宗教は人の心にある本来の公正の感覚を麻痺させることがあります。この点はエホバの証人も例外ではありません。

一つの例を考えてみましょう。エホバの証人は間もなく世の終わりが来ると信じています。それと同時に世の終わりの際にはエホバの証人以外の人類が滅ぼされると信じています。

これは何を意味するでしょうか?それはエホバの証人の活動がほとんど行われていない国など、場所によっては1万人中、9,999人が滅ぼされる地域があること意味しています。次の地図をご覧ください。

赤く塗られている部分は、エホバの証人の伝道が禁じられており、ほとんどのエリアでエホバの証人が活動することができていない国を表しています。オレンジ色の国はエホバの証人の伝道者が人口の 0.01 %未満の国を表しています。それはつまりエホバの証人1人あたり 1万人以上の人口があることを示しており、事実上その国の多くの人がエホバの証人に合ったことさえないことを意味しています。(詳しい統計はエホバの証人の年鑑をご覧ください)

公式見解からすると、これらの国の人々もまもなく絶滅させられます。心の優しいエホバの証人は「ですから私たちは人々を救うために熱心に伝道しているのです」と答えるでしょう。それは個々のエホバの証人の心を慰めるものになるかもしれませんが、実質的に問題点を解決することにはなっていません。

これに対して過去に亡くなった人たちについては、楽園の地で義を学ぶために一部の例外を除いて皆復活させられるとエホバの証人は教えられています。もちろん復活させられる人の中には上記の地図上のエホバの証人の伝道がほとんど行われていない地域の人も含まれています。ただしハルマゲドン前に死ななければなりません。

エホバの証人は過去に亡くなった人のほとんど(ゲヘナに行かなかった人)が復活すると教えています。

「永遠に生きる 162頁」 ヨハネ5:28,29や啓示20:13の言葉を根拠に象徴的なゲヘナと呼ばれる場所に行かなかった人類すべてが楽園に復活すると教えている。復活しない人はソドムとゴモラの住民など例外的な人とみなされている。

チャールズ・テイズ・ラッセルの考え方

ものみの塔の創始者ラッセルは別の考え方を持っていました。この点は「習慣と信条 – ハルマゲドン」でも言及した通りです。 彼はキリストによる最後の審判が行われる前に千年の祝福された時代が到来し、人々が公平な環境で学ぶことができると信じていました。自分と仲間の聖書研究者は聖別された者として天に取り去られてキリストと共に王座につくと考えていましたが、自分たち以外のキリスト教徒が「ハルマゲドン」でキリストから抹殺されるなどとは考えませんでした。

ものみの塔1879年7月号
我々はこう考えます。もしキリストの再来が矯正期間の終わりで、かつ後戻りできない滅びを人類の100人中99人の人にもたらすようなものであれば、それはどう考えても望ましいものではなく、まして我々がふさわしい精神で「主イエスよ、すぐに来てください」などと祈れるものではありません。

ではラッセルはテサロニケ第二1:7-10の聖句のように神を信じない人々に滅びをもたらすと述べているような部分をどのように理解していたのでしょうか?この点は以下の「質問と答え」で答えられている通りです。千年のキリストの支配の最終部分で人類の審判が行われるという考えです。

ものみの塔 1882年5月
質問:親愛なる兄弟、テサロニケ第二1:9を説明してください。
答え:7節から10節までを文脈で読む必要があります。最後の節では「その日には」と書かれていて、我々はそれが千年の日(第七の千年の日)であると理解しています。それは罪が永久に取り除かれる「終わりの日」です。

上記の理解の仕方はラッセルにとっては真理であり、千年の祝福された期間が到来する前に人類に絶滅をもたらすという現代のエホバの証人の考えはラッセルの公正の観点からは考えられないことでした。

都合により変更される教理

二代目の会長ラザフォードは1923年にラッセルの教えに手を付けます。その教えはラッセルにとっては神の公正を擁護する重要な教えの一つでもありました。ものみの塔の出版物は次のように説明しています。

*** 告 12章 164ページ 大群衆―天で生きるのか,地上で生きるのか ***
エホバの目的を理解する上で極めて重要な意味を持つ段階の一つは,マタイ 25章31節から46節に出て来る,羊とやぎに関するイエスのたとえ話を中心としていました。…このたとえ話は革新の時である千年期に当てはまり,その中に出て来る最後の裁きは千年期の終わりに行なわれる裁きである,と長いあいだ考えられていました。しかし,1923年,ものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードは,カリフォルニア州ロサンゼルスで行なった啓発的な講演の中で,別の見方を支持する根拠を説明しました。…たとえ話の中に出て来る『兄弟たち』が,福音時代のユダヤ人や,試みと裁きが行なわれる千年期に信仰を示す人々であるはずはなく,むしろキリストと共に天の王国を相続する人々であるに違いないと言える理由を説明しました。さらにそのことからして,たとえ話が成就するのは,キリストの共同の相続人の一部がまだ肉体を着けて生きている時であるに違いないと言える理由も説明しました。

ラザフォードは、羊とやぎに関するたとえ話は千年期の終わりに成就するのではなく、今成就していると説明しました。ラザフォードにそのような「啓発」を与えたものは何だったのでしょうか?

当時、ラザフォードはキリスト教世界の聖職者からの強い反対を経験をしていました。人々はラザフォードのメッセージに対して様々な反応をしました。「僧職者や教会の著名な信者たちの多くが示す反応は敵意に満ちていた」と述べられています。(告 12章 p.164)それでラザフォードは自分のメッセージに強固に反対する僧職者や、それに同調する人々を「やぎ」、そして良い反応を示してくれる教会員を「羊」と定義したのです。その理解はラザフォードにとっては都合のよいものでしたが、ラッセルが考えていた公正の基準からは離れる結果となりました。

後にラザフォードのこの教えはさらに発展し「大患難の始まった後」に人類が「羊とやぎ」に分けられ、「油そそがれた者たちと共に良いたよりを宣べ伝える」エホバの証人だけが羊として生き残り*、それ以外の人はすべて滅ぼされるという教えに変化します。(ものみの塔1995.10.15)

*親がエホバの証人の場合は、「幼い子供や,知恵遅れの成長した子供が,家族の功績により」救われるとしている(塔77 1/1 31ページ)

聖書に書かれているから公正

現代のエホバの証人は創始者ラッセルが不公正と考えていた考えをどのように相殺させることができるのでしょうか?それはそれほど難しいことではありません。その考えがどれほど理不尽であっても、その理解を支持していると思える聖句を見出せば良いのです。「羊とやぎ」のたとえ話では「キリストの兄弟」を世話しなかった者は「永遠の裁き」もしくは「永遠の切断」に至ると書かれています。「キリストの兄弟」はエホバの証人の油そそがれた者であり、その組織に協力するエホバの証人だけが救われると解釈すればよいのです。不公正に思えるような理解も「聖書に書かれている」という理由付けがあれば自分を納得させることができるでしょう。

イスラム教圏や政情不安定で伝道することができていない国に住む「真理」を知らない人類が邪悪な者として滅ぼされようと、それは神がご自分の権限内で行われることなのですから、エホバの証人は心を痛める必要などないのです。これはとても冷たい態度に見えますか?

しかしこれがエホバの証人の組織の公式見解でもあるのです。

ものみの塔1962年7月383頁
●マタイ10章23節に記録されている「あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう」という言葉にはどんな意味がありますか。
…イエスは、十二使徒への訓示を通して、今日の私たちにつぎのことを預言的に告げられたのです。すなわち、イエスの油そそがれた弟子つまり霊的イスラエルの残れる者が、設立された神の御国のよいたよりをたずさえて全世界を回りつくさぬうちに、栄化された天の王イエス・キリストが、ハルマゲドンの戦争におけるエホバの刑執行官として来るということです。…今日、御国の音信をたずさえて、個人的に全世界をめぐりつくさぬうちにハルマゲドンの戦争がはじまるという意味です
…ですから、私たちの務めはハルマゲドン前に、できる限り多くの地域を伝道することです。ハルマゲドンまで、伝道のための新しい地域がなくなってしまうとか、御国伝道者や教える者を必要としない(*注1)区域がなくなることはありませんこのことに対し神に感謝しなければなりません!

上記の記事は、終りが来る前にエホバの証人が「真理」を携えて世界中を網羅することはないと告げています。バプテスマを受けたエホバの証人以外がまもなく滅ぼされるという教えがあるにも関わらず、エホバの証人の伝道活動がほとんど行われていない地域があるという事実に矛盾はないのでしょうか?

少なくともエホバの証人の上層部の人たちは矛盾を感じていないようです。上記のものみの塔の記事はエホバの証人が伝道しきれないことを「神に感謝しなければなりません!」という言葉で締めくくられています。「伝道のための新しい地域がなくなってしまう」ことがそれほど残念なことなのでしょうか?

 

(*注1)英文ものみの塔は「御国伝道者や教える者を必要とする区域がなくならない」となっています。前述の引用はものみの塔の記事からそのまま掲載していますが、この訳文はものみの塔日本語翻訳者の間違いです。

記事の終わり