様々な組織が内部の批判に対してとる対応は大きく分けると二つあります。一つはその批判を真摯に受け止め、批判に正当な部分があればそれに対応して物事を改めます。そして批判を真摯に受け止める組織はその批判に対する他の人の意見も進んで聞こうとします。
もう一つの対応の方法は、批判を封じ込めるという方法です。批判を出す人を処罰、あるいは処罰すると警告して封じ込めるのです。そして批判に対する他の人の意見を聞くことは許されません。
興味深いことに、ものみの塔協会は他の宗教を批判する際には人々に前者であることを求めます。例えばカトリック教会に対する批判記事に意見する「読者の声」に対して次のように返答しています。
*** 目84 11/22 28 読者の声 ***
カトリック教会は世界の中で非常に重要な地位を占めており,何億もの人々のための救いの道であると主張しています。そのような立場にあると主張する組織はすべて,精査と批判を進んで受けるべきです。
そして間違いを指摘する人たちに「注意と尊敬を払うべき」とさえ言います。
ものみの塔1966年8月1日452ページ
虚偽と不正を公然と非難するのは正しいことであり、また当然のことです。イエス・キリストにならって勇敢にそれをする人や組織に対しては注意と尊敬を払うべきです。
では、ものみの塔協会自身は批判にどのように対応するのでしょうか?
批判に対する二重基準
ものみの塔は異なる見解に対する狭量な精神がキリスト教世界に見られる場合には、それらの精神を持つ人を「狂信者」と呼びます。
*** 塔87 7/15 28ページ 真のキリスト教は狂信者を生み出しますか ***
キリスト教世界には,政治的な抗議のために焼身自殺をする人から,宗教上の見解を異にする人々に対して狭量に振る舞う人まで様々な狂信者がいます。
では、エホバの証人についてはどうでしょうか?ものみの塔協会は教理の間違いを指摘するエホバの証人に対して「注意と尊敬」を払ってきたでしょうか?カトリック教会や他の宗教に対して求めていたような原則を自分たちにも当てはめているでしょうか?事実は全く正反対になります。例えば、一部の教理に対して意見を異にするエホバの証人を「背教のかどで排斥(破門)してきた」ことについて読者からの質問では次のように答えます。
*** 塔86 4/1 30ページ 読者からの質問 ***
そのような異議を口にする人々は,キリスト教と称する多くの宗教組織が異なる見解を許容していることを指摘します。…しかし,そのような例があるからといって,わたしたちが同じようにする根拠にはなりません。…異なった,あるいは逸脱した見解を教えることは,真のキリスト教と相いれません。
協会は自分たちの教える教理に関しては「異なる見解」を許容する余地は全くありません。他の宗教者には寛容を求めながら自らが不寛容の例になるということに協会は矛盾を感じないのでしょうか?
どれほどの不寛容なのか
ものみの塔協会は1980年9月1日付けの「すべての巡回および地域監督への手紙」で以下のように書き送っています。
すべての巡回および地域監督への協会の手紙
「排斥に値するのは、背教的な見方を広める背教者ばかりではないことをよく知っておいてください。『ものみの塔』1980年8月1日号17頁第2節〈1980年11月1日号17頁第2節〉にある通り、「『背教』という語はギリシャ語に由来しており、そのギリシャ語には「あるものから離れている」「離れ去る、変節」「反抗、放棄」などの意味があります。」従って、もしバプテスマを受けたクリスチャンが、忠実で思慮深い奴隷が示す通りのエホバの教えを放棄し、聖書の戒めにもかかわらず他の教義を信じることに固執するのであれば、これは背教です。」
レイモンド・フランズ 良心の危機 日本語版380頁
そして続く部分では「背教的な考えを信じ続け、「奴隷級」を通じて与えられたものを拒否するようであれば、適正な審理が行なわれるべきです」と述べ、協会の特定の公式見解が間違いであることを「信じ続ける」人を宗教裁判にかけて排斥するように指示しています。
協会の教義と異なることを「信じる」だけで背教者とされるという明確な見解は調べた限りでは一般の人の目に届く出版物の中には掲載されていません。しかし、誰も見ることがない「巡回および地域監督への手紙」の中にだけ、このような見解を述べているところを見ると協会も何か後ろめたいものを感じているのかもしれません。
宗教裁判の実態
上記の協会の手紙では協会の教義を信じないエホバの証人がいるなら「適正な審理が行なわれるべき」と述べられています。ではエホバの証人の中で行われる宗教裁判はどれほど適正なものなのでしょうか?
協会はユダヤ人の裁判システムの優れた点を指摘し次のように述べています。
*** 洞‐2 828ページ 法廷 ***
地方の法廷は都市の門のところにありました。(申 16:18; 21:19; 22:15,24; 25:7; ルツ 4:1)…門のところで行なわれる裁判はどれもよく知れ渡ったので,裁き人たちは裁判の手続きの点でも決定の点でも注意深く公正に行なうよう促されました。
*** 目81 4/22 17ページ 法の起源を探る ***
イスラエルの地方裁判所は町の門の所にあったので,裁判が公開で行なわれるかどうかの問題はありませんでした。(申命 16:18‐20)公開裁判の形だったので裁判官は注意深く公平な裁きを行なわざるを得ませんでした。そうした特質は,内密裏に行なわれる専断的で不公正な裁判所の審理では時として失われてしまいます。
この記述を読むと、エホバの証人がイスラエルの「町の門」で行われていたような公平で透明な裁判を採用しているように思えるでしょう。ところが実際は全く正反対で宗教裁判は全くの非公開で行われ、出頭を命じられた信者は「弁護する人」を伴うことはおろか、自分の家族さえ同席することが許されていません。公開裁判であれば「裁判官は注意深く公平な裁きを行なわざるを得ません」と述べたのとは逆の舞台設定が行われているのです。
批判は聞くな
エホバの証人は、伝道する相手がすでに既存の宗教に満足しており、自らの宗教に批判的な立場であるわけではなくても、その人たちに対してはエホバの証人が語る言葉(宗教批判も含め)に耳を傾け「それがそのとおりかどうか、聖書を注意深く調べ」ることを期待します。ところが自分たちの宗教に関してはその原則はあてはめることはありません。
*** 塔81 5/15 18ページ 聖書を理解するには助けが必要ですか ***
この「忠実で思慮深い奴隷」が備える霊的な食物をどう見ますか。『まあ,正しいとは思うが,それでも間違っていないとも限らない。批判的な立場から十分注意深く調べてみなければならない』などと言って批判的に見るべきでしょうか。・・・ご自分の民に霊的な食物を与えるべく神がご自分の「奴隷」として用いておられる手段が何かを一度見極めた後,その食物に有害な物が含まれているのではないかという態度でそれを受け止めるのは明らかにエホバに喜ばれないことです。神が用いておられる経路に確信を抱くべきです。エホバの証人の聖書文書が送り出されるブルックリンの本部には,「残りの者」と「ほかの羊」の両方の円熟したクリスチャンの長老たちが地上の他のどの場所よりも多くいます。
エホバが用いている組織なので疑わずに全面的に受け入れなさいという指示です。もし「忠実で思慮深い奴隷」が備える食物に間違いが含まれているとしたら「それはエホバの責任です」と述べているかのようです。
協会の教えの妥当性を疑わずに受け入れるという考え方に対してレイモンド・フランズは次のように述べています。
協会側の言い分は、自分たちにはそんな不正など一切ないというものである。今までやってきたこと、そして今やっていることは聖書に完全に一致している、それどころか聖書はそのようにすべきだと要求している、と主張する。もしそうならば、物事を自由に話し合うことに反対もないはずである。話し合いの結果、協会組織の正しさがさらに明らかになるはずであり、名誉挽回するはずである。結局、沈黙を守りたがるのは不正を行なっている張本人だけであり、そういう人は他にも沈黙を強制するものである。これは、昔も今も、独裁政府や権威主義的宗教に見られることである。
レイモンド・フランズ 良心の危機 日本語版 51ページ
このような狭量な精神の中でも、エホバの証人の中には協会の教義の中に非聖書的な教えが含まれていることに気が付き、その間違いを正そうとする人がいます。冒頭のところで引用したものみの塔の記事では勇敢に間違いを指摘する人には敬意を払われるべきであると述べられています。しかし、ものみの塔の教義に異を唱える人はそのような扱いを受けることは決してありません。実際、ものみの塔の間違いを指摘する仲間はどのような扱いを受けるのでしょうか?ものみの塔は率直に次のように言います。
塔11 7/15 15-19ページ
そのような人は,背教者と呼ばれます。 目的は何でしょうか。かつては愛していたであろう組織を去るだけでは満足せず,パウロが説明しているように「弟子たちを引き離して自分につかせようと」します。出て行って自分の弟子を作るのではなく,キリストの弟子たちを道連れにしようとするのです。「むさぼり食うおおかみ」のように,偽教師たちは人を信じやすい会衆の成員をねらい,信仰を打ち砕いて真理から引き離そうとします。
エホバの証人の教えに意を唱える人は「むさぼり食うおおかみ」と定義されます。そしてその意見に注意が払われるどころか、感染する病気を持つ人のように避けられます。次に述べられている通りです。
塔11 7/15 15-19ページ
あなたが医師から,致死的な感染症にかかっている人との接触を避けるように言われたとしましょう。あなたはどうすべきかを理解し,警告をしっかりと思いに留めるのではないでしょうか。背教者たちは「精神的に病んで(mentally diseased)」おり,いわば他の人を自分たちの不忠節な教えに感染させようとしています。
ここで背教者は一律に感染症にかかっている人に例えられ、彼らは「精神的な病気(mentally diseased)」で近づくべきではないと述べられています。ものみの塔は読者に対して繰り返しエホバの証人の教義を否定する背教者が「まやかし」で「欺き」で「聖書を曲解」しているかを伝えます。そして彼らが良い動機を持っているはずがないと述べます。
塔11 7/15 15-19ページ 「偽教師」に従ってはならない
背教者は「まやかしの言葉」つまり偽りの主張を用いて,自分たちの作り上げた見解が真実であるかのように思わせようとします。「欺きの教え」を広め,自分たちの考えに合うように「聖書……を曲解」します。(ペテ二 2:1,3,13; 3:16)背教者がわたしたちの益を気にかけていないことは明らかです。
人に対してここまで明確に断言する以上、何を根拠にそのように言うのか具体的なことが書かれていると想像するでしょう。しかし記事の中では何も語られません。そして背教者の「作り上げた見解」のどこがどのように「欺き」なのか、具体的に何が「聖書……を曲解」しているのか語られることもありません。ただ信者に次のように指針を与えます。
それは彼らの本を読まないこと、ウェブサイトも見ないこと、ブログも見ないこと、彼らを取り上げたテレビ番組も見ないことです。つまり背教者がどのような批判をしているのかは一切知るべきではないということです。
塔11 7/15 15-19ページ 「偽教師」に従ってはならない
偽教師たちが何を言うとしても,わたしたちは従いません。わざわざ干上がった井戸に行って,だまされて失望させられる必要はありません。
ものみの塔に反する意見を述べる者がいれば、彼らが「何を言うとしても」従わないと断言されています。反対意見であれば、その内容が正しいか間違いなのかは重要ではないのでしょうか?
この記事を読む一般の人は、まさか自分たちの教義に意を唱える人をそのように扱うことはいくらなんでも大袈裟な話であろうと感じるかもしれません。次の記事では「背教者」に対する実際の協会の対応の幾つかを取り上げます。
記事の終わり
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