このページはすでに公開してる「1.クセルクセスは父親ダリウスの共同統治者か?」の内容を補強するために追加したものです。

エホバの証人の多くは ものみの塔協会の出版物の情報に絶大なる信頼を置いています。それは信者の立場として協会の執筆者や幹部である統治体のメンバーに倫理的な面での信頼を置いているからでもあります。それでエホバの証人は協会の執筆者が嘘の情報を掲載したり、不誠実な方法で自分たちに情報を提示してくるとはまったくと言ってよいほど考えていません。

ですからほとんどのエホバの証人は協会の出版物の引用元や参照元を直接調べることはありません。疑問がある場合に行うことは、恐らくは”協会の他の出版物を参照する”ことでしょう。

もしあなたがエホバの証人で他の仲間に協会の出版物の誤りや解釈の間違いを指摘する話をする場合、恐らくは「その情報はどこからのもの?」と聞かれることでしょう。つまり「背教者の文書」あるいはエホバの証人に反対の立場の人が書いたものなのかどうかを確認し、協会の出版物からのみ情報を得るように助言するためです。

しかし協会が直接引用しているソースについて「背教者の文書」と主張することはできないでしょう。ですから仲間のエホバの証人と対話することを考えている人にとっては協会の出版物の引用元を一緒に確認するというのは良い方法かと思います。

このページの中で指摘している「ヘロドトスの歴史」という古代歴史家の文献は比較的に入手しやすい資料です。このページ自体に疑念があるような場合は、公共図書館などを利用して直接文献を確認することをお勧めします。

まずは協会が「ヘロドトスの歴史」をどのように引用しているのかを見てみましょう。

*** 洞‐2 783ページ ペルシャ,ペルシャ人 ***
クセルクセスが父親のダリウスと共同統治を行なったことを示す確実な証拠があります。ギリシャの歴史家ヘロドトス(VII,3)は,「ダリウスは[王権を求める]彼[クセルクセス]の嘆願を正しいと判断し,彼を王と宣した。しかし,私が思うに,クセルクセスはこの勧告がなかったとしても王とされたであろう」と述べています。このことは,クセルクセスがその父ダリウスの治世中に王とされたことを示唆しています。

協会は自分たちの聖書解釈の年代計算の正しさを示すために「クセルクセスが父親のダリウスと共同統治を行なったことを示す確実な証拠がある」と述べて「ヘロドトス(VII,3)」を引用しています。

引用されている箇所だけを読むと確かにクセルクセスが父親ダリウスから「王と宣せられて」共同統治を開始しているように見えます。

しかし本当に協会は信者に対して正しい情報を与えているのでしょうか?

本当に協会が述べる通り「共同統治を行なったことを示す確実な証拠」なのでしょうか?

では実際に「ギリシャの歴史家ヘロドトス(VII,3)」(ヘロドトス 歴史 第7巻 3章)を見てみましょう。

ここでは ヘロドトス 歴史〈下〉松平千秋訳 ワイド版岩波文庫2008年 から引用します。
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赤い印の部分が協会の引用個所になります。確かにヘロドトスの言葉をそのまま引用しています。

しかし続く文章を見るならば ものみの塔協会の執筆者が完全に文脈を無視して自分たちの思うがままにヘロドトスの言葉を抜き取っていることを見て取れます。

ヘロドトスの言葉は次のように続いています。

「しかし右のこととエジプトの反乱の起った翌年になって、当のダレイオスが遠征準備の最中に世を去ってしまった。在位通計三十六年であった。」

このように共同統治を始めるどころか「翌年」には亡くなっていることがはっきり書かれています。

しかも(後ほど説明しますが)王に指名したのは明らかに「共同統治者」としてではなく戦闘で亡くなった場合に備えての「後継者」選びのことを指しているのです。

そして続く部分では「ダレイオスが死んで王位はその子クセルクセスに移った。」となっています。共同統治は1年たりとも行われておらず、後継者選びの翌年に王は亡くなり、それから王位を継承していることがはっきりと書かれています。

この問題を一点の曇りもないように明確にするために前の部分の文脈も見てみましょう。

ヘロドトスの第7巻は次のように始まっています。

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ここでは「マラトンの戦い」から「四年目になって…エジプトがペルシアから離反し」ダリウスが「エジプトおよびアテナイに出征」することを決定したこと、そして「ペルシアの慣習上ダレイオスは跡継ぎの王を指名した上で出征すべきである」と考え王位継承者を選ぶことになったことが記されています。

そして先ほどの3章の部分が続いています。

そうです、共同統治者ではなく王位継承者の選択です。

それが行われた時期はいつでしょうか?

「マラトンの戦いから四年目」と記されています。このマラトンの戦いとは「マラソン」の語源にもなった出来事で西暦前490年頃の出来事です。

西暦前490年頃から4年が経過していますので、それは西暦前486年頃の話であることもわかります。

つまりダリウスの後継者の指名とダリウスの死、そしてクセルクセスの即位は西暦前486/485年であることが確証されます。

さらにクセルクセスは21年間統治している(ものみの塔も認めている)ので、クセルクセスの後継者であるアルタクセルクセスの即位は必然的に西暦前465/464年であることも明確になります。

このようにして、ヘロドトスが明確に書いた歴史書(西暦前440年頃に記された)から、アルタクセルクセスの第20年が西暦前445年であること、そして ものみの塔協会の年代計算が間違っていることを疑問の余地なく確認することができます。

そして重要なこととして、ものみの塔協会の執筆者が自分たちの間違いを隠すため、あるいは自分たちの聖書解釈の正しさを無理やり納得させるため、あるいは他のなんらかの目的のために、ときに不誠実な仕方で読者を騙すという事実を確認することができます。

記事の終わり