3.アルタクセルクセスの「50」と「51」年の二つの粘土板

アルタクセルクセスが41年ではなく51年支配したということを支持するために、ものみの塔協会は二つの粘土板「50年」と「51年」の日付のものとされる粘土板に言及しています。最初の粘土板は E・ライヒティーおよびA・K・グレイソン共著「大英博物館バビロニア書字板目録 第7巻 1987年」の中でBM 65494 として目録に含まれるものですが、これはまだ公開されていません。一方、二つ目の粘土板 CBM 12803 (= BE 8/1, 127) は1908年にアルバート・T・クレイによって「ペンシルバニア大学バビロニア探査隊シリーズA: 楔形文字テキスト第8巻 第1部 書字板 第127号」 の中で公開されています。これらの粘土板に写字上の間違いが含まれていることはすべてのアケメネス朝の歴史専門家が認めていることです。

ものみの塔協会が示唆しているようにアルバート・クレイが公開した粘土板は二つの日付が記載されています。「第51年,即位年,第12の月,20日,ダリウス,諸国の王」(洞‐2 784ページ)それで、この書字板は第51年(名称は記載がないがアルタクセルクセス1世)が継承者のダリウス2世の即位年と重なっていることを示しているかのように見えます。

しかしまたしても、ものみの塔協会は真実の全体を伝えていません。その理由は真実の全体を伝えるとイメージを完全に覆してしまうからです。実はアルタクセルクセスの治世の最後の年の日付が記された粘土板は数多く発掘されており、特にムラシュ家の粘土板群の発見により、すでに全体像がわかっているのです。「イスタンブール ムラシュ書字板(イスタンブール1997年)5巻」でドンバズとM.W.ストルパーはムラシュ家の粘土板は「アケメネス朝バビロニアにおけるクセルクセスからアレクサンドロスまでの間の最大級の記録文書である」と説明しています。(4頁)アルタクセルクセスとその後継者ダリウス2世の治世のほとんどすべての年で日付が記された粘土板が存在します。その量はアルタクセルクセスの最後の2年間と続くダリウス2世の治世の11年間にピークに達しています。これは以下のグラフ(ドンバズとストルパー 6頁)が示す通りです。粘土板群の中にアルタクセルクセスの第41年とダリウス2世の即位年のものが60枚含まれています。そしてダリウス2世の治世第1年のものは120枚ほどにも上るのです!

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図 ムラシュ書字版の年とそれに対応する粘土板の数

古代のギリシャの歴史家が明らかにしているように、アルタクセルクセスの死後数か月の間は混乱の時期でした。アルタクセルクセスの息子で後継者でもあったクセルクセス2世は数週間だけ統治してすぐに、兄弟のソグディアヌスによって殺されます。王座略奪をしたソグディアヌス自身も7か月だけ王座についてから今度はダリウス2世によって殺害されます。それは西暦前423年の2月のことでした。しかしソグディアヌスは正式な王として認められることはなかったため、書士たちは写字板の作成にあたってはアルタクセルクセスの死後も数か月の間はアルタクセルクセスの統治年を継続して用いています。もしかしたら王は統治の40年が終わる前に死去しているかもしれません。もしそうなら幾人かの学者が主張している通り書士はあえて第41年まで延長しているのかもしれません。この問題は学者の間で現在も論議されている点です。

ダリウス2世の名前については、彼がバビロニア暦の11月(西暦前423年の2月、3月に相当)に王座につくまで、書士たちはその統治について記載はしていません。しかし混乱を避けるために書士たちはたいてい二つの年、つまり[アルタクセルクセスの]第41年とダリウス2世の即位年の両方を記載しています。彼らがこのようにしたのは、正確な統治年代計算を保つことが彼らにとって重要で、同時に様々な出来事の記録、政治的出来事、天体観測、そして商業取引の記録を残す際の暦や土台の「年号」でもあったからです。

そのため多くの二つの年を使った粘土板が発見されています。F・X・クーグラーは「バベルの天文学と天体崇拝」(ミュンスター1924年版)の396ページでそのような粘土板の4つの例に関して年代的情報を提示しました。その後もこの種の粘土板の例が見つかっています。今では10ほどの粘土板が知られており、一つを除いてすべて「41年」を指しています。これは明らかにアルタクセルクセス1世の41年が「ダリウスの即位年」に相当することを示しています。唯一の例外が CBM 12803です。つまり「41年」のかわりに「51年」と表記されている例外的なものということです。BM 33342 という別の粘土板を除いて、すべてがムラシュ家の粘土板に属しています。「41年そしてダリウスの即位年」という二つの年の表記法を使っている九つの粘土板は以下の通りです。


BM 54557: (= Zawadzki JEOL 34 から 45 ページ) シッパルからの本文 [?]。日付はダリウス 2 世の在位年 ( 第 9 の月[?] 29 日) のみだが、本文は時間の長さ「第 5 の月 、アル(タシャ … )の第 41 年から第 12 の月、第 41 年の終わりまで、ダリウスの在位年」(この本文の情報は、1999 年 1 月 29 日付の手紙で、ムラシュ古記録の専門家のマシュー・W・ストルパー教授から受け取ったものである。)

Bertin 2889: 「26 日、第 11 の月、第 41 年、ダリウスの在位年」の日付がある、バビロンからの本文。本文は未出版だが、日付に関する情報は 2003 年 7月 3 日にジーン・フレデリック・ブルネットがフランシス・ヨハネス博士から受け取ったものである。 (2003 年 12 月 22 日付のブルネットからジョンソンへのメール)

BM 33342: 「サバツの月 [第 11 の月]、29 日、第 41 年、在位年、ダリウス、諸国の王」 (AMI のマシュー・W・ストルパー、第 16 巻、1983 年、231から 236 ページ) この本文はムラシュ古記録ではない。

BE 10 no. 4: (= TuM 2/3, 216) ニップールからの本文で、14 日、第 12 の月、第 41 年、ダリウス 2 世の在位年、諸国の王と記されている。

BE 10 no. 5: ニップールからの本文で、17 日、第 12 の月、第 41 年、ダリウスの在位年、諸国の王が記されている。1 行目には「第 41 年の アダル (第 12 の月) が終わるまで、ダリウスの在位年、諸国の王」と記されている。

BE 10 no. 6: ニップールからの本文で、ダリウスの在位年が記されているが、月と日は判読できない。だが、2 行目以降では丸1年の「第 41 年の第 1 の月からダリウスの在位年の第 12 の月の終わりまで」のことを記している。

PBS 2/1 no. 1: ニップールからの本文で、22 日、第 12 の月、第 41 年、ダリウス 2 世の在位年が記されている。

BE 10 no. 7: (= TuM 2/3, 181) ニップールからの本文で、ダリウス 2 世の第 1 の月、2 日、第 1 年が記されている。6 行目では、「第 41 年、ダリウスの在位年」の産物の受取について言及している。

PBS 2/1 no. 3: ニップールからの本文で、ダリウス 2 世の第 1 の月、5 日、第 1 年が記されている。2 から 3 行目では「第 12 の月、第 41 の年、ダリウスの在位年の終わりまで」の期間の税金に言及されている。 13 行目では「アダル(第 12 の月)、第 41 年の終わりまで 」と記されている。

上記リストの略号の説明:

AMI: Arehaologische Mitteilungen aus Iran.
BE:

The Babylonian Expedition of the University of Pennsylvania, Series A: CuneiformTexts, ed. by H. V. Hilprecht (Philadelphia, 1893-1914). Vols. 1-6 edited by Albert T.Clay in 1904.

Bertin:

G. Bertin, Corpus of Babylonian Terra-Cotta Tablets. Principally Contracts, Vols. I-VI (London, 1883). Unpublished.

BM:

British Museum.

JEOL:

Jaarbericht van het Vooraziatisch-Egyptisch Genootschap “Ex Oriente Lux”.

PBS:

Pennsylvania. University. University Museum. Publications of the Babylonian Section
(Philadelphia, 1911 –  ). The first two volumes were edited by Albert T. Clay.

TuM:

Texte und
Materialien der Frau Professor Hilprecht Collection of Babylonian
Antiquities im Eigentum der Universität Jena (Leipzig).


これら九つの粘土板すべてはダリウス2世が前任者の第41年に王座に就いたことを示しています。これはアルタクセルクセス1世が41年以上の支配を行っていたことはあり得ないことを明らかにするものです。前述のとおり、ものみの塔協会は1908年にアルバート・クレイが公開したたった一つの粘土板を引用しています。これは同じ種類の他の多くの粘土板より優れているからではなく、単に41年のかわりに51年という年代がダリウスの即位年と関連付けられて記されているからです。そして協会は他の粘土板の存在を明らかにしていません。

数字の「51」が書士の写字上のミスであることは明らかです。これは導き出せる唯一の結論です。なぜなら他に考えるとしたら、上に一覧した「41年」が記されている9つの粘土板のすべてを写字上のミスであると主張するしかないからです。

ものみの塔協会の執筆者がダリウスの即位年に関して二つの年代が記載された粘土板が存在していることを完全に知らなかったということは考えられません。写字上のミスを含んでいると考えられている二つの粘土板(50年と51年)だけを引用し、他のすべての二つの年代が記載されている粘土板について、つまりダリウスの即位年が前任者の第41年に相当することを示す粘土板に関して完全に沈黙するのは誠実さからかけはなれた行為です。

例の「51」というミスを含む粘土板を出版したアルバート・T・クレイも、それが写字上のミスであることを理解しています。実際、出版された本の中で写字上のミスがある数字の右側に「51は41の写字ミス」と指摘がされています。

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コピー:アルバート・T・クレイ出版の粘土板の写し
Tablet ”CBM 12803”, published by Albert T. Clay as No. 127 in The Babylonian Expedition of the University of Pennsylvania, Series A: Cuneiform Texts, Vol. VIII (Philadelphia, 1908), P1. 57.

このような写字上のミスは起こりやすいものです。「41」と「51」の楔形文字の違いは単なる一筆の有無だからです。この類の間違いは珍しいものではありません。「40」の代わりに「50」と記載してしまうのも同じ種類のミスです。マシュー・W・ストルパー教授は次のように説明しています。

「はい、これは単純なミスです。ご存知のように「年」を示す印が幅の狭い4つ線が並ぶ楔形の数字の前に来ています。数字の「40」と「41」はさらに4つの狭い幅の線が細かい配置で並ぶようになっています。違いは尖筆の一筆で生じてしまうものです。
ストルパー教授のジョンソン宛の手紙 – 1999年1月29日

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訳者あとがき

例外的な粘土板だけを提示し読者が全体像を把握できないようにするやり方は ものみの塔協会によってしばしば使われる手段です。これはBC607年の年代を納得させるときにも使われています。

協会は聖書本文を確立するために写本を比較してきた学者たちの努力を評価しています。その努力には写本の誤写を見つけるために他の写本と比較することも含まれています。ところが年代学の問題になると、協会は自分たちの年代計算にとって不都合なものは排除し、比較検討することを避けます。これは正しい方法ではありません。全体像を把握できないようにするやり方は、何よりも読者に対して不誠実な行為ではないでしょうか?

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元記事:3. The two tablets dated to years ”50” and ”51” of Artaxerxes
http://kristenfrihet.se/english/artaxerxes.htm

記事の終わり