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#1326 2021年08月27日 15:44:19

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“それら目立たない人」を傷つけないようにしましょう(25)”で、JW同士のもめ事の対処の仕方、といった内容です。」
「JWにとって最大の敵はJWみたいだ。JW同士仲良くしましょうという記事は多いね。」
「“目立たない人”ってへんな言葉ですよ。」
「マタイ18:10だけど、英文では“these little ones”で“小さな者”だよ。日本語訳者が、“目立たない人”に勝手に変えたわけだ。」
「JWはカート奉仕とか戸別訪問で目立つ人じゃないですか?それを考えても“目立たない人”という訳は問題です。」
「この記事は、英語版の“小さな者”について説明しているのに、日本語版では“目立たない人”となっているため、理解しにくくなっている。」

「1節は“エホバは,私たち一人一人を引き寄せてくださいました。”といきなりJWの優越感をくすぐる文で始まります。JWは神から選ばれた特別な人というわけです。」
「実際はニューヨークに本部のある怪しげな終末宗教の団体に引き寄せられただけなんだよね。」
「自分たちを選ばれた特別の人と考えるのがカルトの特徴です。その優越感のため、JWを続けている人はけっこういると思います。」
「JWをやめたら、自分は何のとりえもない貧困老人という現実に直面するからね。選ばれたJWという優越感は苦しいJW生活を続けていくための痛み止めみたいなものだね。」

「4から7節が“「それら目立たない人」とは誰のことか”です。4節に“「それら目立たない人」とは,年齢に関係なく,イエスの弟子全員のことです。イエスの弟子は,たとえ何歳であっても,イエスから進んで教えてもらおうとしているという意味で,「幼い子供のよう」です。(マタ 18:3)”とあります。これは“小さな者”について説明しているのですね。」
「マタイ18:3に“心を入れ替えて幼い子供のようにならなければ,決して天の王国に入れません。”とある。その“幼い子ども”の言い換えが“小さな者”。それで、4節で“年齢に関係なく,イエスの弟子全員のことです。”と説明している。」
「日本語版では“目立たない人”なので年齢のことをわざわざ触れる理由がわからなくなっています。」
「でも、大多数のJWは文章を流し読みするだけだから、気にしないよね。」

「5節に“「それら目立たない人」は全て,エホバにとっても大切な存在です。エホバの気持ちを理解するために,私たちが子供たちに対してどんな気持ちを抱くか,考えてみましょう。”とあります。“小さな者”だから子供に対する気持ちが出てきます。“目立たない人”だとそれが理解できません。翻訳者の責任です。」
「5節の内容は子どもの話ばかりで“目立たない人”と全く関係ないことに気づいて欲しいね。」

「“特に子供たちが苦しむのを見ると,嫌な気持ちになるどころか,怒りさえ感じます。”とあります。偽善的ですね。子どもを苦しめる宗教のランク付けをすれば、JWは必ず上位に来ますよ。」
「JWは体罰のことはなかったことにしているみたいだね。叩かれている子どもを満足げに見ていたJWはいただろうけれど、“怒りさえ感じます”というJWはいなかったよ。」

「7節で“誰かを傷つけてしまったことに気付いたなら,なかったことにしようとすべきではありません。”とあります。加害者側に注意するなんて珍しいです。」
「いつもは、被害者は他のJWの不完全さを許しましょうという、事なかれ主義で済ましているよ。」
「7節の“人の言葉や行動に傷つくことがよくあるなら,自分の中に改善すべき点があることを認めて努力する必要があります。”というのはいつものJWの論理ですね。被害者に問題があるというわけです。」
「英文の方がもっとはっきり言っている。他人からしばしば傷つけられる人は“an undesirable personality trait(望ましくない性格特性)”があることを認識する必要があると言っている。これは酷いね。」
「性犯罪の被害者に対しても、JWはこんなことを言うのでしょうね。」
「加害者を守るのがJWだからね。」

「8から10節が“他の人の方が上だと考える”です。」
「8節に“当時のユダヤ人の多くは,立場や地位を非常に重視していました。ある学者はこう述べています。「人が生きる のも死ぬのも,名誉,良い評判,名声,称賛,敬意などを求めてのことであった」”とある。JW得意の不正引用だね。ちゃんと引用元を明らかにすべき。恐らく“The Gospel of John in Cultural and Rhetorical Perspective”からの引用だと思う。」
「正しく引用しているのですか?」
「引用文には主語がないよね。この引用の仕方だとユダヤ人が主語かと思う。本当は“ギリシャ人、ローマ人、ユダヤ人全て”で、ユダヤ人限定じゃない。」
「引用文は“立場や地位を非常に重視していました。”という意味じゃないですよ。執筆者の誤解じゃないですか。」
「簡単に言うと、古代社会は“名誉―恥文化”だったということ。名誉とされることが何より大事で、名誉を失うことが恥で、その場合は生きる価値を失う。その様な価値観が優勢であったというわけで、立場や地位が重視されていたというのとは違う。」

「9節に“ユダヤ人の文化には,競争心が深く根付いていました。”とありますが、これは“ある学者”の引用もなしです。イエスの弟子たちの競争の話からこんなことを言っていいのでしょうか?」
「これも偏見でしょう。ユダヤ人の文化の特徴というと宗教重視が挙げられても、競争心が挙げられることなどないよ。」

「10節に“私たちは,人の注目を集めたいという気持ちや,自分の方が他の人よりも上であるという考え方に注意するべきです。”とありますが、これは末端の信者ではなく長老とか巡回監督などに向けてですよね。」
「末端の信者向けだよ。階級社会のJWは上に甘く、下に厳しい。巡回監督以上は、注目を集めるような言動をしても問題ないし、自分が当然上であると考えてよい、というのがJWルールでしょう。」

「11から14節が“「心から」許す”です。 マタイ18章の王と奴隷の借金返済に関するたとえ話を取り上げています。」
「“奴隷”というのは誤解を招くね。王から1万タラント借りたことになっているけれど、これは途方もない額。こんな借金ができるのは政府高官だろう。」
「マタイ18:34に“憤った主人は,借金を全て返すまで,その男性を牢番たちに引き渡しました。”とありますが、協会共同訳では“拷問係に引き渡した。”とあります。どちらが正しいのでしょうか?」
「単なる“牢番”ではなく“拷問係”のほうが正しい。借金は返済できないほど巨額なため、この人は一生苦しむことになる。」

「この話は“天の王国は,奴隷たちに借金の清算を求めた王のようです。”で始まります。最後の審判のたとえでもあると思うのですが。そうだとすると恐ろしい話ですね。」
「この話では、王は一度悪い男を許す。しかし、その男が仲間の借金を許さなかったことから、王は前言を翻して一生拷問にかける。これでは王から許されたとしても、全く安心できないということになる。このたとえでは王は神をあらわしてるけれど、神の裁きの前では誰も安心できないとことになる。」

「このたとえ話は、許すことの重要性をいっていることになっていますが、話の中では誰も許していません。王は最初許すものの最後は拷問にかけます。悪い男も自分から借金した男を許しません。仲間の男たちも悪い男を許さず、王に密告します。誰も許さない世界を描いています。」
「この例えの結論は、マタイ18:35で、“もしあなたたち各自が仲間を心から許さないなら,天の父もこの主人と同じようにします。”だけど、たとえの内容とあまり一致しない。許すことが大事なら、仲間の男たちは悪い男を許し、王に密告すべきではなかったことになる。」

「13節で“兄弟姉妹を許すなら,自分のためにもなりますし,周りの人のためにもなります。”とあります。許す対象が兄弟姉妹に限定されています。これは会衆内でもめ事が起きた場合に訴訟などにならないようにするため、許すことを強調しているというのは勘ぐりすぎでしょうか?」
「JW間のもめ事はとにかく隠ぺいするというのが組織の方針でしょう。訴訟されると新聞ダネにもなるし、訴訟は絶対避けたいのは事実だね。そのためには許すことを強調し、被害者に泣き寝入りさせるという方針だろう。」

「14節では、“許さないという選択肢はありません。私たちには仲間の兄弟姉妹を許す務めがあるのです。”といっています。JWでは、性犯罪の被害者も加害者を許さないという選択肢はないようです。犯罪者に甘い組織になりますね。」
「“第二に,仲間を許すならどんな良い結果になるかをじっくり考えましょう。自分を傷つけた人を助け,会衆の一致を保ち,”とある。許す理由は“会衆の一致保ち”が最初に挙げられている。全体のために個人が犠牲になればいいという考えなのだろう。こんな組織にいるのは危険だ。」

「15,16節が“自分を傷つけないようにする”です。 英語では“DO NOT LET YOURSELF BE STUMBLED”ですから、“つまずかないようにする”じゃないですか?」
「“自分を傷つけないようにする”だと、自傷行動や自殺をするなという話かと思うよ。そういう記事も必要だけどね。」
「15節に、“では,仲間の兄弟姉妹から非常に気に障ることをされた場合はどうしたらよいでしょうか。平和を保つために,できることは何でも行ってください。”とあります。どんな場合でも平和を保てということです。」
「具体的には、“あなたが喜んでいるその人の良い面に注目できるよう助けてください”と祈るそうだ。JWの兄弟姉妹だと自動的に神が喜んでいる人になるわけだ。そんな人を嫌ってはいけないということのようだね。」

「“その人はわざと傷つけるようなことをしたわけではない,と考えるのは大切です。”、“特に大切なのは,怒りの気持ちを持ち続けないようにすることです。”と続きます。被害者には過大な要求です。」
「組織として何をするかについては何もない。被害者に我慢しろ、平和を保てと要求するだけ。犯罪者がますます増長するね。」

「16節は“[一致]の恩恵を受けているあなたには,一致を保つことに貢献する責任があります”と組織の本から引用しています。JWの本も聖書と同格の扱いです。」
「被害者は不平不満を言って一致を乱すなということね。」

「17節がまとめですが、正しいJWというのは、自分は仲間の中で一番下だと過小評価し、嫌なことをされてもすぐに許し、怒ったりしない人のようです。」
「そういう人を過剰抑制型という。」
「こういう人は凶悪犯のひとつのタイプじゃないですか?」
「そういう人は怒りや敵意をその人の限度まであらわさないで我慢する。周囲の人はおとなしい、物静かな人という印象を持つ。しかし、限度を超えると、それまでたまっていた怒りや敵意が大爆発する。」
「JWだと、怒りや敵意は外に向けられないで、自分を責めるという方向に向かうことが多いと思います。」
「その結果、精神病や自殺だ。気の毒だね。JWはもっと周囲に対して怒った方がいいよ。」

#1327 2021年09月03日 15:36:00

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ 人々を弟子とする活動にあなたも加われますか (26)”で、伝道しているだけではダメで、研究生を見つけてしっかり教えろ、という内容です。」
「1節に“あなたは,どのようにしてエホバの証人になりましたか。”と問いかけているけれど、今のJWの多くは2世、3世でしょう。そうだとすれば、伝道するよりも、子どもを作るほうが、弟子とする活動になるよ。」
「JWの子どもの3分の2は途中でJWをやめますので、子どもを作るのも弟子とする活動にはならないです。」
「JWはじり貧ということだね。」

「3から6節が“ イエスは伝えることだけでなく,教えることも命じた”です。」
「たらたらと奉仕活動と称することをしていればいいと思うなよ、という組織からの警告だね。」

「“全ての国の人々を弟子としなさい”というマタイ28:18-20が引用されて、“イエスはこの命令を500人以上の弟子たちに現れた時に与えたようです。(コリ一 15:6)”とありますが、これは単なる推測ですね。」
「コリント一15:3-8はパウロによるキリスト復活の証言だけど、これが結構いい加減なんだよ。」
「15:3,4に“聖書にある通りキリストが私たちの罪のために死んでくださり,そして葬られ,聖書にある通り3日目に生き返らされ”とありますが、そんなこと旧約聖書のどこにも書いていませんよね。」
「無理にこじつければ、詩編の中にそれらしきものはあると言った程度だね。」

「イエスが3日目に復活するなんて誰も知らなかったと思いますよ。」
「もし弟子たちがそれを知っていたのなら、3日目にイエスの墓の前に集まって、復活は今か今かとカウントダウンしながら待つよ。ところがそんなことは全く書かれていない。福音書でも3日目に復活したとは書いていない。」
「3日目に墓が空っぽだったことを発見したとあるだけですね。それ以前に復活したのかもしれませんね。」
「パウロは墓のことについては何も言っていない。墓が空っぽだったなんて言う話はパウロは知らないのだろう。」

「15:5は“ケファの前に現れ,それから12人の前に現れたことです。”とありますが、福音書とは一致しません。」
「イスカリオテのユダは死んだので、12人の前には現れてはいないね。」
「その次の15:6に500人以上の兄弟に現れましたとありますが、これも福音書にはありません。福音書では女性が重要な役割を果たすのですが、女性たちのことは全く出てきません。」

「福音書が書かれるのはパウロの手紙のだいぶ後だけど、本当に500人以上の前に現れたのなら、福音書でそのことを書かないのは理解できないね。イエスが復活したという素晴らしい証拠だからね。」
「その話がないということは、福音書の作者はそれを知らないか、知っていても信用できないと判断し、福音書に載せなかったのでしょう。」
「ニコデモの福音書という聖書外典には500人以上の人が天に昇るイエスを見ていたということが書かれているけどね。単なる伝説でしょう。」

「6節に“私たちは,「永遠の命を得るための正しい態度を持つ人」を探しています。(使徒 13:48)”と使徒からの引用があるのですが、この訳はどうですか?協会共同訳では“永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。”です。」
「もちろんJW訳が間違い。ここでの思想は、キリストに信仰を持つかどうかは、その個人の態度や信仰の在り方だけでは決まらずに、神の働きが作用しているはずだというもの。JW訳はそれを否定している。JWでは正しい態度を持つと永遠の命が得られるというわけで、自力救済型宗教の思想に変えている。」

「7から9節が“人々を弟子とするよう私たちを動かすのは愛”です。 限りなくウソくさいですね。」
「7節に“私たちが伝道や人々を弟子とする活動を行うのはなぜでしょうか。第一に,エホバを愛しているからです。”とある。もちろんウソだけど、ここは7節の質問の答えの部分だ。これは、もし誰かから、なぜ伝道しているのですかと尋ねられたら、このように答えなさいという指示だよ。こんなことを恥ずかしげもなく言うJWは本当にウソつきだから、信用しないように。」

「8節では“第二に,私たちが真理を教えたいと思うのは,隣人を愛しているからです。”とあります。これも公式見解というやつですね。実際とは違います。」
「JWの伝道といえば、おしゃべりしながらのろのろ歩き回り、時々留守の家のチャイムを鳴らすというものでしょう。愛なんかまったく関係ないよ。」

「8節には“現代の人々も同じような状態にあります。どれほど幸せそうに見えても,見た目に惑わされてはなりません。人々は,導いてくれる羊飼いがいない,迷い出た羊のようです。”と、トンデモ発言です。“私たちは愛と同情心に動かされて,助けてあげたいという気持ちになります。”とあります。JWは周りから同情されこそすれ、周りの人を同情するような立場じゃないですよ。」
「信者に自分たちは選ばれた特別な人で、他の人より偉いと思い込ませるのがカルト宗教のやり方。JW以外の人を“迷い出た羊”で間もなく滅ばされる人と思って、周りの人から受ける冷たい視線に耐えるわけだね。」

「10から14節が“さまざまな問題を乗り越える”です。 4つの問題が出ています。」
「11節は、“今の状況ではできることが限られていると感じる。”という問題だけど、それに対して電子機器を使え、時間帯を変えろとアドバイスしている。暇な老人向けのアドバイスだね。まじめに仕事をしているJWなら、自由に時間帯を変えられないよ。」

「12節が“人に聖書を教える自信がない。”です。これは聖書を教えると思うからしり込みしてしまうわけで、薄ぺらなJWの教義を教えると思えば、自信が出ると思います。」
「12節に“第一に,エホバから見れば,あなたには聖書を教える資格があります。(コリ二 3:5)”とあるけれど、聖句の誤用だよ。JWには教える資格があると、パウロが言うわけないだろう。」
「そこでは“私たちは自分の力で十分な資格を得ているわけではなく,(略)十分な資格は神から与えられているのです。”とありますから、もし宣教活動がうまくいったとすれば、それは自分の能力のせいではなく、神が自分たちに与えてくれた力のせいだと言っているだけです。」

「13節が“新しいやり方やツールになじめないと感じる。”だ。なじめないというのは、最近の組織の変化に対する不満の間接的な表明でしょう。それなのに、“誰かに教えてもらうことができます。”で、この問題を処理している。」
「老人JWにはつらい時代ですね。教えてくれる人がいない場合だってありますよ。」

「14節が“自分の区域で聖書レッスンを始めるのは難しいと感じる。”だけど、それに対して“この不安定な世界では状況が急激に変化することがあります。”と言っている。他人の不幸を待って、それに付け込もうということだ。」
「悪いニュースは終わりのしるしとしてJWを活気づけますね。」
「新型コロナウイルスの問題が発生したとき、これが終わりのしるしと思ったJWはけっこういるらしい。しかし、今ではその反動で大いに失望している。」

「15,16節が“人々を弟子とする喜びを味わう”です。 人々を弟子とするとエホバは喜ぶそうですが、その根拠が格言23:15,16です。聖句の誤用ですね。」
「“わが子よ,あなたの心が賢くなったら,私は心から喜ぶ。あなたの唇が正しいことを語るとき,私は心の奥底から歓喜する。”だけど、これは先生が若い弟子に言っている言葉。賢くあれ、正しいことを語れと言っている。この聖句をJWが人々を弟子とするとエホバが喜ぶことの根拠にするには無理があるよ。」

「16節は泣けます。“少なくとも1件の聖書レッスンを始めることを目標にできるでしょうか。”とあります。多くのJWは聖書レッスンが1件もないということですね。」
「統治体は怒っているということでしょう。15節に“770万5765件の聖書レッスンが行われ”とあるけれど、これは実態を反映しない相当水増しした数字だと思うけれど、JWの数は850万くらいだから、JW1人当たりのレッスン数は1を下回っている。これは将来JWの数が減少するという意味だね。」

「最後の17節でも“人に真理を伝えることと教えることは,どちらも私たちに与えられた素晴らしい務めです。この活動に加わるなら本当に幸せになれます。”と事実に反することを言っています。JWの出版物はウソが多いですね。」
「英文では“務め”ではなく“特権privilege”なんだけどね。日本では特権ではなく義務なわけだ。この義務として押し付けられる活動に加わってしまったために、本当に幸せになれなかった人の方が幸せになった人よりはるかに多いよ。」

#1328 2021年09月06日 12:30:34

ものみの塔
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

エホバの証人 各位

ものみの塔から以下のように通達が出ましたので、全員、教えを厳守すること。

◆キリスト教における“聖書”とは、旧約聖書と新約聖書のみであり、新世界訳聖書は“聖書”ではない。新世界訳聖書とは、旧約聖書・新約聖書に現代人が加筆修正を加えた“著書”である。その証拠に、新世界訳聖書では237回「エホバ」という言葉を使っているが、原本の旧約聖書・新約聖書には「エホバ」という言葉は一回も出てこない。
◆“献血・輸血を禁止する”という新世界訳聖書の解釈は間違っていた。ガンの化学・放射線治療において、輸血は必要不可欠である。もちろん、“輸血の代替医療”の内容も全くのデタラメである。“代替医療”によって信者が命を落としても、それは自己責任として処理され、ものみの塔は責任を取らない。よって、手術やガン治療等で輸血が必要な場合は素直に同意し、過去にあったような、輸血拒否によって医療従事者を困らせるような幼稚な言動は絶対にしないこと。また、献血は素晴らしい社会貢献であるので、積極的に協力すること。
◆“聖書”研究よりも学校の勉強の方が重要である。極力、子供を大学へ進学させること。すでに成人していて、大学を出ていない信者は、放送大学等を利用し、なるべく大卒の資格を取るよう努めること。(ものみの塔は信者の生活資金までは保証しない。大学を卒業して正規雇用のまともな職に就き、自立した生活を送ることこそが、まともな社会人であり、まともな人間といえる。)
◆バレンタインやホワイトデーでチョコ等を授受することは個人の自由とする。男性信者がバレンタインデーにチョコをもらったら、必ずホワイトデーでお返しをすること。信者である前に人間として当然の行為である。
◆誕生日パーティーやクリスマスパーティーを開催したり、参加するのは個人の自由とする。
◆選挙の日は必ず投票に行くこと。民主主義国の国民として当然の義務である。どうしても投票権を放棄したい者は、北朝鮮へ亡命すること。
◆嗜むべきスポーツとしては、剣道を推奨する。剣道以外にも、武道を嗜むことは、武士道や礼儀作法を学ぶ上で非常に有意義である。
◆飲み会等で乾杯をする際は、協調性を重視して、自分も杯を掲げ、声高らかに「乾杯!」と発声すること。
◆国旗掲揚の際は協調性を重視して、国旗の方を向くこと。
◆国歌・校歌斉唱の際は協調性を重視して、大きな声で歌うこと。
◆年明けに年賀状をもらったら、礼儀として必ず返事を出すこと。「明けましておめでとうございます」と言われたら、協調性を重視して「おめでとうございます」と返事をすること。
◆“キリスト教”の名前を使わせていただいている以上、自宅に必ずキリスト像を置くこと。
◆喫煙は個人の自由であり、規制はしない。
◆食事の前には手を合わせて、「いただきます」と発声する。“お祈り”は必要無い。(食事の度に「早く地球が滅びますように」と唱える行為は常軌を逸している。)
◆マイホームなどの財産を所有したり、起業などの経済活動を行うことは個人の自由とする。
◆なるべく多く貯金すること。(これも前述の通り、ものみの塔は信者の老後生活を保証しないので、自力で老後の資金を貯めておくこと。)
◆婚前交渉は個人の自由とする。一般的に、恋愛経験の無い者は社会で苦労する事が多いため、恋愛経験を積むことは、思慮深い人間になる上で非常に重要である。
◆積極的に地域活動に参加すること。(地域住民と良好な関係を保てない人間が良好な信者になることなどあり得ない。)
◆他のいろんな宗教を尊重すること。特にプロテスタントやカトリックは素晴らしい宗教である。
◆神社仏閣も重要な文化遺産であるので、機会があれば参拝して見聞を広めること。
◆知人から結婚式の招待を受けた場合は、どの様な宗教形式であっても極力参加すること。信仰よりも友情の方が大事である。
◆先祖のお墓参りには必ず行くこと。墓の宗教形式に関係なく、先祖を尊ぶことは大事である。
◆知人が亡くなった場合、どの様な宗教形式の葬儀であっても、極力参加し、その宗教形式に沿った儀式(ご焼香など)を行うこと。知人やその周りが悲しんでいる時に支え励ますことは、宗教云々よりも人として当然の行為である。
◆開拓奉仕は極力控えること。開拓奉仕をしなくても、エホバのような素晴らしい宗教なら自然に信者は増えるから、ただひたすら待つ。開拓奉仕をする時間的余裕があるなら、仕事や家庭のために時間を費やすこと。
◆諸君が“サタン”と呼んでいる人達は、真実を教えてくれる非常に貴重な存在である。よって、サタンの話は真剣に聞くこと。
◆インターネット上には、真実を知るための貴重な情報が沢山書かれているので、GoogleやYahoo!で可能な限り「エホバの証人」「ものみの塔」について調べること。インターネットの情報は決してサタンのまやかしなどではないので、真剣に読むこと。特に、「キャンディスコンティ裁判」については、全員必ず調べること。
◆“排斥”を恐れてはならない。“排斥”こそが、ものみの塔が用いる最大の“脅迫”なのだから。エホバの証人全員が勇気を出して同時に脱会すれば、“排斥”という概念自体が消滅する。ものみの塔で知り合った仲間を大事にしたいなら、全員同時に脱会するべきである。そうすれば、“排斥”もされず、仲間も失わず、みんな幸せになれる。(そもそも、宗教をやめた程度で切れてしまうような縁は、大した縁ではない。)
◆ハルマゲドンは起こらない。恐怖を植え付けることは、人を洗脳するための常套手段であるので、決して騙されてはいけない。
◆死後の楽園は存在しない。楽園に行くためではなく、現世で幸せになることを目的として、世のため、人のため、自分のために頑張ることが重要である。(周りのエホバの証人は、「今宗教をやめたら、今までの努力が無駄になってしまう」と引き止めるであろうが、正しい道へ進む事に際して“遅すぎる”ということは絶対にない。今真実に気付いたならば、この瞬間から正しい道に進めばよい。決して遅くはない。残りの人生を有意義に楽しんでいただきたい。)

#1329 2021年09月09日 14:40:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

水曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバの忍耐に倣いましょう (27)”で、エホバが忍耐しているのだから、JWも死ぬまで忍耐しなさい、という内容ですね。」
「3節に“この体制で生きていくのは楽なことではありません。”とあるけれど、それはJWが自ら招いている面がかなりあるよ。組織の言いなりになって、低学歴無資格で最低賃金しかもらえないような仕事をしながら、無給の宗教サークル活動にどっぷりつかっているのに、楽な生活を期待するのは初めから無理があるよ。」

「5から14節が“この体制で生きていくのは楽なことではありません。”です。 エホバが忍耐している9つのことが挙げられています。エホバは本当に忍耐しているのですか?」
「エホバは忍耐の神というのは一種の神議論だね。」
「神議論とは神の正しさを証明しようというものですね。」
「ライプニッツが作った言葉だけど、より具体的には、なぜ善なる神が悪の存在を許すのかという質問に答えること。」
「旧約聖書を読む限り、エホバは忍耐しませんよ。気に入らない人間はすぐに殺します。」
「ノアの大洪水で乳幼児から動物まで溺死させた。忍耐が足りないよね。ソドムとゴモラは町全体を破壊した。全然忍耐していない。出エジプト後の荒野でも、イスラエル人が気に入らないので滅ぼそうとしてモーセになだめられている。忍耐が足りない。」

「5節ではエホバは“名前に対する非難”を忍耐していると言っています。これってまじめに言っているのですか?」
「エホバという名前がインチキネームということをうっかり忘れたのかもしれないね。“エホバはご自分の名前を愛していて,全ての者がそれに敬意を示すことを望んでいます。”と本当に思うなら、エホバという間違った呼び方を直ちにやめるべき。」
「5節には悪魔が“アダムとエバに幸せになるのに必要なものを与えていない,と主張しました。”とありますが、そんなことは主張していません。JWの創作です。」
「しかも、これがどうして名前に対する非難になるのか、不思議だね。」

「6節ではエホバは“主権に対する反抗”を忍耐していると言っています。“神は,賢明にも,人類に十分の時間を与えました。創造者の助けなしに自分たちを治めようとしても必ず失敗する,ということをはっきりさせるためです。”とあります。」
「これがJWの神議論だ。宇宙主権論争のため、悪を許しているという主張だね。」
「もう十分じゃないですか。それなのにいつまでも悪の存在を許している。この神議論では不十分です。」
「JWもそう思っているから、間もなく終わりが来ると150年間言い続けてきたわけだね。でも終わりは来ない。そろそろ別な理屈を考えたほうがいいよ。」

「6節の前に、アダムとエバのイラストがあるのですが、アダムの髪の毛や髭は誰がどうやってカットしたんですか?」
「エバの髪もいい感じにカールさせているね。エデンの園にはアダムとエバ専用の美容室があったと想定するしかないね。」

「7節では、エホバは“子供たちの反逆”を耐えていると言っています。“全ての反逆者を滅ぼす時まで忍耐し続けます。”とあります。」
「そんなことないでしょう。旧約聖書には神によって殺された人の話がたくさんあるよ。」
「典型的なのは民数記11:1でしょうか。“民はエホバの前でひどく文句を言い始めた。エホバはそれを聞くと怒りに燃え,エホバの火が民に対して燃え上がり,宿営の外れにいる人たちを焼き尽くし始めた。”とあります。すぐ怒って、皆殺しです。」
「文句を言ったらこれだよ。これもモーセが祈ったので、収まったことになっている。忍耐なんか、していないよ。」

「8節では、エホバは“悪魔のうそ”を耐えていると言っています。その嘘の具体例が9節の“子供が死ぬと,「神様はさらに天使を必要としていたので,その子を天に召された」と言う人さえいます。愛情深いお父さんエホバに対する,なんと不敬な言葉でしょう。”です。こうやって既成のキリスト教を悪魔の教えと非難しています。」
「ウソはお互いさまで、普通は宗教同士そんなことで非難しあわないけれど、JWは違う。JWになる人は世界的に見ると既成の教会に所属している人がほとんど。つまり信者を既成の教会から奪わないと、JWは増えない。それで既成の教会、特にカトリックを攻撃する。」

「10節では、エホバは“ご自分に仕える人たちが苦しむのを見ること”を耐えていると言っています。耐える必要はないと思いますが。“私たちが迫害や病気や不完全さに苦しむのを見ると,非常につらく感じます。(詩編 22:23,24を読む。)”とありますが、これは聖句の誤用ですね。」
「そこには“神は,虐げられている人の苦しみを軽んじたり無視したりせず”とあるけれど、病気だとか不完全さなんか出てこない。勝手に話を大きくしている。」

「詩編22はイエスの受難の場面を預言しているとされるものですよね。マルコでイエスが最後に言う言葉は詩編22:1の“私の神,私の神,なぜ私を見捨てたのですか”です。」
「詩編22:18に“彼らは私の服を分け合い,私の衣服のためにくじを引く”とあるけれど、マルコ15:24に“イエスの外衣に関して,それぞれの取り分をくじで決め,分配した。”とある。」
「血だらけの服なんか、ローマ兵が欲しがるとは思えませんが、詩編22にある通りにしているわけですね。」
「詩編22:7の“私を見る人は皆,あざ笑う。冷笑し,あざけって頭を振る。”は、マルコ15:29で“そばを通る人たちはイエスに暴言を吐き,頭を振ってこう言った。”となっている。」
「なぜ頭をふって言うのか、不思議でしたが詩編22からきているわけですね。」
「マルコ15:32に“イスラエルの王キリストに,今,苦しみの杭から下りてきてもらおうではないか。そうしたら信じよう。”という祭司長のあざけりは、詩編22:8の“彼はエホバに身を委ねたのだ。その方に助け出してもらえ。救ってもらえ。”から来ている。」
「要するに、これは預言の成就ではなく、詩編22に基づいて、イエスの受難物語をマルコが書いたということですね。」
「詩編22は預言ではない。ある個人の嘆きの詩だよ。それを利用しただけど、後に預言と見なし、キリスト教の団体が預言は実現したと宣伝することになる。」

「11節では、エホバは“友たちとの死の別れ”を耐えていると言っています。ここはかなりバカバカしいですね。“エホバが,友であるアブラハムに会えなくてどれほど寂しく思っているか,想像できますか。”とあります。エホバってセンチメンタルな神じゃないですよ。」
「小学生向けの記事だね。最近は非論理的で感情に訴える記事が多くなった。」
「“そして将来,エホバは友たちを復活させます。”とありますが、寂しければ、全能の神なのですから、すぐ復活させればいいだけです。」
「そうしないのだから、寂しくなんかないよ。」

「12節では“人々が邪悪な人に抑圧されるのを見ること”、13節では“人類の道徳的な堕落”、14節では“地球が損なわれていくのを見ること。”をエホバは忍耐していると言っています。」
「13節で取り上げられているのは、性的不道徳で“あらゆる性的不道徳が広まっているのを見て,悪魔は大喜びしていることでしょう。異性間でも同性間でも,不道徳な行為が行われているのです。”と書いている。JWでは道徳というと性道徳に過ぎないようだ。」
「組織のリーダーがウソをつく、組織のお金を私物化する、など組織内の不正や不公平を取り上げるわけにはいきませんから、性的問題ばかりを取り上げると思います。」
「社会的な不道徳は問題にしないので、上に甘く下に厳しい組織になるわけだ。」

「14節で“人は,「人を支配し,人に害を及ぼしてきた」だけでなく,エホバから委ねられた地球や動物をきちんと管理できていません。(伝 8:9。創 1:28)”と、伝道8:9を引用しています。訳に問題はありませんか?」
「そこでは“これまでずっと,人は人を支配し,人に害を及ぼしてきた。”とあるけれど、協会共同訳では“今は、人が人を支配し、災いを招く時代である。”となっていて、時間について違いがあるね。“これまでずっと”とは言っていない。」

「この伝道8章は宮廷につかえる人に対するアドバイスですよ。要点は8:2-3の“王の命令を守りなさい。あなたは神に誓いを立てた。王の前から不意に立ち去ろうとしてはならない。悪に関わってはならない。王は自分の望み通りに物事を行う。”じゃないですか?」
「そうだね。だから“人は人を支配し,人に害を及ぼしてきた。”というのは、王とその家臣のことを言っているわけで、JWのように人間による支配そのものは有害だなんてことは言っていない。」

「14節に“一部の専門家によると,人間のせいで今後数年以内に100万種以上の生物が絶滅する恐れがあります。”と書いていますが、これも不正引用です。どんな専門家なのでしょうか?」
「言っているのは“一部”なんでしょう。ということは、大多数は違う見解だ。なぜ一部の見解が正しいと言えるのか不明だ。」
「こんな引用が許されるなら、“一部の専門家によると,今後数年以内にJWが絶滅する恐れがあります。”と書いてもいいわけですね。」
「何の問題もないよ。JWのまねをしただけなんだから。」

「人間が存在する以前の時代で、生物は過去何度も大絶滅をしていますよね。エホバが生物の絶滅を気にするとは思えません。」
「多細胞説物が生まれてから、少なくとも5回の大量絶滅があった。よく知られているのは白亜紀末(約6600万年前)に起きた大量絶滅で、恐竜が滅びた。最大の大量絶滅はペルム紀末(約2億5100万年前)で、全ての種の90から95%が絶滅した。創造論に立てば、神は生物を大量絶滅させた張本人なわけで、人間のしていることなんてちっぽけな問題となる。」

「15から18節が“エホバの忍耐から学べること”です。 エホバが忍耐しているのだから、JWも忍耐しなさい、ということのようです。」
「16節に“アダムとエバの子孫全員は不完全な状態で生まれてきます。それでも,エホバは愛し,世話してくださっています。”とあるけれど、JWの神に対する見方がよくわかる。“それでも”はおかしいだろう。」
「JWの神様は完全なものしか愛せないようですね。だから“それでも”という接続詞が使われるのでしょう。」
「人間だと、完全だから愛する、不完全だと愛せない、なんてことはないよ。しかし、JWの神様は、不完全な人間を無理して愛しているわけだね。だから、まもなく皆殺しにしようとしているというのは、納得できるね。」

「18節では、JWが大好きなペテロ二3:9を読みます。“神は,一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいるので,皆さんのことを辛抱しているのです。”というものです。これも言い訳ですが。」
「このとおりだと、永遠にJWが待ち望んでいる人類大絶滅の日は来ないね。」
「狂信的なJW以外にとっては、それは本当に良い便りです。」

#1330 2021年09月17日 15:54:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“競い合うのではなく,平和を求めましょう(28)”で、会衆内の人間関係をよくしなさいという内容です。」
「JWはお互いに悪口いいあっていがみ合うのが普通の状態なのかな?みんな仲良くしようよ、みたいな記事が多いね。」
「この記事によると、JWの人間関係がよくないのは競争心のせいのようですね。」
「そうは言っても、競争心をあおって、無償で働かせようとしているのは組織だよ。」

「1節がいきなり偏見丸出しです。“現代の多くの人たちは,競争心に駆られて人より上に立とうとします。例えば,ビジネスの世界では,ライバルに勝つために手段を選ばない人がいます。スポーツの世界でも,試合に勝つために相手チームの選手にわざとけがをさせる人がいます。また,有名大学に入るために,入試で不正行為をする人もいます。”とあります。似たようなことをする人はJWにだっていますよ。」
「JW以外では、発覚すれば厳しく罰せられる。JWみたいに、許せとか愛を示せとかいってあいまいにしない点で、JWよりましでしょう。」

「“現代の多くの人たちは”と言っていますが、嘘ですよ。不正をしてまで勝とうという人は少数です。」
「執筆者にはウソを書くなと言いたいね。ウソでないと主張するなら、不正をしてまで勝とうという人が多いことを示す統計を教えて欲しい。」

「3から5節が“動機を分析する”です。 “私は自分のことを人と比較して考えることが多いだろうか。何をしていても自分が1番でいたいとか,あの兄弟や姉妹には負けたくない,という気持ちで頑張っているだろうか。それとも,エホバに喜んでもらいたい,という気持ちで取り組んでいるだろうか”と分析せよといっています。」
「もちろん、JWは“エホバに喜んでもらいたい”という動機からと答えるんじゃないの?」
「1番でいたいのも他の人に負けたくないのも、“エホバに喜んでもらいたい”からと理屈づけることは可能ですからね。」

「4節にあるカタリーナ姉妹の話は面白い。“私は,自分よりもかわいい人や奉仕が上手な人や友達がたくさんいる人と自分を比べてしまっていました。”とある。この人は中学生かな?」
「恐らくJW2世の30代後半独身開拓者じゃないでしょうか。」
「それに対するアドバイスは“エホバが私たちを引き寄せてくれたのは,・・・私たちがエホバを心から愛し,独り子イエスに進んで従っているからです。”なんだよ。ウソだろう。」
「JWをしているのはJWの家庭に生まれてそれ以外の選択肢が許されなかったからというのが大半でしょう。JWの多くはエホバなんて言う神様を恐れこそすれ、愛してなんかいないです。」

「5節では“私は,周りの人から平和をつくる人と見られているだろうか。それとも,人と意見がぶつかることがよくあるだろうか”と自問せよとあります。」
「意見のぶつかり合いがなくては組織も人間も成長しないよ。でも組織が求めているのは、上からの指示にただ従うだけの人間だから、意見のぶつかり合いは悪なんだろう。」

「長老のヒョン兄弟は“私は批判的になり,そうした兄弟たちの言うことによく反発していました。・・・私がそうした態度を取ったので,会衆の一致が乱されてしまいました。”と反省し、その後自分の態度を改めたそうです。」
「要するに、長老間の権力闘争に敗北したので、これ以上みじめな立場にならないようにおとなしくすることにした、ということね。」
「JWは正論を言って組織の問題点を指摘する人を、単に会衆の一致を乱す人と呼びます。ヒョン兄弟も組織の中で生きていくには口をつぐんだ方がいいとわかったんですよ。」
「JWでは余計なことは言わないということが大事ということね。」

「6から9節は“利己心やねたみに警戒する”です。 “ガラテア 5:26を読む。”とあります。そこには“自己中心的になってはなりません。競い合ったりねたみ合ったりしないようにしましょう。”とあるのですが、訳に問題はありませんか?」
「協会共同訳では“思い上がって、互いに挑み合ったり、妬み合ったりするのはやめましょう。”だね。JWが“自己中心的”と訳した元の単語はkenodoxoiだけど、そういう意味はないよ。自己を過大評価するというならいいけれど、自己中心的と訳すのは間違い。」

「6節では、“利己的な人はプライドが高く,自分のことしか考えません。”とありますが、利己心とプライドの高さは関連しますか?」
「しないでしょう。利己的でプライドの低い人もいるし、利己的でプライドの高い人もいるよ。いつものように根拠もなく断定しているだけ。」

「8節に利己心と闘う方法が出ているのですが、“自分より他の人の方が上だと考えるなら,自分より優れた才能や能力を持っている人に競争心を抱くことはないでしょう。”とあります。的外れですよ。」
「利己心と競争心を混同しているよ。」

「9節に“自分の限界をわきまえることによって慎みを示すなら,ねたむ傾向を抑えることができます。”とありますが、本当ですか?」
「自分はダメな人間で、人をねたむなんて間違いだと思い込めばよい、と言っているように聞こえるね。その場合、妬む気持ちが抑えられたとしても、その副作用は大きいよ。」
「利己心も妬みも神が与えた自然な感情ですよ。無理に罪悪視する必要はないはずです。」
「人間の持つ自然な感情を悪として抑圧すると、JWのように、陰鬱で重苦しい宗教にならざるを得ない。」

「10節以降が“聖書中の手本から学ぶ”です。 いつものようにヘンテコな聖書の適用が続きます。10節は裁き人8:1-3にあるギデオンとエフライムの人の話です。“エフライムの人たちは,ギデオンが神の敵との戦いを始める時に自分たちに声を掛けなかったので,プライドを傷つけられたようです。”とあります。」
「話を単純化しすぎ。エフライムの人が怒った理由のもう一つは経済的なもの。戦争で勝てば戦利品が得られる。彼らは、戦争から外されて損をしたと思っている。旧約聖書は平和主義じゃないからね。」
「この危機をギデオンはエフライムの人にこびへつらって、その場を切り抜けたわけです。JW的には模範的なのでしょう。」

「12節が教訓だけど、“自分の正しさを示すことよりも,平和を守ることの方がはるかに重要なのです。”とある。長い物には巻かれろという処世術だ。でも、これはJW内限定の話で、JW以外の人には妥協はしないのがJWだよね。」
「会衆内では、相手の言うことが間違っていてもおとなしく従う。会衆の外では、あくまでも自分の正当性に固執し、それを認めない相手には寛容性がないと非難し、裁判闘争も辞さないというのが、正しいJWの生き方です。」

「ギデオンの話は古い時代のイスラエルの信仰がうかがえる点で面白いよ。」
「裁き人7:1には“エルバアルつまりギデオン”とあります。ギデオンはバアル崇拝者ということですか?」
「エルバアルは“バアルは戦う”というような意味で、そういう名前を持っているということは、少なくとも一時期はバアル崇拝者だったということ。ギデオンの息子は裁き人9:1でもギデオンの子ではなく、“エルバアルの子アビメレク”と呼ばれている。こちらの名前のほうが広く知られていたようだ。」
「ギデオンは裁き人8:27では“ギデオンはその金でエフォドを作り,自分の町オフラに展示した。イスラエル全体は,そこでエフォドを崇拝するという不忠実なことをした。”と堂々と偶像崇拝をしています。」
「王国成立前のイスラエルの宗教は多神教的だったことがうかがえるね。そんなギデオンだけれど神様に罰せられることもなく、長生きし、息子70人も得て、40年間平和に統治したことになっている。なぜ罰しなの?神様は一貫性がないね。」

「13,14節がハンナの話です。ハンナはもう一人の妻からいじめられていたけれど、“聖書にはハンナがペニンナに仕返ししようとしたという記録はありません。”ということで、“その人と平和な関係でいるようにしましょう。”という結論です。」
「いつもの被害者は泣き寝入りすれば、問題は起きないというJWの奇妙な解決策だ。被害者救済こそ、第一に考えるべきことなのに、JWがまず考えるのは組織内に波風を断たせないということだね。被害者はいつまでも救済されない。」

「15から18節がパウロとアポロの話です。アポロは会衆の分裂をあおったりせず、謙遜な人だったと言っています。」
「アポロで興味深いのは使徒18:25の“ヨハネのバプテスマしか知らなかった。”とあること。しかし、アポロがもう一度バプテスマを受けたとはどこにも書いていない。ヨハネのバプテスマでもクリスチャンとして有効なんだ。」

「引照聖句のコリント一16:12には“私たちの兄弟アポロには,兄弟たちと一緒に皆さんの所に行くよう強く勧めました。今は行くつもりがないようでしたが”とあります。1世紀のクリスチャンは現在のJWとは全然違うことがわかります。」
「JWは1世紀にも統治体があって、今みたいに命令を出していたという作り話を信じさせられている。パウロの強い勧めも、アポロはあっさり断っている。JWなら許されないよね。」

「18節が教訓なのですが、パウルとアポロの話とはあまり関係ありません。“会衆の平和と一致”のために働けということのようです。」
「“平和と一致”ということは、上からの指示には黙って従えと同義だね。」
「“コリント第一 4:6,7を読む。”とあるのですが、その中の“皆さんが思い上がって人をひいきしたり見下したりすることのないためです。”という訳はどうですか?」
「日本語訳の問題だね。英文ではso that you may not be puffed up with pride, favoring one against the otherで、oneとthe otherと書いている。これはパウロとアポロのことを指している。日本語訳のように“人”一般のことを言っているわけではない。協会共同訳では“誰も一方にくみし、他方に反対して高ぶることのないためです。”とある。」

「その中に“「書かれている事柄を越えてはならない」という点を学んでもらい”とあるのですが、“書かれている事柄”とは何ですか?カッコでくくられていますが、これは何かの引用なんですか?」
「何かの引用なんだけど、何かは不明。“書かれている事柄”とは具体的に何を指すかもよくわからない。この表現でコリントの人たちには、あの事柄か、と意味が分かったのだろうけれど、現代人にはよくわからないね。」
「この記事では” 聖書に基づく助言を与え”とありますので、執筆者は“書かれている事柄”とは聖書を指すと思い込んでいるようです。」
「パウロの時代には新約聖書はないし、パウロは自分の手紙が新約聖書の主要な部分になるなんて想像もしていない。旧約聖書という概念でさえまだ確立していない。」

「パウロは旧約聖書を結構いい加減に引用していますよね。問題のあるおじさんです。」
「そうだね。例えば、コリント一15:4に“そして葬られ,聖書にある通り3日目に生き返らされ”とパウロは書いているけれど、メシアが3日目に生き返るなんてことは聖書のどこにも書いていない。それから、ガラテア3:19で“律法は天使たちを通して,仲介者の手によって伝えられました。”とパウロは書いているけれど、天使を通して律法が与えられたなんて聖書のどこにも書いていない。」
「コリント一10:4の“いつも神からの岩がそばにあり,そこから飲んでいました。その岩はキリストを表していました。”はどうですか?荒野をさまよっていた時のことを語っていますが、神からの岩がいつもそばにあって、それが水を出したなんて聖書にありますか?」
「ないよ。それはユダヤ人の伝説。パウロは聖書にもない伝説の岩をキリストだと言っている。大丈夫か、パウロ?」

「最後の19節で“人と競い合おうとするどんな傾向も自分の中から取り除くよう努力しましょう。”とあります。」
「組織の平和のためには、自分がどれだけ不公平に扱われても、他人がどれだけえこひいきされても、文句を言うなということだね。こんな組織にいつまでもとどまっていると精神が病むよ。」

#1331 2021年09月19日 14:46:34

蒼い海
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ギデオンについては裁き人6章に名前の起源があります。神の限界さんの反論にあるように、たいていの組織は我田引水、自己賛美ですね。主張のエビデンスなど期待すべきもありません。プロパガンダの情報はできるだけ異なる意見、情報を議論すべきであることを学ばせていただいています。真の教育者はそれを促進しますが、プロパガンダは、反対するからです。これからも投稿をお願いします。

#1332 2021年09月24日 16:11:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“自分自身の成長を喜びましょう (29)”で、他の人と比べていると、心を病むからやめよう、という内容ですね。」
「また信者の精神衛生がテーマだね。そういう問題を取り上げるのはいいけれど、対処法が的外れで有害だよね。」
「そもそもJWには成長なんてありませんよ。永遠に小学校4年生をやっているようなものです。」
「自分の成長を喜びたいなら、JWをやめて別のことに挑戦すべきだね。」

「2節で、人と比べていると“ねたんだり,がっかりしたり,自分はだめだという気持ちになったりするかもしれません。”とあります。何のとりえもないJWは人と比べると落ち込むだけだから、やめましょうということですね。」
「“「一人一人,自分の行いについてよく考えましょう。そうすれば,人と比べて喜ぶのではなく,自分自身のことを喜べます」。(ガラ 6:4)”とあるけれど、この原文には“比べて”という単語はない。」
「協会共同訳では“おのおの自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分だけには誇れるとしても、他人には誇れなくなるでしょう。”です。」
「こちらの方が、原文に忠実な訳だね。JW訳は信用できない。」

「3節では“エホバが願っているのは,あなたが信仰面での自分自身の成長を喜ぶことです。”とあるのです。その後に“あなたはバプテスマを受けることを自分で選びました。そうしたのは,あなたがエホバを愛していたからです。”と洗脳するような文章が続きます。」
「バプテスマを受けたのはいろいろな事情からでしょう。周囲からの圧力によって嫌々バプテスマを受けた人はけっこういるでしょう。でもそういう本当のことを言うことは許さないというわけだ。」

「5から8節が“親や夫婦にできること”です。 子育てに関するアドバイスで、5節には“親は子供をほかの子供と比べたり,その子に無理なことを求めたりしないよう注意するべきです。”とあります。」
「偽善的だね。JWの子どもは生まれたときから無理なことを求められすぎでしょう。体験談が出ているけれど、的外れだね。」
「“母は私に,テストでいつも100点満点を取ることを求めましたが,それは無理なことでした。”とありますね。JWの母親らしくまともじゃないですね。」
「その理由も“先生や真理にいない父親にエホバの証人のことを良く思ってもらうためです。”とあって、JWの母親が子どもの幸せなど何も考えていないことがよくわかる。子どもはJWの宣伝材料にすぎないわけだ。」

「5節の上にある写真ですが、“家族の崇拝で,子どもたちがそれぞれノアの箱船に入れるものを作っている。”という説明があります。これって結構お金がかかっていますよ。JWと言えば貧乏なのに、写真の中の家族はいつも裕福です。」
「宣伝写真だからだよ。家族の崇拝では、溺れて苦しんでいる動物や助けを求めて泣き叫んでいる子どもも作って欲しいね。」

「6節で“親は,詩編 131編1,2節から大切な点を学べます。(読む。)”とあります。131:2に“母に抱かれる乳離れした幼児のようになった。私は満足する。乳離れした幼児のように。”とあるのですが、“乳離れした幼児”が母に抱かれるというのは奇妙な気がします。」
「日本語訳の問題だね。英文では“Like a weaned child with its mother”で抱かれるではなく、母親のそばに居るという意味。協会共同訳では“母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。”となっている。」
「日本語の翻訳者は本当にダメですね。」

「この聖句には、乳離れする前の子どもは母親の乳を求めて満足しない存在であるという古代の乳児観が背景にある。」
「離乳すると、母乳以外のもので食欲を満たすことができるようになって、満足するようになるというわけですか。」
「そう。古代人の子どもに対する見方がわかる部分だね。」
「古代では乳離れは3歳くらいですよね。」
「適切な離乳食がないから、授乳期間はどうしても長くなる。」

「JWはこの詩はダビデ王が作ったものとしていますが、違いますよね。」
「”ダビデによる”とあるけれど、これは後世の挿入。詩編120から134は”都もうでの歌”と呼ばれるもので、イスラエルの3大祭りにエルサレムに上った巡礼者に用いられた歌集と考えられている。内容からして、ダビデの時代ではなく、バビロン捕囚以降のもの。」

「6節では“子供に対しても無理なことを求めたりしないということです。”とあります。JW活動が嫌な子どもは、それは無理です、と親に言えば許してもらえるということですか?」
「JW活動以外の話だよ。JWに関係したことは子どもが泣いてもわめいても無理やり押し付けるというのが、正しいJWの親の在り方。JWを甘く見てはいけないね。」

「7と8節は、夫が妻にどう接するかです。“妻に無理なことを求めたりはしません。ほかの女性と比べたりすることもありません。”とあります。」
「長年夫婦をすれば、無理なことは求めなくなるよ。あきらめるから。でも、他の女性と比べるなと言っても無理だろう。太った奥さんのいる男性なら、ほっそりとした女性を見れば、無意識のうちに比べて、うちの奥さんはなんであんなにデブなんだろうと思ってしまうよ。」

「8節に“妻を大切にしている夫は,妻のことを人前で褒め,愛していることや感謝していることを直接伝えます。”とありますが、これはアメリカ文化ですね。」
「執筆者はアメリカ文化しか知らない田舎者。人前で自分の妻のことをほめることを良いとする文化はそんなにないよ。」

「9から14節が“長老や会衆のほかの人たちにできること”です。 長老は姉妹たちをほめて、自分は役に立つ存在と思わせろ、と言っています。」
「9節に“自分はほとんど会衆の役に立っていない,と感じていました。でも,今では開拓奉仕を楽しんでいます。”と、ある姉妹のことを述べているけれど、要するに姉妹は開拓者として組織のために働くことが期待されているにすぎないということだね。」
「開拓者じゃない姉妹は、どこかに問題のある人という評価です。」

「11節では、“深い関心を示すことです。”と“謙遜さと慎みを示すことです。”とあります。どんなことでも“謙遜さ”がでてくるのがJWの特徴ですね。」
「12節からは、イエスの話だけれども、そこで強調されていることは、ベストを尽くせなんだよ。14節には“私たちが自分のベストを尽くす時,喜んでくれます。”とある。」
「しかし、イエスはそんなこと言っていましたか?」
「アメリカの宗教ビジネス団体が無給の宗教セールスマンに求めているだけ。」

「15,16節が“達成できる目標を立てる”です。 “自分の能力や状況に合わせて目標を立てることが重要です。”とある。緑姉妹の例が出ています。」
「“子供の頃,父親から,弟や妹やクラスメートと比較され,自尊心を傷つけられました。”とあるのは本当だろうね。でもそのあとの話は嘘くさい。」
「毎日聖書を読む、祈る。これをしたら“信仰面での自分自身の成長を喜ぶことができました。”とあります。緑姉妹は単純でいいですね。」
「聖書、祈り、集会、奉仕は何でも解決するJWの万能薬だ。」

「17から19節が“自分のベストを尽くしてエホバに仕え続ける”です。 ここでも“エホバに祈り,聖書を学び,じっくり考える必要があります。”と言っています。」
「18節で“歴代第二 6:29,30を読む。”とあって、その次に“エホバは私たちの心をご存じです。私たちがサタンの世の精神や自分自身の不完全さと闘っていることも知っています。”と続くけれど、歴代二 6:29,30はそんなこと言っていないよ。」
「ひとつ前の歴代二6:28は“この国に飢饉や疫病,立ち枯れや病害,バッタの大群が発生したり,この国のいずれかの町が敵に包囲されたり,ほかの何らかの災厄や病気が生じたりした場合”とあります。飢饉や伝染病で国家的危機に直面した時のことを言っているわけですね。」
「歴代二6章はソロモンが神殿を奉納するときの祈りなので、“サタンの世の精神や自分自身の不完全さと闘っている”こととは無関係だよ。」

「19節に“エホバは,母親と赤ちゃんの絆を例に挙げて,私たちに対するご自分の気持ちを説明しています。(イザ 49:15)”とあるけれど、“私たちに対するご自分の気持ち”を説明していないよ。イザヤは現代のJWのことなど知らないよ。」
「イザヤ49:15は“女性が自分の乳を飲ませている子を忘れたり,自分が産んだ子を思いやらなかったりするだろうか。たとえ女性たちが忘れたとしても,私があなたを忘れることは決してない。”ですが、ここでいう“あなた”はシオンつまりエルサレムのことですよ。」
「その次のイザヤ49:16は“私は手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は常に私の前にある。”と続く。神のエルサレム復興に対する思いが書かれている場面で、現代JWとは何の関係もない。」

「19節には、レイチェル姉妹の未熟児で生まれた娘の話が出ているのですが、この記事とどう関係するのかわかりません。」
「人間でも自分の子どもには愛情を注ぐ。ましてや神ならそれ以上だ、と言いたいんじゃないの。」
「レイチェル姉妹の話は“娘のおかげで本当に大きな喜びを味わっています。”で終わります。これだとJWとしては不適切じゃないですか。やはり“エホバのおかげで”と何でもエホバに結び付けて感謝するのが正しいJWですよ。」
「この姉妹の話の中にエホバという言葉が一回も出てこない。本当はJWをやめたいと思っているのかも。この子が輸血しないと助からない状況になったら、ためらわず輸血するね。」

「未熟児という言葉はあまり聞きませんが、そんな言葉はあるのですか?」
「かつて使われた言葉で、今は使われない。JWの翻訳者の無知だから、そんなことは知らないだろう。英文ではMy daughter Stephanie was born prematurely.とあるから、早産児ということ。在胎37週未満で生まれたのだろう。」

「最後の20節には“エホバがあなたを引き寄せたのは,あなたがほかの人よりも優れていたからではありません。あなたの心を見て,あなたが温厚で,学んだことを当てはめようとする人であることを知ったからです。(詩 25:9)”と信者の自尊心をくすぐりながら、誘導しています。」
「詩編25:9には“温厚な人を正しく歩むよう導く。ご自分の道を温厚な人に教える。”とあるけれど、協会共同訳では“主は苦しむ人を公正に導き/苦しむ人に道を教える。”だ。“温厚な人”という訳はダメだろう。」
「ひとつ前の25:8では“罪人に生き方を教える。”とあります。25:9はその言いかえですよ。“温厚な人”ではなく罪に“苦しむ人”を導き、教える、ですよ。」
「JWには、そのように文脈を考えて訳するほどの知恵がないということだね。」

#1333 2021年10月01日 15:46:07

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバの家族の一員であることを感謝する(30)”で、エホバに感謝して、組織のために喜んで働け、という内容です。」
「また感謝することを強要されるのね。」

「今週の主題聖句は詩編8:5で“あなたは,人を天使たちより少し劣る者とし,栄光に輝く冠を授けた。”ですが、本文では“人を神のような者*たちより少し劣る者とし”となっているのに、脚注で“または天使”としているのです。これは間違いですよね。」
「協会共同訳では“あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ/栄光と誉れの冠を授け”となっている。原語はエロヒームだから“天使”ではなく“神”だね。」
「JWからすると人間が神にわずかに劣る存在というのは不都合ですよね。」
「ヘブライ2:7に、詩編8を引用して“あなたは彼を天使たちより少し劣る者とし,栄光と栄誉の冠を授けました。”とある。それに合わせて“天使”に変えたんだろう。」
「ヘブライ書の引用はギリシャ語訳からの引用で、そこでは天使になっているということですね。」
「そうだけど、元のヘブライ語は“神”なのだから、天使に変えてはだめだよ。」

「3節には“人間は強力な天使たちに比べて「少し劣る」だけです。”とありますが、本当は神に少し劣るだけなのですね。」
「その場合、神は異教の神を指していると解釈されることが多い。協会共同訳だけど、詩編86:8に“わが主よ、神々のうちに、あなたに並ぶ神はなく/あなたの業に並ぶべきものはありません。”とある。多神教を前提にして、他の神は劣った神といっている。人間はその神より少し劣っているだけという意味。」
「JW訳では“エホバ,あなたのような神はほかにいません。”としていて、多神教にならないようにごまかして訳していますね。」
「これは日本語訳の問題。英文ではThere is none like you among the gods(神々のうちに、あなたのような神は他にいません。)とちゃんと多神教的なことを言っている。」

「5から12節が“エホバは人間のことを大切にしてきた”です。 5つのことが書かれています。まず“ご自分に似たものとして人間を造った。”ことだそうです。」
「5節で“私たちは,神に似た者として造られているので,エホバのように,愛したり,思いやりや揺るぎない愛を示したり,正しいことを行ったりすることができます。”とあるけれど、神様は別の面もあるだろう。すぐ怒る、虐める、虐殺する、差別する。」
「民数記32:13に“エホバはイスラエルに対して怒りに燃え,彼らを40年間,荒野でさまよわせました。”とあります。ファラオ以上の暴君ですね。イスラエル人はエジプトでの圧政から逃れた後、今度は神の圧政に苦しむわけです。」
「というわけで“私たちは,神に似た者として造られているので,エホバのように,怒ったり、虐めたり,正しく差別することができます。”と書き加えて欲しいね。」

「引照聖句の創世記1:26に“私たちに似た者として人を造ろう。”とありますが、“私たち”って誰ですか?」
「それは長くなるから省略。でも三位一体の思想とは無関係。」

「“似たもの”とありますが、協会共同訳では“我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。”とあります。似ているのは姿が似ているという意味でいいのですか?」
「伝統的な解釈は、この記事のように似ているのは精神性であるというものだったけれど、使われているヘブライ語にはそのような意味はない。創世記5:3に“アダムが130歳の時,息子が生まれた。アダムによく似た子だった。アダムはその子をセツと名付けた。”とある。ここでは1:26と同じ単語が使われているけれど、“似た子”というのは外見が似ているという意味。創世記の単語の使い方から言って、神と人間は外見が似ているという意味。神人同型説は典型的な古代人の神の見方だね。」

「6節では“人間のために素晴らしい家を用意した。”です。地球のことのようです。同意できませんね。」
「地球で人間が快適に住めるところは限られているよ。海には住めないし、高山では空気が薄すぎるし、平地でも暑すぎるか、寒すぎる地域が多い。地球環境は知性ある神様が人間のために用意した環境とはとても思えない。」
「高山病になるのは標高2000mくらいの山ですか?高い山が多すぎます。」
「大体そうだね。富士山の5合目で2300mだから、富士登山で高山病を発症する人はいる。」

「地球には虫が多すぎませんか?JWの楽園の想像図では昆虫は出てきませんが、昆虫を含めた節足動物は全動物種の85%以上を占めています。地球は昆虫やクモ・ムカデなどの節足動物のために造られたという方が納得できます。」
「それだと人間は蚊やノミや虱が血が吸えるように造られたことになるね。昆虫などの節足動物は大多数の人にとって不快で有害なもの。それが地球上で一番多い動物だなんて、おかしいだろう。神様が一番好きなのは虫だよ。」
「地球を知れば知るほど、地球は人間のために造られたとは思えなくなりますね。」
「楽園では食物連鎖が停止するのだろう。ライオンは草を食べるといいう。そうなると虫も食べられないのかな?もしそうだと楽園は虫だらけになり、植物は虫でおおわれているよ。JWの楽園には住みたくないね。」

「7節が“人間に自由意思を与えた。”です。“私たちは,どのように生きるかを自分で選ぶことができます。”とあります。でも、JWの子どもは、どのように生きるかを自分で選ぶことはできませんよ。」
「人間に自由意思があるかどうかは大問題で、そう簡単にあるとは言えない。仮に自由意思があるとしても、多くの人の生き方は自分が自由に選んだと呼べるものではないよ。限られた選択肢しかなく、その中から、様々な事情で、最悪のものを選ぶしかなかったという人は結構いるよ。」

「9節が“人間に,子供を持つ能力と,エホバを愛しエホバに仕えるよう子供を教える責任を与えた。”です。今だと子どもが一人もいない会衆が結構ありますが、そんな会衆ではこの部分で気まずい雰囲気になりますね。」
「“親の皆さんは,子供をもうけて育てるという素晴らしい能力に感謝しているのではありませんか。”と書いているけれど、望まない妊娠をして、仕方なく生んだ女性は感謝する気にはならないだろう。」
「今はアフターピル(緊急避妊薬)があるそうですね。」
「性交後72時間以内に一錠のむことで妊娠を防ぐもの。でもJWは使用していいのか?誰か日本支部に電話したら?こんなことも自分で決められないのがJWだろう。」

「10節が“最愛の子イエスを与えて,人間が再びご自分の家族の一員になれるようにした。”です。」
「JW独自の思想が書かれている。10節に“イエスの犠牲のおかげで,忠誠を保つ14万4000人が神の子として迎え入れられます。”とある。一方、11節ではその他大勢の人が“千年統治の終わりに最終的に試された後に神の家族の一員になる希望を持っています。”とある。すごい差別だね。」
「144000人は死ぬと直ちに天に行くのに対し、それ以外はハルマゲドンを生き延び、1000年間組織の奴隷として奉仕して、神の家族の一員になるなんて、待遇が違いすぎます。」
「この差別的な144000人の教義はいつまで持つのかな?」

「13から17節が“神の家族の一員でありたいと思っていることをエホバに示す”です。 エホバは人間を大切に思ってきたのだから、人間はエホバのために働けということです。13節に“心を尽くしてエホバに仕えることにより,エホバ に愛を示す。”とあります。」
「14節が“人に愛を示す。”だけど、“愛を示すとても良い方法は,時間がまだ残されているうちに,エホバについて学ぶよう人々を助けることです。”とある。JW独自の愛の示し方だね。多くの人はそれを迷惑行為と呼ぶ。」
「信者の新規獲得活動に過ぎないことを“愛を示す”と呼ぶなんておかしいですよ。排斥も忌避も愛を示すことになっています。組織の都合の良いことは何でも愛ある行為です。」

「でも15節に“全ての人に憐れみ深く親切にする。”とあるのに驚いた。“例えばイエスは,全ての人に,また敵にさえ,憐れみ深く親切にするように,と教えました。”だって。」
「JW以外の人には冷淡で、間もなく滅ぼされる人と蔑んで、優越感に浸るのがJWですから、本気じゃありません。口先だけですよ。」
「献血された血液成分は利用するけれど、献血は絶対しないというJWだからね。JW以外の人からお世話になっても、お返しもしないで無視するというのが正しいJWの在り方じゃないの。」

「16節が“エホバの家族の評判を守る。”ですが、具体的には“背教的な考え方をするようになったり,不道徳で堕落した生活を送るようになったりするなら,”評判を傷つけると言っています。」
「もし輸血を禁止するのはおかしいとか、誕生日を祝うのを禁止するのはおかしいとか言ったら、JWからすると背教的考えになるけれど、多くの人からはまともな考えだと思われるよ。評判を傷つけないよ。」
「JWの教義をまじめに主張する方が、JWの評判を傷つけると思います。排斥や忌避制度を愛の行いなどといえば、頭のおかしい人と思われますよ。」
「不道徳な行いといったって、ポルノを見ちゃダメとか性的なことでしょう。そんなことを大人に向かって命令している方が、個人の私生活に無制限に干渉する危険な宗教と思われる。」

「17節が“物ではなく,エホバを信頼する。”です。しかし、過去の経験から言ってエホバは信頼できません。忠実なJWが貧困のうちに孤独死したという事例はたくさんあります。」
「大人はいいよ。貧困のうちに死んでも、自分で選んだ人生だから。しかし、JWの子どもがかわいそうだね。親の宗教道楽のせいで、小さい時から貧乏暮らしだなんて。」

「“エホバの望まれることを行うことによってのみ,本当に穏やかな心が得られます。(フィリ  4:6,7)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「“何も心配せず,いつでも祈り,祈願を捧げ,感謝しつつ,願いを神に知っていただくようにしましょう。”とあるだけ。モノよりエホバを信頼すべきなんて言っていない。」
「モノよりエホバというのは、白か黒のどちらかを選べというJW特有の白黒思想に過ぎません。」
「生きるにはモノが必要だよ。でもエホバは必要じゃない。エホバはハルマゲドンを生き延びるのに必要と思われているだけ。ハルマゲドンなど来そうもないと思ったら、エホバは不要で、忘れ去っても問題はないよ。」

「18,19節が“エホバの子供たちが永遠に味わう祝福”です。 “間もなく,神の王国によって地球と地上の全てのものが新しくされます。”とあります。“間もなく”は150年前からの決まり文句で、聞き飽きました。」
「19節には“それで,エホバに喜ばれるようできることは何でも行ってください。”とある。これは、神の王国の住人になることを信じて、組織が命令することは何でも文句を言わずにやりなさいという意味だね。」
「でもハルマゲドンが100年後だとしますと、いま生きている人はその前に死にます。その場合、JWであってもなくても楽園で復活するというのがJWの教義です。JWを組織の言いなりにさせるためには、間もなくハルマゲドンというしかないわけですね。」
「具体的に○○年ごろと言わないと、信者はやる気が出ないよ。具体的な年代をいつ言うか楽しみだ。」
「来週は“あなたはエホバを待ち続けますか”です。やっぱり待ち続けるみたいです。」

#1334 2021年10月09日 14:22:51

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

金曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたはエホバを待ち続けますか (31)”で、JWには辛抱が大事だよ、という内容です。」
「待つのは今日限りでやめたほうがいいよ。」
「1節に“本当に必要な物が入った荷物が期待していた日に届かなかったら,どんな気持ちになりますか。がっかりするのではありませんか。”とありますが、JWの場合は、そもそも期待したことが間違いだったのです。」
「むなしい期待を持つように仕向けた張本人の組織が“待ち続けますか”と他人事のように書いているのはあきれるね。」

「1節に“まさに格言 13章12節にある通りです。「期待がなかなか実現しないと落ち込む」。”とありますが、この訳はおかしいですよ。」
「英文では、“Expectation postponed makes the heart sick.”だから、“期待が実現しないと心が病む”でしょう。今のJWにあまりにもピッタリなので、“心が病む”かわりに“落ち込む”にしたと思うよ。」

「3から8節が“聖書の原則から辛抱について学ぶ”です。 格言が2つ取り上げられています。」
「3節は格言13:11で“手っ取り早く得た財産は減っていき,少しずつためる人の財産は増えていく。”だけど、“この言葉から何を学べますか。物事を一つ一つ,辛抱強く行っていくのは賢いことだ,ということです。”と解説している。的外れだね。」
「ここは書いてある通り、資産の増やし方について言っている所ですよ。」
「現代風に言うと、投機ではなく投資をしなさいということ。」
「“手っ取り早く得た”という部分の脚注には“または,「むなしいものから生じる」。”とあるのですが、こちらの方がよいのでは?」
「“むなしいものから生じる”方がよさそうだけど、格言は普通対句になっているので、“少しずつ”に対応するものとして“手っ取り早く得た”方がよいだろうという判断だね。」

「4節では“格言 4章18節には,「正しい人たちの道は夜明けの光のようだ。真昼になるまで明るさを増していく」とあります。この聖句は,エホバがご自分に仕える人たちに対して,ご自分の目的を徐々に明らか にしていくことを示しています。”と根拠もなく断定しています。こんなバカげた解釈をしているのはJWだけです。」
「この格言4:18は、JWの教義が時代とともに変わることを正当化するときに使われる聖句。ふつうは真理とは変わらないけれど、JWの真理だけはよく変わるので、苦しい弁解をしなくてはならない。」
「格言4章は4:1に“私の子供たちよ,父のしつけを受け入れなさい。”とあるように、父親が子どもに教訓を与えているという章ですよ。」
「だから、教義がよく変わり預言を外してばかりいる宗教団体について述べているわけではないよ。」

「しかもJWの教義変更は“明るさが増していく”というものではないです。よいと言ったものがよくないに変わり、よくないものがよいに変わる、というような変更です。」
「輸血は初めはよかった。ところが1945年によくないものに変わり、その後主な4つの成分以外はよいとかルールは次第に複雑化していき、少しも明るくなってはいない。“世代”の解釈もどんどん暗くなって、訳の分からないものになっていった。」

「5節にマルコ4:27,28が引用され、その意味を“植物が少しずつ成長するように,王国のメッセージを受け入れた人も神との関係において少しずつ成長する,ということです。”と解説しています。違いますよね。」
「4:26で“神の王国は,人が地面に種をまく場合のようです。”と神の王国の話と言っている。」
「重要なのは“地面はひとりでに”じゃないですか?農夫はその訳も知らず、何もしないのに、種は実を結び、ある日突然収穫の日が来る。神の王国もそのようなものだと言っているわけですね。」
「農夫にとって収穫の時が来るのと同じ確かさで、神は自分の定めた時に神の国をもたらす。農夫がすべきことは待つこと。」
「つまり伝道したり集会に参加したりしないとダメだなんていっていません。」
「そうだけど、それではJWには不都合なので、“少しずつ成長する”話であると論点をずらしたのだろう。」

「6,7節が、エホバは辛抱強く地球を造ったという話です。」
「7節で、ヨブ38:5,6が引用されているけれど、そこには“大地の受け台は何の中に埋まっているのか。誰が大地の隅石を据えたのか。”とある。JWは、聖書は地球は何もないところに浮いていると言っていた、だから科学的に正確なんだ、と宣伝しているのに、この聖句はまずいよ。」
「大地は土台の上に載っているわけですから、何もないところに浮いているという考えではないですね。」
「地球が空間に浮いているというのはヨブ26:7の“神は北の空を何もない所に広げ,地球を空間に浮かせている。”を根拠にしているけれど、これは訳がインチキ。ヨブ記が書かれた時代に地球なんて言う概念はない。協会共同訳だと“地を何もないものの上に架ける。”で、浮いているのではなく、ぶら下げられていることになっている。」

「詩編104:5に“神は大地を土台の上に据えた。大地はいつまでも永遠に取り去られない”とあります。大地は土台の上に載っています。」
「その聖句の後半の訳がへんだね。協会共同訳では“代々とこしえに揺らぐことのないようにされた。”となっていて、こちらが正しい。しっかりとした土台の上にあるので、ずっと揺らぐことがないといっている。しかし、JW訳だと、地球は永遠に続くという楽園神話の根拠のような聖句になっている。」

「9から16節が“どんな時にエホバを待つ必要があるか”です。 2つのケースが出ています。最初は“祈りに対する答えがなかなか与えられないように感じる時。”です。この場合はエホバを待つのだそうです。」
「10節に“イエスも,祈りの答えがすぐに与えられない場合があることを示し,こう言いました。「求め続けなさい。そうすれば与えられます。探し続けなさい。そうすれば見つかります。たたき続けなさい。そうすれば開かれます。誰でも求めている人は受け,探している人は見つけ,たたいている人には開かれます」。(マタ 7:7,8)”とある。この訳が問題だ。協会共同訳では“求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。”で、“求め続けなさい”ではなく“求めなさい”だよ。ここで使われている動詞は単なる現在形。しつこく求めたら願いが叶うといったJW的な考えをここで言っているわけじゃないよ。」

「でも10節では“このアドバイスに従って「粘り強く祈」るなら,天のお父さんエホバが私たちの祈りを聞き,答えてくださることを確信できます。(コロ 4:2)”と、しつこく祈れば祈りがかなうといっていますね。」
「引用されているコロサイ4:2だけど“粘り強く祈りましょう。”と訳しているのはJW訳だけじゃないかな。JWは粘り強くなくてはいけないという思想がまずあって、それに合わせた翻訳文をしているのだろう。」

「11節がこの記事の中心です。“例えば,多くの人は長年にわたって,神の王国がこの体制を終わらせるのを見たいと祈ってきました。イエスもそう祈るよう教えました。(マタ 6:10)しかし,人間が期待した時に終わりが来なかったからといって,神に対する信仰を弱めてしまうとしたら,それは本当に愚かなことではないでしょうか。”とあります。」
「ちがうね。“本当に愚かなこと”は預言を外してばかりいるウソの多い宗教団体にいつまでもしがみ付いていること。」
「JWが正しければ、とっくの昔に楽園が来ているはずです。しかし、何も起こらない。JWは間違っているのではと思うのが正常な判断です。」
「当たり前のことを愚かなことと言ってしまうのがカルトだね。信者は待ち続けるしかないから待ち続けるのだろうけれど、元気もやる気はなくなるよね。」

「12節が、2番目のエホバを待つ必要のあるケースで、“不公正がなかなか正されないように感じる時。”です。主に会衆内での不公正のことのようです。JWの会衆は問題だらけですね。」
「12節では“その問題が長老たちに知らされた後は,長老たちに委ね,エホバの方法で扱われるのを辛抱強く待つでしょうか。”と、長老たちにゆだねたら、後は何もするな、黙って待っていろという指示だ。エホバを待つのではなく、長老を待つのね。」
「弁護士や警察に相談されたら困るので、長老に委ねましょうと言っているのです。いつもの組織防衛策です。」

「13節で“長老たちはまず,全ての事実を知る必要があります。そのためには時間がかかるかもしれません。”とある。長老は捜査権があるのか?JWには黙秘権もないの?」
「“問題を扱うのを先延ばしにすることはありませんが,急いで決定することもありません。”とありまして、長老の決定は時間がかかると覚悟しておけと言っています。」
「長老って、そのような問題を扱う能力がそもそもないでしょう。JWの長老はJWの2世3世が増えてきて、JWの教え以外は何も知らず、社会的経験もほとんどない男が多くなっているだろう。そんな男に重大な問題を扱わせるなんて無茶だろう。」

「14,15節がヨセフの話です。“エホバが不公正を正してくれるのを待った人たちの素晴らしい手本”だそうです。」
「ヨセフは特殊事例で、現代のJWとは全く関係ないという発想はないようだ。聖書に書いてあることは何でもJWに当てはまると決めてかかっているのがおかしいね。」
「そうしないと、ものみの塔に書くことがなくなります。」
「JWの基本方針は、誰かが不公正を正してくれるのをただ待つということはわかるね。自分からは何もしないことが正しいやり方というわけだ。無気力な人間ばかりになるのも理解できるね。」

「15節に実例が出ています。“姉妹は,同僚が姉妹についての根拠のない悪口を広めていることを知って深く傷つきました。”、それでどうしたかというと、“されたことを問題にしないことにしました。”とあります。“嫌なことをされても辛抱強く忍耐し,穏やかな気持ちになれたので,本当に良かったと感じました。”だそうです。」
「これが本当なら、JWはいじめの対象として最も適しているということだね。これから職場にJWがいる場合、どんどんいじめてみよう。JWは“辛抱強く忍耐”してくれるはず。」

「しかし、JWの組織はそうではないですよ。勝ち目が少なくとも、裁判に訴えて、戦います。弁護士費用だけで相当な額になっていますよ。」
「JWに批判的なユーチューバーがJWの動画を紹介したら、著作権侵害とかヘイトスピーチだといって、動画配信をやめさせるように訴えたんじゃなかったかな?組織がしていることをなぜ信者がまねしたらいけないのだろう?信者も裁判に訴えて自分の権利を守りましょうとなぜ言わないのかな。」

「17、18節が、“エホバを待つ人たちが永遠に味わう祝福”です。 いつもの楽園幻想を振りまいて、この記事も終わりです。よくあるパターンです。」
「17節に“間もなく天のお父さんエホバは,王国によって私たちを豊かに祝福してくださいます。”とあるね。でも、辛抱するのはあと数年です、とは書いていない。どうしてそう書かないの?」
「17節ではイザヤ30:18が引用されています。そこには“この方を待ち続ける人は皆,幸せだ。”とありますが、これは現代のJWとは何も関係ありませんよ。」
「イザヤ30:19には“民がシオンに,エルサレムに住む時,あなたは決して泣かない。”とある。イザヤ30章はエルサレムに住むユダヤ人に向けての言葉。それが現代のJWに当てはまるという根拠は何もない。」
「やはりエホバを待つのは今すぐやめましょう。」

#1335 2021年10月15日 15:04:31

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“創造者への信仰を強める (32)”で、創造論をしっかり信じなさい、という内容です。」
「創造論を擁護する記事なんだろうけれど、中身がないね。」

「4から7節が“多くの人たちが創造者を信じていないのはなぜか”です。 4節に“エホバやイエスや天の王国など,目に見えないものへの信仰は,納得のいく証拠に基づいたものなのです。(ヘブ 11:3)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「ヘブライ11:3は“信仰によって私たちは,さまざまな体制が神の言葉によって形作られ,見えるものが見えないものから存在するようになったことを悟ります。”とあるけれど、“さまざまな体制”ってなんのこと?こんな訳はあり得ない。」
「ここは天地創造のことを言っている部分ですよ。そのことがわかっていないようです。協会共同訳では“信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ”となっています。」
「天地創造、つまり“見えるものが見えないものから存在するようになったこと”は、結局信仰のよってしか理解できないと言っているだけ。“納得のいく証拠”なんてどこにも出てこない。」

「4節に“生化学者である1人のエホバの証人はこう述べています。「わたしたちの抱いている信仰は,科学上の事実を無視した盲信ではありません」。”とあります。この人は“目ざめよ”の2013年10月号に登場しているベルギー人のデイビー・ロースです。“生化学者”という肩書をつけているということは科学者の言葉を権威あるものと考えているからですよね。」
「都合の良いことを言っている場合は利用し、そうでない場合は無視するだけ。この人は科学者としては全く無名の人。この人を調べると論文は8つしかない。最新のもので2008年だ。しかもファーストオーサーは1つだけ。」
「何の権威でもないわけですね。実際はJWの信仰は科学上の事実を無視しまくっています。歴史も無視して、勝手に年代をねつ造しています。」
「でも、この“生化学者”がJWであることを明らかにしている点はよいこと。過去には、不誠実な宗教団体らしく、それを隠してあたかも中立的な意見として引用することがあったね。」

「5節に“創造者がいるという納得のいく証拠があるのであれば,多くの人が神と生命の起源を結び付けて考えないのはなぜでしょうか。”と、あたかも創造者がいるという証拠があるかのように言っています。」
「そういう証拠はない。あるなら教えて欲しい。」

「5節の下に“親の皆さんへ”という囲みがあるのですが、高等教育に対する悪意丸出しのことが書かれています。」
「“大学には神への信仰をあざける態度が広まっているので,お子さんをそうした環境に置くならどんな危険があるかを十分考えてください。”と、大学進学はダメだといっているけれど、他人の信仰をあざけるような大学ってあるかな?そもそも信仰や宗教などが大学で扱われることは稀だ。大学では信教の自由を尊重するでしょう。」
「それで日本では一流大学の学生がオウムに入信しちゃったのですね。」
「そういうこともあって、現在では大学の新入生のガイダンスで、カルト宗教の危険性を詐欺的な商法などと一緒に説明するところは増えている。」

「JW2世、3世なら、幼児期から10数年にわたり繰り返し集会や大会でJWの真理なるものを教え込まれてきたわけです。その真理が大学に行ったくらいで簡単に放棄されるなら、JWの真理の方に問題があるということですよ。」
「JWの教えは中身がないよ。聖書を学ぶと言ったって小学生レベルだ。大学に行かなくても、知的面で成長すれば、JWの教えのバカバカしさや知的不誠実さに気づくよ。20歳過ぎてもJWの教義を信じている人は知性が足りない。」

「囲み記事では、“エホバの証人の出版物に載せられている納得のいく証拠を挙げて,お子さんが論理的に考えられるように助けてください。”とあって、JWの出版物を過大評価しています。執筆者もJWの記事のレベルが小学生程度とは気づいていないようです。」
「JWは論理的な思考とは無縁だろう。納得がいかなくても、統治体に盲従することを教えている。考えるのではなく服従するだけだ。」

「6節に“創造者を信じていない人の中には,自分は目に見えるものしか信じない,と言う人がいます。しかし,そうした人たちも,重力などの目に見えないものが実在することは認めています。”とありますが、相当頭の悪い人がこの記事を書いていますね。」
「重力は目に見えないけれど測定可能で、それが存在するという説得力のある証拠がある。信じるか信じないかを決めるのは目に見えるかどうかではない。」

「“聖書で述べられている信仰も,「目に見えないものが実在する」ことを示す証拠に基づいています。(ヘブ 11:1)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていますか?」
「JW訳では、信仰とは“目に見えないものが実在するというはっきりとした証拠を持っていること”だけど、信仰は“証拠を持っていること”というのはおかしいだろう。」
「協会共同訳では“見えないものを確証するものです。”となっています。」
「見えない神がいると確証するものがあるとすれば、それは信仰だということ。見えない神がいるという証拠がどっかにあって、それゆえに神を信じるのがJWのようだね。ヘブライ書が言っているのは、その逆で信仰ゆえに神を信じるということ。」

「ヘブライ11:1は信仰の定義としてよくJWで引用されますが、それでいいのですか?」
「これは信仰の定義ではない。11:2から旧約聖書に出てくる信仰のお手本のことが長々と書かれるわけだけど、その要約とみるべき。」
「信仰は、“望んでいる事柄が実現するという確信であり,目に見えないものが実在するというはっきりとした証拠を持っていること”ではない?」
「その前のヘブライ10:39に“私たちは,おじけづいて滅びに至る者ではなく,信仰を抱いて生き続ける者です。”とある。これは信仰とは単に何かを信じることではなく、日々をどう生きるか、つまり生き方にかかわること、実践的なことという思想がある。それを抜きにした信仰はあり得ないと考えている。」

「8から15節が“創造者への信仰を強めるには”です。 4つのことが出ていまして、最初はいつもの“創造物について学ぶ。”です。」
「9節に“学ぶにつれて,エホバが創造者であるという確信が深まるでしょう。”とあるけれど、普通は逆でしょう。例えば、地球上に生きていた生物の90%以上の種は絶滅した。神が愛情をこめて作った素晴らしい生物なのになぜこんなに絶滅しちゃうの?神は自分の作った生物を守らないの?」

「10節にオゾン層のことが出ています。“愛と知恵のある方によって造られたに違いない,と考えることができるのではないでしょうか。”とありますが、そうは思いません。」
「“オゾン層が紫外線をカットしているのです。太陽からの紫外線が強くなると,オゾンの量が増えます。”とあるけれど、オゾン層は紫外線をカットしていない。紫外線は地上に届き、皮膚の病気や白内障の原因となっている。紫外線が強くなるとオゾンの量が増えるのはなにも不思議ではない。オゾンは酸素分子O₂に紫外線が当たりOだけになった後、酸素と結合し、O₃となったもの。」
「コピー機を使うとオゾンが発生しますよね。」
「電気機器が高いエネルギーを持つ電子を放出し、それが空気中の酸素と衝突し、オゾンを発生させる。独特のにおいでオゾンが発生していることはわかるね。」

「オゾン層は地球の初めからあるわけではないですよね。神が創造したものではないですよ。」
「地球に光合成をする生物が現れ、大気中に酸素の量が増えてから、オゾン層はできた。現在と同じ程度のオゾン層ができたのは4億年前くらい。」
「つまり地球誕生から40億年という膨大な年月をかけてできたものということですね。」
「これだけ時間がかかったというのは神の創造ではなく、通常の化学反応の結果ということだ。神の創造なら、一言発するだけでできるはずだよ。」

「12節が“聖書を研究する。”で、“昔の出来事に関する聖書の記録がいかに正確かに注目してください。聖書の預言が実現してきたことや,内容に矛盾がないことについても考えましょう。”とありますが、納得いきません。」
「聖書の記録はいい加減だし、預言は外れているし、成就したように見えるのは事後預言だったりこじつけということがあるし、内容も矛盾が多い。」
「聖書に出てくる数字はたいていあり得ないほど誇張されています。創造説に立ったとしても、創世記の1章と2章では創造の順番が違います。」
「創世記1章では植物が造られた後人間が作られる。創世記2章では“地上に草木はなく,まだ何も生えていなかった。”と5節にあり、人間が作られるのは7節。人間が作られた時には不毛の大地としか読めないね。」

「13節は、聖書のアドバイスが役に立つ例として、“例えば,聖書は昔から,お金を愛することは有害で,「多くの苦痛」をもたらすと警告しています。”だそうです。実際は、お金がないことのほうが“多くの苦痛”をもたらしますよ。」
「聖書のアドバイスの例として金銭問題を持ち出す所にJWらしさがあるよね。信者が寄付をせずお金を貯めることが許せないだけだよ。」

「14節には“研究する時には,エホバをもっとよく知ることを目標にする。”とあります。“エホバについて知れば知るほど,エホバへの信仰が育ち,エホバへの愛が深まり,エホバとの絆が強くなるでしょう。”とありますが、逆ですよ。」

「引照聖句の出エジプト34:7には“父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす。”とあるよ。おじいさんの犯した罪で孫を死刑にするといっている。こんな神への愛が深まるかな?」
「でも申命記24:16には“父親は子供がすることのゆえに死刑にされるべきではなく,子供も父親がすることのゆえに死刑にされるべきではありません。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死刑にされるべきです。”と出エジプト記に書かれていることを否定していますよ。一貫性のない神様ですね。愛は深まりませんね。」
「申命記はずっと後の時代に書かれたもので、出エジプト記より進歩した思想がみられるということ。エゼキエル18:20にも“罪を犯す人が死ぬのである。子が父の罪を負うことはなく,父が子の罪を負うこともない。”と同じ思想がみられる。」

「15節が“神について人に伝える。”で、伝道活動の勧めですね。そうすれば“信仰が強くなります。”とあります。」
「コミットメントと一貫性の原理だね。人間はある立場を表明すると、その立場を保とうとする傾向がある。誰かに神が全てを創造したのですと、言ったとすれば、そうしなかったよりも、神が全てを創造したというという立場から離れるのが困難になるし、一層強く信じるようになる。だから、人に伝えろという。」

「16から17節が“強い信仰を保ちましょう”です。 祈りと聖書の個人研究が必要みたいです。18節に“7年に1回,「男性も,女性も,子供も」,イスラエルに住む外国人居住者も,神の律法の朗読を聞く機会が与えられました。(申 31:10-12)”とありますが、それが実際に行われたという記録はありますか?」
「ないよ。律法を大勢の前で読んだのはヨシア王の時代になってから。列王二23:2に“王は,エホバの家で見つかった契約の書の言葉全てを皆に聞こえる所で読んだ。”とある。」
「ヨシア王の時に見つかった契約の書は申命記あるいは申命記の一部ですね。それまでは申命記は存在しなかったのですから、7年に1回の律法朗読会など行われなかったわけですね。」

「申命記31:10では“仮小屋の祭りの間に”に朗読するとある。仮小屋の祭りについてはレビ記、民数記などにその祝い方が細かく書かれているけれど、そこには律法を朗読することについては何も書かれていない。」
「仮小屋の祭りも行われたのはかなり後じゃないですか?」
「ネヘミア8:14に“彼らは律法の中に,エホバがモーセを通して命じた次のことが書いてあるのを見つけた。イスラエル人は第7の月の祭りの間,仮小屋に住むことになっており”とある。バビロン捕囚後のペルシャ時代になってから始まったようだよ。」

「最後の20節に“私たちの揺るぎない信仰は聖書に基づいています。”とありますが、違いますね。」
「聖書を独自に解釈したJWの出版物に基づいています、と言うべきだよ。」

#1336 2021年10月22日 14:44:12

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバのために今できることに喜びを見いだす (33)”で、会衆内でダメな人と思われても、組織のために働け、という内容です。」
「エホバのためというのは組織のためという意味だね。組織は信者を死ぬまでこき使うつもりだね。」

「1節は“この体制の終わりが近づいている今”で始まります。盛り上げようとしていますね。JWは終末論宗教なのですから、終末論を派手にぶち上げないと、信者の士気が上がりません。」
「その次に“私たちは皆,エホバのためにできることは何でもしたいと思っています。”と信者に組織から見た正しい態度を無理やり押し付けているものJWらしくていいね。」

「3節に、“ニック兄弟の例を考えてみましょう。20歳の時のことでしたが,兄弟は援助奉仕者に任命されなかったので,とてもがっかりしました。”とあります。しかし“兄弟は諦めませんでした。その時に自分にできることを精いっぱい行いました。兄弟は今では支部委員会で奉仕しています。”だそうです。20歳であきらめた方がいい人生になりましたよ。」
「JWの中で出世することが人生の目標になってしまった男は組織の奴隷として生きるしかない。しかしJWの組織は、不要になった人間はそれまでどれほど貢献しようとも、退職金なし、年金なしで、簡単にお払い箱にする冷酷な組織だということをわかっているのかな?」

「5,6節が“どこから喜びを得られるか”です。 伝道の書 6章9節がとりあげられています。“目の前の物を楽しむ方が,自分の欲求を追い掛けるよりもよい。”という聖句です。」
「それは現状で満足せよという意味だよ。特権を追い求めろとか、目標達成のために頑張れというものではない。伝道の書の思想は、そんなものが得られても空しいだけというもの。」
「ところが、5節では“喜びを味わうためには,自分が今得ているものや達成可能な目標に目を向けるべきだということです。”と、高い目標ではなく達成可能な目標に切り替えろと言っていますね。」
「そんな目標など、風を追うようなものだと伝道の書は言っている。」

「7から13節が“喜びを大きくするには”です。 マタイ 25章14-30節のタラントの話が取り上げられます。」
「ここでは2タラント託された奴隷に注目しているけれど、こじつけだね。」
「“2タラントしか委ねられなかったことで,気分を害したり腹を立てたりはしませんでした。”とほめています。マタイでは“各自の能力に応じて”与えたとありますから、5タラント託された奴隷よりは低く評価されたわけですね。」
「タラントは英語ではtalentで、現在では才能とか才能のある人という意味になっている。」
「タレントですね。」

「洞察によると“現代の価値に換算すると,1世紀の銀1タラントは3,924㌦,金1タラントは22万8,900㌦に相当します。”とありますが、あまり意味のない計算ですよ。」
「1タラントは6000デナリとされる。1日の賃金が1デナリと言われるので、1タラントは16.4年分の賃金。国税庁によると平成12年の男性の平均賃金は567万円。それに16.4をかけると9298.8万円。」
「1タラントは重さだ20.4キロということですから、金1グラムは7200円くらいです。そうすると1億4668万円。」
「現代ならいくらに相当するかという計算はあまり意味がないけれど、いずれにしても大金ということだね。」

「この話の教訓が11節に出ていまして、“私たちもエホバへの奉仕においてどんな務めを委ねられているとしても,それに打ち込むなら,喜びを大きくすることができます。良い知らせを伝えることに「専念し」,会衆の活動にも十分参加しましょう。”です。伝道と集会に結び付けられています。」
「タラントの話で喜ぶのは、お金を2倍に増やしたから。一生懸命やるとか打ち込むとかといった精神論は関係ないよ。」
「JWは成果主義ではありませんから。主に時間で評価される仕組みで、いかに時間を水増しするかというテクニックが求められるだけです。」
「タラントの話をJWに適用するには無理があるということだね。」

「タラントのたとえの解釈もいい加減なJWらしく変わっています。2015年3月15日号のものみの塔の“タラントの例えから学ぶ”で、従来の解釈を変更しました。突然光が増したと言うやつです。」
「その記事では“タラントとは,簡潔に言えば,宣べ伝えて弟子を作る責任のことです。”とあるけれど、昔は違ったことを言っていた。3人の奴隷については、“将来天の王国の相続者になれそうな人たちの三つのそれぞれの級を表わしています。”というバカげた解釈が“神の千年王国は近づいた”の12章にある。今はそのような解釈は放棄したということね。」

「11節に“どんな割り当てや仕事を委ねられるとしても,それをつまらないとか時間の無駄だとか考えてはなりません。”とありますが、JW関係の仕事はつまらないし時間の無駄と考えるのが、疑いもなく正常な判断です。」
「こうやって正常な判断能力を奪っていくわけだ。」

「13節に目標がかなわなかった場合のことが出ています。“メリッサ姉妹のように,そうならないとしても,喜びを大きくし,大きな満足感や達成感を味わうことはできます。(伝道の書 2:24を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていますか?そこでは“食べ,飲み,一生懸命働く充実感,人にとってこれ以上の幸せはない。私はこれもまた,真の神からのものだと気付いた。”とありますね。」
「伝道の書2:10、11で“一生懸命に働き,心には喜びが生まれた。この喜びこそ私が一生懸命に働いて得た報酬だ。私は,自分の手で行った全てのこと,苦労して成し遂げたことを振り返ってみた。すると,全てはむなしく,風を追うようなもので,この地上に本当に価値のあるものは何もなかった。”と言っている。人間の活動など無意味というのが伝道の書の基本的な思想。そのなかで、食べたり、飲んだり、一生懸命働くことは、よりましだ、と言っているだけ。」
「ここでは、幸せは“真の神からのもの”と言っています。この意味は?」
「もし幸福感が得られたとしたら、それは自分の努力や成し遂げたことから生じたものではなく、神からの贈り物と考えるしかない。なぜなら人間の活動など無意味だから。そういう意味だよ。」

「14から19節が“喜びをもたらす目標”です。 ここで、現状に満足するのではなくあたらたな目標を設定し、それを目指せと言っています。今までの話はなんだったのでしょうね。」
「15節には、“補助開拓奉仕や正規開拓奉仕,ベテル奉仕,建設奉仕などです。あるいは,良い知らせを広めるために新たな言語を学んだり,外国語の区域で奉仕したりできるでしょうか。”とある。組織はこういうことを無給で信者にやらせたいわけだ。」
「伝道の書の著者なら、“全てはむなしく,風を追うようなもの”というでしょうね。」
「そんなことをするよりも、一生懸命働き、うまいものを食べ、うまい酒を飲む方がよりましと言うだろうね。」

「17節からはより小さな目標が出ています。“兄弟たちは,話したり教えたりする能力を伸ばす点で努力できるかもしれません。”、18節では、“私たち全てには,良い知らせを伝えて人々 を弟子とする務めがあります。(マタ 28:19,20。ロマ 10:14)この重要な活動を行うためのスキルを磨きたいと思いませんか。”、19節には“神に喜ばれる人格を身に着けることです。”とあります。」
「すべて宗教セールス活動のための目標だ。それ以外の目標はダメということ。信者の自由を奪い、信者の生活を管理するのがカルト宗教だからね。」

「これらの目標はJWの出版物を読んだり、動画を見たりすれば身につくようです。そんなことはあり得ないですよ。」
「17節に“「読むことと教えることに励む」の冊子のそれぞれの課を研究して実践することを目標にしてみましょう。”とあるけれど、その薄い冊子以外の教材はないの?適切な霊的食物が供給されるはずじゃなかったの?17節の上にその冊子を読んでいる兄弟という写真が出ているけれど、くだらない内容だと思っていることが表情からうかがえるよ。」

「17節の下の写真は、“いろいろな機会に伝道することを目標にした姉妹が,料理を運んできたウエートレスにコンタクトカードを渡している。”“というものです。働いている人にしてみれば、単なる迷惑行為です。」
「JWはますます嫌われるね。変なカードよりチップを渡した方が印象がよくなるよ。」

「最後の20節に、再び“私たちは誰もが,エホバのためにもっと多くのことを行いたいと願っています。”が出てきます。同じことを繰り返すのが洗脳のテクニックです。」
「どうしてすべての人の気持ちがわかるのかな?組織からの圧力がなくなれば、JWの大半は伝道もしないし、集会にも参加しなくなるよ。」
「排斥や忌避がなくなれば、若い人の大半は今すぐJWをやめますよ。」

「“新しい世界になれば,思う存分エホバに仕えることができるようになります。”とある。楽園でも働かなくてはいけないなんておかしいよ。そんなところは楽園じゃないよ。」
「地上の楽園というのは、人間の代わりに天使が働いてくれるのかと思っていました。JWの楽園は朝から夜まで肉体労働をし続けるようです。けが人も多数出ますね。」

#1337 2021年10月29日 15:35:35

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバが善い神であることを「味わ」うには(34)”で、組織のためにもっと働けばエホバが祝福してくれるので、組織には何も期待するな、という内容です。」
「この記事では、もっと働けと、無給の宗教拡張員の尻を叩いている。JWであることはつらいことだね。」
「この種の記事は聖書の登場人物に学ぶというこじつけの展開がいつものパターンですが、この記事は体験談が多いです。」
「体験談などいくらでも捏造できる。執筆者はあまりやる気がないね。あるいは、聖書からつまらない教訓話をでっちあげるのに飽き飽きしたのかも。」

「“善い神”とありますが、これだと道徳的に善なる神という意味になりますね。」
「英文では“Taste and see that Jehovah is good”で、単なるgoodだよ。道徳とは関係ない。」
「エホバは道徳的に見て善とはいいがたいですからね。」
「例えばサムエル一6:19に“神はベト・シェメシュの人たちを打った。彼らがエホバの箱を見たからである。民のうち5万70人が打たれて死んだ。エホバが大勢の人を死なせたので,民は嘆き悲しんだ。”とある。箱を見ただけで5万人を殺すなんて、道徳的に善とは言えない。殺しすぎだよ。」

「2節にエホバが善い神であることを味わうことの実例が出ています。“イエスの約束を信じて,お金を節約して仕事を減らし,宣教に打ち込みます。そうすれば,エホバが必要なものを本当に与えてくださることを,経験を通して知ることができます。こうして,エホバが善い神であることを自分で「味わ」うのです。”とあります。要するに貧乏生活をしながら宣教に打ち込めば味わえるみたいです。」
「信者の寄付で生活している宗教貴族の執筆者は気楽に書いているけれど、“エホバが必要なものを本当に与えてくださること”はどれくらいの確率で生じるのか教えてほしいね?」
「偶然のレベルですよ。単なる宗教のプロパガンダにすぎません。」
「でも、そんなものを信じて、愚かにも仕事をやめてしまって今頃後悔している人が相当いるのだろうね。」

「3節に“エホバを愛し,自分の全てを尽くしてエホバに仕える人たちには,多くの祝福を与えます。(詩編 16:1,2を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。」
「“私はエホバに言った。「あなたはエホバ,良いものは全てあなたから来ます。”とあるけれど、これは祈りだよ。神の約束じゃないよ。」

「4節によると“エホバの助けで,エホバに喜ばれない考え方や習慣をやめることができました。”とあります。これがエホバがしてくれた良いことの例です。」
「エホバなど知らなくても、悪い習慣をやめた人はたくさんいるよ。むしろその方が多いだろう。その場合はサタンの助けということになるの?」
「5節には“エホバの助けで伝道を楽しめるようになりました。”とあります。しかし、伝道を楽しんでいる人に会ったことはないですね。」
「皆仕方なく、いやいや、ダラダラやっているだけだろう。奉仕時間なんて相当水増しされたもので、JWの奉仕なんて嘘で固めたものだというくらい統治体だってわかっているよ。」

「6節に“エホバは,宣教に関する訓練を与えることによっても,ご自分が善い神であることを示しています。”とありますが、これは組織の自画自賛ですね。」
「組織が提供しているだけで、神様は関係ないだろう。」
「神が与えた訓練なのに、多くの国ではほとんど成果はありません。ということは、それは偽物の神ということになりませんか?」
「そのとおり。安易に神様を持ち出さない方がいいよね。」

「7から11節が“エホバがご自分を信頼する人たちに与える祝福”です。 3つの祝福が出ています。大した祝福じゃないですね。」
「7節は“エホバといっそう親しくなれる。”だけど、その実例がいつもの話で、貧乏になって、宣教に打ち込んだら幸せになったという嘘くさいもの。老後を迎えるころには、きっと違った感想を抱くと思うよ。」

「その中で“一番つらかったのは引っ越すことでした。住んでいたアパートは私たちにとって理想的な造りでしたし,ローンもなかったからです。”とありますが、訳が不適切ですね。」
「アパートというと日本では安っぽい造りの2階建ての建物の一室というのをイメージするけれど、元の英文はapartmentでアパートではなく、日本でいうマンションのこと。“ローンもなかった” とあるけれど、元の英文はmortgage-freeで、 “ローンの支払いは終わっていた” と訳すべき。」
「apartmentはアパートとは限らないということを訳者は知らないのですよ。この訳者は子どもの時から古ぼけた安アパート暮らしのJW2世ですよ。」
「例えば、a high-rise apartmentといえば日本でいうタワーマンションのことだよ。」

「祝福の残りの2つは“奉仕に喜びを見いだせる。”と、“エホバからさらに訓練を受けられる。”です。これって祝福ですか?普通は違いますよ。」
「奉仕活動が大嫌いな人でも奉仕に喜びを見いだせたふりをしなさい、という指令だね。奉仕はつまらないです、無駄ですと本音が言えない抑圧的な組織ということだ。」
「9節に“重度の関節炎”がある高齢姉妹が取り上げられています。こんな人までこき使わないとエホバは満足しないようです。世界の数多い宗教の中でもJWみたいな過酷な宗教はあまりないですよ。」

「エホバからの訓練といっても、具体例として出ているのは、建設プロジェクトとか電子機器の使い方。これがエホバからの訓練というのはウソだろう。」
「エホバっていうのは組織の別名に過ぎないということですよ。」
「11節には“あなたもエホバの奉仕のためにもっと多くのことを行って,エホバが善い神であることをさらに味わいたいと思いませんか。”とあるけれど、そこまでして味わいたい人はほとんどいないよ。執筆者は一般のJWとは別の世界に生きている人間のようだ。」

「12から18節が“もっと多くのことを行うためにできること”です。 もっと働けという指示です。やれやれというところですね。6つの指示が出ています。」
「12節が“エホバに頼る。”だけど、“エホバは,ご自分を信頼し,ご自分のためにベストを尽くす人たちにあふれるほどの祝福を注ぐ,と約束しています。(マラ 3:10)”とある。引照聖句はそんなことを言っていない。」
「“10分の1全部を倉庫に持ってきて,私の家に食物があるようにしなさい。私があなたたちのために天の水門を開いて,あふれるほどに祝福を注ぐかどうか,私を試してほしい。”とあります。どこにもベストを尽くせなんて書いていません。」
「 “10分の1”はレビ人に与えられる什一奉納のこと。それが守られていないと神様は怒っている。それをきちっと納めなさいと命令している。そうすれば雨を降らせて作物を豊かに実らせるといっている。」
「この聖句を今のJWに当てはまるのは無理がありますね。」
「あてはめるなら、ベストを尽くせではなく、義務を果たせだよ。旧約聖書の神様はベストを尽くすなんて言う甘い概念はない。結果を求める神で、命令に服従するかしないか、これだけ。」

「エホバは本当にこういう約束を守ったのでしょうか?」
「守っていないよ。もし守ったなら、みんな喜んで什一奉納したよ。什一奉納をしてもしなくても農業生産高は変わらないとわかったから、まじめに奉納しなくなったんじゃないの。」

「12節にある実例は、一生懸命祈ったら“ 普通,年金の手続きには長い時間がかかりますが,私の場合は,申請してからわずか1カ月で承認されました。奇跡のようでした。“というつまらないものです。役所が新しいコンピュータを導入しただけじゃないですか。」
「もっとましな例はなかったのかなと心配になるね。でも、それを読んで、年金をもらえるだけましじゃないか、手続きに長い時間がかかるくらいで文句を言うな、と心の中で舌打ちしている貧困老人JWはけっこういるよ。」

「13節が” エホバに頼った人たちの手本から学ぶ。”ですが、いつもならこれがメインになるのですけど、この記事ではたった1節だけです。」
「毎回似たような話を書くのが嫌になったんじゃないの。」
「14節には“ペイトン兄弟と妻のダイアナ姉妹は,エホバへの奉仕においてもっと多くのことを行うようになった兄弟姉妹の経験を読むのが好きでした。例えば,「喜んで自分を差し出した人たち」というシリーズです。”“とありまして、聖書の話より、JWの経験談の方がいいという判断だからですよ。」
「そちのほうがわかりやすくて、小学生でも楽しめるかも。」

「16節が“エホバのために犠牲を払う。”です。犠牲は必要なようです。“犠牲を払いたくないという理由で神への奉仕においてもっと多くのことを行おうとしないなら,イエスの例え話に出てくる男性のようになってしまいます。”とあるのですが、これはルカ12:16-21のたとえですが、その男は“無分別な者よ,今夜,あなたの命は取り上げられる。”と言われるのです。」
「これって脅しだね。犠牲を払うか死か!こんな宗教やめようよ。」

「16節の具体例は、開拓奉仕のために、“2人は,生計を立てるために自分たちでちょっとした清掃の仕事を始め,以前よりも少ない収入で満足するようにしました。”というものです。こんな話は嫌というほど繰り返されますね。」
「今ではこの二人はベテルでトイレの清掃を毎日行うという特権を楽しんでいます、と言う結末かと思ったらそうではないようだ。清掃はJWの代表的な仕事なんだろうね。」

「18節に“ヨーロッパのロマニー語のグループで正規開拓奉仕をしているソニア姉妹は”とありますが、“ロマニー語”ってなんですか?」
「普通はロマ語というね。いわゆるジブシーと呼ばれる人たちの言葉。ジブシーは差別語ということで、使われなくなった。」

「最後の19節で、“新しい分野に取り組んでみることができるかもしれません。そうするなら,エホバはさらに私たちを祝福してくださるでしょう。”とあります。今までと同じことをだらだらと繰り返していればいいと思うなよ、ということですね。」
「組織は変わろうとしているということだよ。新しい変化に適応できない信者はお荷物だから、早くいなくなって欲しいというメッセージだよ。だから、変化に適応できない信者は無駄な努力などせず、これを機にさっさとJWをやめて、自分のしたいことをしたらいいよ。」

#1338 2021年11月05日 15:37:48

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“忠実な年長の兄弟姉妹を大切にする (35)”で、役立たずの高齢JWでも、少しぐらいは敬意を示そうよ、という内容です。」
「こういう記事が出るくらいだから、世界各地で高齢JWは冷たく扱われているのだろうね。」
「敬意を示してほしければ、様々な名目で気前よくお金を配ればいいのです。貧乏JWは喜んで敬意を払いつつ、たかってくれます。」
「JWの世界も金次第ということね。」

「1節でダイヤモンドの原石を取り上げ、2節で“忠実な年長の兄弟姉妹も,こうしたダイヤモンドに似ています。”とありますが、へんな例えですね。」
「将来性のある若者をダイヤモンドの原石に例えることはよくある。日本でも“艱難汝を玉にする”という諺があるけれど、若者に言っても老人には言わないよ。JW老人を例えるなら、すり減った歯車とか使い古した雑巾じゃないの。」

「3,4節は“エホバが忠実な年長の兄弟姉妹を宝と見ているのはなぜか”です。 答えは“「年を取っても」エホバの名前を知らせ続けているからです。(詩編 92:12-15を読む。)”らしいですが、引用されている聖句には“エホバの名前を知らせ続けている”なんてことは書かれていません。聖句の誤用です。」
「“エホバが正しい方であることを知らせる。”とある。“名前”にこだわっているのは神様じゃなくてJWだよ。次の新しい訳で、“エホバの名前を正しく知らせる。”に改ざんされているかも。」
「エホバという名前を使用していることが真の宗教の証拠と昔から奇妙な主張をしていますからね。」

「詩編92:12は“正しい人はヤシの木のように茂り,レバノンの杉のように大きく育つ。”とあり、詩編のこの部分は“正しい人”について述べていて、老人について述べているわけではない。」
「詩編92:14に“年を取っても衰えない。元気ではつらつとし”とあるけれど、訳はへんじゃないですか?」
「ここでは植物に例えているので、植物らしく訳して欲しい。協会共同訳では“年老いてもなお実を結ぶ/命豊かに、青々として。”と、植物らしく訳している。それに比べてJW訳はダメだ。」

「4節で、高齢JWに対して“エホバの組織の速い動きに付いていくために,できる限りのことをしてきました。”と言っています。教義が目まぐるしく変わったけれど、よく付いてきたと褒めているのでしょうか?」
「組織がインターネットや電子機器を使うようになったことを言っているんじゃないの。紙に印刷するより、そのほうが、信者にはお金がかかるけれど、組織は安上がりで済ませることができるからね。“組織の速い動き”じゃなくて“組織の経費削減の速い動き”と言うべきだよ。」

「4節に“「あなたが白髪になっても背負い続ける」という保証の言葉もあります。(イザ 46:4)ですから,自分は年を取ったので,もうエホバの組織の役には立てない,などと考えないでください。”とありますが、これも聖句の誤用ですよ。」
「イザヤのその部分は個人ではなくイスラエル民族のことをいっている。現代の高齢JWとは何の関係もない。年を取り誰からも顧みられることなく、野垂れ死にしたJWがたくさんいることは、長年JWをやっていればわかるでしょう。」

「5から13節が“年長の兄弟姉妹はエホバの組織の中で大切な存在”です。 6,7節は聖書に出てくる高齢者の話です。」
「6節に“またダニエルは,おそらく90代になってからも,エホバの預言者として引き続き用いられました。”とあるけれど、JW年代学では、90代といっても100歳くらいだよ。」
「JWの年代学では、ダニエルは西暦前617年に10代の頃バビロニアに連れていかれたことになっています。13歳だとすると前630年生まれです。少なくともクロスの第3年(前536)まで生きていますから103歳以上生きたことになっています。」
「100歳以上生きましたというと嘘くさいので“90代になってからも”とごまかしたのだろう。」

「ダニエル1:1に“ユダのエホヤキム王の治世の第3年”とありますが、エホヤキムの在位は、“洞察”によりますと西暦前628から618年とあります。なぜ第3年が前625ではなく前617年なのですか?」
「“洞察”に“ダニエルがダニエル 1章1節で言及しているのは,バビロンに仕える属国の王としてのエホヤキムのこの第3年のことであろうと思われます。”と言っている。そして“バビロンに対する従属者としての3年間が始まったのは,その支配の第8年の終わりごろ,つまり西暦前620年の初頭であったに違いありません。”とし、そうすると第3年目は前617年になる。」

「それって、単なる推測ですよ。“思われます”とか“違いありません”というのは根拠がない時のJW流強弁です。エルサレム滅亡を前607年するための年代の操作ですか?」
「そうでしょう。列王二24:12に“バビロンの王は治世の第8年にエホヤキンを捕らえた。”とある。エホヤキンの第3年目=ネブカドネザルの8年目という式になる。列王二25:8、9に“バビロンのネブカドネザル王の治世の第19年のこと,バビロンの王の家来で護衛官の長であるネブザラダンが,エルサレムに来た。彼はエホバの家と王の家とエルサレムの全ての家を焼き払った。”とあるので、JWでは、ネブカドネザルの19年目=前607年という式になる。」
「するとネブカドネザルの1年目は前625年ですね。」
「エホヤキンの第3年目=ネブカドネザルの8年目という式から、エホヤキンの1年目は前620年にせざるを得ない。」
「それでエホヤキンの在位3年目ではなく、従属してから3年目にしたわけですね。ひとつ嘘をつくと、次から次と嘘をつかなくなるという典型ですね。情けないですね。」
「JW以外では、ネブカドネザルの在位は前605から562年。エホヤキムの在位は前609から598年。ダニエル書にあるエホヤキムの第3年はまだネブカドネザルは即位していない。ダニエル書の年代もいい加減なもの。後世の人が書いたからだね。」

「8,9節はカナダ人のロイス・ディダー姉妹の話ですが、9節に“ロイス姉妹のように夫を亡くした姉妹たちは,夫が生きていた時ほど注目されることはないかもしれませんが”とあり、JWの女性というのは夫次第ということを認めています。」
「JWでは、女性は夫の付属品ということね。女性がきちんと評価されない組織ということがよくわかる。」
「ロイス姉妹は“81歳になった今も,ウクライナのベテルで熱心に奉仕を続けていて”とありますから、老後は組織が面倒見ているようです。JWの特権階級ですよ。」
「でもウクライナで死ぬしかないわけだ。カナダには帰っても何もないだろうしね。」

「10、11節が介護施設で暮らしているJWの話です。これから増えそうですね。」
「11節に“地元の会衆から離れた場所にある施設で暮らしている人たちには,特に気を配りたいと思います。注意していないと,そうした年長の兄弟姉妹を見過ごしてしまうことがあるからです。”とあるけれど、これがJWの実態だよね。長年組織のために尽くしても、集会に来なくなった老人は、素早く忘れ去られる。施設に入ったJWもエホバのことは忘れてしまう。」

「12節に“会衆の忠実な年長の兄弟姉妹にどんな経験をしてきたのかを話してもらうなら,驚くような話を聞けるかもしれません。”とあります。1975年の時、どうしていたか聞きたいですね。昔の教義と今の教義の違いについても聞きたいです。」
「子どもに対する体罰のことも話してもらいたいね。ゴムホースで子どものおしりを叩くのはけっこうおもしろかったなんて、組織に不都合なことをいうかもよ。」

「13節に“「知恵の泉」である年長の兄弟姉妹の経験からぜひ学ぶようにしましょう。(格 18:4)”とありますが、引用聖句は老人が“知恵の泉”とは言っていません。聖句の誤用です。」
「“人の口の言葉は深い水である。知恵の泉はほとばしる水の流れになる。”とある。格言18章のこの部分は賢人と愚か者を対比している部分で、“人”となっているけれど老人ではなく賢人のこと。JWの老人は組織が提供する薄っぺらな知恵しか持っていないでしょう。すぐ枯れる泉だね。」

「14から17節が“年長の兄弟姉妹の手本から学ぶ”です。 高齢JWに話しかけて、話し相手になりなさいということのようです。」
「それを奉仕時間に含めるようにしたら、みんな喜んでやるよ。それでなければ時間の無駄と思うのが正しいJWの態度でしょう。」
「でも、この記事でも金銭面で援助しましょうとはいいませんね。口先だけの援助で十分なようです。」

「聖句がいろいろ使用されているけれど、ヤコブの手紙からの引用が1つもない。ヤコブ2:15,16には“兄弟や姉妹が,着る物を持っておらず,その日に食べる物も十分にないとします。それなのに,皆さんのうちの誰かが,「安心して過ごしてください。温かくして,たくさん食べてください」と言うだけで,体に必要な物をその人に与えないなら,何の価値があるでしょうか。”とあるよ。これなど皆で声をそろえて読むべきじゃないの?」
「JWの愛は口先だけですから、そんな聖句は無視です。」

「14節に“エリシャはエリヤと過ごした最後の日に,エリヤと一緒にいると言って譲りませんでした。3度こう言いました。「私はあなたから離れません」。(王二 2:2,4,6)。”とエリシャの話を美談にしているのは笑えるね。文脈を無視している。」
「これは、王二2:1に、“エホバが暴風によってエリヤを天に上げようとしていた頃”とありまして、エリシャはエリヤが間もなくいなくなることを知っていたわけです。それで、エリシャはエリヤのそばから離れず、その後、王二2:9でこういうやり取りになります。“エリヤがエリシャに言った。「私があなたから引き離される前に私に何をしてほしいか,言ってください」。エリシャは言った。「あなたが持つ聖なる力を2倍分頂けないでしょうか」。”」
「つまり、エリシャはエリヤから、彼の後継者として聖なる力が欲しかったから、離れたくなかっただけ。美談じゃないよ。」
「遺産をたっぷりくれそうな老人なら、うるさいくらい若い人に付きまとわれるということですね。」

「17節に“年を重ねていくと,外面の美しさは衰えていくものですが,エホバに忠実に仕える人たちはエホバにとって一層美しい人になっていきます。(テサ一 1:2,3)”には笑える。引照聖句はそんなことを言っていないし、JWの老人が神様から見て美しいということはないよ。」
「高齢JWに少しいい気持になってもらいたいという、ささやかな思いやりですよ。」
「そうかな?金持ちの年取った独身女性にすり寄る結婚詐欺の男が言うようなセリフだよ。寄付目当てじゃないの?」

「来週は若者向けの記事だそうです。」
「組織も信者を引き留めるために、あちらこちらに気配りをしているわけだね。」

#1339 2021年11月12日 14:25:31

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 若い兄弟姉妹の力の素晴らしさを認める(36)”で、高齢JWはさっさと引っ込んで世代交代を進めよ、という内容です。でも肝心の若い男性JWは絶滅状態ですよ。」
「先週と打って変わって、老害問題を扱った記事ということね。JWの教義では老人になる前に楽園が来て、永遠に若いままだったのにね。」

「3から5節が“謙遜さを示す”です。 高齢JWは出しゃばるな、引っ込んでいろという話です。」
「3節に“「今の世のありさまは変わろうとしている」ことを理解しています。また,場合によっては,新しい状況に合わせる必要があることも認めています。(コリ一 7:31)”とあるけれど、引照聖句はそんなことを言っていないよ。」
「これは単なる世の中の移り変わりではなく、終末の到来をいっているのですね。」
「コリント一7章ではその後、結婚問題がとりあげられ、“結婚している男性は,どうすれば妻に喜ばれるかと,世の事柄に気を使い,2つに分断されます。”とか“結婚している女性は,どうすれば夫に喜ばれるかと,世の事柄に気を使います。”と、結婚に否定的なことをパウロは言うけれど、それは間もなく終わりが来るとパウロが信じていたから。」
「そもそも、この聖句は老人に向けられたものではないですよ。」
「本来の意味など無関係に聖句をダラダラ並べるのがJWの記事のスタイル。」

「4,5節は巡回監督向けの話です。レビ族の人を見倣って70歳になったらおとなしく辞めろということです。」
「4節に“レビ族の人たちは,50歳を過ぎると幕屋での奉仕から退かなければなりませんでした。しかし,幕屋での奉仕ができなくなっても,喜びを失うことはありませんでした。自分にできることを精いっぱい行い,年下の人たちを全力でサポートしたのです。(民 8:25,26)”とある。“全力でサポートした”なんて引照聖句にないよ。勝手に話を作っている。」

「民数記8:24では“25歳以上の人が会見の天幕での奉仕に加わる。”とあります。でも民数記4:3では“30歳以上50歳未満で,会見の天幕での仕事を割り当てられる”とあります。どっちが正しいのですか?」
「聖書には矛盾が多くて困るよね。それで昔の人は最初の5年間は見習いで、正式に仕事をするのは30歳からと聖書に書いてないことを勝手に推測して、なんとか矛盾を解消しようとしてきた。」

「なぜ50歳で退職なのですか?」
「旧約の神様は儀式が正確に行われることをものすごく重視しているから。儀式の際につまずいて転んだり、大事なものを落としたりしたらぶちぎれて、皆殺しにするかもしれない。そんなことがないように50歳定年制を設けたんだよ。」

「5節に“巡回奉仕を23年行ったダン兄弟について考えてみましょう。兄弟は70歳になった時,妻のケイティー姉妹と共に特別開拓者に任命されました。”とあります。特別開拓者に任命されただけでもましですよ。」
「巡回監督時代は会衆から様々な名目で金を貰っていただろう。それがなくなって寂しい思いをしているよ。」

「6から9節が“慎みを示す”です。 老いぼれは引っ込んで、早く若い人に仕事を譲りなさいという話です。」
「6節に“慎みのある人は,車で坂を上る人に例えることができます。坂を上り続けるためには,ギアを落とす必要があります。”とあるけれど、今の車の多くはオートマチックで、“ギアを落とす”と言われても何のことかわからないよ。執筆者は老人だね。」
「シフトダウンのことですよね。」
「シフトダウンは和製英語で、正しくはダウンシフト。」

「7節に“バルジライの手本を考えてみましょう。バルジライは80歳の時,ダビデ王から,宮廷で仕えるように招かれました。”とあります。しかし“自分の代わりに年下のキムハムを推薦しました。(サム二 19:35-37)”とあります。キムハムはバルジライの息子じゃないですか?」
「引照聖句には息子とは書いていないけれど、列王一2:7で死期が迫ったダビデはソロモンに“ギレアデの人バルジライの子孫には揺るぎない愛を示し,彼らがあなたと同じ食卓に着いて食べられるようにしなさい。私があなたの兄アブサロムから逃げた時,彼らは支えてくれたからだ。”とある。バルジライの子孫が宮廷で仕えているわけだけど、それに該当するのはキムハムしかいない。それでキムハムはバルジライの息子か孫だろうと推測される。」
「バルジライの手本に倣うと、組織の中で高い地位にある人は自分の息子を特別扱いしてもらってもいいということですね。」
「それで“自分の代わりに年下のキムハム”と実態を隠した言い方をしている。親族重用はJWだってあるよ。JW幹部の息子が組織のお金で大学に行き、弁護士になったなんていう話はアメリカのJWなら知っているだろう。」

「8節に“ダビデは,エホバのために家を建てたいと心から願っていました。しかし,その家を建てるのは若いソロモンである,とエホバから言われた時,エホバの決定を受け入れ,その建設プロジェクトをサポートするためにできる限りのことをしました。”と、ダビデをほめていますが、ソロモンが豪華な神殿を立てたというのは史実なのですか?ソロモンなんかは聖書以外にその存在を示すものはありませんよね。」
「ソロモンの神殿が立っていた所は現在“岩のドーム”と呼ばれるイスラム教の寺院が立っていて発掘はできない。JWによるとダビデ王の在位は前1077から1037年で、ソロモン王の在位は前1077から998年。ところが、この時代エルサレムを中心としたユダ地域の人口はどれくらいと推定されているかというと1万人以下。都市と呼べるような町は存在せず、小さな村が散在するだけの地域。エルサレムも小さな村程度の町。立派な神殿などできるわけがない。」

「ソロモン王が貿易で利益を上げたというのもあり得ませんよね。」
「貿易が盛んになるには、小さな国が乱立しお互い敵対している状態から抜け出ることが必要。それが実現したのがアッシリア帝国の時代。アッシリアが中東地域を支配に収め、単一の経済圏と平和が実現した。アッシリアの覇権の下で貿易活動は盛んになったけれど、それは前8から7世紀。ソロモンの200年以上先の話。」

「9節に“重雄兄弟は,1976年,30歳の時に支部委員会で奉仕するよう任命されました。そして,2004年には支部委員会の調整者になりました。”とあります。これは池畑重雄兄弟のことです。」
「1976年に日本支部は、一人の支部の監督ではなく、委員会に任されるようになったのだけど、最初の委員が、本間年雄、織田正太郎、池畑重雄、田中祺一郎、ジェームズ・マンツの5人。本間が最初にトップになり、次に織田で、その次が池畑となった。」
「本間兄弟は投資に失敗して組織に大損をさせて排斥といううわさです。織田兄弟は不慮の事故で死亡しています。エホバの助けなど全くない組織だということがわかりますね。」
「池畑の後が今の乳井だ。池畑はまだ健在のようだね。」
「池畑重雄兄弟をほめる記事をわざわざ書いたのはなぜですか?」
「見当もつかないね。ベテルのメンバーの大量首切りという功績のせいかな?」

「10から13節が“感謝を表す”です。 若者をまず十分働かせて、その後感謝を表そうということです。」
「ナオミとかパウロの話が出ているけれど、“ナオミはルツの助けを受け入れました。”とか、“使徒パウロも仲間からの助けに感謝しました。”とある。また13節では“若い人たちが車の運転や買い物や,その他の援助を申し出てくれるなら,そうした助けを感謝して受け入れましょう。”と若い人に高齢JWを援助することを間接的に指示している。」
「世話になっても何の感謝も示さない非常識な高齢JWも結構いますよ。そんな非常識なJWに、車のガソリン代を払わないのなら、感謝ぐらいタダなのだからしなさいと教えているのだと思います。」
「JWの教育はやっぱり小学校4年生向けということかな。」

「13節に“エホバが年下の人たちを会衆に引き寄せてくださったことに「感謝を表」すことができます。”とありますが、これは事実に反していますよ。」
「若いJWは引き寄せられたのではなく、JWの子どもとして生まれたので、JWという生き方を強制されただけだね。親がJWでない若いJWなんて今はいないよね。」

「14から17節が“惜しみなく与える”です。 まずダビデ、パウロの例が出ています。」
「14節に“ダビデは神殿の建設をサポートするために,自分の財産の中からたくさんの寄付をしました。(代一 22:11-16; 29:3,4)”とあるけれど、ダビデの財産は国民から税金という形で強制的に集めたもの。神殿建設は国家的プロジェクトなのだから国王であるダビデが出すのは当たり前。」

「引照聖句には“3400トンの金,3万4000トンの銀,量り切れないほど大量の銅と鉄を用意した。”とありますが、あり得ない量ですね。」
「日本政府の金保留量は765トンだから、日本政府の4倍以上の金保有量だね。金保有量世界2位のドイツは3370トンだから、ダビデの国は今だとドイツを上回って世界2位だ。歴代誌には史実性はないことがわかるよ。」

「14節に“可能な範囲で寄付を行うことによって,こうしたプロジェクトを引き続きサポートすることはできます。”と露骨な寄付のおねだりです。老人JWに一番期待するのはお金ですね。」
「高齢JWでもお金があればチヤホヤされるということ。JWでも、やはり大事なのはお金ということだね。」
「組織の言いなりの人生を送った人は、お金などありませんから、使い古した雑巾あつかいですね。」

「16節で再び池畑重雄兄弟を褒めちぎっています。やりすぎですよ。」
「“十分に訓練された兄弟に調整者としての務めを引き継ぐことができました。”とあるから、今の乳井のことも褒めている。執筆者は日本支部と関係のある人なのかもよ。」
「そのうち大会の祈りで、優秀な乳井兄弟を日本支部の調整者にお与えくださったエホバに深く、深く感謝いたします、などと言うごますり男が現れると思います。」
「大会の祈りで、統治体に対する感謝を含めるというのは珍しくないでしょう。こうやって競ってゴマスリをする組織が真の神の組織とはね。」

「17節に“年長の兄弟姉妹たち,皆さんは信仰と忠誠を示してエホバに仕えることが一番良い生き方であることの生きた証拠です。”とありますが、嘘でしょう。」
「高齢JWの多くは、おかしな宗教の言いなりだと、どんな惨めな最期を迎えるかを教えてくれる生きた証拠だね。」

#1340 2021年11月19日 14:58:20

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 私はあらゆる国を揺り動かす(37)”で、ハガイ2:7の解釈の変更を説明した内容です。」
「また新しい光ね。でもハガイ書の解釈に関心のあるJWなんていないよ。そんなに重要な聖句なのか?」
「JW訳では“『また,私はあらゆる国を揺り動かす。あらゆる国の貴重なものが入ってくる。私はこの家を栄光で満たす』と,大軍を率いるエホバは言う。”ですが、協会共同訳では“諸国民をすべて揺り動かし/諸国民のあらゆる財宝をもたらし/この神殿を栄光で満たす/――万軍の主は言われる。”で、財宝がもたらされることになっています。」
「それが普通。ところがJWは独自の解釈なんだよね。」

「ハガイ1:1に“ダリウス王の治世の第2年”とありますから、ハガイは前520年に活動した人ですよね。」
「そうだけど、そうすると問題になるのはハガイ2:3の“栄光があった頃のこの家を見たことがある人はいるか。その家は,今はどう見えるか。かつてと比べると,ないに等しいのではないか。”の部分。」
「JWは神殿の破壊を前607年としていますから、破壊前の神殿を覚えている年齢を仮に10歳とすると、前520年では97歳です。」
「その当時、そんな高齢者はまずいないから、こんな問いかけをわざわざするわけがないことになる。」
「ひとつ嘘をつくとあちこちでつじつまが合わなくなりますね。史実では前587年で、77歳ですから、まだいそうな年齢ですね。」
「“かつてと比べると,ないに等しいのではないか。”とあるから、ハガイ自身も破壊前の神殿を知っていると推測されている。JWのインチキ年代学ではハガイは100歳近い老人になってしまう。」

「2節に“あらゆる国が何十年にもわたって揺れているのです。このことについて,預言者ハガイはこう述べていました。「大軍を率いるエホバはこう言う。『間もなく,私は天と地と海と陸をもう一度揺り動かす』」。(ハガ 2:6)”とあり、ハガイの予言を現代に適用しています。これはへんですよ。」
「ダリウス王は前522年に即位するけれど、各地で反乱が相次ぎ、ハガイの活動した時期においても反乱は鎮圧されていなかった。“揺り動かす”というのはそういう混乱した情勢を背景にした言葉。預言はその時代あるいは次の世代に向けての言葉で、2000年以上後の人間に向けられたものではない。」

「ハガイはペルシャ帝国の混乱を終末論的に解釈し、神殿の再建によってかつてのイスラエルの富と栄光が取り戻されると思っていたのですね。」
「それが“あらゆる国の貴重なものが入ってくる。私はこの家を栄光で満たす。”の意味だよ。でも、それは実現しなかった。」

「4から6節が“ハガイの時代の人たちに励みを与えたメッセージ”です。 “紀元前520年に,エホバはハガイを遣わし,人々が熱意を取り戻し,神殿を完成させる意欲を持てるようにしました。”とあります。」
「面白いのは“ハガイは,紀元前537年にバビロンでの捕らわれからエルサレムに帰還した人たちの中にいたようです。”とあること。これは根拠がないけれど、前537は前607年にエルサレム滅亡の根拠となっている年なので、さりげなく入れているのだろう。」
「前537年を予言された70年間の終わりの年として、そこから70年さかのぼると前607年になるというのがJWの計算ですね。」
「6節の“ペルシャが揺り動かされると,どんなことが生じますか。まず,神の民は神殿を完成させることができます。”はこじつけだね。」

「7から9節が“現代における地球を揺り動かす活動”です。 ハガイの預言を現代にこじつけるわけです。」
「7節に“「王国の良い知らせ」を伝えるこの活動は,全世界を揺り動かしてきました。”というのは笑える。JWが世界をゆり動かしたなんてことは一度もない。」
「8節では“人々は,このメッセージにどう反応してきたでしょうか。ほとんどの人は退けてきました。”と正直に言っています。全世界を揺り動かしたけれど、無視されたということでしょうか?理解できません。」

「9節で“王国に関するメッセージを退ける国々に対して,エホバはどう行動するでしょうか。詩編 2編10-12節にはこうあります。”といって、詩編2を引用するのだけれど、そこは“それで今,王たち,洞察せよ。”で始まる。」
「つまり、王に向けられた言葉で、一般人は関係ない。」
「旧約聖書の世界は国王の行いで国全体が裁かれるという不条理な世界なの。一般人の行いは国家の行く末に無関係なの。」
「旧約聖書の聖句を現代の個人に当てはめるのは相当無理がありますね。」

「例えば、エルサレムが滅亡したのは、聖書によるとマナセ王が悪いから。そのせいで国民が死んだり財産を失ったりしたということになっている。バカバカしい理屈だね。でもそれが聖書の歴史観。」
「列王二24:3,4に“エホバは,ユダをご自分の前から取りのけるため,こうしたことがユダに起きるよう命じたのだった。マナセが犯したさまざまな罪のゆえ, マナセが流した無実の人の血のゆえである。マナセは無実の人の血でエルサレムを満たした。エホバは許そうとはしなかった。”とありますね。」
「マナセ王よりも神様のせいで無実の人の血がたくさん流れたよ。」

「10から13節が“揺り動かす活動に対する良い反応”です。 ここが今までの解釈を変更した部分です。“ハガイは,エホバが揺り動かす結果,「あらゆる国の貴重なもの[誠実な人たち]が入って」きてエホバを崇拝すると述べています。 *”と新しい解釈を説明しています。」
「*には“これまでの理解は,あらゆる国を揺り動かすことによって誠実な人たちがエホバに引き寄せられるわけではない,というものでした。”とある。180度の変更だ。光が増したなんて言うものではない。」

「“あらゆる国の貴重なもの”が“誠実な人”のことだなんて文脈から言っておかしいですよ。」
「JWとしては自分たちの伝道活動に結び付けようという意図がある。そのためには宝物ではなく“誠実な人”が自分たちのだらだらやっている伝道活動によって王国会館にやって来ることである、と解釈すると都合がいい。」
「それでJWだけの珍解釈になるわけですね。」
「古い解釈では、“天と地と海と陸をもう一度揺り動かす”というのはハルマゲドンの戦いのことだった。それが今度はJWの伝道活動のことになったわけだ。」

「11節ではJWの伝道活動が“天と地と海と陸をもう一度揺り動かす”ことである根拠が出ています。驚くことに、それはケン兄弟の感想なのです。笑えます。」
「そこではJWの伝えていることを“地球を揺り動かすメッセージ”と言っているね。英文ではthe earthshaking messageで、“大地を揺り動かすメッセージ”とでも訳すべき。Earthをいつも地球と訳するのがJWの翻訳者みたい。」

「12節ではJWの数が増えたことをもって“エホバの比喩的神殿の地上の庭(清い崇拝のためのエホバの取り決め)が「あらゆる国の貴重なもの」で満たされています。”と断定しています。珍解釈ですね。」
「ハガイ2:7には“私はこの家を栄光で満たす。”とあるけれど、その解釈として“また,こうした人たちが新しい人格を身に着けて変化することによって,エホバのお名前に栄光がもたらされています。”とある。JWがいつ“新しい人格を身に着けて変化”をしたの?例えば、性犯罪者はJWになってもやっぱり性犯罪者で会衆の子どもに性犯罪を繰り返していたんじゃないの?」

「13節に“こうした胸の躍るような進展によって,イザヤ 60章にあるようなほかの預言も実現しています。”とあります。イザヤ60章がJWのことを言っているとは知りませんでした。」
「イザヤ60:1に“女よ,立って,光を照らせ。あなたの光が来た。”とある。女とはシオンつまりエルサレムのこと。イザヤ60章は回復した未来のエルサレムを描いている章で、JWとは何の関係もない。」
「イザヤ60:22の“小さな者が千人にもなり,取るに足りない者が強大な国民になる。”を引用して、JWの数の増加を根拠に、この予言が実現したといっていますが、バカバカしいです。」
「それなら、信者数がJWよりももっと多い宗教団体のほうがよくあてはまることになる。」
「“「貴重なもの」であるこれらの人たちは”とありますが“貴重なもの”はひとではなくものじゃないですか?この文を書いていてその程度のことに気づきませんかね。」
「JWに“あらゆる国の貴重なものが入ってくる”ことは決してないので、ものじゃなくてひとにしたというだけでしょう。」

「14から16節が“決断の時”です。 14節に“人々は決断を迫られています。神の王国を支持するでしょうか。それとも,この世界の政府に頼るでしょうか。”とあります。」
「そのためには、まず神の王国が確かに存在していて、しかも頼れる存在であることの証拠を示す必要がある。そういった証拠もなしに決断しなさいと言われても普通の人はできないよ。」
「組織に忠実ゆえに貧困層に転落したJWの中には生活保護で生活している人がいます。その人は神の王国を支持しながらこの世界の政府に頼っているといっていいですよ。」
「そういうJWはJWをやめるか、生活保護をやめるかの決断が迫られているわけだ。もしそうならJWの方をやめるよね。神の王国よりも、この世界の政府のほうが頼りになる。」

「13節では“「ヨハネへの啓示」によると,終わりの時代に神に仕える人たちは,神への揺るぎない愛を試されます。”と、急にヨハネの啓示に飛んで、迫害妄想をあおっています。」
「啓示1:3に“定められた時が近いからである。”とあり、最後の章の22:20には“私は速やかに来ます。”とある。ヨハネの啓示の著者は書かれていることが間もなく起こるといっているわけで、21世紀に起きるなんてことは言っていない。」

「17から19節が“天と地が最後に揺り動かされる”です。 ハガイ2:6,20-22の解釈です。」
「2:6に“私は天と地と海と陸をもう一度揺り動かす”とあるけれど、その意味は“『もう一度』というこの表現は,揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。”とヘブライ12:27に飛ぶ。」
「ヘブライ12:26に“その方は今やこう約束しています。「私はもう一度,地だけでなく天をも揺り動かす」。”とあります。これってハガイ2:6の引用ですが、かなり不正確ですね。こんな適当な引用でいいのですか?」
「引用が適当なのは新約聖書全般に言えること。」
「ヘブライ書はハガイ2:6を終末論的に解釈したわけですが、ハガイ書に終末論はありません。ヘブライ書の著者はハガイ書をあまり読んでいないと思います。」
「ハガイは終末ではなくイスラエルに栄光が回復されると言っているよ。」

「19節にヘブライ12:28が引用されています。そこには“私たちは決して揺り動かされない王国を授けられることになっているのですから”とありますが、協会共同訳では“私たちは揺るがされない御国を受けているのですから”となっています。JW訳では未来のことになっていますが、どうなのですか?」
「使われている動詞は現在分詞形。未来のこととして訳するのは間違い。だからJWの訳は間違い。ヘブライ書のこの節は神の王国は今実現しつつあると言っている。それだとJWとしては不都合なので、未来のこととして訳しているのだろう。」

「最後の20節に“終わりはますます近づいています。人々は決断しなければなりません。この世界を支持し続けるなら,滅ぼされることになります。”と終末カルトらしい主張が出ています。」
「でも長年JWをやってきた人は決断しなければならない。JWを支持し続けるなら、悲惨な老後を迎えることになるよ。」

#1341 2021年11月26日 16:01:14

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” エホバと仲間への愛を深めましょう(38)”で、もっと思いやりのあるJWになりましょうという内容です。」
「エホバなる神様を愛情深いお父さんと信者に信じ込ませようとしているけれど、難しいでしょう。」
「エホバは何もしてくれないお父さんですからね。」
「大昔に手紙をよこしただけで、その後音信不通の父親みたいなものでしょう。しかも昔よこした手紙には人をたくさん殺したとか、自分に忠実でないと命がないとか物騒なことがたくさん書いてある。愛情深い父親と思う方がおかしいよ。」

「3から9節が“エホバは私たちと親しくなりたいと思っている”です。 一生懸命エホバを持ち上げています。」
「4節に“大変な家庭環境で育ったために,愛情深いお父さんというイメージを持ちにくい人もいるでしょう。”とあるけれど、これはムチで子どもを虐待してきたJWの家庭のことだよ。」
「英文ではour upbringing was painfulとあります。painfulは“大変な”ではなく“つらい”とか“苦痛である”という意味ですよ。」
「upbringingも”家庭環境”じゃなくて”生い立ち”とか”しつけ”だろう。”私たちJWの生い立ちは苦痛にあふれたものだったので、愛情深いお父さんというイメージを持ちにくい人もいるでしょう。”と訳して欲しいね。」
「日本ではJWの育児は素晴らしいという建前がまだあるので、そうは訳せません。」
「この記事の執筆者はJWの家庭で育った人に口先だけでも思いやりを示している。でも日本語訳ではそれが感じられない。」

「4節のその後に“しかし,エホバが私たちの気持ちをよく分かってくれていることを知ると,本当に慰められます。”とありますが、少しも慰められません。エホバは何もしないからです。」
「ルカ12:6でイエスは“スズメ5羽は小額の硬貨2枚で売っていませんか。それでも,その1羽でさえ神に忘れられることはありません。”とある。そう言われても、売られるスズメの立場からすれば何の慰めにもならないよ。」
「自分がスズメなら、忘れてもいいから逃がしてよ、と言いたいです。」
「スズメのことを忘れないとしても、ノアの大洪水の時、動物は箱舟に乗ったもの以外全滅させられた。神に覚えられても、何もいいことはない。」

「7節に“現代においても,エホバはご自分に仕える人たちの祈りに耳を傾けています。そして,一番良い時に一番良い方法で答えてくれます。(詩 116:1,2)”とありますが、引照聖句にはそんなことは書いていません。」
「“神は耳を傾けてくださる。”とあるけれど“一番良い時に一番良い方法で答えてくれます。”とはいっていない。執筆者の勝手な創作だ。」

「7節に、祈った後、JW Broadcasting を見たら“私にぴったりの内容でした。祈りに対する答えだと思いました。”とあります。エホバはいつから祈りの答えをJW Broadcastingでするようになったのですか?」
「祈らずに、それを見ても“私にぴったりの内容でした。”と思うよ。祈りと関係ないでしょう。こんなくだらない記事をまじめに読まなくてはならないJWに同情するね。」

「9節に“例えば,エホバは私たちを引き寄せてくださり,私たちに愛と信仰で結ばれた家族を与えてくださいました。”とありますが、そんな事実はありません。引き寄せられたのではなくJWの家庭に生まれただけですし、愛と信仰で結ばれてもいません。」
「また“生きていくのに必要なものを得られるようにも助けてくださいます。”とあるけれど、これはJWの幹部クラス限定だね。末端の信者は搾取されるだけで、食べ物にも苦労している。」

「10から16節が“兄弟姉妹に対するエホバの接し方に倣う”です。 この記事の中心的部分ですね。エホバに見倣うべきことが3つ出ています。」
「11節には” エホバは「温かい思いやり」を示してくださる。”とあるけれど、書かれていることはイエスの話。エホバと思いやりはやはり結びつかないようだね。」
「エホバは思いやりを示すな、とは何度も言っていますよ。特に敵に対しては。」
「敵だけじゃないよ。申命記25:11,12には“男性2人がけんかをし,一方の妻が間に入り,夫を殴る人から夫を守ろうとして,手を伸ばして相手の股間をつかんだなら, 彼女の手を切断しなければなりません。哀れに思ってはなりません。”とあるよ。残酷で思いやりに欠けた神としか思えない。神様にとって男性の股間のものはよっぽど大事ということだね。」

「12節で病気の仲間、失業した仲間に対して援助することを勧めています。」
「“少額のお金を匿名でプレゼントするなら”とあるけれど、多額のお金を直接渡すのはダメなのか?」
「少額よりはうれしいでしょう。」
「プレゼントの仕方にもいちいち干渉するのがJWだ。」

「13節は“エホバは惜しみなく与えてくださる。”で、“エホバは,私たちから頼まれなくても,毎日太陽を昇らせています。”とあります。」
「マタイ5:45の“父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。”からの引用だけれど、JWはこの聖句に書かれていることを全く見倣っていないよ。」
「JWが与えるのは自分たちの仲間だけで、他の人は無視ですからね。」
「14節に“大勢の兄弟姉妹が,天のお父さんエホバに倣って,進んで惜しみなく与えています。”とあるけれど、そこに出ている例は台風で被害を受けた兄弟姉妹を助けたといった話ばかり。他の人の被害は無視だ。」

「マタイ5:47に“兄弟たちにだけあいさつしたからといって,特別なことをしているのでしょうか。異国の人々も同じことをしていませんか。”とあります。JWのことですね。」
「イエスはマタイ5:43-45で“あなたたちは,こう命じられたのを知っています。『隣人を愛し,敵を憎まなければならない』。しかし私は言います。敵を愛し続け,迫害する人のために祈り続けなさい。自分が天にいる父の子であることを示すためです。”と言っているけれど、ここでイエスは弟子たちに律法を守るだけではなく、より高い倫理観を求めている。悪人にも善人にも太陽を昇らせる神を見倣いなさいといっている。」
「JWはイエスの弟子ではなく、単なる律法主義者ですから。」
「自分たち以外は悪魔の手先という世界観なので、JW以外を助けるなんてことは絶対しない組織だけれど、援助は悪魔の手先からでも受ける。これは理解できないね。」

「15節は“エホバは憐れみ深く,快く許してくださる。”で、それを見倣おうと言っています。」
「ものみの塔によくある内容だ。加害者の責任は問わずに、被害者に泣き寝入りを強いることによって問題の解決を図るというのがJWの組織のやり方。」
「でも、16節では“進んで許すとは,間違った行為を容認するとか,その被害を過小評価するということではありません。そうした行為に対する憤りを捨て,平安を保つということです。”といっていますよ。」
「それなら間違った行動をどうやって正すのかな?被害に対する補償や、再発防止策は?なにもない。あるのは許せということだけ。それではいつまでたっても被害はなくならない。」

「17から19節が“エホバの家族の一員であることを感謝する”です。 最後は感謝の強要です。」
「17節に“愛にあふれた国際的な家族の一員でいられるのは,本当に素晴らしいことです。”とあるけれど“愛にあふれた国際的な家族”というのは事実に反する。これは単なるプロパガンダだよ。」
「グアテマラで若い姉妹が殺された時、“愛にあふれた国際的な家族”なんて存在しないことがわかりましたね。日本支部のコメントでさえ、勝手に行って殺されたという冷淡なものでした。会衆でも話題になることはなく無視です。」

「17節で言いたいのは“ですから,エホバに仕える人たちや天のお父さんエホバの評判を傷つけるようなことは決してしないように注意するべきです。”ということだね。」
「海外に奉仕活動に行って殺されるのは“評判を傷つけるようなこと”ということですか?」
「少なくとも組織はそう思っているよ。組織がマスコミから取材を受けたり、法的道義的責任が追及されかねないとんでもない事態になったのは、女だけでグアテマラにのこのこ行って殺されたからだと日本支部の責任者の男は思っているんじゃないの。」

「18節に“自分が信じていることについてほかの人に話すことに恐れを感じる場合はどうでしょうか。エホバとイエスが助けてくださることを確信できます。”とあり、19節にロバート兄弟の“エホバの聖なる力の助けがあったので,この質問にもその他の予期していなかった質問にも答えることができました。”という体験談が出ています。」
「18節に“話すべきことはその時に与えられるからです。単にあなたたちが話すのではなく,天の父の聖なる力があなたたちによって話すのです。”とマタイ10:19,20が引用されているけれど、新約聖書に書かれていることは一般のJWには関係ないというのがJWの教義じゃなかった?ロバートさんは144000人の一人なの?違うよね。」

「ものみの塔1974年9月15日号の“永遠の前途を見ながら奉仕する”には“永遠の命の約束を含め,クリスチャン・ギリシャ語聖書の大部分は,その王国において支配する,霊で油そそがれたクリスチャンたちが対象になっています。”とありますし、ものみの塔2007年4月15日号の“会衆はエホバを賛美する”には“クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で「会衆」と言われているのは,第一に,霊によって油そそがれたキリストの追随者たちから成る一団のことなのです。”と言っていますね。一般人は関係ないという主張です。」
「それから、ものみの塔2006年6月1日号の“エホバは「終わりのことを初めから」お告げになる”には“クリスチャン・ギリシャ語聖書の訓戒が記されたおもな目的は,油そそがれた者たちが忠誠を保ち,天への召しにふさわしい者であり続けるように導き,強めることにありました。”と言っているよ。」
「新約聖書でエホバがどうの、イエスがどうのとあっても、144000人以外は無関係ということですね。何のためにJWは聖書レッスンなるものを受けるのでしょうかね?」
「だからJWは旧約聖書中心に学ぶことにしているんだよ。」

「最後の20節に“私たちもイエスに倣い,お父さんエホバの愛と支えを決して疑わないようにしましょう。”とありますが、これは組織を疑うなというメッセージですね。」
「これも144000人限定でしょう。それ以外の人は組織言うことは真に受けることなく、絶えず批判的に吟味すべきだよ。」

#1342 2021年12月03日 15:15:02

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 愛する人がエホバから離れた時(39)”で、悪名高い排斥制度を弁護した内容です。」
「家族でも排斥されたら、みんなでしっかり無視しましょうということだね。“エホバから離れた時” とあるけれど、本当は“インチキ宗教から離れた時”でしょう。」

「共同で絶交するというのは犯罪にならないのですか?」
「それに対する刑事罰を定めた法律はないね。でも、民事的には、村八分を受けることにより、社会的生活に困難を生じた場合は不法行為となり、差し止め請求や慰謝料を含めた損害賠償請求の対象となりうる。」
「なるほど。でも“社会的生活に困難を生じた”というのを立証するのは難しそうですね。」

「組織も自分たちの行為は違法行為すれすれであると認識はしていると思うよ。それでホームページにある“エホバの証人ではなくなった人を避けますか”という記事では“避けることはしません。むしろ,その人を訪ね,信仰を再び強めるよう励まします。”と偽善的なことを書いている。」
「組織の責任逃れのためですね。もし排斥のせいで社会的生活に困難を生じた場合は組織ではなく、会衆の長老に損害賠償請求してね、ということですか。」
「長老にリスクを負わせるのが組織の方針だ。長老なんてやるものじゃないということだね。」

「1節に“愛する人が会衆から排斥される,という経験をしたことがありますか。そのような経験をすると,胸が張り裂けるような思いをすることでしょう。”とあります。その下の写真の説明には“1人の兄弟がエホバと家族を捨てて出ていき,妻と子供たちが深く悲しんでいる。”とあります。これっておかしいですよ。」
「まるでJWが被害者で同情されるべき人みたいだ。JWが排斥したんだよ。JWこそ家族を破壊する加害者で憎むべき人じゃないの?加害者がいつの間にか被害者になっている。」
「組織の排斥制度に盲従している点で末端の信者といえども加害者ですよ。」
「組織の言いなりになっているのは自分が楽園に行きたいからじゃないの?自分が一番かわいいだけ。何の同情にも値しない。」

「4から8節が“自分を責めない”です。 家族が排斥されて、家族を共同で絶交しても自分を責めるなということです。」
「5節でいいことを言っているよ。“結局のところ,エホバに仕えるかどうかは一人一人が決めなければならないのです。”だって。それなら何もわからない子どもに宗教を押し付けるのをやめるべきだよ。小学生でバプテスマを受けさせるのを禁止すべき。」
「エホバをやめるといった子どもを殴ったり、無視したり、家を出て行けと脅かしたりするのも禁止してほしいです。」
「 “ですから,子供がエホバから離れたことでとても悲しい思いをしている親の皆さん,自分のせいでこんなことになった,とは決して考えないようにしましょう。”とあるけれど違うだろう。カルト宗教の言いなりになっている親のせいだよ。」

「6,7節では親が排斥されたケースを扱っています。子どもの悲痛な話を載せています。子どもに悲しい思いをさせているのは排斥制度そのものということには触れません。」
「7節で“親が排斥されている若い皆さん,あなたのことを思うと,私たちも心が痛みます。”と偽善的なことを言っている。それなら排斥されたら親子の間でも絶交というルールをやめたらいい。でもそんな気は全くない。」

「“エホバのもとに帰ってきてください”という囲み記事があります。そこには“世界で起きていることを見ると,ハルマゲドンが足早に近づいていて,いつ来てもおかしくないということが分かります。また,この体制での命は,短く不確かなものです。自分の命が明日どうなるかさえ,分からないのです。”と、命が欲しければ組織に復帰しろといっています。」
「結局終末論で脅かすことしかJWはできないということね。」

「9から14節が“強い信仰を保つためにできること”です。 この記事の主要な部分ですね。言っているのはいつもの聖書、集会、祈りです。」
「囲み記事に推薦聖句が7つ出ている。それを読むと慰められるそうだけど、本当かな。」
「2つ目の詩編34:19に“正しい人は多くの苦難に遭う。しかし,エホバがその全てから助け出してくださる。”とありますが、でも格言12:21には“正しい人に災いが降り掛かることはなく,悪人たちには数々の災難が生じる。”とありますよ。どっちが正しいのですか?」
「どっちも正しくないよ。正しさと苦難や災いとは何の関係もない。大地震が来たら、正しい人も正しくない人も等しく津波に飲み込まれるよ。」

「11節に“長老たちの決定を支持しましょう。排斥はエホバが取り決めたものです。”とあります。仮にエホバが排斥制度を決めたものだとしても、その運用は不完全な長老によるものです。どうしてそれを支持しなくてはいけないのですか?間違った決定という可能性はありますよ。」
「組織のすることに間違いはないという無謬性の神話を今さら放棄するわけにはいかないのだろう。でも、排斥制度は統治体が決めた制度なのに、神が決めたと、とんでもないことをいっている。」

「11節に“会衆の 中には,長老たちの決定は間違っていると言う人がいるかもしれません。大抵の場合,そこには罪を犯した人のことを悪く言いたくないという気持ちが働いています。”とあります。何を根拠にそう言っているのかわかりません。」
「組織の決定に文句をつける奴は心がねじ曲がったおかしな奴という印象を与えたいのさ。」
「アメリカなどでは刑務所に服役している元長老は何人もいます。長老の任命は組織のご都合で決まり、聖霊の働きがあるなどというのは嘘です。長老だって間違いを犯しますよ。」
「そういう常識が通用しないからカルトなんだよ。」

「11節で“ヘブライ 12:11を読む。”とあるのですが、これは訳がおかしいですよ。“確かに,どんな矯正も,その時は喜ばしいものに思えず,痛みを伴います。”とありますが、矯正ではないですよ。」
「ここは陸上競技の訓練に例えているところ。だから次の12:12、13では“ですから,垂れ下がった手と弱った膝を強くしましょう。そして,自分の足のためにいつも真っすぐな道を作ってください。弱い部分が脱臼したりせず,かえって癒やされるようにするためです。”と続く。」
「つまり矯正ではなく鍛錬や訓練ということですね。」
「信者を管理統制するのに都合の良いように“矯正”と訳しているんだよ。」

「11節に“審理問題を扱った長老たちを信頼するのは賢明なことです。”とありますが、そうとは言い切れません。審理手続きに問題がありすぎます。」
「男性の長老だけで決めるのは問題だね。その判断は男性特有の偏見に満ちているということ。性的な問題を扱う場合は特にそうだろう。」
「でも女性を審理に入れるなんてことはJWにとって論外ですよ。」
「弁護人も置かないのはおかしい。」
「それも論外ですね。」
「社会的経験もない、JWの教義以外ろくな知識もない男たちがマニュアルを読みながら進める審理なんて、審理と呼ぶのに値しないだろう。」

「その下に“排斥はエホバの愛の表れ”という囲み記事があります。4つの理由を挙げて、排斥制度を正当化しています。」
「1番目に“クリスチャンが排斥されるのは,その人が重大な罪を犯し,悔い改めない場合だけです。”とあるけれど嘘だろう。長老に嫌われている場合は、些細なことでも排斥されますと書き加えてほしいね。」

「2番目は問題発言ですよ。“排斥によって会衆は守られます。罪を犯して悔い改めない人は,伝染性の強いウイルスに感染した人のようです。”とあります。露骨な差別で、いじめです。」
「執筆者はカルトにどっぷり浸かった社会常識のない男だね。誰かを伝染病患者扱いして共同で絶交・差別することが犯罪行為にあたるかもしれないという可能性を全く考えていない。」
「排斥制度は会衆を守る、つまり組織防衛のため不都合な人を排除するという仕組みということですね。」
「カルトの特徴の一つに組織をやめた人を敵視し、交流を絶たせるというのがある。JWも同じということ。」

「引照聖句のコリント一5:6,は“皆さんが誇っているのは良くないことです。少しのパン種が生地全体を発酵させることを知らないのですか。”“とあります。ということは、恐らく執筆者の頭の中ではパン種=イースト菌=ウィルスということのようですね。科学的なことに無知なJWらしいですね。」
「その聖句がよくないこととしているのは“誇ること”だよ。おごり高ぶり自慢するような精神が会衆全体に悪影響を与えると言っているわけで、排斥とは関係ないよ。」

「3番目の“罪を犯した人は排斥されることによって,悔い改めるよう動かされるかもしれません。排斥された人で,本心に立ち返り,やがてエホバのもとに帰ってきた人は大勢います。”も違いますね。」
「“大勢います。”といい加減なことを言わないで、復帰率、つまり排斥された人がどれくらいの割合で戻ってきたのか統計を示してほしいね。」
「排斥されたことをきっかけにアルコール依存症や精神病になったり、自殺したりした人の統計も知りたいです。」
「それに、戻ってきた人は悔い改めたからなのか調査して欲しいね。JWの世界しか知らず、JW以外の人間関係がなくて、JW以外の世界に適応できなくて、復帰を目指すという人もいるでしょう。」

「12節で“あなたの愛する人を排斥するという長老たちの決定を支持するなら,排斥された人がエホバのもとに帰ってくるよう助けていることになります。”と、家族が排斥されてもそれを支持せよと命令しています。」
「家族のことで、どうして何の責任も負わない他人の指示に従わなければならないの?家族のことに介入する宗教は異常でしょう。」
「病気持ちの貧困老人JWの子どもが排斥された場合、病気持ちの貧困老人JWの生活に深刻な問題が発生しますよ。長老は気楽に信者の子どもを排斥するかもしれませんが、その結果その信者の生活が困っても何もしてくれません。」
「そうなってもいいのか?とJWをやめたがっている子どもを脅かしているわけだ。自称・真の宗教は家族を人質にとって、やめたがっている信者をやめさせまいとしているということだね。」

「12節には“息子は,自分が戻ってきたいと思った理由の1つは,お父さん,お母さんが自分と一切連絡を取らなかったからだと話してくれました。”とあります。排斥された家族とは一切連絡を取るな、徹底的に孤立させよ、と事実上指示しています。」
「こういう親のもとに生まれた子どもは本当に不幸だね。そういう状態に耐えられなくなって、復帰を目指す人は出てくるだろう。邪悪な組織だね。」

「15から17節が“会衆の人たちにできること”です。 排斥者がでた家族の悪口を言うな、ということです。」
「16節に“私についての事実でないうわさが流れた時には,それは違うと言ってくれました。そうした友達からたくさん元気をもらいました。”とある。悪意のあるうわさを流しあうのがJWの習慣でしょう。そうやって何も面白いことのない灰色のJW生活に多少色取りを添えるわけだね。」

「17節は長老に対して“皆さんには,そうした兄弟姉妹を慰める特別な責任が与えられています。”と責任を長老に丸投げしています。権力を振りかざして排斥はするものの、そのあとは何もしない長老が多いと言いうことです。」
「そうはいっても長老の怠慢を矯正するような仕組みはJWにはないでしょう。長老の問題点を巡回監督に言ったら、かえっていじめられるだけだよ。」

「最後の18,19節は“希望を保ち,エホバを信頼し続ける”です。 いつもの 組織に盲従せよということです。」
「19節に“エホバを信頼し続けましょう。エホバが私たちに害になるような指示を与えることは決してありません。”とあるけれど、悲壮感が漂うね。これは家族を破壊する反社会的な宗教という非難がこたえているし、排斥制度には相当信者の間に相当不満があるということだよ。」
「その次に“エホバはいつでも助けてくださる,思いやり深いお父さんです。”とありますが、これは事実に反します。何も助けてくれない神なので、JWには精神病に苦しむ人や自殺を図る人が珍しくないのです。」
「JWの排斥制度は問題だらけだけど、あくまでも神の愛ある取り決めと強弁し、続けるつもりだね。統治体の保身にはなるのだろうけれど、組織の衰退は避けられないよ。」

#1343 2021年12月10日 15:40:23

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 本当の悔い改めとは何か(40)”で、先週は排斥制度を擁護するものでしたが、今週はそれをさらに推し進めて、組織に逆らう信者は悔い改めていても排斥せよという内容です。」
「それを言うのに聖書の登場人物の話を長々と書くのは、集会を10分で終わらせるわけにはいかないからだろうね。」
「聖書の話を持ち出すのは、聖書を学んでいるというタテマエを維持するためでもありますね。」
「実際は、奇妙な宗教組織の教えを学んでいるだけ。」

「3から8節が“アハブ王の例から学べること”です。 アハブ王は悪い王だったので、4節に“エホバの辛抱は終わりを迎えました。エリヤを遣わして,アハブとイゼベルにどんな罰を与えるかを伝えます。”とあります。すると、“アハブはエリヤの言葉にショックを受けました。驚いたことに,思い上がっていたこの王は「謙遜になった」のです。(王一 21:19-29)”とあります。」
「アハブ王が謙遜になったので、神様は、列王一21:29で“彼が生きている間には災いをもたらさない。彼の子の時代に,彼の一家に災いをもたらす。”と言っている。なぜ本人を罰しないで、その子孫を罰するの?おかしいよ。」

「申命記24:16には“父親は子供がすることのゆえに死刑にされるべきではなく,子供も父親がすることのゆえに死刑にされるべきではありません。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死刑にされるべきです。”とありますが、エホバはこのきまりを守っていませんね。ダメな神様です。」
「古代では独立した個人という発想がほとんどない。旧約聖書では、集団倫理の段階で、一人の悪事はその集団全体の責任だ、一族全員死刑、という野蛮な考えが優勢。一方、個人倫理の思想も出てきて、申命記にあるような考えや、エレミヤ31:30の“人はそれぞれ自分の過ちのために死ぬのである。”というような主張も部分的には出ている。」

「6節に“アハブはシリアとの戦いに一緒に行くようユダのエホシャファト王を誘いました。”とあります。列王記に書いてあるのですが、史実性はあるのですか?」
「創作だろうね。アハブ王は聖書以外の資料に登場するので実在の人物とされるけれど、シリアとは同盟関係だった。」

「アッシリアの王がシリアに攻め込んだ時、シリアやイスラエルなどの12か国は同盟を結んで大国アッシリアの侵略を防いだことが、アッシリア年代記にあるのですよね。」
「前853年のカルカルの戦いだね。アハブ王はこの戦いに2千台の戦車と1万の兵士を派遣し、反アッシリア同盟の中心的存在だった。」
「1990年の湾岸戦争はサダム・フセイン大統領が支配するイラクがクウェートに侵攻した事がきっかけですが、その時はアメリカを中心とした多国籍軍がイラクを撃退しました。その古代版みたいなものですね。」
「アハブ王の時代ではイスラエルとシリアは同盟国。それなのに聖書では絶えず戦争して、アハブ王は戦死することになっている。創作だろうね。」
「列王記の作者は宗教にしか関心のない人で、宗教的観点からしか王や歴史を見ていません。それ以外は無視ですからね。」

「6節に“アハブは,エホバの預言者を牢屋に入れることはできましたが,その預言が実現するのを阻むことはできませんでした。その後の戦いでアハブは命を落としました。(王一 22:34-38)”とありますが、本当に預言は実現したのですか?」
「聖書の中での預言は列王一21:19で“犬がナボテの血をなめ尽くした場所で,あなたの血も犬がなめ尽くす。”だけど、列王一22:38では“サマリアの池のそばで戦車が洗われ,犬がアハブの血をなめ尽くし,娼婦たちはそこで体を洗った。エホバが語った言葉の通りになった。”とある。娼婦たちのことは預言されていないよ。」
「娼婦たちのこと言うのをうっかり忘れてしまったということですか?」
「ありそうなのは、アハブ王をさらに侮辱するために後の時代の誰かが娼婦たちのことを書き加えた。」

「8節に、アハブ王から学ぶことが書かれています。“悔い改めとは,一時的に悲しみを表すだけのことではありません。”だそうです。」
「要するに8節までの話は、問題を起こした信者が悲しそうな顔をしていても、長老は断固排斥せよという話に持っていていくための導入部分ということだね。」

「9から13節が“マナセ王の例から学べること”です。 アハブ王は悪い例でしたから、次は良い例というわけです。しかしマナセ王を良い例として取り上げるのはおかしいですよ。」
「列王記ではマナセ王はユダ王国滅亡とバビロン捕囚の原因を作った王という位置づけだね。列王二23:26,27に“エホバがマナセの不快な行為のことでユダに対して燃やした怒りは,収まらなかった。エホバは言った。「私はイスラエルと同じようにユダも私の前から取りのける。私が選んだこの都市エルサレムも,『私の名はずっとそこにある』と言った家も退ける。”とあるし、また列王二24:3、4にも“エホバは,ユダをご自分の前から取りのけるため,こうしたことがユダに起きるよう命じたのだった。マナセが犯したさまざまな罪のゆえ,マナセが流した無実の人の血のゆえである。”とある。」

「そのマナセ王を良い例として出してきた、この記事の執筆者はあまり聖書を読んでいないということですね。」
「この記事で主に引用しているのは歴代誌二33章。歴代誌はバビロン捕囚後の国家を失ったユダヤ人たちを励ますという意図で書かれた文書で、史実性は乏しい。列王記ではダビデやソロモンの悪い面も描かれているけれど、歴代誌になると理想化されていて、悪い面は出てこない。」

「歴代誌二33章には、アッシリア軍がマナセ王を“かぎで引っ掛けて捕らえ,銅の足かせ2つをはめてバビロンへ連れていった。”とありますが、これも創作ですか?アッシリ軍がバビロンに連れていくなんてありえませんよ。」
「創作だね。マナセ王は一番の邪悪な王とされているのに、その統治期間は50年という異例の長さ。マナセ王は長生きして平穏に死ぬ。些細なことでも無差別に死刑にする神様なのに、なぜ邪悪な王に罰を与えないのか?そういう疑問が当然出てくる。それに答えるための創作話。」
「なぜかアッシリアなのにバビロンに連れていかれ、そこで改心し、帰国後自ら異教を排除した。それで長生きし、平穏に死んだということにしたわけですね。」
「その当時の思想は律法に従わないと神から罰せられるというもの。人間は数々の律法違反をしていて、そのため不幸になるというわけ。それに明確に反する例がマナセ王。マナセ王を何が何でも善人に仕立て上げないと不都合なことになる。」

「史実として、マナセ王がバビロンでなくともアッシリ軍に連れていかれるということはあったのですか?」
「ないよ。マナセ王が50年間も平和のうちに統治できたのはアッシリにひたすら服従したから。異教の導入もアッシリ王のご機嫌を取るためだろう。」
「アッシリアから見れば何でも言うことを聞くよい王なわけですね。」
「アッシリアの年代記によると、マナセ王はアッシリアの宮殿建築のために建築資材を提供しているし、前667年のアッシリアのエジプト遠征にも協力している。アッシリアからすればよい王様で、捕まえる必要などない。」

「しかし、エルサレムの宗教勢力からは敵視され、列王記でぼろくそに書かれたたわけですね。」
「王としては国家の平和と安全のために、宗教原理主義者の極端な意見など無視したのだろう。おかげで国民は50年間平和に暮らせたし、経済も発展した。宗教に寛容な政策が国の繁栄を築くのはいつの時代でも同じ。」

「12節でマナセ王のことを“憐れみを求めて祈りました。生き方や行動を変えました。自分が与えた悪い影響を取り除くために一生懸命に努力しました。そして,心を込めてエホバを崇拝し,そうするようほかの人たちを助けました。”と言っています。問題を起こしたJWは、こういうことをしないと許さないぞ、ということですね。」
「要求が厳しすぎる。つまり、よっぽどのことがない限り、許さないで排斥という方針だということだね。」

「13節のたとえがよくわかりません。ケーキを求めたら卵が出てきた、それで納得できますかと?という話ですが、何を言いたいのかよくわかりません。」
「神様は悔い改めを求めているのであって単なる後悔ではないと言いたいようだ。悔い改め=ケーキ、後悔=卵という関係のようだ。執筆者はいいたとえを思いついたとうぬぼれているよ。」
「ケーキを注文したお客に卵を出すケーキ屋の店員なんか世界中どこにもいませんよ。もしいたらそれは嫌がらせをしているだけです。お前に売るケーキはないよ、欲しければ自分で作れ、ほら卵をやるよ、という状況しか思いつきません。」
「執筆者は、アメリカ南部の貧乏JWの家庭に生まれたアフリカ系の男で、子どもの時白人経営のケーキ屋に行ってそういう扱いを受けた体験がある、ということで次に行こう。」

「14から19節が“本当に悔い改めているかどうかを見極める”です。 ルカ15章の放蕩息子の話です。悔い改めを行動で示した話という理解のようです。」
「執筆者は放蕩息子の話の意味を真剣に考えていないよ。これは悔い改めの重要性を描いた話ではない。」
「放蕩息子はさんざん放蕩した後生活に困って帰ってくるのですが、帰ることにしたのは飢饉が理由です。“私はここで飢え死にしそうだ。”と言っています。」

「14節に“家に戻り,父親の許しを求めることにしました。”とあるけれど、これは違う。息子はそれほど世の中を甘く見ていない。“もう息子と呼ばれるに値しません”と言っている。使用人として働くから何か食わせてくれということ。」
「15節では“この若者の心から出た言葉には,エホバとの絆を取り戻したいという気持ちが表れていました。”と解説していますが、執筆者はこの息子のことを元JWと誤解しているみたいです。次に“父親との良い関係を取り戻すためには何でもしたいと思っていて,雇われ人の1人のようになる覚悟さえしていました。”と言っていますが、飢え死にしそうだから戻ってきたという話の展開を無視していますね。」

「この執筆者は、この話の冒頭にある“お父さん,財産のうち私が頂くことになる分を下さい”という息子の発言の意味が分かっていないんだよ。これは父親が死んだときに遺産としてもらえる分を要求している。これは親子の縁を切ると同じような意味。どう悔い改めようと父親との関係を取り戻すことは不可能なの。その点を理解していない。」
「父親との関係を回復させたのは、父親側からの一方的な許しと愛なわけですね。」
「救済はどのようにして可能かという点でJWは普通のキリスト教とは違って、自力救済という思想だから、このたとえ話も放蕩息子の悔い改めと行動が重要という間違った解釈になっている。」

「16節がこのたとえ話の教訓で“長老たちにとって,重大な罪を犯した人が本当に悔い改めているかどうかを見極めるのは簡単なことではありません。”だそうです。問題を起こした信者の、反省しているとか悔い改めますという言葉を信じることなく、排斥しろという結論に持って行きたいようです。」
「17節に具体例が出ている。“1人の兄弟は何年にもわたって姦淫を繰り返してきました。”という例。“誰かが長老たちに報告しました。”とある。密告の勧めだね。結論は“恐らくその人はある程度の期間,会衆から除かれることになるでしょう。”だって。つまり排斥だ。」
「排斥された方が幸せですよ。JWの妻ともサッサと離婚して、新しい人生を始めればいいのです。」

「18節に悔い改め方が出ている。“いつも集会に出席し,長老たちの助言に従って祈りや研究の良い習慣を守るでしょう。”だって。そんなこと聖書のどこに書いてあるのかな?JWの規則に過ぎないだろう。そこまでして復帰するほどの価値ある宗教団体かな?」
「そうしないとハルマゲドンで滅ぼされると、子どもの時から刷り込まれているのですよ。恐怖による支配はそう簡単に抜け出せないのです。」

「20、21節が“罪を犯した人を悔い改めに導く”です。 密告の勧めです。21節には“その罪を隠そうとすることは,友達を助けることには決してなりません。”とあります。」
「カルトは信者同士が強く結びつくことを嫌う。だから密告は義務と思わせる。」
「兄弟姉妹と呼びあいながら、実はお互い監視し、何かを見つければ進んで密告する。これがJWの人間関係のようです。」
「家族でも密告しあうのが理想のJWでしょう。嫌いなJWがいたら、あることないこと密告して、インチキ宗教裁判で、排斥にしてもらおう。」

#1344 2021年12月17日 15:14:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 私たちが仕える神は「憐れみ深い」方(41)”で、またもや排斥制度を支持し擁護しよう、という内容です。」
「3週続けて排斥問題を扱っている。排斥に対する不満を抑え込むための思想統制の強化だね。」

「排斥=神の憐み、ゆえに排斥は正しい。こういう論理ですが、説得力ありません。」
「それから、排斥された人=罪を悔い改めない悪人という公式を押し出している。実際は冤罪で排斥なんてたくさんあるだろう。一方、本当に邪悪な犯罪者が見逃されたり、長老の息子だからという理由で排斥を免れたりすることもたくさんある。」

「4から8節が“エホバが憐れみを示すのはなぜか”です。 エホバ=憐れみ深い神という前提ですが、そうとは言えませんよね。」
「旧約聖書の神は憐れみ深くないよ。主題聖句は詩編だけれど、同じ詩編の103:13に“エホバはご自分を畏れる(英文はfear=恐れる)人たちを憐れんだ。”とある。エホバの憐れみは自分を恐れる人限定にすぎない。」
「詩編109:12には“敵に誰も親切を示しませんように。敵の孤児に誰も憐れみを示しませんように。”“とありますから、敵と認定されると子どもでも無慈悲に殺すことが正しいようです。」
「JWの教義では、間もなくJW以外はエホバなる神様に無慈悲に殺される。憐れみ深くないよ。」

「6節に放蕩息子のたとえが、また取り上げられて、“父親は息子が悔い改めているのを見て許しました。”とありますが、全く違います。ルカ15:20に“彼がまだ遠くにいる間に,父親は息子を見てかわいそうに思い,走っていって抱き締め,優しく口づけしました。”とあります。姿を見た瞬間、かわいそうに思い許したのですよ。」
「そうだけど、それはJWの教義に反するからね。悔い改めたものだけが許されるというのがJWの教義。聖書本文よりも、JWの教義が上ということだね。JWでは、父親は放蕩息子が悔い改めているのを見て許したことにしたんだよ。」

「9から15節が“強い矯正を与えることは憐れみ深いことか”です。 根拠となる聖句はヘブライ12:5,6のようです。これは排斥のことを扱ったものではないですよ。JW得意の文脈無視の引用です。」
「これはクリスチャンゆえの受難や迫害について述べている部分。ヘブライ12:4に“皆さんは罪と闘っていますが,まだ血を流すまで抵抗したことはありません。”とある。」
「JW訳では“わが子よ,エホバからの矯正を軽く見てはならない。”ですが、悪事を働いた人に向けて語っているわけではないのですから、“矯正”は文脈からみて不適切ですよね。」
「クリスチャンゆえに迫害にあっている人に向けて語っているので、“矯正”は全く不適切。協会共同訳では“鍛錬”だね。こちらの方が適切。」

「ヘブライ12:5,6ではギリシャ語訳から格言3:11,12から引用しているのですが、余計な言葉を付け加えていますね。」
「“ご自分が子として迎え入れる人を皆むち打つのである”の部分だね。新約聖書の作者が旧約聖書をいい加減に引用するのはよくあること。」

「9節で“矯正が必要な人に矯正を与えないことは,賢いことでも憐れみ深いことでも愛のあることでもありません。(格 13:24)”とあります。これは同語反復です。“矯正が必要な人”とある以上矯正するのがよい事になります。当たり前のことを言っているだけです。」
「引照聖句の格言13:24は“むちを控える人は子供を憎んでいる。”とある。この聖句は子どもの扱いを述べているわけで、大人に適用するものではないよ。」

「9節で“重大な罪を犯した人の多くは,長老たちの毅然とした処置のおかげで,本心に立ち返り,生き方を改めてエホバのもとに帰ってくることができた,と感じています。”とありますが、何の根拠もありません。」
「“多くは”と言っているから統計があるの?でもそんな統計はないよね。執筆者のご都合主義的な推論だろう。ものみの塔の記事とはそんなもの。」

「10節におかしなたとえ話が出ています。病気の羊は隔離するわけですが、“では,羊を隔離する羊飼いは厳しくて残酷だ,ということになりますか。もちろん,そうではありません。”とあります。だから、排斥は残酷ではないと言いたいようです。」
「病気の羊を隔離するだけで治療をしないなら残酷と言える。JWの排斥はそのようなものだろう。」
「病気の羊を隔離することとJWの規則に反した人間を排斥するということは全然違いますよ。執筆者は羊と人間の違いがわからないみたいです。」
「隔離は群れにとっても病気の羊にとっても利益がある合理的処置。排斥は共同絶交という残酷で犯罪的な処置だ。」

「11節では排斥が必要な理由が出ています。2週間前の記事とほぼ同じ内容です。第一は“ある種の病気と同じように,ほかの人に“感染する”恐れがあります。それで時には,罪を犯した人を会衆から排斥する必要があります。”と説明しています。」
「排斥は本人のためではなくそれ以外の信者が悪影響を受けないようにするため、つまり組織防衛のためということ。JWの価値観は組織第一で、個人はどうでもいい。それだから排斥された人が精神病になったり自殺したりしても気にしない。」

「11節では、排斥を正当化するものとして、“罪を犯した人の心を動かし,悔い改めるよう促すものとなるかもしれません。”と言っています。」
「“かもしれません。”とあるように、組織のご都合主義的な推論にすぎない。」
「12節に“罪を犯して悔い改めない人だけが排斥される,ということを覚えておくのは大切です。”と排斥された人はそうされても当然の悪人であることを忘れるなと強調しています。事実に反しますね。」
「組織の見解では、排斥された人は伝染病患者で極悪人ということね。」

「13節で“コリントのあるクリスチャンは,自分の父親の妻と不道徳な関係を持っていました。”と言ってから、14節で“やがてパウロは,この男性が大きな変化を遂げたことを知りました。心から悔い改めたのです。”とし、“この男性が自分の行いのために悲しみに打ちのめされて,許しを求めるのを諦めて しまうようなことを,決して望んでいなかったのです。(コリント第二 2:5-8,11を読む。)”と続きます。これっておかしいですよね?」
「罪を犯した男性の話はコリント一に出てくるけれど、“今は優しく許して慰めるべきです。”と言っているのはコリント二だよ。二つの手紙で同一人物のことを言っているなんてどこにも書いていない。同一の人物としているのは昔の注解書にある。執筆者はJWの図書館で19世紀に書かれた注釈書でも読んだのだろう。」

「コリント二2:4に“私は大きな苦難と苦悩の中で,涙ながらに手紙を書きました。”とありますが、これはコリント一のことではないですよね。」
「今の研究では、コリント一が書かれたのは西暦55年の春で、コリントの会衆に大きな問題があって、その年の夏か秋にコリントを訪問し、西暦56年に“涙の手紙”を書いたのではないかと推測されている。」
「その“涙の手紙”はコリントの会衆を厳しく非難する内容で、その手紙を読んだコリントの人たちがパウロの権威を振りかざして特定の人を激しく攻撃したので、それはやりすぎと感じたパウロが“その人には多数の人からすでに叱責が与えられており,それで十分です。今は優しく許して慰めるべきです。”とコリント二に書いたという経緯なわけですね。」
「コリント一と二の間には様々な問題が起きていて、コリント二2章の話がコリント一5:1の“自分の父親の妻を自分のものにしている人”のことだなんてことはありそうもない。」

「コリント一5:2は“しかも,皆さんはそれを誇っているのですか。誇るのではなく嘆き,そういうことをした人を追放すべきではないでしょうか。”とありますが、これって訳がへんじゃないですか?」
「“しかも,皆さんはそれを誇っているのですか。”がへんだね。ここは疑問文じゃないよ。たんに“しかも,皆さんはそれを誇っているのです。”とすべき。」

「16から21節が“私たち全てが憐れみを示す上で何が助けになるか”です。 排斥された人が戻ってきたら、憐みを示せということです。」
「ダビデ王がまた登場。JWの出版物ではイエスよりもよく出てくるんじゃないの?」
「19節に、ナタンの話に激高して“そんな男は死に値します! その男は4匹の子羊で償うべきです。”とダビデが言ったことを取り上げています。そして“その人を死刑にするというのは厳し過ぎることでした。”と言っています。これってへんですよね?」
「死刑にしなさいとは言ってないよ。“4匹の子羊で償うべきです。”と言っている。ダビデを憐みの欠けた人間の例に無理やりしようとしている。」

「19節で“ダビデは,ナタンの例えの中の羊を盗んだ人に対して憐れみの欠けた態度を示しましたが”とありますが、違います。ダビデは現実の世界でウリヤを戦死させるという残酷なことをしたので、ナタンに糾弾されたのです。」
「ダビデ王が“4匹の子羊で償うべきです。”と言ったので、ダビデ王の子ども4人が死んでいる。神様はその辺はきっちりしているね。」
「ダビデの死んだ子どもというと、バテシバが産んだ子、アムノン、アブサロム、アドニアですね。4倍返しです。」

「20節に“その時のダビデの心の状態を考えてみましょう。ダビデは良心に痛みを感じていました。厳しく人を裁く態度はエホバとの関係が損なわれていることの証拠です。”と断定しているけれど違うだろう。」
「ナタンの話術にうまく乗せられただけですよ。」
「ダビデは人を殺すことなどなにも感じないよ。ウリヤのことなどすっかり忘れていた。権力者とはそういうもの。統治体だってグアテマラで死んだ日本人女性JWのことなど完全に忘れていよ。良心の痛みなど全くないよ。」

「21節に“憐れみ深い人は,人を助けるために行動します。それで,私たちは皆,家族や会衆の仲間や周りの人が何を必要としているかに注意深くあるようにしましょう。”とあります。JWが助けるのはJWだけです。JW以外の人は間もなく滅びる人ですから助けない、というのが原則です。そこで気になるのは“周りの人”が含まれていることです。」
「英文では“our family, our congregation, and our community”だね。会衆の外のJWの仲間ことを言っていると思うよ。決して近所の人という意味ではないね。」

「21節には“慰めとなる良い知らせを人々に伝えることもできます。これは会う人全てに憐れみを示す,とても良い方法です。”とありますから、JW以外の人に、お前たちは間もなく滅びるけれど、JWだけは楽園に行くよ、という“慰めとなる良い知らせ”を伝えるだけでJWは十分ということのようです。」
「そしてJWはますます嫌われるわけだ。」

#1345 2021年12月24日 15:20:46

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 真理に対する強い確信を持ち続けてください(42)”で、JWこそ真のキリスト教なので、JWに不満があっても組織に服従するように、という内容です。」
「真のキリスト教である基準を4つ挙げているけれど、その基準自体が恣意的だ。自分の都合の良いものを勝手に選んでいる。」
「4節に“真のクリスチャンが(1)偶像崇拝を退け,(2)エホバのお名前に敬意を示し,(3)真理を愛し,(4)熱烈に愛し合う”とありますね。」
「この4つが真のキリスト教の基準だとすると、JWの特徴である何度も外れる預言とか、コロコロ変わる聖書解釈や教義とか、歴史を捏造しているとか、言っていることとやっていることが大きく違うとか、情報公開が全くなされないとか、犯罪を隠蔽すること等々は問題ないことになるよね。真のキリスト教の基準がおかしいよ。」

「“何を学ぶか”を見ますと、“この記事では,イエスが定めた正しい崇拝の型を調べます。”とあります。“崇拝の型”なんて聞いたことがないです。何のことですか?」
「これは誤訳だね。英文ではwe will look at the pattern of true worship set by Jesusで、the patternを“型”と訳したわけだ。Patternには“模範、手本”という意味もある。例えばa pattern wifeは“模範的な妻”という意味。」
「型というと決まりきったパターンということで、イエスはそんなものを定めていませんし、崇拝の決まりきったパターンに従えばいいという発想もないですよ。」
「翻訳者は大学できちっと英語を習った方がいい。誤訳だらけの文章を読まさせられる信者がかわいそうだよ。」

「1節に“私たちの教えが真理であることや,現代のエホバの証人が従っている崇拝の型がエホバに喜ばれるものであることを強く確信しているでしょうか。”とありますが、崇拝の型が意味不明ですが、多くのJWの答えは、No!ですよ。」
「2世以降のJWはJWの教えを無理やり親から押し付けられただけで、真理だなんて一度も思ったことがないよね。」

「3節に“ある人たちは,正しい宗教であればどんな質問にも答えを出せるはずだ,聖書に述べられていないような点にも答えられるだろう,と考えます。そうしたことを期待するのは現実的なことでしょうか。”とあって、JWは答えられないことがたくさんあるけれど、それは真の宗教かどうかを判断する基準にはならない、と言いたいようです。」
「“正しい宗教であればどんな質問にも答えを出せるはずだ”なんて誰が主張しているの?それはかつてのJWのことじゃないの?」
「JWもかつては自信満々で、他のキリスト教に対して十字架ではなく杭だなどと難癖をつけたり、三位一体は間違いだとか論争を吹っ掛けていた時代があるようです。」
「それが今や教義の問題点や組織のおかしさを攻撃され、それにまともに答えられないようになったから、そんなことを言っているのだろう。」

「JWは実際に何か研究をしているわけではありませんからね。答えられないことは多いです。」
「アメリカの新興宗教に多い反知性主義の表れだよ。エリートや専門家に強い反感を持ち、怪しげな素人の考えを信頼する。」

「囲み記事に“エホバの偉業と考えの全てを知ることは決してできません。”と言った後、“私たちが強い信仰を持ち,聖書の大切な教えを説明できるようにするために,ご自分やご自分の目的に関する情報を十分明らかにしています。”とあります。そんなことないですよ。」
「“十分明らかにしています。”というのは嘘だね。例えば、なぜ祈りに答えないの?なぜ姿を現さないの?なぜ直接話しかけないの?大昔にはそうしていたのに、なぜ途中からしなくなったの?誰もこの答えを知らない。」

「5から7節が“偶像崇拝を退ける”です。 最初の真のキリスト教の基準です。要するにカトリック攻撃です。“聖人と呼ばれる人たちの像を作り,それに向かって祈ることについてはどうでしょうか。”なんて言っています。大きなお世話ですよ。」
「JWはカトリック教徒をターゲットに宣教活動をしているということ。発祥の地のアメリカの次にJWの信者が多いのがメキシコとブラジル。共にカトリックの国だね。」

「6節に“現代のエホバの証人も,1世紀のクリスチャンの型に倣っています。”とあるのですが、へんですよ。“型に倣う”というのは、必ずしもいい意味ではありませんよ。外側だけを真似ているという意味じゃないですか?」
「英文は“Today, Jehovah’s Witnesses follow the pattern set by the first-century Christians.”だ。set a pattern for~ は“~の模範となる”というイデオム。より良い翻訳は“1世紀のクリスチャンの模範に従っています。”だろう。誤訳だらけだね。」

「7節が面白いです。“現代の多くの人たちは,絶大な人気を誇る教会指導者に従っています。”とありますが、JWは魅力のない人気の乏しい指導者に従っているので、確かに違いはありますね。」
「現代の多くの人は宗教指導者に従っていないよ。現代人の多くにとって宗教はそれほど重要ではない。都合の良い主張をするために、誤った前提を勝手に設定しているだけ。」

「“そうした指導者たちの言葉全てを疑うことなく信じる人もいます。”とありますが、これはJWも同じですよ。多くのJWは“統治体の言葉=エホバの言葉”と思っていますよ。」
「組織の言うことは間違いがあるかもしれませんから、決してうのみにしないでください、批判的に会衆の皆さんで議論してください、などとは絶対言わないね。」

「“エホバを正しく崇拝する人たちの中に聖職者はいません。”とありますが、裁判では別の主張をしていましたよね。」
「長老が証言を求められたとき、JWの弁護士はJWの長老は聖職者で聖職者の守秘義務があるから証言を拒否すると度々主張している。しかし、聖職者とは認められず証言を求められる。」

「8から10節が“エホバのお名前に敬意を示す”です。 これが真のキリスト教の基準の2番目です。理解できません。」
「エホバというインチキネームを使っているから真のキリスト教という主張のようだけれど、JW以外の人は納得しないよ。」
「8節に“イエスは,地上で宣教を行っていた期間を通じて,お父さんエホバのお名前をたたえました。(ヨハ 17:26)”とありますが、イエスが神の名を言ったことはJWの改ざん新約聖書でも一度もないです。」
「引照聖句には“私はあなたのお名前を彼らに知らせました。これからも知らせます。”とあるけれど、この場合“名前”とは名前によって表されるもの全てという意味で名前そのものではない。イエスは神の名前など一度も口にしていないし、口にしたら冒とく罪ですぐ逮捕されたはず。」

「9節で歴史を捏造しています。“それら1世紀のクリスチャンは,神のお名前を使い,それを広めることを光栄に思っていました。宣教を行ったり,聖書の一部を書いたりする時に,神のお名前を使いました。 *”」
「この根拠が*にある“最初のクリスチャンたちは神の名前を用いましたか”という2010年の記事だけど、ジョージ・ハワードの論文のインチキ引用が根拠なんだ。」
「たった一人の意見でも、それがJWに都合がよければ真実となるのがJW基準です。」

「ハワードは、旧約聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ(70人)訳の特定のバージョンがYHWHを保持していることを示し、これらの写本は、新約聖書の作者が引用したものかもしれないと考えた。もしそうなら新約聖書の元の原稿にYHWHを使用したかもしれないと言っているだけ。二重の推測なんだね。」
「どうしてこれをもって1世紀のクリスチャンが“神のお名前を使いました。”と断定できるのか理解できません。JWの中だけで通用する主張に過ぎませんね。」

「ハワード自身はエホバの名前を237か所挿入したJWの改ざん新約聖書を支持していない。それから、JWの主張は1世紀まで神の名前をガンガン使っていたけれど、2世紀になってなぜか神の名前は新約聖書から削除され、だれも使わなくなったというもので、ハワードの仮説と整合性はない。」
「ハワードもJWの出版物に引用されて、迷惑しているようですね。」
「もし新約聖書から237か所も神の名前が削除されたなら、当然ほかの箇所も削除されているはずで、今の新約聖書は全く信用できないことになる。JWとして、それでいいのかな。」

「10節に“エホバの証人だけがエホバのお名前にふさわしい敬意を示している,ということは誰の目にも明らかです。”とあり、誇らしげです。」
「でも神の名前はエホバではないよ。それを変えないのは組織の都合だよ。神の名前より組織の都合を優先しているのは“誰の目にも明らかです。”」
「使徒1:8で“聖なる力があなたたちに働く時,あなたたちは力を受け,エルサレムで,ユダヤとサマリアの全土で,また地上の最も遠い所にまで,私の証人となります。”とイエスは言っています。それなのにエホバの証人ですからね。」
「だからJWはキリスト教をかたる宗教団体としか言いようがない。」

「11,12節が“真理を愛する”です。 JWの教義がよく変わることの言い訳を言っています。真理を愛しているから、教義変更するといっています。」
「“キリスト教の多くの教派が変更を加えるのは教会員を喜ばせるため,また,世の中の人々に気に入られるためです。”と断定しているけれど、JWも似たようなものでしょう。輸血に関する規則が二転三転して、今では全血輸血でなければほとんど認められるようになった。これは“世の中の人々に気に入られるため”でしょう。」
「体罰も少し前は推奨されていたのに今ではそんなことがなかったことになっています。これも“世の中の人々に気に入られるため”です。」
「ワクチンも臓器移植も禁止していた時代がある。変更になったのは真理の光が増したからではないよ。」

「12節で“教理に関する説明や組織に関する指示が正しくなかったこともありました。”とあるのですが、でもそれは問題ないと主張しています。“聖書がはっきり述べている通り,正確な知識は時間と共に増し加わっていきます。(コロ 1:9,10)”と正当化していますが、コロサイ1:9,10を持ち出すのは珍しいですね。」
「英文では“made mistakes”と言っている。“正しくなかった”ではなく“間違いました。”と訳すべき。」
「他の宗教は“偽りの教え”とか“偽りの宗教”と激しくののしるくせに、自分たちは“正しくなかった教え”になるわけです。」

「コロサイ1:9,10に“神についての正確な知識をますます得られますように。”とあるから、“正確な知識は時間と共に増し加わっていきます。”ということなの? この部分は、手紙の冒頭の祈りの部分で、何かを論じている所ではない。祈りだよ。」
「“増し加わる”という言葉の意味が分からないようですね。教義や解釈が変わるのは、単に変わると表現し、増し加わるとは言いませんよ。今まで良かったことがダメになり、それがまた良いこととなることも増し加わるとは言いません。」

「“エホバは真理を徐々に明らかにするので,私たちは真理の光が明るさを増していくのを辛抱強く待つ必要があります。(格 4:18)”といつもの格言4:18を持ち出している。その聖句は神がJWに少しずつ真理を明らかにしていくという預言ではない。」
「そこには“正しい人たちの道は夜明けの光のようだ。真昼になるまで明るさを増していく。”とありますが、正しい人とそうでない人を比較しているだけです。」
「JWだって、この聖句は教義上の誤りや変化を説明する根拠には使えないことはわかっているけれど、他に適切な聖句がないからこれを引用し続けるわけだね。お気の毒。」

「“統治体は,真理のある面に関する理解を調整する必要があることに気付いたなら,ためらうことなく必要な変更を加えます。”というのは違いますね。いつもグズグズしていますよ。」
「世代の解釈なんかそうだね。いい解釈が思いつかなかったのだろうけれど、グズグズしていた。そして、重なる世代という奇妙なもので今はごまかしている。光はどんどん暗くなっているというのが実感だろう。」
「臓器移植を個人的な決定に変えたのが1980年です。時間がかかりすぎです。変更が遅れたためJWの中に死亡した例はあると思いますよ。」
「逆の例だと、JWに輸血が禁止されたのは1945年だよ。それまで何十年も輸血は問題なかった。輸血禁止が命を犠牲にするほど重要な教義としたら、光が増すのに時間がかかりすぎ。」

「13,14節が“熱烈に愛し合う”です。 “現代のエホバの証人の間には,世界的な規模の愛と一致が見られます。ほかのどんな組織とも異なり,私たちは国や人種や文化を超えた固い絆で結ばれています。”と自分たちを過大評価しています。」
「それがウソだということはJWが一番よく知っているよ。単なるプロパガンダ。」

「15から17節が“信仰は1つ”です。 15節で“私たちはほかの面でも1世紀のクリスチャン会衆の崇拝の型に従っています。”と言っています。だから“正しい崇拝を行っているのはエホバの証人だということは明らかです。”と17節で主張しています。」
「”崇拝の型”じゃないよ。一世紀のクリスチャンは崇拝の”型”を重視したの?祈るときは両手を組み、目は天に向けるとか言ってその型を練習したの?」

「1世紀のクリスチャンとJWの決定的な違いは、JWでは統治体が全ての権限を独占し、お金も巻き上げるということでしょうか?」
「1世紀は交通や通信の手段が限られているわけで、そういう中央集権体制はなかったね。」
「まもなく聖書が改ざんされて、統治体という言葉が本文に挿入される予感がします。あたるかな?」

#1346 2021年12月26日 07:23:13

JW少年の一ファンです
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>統治体という言葉が本文に挿入される予感

新世界訳改訂版の聖書では各書の前に”概要”がつきましたが、
「使徒の活動 概要」の15章のところに
”統治体からの手紙(22-29)”としっかり書いてますね。
本文に載るまであと一歩でしょうか……


聖書についての質問さん、毎週の記事をありがとうございます。
覚醒後、家族の手前しかたなく出席する集会が苦痛です。
聖書についての質問さんとJW少年との予習だけが楽しみです。

僭越ながら、毎回これだけの記事を準備されるのは本当に大変なことだと思います。
ご都合で予習お休みの回/期間があってもよいですので、
ご無理のない範囲で続けていただけるならばうれしいです。

今日が今年最後の塔研究ですね。
本年も大変お世話になりました。ありがとうございます。
どうぞ良いお年をお迎えくださいますように。

#1347 2021年12月31日 15:19:30

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、” 諦めないようにしましょう!(43)”で、何の成果がなくても、宣教活動を続けろ、という内容です。」
「これは、99.99%の人は拒否するのに、なぜ宣べ伝える必要があるのか、と多くのJWが思っているということだね。2021年も終わるわけで、もう諦めていい頃じゃないかな。」

「これ以上頑張ると、今以上に虚しさと徒労感で精神が病んでしまう人が増えると思います。」
「ところが、1節には“エホバの証人でいられるというのは,本当に幸せで誇れることです。”と、JW=幸福な民というウソの公式を押し付けている。そんなに誇らしかったら、いつもJWの青い名札でもつけたら、と言いたいね。」

「5から9節が“宣教で成功を収めているかどうかは,どんなことで決まるか”です。 それはJWの努力や能力ではないようです。」
「6節に“人々の反応がどうであっても,私たちが愛の気持ちから熱心に宣教を行うなら,エホバは私たちの宣教が成功を収めていると見てくださいます。”あって、誰も聞かなくても努力すればいいようだ。」
「“エホバは,私たちの努力や愛を覚えています。(略)パウロはコリントのクリスチャンに対して,「主のために働くことは無駄ではない」と書きました。”とありますが、“主”とはキリストのことでエホバではないですよ。」
「パウロはエホバについて論じることはないよ。キリストのために働くことは無駄ではないかもしれないけれど、エホバのために働くのは無駄だろう。」

「7節にパウロは“自分をライバル視していた人たちの主張に対して,「私の方がたくさん働き……ました」と言いました。(コリ二 11:23)パウロに倣って,エホバが重視しているのは努力や粘り強さであることを忘れないようにしましょう。”とありますが、引用聖句と一致しません。」
「パウロは“たくさん働き”といっているけれど、重点はその後の“多く拘禁されました。数え切れないほど殴打され,何度も死にかけました。”の方だよ。キリストのためにいかに自分が苦しみにあったかを誇っている。努力や粘り強さではない。」
「コリント二11:23は“彼らはキリストの奉仕者ですか。”と問いかけています。JWはどうなんですか?エホバという神の奉仕者です。」
「だから、この聖句をJWに適用するのは間違っているよ。」

「8節に“弟子たちは,成し遂げたことだけを喜ぶのではなく,もっと重要なこととして,エホバが自分たちの勤勉な努力を喜んでくださっていることに喜びを見いだす必要がありました。”とあり、その根拠はルカ 10:17-20のようです。しかし、そこではそんなことは言っていません。」
「そこでは“邪悪な天使が服従することを喜ぶのではなく,あなたたちの名前が天に記されたことを喜びなさい”とあるだけだよ。JWは悪魔祓いをしないでしょう。またJWの教えでは天に行くのは144000人だけ。大多数のJWには関係ない話だね。」

「9節はガラテア6:7-9をもとにした話です。でも相当曲解していますね。まず“心を込めて王国の真理という種をまいて育てるなら”とありますが、引用聖句ではそんなことは言っていません。」
「無理やり宣教活動に結び付けようとしているけれど、パウロはガラテアの人々に伝道しろ、弟子を増やせなんて言っていない。9節には“宣教を粘り強く行うなら永遠の命を得られる。”と太字でかいてあるけれど、そんなことは聖書のどこにも書いていない。」

「ガラテア6:8には“聖なる力に導かれてまいている人は,聖なる力によって永遠の命を刈り取ることになるのです。”とありますが、訳はこれでいいのですか?」
「英文はthe one sowing with a view to the spirit will reap everlasting life from the spirit.だから、訳としてはダメだね。“導かれて”とか”聖なる力によって”なんてどこにもないよ。」
「ちょっと複雑な英文だと適当に訳することが多いのが日本語翻訳者ですからね。翻訳者はwith a view toという表現の意味がわからなかったようですね。”導かれて”なんて意味はありません。」
「with a view toは目的をあらわすイデオム。普通は、~を目指して、~のために、と訳するだろう。」

「協会共同訳では“霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。”とあります。こちらの方がいいわけですね?」
「使われているギリシャ語の前置詞はeisで、英語に訳する場合はtoかintoだね。だからwith a view toではなくtoと訳せばいいの。そうしたら間抜けな日本語翻訳者も意味が分かったよ。JWの英訳は勝手な解釈を入れすぎ。日本語訳はさらに解釈を入れた適当訳。」

「9節では“私たちが「諦めない」なら永遠の命を刈り取ることになる,とエホバは約束しています。”とありますが、書いているのはパウロですよ。」
「エホバの霊がパウロに乗り移って書いているとJWは信じているのだろう。」
「ガラテア6:9では“諦めないなら,やがて刈り取ることになります。”とありますが、これも日本語訳が間違っています。」
「英文ではwe will reap if we do not tire out.だから、諦めないならではなく、疲れ切ってしまわないなら、消耗してしまわないなら、という意味だね。協会共同訳では” 倦むことなく励んでいれば”としている。」

「10から16節が“どんな現実的な見方を持つべきか”です。 どんな現実かは、信者の寄付で気楽に生活している宗教貴族の執筆者より、末端の信者のほうがよく知っていますよ。」
「ここでいう現実的な見方はどんなものかというと、10節では“どんな反応が返ってくるかは,主に聞く人の心の状態に懸かっている。”というもの。聞いてくれなくてもJWのせいじゃないということのようだね。」
「聞いてくれない人にはあの人はサタンだとか、どうせ滅びるヤギだから、なんてセリフをJWはよく口にしますから、わざわざ教えてくれなくてもわかっていますよ。」

「11節がノアの話だけど、楽しいけれどバカバカしいイラストが出ているね。」
「コアラがパンダの上に載って、箱舟に入っていますね。こんなイラストを描いているからJWは小学生レベルとバカにされます。恥ずかしいですね。」
「これはね、洪水後、どうやってコアラはオーストラリアまで行ったのか、パンダはどうやって中国までにいったのか、という疑問を読者に持たせるためだよ。中学生以上の知性があれば、その疑問をきっかけにノアの洪水はウソだと気づくかも。このイラストレーターは実はJWの教えなど信じていない人と思いたい。」

「11節に“ノアは恐らく何十年もの間,「正しいことの伝道者」として働きました。(ペテ二 2:5)”とあります。JWのお気に入りの主張ですね。“」
「ペテロ二の作者の創作だ。創世記ではノアは伝道したとは書いてない。創世記6:13で” 私は全ての人を滅ぼすことにした。”と神様はノアに言っている。これは決定事項だ。それなのに何を伝道するの?間もなく滅びますよっていうのかな?余計なことだろう。」

「11節には“ノアは,神から伝えられた箱船の大きさからして,良い反応を示す人はあまり多くないことに気付いていたかもしれません。”とへんに細部にこだわっています。」
「箱舟のサイズは動物を入れるには小さすぎる。しかし、古代の単純な道具で作る加工精度の低い木造船にしては大きすぎるし、強度不足で沈没は避けられない。この執筆者は聖書を読んでいないね。神は全ての人を滅ぼすと言っているわけだから、誰も聞かないということ。」

「ノアのいうことを信じて、自分も箱舟づくりに協力するから一緒に載せてくれと言ったらどうするのでしょうか?」
「もちろん、きっぱり断るしかないね。そして、あなたは滅びることになっている、と教えてあげる。これは神の意志だから、文句は神に言ってくれという。」
「要するにノアの洪水の話を史実かのように言えば言うほど、多くの人からからかわれるだけということですね。」
「聖書に書かれていることを文字通り信じることの代償はいかに大きいかということ。JWの出版物で、ノアの洪水なんかもう取り上げるのをやめたら、と言いたい。」

「12節はエレミヤの話で、エレミヤが奉仕に喜びを見いだせたのは“第一に,エレミヤが伝えた神からのメッセージは,人々に「良い将来と希望」を与えるものでした。(エレ 29:11)第二に,エレミヤはエホバの名によって語る務めを与えられていました。(エレ 15:16)”と説明しています。ウソですよね。」
「エレミヤは預言者としての活動に苦しみや悲しみを感じていたわけで、預言者としての活動に喜びを見出していたかどうかは不明だ。引照聖句のエレミヤ15:16では“私はあなたの言葉を受け,それを食べました。あなたの言葉によって私の心は喜びにあふれました。”とあるけれど、これは初めの召命体験のことをいっている。その後は15:18に“なぜ私の痛みは長引き,傷は治らないのでしょうか。どうしても癒えません。あなたは私にとって,信頼できないもの,当てにならない水源のようになられるのですか。”とあるような完全なうつ状態。」

「エレミヤのメッセージが“良い将来と希望”のメッセージというのは、呪いと災いのメッセージを無視した一面的な言い方ですね。」
「12節はエレミヤも奉仕に喜びを見いだせたのだから、現代のJWも奉仕に喜びを見出せるはずだと主張しているけれど、説得力ないね。エレミヤは極めて特殊な事例で、一般化はできない。」

「13節は“信仰が成長するには時間がかかる。”で、“聖書を学んでいる人の信仰が成長するのにも時間がかかります。”といって、辛抱することが大事と言っています。」
「でも、進歩がみられない研究生は研究を打ち切れという指示を出しているよ。」
「王国宣教2015年12月号の質問箱は“どんなとき聖書研究を打ち切るべきですか。”という質問で、答えは“研究生が霊的に成長しなくなっているなら,巧みな仕方で聖書研究を打ち切る必要があるかもしれません。”となっていますね。」
「辛抱するのか打ち切るのか、一貫性はない。」

「15節では“人々を弟子とする活動は1人で行うものではない。”と言っています。関心のありそうな人を見つけたら、一人で何とかしようとするのではなく、みんなで協力してJWに仕立て上げようということです。」
「そんな協力精神はJWには期待できないよね。」
「“コリント第一 3:6,7を読む。”とあり、そこには“私は植え,アポロは水を注ぎました。しかし,成長させたのは神です。”とありますが、みんなで協力せよなんて言っていません。」
「“私は植え,アポロは水を注ぎました。”というのは事実を言っているだけ。その事実を皆が見倣うべきものだとはいっていない。この聖句の要点は後半の“成長させたのは神です。”だろう。」

「16節が面白いです。“体調が優れなかったり体力がなかったりして,良い知らせを伝えて教える活動に多くは参加できない場合はどうでしょうか。”と問いかけます。その後、“ダビデ王と部下たちが,アマレク人の略奪隊から家族と持ち物を取り戻した時のことを考えてみましょう。”と続きます。不適切な例ですよ。」
「“戦いに勝ったダビデは,戦利品を全ての部下に平等に分けるよう命じました。(サム一 30:21-25)世界中で行われている人々を弟子とする活動についても,同じことが言えます。”とあるけれど、よく意味が分からない。現代のJWにとって戦利品に相当するものはなんなの?研究生のこと?」
「16節の最後に“誰もが同じように喜ぶことができます。”とありますから“喜び”じゃないですか?」
「でも体調がすぐれなくても奉仕活動はしないといけないという過酷なルールは変わらないわけだ。そういうわけでJWは早死にする。」

「最後の17節に“エホバが私たちの奉仕を優しく見守ってくださっていることに感謝できます。”とありますが、見守るだけでなにもしない神様に感謝できません。」
「奉仕活動中に殺されたり、レイプされた人に向かって同じことを言えるのかな?」
「ものみの塔の記事はしょせん信者の寄付で生活しているお気楽な宗教貴族のたわごとですよ。」

#1348 2022年01月07日 16:20:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回の記事は、”エホバの揺るぎない愛とあなた(44)”で、エホバは信者のことを揺るぎなく愛しているので、試練に遭っても組織に従いなさい、という内容です。」
「“揺るぎない愛”のもとの英語はloyal loveで、違う日本語訳の方がいいと思うよ。元のヘブライ語をloyal  loveと英訳するのも解釈を入れすぎ。単なるloveでいいよ。でも神の愛は単なる愛と揺るぎない愛の二種類あるという教義があって、それに合わせて訳しているのだろう。」

「旧約聖書で神の愛というのは条件付きですよね。」
「例外はあるけれど、基本的にはそう。神はイスラエルを選んで、律法を与えた。律法に忠実である限り、神はイスラエルを愛する。律法を守らなければ滅ぼす。旧約聖書では、神の愛の対象はイスラエル人限定で、旧約聖書の言葉は現代の多くの人とは無関係。」
「JWは旧約聖書の聖句を文脈を無視して現代のJWに当てはめて、自分たちの教義としています。これは今さら変えられませんよ。」
「新約聖書になると、マタイ5:45に“邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです。”とあるように、神は全ての人を同じように愛するという思想が出てくる。」

「1節に“エホバは揺るぎない愛を大切にしています。(ホセ 6:6)”とありますが、協会共同訳では“慈しみ”となっています。“揺るぎない愛”はJW訳に過ぎませんね。」
「1節には“預言者ミカを通して,「揺るぎない愛を抱」くよう私たちに強く勧めています。(ミカ 6:8)”とあるけれど、協会共同訳では“慈しみ”だ。」

「旧約聖書の神は揺るぎのない愛でも慈しみでも、いつも大切にしているとはいえませんよ。」
「引照聖句のホセア6:6には“私が喜ぶのは犠牲ではなく,揺るぎない愛である。全焼の捧げ物ではなく,神を知ることである。”とあるけれど、これはホセアなどの預言者の思想だ。」
「ホセアは西暦前8世紀の北王国の人ですが、犠牲など重要でないと、律法に書かれていることを否定していますね。」
「ホセアは文書が残っている預言者の初期の人だけど、預言者は神殿を中心としたそれまでの宗教の在り方と利権まみれの祭司階級を批判することが多い。一方、預言者以前に成立した律法では、なによりも祭司が儀式を正しく行うことこそが重要という思想だ。」

「1節に“預言者ミカを通して,「揺るぎない愛を抱」くよう私たちに強く勧めています。(ミカ 6:8)”とありますが、ミカは8世紀の終わりごろの南王国の人です。儀式よりも愛を強調するのはこの時代からですか?」
「儀式よりもモラルを強調するのは文書預言者から。最初の文書預言者はアモスで、西暦前8世紀前半の人。この頃から、宗教が変わってくる。その背景には、前8世紀にはアッシリアの脅威が増大し、北王国が滅亡し、前7から6世紀にはバビロニアの脅威が増大し南王国が滅亡するということがある。こういう国家的危機に反応したのが預言者で、それまでの宗教の変革を求めた。」

「3から5節が“エホバは「揺るぎない愛に満ち」ている”です。 3節に出エジプト34:6,7が引用されていているのですが、この引用はへんですね。」
「そこには“しかし,罪がある人を処罰しないことは決してなく,父の過ちに対する処罰を子や孫やひ孫に及ぼす。”とあるのに、この部分は無視しているのがおかしいね。」
「出エジプト記のこの部分は、滅茶苦茶な思想ですね。なぜひ孫まで罰するのでしょうか?罰するのが大好きということですか。」
「旧約聖書でもこれは酷いと考え、申命記24:16では“父親は子供がすることのゆえに死刑にされるべきではなく,子供も父親がすることのゆえに死刑にされるべきではありません。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死刑にされるべきです。”と修正している。申命記はそれ以前の出エジプト記にくらべるとかなりまともになっている。」

「申命記はモーセが書いたことになっていますが、実際はずっと後の人たちの作品なので、その思想は出エジプト記などとは違うわけですね。」
「奴隷の扱いについて出エジプト記と申命記を較べてみれば、申命記が過酷な出エジプト記の規定を和らげ、より人間的になっていることがわかるよ。」

「4節に“エホバはここでご自分について,揺るぎない愛を持っているとではなく,「揺るぎない愛に満ち」ていると述べました。この表現は聖書の中にほかにも10回出てきます。”とあります。しかし、条件付きの愛ですよ。」
「律法を守ることが条件だね。些細な律法違反でも死刑になるし、律法で禁止されていなくても、神が気に入らない行為だと殺される。そのような話は旧約聖書中いろいろある。」

「6から9節が“エホバは誰に対して揺るぎない愛を示すか”です。 “エホバは全ての人に対して揺るぎない愛を示すわけではありません。ご自分と固い絆を持っている人たちに対してそれを示すのです。”と6節にあります。要するに人口の0.1%だけに揺るぎない愛を示すだけのけちくさい神ということですね。」
「旧約聖書の神の愛の対象はイスラエル限定だった。JWの神様の愛はJW限定。古代の民族宗教の神様と同じということだね。」

「7節では“エホバは人類全体に対して愛を示してきました。”とあります。“揺るぎのない愛”と“愛”を区別しています。神は人類には単なる愛で、自分に忠実な人には“揺るぎのない愛”を示すというのがJWの教義ようです。」
「7節で引用されているのは新約聖書。旧約聖書に人類愛はあるかな?」

「8節でダニエル9:4の“真の神エホバ,あなたは……あなたを愛してあなたのおきてを守る人たち[に]揺るぎない愛を示す方です”と引用されていますが、“あなたのおきて”というのは旧約聖書にある律法のことで、JWの細々とした規則のことではありませんよ。」
「現代のJWとは関係ないよ。しかし、JWの規則を守っていれば、神から“揺るぎない愛”が示されると信者に思わせようとしている。」
「9節に“しかし今では,エホバを崇拝する者としてエホバの揺るぎない愛も受けています。”とありますからね。JWは特別神に愛されている選ばれた人たちと主張しています。」
「そういうのをカルト的思考という。」

「9節に“エホバはご自分に仕える人たちに対して,「あなたに対する私の揺るぎない愛が取り除かれることはな[い]」と約束しています。(イザ 54:10)”とありますが、これも文脈を無視した解釈ですね。」
「イザヤ書が言っているのは当時のユダヤ人のこと。“ご自分に仕える人たち”に向かっていったものではない。旧約聖書の聖句を現代のJWのことを言ったかのような解釈は全て間違い。」

「10から16節が“エホバの揺るぎない愛の行いによってもたらされる祝福”です。 3つ出ています。どれも嘘じゃないでしょうか。」
「10節に“私たちはこの詩編を読むと,エホバが揺るぎない愛をさまざまな方法で途切れることなく示していることに感動せずにはいられません。”と、感動の押し売りをしている。」
「聖書にそう書いてあるからというだけで感動はしません。重要なのは言葉より行動です。その点、エホバは失格ですね。」
「10節に“得られる祝福。エホバが私たちから離れないということを知っているなら,喜びや力が得られます。それによって,難しい状況に立ち向かい,命に至る道を歩み続けることができます。”とあるけれど、違うだろう。エホバは忠実でなければ人間を見捨てる神だよ。」

「11節に“エホバは,罪を犯した人が悔い改めて罪深い生き方をやめるのを見ると,揺るぎない愛に動かされてその人を快く許します。”とありますが、聖書の中にはそうではない事例もたくさんありますよ。」
「例えば申命記23:2に“嫡出ではない子はエホバの会衆に入ることはできません。その人の子孫は10代目でも,エホバの会衆に入ることはできません。”とある。嫡出かどうかはその人の罪じゃないよ。でも10代目まで快く許してくれない。嫌な神様だね。」

「11節に“ダビデは,良心にひどく責められるのがどれほど大変なことかをつらい経験を通して知りました。しかし同時に,エホバが「快く許してくださ」ることも知りました。”とありますが、違いますよ。」
「バテシバ事件のことを言っているのかな?その時は赤ちゃんを7日間苦しめた後に死なせるという罰を与えている。快く許したとは言えないよ。」
「サムエル二24章にある人口調査の話では、怒った神は預言者ガドを通じて“あなたの国が7年間飢饉に見舞われるのがよいですか。あなたが,追ってくる敵対者から3カ月間逃げるのがよいですか。それとも,あなたの国が3日間疫病に襲われるのがよいですか。”とダビデに言います。結果は7万人が疫病で死にました。快く許していません。」
「神様は無関係な人を殺して、憂さ晴らしをしたんじゃないの。」

「12節に“とはいえ,神に仕える人たちの中には,過去の間違いのせいで罪悪感にひどく苦しめられている人もいます。”とありますが、偽善的ですね。罪悪感に苦しむようにしているのは組織ですよ。」
「細々とした規則を作り、奉仕や集会と過大な要求を繰り返す。そして、その規則に反したり、要求を満たせないと罪悪感を抱くよう誘導している。罪悪感は信者をコントロールするためにカルトが使う手段だよ。」
「それが効きすぎて、精神を病んでしまう信者が増えてしまったので、何とかしようということなのでしょね。13節に“得られる祝福”として“私たちは不完全ではあっても,やましいところのない良心を持って喜んでエホバに仕えることができます。”といっています。」
「13節で“エホバはいつも「寛大に許してくださる」のです。”といっているけれど、JWが強調しているのは、裁く神だよ。JWの教義によれば、まもなく全人類の99.9%(乳幼児も含む)を虐殺するわけでしょう。寛大に許す神じゃないよ。」

「14節には“神の揺るぎない愛は私たちの保護となる。”とあって、15節で“私たちが地球のどこに住んでいるとしても,エホバに仕えている限り,エホバは私たちに必要な保護を全て与えてくださいます。”と、事実に反することを断言しています。」
「そのあと、“エホバが保護してくださるということは,詩編 91編にも述べられています。”と書いてあるけれど、執筆者は現実を見ないで、聖書に逃避している。聖書よりも、迫害にあって苦しんでいる信者のことを見るべき。」
「グアテマラでエホバに保護されずに死んだ日本人女性JWのことなど、執筆者も統治体も頭の片隅にさえありませんね。」

「詩編91:3には“神はあなたを助け出す。鳥を捕る者のわなから,破壊的な疫病から。”とあるけれど、“あなた”とはイスラエル人のことで、JWではないよ。」
「新型コロナウイルスでJWは2万5千人以上死亡したようです。JWの死亡率は高く、“破壊的な疫病”から守られていません。」
「16節に、“得られる祝福”が“第一に,どこに住んで いるとしても安全な避難所を見いだすことができます。第二に,愛情深い天のお父さんエホバは,私たちに深い気遣いを示してくださいます。”とあるけれど、何の真実性もない空虚な駄文だね。」

「17,18節が“神の揺るぎない愛は私たちに力を与える”です。 本当ならよいのですが、具体的な話は出てきません。抽象論に終始しています。説得力ゼロです。」
「17節に“私たちは,エホバが揺るぎない愛を示し続けてくださることを確信できます。”とあるけれど、これはそう確信しなさいという指示だね。その根拠が詩編33だけれど、これは一種の祈りのようなもの。エホバが揺るぎない愛を示し続けてくださるよう詩編作者と一緒に祈りましょうというなら理解できるけれど、そう確信せよというのは妄信のたぐいだ。」
「JWの教義はそういうものです。」

#1349 2022年01月14日 14:51:06

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“互いに揺るぎない愛を示し続けましょう (45)”で、ルツ記から揺るぎのない愛について学ぶという内容です。」
「この記事も、JW同士もっと仲よくしようという記事だ。JWって人間関係に相当問題があるということね。」
「今週の主題聖句はゼカリヤ7:9なのですが、“揺るぎのない愛loyal love”と訳しているのはJW訳ぐらいですよ。協会共同訳では“慈しみ”となっています。」
「loyalは“忠義な、忠実な”というのが主要な意味だよ。でも“忠実な愛”とすると“忠実ではない愛”が存在することになり、おかしなことになると翻訳者は思って、“揺るぎのない”と辞書にはない訳にしたのだろう。」

「4から8節が“誰に揺るぎない愛を示すべきか”です。 もちろん会衆の仲間限定です。その点は揺るぎないですね。JWの教義では、JW以外の人は間もなく滅びますから、愛を示す必要はありません。」
「5節に“では,揺るぎない愛についての理解を深めるために,一般に言う忠誠心と比較して考えてみましょう。”とあるけれど、日本人JWはなぜ揺るぎのない愛と忠誠心をここで比較するのか理解できないよ。」
「揺るぎのない愛は、英文ではloyal loveだから、忠誠心(loyalty)と比較するわけですね。日本語に訳すときに、揺るぎのない愛ではなく、忠実な愛としておけばわかりやすかったということですね、」
「今からでも修正してほしいね。」

「7節に“揺るぎない愛と 6節で考えた忠誠心の違いは,動機にあります。”とあって、“義務感からではなく,心からそうしたいと思ったのです。”と言っています。」
「これは組織から、全く従う義務がないことを要求されても黙って従え、それが組織に対する揺るぎのない愛を示すことになる、という話にもっていこうとする意図があるね。」

「9から14節が“揺るぎない愛を示すことについてルツ記からどんなことを学べるか”です。 ルツ記はいつごろ書かれたのですか?JWではサムエルが筆者としていますから、王国成立前と想定しているようです。」
「それはあり得ないね。いつ頃書かれたかは議論になっているけれど、バビロン捕囚前か後かという差がある程度。元は素朴な民話だったとすれば、かなり昔からある話なのだろうけれど、今の形になったのは捕囚以降でしょう。」

「話の状況が捕囚期以降の社会問題を背景にしていますよね。」
「話の力点は後半の土地問題だね。ナオミは外国から帰ってきたユダヤ人で、その失った土地を取り戻すわけだけど、このようなことが大きな問題になったのは、バビロン捕囚以降で、捕囚から帰還したユダヤ人たちの元の土地の権利をどうやって回復するかが大問題となってくる。」

「ルツはモアブ人で外国人です。ボアズは外国人を妻とし、ルツから生まれた子どもがダビデの祖先とルツ記ではなっています。外国人との結婚を禁止し、強制的に離婚させたのが捕囚期以降のエズラ・ネヘミアの時代です。ルツ記が捕囚期以降に書かれたとしたら、エズラ・ネヘミアの政策に対する反論でしょうね。」

「エズラ10:10,11では“皆さんは,外国人の女性と結婚するという不忠実なことをしました。そのため,イスラエルの罪が増えました。 それで今,父祖たちの神エホバに告白をし,神の望まれることを行いなさい。周囲の国の人々から離れ,外国人の妻からも離れるのです。”とエズラは命令している。そして、外国人女性を妻とした人の名前が延々とあげられ、10:44で“この人たちは皆,外国人の女性を妻としていたが,妻を子たちと一緒に去らせた。”と強制的に離婚させられている。」
「民族浄化ですね。宗教的原理主義は家庭を破壊するというわかりやすい例ですね。」
「当然反発も大きく、この政策は長続きしなかったようだし、ルツ記やヨナのような神の愛は民族を超えた普遍的なものという主張がなされるようになる。」

「9節に“イスラエルで飢饉が起きたため,ナオミは夫や2人の息子と共にモアブに移住しました。そこにいる間に,ナオミの夫は死にました。息子たちはそれぞれ結婚しましたが,悲しいことに2人とも死んでしまいました。(ルツ 1:3-5; 2:1)相次ぐ悲劇に見舞われたナオミは,失意の底に沈んでいきました。”とありますが、これは史実ではなく寓話ですよ。そして寓話によくあるように登場人物は皆何かを象徴していますよね。」
「それは名前からわかる。ナオミは“甘い、楽しい”という意味だけれど、帰国後マラ(苦い)と呼んでくれと言っている。これは捕囚前と後の状態を意味している。ナオミはイスラエル人の象徴だね。ナオミの二人の息子はマフロンとキルヨンでそれぞれ“病気”と“終わる、破壊”という意味で、バビロンで死んだ大勢のイスラエル人をあらわす。ナオミの夫のエリメレクは“私の神は王”という意味で、イスラエルの王をあらわしているのだろう。」

「ルツはいくつかの説がありますが“露”という意味じゃないですか。乾燥した土地を潤すものです。ルツと結婚するボアズは“力ある者”という意味ですね。これはイスラエルの土地のことですよ。」
「何もかも失ったイスラエル人の象徴であるナオミは、故郷に帰った後、ルツとボアズによって再生する。この3人を結びつけたのは“揺るぎない愛”。残酷な話が多い旧約聖書の中では珍しい民族再生の話だね。」

「ルツ記では神は重要な役目を果たしません。神を頼るな、というメッセージがあるのでしょうか?」
「そのメッセージを強く出しているのはエステル記だね。エステル記では神は一度も出てこない。ユダヤ人に生じた危機はエステルとモルデカイによって回避される。ルツ記もエステル記も捕囚後の作品で、捕囚後のユダヤ人の思想の一端をあらわしている。」

「10節に” エホバはどのようにして助けたでしょうか。(サム一 2:8)ナオミに揺るぎない愛を示すよう,ルツを動かしたのです。”とありますが、違うでしょう。」
「そんなことどこに書いているの?ルツ記は神の働きはほとんどない。」
「11節が教訓で“心優しい兄弟姉妹も会衆内の気落ちしている仲間をいつも助けようとします。”というものです。JWは気落ちしている人を見ても何もしない冷たい関係なので、こういう文章が書かれるのですね。」

「14節の教訓が“例えば自然災害が起きたと聞くと,どうしたら助けになれるだろうか,とすぐに考えます。”なんだけど、胡散臭いね。」
「災害救援の名目で寄付集めをした時は、本当に被災者のために使われるのかなどと疑問に思わず、どんどん寄付しなさいということですね。」
「とにかく末端の信者には自己犠牲を要求する宗教だよね。」

「15から21節が“私たちは揺るぎない愛をどのように示せるか”です。 この部分はルツ記から学べることと適用がセットになっています。3セットあります。」
「小学生並みの頭脳でもよくわかるようにそうしたのだろう。適用の中身は小学生の道徳の授業程度の内容だ。」

「面白いのは18節にある“ルツはこれまでナオミと一緒に涙を流し,ナオミを慰め,一緒に何日も旅をしてきました。それなのにナオミは,ルツがそばで助けてくれていることには一言も触れずに,「エホバは私が全てを失って帰るようにされました」と述べました。それを聞いていたルツは深く傷ついたことでしょう。”という推測の部分です。ルツはそんなことで傷ついたりしませんよ。」
「ルツ1:17で、ルツは“お母さんと同じ所で死に,そこで葬ってもらいます。生きている限り,ずっと一緒にいます。もしそうしなかったら,エホバが私を厳しく罰しますように。”と言っている。これは誓いの言葉で、一生あなたに仕えますという、一種の奴隷契約。そんなルツが主人であるナオミの言葉にいちいち反応したりはしないよ。」

「20節で“エホバはボアズを用いてルツに励ましを与えました。ボアズはこう言いました。「エホバがあなたの行いを祝福し,イスラエルの神エホバが十分に報いてくださいますように。あなたは神の翼の下に逃れてきたのです」。”とありますが、これは無理がありますね。」
「“イスラエルの神エホバが十分に報いてくださいますように。”とエホバが言わせたというわけ?変な神様だね。宇宙の創造者ならもっといい励ましをするでしょう。これはボアズの発言でしょう。」
「エホバがいちいちナオミやルツのことに介入するのなら、なぜ彼女らを飢饉に苦しめ、難民とし、さらに難民として彼女らの夫を死なせたのでしょうか?そのような大きな不幸には何もしないけれど、ささやかな励ましはしてくれるのがJWの考えるエホバというわけですね。」
「JWの大好きな自由意志はどうなるの?ボアズは神の操り人形ということ?ボアズには自由意思はないのかな?ご都合主義的な話を乱発すると全く信用されなくなるよ。」

「21節では“よく気が付く長老は,仲間に親切にしている兄弟姉妹に褒め言葉を掛けます。兄弟姉妹は,ちょうど良い時にそうした温かい言葉を掛けられると,頑張り続ける力を得ることができます。(イザヤ 32:1,2を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこでは“1人の王が正義のために統治する。高官たちが公正のために治める。”とあって、これは理想化されたユダの政府について言っている。」

「イザヤ31章は“助けを求めてエジプトに行く人たちには災いがある。彼らは馬に頼り,数が多いからといって戦車を頼みにし,力強いからといって軍馬を頼みにする。イスラエルの聖なる方に目を向けず,エホバを探し求めない。”で始まり、国家の危機に際してエジプトを頼ろうとする態度を批判しています。32章は、そういう罪深い政府に変わって、理想的な政府ができる、というイザヤの預言ですよ。」
「実現しなかったけれどね。とにかくJWの長老とは何の関係もないよ。いきなりこんな聖句を読まさせられて、信者は戸惑うだろうね。」

「22節から“揺るぎない愛を示す人たちはどんな祝福を受けるか”です。 ルツ記の話です。ルツたちは幸せになったようですが、同じように現代のJWが幸せになるなんてことは言っていません。」
「組織のいうことを聞いていたらいいことがあるよ、と記事を締めくくるのが決まったやり方ということ。」

「23節では” ナオミはついに,エホバが助けてくれていたことに気付いたのです。ユダに帰る時には,ルツが一緒にいて支えるようにしてくれました。(ルツ 1:16)そして,「買い戻す権利を持つ人の1人」であるボアズを用いて,ナオミとルツがたくさんの食べ物を得られるようにしてくれました。”とあり、ナオミに生じたよいことはエホバのおかげらしいです。」
「ルツもボアズも自分の意志で行動したんじゃないの?神が操っていたとはルツ記のどこにも書いていないよ。」

「23節に“「買い戻す権利を持つ人の1人」であるボアズを用いて,ナオミとルツがたくさんの食べ物を得られるようにしてくれました。 *”とあり*をクリックすると“買い戻す権利を持つ人としてのボアズの役割については,「ものみの塔」2012年10月1日号の「その信仰に倣う ―『優れた婦人』」という記事を参照。”と出てくるのです。これがひどい内容です。」
「そこには“どういう意味でしょうか。神がイスラエルにお与え になった律法には,貧困や死別ゆえに苦境に陥った家族のための愛ある規定が含まれていました。女性が子どもを産まないうちにやもめとなるのは,とりわけ悲痛なことでした。夫の名つまり家系が絶たれてしまうからです。しかし,神の律法下では,夫の兄弟がそのやもめと結婚して子どもをもうけ,その子がやもめの亡き夫の名を担い,家族の財産を受け継ぐことができました。”と説明している。それ自体は間違いじゃないけれど、ルツ記とは何の関係もない。」
「ルツの夫の兄弟は死に絶えています。ボアズはルツの夫の兄弟ではありません。この律法の適用外ですよ。」
「“買い戻す権利”は結婚することとは関係ない。売られた土地を買い戻すことを言っている。JWの執筆者は律法をよくわかっていない。」
「ルツ記のなかの法律論は律法から見るとおかしなものですよ。」

「そもそもモアブ人のルツが何のトラブルもなく受け入れられているのがおかしい。モアブ人は、ロトとその娘が近親相姦して生まれた子どもの子孫とされ、申命記23:3では“アンモン人とモアブ人はエホバの会衆に入ることはできません。その子孫は10代目でも,何代目でも,エホバの会衆に入ることはできません。”と徹底的な差別の対象。」
「ところが、そのモアブ人女性と息子を結婚させ、故郷に連れて帰ったナオミを非難する人はいませんね。」
「ルツ記に描かれている世界は、差別や偏見に満ちた旧約聖書的でない不思議な平和な世界だね。」

「23節では“それで,ナオミはこう思ったことでしょう。「エホバは私を見捨てたりはしていなかった。ずっと一緒にいてくださったんだわ」。(詩編 136:23,26を読む。)”と勝手な推測をしています。引照聖句はなぜか詩編です。おかしいですよ。」
「読む部分から省略されているけれど詩編136:24は“私たちを敵対者から助け出してくださった。神の揺るぎない愛は永遠に続く。”とあるけれど、これは出エジプトから荒野の出来事を歌っているもの。ルツ記とは何の関係もない。」
「これは過ぎ越しの祭りの時に歌われたと推測されているものですよね。」
「各節2行からなっているけれど、詩編136の各節の2行目は全て“神の揺るぎない愛は永遠に続く。”と同じもの。一行目は聖歌隊が歌い、2行目は集まった人々が歌う。」
「集会の歌もそうしてくれたら助かります。」

#1350 2022年01月21日 15:43:51

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“最近結婚した皆さん,エホバに仕えることを第一にしてください(46)”で、結婚しても奉仕活動をさぼるな、という内容です。」
「結婚したばかりの若いJWなんてほとんどいないでしょう。今週は新婚夫婦以外は休みでいいということだね。」
「そんなことはありません。この記事は、婚期を逃した中年・老年JWにどのように新婚JWを虐め、いたぶるかを教えるという面もあるのです。」
「敬虔ぶった態度で、あなたたちは霊的なことがおろそかになっている、といびるわけね。ますます若いJWがいなくなるよ。」

「JWの結婚というと“解毒”という元女性JWの書いた本を思い出します。彼女は2度結婚するのですが、相手は2度とも暴力的なダメ男のJWで、ひどい目に遭っています。」
「その本を読むとJWにはろくな男がいないと思ってしまうね。2人目の夫からは首を絞められて危うく殺されそうになって、逃げている。悲惨な話だ。」

「JWの男性は、大人になりきれない未熟な人間が多いという印象ですね。“解毒”の第1章に“エホバの証人のコミュニティには、自立心や向上心のある男性信者はほとんどいない。二世信者の場合は特に、幼い時から親と組織に絶対服従を強いられているので、どうしても弱々しくて頼りない雰囲気が漂う青年になってしまう。気骨ある 青年や若者の場合、たとえ数年間在籍していたとしても、必ず集会に来なくなる。”と書かれています。正しい指摘ですよ。」
「女性JWはそんな男性JWの中から結婚相手を見つけなくてはいけないわけで、JWの結婚がうまくいかないのは理解できるよ。」

「3から5節が“最近結婚した人たちがぶつかる問題”です。 4節に“気を付けていないと,良くない決定をして多くの借金を抱えてしまうことになるかもしれません。”とあります。結構現実的ですね。気を付けていないとサタンの攻撃を受けますとか、カルトらしいことを言うのかと思いましたよ。」
「でも借金がよくないのは、“エホバにいっそう仕える素晴らしい機会を逃してしまうことになります。”という理由らしい。」
「新婚時代くらい、奉仕活動も集会も免除にすればいいのに。でもそんなことをしたら、大半はそのままJWをやめてしまうでしょうね。」

「5節に“物やお金を中心にした生活を送っても,本当の意味では幸せになれません。”といっている。かりにそれが本当だとしても、エホバ中心の生活を送ったら本当に幸せになることは意味しない。」
「どちらかと言えば、物やお金を中心にした方が、エホバ中心よりましですよ。」
「これもカルト的な二分論法、あるいは白黒論法の例だね。この場合、お金かエホバかという極端な2つの選択肢を示し、お金じゃないよね、エホバだよね、という結論に誘導しようとしている。選択肢はこの2つだけじゃないよ。」

「6から8節が“エホシャファト王に倣ってエホバに頼る”です。 古代の王様の例を持ち出しても、現代のJWの心には全く響かないと思います。」
「古代の王の例なんか白けるよね。でも信者をうまく言いくるめるのに、それ以外の方法があまりないんだよ。あとは真偽不明の体験談を持ち出すくらいだからね。この記事でも後で出てくる。」

「5節に“例えば,ユダの町々の防備を固め,116万人余りの兵士を集めました。(代二 17:12-19)”とありますが、ありえない数字ですね。」
「現在、アメリカは人口3億3千万くらいで、兵員数は約214万人。古代のユダ王国は吹けば飛ぶような弱小国家にもかかわらず、現在のアメリカの半分ほどの兵員数がいたとは、誰も信じないでしょう。」

「エホシャファト王は歴代誌二では17から20章と4章もかけて書かれています。一方、列王記では1章未満です。」
「エホシャファト王は歴代誌では相当誇張、理想化されているということ。史実性はない。」
「歴代一21:5には“ヨアブは登録した民の数をダビデに伝えた。イスラエルは剣を帯びた人が110万人,ユダは剣を帯びた人が47万人だった。”とあります。エホシャファト王はユダの王ですよ。ダビデの時代から100年ほどで2倍以上に兵士が増えたことになります。」
「その人口調査の数字だって滅茶苦茶誇張したもの。サムエル二24:9の“ヨアブは登録した民の数を王に伝えた。イスラエルの剣を帯びた戦士は80万人,ユダの人たちは50万人だった。”という記述と一致さえしない。」

「8節に“夫の皆さんは,エホシャファトの手本から学ぶことができます。”とありますが、できませんよ。置かれている状況が違いますし、歴代誌に書かれていることは史実ではなく、お話にすぎません。まともな大人は、そんなものを手本にしない方がいいです。」
「8節には“導きを求めて聖書や出版物を調べ,見つけたアドバイスを実践しましょう。ほかの人たちはあなたの決定を理解できないこともあるでしょう。ばかにする人や,お金や物があれば家族をしっかり守れる,と言う人もいるかもしれません。”とある。要するに、組織の言いなりになりになって、無給の宗教拡張員として極貧生活をしましょう、他の人の意見は無視しなさい、ということね。こうやって少しずつ不幸の階段を上っていくわけだ。」

「8節に“エホバはご自分に尽くしたエホシャファトを見捨てませんでした。ですから,あなたを見捨てることも決してありません。”は全く非論理的です。」
「聖書の登場人物に起きたことが、現代のJWに起きるとなぜ言えるのかな?何の根拠もない。執筆者は惰性で文章を書いていないで、もっとまともなことを書こうよ。」

「9,10節が“預言者イザヤと妻に倣ってエホバに仕えることを第一にする”です。 イザヤの妻がどんな人かなんて聖書には何も書かれていません。それなのに倣うなんて無理です。」
「9節に“イザヤと妻は,夫婦としてエホバへの崇拝を第一にしていたに違いありません。”とあるよ。単なる推測。そうじゃなかったかもしれないよ。」

「10節では“聖書の預言を調べ,それが全て実現していることについて考えると,エホバへの信頼が深まるでしょう。”とありますが、聖書の預言で実現しなかったものはたくさんありますし、実現したと主張されているのも文脈無視やこじつけが多いです。エホバの信頼は深まりませんね。」
「イザヤから例を取ると、17:1に“ダマスカスに対する宣告。「見なさい! ダマスカスは町ではなくなり,がれきの山となる。”とあり、これはダマスカスが完全に破壊されもはや人が住むことがないことを預言しているけれど、全くの外れ。」
「ダマスカスは完全には破壊されたこともありませんし、今もシリアの首都です。」

「イザヤ19:5は“海の水は干上がり,川も枯れる。”とあるけれど、これはエジプトの川のことを言っている。しかし、そのようなことは一度も起きていない。外れ。」
「イザヤ19:17、18では“そして,ユダの土地はエジプトに恐怖を抱かせる。エジプト人は,ユダについて聞く時,大軍を率いるエホバが自分たちに対して決めた事のために恐れを感じる。 その日,エジプトには,カナンの言語を話し,大軍を率いるエホバに尽くすことを誓う5つの町があることになる。”とありますが、そのようなことは起きていません。」
「ユダはエジプトを侵略したことはなく、軍事的脅威でもない。カナンの言語はなす5つの町は存在したことはない。というわけで、聖書の外れた預言などかなりあるよ。」

「11から13節が“プリスキラとアクラに倣って王国を第一にする”です。 結婚しても王国第一でなくてはいけないようです。」
「プリスキラは妻だけど、夫のアクラより最初に名前が来ていることが多い。妻のほうが有能で有名だったのだろう。」
「しかし男尊女卑のJWは、よく“アクラとプリスキラ”と表現します。例えば、“塔”の2021年7月号の“競い合うのではなく,平和を求めましょう”では“例えば,アクラとプリスキラがアポロに「神の道をより正確に説明した」時,アポロが腹を立てたという記録はありません。(使徒 18:24-28)”となっています。引照聖句では“プリスキラとアクラ”にもかかわらずです。男尊女卑です。」
「今回は“プリスキラとアクラ”になっているけれど、たまたまなのか注目しておこう。1世紀のクリスチャンの間では女性の活躍は目立つよ。それに対してJWは女性を差別し抑圧している。」

「12節に“人生の目標については,結婚する前に話し合っておくのが最善です。2人がエホバに仕える面で同じ目標に向かって努力するなら,聖なる力の導きをいっそう感じられます。”とあります。男性なら長老を目指しますとかいうのでしょうか?女性なら開拓者を目指すのですか?」
「もっともよい目標は、結婚したら一緒にJWを辞めて、本当の自分の人生を始める。」

「12節の下に、カレンダーに夫婦が何やら書き込んでいるという写真が出ています。workと書かれているのが、4日しかないです。火曜日からは5泊6日でタイに行くようです。優雅な生活ですね。」
「よく意味が分からない写真だ。タイ語を学んで、タイで宣教活動をしようと思っている夫婦という設定じゃないかな。」
「親が金持ちということでしょうか。2節の下にある1枚目の写真では台所に胡蝶蘭が飾っています。金持ちの親からのプレゼントですよ。」
「その写真では夫は椅子に座って偉そうにし、妻は立って皿を拭いている。男尊女卑的で、プロパガンダ写真としてはよくないね。チェックする人はいないのかな?」

「13節に“多くの夫婦が生活をシンプルにすることにして,宣教にいっそう多くの時間を費やしています。”とあります。そうしなさいという事実上の命令ですね。」
「その場合、何のために結婚するのかな?独身の方が宣教活動に専念できるよ。JWの宣教第一主義の論理からは“結婚しないで、一生独身”という結論しか出てこないよ。」
「でも統治体の老人はほとんど結婚しているようですよ。結婚するなとは言えません。」
「外国では若い時に結婚するJWが多いようだ。理由はセックス。夫婦であれば何でもないことが、夫婦でなければ重大な罪となるという教義が原因だ。だから若くして結婚する。」
「異性のことも結婚生活のこともよく知らない若すぎる時に結婚し、後で後悔するのがJWによくあるパターンのようですね。」

「14から17節が“使徒ペテロと妻に倣ってエホバの約束を心から信じる”です。 ペテロの妻のことなど何もわかりません。」
「14節に“ペテロはイエスの後に従い,伝道を行うことにしました。それは良い決定でした。ペテロの妻もその決定を支持したに違いありません。”とご都合主義的な推測がでている。ペテロがいつ結婚し、どのような関係だったのかは不明。」

「15節で“1つの方法は,ほかの夫婦の経験について学ぶことです。例えば,「喜んで自分を差し出した人たち」のシリーズを読むことができます。”とあります。聖書の話とJWの体験談がJWのプロパガンダの主な材料ということですね。」
「その種の体験談は、10%の真実と90%の宗教宣伝からなるんだよね。」

「17節に体験談が出ていて、その結論が“この経験から分かる通り,エホバはご自分に全く頼る人に必ず報いを与えてくださるのです。”だけど、これも非論理的だ。一つの事例から一般的な結論を導き出すことはできない。」
「“必ず”というのには笑えます。強い言葉を使えば説得力が増すと単純に思っているのでしょうね。」
「空虚な中身のない言葉を使いすぎ。エホバがそんなに頼りになるのなら、組織はなぜしつこく寄付を求めるの?真の神の組織なのに金銭面では報いてくれないようだね。」

「最後の18節に“エホバは,夫婦に結婚生活を楽しんでほしいと思っています。(格 5:18)”とあります。引照聖句は“あなたは若い時からの妻と喜ぶように”とあるのですが、この部分の主な主張は5:20の“それでは,我が子よ,どうしてあなたはよその女と共に陶酔したり,異国の女の胸を抱いたりしてよいだろうか。”ですよ。」
「自分の妻で満足し、浮気をするなということだね。どうしてそういう実際的なアドバイスをこの記事でしないのか理解できないね。妻子ある長老が若い姉妹と駆け落ちしたなんてことぐらいけっこうあるでしょう。」
「そういう具体例を取り上げ、その原因や対処法についてみんなで討議するというケーススタディなら、今より盛り上がるのに。」

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