に日本語にも影響を与えることになった中国の「漢字」にも「絵」に起源をもつものがあるわ。
それって先に意味を教わらないとその字が表すものが不明であったりするため、正式には「漢字」は絵文字ではなく、表語文字の部類に入るそうよ。
つまり、漢字には音と意味の両方があり、学ばなくともわかるわけではなく、個別に学ぶ必要があるのよ。

下記のシャイアン族の手紙は、妻を従えた「カメ」という名の男から息子に送った「帰ってこ~い~よ~?」というメッセージだそうよ。

ゆきこ

昔の人々もいろいろ考えてコミュニケーションスキルを高めていたのね。

ささら

まだあるわよ。

【タリー(符木)】
ノッチと共通するところがありけど、骨に刻み目を入れて、いろいろな人々や、時の流れ(月の満ち欠け等の記録)や狩りの成功などを表した記号。
例えば、かつてガンマンが自分の拳銃に自分の殺した人数分刻み目を入れた・・・のように、記憶を助けるための印だったみたい。
オーストラリア原住民は、あらかじめ取り決めておいた伝達内容で棒に数を刻みつけ、その棒を使って遠方の相手とメッセージを送りあうことをしたそうなの。
中世になるとヨーロッパでは、税務役人の道具としてタリー棒とノッチを刻み付けるナイフが活躍したのですって!
領収書の発行も、この刻み目を棒につける方法が用いられていて、完全な文字と平行して長く使われていたわ。
ということで、この方法も文節言語ではなく、数や金額の記憶の補助として用いられていたらしいわね。
その他、記憶の助けとしては「あやとり」なども旧石器時代から使用されていたとのことで、調べてみてわたしはビックリしたわ。
これは、言わば「空中文字」であるため、口頭伝承と同じように「伝える者」がいてはじめて後世に残るものと言えるから、「伝える者」が絶えれば、そのものが残っていても何を意味しているかは徐々に曖昧になってしまったみたいよ。

ゆきこ

えっ?「あやとり」も文字?

ささら

そうよ。それに、記憶版のようなものや石のように朽ちないものに記号的なものが書き残されているものは見つかっているもののやはり、読み手が絶えてしまったためいったい何を著しているのかがわからなくなっているものもあるらしいわ。
バルカン半島のヴィンチャ文化(紀元前5300~4300年)では何らかの象徴を刻んだ陶器などの粘土製品が出土しているの。
主な象徴は30個あり、その組み合わせや変形によって全部で210の記号のような象徴があるらしいわ。また、その周辺では時期は前後するもののいくつかの酷似している象徴が彫られた書字版などが発掘されていて、6000年以上前に、バルカン半島中央部に陶器や書字版制作の職人たちが利用できるような何らかの「図形的象徴の目録」が存在していたと考えられているのよ。
また、トークンと呼ばれる幾何学模様をかたどった勘定道具や数の分類を示す異なった形の石(カウント・ストーン)なども用いられていたわ。
以上、ざっと人類初期から、場合によっては最近まで使われてきた簡単な線による記録、記号や象徴等についておさらいしたわね。

ゆきこ

こうしてみると、人はかなり古くから記録を残したり、連絡を取り合う手段を考え出したりしていたことがわかるわ。
これらを知っただけでも、人間が相当昔から家族とか同じ仲間同士では「言葉」が使っていて、コミュニケーションをはかっていたことが一目瞭然ね。

ささら

そうね。
こういった初期の文字の記録の一部には「読み手」がいて、それらの絵やマークの意味を言葉に変換していたらしいわ。
それでも、その記号や象徴は、そのまま文字を音声にする現代のわたしたちが認識している「文字」である表音文字とは違うわね。

ゆきこ

「表音文字」ってやっぱり必要だったのね?

ささら

そうね。何千年も昔、話している言葉を残したり伝えたりしようと考えたシュメールの人々も簡単な線や記号を用いて「記録」や「意志の伝達」を謀っていたのね。
でも、文化は進み、社会制度が高度化するにしたがってそれまでの単純で初歩的な文字体系では事が足りなくなったというわけよ。

ゆきこ

社会が複雑になればなるほど、きちんとした文字が必要になったのでしょうね。

ささら

今から6000年ほど前のこと、拡大するシュメール人社会では日々の食物、製造品、労働者、兵役、田畑、租税、王室や寺院の財産管理、収入と支出の処理・管理の必要も拡大していったわ。
例えば、土地や物品の所有権に関しても、ただの記憶補助のための記号では不十分になるわよね。それで、もっと複雑な「文字」、そして所有権を有する者のしるしである「印章」も同時期に登場するみたいよ。

ゆきこ

そうなるのは必然だったのね。

ささら

ええ、人々が集まり、ひとつの社会となり、それを治める者と治められる者たちが生じ、宗教が社会生活や政(まつりごと)に根を下ろし、それが体制化していけば、どうしても簡潔で、しかも複雑な物事も表現できる記録と伝達手段としての文字が必要となったわけよね。

ゆきこ

でも、文字が出来上がっていくためには時間がかかるわよね。

ささら

そう簡単にはいかないはずよ。
そうそう、ここで文字系統図を少し見てみましょう。文字と言っても、他の考古学同様すべてが残っているわけでもすべてが発見されたわけでもないわ。

ゆきこ

発掘された証拠や口承などから古代の文字使用状況などを手繰り寄せたりもするのでしょうね。

ささら

それで、学者によって多少の差異が生じるのは仕方がないわね。それに、これからも新しい発見や説明が出てくる可能性もあるわ。
それでも、大まかな「流れ」そのものには共通のものが見受けられるので参考にはなると思うの。

ゆきこ

こんなにたくさん枝分かれしてきたのね。う~ん!それに、ヘブライ文字が初期の文字の中に含まれていないわ。

ささら

そうなのよ。それでは今度はヘブライ文字が実際にはいつ頃使われ始めたのか「文字年表」を見てみましょう。

【ルイ=ジャン・カルヴェ版】

  • 前30000年頃 [陰画手像]
  • 前4000年頃 スサ(現イラン)で土器に書いた文字が現れる
  • 前3300年頃 メソポタミア南部で絵文字が現れる
  • 前3100年頃 エジプト聖刻文字成立
  • 前2700年頃 シュメールの楔形文字成立
  • 前2500年頃 スサで楔形文字が原エラム文字にとって代る
  • 前2300年頃 インダス川流域で「原インド文字」が現れる
  • 前2200年頃 プズル・インチュチナク王の原エラム文字碑文
  • 前2000年頃 シュメールの首都ウル陥落。以降,メソポタミアではアッカド語が共通語として使用される
  • 前1600年頃 原シナイ文字 地中海で線文字A成立
  • 前1300年頃 ラス・シャムラ(現シリア)のウガリット文字 古代中国で甲骨文字成立
  • 前1000年頃 フェニキア文字成立 同じ頃アラム文字、古ヘブライ文字成立
  • 前8世紀 ギリシア文字、エトルリア文字、イタリア文字成立
  • 前6世紀 ローマ字成立
  • 前3世紀 カロシュティー文字、ブラーフミ文字成立
  • 前2世紀 ヘブライ文字成立
  • 前1–1世紀 中国で漢字が完成
  • 1世紀 最古のルーン文字碑文
  • 3世紀 コプト文字、原マヤ文字成立
  • 4世紀頃 漢字、朝鮮半島に伝来 グプタ文字成立 ゴート文字、アラビア文字成立
  • 5世紀頃 漢字、日本に伝来。オガム文字成立 アルメニア文字、グルジア文字成立
  • 7世紀 チベット文字成立
  • 8世紀 ナーガリー文字成立
  • 9世紀 グラゴール文字成立(その後キリル文字となる)
  • 11世紀 ネパール文字成立

【ロビンソン版】

  • 氷河時代(紀元前25,000年以降) 「始原文字」の時代。絵文字的コミュニケーション。
  • 紀元前8000年以降 中東で粘土の「トークン」が計算に使われる。
  • 紀元前3300年 イラクのウルクで、シュメール人が粘土板に記号を刻みはじめる。
  • 紀元前3100年 メソポタミアで楔形文字の使用が始まる。
  • 紀元前3100年~3000年 エジプトでヒエログリフの使用が始まる。
  • 紀元前2500年 パキスタン/北西インドにインダス文字が発生。
  • 紀元前18世紀 クレタ島に線文字Aが出現。
  • 紀元前1792年~1750年 バビロン王ハンムラビの治世。ハンムラビ法典が石版に刻まれる。
  • 紀元前17世紀~16世紀 パレスチナで、最古のものとされるアルファベットが誕生する。
  • 紀元前1450年 クレタ島に線文字Bが出現。
  • 紀元前14世紀 シリアのウガリットでアルファベット的な楔形文字が使われる。
  • 紀元前1361年~1352年 エジプト、ツタンカーメン王の治世。
  • 紀元前1285年頃 カデシュの戦い。ラムセス2世とヒッタイト軍の双方が勝利を記す。
  • 紀元前1200 卜骨の甲骨文字から漢字ができはじまる。
  • 紀元前1000年 地中海沿岸地方でフェニキア・アルファベットの使用が始まる。
  • 紀元前8世紀頃 北イタリアにエトルリア・アルファベットが出現。
  • 紀元前650年 エジプトでヒエログリフからデモティックができる。
  • 紀元前600年 中央アメリカでマヤ文字(絵文字)の使用が始まる。
  • 紀元前521年~486年 ペルシア王ダレイオスの治世。ベヒストゥーンの碑文(楔形文字解読のカギとなった)が刻まれる。
  • 紀元前400年 イオニア・アルファベットが標準のギリシア・アルファベットになる。
  • 紀元前270年頃~232年頃 北インドでブラーフミ文字とカローシュティー文字により、アショーカ王の勅令が石柱に刻まれる。
  • 紀元前221年 秦王朝の漢字改革。
  • 紀元前2世紀頃 中国で紙が発明される。
  • 1世紀 死海写本がアラム/ヘブライ文字で記される。
  • 75年 楔形文字の最後の碑文が記される。
  • 2世紀 北ヨーロッパにルーン文字が出現。
  • 394年 エジプトのヒエログリフによる最後の碑文が記される。
  • 615年~683年 メキシコでパカル王が古典期マヤの都市パレンケを支配。
  • 712年 日本最古の歴史文学『古事記』完成(漢字で書かれている)。
  • 800年以前 中国で印刷技術が発明される。
  • 9世紀 ロシアでキリル・アルファベットが考案される。
  • 1418年~1450年 挑戦の王世宗の治世。ハングル・アルファベットが考案される。
  • 15世紀 ヨーロッパで1文字ずつの可動の活字が考案される。
  • 1560年代 ユカタン半島でディエゴ・デ・ランダがマヤの「アルファベット」を記録する
  • 1799年 エジプトでロゼッタ・ストーンが発見される。
  • 1821年 アメリカ先住民セコイヤによりチェロキー族の「アルファベット」が考案される。
  • 1823年 エジプトのヒエログリフがシャンポリオンにより解読される。
  • 1840年以降 ローリンソン、ヒンクスらによるメソポタミア楔形文字の解読。
  • 1867年 タイプライターの発明。
  • 1899年 中国で甲骨文字の刻まれた卜骨が発見される。
  • 1900年 エヴァンスによるクノッソスの発見と線文字A, Bの同定。
  • 1905年 シナイ半島のセラービト・エル・ハーディムでピートリーが原シナイ文字を発見。
  • 1908年 クレタ島で「ファイストスの円盤」が発見される。
  • 1920年代 インダス文明の発見。
  • 1940年代 電子計算機(コンピュータ)の発明。
  • 1948年 ヘブライ語がイスラエルの公用語となる。
  • 1953年 ヴェントリスによる線文字Bの解読。
  • 1950年代以降 マヤ文字の解読。
  • 1958年 中国のピンイン導入。
  • 1980年代 ワードプロセッサの発明。文字が電子化される。
  • 2012年12月23日 マヤ歴で現在の大サイクルが終わる日。

ゆきこ

あら?ルイ=ジャン・カルヴェ版ではヘブライ文字は紀元前1000年頃だけれど、ロビンソン版ではその頃フェニキア・アルファベットの使用が始まるって書かれているわ。

ささら

そうね、ヘブライ文字がいつできたか・・・ピンポイントではわからないけれど、フェニキアのアルファベットから徐々に派生したことは確からしいのよ。
あ、それからヘブライ文字についてだけど、こちらの資料にはこんな記述があったの。
「紀元前850年頃のカナン地方のヘブライ人のあいだでは、フェニキア文字の子音アルファベットの影響を受けて、古ヘブライ文字がすでに生まれており、主として宗教的な文書に記録されている。
古ヘブライ文字が世俗用に使用されなくなったのは、ユダヤ人が追放されていた、いわゆる「バビロン捕囚」の期間に、線形ヘブライ文字の「アブジャッド」が使われていたときである。そのころ古ヘブライ文字の影響を強く受けたアラム文字の一変種が使われるようになった。」

ゆきこ

おどろいた。ヘブライ文字ってそんなに新しいのね。それに、本当に世界中にはたくさんの文字があって、長い時をかけて作られてきたのね。

ささら

そうなのよ。ここには「すでに生まれており」って表現されているけれど、エジプトのヒエログリフやシュメールの楔形文字に比べたら、ずっとずっと後代になってから使われはじめたことがわかるはずよ。
紀元前8~7世紀には、アラム語が古代の近東で最も広く使われる言語、すなわちその地域全体の国際語となり、ペルシャ帝国(紀元前550~330年)の公用語となったのよ。それはペルシャ帝国の崩壊後も生き残って、3世紀までに新しい書記法に変化してアラビア語などに分かれていったのですって。
そして、表で確認してもらったように、ヘブライ文字のアルファベットができるまでには、ヒエログリフや楔型文字が簡略化されたり、その影響を受け体系化されたものが表音文字として発達する時間も必要だったのよね。

ヘブライ語のアルファベットの発達段階を表にしたものがあるわ。

それにね、未だに解読できていない文字群やこれから発見されるのを待っている遺構などもあるわけね。驚いたことに、文字を持たない言語というのもけっこうあるそうよ。

ゆきこ

え?言葉はあるのに文字がないの?

ささら

ええ、地球上には3000を超える言語があるそうよ。
それでも、この資料にはこんなことが書かれているわ。

「言語に文字がないと表現が散漫になるのではないかと考える向きもあるが,これはむしろ逆であることが多い。言語に文字がないからこそ,表現に一定の形式を与え,コミュニケーションを確かなものにしようという意識が働く.なぜアジアやアフリカの言語に民話が何千とあり,また諺も2,000も3,000もあるのか考えてみよう.例えば諺というのは,社会の英知をコンパクトに表現したものであるが,そこには韻を踏んだり対句を用いたりとさまざまな形式が導入されている。〔中略〕文字言語は,さまざまなものを文字の代わりに用いることがある。例えば,人名や地名は出来事の記録媒体として機能することは世界の多くの地域でみられる.例えば,アフリカなどでは「葬式」という名前は,親族が死んで喪に服しているときに生まれた子供,「戦争」は戦いがあったときの子供,「道」は母親が産科に急いだのだが間に合わず道で産んだ子供といった具合である。これらの名前は個人を他の個人と区別するだけでなく同時に命名者(これは主として子供の親)にとって重要な出来事を,子供の名前の中に記録しているのである。また隣人に対して,あたかも手紙を書くようにメッセージを子供の名前に託したものも多い。このように,無文字言語そして無文字社会においては,文字がないからこそ豊かな口承文芸が発達しているのである。そして文字の役割が大きくなればなるほど,口承文芸が衰退していくことは今,我々が目にしているとおりである。」

ゆきこ

聖書が述べている「一度に世界中の言語ができた」・・・なんてあり得ないわね。

ささら

今まで考慮した文字群に思いを馳せてみただけでも、人類の歴史が数千年~1万年程度のものではないことが窺いしれるのではないかしら。
「文字の歴史」の著者であるスティーブン・ロジャー・フィッシャーは「メソポタミアのシュメール人は、ひととおりの標準化された絵文字と象徴―ノッチから書字版に至る長年の発展の純化物―から、その後の人類にとって最も用途の広い道具になるものを編み出した。したがって、おそらく他の文字体系と書記法はすべて、6000~5700年前にメソポタミアに誕生したこのひとつの原型―体系的音標綴字法―の派生物なのであろう」と書いています。

ゆきこ

ほんとね。

ささら

また、こうも語っているわ。
「文字は『意図的に作り上げられ』なければならないものであって、生じた社会的必要によって決まる長い過程を必然的に伴う。」

ゆきこ

あ、ちょっと待って・・・ということは「ヘブライ語で書かれている」という聖書はいつ書かれたのかしら?
ええと、モーセ5書はモーセが書いたものだし、彼がエジプトを出たのは紀元前1530年とかじゃなかったかしら?これってどういうこと?ヘブライ文字がまだないのにモーセはどうやって聖書を書いたの?

ささら

・・・・

【参考にさせていただいた資料】

  • ロビンソン,アンドルー(著),片山 陽子(訳) 『文字の起源と歴史 ヒエログリフ,アルファベット,漢字』
  • ルイ=ジャン・カルヴェ(著),矢島 文夫 監訳,会津 洋・前島 和也 訳 『文字の世界史』
  • ジョルジュ・ジャン(著),矢島 文夫 監訳,高橋啓 訳『文字の歴史』
  • スティーブン・ロジャー・フィッシャー(著),鈴木晶 訳『文字の歴史』
  • 梶 茂樹(著),「無文字言語」 『世界民族百科事典』 国立民族博物館(編)

犠牲に関する聖書の記述

標準

ことの発端は友人現役エホバの証人のゆきこさん(仮名)との会話でした。ソロモン王が捧げたとする特別な犠牲に関する記述。ちょっとその記述は現実的におかしくないですか、という話題がゆきこさんとの間でもりあがりました。それを jwstudy掲示板で書き込んだのがきっかけで、さらに具体的な内容を検証することになりました。

今回はゆきこさんとの会話、そしてその後の調査した内容を「ゆきこさんとの対話」という形にまとめましたので。

 

さて件の特別な犠牲とは?

聖句:歴代第二 7:1~10(新世界訳)
「さて,ソロモンが祈り終えるや,火が天から下って来て,焼燔の捧げ物と犠牲を焼きつくし,エホバの栄光が家に満ちた。(略)そして,王と民は皆,エホバの前に犠牲をささげていた。そこでソロモン王は牛二万二千頭と羊十二万頭の犠牲をささげた。こうして,王とすべての民はまことの神の家を奉献した。そして,祭司たちはその務めの持ち場に立ち,レビ人もエホバへの歌の楽器を持って立っていた。(略)一方イスラエル人はみな立っていた。それから,ソロモンはエホバの家の前にある中庭の真ん中を神聖なものとした。そこで彼は焼燔の捧げ物と,共与の犠牲の脂の部分をささげたからである。ソロモンが造った銅の祭壇では,その焼燔の捧げ物と穀物の捧げ物と脂の部分とを入れることができなかったのである。次いでソロモンはその時,七日間祭りを執り行ない,全イスラエルは彼と共にいたが,ハマトに入るところからエジプトの奔流の谷に至るまでの非常に大いなる会衆であった。それに,八日目には彼らは聖会を執り行なった。祭壇の奉献を七日間執り行ない,祭りを七日間執り行なったからである。そして,第七の月の二十三日に彼は民をその家に去らせたが,エホバがダビデと,ソロモンと,その民イスラエルとに対して行なわれた良いことのために喜びに満ち,心に快く感じながら去って行った。」
列王第一 8:63~66も参照

 

エホバの証人仲間との対話

ゆきこ:

神殿って血生臭くてハエとかもプンプンしてたのかな~?内部も血を振りかけたり・・・。
祭司もいつも血だらけだよね。食べるものは当然血抜きしたわけでしょ?
銅の水盤とかも・・・血でドロドロになるよね。
水洗いするホースもないし、そもそも近くに水源あったの?ソロモンが献堂に際して捧げた動物の数・・・。
祭司が全員で取り掛かって、本当に二週間くらいでできたの?
殺して・・捧げて・・血抜きして・・解体して・・焼いて・・そこらへんに血が飛び散ったよね。
本当だとはとても思えないけど
場面思い描いたら・・・吐き気するよね?
特にソロモンの神殿奉献の時の犠牲・・・すごすぎるわ。

ささら:
一緒にその点を探ってみようよ。まず捧げ物にはどんなものがあったのかを復習しましょ。神から授けられたという律法によると5種類の捧げ物があったわよね。(レビ記1:1~)

  1. 焼燔の捧げ物(全焼の捧げ物)
  2. 穀物の捧げ物
  3. 神との平和のための捧げ物(供与の犠牲)
  4. 罪のための捧げ物
  5. 罪過のための捧げ物

そして、「罪のための犠牲」と「罪過のための犠牲」はどちらも犠牲によって罪が赦されることで、神との関係を回復させるという意味と目的があったわ。
「罪のための犠牲」についてはその罪を犯した者の身分によって取り扱いが違ったのだけれど、「罪過のためのいけにえ」の場合は身分に関係はなく、常に個人の罪に関係があったのよね。
罪のための犠牲には、身分によって差が設けられていたけど覚えてる?

ゆきこ:
そうね。

  • 大祭司の罪
  • イスラエル人全部の罪
  • 王や族長などの罪
  • 一般の個人の罪

こんな風に分けられていて、身分によって捧げる動物や手順が違っていたわね。
ここまで考えただけでも相当大変だっただろうなぁ。
それに記録が本当なら多くの動物が犠牲にされたことになるわね。

ささら:
そういうことになるわね。
ただ、例えば「供与の犠牲」のように「神」と「祭司」と「動物を持参した本人や家族」が一緒にその肉を食べるという取り決めもあったわよね。今でも家畜はわたしたちの貴重なタンパク源になっているし・・。それに、全焼燔の捧げ物以外の犠牲は神殿の業務に携わる祭司やレビ人たちとその家族の生活を支えるために「与える」・・・とも書いてあったわよね。
※全焼燔の捧げ物については、実はすべてを燃やし尽くすものではなかったという解釈をしている方もいます。
ゆきこ:
でも、本当に愛ある取り決めなのかしら?
ささら:
ゆきこさんが「すごいな」と思ったソロモンの神殿奉献の時の犠牲については、破格の数だものね。
ゆきこ:
14日間で牛22,000頭と羊120,000頭という数だもの。
わたしね、テレビでスペインの羊の大移動の番組を見たことがあるの。すごいなって思ったけど、それでも「羊は2,000頭くらい」だって言っていたわ。ソロモンの神殿で犠牲にされた羊は120,000頭・・・わたしが見た羊の60倍でしょ?
現実にはそれほどの家畜を集めて、屠って、解体して、汚物の処理をして、そして焼いて、食べて・・・可能なのかしら?
ささら:
なるほどね。他にもはてなって思ったことある?
ゆきこ:
そうね。そんなに多くの羊とそこに牛たちまで殺したら、神殿には入りきらないだろうなって思うのよ。
ささら:
本当ね。
ちょっと具体的にいろいろな面から考えてみましょうよ。
聖書によると屠られた動物の血はもちろん口にしちゃいけないから、祭司が祭壇に振りかけた分以外の血は地面に流すか、神殿の外の決められた場所に全部捨てなければいけなかったじゃない?
ところで、牛1頭と羊1頭の血液の量って知ってる?
ゆきこ:
えっ、知らないわよ。
ささら:
そりゃ知らないわよね。
犠牲にされる動物は、基本的に雄だったので(供与の犠牲は雄・雌どちらでも良かった)
体重700kgの牛の場合=約40L(当時のイスラエルの牛はそれほど肥えてはいなかったかも)
体重100kgの羊の場合=約6.5~7L
の血液量になるのよ。
だから、全部の血抜きが完璧にできたと仮定すると羊1頭6.5Lで計算しても

2万2千頭の牛=880,000L
14万頭の羊=780,000L
合計1660,000L

これだけ大量の血液が流れ出ることになるのよ。

ゆきこ:
わぁ、思っていたよりすごい量ね。
ささら:
これを小学校のプールの水と比較してみましょうよ。
近くの小学校のプールは25m×12mだから・・・そこに1.2mの水を張った場合の水量は360,000Lになるわ。そうすると、祭りの時屠られた牛や羊の流した血液は、学校のプールの約4.6倍ということになるわね。
ゆきこ:
えっ?そんなに大量の血だったの?どうやって処分したのかしら?
ささら:
いいところに気が付いたわ。聖書に全く疑問を持たずに信じている人は、何らかの方法があったはず・・・と結論づけてしまうけど・・・せっかくゆきこさんが疑問を持ったのだから続けて考えてみましょうよ。
それだけの血の量だと、神殿が血に埋まりそうね。
そうそう、牛や羊から出る骨や皮の問題もあるのよ。
神殿の儀式で生じた汚物は、「神殿領域の外の清められた場所に廃棄」されることになっていたことは覚えてるかしら?
ゆきこ:
そうだったわね。
ささら:
その時の犠牲の数は膨大な量だったので、そのすべての汚物の量と労力、そして場所と時間という問題も生じるわね。
ゆきこ:
実際にはどのくらいのゴミが出たのかしら?
ささら:
そうね、ちょっと面白い資料を見つけたのよ。
体重700kgの牛からどれくらいの肉や骨が取れるのか・・・なんだけど
広島市のホームページによると
肉:310kg
内臓:150kg
骨:50kg
皮:42kg
脂:70kg
が取れるそうなの。
では、牛220,00頭分だったらどうだったのかしら?
これを計算すると、
肉が68,200t
脂15,400t
骨が11,000t
内臓が33,000t
皮が9,240t
になるわ。
脂肪は全部燃やしてしまうことになっていたので除外できるわね。
でも、これだけの量の脂を燃やし尽くすのにも相当の時間や労力がかかりそうだけどね。
内臓も、腎臓はエホバの分だったのでやはり焼いて灰にすることになっていたわ。
そうね、ここで仮に捨てる部分を骨だけ・・・と限定して考えてみるわね。
あら、それでも11,000tを神殿の外の処分場に持っていかなければならなかったことになるわ。
この大量の骨を大型トラックで運んだら何台分だろうって計算してみると面白いわね。
ゆきこ:
やってみるわ。・・・8tトラックで1,375台分になるわよ。
ものすごい量になるわね。
トラックもトレーラーやショベルカーもない時代どうやったのかしら?
ささら:
そうね、かなり難題だと言えるわね。
しかも、これは22,000頭の牛の分だけの計算だったわね。
120,000頭の羊は計算に入れてないのよ。
それから、もうひとつ面白い計算をしてみましょう。
1頭の牛から310kgの肉が取れることがわかったから、
それじゃ1人200gずつ分けたら何人が食べられるかしらっていう計算よ。
ゆきこ:
え~と、310kgは310,000gだから、それ割る200gで・・・1頭で1,550人分だわ。
ささら:
では22,000頭分のお肉では何人分かしら?
ゆきこ:
22,000かける1,550ね。あら~!・・・34,100,000人分になったわ。
本当かしら?
あらあら、当時のイスラエル人ってこんなにたくさんいないわよね。
どういうこと?
しかも、他に羊120,000頭分が残っているのに・・・。
ささら:
ここまで考えてみて、ゆきこさんは14日間でそれだけの動物の処理が可能だったと思う?
ゆきこ:
他に12万頭以上の羊も屠らなきゃならなかったし・・・。
とても多くの人がいて・・・相当広い範囲でそれぞれがやればできたかも知れないわね。
あ、でも、捧げ物は神殿で屠らなければならなかったのよね。
ささら:
そうなの。
それらの犠牲は神殿の限られた面積の中で屠られる必要があったのよ。
それで聖書には「ソロモンはエホバの家の前にある中庭の真ん中を神聖なものとした。そこで彼は焼燔の捧げ物と,共与の犠牲の脂の部分をささげたからである。ソロモンが造った銅の祭壇では,その焼燔の捧げ物と穀物の捧げ物と脂の部分とを入れることができなかったのである。」とも書かれているのよ。
そこで神殿の敷地や神殿のサイズが問題になるわね。
ゆきこ:
神殿の敷地ってそんなに広かった?
ささら:
実はね「エホバの家の前にある中庭の真ん中」と言っても、そんなに広い場所ではなかったのね。
イエスの時代のヘロデの神殿はもっと広かったみたいだけど、ソロモンの時代、神殿そのものは奥行きが約30m弱、神殿が建てられていた敷地全体でも、普通の野球場くらいの広さだったみたいよ。
ゆきこ:
わたしがテレビで見たスペインの羊の移動は、町の道路全体を埋め尽くしても2,000頭くらいだったわ。それを考えたら神殿に14万頭以上の牛と羊を運び込むのは無理よ。
ささら:
それに別の問題もあるのよ。
聖書によると、その祭りでは焼燔の捧げ物と供与の捧げ物との両方が捧げられたことになっているの。それぞれの犠牲がどのくらい捧げられたかは書かれてないけれど、聖書には
「ソロモンが祈り終えるや,火が天から下って来て,焼燔の捧げ物と犠牲を焼きつくし,エホバの栄光が家に満ちた。」と書かれているので、これだけが焼燔の捧げ物であったと考えるなら、他のすべては供与の犠牲・・・神との平和のための犠牲ということになるわね。
そうすると、供与の犠牲は誰が準備したのかという疑問もでてくるわね。
ゆきこ:
その捧げ物って神との平和を願って犠牲を捧げる人が持ち込むことになっていたわね。
ささら:
そうなの。ところがね、その時召集されたのは列王Ⅰ18章によると
「年長者たちと,部族のすべての頭たち,父たちの長たち」ということになっているの。もちろん彼らが牛や羊を連れてエルサレムに上ったと解釈することはできるわね。
でも、そうなるとまた別の問題が生じるわ。
ゆきこ:
そうね、供与の犠牲はその家族も一緒に食べることになっていたわ。
その家族たちはその時どこにいたのかしら。
それに全部の家族たちに14日間で食べてもらえるとも思えないわ。
そのころのイスラエルって何人くらいでしたっけ?
ささら:
そうね、そのころのイスラエルの人口は本当のところはわからないみたい。でも、聖書にはソロモンの父親が人口調査をした結果が書いてあるわよ。
「ヨアブは民の登録者数をダビデに伝えた。全イスラエルは剣を抜く者が110万人,ユダは剣を抜く者が47万人となった。」(歴代Ⅰ 21:5)
「ヨアブは民の登録者数を王に伝えた。イスラエルは剣を抜く勇敢な者が80万となり,ユダの者たちは50万人であった。」(サムエルⅡ 24:9)
この数字には、レビ族とベニヤミン族の人数は含まれていないらしいの。
仮に成人男性だけで130万人いたとすると、イスラエル全体ではその数倍はいたことになるわね。
ゆきこ:
あら、人数に矛盾があるわ。こんな風に数が違う記録があっちとこっちにあったら、本当はどっちなのかわからないわね。
ささら:
本当にそう。
でも、今はこの数の人々が本当に犠牲の食物に与かれたのかどうかを考えてみましょうよ。
最初に挙げた歴代Ⅱの記述によると「全イスラエルは彼と共にいたが,ハマトに入るところからエジプトの奔流の谷に至るまでの非常に大いなる会衆であった。」とあるのね。
このハマトからエジプトの奔流の谷までは直線距離で約450~500kmあるのよ。
それを踏まえて次のことを考えてみましょう。
おさらいになるけど、供与の犠牲というの、犠牲を捧げたい人が持参して屠り、神に捧げる分と祭司の取り分と、そして犠牲を持参した家族が幕屋の回りに仮小屋を建てて、そこで食事をすることになっていたでしょ。でも、神殿ができてからは(既に幕屋の中のものは運ばれていたし)
神殿の回りに作られた「食堂」と呼ばれるコーナーで食べることになっていたのよ。
ゆきこ:
そうすると、家族たちは長旅をして神殿まで辿りつかないと捧げ物の食事を食べることができなかったわけね?
ささら:
そういうことになるわ。そんな記述は全く見当たらないけど・・。
ゆきこ:
でも、本当に犠牲の動物を持参した家族たちが次々に神殿に入って律法通りに動物を屠って、ゴミの処理もして・・・14日間では無理よ、絶対!
エホバがご親切にも、屠られた捧げ物を各地に送り届けてそれぞれの家族が食べられるようにしたとは考えられないの?
ささら:
そうね。そうすれば少し親切かもしれないわね。
ところが、犠牲にされた動物は当日と次の日のうちに食べなければならなかったのよ。
レビ7:16~21やレビ19:5~8には
「~もし自分の共与の犠牲の肉を三日目にも食べるようなことがあれば,それをささげた者は是認をもって受け入れられることはない。それはその人のものとはみなされない。それは汚らわしいものとなる。それを食べる魂は自分のとがに対する責めを負う。」と書かれているの。
ここでまた別の問題が生じたわね。
ゆきこ:
エルサレムの神殿で屠った犠牲は、次の日までしか食べることができなかったのね。
それじゃ遠い場所の家族は100kmも200kmも離れていたから・・・そうね、仮に神殿の回りに集まって来て・・赤ちゃんや老人の体力の問題もあるし・・・やっぱり無理だわ↓。
・・・・・・・・
え~と、神殿やエルサレムに集まった人々は代表者だけだし、犠牲は供与の犠牲だから捧げる人と家族には食べる権利があるけどイスラエルの人々全員が神殿で食べるには神殿は狭い、時間も限られている、保存方法もないから持って帰ることもできない・・・。
しかも、食べきれないほどの・・絶対食べきれない大量の肉。
ささら:
そう、権利があるというより神と祭司と民が一緒に食べないのであれば「平和のための犠牲・供与の犠牲」とは言えないわけね。
ゆきこ:
動物の数が多いだけじゃないのね。多ければ、それに伴ってたくさんの問題を解決しなければならないし・・・本当はどうだったのかしら?
聖書は本当にあったことしか書かれていないと思っていたけど、こんな落とし穴があったなんてね。
ささら:
聖書に書かれていることを鵜呑みにしないで、今日考えてみたようにいろいろな面から予想したり計算したりしたら、そのうち答えが出るかもしれないわよ。

例えば、牛や羊の血が祭司や屠った人たちに付着するし、流れ出た動物の血はもちろん洗い流さないとこびり付いて大変なことになるわね。銅の海は彼らを清めるためにあったけど、そんなもので足りるのか。洗い流す水はどうしたのだろう。どのくらいの水が必要だろう。では現実にその水は確保できたのだろうか・・・などを調べることもできるわね。

ゆきこ:
今日はありがとう。聖書も神も信仰も素晴らしいものだと思ってきたけど・・・、本当の意味で聖書を調べる必要があるのかも知れない・・・。