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#1426 2022年12月02日 14:48:07

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“大勢を正しい道へと導く(40)”で、つらい労働をして食いつないでいる低賃金のJWに、楽園では冷房の効いた教室でジュースを飲みながら、復活してきた人にJWの教義を教える教育職に就けますという幻想を与えて、少しやる気を出させるという内容です。」
「ダニエル12:14の解釈が出ている。また新しい光がきらめいたようだね。」

「楽園でも何の技術も専門的知識もないJWは窓ふきなどの清掃の職を割り当てられて、1000年間掃除をひたすらやらされると思います。」
「楽園こそ清掃業は必要だ。清掃をサボると、楽園はあっという間にごみ溜めと化す。そんな重要な清掃業を任せられるのはJWだけだね。」

「1節から楽園幻想を振りまいています。“私たちの愛する人たちの多くは,早い段階で地上へ復活してくることでしょう。*”と、楽園が来たら、直ぐに亡くなった愛する人に出会えると言っていますが、その根拠はいいかげんなものです。」
「脚注に“恐らく復活は,終わりの時代に忠実を保って死んだ人から始まり,世代を順にさかのぼっていくことでしょう。”とあるね。もちろん単なるご都合主義的な推測。信者に希望を与えるための嘘はいくらでも許されるということかな。」

「2節でも幻想を振りまきます。“史上最大規模の教育プログラムが行われることになります。(イザヤ 11:9,10を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「イザヤには1000年統治なんて思想はないよ。イザヤ11:10に“その日,エッサイの根が立ち上がり,国々のための旗印となる”とあるけれど、エッサイはダビデの父親。11:1には“エッサイの切り株から小枝が生え出る。”とあるけれど、同じ意味。ダビデの子孫であるメシアが現れて、ダビデ王朝の再興がなるという預言。実現しなかったけれどね。」

「イザヤ11:12には“国々のために旗印を掲げ,イスラエルの追いやられた人たちを集め,ユダの散らされた人たちを地上の四方から集める。”とありますから、旗印のもと、各地に散ったユダヤ人たちが再び本国に帰ってくると言っています。」
「地上の楽園だの、1000年統治だのという思想は旧約聖書にはないよ。JWが旧約聖書が大好きなのはよくわかるけれど、楽園について旧約聖書を引用するのは全て的外れ。」

「2節では“また,正しい人も最新の理解を学ぶ必要があります。エホバは,地球に関する目的を徐々に明らかにしているからです。”とJWの教義変更を正当化しています。重複する世代なんて言うのが最新の理解ですか?時代とともに劣化していますよ。」
「とっくの昔に楽園が来るはずだったのに、最新の理解ではずっと後のようだ。これはJWの神様は信者の人生をもてあそぶことが大好きな意地悪な神様なのか、JWが単なるインチキ宗教団体なのかのどちらかだね。」

「4から8節が“地面の中で眠っている多くの人が目を覚まします”です。 ダニエル12:1,2の解説です。4節で“ダニエル 12章1節は,ミカエルつまりイエス・キリストが「[神]の民のために立っている」と述べています。預言のこの部分は,1914年にイエスが天の王国の王として任命された時,実現し始めました。”といっています。」
「天使ミカエルがキリストという根拠は何?ミカエルはミカエルじゃないの?初期のプロテスタントの学者にはそういう説を唱える人がいたけれどね。」

「天使ミカエルは、1917年に出版されたThe Finished Mysteryではローマ教皇のこととされていました。理解できません。それがキリストになったのは1930年からです。JWの聖書解釈がいい加減なことはこの点でもわかりますね。」
「1984年12/15のものみの塔の“「大いなる君ミカエル」― だれのことですか”という記事で“他のほとんどの宗教はミカエルを幾人かいるみ使いの頭のひとりと見ており,あたかもみ使いの頭がひとりではないかのような考え方をしています。”と言っている。それはダニエル10:13に“そこへ主立った長のひとりミカエルが”とあるからだよ。幾人かいる頭の一人としか解釈できないよ。」

「ダニエル10章では、ペルシャの君とギリシャの君が出てきます。そしてミカエルはダニエル10:21で“あなた方の君ミカエル”と呼ばれています。各民族に大天使がいるという設定ですね。」
「このような天使思想はペルシャ宗教の影響だね。」

「JWがミカエル=イエスの根拠にしているのは、ものみの塔2010/4/1号の“読者の質問”の“み使いの頭ミカエルとはイエスのことですか”をみると、テサロニケ一4:16の“主が天から下り,天使長の声で号令を掛け,神のラッパが鳴り響くと,キリストと結ばれて死んだ人たちがまず生き返るからです。”のようです。この訳はへんですよ。JWの教義に沿った訳です。主(イエス)が“天使長の声で号令を掛け”るのですか?」
「“天使長の声で号令を掛け”るとは書いていないよ。以前のJW訳は“主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られる”で、こちらは字義通りの訳。そこでは誰が号令をかけるのかは不明。恐らくイエスだろうけど。また号令と天使長と声との関係も不明。神のラッパを鳴らしているのも不明だけど天使たちなのだろう。天使長には定冠詞、つまり英語ならtheがついていないので特定の個人(個天使?)を指してはいない。これはミカエル=イエス説の根拠としては弱いね。」

「号令というと軍隊を連想します。パウロは軍事的な例えが好きですよね。」
「軍隊では指揮官が“進め!”と命令を出す。すると側に居る副官が大声で“全軍、進め!!”と部下たちに命令を伝えるとともに、ラッパ手に“進め”の合図の進軍ラッパを吹くように命令を出す。軍隊好きのパウロはこういうイメージを描いていたと思うね。指揮官がイエス、副官が天使長、ラッパ手は天使たち。」

「ミカエルは軍事関係の天使というイメージがありますよ。」
「啓示12:7に“そして,天で戦争が起こった。ミカエルと天使たちが竜と戦ったのである。”と書かれているから、ミカエルは天使軍団のリーダーだね。ダニエル書10章でもペルシャの守護天使と闘っている。」

「4節で“1914年にイエスが天の王国の王として任命された時”とあたかも事実かのように書いていますが、インチキの年代計算に基づいた1914年で、何の証拠もありません。」
「“「[神]の民のために立っている」と述べています。”とあるけれど、正確には“その時,あなたの民のために立っている”であって、これはイスラエル人を指していて、現代人のことでもないし、JWのことでもない。」

「ダニエル12:1の“その時”とは1914年じゃありませんよ。11章の最後に書かれていることが起きた時ということですよ。」
「ダニエル11章の最後は、北の王と南の王が戦い、北の王が11:45で“彼は自分の壮麗な天幕を,大きな海と『美しい地』の聖なる山との間に張ります。そして,ついに終わりを迎えます。彼を助ける者は誰もいません。”ということになり、12:1の“その時”と続く。」
「つまり北の王が“大きな海と『美しい地』の聖なる山との間”で死んだ、その時ということですね。」

「ダニエル11章にある北の王と南の王との戦いは、アンティオコス4世の戦いをほぼなぞっているので、北の王とはアンティオコス4世のことだけど、彼は西暦前164年にペルシャで死んだので、“大きな海と『美しい地』の聖なる山との間”、つまりパレスチナでは死ななかった。預言は外れた。」
「それで、ダニエル書はアンティオコス4世の死ぬ直前に書かれたとされるわけですね。」
「ダニエル12:1の“その時”は1914年ではなく、西暦前164年。預言は実現しなかった。」

「5節では” またダニエルは,「国が始まってからその時まで生じたことがない苦難の時」にイエスが「行動を起こ」すとも告げられます。この「苦難の時」とは,マタイ 24章21節に出てくる「大患難」のことです。”と断定していますが、何の根拠もありません。」
「根拠なんかないのだから、せめて○○でしょう、とか○○に違いありません、といったJWの出版物によくある表現を使って欲しいよね。」
「通常はアンティオコス4世の迫害のことを言っていると解釈されますよね。」
「ダニエル書の後半はアンティオコス4世の迫害で殉教者を出すなど、苦しんでいるユダヤ人を励ますという目的で書かれている。それで復活の話が出てくる。」

「6節で、ダニエル12:2の復活の解釈変更がなされています。またもや新しい光です。“以前は,ダニエル 12章2節は終わりの時代に生じる,神に仕える人たちの比喩的な復活について述べている,と理解していました。* しかしこの預言は,新しい世界で生じる文字通りの復活のことを指しています。”だそうです。今までいいかげんなことを言って信者を騙していたことについて、少しは恥じらいの気持ちを示して欲しいです。」
「比ゆ的な復活から文字通りの復活に変更ね。比喩と文字通りを適当に使い分けるのがJWだけど、そこには何の原則もなく、恣意的なもの。」

「6節の説明は“ここで「地面」と訳されている言葉は,ヨブ 17章16節では「土」と訳されています。文脈を見ると,それは「墓」を表していることが分かります。ですから,ダニエル 12章2節は文字通りの復活のことを述べているのです。”というものです。今までは文脈など考えずに解釈していたということですね。」
「12:2は“地面の中で眠っている多くの人が目を覚まします。”とあるね。今頃になって地面=墓だから文字通りの復活と気づいたということ?本当は文字通りの復活とした方が都合がよいと思ったからじゃないの?」

「7節で“では,ダニエル12章2節で,復活したある人たちが「永遠の命」を得ると言われているのは,どういう意味でしょうか。復活してくる人 たちは,千年統治の間にエホバとイエスを知り,あるいは知り続け,このお二方に従うなら,最終的に永遠の命を得ることができる,ということです。”と説明しています。“永遠の命”は条件付きのようです。」
「つまり、ある人たちしか永遠の命が与えられず、大多数は死ぬわけね。復活なんかさせない方がよかったんじゃないの。そういう所を楽園とは言わないね。“」

「8節で“復活してくる人たち全てがエホバの教育プログラムを受け入れようとするわけではありません。ダニエルの預言によれば,ある人たちは「とがめられて永久に嫌悪されます」。”と説明していますが、教育プログラムが出てくる時点で笑えます。ダニエル書にそんなことは一言も出てきません。JWの教義では、JWの教育に逆らうと、永遠に滅ぼされるようです。」
「あのJWの教育が生死を分けるものとは驚きだね。ダニエル書と1000年統治は無関係。勝手に結び付けるな、と言いたいね。」

「9から12節が“大勢を正しい道へと導いている”です。 ダニエル12:3の解釈です。そこには“洞察力がある人たちは,天空のように明るく輝きます。大勢を正しい道へと導いている人たちは,星のようにいつまでも永遠に輝きます。”とあります。」
「10節に“ダニエル 12章3節は,天に行くよう選ばれた者たちと千年統治の間に彼らが行う事柄について述べているに違いありません。”とあるね。出た!“違いありません”が。根拠なく断定してこそJWらしい。JWの天上組と地上組という人類2階級論を前提とした解釈だけど、その2階級論がインチキだから、この解釈も成立しない。」

「“洞察力がある人たち”はダニエル11:33-35で、3回言及されます。11:33では“洞察力がある人たちは,大勢に物事を理解させます。彼らはしばらくの間,剣や炎,拘禁や強奪によって倒れることになります。”とありますよ。」
「ダニエル11:29-45はアンティオコス4世がエジプト遠征を企てたけれども、ローマによって阻止された後、その怒りをユダヤ人に向けてユダヤ人を迫害したことが書かれている。」
「“洞察力がある人たち”とはその迫害にもかかわらず信仰を保ち、大勢のユダヤ人に宗教教育を行ったけれど、殺された人たちのことですね。」
「律法に厳格に従おうとしたハシディーム(敬虔者)と呼ばれる人たちだね。その殉教者が、ダニエル12:3で、“星のようにいつまでも永遠に輝きます。”といっている。統治体の老人をはじめとした自称144千人のことじゃないよ。」

「星のように輝くとは、天使になるということじゃないですか?」
「比ゆ的ではなく文字通りだとすると、そういう解釈も有力だね。殉教者は復活して天使となるという思想の現れかも。ダニエル書の特徴は天使思想だから。」

「11節で、天に復活した114千人は“千年統治の間に地上で行われる教育プログラムを監督します。”とあります。どうやって天から監督するのですか?」
「自称・天に行く統治体の権威付けを狙って、こんなたわごとを書いているだけ。」

「12節で“新しい世界で生まれてくるであろう子供たちです。”という文があります。JWの楽園では生殖活動が行われるようです。婚期の逃した子どものいないJWのためのサービスですね。」
「楽園での生活がどのようなものかは、聖書には何も書かれていないから、都合のよい様に想像すればいいさ。復活してくる人は1千億人くらいじゃないかな。その人たちが子づくりすると、1千年の間にどれくらいの人口になるのかな?地球は持たないよ。」

「13-16節が“最後の試練”です。 今度は啓示20章に飛びます。1000年統治の終わりにサタンが放たれて、惑わされるのだそうです。なぜそんなことをするのか理解できません。」
「人間を試練に会わせるのが好きな意地悪な神様だからなんだろう。それ以外の理由は思いつく?」

「14節に“千年統治の終わりまでに,地上にいる人たちは皆,完全になっています。”と断定していますが、引照聖句はありません。」
「そんな思想は聖書にないよ。JWの素晴らしい教育のおかげで完全になるのかな?」

「17から19節が“終わりの時”です。 ダニエル12:4の話です。そこには“ダニエル,終わりの時までこれらの言葉を秘密にしておき,この書を封印しておきなさい。多くの人が巡り歩き,真の知識が満ちあふれます。”というものですが、この書は既に封印を解かれていますよね。終わりの時は過ぎたということですよ。」
「そもそもダニエル書は終末預言じゃないよ。」
「ダニエル書に出てくる南の王とか北の王も古代の話で終末論とは無関係なのに、ロシアが北の王だなんてJWは言っていますね。」

「ダニエル12:4の訳がへんだ。協会共同訳で“多くの人々は探求して知識を増やす。”とあるように単なる知識で“真の知識”じゃないよ。」
「勝手に付け加えるのがJW訳の特徴ですね。」
「17節に“つまり,神に仕える人たちがダニエル書の預言をいっそうよく理解するようになるということです。”と解説しているけれど、そう解釈しているので単なる知識じゃなくて“真の知識”に変えたんだろう。」

「18節の下に、海辺のリゾートホテルのようなところで、パーティをしているという挿絵があります。産業の基盤もなく、必要な技術者もいないJWの楽園で、こんなことが可能だと思っているのでしょうか?くだらないプロパガンダです。」
「どんな体制であれ、快適な生活するのに必要な物の生産は誰かがしないといけない。でも、どこかの工場で働くのは、JWではないようだ。JWは新しい体制ではバイブルレッスンをするだけの特権階級で、その他の労働は復活してきた連中がしてくれるという妄想を抱いているようだ。」
「まあ、いいじゃないですか。そうやって、一時的につらい現実から逃避しているのですよ。」

#1427 2022年12月09日 14:49:15

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“本物の幸せを得るには(41)”で、本物の幸せを得る上で助けとなる3つのステップと称して、組織の言いなりになりなさいといういつもの内容です。」
「本物の幸せを得るには、まずJWをやめることでしょう。集会とか伝道とか無意味な活動から自由になるだけで、幸福感が上がるよ。」
「本物の幸せなるものを押し付ける点でカルト宗教ですよ。」
「幸せに暮らしている人にそれはニセモノだと勝手に断定して、JWになる以外幸せになれないと主張する。大きなお世話だ。」

「1節からへんですね。” イエスは山上の垂訓の中で,「神の導きが必要であることを自覚している人たちは幸福です」と言いました。(マタ 5:3)”とありますが、このマタイ5:3の翻訳はひどいですよ。」
「古いJW訳は“自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。”で、解釈入れすぎだけど、新しい訳になると翻訳ではなく創作だね。」
「神の導き=統治体の導きということにして、信者をコントロールしやすくなるように、訳を変えたんですよ。」
「JWの教義がまずあって、それに合わせて聖書を翻訳するのがJW。協会共同訳では“心の貧しい人々は、幸いである。”となっているが、これが字義通りの訳。」

「ルカ6:20はJW訳でも“貧しいあなたたちは幸福です。神の王国はあなたたちのものだからです。”と、まともに訳していますが、こちらがイエスのオリジナルで、それに納得できなかったマタイが“心の貧しい人”に変えたわけですね。」
「その逆は考えにくいからね。マタイは現実の貧困問題を心の問題にすり替えたということ。」

「1節ではさらに“イエスは,人間が創造者であるエホバ神を知って崇拝したいという強い願いを持つものとして造られたことを知っていました。人間はそのようなものとして造られたので,「神の導きが必要」なのです。”と解説しています。自分たちで“神の導きが必要であることを自覚している人”と創作しておいて、“イエスは・・・”とイエスに成り代わって解説しています。バカバカしいですね。」
「人間が“エホバ神を知って崇拝したいという強い願いを持つものとして造られた”なんて、聖書のどこに書いてあるの?本当はそんなふうに造られていないからJWの信者が増えないんだよ。」

「1節の最後は“また,エホバは「幸福な神」なので,エホバを崇拝する者たちも幸福になれます。(テモ一 1:11)”なのですが、この論理が理解できません。それが正しいのなら、エホバは人間を気安く殺すので、エホバを崇拝する者たちも人間を気安く殺せるようになることになりますよ。」
「テモテ一1:11には“その教えは幸福な神の素晴らしい良い知らせと一致しており”とあるだけで、信者が幸福になるなんて言っていないよ。いつもの拡大解釈。」

「2節もヘンです。“イエスは山上の垂訓の中で,驚くようなことを言いました。自分の罪や難しい問題のために「嘆き悲しむ人たち」も幸福になれる,と述べたのです。そして,「正しいことをして迫害されてきた人たち」やイエスの弟子であるために「非難され」る人たちも幸福になれる,と言いました。(マタ 5:4,10,11)では,そうした状況の中で,どうすれば本物の幸せを得ることができるでしょうか。”とありますが、イエスの答えははっきりしていますよ。」
「神の国が来ることだよ。それがイエスの教え。組織の言いなりになって、開拓者になっても幸福にはなれない。」

「4から8節が“信仰を養う食物を取り入れる”です。 ここから幸福になるためのインチキ3ステップが出てきます。4節が“ステップ1: 本物の幸せを得るには,信仰を養う食物を取り入れる必要がある。”です。要するに、組織が提供する情報を無批判に受け入れなさいということです。本当は不幸になるステップ1ですよ。」
「それでも、聖書を読むことをまず勧めているよ。4節に“私たちは神の貴重な言葉である聖書を読まずに1日を終えるようなことがあってはいけません。”だって。」
「何事も義務と言われると、やる気が出ませんね。」
「それが組織の狙いだね。組織は信者がまじめに聖書を読むことを本当は望んでいないよ。JWのいい加減な聖書解釈の問題点を気づかれたくないからね。」

「5節に“エホバは私たちのことを愛しているので,どうすれば幸せに生きられるかを聖書を通して教えてくれています。”とありますが、引照聖句がありません。」
「旧約聖書の思想は律法を守れば神から祝福されるというもの。でもそれは現代人にはあてはめられない。」
「それでJWは旧約の律法に代わる独自の律法を創作して、それに従っていれば幸せになれると言いたいのですね。」
「聖書のどこにも、集会と伝道を熱心にやれば幸せになるという思想はないよ。旧約では他民族に伝道するという発想自体ない。」

「6節に” 聖書には,毎日の生活に役立つアドバイスもたくさん収められています。それに従う時, 幸せになることができます。”とありますが、そんな幸せになれるようなアドバイスなんかありましたか?」
「格言14:20の“貧しい人は隣人からも憎まれるが,裕福な人は友が多い。”なんかそうだろう。貧乏なJWはこのアドバイスに従えば、幸せになれるかも。」
「格言17:8の“贈り物は持ち主にとって宝石のようであり,その人はどこに行っても成功する。”もいいです。賄賂の勧めですね。長老や巡回監督に賄賂をたっぷり与えておけば、JWとしての幸福は間違いなしですね。」
「格言20:30の“あざや傷は悪を取り除き,打たれることで人の奥底が清められる。”もいいよ。体罰の勧めだ。聖書には毎日の生活に役立つアドバイスがたくさんあるね。」

「7節で“聖書を読む時には,読んだ内容を時間を取って味わうようにしましょう。”とありますが、そうすると不幸になる場合もありますよね。」
「7節で“ぜひ時間を取って,情景や声の調子などをイメージしたり,読んだ内容をよく考えたりしてください。そうすれば,いっそう幸せになることができます。”とあるけれど、聖書にそんないい話はほとんどないよ。」
「サムエル一15:3に“さあ,アマレク人を討ちに行き,所有物も一緒に滅ぼし尽くしなさい。生かしておいてはならない。男性も女性も,子供も幼児も,牛も羊も,ラクダもロバも殺しなさい。”とエホバの命令がありますが、大虐殺の様子をイメージしたりすると、幸せになれるのですか?」
「聖書は暴力を礼賛している危険な本だよ。実際にヨーロッパ人がやらかした幾つかの歴史上の大量殺戮は聖書を使って正当化された。」

「8節で“私たちは十分に養われています。”とあって、組織が提供する“信仰を強める食物”が十分であることを主張していますが、昔に比べると貧弱になりましたよね。」
「雑誌類はページが減り、発行回数が減り、量の面で貧弱になったけれど、これは経費削減のためだろう。質の面でも、執筆者と翻訳者の能力不足のせいもあって、相当低下している。」

「目ざめよ誌、ものみの塔一般向けは、2022年ではそれぞれ一回しか発行されていません。いずれ消滅しますね。それにもかかわらず“私たちは十分に養われています。”と強弁するところが事実に基づかない思考をするカルトらしいですね。」
「でも、信者の大半は組織の提供する霊的食物なるものにうんざりしているから、十分かどうか信者に調査したら、十分です、多すぎますと答える人が大半だと思うよ。」

「9から12節が“エホバの基準に従って生きる”です。 9節には“ステップ2: 本物の幸せを得るためには,エホバの基準に従って生きる必要がある。”とあります。要するに組織のバカバカしい基準に従って生きなくてはならないということです。」
「子どもが輸血が必要になっても、それを拒否して死なせるほうが、幸せになれるということ?JWの子ども時代は不幸の連続だろう。」

「10節に“ローマ 12:2を読む。エホバが善悪の基準を定める権威を持っているということを知っていることも重要ですが,その基準を受け入れて守ることも必要です。”とあるのですが、ローマ12:2はそんなことは言っていません。」
「そこでは“考え方を新しくすることによって自分を変化させましょう”とある。それを律法主義のJWらしく“基準を受け入れて守る”と拡大解釈したんじゃないの?」

「12節から“エンターテインメント”の話になります。要するにエホバの基準とは信者の楽しみを制限するためにあるようです。」
「“エンターテインメント”というカタカナ語の意味は高齢の信者にわかるの?なぜ“娯楽”にしなかったのかな?“ビデオゲーム”という言葉も出てくるけれど、これは英語のvideo gamesをカタカナになおしただけ。」
「翻訳者は“ビデオゲーム”が何かわからなかったんだと思います。」
「信者のささやかな個人的楽しみに無制限に介入してくる宗教は危険な宗教だから、早く辞めよう。」

「13節が“エホバへの崇拝を第一にする”です。 “ステップ3: エホバへの崇拝を生活の中で第一にする。”とあります。ここからはJW活動が禁止されている国の人向けの記事になります。刑務所の中でも、エホバファーストで行けという指示です。」
「ところが、エホバファーストだとなぜ幸福になるのかについては何も述べられていないね。どう見ても不幸へまっしぐら。」

「“信仰ゆえに投獄されているエホバの証人 国別データ”という記事を見ますと、2022年11月現在で投獄されているのは168人以上とあります。850万の信者のなかの168人ですよ。自分たちは迫害されているというには少なすぎます。」
「そのうち105人はロシアだよ。迫害をあおって危機感を高めることによって、信者に終わりが近いと錯覚させようという悪だくみだね。」

「14から17節が“現代の実例”です。 タジキスタンのジョビダン・ボボジョノフ兄弟の話です。」
「先ほどの記事だと、タジキスタンは投獄されているのはたった1人。すごい迫害している国なの?」

「14節には“現代のさまざまな実例は,ここまで考えてきた3つのステップを実践するなら,どんな状況でも本物の幸せを得ることができる,ということを示しています。”とありますが、この兄弟は本物の幸せを得ましたとは書いていません。」
「兵役拒否で連行されて、“数カ月間留置されました。”とある。数年間かと思ったら、数か月だ。それでもこんなに大きく取り上げられるということは、さぞかし大きな試練だったのだろうね。」

「15節に“地元の兄弟姉妹が食べ物を差し入れる時に,その袋に日々の聖句を書いておいてくれたのです。”とありますが、こんなことをここで書いていいのですか?」
「その程度のことはタジキスタンの当局は知っているよ。JWみたいな弱小宗教が何をするかなんか気にしていないから、見逃していただけだよ。」

「16節に書かれていることはウソくさいです。“ジョビダン兄弟は,エホバの基準に従って生きました。間違った欲望について考えることも,良くないことを行うこともしませんでした。”と断定しています。この人が何を考えていたかなんか、神ではない執筆者はわかりませんよ。」
「もしこの後、淫行でこの人が排斥になったら、この記事はこっそり削除されるのかな?」
「国名と名前と写真を変えて、再利用します。」

「16節で“また,エホバの創造物の素晴らしさに感動しました。朝起きると,鳥の歌声や鳴き声が聞こえ,夜には月や星を眺めることができました。”とあるけれど、収容施設にはハエや蚊はいなかったのかな?シラミやノミもいなかったのかな?この兄弟がこういう創造物に感動したかどうか、知りたいね。」
「16節には“エホバからのこうした贈り物によって,幸せな気持ちになり,力が湧いてきました。”とありますから、ハエや蚊に対しても同じ気持ちですよ。本当に模範的です。」
「オグデン・ナッシュという人の詩に、“神はその知恵によって/ハエを作ったが/なぜ作ったのか我々に/教えてくれるのを忘れた”というのがある。ハエのすばらしさはいったい何なのか、JWなら知っているのかな?」

「17節で“また,ジョビダン兄弟はエホバへの崇拝を第一にしました。”とありますが、具体的なことは何も書かれていません。確実な事実としては、兵役を拒否し、数か月間収容所に入れられた後、釈放されたということだけです。それで聖人に祭り上げられてしまうのがJWという宗教のようです。」
「この人はまだ若いので、これからいくらでもやり直せるよ。JWに入ったのは若気の至りと反省して、宗教道楽をやめ、まじめに働く道を選んで欲しい。その方が幸せになれるよ。」

「最後の18節に“「エホバを神とする民は幸せです!」(詩 144:15)”とありますが、この引用の仕方は問題ありますね。これは古代のイスラエル人のことを言っているだけです。しかも、古代のイスラエル人は悲惨な歴史をたどります。」
「詩編144:15は“このようになる民は幸せです!エホバを神とする民は幸せです!”で、この詩の前の部分では、“羊は外で数千倍,数万倍に増えます。牛は身ごもり,事故も流産も起きません。”などと、どのようになるか具体的に書かれている。現代のJWとは何の関係もないよ。」
「ほとんどの聖句はJWとは無関係です。」

#1428 2022年12月16日 15:18:43

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバに忠誠を尽くす人は幸せ(42)”で、組織の言いなりになる人は幸せと思い込ませようという内容です。」
「投獄された14人の写真がいきなり出てくる。模範的なJWとして顕彰しているわけだ。JWにさえならなければこんな人生を送らずに済んだはず。気の毒だ。」

「主題聖句は詩編15:1,2となっていますが、英語版では詩編119:1です。これってヘンじゃないですか?」
「今週のタイトルは“エホバに忠誠を尽くす人は幸せ”だけど、詩編119:1は“非難されるところがない生き方をする人は幸せだ。その人はエホバの律法に従って歩む。”と訳してあって、タイトルに合わないから、勝手に変えたのだろう。統治体の許可を得たのかな?」
「詩編119:1は英語版では“Happy are those who are blameless*”で、日本語訳は間違いじゃないです。脚注に“Or who keep integrity.”(あるいは忠誠を保つ)とあり、この記事では脚注の訳を使っているのです。」
「ところが日本語版にはその脚注がない。見落としたのだろう。それで詩編119:1は使えず、詩編15:1,2を持ってきた。でもそこには幸せの語句はないよ。JWのいい加減さがよくわかる。」

「1節では“現在,世界の30余りの国や地域で,エホバの証人の活動が禁止されたり制限されたりしています。中には,当局によって投獄されている兄弟姉妹もいます。”とありますね。迫害の恐怖をあおっています。」
「そこに“政治の面であくまでも中立の立場を保ってきました。”とあるけれど、アメリカに本部のある宗教団体の命令通りに動く人間を政治的に中立とはみなさないアメリカを敵視している国もあるんだよね。」

「資金の面ではどうなんですか?旧統一教会は日本人から献金を集め韓国に送金していたようですが、世界各国のJWはアメリカに送金しているんですか?」
「最近明らかになったけれど、ノルウェーではかなりの額を海外に送金していた。集めたお金を自国の信者のために使おうという方針はないことは確かでしょう。」

「3から5節が“倣うべき手本”です。 3節は使徒4章のペテロとヨハネの逮捕の話が出てきます。」
「3節に“1世紀の使徒たちも,これらの兄弟姉妹と同じような経験をしました。イエスについて語ったために迫害されたのです。”とあるけれど、違うよ。使徒たちはイエスについて語ったけれど、JWはエホバという聖書にはない名前の神について語っているだけ。」
「そうですが、JWは自分たちのことを1世紀の使徒たちと同じ存在と宣伝してきましたから、そう信じ込んでいるのです。」

「使徒たちは、使徒4:18で“イエスの名によって何も言ったり教えたりしてはならない”と命じられたけれど、JWはイエスのかわりに“エホバ”か“統治体”でしょう。大きな違いだよ。」
「3節で、使徒たちは“裁判官たちに対していわば,「あなた方は神よりも自分たちに従うべきだと言っているのですか」と尋ねていたのです。”とありますが、これはJWも問われていますよ。」
「霊感を受けているわけでもなく完全でもない統治体に盲目的に従うのがJWだからね。聖書にはないルールでも、統治体の命令なら黙って従う。」

「4節で“使徒たちは,「人ではなく神に従[う]」という立派な手本を残しました。真のクリスチャンは皆,これまでずっとその手本に倣ってきました。”とあります。ということは、統治体を崇めるJWは真のクリスチャンではないということになります。」
「JWの教義がくるくる変わっても、何事もなかったかのようにJWの教えは真理ですと言っている信者は、統治体に従っている人だね。」

「6から8節が“上位の権威”です。 6節に“「上位の権威」とは,権力を持っている人間の支配者のことです。”とあります。“こうした政府が権力を持っているのは,エホバがそれを許しているからです。”と言っています。エホバは信者を些細なことで排斥しますが、プーチンみたいな独裁者には寛大なようですね。」
「ダビデの話からわかるように、権力者に甘いのは旧約聖書の神の特徴だよ。」

「ノルウェーではJWは政府からの補助金を貰えないことになり、さっそく政府を訴えています。なぜ上位の権威に従わないのでしょうか?」
「お金が欲しいからでしょう。年間1億円以上もらっていたらしいから。エホバを待っていても、エホバは何もしてくれないことを知っているからだろう。」

「末端の信者は上位の権威に従えと言い、組織は政府を訴える。おかしくないですか?」
「補助金を貰えなくなったのは、お金を貰ってもJWはノルウェー社会に何も貢献せず、海外に送金している。未成年の子どもでも排斥し虐待しているけれど、改めようとしないから。本来なら、この点を改めればいいのだけど、それはしないで裁判闘争をする。自分たちの権利を高らかに要求するわけだけど、認められないだろう。」

「7節で“神が禁じていることを行うよう求められたり,神が求めていることを禁じられたりする場合,それに従うことはできません。例えば政府は,若い人が国の軍隊に入って戦うことを求める場合があります。”とありますが、聖書のどこに、軍隊に入ってはいけないって書いていますか?どこにもないですよ。」
「聖書では軍人を差別したり忌避したりすることはないね。」
「殺してはいけないというのは、軍人と両立しませんが、問題ないですよね。」
「殺すなという命令は、あくまでも自分たちの仲間に適用される。仲間殺しはするなということ。自分たちの集団の外にいる仲間ではない者は子どもでも殺しても問題がないというのが聖書の倫理だよ。」

「9から15節が“至上者”です。 至上者=エホバというだけのことを長々と書いています。ダニエル書7章が取り上げられています。」
「10節に“「至上者の聖なる者たち」つまり 「いつまでも永遠に」統治を行う14万4000人です。(ダニ 7:18)”。とあるけれど、144千人のことなどダニエルが知るはずないよ。144千人の話は啓示に出てくるだけ。その話を啓示の相当前に書かれたダニエル書に時間をさかのぼって適用するのはおかしいね。“聖なる者たち”は、普通はイスラエル人のことを指す。」
「啓示の中に出てくる天からの火は原子爆弾のことと解釈するJWですから、そんな批判は受け付けません。」
「ダニエル書は迫害に苦しむ当時のイスラエル人を励ます目的で書かれたもので、21世紀のJWに向けたものじゃないよ。」

「12節は“エホバは,ご自分が「上位の権威」よりも上の至上の権威を持っていることを示してきました。3つの例を考えてみましょう。”と始まります。エジプトのファラオ、バビロンのベルシャザル王、パレスチナの王だったヘロデ・アグリッパ1世の話が出ています。」
「出エジプトの話は史実ではない。“ファラオを紅海で溺死させました。”とあるけれど、そんな王はいないよ。」

「ベルシャザル王の話も史実性はありませんよね。」
「ダニエル書ではベルシャザル王はネブカドネザル王の息子になっている。しかし、列王二25:27では“ユダのエホヤキン王が捕囚にされて37年目の,第12の月の27日,その年に即位したバビロンのエビル・メロダク王は,ユダのエホヤキン王を牢屋から釈放した。”とあり、ネブカドネザル王の息子で後継者はエビル・メロダク王。ダニエル書の著者は列王記を読むのを忘れたようだ。」

「しかもベルシャザルは王ではないですよ。」
「ベルシャザルはバビロニア最後の王ナボニドスの息子で、ナボニドス王と共同統治をしていたけれど、バビロニアの記録では王とは呼ばれていない。歴史に詳しくないダニエル書の著者が勝手に王に任命しただけ。」

「12節で“でもエホバは,この高慢な王を低めました。「まさにその夜」,ベルシャザルは殺され,その王国はメディア人とペルシャ人に与えられました。(ダニ 5:28,30,31)”とありますが、これも史実ではありませんよ。」
「ダニエル5:30,31に“まさにその夜,カルデア人の王ベルシャザルは殺された。メディア人ダリウスが,およそ62歳の時にその王国を治め始めた。”とある。ダニエル書の著者はダリウスをバビロニアとペルシャの中間の期間に王になっていたと誤解している。」

「これはダニエル書の著者が単に歴史に無知だったからということですか?」
「そうでもない。イザヤ13:17に“私はメディア人に彼らを攻めさせる。”という預言がある。エレミヤ51:11には“エホバはメディア人の王たちの心を奮い立たせた。バビロンを滅ぼそうとしているからだ。”という預言もある。」
「つまり旧約聖書ではバビロニアはメディア人によって滅ぼされるはずだったわけですね。」
「それでその預言に合うように、メディア人ダリウスというのを捏造したのだろう。」

「12節に“「エホバの天使がヘロデを打った」ので,ヘロデは死にました。(使徒 12:1-5,21-23)”とあります。これはヘロデ・アグリッパ1世が急死したので、天使が殺したと解釈したということですね。」
「ヘロデ・アグリッパ1世は、ヨセフスの記録によると、突然激しい腹痛に襲われ、家に運ばれたけれど、5日後に死亡した。天使はなぜか激しい腹痛を生じさせて、5日間苦しめてから死なせたようだね。一度に殺さないところが聖書の神様らしいね。」

「使徒12:23に“ヘロデは虫に食われて死んだ。”とあるのですが、これは巨大昆虫に襲われたということですか?恐ろしいですね。」
「これは巨大昆虫の襲来ではなく、腸に寄生する回虫のことと解釈されている。普段は時々腹痛がおこる程度だけど、成虫がかたまり状になって腸閉塞をおこしたり、胆管や虫垂に頭を突っ込んだような場合には、激しい腹痛が起こり手術が必要になる。」

「14節では“それでエホバは,ネブカドネザルが正気を失うようにしました。”と、ダニエル4:32の“あなたは人々の中から追いやられ,野獣とすみかを共にし,雄牛のように草を食べることになり,こうして7つの時が過ぎます。”のことを言っていますが、これも史実ではないですよね。」
「ネブカドネザルが7年間獣のようになったことはない。これはバビロニア最後の王ナボニドスについて書かれた“ナボニドスの祈り”という文章を元にした話。そこではナボニドスが7年間病気になったけれど、真の神に祈ったことで回復したことになっている。」

「16、17節は“最後の戦い”です。 近未来のことを預言しています。16節には“マゴグのゴグとして知られている諸国家の連合体が世界中で激しい攻撃を仕掛けてくる時,救い出してくださるのです。”とありますが、聖書はそんなことは言っていませんよ。」
「啓示20章では“ゴグとマゴグ”で“マゴグのゴグ”なんかは出てこないよ。マゴグのゴグはエゼキエル書に出てくるけれど、終末論とは無関係。」

「マゴグのゴグが“諸国家の連合体”であるとなったのは2015年からです。ごく最近です。ずいぶん遅い光です。洞察では“ゴグに関するエゼキエル書の預言は,神の民に対する全地に及ぶ悪らつな襲撃,すなわち卑しめられた悪魔サタンによって工作され導かれる襲撃を指し示しているのです。”と自信たっぷりに言っていました。とんでもないウソだったわけですね。」
「2015年5/15月号の読者からの質問で解釈変更が示されている。そこで“この連合体は「北の王」が率いるのでしょうか。確かなことは言えませんが,その考えは,エホバがゴグについて述べる次の言葉と調和しているように思えます。・・・”とある。これも外れだね。北の王はダニエル書に登場するけれど、エゼキエル書と啓示を恣意的につなげて、終末の出来事を空想しているにすぎない。」

「北の王であるロシアがウクライナ相手に戦争を始めましたが戦況は思わしくなく、多くの国から制裁を受けている状況です。北の王であるロシアが諸国家の連合体を率いるなんてことは、今後100年間はありそうもないですね。」
「戦争の結末がどうであれ、ロシアの衰退は避けられない。経済的にも資源を売って金を得るだけの発展途上国から脱却できない。それに対し、ウクライナは西側から援助を得て、発展する可能性がある。」
「そのうち、エホバに真剣に祈ってから真剣に検討したところ、北の王はロシアではないということがわかりました、という発表が統治体からありますよ。」

「17節で“ゴグのこの攻撃がきっかけとなって,ハルマゲドンでの最後の戦いが始まり,”とあるけれど、そんなことは啓示に書かれていない。」
「啓示16:13では“カエルのように見える3つの汚れた息が,竜の口と野獣の口と偽預言者の口から出てきた。”とあり、これがハルマゲドンの戦いのきっかけです。啓示16:16に“それらの息により,王たちはヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に集められた。”とあります。」
「ゴグとマゴグが出てくるのは啓示20章で、まだだいぶ先だよ。」

「最後の18,19節は“私たちは忠誠を貫く”です。 18節には“ですから,どんなことが起きるとしても,エホバへの忠実を保ち,エホバを揺るぎなく支持することこそ,最高の生き方なのです。”と言っています。説得力ないですね。」
「JWの言うことの反対が大体正しいよ。“エホバへの忠実を保ち,エホバを揺るぎなく支持することこそ”最低の生き方ということ。」

「最後の19節は、英語版では詩編119:1が出てくるのに、日本語版は詩編15:1,2に変えられていて、そのため本文もかなり書き換えられています。統治体の許可を得たのか、気になりますね。」
「英文では“幸せ”という単語が出てくるけれど、日本語版では出てこない。“エホバの天幕にとどまることができるからです。”と、タイトルとずれてしまっている。これも聖書の翻訳をいい加減にやったことのツケだよ。」

#1429 2022年12月23日 14:27:11

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“真の知恵が大声で叫んでいる(43)”で、格言の書から、多くの人がJWの話を聞かない理由を説明し、JWのほうが幸せで優れていると誤認させようという内容です。」
「自分たちだけが優れていて、それ以外の人はアホで間抜けと罵倒して自己満足に浸るという記事ということかな。」

「この記事のタイトルは格言1:20の“真の知恵が通りで大声で叫ぶ。広場で声を上げている。”からの引用ですが、訳はこれでいいのですか?」
「“真の知恵”ではなく、単に“知恵”だよ。」
「“真の宗教”とか“真理”という言葉を乱発して、自分たちを際立たせようとするのがJWということですね。」

「1節に“聖書や出版物には,「真の知恵」つまりエホバの知恵が収められています。”とあるよ。“出版物”というのはJWの出版物だよね。そこに“真の知恵”があるか?小学高4年生レベルの内容だよ。」
「この記事の執筆者は周りの人間は自分のことを過小評価していると日頃から不満がたまっていたのですよ。そこでこんな暴論をついつい書いてしまったのだと思います。」

「2節に“聖書の教えに従う私たちのことを見下す人さえいます。”とあるけれど、違うよ。改ざん聖書と統治体の浅知恵に従っているから見下されているだけ。」
「それから医学的知識などないくせに、輸血は危険とか輸血の代替療法の方がよいなどというから、見下されています。聖書とは関係ないです。」
「JWの医療ナントカ委員会の人がアルブミンとかヘモグロビンとか意味もよく分からず医療現場で語るから見下される。さっさと消え失せろ、と怒鳴られないだけましと思って欲しいね。」

「3から5節が“エホバについての知識が必要”です。 3節には“知恵とは,良い決定を下すために知識を活用する能力のことです。”というのは正しいですか?出典がありません。」
「どこかの英語の辞書でも見たと思うよ。広辞苑では“物事の理を悟り、適切に処理する能力”とあるけれど、似ている。具体的な問題を的確に処理する実際的な人を、知恵のある人と言うよ。」
「それならJWは知恵のある人とは言えませんね。何か問題が起きても、エホバを待ちましょうなどと言うだけで、なにもしないし、できない人たちですから。」

「古代イスラエルでは知恵と訳されているヘブライ語は様々な技能や技術をさす言葉。また、ヨブ39:16,17に“ダチョウは自分のひなを荒く扱う。自分の子ではないかのように。苦労が無駄になることを気にしない。 神が知恵を奪ったからだ。”とあるように、知的能力という意味もある。」
「ダチョウはひなを荒く扱いません。ヨブ記を書いた人は少し知恵が足りませんね。」

「5節にはJWの偏見が並べられている。」
「まず“私たちが伝道で会う人たちの多くは,自然界がよくできているということは認めています。しかし,造った方がいることを否定し,全ては進化によって生じたと考えています。”とあります。この世にはJWのような創造論者と無神論の進化論者の2種類の人しかいないのですね。」
「神という概念だって色々あるし、それによって宇宙の成り立ちに対する考え方もいろいろあるんだけどね。何事も2つのカテゴリーに単純化するのがカルト的な思考様式ね。」

「その後に“また,神の存在を認めてはいても,聖書の基準は時代遅れだと考えて,自分の好きなようにしている人もいます。”と続きます。聖書は時代遅れと考える人は自分勝手な悪人みたいな言い方です。この二つに関連性はありません。」
「聖書の基準は時代遅れでしょう。奴隷制を当然視しているし、性差別がひどいし、やたら死刑にしたがる。残酷で野蛮。二酸化炭素の排出を制限しようなんて言う基準もない。」
「基本的人権という発想がないのがイタイです。」
「基本的人権という思想には、どんな人でも人間として尊重されなくてはならないという考えが含まれるけれど、聖書にはそんな思想はないからね。」

「5節に“「エホバに逆らっては,知恵も,識別力も,助言もあり得ない」。(格 21:30)”とありますが、訳はこれでいいのですか?」
「“あり得ない”がへんだね。神の意志に逆らっては何事もうまくいかない、という意味だから、“無に等しい”とでも訳せばいい。」

「6から13節が“人々が真の知恵を退ける理由”です。 この記事の主要な部分です。6節で“聖書によれば,知恵を退ける人たちには3つのグループがあります。「経験のない人」,「あざける人」,「愚かな人」です。(格言1:22-25を読む。)”とあり、7節以降、この3つのタイプの人の解説です。」
「多くのJWがあてはまるような気がするね。」
「格言の作者はエリート主義ということですね。」
「知恵を得るには勉強とそれに必要な知的能力と生活環境が不可欠。格言のような知恵文学はエリート層向けで、社会の底辺に住むような人は最初から相手にしていない。」

「聖書に出てくるのは権力者とその周辺の人物がほとんどです。聖書に書かれている宗教思想はエリート層の宗教とみていいわけですね。」
「古代イスラエルの一般民衆の宗教は聖書の宗教とはあまり関連しない。古代の住居跡からは様々な偶像が出てきて、そういう神様に家内安全や病気平癒を祈っていたのだろう。聖書の神様はそう言った庶民のささやかな願いに無関心だよね。」
「JWによれば、聖書の神様の関心は宇宙主権論争みたいですよ。」
「ということはJWの信者の悩みや苦しみは無関心ということだ。そんな神様に祈っても意味ないよ。」

「7節は“経験のない人”についてで、“世間知らずで,簡単に説得されたりだまされたりする人のことです。”と説明しています。」
「“経験のない人”と訳されているヘブライ語の意味は“開かれている”というような意味。善にも悪にも開かれていて、影響を受けやすいということ。それほど悪い意味ではない。」

「その後で“私たちは伝道でそうした人たちに会うことがあります。確かに,非常に大勢の人が,宗教指導者や政治指導者に惑わされています。”と、他人事のように書いていますが、JWこそが“世間知らずで,簡単に説得されたりだまされたりする人”と思われていることを知らないのですね。」
「“中には,自分がだまされてきたことを知ってショックを受ける人もいます。”とあるけれど、これもJWに当てはまるよ。児童性的虐待の隠蔽などを知ってショックを受けてJWをやめた人はけっこういる。」

「7節でカナダの女性が“もしうちの司祭が私たちを惑わしているとしても,それはその司祭の責任であって,私たちの責任ではありません。”と言ったとあるけれど、JWはこの女性のレベルにも達していないよ。」
「統治体が私たちを惑わすなんてことは絶対ありません、とJWは根拠なく主張するだけですね。会話になりません。」
「7節の最後は“あえて変化しようとしないこうした人たちのようにはなりたくありません。”なんだけど、JWの多くは組織から騙され、踏みつけられても、変化しようとしない人でしょう。」

「8節では話が大きく変わります。“聖書を勉強し,集会に出席するようになってしばらくたっているのに,献身やバプテスマの段階まで進歩していないなら,それはなぜでしょうか。すでにバプテスマを受けているなら,良い知らせを伝えたり教えたりする面で成長しているでしょうか。”と、信者に圧力をかけています。楽しい気分でここまで読んできた人が仮にいたとしても、ここで読む気をなくします。」
「真の知恵とかいっても、結局無給の宗教拡張員養成の知恵に過ぎないということだね。どんな話も結局、バプテスマを早く受けろ、開拓者になってもっと伝道しろということに結び付けられる。」

「9節が“あざける人”です。“私たちは伝道でそのような人に会うことがあります。”といっています。JWもJW以外の人をサタンの手先とか言って、さんざんあざけっていますからね。仕方ないですよ。」
「“正しい人ロトの婿たちと同じように,神からの警告に注意を払わない人がいます。”とあるけれど、ロトを“正しい人”と何の疑問も抱かずに呼んでいるだけであざけられるよ。」
「ロトは酔っぱらって、実の娘二人とセックスして、子どもまで作った人ですよね。聖書の時代遅れの基準では正しい人かもしれませんが、現代ではこんな人を正しい人とは呼べません。」
「現代の基準は聖書の基準より高いものもあるということの例だね。」

「10節では“批判的な態度を取る人たちと関わりを持たないようにすることです。(詩編1:1を読む。)それで,背教者の言うことを聞いたり書いた物を読んだりは決してしません。”と、信者を外部の不都合な情報から隔離させようとしています。」
「カルトは自分たちだけが真理を知っている特別な存在で、外部の人間は敵だと思わせるのが特徴だ。いまではそれがうまくいかなくなっている。」

「10節には“次のように考えましょう。「自分は新しい指示や説明があった場合,消極的なことばかり言うだろうか。教え導いている人たちのあら探しをする傾向があるだろうか」。”とあるのですが、新しい指示や説明が大抵不可解だったり的外れだったりするという問題は無視するのですね。」
「“消極的”とあるけれど、元の単語はnegativeで、”否定的”という意味だろう。」
「日本では指示や説明に否定的なことを言うと、即排斥なのですよ。」
「外国では否定的なことを言いながら会衆に留まっている人がいるという日本ではありえないことが普通にあるのだと、日本人の信者に気づかれないように、”消極的”と訳しているのかな。」

「11節が“愚かな人”です。“神の道徳基準に従って生きるのではなく,自分が正しいと思うことを行っている”人と説明しています。」
「“そうした人たちは,伝道している私たちに対して,聖書の基準に従っていることを厳しく批判することがよくあります。”とあるけれど、違うよ。聖書の基準と称して、統治体の基準に盲目的に従って、輸血を拒否して子どもを死なせたり、危険な目に遭わせたりしているから、批判されているだけだろう。」
「以前は聖書の基準に基づくと言って体罰推奨していたのに、体罰が問題になると、そんなことはないとすぐばれるウソをつくから批判されています。」
「体罰を勧めている聖句の翻訳も変えてしまったよね。だから批判される。格言29:15は古い訳では“むち棒と戒めは知恵を与える。”だったけれど、新しい訳では“懲らしめと戒めは知恵を与えるが”に変えてある。」

「12節に“愚かにもエホバの基準を退ける人はどんな問題を経験しているか,そして,私たちは神に従うことによってどれほど良い生き方ができているかを考えてみてください。”とありますが、この記事を書いた人は、森の中の本部に引きこもっている人で、現実世界と何の接点もない人のようです。」
「JWと言えば、見かけるのは、スーパーの売れ残りの半額商品をあさっている貧困老人だよ。それを良い生き方とは呼ばないよ。」

「13節では“エホバは全ての人が知恵を得られるようにしていますが,それを押し付けたりはしません。それでも,知恵に耳を傾けない人がどんな結果になるかを明らかにしています。(格 1:29-32)”とあります。引照聖句には“経験のない人は身勝手なので死ぬことになり,愚かな人は自己満足のために滅びるのである。”と脅迫めいたことを書いていますが、必ずしも事実ではありませんよ。」
「“あざける人”のことが書かれていないね。あざける人はお咎めなし?」
「格言は単なることわざ集です。その真偽は怪しいです。」
「例えば、格言10:27は“エホバへの畏れは命を延ばし,悪人の年は短くされる。”とあるけれど、これが本当ならJWは非JWより長生きしなければならない。現実は逆だろう。」

「14から18節が“真の知恵は私たちのためになる”です。 実利実益に訴えています。15節で、格言4:23の“ほかの何よりも,あなたの心を守れ。命は心に懸かっているからである。”を解説していますが、その解説がいつものとおりのJWらしいねじ曲がった内容です。」
「15節では、“心を守る”とは“聖書で毎日自分を養います。準備して集会に出席し,コメントをします。熱心にまた定期的に伝道を行います。そして,良くない習慣を避けます。”と説明している。こういったJW活動をしないと心が守れないなんて、格言のどこにも書いていないよ。」

「16節は“持っている物で満足する。”で、格言23:4,5節の“富を得ようとして疲れ切ってはならない。・・・それは必ずワシのように翼を生やして空に飛び去る。”が引用されています。」
「いつもの貧困の勧めだね。」
「格言は宗教のために生活を犠牲にしろとはいっていませんよ。過度に富を求めることを戒めているだけです。」
「JWには、格言を少し変えて、宗教活動で何かを得ようとして疲れ切ってはならない。それはハゲタカのように飛び去る、と言いたいね。」

「17節は” 話す前に考える。”で、格言12:18の” 心ない発言は剣のように突き刺し,賢い人たちの舌は人を癒やす。“が引用し、” 誰かの欠点や失敗についてのうわさ話をしないようにするなら,良い人間関係を保つことができます。”と、JWの娯楽である悪意ある噂話を戒めています。」
「この種の指示は何度も出てくる。JW内では悪意あるうわさが絶えないということなんだろう。」

「18節は“指示に従う。”で、格言24:6の“的確な導きによって戦いをせよ。助言者が多ければ成功する。”が取り上げられています。JW訳では“巧みな指揮”となっているのに、ここでは“的確な導き”としていますね。」
「聖句なんて、信者をコントロールするための道具にすぎないのだから、訳もその都度使い分けるのだろう。」
「18節の解説では“この言葉は,宣教で成功を収める上でも助けになります。私たちは,自分なりの方法で行うのではなく,提案に従うよう努力しています。”というもので、組織に指示された通りのやり方で宣教活動を行えという指示です。」
「JWは個人の創意工夫を嫌い、上からの指示に盲目的に従うことを重視している組織ということがよくわかるね。」

「最後の19節は“格言3:13-18を読む。”となっています。こんな聖句を読んでいいのですか?そこには、知恵を得た人は“長寿が右の手にあり,富と栄誉が左の手にある。”と言っています。JWに当てはまりませんし、JWの価値観と一致しませんよ。」
「“格言”の教えは、知恵を得て、真面目に働き、長生きして、富と栄誉を手に入れて、幸せに暮らそうというもの。JWはそういう考えを否定し、楽園を夢見て、結婚もせず子どもも作らず、一生貧乏暮らしのまま宗教活動に身を捧げようという価値観。こういったJWがなぜ格言なんか学ぶのか不思議だね。」

#1430 2022年12月30日 15:14:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私たちの希望をしっかり保つ(44)”で、希望を抱いて、JW活動をさぼらずやりなさいという内容です。)
「次回とは1月1日だね。今年はロシアがウクライナに侵攻した。戦争は終わりそうもない。一方、コロナ問題は終息に向かいつつあるようだね。」
「安倍元首相の銃撃事件で宗教2世問題が注目を浴びたのは予想外の展開でした。JWも旧統一教会と並んで悪徳カルト宗教として取り上げられることが多くなりました。」
「来年はJWにとって厳しい年になるかも。それで、これはサタンの策略だ、陰謀だ、と言い出したら面白いね。」

「1節に“一部の人は,天で不滅の命を得て永遠に生きるという希望を持っています。”とありますが、この人たちの多くは精神が不安定な人たちじゃなかったでしょうか?」
「ものみの塔2011/8/15の“読者からの質問”で、“過去の宗教信条や,精神的・感情的な問題などにより,誤って自分は天の召しを受けていると思い込む人がいるかもしれないからです。”とあり、ものみの塔2016/1の“読者からの質問”でも“精神的あるいは感情的な問題のゆえに,自分はキリストと共に天で支配すると思い込んでいる人もいることでしょう。”とある。まあ、JWの希望なんてそんなものでしょう。」

「2節で“聖書に出てくる「希望」という言葉には,「良いことが起きると期待すること」という意味があります。”と言っていますが、出典はありません。本当ですか?」
「それって、現代語の希望の意味じゃないの?ヘブライ語で“希望”と訳されている言葉はいつも希望と訳されるかというと、多くは希望とは訳されない。それは現代風の“良いことが起きると期待すること”という意味にぴったりのヘブライ語はないから。文脈によって信頼とか確信と訳されているね。」

「2節では“私たちの希望は,夢物語や単なる願いではなく,確かな根拠に基づいたものなのです。”と強弁しています。自信がない時にJWは強弁する傾向があります。」
「JWの天に行くとか、地上で永遠に暮らすとかの希望は何の根拠もないよ。根拠と称しているのは、一部の聖句のJW流の曲解にすぎない。」

「3節に希望が重要な理由が出ています。“希望を抱いてエホバを待つ気持ちが強ければ,私たちは試練を忍耐することができ,将来どんな問題にぶつかっても勇気や喜びを保つことができます。”とあります。つまり、何もしてくれないエホバを気長に待つために希望は重要なのです。」
「この記事は、JWの希望である楽園の到来は遠い遠い先のことで、決して間もなくではないことを前提にしているということだね。そういう状況でもJWの忍耐が続くように希望を取り上げている。」

「4から7節が“私たちの希望はいかりに似ている”です。 ヘブライ6:19の“この希望は,私たちの命のためのいかりであり,確かで揺らぐことがなく,私たちを幕の向こう側に導き入れます。”を取り上げます。」
「5節で“イエスが苦しみの死を目前にしても忠実を保つ上で,希望はどのように助けとなったのでしょうか。”とあるけれど、イエス自身は希望については一度も語っていない。」
「5節で引用されているのは、使徒2章のペテロたちの言葉ですね。」
「しかも、それは詩編を引用している部分。」

「6節が体験談ですが、なんと第1次世界大戦中の話です。100年以上前ですよ。最近の話はなかったんでしょうね。」
「兵役拒否の結果投獄されて重労働を課されたという話だけど、“忍耐する上で希望がとても大切だ。”と言っている。今は多くの国で徴兵制がなくなったから、100年前の話を再利用するしかなかったんじゃないの。」

「この第一次世界大戦の徴兵を拒否した人はどんな希望をいただいていたかというと、まもなく終わりの日が来て、生きたまま楽園を迎えるというものですよ。」
「その希望は実現することなく死んだ。むなしい希望に振り回された一生だったということだ。今のJWだって同じだよ。」

「7節で、ローマ5:3-5を読むのですが、そこには“忍耐すると神から良いと認められ,神から良いと認められると希望を持てます。”とありますが、誤訳じゃないですか?」
「協会共同訳では“忍耐が品格を、品格が希望を生む”だね。品格と訳されているギリシャ語は、検査とか証明という意味で、検査されてその品質が保証されたものを指す。それを人間に適用すると、優れた人格という意味になり、“品格”という語になったのだろう。」

「英語のJW訳ではapproved conditionで、承認された状態という意味です。」
「その英訳は間違っているとは言えないね。しかし、それを” 神から良いと認められ”と日本語訳してしまうと、間違い。ローマ5:1で” 私たちは信仰のゆえに正しいと認められたのですから”とあるように、忍耐したら神から良いと認められるなんて言う思想はパウロにないことくらい理解して翻訳の仕事をして欲しいね。」

「忍耐することにより、人格が鍛えられ、それが希望を生む?よく理解できません。」
「ローマ5:2に“神によって栄光に輝くという希望があるのですから”と言っている。希望とは神の栄光にあずかるという希望。優れた人格があって神の栄光にあずかれるという希望が出てくるという意味だよ。」

「8から10節が“私たちの希望はかぶとに似ている”です。 希望についての2つ目の比喩です。これはテサロニケ一5:8の“救いの希望というかぶとをかぶりましょう。”から来ています。8節で“かぶとが兵士の頭を守るのと同じように,希望は私たちの思いを守り,エホバへの忠実を保てるよう助けてくれます。”と説明しています。そんな意味じゃないですよ。」
「テサロニケ一5:8の前半は“しかし,昼のものである私たちは,頭がさえた状態を保ち”で、そのために“信仰と愛の胸当てを着け,救いの希望というかぶとをかぶりましょう。”というわけ。エホバへの忠実なんか出てこないよ。いつも信者に服従を要求するカルト宗教の執筆者が勝手に付け加えているだけ。」

「ここでは冷静さを保つようにいっている部分ですよ。終わりが来る、来ると騒いでいる人を、5:7で“眠る人は夜に眠り,酒に酔う人は夜に酔います。”と夜に酔っぱらっている人だと言っています。」
「それに対して5:8でパウロは“昼のものである私たち”は宗教的に酔った状態とは無縁の存在でいましょう。そのためには信仰と愛と救いの希望を身につけましょう、と言っている。」

「つまりJWのような、終わりが来る、終わりが来るとバカ騒ぎしているような人にはなるなと、とてもまともなことを言っているわけですね。」
「“頭がさえた状態を保ち”と訳されているギリシャ語は“しらふ”という意味。JWは終末論という酒によっぱらった状態から早くしらふに戻らないといけないね。」

「9節に“永遠の命の希望は,私たちが賢い決定をする上で助けとなります。”とあるのですが、逆ですよ。それは有害な希望でJWの人生を悲惨なものにしています。」
「JWは今生きている人は死なないとか、若い人は老人になることはないとか、明日にでも楽園が来て永遠に若いまま生きるという希望を宣伝してきた。そのため、JWは70から80年生きるための計画も準備もしてこなかった。」
「80年生きるためには相当のお金がかかります。その日暮らしを勧めて、老後のことを考えさせないJWのような宗教は長寿社会に適応できなかったということですね。」
「永遠の命という希望は、現実の問題を逃避し自分に対しても家族に対しても無責任な生き方をするうえで助けになっただけだね。」

「9節では“現代,神の約束に希望を置いていない大勢の人は,今の生活を楽しむことばかり考えています。”と根拠はないですが悪意だけは十分ある主張をしています。」
「他人を批判しすぎ。今の生活を楽しめる人は幸せな人じゃないの?」
「自分が迷惑を受けているわけでもないのに、他人のことについて文句を言ったり批判する必要はないですよ。JWは寛容さがないのに、自分たちには寛容に扱えと周囲に要求します。」
「自分たちだけが正しく、自分たち以外は堕落した人間と決めつけるのがカルト宗教だから仕方がないか。」

「10節が面白いです。“「自分は永遠の命を与えてもらうことなどできない。それほど良い人間にはなれない。神の基準を全て守るなんて無理だ」と考える人もいるかもしれません。”とあります。そう思わせているのはJWですよ。聖書はそんな過度な要求はしていません。」
「信者が私はもう既に永遠の命を与えてもらう資格がありますので、伝道も集会にも参加しませんと言い出したら、組織は困るからね。」
「誰も守れないほどのルールをあれこれたくさん作ったうえで、全部守らないとあなたは滅ぼされると脅して、信者をコントロールするのがJWという宗教です。」
「こんな宗教を信じているなんて、気の毒だね。来年こそはやめよう。」

「11から15節が“希望をしっかり保つ”です。 希望を失っている信者向けの説教です。11節には“エホバの時間の感覚と私たちの時間の感覚は同じではありません。(ペテ二 3:8,9)”と、お決まりの聖句が登場します。そこには“エホバにとって1日は1000年のようであり,1000年は1日のようです。”とあります。」
「なぜそんなことを言うのか不思議だね。今は終わりの終わりで、間もなく終わりの日が来るというのがJWの教義でしょう。今年も何事もなく終わりそうなので、弱気になっているね。」

「引照聖句には“神は,一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいるので,皆さんのことを辛抱しているのです。”と書いています。JWの増加より世界人口の増加の方が多いです。滅ぼされる人は増えていくばかりですよ。JWの希望はまだまだ実現しません。」
「それで9節には“エホバは,最も良い方法でご自分の約束を果たしてくださいます。でも,私たちが期待しているタイミングでそうしてくださるとは限りません。”と書いている。要するに、JWの希望の実現は遠い先と言っているのと同じだね。それでも希望を持て、JWを続けろ、というのがこの記事の主旨。」

「12節で、“希望を実現してくださる方エホバとの絆を強めるなら,希望をしっかり保つことができます。”とあります。13節以降はエホバとの絆を強める3つの方法が出てきます。」
「13節は①“エホバに祈り,聖書を読む。”だね。どんなテーマでこの2つは出てくる。なんにでも効く魔法。」

「14節が②“エホバが約束を守ってきたことについてじっくり考える。”です。アブラハムの話が出てきます。でも、アブラハムの話は史実ではなく、民族創生のお話です。」
「アブラハムの話に史実性はないよ。アブラハムなどの族長時代の話には時代錯誤のものがたくさん登場する。ラクダは有名な例だね。アブラハムの出身地は“カルデアのウル”だけど、カルデアという言葉は前7世紀より前には使われない言葉。」

「15節が③“自分のためにエホバがしてくださったことについて考える。”です。具体的には、“例えばイエスは,生きていくのに必要な物をエホバが与えてくださると約束しました。”と言っています。」
「食べ物がなくて困っていたら、玄関先に食べ物が入った箱が置かれていました、というような話でしょう。JWもお世話になっている生活保護制度もエホバがサタンの政府を動かして用意してくれたものなんだろうね。」

「最後の16,17節は“希望によって喜ぶ”です。 この記事のまとめで、すでに言ったことの繰り返しです。もう新しく書くことがなくなったのでしょう。」
「16節の最後に“希望をしっかり保つことは,大いに私たちのためになるのです。”とあるけれど、JWの場合は違うよ。その希望なるものはインチキと認識し、新たな別の希望を抱くことこそためになるよ。」
「永遠に地上で楽しく生きると考えるのは自由ですが、その現実逃避の考えを真に受けて、人生設計をするのは有害ですよ。」

「17節に“パウロは,「ローマのクリスチャンへの手紙」の中で,「希望によって喜びましょう」と言いました。(ロマ 12:12)”とあるけれど、誤訳だね。Rejoice in the hopeで、希望を抱いて喜びましょう、だよ。でもhopeになんでtheが付くのかは理解できないけどね。」
「そのあと、“パウロは,忠実を保つなら天での永遠の命を得ることができると確信していたので,喜ぶことができました。”と続きますが、引照聖句はありません。この希望は、少し精神に問題のあるJWの希望ですよ。」
「初め、パウロは生きてキリストの再臨を迎えると信じていた。それがパウロの希望だったけれど、途中であきらめたようだ。JWも来年こそは新しい希望が見つかるといいね。」

#1431 2023年01月06日 14:27:46

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバに助けていただき,伝道をやり遂げる(45)”で、エゼキエルを取り上げるのですが、伝道をさぼるなという内容です。」
「最近久しぶりにJWの二人組が伝道と称してぶらぶら歩いているのを見たよ。」
「JWの記事ではダニエルはよく出てきますが、エゼキエルはあまり取り上げらませんよね。」
「終末論とあまり関係ないからね。」

「1節で“私たちは伝道を行う時,反対されることを予期しています。これから先,こうした反対はますます増えていくことでしょう。(ダニ 11:44。テモ二 3:12。啓 16:21)”とあります。引照聖句はこれから反対がますます増えていくなんてことは言っていません。」
「その中で面白いのは啓示16:21だね。“さらに,重さ20キロほどの大きなひょうが天から人々の上に降り,人々はひょうの災厄のゆえに神を冒瀆した。その災厄が甚大な被害をもたらしたからである。”とあるけれど、JWはこの聖句を“神の民は間違いなく,厳しい裁きの音信を宣明することになります。その音信には,サタンの邪悪な世が間もなく完全に終わるという宣告も含まれることでしょう。聖書はこの音信をひょうになぞらえ・・・”(塔2015 7/15)と、手前味噌な解釈をしている。」

「JWのダラダラしたふやけた伝道を“大きなひょう”になぞらえるとは、いつものことですが自分たちの活動を過大評価しすぎですね。」
「これからは、間もなく起きるハルマゲドンの戦いで死ぬか、JWに入って永遠の命を得るか、どっちらかを選べ、と絶叫して家々を回るつもりかもよ。それくらいしないとひょうのような音信と言えないよ。」

「1節の文章にはイライラします。“でも,エホバは私たちに必要な助けを必ず与えてくださいます。なぜそう確信できるでしょうか。エホバはご自分に仕える人たちが務めを果たせるよう,これまでいつも助けてきたからです。”とありますが、JWによくある駄文の典型です。3つの文がありますが、1つの文ですむのに、字数を膨らませるために、“なぜそう確信できるでしょうか。”と無駄な疑問文をはさむのですよ。」
「それだけじゃないよ。この節の質問の答えがすぐにわかるようにするためだよ。疑問文の後に書かれていることが答えだろう。小学生並みの知的能力の人でも答えがすぐ見つかるようにJWなりに工夫した文章なんだよ。」

「でも“エホバはご自分に仕える人たちが務めを果たせるよう,これまでいつも助けてきたからです。”というのはウソですよ。」
「平気でうそを言えるくらいじゃないとカルト宗教と呼ばれる資格はない。何の助けも得られず、見殺しにされた信者はたくさんいる。そういう人たちのことはきれいに忘れ、絶えずポジティブに考えるのが正しいJWの在り方ということだ。」

「3,4節が“エゼキエルはエホバから遣わされた”です。 JWは統治体から遣わされただけで、エゼキエルとは全く違います。」
「海外でJW死んだ場合は、個人が勝手に行ったと組織は言うよ。統治体からも遣わされているとは言えない。」

「3節で“エホバから「私はあなたを遣わす」と2回言われた時,エホバが必ず助けてくださると確信できたはずです。”とありますが、そうとは限りませんよ。例えば、エレミヤはエホバから“私があなたと共にいて,あなたを救う”(エレミヤ1:5)と言われましたが、悲惨な生涯で、最後は殺されたと言われています。」
「エレミヤの最後はわからないけれど、エレミヤ43:5に“カレアハの子ヨハナンと全ての軍隊長たちは,ユダの残りの者を皆連れ去った。”とあり、43:6ではその中にエレミヤがいたことが記されている。」

「エルサレム陥落後、エレミヤは意志に反してエジプトに連れていかれたわけですよ。そこでも、エレミヤはエジプトが滅びると相手を刺激する預言をしています。」
「エジプトの保護下にあるユダヤ人からすれば、親バビロニアのエレミヤは放置できない危険な存在ということで殺されたと推測されている。キリスト教初期の教父は、エレミヤはタフパヌヘスでユダヤ人によって石打にされて殺されたと言っているね。それを裏付ける具体的証拠はないけれど。」

「5,6節は“私たちもエホバから遣わされている”です。 JWは違いますよ。ここではなぜかイザヤ書に跳びます。5節で“エホバは,私たちのことをご自分の「証人」と呼んでくださっています。(イザ 43:10)本当に名誉なことではないでしょうか。”と自画自賛しています。バカバカしいです。」
「イザヤ43章はイスラエル人に向けて語られているわけで、現代のニューヨークに本部のある怪しげな宗教団体に向けて語られたものではないことくらいわかりそうだけれどね。」

「証人は裁判で証言する人のことですよ。イザヤ43:9で“全ての国は1つの場所に集合し,人々は集まれ。(略)彼らに証人を出させ,自分たちの正しさを証明させてみよ。”とエホバが言うわけです。架空の国際法廷ですよ。エホバ側の証人はイスラエル人しかいないので、43:10で“あなたたちは私の証人である。”といっているだけです。」
「他の国はイスラエルの神なんか、自国民を守ることもできないダメな神として相手にしていないからね。」

「JWはエホバの証人なわけで、全くユダヤ的、旧約的な存在のくせに、クリスチャンを名のるのはへんですよ。」
「営業戦略上、クリスチャンを名のった方が新規会員を獲得しやすいからだよ。旧統一教会と同じ。」

「6節で“エホバは私たちのことを助けると保証してくださっています。”と主張しています。事実に反します。」
「その根拠がイザヤ43:2だけれど、これはイスラエル人に向けて言っているわけで、JWに向けて言っているわけじゃないよ。」

「6節に“人々から退けられるとしても,私たちが神の証人としての務めをきちんと果たせていないというわけではありません。忠実に伝道を続けるなら,エホバは喜んでくださいます。”とありますが、聖書的根拠はありませんね。」
「旧約聖書では預言者という特別な人が神から選ばれて、神の言葉を伝える。それ以外の人が伝道者として神の言葉を伝えることはない。だからJWが利用可能な聖句はあまりないね。」

「JWの伝道は、今や何の成果もあげられず、無意味な行為となっていますから、それでもエホバは喜んでくださいますといいかげんなことを言って、信者にやる気を出させようということですね。」
「JWの伝道は、今や信者獲得などの結果など期待できず、伝道すること自体が目的。実際、信者からすれば時間をカウントすることが伝道の目的でしょう。実情に合わせたということ。」

「7から9節が“エゼキエルは聖なる力によって強められた”です。 英文ではEZEKIEL—EMPOWERED BY GOD’S SPIRITですから、神の霊によって力を与えられた、ですね。」
「日本語訳者は、聖書から“霊”を排除すれば、受けが良くなると思っているみたいだ。神の霊とか聖霊はみな“聖なる力”に自動的に変換されている。」

「7節はエゼキエル1章に出てくる奇怪な幻を取り上げて、“エゼキエルはこの印象的な幻について考えるたびに,神の聖なる力の助けがあれば自分の務めをやり遂げることができる,という確信を深めたことでしょう。”といい加減なことを言っています。」
「エゼキエル1章の幻は10章にもまた出てくる。10章では、謎の生き物はケルブとはっきり認識されている。ケルブはケルビムの単数形ね。でも、そこでは、自分の務めをやり遂げられる確信を深めたなんてことは一言も出てこないよ。」

「なぜ1章ではエゼキエルは謎の生き物がケルブとわからなかったのでしょうか?エゼキエルは司祭ですからケルビムはなじみがあるはずですよ。」
「それは謎だね。1章の幻は聖なる力が不足していてぼんやりとしていたんじゃないの?」

「8節に“その後,伝道を行っている間ずっとエゼキエルはエホバの聖なる力に助けられました。(エゼ 3:22; 8:1; 33:22; 37:1; 40:1)”とありますが、英文とはかなり違います。」
「Ezekiel was guided by God’s “hand”—that is, God’s holy spirit.とある。神の手によって導かれていたとあるね。神の手は神の聖霊のことだと言っている。神の霊なら聖書によく出てくるけれど、神の聖霊なんて言う言葉は出てくるかな?」

「引照聖句のエゼキエル3:22は英文ではThe hand of Jehovah came upon me thereなのに、日本語版では” エホバの力がその場所で私に働き”になっています。なんでも”力”に変えているのがわかります。」
「適当に改変しないで、聖書の本文を大事にしてほしいね。」

「9節では“エゼキエルはエホバの聖なる力によって,自分が伝道を行う区域へと運ばれました。”とありますが、英文で“神の霊によって”ですね。」
「そのあと“「エホバの力が私に強く働いていた」と書いています。”とあるけれど、“The hand of Jehovah rested strongly on me,” wrote Ezekiel.で、エホバの力ではなく”エホバの手”だよ。神の手が私に臨んだ、というのはエゼキエルが幻を見るときによく出てくる特徴的な表現なので、勝手に変えないで欲しい。」

「10,11節が“私たちも聖なる力によって強められている”です。 10節で“私たちが伝道をやり遂げる上で,どんな助けが必要でしょうか。”とありますが、成果がなくても問題ないと既に6節にあったのですから、特に何も必要としていませんよ。とにかく時間さえかけてやっていればエホバという神は喜ぶのです。」
「10節ではカルト丸出しのことを言っている。“サタンが私たちに敵対して,伝道をやめさせようとしているからです。(啓 12:17)”とある。JWに反対する人はサタンなわけだよ。」
「自分たちだけだ正しくて、外部の人間を悪と決めつけ憎むというカルトらしい姿勢が強まるということですね。」

「引照聖句は“それで竜は女に対して激怒し,彼女の子孫のうちの残っている人たち,すなわち,神のおきてを守り,イエスについて証言する務めを与えられている人たちと戦うために去っていった。”だけど、これは現代のことじゃないし、JWのことでもないよ。」
「JWはイエスについて証言などしていません。何事もエホバ、エホバと繰り返す宗教です。」
「この記事だって、イエスは1回しか出てこないよ。イエスなんてほとんど無視されている。」

「10節には“伝道を行うたびに,サタンに一撃を加えていることになるのです。”と、空想話がでています。JWは信者に自分たちはサタンと日々戦っていると信じ込ませて、やる気を出させようということですね。」
「サタンは本当に役に立つキャラクターだね。もしそうならなぜサタンはJWの伝道を許しているのだろう?」

「12から14節が“エゼキエルは神の言葉によって信仰を強められた”です。 エゼキエル2:9に出てくる巻物の話です。エゼキエルはその巻物を食べさせられるわけですが、それについて13節で、“エゼキエルは自分が伝えるメッセージを十分に理解する必要があった,ということです。それをぜひとも伝えたい,という気持ちになるほどに,確信する必要がありました。”とありますが、これは違いますよ。」
「巻物を食べるというのは、預言者として働くことを受諾したという意味だよ。メッセージを理解するとか確信するとか、勝手に拡大解釈しすぎだ。」

「エゼキエル1から3章は、預言者の召命とその受諾という部分です。これは預言者の物語の決まりきったパターンですよ。」
「預言者のストーリは、初め神が現れて、任務が与えられけれど、預言者は何かあれこれ理由をつけて辞退する。そのあと神がそれに対して答え、預言者と共にいることを保証し、預言者が任務に同意する、と進むのが典型だね。」

「15から17節が“私たちも神の言葉によって信仰を強められている”です。 15節で“現代,エホバは聖書を通して私たちに語り掛けています。”とあり、聖書を読みましょうと言っています。16節には“聖書を読んでじっくり考えるなら信仰を強めることができる,ということです。”とあります。」
「その聖書はJWの教義に合わせて改ざんしたJW訳の聖書だからね。その解釈もJWの教義に則ったものなので、結局JWの教義を学ぶだけだよ。」

「それでもエゼキエル書をまじめに読むだけでも聖書のおかしさに気づきますよ。エゼキエル26:14に“私はあなたをむき出しの岩にする。あなたは引き網の干し場となり,決して再建されない。私エホバが語ったからである”とありますが、これはティルスという町のことを言っています。でもティルスは新約聖書に何回も登場します。」
「ティルスはバビロニアが滅んだ後も健在で、前332年、アレクサンドロス大王の軍に対し、フェニキア人の中で唯一激しく抵抗した都市。3万人の市民が奴隷にされたと言われている。でも、その後も再建されたよ。預言が外れたね。」

「それから、エゼキエル29:10,11に“私はあなたとナイルに敵対し,ミグドルからシエネまで,エチオピアとの国境に至るまで,エジプトを滅ぼし,乾いて荒れ果てた所にする。人も家畜もそこを通ることはなくなり,40年の間誰もそこに住まない。”とありますが、そんなことはエジプトに起こりましたか?起きませんよ。」
「エゼキエルの預言以降も、エジプトには人も家畜も住んでいるよね。聖書を読んでじっくり考えるなら、聖書って結構いい加減な本だということがわかる。」

「最後の18,19節が“終わりまで粘り強く行う”です。 何を粘り強く行うかというと、一般の人から迷惑行為と思われている伝道です。」
「ここまで伝道を強要するということは、そうしないと誰も伝道しなくなるからだろう。」
「18節で“伝道が十分に行われたとエホバがご覧になる時までそうします。裁きが行われる時,「自分は警告を受けなかった」とか,「神は私のことを見ていなかった」などと言える人は,一人もいません。”とあります。多くの信者のため息が聞こえてきそうです。」
「イスラム諸国、中国、インドなどはほとんど伝道活動が行われていない。これらの国の人口は人類の半分くらい。ということは、伝道が十分に行われたと言えるためには、あと1000年は必要ということだね。」

#1432 2023年01月13日 14:24:41

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバに助けていただき,喜びつつ忍耐する(46)”で、イザヤ30章の聖句を取り上げて、つらいJW人生の耐え方を学ぶという内容です。」
「つらいJW人生を耐える必要なんかないよ。つらければJWをやめればいいだけ。」
「やめると家族とも会えない、滅ぼされると脅えて、やめられない人もいるのですよ。」
「イザヤ30章はアッシリアの脅威にさらされていた時代を背景にしているのだけれど、この記事はそのことを全く無視して、解説している。意図的なのか無知ゆえなのか、気になるね。」

「2節にちょっと学術的なことが書いています。“パウロはこう書きました。「エホバは私を助けてくださる。私は恐れない。人が私に何を行えるだろう」。(ヘブ 13:6)参考文献によると,ここで「助けてくださる」と訳されている語には,助けを求める人のもとに駆け付けるという意味合いがあります。”とありますが、これは翻訳の問題がありますね。」
「“エホバは私を助けてくださる。”は、Jehovah is my helperで、エホバは我が助け手。そして、“助けを求める人のもとに駆け付けるという意味合いがあります。”は、a person who runs to the aid of someone crying for helpで、助けを求める人を援助するために駆けつける人という意味があると言っている。」
「聖書の翻訳の際、助け手を“助けてくださる”と動詞として不正確に訳したため、それにつじつまを合わせるために、この記事の文を捻じ曲げて訳さざるを得なくなっていますね。」

「参考文献が何かを示さないインチキ引用なのはいつものことだね。そう書いてある本があるかもしれないけれど、ヘブライ13:6で使われている単語の意味は、助け手、英語ならa helper と辞書にあるよ。」
「参考文献を示したら、問題が起こるからですよ。その参考文献はまともなものなら、JWの教義と矛盾することを色々書いてあります。すると、同じ本なのに自分たちが都合よければ参考にし、都合が悪いものは無視するというJWのいつものいい加減なやり方がバレちゃいますからね。」
「そういうことを気にしないように、JWは高等教育を禁止しているんだよ。」

「3節に“イザヤが聖なる力に導かれて書いた預言の多くは,現代エホバに仕える人たちに当てはまるからです。”とありますが、何の根拠もありませんよ。」
「イザヤ書は書かれた時代に生きていたイスラエル人に向けて書かれている。現代人に向けて書かれたことにするのは、信者に特定の教義を押し付けるのに都合がよいからだよ。」

「4から7節が“エホバは私たちの祈りを聞いてくださる”です。 とにかく祈れ、ということです。イザヤ30章がここで登場です。4節に“そしてその言葉の通り,彼らはバビロンに捕囚にされました。”とありますが、イザヤ30章はバビロン捕囚の話でした?」
「イザヤ30:31に“エホバの声によってアッシリアは恐怖に襲われる。神はつえでアッシリアを打つ。”とあるように、アッシリアの時代の話だよ。バビロン捕囚の100年以上前の時代だ。」

「4節に“エホバがやがて彼らをエルサレムに戻らせてくださるというメッセージです。(イザヤ 30:18,19を読む。)”とありますが、引照聖句にそんなこと書いていますか。」
「“民がシオンに,エルサレムに住む時,あなたは決して泣かない。”とあるけれど、捕囚からエルサレムに戻すとは言っていない。イザヤ30章をバビロン捕囚の話と決めつけているから、そのような解釈をしてしまうだけ。」
「30:18までは韻文です。30:19からは散文に変わります。内容的にも18節までが今の時代で、19節が新しい時代のことです。18と19を一緒にして解釈するのはおかしいですよ。」

「4節に“バビロンで捕囚になってから70年後,彼らはようやくエルサレムに戻ることができました。”とあるけれど、根拠はないよ。JWが勝手に前537年にエルサレムに戻ったと言っているだけ。キュロスの勅令は前539年だから、その年にエルサレムに帰った人もいただろうし、前538年に帰った人もいるはず。それなのにJWは前537年と決めつけて、その70年前の前607年がエルサレム滅亡の年と言っている。」

「4節の最後に“エルサレムに戻った時には喜びの涙を流しました。”とありますが、そうじゃない人もたくさんいたでしょう。」
「エルサレムのことなど何も知らない世代が大多数だからね。エルサレムに戻らず、そのままバビロニアに留まった人も大勢いた。時代ともにパレスティナの土地で暮らすイスラエル人より、国外で暮らすイスラエル人の方が多くなる。」

「7節に“「[エホバ]を休ませてはならない」と書きました。(イザ 62:7,脚注)これはどういう意味でしょうか。あたかもエホバが休めないと感じるほどまでに,何度も何度も祈る必要があるということです。”と断定していますが、違いますよね。」
「イザヤ62:7は“神に祈り続けなさい*。神がエルサレムをしっかりと据え,世界の称賛の的とするまで。”とある。*脚注には“または,「神を休ませてはならない」。”とある。つまり、“神に祈り続けなさい。”と訳しておきながら、この記事では訳として採用しなかった“神を休ませてはならない”という意味だと主張している。JWのご都合主義ぶりがよくわかるね。」

「協会共同訳では“主がエルサレムを建て/これを全地の誉れとされるまでは/主が休まれないようにせよ。”とあります。祈り続けなさい、なんてありませんね。JW訳は誤訳ということですね。」
「JWの説教に出てくるものは、祈れ、奉仕しろ、集会に出ろ、聖書を読め、組織に服従せよ、同じ会衆の人とはもめ事を起こすな、貧乏でも寄付しろなど。これらの説教に利用できるように、聖書を改変しているということだね。」

「この聖句はエルサレム再建に関するものですよ。今のJWと何の関係もありません。」
「本来の意味なんかJWは気にしないよ。何度でも繰り返し祈りなさいという説教に使えそうと思ったので、ここで取り上げたということだね。」

「8から11節が“エホバは私たちを導いてくださる”です。 8節に“イザヤ 30:20,21を読む。”とあります。そこには“あなたの偉大な教師はもはや姿を隠さず,あなたは自分の目で偉大な教師を見る。”とあるのですが、その解説として“イザヤはエホバのことを「偉大な教師」と表現し”とあります。エホバが教師ですか?エホバは見ることできますか?」
「まず“偉大な教師”だけど、“偉大な”はJWが書き加えたもの。JWは教師=エホバと解釈するから、単なる教師ではおかしいと感じて、“偉大な”を付け加えたのだろう。」
「JW得意の聖書の改ざんですね。ひどい宗教です。」

「それから“教師”ではなく、“教師たち”。つまり複数形だ。例えばNIVはyour teachers will be hidden no moreと訳している。Teachersだよ。」
「複数なら教師はエホバではないということは明らかですね。」
「預言者たちを指しているということだ。ところが、教師を受ける動詞は単数形なの。そちらを優先すれば神という解釈も成り立つともいえる。ヘブライ語聖書は神の言葉なのに文法的にいい加減ということだね。」

「9節では“イザヤは「あなたは自分の目で偉大な教師を見る」と言っています。ここでは,教師であるエホバが生徒の前に立っているかのように描かれています。”と、見るというのを文字通りではなく比ゆ的表現と解釈していますね。」
「教師=エホバなら、そう解釈するしかないわけだ。しかし、この聖句はイザヤ30:10,11を踏まえたものなんだけどね。」

「そこでは、反逆の民が“予見者たちに向かって『予見するな』と言い,幻を伝える者たちに向かってこう言う。『真実の幻を伝えるな。気分が良くなることを話せ。人を惑わす幻影を見ろ。道からそれ,進路から外れろ。もうイスラエルの聖なる方について話すな』”とありますね。」
「それが新しい時代では、隠れて沈黙していた預言者たちが姿を現し、神の言葉を伝え、民は正しい道を歩き出す、と主張しているのが30:19以降の部分。そういうわけで、教師は神様じゃないよ。」

「そのあとに“エホバは組織を通してはっきりとした指示を与えてくれています。”とありますが、これはおかしいですよ。先ほどのJWの解釈で、組織を通すなんてどこから出てきたのですか?」
「もし、そういう結論に導きたいなら、教師たち=預言者たちと解釈し、現在の預言者はJWの組織ですと言えばいい。この程度のことも思いつかないほど頭が悪いということだろう。」

「10節で、“イザヤは,エホバが教えてくださるもう1つの方法について,こう言っています。「後ろからあなたの耳に……言葉が聞こえる」。”といって、その意味を“神の言葉が収められている聖書は,はるか昔に書き終えられました。ですから,私たちは聖書を読む時,いわば後ろから語り掛けるエホバの声を聞いていることになるのです。”と解説しています。聖書を読めという説教に持って来ました。聖書といってもJW改ざん聖書ですけど」
「“後ろ”を時間的な後ろのこととし、“言葉”は聖書と解釈したわけね。イザヤの時代に聖書などという概念はないよ。」

「12から18節が“エホバは私たちのために素晴らしいことをしてくださる”です。 12節に“イザヤ 30:23-26を読む。”とありまして、“この言葉は,バビロンでの捕囚から自由になってイスラエルに戻ったユダヤ人にどのように実現したでしょうか。エホバは彼らに,生きていくため,またご自分に仕えるために必要なものを豊かに与えました。”と、見当違いのことを書いています。」
「そこには“神はあなたが地面にまく種のために雨を降らせてくださり,地面から栄養豊かな食物が豊富に生み出されるようになる。その日,あなたの家畜は広い牧草地で草を食べる。地面を耕す牛やロバは,シャベルとフォークでえり分けられて酸葉で味付けされた飼い葉を食べる。”と、あるけれどこれはバビロン捕囚後のことではないし、またバビロン捕囚後に農場生産高が上昇し、イスラエル人たちが豊かになったという史実はない。バビロン捕囚から戻ってきても、ペルシャ帝国の重税に苦しむことになる。」

「12節では“そして,イザヤ 30章26節にある通り,エホバはあたかも光を照らすかのようにして,ご自分の言葉をいっそうよく理解できるようにも助けました。”と、これまた見当違いのことを言っています。」
「そこでは“満月の光は太陽の光のようになり,太陽の光は7倍強くなり,7日分の光のようになる。エホバがご自分の民のけがを包み,自ら打った民の重い傷を癒やす日に,そのようになる。”とある。後半の部分は無視?光が増すことを聖書がより理解できることであるというのはJWらしい思い付きだね。」

「13節は聖書とは無関係のJWの説教です。“1919年以降,大勢の人たちが大いなるバビロン(世界を惑わしている間違った宗教全体)への捕らわれから自由になってきました。そして,比喩的なパラダイスへと導かれています。”とあります。1919年にJWはイエスによって真の宗教として選ばれたという、何の根拠もない独善的な教義をさりげなく繰り返しています。」
「多くの信者は1914年のことは知っていても、1919年のことは忘れているんじゃないの。1919年のインチキ教義のせいで、1914年も捨てられないし、前607年のインチキ年代も捨てられないという関係になっている。」

「14節の語句の説明で“比ゆ的パラダイス”の意味が出ています。“一致のうちに安心してエホバを崇拝できる環境のことです。”とあります。」
「“比ゆ的パラダイス”なんて、聖書にはないJWの作った言葉にすぎない。」
「とにかくJWは比ゆ的パラダイスにいると言いたいわけですよ。比ゆ的パラダイスにいる信者の皆さんは、なんと幸せなことでしょう、と幸せの押し売りをしているのですよ。」
「JWは比ゆ的にはパラダイスとしても、実際は地獄じゃないの?」

「16節はパラダイスらしくない話となります。“兄弟姉妹の欠点ではなく,良いところに注目することです。”とあります。会衆の中でけんかをするなということですね。比ゆ的パラダイスは大変です。」
「へんな例えが出てくる。“美しい公園や庭園には,いろいろな種類の木が植えられています。同じように,会衆にもいろいろな人がいて,比喩的なパラダイスを美しくしています。(イザ 44:4; 61:3)私たちは,一本一本の“木”にある 傷ではなく,“森全体”の美しさに注目する必要があります。”とある。木を見ずに森を見よ、ということ?森の将来を予測するためには、一本一本の木を見ることが大事だよ。傷だらけの木が多ければ、この森はやがて病気で枯れてしまうと予測できる場合だってある。」

「例えなんてどうにでも使えます。美しい森でも、たった1本の木が病気になっただけで全滅することがありますから、病気の木はすぐに伐り倒さなくてはなりません。同じように背教者は直ちに排斥すべきなのです、と排斥正当化の結論にすることだってできます。」
「JWは全体を見ても、一つ一つの木を見ても美しくないよ。自分たちのことを比ゆ的であれパラダイスと言っている時点で、現実と空想の区別がつかない頭がおかしい人と思われる。」

「最後の19節が“最後まで忍耐する”です。 エホバは,私たちのために「立ち上が」り,この邪悪な世界を終わらせてくださいます。(イザ 30:18)とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこには“エホバは公正の神だからである。この方を待ち続ける人は皆,幸せだ”とあるね。“この方を待ち続ける人”は誰のことかというと、JWのことじゃないよ。」

「ひとつ前の30:17に“1人の威嚇で1000人が震え,5人の威嚇であなたたちは逃げる。山頂の柱のように,丘の上の旗印のように見えるほど,わずかな人しか残らない。”とありますから、大多数はアッシリアの軍隊に脅えて逃げたにもかかわらず、エホバを信頼して逃げなかった、わずかな人のことですよ。文章のつながりを考えて欲しいです。」
「JWは、聖書の中でほめられる人はなぜかJWのことと思い込むよね。それくらいお目出たい人じゃないと、JWは続けられないということだ。」

#1433 2023年01月20日 14:55:53

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“どんなことがあってもエホバから離れないようにしましょう(47)”で、辛いのはサタンの攻撃のせいなので、それに対する防衛術を学ぶという内容です。」
「JWを辞めようとしている信者を引き留めるための記事なわけだ。」

「3節に“サタンはどんな手を使ってくるのでしょうか。エホバや組織に対する信頼を少しずつ弱めようとしてきます。”とあります。これは信者の誰かが、JWは信者の人生とお金を吸い取るだけのインチキ宗教ではないかという当然感じる疑問を抱いたら、“いや、違う。これはそう疑うようにサタンが攻撃してきたのだ。”と考えるように誘導しようということですね。」
「組織に都合の悪いことは、サタンの攻撃として片づけて、それ以上考えさせないようにするというのがJWの基本方針ということだね。」

「それにしても、サタン、サタンと繰り返すJWという宗教は普通の日本人には異様なカルト宗教そのものですよ。」
「4節に“この記事では,会衆の外から来る3つの問題について取り上げます。”とある。サタンはどんな問題を引き起こすのだろうね。しょぼいものじゃないよね。」

「5から7節が“つらい経験をする時”です。 つらい経験をするのはJWだからですよ。つらいならJWを辞めればいいだけです。」
「それだと組織が困るからね。何とか辞めないように丸め込もうとしている。5節に、サタンは“自分がつらい目に遭っているのはエホバや組織のせいだ」と思わせようとします。”とあるよ。サタンは人間の思考を乗っ取ることができるわけだ。」

「6節は、その対抗策で、“自分の気持ちを祈りでエホバに打ち明け,支えを求めてエホバに頼る。”です。JWの問題解決法①は祈りです。祈りはどんなことにも効く魔法の薬です。」
「思考を乗っ取るサタンに対してはそんなことは意味ないよ。JWには勝ち目はないよ。」

「6節には、ハバククが熱心に祈ったという話が出ています。そこから何を学べるかというと、“つらいことを経験する時には,自分の気持ちを祈りでエホバに打ち明け,支えを求めてエホバに頼りましょう。そうすれば,エホバは力を与えて問題に立ち向かえるように助けてくださいます。”とあります。祈ればサタンにも勝てるようですよ。サタンは映画や小説によくある悪役と同じで、強そうだけどどこか間抜けで最後はみじめに負けるというキャラクター設定のようですね。」
「そもそもハバククに起きたことが、なぜ今のJWにも同じように起きるのか、その根拠がないよ。」

「7節は“信仰を強めるための日課を守る。”です。今度は体験談です。食べるものも十分手に入らない貧乏姉妹が、家族から“神の聖なる力が助けてくれるっていつも言っているけど,全然助けてもらえてないじゃないか。家族も貧しいままだし。伝道なんかやったって,時間の無駄だ”と非難されたけれど、“いつも通り,聖書や出版物を読み,集会や伝道に参加するようにしました”というものです。それでどうなったかというと、“食べ物が全くないということはありませんでしたし,家族は幸せでした。”という結末です。」
「この話は全くリアリティがないね。ヨブ記をもとにしたような内容。ヨブ記では、重い皮膚病になったヨブに対して、ヨブの妻が“こうなってもまだ神に忠誠を尽くそうとするの? 神を侮辱して死んでしまいなさい!”(ヨブ2:9)という。この体験談の家族の発言はそのJW版だよ。」

「食べ物をどうやって得たのかについて何も触れられていないのが問題です。この姉妹はJW活動を今までと同じようにしていたら、家族は幸せでしたとかなり飛躍した結果が書いてあるだけです。」
「そもそも“家族は幸せ”と誰が判定したの?家族一人一人に幸せかどうか調査したわけじゃないよね。単なるJW判定だよね。」
「恐らく食べ物は近くのキリスト教の教会が貧しい人のために行っている食事サービスの列に家族全員並んで得たのですよ。それでどうやって食べ物を得たのかは書けなかったと思います。」

「“食べ物が全くないということはありませんでした”というのもヘンな表現だ。英文ではHer family did not go hungryだから、彼女の家族は空腹にはならなかった、飢えることはなかったという意味だよ。」
「翻訳者は、これは嘘だと思ったのですよ。それで食べ物が全くないということはないというわかりにくい表現でごまかしたのですよ。」
「どうして、“姉妹がこのままでは飢え死にします、食べ物をお願いしますと熱心に祈ったら、エホバは答えてくれました。祈った次の日の朝、家の前に食べ物がぎっしり入った段ボール箱がたくさんあったのです。”と書かなかったんだろう。どうせ真偽不明の体験談なのだから。」

「8から12節が“責任を委ねられている兄弟たちが不当な扱いを受ける時”です。 “責任を委ねられている兄弟たち”とは、逮捕された長老クラスの信者のことを言っているようです。」
「最初はパウロの話だ。9節に“パウロがローマで捕らわれていた時,一部のクリスチャンは,パウロを支えるのをやめてしまいました。(テモ二 1:8,15)”とある。問題は引照聖句で、テモテ二1:15に“あなたも知っているように,アジア州の人たちは私から離れていきました。”とあること。」
「英文ではYou know this, that all the men in the province of Asia have turned away from meですから、アジア州の“全て”の人たちとあるのに、日本語訳では“全て”を省略していますね。」
「翻訳者は全ての人がパウロから離れたというのはあり得ないと思ったんだろう。それで改変したんだろうね。もっと大きな改変をあちこちでやっているから、これくらいの改変など大したことじゃないという判断なのだろう。悪いことをしつづけているので悪事に対する感覚がマヒしているよ。」

「10節は“なぜ迫害を受けるのか,誰が迫害を引き起こしているのかを覚えておく。”です。要するに、サタンが攻撃しているのだと言っています。恐るべしサタン。」
「昨年は迫害で何人死んだのかな?コロナではかなり死んだようだけど。サタンよりウィルスほうがはるかに有害でしょう。」

「11節は“兄弟たちから離れることなく支え続ける。”です。パウロを支えたというオネシフォロが取り上げられています。引照聖句のテモテ二1:16に“主がオネシフォロの家の人たちに憐れみを示してくださいますように。”とあります。オネシフォロはこの時点で死亡しているということですか?」
「テモテ二4:19に“プリスカとアクラ,そしてオネシフォロの家の人たちに,私からのあいさつを伝えてください。”とある。オネシフォロ自身ではなく、家族に挨拶を送っているということは、オネシフォロはこの時点で死んでいるという想定だね。」

「11節に“私たちは人への恐れに負けることなく,迫害されている兄弟たちを支える必要がある,ということです。”とありますが、テモテの手紙ではそんなことは言っていません。」
「テモテ二1:18で“主により,彼が定めの日にエホバからの憐れみを受けますように。”といっているだけ。JWは信者に聖書に書かれていない義務を課して、信者の負担を増やす嫌な宗教ということだね。」

「この聖句は“主”が2回出ていていますが、JW訳では2つ目を勝手にエホバに変えているわけですね。」
「最初の“主”はエホバには変えなかったね。しかし、憐みをかけるのは主、つまりキリストなのに、JW訳ではエホバなるものが憐みをかけるように意味が変わっている。」
「JWではキリストはどうでもよくて、エホバが前面に出ているということですね。」
「協会共同訳では“どうか、主がかの日に、主のもとで彼に憐れみをかけてくださいますように。”となっているよ。ここで言う主はキリストのこと。エホバ教じゃないからね。」

「オネシフォロがすでに死んでいたとすると、この聖句は初期のキリスト教の死者への祈りがどのようなものかを知ることができる重要な聖句じゃないですか?」
「死者への祈りと見なせるのは、新約ではこれだけだね。死者にたいしては憐れみを求めるという内容。そういうわけで、JWも正しく訳して欲しいけれど、無理そうだよね。」

「11節の引照聖句、格言17:17ですが、“真の友はどんな時にも愛を示す。苦難の時に頼れる兄弟である。”となっていますが、これは誤訳ですね。」
「そういう訳は見たことない。協会共同訳の“友はどのような時でも愛してくれる。/兄弟は苦難の時のために生まれる。”が普通の訳。友と兄弟を対比している聖句だ。」

「12節はロシアの話です。“誰かが裁判にかけられる時には,大勢の兄弟姉妹が応援するために裁判所まで駆け付けています。”とあります。」
「それなら統治体はいったい何人が駆け付けたのかな?末端の信者だけが危険を冒すわけだ。」

「13から16節が“悪く言われる時”です。 13節に“エホバの証人ではない親戚や同僚や学校の友達は,私たちが伝道を行うことやエホバの高い道徳基準に従って生きていることを悪く言うかもしれません。(ペテ一 4:4)”とあるのですが、引照聖句と内容が合いません。」
「そこでは“堕落した放蕩の道を皆さんが人々と一緒に走り続けることはありません。それで人々は戸惑い,皆さんのことを悪く言います。”とある。悪く言う理由として“一緒に走り続けることはありません。”と言っている。つまり、異教の快楽主義的な人たちと違った生活の仕方をしていること。高い道徳基準ゆえにではなく、分離主義的なところに、戸惑い、悪く言っているという意味だよ。」

「13節には、悪口の具体例が出ています。一つ目は“あなたのことが嫌いなわけじゃないけど,あなたの宗教はちょっと古臭くて厳し過ぎるんじゃない?”です。」
「これは意図的な誤訳かな。“古臭く”と訳されているのはout of touch with realityで、“非現実的”という意味だよ。翻訳者は非現実的と言われたら、全くその通りなので反論しようがないと思ったんだよ。それで“古臭い”に変えちゃった。」
「そうですか?単なる誤訳ですよ。意味が分からなかったので適当に訳した結果と思いますよ。」

「2つ目の悪口の例が“排斥された人たちに対する私たちの接し方について,「そんなんで愛があるって言えるの?」と言う人もいるかもしれません。”だ。組織は排斥による家族の破壊に対する非難を結構気にしているね。」
「要するに、非現実的で、無慈悲な宗教という非難ですね。これは事実ですから反論できませんね。」

「それで14節で言っているのは“エホバの基準にしっかり従う。”だ。ここでいうエホバの基準というのは組織の指示・命令のことだから、悪く言われても、反論できなくても組織に盲目的に従え、疑問を持つなというカルト宗教そのものの防衛術だね。」
「14節でヨブの例を持ち出すものの、結論は、“ですから,エホバの基準に従っている組織から決して離れないようにしましょう。”です。ヨブの話と無関係ですよ。聖書を学んでいるという幻想を維持するためにヨブの話を持ち出しただけですね。」

「“エホバの基準に従っている組織”とはJWのことだよね。誰がそうだと判定したの?自分たちでそう主張しているだけだよ。終わりが来る来ると言って信者の一生を無駄にした詐欺的組織というのが一般人の判定だよ。」
「性犯罪者をかくまい、被害者に泣き寝入りを強いても、あるいはホームページで排斥した家族を忌避しませんといったようなウソをついても“エホバの基準に従っている組織”なのですね。」
「そう言われたら、JWも不完全な人間の集まりですから、と言い訳を言う。それなら、ほかの全ての組織もそうなのだから、他の組織や宗教を非難するのはやめるべき。ダブルスタンダードはカルトの特徴だ。」

「15,16節がインドの姉妹の体験談です。JWになってから不幸続きで孤立した状況に陥りますが、“巡回監督は姉妹に,自分が住んでいる地域で伝道することと,自分の家で集会を開くことを勧めました。”というものです。すると“姉妹は非常に多くの聖書レッスンを行うことができ,大勢をバプテスマまで導きました。2005年には正規開拓者になりました。”という幸せを得たというメデタイ話です。」
「さりげなく正規開拓者なるものが目指すべき立派な目標であるかのように書いているところが面白い。」
「JWになったおかげでたくさんのことを犠牲にしたその代償が、バプテスマに導いたとか正規開拓者になったということだとしたら空しいです。」
「この体験談からは、JWという人生は、周囲の人を不幸にし、失うものは大きく、得るものは開拓者というどうでもいい地位だけということを学べるね。」

「インドは性暴力の多い国です。この姉妹やその娘が伝道中に性暴力の犠牲になっても、組織は本人が自発的にしたことだといって、犠牲者に責任を押し付けるだけですよ。これがエホバの基準です。」
「その場合でも、被害にあった本人はJWは正しい、間違っていないと言い続けるよ。それがカルト信者というもの。恐ろしいね。」

「17節が“エホバと組織を心から信頼する”です。 組織からどんなにひどい扱いを受けても、盲目的に信頼することこそカルト信者の理想の在り方ということですね。」
「17節で“では,これからもサタンのうそに耳を傾けるのではなく,エホバと組織を心から信頼するようにしましょう。”といっている。結局、外部からの批判はサタンのウソで片付けて、何も自己変革はしない宗教ということだ。」

#1434 2023年01月27日 14:37:20

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“どんな時にも冷静さを保ち,エホバと組織を信頼する(48)”で、会衆内の問題に対する対処の仕方を学ぶという内容です。」
「またこのテーマなの。本当にJWはもめごとが絶えないようだ。」

「1節で“テモテ第二4:5と1番目の脚注を読む。”とあります。そこには“どんな場合にも頭がさえた状態*を保ち,”とあり、その脚注には“または,「鋭敏な感覚」,「冷静さ」。または,「良い知らせを伝え続け」。”とあります。この脚注は何ですか?意味が違いすぎますよ。理解できません。」
「ここで使われているギリシャ語のもとの意味は“素面である、酒を飲んでいない”という意味。そこから(酔っぱらっていないので)穏やか、頭がさえている、慎重である、あるいは比ゆ的に(酔っていないから)幻想にとらわれていないという意味が派生した。しかし脚注にある“良い知らせを伝え続け”は全く理解できないね。英語版の脚注にもそんなことは書いていないので、日本語翻訳者の創作だろう。」

「聖書本文では“頭がさえた状態を保ち”となっているのに、この記事では“冷静さを保ち”に変えています。元のままでいいじゃないですか?元の翻訳がダメだったということですよね。」
「この記事の内容には合わないと感じて変えたんだろう。本当は、この記事では頭をさえた状態ではなく、信者はもうろうとした状態に保てという内容だよ。」

「3から5節が“仲間から傷つけられたと感じる時”です。 会衆内で起きる問題の一番目です。そういう場合でも冷静さを保てということです。」
「3節に“「兄弟があんなことを するなんて,これは本当に神の組織なんだろうか」とさえ思ったかもしれません。でも,そうした考え方をするなら,サタンの思うつぼです。”とある。被害者を救済することには何の関心もなく、組織防衛しか頭にないことがよくわかる。」
「信者から性的虐待を受けても、“これは本当に神の組織なんだろうか”と思うのはサタンのせいなのですね。バカバカしい。」
「信者が抱いて当然の疑問さえ考えさせないようにするのに、サタンを利用するわけだ。サタンはJWという組織の影の支援者だね。」

「4節に“腹を立ててはいけない。”とあります。いつもの泣き寝入りの勧めです。エジプトに売られたヨセフの話が取り上げられていて、“ヨセフは自分のつらい状況のことばかり考えるのではなく,エホバがどんなことを望んでいるのかについてよく考えました。(創世記50:19-21を読む。)”とあります。」
「ヨセフの物語の一つのテーマは、善なる神がこの世を支配しているのに人間はなぜ苦しむのかというもの。ヨセフ物語の答えは、神は悪を通して善をなすことがある。だから今の苦しみは未来の幸せを実現するための避けられない一つの段階なのだ、というもの。その思想に従ってストーリーが組み立てられている。」
「ヨセフが奴隷として売られたのは将来の一族の幸福のための必要な不幸だったということですね。」

「4節で“何を学べますか。誰かからひどい仕打ちを受けるとしても,エホバに対して腹を立てたり,エホバから見捨てられたと考えたりしてはいけません。”とあるけれど、理解できないね。JWの教義では、エホバが許しているから、そういうひどいことが行われるんじゃないの?エホバは何が起きても責任がないというわけ?」
「ヨセフ物語からの教訓は不幸になっても我慢したら幸せになれるかもしれないですよ。でもこれは一般法則じゃありません。一度不幸になったら一生そのままという方が確率的に高いと思いますよ。」

「4節に“そして,仲間の不完全さを愛で覆うようにしましょう。”とあるけれど、児童性的虐待も不完全さのせいで片付けちゃうのかな?誰かの財布から金を抜き取るのも、不完全さのせいで終わり?」
「そうです。しかし、長老マニュアルに排斥と書かれた悪事はどんな些細なことでも許されません。」

「5節は体験談。組織内のいじめだ。パワハラだね。“それまでに経験したことがないほどのストレスを感じ,とても怖くなりました。夜も眠れず,自分にできることは何もないと感じて涙があふれてきました。”とある。うつ病じゃないかな。」
「強い不安感、不眠、さらに“自分にできることは何もない”という無力感を訴えていますからね。涙があふれてくるというの、自分の感情を抑えられなくなっているということですよ。」
「それで何をしたかというと、“でも,兄弟は冷静さを保ち,感情に流されないようにしました。聖なる力や忍耐するための力を求めて,何度も何度もエホバに祈りました。”とあるだけ。ダメだろう。これだからJWには精神病の人が多くなる。精神的健康について無知で鈍感すぎるよ。」

「ここで勧めているのは“相手の立場に立って考えられるように助けてください,と祈りましょう。そうすれば,きっと悪気はなかったのだと考えて,仲間を許すことができるようになるでしょう。”です。要するに、許せということです。加害者はなにもお咎めなしで、のうのうとふるまっているのに、被害者が一方的に許せというのがJWの問題対処法です。」
「子どもはこんな犯罪者野放しの組織には居てはいけないし、若い女性も危険すぎる。さっさとやめよう。」

「6から9節が“矯正を受ける時”です。 6節に“サタンは,私たちが矯正を受け入れず,さらにはエホバや会衆から離れていくことを願っています。”とあります。執筆者はサタンの気持ちがわかるようです。サタンは信者に説教する際に本当に役立つキャラクターですね。」
「JWをやめる人はたくさんいるからね。やめた人はサタンの手先だ、絶交だ、という脅しだよ。」

「7節は“矯正を受け入れ,改善する。”です。7節にはペテロの話がでていて、ペテロ同様矯正を受け入れようということです。8,9節が体験談です。長老から降格され、腹が立ったけれど、矯正を受け入れて、再び長老になったというメデタイ話です。」
「9節に“兄弟姉妹からどう見られているかが気になりましたが,一緒に伝道し,集会でコメントするようにしました。”とある。降格処分の場合、一番気になるのが周りの目ということかな。周囲の冷ややかな視線を耐えるという罰ゲームを乗り切ったもののみが、再び元の地位に戻れるようだ。」
「よっぽど長老という地位が欲しかったんでしょうね。」
「地位に対する欲求を巧みに利用して信者をコントロールするのがカルト。それで信者の間に必要もない階級制度を設けて、競わせる。」

「10から14節が“組織の中での変更に付いていくのを難しく感じる時”です。 こういうことを取り上げるのは目新しいですね。」
「変わりすぎる教義についていけないという問題かと思ったらそうではなく、ベテルから追い出されたとか、自分たちの王国会館を売り払われたという問題のようだ。」

「10節では“モーセの律法によって生じた変化から古代のイスラエル人がどんな影響を受けたか,考えてみましょう。”といって、“律法が与えられる前は,家族の頭が祭司の役目を果たし,家族のために祭壇を作り,エホバへの犠牲を捧げていました。(略)しかし,律法が与えられた後,家族の頭はこの特別な務めを果たすことができなくなりました。エホバは,アロンの家系の者が祭司として犠牲を捧げるよう取り決めたからです。もし家族の頭が,アロンの家系の者ではないのに祭司として行動したなら,死刑になりました。”とあります。すぐ死刑にしたがる神様ですね。」
「でも、これには史実性はないよ。イスラエル各地で犠牲をささげた祭壇のようなものがたくさん発掘されている。相当長い期間、地方では律法の規定などお構いなく自分たちで犠牲を捧げていた。」

「列王二16:4に、アハズ王は“高い場所や丘の上,全ての生い茂った木の下で犠牲を捧げたり,犠牲の煙を立ち上らせたりし続けた。”とありますね。でも死刑になっていませんよ。」
「アロンの家系以外のものが祭司を務めたという例もあるよ。サムエル二8:18。協会共同訳では“ダビデの息子たちは祭司であった。”とある。ダビデはユダ族でアロンの家系ではない。初めの頃は誰でも祭司になれたということ。」

「JW訳では“ダビデの子たちは奉仕者の長*になった。”としています。これは聖書の矛盾を避けるために適当な役職を作ったのですね。改ざん聖書らしいですね。」
「それでも脚注で、“直訳,「は祭司」。”とある。ウソつきJWにも多少良心が残っているということだろう。」

「11節はコトハ氏族のことが取り上げられています。コトハ氏族は役割が変わったけれど、“コハト氏族の人たちが不平を言ったとか,先祖のような目立つ仕事を要求した,という記録はありません。”とあります。ところで“氏族”ってなんですか?」
「氏族は同一の先祖を持つ、あるいは同一の先祖を持つと信じられている血縁集団のこと。民数3:17に“レビの子の名前は,ゲルション,コハト,メラリである。”とあって、コハトはレビ族の3つの系統のうちの一つということ。」

「11節には、コトハ氏族は“契約の箱を運び,民の前を行きました。”とあります。ところが、“イスラエルが約束の地に住むようになると,事情は変わりました。契約の箱をあちこちと運ぶ必要はなくなりました。”とあります。これって不平を言うようなことですか?理解できません。」
「コトハ氏族はカナン征服後、ヨシュア記21章によると20以上の町を割り当てられている。荒野を放浪していた時代に比べれば、不平など出るはずもないよ。」

「コハト氏族から学べることというのが、“エホバの組織の中での変更が生じた場合,それが自分に影響を及ぼすものだとしても,心から支持するようにしましょう。どんな務めを与えられても,喜んで果たしましょう。”というものです。組織からどんなひどい扱いを受けても、その決定を支持しなければならないというのであれば、奴隷と同じですよ。」
「統治体から見れば末端の信者なんて奴隷と同じ。末端の信者は組織に幻想など抱かず、現実を直視すべきだね。」

「12,13節が中東のザイーナ姉妹の体験談です。23年間ベテル奉仕した後、放り出されたのです。12節には“残念なことに,会衆のある人たちからも,「ちゃんとやっていれば,ベテルに残れたんじゃないの?」と言われました。それで,姉妹はとても傷ついてがっかりし,しばらくの間は毎晩泣いていました。”とあります。JW内の冷淡な人間関係がよくわかりますね。」
「それでどうしたかというと、13節には“出版物を調べ,自分が経験しているのと同じような問題を扱った記事を読んだのです。”と、“友たちと一緒に時間を過ごすようにしました。”とある。どんな問題でもJWの出版物は魔法のような効果があるわけだ。本当かな?」

「13節に、“姉妹は,エホバの聖なる力が組織を通して働いていることや,教え導いている兄弟たちが深く気遣ってくれていることに気付きました。”とあります。組織には聖なる力(英文ではJehobvah’s spirit エホバの霊)が働いているとさりげなく、体験談の中に滑り込ませています。」
「本当に聖なる力が組織を通して働いているのですか?と尋ねたら、この姉妹がそう言ったということです、と答えるのだろうね。でもこの記事を読んだ信者は組織がそう言ったと記憶する。それがこの記事の狙いだね。」

「生活はどうしているんでしょうか?生活保護ですか?貯えもないでしょうね。」
「そういう問題には触れないのがJWの体験談だ。こういう体験談をわざわざ載せるということは、これからもどんどん人減らしをするぞ、覚悟しておけというメッセージだね。」

「14節は73歳の長老のプラド兄弟の体験談です。“自分の会衆と他の会衆が統合されて,使っていた王国会館が閉鎖されることになり,つらく感じました。”とあります。世界各地で起きている王国会館売却問題です。高齢なのに、遠く離れた所へ行かなければならないなんて、かわいそうなブラド兄弟。」
「この人は“あの美しい王国会館がなぜ閉鎖されるのか,理解できませんでした。最近改装したばかりだったので,なおのことショックでした。大工の私は,新しい備品も作ったんです。”と言っている。わかっていないね。改装したばかりのきれいな建物だったから売却されたんだよ。」

「売却されたと言わずに“閉鎖される”と言っています。計算された言葉遣いですね。こういう所は執筆者も頭を使っています。」
「売却されたと言えば、売ったお金はどこへ行ったのだろうと、間抜けな信者でも疑問に思うからね。」

「プラド兄弟には自分が詐欺の被害者だという自覚がないのが悲しいです。ブラド兄弟はこの時点で目ざめるべきでした。自分の家以上に大事にしてきた王国会館が売却されて、さぞかし落ち込んだでしょう。気の毒です。」
「高く売れそうな時には、末端の信者の気持ちなんか気にせず、急いで売却するというのがJWという組織だよ。組織はまた無給でプラド兄弟に王国会館の改修をさせて、その王国会館を売却するよ。」

「14節では“決定を支持し,エホバと組織を心から信頼し続けるなら,必ず祝福を味わえます。(詩 18:25)”と白々しいことを言っています。組織はこれから、人減らしと王国会館の売却をどんどん進めて、信者の負担は増える一方なのに、信者は死んだら楽園に復活するから喜べということですね。」
「詩編なんか持ち出しているけれど、聖書に“組織”とか“エホバが用いる組織”なんて言う言葉ないよ。そんなものを信頼してはいけない、信頼できるのは神だけだというのが聖書のメッセージ。その点JWは聖書的じゃないね。」

「最後の15,16節が“どんな場合にも冷静さを保つ”です。 まとめですね。15節に“この体制の終わりが近づくにつれ,会衆内でもさまざまな問題が生じることでしょう。”といっています。会衆内の問題はさらに増え、集会参加者は減り続けるということですよ。」
「この予言は当たりそうだね。会衆内の問題が増えるのはこの体制の終わりが近づいているせいじゃないよ。統治体が無能で、世界の変化に対応できていないし、JWという宗教が衰退局面にはいったということだよ。」

#1435 2023年02月03日 14:32:06

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“永遠に生きることは夢ではない(49)”で、永遠に生きたいのなら、組織の言いなりになりなさい、という内容です。」
「時々、この種の現実逃避的な記事が登場するね。英文ではWe Can Live Foreverだよ。それを“永遠に生きることは夢ではない”と訳すのは信仰の欠如だね。我々は永遠に生きられます、となぜ断言しないのかな?」

「2節にはカルト丸出しのことが出ています。“永遠の命を与えるとエホバが約束してくださっているので,私たちはいろいろな問題があっても頑張り続けることができます。たとえ殺すと脅されても,エホバに仕えるのをやめたりはしません。”だそうです。」
「けなげな決意だね。涙が出てくるよ。」
「これは輸血のことをいっているんじゃないですか?輸血しないと死ぬといわれても、輸血はしませんという態度を貫けという指示ですよ。直接そう書くとまずいのであいまいな書き方にしている。」
「永遠の命とか来世とか天国とかを持ち出して、今の命は貴重なものではないと思い込ませるのは危険なカルト宗教だよ。JWもその仲間だね。」

「3,4節が“エホバは永遠に生きている”です。 3節には“聖書には,エホバが始めも終わりもない永遠の存在であることが述べられています。例えば,詩編 90編2節には,エホバは「永遠から永遠まで」神であるとあります。”と言って、4節で“エホバに始めも終わりもないということについても同じです。私たちはそのことを十分に理解できないかもしれませんが,だからといって,それが事実ではないということにはなりません。”といっています。理解できないけれどエホバは永遠に生きているのは本当だと言っています。」
「神に始まりもなく終わりもないというのは昔からどういう意味か大きな問題だった。一つの考えは神は時間の外にいる存在というものだね。これはわかりやすいけれど、時間外の存在が時間内に存在している人間と本当に関係を持てるのか?といったさらなる問題を引き起こす。」
「JWにはこの種の難解な問題を考えるような人はいませんから、無視して終わりです。」

「4節の例えがバカバカしい。“例えば,私たちは光の仕組みを十分に理解していないかもしれません。でも,だからといって,光が存在しないということになるでしょうか。そんなことはありません。”とある。JWでは光が存在することを疑っているのか?」
「光は存在するとみんな思っていますよ。そのこととエホバが永遠から永遠まで存在することとは無関係ですね。」
「JWは車の仕組みやテレビの仕組みだって理解していないだろう。それと車やテレビの存在と何の関係もない。光なんて相対性理論を連想させるものを持ち出して、ちょっと気取っているだけ。」

「5から7節が“人間は永遠に生きられるように造られた”です。 5節に“エホバはアダムにこう言いました。「善悪の知識の木の実は,食べてはならない。それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである」。(創 2:17)この言葉からすると,アダムとエバはエホバに従えば死ぬことはありませんでした。”とあります。間違いですよ。」
「滅茶苦茶なことを言っているね。もし、このリンゴを食べればその日のうちに必ず死ぬと誰かから言われた人が、そのリンゴを食べなければ自分は死ぬことはないのだと思う?思わないよ。言ってもいないことから勝手に推測している。」

「創世記3:22で“人が命の木からも実を取って食べて永遠に生きるということのないために”とエホバは言って、エデンの園からアダムとエバを追放し、“ケルブたちと,回転し続ける炎の剣とをエデンの園の東に配置して,命の木への道を守らせた。”わけです。これは命の木の実を食べれば永遠に生きるので、それを阻止したという話ですよ。」
「エデンの話は人が永遠に生きるチャンスを逃してしまった話だ。最初から永遠に生きるように造られたなんてことはないよ。」

「5節の下の囲みに“聖書で言う「永遠」とは”という記事が出ています。 “「永遠」と訳されることが多い,最も一般的なヘブライ語はオーラームです。聖書でこの言葉は,過去であれ将来であれ,始まりや終わりが特定されていない長い期間を指して用いられます。”と説明しています。つまり永遠という意味はないわけですね。」
「ヘブライ語に永遠を指す言葉はないね。現代の聖書で永遠と訳しているだけ。サムエル二7:24に“あなたはイスラエルの民がいつまでもご自分の民となるようにしました。”とあるけれど、“いつまでも”と訳されているのがオーラーム。イスラエルの民は永遠に神の民というわけではないから、ここでは単に相当長い期間という意味になる。聖書に永遠と書いてあっても永遠ではない。」

「6節に人間が永遠に生きるように造られたという科学的根拠らしきものを書いています。“2010年にサイエンティフィック・アメリカン・マインド誌(英語)に掲載された記事によると,人間の脳は約250万ギガバイトの容量があるとされています。これはテレビ番組を300万時間(300年余り)録画できる容量です。”とあります。本当ですか?これはある仮定に基づいて容量を計算してみたらそうなったというだけじゃないですか?」
「JWには珍しく引用元を示している。それでさっそく調べてみたら、不正引用ということが分かった。250万ギガバイトではなく、“around 2.5 petabytes (or a million gigabytes) 約 2.5 ペタバイト (または 100 万ギガバイト)”とある。」
「2つの数字を混ぜ合わせたような捏造ですね。これだからJWは信用できません。単に数字に弱いだけかもしれませんが。」

「また、そこには“The brain’s exact storage capacity for memories is difficult to calculate. 記憶のための脳の正確な容量を計算することは困難です。”と書いてあるよ。」
「それはそうですよ。脳の記憶容量の計算方法なんて聞いたことがありません。」
「その記事の締めくくりは“If the human life span were significantly extended, could we fill our brains? I’m not sure. Ask me again in 100 years. 人間の寿命が大幅に延びた場合、私たちの脳は一杯になりますか? わかりません。100年後にもう一度聞いてください。”だよ。高等教育否定のJWは科学的なことには触れない方がいいと、誰か統治体の老人にアドバイスしてよ。」

「どう考えても人間の体は永遠に生きるように造られていませんよ。」
「年齢とともに、関節の軟骨部分はどんどんすり減っていくし、歯もすり減る一方。目にある水晶体は年と伴に白く濁ってくるけれど、これは酸化することが大きな原因。記憶力も加齢とともに衰える。これは不完全さとは関係ないよ。」

「7節に“エホバは私たちに生き続けたいという強い願いも与えました。聖書は,エホバは人間に「永遠を思う心さえ与えた」と述べています。(伝 3:11)”とあります。引照聖句は、人間は永遠を思う心があるけれど、にもかかわらず永遠には生きられない、なんという皮肉なことだ、というような内容じゃないですか。聖句の誤用ですよ。」
「そうだね。そこには“神は人に,永遠を思う心さえ与えた。それでも人は,真の神の行いを決して知り尽くすことがない。”とある。英文ではyet mankind will never find out the work that the true God has made from start to finish.で、神の業を最初から最後まで知ることがない、だよ。これは人間が死ぬべき運命にあるからなんだけど、日本語の翻訳者はこれはJWの教義と矛盾すると思ったので、その辺をあいまいに訳したんだろう。」

「7節で“エホバは愛情深い方です。それで,人間がいつまでも生きることを意図していなかったのであれば,永遠に生きたいという願いや,そのための能力を与えたりはしなかったはずです。”と言っています。人間が永遠に生きたいと思うのは、もともと永遠に生きるように造られたからと言っているようです。」
「バカバカしいね。鳥のように空を飛びたいと思う人はいる。そういう願いを持つ人がいることが人間は本来鳥のように空を飛ぶように造られていたという根拠になるの?ならないよ。」
「人間は本来永遠に生きるように造られたという虚構を何とか本当らしく見せようと、あれこれと屁理屈を並べているわけですね。」

「7節の下にあるイラストが話題になっている。そこには“私たちには永遠に生きる希望があるので,将来について考えるのは楽しいこと。”とある。老人がヨットを操縦する、絵を描く、自然の中を歩くことを想像しているのだけど、これらのことは今でもできることだよ。なぜ今それをしようとしないの?」
「今は伝道、集会、王国会館の掃除などなどJW活動に専念すべきで、そうしないと楽園に行けないというのがJWの教義なのです。」

「ところで、楽園には中国人はいないよね。現在、この絵に描かれている服など多くのものは中国製だよ。楽園では誰が作っているのかな?」
「単なる現実逃避の幻想ですよ。まじめに考える必要などありません。」

「ヨットにのっている絵だけれど、救命胴衣を着けている。楽園でも救命胴衣を着けていないと死ぬわけだ。楽園でも事故死する人は多そうだね。」
「不死の存在になるわけではないようですね。不死でなければ永遠に生きられません。楽園でも溺れ死んだり、転落死したりしますね。それを防ぐためにヘルメットや安全靴は必需品です。中国人がハルマゲドン後も生き残り、それ等の生産を薄汚い工場で続けてくれることを望みますね。」
「その楽園は今より悲惨だよ。ケガをしても治療してくれる医師も看護師もいない。医薬品もないよ。ちょっとした怪我でも苦しんで死ぬよ。傷つきやすい肉体がある限り不死にはならない。古代人でさえそれを理解していた。肉体を持たない存在だけが永遠に生きられる。」

「8から13節は“エホバの目的は変わっていない”です。 聖書から復活に関係した話が取り上げられます。」
「9節の“神に忠実に仕えたヨブは,エホバが亡くなった人を復活させたいと心から願っていることを知っていました。(ヨブ 14:14,15)”というのは違うね。」

「引照聖句の前のヨブ14:12には“人も,横たわり,起き上がりません。天がなくなるまで,目覚めることはなく,眠りから起こされることはありません。”とあり、ヨブは死の終極性を認めています。」
「引照聖句にある“人は死ぬと,もう一度生きられるでしょうか。私は捕らわれている間,解放の時が来るまでずっと待ちます。あなたは呼んでくださり,私はあなたに答えます。あなたはご自分の手で造った人に再び会いたいと願います。”というのは、復活があるという信仰を言っているのではなく、死後も神との交わりを強く望むヨブの願いを言っている。」
「そのあと、ヨブ14:19で“あなたは死にゆく人間の望みを消し去りました。”といっていますね。」
「死後も神との交流を強く望んでみたものの、その望みは実現しないことをヨブは認識し、悲嘆にくれるという展開だ。JWは一節だけを切り取って、真逆なことを言うので、困るね。」

「10節に、エリヤとエリシャが復活させた例を取り上げて、” こうした過去の復活の例は,エホバに亡くなった人を生き返らせる力があることの証拠です。”と言っています。この2つの例は復活と言っていいものですか?」
「引照聖句の列王一17:22には“その子に命が戻り,その子は生き返った。”とある。英語ではhe revivedで、復活resurrectionとはいっていない。心肺停止状態になったけれど蘇生したというような意味合い。」

「12節に“エホバは,人間が地上で永遠に生きることを願っています。”とありますが、それを裏付ける聖句は出ていません。それをごまかすために、関係ないことを長々と書いています。」
「そんなことは願っていないよ。今の人生をよりよく生きることを望んでいると思うよ。」

「14から16節が” 素晴らしい将来が待っている”です。 14節で” イエスと共同統治者たちは間もなく征服を完了し,悪い人たちを滅ぼします。(啓 6:2)”と、”間もなく”の安売りです。」
「引照聖句の啓示6:2は“見ていると,白い馬が現れた。それに乗っている者は弓を持っていた。そして冠を与えられ,征服しに,また征服を完了するために出ていった。”だけど、これはイエス率いる天の軍団じゃないよ。そう解釈しているのはJWだけかも。」

「啓示6章は、子羊、つまりイエスが封印1から6までを開き、その結果が描かれています。白い馬は封印1ですよ。JWの解釈では子羊がいつの間にか白い馬の騎士に変身するわけですね。」
「普通は、弓を持っていることから弓騎兵で有名なパルティヤかローマ軍を指すと解釈される。“征服しに,また征服を完了する”という言い回しはローマ軍が使う表現。1世紀の読者はその2つの国が合わさったような強大な軍事国家の出現を指すと解釈したと思うね。」
「ここでは、この世の終わりの直前に、大国による征服戦争が行われ、輝かしい勝利をおさめるけれど、それによって数えきれないほどの人間が殺されることを言っているわけですね。」
「それをイエス軍団による勝利とトンデモ解釈しているのがJW。」

「15節に“最後の試練が終わると,エホバから正しいと見なされた人たちは「地上に住み続け,そこで永遠に暮ら」します。(詩 37:10,11,29)”とあります。“永遠に”は太字となっています。ヘブライ語には永遠を指す言葉はなかったはずですが。」
「ここで永遠と訳されているヘブライ語はオーラームではない。ずっとずっと暮らしますぐらいの意味。」

「今のは詩編37:29の“正しい人は地上に住み続け,そこで永遠に暮らす。”からの引用ですが、1000年統治後の世界を述べたものではないですよ。」
「そんな思想は啓示にしかないよ。それから訳もへんだ。英文ではthe earthだから、JWの訳としては“地球”に住み続けるじゃないの?」
「確かにJWの日本語訳聖書では“地球”というバカげた表現があちこちにでてきますよね。聖書には球体の地球という概念はないです。地球は太陽が燃え尽きたら死の星となります。永遠じゃないのは明白なので、ここでは地球という表現を避けたのでしょう。」
「協会共同訳では“正しき者は地を受け継ぎ/いつまでもその地に住む。”で、英語の聖書ではthe landだよ。神に約束された土地を正しいものが受け継ぐといっている聖句。」

「16節で“ここまで考えてきた通り,永遠に生きるという希望は聖書にしっかり基づいています。”と結論づけています。JWの主張はもっと具体的で、1000年統治後、地上で永遠に生きるというものですよ。それは聖書に全く基づいていません。」
「その後に“この希望があれば,難しい終わりの時代に生きていても忠実を保てるでしょう。”と続く。この希望を抱いて、死ぬまで組織に忠実に使えるのが正しいJWということだね。」

#1436 2023年02月04日 09:12:18

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

チェンソーマンの4騎士も「支配」「戦争」「飢餓」「死」ですね


どっちも聖書を元ネタにした創作ファンタジーでも、JWファンタジーより普通にマンガを読んだ方がまだ勘違いせずにすみそうです

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