2.テミストクレスの亡命に関する記述

ものみの塔出版物はペルシャへのテミストクレスの避難(亡命)について多くを書いています。これに基づく主張は古いもので17世紀のイエズス会士の神学者デニス・ペタウ(ペタビウス)と司教のジェームズ・アッシャーにたどることができます。それは1832年のベルリンのE.W.ヘングステンバーグの著作「Christologie des Alten Testaments」の中で詳しく取り上げられました。ギリシャの歴史家ツキディデスとラムサコスのカロンは、テミストクレスがペルシャに到着した後に接見した王はアルタクセルクセスであったとしています。それと同時に ものみの塔はテミストクレスは西暦前471か470年に亡くなったと主張しています。(洞‐2 782ページ)

これらの主張には片手落ちの根拠しかありません。なぜなら、ものみの塔協会はとても重要な情報を省いてしまっているからです。協会はテミストクレスがペルシャ到着後に会ったのがアルタクセルクセスであるとする根拠としてプルタークの情報を引用しています。そこには「ツキディデスとラムサコスのカロンは,クセルクセスが死んだこと,またテミストクレスが会見したのは息子のアルタクセルクセスであったことを述べている」とあります。

しかし、彼らは続くプルタークの言葉を省いてしまっています。そこにはこうあります。

プルターク英雄伝 – テミストクレス
plutarchs300「しかしエフォラス、ディノン、クリタルカス、ヘラクリデスその他多くの人は、彼が接見したのはクセルクセスであったと述べている。年代的なデータはツキディデスの述べるところにいっそう良く一致しているように思えたが、そのデータは十分に確証できるものではない。」

このように、ものみの塔協会はプルタークが述べる続きの部分は隠してしまっています。そして多くの古代歴史家もこの出来事に言及しているという点を読者に提示していません。ほとんどの古代歴史家はテミストクレスがペルシャに到着したときに接見した王はアルタクセルクセスではなく、クセルクセスのほうであると述べているからです。プルターク(西暦46-120年)がツキディデスに信頼を置いたのが事実であったとしても、そのもとになる年代的情報が十分に確立されたものではないと彼は強調しています。見過ごされている事実として、テミストクレスの避難についてツキディデスは出来事のかなり後、だいたい2世代後くらいに記述しています。そして、この出来事の説明の中でツキディデスは何度か自己矛盾に陥っており、この件に関する彼の情報がそれほど信頼できるものではないことを示しています(ケンブリッジ古代歴史5巻 1992年14頁参照)。

しかしながら、仮にテミストクレスが実際に「アルタクセルクセス」に会っているとしても、これが470年代に起きた出来事であることを示すものは何もありません。テミストクレスが西暦前471か470年に亡くなったという証拠も実際には存在しないのです。協会が参照している文献のどこにもそれは示されていません。そして参照している文献の幾つかは、プルタークも含めて、明らかにテミストクレスが亡くなったのはそれよりずっと後、およそ西暦前459年頃であることを示しています(プルターク英雄伝 XXXI:2-5)。

執政官のプラクシエルグス(西暦前471/470年)の頃にアテネでテミストクレスを陥れる策略があってから、かなりの時を経てテミストクレスとアルタクセルクセス(あるいはクセルクセス)との接見が実現しています。テミストクレスの敵がテミストクレスをアテネから追い出すことに成功するまでに、何度も策略がめぐらされており、彼は最初はアテネから避難し、その後ギリシャからも退去することになりました。ケンブリッジ古代歴史5巻は、この避難を西暦前469年としています。彼は最初に小アジアの友人のところに避難しており、そこにしばらく滞在しています。

協会はテミストクレスの死が西暦前471/470年であったことを支持するためにディオドロス・シクルスを引用しています。しかし協会はディオドロスが実際に語っているある点に言及することを避けています。ディオドロスはテミストクレスが小アジアに到着したときクセルクセスが引き続きペルシャで王座についていたことを述べているのです(ディオドロス・シクルスXI:54-59)。つまりこれはテミストクレスが小アジアから手紙を「アルタクセルクセス」に送付したと述べるツキディデスの記述と矛盾しています。

小アジアに滞在してからしばらくして、明らかに数年はたっているであろう時に、テミストクレスはついにペルシャに赴いています。そこで彼は王に接見する前に1年間語学の学ぶことに時間を費やし、おそらく西暦前465年の終わりころか西暦前464年の初めころに接見が行われたのでしょう。歴史家のA.T.オルムステッドが述べる通り、クセルクセスはテミストクレスがペルシャに到着した際には王座にあって健在であったのでしょう。しかしそのすぐ後に王は亡くなり、テミストクレスが言語学習の後に接見したのはアルタクセルクセスであったかもしれません。このように考えると古代歴史家の記述の矛盾は少なくとも一部調和させることができます。ペルシャの王との接見後、テミストクレスはマグネシアの都市に落ち着きます。そこは彼が亡くなるまで数年過ごした場所です(プルターク英雄伝 XXXI:2-5)。それゆえ、ものみの塔協会が提示しているテミストクレスの死を西暦前471/470年とする主張は全くもって論外なのです。

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訳者あとがき

「テミストクレスが死んだ時」に関する ものみの塔協会の説明は以下のようになっていました。

*** 洞‐2 782ページ ペルシャ,ペルシャ人 ***
アルタクセルクセスが支配を開始した時は,テミストクレスが死んだ時から逆算することによって確定できます。テミストクレスの死については,すべての文献が同じ年を示しているわけではありません。しかし,歴史家のディオドロス・シクルスは(「シチリアのディオドロス」,XI,54,1; XI,58,3),「プラクシエルグスがアテネの執政官であった時」に生じた事柄に関する記述の中で,テミストクレスの死について述べています。プラクシエルグスがアテネの執政官だったのは,西暦前471/470年でした。

上記の記述の中でディオドロス・シクルスの引用が中途半端であることと、参照個所が第11巻の54章58章というずいぶんと離れた章があげられていることに不自然さを感じました。それで英文で公開されているディオドロス・シクルスの文献(http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Diodorus_Siculus/11C*.html)を直接確認してみました。

するとカール・オルフ・ジョンソンが指摘している通り「プラクシエルグスがアテネの執政官であった時(西暦前471/470年)」アテネにおけるテミストクレスの立場が追いやられはじめてから実際の「テミストクレスの死」に至るまでかなりの期間があったであろうことは直接文献を見れば一目瞭然でした。

ものみの塔の執筆者は読者がこのようなマイナーな文献を直接確かめることはないであろうことを前提に、テミストクレスの死を西暦前471/470年とする主張を展開しているのは読者を見くびっている証拠だと感じます。

「プルターク英雄伝」についても同様です。そこを見るならばテミストクレスがアテネを追放されて、すぐにペルシャに避難したわけではなく、最初はギリシャの都市アルゴスに滞在していることが読み取れます。その後も様々な出来事があり、最終的にペルシャに亡命し、王に接見するまでにはかなりの時間がたっていることがわかります。テミストクレスの死はさらに後のことですから、テミストクレスの死を西暦前471/470年とする主張は成り立たないことは直接文献を読む人の目には明らかになります。
英文の「プルターク英雄伝」は以下から確認することができます。
http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Plutarch/Lives/Themistocles*.html

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元記事:2. The flight of Themistocles
http://kristenfrihet.se/english/artaxerxes.htm

記事の終わり