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#276 2020年01月15日 10:29:27

akame
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

時折人は、または集団で、自己肯定する本能的手段を発揮します。

https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/ … 30/177120/

元来、事実とファンタジーとの境目も曖昧ですから...

#277 2020年01月15日 10:55:19

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ソロモン王の建築の痕跡?  170ページあたり

ソロモン帝国が壮大であることの明白な証拠は一九五○年代に、ハッォルでのイガエル・ヤディンの発掘によって著しく強められた。ヤディンと彼のチームは鉄器時代の大きな城門を掘り出した。それは独特な設計であった。すなわち、通路の両側にひとつの塔と三つの部屋があり、それにより「六部屋式」城門という用語が生まれた(一七二頁の図旧)。ヤディンは唖然とした。配置と規模の両方において同様な城門がメギドでオリエント研究所のチームによって二○年前に掘り出されていたからである1厩舎ではなく、おそらくこのことがその地一帯でのソロモンの存在を明らかにするしるしであった。だからヤディンは、ソロモンによって再建されたと列王記上九章一五節で言及されている第三の都市ゲゼルを掘りに行った。現地にではなく図書館で。ゲゼルは二○世紀初めに英国の考古学者R・A.S・マヵリスターによって発掘されていた。ヤディンがマカリスターの報告書のページをめくり彼はびっくり仰天したヤディンはマカリスターが紀元前二世紀の「マカバイ時代の城」と見なした建築物の平面図に、メギドとハッォルで見つけ出されたのと正確に同じ型の城門構造の片側部分の輪郭をたやすく確認することができたのである。ヤディンはもはや跨踏しなかった。彼は、エルサレムで王の下にある建築家がソロモンの城門の基本計画を描き、それからこの計画がそれぞれの地方に送られたと論じた。
ヤディンは次のように要約する。「考古学の歴史において、列王記上九章一五節のように、ひとつの節が聖地で最も重要なテルのいくつかにある建造物を特定し、年代を決定する上でたいへん役立った例はない。……(ハッォルでの)あの層をソロモンの時代のものとしたという私たちの結論は主に列王記上の一節、位層、土器に基づいていた。しかし、私たちがさらにその層の中に、設計と寸法においてメギドの城門と同一の、二重構造壁に直結した、二つの塔を持つ六部屋式城門を発見した時、首尾良くソロモンの都市を特定したことを確信した」。

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編集者 てつてつ (2020年01月15日 11:00:18)

オフライン

#278 2020年01月15日 11:06:03

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

彼が発見したことは一世代で聖書考古学を根本から変えた。ヤディンは厩舎の下に、約六○○○平方フィートの規模の、大きな切り石のブロックで組み立てられた見事な宮殿の遺構を発見した(一三八頁の図留。それは丘の北端に建てられ、ヤディンが六部屋式城門に結びついていた行方不明の二重構造壁と解釈したところの連なった部屋とつながっていた。同じく美しく飾られたブロックで建てられた幾分似た宮殿が同じ丘の南側でオリエント研究所によってすでに掘り出されており、それもまた厩舎の都市の下に位置していた。両方の建築物の様式は、堂々とした入り口と、公式な客間を取り囲む小さな部屋の並びからなる、ビト・ヒラニ式として知られている鉄器時代の北シリアの宮殿に共通した独特な型とひじょうに類似している。それゆえ、この様式は、メギドの駐在官、おそらくアヒルドの息子でその地の知事であるバアナ(王上四・一三にとってふさわしいものであっただろう。ヤディンの学生であったデヴィッド・ウシーシュキンはすぐに、ソロモンがエルサレムに建てた宮殿についての聖書の記述がメギドの宮殿に完全に適合することを論証することで、これらの建築物がソロモンと結びついていることを確定させた。

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#279 2020年01月15日 11:10:12

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

何年間か、ソロモンの城門は、考古学が聖書を最も印象的に支えていたことを象徴していた。けれども、歴史的論理についての基本的な問いがついにそれらの重要性を徐々に弱めることになった。北は東トルコから西シリア、そして南のヨルダン川の東側に至る地域の他のどこにも、紀元前一○世紀において同様に発展した王国の制度あるいは堂々した建築物のしるしはなかった。私たちが見てきたように、ユダというダビデとソロモンの国は目だって未発達であり、大帝国の溢れかえる富について何の証拠もない。そして、さらに厄介な年代の問題がある。すなわち、メギドにあるソロモンの宮殿の原型であったはずの鉄器時代のシリアのビト・ヒラニ式宮殿は紀元前八世紀初期、ソロモンの時代の少なくとも半世紀後に初めてシリアに現れたのである。ソロモン時代の建築家がまだ存在していない建築様式を採用することがいかにして可能だったのだろうか。最後に、メギドとエルサレムとの際立った相違という問題がある。地方都市にとてもすばらしい切り石の宮殿を建設した王が遠く離れ、発達の遅れた小さな村から支配したということは起こりえるのか。結局、私たちは今、ダビデによる征服の広大な範囲とソロモンの王国の壮麗さに関する考古学的証拠はひどく誤った年代の結果として生じたことを知っている。


第三の種類の証拠である、炭素一四による年代決定というより正確な検査技術は現在、その問題に決着をつけるように思われる。最近まで、鉄器時代のような比較的新しい時代に放射性炭素年代測定法を使うことは、一世紀あるいはそれ以上にも広がる大きな誤差の範囲のため、不可能であった。しかし、炭素一四法の技術の改善はその不確実な誤差の範囲を大幅に減らしてきた。一○世紀論争に関わる主要な遺跡からの多くの標本が分析され、新しい年代を支持しているように思われる。特に、メギドの遺跡は受け入れられてきた解釈とはいくつかの驚くべき矛盾を産み出してきた。一五の木材の標本がダビデによるとされるひどい火災と破壊で崩壊した屋根の大きな梁から取られた。梁のいくつかはより早い時代の建物で使われたことができただろうから、一連の年代の中で最も遅いものが、その建造物がいつ建てられたかを安全に指し示すことができる。実際、標本の大部分はダビデの死後ずっと後の一○世紀に十分収まる。この破壊の二つ上の層に建てられた、ソロモンのものだとされる宮殿はかなり後代ということになるだろう。これらの年代は、地中海沿岸にあるテル・ドルやガリラヤ湖岸のテル・ハダルのような有名な遺跡の対応する層の分析によって確認されてきた。メギドの近くのアイン・ハギットやガリラヤ湖北岸のテル・キネレットのような、いくつか他の、よくは知られていない遺跡から時々出て来る解釈もまたこの年代決定を支持している。最後に、メギドで仮定されているソロモンの都市と同時代である、ベト・シェァンの近くのテル・レホブにある層の破壊からの一連の標本は、紀元前九二六年のファラオ・シシャクによって破壊されたとの報告よりもずっと後である九世紀中頃の年代を指し示している
基本的に、考古学は「ダビデの」そして「ソロモンの」遺構の両方の年代をまるまる一世紀も間違ったのである。二世紀末期におけるダビデのちょうど前の時代と定められた発見物は一○世紀中頃、ソロモン時代とされた物は九世紀初期に属したのである。新たな年代は、堂々とした建造物、防壁、そして十分な国家としての地位を示す他の、しるしの出現を、レヴァントの他の地域でそれらが最初に現れた時代に正確に位置づける。それらはメギドにあるビト・ヒラニ式宮殿の建造物とシリアにおけるそれらの対応物との間の年代における不一致を修正する。そしてそれらは私たちにようやく、なぜエルサレムとユダが一○世紀の遺構においてそんなにも貧弱なのかを理解させてくれる。
その理由は、ユダはその時代まだ遠く離れた、十分に発達していない地であったということである。ダビデとソロモンの史実性を疑う理由はほとんどない。けれども、彼らの王国の広さと壮麗さを疑問視する理由はたくさんある。もし大きな帝国がなかったのなら、記念建造物がなかったのなら、壮大な首都がなかったのなら、ダビデの王国の本質とは何だったのか。

編集者 てつてつ (2020年01月15日 11:16:39)

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#280 2020年01月15日 11:29:14

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

177ページあたり

もちろん、紀元前七世紀までにユダの状況はほとんど予想を越えて変化した。エルサレムはその時、たった一つの国家聖所として機能していた、イスラエルの神のためのエルサレム神殿によって支配された、割合に大きな都市であった。王国の制度、職業軍人からなる軍隊、行政は、近隣諸国の複雑な王の制度に比肩し凌駕しさえする洗練されたレベルに達していた。再び私たちは七世紀のユダの景色と装いを、忘れることのできない聖書の物語、今回は神話的な黄金時代の背景として見ることができる。ソロモンの貿易相手であるシェバの女王のエルサレムへの豪著な訪問(王上一○・一’一○)や南のオフィルの地のような遠い市場との珍しい商品の貿易(王上九・二八、一○・二)は疑いなく、富をもたらすアラビア貿易への七世紀のユダの参加を反映している。同じことは荒れ野でのタドモルの建築(王上九・一八)やアカバ湾にあるエッョン・ゲベルから出発した遠い地への貿易遠征隊(王上九・二六)の叙述に当てはまる。これら二つの場所はしっかりと特定され、王国時代後期以前、人は住んでいなかった。そして長く研究者たちによってエーゲ海を起源とすると推定されている、クレタ人やペレティ人というダビデの王室護衛隊(サム下八・一八)は、七世紀のエジプトの、そしてたぶん七世紀のユダの軍隊における、その当時最も進んだ戦闘部隊であるギリシア人傭兵の軍務を背景として理解すべきである。
王国時代後期、ダビデの後継者とイスラエル全住民の運命との関係の正当性を立証するために、手の込んだ神学がユダとエルサレムで作り出された。申命記史書によれば、敬虐なダビデこそが、(イスラエルの人々による)偶像礼拝と(ヤハウェによる)神の報復の循環を止めた最初の人物であった。ダビデの献身、忠実さ、正しさゆえに、ヤハウェは約束の地の残りを征服し、アブラハムに約束された広大な領土全体に栄光ある帝国を確立するというョシュァの未完成の仕事をダビデがやり遂げることを手助けした。これらは神学的な希望であり、正確な歴史描写ではない。それらは、ばらばらになり、戦争に疲弊した人々に、彼らが神の直接介入の下で感動的な歴史を経験したことを立証するため、彼らをひとつにしようと努めた国家再生という七世紀の力強いビジョンにおける中心的要素であった。統一王国の華々しい叙事詩は、族長の物語や出エジプトや征服のサガのように、古代の英雄讃や伝説を、紀元前七世紀のイスラエルの人々にとって一貫し、説得力のある預言へと織りなしたすばらしい構成物なのであった。聖書の叙事詩が初めて細かく念入りに作られた時代のユダの人々の前に、遠い先祖たちの栄光の回復を決意した新しいダビデが王位についた。これは、すべてのユダの王の中で最も信仰深い者として述べられているョシヤであった。そしてヨシャは歴史を彼自身の時代から伝説的な統一王国の時代へと巻き戻すことができた。ヨシャは、最初ソロモンによって彼の外国出身の妻たちのハーレムによってエルサレムに導入された偶像礼拝という忌まわしいものを除き、ユダを浄化することによって(王上二・一’八)、ダビデ「帝国」の没落の原因となった違犯を取り消すことができた。申命記史家が言いたかったことは、単純で力強い。つまり、まだ過去の栄光を回復する方法があるというだからヨシャは、聖書におけるダビデの物語にとってまさに中心であった王の制度、軍事力、エルサレムへのいちずな献身を通して、ユダと前北王国の領土を結びつける統一王国確立に着手した。ダビデの王座についている王として、ヨシャはダビデの帝国、つまりダビデの領士の唯一正統な後継者であった。彼は、ソロモンの罪から生まれた王国であり、その時には滅ぼされていた北王国の領土を取り戻そうとしていた。「ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、安らかに暮らした」という列王記上五章五節の言葉は、一人の王がエルサレムからひとつとなったユダとイスラエルの領土を支配した神話的な過去と似た、領土の拡張と平和で繁栄した時代への追求という希望を要約しているのである。
私たちが見てきたように、ダビデとソロモンの王国の歴史的現実は物語とはまったく違っている。それは、聖書が語るのとは劇的に異なる歴史的順序で、ユダとイスラエルという王国の出現をもたらした、人口統計上の大きな変化の一部分であった。これまで私たちは紀元前七世紀に書かれたイスラエル形成史の聖書版を考察し、その下に横たわる考古学的事実をちらっと見てきた。次は新しい物語について語る時である。続く章で、私たちはたいへん異なるイスラエルの出現、滅亡、再生という主な概要を提示する。

編集者 てつてつ (2020年01月15日 11:36:17)

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#281 2020年01月15日 11:57:31

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

北のイスラエルと南のユダ王国について 185ページあたり

研究者たちはユダとイスラエルという二つの姉妹国家のその後の歴史をたどる際、ほとんど書かれてあるとおりに聖書の物語に従い、大部分の者は二つの後継国家はほとんど同一レベルの政治上の組織と複雑さを共有していたと想定した。ユダとイスラエルの両国はソロモンの本格的な王国に起源を持っていたので、どちらも裁判所、財政管理、軍事力という十分に発達した国家制度を受け継いだ。結果として、この二つの独立王国は地域内の変化する政治的状況に従って、しかし常に多かれ少なかれ対等の立場で、互いに競い、互いに戦い、そして互いに助け合ったと見られていた。もちろん、ある種の地域的な違いが確かに明らかにはなった。しかし大部分の研究者たちは、イスラエル人の二つの王国の歴史の残りは人口増加、集中的な建築、戦争の歴史であって、なお一層の劇的な社会発展の歴史ではこの広く受け入れられたイメージは今となっては間違いであるように思われる。


一九八○年代の中央丘陵地での集中的な考古学的調査は、ユダとイスラエルという二つの高地国家の特徴と起源を理解する上での新たな展望を開いた。この新しい見方は聖書の説明と劇的に違っていた。調査は、カナン高地でのイスラエル人の出現は唯一無二の出来事ではなく、実際には、何千年にもわたって遡ることができる一連の人口統計上の変動における単なるひとつの出来事であったことを示した。初期青銅器時代(紀元前三五○○’一三○○年頃)と中期青銅器時代(紀元前二○○○’一五五○年頃)における二つの初期の定着の波のそれぞれにおいて、高地の土着民は鉄器時代第1期(紀元前二五○’九○○年)のイスラエルの定着過程に著しく似た形で、牧畜から季節農業、常設の村、複雑な高地経済へと移行した。しかしさらに驚くべきことに、高地定着の各々の波において、後のユダとイスラエルの王国の範囲をだいたい占める高地に、常に北と南の二つの異なる社会があったように思われることを調査(と断片的な歴史情報)は指し示したのである。

編集者 てつてつ (2020年01月15日 11:57:49)

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#282 2020年01月15日 12:19:35

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

カナンの高地が二つの異なる政治形態へと漸進的に変化することは自然な発展であった。この北と南の状況が初期の政治的統一体、特に南を中心とした統一体から生じたことを示す考古学的証拠はまったくない。紀元前一○、二世紀、ユダはなお人口がひじょうにまばらで、実際には二○かそこらの限られた数の小さな村があっただけであった。ユダにおける独特な部族構造と考古学の両方から、人口のうち牧畜に関わる部分がそこではなお顕著であったと考えられるもっともな理由がある。エルサレムがダビデ、ソロモン、レハブアムの時代、その壮麗さについて並ぶもののないという聖書の記述にもかかわらず、高地にあったささやかな村よりも大きかったことを示す確かな考古学的証拠を私たちは今もなお持っていない。同時に、高地の北半分、基本的に統一王国から離脱したと報告されている諸地域は、各地域の大きなセンター、大小とりどりの村々、小さな集落を含むよく発達した定住システムを持ち、数十もの居住地によってびっしりと占められていた。つまり、ユダはまだ経済的に重要ではなく遅れていたが、イスラエルは急激に発展していたのである。実際、イスラエルは推定される統一王国の終わりから数十年以内、すなわち紀元前九○○年頃、十分に発達した国家へと突き進んでいた。私たちは十分に発達したという表現で、官僚組織によって支配される領土ということを表している。その組織は、贄沢品の流通、大きな建築プロジェクト、近隣地域との貿易を含む繁栄する経済活動、しっかりした定住システムの中に見られるように、社会階層に明白に示される。
イスラエルでは、地域における行政の中心地が九世紀初めに発達した。それらは要塞化され、そして切石建築、石の柱頭での装飾といった手の込んだ宮殿が備わっていた。その最たる例はメギド、イズレエル、サマリァで発見される。しかし南では、切石建築や石の柱頭は紀元前七世紀になって初めて現れ、それらはもっと小さな規模で、外国からの影響ももっと少なく、建築の質も劣っていた。首都の設計と整備においても大きな違いがある。北王国の首都サマリアは早くとも九世紀に、大きく、宮殿のある行政の中心地として設立された。エルサレムが十分に都市化されたのはようやく八世紀終わりになってであった。
さらに、オリーブ油産業は早くも九世紀に発達した。しかしユダでは、紀元前七世紀になって初めてオリーブ油生産は地元の私的な家内工業から国営産業へと移行した。最後に私たちは、北はユダよりも早く定住し、かなり高い人口のレベルに達したという、高地における定住の歴史を見るべきである。要するに、北のイスラエル王国は、ユダの,社会と経済が高地でのその始まりからほんのわずかしか変化していない時であった紀元前九世紀の初めまでに、十分に発達した国家として現れたと言って間違いない。このことすべてはまた、歴史的文献によっても支持される。次の章で私たちは、どのように北王国が紀元前八五三年のカルカルの戦いでアッシリアの王シャルマナサル三世に立ち向かった同盟における地域の主要なリーダー的存在として古代近東の舞台に突然現れたのかを見るだろう。イスラエルとユダという鉄器時代の2つの国家が多くの共通点を持っていたことは疑いない。両者は(他の神々の中でも)ヤハゥェを崇拝した。人々は多くの伝説、英雄、それに共通の過去についての物語を共有していた。彼らは部また似た言語、あるいはへプライ語という方言を話し、紀元前八世紀まで両者は同じ文字で書いた。しかし彼らはまた、人口構成、経済力、物質文化、近隣との関係の点でたいへん異なっていた。つまり、イスラエルとユダはまったく異なる歴史を体験し、それぞれ特徴的な文化を発達させたのである。ある意味で、ユダはイスラエルの後背地である田舎と大差がなかった。

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#283 2020年01月15日 12:23:03

めぐママ
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Re: 聖書という書物について

akame さんの発言:

時折人は、または集団で、自己肯定する本能的手段を発揮します。

https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/ … 30/177120/

元来、事実とファンタジーとの境目も曖昧ですから...




akameさん     ありがとうございます。

時間がないので   でも これは 役に立ちます。  きっと。

色んな本が 段ボールから出てきて 「 ゲノムと聖書」  なんで こんなの 買ったんだ?

図書館にも 返しに行って 別のを借りる予定。

「カルトの子」  を書いた 米本さんが  「貴女もう 悩まずに  華道  茶道 書道  とか
好きな事を やって 楽しく生きたらいいよ。
と言われたのですが  その意味で。  カルトとか  宗教観とか   それぞれで。

後遺症  莫妄想  も 本人に 自覚がないなら  なだめる言葉も  喧しい シンバル。
これほど無粋なもはない。

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#284 2020年01月15日 13:57:45

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

197ページあたり

はるか南にある、エルサレムの周りにわずかに村がある南の高地は分散した村々と牧畜という旧体制を続けていた。最北端ダンから最南端のベエル・シェバまでの地域を征服し、支配することになるダビデとソロモンの大帝国についての後代の聖書物語にもかかわらず、本当の国家はさらに二○○年間そこに現れることはなかった。

聖書はなぜ、歴史的証拠とそんなにも大きく食い違う、ユダからのイスラエルの分裂と分離の物語を語るのか。もしカナンの高地における長い年月を経た生活のリズムが二つの異なる地域文化を決定づけていたのなら、そしてイスラエルとユダの国家がそもそも最初からそれらの性質においてたいへん違っていたのなら、なぜそれらは聖書の中で双子の国家として体系的に、そしてなるほどと思わせるように描かれたのか。その答えは、統一王国崩壊とイスラエルという独立王国確立の物語に巧みに織り込まれた、神から与えられた未来についての四つの預言の中でそれとなく言われている。神と多くの預言者たちとの間の直接的な伝達の形式で書かれたこれらの託宣は、歴史の予期せぬ粁余曲折を説明しようとする後代のユダの解釈者たち世代の努力を表している。
ユダの人々は、神がダビデに彼の王朝はエルサレムを本拠地とし、永遠にゆるぎないことを約束したと信じた。しかし何世紀にもわたって、ユダは自らが、ほとんどエルサレムを心に留めない王たちのいるイスラエルの陰になっていることを知っていた。このことはどのようにして起こりえたのか。聖書の物語はその責任をはっきりと一人のユダの王の宗教的背信に置いた。そしてそれは、イスラエルが分裂し敵対する二王国となることが、神によって祝福されたダビデ王朝の先の王の罪に対する、単なる一時的な刑罰であると約束する。
最初の預言ははっきりと、ひとつのイスラエルが分裂したことをダビデの息子ソロモンの個人的な罪のせいにした

編集者 てつてつ (2020年01月15日 13:58:58)

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#285 2020年01月15日 14:05:38

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

「主の言葉に従って神の人がユダからベテルに来たときも、ヤロブァムは祭壇の傍らに立って、香をたいていた。その人は主の言葉に従って祭壇に向かって呼びかけた。『祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。「見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はョシヤという。彼は、お前の上で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上でいけにえとしてささげ、人の骨をお前の上で焼くこ」(王上一三・一’二)。

これは前代未聞の預言である。なぜなら「神の人」は、三世紀後にまさにその神殿の破壊を命令し、その祭司たちを殺し、その祭壇を彼らの遺骨で汚そうとする具体的なユダの王の名前を明らかにしたからである

「神の人」によるかなり前の預言の正確さはそれが書かれた時代を明らかにする。ベテルの祭壇を攻略し破壊したダビデ家の王ヨシヤは、紀元前七世紀の終わりに生きた。なぜ紀元前一○世紀末に起こる物語がそうした遠く離れた未来の人物を引き入れる必要があるのか。ョシャという名前の正しい王が行うことを述べる理由は何か。その答えは、私たちがなぜ族長たち、出エジプト、カナン征服の物語が七世紀への間接的な言及で溢れているかを説明する中で示唆したのとほぼ同じである。否定できない事実は、列王記は歴史作品であると共に、紀元前七世紀に書かれた熱烈な宗教的主張であるということである。その時までにイスラエル王国はすでにおぼろげな記憶であり、その諸都市は破壊され、住民の大多数はアッシリア帝国の遠く離れた場所に連れていかれていた。しかし一方、ユダは繁栄し、領土への野心を展開し、イスラエルの広大な領土の唯一正当な継承者であると主張していた。後代の王国の歴史家のイデオロギーと神学はいくつかの柱に基づいており、その中で最も重要なもののひとつは、イスラエルの祭儀は完全にエルサレムの神殿に集中されなければならないという考えであった。エルサレムからそんなに遠くないベテルにあるエルサレムの競争相手である北の祭儀センターは、北王国の滅亡以前でさえひとつの脅威と見られていたにちがいない。さらに悪いことには、それは七世紀初めにもまだ活動しており、おそらく旧北王国の領土に住んでいた人々を引きつけていた。彼らの大部分は捕囚を経験しなかったイスラエル人であった。それはヨシヤ王の時代のユダの政治的、領土的、神学的野望に対する危険な競争相手となった。そしてイスラエルの滅亡とヨシアの勝利の必然性は聖書記事における中心的な主題となった。


申命記史家は、一方でユダとイスラエルを姉妹国家として描き、他方で両国間の激しい敵対関係を展開させている。北に拡張し、かつて北王国に属していた高地の領土を支配することがヨシヤの野心であった。従って聖書はその野心を、北王国がエルサレムから統治された神話的な統一王国の領土に確立されたということ、それは姉妹関係にあるイスラエル人の国家であったということ、その人々はエルサレムで崇拝すべきであったイスラエル人であったということ、その領土に今なお住んでいるイスラエル人はエルサレムに目を向けなければならないこと、ダビデの王位とダビデヘのヤハウェの永遠の約束の継承者であるヨシヤが征服されたイスラエルの領土の唯一正当な継承者であることを説明することで支持している。他方、聖書の著者たちは北の祭儀、特にベテルの神殿の権威を失墜させ、そして、北王国の独特な宗教伝統はすべて悪であり、それらは一掃され、エルサレム神殿での中央集権的な祭儀に取って代わられるべきであることを示す必要があった。
申命記史書は以上のことすべてを成し遂げている。サムエル記下の終わりで敬虐なダビデが大帝国を確立することを示されている。列王記上の初めで、彼の息子ソロモンが王位につき、繁栄し続ける。しかし富と繁栄だけではなかった。反対に、それらは偶像崇拝をもたらしたからだ。ソロモンの罪は黄金時代の終わりにつながった。それからヤハウェは、北王国という離脱した国家を導き、第二のダビデとなるヤロブアムを選んだ。しかしヤロブァムはソロモン以上に罪を重ね、北王国はたった一度だけの機会を逃すことになる。それ以降の北の歴史は破滅へと続く悲しい下り坂である。また一方、ヨシヤの下で、ユダにとって大きな発展を遂げる時代がやってくる。しかし黄金時代を復活させるために、この新しいダビデは最初に、ソロモンとヤロブアムの罪を取り除く必要がある。大発展への道はイスラエルを清めること、主にベテルの神殿の破壊を通り抜けなければならない。このことが、エルサレムにあるヤハウェの神殿とダビデの王座の下でのすべてのイスラエルの、すなわち民と領土の再統一をもたらすことになる。それから覚えておくべき重要なことは、聖書の物語がダビデとソロモンの統一王国の分裂を最終幕としてではなく、一時的な災難と見ていることである。まだハッピー・エンドがありえるのである。もし人々が生き方を変え、外国の偶像や誘惑から離れ、聖なる民として再び生きることを決心するなら、ヤハウェはあらゆる彼らの敵に打ち勝ち、彼らの約束の地で彼らに永遠の安心と満足を与えるのである。

編集者 てつてつ (2020年01月15日 14:16:26)

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#286 2020年01月15日 14:24:43

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

オムリについて 206ページあたり

オムリ家は、聖書の歴史の中で最も嫌われた者たちの中に入れられ記憶されている。しかしイスラエル王国についての考古学による新しい光景は、彼らの統治へのまったく違う見方を提供する。実際、もし聖書の著者や編集者が現代の意味での歴史家であったなら、彼らは、アハブがイスラエル王国を世界舞台で最初に有名にさせ、そして、フェニキア王エトバアルの娘との彼の結婚は国際外交上の素晴らしい手腕であったと言ったかもしれない。彼らは、オムリ家が彼らの拡大する王国の行政上の拠点として機能する壮大な都市を築いたと言ったかもしれない。彼らは、アハブと彼の父であるオムリがその地域で最も強力な軍隊のひとつを形成することに成功し、それにより北方やヨルダン川以東の広大な地域を征服したと言ったかもしれない。もちろん彼らはまた、オムリとアハブが特に信心深くはなく、時には気まぐれで残忍な行動をしたことについて言及していたかもしれない。しかし同じことは、古代近東の実際にはほとんどすべての他の王についても言えたであろう。実際、イスラエルはひとつの国家として、その地域にある他の繁栄する王国と概して違わない自然の富と広範囲な通商関係を享受していた。前章で言及されたように、イスラエルは大きな建築プロジェクトを企て、職業軍人からなる軍隊と官僚を確立し、都市、町、村といった居住の複雑な階層を発展させるために必要な組織を持っていた。このことがイスラエルを十分に発達した最初の王国にしたのであった。その性質、目標、業績はユダ王国と劇的に異なっていた。それゆえそれらは、北のオムリ王朝がしたほとんどすべてをおとしめ、不正確に伝えることによって、南のダビデ王朝が優れているという後代の主張を支持する聖書における糾弾によってほとんど見えなくされてきた

というわけで国際的で進歩的なオムリ家によって栄えた北のイスラエル王国でしたけどアッシリアにおいしく食べられたのをいいことに南のユダ王国のイデオロギーをつくる祭司集団によって申命記史書というストローマン論法によってねじまげられて悪者にされちゃったみたいですね cry

なつかしいですね イゼベルがまどから落とされるさし絵

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編集者 てつてつ (2020年01月15日 14:42:02)

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#287 2020年01月15日 14:56:42

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

オムリ家の宮廷での悲劇は、生き生きと描かれる登場人物と芝居じみた場面に満ち、民に対する王室の犯罪が残虐な終焉をもって仕返しされるという文学作品の古典である。アハブとイゼベルの治世についての記憶は、彼らの死から二○○年以上後に編集された申命記史書の中に以上のような目立つ仕方で含まれていることから分かるように、明らかに何世紀もの間鮮烈であり続けていた。にもかかわらず、聖書の物語はあまりにも不一致や時代錯誤に満ち、そて明らかに紀元前七世紀の著者たちの神学によって影響されており、正確な歴史的年代記よりも歴史小説と見なされなければならない。他の不一致の中で、報告されているダマスコのベン・ハダドによるサマリァ侵略はアハブの治世ではなく、北王国の歴史の中でもっと後に起こった。イスラエルと名前が記されていないエドムの王との同盟への言及もまた時代錯誤である。なぜなら、オムリ家の時代よりも一世紀以上後になるまでエドムでの王朝の証拠がまったくないからである。事実、私たちが時代錯誤なもの、それに布告された脅しと成就された預言という物語を取り除くなら、イスラエルの王たちの順番、彼らの最も有名な建築プロジェクトのいくつか、それに軍事行動に関係する大体の地域を除いて、聖書の記事の中に実証できる歴史資料はほとんど残っていない。幸運なことにイスラエルの歴史において初めて、私たちがオムリ家を違う観点から、すなわち、近東で最も強大な国家のひとつで軍事的に強力な支配者たちとして見ることを可能にする、歴史的情報を含む重要な外的資料がいくつかある。この理解への新しい鍵は、イスラエル王国に直接言及している記念碑の突然の出現である。北王国への最初似の言及がオムリ家の時代においてであることは偶然ではない。十分に発達した官僚制度と支配者の行為を公布という形で記録するという長い伝統をもったアッシリア帝国がそのメソポタミアの中心地から西へと進行したことが、イスラエル、アラム、モアブのように出現しつつあった国家の文化に深い影響を及ぼした。紀元前九世紀に始まる、アッシリア人自身の記録、そして近東のより小さな勢力のいくつかの記録の中で、私たちは聖書のテクストの中で述べられている出来事や個人に関する直接的な証言をいくつかようやく得るのである。ダビデやソロモンの時代、その地域の政治機構は、大規模な官僚制度や記念碑が存在する段階にはまだ到達していなかった。一世紀後のオムリ家の時代までに、内側の経済的進行と外側の政治的圧力はレヴァントに十分に発達した領土的、国民的国家の出現をもたらした。人類学的意味において、十分に発達したというのは、重要な建築プロジェクトを計画し、常備軍を維持し、近隣地域との組織化された通商関係を発展させることができる、複雑な官僚組織によって支配される領域を意味する。その官僚組織は、自らの活動記録を記録保管所や一般の人々に公開される記念碑に保持することができる。九世紀以後、主要な政治的出来事が各々の王の観点から記念碑の文章に記録された。これらの碑文は聖書の中で述べられている出来事や個人に関する正確な年月日を定める上でとても重要である。聖書の物語を知っている者に、それらはイスラエル王国の広さと国力について思いもよらぬ描写を提供する。最も重要なもののひとつは、聖書ではモアブ王国の首都ディボンの遺跡、現在では死海の東にある南ヨルダンのディバンという遠く離れた小山の地表で一八六八年に発見されたメシヤ石碑である。この記念碑は、ヨ-ロッパの探検家たちと地元のベドウィンとの間の争いでひどく破損したが、その残っている断片をつなぎあわせると、レヴァントでこれまで発見された聖書外のテクストのうち今もなお最も長いものである。それは聖書へプライ語と密接な関係のあるモアブの言葉で書かれ、北モアブの地域を征服し、ディボンに首都を置いたメシャ王の功績を記録している。この碑文の発見は、メシャが列王記下三章で北のイスラエル王国の反抗的な臣下として言及されていることから、一九世紀に大興奮をもたらした。ここで初めて明らかとなったのは、物語のもうひとつの側面、すなわちオムリ家についての最初の聖書外での叙述であった。その碑文に記録されている出来事は紀元前九世紀に起こり、その断片的なテクストによれば、その時、「オムリはイスラエルの王であり、彼は多くの日々、モアブを抑圧した。……そして彼の息子が彼の跡を継ぎ、彼もまた言った。「私はモアブをさげすむ』。私の時代、彼はこのように言った。..そしてオムリはメデバの地を手に入れた。そして彼は彼の時代そこに住み、彼の息子たちの日々の合計は四○年であった」。碑文は、メシャがヨルダン川以東にあるイスラエル人の主要な定住地を破壊し、一方で彼自身の首都の防備を固め、そして整備しながら、いかにイスラエルに対する反乱の中で彼の領土を徐々に拡大していったのかを語り続けている。メシヤはオムリと彼の息子アハブヘの侮辱をほとんど隠すことをしないが、それでもなお、私たちは彼の勝利を祝う碑文からイスラエル王国がその中央丘陵地にあった初期の中心地からかなり東や南に到達していたことを知る同様に私たちは、聖書に出てくる都市ダンで一九九三年に発見された「ダビデ家」碑文からアラム・ダマスコとの争いについて聞いている。それを建立した王の名前はこれまで発見された断片には見つけられないが、全体のコンテクストから、これはアラム・ダマスコの強大な王ハザエルであったことはほとんど疑いない。彼は聖書の中で数回、特にオムリ家の高慢な鼻をへし折るための神の道具として言及されている。この碑文から、ハザエルはダンの都市を攻め落とし、紀元前八三五年頃そこに勝利を祝う石碑を立てたと思われる。碑文は、「イスラエルの王は以前私の父の土地に入っていた」というハザエルの怒りの非難の中に、勝利した彼の言葉を記録している。碑文は明らかにアハブの息子で後継者のョラムを言及し、その含意は明らかである。オムリ家の下でのイスラエル王国はダマスコの近くからイスラエルの中央高地と谷を経てはるばるモァブの南の地域まで広がり、かなりの数のイスラエル人以外の人々を支配していたのである
私たちはまた、このオムリ「帝国」が強力な軍事力を所有していたことを知る。オムリ王朝についての聖書の記事は繰り返される軍事的な大惨事を強調し、それにアッシリアからの脅威についてまったく言及してはいないにもかかわらず、アッシリアそれ自体からオムリ家の勢力について、ある程度劇的な証拠がある。紀元前八五八’八一画年に統治した、アッシリアの最も偉大な王の一人であるシャルマナサル三世は、オムリ王朝の軍事力を最もはっきりと称賛している(まったく故意でないのなら)。紀元前八五三年、シャルマナサルはシリア、フェニキア、イスラエルという弱小国家を威嚇あるいは征服するために、アッシリアの主要な侵攻部隊を西方に率いた。前進した彼の軍隊は西シリアのオンテス川のカルヵルの近くで反アッシリア同盟と対決した。シャルマナサルは、古代アッシリアの遺跡ニムロドで英国の探検家オースティン・ヘンリー・レイャードによって一八四○年代に発見され、モノリス碑文として知られている重要な古代のテクストの中で彼の大勝利を自慢している。模形文字でびっしりと刻まれたこの暗色の石の記念碑は、シャルマナサルに対して整列した部隊を誇らしげに記録している。「ダマスコのハダドエゼルの一二○○の戦車、一二○○の騎兵、二万の歩兵、ハマトからのイルフレニの七○○の戦車、七○○の騎兵、一万の歩兵、イスラエル人アハブの二○○○の戦車、一万の歩兵、クエからの五○○の歩兵、ムッリからの一○○○の歩兵、イルカナタからの一○の戦車、一万の歩兵」と。これはイスラエルの王についての最も古い聖書外の証拠であるだけでなく、「重兵器」(戦車)という記述から、アハブが反アッシリア同盟の中で最も強力な構成員であったことは明らかである。そして、偉大なシャルマナサルは勝利を宣言したが、この対決の実際の結果は王の自慢とはかなり違っていた。シャルマナサルは直ちにアッシリアに戻り、少なくともしばらくの間、アッシリアの西への進行は妨げられた。このようにして私たちは(皮肉にもイスラエルにとって最も憎い敵のうちの三つからの)三つの古代の碑文から、聖書の記事を大幅に補う情報を知るのである。聖書はサマリァを包囲するアラム軍について語っているが、オムリと彼の後継者たちは実のところ、彼らの王国の領土を拡張し、その地域で最も大きな常備軍のひとつを確かに維持していた強力な王たちであった。そして彼らは、地域のライバルに対して、それにアッシリア帝国という迫り来る脅威に対して彼らの独立を維持しようとする継続的な努力の中で、国際的なパワー・ポリティックスに深く関わっていたこの時代、ユダ王国はシャルマナサルの碑文では一言も触れられず無視されていた)。

まだこのころは北のオムリ王朝が他国からみればイスラエル地方の王様でユダ王国は取るに足りない存在で諸国の王から見ればなにそれ?ということでアウトオブ眼中だったみたいです cry

編集者 てつてつ (2020年01月15日 15:03:21)

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#288 2020年01月15日 15:13:22

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

225ページあたり

二○世紀初期から中期の考古学者たちが多くの壮大な建築プロジェクトをオムリ家のものとしたにもかかわらず、オムリ家によるイスラエル王国支配の期間は聖書の歴史においてとりわけ発展的な時期とは決して理解されなかった。確かにいろいろと華やかで生き生きとしている。しかし純粋に歴史的な言い方では、オムリ家、つまりアハブとイゼベルの物語は、アッシリア、モアブ、アラムのテクストからの補足情報と共に、聖書の中でまったく十分詳しく説明されているように思われた。発掘やさらなる調査によって答えられるべき、もっと興味をそそる多くの問いがあるように思われた。すなわち、イスラエル人定住の正確な過程、ダビデとソロモンの下での王国の政治的成立過程、あるいはイスラエルの地での最終的なアッシリアとバビロンによる征服の根本原因である。オムリ家の考古学は普通、ソロモンの時代ほど注意を払われない、聖書考古学の主要議題への単に付随的な情報とみなされていた。しかし、初期になされた、聖書の歴史と出土品との間の相互関係には何か重大な間違いがあった。ソロモンの広大な王国の性質、範囲、あるいは歴史的実在さえ新たに問われ始めたこと、そして考古学上の地層の年代を決定し直すことがその上、研究者のオムリ家理解に必然的に影響を及ぼした。というのは、もしソロモンが実際に「ソロモンの」城門や宮殿を建築しなかったのなら、誰が建てたのか。オムリ家の者たちは明らかにその候補者であった。メギドで掘られた(そして最初ソロモンに帰せられた)特徴的な宮殿に類似する最も古い建築物は、ソロモンの時代のまる一世紀も後の紀元前九世紀の、この様式が生まれた場所と考えられる北シリアからやって来た。これはまさにオムリ「ソロモンの」城門や宮殿の年代を決定し直すことへの決め手となる手がかりは、イズレエルの谷の中心にあるメギドの東一○マイル弱に位置する、聖書に出てくるイズレエルの遺跡から出てきた。この遺跡は、冬は温暖な気候、夏は涼しい風に恵まれ、西のメギドから北のガリラヤを通って東のベト・シェアンやギレアドまでの、イズレエルの谷全体とそれを取り囲む丘々を広範囲に一望できる、美しい高台に位置している。イズレエルは聖書にあるナボトのぶどう畑の物語とアハブとイゼベルの宮殿拡張計画で、そしてオムリ王朝の最終的な根絶の残虐な場面として主に有名である。この遺跡は一九九○年代、テル・アビブ大学のデヴィッド・ウシーシュキンとエルサレムにある英国考古学院のジョン・ウッドヘッドによって発掘された。彼らはサマリアの囲い地にたいへんよく似た、王室の広い囲い地を発見した。この印象的な敷地は紀元前九世紀の短い期間だけ、おそらくオムリ王朝の治世の間だけ人が住み、建築されてすぐ後、たぶんオムリ家の滅亡あるいはそれに続くアラム・ダマスコの軍による北イスラエル侵略との関連で破壊された。


それでもしかすると聖書のソロモン王の大神殿はこの一瞬だけ存在したオムリ王朝の建造物をのちの聖書筆者がパクッて自分の物語に書き記したものかもしれませんね cry

編集者 てつてつ (2020年01月15日 15:17:14)

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#289 2020年01月15日 15:42:21

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

私たちが後代の聖書記者の観点から理解するように、イスラエル王国が全体として、その名が含む民族的、文化的、あるいは宗教的意味のいずれにおいてもいつも特別にイスラエル的であったと、厳密に考古学的観点から主張することはむずかしい。北王国のイスラエル性というものは多くの点で後代の南王国のユダ的な見解であった

列王記の著者は、オムリ家の人々は悪であり、彼らは彼らの罪深い傲慢な態度が十分に受けるに値する神の刑罰を経験したということだけを示すことに関心があった。もちろん、彼は民間説話や古い伝承を通してよく知られていたオムリ家の人々についての詳細と出来事を物語らなければならなかったが、彼はそれらすべての中でオムリ家の人々の邪悪な側面を強調したかった。従って、彼は彼らの軍事力の評判を、後代の出来事から取られたアラム人によるサマリァ包囲の物語と、アハブが勝利の時に彼の敵を残らず全滅させよとの神の命令に背いたという非難で艇めた。聖書の著者はサマリァにある宮殿の壮麗さとイズレエルにある壮大な王の囲い地を偶像崇拝と社会不正に深く結びつけた。彼は、完全な戦闘隊形でのイスラエル戦車隊が示す恐ろしい力のイメージとオムリ家の身の毛のよだつ最後とを結びつけた。彼はオムリ家の人々の正当性を否認し、北王国の全歴史は災いと避けることのできない滅亡へと至る罪の歴史であったことを示したかった。イスラエルが過去において繁栄すればするほど、彼はその王たちについてより軽蔑的否定的になった
オムリ家の下でのイスラエルの本当の特徴は、軍事力、建築上の偉業、そして(確定される限りにおいての)行政上の洗練さという驚くべき物語を含んでいる。オムリと彼の後継者たちは、まさに彼らがたいへん強力で、南のユダという貧しく周辺的な農業と牧畜の王国をまったく見劣りさせるような、地域の重要なリーダー的存在へと北王国を変えることに成功したことが理由で、聖書の憎しみを受けることになった。諸国と付き合い、異国の女性と結婚し、カナン様式の神殿や宮殿を建築したイスラエルの王たちが繁栄するということは我慢できず、考えられないことであったさらに、後のユダ王国の観点からすれば、オムリ家の人々の国際主義と開放性は罪深いことであった。近隣の民族の習慣と深くかかわることは、七世紀の申命記学派のイデオロギーによれば、神の命令への直接的な違反であった。しかし、ひとつの教訓がなおその経験から学ばれるだろう。列王記の編集の時までに、歴史の評決はすでに出されていた。オムリ家は崩壊し、イスラエル王国はもはや存在していなかった。それにもかかわらず、考古学上の証拠と外部資料の証言のおかげで、私たちは今、オムリ、アハブ、イゼベルを何世紀にもわたってあざ笑い、軽蔑するよう決定づけた聖書の生き生きした描写がいかに巧みにイスラエルという最初の真の王国の実像を隠したのかを知ることができるのである

編集者 てつてつ (2020年01月15日 15:45:05)

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#290 2020年01月15日 16:16:03

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

280ページあたり

しかし、宗教的に重要な変化の時がやって来た。背教、刑罰、悔い改めという終わりのない循環がまさに中断されようとしていた。というのは、アハズの息子で、二九年間エルサレムで王位にあったヒゼキヤが大胆な宗教改革に着手し、ダビデ王の時代から欠けていたヤハウェへの純粋な忠誠を回復したからである。ユダの地方で行われていた祭儀の最も強力な形のひとつは、王のうちでも最も信仰深い者たちによってさえほとんど邪魔されることのなかった高台あるいは戸外の祭壇の流行であった。聖書は呪文のように、あらゆる正しい王の行為を要約する中で、「高台は取り除かれなかった」という決まり文句を語っている。ユダの民は高台で犠牲をささげ、香をたき続けた。ヒゼキヤは偶像崇拝に関係するもののみならず高台をも取り除いた最初の人物であった。

それゆえ、ユダの歴史についての聖書の見方は、王国はかつてひじょうに敬虐であったが時々その信仰を捨てたという、その確信の中に明白である。ヒゼキヤの即位だけがユダの神聖性を回復することができたのである。それにもかかわらず、考古学はまったく異なる状況、すなわち、部族の、そしてダビデのヤハウェへの忠誠という黄金時代は後代の宗教的理想であり、歴史的現実ではなかったという状況を示唆している。考古学上の証拠は回復ではなく、中央集権的な王国とエルサレムを中心とした国家宗教が発展に何世紀もかかり、ヒゼキヤの時代において新しいものであったことを示唆している。ユダの民の偶像崇拝は彼らの初期の一神教からの逸脱ではなかった。それどころか、それはユダの民が何百年もの間崇拝してきた仕方であった。

それでずっと多神教がユダのスタンダードだったようですが このころから一神教という概念を奉じる勢力が力を増してきたみたいですね

編集者 てつてつ (2020年01月15日 16:16:57)

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#291 2020年01月15日 16:36:42

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ユダの伝統的宗教 287ページあたり

高台、それに先祖や家庭の神への崇拝という他の形態の存在は、列王記がほのめかすような、より古く、より純粋な信仰からの背教ではなかった。それは、ユダの丘陵地への移住者たちが持っていた、時代を超えた伝統の一部であり、彼らは周辺の人々の祭儀から知られあるいは取り入れられたいろいろな神々や女神たちと一緒にヤハウェを崇拝した。要するに、ヤハウェは広く多様な仕方で崇拝され、時には天の仲間を持っていると描かれていた。私たちは列王記の間接的な(そしてあからさまに否定的な)証拠から、地方の祭司たちもまた定期的に太陽、月、星に高台で香を焚いたことを知っている
高台はおそらく空き地あるいは自然の丘の頂上であったから、それらについての明確な考古学的な痕跡はまだ確認されていない。だから、王国の至るところでこの種の崇拝が流行したことについて最も明らかな考古学的証拠は、ユダにおける王国後期のあらゆる遺跡で何百もの裸の豊饒女神の小立像が発見されたことである。より示唆に富むのは、シナイ北東にあった八世紀初期のクンティレット・アジュルッドという、北王国との文化的つながりを示す遺跡で発見された碑文である。それらは明らかにヤハウェの配偶者としての女神アシュラに言及している。そして、ヤハウェの婚姻状況が単に罪深い北の誤った考えであったと想定されないよう述べるが、ユダのシェフェラからの王国末期の碑文にも、ヤハウェと彼のアシェラについて語る、幾分似た定式文が現れている。この深く根ざした祭儀は地方に限定されなかった。混合的ヤハウェ信仰は王国末期の時代でさえエルサレムにおいて栄えていたという十分な聖書的、考古学的情報がある。ユダのいろいろな預言者たちの糾弾は、ヤハウェが、例えばバアル、アシェラ、天の軍勢のような他の神々、そして周辺の地の国家神とさえ一緒にエルサレムで崇拝されいたということを十分に明らかにする。聖書でのソロモン批判(おそらく王国末期の現実を反映している)から、私たちはユダにおけるアンモンのミルコム、モァブのケモシュ、シドンのアシュトレトの崇拝について知っている(王上二・五、王下二三・一三)。エレミャは私たちに、ユダで崇拝されている神々の数はユダの町の数に等しく、エルサレムでのバァルヘの祭壇の数はエルサレムの通りの数に等しいことを教えてくれる三レニ・一三)。さらに、バアル、アシェラ、天の軍勢のための祭儀道具がエルサレムにあったヤハウェの神殿の中に設置されていた。エゼキエル書八章は、メソポタミアのタンムズ神崇拝を含む、エルサレムの神殿で行われていたすべての忌まわしいものを詳細に述べている。それゆえ、アハブと他のユダの悪い王の大きな罪は決して例外的なものとして見られるべきでない。これらの支配者たちは単に地方の伝統が制約されずに続くことを許したのであった。彼らと彼らの民の多くは、他の神々への時折の、そして補足的な崇拝と共に、王国の至るところにある数え切れない墓、聖所、高台で執り行われた儀式で、ヤハウェへの彼らの信仰を表したのである。


自分も高きところというのはなんだろうとずっと疑問でしたが どうも当時一般的にユダ王国で普通に行われていた多神教ぽいもののようで なにか特定のものをイメージする必要はないようです またアハブその他の聖書で悪く言われている王たちは寛大に宗教の自由を認めていたのですが 聖書筆者たち一神教のグループからみると極悪非道の悪い王となるわけですね cry

編集者 てつてつ (2020年01月15日 16:44:23)

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#292 2020年01月15日 16:54:53

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

突然のユダ王国の発展 290ページあたり

二王国時代の二○○年間の大部分、ユダは目立たなかった。その限られた経済的能力、他と比べた際のその地理的孤立性、それにその氏族の伝統と結びついた保守的傾向によって、搾取しようとするアッシリア人にとってユダ王国は、より大きく、より豊かなイスラエル王国よりも、かなり魅力的ではなかった。しかし、アッシリア王ティグラト・ピレセル三世(紀元前七四五’七二七年)の出現と彼の臣下になるというアハズの決心によって、ユダは大きな賭けを伴ったゲームへと入っていった。七二○年以後、サマリア征服とイスラエル滅亡で、ユダはアッシリアの属州と従属国に取り囲まれることになった。この新しい状況は、あまりにも大きすぎてほとんど予想することのできない未来に対して影響していた。エルサレムという王の要塞は、劇的な内部発展と、征服されたイスラエル王国からの何千人もの難民が南に逃げたという二つの理由から、取るに足らない地域のリーダー的存在としての一地方の王国の本拠地から一世代で政治的、宗教的中枢へと変わった。

ここで考古学が、エルサレムの突然の拡張の速度と規模を図にすることにおいてひじょうに有益なものとなっている。最初イスラエルの考古学者マーゲン・ブロシによって示されたように、最近数十年の間にそこで行われた発掘は、紀元前八世紀末に突然、エルサレムは、住居地域が以前の狭い尾根、すなわちダビデの町から、西の丘全体を覆うまでに拡張し、前例のない人口増加を経験したことを示してきた(一五三頁の図26。新しい郊外を中に含む大きな防護壁が建築された。ほんの数十年、確かに一世代の間に、エルサレムは約一○あるいは一二エーカーのささやかな高地の町からひじょうに密集した家、仕事場、公共建築物からなる一五○エーカーの巨大な都市部へと変わった。人口統計学的見地から見て、町の人口は一五倍も、すなわち約一○○○人から一万五○○○人に増えたかもしれない。

全体として、拡大は驚異的であった。八世紀末までに、かつてわずかな村とあまり大きくない町だけがあったユダに、首都エルサレムから小さな農場までのいろいろな規模の約三○○の居住地が存在した。長い間数万人のあたりでしかなかった人口はその時、約一二万人となった。
北でのアッシリアの軍事行動の結果として、ユダは突然の人口増加だけではなく、実質的な社会発展を経験した。要するに、ユダは十分に発達した国家になったのだ。八世紀末から、十分に発達した国家形成についての考古学的な歴しるしが南王国に現れる。すなわち、記念の碑文、印章と印影、それに王の統治に関しての陶片であり、公共建築物洲における切り石積みと石の柱頭の散発的使用であり、中央の作業場での土器と他の手工芸品の大量生産、それに地方の至るところでのそれらの流通である。地方の中心地としての機能を果たす中規模の町の出現、それに地方での民間聖と生産から国家産業へと移行した、油とワイン圧搾の大規模な産も重要である

問題は、この富と、十分な国家形成に向けての明らかな動きがどこから来たのかということである。結論は、ユダが突然アッシリア帝国の経済と協力し、自らそこに溶け込もうとさえしたということである。ユダのアハズ王はサマリア陥落以前でさえ、アッシリアと協力し始めていたが、最も劇的な変化は確実にイスラエル崩壊の後にやって来た。ベエル・シェバの谷における遠く南にある居住地の突然の増加は、ユダ王国がアッシリア支配の下、八世紀末、アラビア貿易の進展に貢献したことを暗示しているのかもしれない。新しい市場がユダの商品にも開かれ、このことが油とワインの生産強化を促進した、と確信するもっともな理由がある。結果として、ユダは、村や氏族に基づいた伝統的なシステムから国家の中央集権の下での換金作物化と産業化へという経済革命を経験した。富はユダ、特に、王国の外交、経済の政策が決定され、国の諸機関が監督された、エルサレムに蓄積し始めたのである。


というわけでそれでそれまで田舎の取るに足りない地方だったユダが北のイスラエルの滅亡とアハズ王がアッシリアの臣下になることによってはじめて大きな発展を遂げ王国らしくなったということですね
まあ日本で言うとアメリカの属国となることによって経済発展をとげることができたみたいなものでしょうか
でもこうしたラディカルなアハズ王ももちろん聖書筆者によってボロカスに言われるわけですけど cry

編集者 てつてつ (2020年01月15日 17:04:03)

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#293 2020年01月15日 17:21:59

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

新しい国家宗教の誕生 294ページあたり


紀元前八世紀末の驚くべき社会変容とともに、私たちが現在知っている聖書の出現に直接的な関係を持つ激しい宗教闘争が起こった。ユダ王国が十分に官僚国家として具体化する前、宗教思想は多様でばらばらであった。それゆえ、私たちが言及してきたように、エルサレム神殿には王の祭儀、地方では数え切れない豊穣祈願、祖先崇拝の祭儀、それにヤハウェ崇拝と他の神々の崇拝の混合が広く行きわたっていた。私たちが北王国の考古学的証拠から語ることができる限りでは、イスラエルにも同様に多様な宗教慣習があった。エリヤやエリシャのような人物の執勧な説教、イエフによる反オムリ家という厳格主義、アモスやホセァのような預言者の厳しい言葉についての記憶のほかに、ヤハウェだけの崇拝を正当と認めようとする、イスラエルという国家による断固とした、あるいは長期にわたる努力というものは決してなかった。
しかし、サマリア陥落後、ユダ王国の中央集権化が強まるとともに、宗教法や慣習に対して新たな、より焦点を合わせた主張が力を持ち始めた。その時、エルサレムの影響は人口的、経済的、政治的にひじょうに大きく、それは新しい政治的、領土的課題、すなわち全イスラエルの統一と関係していた。それに応じて、ユダのすべての民、実際には北でアッシリアの支配の下に生きているイスラエル人のために「適切な」崇拝のやり方を規定する祭司や預言者の制度についての決定がなされた。宗教指導体制におけるこれらの劇的な変化から、例えばバルーク・ハルバーンのよう書学者は、紀元前八世紀末や七世紀初期のたった数十年の問に、ユダヤ・キリスト教文明の一神教的な伝統が生まれたと提唱している
このことは、現代の宗教意識を特定しうるという「その宗教意識における中心的な書物である聖書が一神教の誕生を数百年早く位置づけているのを思えば特に」大きな主張である。しかしこの場合においても、聖書は過去の正確な描写というよりはむしろ回顧的な解釈を提供している。実際、サマリア陥落後の数十年間にユダで起こった社会的発展は、放浪する族長たちとエジプトからの偉大な国民の解放という伝統的な物語が新しい形で現れたユダという国家の中で、宗教改革の原因、すなわち一神教的考えの出現にいかに役立ったのかに関する新しい見方を提供するのである
紀元前八世紀のどこかで、地方での祭儀は罪であり、ヤハウェだけが崇拝されるべきであるとますます強硬に主張した学派が現れた。私たちはその考えがどこで始まったのか分からない。それは、(オムリ家没落のずっと後に文書に書き留められた)繰り返されるエリヤやエリシャの物語、さらに重要なことには、アモスやホセァというどちらも北で八世紀に活動した預言者の作品の中に表されている。結果として、この運動は、北王国の末期にアッシリア時代の偶像崇拝や社会的不公正にがくぜんとした反体制の祭司たちや預言者たちの中で始まったと提唱する聖書学者がいる。イスラエル王国滅亡後、彼らは南に逃れ、彼らの考えを広めたのである。また、ますます発展した地方に対して宗教的、経済的な支配力を行使しようと懸命になっていた、エルサレム神殿とつながりのある集団を指摘する学者もいる。おそらく、北からの難民、ユダの祭司、王室関係者が一緒になった時に、両方の要因がサマリア陥落後のエルサレムという濃密な雰囲気の中で役割を果たしたのであろう。(因習打破を唱える歴史家モートン・スミスによって「ヤハウェのみ運動」と称される)新しい宗教運動は、それを構成する者が誰であれ、古くからの伝統的なユダの宗教慣習や祭儀の支持者たちと激しい、そして継続的な争いを行った。ユダ王国内での彼らの相対的な強さを判断することは困難である。彼らは最初、少数派であったように思われるが、彼らは後に、残っている聖書の史書の多くを生み出し、あるいはそれらに影響を及ぼした人々であった。官僚政治と共に読み書き能力が広がったこの時期は新しい運動にとって幸運であった。朗唱される叙事詩や民間伝承の物語詩よりはむしろ書かれたテクストの権威が初めて、とても大きな影響を持った。今までで十二分に明らかになっているように、列王記の中にあるユダの初期の王たちの正しさと罪深さについての部分は「ヤハウェのみ運動」のイデオロギーを反映している。もし伝統的な混合主義的祭儀の支持者たちが結局勝利を収めていたなら、私たちはまったく異なる聖書を持っていたかもしれない。あるいはおそらく、まったく持ってはいなかっただろう。と言うのは、議論の余地のない祭儀の正統性、そして単一の、エルサレムを中心とした国家の歴史を創り出すことが「ヤハウェのみ運動」の目的であったからである。そしてそれは、申命記の法と申命記史書となるものを巧みに作ることに鮮やかに成功したのである。

古代の世界では、今日と同じく、宗教の範囲は経済、政治、文化の範囲から分離されることは決してできない。「ヤハウェのみ」という集団の考えは、私たちが見てきたように、多くのイスラエル人がサマリア陥落後も住み続けていた征服されたイスラエル王国を含む、全イスラエルに対するダビデ王朝の「回復」の追求という領土的な側面を持っていた。このことがエルサレムから支配する一人、北にある祭儀センターの破壊、エルサレムでのイスラエルの祭儀の中央集権化の下で、全イスラエルの統一もたらすのである。
なぜ聖書の著者たちが偶像崇拝にひじょうに憤慨したのかを知ることは簡単である。それは混沌とした社会の多様性の象徴であったからである。遠くの地域での氏族の指導者たちは、エルサレムの宮廷による管理あるいは支配なしに、経済、政治、社会関係に関する彼ら自身のシステムを実施していた。そうした地方の独立は、どんなにユダの人々によって古い歴史ゆえに尊重されていたとしても、イスラエル以前の時代の野蛮さへの「逆戻り」として非難されるようになった。それゆえ、皮肉なことに、最も純粋にユダ的であったものがカナン的な異端とされた。宗教的な論争の領域において、古いものが突然異国のものとされ、新しいものが突然正当なものとされた。回顧的神学の驚くべき作品とただ呼ばれることができるものの中で、新しい中央集権的なユダ王国とエルサレムを中心としたヤハウェ崇拝が、いつもあるべきであった仕方としてイスラエルの歴史の中に読み込まれた

それで国家らしきものがユダにできたこと 北のイスラエルから知識人たちが逃げ込んできたこと その影響で読み書きなどが広まり始めたなどがあいまってこの時代にはじめてエホバ一神教が国家統一のための宗教として台頭してきたみたいですね それで偶像崇拝禁止という美名のもとに自由な考えは禁止されて北朝鮮化していくわけですね cry

編集者 てつてつ (2020年01月15日 17:45:35)

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#294 2020年01月16日 08:23:34

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

ヒゼキヤ王について 300ページあたり

前705年のサルゴン死亡の後、遠方の領土を支配する帝国の能力が疑わしく見えた時、ユダはエジプトによって支援された反アッシリア同盟に加わり(王下一八・二一、一九・九)、謀反の旗を揚げた。それは広範囲にわたる、思いもかけない影響を持っていた。四年後の紀元前七○一年、アッシリアの新しい王センナケリブは恐るべき軍隊と共にユダにやって来た。列王記はその結果に何食わぬ顔をしている。ヒゼキヤは偉大な英雄で、ダビデとのみ比較され得る理想の王であった。彼はモーセと同じ道を歩み、ユダを過去のすべての罪から浄めた。彼が信心深いおかげで、アッシリア人はエルサレムを征服することができずにユダから撤退した。後で見るように、それは一部始終ではないし、その全物語は聖書においてその後に続く、ヒゼキャの息子マナセの五五年間の治世についての記事でも提供されてはいない。理想的な王ヒゼキヤと対照的に、列王記はマナセを、彼が王座についていた長い間、過去のひどく忌まわしいことすべてを復活させた究極の背教者であると詳細に描いている。もし私たちが頼れるものとして聖書の資料しか持っていないのなら、ヒゼキャの正しさとマナセの背教というこの単純明快なイメージを疑う理由はまったくないであろう。しかしながら、同時代のアッシリアの資料と現代の考古学は、アッシリアに対するユダの謀反についての聖書における神学的解釈がまったく異なる歴史的事実を隠していることを示しているのである。

編集者 てつてつ (2020年01月16日 08:25:36)

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#295 2020年01月16日 08:52:47

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

実際、奇跡的な救出がまさにその夜起こった。
「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った...

それゆえ、ユダの独立、そしてすべての敵に抗するヤハウェの救済力へのその熱烈な信仰が奇跡的に保たれた。しかしすぐその後、物語はヒゼキヤの息子マナセのダビデ家の王座への就任とともに妙なことになる。ヤハゥェの力がユダの人々にとって明らかであったろう時に、新しい王であるマナセは急に神学的に百八十度の転換をするのである

聖別されたエルサレムは、その時、そしていつも絶対的にこの世のヤハウェの座であるという信仰、そしてその座が汚れていないことがイスラエルの民の安寧を保証するという信仰にもかかわらず、マナセは伝えられるところによれば、彼の臣下に「主がイスラエルの人々の前で滅ぼした諸国民の人々よりも更に悪い事を行」うようそそのかしたのである(王下2.19

ここで何が起こっていたのか。何がこれらの劇的な逆転を引き起こしたのか。ヒゼキヤは実際にそんなに正しかったのかマナセはそんなに悪かったのか

謀反に向けてのヒゼキャの準備が行われた地理的範囲については確かではない。歴代誌は、彼がエフラィムとマナセ、すなわち、征服された北王国の高地地域にいたイスラエル人に過越の祝いのため、エルサレムで彼と一緒になるよう呼びかける使者をそこに派遣したと書き留めている(代下三○・一、一○、一八)。この記事の大部分はほとんど史実に基づいてはいない。それは、エルサレム神殿を中心にすべてのイスラエルをひとつにまとめる第二のソロモンとしてヒゼキャを提示した紀元前五、四世紀の無名の著者の観点から書かれたのである。しかし、かつてのイスラエル王国の領土へのヒゼキャの関心という示唆はまったくの作り事ではないかもしれない。というのは、ユダはその時、イスラエル全地へのリーダーシップを主張することができたからであった。しかしながら、たとえそうであっても、主張と達成可能な目標はまったく別物である。結局、ヒゼキヤのアッシリアに対する謀反は破滅的な決定であったことが判明した。実証されてはいないが、アッシリアの大規模な侵略軍を率いたセンナヶリブは彼の戦場での才能を十二分に示したのである。ユダのヒゼキヤ王は彼にまったくかなわなかった。

「ヤハウェのみ」という信仰は、アッシリア人の怒りに対してヒゼキヤの領土を救うことはなかった。ユダの大部分は荒廃し、シェフェラの価値のある農業地はアッシリアの勝者たちによってペリシテの都市国家に与えられた。ユダの領土は劇的に小さくなり、ヒゼキャは多くの貢ぎ物を支払うことを強要され、かなりの数のユダ人がアッシリアに強制移送された。エルサレムと首都の南に隣接しているユダの丘だけが容赦された。ヒゼキヤの信心とヤハウェの救済的介入についての聖書の話にもかかわらず、センナケリブが唯一の勝利者であった。センナヶリブは彼の目的を十分に達成した。彼はユダの抵抗を撃ち破り、それを服従させた。ヒゼキャは繁栄した国家を受け継いだが、センナケリブがそれを破壊した

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この印象的なラキシュ・レリーフは、ひとつのフレーム内で恐ろしい出来事の経過全体を物語っている。それはラキシュをひじょうによく要塞化された都市として見せている。猛烈な戦いが壁の近くで行われた。アッシリア人は、城壁に向けて彼らの重装備の破城槌を進めるための包囲用傾斜面を建築した。ラキシュを守備する者たちは必死になって応戦し、破城槌が壁に近づくのを阻止しようと試みた。彼らは兵器に火を付けようとして、たいまつを投げ、一方、アッシリア人たちは破城槌に水を注いだ。破城槌の背後に立つアッシリア人の射手たちは壁を矢で激しく攻めたて、一方、ユダの守備側は射返した。しかし、都市の防備のすべて、そして守備した者たちすべての英雄的な戦いは無駄であった。捕虜は城門から出され、その中には死んだ者もあり、その死体は槍で高く上げられた。宗教祭儀の神聖な器を含む略奪品が都市から持っていかれた。その間ずっとセンナヶリブは、アッシリアの野営地から遠くない王のテントの前の王座に落ち着きはらった威厳をもって座り、反逆した共同体の家々や公共建築物から運ばれた捕虜や略奪品の行進を見渡していた。研究者の中には、このレリーフの詳細の正確さを疑い、これはラキシュで起きたことの信頼できる記録ではなく、帝国の利己的な宣伝である、と論じる者もいる。しかし、レリーフがラキシュという特定の都市と紀元前間七○一年の特定の出来事を扱っていることはほとんど疑いない。都市の地形とその地の植物が正確に表現されているだけでなく、レリーフのためにスケッチをした画家がいた、眺望のきく正確な地点を特定することさえ可能である

一九三○年代のラキシュでの英国の発掘と一九七○年代のテル・アビブ大学を代表するデヴィッド・ウシーシュキンによる新たな発掘によって、このユダの大きな砦の最後の数時間に関する独自の劇的な証拠が現れた。レリーフに
描かれているアッシリアの包囲用傾斜面が確認され、発掘された。それは、かつてアッシリア帝国であった地でのそうした包囲システムの唯一現存する実例である。それが、尾根とつながっている丘の最も脆弱な側に建てられたこと
は驚くべきことではない。他のすべての側は斜面があまりに険しく、傾斜面の建築と破城槌の配備を許さなかったからである。


それでヒゼキヤは世界情勢がユダの独立を可能にするように思えた またはヤハのみ運動陣営からたきつけられたので アッシリアに謀反をおこそうとしたのですが反対にボコボコにやられてしまったみたいです み使いがアッシリアの兵18.5万人を打ち倒してすくったということの真偽はこの本には書かれていないようですが 史実ではなくヤハのみ運動家たちである聖書筆者の精神勝利法なのかもしれませんね cry

編集者 てつてつ (2020年01月16日 13:44:21)

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#296 2020年01月16日 13:49:26

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

マナセについて 317ページあたり

アッシリアに対する謀反の失敗の結果、ヒゼキヤの宗教的浄化とアッシリアとの対決という政策は、多くの人々にとってとんでもない無謀な誤りと思われたにちがいない。地方の祭司の中には、こうした災難をこの地にもたらしたのは、実のところ、あがめられていた高台をヒゼキャが冒濱的に破壊したことと、ヤハウェと共にアシェラ、星、月、他の神々を崇拝することを彼が禁止したことである、と論じた者さえいたかもしれない。私たちは主として「ヤハウェのみ」の陣営の文献を持っているので、彼らの対抗勢力が何を主張していたのかを知らない。私たちが知っていることは、センナケリブの侵略の三年後の紀元前六九八年、ヒゼキャが死亡し、彼の一二歳の息子マナセが王座についた時、ユダの(その時かなり縮小されていた)地方での宗教的多元性が回復したことである。列王記下はそれをひじょうに批判的な激しい憤りで報告している。申命記史家にとって、マナセはありきたりの背教者どころではなかった。彼はそれまでのユダ王国の中で最も罪深い王として描かれている(王下二一・三’七)。実際、列王記は「後に起こる」エルサレム破壊の責任を彼に負わせている(王下二一・二’一五)。公式な宗教政策におけるこの切り替えの背後には明らかに神学的考察以上の何かがあった。王国の生き残りはマナセと彼に一番近い相談相手の手中にあり、彼らはユダを復興させようと決心していた。そのためにはある程度の経済上の自治を、王国の富にとってまだなお最も大きな可能性を持つ源泉である、地方に戻すことが必要となった。一度は荒廃した農村地域の復興は、村の長老たちや氏族というネットワークの協力なしには成し遂げられず、そのことは長く崇拝されてきたその地にある高台での崇拝を再開することの許可を意味した。要するに、バアル、アシェラ、天の軍勢の祭儀が復活したのである。マナセは従順な臣下であることを強いられたと同時に、彼は明らかに、ユダの経済的回復がアッシリアの利益にかなっていると理解されることを正しく計算していた。繁栄するユダは帝国に忠実で、南におけるアッシリアの大敵であるエジプトに対する効果的な緩衝装置の役割を果たすことになった。そして、アッシリア人は深く悔いているユダに最恵国的な臣下の地位を与えさえしたかもしれない。南レヴァントの国々によってアッシリア王に送られた貢ぎ物を記録している七世紀のテクストは、ユダの貢ぎ物が近隣の、より貧しいアッシリアの臣下国であるアンモンやモアブによって支払われたものよりもかなり少ないことを指し示している。


七世紀のユダにおける最も興味深い発展は、東と南の乾燥地帯へのユダの居住地の拡張である 八世紀に常置の定住地がなかったユダの砂漠で、続く数十年の間に驚くべきことが起こったのである。七世紀、砂漠の中で農耕にわずかに適していたあらゆる生態学的適所に小さな用地の群が確立された。すなわち、エリコの近くで死海の西岸に沿った、エルサレムと死海の中ほどにあるブケアの谷にである。ベエル・シェバの谷において、用地の数は前の時代の数をはるかに越えて増えた。八世紀と七世紀の間に、この地域における家屋密集地域、それと共に人口が一○倍に増えた。この発展はマナセの政策と関連していたのだろうか。それは可能性がひじょうに高いように思われる。センナケリブの軍事行動まで、ユダ王国の経済はその領土の異なる生態学的適所によってうまくバランスが取れていたことは明らかである。すなわち、オリーブとブドウの果樹園は丘陵地、穀物は主としてシェフェラで育てられ、畜産はたいてい南と東の砂漠のはずれで行われていた。シエフエラがペリシテ人の都市国家に手渡されたとき、ユダは西にあった豊かな穀物生産地を失った。同時に、王国の残った部分で養われなければならない人口は著しく増えた。これらの切羽詰った状態はおそらく、、ンエフエラの豊かな農地の喪失を埋め合わせようという必死の試みの中、ユダの人口の一部分を王国の辺境地域へと駆りたてた。実際、乾燥地帯の開発は問題を解決することができた。古代のベエル・シェバの谷での農業の潜在能力の見積もりは、もしそこでの生産がうまく組織化されていたのなら、それだけでユダが必要とする全穀物の四分の一まで供給することができただろうと示唆している。しかし、このことは、国家の支援がなければそのような大きな規模でなされることはできなかっただろう。それゆえ、乾燥地帯への拡張はマナセの新しい政治的、経済的政策によって、実際に命令されなかったとしても、鼓舞されたと推測することは妥当である。

編集者 てつてつ (2020年01月16日 13:54:59)

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#297 2020年01月16日 14:05:10

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

アハズたちについて 323ページあたり

アハズの支配の最後の数年からヒゼキヤとマナセの時代までのアッシリアの世紀は、ユダにおける政策の劇的な揺れについての興味深い事例である。祖父、父、息子という三人の王はアッシリアの当局への反逆と関与の間、そして混合主義的宗教政策と厳格な宗教政策の問をコロコロ変わった。彼らについての聖書歴史家による扱いも、まったく異なる観点からではあるが、これらの変化を反映している。アハズはアッシリア人と協力した偶像崇拝者として述べられた。ヒゼキヤは完全にその逆であった。彼の治世にはまったく誤りがなく、功績だけだった。彼は理想的な王であり、過去の罪すべてからユダを洗い清めた。ヒゼキヤは、喜んでユダをアッシリアに従属させた罪深い父とは違間い、勇敢に戦い、アッシリアの範をかなぐり捨てた。アッシリア人はエルサレムを威嚇したが、ヤハウエはエルサレムを奇跡的に救い出した。物語は将来のアッシリアへの服従をまったく暗示することなく終わり、ひとつの節を除き、ユダの地方におけるアッシリアの軍事行動による壊滅的な結果についての言葉はまったくない。マナセもまた彼の父の鏡像であり、今度は否定的なものであった。彼は究極の背教者であり、改革を一掃し、過去のあらゆる忌まわしいことを回復させた。私たちが外部資料や考古学から得たものはたいへん異なっている。北王国の崩壊はエルサレムにおいて、全イスラエル人をひとつの首都、ひとつの神殿、ひとつの王朝の下で結合させるという夢をもたらした。しかし、強大なアッシリア人に直面して、選択肢は二つしかなかった。夢を忘れ、アッシリアと協力するか、国の政策を推し進め、アシシリアの範をかなぐり捨てることができる好機を待つかであった。いちかばちかの賭けには思い切った行動が要求される。すなわち、アッシリアの世紀はこれらの二つ選択肢の間の劇的な変化の舞台となった。
アハズは、イスラエルの厳しい運命からユダを救い、繁栄へと導いた慎重で現実的な王であった。彼は、生き残るための唯一の道はアッシリアとの同盟関係に入ることだと理解し、忠実な臣下としてアッシリアの王たちから経済的特権を得て、ユダをアッシリアの地域経済に組み込んだ。アハズはユダにおいて前例のない繁栄の期間を支配し、それこそユダが十分に発達した国家の段階に始めて到達した時であった。しかし彼は、伝統的な宗教慣習が広く行われることを認めることにより、申命記史家の怒りを買ってしまったのである。


マナセが王位についたとき、エルサレムにおける政権は穏健な立場に戻った。彼はその時たったの一二歳だったので、エルサレムでの政変は事前に計画を立てられていたことはほとんど疑いない。マナセは状態をアハズの時代に戻した。彼の長期にわたる支配は実際的、混合主義的な立場の完全な勝利を特徴付ける。彼はアッシリアとの協力を選び、ユダをアッシリアの地域経済に再び組み込んだ。灰から起きあがる不死鳥のように、ユダはセンナケリブによる軍事行動のトラウマからの回復を始めたのである。「ヤハウェのみ運動」の預言者や賢人は、事態のこの変化にひどく失望していたにちがいない。偶像崇拝の罪を駆除し、外国の帝国に挑戦しようとした、彼らの英雄ヒゼキヤのかつての業績のすべてが、最初はセンナケリブの残忍な軍隊によって、それからヒゼキヤ自身の息子によって帳消しにされた。もしヒゼキヤがイスラエルの救済者となる可能性がある人物と見なされていたとするなら、彼の息子マナセは彼らにとって悪魔であった。聖書の物語には、人々の不安が時々ユダで激発したという指摘がある。マナセは「罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムを端から端まで満たした」(王下一三・一六)という報告の背後にある具体的な出来事は知られていないが、私たちは、王の敵対者たちが権力を奪おうと試みていたのかもしれないと推測することができる。それから、申命記史家がマナセの死後少しして、ユダにおける政権を首尾よく味方に引き入れ、王国の歴史を書き始めた時、彼らがその記事を置いたことはほとんど不思議ではない。彼らはマナセをすべての王たちの中で最も邪悪な者、そしてすべての背教者の父として描いた。

それでアハズとかマナセなどの現実的な見方をする賢明な王たちはヤハのみ陣営からするととんでもない悪人なわけですね なんだかものみの塔の組織が現役さんまたは離れた元信者さんがこの世で現実的に折り合いつけて普通に生活しているのをすごく憎んだりさげすんだりしているのに似ているなと思いました cry

編集者 てつてつ (2020年01月16日 14:11:08)

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#298 2020年01月16日 14:14:15

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

すぐに物語のクライマックスがやって来る。紀元前六四二年にマナセが死亡し、彼の息子アモンが続いた。列王記下によれば、アモンは「マナセが行ったように、主の目に悪とされることを行った」(王下二一・二○)。二年以内にクーデターが起こり、アモンは暗殺された。恐怖の中、明らかにユダの社会的、経済的エリートである「国の民」は謀反を起こした者たちを殺害し、アモンの八歳の息子を王位につけた。ヨシャはエルサレムで三一年間統治し、実にダビデ自身の評判に匹敵する、ユダの歴史において最も正しい王として称賛されることになる。彼の治世の間、「ヤハウェのみ」陣営はもう一度権力を握ったのである。今度もまた、彼らの情熱的な宗教的信念と、この世のあらゆる敵に対してユダとダビデ王朝を守るヤハウェの力についてのひたむきな考え方は、歴史の厳しい現実に崩れることになる。しかし今回、彼らは彼らの考えを存続させるすばらしい書を残すことになる。この一大記念物は、彼らの歴史観と未来への希望を表す、時代を超えるヘブライ語テクストのコレクションとなった。その集合的なサガは、私たちが今日知っているところのヘブライ語聖書の揺るぎない土台となるのである。

ダビデ王の直系の一六代目の子孫であるヨシャは、エルサレムでの彼の父の暗殺という暴力の直後、八歳で王座についた。彼の若い頃についてはほとんど分かっていない。歴代誌三四章三節に報告されている十代での彼の宗教的覚醒についての物語はほとんど間違いなく、後になっての伝記的な理想化である。しかし彼の三一年にわたるユダ王国統治の間、ヨシャは多くの人々によって国家救済にとっての最も大きな希望、すなわち、イスラエルという一族の落ちた栄光を回復させることを運命づけられた真のメシアとして認められていた。エルサレム神殿で奇跡的に「発見された」律法の書の教義ゆえに、あるいはその教義に従って、彼は地方で昔から続いている高台を含む、異国の、あるいは混合主義的な崇拝のあらゆる痕跡を根絶するための軍事行動に着手した。彼と彼の厳格な軍隊は彼の王国の伝統的な北の境界で止まることさえせず、憎むべきヤロブアムがエルサレム神殿に対抗する神殿を設置し、ョシヤという名のダビデの後継者がいつの日にか北の偶像崇拝の祭司たちの骨を焼くだろうという(王上一三・二の預言が物語った)地、ベテルにまで北進した。ヨシヤのメシア的役割は、イスラエル人であることの意味を劇的に変え、未来のユダヤ教それにキリスト教にとっての士台を用意した新しい宗教運動の神学から起こった。その運動は結局、聖書の核となる文書を生み出した。それらのうちの主要なものはヨシャの治世第一八年、紀元前六一三年にエルサレム神殿の改修中に発見された律法の書である。大部分の研究者に申命記の原形と認められたその書物は、祭儀における大改革とイスラエルのアイデンティティの完全なる再構築の口火となった。それは聖書の一神教観の中心的な特徴を含んでいた。つまり、ひとつの場所でのひとつの神への唯一の崇拝、ユダヤ教の年の主要な祭り(過越祭、仮庵祭)の中央集権的・国家的遵守、そして社会福祉、正義、個人的道徳を扱う一連の法である。これは、私たちが現在知っている聖書という伝承がひとつになっていく上での形を作った瞬間であった。

編集者 てつてつ (2020年01月16日 14:20:28)

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#299 2020年01月16日 14:28:15

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

334ページあたり

律法の書の発見は、イスラエルの民のその後の歴史にとって最も大きな重要性を持つ出来事であった。それは、シナイで神からモーセに与えられた決定的な律法と見なされ、それを遵守することはイスラエルの民の存続を約束することであった早くも一八世紀に、聖書の研究者たちは神殿で発見された律法の書についての記述と申命記との間にある明らかな類似点について気付いていた。申命記の内容とヨシヤの改革についての聖書記事に表されている考えとの明確な、そして直接的な並行箇所は明らかに両者が同じイデオロギーを共有していることを示唆している。申命記こそが、それはすべてのイスラエルが従わなければならない「契約の言葉」三九・八)を含んでいると断言している、モーセ五書の中で唯一の書である。それは、「あなたたちの神、主が….:選ばれる場所」(三一・五)の外での犠牲を禁じる唯一の書である。一方、モーセ五書の他の書は何の反対もなく、その地の至るところに設けられた祭壇での崇拝に繰り返し言及している。申命記は、国家の神殿での国家的な過越のいけにえを述べている唯一の書である(一六・一’八)。申命記の現在のテクストに後代の付加が含まれているのは明らかであるとはいえ、その骨子はまさにエルサレムにおいて紀元前六二二年にヨシヤによって初めて守られたことがらである。書かれた法典がこの時代に突然現れたというまさにその事実が、ユダにおける読み書きの能力の広がりに関する考古学的報告とうまく調和している。預言者ホセァとヒゼキヤ王は申命記に含まれている考えと似たものと関連していたが、明確に書かれたテクストが現れ、王によってそれが公に読まれたという報告は、紀元前七世紀のユダにおける読み書きの能力の突然の、そして劇的な広がりの証拠と一致する。この時代からのヘブライ語で刻まれた何百もの個人の印章や印影の発見は、広範囲に書くことがなされ、文書が使用されていたことを証拠立てる。すでに言及されたように、こうした読み書きの能力の比較的広く行きわたった証拠は、ユダがこの時代、十分発展した国家の段階に達したことの重要なしるしである。ユダは以前、多数の聖書テクストを生み出す能力をほとんど持っていなかった。加えて、研究者たちは、申命記におけるヤハウェとイスラエルの民との間の契約の文学様式は、臣民が彼らの君主(この場合では、イスラエルとヤハウェ)に対する権利と義務の概要を述べる七世紀初期のアッシリアの臣下協定の文学様式と著しく似ていることを指摘してきた。さらに、聖書歴史家モシェ・ワィンフェルトが示唆してきたように、申命記は、プログラムに基づいたスピーチでのイデオロギーの表現において、祝福と呪いの類型において、そして新たな合意の土台のための儀式において、初期ギリシア文学との類似点を示している。要約すれば、申命記の原本が列王記下で言及されている律法の書であることにほとんど疑いの余地はない。突然発見された古い書であるというよりも、それはちょうどヨシヤの治世の前かその期間、紀元前七世紀に書かれたと結論づけることは間違いないことのように思われる。

編集者 てつてつ (2020年01月16日 14:28:47)

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#300 2020年01月16日 14:40:53

てつてつ
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Re: 聖書という書物について

なぜ申命記が今あるような形を取ったのか、そしてなぜ申命記はあのような明白に感情に訴える力を持ったのかを理解するために、まず、ユダの歴史における最後の数十年間の国際状況を見る必要がある。歴史的、考古学的資料の検討は、地域全体における力のバランスに関する主要な変化が、いかに聖書の歴史を形作る上での中心的な要因であったかを示すことになる 八歳の王子ヨシヤが紀元前六三九年にユダの王位についた時までに、エジプトは大きな政治的復興を経験し、その中で遠い過去の、すなわち征服を行った偉大な創始者たちのイメージが、その地域中でエジプトの権力と威信を高めるための力強い象徴として使われた。紀元前六五六年以降、第二六王朝の創始者であるプサメティコス一世は、アッシリア帝国の大君主の統治下から離脱し始め、後に彼の支配は、偉大なファラオであるラメセスニ世が紀元前一三世紀に支配したレヴァントの地域の大部分に拡大された。このエジプト復興の鍵は何よりも、紀元前七世紀最後の数十年におけるアッシリアの突然の、そして急激な衰退であった。一○○年以上もの疑問の余地のない世界支配の後、アッシリアの権力が崩壊した正確な日付と原因は今なお研究者たちによって論争されている。けれども、アッシリアの権力は最後の偉大なアッシリア王アシュルバニパル(紀元前六六九’六二七年)の統治の終わり近くには、帝国の北の境界にいた遊牧騎馬民族のスキタイ部族からの圧迫のため、そして東にあったバビロニアとエラムという臣民であった民族との絶え間ない戦闘から、明らかに衰え始めていた。アシユルバニパルの死後、アッシリアの支配はさらに、紀元前六二六年のバビロニアでの反乱と三年後の紀元前六二三年のアッシリアそれ自体での内戦の勃発に見舞われた。エジプトはアッシリア弱体の直接的な受益者であった。サイスというナイル川デルタ地帯にある都市から統治した第二六王朝の創始者プサメティコス一世は彼の指導の下、地元エジプトの貴族社会をひとつにすることに成功した。紀元前六六四年から六一○年までの彼の統治の間、アッシリアの軍隊はエジプトから引き揚げ、レヴァントの大部分をエジプト人に支配させておいた。この時代の出来事にとっての重要な情報源であるギリシア人の歴史家へロドトスは、(多くの伝説的な事細かさで潤色された物語の中で)どのようにプサメティコスが北に進軍し、地中海沿岸のアシュドドに対して二九年もの長きにわたり包囲したかを物語っている。その報告の真実がなんであれ、海岸平野に沿った遺跡での出土品は七世紀末の増大するエジプトの影響力を実際に示しているように思われる。加えて、プサメティコスはその時代の碑文の中で、彼が北はフェニキアまでの地中海沿岸を支配したと自慢している。海岸平野とかつての北のイスラエル王国の地域にあった領土からのアッシリア人の撤退は平和的であったらしい。エジプトとアッシリアがなんらかの合意に到達し、それに従って、アッシリアに軍事的支援を提供するという約束の代わりに、エジプトはユーフラテス川西側のアッシリアの属州を受け継いだということさえ可能である。いずれにせよ、カナンで帝国を再建しようという五世紀も続いたエジプトの夢は成就された。エジプト人は豊かな低地における農産物と国際的な交易路の支配を回復した。けれども、征服を行った偉大な新王国のファラオたちの時代と同じように、今やユダ王国として組織され、比較的孤立していた高地の住民たちは、エジプト人にとって他と比べ重要ではなかった。だから少なくとも最初の頃、彼らは主としてそのままの状態に置かれていた。イスラエルの北地域からのアッシリア人の撤退は、ユダ王国の人々の目には長く期待されていた奇跡のように思われたにちがいないという状況を生み出した。一世紀にわたるアッシリアの支配が終わった。エジプトは主に沿岸に関心があった。そして邪悪なイスラエルの北王国はもうなかった。道はユダ王国の人々の野心が最終的に成就する方向に開いているように思われた。ようやく、北に拡張し、高地にある征服された北王国の領土を占領し、イスラエルの祭儀を中央集権化し、偉大な汎イスラエル国家を確立することがユダにとって可能に思われた。こうした野心的な計画は積極的で力強い宣伝を必要としただろう。申命記はイスラエルの民の統一と彼らの国家祭儀の場所の重要性を確立したが、よみがえるユダの夢の力と熱情を表現するための叙事詩的歴史物語を創り出すことになるのは申命記史書と、モーセ五害の中のいくつかの部分であった。これがおそらく、申命記史書とモーセ五書の中のいくつかの部分の著者たちと編集者たちが、イスラエルの民の最も貴重な伝承を集め、作り直したことの理由である。行く手に横たわっていた大きな国家的奮闘に向けて国家を引き締めるために。

というわけで聖書の基本的なイデオロギーはこの特異な時代に作り上げられたようですね

編集者 てつてつ (2020年01月16日 14:53:48)

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