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#1476 2023年09月22日 14:27:25

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバと仲間への愛を深めていきましょう(30)”で、信者同士もっと助け合いなさい、という内容です。」
「組織はタダで働かせたり、寄付を集めたりするだけで、何もしてくれないからね。」

「1節に“聖書を学び始めた時のことを覚えていますか。神に名前があることを知って驚いたかもしれません。神が人々を地獄で苦しめることはないと知って,安心したことでしょう。そして,亡くなった愛する人と再会して地上のパラダイスで生きられるということを知って,感激したに違いありません。”とあります。ここに書いてあることが、JWのセールスポイントということですね。」
「JWは聖書を学ばないよ。JWの出版物を学んでいるだけ。」

「ここでは神のお名前はエホバである、とは言っていませんね。JWもエホバがインチキネームということは知っているからですね。」
「ウソでも神の名前を使うことが大事だというのがJWの教義なんでしょう。」

「地獄はないと安心したかもしれませんが、JWにはハルマゲドンで滅ぼされる恐怖や体罰の恐怖や家族から捨てられるという恐怖や学校で証言しなければならない恐怖や・・・」
「JWの方が不安と恐怖でいっぱいだよ。特に子供時代はね。」

「亡くなった人と再会するというのもJWのセールスポイントですね。でも、それっていいことばかりじゃないですよ。」
「過去に死亡した人が復活してきたら、どんな混乱が生じるか、恐ろしいね。復活した人から借金を返せと言われたら、返す必要はあるのか心配で、復活したくない人も結構いるよ。」
「どんな法律が制定されるのか不明ですよね。死んだからすべては無効といわれても、貸した側は取り返すまで納得しません。」
「JWの楽園でも法律や法執行機関や刑務所は必要だ。結局北朝鮮みたいな所になるね。」

「2節に“聖書を学ぶにつれて,エホバへの愛はどんどん深くなっていったことでしょう。”と断定していますが、気持ち悪いですね。異論は許さないというカルト体質そのものです。」
「それを気にしたのか、日本語版では“でしょう”と断定調を和らげている。英文では“でしょう”なんて言う表現はないよ。」

「5から8節が“エホバへの愛を深める”です。 これは4節分しかなく、無視するわけにはいかないので、エホバへの愛に一応触れたというだけですね。5,6節はパウロの話です。」
「そのパウロの話もうまくつながっていないよね。7節では“私たちも聖書をよく学ぶことによって,エホバへの愛を深めることができます。”とあり、8節では“祈りで心を打ち明けることによっても,エホバへの愛を深めることができます。”とある。いつもの聖書と祈りだ。」
「エホバへの愛というJWという宗教にとって最も重大なテーマなのにおざなりな対応ですね。」
「本当はエホバへの愛なんかどうでもいいんだよ。」

「そもそも聖書を学ぶとエホバへの愛は深まりません。古代の残酷で野蛮な神でしかありませんよ。」
「例えば、出エジプト4:11に“エホバは言った。「誰が人に口を与えたのか。誰が,口を利けなくしたり耳を聞こえなくしたり,視力を良くしたり失わせたりするのか。それは私,エホバではないか。”とあるよ。障害のある人に対して愛ある神とは思えないね。」

「イザヤ45:7には“光を形作り,闇を創造し,平和をつくり,災いを創造する。私エホバがこれら全てを行っている。”とありますから、災害の被害者に対して愛ある神ではないようですね。」
「ホセア13:16には“サマリアは有罪とされる。神に逆らってきたからだ。彼らは剣によって倒れる。子供は打ち砕かれ,妊婦は切り裂かれる”とある。子どもや胎児に対して愛ある神じゃないよ。これは民族絶滅という重大な犯罪行為。」

「8節で“エホバは私たちの祈りに答えてくださいます。”とあります。こんなこと言っていいのですか?」
「答えるというのは祈りを実現させるという意味じゃないからね。誰かから殺されそうになって、助けてくださいと祈っても多分殺される。この場合、お前は死ね、というのが答えだね。」
「殺されても、殺されなくても、神は祈りに答えたことになるという理屈ですね。」
「という訳で神はいつも祈りに答えてくれる。」

「8節に“アジアに住むカン姉妹”の話が出てきますが、英文ではKhanhとあります。カンと読むのですか?」
「多分カインじゃないかな。ベトナム人の名前だと思う。」

「この姉妹は“でもその愛は,祈りが聞かれた経験を通してどんどん深まりました。”といっています。それなら、なぜ具体的に祈りが聞かれた実例を出さないのでしょうか?JWにとって強力な宣伝材料になるはずですよ。」
「具体性のない体験談は無意味だね。でも具体的に書きすぎるとウソがばれるしね。無意味な体験談は字数を稼ぐためじゃないの。」

「9から14節が“人々への愛を深める”です。 人々というのはJWの信者のことですね。9節でテモテのことに触れますが、これは聖書を学んでいるという幻想を抱かせるためですよ。中心はJWの体験談です。アナ姉妹が登場です。」
「アナ姉妹は災害に遭ったJWの家族の“服を洗濯して,アイロンをかけ,畳んで戻しました。”と言っている。それくらいのことはしてあげなさいという指示だね。大した出費じゃないしね。アナ姉妹はそれにかかった時間を奉仕時間に加えているよ。」

「災害に遭った場合、一番助かるのは現金です。それは勧めませんよね。」
「現金は災害で苦しんでいる人ではなく、統治体へというのがJWの教え。」

「11節に再びカン姉妹の話が出てきて、“姉妹たちは,私を迎えに来て,奉仕に連れていってくれました。お茶やランチに誘ってくれることもありました。帰りも,家まで安全に送り届けてくれました。”とありますから、こういうことをしなさいという指示ですね。」
「奉仕時間に入れていいなら、するんじゃないかな。」

「11節の最後に“格言19:17を読む。”とあり、そこには“立場が低い人に親切にする人はエホバに貸しており,神はその行いに報いてくださる。”とあるのですが、この訳はヘンですよ。」
「“立場が低い人”が問題だね。格言19:4に“富は多くの友を引き付け,貧しい人は友にも見捨てられる。”とあるけれど、ここでは同じ単語が“貧しい人”と訳されている。なぜ19:17はそうしないのかな、不思議だね。」

「JWは貧しい人に親切にするということはないからですよ。“立場が低い人”とすれば、会衆内の立場の低い人と解釈でき、仲間に限定できます。」
「JWの都合の良いように、同じ章にある同じ単語も訳し分けるのがJW訳ということだね。」

「12節は若い兄弟に与えた長老のアドバイスが出ています。“王国会館に早めに来てみんなを歓迎すること,集会でコメントすること,野外奉仕グループの兄弟姉妹と定期的に伝道すること,どうすれば仲間の助けになれるかを具体的に考えることなどです。”とあります。これらのことをしないと援助奉仕者にはなれないぞと、いう脅かしですね。」
「今どき、若い兄弟で援助奉仕者になりたがる人はいるのかな?」

「組織は人材難に苦しんでいて、10代で援助奉仕者、20代前半で長老を目指して欲しいのですよ。そして自分の親や祖父母のような年齢の人に家庭生活や宗教上のアドバイスをするわけです。」
「コメディー映画の間抜けな牧師と同じだね。混乱を招くだけ。」

「それで、13節では“以前は長老や援助奉仕者として奉仕していたものの,今はそうではない場合はどうでしょうか。”と言って、元長老などの復帰を促すことを書いています。」
「降格処分を受けた人のことのようだね。“クリスチャンという兄弟は,長老でなくなった時とてもがっかりしました。”とある。“やがて,兄弟は再び長老に任命されました。”とのこと。児童性的虐待で降格されたわけじゃないよね?」
「その場合は他の会衆に移動すれば降格もありません。」
「被害者は加害者を許せ、警察には言うなという宗教だったね。」

「14節に隣人愛が出てきますが、その中身は“初め,私はエホバへの愛の気持ちだけで伝道を行っていました。でも,エホバへの愛が深まるにつれて人々への愛も深まっていきました。”とあり、隣人愛=伝道という公式はここでも繰り返されます。」
「それ以外の方法でJWではない人と接触することはダメなんだよ。JWでない人はサタン支配下の邪悪な人間だから。」

「エホバへの愛で伝道をしていたなんてウソですよ。周囲の圧力と、周囲から認められたいという承認欲求と滅ぼされたくないという恐怖が主な動機じゃないですか。」
「時間を入れるためだろう。奉仕時間を報告するという非聖書的な取り決めをやめたら、いくらエホバへの愛があっても、伝道など無意味なことはしないよ。」

「15から17節が“愛を示すなら,どんな良い結果になるか”です。 良い結果になるから愛を示せと言いたいようです。」
「実際は愛を示して良い結果になることもあるし、悪い結果になることもある。愛は物事をよくする魔法じゃないからね。」

「ここで取り上げられているのは伝道の時に仲間を助けたというものです。JWの言う愛はJW活動限定です。15節では“パウロ兄弟は妻と一緒に,電子機器を使って伝道を行えるようたくさんの年長の姉妹たちを助けました。”とあります。これがJWの愛です。」
「その電子機器を買う費用を組織は出さない。お金のない人でも個人負担だ。組織はもっと愛を示して欲しいね。」

「その兄弟は、16節で“大事なのは知識や能力ではなく愛だ,ということです。”とおかしなことを言っています。大事なのは愛ではなく知識ですよ。知識がなければ電子機器の使い方をどう教えるのですか?」
「愛が大事だという結論がまずあって、それに関係しそうな体験談を探したけれど、適当なものがなかったんだよ。電子機器の話を使わざるを得なくなって、おかしなことになったのだろう。でも、細かいことを気にするJW はいないから、問題ない。」

「17節でも“開拓者の兄弟が暑い中,1人で奉仕しているのを見掛けました。それで,土曜日の午後は毎週その兄弟と一緒に奉仕することにしました。”と、伝道の話です。JWのルールに従って、暑い中でもネクタイを締めていたのでしょね。」
「英文ではhe saw a pioneer witnessing along the road.とあるので、”道路沿いで証言している開拓者を見かけました。”だよ。”道路沿い”を省略している。伝道方法としては史上最低の効率であるカート奉仕をしていることを日本の信者に知られたくないのだろう。」

「その後“兄弟が聖書のメッセージを上手に伝え,良い話し合いをしているのを見て,私も奉仕が好きになっていきました。”とあります。ウソじゃないですか。伝道先で“よい話し合い”なんかありません。」
「英文ではI listened to the pioneer’s way of teaching and saw how fruitful his ministry wasとなっていて、良い話し合いをしているとは言っていない。聖書のメッセージを伝えているとも言っていないけどね。いつものテキトウ訳。」

「でも、そこには“彼の宣教がいかに実りのあるものであるかを見た”とありますが、あまりにも見え透いたウソなので、適当に変えたと思います。」
「JWのドアからドアへの伝道とカートに文書を並べてその横にぼ~と立っているカート奉仕がいかに実りのないものか、JWなら知っているからね。」

「JWは伝道先で聖書やJWのことについて話し合いはしませんし、するだけの能力もありません。」
「何か尋ねられても、JWのサイトを見てくださいというだけかな。」

「最後の18節はまとめですが、これが内容とあっていません。“では,これからもエホバと人々への愛を深めていきましょう。”ですが、この記事の内容は伝道を中心とした奉仕活動への愛を深める、ですよ。」
「JWの愛は仲間限定で、それ以外の人には伝道活動をすることが愛、ということがよくわかった記事だったね。本当の隣人愛を実践したければ、JWを辞めよう。」

#1477 2023年09月29日 14:48:31

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“しっかり立って,動じないようにする(31)”で、輸血が必要になっても、輸血しないで死を選べという、内容です。」
「JWに反対する人はサタンだ!ということも言っているね。カルト丸出しの記事だ。」

「1節で“1970年代の終わりごろ,東京に60階建ての超高層ビルが建てられました。人々は,頻繁に起こる地震に耐えられるんだろうかと思いました。”とあります。見てきたようなウソですね。心配した日本人はどれくらいいるのでしょうか?これって具体的になんというビルですか?」
「60階というと池袋にあるサンシャインビルのことだね。開業したのは1978年だし。そのころ日本には超高層ビルはけっこうあり、地震で倒壊することなど心配はされていなかった。JWによくある作り話。」

「そのあと、“私たちクリスチャンも,この建物のようになる必要があります。”と言っている。その意味は、2節で“クリスチャンは,確固とした態度と柔軟性のバランスを取る必要があります。”と説明している。ところがこの記事は確固とした態度を取れと言っているだけで、柔軟性は無視なんだ。」

「この記事の主な主張は確固として輸血を拒否しなさいというものです。でもそれは4つの主な成分だけで、それから抽出した成分は取り入れてよいというのがJWの今の立場です。これは柔軟な態度と思っているんじゃないですか?」
「組織はずる賢く、柔軟でコロコロ変わるけれど、信者は確固とした態度で輸血を拒否し、微笑みながら死んでいくということでバランスが取れているわけ?」

「3から7節が“どうすればしっかり立つことができるか”です。 3節で“例えば,1世紀の統治体は,クリスチャンがしっかり立つべき3つの大切な点を挙げています。(1)偶像崇拝をきっぱり避け,エホバだけを崇拝すること,(2)血の神聖さに関するエホバのおきてを守ること,(3)聖書に書かれている高い道徳基準に従うことです。(使徒15:28,29を読む。)”とあります。まず、1世紀に統治体は存在しませんよ。にもかかわらず、“1世紀の統治体”と繰り返して、JWの統治体が1世紀の制度を見倣っているかのように誤解を与えようとしています。」
「統治体はアメリカに本部を置く新興宗教の発明品だろう。過去の統治体のメンバーは圧倒的にアメリカの白人男性だ。JWが全宇宙の支配者である神の地上の組織とすれば、神はアメリカの白人の男性を人類の中でとりわけ愛していることになるけど、奇妙だね。」

「引照聖句には“像に犠牲として捧げられた物,血,絞め殺された動物,性的不道徳を避けていること”とあり、これが輸血禁止の教義につながるわけですが、血を避けるとは食物として動物の血を避けるという意味ですよ。」
「JW以外の人はみんなそう解釈している。魚にも血はあるけれど、聖書の作者はそのことを知らなかったようで、何も言っていないから、魚の血は問題ない。人間の血についても言っていないと思うよ。口の中で出血したら、それを吐き出せとは聖書は言っていないから、飲み込んだって問題ないでしょう。」

「バッタは食べ物として聖書の中に出てきますが、昆虫だって血液はありますよ。」
「あるよ。ただ昆虫は閉じた血管がないので、血液、リンパ液、組織液が混じった状態で存在していて、血リンパという。たいていの昆虫はヘモグロビンがないので、赤くなく、薄い黄色や緑色していることが多い。動物以外の魚、昆虫は血を含んだまま食べても問題ないということだ。」

「JWの輸血禁止に関する教義は破綻していますよ。」
「組織はそのことはわかっているだろう。それで、その正当性を訴えることはこの記事でもしていない。知的な議論を放棄して、輸血をさせようとするのはサタンの策略だとバカなことを言うだけ。」

「JWは全血と4つの主要な成分はダメと言っています。例えば、塔15 9/15の“あなたの良心は信頼できる導きとなっていますか”では、“例えばクリスチャンは,「血……を避けている」ように,という聖書の命令を銘記する必要があります。(使徒 15:29)この命令からすれば,全血か,血液の4つの主要成分のいずれかを取り入れる治療は,明らかに排除されるでしょう。”と述べていますが、少しも“明らか”じゃありません。まず血液は4つの主要成分からなるという主張はどの程度正しいのですか?」
「聖書は血液は4つの主要成分からなるとは言っていない。聖書では血は血であって、それを成分に分ける発想はない。聖書的には輸血を受け入れるか、受け入れないかの2択しかないはず。」

「JWの主張する血液の4つの主要な成分とは血漿、赤血球、白血球、血小板ですが、何を根拠にしているのかよくわかりません。」
「一般向けの血液についての説明図には、試験管に入っている血液が3つの層に分かれているのがよく描かれていて、それぞれ血漿、白血球、血小板、赤血球と説明してある。それが4つの主要成分の根拠じゃないの?」

「ちゃんとした医学書ではないわけですね。」
「普通の医学書では血液は血漿と血球成分の2つからなる、とあるよ。JWの根拠である一般向けの血液の説明図は血液を遠心分離機にかけた後の図だ。自然にそう別れるわけではない。聖書時代に遠心分離機はない。遠心すると、血漿、軟膜層(白血球と血小板)、赤血球の3つの層に分かれるけれど、軟膜層の容積は1%もない。軟膜層ができるのは、赤血球より比重が軽く、血漿より重いから。それだけの理由で主要な成分と言えるかな?単なる成分でしょう。」

「特に白血球を主要な成分とするのはヘンだと思います。白血球は数種類の細胞の総称でしかありませんよ。さらに白血球は、母乳を介して母親から子どもに輸血されますよ。これはJW的に言えば神の設計じゃないですか?」
「好中球、好酸球、好塩基球、単球、リンパ球を白血球と分類しているけれど、それぞれは構造も大きさも、機能も違う。」

「塔04 6/15の“生ける神の導きに従う”には“2001年の「救急医療」(英語)というテキストの「血液の組成」という見出しのもとには,「血液は,血漿,赤血球,白血球,血小板という成分によってできている」とあります。ですから,医学上の事実とも一致してエホバの証人は,全血の輸血も血液の四つの主要成分いずれかの輸血も拒みます。”とありますが、参考にした本は医学書じゃありませんね。」
「一般向けの本だね。だから“医学上の事実とも一致”なんてデタラメ。」

「デタラメばかりのJWの血に関する教義のなかで、一番デタラメなのが、血液の4つの主要成分をさらに細かく分けたもの(分画)は利用していいというルールです。そして、JWは利用するだけで、献血をしません。」
「主要成分はダメだけど分画はいいという教義のパロディがいろいろ作られているよね。アダムは善悪の実を食べるときに、皮をむいて、種を取って、ミキサーに入れて細かく砕いて、食べたので、自分は善悪の実を食べていないと主張したとか、ハンバーガーを食べてはいけないと言われたJWの子どもが、ハンバーガーの分画を取り入れることは禁止されなかったと考えて、ハンバーガーをパンと中身を別々にして食べたとか。」

「医者からアルコールを避けるように言われたJWが、医者の指示に忠実でありたいと言って、コロナ下でもアルコール消毒も拒否して、感染症にかかって死んだ、というジョークもありませんでした?」
「アルコールを避けるように言われた場合、聖書に基づくとアルコール消毒は許されないことは明らかです、というのが、JWでしょう。」

「8から13節が“サタンが使う方法”です。 5つ出ています。迫害、巧妙な攻撃、神を無視した考え方、欺き、気を散らすものです。JWはサタンのやり方など全てお見通しだ、ということですね。この記事ではサタンは間抜けな悪役という位置づけです。」
「9節は“巧妙な攻撃”なんだけど“手術の前の晩,家族が家に帰った後,麻酔科医が訪ねてきました。そしてこう言いました。「多分輸血はしないと思うけど,万が一に備えて準備はしておきますね」。もしかするとこの医師は,家族がいなければボブ兄弟は考えを変えると思ったのかもしれません。”とある。これは必要な医学上の処置で、患者のためにしているのに“巧妙な攻撃”だなんてひどいね。サタンが麻酔科医をリモコンで操っているとでも思っているの?」

「これは周囲にJWがいない場合、輸血に同意するJWがいるからですか?」
「それはいるよ。仕方なくJWをやっている人は大勢いるでしょう。そんな人はJWのばかげた教義のせいで死にたくないからね。医師もそれを知っているから、家族が帰ってから話しかけたんじゃないの。いい医師だね。」

「11節は“神を無視した考え方”の部分ですが“イエスの時代の宗教指導者たちは,この点で大きな間違いを犯しました。神の律法に人間が作った規則を加えることによって,人々に重い負担を負わせていたのです。”とあります。これって現代のJWのことですよ。自分で自分を攻撃しているのですか?」
「“エホバは私たちに聖書や組織を通してはっきりとした指示を与えてくださっています。ですから,私たちは何かを付け加えるべきではありません。”といっているから、JWの規則は人間が作ったものではなくエホバの指示というタテマエなんだよ。」

「12節は“欺き”ですが、“現代でもサタンは,メディアやインターネット を使って,陰謀論や権力のある人が発信する間違った情報を広めています。最近のパンデミック中にも,こうしたものが多く見られたのではないでしょうか。”とあります。ワクチンを打つと2年以内に死ぬとか、ワクチンにはマイクロチップが入っているとか言っていた人がいましたが、あれはサタンに操作されていた人だったんですか?」
「統治体はコロナを恐れていて、ワクチン推進派だったのに、陰謀論を信じ込んでワクチンを打たない信者があまりにも多かったので、怒っているんだよ。」

「JWの教義はそもそも陰謀論のたぐいですよ。この記事だってサタンがこの世の中を支配しているというサタン陰謀論を展開しています。」
「JWの信者が陰謀論に弱いのは仕方がないね。13節は“気を散らすもの”だけど、“サタンはこうした方法を使って,正しいことを行おうとする私たちの決意を弱めようとしてきます。”と言っている。こういうことをまじめに信じているとすれば、バカバカしい陰謀論にすぐにだまされても無理ない。サタン陰謀論は信じながら、それ以外の陰謀論は信じないというのは無理だろう。」

「14から18節が“どうすればしっかり立ち続けることができるか”です。 サタンの陰謀に対する対策です。4つ出ています。14節が①“献身しバプテスマを受けた理由をじっくり考える。”です。これはあまり効果ないですね。」
「人生最大の過ちはバプテスマを受けたことだ!という人はけっこういるからね。“あなたは,エホバに仕え続けたいという気持ちから,この重要なステップを踏んだことでしょう。”とあるけれど、仮にそうだとしても、気持ちや考えは変わるし、それを一生続けなくてはならないということはない。」
「結婚と同じですね。」
「バプテスマは奴隷契約じゃない。いつでも撤回可能だよ。」

「15節は②“聖書を学んで思い巡らす。”です。“聖書を学んで思い巡らすなら信仰が強まります。エホバの方法に従うなら必ず良い結果になる,という確信も強まります。”とありますが、そんなことありませんよ。」
「聖書は読む人を洗脳するようなものではないし、読んでも大して感銘は受けない。旧約聖書だとヘンテコな話満載だ。子どもには全く勧められないね。」

「16節は③“揺るぎない心を持つ。”です。揺るぎなく輸血拒否を貫けと言いたいようです。ボブ兄弟が“「輸血される可能性が少しでもあるなら,この病院を出ていく」と答えました。後に兄弟は,「何の迷いも不安もありませんでした」と言っています。”とあります。迷惑な男ですよ。」
「医者は口には出さなかったけれど、出て行っていいよ、と思ったよ。医師は輸血なしの治療を要求されたからと言って、それに従わなければならない義務はない。JWは二度と受け入れないと密かに決意したかも。こうしてJWを受け入れる病院はどんどん減っていくわけだ。」

「17節では、ボブ兄弟は“まず,エホバに喜ばれることをしたいと思っていました。そして,命や血の神聖さについて,聖書や出版物を使ってよく調べました。さらに,エホバの指示に従うことがいつまでも続く幸せにつながるということを確信していました。”とあります。輸血拒否して死ぬとエホバが喜ぶのですね。恐ろしい神です。そもそも血は神聖だ!なんて聖書のどこにも書いていませんよ。」
「組織は全血と4つの成分以外は問題ないと言って輸血の拡大を図っている。血の神聖さを無視していると神様は怒らないの?」

「18節が④“エホバを信頼する。”です。バラクが登場します。女預言者デボラの指示に従って戦ったら勝ったという話ですが、血なまぐさい話が好きですね。言いたいことは“私たちも,エホバを信頼し,組織からの指示に従うなら,必ず素晴らしい結果になります。(申 31:6)”という組織崇拝・組織盲従の勧めです。もちろん引照聖句はそんなことは言っていません。」
「聖書には組織という言葉は出てこないからね。JWに指示に従っているとろくなことにはならないことは長年組織に忠実に使えたお年寄りのJWをみればよくわかるよ。こんなはずじゃなかった、と皆思っている。」

「最後の19節が“しっかり立ち続けることを決意する”です。“迫害,巧妙な攻撃,神を無視した考え方,欺き,気を散らすものによって決意が揺らがないようにしましょう。(エフェ 4:14)エホバへの献身の思いを貫き,どんな時もエホバの命令に従うことが大切です。”とまとめています。エホバ=組織と誤認させて、信者に要求事項を並べています。」
「この記事を読んで、このままJWに留まると、無意味に早死にすると危機感を持った人はどれくらいいるのかな?そういう人が少しでも現れたら、この記事はいいことをしたと言えるね。」

#1478 2023年10月06日 14:36:09

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバのように分別がある人になりましょう(32)”で、信者に余計な生活上の細々とした指示を与える、という内容です。」
「信者の服装とか髪形までさらにコントロールしようということだね。こういう宗教で信者が増えると思っているのかな?」

「3から7節が“エホバとイエスの手本”です。これは聖書を学んでいると誤解させるためにある部分ですね。中身はほとんどありません。」
「4節で“エホバの物事の扱い方は完全で,いつもバランスが取れています。”と断定している。その根拠が“全ての人に同じ犠牲を要求するのではなく,それぞれが状況に合わせて犠牲を捧げることができるようにしました。(レビ記5:7,11を読む。)”というもの。説得力ないね。物事の扱い方が完全ではなく、バランスを欠いている事例はたくさんあるよ。」
「エホバは女性の扱い方がひどいです。異民族に対してもひどいです。奴隷制度も容認しています。障がい者に対してもひどいです。罰の与え方も不公平です。」
「きりがないので、次に行こう。」

「5節には“エホバは謙遜で思いやり深い方なので,分別を示します。”とあります。その根拠は“ロトの願いを聞き入れ,ゾアルを滅ぼさないことにしました。(創 19:18-22)”ということと、“ニネベの人たちが悔い改めた時,エホバは彼らを思いやり,その都市を滅ぼさないことにしました。(ヨナ 3:1,10; 4:10,11)”です。大量殺人が大好きなエホバにとって、滅ぼすのをやめるというのは相当つらかったでしょうね。」
「ノアの洪水で赤ん坊も妊婦もパンダもコアラも溺れさせておいて、思いやりの深い方であるわけないだろう。ロトの妻だって、振り返っただけで塩の柱に変えられた。思いやりなんかないよ。」

「この時、ソドムの町を滅ぼすはずだったのに、なぜゾアルも滅ぼすのですか?やりすぎです。」
「申命記29:23に“エホバが怒りと憤りのうちに滅ぼしたソドム,ゴモラ,アドマ,ツェボイイムのようになります。”とあるから、本当は5つの町を滅ぼすつもりだったけれど、4つで我慢した。ソドム以外の町がなぜ滅ぼされなければならなかったのかは不明。たまたま機嫌が悪かったからかも。」

「創世19:13で天使たちが“私たちはこの場所を滅ぼそうとしています。ここの住民についての苦情の大きな叫びがエホバに届いたので,エホバはこの町を滅ぼすために私たちを遣わされたのです。”と言っています。天使がスーパーパワーで街を全滅させるのかと思ったら、創世19:24では“そこでエホバはソドムとゴモラに硫黄と火を降らせた。エホバのもとから,天から硫黄と火が降ったのである。”とあります。一貫性がないですね。」
「創世記はいたるところに矛盾がある。複数の話を一つにまとめたからと推測されている。ソドムの話はもともとロトの話とは無関係だったのに、後からロトの話を組み込んだのだろう。それで細部に一貫しないところがある。」

「ソドムの住人が家に押しかけてきた時、ロトは19:8で“私には,男性と関係を持ったことがない娘が2人います。2人を差し出しますから,どうぞいいようにしてください。”と言いますが、後で娘の婿が出てきます。娘が処女とは思えません。」
「その矛盾はJWも気が付いていて、19:14で“娘たちと結婚することになっていた婿たち”と訳している。正しい訳は“婿たち”。これではまずいと思って“娘たちと結婚することになっていた”を勝手に付け加えた。これなら娘たちはまだ処女と解釈できる。JWの訳とはどういうものかよくわかるよね。」

「6節はイエスです。イエスが取り上げられるのはこの節だけです。」
「エホバ教だからね。イエスはどうでもいい存在。」

「7節で“エホバは私たちにも分別がある人になってほしいと思っています。(フィリピ 4:5を読む。)”とあり、引照聖句には“分別があることが全ての人に知られるようにしてください。主はすぐ近くにいます。”とあるのですが、この訳でいいのですか?」
「違うでしょう。“分別がある”というのは英語のreasonableの訳だけど、英語の聖書でreasonableと訳しているのはあまりない。多いのはgentleness(穏やか、寛大、親切)だね。協会共同訳では“寛容な心”としている。」

「分別があるというのは、善悪の判断や、物事の判断などをする能力などを身に付けていることです。知的な能力ですよ。クリスチャンにはそういう能力があることを周りの人にわからせろ、とパウロが言っているとは思えませんね。」
「フィリッピ4:5はこの手紙の終わりの部分で、いわばまとめ。お互い、寛大であれ、他人の失敗を許し、攻撃されても復讐しようと考えるな、ということじゃないの。クリスチャンはそう人たちだと外部の人に知らせることによって、信者の獲得と迫害の回避を狙っている。」

「7節でこのように自問せよと言っています。“私は,分別があり,寛容で融通が利く人として知られているだろうか。それとも,厳しくて頑固な人と見られているだろうか。自分がいいと思う方法を押し付ける傾向があるだろうか。それとも,ほかの人の意見を聞いて,可能なときには合わせるようにしているだろうか”というものですが、JWは“厳しくて頑固な人”で、“自分がいいと思う方法を押し付ける”人ですよ。特に統治体は。」
「自分たちの意見は押し付けるけれど、他人の意見は聞かないね。他の人の宗教を変えようとするくせに、JWがほかの宗教に改宗することや、やめる自由は認めない。」

「8から12節が“状況が変化するとき”です。 JWは状況が変化するというのは、状況が悪化するということの婉曲表現ですね。8節に“次の4つの点を意識するなら順応することができます。(1)現実を受け入れること,(2)将来に目を向けること,(3)良い面に注目すること,(4)人のためになることを行うことです。”とあります。」
「JWはインチキで、楽園が来ないという現実を受け入れ、自分の老後という将来に目を向け、JWをやめた場合に生じる良い面に目を向け、自分のためになることを行う、ということかと思ったら、違うようだね。」

「9節は“現実を受け入れる。”で、“早めに新たな状況を受け入れるなら,それだけ早く喜びを取り戻すことができます”とあります。それなら楽園など来ないという現実をどうして受け入れないのか不思議ですね。」
「JWが真の宗教でも、よい宗教でもないことを受けいれて、さっさとやめると、“それだけ早く喜びを取り戻すことができます”と言いたいね。」

「10節は“将来に目を向け,良い面に注目する。”ですが、“日本に住むクリスティーナというルーマニア人の姉妹”の話です。“自分がいた英語会衆が解散になった時”とあります。お気の毒です。」
「それを期にJWをやめればよいのに、“日本語会衆でベストを尽くし,伝道を頑張っていこうと決意しました。”とある。外国語会衆の解散という組織の衰退がもたらした変化だね。」

「外国人がたどたどしい日本語で伝道する意味があるのですか?まともに会話もできないでしょう。」
「伝道は新しい信者を獲得するためにあるわけじゃないからね。信者を忙しくさせ、社会から孤立させるのが目的。」

「11節は“人のためになることを行う。”ですが、“私たちも状況の変化を経験するとき,ほかの人を助けること,特に伝道を行うことの大切さを忘れないようにしましょう。”とあり、JWにとって、人のためになることというのは“伝道”という迷惑行為しかないことがわかります。」
「体験談では“伝道を忙しく行っていると,ネガティブなことを考える時間は減り”とある。これが伝道の目的。信者の新規獲得なんてどうでもいいようだ。」

「13から16節が“ほかの人の意見を尊重する”です。 ここがこの記事の主な所です。2つのことが取り上げられていて、①服装や髪形と②医療や健康管理です。」
「宗教と直接関係のないところまで口出す宗教はカルトだから、さっさとやめよう。」

「14節が①服装や髪形で、“エホバは服装について細かなルールを作るのではなく,原則を与えてくれています。”とありますが、そうとは言えないと思います。テモテ一2:9が引照聖句としてありますが、“凝った髪形をしたり,金や真珠や非常に高価な服を身に着けたりするのではなく”とあります。これは細かなルールですよ。」
「それをいつの時代でも適用される文字通りのルールと解釈するとそうなるだけ。その時代のある地域の人に向けられたもので、現代には適用されないと解釈すれば、そうならない。」

「JWはこのような聖句を神の定めた永遠の律法として解釈するわけですね。」
「律法主義者だからね。でもそれでは不都合な場合がある。その時は聖書の翻訳を変える。“凝った髪形”とあるけれど、協会共同訳では“髪を編んだり”とあって、こちらのほうが正しい。」

「現代では髪を編むのは普通のことで、それを非難するのは理解されないと考えて、“凝った髪形”に変えたということですね。」
「そうやって聖書をどんどん変えていきながら、聖書は神の言葉ですからその言葉通りにしなければなりませんという。何も知らないのは末端の信者。」

「統治体の老人は高価な時計を身に着けていますね。これは統治体にはこのようなルールは適用されないということですね。」
「統治体が貧乏くさかったら、JWという宗教に対してマイナスのイメージが作られると考えているのだろう。金持ちが尊敬されるアメリカの宗教だからね。」

「14節に“長老たちも,聖書の原則を大切にし,服装や髪形について独自のルールを作ったりはしません。”とありますが、“ステージに上がった時に,聴衆が話の内容よりも服装や髪形に注目するとしたら,考え直した方がいいと思わない?”とアドバイスするよう勧めています。」
「それならステージに上がるようなことは辞退します、と言うのはどうなの?長老に気に入られたって、何かいいことあるの?」

「自分の意思をはっきり言えるような人間なら、JWなんかやっていませんよ。」
「長老ごときに髪形や服装に関するルールを作る権限はありません、個人の自由に対する過剰な介入です、と書くべきだけど、絶対言わないよね。」

「元の英文では、“考え直した方がいいと思わない?”ではなく、“There is a problem with your dress and grooming. あなたの服装と身だしなみに問題がある”と言っています。意味が違いすぎます。」
「細いズボンはダメといった具体的な指示をだすと、その理由を聞かれて、返答に困るだろう。クビになったモリスみたいに、それはゲイの服装だ!と言う訳にはいかないからね。問題があるとだけ告げて、あとは本人に考えさせるようにせよ、という指示なんだよ。そうやって組織のルール通りの服装に誘導していくわけだ。」

「15節が②医療や健康管理です。“特定の治療法や健康法についてどんな意見を持っているとしても,兄弟姉妹の決定する権利を尊重するようにしましょう。”とありますが、これはアメリカで、コロナのワクチンを打つか打たないかで会衆が分裂したことが背景にありますね。」
「アメリカでは統治体がワクチンを禁止しないことに腹を立ててJWを辞めた人がいるくらい反ワクチン感情は強かったみたいだ。」

「JWはだまされやすく、医学的な知識もないので、会衆の誰かが勧めるインチキ療法に金を使う人が多いですよ。それでも、その決定を尊重せよということですか?おかしいです。」
「JWも高齢化が進んで医療に対する関心は高いので、ちょっとした医療問題が大きな対立を生みかねないと、組織は心配しているのだろう。それで個人の決定を尊重しましょうなどと、JWらしくないことを言っている。」

「中にはインチキ健康食品とかを同じ会衆の信者に売りつけて、金儲けしているJWもいます。その決定も尊重するわけですね。」
「信者をインチキ療法から守ろうという姿勢が全くないのがカルトらしくて清々しい。でも、JWの健康問題というと精神疾患だよね。JWはその場合、精神科へ行くのを好まないだろう。インチキ療法を積極的に勧めるのかな?」

「模範的なJWなら、毎日祈って、聖書を読めば、精神疾患なんか治るといいますね。」
「つまり治療なしということ。こんな有害な宗教、早くやめよう。」

「15節には4つの具体的な指示が出ています。その(2)が “自分にとって何が良いかは,各自が考えて「確信している」べきです。(ローマ 14:5を読む。)”ですが、この聖句は健康問題と関係ありませんよ。」
「そこには“ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,ある日がほかのどの日とも同じだと判断します。いずれにしても,各自が考えて確信しているべきです。”とあって、健康問題とは無関係。使えそうな聖句がこれしかなかったということじゃないの。」

「この聖句は安息日の問題を言っているのですよ。」
「ローマにはかなりの数のユダヤ人クリスチャンがいて、彼らは安息日の規定を守っていたと考えられている。ユダヤ人以外の人はそれを理解できないので、意見の対立があった。パウロはどちらが正しいとは言わず、各自の判断に任したということだ。」

「15節の指示(4)は“クリスチャンは愛を示し,自分の権利よりも会衆の一致を大切にします。(ロマ 14:15,19,20)”ですが、引照聖句は食べ物のことを言っていますが、健康とは関係ありません。」
「ローマ14章は食物規定のことを扱っていて、クリスチャンは自由に何を食べるか決めてよいのに、それを受け入れられない人がいることが背景になっている。」

「ローマ14:2に“ある人は何でも食べてよいという信仰を持っていますが,弱い人は野菜しか食べません。”とありますね。“弱い人”は胃が弱い人ではなく、信仰が弱い人という意味ですね。」
「それで会衆には強い人と弱い人がいるわけで、それぞれどうすべきかパウロは指示を与えているけれど、特に強い人が弱い人に配慮するよう求めている。」

「“自分の権利よりも会衆の一致を大切に”というのはカルト宗教がよく言うことですよね。」
「異論を認めない、質問もするな、上からの指示に従えばいい、という宗教が“一致”をいうんだよね。」

「16節が長老に対する指示です。“エホバの聖なる力は,どの長老からも良い決定につながるコメントを引き出すことができるからです。それで,自分が思っていたのとは違う決定になるとしても,聖書の原則に反していないなら,長老団の多数の意見を喜んで支持します。”とあります。多数派に従えということですね。」
「少数の良心的な長老は沈黙を強いられ、多数の無能で良心のかけらもない長老たちの意見が通るのがJWの会衆ということだね。」

「長老には聖なる力が働くというウソ話が出ていますね。ウソも繰り返せば本当になると信じているようです。」
「それはウソというよりタテマエだね。誰も表立ってそれはウソだとは言えない。そのタテマエのおかげで、長老の決定には逆らえない。組織を維持するのに必要なウソなんだよ。」

「最後の17節が“どんな良い結果になるか”です。 “分別を示すなら,たくさんの良い結果を味わうことができます。”と宣言して終わりです。でもJWでいる限り、分別がある人とは思われませんよ。カルト宗教の分別のない信者と思われるだけです。」
「本当に分別があるなら、JWをさっさとやめて、良い結果を味わっているよ。」

#1479 2023年10月13日 15:05:54

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ダニエルの手本から学べること(33)”で、若いJWはダニエルを見倣って、周囲からバカにされても堂々としていようという内容です。」
「“何を学ぶか”には“エホバに仕える若い人たちは,勇気とエホバへの揺るぎない愛が必要となる状況に直面することがあります。創造を信じているということで,クラスメートからばかにされることがあるかもしれません。神を信じ,聖書の基準に沿って生活していることをからかわれることもあるでしょう。”とあるね。JWの若い人は気の毒だね。おとなのJW の何倍も試練に会うわけだ。」

「バプテスマを受けていない人はエホバの証人ではありません。バプテスマを受けていない人はこの記事とは無関係ですよ。」
「親がJWなら、エホバなんかまったく信じていなくても、子どもはJWのふりをしなければならないのが現実でしょう。そうしないと家から追い出される。宗教虐待だ。」

「2節に“実際,ダニエルが20歳ぐらいの時,エホバはダニエルの名前をノアやヨブと一緒に挙げました。”とありますが、これはエゼキエル14:14のことを指しているわけですね。」
「そこには“たとえノア,ダニエル,ヨブの3人が国の中にいたとしても,彼らは自分たちの正しさゆえに自らを救うことしかできない”とある。ここに出てくるダニエルはダニエル書のダニエルじゃないよ。」

「20歳の無名の若者がノアとヨブという伝説的な人物と同列に並べられるわけないですよ。」
「英文ではDaniel may have been only in his late teens or early 20’sとあり、10代後半から20代前半と言っているのに“20歳ぐらいの時”と、いつものテキトウ訳だね。」

「エゼキエル書では28:3に“あなたはダニエルよりも賢い。あなたに解けない秘密はない”とあります。これは28:2に“人の子よ,ティルスの指導者に言いなさい。”とあるように、ティルスの指導者に向けての言葉です。ティルスの指導者がバビロニアに囚われているユダヤ人の青年より賢いと言われても、全く理解できませんよ。」
「エゼキエル書に出てくるダニエルはダニエル書のダニエルじゃなくて、フェニキア人によく知られた神話の人物と考えた方が妥当だと思うよ。」

「つまり、ダニエル書のダニエルはエゼキエル書の謎の人物ダニエルの名前を借りた架空の人物ですね。」
「ダニエル書が書かれたのは前2世紀で、バビロニアとかペルシャが滅びた後の時代に、ダニエルという架空の人物を主人公にして書かれたもの。それが書かれたのは迫害に苦しむユダヤ人を励ますため。」

「4から9節が“ダニエルの勇気に倣う”です。 ダニエルが勇気を示した例が2つ取り上げられます。ネブカドネザル王の見た夢の謎解きです。これが勇気を示した例ですか?」
「4節に“ダニエルは「王のもとに行き,解き明かしをするための時間を願い求め」ました。(ダニ 2:16)これには勇気と信仰が必要でした。”とあるけれど、ダニエルは殺される寸前という状況で、生き延びるために時間稼ぎをしただけ。勇気と信仰がなくても、黙って殺されるわけにはいかないから、同じことをしたと思うよ。」

「5節ではダニエル4章の話を取り上げ、“王はそのメッセージを伝えたダニエルを反逆者と見なし,殺す可能性もありました。でも,ダニエルは勇気を持って伝えました。”とあります。これも勇気が必要ですか?」
「ここでは、王は“私の王国の他の賢人たちは誰も解き明かせないのだ。だが,あなたにはできるだろう。聖なる神々の力を持っているからだ。”と言っている。要するに命令だ。断る方が勇気がいるよ。ダニエルを無理やり勇気の人に仕立てたいだけ。」

「6節がバカバカしいです。“子供の頃,ダニエルは親からよく学んでいたことでしょう。ダニエルの両親はエホバがイスラエル人の親たちに与えていた指示に従い,子供に神の律法を教えたに違いありません。”と、空想を書いています。ダニエルの子ども時代など誰も知りません。」
「“違いありません。”が出た時は、単なるご都合主義的な推測ということだね。」

「要するにJWの親は自分の子どもをしっかり洗脳しろと言いたいわけですね。」
「それを直接言うと問題になるので、ダニエルを持ち出して、都合の良い話を作ったわけだ。」

「7節では“私たちと同じように,ダニエルも生まれつき勇気があったわけではありません。でも,神の言葉を調べ,祈り,エホバに頼ることによって勇気を示すことができました。”とあります。JWの若者も同じようにしなさいということですね。」
「8節で具体的に指示しているよ。“ダニエルのように神の言葉をよく知るようにする必要があります。祈りによっていつでもエホバに話し掛けるようにし,エホバとの絆を深めていくことも大切です。エホバの支えを確信し,エホバを信頼しましょう。このようなことを行っていくなら,信仰が試される時に勇気を持って行動することができます。”この節はいらないね。7節の繰り返しだ。」

「9節は体験談です。ドイツの話ですが、“ある日兄弟は,どうして自分が創造を信じているのかをクラスの前で話す機会がありました。勇気を出して自分の信条を話した結果,どうなったでしょうか。こう言っています。「先生はよく聞いてくれました。そして,話すために準備していた資料をコピーしてクラス全員に配ってくれました」。クラスメートの反応はどうだったでしょうか。「みんな,一つの考え方として受け入れてくれて,褒めてもくれました」と兄弟は言っています。”とあります。ドイツの先生も生徒は実に素晴らしいですね。」
「嘘くさい話だ。そういうことがあったとしても、それは例外中の例外でしょう。」

「この話を真に受けて、自分も学校で同じように証言しようなどというバカは日本にはいないと思います。」
「この体験談ではJWでない生徒はJWのばかげた話をまじめに聞いて評価してくれたわけだけど、JWはそういうことは絶対ないよね。JWは自分たち以外は悪魔の手先と見下して、JW以外の人の意見を“一つの考え方として受け入れ”ることも褒めることもない。JWとJW以外の人を較べたら、どちらが素晴らしい人たちか、明らかだね。」

「10から16節が“ダニエルの揺るぎない愛に倣う”です。 ダニエル書6章の話が出てきます。ダニエルがライオンの巣に投げ込まれるという話ですが、これって愛の物語ですか?」
「よくある宮廷物語だね。成功した家臣が妬まれて、苦境に陥るが、奇跡が起こりハッピーエンド。悪者にされるのは家臣で、王は善意の人として描かれ、政治問題にならないように配慮している。愛とは関係ないよ。」

「ダニエル書6章では、“30日の間,王以外の人や神に請願をしてはならず,背いた者はライオンの穴に投げ込まれる,という禁令”が制定されたことになっていますが、こんな史実はあるのですか?」
「ないよ。創作。お話だよ。」

「10節に“聖書の中で「揺るぎない愛」と訳されているヘブライ語は,温かくて変わらない愛情という考えを伝えています。”とありますが、英文では“loyalty,” or “loyal love,”です。”忠誠”あるいは”忠実な愛”ですよ。それを”揺るぎない愛”と訳するのはヘンですよ。」
「ここで取り上げられているヘブライ語は、聖書の中では200回以上も出てくるごく普通の単語で、それを” 揺るぎない愛”と特別な単語であるかのように訳するのはヘンだね。」

「引照聖句のサムエル二9:7では、ダビデがヨナタンの息子に“私は必ずあなたに揺るぎない愛を示します。”となっていますが、不自然な訳ですね。協会共同訳では“あなたに誠意を尽くそうと思う。”となっています。」
「JWは旧約聖書中心の宗教だけど、旧約は愛が乏しい。それでは信者獲得に不都合と翻訳者は考え、翻訳の際に“揺るぎない愛”なんて言う言葉を採用して、愛を増やしているのだろう。」

「11節に“その結果,ライオンの穴に投げ込まれましたが,エホバはダニエルの揺るぎない愛に応えてライオンの口から救い出しました。(ダニ 6:12-15,20-22)”とありますが、そんなことは聖書の中に書かれていません。」
「ダニエル6:23には“引き上げられたダニエルは,全く無傷だった。自分の神を信頼したためである。”とあるよ。“揺るぎない愛”じゃなくて“信頼”だよ。とにかく愛を水増ししたいということだね。」

「11節に“バビロンはメディアとペルシャによって征服され”とあります。歴史書にはバビロン征服でメディアなんか出てきません。なぜJWはメディアにこだわるのですか?」
「聖書にメディアが出てくるからでしょう。ダニエル8:3に“目を上げると,1匹の雄羊が水路の前に立っていた。それには2本の角があった。2本の角は長かったが,一方が他方よりも長く,長い方は後から伸びたものだった。”とあって、これはメディア―ペルシャ二重強国を表すとJWの解釈だから、メディアは無視できない。」

「史実としては、メディア王国は前550年頃キュロスによって滅ぼされたことになっています。メディア―ペルシャ二重強国なんて作り話です。」
「メディア人は文書による記録を残していない。文字がなかったと思われる。文字もないのに広大な王国は維持できないよ。それで、一部の専門家は強大なメディア王国など存在しない、とさえいっている。メディア王国に関する資料は皆外国人の残したもので、その信ぴょう性は何とも言えない。」

「JWが想定している、広大な範囲を支配した統一国家メディア「王国」はヘロドトスをはじめとした古代ギリシア人の著作家の記録にのみ登場するのですよね。ダニエル書はギリシア時代に書かれたものなので、ギリシア人の見解をそのまま受け継いだだけですよ。」
「そういうわけで、メディア王国とは古代ギリシア人の想像の産物に過ぎず、その実態はイラン系遊牧民の部族連合のようなものであったとする見解もある。」

「12節に“こうして,エホバへの揺るぎない愛はどんどん強くなっていきました。”とありますが、英文ではDaniel undoubtedly developed that loveです。undoubtedlyを訳していませんよ。」
「undoubtedlyは疑う余地のないほど確実だ、という意味。これを訳すると、また根拠のないことをあたかも真実かのように言うことになり、翻訳者は避けたのかも。」
「ちゃんと訳すれば、“こうして,エホバへの揺るぎない愛は疑いもなくどんどん強くなっていったに違いありません。”ですね。」
「翻訳者はJWによくある空虚な強弁に嫌気がしたのかも。」

「13節に“神を信じているという理由で,嫌われたりいじめられたりするかもしれません。”とあります。違いますよ。」
「JWが嫌われるのは、神を信じているからではないね。思想や行動に問題があるからだよ。」

「元の英文はSuch people may dislike anyone who claims to love God.で、神を愛していると主張する人を嫌うかもしれません、です。それをなぜ単に”神を信じている”と変えたのでしょうか?」
「日本人で神を愛していると主張する人はいないからでしょう。特にエホバなる神は愛の対象ではないよ。それで“神を信じている”に変えた。」

「英文ではSome even try to bully our young ones into breaking their loyalty to Jehovah.(若い人たちをいじめてエホバに対する忠誠を破らせようとする人さえいます。)とあるのに、” こういうとき,エホバへの愛が試されます。”とまともに訳していません。」
「周囲の人から迫害されるJWというわけだけど、これはあまりにも被害者意識丸出しで、翻訳者は恥ずかしかったのか、若い人に迫害の恐怖をあおるのを避けたかったのだろう。」

「13節には体験談が出ています。オーストラリアの高校の話です。“ある授業で先生は,友達から同性愛者であることを打ち明けられたらどうするか,とみんなに尋ねました。そして,同性愛を一つのライフスタイルとして受け入れる人は教室の片側に,そうでない人は反対側に立つように,と言いました。兄弟はこう言います。「クラスの中で同性愛を支持しなかったのは,私ともう1人のエホバの証人の子だけでした」。”こんな授業ってあるのですね。」
「13節の上にその様子をあらわした写真がある。すごい悪意のある写真だ。JWはおとなしそうな高校生で、それを非難している高校生は野蛮で攻撃的な人物として描かれている。本当に野蛮なのは宗教原理主義者で差別主義者のJWの方だよ。」

「13節では“穏やかな態度で自分が信じていることについて頑張って説明しましたが,全然聞いてもらえませんでした。”とありますが、この差別主義者のJWはどのように同性愛差別を正当化したのでしょうか?」
「恐らく“大昔に書かれた聖書という本に同性愛者は死刑と書かれています。レビ20:13です。僕はそれを神の言葉と信じています。ですから同性愛者は殺すべきです。でも僕は殺しません。愛ある神が間もなくそのような罪深い邪悪な人間を全員滅ぼしてくれるからです。滅ぼされたくなければ、JWのバプテスマを受け、アメリカのニューヨークに住む統治体のおじいさん達に絶対服従し、伝道、集会、建設、寄付を一生懸命しなければなりません。さらに大学は悪魔の住処なので進学してはならず、輸血は聖書の教えに反するので拒否しなければなりません。”と穏やかな態度で言ったんだよ。当然誰もまじめに聞かないね。」

「14節で“エホバへの愛や敬意を深めたいと思うなら,「だれかが設計?」のシリーズの記事やビデオを見ることができます。「生命 ― どこから?」や「生命の起源 ― 5つの大切な質問」の冊子を読むこともできるでしょう。”とあります。あれは読むに耐えないです。」
「組織の言うことを鵜呑みにしてはいけないという良い例だね。あれは無知無学でだまされやすい人を対象にしたものでしょう。そういう人はいつの時代でも一定の割合でいるからね。」

「14節では“説明が論理的ですごくいいと思います。”、“命の源は神だと確信できました。”と信者の感想がでていますよ。だまされやすい人たちです。」
「実際はThe reasoning is fantasticといっている。”論理的”とは言っていない。また2つめはIt proved to me that God created life.なので、”確信できました”ではなく、”証明されました”と言っていて、もっと狂信的。」

「15節でイエスを取り上げます。キリスト教のふりをするためですね。イエスはダニエルよりも格下ですね。」
「でも“イエスを通してエホバのことがもっとよく分かるようになりました。”とあるよ。やっぱりエホバ教だね。」

「17,18節が“ダニエルからさらに学ぶ”です。 来週の予告です。“次の記事では,ダニエルが記録した2つの預言に注目します。”とあります。楽しみですね。」
「北の王のロシアの話だったら面白い。プーチンはどうなるのか聖書から預言して欲しいね。」

#1480 2023年10月20日 14:43:21

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“聖書の預言から学べること(34)”で、JWの聖書解釈をそのまま信じて、組織の言いなりになりなさいという内容です。」
「ダニエル書の鉄と粘土の足と北と南の王の解釈が出てくるけれど、この解釈は今まで何度も変わってきた。ここに書かれていることも、いずれ変わるから、読む必要ないでしょう。」

「3から6節が“聖書の預言を調べるべきなのはどうしてか”です。 4節に“それで,私たちが重要な出来事について前もって知ることができるように,聖書に預言を記録させました。(イザ 46:10)ですから,聖書の預言はお父さんエホバからの愛のこもったプレゼントだと言うことができます。”とあります。何を書いてあるかよくわからない本をプレゼントされても、うれしくないですよ。」
「ダニエル書が書かれたのは2000年以上前。ダニエル書が21世紀のことを預言しているのなら、そんなに早く預言する必要がないね。ちょっとプレゼントをくれるのが早すぎる。」

「聖書の預言は本当はそれが書かれた時代か、せいぜい次の時代にむけて書かれたものですよ。」
「ダニエル書だとほとんどが事後預言。過去のことを預言の形で書いているだけ。でも作者の歴史的知識は不十分で過去についても間違いがある。」

「JWの解釈もほとんどが事後解釈ですよ。北の王=ロシアだって、150年前から言っていたのならまだしも、最近ですからね。」
「150年前から言っていたのは、間もなく終わりがくるということ。JWの“間もなく”は少なくとも150年以上の期間をあらわすようだ。」

「5節に、JWに疑問を持ったマックス兄弟は“聖書の預言を自分でも調べ,学んだことを会衆の若い兄弟姉妹と話し合いました。その結果どうなったでしょうか。「聖書は神からの本だと確信できるようになりました」と言っています。”とあります。もう少し頭が良ければ、JWのおかしさに気づいたのに残念です。」
「“自分でも調べ”とあるけれど、JWの出版物を調べただけでしょう。それから同じ信者同士話し合ったら、組織の言いなりになるだけ。」

「どんなバカげたことでも、それを信じている者だけで話し合ったら、バカげたことという結論には絶対なりませんよ。ますます正しいと確信してしまいます。疑いを持っていても、口に出したりはしませんよ。」
「それで疑問を持ったら仲間の信者に相談することを推奨しているわけだ。本当に終わりが間もなく来るのでしょうか?と仲間の信者に尋ねると、100年以上待っているのですから、そろそろ来ますよ、と笑顔で答えてくれるわけだね。」

「6節に“聖書には本当のことが書かれているんだろうか,と疑いの気持ちが芽生えたとしても,自分を責めないでください。”とあります。これは疑問を持つことは悪という思想をほのめかしていますね。」
「6節で“疑いはさびのようです。放っておくと,大切な物が徐々に駄目になってしまいます。”と言っている。違うよ。疑いは間違いに気づくきっかけとなるもの。盲信こそ危険なこと。疑いの芽を大きく伸ばして、より正しい考えに近づいて欲しいね。」

「7から11節が“どのように調べるとよいか”です。 3つのことが出ています。①正しい動機、②謙遜な態度、③注意深く調べる、です。精神論ですね。もっと具体的な方法を教えるべきですよ。」
「③は英文ではthoroughで”完全な、徹底的な”という意味だよ。勝手に”注意深く調べる”に変えていいのかな?」

「7節では、ダニエルを模範として取り上げていて、“さらに,ダニエル は注意深く調べました。当時手に入れることができた聖書をよく調査しました。(エレ 25:11,12。ダニ 9:2)”とあるのですが、引照聖句のダニエル9:2には“その年に,私ダニエルは書物を調べ,エルサレムの荒廃が終わるまでの年数を知った。”とあります。“その年”とは9:1によれば“アハシュエロスの子ダリウスの治世の第1年のことである。(ダリウスはメディア人の子孫で,カルデア人の王国の王とされた。)”と説明しています。でもこんなダリウス王は存在しません。」
「ダニエルは書物はよく調べたけれど、歴史は調べていなかったということだね。」

「8節は“自分の動機をよく考える。”で、“あなたは,真理を知りたいという強い願いを持って聖書の預言を調べていますか。もしそうなら,エホバは助けてくださいます。”とあります。ということは、預言を外しまくっているし、解釈もコロコロ変わるJWはエホバの助けを受けていないということですね。」
「誰もがそう思うね。」

「8節に“ある人は,聖書が神からの本であることを否定する証拠を探そうとします。”とあるのは被害妄想じゃないですか?」
「これは笑えるね。聖書の作者は科学的知識の乏しく、差別的で偏見に満ちた人間だということは一度読めば明らかだよ。わざわざあら捜しをする必要はないでしょう。そうではなくて“神からの本”だと主張するなら、そう主張する側がその証拠を示すべき。」

「9節は“謙遜である。”です。ここがこの記事で最大の問題個所です。聖書の預言を理解するには、“また,信仰を強める食物をふさわしい時に与えるために,エホバが忠実な奴隷を用いていることを認める必要もあります。(ルカ 12:42)エホバは秩序を大切にする神なので,ただ一つの経路を用いているというのは筋の通ったことです。(コリ一 14:33。エフェ 4:4-6)”とあります。引照聖句は、神は“ただ一つの経路を用いている”とは書いていません。」
「それはJWの教義にすぎない。要するに、統治体以外の者は聖書解釈をするな、ということだね。聖書解釈の独占権を主張しているね。カルト宗教だね。」

「10節が“注意深く調べる。”です。ある姉妹の体験談で、“「15歳の時,こうした預言が本当にイエスの時代よりも前に書かれたのか,証拠を調べてみることにしました」。姉妹は,死海写本についての資料を読んで確信が深まりました。こう言います。「そうした写本の中には,イエスの時代よりも前に書かれた物が含まれているので,聖書の預言は間違いなく神からのものだと思いました」。”とあります。“死海写本についての資料”といってもJWの出版物に書いてあることを読んだだけじゃないですか?組織はJW以外の本を読むことは勧めていませんよ。」
「死海写本がイエスより前の時代となぜ信じられるのかな?JWではない研究者が年代測定をしたのだよ。その年代測定を信じるわけだ。」

「研究者は人類の始まりは6000年ほど前ではないと言っていますし、ノアの洪水が起きたとされるよりも古い遺跡が残っていると言っています。死海写本の年代測定を正しいと判断するなら、当然これらのことも正しいと判断すべきですよ。」
「専門家の意見は自分にとって都合がよい時だけ尊重し、そうでない場合は難癖をつけて無視するのがJW。」

「それから“イエスの時代よりも前に書かれた物が含まれているので,聖書の預言は間違いなく神からのものだと思いました。”という理屈が全く分かりません。福音書の作者は旧約聖書に書かれていることを知っているわけです。旧約の預言が実現したように福音書の作者が書いただけじゃないですか?」」
「特にマタイは旧約聖書に書かれていることに合致するようにイエスの生涯を描いている。預言が実現したと福音書に書いてあった場合、そう思わせたい人間が福音書を書いたからとは全く考えず、いきなり“神からのものだ”という飛躍した結論に飛びつくわけだ。」

「12から14節が“鉄と粘土でできた足”です。 今まさに実現している預言の例だそうです。12節には“ダニエル書や啓示の書のほかの預言と併せて考えると,この足の部分は,今大きな力を持っている英米世界強国を表していることが分かります。”と断定していますが、こんなことを言っているのはJWだけです。」
「聖書に書かれていることは現代を預言しているという結論から逆算して、英米世界強国という奇妙なものを造り出したのだろう。ダニエル書2章に出てくる王国は全て古代に存在していたユダヤ人にとって敵である王国のことで、当時存在していない英米を指すわけがない。」

「JWの解釈では、ダニエル書2章の巨像はバビロン→メディア・ペルシャ→ギリシャ→ローマを指していて、足の部分が英米を指すというもののようですね。」
「それだったら第5の王国について述べていることになるけれど、そんなことは書かれていない。4つの王国だよ。第5の王国を想定しないと現代につながらないから、無理矢理そう解釈しているだけ。」

「12節に“この世界強国は鉄のように強いとはいえ,軟らかい粘土で表されている一般の人々によって力を弱められています。”とあります。粘土があらわしているものは、昔は労働者階級とか社会主義者とか、各時代の目立つ反政府グループを挙げていました。それが今は“一般の人”になったわけです。いいかげんな預言解釈の典型ですね。」
「各時代の状況を見て、○○は何をあらわしていると言っているだけ。だから時代とともに変わる。」

「13節で“2つ目に,この世界強国は神の王国が人間の政府全てを終わらせる時まで支配を続けるという点です。たとえ対抗する国が現れるとしても,そうした国がこの世界強国に取って代わることはありません。”とあります。今が歴史の終末ということを言いたいのですね。」
「アメリカ人のJWに安心感を与えるという意図もあるかも。ロシアや中国などがアメリカと対立しているわけだけど、アメリカが勝つから心配するなと言っているのと同じ。」

「14節では、“あなたは,鉄と粘土の足に関するダニエルの預言が実現していることを確信していますか。もしそうなら,それはあなたの生き方に影響を与えるはずです。”と断定し、信者への正しい生き方について指令が続きます。」
「こんなことを確信できる人は知性の点で問題があるね。JWの過去の実績を見れば、この解釈もいずれは変更される、と確信できるよ。」

「信者への指令は“もうすぐなくなってしまうお金や物に頼ることはしないでしょう。”と“伝道したり教えたりすることの大切さを意識することもできます。”というものです。仕事をせずにJW活動に全てを捧げよ、ということです。だまされやすい人の人生を破壊する危険な宗教です。」
「“伝道したり教えたりすることの大切さを意識する”というのはタイミングが悪いね。奉仕時間の報告をやめたわけだけど、これは伝道することの重要性を意識することにはならないよ。言うこととやることが一致していないね。」

「15から18節が“「北の王」と「南の王」”です。 15節には“「北の王」はロシアとそれを支持する国々,「南の王」は英米世界強国を表していることが分かります。”と断定していますが、全くわかりませんね。」
「この解釈もいろいろ変わって来て、今はこうだというだけ。10年後はロシアがすっかり衰退していて、北の王は中国ですと言っているかも。まじめに受け取る必要はないでしょう。」

「16節では“「北の王」が支配している地域に住むエホバの証人は迫害を忍耐しています。”と言ってから、“神に仕える人たちに対する迫害はダニエルの預言が実現していることの証拠だと理解しているからです。 (ダニ 11:41)”と言っています。」
「引照聖句は“『美しい地』にも入り,多くの国が倒れることになります。”とあって、“美しい地”はエホバの民の活動を指していて、この聖句はエホバの民が迫害を受けることを意味しているというのがJWの解釈なんだ。」

「ひどいこじつけですね。」
「そもそも北と南の王の話はダニエル書が書かれた時代の話で、現代に適用すべき預言じゃないよ。細部を全く無視して、都合の良いところだけ取り上げて、これは○○を指しています、と言っているだけだね。」

「17節は南の王についてなのですが、“選挙活動が行われていると,ある政党や候補者を支持したいという気持ちになるかもしれません。投票に行くことまではしなくても,心の中で支持してしまうということがあるでしょうか。行動だけでなく考えや気持ちの面でも中立でいるのは,本当に大切なことです。”と政治的中立を強調しています。でも“考えや気持ちの面でも中立”は無理でしょう。」
「まさしくマインドコントロールだね。」

「これはアメリカの信者向けですよね。アメリカではキリスト教右派と呼ばれる政治家がいますからね。」
「そういう政治家たちは、妊娠中絶、同性愛、学校で進化論を教えること、男女平等などに反対し、保守的なキリスト教道徳を支持する。JWとしては自分たちと価値観が近いそういう候補者を“心の中で支持してしまう”わけだね。」

「19,20節が“これからも預言に注意を払う”です。 19節で“私たちは,聖書の預言がどのように実現するかを完全に理解しているわけではありません。”とあります。その割には、この記事でも偉そうなことを書いてきませんでしたか?」
「英文ではWe do not know how some Bible prophecies will be fulfilled.で、”完全に理解しているわけではない”ではなく、単に” We do not know 知らない”と言っている。翻訳者は”知らない”とは、とても恥ずかしくて書けなかったのだろう。」

「これは保険なんでしょうね。」
「いずれ生じる解釈変更に備えているわけだ。We do not knowという表現は最近増えている。しかしこんな統治体でも、その命令には絶対服従ということは変わらない。」

「19節に“エホバはこれまで,必要な情報をぴったりのタイミングで明らかにしてきました。”とあるのも解釈変更に備えた保険ですね。」
「あの時の解釈はタイミングが悪かったと言い訳して、別の解釈をこれこそ、グッドタイミングの真実ですと何の謝罪も反省もなく言うわけだね。それがミエミエなのが情けないね。」

「20節は、現在のJWの終末シナリオが出ています。“間もなく,「平和だ,安全だ!」という宣言が行われます。(テサ一 5:3)世界の政治勢力は間違った宗教を攻撃し,一掃します。(啓 17:16,17)そして,エホバに仕える人々を攻撃します。(エゼ 38:18,19)その後,最後の戦いであるハルマゲドンが始まります。”とあります。バカバカしいですね。」
「JWの“間もなく”は150年以上の年月を指すようだから、150年後にはこんなことが起きるかもね。」
「今は平和・安全宣言なんて出る世界情勢じゃないですよ。それでも、今は終わりの終わりの最後の瞬間と統治体の老人は言い続けるのでしょうね。」

#1481 2023年10月27日 14:41:15

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“辛抱強い人になりましょう(35)”で、JWは死ぬまで辛抱の連続だけど、それに耐えなさいという内容です。」
「もうすぐ楽園が来るんじゃなかったの?あと少しの辛抱という記事じゃないのね。」

「2節に“エホバが約束している新しい世界が来るのを待つのが難しいと感じるかもしれません。もっと辛抱強い人になれたらいいのに,と思うことがありますか。”とあります。もう十分辛抱しましたよ。これ以上辛抱するのは無駄ですよ。」
「英文ではWould you like to be more patient?で、もっと辛抱してみませんか?と言っているよ。もっと我慢し耐えなさい、という指令だ。」

「3から6節が“辛抱強い人とは”です。 4つの特徴が挙げられています。3節に①“辛抱強い人はすぐに怒りません。”とあります。」
「3節に“エホバはまさにそのような方です。”とあるのは間違いだよ。旧約聖書の神はすぐ怒り、人を殺そうとする。サムエル二6:6-7に“しかし,ナコンの脱穀場まで来た時,牛が真の神の箱をひっくり返しそうになったため,ウザは手を出してそれをつかんだ。するとウザに対してエホバの怒りが燃え,真の神はその場でウザを打った。”とある。ウザに対して怒りを燃やして殺す神が辛抱強いわけないよ。」

「出エジプト4章で、モーセが“お許しください,エホバ。どうか,あなたが遣わしたいと思われる別の人を遣わしてください。”と言ったら、“するとモーセに対してエホバの怒りが燃えた。”とあります。辛抱強くありません。」
「民数記11章では、肉を食べたいといった人に対して、ウズラを与えてくれたけれど、“しかし,肉を口に入れて食べている間に,民に対してエホバの怒りが燃え,エホバは民を打ち始め,非常に大勢の人を滅ぼした。”とある。せめて、食べ終わるまで待てなかったのかな?全く辛抱強くないよ。」

「4節は②“辛抱強い人は穏やかに待つことができる。”です。5節は③“辛抱強い人は慌てて行動しない。”です。6節は④“辛抱強い人は,ネガティブなことばかり言わずに試練を忍耐しようとする。”です。こうみるとJWには辛抱強い人は多いと思いますね。」
「普通の人なら、楽園がクルクルとだましたなと、怒り、興奮し、慌ててJWをやめて、JWの悪口を言いまくるね。JWほど辛抱強くないね。」

「多くのJWは怒ったり、興奮したり、行動したりするような元気がないだけです。」
「多くのJW はとっくの昔に諦めているので“穏やかに待つことができる”し、年取って疲れ切っているので、“慌てて行動”したくてもできないし、不平を言うといじめられるので“ネガティブなことばかり言わずに試練を忍耐しようとする”ということだね。」

「7から9節が“辛抱強さが大切なのはどうしてか”です。 7節で“これまでエホバに忠実に仕えた人たちと同じように,私たちもエホバが約束を果たされるまで辛抱強く待つ必要があります。”と言っています。要するに、エホバがいつまでも何もしないので、辛抱強く待ち続けないといけないわけです。」
「のんびり待つのならいいけれど、7節には“私たちも「主がどの日に来るかを知」りませんが,クリスチャンとしての活動を忙しく行います。”とあって、組織のために無給で働き続け、寄付までしなくてはならないようだ。過酷な人生だね。」

「JWは“主がどの日に来るか”は知らなくても、どの年に来るかはわかるという立場じゃないですか?それで過去色々な年を挙げてきたのですよ。」
「1975年とかね。でも全部外れた。どの年に来るかもわからないね。」

「7節に“もし辛抱できなくなるなら,待つことに疲れ,エホバから少しずつ離れていってしまうかもしれません。”とあります。人間でもこの程度は推測できます。神なら当然わかるはずですよ。」
「わかっているのに何もしないなら、早く約束を果たさない神の方が悪いね。こんな神なら人間から見捨てられることぐらいを理解しているよ。神はそれでいいと思っているんじゃないの。」

「9節で“辛抱強さは,良い決定をするのに助けになります。せっかちになったり衝動的に決めたりするのではなく,時間を取って調査し,選択肢をよく考えましょう。(格言21:5を読む。)”とあります。引照聖句には“勤勉な人の計画は必ず成功につながり,せっかちな人は必ず貧乏へと向かう。”とあります。辛抱強さのことは出ていませんよ。」
「勤勉と辛抱強さを同じものと見ているのかな?勤勉というのは仕事や勉強を一生懸命励むこと。JWは辛抱強いけれど、だらだら奉仕活動をするだけなので、勤勉ではないよ。」

「“時間を取って調査し,選択肢をよく考えましょう。”と本当に勧めていいのですか?信者が本当にJWという宗教に対してそうしたら、ほとんどがJW以外の選択肢を選びますよ。」
「そういう調査はJWに対してはなされない。それをすべきなのは“仕事を探している場合”だね。“通勤時間や勤務時間,家族やクリスチャンとしての活動への影響などをじっくり考えます。確かに,辛抱強さは良くない決定を避ける助けになります。”とある。」
「そんなことを言っていたら、選択肢はほとんどないですよ。」
「JWには人の嫌がる低賃金の仕事という選択肢があるじゃないか。」

「10から16節が“どうすればもっと辛抱強い人になれるか”です。 3つの方法が出ています。まず10節に①“祈る”が登場します。」
「祈りはなんにでも効く万能薬ということになっているからね。ここでも登場するわけだ。」

「11節は②“聖書中の例をじっくり考える。”です。聖書中の人物から学ぶというのがJWのお決まりのやり方です。11節ではエホバを取り上げます。“エデンの園で,サタンはエホバの名前を傷つけました。エホバが公正で愛情深い統治を行うことに疑問を差し挟んだのです。でもエホバは,サタンをすぐに滅ぼすことはしませんでした。”とあります。すぐ滅ぼすべきでしたよ。」
「これはJW神学だね。エデンの園の話をJW流に拡大解釈して、なぜ神は悪に対して傍観しているのかという問題に答えようとしている。傍観しているだけの神様を一生懸命弁護しているわけだ。」

「12節では“さらに,もっと多くの人が永遠の命を得られるようにも辛抱してきました。(ペテ二 3:9,15)そのおかげで何百万人もの人がエホバを知るようになっています。”と、楽園が来ないことの言い訳をしています。」
「この理屈が正しいなら、楽園は永遠に来ない。」

「13節はイエスが登場です。” イエスはいろいろな試練を経験しましたが,文句を言うことなく忍耐しました。”とあるのですが、これは、JWは児童性的虐待を隠ぺいしているとか、体罰や排斥制度に関して嘘をついている、と非難されても、反論せず黙っていろという指示ですね。」
「カート奉仕は国によってはかなり危険みたいだ。暴言を吐かれたり、カートを壊されたり。そういう目に遭っても、イエスのように忍耐せよ、ということ。」

「13節には“それで聖書は,敵対的な言葉を言われてもじっと 耐えたイエスのことをよく考えるように,と勧めています。(ヘブ 12:2,3)”とあり、引照聖句に“罪人たちは自分に害を招く敵対的な言葉を語り,イエスはそれを忍耐しました。”とあるのですが、この翻訳は正しいのですか?」
「協会共同訳は“罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。”だね。“敵対的な言葉”なんてないね。もちろん、元のギリシャ語にもない。」

「JWがよく伝道中に敵対的な言葉をぶつけられるので、それに合わせて、イエスは“敵対的な言葉”に忍耐したように創作したわけですね。」
「それから“自分に害を招く”というのは意味がよくわからない部分で、協会共同訳ではその部分を省略している。つまり翻訳の際に意味が通るように省略することもあるということ。」

「14節が一番腹が立つところです。“思っていたより終わりが来るのが遅いとか,自分が生きている間に終わりを見ることはできないかもしれない,と考えることがありますか。”とありますが、元の英文とだいぶ違います。」
「What if our expectations about the end have not yet been fulfilled? Maybe we expected the end to come long ago. We may fear that we will not live long enough to see it.だから、”終わりについての私たちの期待がいまだに満たされていないことについてはどうでしょうか?おそらく私たちはずっと前から終わりが来ることを期待していたかもしれません。私たちは終わりを見ることができるほど長く生きられないと恐れているかもしれません。”だ。」

「ずっと前に終わりが来ると多くのJWは思っていましたよ。それは個人の責任ですか?信者の誤解ですか?違いますよ。」
「そう期待するように仕向けてきたのは組織だね。散々あおっておきながら、何も生じないと、個人が勝手に過大な期待をしたことにするのが組織のやり方。悪いのは信者だ、反省しろ、と責任をすり替えているわけだね。」

「記事のこの部分は年取ったJWに向けですよ。そういう老いたJWは常に終わりが間もなく来ると叩き込まれてきたわけです。それで新型コロナウイルスの問題が起きた時、ついに終わりの時が来たと興奮しすぎた老いたJWはけっこういたみたいです。彼らは今や失意の中に沈んでいますよ。」
「それで組織は自分たちの過去の発言をなにも反省もせず、辛抱強くあれ、と信者にありがたい教えを説いてくれているわけだ。」

「14節ではアブラハムを取り上げて、“私たちもエホバの約束全てが実現するのを今すぐに見ることはできないかもしれません。”と弱気なことを言っています。今は終わりの終わりだから、間もなく終わりが来ますと断言して欲しいですね。」
「こんな弱気じゃ、信者は増えないよ。外れるとわかっていても、終末論をぶちかまして、恐怖をあおり、だまされやすい人をどんどん信者にしないと、JWの未来はないよ。」

「14節ではアブラハムについて“アブラハムが75歳でまだ子供がいなかった時,エホバは「私は,あなたから偉大な国民が生まれるように[する]」と約束しました。(創 12:1-4)”とあります。アブラハムは75歳の時ハランを去った、と引照聖句にありますが、これは創世記11章とは一致しないのですよね。」
「11:26に“テラが70歳になってから,アブラム,ナホル,ハランが生まれた。”とあり、11:32に“テラは205年生き,ハランで死んだ。”とある。テラが死んだとき、アブラハムは135歳。そして使徒7:4で“そして神はアブラハムを,彼の父の死後,あなた方が住んでいるこの土地に移住させました。”とステファノが言っている。ということは、アブラハムがハランを去ったのは135歳以上のとき。75歳ではないね。」

「16節が③“どんな良い結果になるかを考える。”です。“辛抱強くあるなら,もっと幸せで穏やかな気持ちになれます。”とありますが、辛抱強いだけで幸せにはなれません。」
「JWだと無理だね。今のまま辛抱しても、状況はさらに悪くなり、もっと早くやめていれば、と後悔の気持ちに押しつぶされながら、失意のうちに死亡するという結果が目に見えているよ。」

「最後の17節では“辛抱強い人になることを目指して,これからも努力し続けていきましょう。”と締めくくります。」
「忍耐と服従が大好きな人はJWに向いているということだね。そうじゃない人はJWに向いていないので、さっさとやめよう。」

#1482 2023年11月03日 13:53:52

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“大切な荷物は持ち,余分な荷物は捨てる(36)”で、JWとしての責任は絶対果たせ、それ以外の責任は気にするな、という内容です。」
「一般の伝道者は奉仕時間を報告しなくてよくなったけれど、あれは余分な荷物だったんだね。奉仕時間をでっち上げる負担から解放されてよかったね。」

「1節に“ゴールはすぐそこまで近づいているので,私たちはベストを尽くして走り続ける必要があります。”と言っています。これを素直に信じる信者がどれくらいいるか気になります。」
「英文では“ゴールはすぐそこまで近づいている”とは書いていないよ。the finish line is closer than everなので、“ゴールはこれまで以上に近づいている”と、当たり前のことを書いているだけ。日本語訳は詐欺的だね。」

「統治体のレットが今は終わりの時代の最後の最後ですと言ったのが2020年です。それから3年もたちましたよ。」
「組織は大規模な建設計画を予定している。完成まで相当かかる。まもなく終わりの日が来るなんて思っていないよ。」

「1節で“「あらゆる重荷……を捨て,参加している競走を忍耐して走りましょう」。(ヘブライ 12:1を読む。)”とあるのですが、この重荷というのは余計な体重のことですよ。」
「重荷と訳されているギリシャ語はアスリートがトレーニングによって減らそうとする過剰な体重を指すために使用された単語。つまり贅肉だね。比ゆ的には誇りや慢心を指していると思うね。」

「そうすると贅肉だらけの肥満体が多い統治体にとっては不都合なので、そのことには触れないわけですね。」
「重荷の次には“すぐに絡み付く罪を捨て”とあるけれど、これは走ると足に絡みつく服をイメージした表現。体重を落とし、余計な服は脱いで走れということだね。これも高級スーツを好む統治体には不都合なので飛ばしたね。」

「4から9節が“負うべき荷”です。重荷を捨てろという話なのに、まずは負うべき荷物が登場するというのは、JWらしいですね。」
「信者に際限なく負担を負わせる宗教だからね。」

「負うべき荷が3つ出ています。4節が①“献身の誓いを守る。”です。右も左もわからない子どもの時に献身させて、それを一生負わせるつもりですね。JWをやめることは許さないぞということですね。」
「やめることを罪悪視させる宗教はカルトだね。良い宗教なら、誰でも宗教はやめたい時に辞める権利があると教えるべきだよ。」

「“献身に沿った生き方をすることには大きな責任が伴いますが,重荷ではありません。”と言っています。事実に反します。重荷そのものです。」
「ここで言いたいのは重荷と感じる信者がいたら、それは組織ではなくその信者が悪いと思えということ。組織はすべて正しく、問題なのはすべて個人という考えを植え付けようとしている。」

「4節の最後に“さらに,エホバとイエスに従うなら,「爽やかさを感じる」こともできます。(マタ 11:28-30)”とあるのですが、引照聖句は“私と共に働くことは心地よく,私が負わせる荷は軽いのです。”とあり、“私”とはイエスのことです。エホバなんか出てきません。勝手にエホバを付け加えています。インチキですよ。」
「イエスと違ってエホバの荷は滅茶苦茶重いからね。聖句の誤用だ。」

「5節が“どのようにそうできるか。”で、“1つ目に,エホバへの愛を強め続けることです。”とあり、“2つ目に,イエスに倣うことができます。”とあります。JWには無理ですね。エホバを恐れこそすれ、愛している信者なんかいませんよ。」
「イエスはJWにとってどうでもいいキャラクターだから、イエスに倣おうなんて思う信者はいないね。」

「6節が②“家族の中での責任を果たす”です。でも、“命を目指す競走を走っている私たちは,自分の家族よりもエホバとイエスを愛する必要があります。”とまず釘を刺します。」
「JWは自分が一番大事で、家族は重要ではないということだね。組織を離れた家族は徹底的に忌避しようということだね。こうやって自分たちは家族を破壊する邪悪な宗教です、と堂々と認めている所が清々しいね。」

「7節が“どのようにそうできるか。”で、“夫も妻も子供も,聖書のアドバイスに頼ることが大切です。感情や,専門家の意見や,自分が住んでいる地域の常識に頼ってはいけません。(格 24:3,4)”と、危ないことを言っています。聖書のアドバイスに従って大丈夫ですか?」
「子育てに関する聖書のアドバイスというと、代表的なものと言えば格言13:24の“むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない。”でしょう。聖書のアドバイスに従って児童虐待をするのはやめて欲しい。」

「妻に対する聖書のアドバイスだと、エフェソス5:24の“会衆がキリストに従っているのと同じように,妻も全ての面で夫に従うべきです。”が代表的ですね。」
「こんなアドバイスに従うとろくなことにならないよ。JWの男なんて、上からの指示なければ何も決められない人ばかりでしょう。」

「聖書は夫に対して大したアドバイスをしていませんよね。」
「聖書は一夫多妻の家父長社会の産物だからね。聖書のアドバイスに従っていたら、男は危険な暴君になるよ。せめて妻に暴力をふるってはならないと、聖書のどこかに書いてあったら、少しはましなものになったのにね。」

「引照聖句は“家庭は知恵によって築き上げられ”とありますが、“家”じゃないですか?」
「英文ではhouseだから家だね。24:4には“部屋”が出てくるしね。知恵で家を建てて、知識で部屋を宝で満たすと言っている。家庭じゃないよ。」

「7節ではその後、“聖書に基づく出版物を活用しましょう。”と続きます。結局、組織の出版物がJWの知恵であり知識なわけです。」
「JWのいう聖書のアドバイスはJWがサタンの手先と憎んでいるアメリカの保守的なキリスト教が言っていることとほとんど同じ。JWに特別な知恵や知識があるわけじゃない。」

「8節は③“自分の決定に責任を持つ。”ですが、誤訳じゃないですか?」
「英文はAccountability for our decisionsなので、決定に対する説明責任をはたす、だね。組織はそういう責任を全く果たしていないのに、末端の信者にだけは要求するわけだ。上に甘く下に厳しい組織だね。」

「具体的には“自分の決定の責任を取ることの大切さを理解しているなら, 罪を告白し,間違いを正し,同じ失敗を避けるよう動かされます。”とあります。要するにイケナイことをしたなら長老に告白しろということですね。」
「例えばポルノを見たとすると、大人でも小学生のようにそれを正直に告白するということね。そして嫌われている長老なら降格処分になるわけだ。」

「9節が“どのようにそうできるか。”で、結構いいことが書いています。“自分を正当化したり自分やほかの人を責めたりすることに,時間やエネルギーを奪われないようにしましょう。”とあります。統治体がまずこれを実行すべきですね。」
「“失敗から学び,同じことを繰り返さないようにしましょう。”ともあるね。執筆者は本当は統治体に向けて書いているよ。」

「10から15節が“捨てるべき重荷”です。 ここでも3つのことが出ています。10節には①“現実的ではない期待。”です。これを捨てるということはJWそのものを捨てることじゃないですか?」
「ここで言っているのは“他の人と比べるなら,自分に重荷を負わせることになります。”ということ。楽園で永遠に生きることこそ“現実的ではない期待”の代表なのに、それについては何も言わないね。」

「11節は“どのように捨てられるか”です。“健康上の理由から割り当てを果たすのが難しいと感じる場合は,バルジライのように辞退することもできます。”とあります。健康問題を挙げれば、特権という名の重荷を捨てられるようです。」
「組織は老人を重荷と思っているよね。11節で“モーセのように助けを受け入れ,ふさわしいときには他の人に責任を委ねましょう。”とある。親切そうに言っているけれど、役立たずの足手まといの年寄りはさっさと引退しろということだよ。」

「12節が②“ほかの人の良くない決定に責任を感じること。”です。“自分の子供がエホバに仕えるのをやめた場合,親は本当につらい気持ちになるでしょう。でも,子供が決めたことについて自分を責めるなら,それは大きな重荷になってしまい ます。”と他人事のように言っています。子どもがJWをやめた場合、親がつらい気持ちになるのは組織のせいですよ。やめた子どもと関係を持つなと指導しています。」
「でも頭の悪い信者はそういうことに気づかない。むしろ、組織は何と思いやりがあるのだろう、私たちのことを気遣ってくれるのだろうと、感謝する。やめた人との交際を禁止するというのはカルトの特徴。それが家族まで及ぶのがJWということ。」

「13節が“どのように捨てられるか。”で、“子供の決定に責任を持つべきなのは,子供自身です。親ではありません。(格 20:11)”と、親が過剰な罪悪感を持たないようにと言っています。」
「でも、JWをやめた子どもと一切関係を断つというのは親自身の決定だからね。その結果については責任を持つべきだし、罪悪感を当然持つべき。」

「貧乏で孤独な老人になったとしても、一度捨てた子どもと再び仲直りできるという幻想を持たないようにして欲しいです。」
「子どもが親の助けを一番必要としているときに家から追い出したJWの親は、まともな人間ではなく宗教ロボットだからね。子どもは縁を切って、親という重荷を捨てる方がいい。」

「引照聖句は“子供でさえ,日々の行動によって,振る舞いが清く正しいかどうかを知られる。”とありますが、子どもの自己決定権や責任について述べていません。聖句の誤用です。」
「ここで言っているのは、子どもの性質は行動によって示されるということ。行動を見て判断しろと言っている。その責任は子どもにあるなどということは全く言っていない。」

「14節が③“自分を責め過ぎる気持ち。”です。“自分を責め過ぎてはいけません。それは捨てるべき重荷です。”と言っています。子どもに性的虐待をしても、自分を責めすぎないで、忘れようということですね。」
「そして被害者は加害者を許すべきというわけだ。加害者はしばらくするとまた同じことを繰り返す。でも自分を責める必要はないようだ。JWは犯罪者にとって住み心地がいい宗教だね。」

「15節が“どのように捨てられるか。”で、“エホバが「本当に許す方」だということをじっくり考えましょう。(詩 130:4)”とあります。エホバってそんな神様ですか?」
「ある人の罪を子孫にまで負わせる神だよ。JWによれば、アダムのせいで人類が死ぬことになったらしいけれど、これは“本当に許さない方”ということじゃないの。ひとりの過ちのために1000億人を死刑にしたというのと同じ。まともじゃないし、残酷すぎる。」

「16,17節が“最後まで走り抜く”です。寿命が尽きかけている老いたJWもよろめきながらも最後まで走りぬけということなのでしょうね。」
「16節で“イエスは,「食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で心が圧迫され」ることがあると警告しました。(ルカ 21:34)”とあるけれど、協会共同訳では“二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。”だよ。“食べ過ぎ”は誤訳。誤訳だらけのJWの聖書だね。」

「最後の17節で“ペースを落とさないようにしましょう。”とあります。JWの高齢化が進み、ペースは落ちる一方じゃないですか?」
「ペースをもっと上げろと言わないだけでも、ありがたいと思えということなんだよ。」

#1483 2023年11月10日 14:09:39

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“サムソンのようにエホバに頼る(37)”で、サムソンに倣って、組織のために働けという内容です。」
「野蛮なサムソン登場だ!どうせ伝道、集会、建設工事に励めという話でしょう。」

「サムソンを模範的人物として取り上げるのは最悪のタイミングですね。」
「サムソンは、今激しい戦闘が起きているガザという所で大勢の人を道連れにして自爆テロのような形で死ぬ。そんな人物を見倣おうという記事だからね。」

「ガザでの虐殺を肯定しています。」
「統治体は将来を全く予見できないから、こんなことがおこるわけだ。」

「1節に“エホバはサムソンの信仰に注目し,私たちの手本として聖書に記録させました。”とありますが、サムソンは手本となる人物じゃありません。単なるバカです。」
「サムソンは裁き人なのに、他の裁き人のようにイスラエルの人々を率いて外敵と戦うことはなく、いつも単独で戦っている。女好きの孤独な英雄で、悲劇的な最期を遂げる。みんなのお手本じゃないよ。」

「3から7節が“サムソンはエホバに頼った”です。 裁き人15章の話が取り上げられます。ロバのあごの骨で1000人を殴り殺したというバカバカしい話です。」
「これを史実と思っている時点で、JWであることはとても恥ずかしいね。1000人の敵は逃げもせず、殺されるまでボ~と一列に並んでいたのだろうね。」

「500人殺された時点で、戦意喪失して、残りは逃げますよ。」
「100人殺された時点で、戦意喪失して、残りの900人は逃げてしまうので、非武装の1000人がいたとしても、1000人は殺せないね。」

「サムエル二23:8に“3勇士の長,ハクモニの子孫ヨシェブ・バシェベト。彼はやりを振るって800人を一度に打ち殺した。”とあります。サムソンより劣りますが、これもすごいです。」
「ゲームや漫画レベルの話だけど、JWはこれも史実と考えるんだろうね。具体的にどうやったのか解説して欲しいね。」

「3節で“エホバはサムソンに「先頭に立ってイスラエルをフィリスティア人から救[う]」という使命を与えました。(裁 13:5)”とありますが、この訳はヘンじゃないですか?」
「これは主の使いが語るセリフだけど、協会共同訳では“イスラエルをペリシテ人の手から救い始めるだろう。”で、こちらが正しい。」

「サムソンはイスラエルを救っていません。個人的に暴れただけです。現代で言えばフィリスティア人にテロ行為を行っているだけですよ。最後は自爆テロです。」
「“救い始める”と訳することによって、サムソンは救うという使命を果たせず、ただ始めただけで終わるということ予言し、サムソン物語が悲劇的に終わることをあらかじめ読者にほのめかしていることになる。文学上の技巧だね。その点を全く理解していないJW訳はダメだね。」

「4節に“ある時,フィリスティア人がサムソンを捕まえようとして, おそらくユダにあったレヒにやって来ました。恐れを感じたユダの人たちは,サムソンを引き渡すことにし,2本の新しい縄で縛ってフィリスティア人の所に連れていきます。”とあります。ユダの人は酷すぎませんか?」
「サムソンとフィリスティア人の戦いは個人的なものなんだよ。そんな戦いに巻き込まれたくないだけ。自分の安全が第一。サムソン一人が死んで、平和が保たれるなら、悪い取引じゃないということでしょう。」

「5節で“サムソンが雄ロバの顎骨を使ったのはどうしてでしょうか。”と問いかけ、“サムソンは,エホバに頼るならどんな武器を使うとしてもフィリスティア人を打ち倒せると確信していたのでしょう。”と推測しています。サムソンはそんな信仰の人じゃないですよ。」
「まともに考えたらロバの骨で武装した人間をぶん殴っていたら、途中で骨が砕けてしまう。それを考えて、サムソンは信仰の力で1000人ぶち殺したことにしたのだろう。」

「サムソンの信仰は困った時の神頼み、といった程度のものですよ。」
「裁き人15:18で“サムソンは非常に喉が渇き,エホバに呼び掛けてこう言った。「この大勝利を私に与えてくださったのはあなたです。それなのに今,私は喉が渇いて死に,無割礼の者たちの手に落ちるのでしょうか」。”とある。サムソンが信仰心に目覚めるのは困った時だけ。」

「サムソン物語にはいろいろ動物が出てきますよね。その一つとしてロバが出てきたんじゃないですか?」
「物語作成上の工夫だろうね。子ヤギ、ライオン、蜂、若いメス牛が出てきて、次はキツネ。そしてロバ。各動物はあることを象徴するものとして登場する。民話によくある文学上の工夫だね。」

「6節が教訓です。“エホバは私たちにも力を与えて,どんな割り当ても果たせるようにしてくださいます。”とあります。サムソンの話をJWの割り当てにつなげました。執筆者なりに工夫していますね。」
「ロバの骨で1000人虐殺した話が、いつのまにか割り当ての話になるとは、素晴らしい展開だ。」

「7節では建設プロジェクトの話になります。“責任ある兄弟たちは,エホバに導きを求め,建物を購入して改装するといった新たな方法を取り入れることにしました。”とあります。王国会館の新築をやめて中古物件の改装に変えたということです。」
「資金難というわけだね。サムソンの話と何の関係もないよ。」

「7節に“これは,エホバがご自分の望むことを行えるように私たちを導いてくださっている一つの例にすぎません。とあります。このご都合主義には笑えますね。」
「エホバは新築より中古が好きということなの?でも統治体は新築が好きだから、本部は新築だよね。」

「8から11節が“サムソンはエホバからの助けによって力を得た”です。 裁き人15:18,19が取り上げられています。サムソンが喉が渇いたと訴えたら、水が出てきて、それを飲んで元気が出たという話です。」
「この程度のことに2節もかけている。執筆者は字数を稼げてよかったね。」

「JW訳では“元気を取り戻し,回復した”とありますが、協会共同訳では“その霊は元に戻り、彼は生き返った。”ですね。」
「英文ではhis spirit returned and he revived. とあり、協会共同訳と同じ。日本語翻訳者は霊が嫌いだから、勝手に変えた。翻訳者には聖書を改変する権限が与えられているようだ。」

「10節は教訓です。“私たちもエホバが与えてくださるものを十分に活用するなら,忠実にエホバに仕え続けるための力を得られます。”とあります。要するに組織が与える資料やビデオを活用せよということですね。」
「ほとんどの信者は組織の与えるものに興味もないし、見ないのだろうね。それでこんなことを言っているわけだ。」

「11節でも体験談で、ロシアの兄弟が“個人研究や毎日の聖書通読を欠かさないようにして,エホバとの絆を強めるようにしています。また,妻と一緒に毎朝日々の聖句について話し合い,エホバに祈るようにしています。”と言っています。これが組織の推奨することのようです。」
「組織の推奨通りにすると、“エホバは私たちの努力を豊かに祝福してくれます。サムソンにしたのと同じように,私たちのことも必ず元気づけてくれるのです。”とあるのにはあきれるね。何の根拠もない。サムソンと何も関係ないよ。」

「12から18節が“サムソンは諦めなかった”です。 サムソンとデリラの話が出ています。サムソンをかなり弁護していますね。12節で“おそらくデリラはイスラエル人だったからです。”と、デリラはイスラエル人という説を述べていますが、なぜなんですか?」
「英雄サムソンが外国の異教の女に夢中になっていたというのが不都合だからだろう。」

「“洞察”にはデリラ=イスラエル人説の証拠として、“枢軸領主たちが愛国主義的な感情ではなく,法外な額の金をよりどころにして話を持ちかけたことです。”とあるのですが、説得力ありませんね。“愛国主義的な感情”は国民国家が成立した近代社会の産物じゃないですか?」
「金で釣られるのは何人だろうが、たくさんいるよ。」

「デリラはフィリスティア人と普通は考えられていますよね。」
「サムソンはフィリスティア人の女性が大好きな男とキャラクター設定されている。サムソンの話ではフィリスティア人はイスラエルより文明人で、一方サムソンはロバの骨で戦う野蛮な人間。サムソンがフィリスティア人の女性が大好きというのは、野蛮にとって文明社会がいかに魅力的で、いかに危険かを表している。デリラがイスラエル人だとそういう話の構想からずれてしまう。」

「14節に“さらに,以前自分が門を引き抜いた町ガザの牢屋で粉をひく仕事をさせられました。”とあり、今話題の“ガザ”が出てきますね。」
「聖書は、終わりの時代にガザで激しい戦いが起きることを預言していたのです、とこれからどこかの記事で書いたら面白いね。」

「14節に“フィリスティア人は偽の神ダゴンに,サムソンを捕らえてくれたことに感謝して盛大な犠牲を捧げます。さらに,サムソンを「笑いもの」にしようとします。(裁 16:21-25)”とあります。引照聖句の16:24に“民は自分たちの神の像を見ると,賛美してこう言った。”とありますが、これは誤訳じゃないですか?」
「日本語訳の問題だね。英文はWhen the people saw him なんだけど、himはサムソンのことなのに、“神の像”と間違って訳している。JWの日本語訳は悲惨なレベル。」

「日本語訳のようにした方が物語としては矛盾がなくなりますからね。」
「16:24でサムソンを見ているのに、16:25で“見せ物にするためにサムソンを牢屋から呼び出した。”とある。もう呼び出しているよ、と誰もが思う。でも勝手に訳を変えてはダメだろう。」

「15節で、サムソンは“フィリスティア人と戦うというエホバから任された使命を果たすチャンスを探していました。(裁き人16:28-30を読む。)”とありますが、違いますよ。」
「裁き人16:28で、サムソンは“神よ。フィリスティア人に復讐させてください。私の2つの目のうち1つ分だけでも”と言っている。失明させられた仕返しをしたいというだけ。サムソンを動かしているのは復讐心。」

「サムソンは神の忠実な僕ではなく、戦うのはいつも個人的な理由からですよ。」
「個人の復讐の話が、“エホバから任された使命を果たす”話へとすり替わるのが、JWらしくていいね。」

「16節では“サムソンは自分の失敗によってつらい経験をしましたが,諦めずにエホバのために働こうとしました。”とあり、JWにはサムソンはエホバの忠実な僕のようです。」
「サムソンの話は、信者に諦めるな、伝道や集会を続けろと、教え込むための素材にすぎないね。サムソンは16:30で“「フィリスティア人と共に死なせてください」と叫んだ。”とある。これは自殺願望そのもの。そして実際に死んでいる。」

「サムソンが自殺したことは不都合なので、JWは全く触れませんね。」
「サムソンは誇り高い自由な戦士。愛する女に裏切られ、自由を失い、目をつぶされ、粉ひきという女の仕事をやらされている。うつ状態となり、生きる希望を失ったのだろう。みじめな人生よりは華々しい死を選んだわけだけど、JWとしては無視だね。」

「17,18節がマイケル兄弟の体験談です。間違いを犯し特権を失ったけれど、諦めなかったので、“今では長老また正規開拓者として奉仕しています。”というよくある話です。聞き飽きましたね。」
「JWを諦めていたら、今頃は、“カルト宗教から解放されて、自由な時間が持てるようになり、本当に幸せになりました、昔の仲間にも一日も早くJWを辞めるように勧めたいです、と言っているかも。」

「18節では“私たちも間違いを犯すことがあるかもしれませんが,エホバのために働き続けることができます。”と締めくくっています。JWのいう“間違い”って、JWのルールを破っただけの些細なものですよ。」
「ポルノを見たとか。」
「信者が間違いを犯すように、バカバカしい規則を増やしているのです。」
「罪悪感を持たせて、救われるためには、JWの言いなりにならなくてはいけないと思わせるわけだ。」

「最後の19節で“それで,サムソンのようにエホバにこう祈りましょう。「どうか私を思い出してください。どうか……私を強くしてください」。(裁 16:28)”とあるのですが、“フィリスティア人に復讐させてください。”は省略しています。恣意的な引用ですよ。」
「統治体にうらみのある人が、“どうか、統治体に復讐させてください。”と祈ることを警戒しているので、その部分は省略したんだよ。」

#1484 2023年11月17日 10:58:43

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

厚労省のガイドラインにも示唆されていますが、間違いに気づいて辞めるときの損失や反動が大きい、ペナルティや制限が厳しい、のもカルト的な宗教の特徴です。

統一は数百万円の「献金」をだまし取られたと訴え出ればネットニュースになりますが、エホバの証人の終末詐欺にひっかかって無給建設労働者やマルチマーケティング宗教セールスマンとして費やす「時間」を換算すれば数百万円どころではないでしょう。

エホバの証人をペナルティなしで辞めるには、無宗教しかありません。自分たちの信教の自由は認めろと裁判を起こす割には、脱会者には信教の自由は一切認めません。「忌避対象にはするが自由は制限していない」は詭弁で、自由とは制限やペナルティが課せられないことです。

そんなことを言ったらエホバの証人が認可されていない国でも「タイホはするけどそれでもエホバの証人するかしないかはあなたの自由だよ、禁錮中もお祈りはできるし崇拝する自由はあるよ」と言っているのと同じです。


冗談なしに、今後も彼らの終末インチキ解釈や組織運営が破綻していくにつれて、「神よ、最後にわたしを思い出してください、彼らに復讐させてください、わたしはここで彼らとともに死ぬのだ」のような事件が起きないか気がかりです。

#1485 2023年11月17日 14:07:55

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い皆さん,どんな人生を送りたいですか(38)”で、若い人にJWという悲惨な人生を送るように圧力をかけるという内容です。」
「どんな人生を送りたいかって?JW以外の人生じゃないの。」

「エホアシュ、ウジヤ、ヨシヤという聖書に出てくる3人の王について学ぶようです。聖書って、支配者層の話ばかりですね。普通の庶民はまず出てきません。」
「それは聖書の宗教が庶民の宗教とは無関係の支配者層の宗教だから。古代では宗教と政治は一体。庶民には庶民の宗教があったはずだけど、それは抹殺されている。」

「エホアシュ、ウジヤ、ヨシヤの3人と現代の若いJWとの間には何の共通点もありませんよ。時代も、立場も違いすぎます。それなのに、そんな古代の権力者の話を無理やり現代の若いJW の教訓にしようとしています。ついていけません。」
「聖書にある大昔の話と99%はウソと思われる体験談がJWの教材だからね。バカバカしいと思っても、古代の王の話を現代社会の底辺で生きているJWの若者向けの教訓話に無理やりでっちあげるしかない。」

「3から8節は“良い友を選ぶ”です。 エホアシュ王の話です。3節は“エホアシュのように賢い決定をする。”で、“エホバに忠実に仕えていた大祭司エホヤダの教えに従いました。”とありますが、その後の話とはほとんど無関係です。」
「3節の上にある写真は、スカートを見ている若い女性がミニスカートはダメと言われているという内容だけど、エホアシュ王とは無関係だよね。」

「4節が体験談風の内容ですが、“親がルールを作るのは私の自由を奪うためではなく,守りたいと思ってくれているからだ,ということが分かりました。”と、アナスタシヤ姉妹が言っています。これが組織の公式見解なのでしょうね。」
「学校の様々な行事に参加しないとか、クラスの誕生会の時には、JWの子どもだけ廊下で自習するとかは子どもを守るためなの?いったい何から守るの?」

「JWの規則は信者を守るというより、管理統制することと、JW以外の世界から隔離することを主な目的としていますよ。」
「カルト宗教は、自分たちは特別な存在というエリート主義をあおり、自分たち以外は堕落しているとか悪であると見下す。そして自分たちだけの独自ルールのもと、孤立した生き方を強いる。それを正当化するのに使われる理屈が、この世界の悪影響から信者を守るためというもの。JWも同じということだね。」

「5節に“あなたが聖書に基づくアドバイスを当てはめて行動するなら,親は喜ぶことでしょう。さらに大切なこととして,エホバに喜んでもらうことができます。エホバとの絆を強くすることもできます。(格言22:6; 23:15,24,25を読む。)”とあります。“聖書に基づくアドバイス”というのは要するにJWの規則のことです。それを守っていればJWの親は喜ぶでしょうが、聖書の神とは関係ないですよ。」
「誰かを喜ばすために自分の人生があるわけじゃないよ。周囲の期待通りに生きるとしたら、それはその人の人生ではないね。他人の人生を生きているようなもの。空しい。」

「引照聖句で、“わが子よ”とかあるけれど、みな男の子のことですよね?」
「古代では女子教育なんてない。女の子には“聖書に基づくアドバイス”なんかほとんどないよ。」

「6節は“エホアシュの悪い決定から学ぶ。”で、“エホヤダが死んだ後,エホアシュは友達の影響を受けて悪いことを行うようになりました。(歴代第二 24:17,18を読む。)”とあります。史実性が高いとされる列王記12:2でも“エホアシュは祭司エホヤダに教えられていた間ずっと,エホバから見て正しいことを行い続けた。”とありますから、これは信用していい?」
「そうでもない。協会共同訳では12:3で、“ヨアシュは、祭司ヨヤダの教えを受け、生涯を通じて主の目に適う正しいことを行った。”となっている。これは接続詞の訳の違い。協会共同訳では、“なぜなら”と言う意味と解釈して、ヨアシュは生涯いい王様だった、なぜなら祭司ヨヤダが教えたから、という意味にしている。こちらの方が正しい。」

「そう訳すると、歴代誌と矛盾するので、JWとしてはそう訳せないわけですね。」
「JW訳は歴代誌と矛盾しないように、“祭司エホヤダに教えられていた間”だけいい王様でしたと訳したわけだね。JWも苦労しているね。」

「6節で、 “そして最後には,自分の家来たちに殺されました。(代二 24:22-25)”とあります。引照聖句は歴代誌ですが、これは信用できますか?」
「信用できないね。歴代二24:24には“シリア人がエホアシュに重傷を負わせて引き揚げると,エホアシュの家来たちは,エホアシュが流した祭司エホヤダの子たちの血のことで,謀反を企て,エホアシュをベッドの上で殺した。”とある。シリアとの戦争で重傷を負って、それからすぐに謀反が起きて殺されたようだけど、列王記にはそう書かれていないし、シリアとの戦争は前811年頃で、エホアシュが死んだのは前796年以降なので10年以上は間があるはず。」

「7節が教訓で、“エホバを愛していない人は,あなたにとってためになる友達とは言えません。”とありますが、訳がヘンですね。」
「Frankly, if your friends do not love Jehovah, you do not need them.だから、“率直に言って、あなたの友達がエホバを愛していないなら、必要ありません。”だよ。さっさと縁を切れ、ということ。カルトらしくて、ほれぼれする文章だ。」

「これではカルト色が強すぎると思った翻訳者が“あなたにとってためになる友達とは言えません。”と表現を和らげたのですね。」
「JWは典型的なカルトということだね。若い信者を孤立させるつもりだ。組織の言いなりになっていると、40歳になっても、組織の外には誰も知り合いさえいないということになり、この組織から出られなくなる。」

「奇妙な宗教の信者にたいしても親切に接してくれる同じクラスの生徒も、JWでなければ、you do not need them.というわけで、必要ないわけです。」
「これが自称・真のクリスチャンの態度ね。JWでなくても、親切な友達は必要だよ。テスト問題を教えてくれるかもしれない。彼らは宗教的信念を変えただけで、口も利かなくなる冷酷な人間ではない。」

「7節に“どんな年齢の人とも友達になることができます。エホアシュも,自分よりずっと年上のエホヤダを友としていました。”とありますが、JWが言うと不気味です。どれだけのJW少年・少女が親切な長老に性的虐待されたかを考えると恐ろしいです。」
「10歳の少年に親切そうに近づいてくる中年男がいれば、性的捕食者かもしれませんので、警戒しましょう、とこの記事で書くべきだ。それとは真逆のことをしている。」

「8節でソーシャルメディアを取り上げているのですが、“統治体の成員として奉仕したネイサン・ノア兄弟はこう言いました。「人を喜ばせようとしてはなりません。結局だれも喜ばせることはできないでしょう。エホバを喜ばせなさい。そうすればエホバを愛する人すべてを喜ばせることができるでしょう」。”とあります。3代目会長のノアの言葉は聖書並みの権威があるようです。」
「これは不完全な人間の統治体を喜ばそうとするのではなく、神を喜ばせなさいという意味でしょう。統治体の言うことは単なる参考程度でよいということじゃないかな。」

「ノア会長は輸血禁止の教義を推し進めた会長ですよ。確かに人を喜ばせようとはしていませんね。この教義でどれほどの人が死んだかを考えると、怒りを感じます。」
「輸血を拒否して何人死のうとも、エホバなる神様は喜んでいるからいいじゃないか、というのが、カルト宗教のリーダーとしてのノアの考えじゃないの。」

「9から11節が“謙虚な心を忘れない”です。 ウジヤ王の話ですが、たった3節しかありません。歴代誌からの話でよくある勧善懲悪ものです。10節には“残念なことに,ウジヤはエホバに忠実に仕え続けなかったために罰せられ,重い皮膚病になりました。”とあります。」
「英文ではleprosyとあるからハンセン病でしょう。古代にハンセン病の診断基準は確立していないけれど、どうしてハンセン病とわかったのか不思議だ。」

「このまま訳すとハンセン病差別になるから、“重い皮膚病”に変えたのですね。」
「そうだろうけれど、JWという宗教では、ハンセン病としていることはごまかさないで欲しいね。」

「ウジヤ王にはエホバは厳しすぎませんか?」
「とても不公平な神だね。ダビデは数々の罪を犯しながら、罰を受けるのはダビデ以外の人だった。それから、その息子のソロモンは、列王一11:5では“シドン人の女神アシュトレテとアンモン人の極めて不快な神ミルコムに従った。”とあり、列王一11:7では “モアブの極めて不快な神ケモシュのため,またアンモン人の極めて不快な神モレクのために,エルサレムの前の山に高い場所を築いた。”とある。とんでもない背教者なのに、皮膚病なし。」

「11節が教訓で“私たちが得ている全ての良いものはエホバから来ているということを忘れてはいけません。自分の成し遂げたことについて誇るのではなく,エホバに感謝するようにしましょう。”とあります。そうなると、良いものを得てない人はエホバから嫌われているということですか?」
「そうなんじゃないの。ヨブの話から分かるように、旧約聖書の思想は、裕福で子孫に恵まれているのは神から祝福されている証拠というもので、その逆は神から祝福されていないということ。」

「JWの多くはJWではない人より良いものを得ていません。貧乏で、技術や資格もありませんし、家族も真の友人もいないし、自由な時間もありません。エホバから嫌われているということですよ。」
「楽園の入場券があるから、それでいいじゃないか。」

「12から16節が“エホバに仕え続ける”です。 ヨシヤ王の話です。たいしたことは書かれていません。“ヨシヤは10代の頃にエホバに仕え始めました。”というのがキーポイントのようです。13節では“14歳でバプテスマを受けたルーク兄弟”が登場します。」
「14節では“12歳でバプテスマを受けたジョハン兄弟”が出てくる。組織は12歳までにバプテスマを受けさせたいということかな?幼児洗礼ではなく、児童バプテスマ推進派としてJWはこれから世の中に知られることになるのかな。」

「児童保護の観点からすれば、反社会的な政策です。」
「12歳でバプテスマ、16歳で排斥、17歳でホームレスという悲惨な若者を生み出さないか心配だ。バプテスマだけは受けない方がいいよ。」

「“12歳でバプテスマを受けたジョハン兄弟”は” クラスメートから電子たばこを吸うようにという圧力をかけられました。“とありますが、よっぽどすさんだ学校に通っているのでしょうね。」
「JWは貧困層の宗教だから、貧困層の多い地区に暮らし、貧困層が多い荒れた学校に通うことが多いのだろう。十代のJWの体験談は学校でセックスに誘われたとか、麻薬をすすめられたとか、というヒドイ話が多いのは、そういうことじゃないかな。」

「15節は聖書の勧めです。“あなたは聖書を毎日読んでいますか。聖書を読むのは楽しいですか。自分に役立ちそうな聖句を覚えておくために工夫していますか。”とあります。聖書は楽しいものですか?役に立ちますか?」
「奇妙な話で笑えることはあるけれど、悲惨で不条理な話が多い。楽しいものではないし、役にも立たない。特に改ざんしてあるJW訳は。」
「奴隷制容認、女性差別、一夫多妻容認、大量虐殺、民族差別、同性愛差別などうんざりしますよ。」

「実は、英文では、聖書を読むのは楽しいですか?とは言っていないね。」
「how is it going?とあるだけですね。」
「うまく行っていますか?、どんな調子ですか?という意味だよ。楽しいですかと誤訳したのは、翻訳者は聖書を読んだことがないからだよ。」

「16節が恐ろしいです。“ヨシヤは39歳の頃,良くない決定をしたために命を落としました。エホバに導きを求めずに,自分に頼ってしまいました。(代二 35:20-25)”と言ってから、この教訓として“何歳であっても,どれほど長く聖書を学んでいるとしても,エホバとの絆を大切にし続ける必要があるということです。”とあります。エホバってどんなに功績があっても、過ちを許さず、守ってもくれない神ですね。これは教訓として覚えておくべきですよ。」
「海外で宣教活動中に犯罪者に襲われて死亡しても、“良くない決定をしたために命を落としました。エホバに導きを求めずに,自分に頼ってしまいました。”と組織は言うかも、と覚えておくべきだね。」

「引照聖句には“エジプトのネコ王がユーフラテス川のそばのカルケミシュで戦うために上ってきた。ヨシヤはネコに立ち向かおうと出ていった。”とあり、結局ヨシヤ王は戦死するのですが、これは史実ではないようですね。」
「考古学調査によるとヨシヤ王の時代ではパレスチナ一帯は既にエジプトの支配下にあった。そうなるとヨシヤ王はエジプトのネコと戦うために出撃したのではなく、ネコの命令でネコの援軍として出撃したことになる。聖書に書かれていることは間違い。」

「それなのに殺されたわけですね。」
「ヨシヤ王の改革を知って、ネコ王は傀儡にふさわしくない、信用の置けない男と判断し、殺したのだろう。それを後の時代の人が戦死したことに変更した。」

「17から19節が“若い皆さん,幸せになってください”です。 3人の王について学ぶと、“そうすれば幸せな生き方ができます。”と言っています。ウソでしょう。」
「何を学んでも、JWである限り不幸だね。幸せになりたければ、若いうちからJWをやめるために慎重に計画を立てること。JW以外の友人を持つことは重要だ。」
「それでJW以外の友人を持つことを、組織は妨害するわけですね。」
「そうでしょう。JWから脱出するにはお金も大事だから、お金も持たせないようにしている。」

「18節で“ダビデの生涯について調べると,エホバに忠実に仕えていこうという気持ちが強まるでしょう。”と言っています。その反対ですよ。エホバのダビデのえこひいきがひどすぎます。バテシバの件では、ダビデを罰せず、産まれてきた子どもを死なせますし、人口調査の件では無関係な7万人を殺します。道徳観がおかしいです。」
「ダビデの生涯について調べると、ダビデは自分たちの宗教を他の民族に伝えるよう言われたことも、伝道するように言われたことも一度もないことがわかるよ。それなのになぜJWだけバカバカしい伝道をしないと滅ぼされると脅かされるのか、と疑問に思うよ。そう疑問に思ったJWがひとりでもいたら、ダビデの話も役立ったことになるね。」

#1486 2023年11月24日 14:02:21

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“温和な人は強い人(39)”で、主に学校に行っているJWを対象に、JWゆえにいろいろ非難されるけれど、むきになって反論するな、という内容です。」
「反論できるような知識や元気のあるJWはいないでしょう。何か言われたら、JWのホームページを見てくださいというだけ。」

「2節に“温和な人はすぐに怒らず,気分を害されたり思いも寄らないことが生じたりしても自分をコントロールできます。”とあります。すぐに怒るな、ということですか?」
「誤訳だね。英文ではA mild person does not get easily upset.なので、怒らずではなく“動揺しない”だね。自制とか克己ということ。」

「3から7節は“温和な人になるには”です。 3節では“聖なる力を求めて祈り,温和な人になれるように助けてください,とお願いすることが大切です。”とまず言っています。」
「まず祈りを持ち出すのはお決まりのパターンだね。執筆者は1節分稼げる。」

「4節は、創世記26章にあるイサクの話です。井戸の所有権でもめたとき、イサクは争わなかったとあります。そして“相手が悪意を持っているように思える時でも,イサクが穏やかでいられたのはどうしてでしょうか。いつも平和を大切にしていたアブラハムや,「物静かで温和な精神」を持っていたサラの様子をよく見て,たくさんのことを学んでいたに違いありません。”と、断定しています。“違いありません。”というのは根拠のない時のJW流の言い方です。」
「英文では“違いありません”とは断定していない。翻訳者が勝手に断定しているだけ。」

「その時は、イサクは神の恵みを受けて、資産がどんどん増えているという状況ですよ。金持ち喧嘩せず、ということじゃないですか?貧乏な人が多いJWにはあまり参考になりません。」
「創世26:12,13に“その年の収穫は,まいた物の百倍にもなった。エホバが祝福したからだった。イサクは裕福になり,その後も成功していき,非常に裕福になった。”とある。井戸一つでむきになることもない状況だ。」

「創世記を見ると、イサクはあちこちで井戸を掘りあてていますよ。」
「イサクは移動しながら生活する遊牧民として描かれているから、一つの井戸に執着しないのは当たり前。」

「5節が体験談です。“17歳のマクサンスは,学校や伝道で怒りっぽい人に会うことがよくありました。両親は,マクサンスが温和な人になれるよう辛抱強く助けました。”とあります。」
「17歳のマクサンスはまだ子どもだね。JWの独善性が周囲の人の怒りを引き出してしまうことにはまだ気づかないのだろうね。」

「両親は“自分を抑えられる人の方が強い”と教えたとありますが、いつも抑えられているJWがさらに抑えられるわけですよ。抑圧のさらに抑圧。まともな大人になりません。」
「マクサンスはJWをやめるという計画を周りに悟られないように自分を押さえて、よいJWを演じているだけだといいけどね。そうでなければ死んだ魚のような眼をした大人になるしかないね。」

「8から14節が“洞察力はどのように助けになるか”です。 9節には“ギデオンがエフライムの人たちにどう接したか考えてみましょう。”と言って、ギデオンが怒っているエフライムの人たちをうまくなだめた話が出てきます。これって洞察力と関係しますか?」
「ギデオンがどうやってなだめたかというと、裁き人8:2で“皆さんがしたことに比べれば私は大したことはしていません。”と言っている。要するに、ヨイショしただけ。洞察力がなくてもこれくらいはできるよ。」

「10節が職場や学校で取るべき態度です。“質問されたことを攻撃や批判と見なすのではなく,相手がどんなことに関心があるかを知るチャンスと考えることは助けになります。相手がどんな理由で質問したかに関わりなく,穏やかで親切な仕方で接するように心掛けましょう。”とあります。」
「例えば、エホバの人って、輸血するよりは死ぬことを選ぶって本当なの?と質問されたら、ニコニコしながら、穏やかに“はい、輸血するぐらいだったら死を選びます。”と答えるわけね。」

「11節が職場での誕生祝いパーティの断り方です。“仲間への気遣いにどれほど感謝しているかや,チームで仲良く働きたいと思っていることを伝えられます。そうするなら,同僚の不安を和らげることができるかもしれません。”とあります。具体的なセリフを教えて欲しいですね。」
「例えば、“聖書には誕生祝いで首を切られた話が出ています。これは誕生祝いを神が嫌っている明白な証拠に違いありません。私は間もなく来るハルマゲドンの戦いで、皆さんのように滅ぼされたくないので、神が嫌う誕生祝いには絶対参加しないのです。”と穏やかで親切な仕方で言えばいいよ。周囲の人は、誕生祝いにまでいちいちケチをつけるしょうもない神とあきれるだろうけどね。」

「12節は同性愛差別のごまかしかたです。“私たちがどんな人も大切に思っていることや,それぞれに自分の生き方を決める権利があると認めていることを知ってもらえるといいかもしれません。”とあります。偽善者ですね。」
「JWは自分の家族が同性愛者だったらどうするかを説明して欲しいね。忌避し、縁を切り、家族の葬式にも呼ばないでしょう。」

「同性愛者を嫌っているのはエホバであって、JWではないと答えるのはどうですか?」
「いいかも。責任転嫁し、とりあえず攻撃をかわす。」

「13節は“強い意見を持った人に会ったなら,どうしますか。”というものです。“学校の友達から,神を信じているなんてばかげている,と言われたとします。そういうとき,相手は進化論を信じているからそう言っている,と考えますか。実際は,誰かから聞いたことをそのまま話しているだけなのかもしれません。科学について議論を始めるのではなく,友達が後で考えられるように,資料を渡したり質問したりできます。”と、議論するのではなく、議論から逃げろと言っています。それがJWのできることですね。」
「JWこそ“誰かから聞いたことをそのまま話しているだけ”でしょう。“科学について議論を始めるのではなく”とあるけれど、“科学について議論を始めることは能力的に無理なので”というべきでしょう。」

「14節では“10代のニール兄弟は,エホバの証人に対する誤解を解くためにjw.orgを活用しました。”とあり、jw.orgを見せることを勧めています。それなら無知無学なJWもできます。」
「jw.orgにあるのは対外的な宣伝。組織の都合のいいことを言っているだけ。ある程度知性のある人はそのことにすぐ気づくよ。」

「14節では“ニール兄弟はjw.orgの「科学と聖書」のセクションを見てもらうことにしました。”とあります。あれは根拠のない断定が多すぎて、説得力がありません。せいぜい頭の悪い小学生をだますくらいですよ。」
「例えば、“恐竜について聖書は何と述べていますか”という記事。“化石を研究すると,恐竜は徐々に進化したというより突然現われたことが分かります。これは,神様がすべての動物を創造されたとする聖書の記録と一致しています。”とあるけれど、ウソだろう。」

「そもそもJWには古生物の専門家がいません。どこかのキリスト教原理主義の創造論者の意見を受け売りしているだけです。」
「しかも引用元を示さず、まるで広く信じられている意見かのように見せかけているのはサギ的だね。」

「それから“聖書によれば,海と陸の動物は創造の「五日目」と「六日目」に造られました。”とあり、脚注には“聖書中の「日」という語は,何千年にもわたる長い期間を指すことがあります。”とあるので、JWの主張では、恐竜は数万年ほど前に造られてことになります。」
「単位が違うよ。2,3億年前だよ。これは小学生でも気づくよ。」

「そこには“神様が恐竜の絶滅をお許しになったのは,その目的が果たされたからです。”とあります。どんな目的なのでしょうか?一部のJWは、恐竜はその巨体で土を耕す目的があったと信じているようです。バカバカしいです。」
「聖書の神様は恐ろしいね。目的を果たせば絶滅させる。それでも神は愛というわけ?」

「ここまでひどいと、jw.orgの「科学と聖書」のセクションなど誰も信じません。」
「インターネットで検索すると、はるかに詳しい情報が得られて、JWからの情報のウソがすぐばれる。」

「15から18節が“家族で準備する”です。 子どもの訓練の話です。JW得意の宗教的児童虐待ですね。子どもに親の宗教を押し付けるのは虐待です。」
「そんなことを気にするJWじゃないね。ガンガン子どもに宗教を押し付ける気だ。15節には“学校で尋ねられそうな話題を選び,どのように答えられるかを話し合って,実際にやってみましょう。”とある。JWの子どもはそんな嫌なこともさせられるとは、気の毒だ。JWについて、学校で何か尋ねられたら、あれは親がやっているだけですから、とJWじゃないふりをしたらいいよ。と」

「15節の下に、想定される反対意見が6つ出ています。こんなことを小学生は言いませんよ。」
「それに、かなり意図的に誤訳している。」

「最初の“神を信じるのは教養のない人だけだ”は、Only uneducated people believe in Godなので、教育を受けていない人だけが神を信じます、です。」
「JWは教育を受けていない人が多いので、反論しづらいということで、教養にかえたのだろう。」

「” 生命は進化によって存在するようになったんでしょ?”は、Evolution is a factで、進化は事実、ですね。翻訳を超えた創作ですね。」
「翻訳者は進化は事実と知っているから、別の文を創作したのだろう。それから進化は生命の発生とは関係ないよ。」

「3つ目が“神が全ての物を造ったんだとしたら,神を造ったのは誰なの?”も変えてますね。創造が真実なら、誰が創造者を創造したのですか、ですね。」
「これにJWがどう答えるのか知りたいな。これは答えづらいよ。」

「4つ目は“エホバの証人は同性愛者を嫌っているよね”ですが、英文ではhateですから、“憎んでいる”です。こんなことを言う子どもはいませんよ。」
「アメリカでは同性愛差別のJWとして有名なのかもね。でも日本ではまず話題にならないよ。」

「5つ目は“エホバの証人が宗教を変えるように圧力をかけるのは良くないと思う。”ですが、本当は疑問文ですよ。なぜ圧力をかけるのですか?と尋ねています。」
「これには圧力はかけていませんと、否定するのかな?こんなことを言う小学生もいないね。」

「6つ目の“あなたたちは都合のいいように聖書を解釈している”は、本当は“あなたたちは自分の信念に合わせて聖書を変えました。”ですね。」
「これは反論できないから、反論しやすい“解釈”にすり替えたのだろう。姑息な翻訳者だ。」

「16節に“練習するなら,説得力のある話し方ができるだけでなく,自分自身の確信を強めることができます。”とあります。子どもの洗脳が話し方を練習させる主な目的ということがわかります。」
「いくら練習したって、JWにだまされる人はあまりいないからね。JWの子どもは気の毒だ。」

「18節で“温和で親切な話し方をすることは助けになります。(コロサイ 4:6を読む。)”とありますが、誤訳ですし、引照聖句を理解していませんね。」
「expressing ourselves with tact and mildness can helpとあるので、”機転”と温和さをもって自分自身を表現することは助けになります、と言っている。tactは親切という意味はないよ。その場に応じて、とっさに適切な応対や発言ができることだ。」

「引照聖句には“塩で味付けされた快い言葉を語るように”とありますが、“快い”という単語は存在しませんから、付け加えたものです。塩で味付けされた言葉とあるだけです。」
「古代ギリシャでは、塩が振られた会話というのは、機知に富んだ楽しい会話と言いう意味なんだけど、翻訳者はわかっていないね。」

「18節では“自分の信じていることを誰かに伝えることは,ボールを投げることに似ています。優しく投げることもできれば,力いっぱい投げ付けることもできます。優しく投げるなら,相手はそれを受け取りやすくなるので,キャッチボールは続いていきます。”とありますが、納得できませんね。キャッチボールをするつもりのない人にやさしくボールを投げても、受け取りません。ボールはどこかに転がっていくだけです。」
「くだらない例えが多いのがJWの記事だよね。執筆者は伝道したことがないのかな?伝道したことがあれば、顔いっぱいの笑顔を作って、猫なで声で話しかけたところで、誰もJWの言うことなんか聞かないという経験をしているはずなんだけどね。」

「18節ではさらに“もちろん,ただ議論したり批判したりしようとしている人とは,話し合いを続ける必要はありません。”とあります。そういう人と対等に話せるJWはまずいませんので、しっぽをまいて逃げることを勧めているのでしょう。」
「やっぱり執筆者は伝道したことないよ。18節の最後で“多くの人は聞いてくれるでしょう。”と言っている。多くの人はカルトのたわごとに付き合うほど暇でもないし、物好きでもないことがわかっていない。」

「最後の19節では“温和な人であることを目指すなら,多くの良い結果につながります。”と、断定しています。そんなことありませんよ。」
「19節で“私たちの温和で敬意のこもった話し方を聞いた人たちは,エホバの証人や聖書に対する見方を変えるかもしれません。”とある。この記事の言う温和とは外部の人にJWは良い人と思わせて、JWにさせるためのテクニックにすぎないということだね。温和なJWにだまされる人が一人も出ないことを望むね。」

#1487 2023年12月01日 14:03:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“決して諦めなかったペテロに倣う(40)”で、JW失格気味の人でも、諦めずにJWを続けろ、という内容です。」
「JWの減少を食い止めようという記事だね。」

「1節に“ペテロは,「私から離れてください,主よ。私は罪深い男なのです」と言います。(ルカ 5:6-9)自分なんかがイエスと一緒にいるのはふさわしくない,と感じたのでしょう。”とあるのですが、違いますよ。」
「これはペテロ召命の場面。ペテロはイエスを主と呼んでいる。これはイエスが聖なる存在であることに気づいたことを示している。単なる人間にすぎない自分はその聖なる存在の前に立つに値しないと言っているわけで、ペテロがとりわけ個人的に罪深い存在ということではない。人間そのものが罪深い存在ということ。」

「2節に“確かに,ペテロは「罪深い」人でした。聖書にある通り,後悔するようなことを言ったりしたりしてしまうことがありました。”とあり、ペテロの“私は罪深い男なのです”発言を、執筆者は個人的な問題と解釈していることがわかります。」
「的外れだけれど、そう解釈すると、JW個々の信者へとつなげやすいからね。欠点や弱点があっても、ペテロのように頑張りましょうと言うわけだね。」

「2節に“エホバは,弱さがあっても諦めずに頑張り続けてほしいと思っています。”とありますが、エホバじゃなくて統治体の老人たちがそう思っているわけですよ。」
「統治体は自称・地上における神の代理だから、統治体=エホバで問題ないと思っている。」

「3節に“後悔するようなことを言ったりしたりしてしまうことは,誰にでもあります。でも,諦めずに努力を続けるなら,エホバは私たちが成長できるように助けてくださいます。”といっていますが、これは排斥された人向けですね。」
「組織は排斥を乱発しすぎたと、少し後悔しているのかもね。」

「3節の最後で“ペテロに対するイエスの思いやりにも注目するなら,エホバに仕え続けたいという気持ちを強められるでしょう。”と言っていますが、エホバ教らしいねじれですね。」
「普通なら、イエスの思いやりに注目するなら、イエスに仕え続けたいと思うでしょう、と続くよ。でもエホバ教だと、なぜかエホバに仕え続けたいという気持ちになるわけだ。」

「4から8節は“ペテロは諦めずに闘い続け,素晴らしい経験をした”です。 福音書にあるペテロ関連の話を適当にピックアップして、記事にしています。ペテロの“罪深い男”発言をとらえて、4節では“もしかすると,大きな失敗を何度かしていたのかもしれません。”と推測しています。」
「ペテロは犯罪者じゃないよ。“罪深い男”発言は召命の場面でのもので、イエスに会ったばかりのころ。宗教上の問題発言をするのはその後。」

「ペテロの召命の場面がいつ頃起きたかは福音書によって違いますよね。」
「ルカでは、イエスがカペルナウムに行き、シモンのしゅうとめを治療した後に召命。しかし、マルコではまず召命があり、その後にイエスはシモンのしゅうとめを治療し、重い皮膚病の男を治療し、カペルナウムに行くという時系列。マルコではペテロは何も言わず、“直ちに網を捨てて後に従った”とあるだけ。ヨハネでは全く違うストーリとなっている。」

「ルカでは数々の奇跡の後に、ペテロの召命があるわけで、奇跡が重要な働きをしたという設定ですね。」
「そして、ルカでは単なる漁師のペテロが極めて敬虔なことを言う。ルカの創作だね。黙って従ったというマルコの方が劇的でいいね。」

「6節に、ペテロの数々の失敗談が出ているのですが、水に落ちた話がありません。あれは面白い話なのに残念です。」
「マタイ14章だね。ペテロは“主よ,あなたでしたら,水の上を歩いてそちらに行くよう私に命令してください”といい、イエスは来なさいという。“そこでペテロは舟から出て,水の上を歩いてイエスの方に向かった。ところが暴風を見て怖くなり,沈み始めた時,「主よ,助けてください!」と叫んだ。 イエスはすぐに手を伸ばしてペテロをつかみ,「信仰の少ない人よ,なぜ疑いに負けたのですか」と言った。”とある。あまりにも情けない話なので省略したね。」

「ペテロの性急さ、すぐ気持ちが変わる不安定さ、そして何よりも信仰のなさがわかります。」
「だから、ペテロは愛すべきキャラクターなんだよ。」

「6節に“イエスが亡くなる前の晩には,ある人に襲い掛かり,耳を切り落としてしまいました。(ヨハ 18:10)”とあります。引照聖句には“大祭司の奴隷に襲い掛かって右耳を切り落とした。”とあります。つまりペテロは左利きということですね。」
「正面から切りつけたとすると、左利きということだね。耳を切られると、身体に欠損があることになり、大祭司の所では働けなくなる。」

「不思議なことに、ペテロは逮捕されていませんね。」
「ペテロは無視されて、イエスが逮捕される。ペテロはその後逃げもしない。現実にはあり得ない展開だね。」

「7節に“そして,ペンテコステの日にエルサレムで天に行く人たちが初めて選ばれた時,ペテロもそのうちの1人になりました。”とあるのですが、引照聖句がありません。つまり聖書的根拠はないということですね。」
「ペンテコステの話は使徒2章だけれど、天に行く人が選ばれたなんてどこにも書いてないよ。英語版でもそんなことは言っていない。翻訳がおかしい。」

「among the first to be anointed by holy spiritですね。」
「“聖霊によって油注がれた最初の人のひとり”という意味。天に行くなんてどこにもない。翻訳者は聖霊が嫌いだから、意図的に誤訳したんだろう。」

「8節に“西暦36年,ペテロはコルネリオが聖なる力によって天に行くよう選ばれるのを目撃します。”とありますが、英文ではanointed with holy spiritですから、聖霊によって油注がれた、ですね。」
「今のJWだと、天に行くように選ばれたというのは、単なる自己申告で、主の記念式の時に飲み食いする人という意味だよね。だから、こういう表現は誤解を招くし、そもそも翻訳者が創作してはダメだろう。」

「コルネリオの話は使徒10章ですが、その部分を読むと、およそ史実性があるとは思えません。」
「使徒10:28に“ペテロは言った。「よくご存じの通り,ユダヤ人にとって,別の人種の人と交友を持ったりそのもとを訪れたりするのは許されないことです。”とあるが、ウソだね。その当時、ユダヤ人は様々な民族・人種の人と様々な状況で交流していた。そうしなければ、ユダヤのようにローマ帝国に組み込まれている地域では経済も社会生活も成立しない。“使徒”の著者はユダヤ社会のことをあまり知らないということ。」

「ガラテア2:7で、パウロは“彼らは,割礼を受けた人たちにペテロが良い知らせを伝えることになったように,割礼を受けていない人たちに私が良い知らせを伝えることになったのを知りました”と書いています。ペテロはユダヤ人に伝道し、異邦人はパウロが伝道するという役割分担があったようですが、こちらの方が正しいのじゃないですか?」
「恐らくそうだろう。ペテロたちは異邦人に伝道することに消極的だったと考えられている。しかし、使徒たちの活動が書かれた時代ではキリスト教は異邦人中心の宗教となっていて、その事実をふまえ、最初からペテロたちも異邦人への伝道活動を開始していたというように歴史を書き直した。」

「つまり、異邦人への伝道活動は、パウロのような新参者のだけが推し進めたのではなく、ペテロのようなイエスの直弟子たちも賛成していたということにしたわけですね。」
「使徒たちの活動は、ペテロもパウロも同じ考えで、一致協力していたというように、初期キリスト教を描いているが、それはプロパガンダで、実際は様々な対立があった。」

「8節にもそのような対立を少し取り上げていますね。“ユダヤ人のクリスチャンの中には,ユダヤ人と異国人が一緒に食事をすべきではないと考えていた人たちもいました。そうした人たちがアンティオキアに来た時,ペテロは異国人の兄弟たちと食事をするのをやめてしまいます。”とあります。」
「エルサレルムにいた主流派はモーセの律法を守るべきと考えていて、パウロとは対立していた。その板挟みで困ったのがアンティオキアという異郷の地にいたペテロという構図だね。」

「9から11節が“何が頑張り続ける力になったか”です。 9節に“ペテロは揺るぎない愛を持っていました。だからこそ,どんなことがあってもイエスに従い続けることができました。”とありますが、訳がへんです。愛はでてきませんよ。」
「Peter was loyal だから、ペテロは忠実でした、だね。忠実を愛にすり替えている。翻訳者はペテロが忠実な男とは思えなかったのだろう。」

「10節に“イエスも揺るぎない愛を示し,ペテロのことを見放しませんでした。”とありますが、Jesus did not abandon Peterとあるだけで、愛など書かれていません。」
「イエスはペテロを見捨てませんでした、とあるだけ。翻訳者はこれだと説明不足と思って、翻訳者の大好きな愛を勝手に入れたんだよ。」

「11節はJWらしいひねりが加わります。イエスは“復活した後に奇跡を行い,ペテロとほかの使徒たちがまた大量の魚を捕れるようにしました。(ヨハ 21:4-6)この奇跡を見たペテロは,生きていくのに必要な物をエホバが必ず与えてくれるということを確信したはずです。使徒たちは,「王国……をいつも第一に」するならエホバがほかのものを与えてくれる,というイエスの言葉を思い出したことでしょう。”とあります。ペテロの話も、いつのまにか王国第一主義の宣伝になりました。」
「イエスが与えてくれたのに、なぜ“必要な物をエホバが必ず与えてくれるということを確信”するわけ?エホバ教ならではのねじれだね。」

「12から15節が“どんなことを学べるか”です。 体験談がでてきます。12節は“例えば,ある兄弟は真理を学ぶ前,同性愛者で,その生き方を何年も続けていました。”と同性愛者をとりあげ、“エホバが力を与えてくださいます。”と言ったことになっています。」
「同性愛者は絶対認めないぞ、というメッセージだね。同性愛差別のJWだからね。」

「13節はナチス時代の話です。ホルスト兄弟は“当時学校では,「ヒトラー万歳!」というあいさつをすることが求められていました。兄弟は,先生やクラスメートへの恐れの気持ちに何度か負けてしまったことがありました。そんな兄弟のことを両親は叱るのではなく,勇気を求めて一緒に祈ってくれました。”とあります。ハイル・ヒトラーくらい気にしなくていいということですか?」
「そうではないと思うけれどね。この体験談の元の記事は1998/2/22の“目ざめよ”の記事だけど、そこには“終戦となった1945年5月のほんの数か月前,私はヒトラー青少年団の活動に自発的に参加してしまいました。”とある。本当はエホバよりヒトラーの方が好きだったんじゃないの?」

「13節で、この兄弟は、“エホバは決して私を見捨てられませんでした。”と言っていますが、戦争が終わり、ナチス体制が崩壊したので助かっただけですよ。」
「JWはその程度のことでも理解できないようだね。良いことが起きると、エホバのおかげだと条件反射的に考えるよう訓練されている。」

「14節には“長年長老として奉仕しているポール兄弟は,落ち込んでいる兄弟姉妹をいつも元気づけています。兄弟はそうした人にまず,エホバがどのように引き寄せてくださったかを思い返すように勧めます。”とあるのですが、JW2世の人にはどう元気づけるのですか?JWの両親のもとに生まれるなんて、なんという特権でしょう、と元気づけるのですか?」
「それは逆効果だから言わないでしょう。普通の家に生まれたかった、というのはJW2世の切なる願いだからね。」

「この兄弟は“落ち込んでいたもののエホバに助けられて頑張り続けている兄弟姉妹の様子をたくさん見てきました。”と言ったことになっています。JWゆえに落ち込んでいたんですよ。つまらない伝道や集会に参加させられて、嫌でしょうがないのに、JWを続けざるを得ないとは気の毒です。」
「“頑張り続けている”となっているけれど、英文ではpersevere。これは我慢してやり通す、辛抱する、耐える、という意味。“頑張り続けている”だと、まるで喜んで続けているかのような誤った印象を与える。」

「15節に、この記事で一番言いたいことが出ています。“エホバは,ペテロや使徒たちに必要な物を与えました。私たちが生活の中で宣教を第一にするとき,エホバは同じように支えてくださいます。”とあります。騙されやすい信者を無給の宣教活動にさらに駆り立てるつもりですね。」
「こんなことで騙されるJWはもう死に絶えたよ。それで、今や、奉仕時間を報告する義務もなくなった。」

「先ほどのヒットラー大好きだったホルスト兄弟の話が出ていて、“巡回訪問中,毎日奉仕に出て,エホバが必要な物を本当に与えてくださるかを試してみることにしました。週の終わりに,兄弟は巡回監督から匿名の封筒を渡され,びっくりしました。中には数カ月開拓奉仕をやっていくのに十分なお金が入っていたのです。”とあります。こんなことは宝くじに当たるよりも滅多にないことくらい、完全に洗脳されているJWでもわかりますよ。」
「巡回監督はいつも会衆に意地汚くたかってばかりいないで、時にはカネを恵んでやれという指示だよ。誰も実行しないと思うけれど。」

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