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#1101 2019年09月22日 08:42:32

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

マタイ28:19の冒頭で「それで、行って・・・・」とありますが何をうけて「それで」と
なるのでしょうか?
18節以前からの文脈をみると「それで」一般信者が「行く」理由がわかりません。

#1102 2019年09月27日 16:22:19

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“宗教や神を信じていない人の心を動かす(30)”で、無宗教や無神論者、それに中国人などアジア人に対する伝道の仕方が主な内容です。」
「無宗教や無神論者のほうが、何らかの宗教を信じている人よりも、簡単にJWの教えを信じてくれると思っているのかな?」
「アメリカでは、今年、無宗教が23.1%で、カトリック23.0%、福音派22.5%とほぼ同じという調査結果が発表されました。」
「ライアン・バージという人の調査だね。いちばん伸びているのが、無宗教で、これからの最大勢力になると予測している。先進国の中では例外的に、信仰心の篤かったアメリカ人もやっと他の国並みになるようだ。若い人の宗教離れは止まらないだろう。」

「無宗教の人が増えている理由として、2節では、“人生は楽しければいいと考える人や,心配事で頭がいっぱいになっている人が増えているからです。”とバカなことを言っています。何も考えていませんね。」
「“Understanding Unbelief(無信仰を理解する)”という研究が今年発表されている。これは、無神論者、不可知論者(神がいるかどうか証明できない)を深く知るために、日本、中国、ブラジル、イギリス、アメリカ、デンマークの6か国の人を対象にした研究。無神論者、不可知論者の価値観は、同じ国のそうでない人の価値観と変わらないという結果だよ。JWは、何の根拠もなく、無宗教の人をバカにしている。」
「日本の無神論者・不可知論者の特徴は何ですか?」
「日本の無神論者・不可知論者は、他の国の無神論者・不可知論者に比べて、超自然的なことを信じない人が多い。」
「ほかの国では、無神論者・不可知論者でも、超自然的なことをけっこう信じているわけですね。」
「例えば、中国の不可知論者の50%以上が占星術を信じていると答えている。面白いことに、日本と中国の場合、科学を信頼し、進化論に賛成する無神論者・不可知論者の割合が一般の人よりも低いんだ。他の国ではその逆になる。」
「日本と中国は無神論や不可知論が科学や進化を受け入れることとは結び付かないのですね。」
「面白い結果だけど、その理由については、論文では何も言っていない。」

「さらに2節では、“お金や権力を欲しがる宗教家に嫌気がさした人もいます。政府によって宗教活動が制限されている国もあります。”と言っています。これはそうですよ。」
「でも、JWが他人事みたいに言っているのはおかしいね。JWがつまらなさそうに伝道して歩くおかげで、宗教のイメージは悪化したと思うよ。宗教に熱心な人というと、あのJWのように人生を無駄にしている人と多くの人はイメージするようになったんじゃないの。」
「宗教にはまった結果が、住宅街をのろのろとカバンを持ってうろつくことなら、誰もが無宗教の方がよっぽどましだと思いますよ。」

「4から8節が、無神論者に伝道するときの基本的な心構えです。“最初からあきらめない。”、“親切で思いやり深くある。”、“相手を理解するよう努め,耳を傾ける。”の3つです。JWも大変ですね。」
「要するに、宗教の勧誘ということを隠せ、JWを隠せ、と勧めているだけじゃないの。」
「8節の例では、“幸せな結婚生活を送る方法,上手な子育ての方法,不当な扱いを受けた時の対処法などについて,人々の意見を尋ねています。相手の意見を聞いた後,こう言います。「2000年近く前に書かれたこのアドバイスについてどう思われますか」。それから,「聖書」とは言わずに,ぴったりの聖句をスマートフォンで見せます。”とあります。これはJW隠しですね。」
「こんな方法を組織が勧めていいのかな。自分たちは何者かをはっきり言わないなんて、詐欺的と普通の人は評価するよ。初めは興味をもって聞いていた人も、スマートフォンを見せられた時、なんだ、あのJWかと、憤慨して、断るんじゃないの。」

「9から11節が、無宗教の人向けの話題の紹介です。9節では、創造か進化という話題を持ち出し、動画を見せたり、冊子を渡したりせよ、とあります。」
「JWは、この話に自信を持っているんだろうね。かなり詳しく話し方を書いている。まず“ご存じと思いますが,科学者たちは自然界にあるものを模倣して,いろいろな製品を開発しているようですね。例えば,マイクやカメラを設計する時には,昆虫の耳や目の仕組みを研究するようです。”という。これはかなり誘導的な言い回しだ。」
「“ご存知かもしれませんが”といえば、知らないとか、それは間違っているとは言いづらいですよね。でも、“科学者たちは自然界にあるものを模倣して,いろいろな製品を開発しているようですね。”は、あまり正しくないですよ。」
「自然のものにヒントを得て、製品が開発されることはある。しかし、それは主流ではないよ。例えば、飛行機の翼断面。初めて飛行に成功したライト兄弟の飛行機の翼断面は鳥の翼断面に似た“薄翼”というものだった。しかし、それは大きな飛行機には向いていないことがわかり、風洞実験を繰り返すことによって、鳥とは違う翼断面が開発されて、今に至っている。飛行機は、羽ばたかないし、自然を模倣しているわけではない。」
「カメラの主流は昆虫の眼と関係ないですよね。」
「昆虫の複眼をまねしたカメラが造られてはいるけれど、一部の試みだよ。そもそも、元の英文には“昆虫の”という単語は存在しない。“For instance, microphone designers study ears, and camera designers study eyes.”とあるだけ。アメリカの無学な執筆者より知識のある日本の翻訳者が、この文は正しくないと思い、より妥当な文にするために“昆虫の”を付け加えたと思う。」
「2013年10月の“目ざめよ”に“キリギリスの注目に値する聴覚”という記事があって、そこには、キリギリスの聴覚を生み出している音響小胞が、新しい補聴器の開発に役立つだろうと書いてあるのですよ。この記事を思い出して、勝手に“昆虫の”を付け加えたかもしれません。でもマイクじゃなくて補聴器ですけど。」
「少なくとも、翻訳者は勝手に単語を付け加えるのはやめろ、と言いたいね。」

「その次に“では,自然界はどのようにして存在するようになったのでしょうか。偶然生じたのでしょうか。だれかが造ったのでしょうか。”と、尋ねます。“科学者”とか“設計”という単語を使って誘導したあと、こう尋ねられれば、“だれかが造った”と答える人も出てくると思います。」
「そう答えたとしても、差別的でけちなJWの神様とは思わないよ。」

「10節は、世の中をよくする方法について話すという例です。“世の中は今後良くなると思いますか。だれが世の中を良くしてくれるでしょうか。”と尋ね、その後、“相手の答えをよく聞いた後,明るい将来を約束する聖句を読むか,口頭で述べるかします。”とあります。」
「よくならない、という答えを期待しているんだよね。トランプ大統領に任せておけば大丈夫、という答えだったらどうするんだろう?」
「それを無視して、聖句を読むのが正しいやり方だと思います。」
「伝道1:4の“世代は去り,次の世代となる。しかし地球は永遠に存続する”を、地球が永遠に存続するという約束とJWは考えているようだけど、この聖句のポイントは前半だよ。人間は地上の支配者のように思っているかもしれないけれど、ただ過ぎ去っていく、それに対して、大地は人間の生死など気にすることなく、存在し続ける。生まれては消え、また生まれては消える人間のはかなさ、むなしさを際立たせるものとして変わることのない大地がでているだけ。文学的な技巧にすぎない。もちろん、地球という訳は意図的な誤訳ね。」
「それに永遠と訳されているヘブライ語は、長い期間とか定めのない時まで、という意味ですよね。永続性を必ずしも意味してはいないのですよね。」
「ヘブライ語の辞書を見ればわかるけれど、この単語の意味は30くらい出ているよ。そのうちの一つが、“永遠”というにすぎない。例えば、出エジプト21:6は、“主人はその人を真の神の前に連れていく。そして,戸か戸口の柱の前に連れていき,彼の耳をきりで突き刺す。こうしてその人は生涯,主人の奴隷となる。”とあるけれど、伝道の書で“永遠”と訳された同じ単語が、ここでは“生涯”と訳されている。」

「12から16節は、“アジアの人に真理を伝える”で、欧米にいるアジア移民への伝道についてですね。」
「日本人が、アメリカに行って、ボーとベンチに座っていたら、いいカモだと思われ、アメリカのJWに話しかけられるのかな?」
「13節では、移民したばかりの中国人に、“『生活には慣れましたか。仕事は見つかりましたか。周りの人は親切にしてくれていますか』と尋ねます。”、そして聖書の格言の一つを見せるのだそうです。」
「それが箴言17:4の“言い争いになってしまう前にそこを去れ。”というものだけど、これをわざわざ読むのは、中国人がしばしば町中で、でかい声で喧嘩しているからなのか?中国人に対する偏見だ。」
「14節には、神を信じていない人に、本当の神とそうでない神の見分け方として、イザヤ41:23の“将来に起きる事柄を私たちに告げよ。そうすればあなた方が神であることが分かる。”を読んで、エホバが将来を予告した例を話すのだそうです。」
「その人がJWに、実際に将来のことがわかるのか、と尋ねたらどう答えるの?JWといえば、外れる預言で有名だよね。」
「わからないと答えたら、本当の神でないことを認めることになりますし、わかると言えば、嘘になりますね。」
「アジア人はJWのことを何も知らないという前提のようだね。」
「実際に知らないでしょう。相手の無知を利用するのがJWスタイルです。」
「中国人に、親切そうに話しかけてくる人がいたら、JWかもしれないので、警戒するように教えてあげないと。」

#1103 2019年10月04日 16:20:00

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私たちは諦めません(31)”で、死ぬまでJWとして手を抜くな、という内容です。」
「諦めないというは、コリント二4:16からきているけれど、新共同訳は、“落胆しません”だし、英語でもnot lose heart(落胆しない)が多い。信者を奉仕活動へと追い立てるには、“諦めない”の訳の方が好都合だから、そう訳しているのだろうね。」
「JWは、そろそろ諦めた方がいい頃じゃないですか?」
「重なる世代の解釈が出た時点で、JWを諦めて、新しい人生を始めるべきだったね。」
「あれは苦し紛れの酷い解釈ですからね。」
「みんなで諦めないことを再確認する記事を学ぶというのは、この組織の衰退を示すものだね。」

「1節に、“クリスチャンは命の賞を目指す競走に参加しています。”とあります。面白い主張ですね。全く知らなかったですよ。」
「人生を競争に見立てるというのは、アメリカの競争社会を反映した宗教らしいね。競争に勝つためにはすべてを犠牲にしろ、というのがこの記事のメッセージだけれど、アメリカのビジネスマン向けの啓蒙書みたいだ。たいていの宗教は、競争に勝つことが人生の目的でよいのですか、競争に勝つこと以外に人生に重要なことがあるのではないですか、と問うものなんだけどね。JWはそうじゃないんだよね。」

「4節に、“パウロはフィリピのクリスチャンに手紙を書いた時,どんな状況に置かれていましたか。ローマで軟禁され,自由に伝道できませんでした。”とありますが、ローマで書いたかどうかははっきりしないのですよね?」
「そう。最近はエフェソス説が有力だ。JWの教義の多くは100年くらい前のJWとは無関係な学者の聖書研究に基づいている。聖書研究も進歩しているんだけどね。」
「ローマ15:23,24では、“もうこの地方に手付かずの場所はありませんし,私は皆さんの所に行きたいと何年も願ってきました。 それで,スペインに向かう際には,皆さんに会い,”とあります。つまり、パウロは当時西の果てとされていたスペインへ行く途中に、ローマに立ち寄るといっています。しかし、フィリッピ2:34では、“また,主が望むなら自分も間もなくそちらに行けるに違いないと思っています。”とあります。ローマで書いたのなら、パウロはスペイン宣教という大目的を忘れてしまったことになります。」

「5節に、フィリッピ3:12-14が引用されている。3:14には、“神からキリスト・イエスを通して天に招かれるという賞を得られるよう,ゴールを目指してひたすら走っています。”とあるよ。JWの教義では144000人しか天に行かないわけで、大多数の人には関係のない聖句じゃないの?」
「天に行く人はゴールを目指してひたすら走って、そうじゃない人はもっとひたすら走れというのがJWの教義ですよ。」
「5節で、フィリッピ3:12にある、“私は後ろのものを忘れ”という部分の解説として、パウロを見倣うように言っている。これがへんだね。」
「6節では、“あなたは過去に犯した罪のせいで罪悪感を抱えていますか。”、“お金や物を得るチャンスを手放したことを後悔しないようにしましょう。”、“自分はもう十分に奉仕した,と考えるべきではないのです。”とあります。」
「“私は後ろのものを忘れ”を、手放したチャンスを忘れることという説明がいかにもJW的だね。進学や仕事に関して多くの犠牲を強いておきながら、そのことを忘れろと、組織が言うのはおかしいし、フィリッピ3:12に関連付けるのもおかしい。」
「フィリッピ3:12,13は人生をレースに例えているわけです。したがって、“私は後ろのものを忘れ”とは、自分がこれまでどれくらい走ったかなど意識することなく、ひたすら前に進めという意味で、罪悪感や手放したチャンスのことなど言っていませんよ。」
「少し前の、フィリッピ3:4で、“私は,人間的な事柄に基づいて誇ることもできます。人間的な事柄に基づいて誇れると思う人がほかにいるとしても,その人より私の方が誇る根拠があります。”と言っている。パウロは、罪悪感に悩むようなタイプではなく、自分はキリストから直接使徒に任命されたと驚くようなことを主張する自信過剰な男だよ。」

「7節では、 “クリスチャンの生き方を競走に例えました。(コリント第一 9:24‐27を読む。)競走の走者はゴールを目指し,気を散らされないようにします。”とあります。赤い服の人だけがひたすら走って、それ以外の人は、よそ見をしている挿絵がでています。」
「コリント第一 9:24‐27には、“気を散らすな”なんてどこにも書いていないよ。“競技に参加する人は皆,どんなことについても自制します。”とあるだけだよ。競技者は、厳しい練習をし、食事制限や睡眠の管理が求められる。そのことを言っているわけで、“自制”より、新共同訳の“節制”という訳の方が適切だろうね。」
「ここは、信者をこき使うために、余計なことを考えずに、奉仕に専念しろ、と言いたいだけですね。」

「コリント第一 9:27は、“人々に伝道しておきながら,私自身が何かのことで退けられないためです。”とあるけれど、これも新共同訳のように、“自分の方が失格者になってしまわないためです。”の方が適切。“退けられない”は字義訳ならいいけれど、新しい訳では字義訳はやめたんだよね。競争に例えているわけだから、失格しないためです、くらいに訳してほしい。」

「8節からは、“私たちのペースを落とさせる3つの要因を考えましょう。”です。その3つとは、期待がなかなか実現しない、体力が衰える、試練が続く、です。それぞれ体験談がありまして、それが主な内容です。」
「9節に、“当時,天に行くよう選ばれたクリスチャンは,1914年に自分たちの希望が実現することを期待していましたが,そうはなりませんでした。”とあるけれど、1914年に起きると預言したのに起きなかったその他の多くのことについては沈黙だね。」
「1914年に起きると預言していたのは、ハルマゲドンが終わり、偽りの宗教と全ての政府が滅び、地上に楽園が来るという途方もないことです。そのすべては起きませんでした。しかし組織は謝罪しません。それで、賢明にも多くの信者が組織を離れていったわけです。」
「元の預言は、イエスは1878年に天の王国の支配を開始し、異邦人の時は1914年に終わり、楽園が来るというものだった。それを1914年は、イエスが天の王国の支配を目に見えない形で開始した年と教義を変更した。そして、JWは初めからそう言っていたかのように歴史を改ざんしている。」
「そして、1914年の出来事を見た世代が死に絶える前に終わりの日が来ると言っていたのですが、現在では“重なる世代”へと教義変更。信者はJWを諦めていい頃ですね。」
「期待がなかなか実現しないことを認めているわけだから、のんびりやればいいという結論になるのかと思ったら、10節の最後は、“期待がなかなか実現しないからといって,手を緩めてはなりません。”となっている。論理性に欠けるよね。」

「11,12節は、“体力が衰える”なんですが、この論旨がよくわかりません。11節では、“でも大切なのは,これまで何をしたかではなく,これから何をするかですよ。”と、88歳のシコード兄弟の話を引用しています。ところが12節では、“あなたがこれまで忠実に奉仕してきたことを,エホバはうれしく思っておられます。(ヘブ 6:10)”で、“体力の許す限りのことを行う”だけでよいとあります。」
「引照聖句のヘブライ6:10は、“神は不公正な方ではないので,そうした働きや愛を忘れたりはされません。”とある。シコード兄弟の話は、この聖句と矛盾している。神は不公正な方だということになる。おそらく、この記事は、JWの偉人を宣伝するという目的があるのだろう。その話を記事の中に無理やり入れ込んだので、記事の論旨が一貫しなくなったのだろう。」

「13節は、“試練が続く。”で、旧ソ連での弾圧にあったアナトリー・メルニクの話が出ています。この人のことは2004年の“目ざめよ”で詳しく取り上げられています。」
「その記事を読むと、旧ソ連の宗教弾圧もたいしたことはなかったという印象を持ってしまうね。彼だけ特別のような気がする。彼は徴兵拒否で5年の刑を言い渡されたのに、3年で出てくる。そのあと、仕事も見つかり、驚くことに2回目の兵役を免除されている。その後、非公式の巡回監督として、旧ソ連のあちらこちらを旅行して歩いている。恵まれすぎているよ。KGBはそんなに甘くない。」
「5年の刑が3年になったという所が怪しいところでしょうか?」
「そうだね。刑務所で拷問にあい、当局と取引をした可能性がある。スパイとしてJWの活動を報告する代わりに、当局から便宜を図ってもらうという取引だ。もし、そうだとしても彼を非難できないね。これは監視している団体にスパイを送り込む基本的なテクニックだね。」
「アナトリー・メルニクがそうだという証拠はないわけですが、彼だけが恵まれているのはエホバのおかげではなく、当局との取引のおかげという可能性が高いということですね。」
「共産圏の秘密警察を甘くみるなということ。」

「14から16節が、“将来への希望を持ち続ける”です。」
「15節に、“パウロはフィリピのクリスチャンへの手紙の中で,天の市民権について述べました。(フィリ 3:20,脚注)”とある。フィリピ 3:20は、英語版では、“ our citizenship exists in the heavens,”(私たちの市民権は天にある)なのに、新訳では、“私たちは天に住むのであり”で、“市民権”という言葉がない。そのため15節は本文と引照聖句が合致していない。訳がおかしいよ。」
「そんな細かいことは日本のJWは誰も気づきませんよ。でも日本語の訳者が英文を変えすぎですね。」
「15節の脚注(*)の所には、“フィリピはローマの植民市だったので,フィリピの住民は,ローマ市民が持っていた権利を幾つか与えられていました。ですから,フィリピのクリスチャンはパウロの例えをよく理解できました。”と解説している。これは半分くらい正しいよ。フィリッピの住人でも市民権を持っているのは一部のエリート層。キリスト教に改宗した人たちの多くはエリート層ではないので市民権を持っていなかった人が多いと推定される。」
「フィリッピの住人にとってローマ市民権はあこがれの対象ということですね。それを踏まえて、天の市民権という言い方をパウロはしている。市民権という言う単語はあまり使われない単語ですよね。パウロは特別な意味を込めているとみるべきですね。」
「日本語の訳者はその辺を全く理解していないので、日本語訳で“市民権”という単語を使用せず、“天に住む”なんて自分の解釈を入れて訳したのだろう。排斥処分だね。」

「16節に、“天に行く希望を持つ人も,地上のパラダイスで永遠に生きる希望を持つ人も,ゴールを目指してひたすら走らなければなりません。”とあります。何度も聞いたことのあるような結論ですね。」
「天に行こうが地に留まろうが、死ぬまで奉仕活動なんだね。JWでいる限り、それ以外の人生は許されないわけだ。」
「“私たちは諦めません”という記事ですが、この辺でそろそろ諦めた方がいいなと、多くのJWに思わせる内容でした。」

#1104 2019年10月11日 16:30:05

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“愛の豊かな人になりましょう(32)”で、フィリッピ1:9-11を取り上げるのですが、みんな仲よくしよう、集会に参加しよう、伝道をしようという、いつもの内容です。」
「フィリッピ1:9-11 は“私はこう祈り続けています。皆さんが正確な知識と十分な識別力を得て,いっそう愛の豊かな人になれますように。 皆さんがより重要なことを見極め,キリストの日までずっと純粋でいて,人の信仰を妨げることがありませんように。 イエス・キリストによって皆さんが正しい実を豊かに結び,神がたたえられ,賛美されますように。”というパウロの祈りだね。しかし、訳が変だ。この訳は、JWの教義に合わせた訳だね。」

「4から8節は、“愛の豊かな人になる”です。4節で、“パウロはフィリピのクリスチャンに,「いっそう愛の豊かな人」になるよう勧めました。どうすればエホバをいっそう深く愛せるでしょうか。”とあります。フィリッピ1:9で、“いっそう愛の豊かな人になれますように。”とあるのですが、エホバを愛せという意味ではないですよね?」
「フィリピ1:9‐11は、手紙の初めの挨拶の後の、感謝と祈りという部分。この部分では、通常後で展開する論点が紹介される。フィリッピの手紙の重要な論点は、会衆の結束と一致を保つこと。愛の豊かな人というのは、信者同士の間の愛を指していると解釈するのが普通だね。会衆内部の不和は愛の欠如が背景にあるとパウロは思っている。」
「5節では、“エホバを愛するためにはエホバを知る必要があります。”と、無理やりエホバへの愛ということにして、“聖書を定期的に学び,学んだことを思い巡らす”ように言っています。」
「そこでは、“「正確な知識と十分な識別力」を得るなら,エホバをいっそう深く愛することができます。(フィリ 1:9)”とあるね。それをJW流の聖書レッスンに結び付けているわけだけど、パウロがこの手紙を書いている時点で、新約聖書もないし、聖書レッスンなんてものもないわけで、そういうことを指しているわけではない。」

「7節に、“パウロはフィリピの会衆への手紙の中でユウオデアとスントケの名前を挙げ,「同じ思いを持ってください」と勧めました。(フィリ 4:2,3)”とあります。この二人について、“きっと性格が合わなかったのでしょう。”と言っています。」
「新世界訳では、“ユウオデアとスントケに勧めます。主と結ばれた人として,同じ思いを持ってください。”だけど、新共同訳では、“わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。”だよ。新共同訳の方が元の文に忠実な訳。」
「新世界訳はかなりの意訳ですね。古い訳だと、“ユウオデアに勧め,またスントケに勧めます。主にあって同じ思いでいてください。”ですね。」
「新しい訳でも英文では、“I urge Eu·oʹdi·a and I urge Synʹty·che”となっている。いつものように変なのは、新訳の日本語版。」
「パウロは二人の女性それぞれの名をあげて丁寧に勧告しているわけですね。3節で、“良い知らせを広めるために私と肩を並べて一生懸命働いてきました。”とあるわけですから、パウロの同僚として敬意を払っているわけです。」
「それなのに、日本語訳はその辺を理解していない。」

「フィリッピはパウロが作った会衆ですよね。パウロ的な会衆は女性の活躍が目立ちます。パウロは女性差別主義者ではないということなんでしょうか?」
「パウロは当時のギリシャ―ローマ世界の標準的な男女観を持っていただけで、とりわけ女性差別的ではないよ。女性差別的な、テモテ一2:11,12に“女性は全く従順に,静かに学ぶべきです。女性が教えたり男性に権威を振るったりすることを,私は許可しません。女性は静かにしているべきです。”なんてあるけれど、テモテは、明らかな偽パウロ書簡だからね。」
「真正パウロ書簡というと、ローマ、コリント1と2、ガラテヤ、フィリピ、テサロニケ1、フィレモンの7つですよね。後の6つは偽パウロ書簡。真正パウロ書簡で判断すれば、それほどひどい女性差別主義者ではないということですね。」

「パウロの時代は、ハウスチャーチ(家の教会)の時代で、個人の家に信者が集まっていた。その家の女性が事実上その信者たちのリーダーであり、信者をもてなしたり、励ましたりする役を担っていたようだ。ローマ16:1、2に、“皆さんに,ケンクレアの会衆の奉仕者である,私たちの姉妹フォイベを紹介します。聖なる人にふさわしく,主に従う人として彼女を迎え入れ,何でも必要な援助をしていただくためです。フォイベは私や他の多くの人を助けてくれました。”とある。」
「姉妹というのは女性信者の意味ですね。奉仕者は役職を表しているのですよね。」
「奉仕者と訳されている言葉はdiakononで、英語で言うdeaconで、プロテスタントで言う執事、カトリックでいう助祭だ。ケンクレアというのはコリントの近くの港町。フォイベという女性はそこのリーダー的存在だったことがわかる。JWでは考えられないね。」

「8節に、“人の不完全さに注目し続けるなら,その人に対する愛は冷めてしまうでしょう。例えば,ある兄弟が王国会館の掃除を真面目にしていないように見えます。いらいらします。”とあり、いかにもJWらしい幼稚な例です。」
「ここで笑ってもらおうという、執筆者の配慮だよ。JWは、掃除を真面目にしないと、愛が冷めるわけだ。小学生レベルの話だね。このレベルの人たちの面倒を見なくちゃいけない長老は大変だね。」

「9から14節は“より重要なこと”で、9節に、パウロは、“「より重要なことを見極め」るよう勧めました。(フィリ 1:10)”とあります。どういう意味なんですか?この記事では、“エホバの名が神聖なものにされること,エホバの目的の実現,会衆の平和と一致などが含まれます。”といい加減なことを書いています。」
「エホバの名が神聖なものにされることが重要だと、どこでパウロはいっているの?パウロが問題にしているのは、キリスト・イエスだよ。パウロはエホバの証人じゃないからなね。」
「フィリッピの人にあてた手紙ですから、フィリッピの人の現実に即した解釈をして欲しいですね。」
「この手紙を読むと、フィリッピの人は、パウロが投獄されていることをかなり心配しているようなんだ。このすぐ後のフィリッピ1:12,13で、“さて,兄弟たち,知ってほしいことがあります。私の身に起きたことにより,良い知らせはとどめられるどころか,かえって広まっています。  私がキリストのために拘禁されていることが,親衛隊の全員とほかのあらゆる人たちに知られるようになっています。”といっている。」
「“より重要なことを見極め”とは、パウロが投獄されたことよりも、福音が広がっているということのほうがより重要なんだと言っているということでしょうか?」
「そう。だから、重要なことを見極めるなら、パウロのことで悲しむのではなく、喜んで欲しい、と祈っている。」

「11節に、“人の信仰を妨げてはならないというのは,本当に身の引き締まる警告です。”とあります。これは、フィリッピ1:10の“キリストの日までずっと純粋でいて,人の信仰を妨げることがありませんように。”から来ているのですが、この訳はへんですよね。」
「“人の信仰を妨げることがありませんように”と訳している聖書は他にないよ。受動態として訳するのが普通。新共同訳は、“キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり”だけど、こちらが普通の訳。キリストの審判に備えて、清く、とがめられることのないものになる必要があるという意味。」
「その誤訳に基づいて、娯楽や服装を制限・統制する話につなげています。12節では、体験談の形で、映画を見に行くのをやめるようにいっていますね。」
「これは集団の中で考えが極端化するという事例だね。バプテスマを受けたばかりの保守的な夫婦がいて、映画はダメと思っていたけれど、開拓者の夫婦が映画を見に行ったことを知って驚いた。それで開拓者夫婦は映画を見に行くのをやめたという話だけど、そうやって馬鹿げた制限や統制がより極端な方向に進んでいくというわけだ。」
「こんな人が実際にいるんでしょうか?新しい人のために映画を見に行くのをやめるなんて聞いたこと、ないですよ。」
「実際にはいなくても、この記事ではそれを勧めている。JWは絶えず周りの目を気にして生きろという教えだね。服装や娯楽よりも、王国会館売却の方が多くの信者の信仰を妨げるのに、組織はそれをどんどん進めているよ。なぜそれを問題にしないの?」

「13節では、飲酒問題のある人を、食事に招いて、お酒を勧めるのはよくないという話です。アル中のJWが多いので、この記事の主旨とは関連性はあまりないですが、この記事の中に無理矢理入れたんでしょう。14節は、お決まりの集会に出席せよという話です。どんなテーマでも必ず出てきます。」
「統治体のトニー・モリスは高級ウィスキーを大量に買っているところを、撮影された。この記事は。モリスの権力を奪おうという統治体内部の権力闘争をあらわしているかもよ。」
「深読みしすぎですよ。」
「昔のものみの塔には、集会に行く前に酒を飲んでいいかどうかを扱った記事があったぐらい飲酒問題は深刻なようだ。欧米人は酒に強い人が多いから、酒に弱い人が多い日本人よりも、酒の量が増え過ぎて、アル中になりやすい。」

「15から17節は、“「正しい実を豊かに結び」続ける”ですが、これもお決まりの伝道の話しにもっていきます。どんな聖句でも、集会参加と伝道のことに結び付けるJWの思考パターンがよくわかります。」
「そういう風に書いておけば執筆者としては無難なんだよ。執筆者も早く仕事を終えて、一杯やりたいんだよ。そのためには、決まった無難なパターンを繰り返せばいい。」
「それに、新しいメッセージもありませんからね。」
「フィリッピ1:11は、“イエス・キリストによって皆さんが正しい実を豊かに結び”となっているわけで、正しい実は、自分が正しい行いをしたことによってではなくて、キリストによる無償の過分な贈り物として与えられるという意味。JWの自力救済思想とは根本的に違う。」
「フィリッピ3:9に、“それは律法に従うゆえに自分を正しいと見なすからではなく,キリストへの信仰のゆえに正しいと見なされるからです。”とありますが、これは1:11と同じことを言っているわけですね。」
「JWの教義は、正しい行いを死ぬまで続けたものだけが救われるというもの。一方、JWでは人間は不完全だと強調するよね。そうなると、論理的には、誰も救われないという結論になる。」
「論理的に考えれば、JWは救いも希望のない宗教ということですね。」

「最後の18節には、“私たちは終わりの時代に生活しています。”とあるけれど、英文では、“At this momentous time”とあるだけだよ。“この重大な時代に”といった意味で、終わりの時代とは言っていない。」
「そう訳したのは、早く終わりが来てくれないと、自分たちが終わってしまうことになる日本のJWを励ますためですよ。」

#1105 2019年10月18日 16:37:25

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「あなたの言葉に耳を傾ける人たち」は救われる(33)”で、家族や親族をJWにする方法が主な内容です。」
「見ず知らずの他人を信者にするより、家族や親族の方がまだ可能性があるということだろう。初期のキリスト教はそうやって信者を獲得していったからね。」
「皆で、戸別訪問したんじゃないですか?」
「そんな記録はないよ。パウロのような伝道者だって、例外的な存在。ローマ帝国のおよそ25%は奴隷で、キリスト教はそう人たちに受け入れられていったと思われるけれど、奴隷にはもちろん伝道するなんてことはできない。キリスト教の信者には女性が多かったと推測されるけれど、女性も伝道する自由なんてないよ。」

「3から6節は、“家族や親族に良い知らせを伝えるべきなのはなぜか”です。3節には、“エホバは間もなく,今の体制を終わらせます。その時,「永遠の命を得るための正しい態度を持つ人」だけが生き残ります。”と人類の99.9%が死ぬ終末論を懲りもせず、繰り返しています。」
「100年以上前から、“間もなく”と言ってきたんだよね。終わりの日がいつ来るかは誰も知らない、と真っ当なことは言えないんだ。」
「終末論がセールスポイントの宗教ですから。」
「この終末論ゆえに、家族を信者にしないと、家族が死ぬ、と脅かせるわけだ。というわけで終末論は、取り下げるわけにはいかない。」
「JWを動かしている理屈は、間もなく終わりが来る、人々を助けなくてはならない、というものです。終末論を薄めた、より現実的な宗教にはなれないのです。」

「3節の終わりに、“愛情深い父エホバは,「一人も滅ぼされることなく,全ての人が悔い改めることを望んでいる」のです。(ペテロ第二 3:9を読む。)”と、ペテロ二3:9を引用しているけれど、これはイエスの再臨と終わりの日が来ることを否定する人たちに対して向けられた言葉だ。」
「イエスの再臨と終わりの日は使徒たちが生きているときに起こると思われていたにもかかわらず、何も生じなかったのですから、そう思う人が出てくるのは仕方ないですよ。ペテロ第二は、書かれたのは2世紀で、ペテロの名をかたった偽名文書ですよね。ペテロ第二の2:1-18は、ユダ書4-16のコピーみたいなものですから。」
「まず、イエスの再臨の遅れが問題になっているということは、使徒たちの死後の時代ということ。それからギリシャ思想の影響が強い点も後の時代に書かれたことを示している。」
「例えばどんなところですか?」
「ペテロ二2:4の“神は,罪を犯した天使たちを処罰しないでおくことはせず,タルタロスに投げ込み”とあるけれど、“タルタロス”はギリシャ神話の中に出てくるものだよ。ということは、この著者も読者もギリシャ文化に馴染んだ人たちということ。ユダヤ文化は遠くなりにけりということ。信仰よりも知識あるいは真実を知ることを強調しているのも知性重視でギリシャ的だ。」
「ペテロニ1:2,3なんかそうですね。“皆さんが神と主イエスについての正確な知識を得て,惜しみない親切と平和をますます味わえますように。私たちは神の力により,神について正確に知ることができ”とあります。」
「それから、3:16の“パウロはどの手紙の中でもこれらのことについて述べていますが,中には理解しにくい箇所もあります。無知で不安定な人たちは,そうした箇所や聖書のほかの部分を曲解し”とある。ここから、この時点ではパウロの手紙が集められて、聖典として広く読まれていたことがわかる。2世紀の話しだね。」

「5節で、“「塩で味付けされた快い言葉を語るように心掛けましょう。そうすれば,誰に対してもどのように答えるべきかが分かります」。(コロ 4:5,6)家族や親族に話す時にも,このアドバイスを心に留めることは大切です。”とありますが、これは文脈無視の引用ですね。」
「コロサイ4:5に、“会衆の一員ではない人と接する際にはいつも賢く行動しましょう。”とあるわけで、“塩で味付け・・・”というのは外部の人に接するときのアドバイスだよ。この聖句をここで引用するのは不適切だ。」

「6から14節が、“家族や親族をどのように助けることができるか”で、ポーリンが夫のウェインを見事JWに引き込んだという話しが出ています。要点は、“思いやりを示す。”、“行動で語る。”、“家族や親族を粘り強く助ける。”です。」
「6節の上に、昭和の日本の家族のような写真があって、その説明に、“思いやりを示し,良い行いをするなら,心が動かされる。”とあり、山盛りのイチゴのデザートを奥さんが出しているけれど、イチゴより高級ウィスキーの方が効果的でしょう。」

「ウェインは、初め反対したけれど、8節によると“妻や子供が聖書を学んで良い変化を遂げているのを見たウェインは心を開き,聖書の話に耳を傾けるようになりました。”とあります。」
「ウェインは今では長老だそうだ。バプテスマなど受けずに研究生でいた方がよかったんじゃないかな。ウェインは、あまり賢い男じゃなかったということだ。」
「7節で、ウェインは離婚をちらつかせたとありますが、8節には、“本当は離婚など望んでいないことは分かっていました。”と妻がいっています。妻の方が一枚上手だということですね。ウェインは確かに賢い男じゃないです。」
「妻がJWになってしまった場合、脱会させることは難しい、しかし離婚はしたくないのなら、夫はJWとほどほどの関係を保つのにとどめて、自分がJWになってはだめだろう。子どもの将来を考えるべきだよ。」
「両親ともにJWになったら、子どもはJWとして生きるしかなくなりますからね。高卒後、開拓者という無給の宗教セールスマンとして安物のスーツを着て、汗だくになって、町の中をうろつく人生しか選択肢がなくなります。」
「家族全員がJWで、もし子どもが排斥処分を受けたら、家族はバラバラになる。信者でない夫はそのリスクを考えるべきだ。まともな子どもなら、JWをいつかやめるよ。」

「11から14節は、アリスが両親をJWに引き込むのに成功したという話です。反対していた両親も、開拓者となり、父親は長老だそうです。」
「11節によると、アリスは外国で暮らしているときにJWになった。外国で一人暮らしの若者は、カルトの餌食になりやすいということの一つの例だね。」
「外国で孤独な若者が、親切そうに近づいてきたJWに取り込まれてしまったということでしょうね。」
「11節で、“両親は無神論者で,政治活動に熱心でした。”とあるから、宗教の怖さに対して無知だったんだろう。それから、ある種の理想主義者だったかもしれない。世の中をよくするという理想を持っていたのかも。宗教に無知な理想主義者は、JWの餌食になりやすいと思うね。」
「12節に、父親は聖書の間違いを見つけてやろうと思ったけれど、“父親は聖書の間違いを見つけるどころか,読んだ事柄に深い感銘を受けました。”とあります。おそらく、“聖書は実際に何を教えていますか”といったJWの出版物を読んだだけと思います。」
「今なら、英語でBible contradictions(聖書の矛盾点)とかBible scientific errors(聖書の科学的誤り)と入力して検索すれば、いくらでも聖書の間違いを教えてくれるサイトを見つけることができるけれどね。」
「インターネットがない時代の話しですよ。」
「14節で、アリスは、“1つのことで妥協したら,家族はそれ以外のことでも圧力をかけてくると思いました。でも,親切を示し,確固とした態度を取れば,こちらの言うことに耳を傾けてくれるかもしれません”と言っている。カルト信者らしい、かたくなで非妥協的な態度の典型だ。信者は一切譲歩せず、家族の譲歩を辛抱強く待て、というのが、この節のメッセージだね。カルトは怖いね。」
「そのおかげで、両親そろってJWとなったわけですが、このような家族はどれくらいいるのでしょうか?実際は、あまりいないと思います。」
「現代だったら、JWについてインターネットで検索すれば、その教義の問題点や反社会性にすぐ気が付くでしょう。この父親は607年問題も知らずに、JWに入信したんだと思うよ。無知というのは悲しいね。」

「15節からは、“会衆の兄弟姉妹はどのように助けになれるか”で、信者でない家族に会衆のJWを会わせることを勧めています。“ウェインは,ある兄弟のおかげでエホバの証人に対する偏見がなくなった”とありますね。」
「ものみの塔には、成功例しかでてこないからね。恐らく極めてまれな成功例だ。実際にJWと出会い、これは異常な人たちだと感じた例の方が多いと思うね。」
「でも、JWのある種のまじめさや人当たりのよさに感銘を受ける人もいると思いますよ。」
「表面的にはね。現実は、JWは普通の人から好感を得られるようなことは何一つしていない。地域貢献などなにもしない。慈善活動もしない。政府を悪魔の手先と呼ぶくせに、生活保護は喜んで受け取る。献血はしないけれど、血液成分なら喜んでいただく。」
「災害があっても、助けるのはJWだけですから。知れば知るほど、好感を持たれる要素はないですね。」

「16節では、集会に誘うことを勧めています。ウェインは、“何人もの人が私の所に来て歓迎し,固い握手をしてくれました。いい人たちだな,と思いました”と言っています。この人は無知なうえに騙されやすい人というのがよくわかります。」
「歓迎のラブシャワーだね。カルトの手口を知らずに集会に行ったのが問題だ。集会に行くなら、それがどういうものか、どのように歓迎されるのか、あらかじめ調べるべき。下調べもせず、集会に出かけて行って、感銘を受け、JWに入信してしまう。確かに、賢明な人間とは言えないね。」

「JWの教義では、JWではない家族は生きてハルマゲドンを迎えると滅ぼされてしまうのに、ハルマゲドンの前に死んだら、楽園で復活するわけですよ。この教義に則れば、家族がどうしてもJWになりそうもなかったら、ハルマゲドン前に殺すというのが、本当に家族を愛していることじゃないですか。」
「外国で実際に家族を殺して、自殺したJWがいた。楽園で、再び一緒に暮らせたらいいよね。」
「JWの教義を真に受けると、とんでもないことがおこるという例ですね。」

#1106 2019年10月25日 16:41:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“新たな割り当てに順応する(34)”で、今まで組織のお金で生活してきた宣教者や全時間奉仕者やベテル奉仕者は、クビになっても、組織に一層尽くすように、という内容です。」
「組織衰退の影響を受けたリストラ組と役に立たなくなったベテルの老人が主な対象の記事だね。似たような記事は少し前にもあったばかりだよ。」
「これからどんどんリストラするぞ、心の準備をしておけということだと思います。平信徒は、彼らを暖かく向かて、援助をしなくてはいけないみたいです。」
「組織は年金も退職金も用意していないわけで、平信徒の財布に頼るしかないわけだ。平信徒はこう記事をどんな気持ちで読むんだろう?」

「1から3節で、3つの事例が紹介されています。二つは外国での奉仕を断念したというもの、もう一つは、政府の迫害で支部事務所が閉鎖され、ベテルから追い出されたというものです。財政難でリストラという事例は取り上げていませんね。」
「外国奉仕というのは、たいていは貧しい国での奉仕なので、物価が安く、金がかからないけれど、本国はそうはいかず、蓄えもなく、たちまち生活に困窮するケースが後を絶たないのだろう。」

「5から11節が、“変化に順応する”です。5枚の写真で、見事に変化に順応した夫婦の姿を描いています。アフリカから元の国に戻ってきたという設定です。」
「貧乏JWのくせに、家賃の高そうなところに住んでいるね。このような非現実的な写真は、アメリカのJWから苦情が来ているよ。」
「英語のJW関連の掲示板で、JWの出版物に出てくる人には太った人がいないし、住んでいる家も立派すぎることが多い、おかしいよ、という投稿を見たことがあります。巡回監督向けのマニュアルには、太りすぎている人を大会でステージに上げるな、とあるようですね。」
「マニュアルの3章10節にあるよ。非常に太った兄弟だと、観衆がプログラムに集中できないかもしれないというようなことが書いてあったね。神の組織は、真実よりイメージを重視し、人間を見かけで差別する。」

「6節から、どうすればいいか書かれています。まずは、“エホバとの親しい関係を保つ。”」
「リストラされたJWだって、 それまでも、“エホバとの親しい関係を保つ”ことをしてきたんじゃないの?“エホバを信頼する必要があります。”とあるけれど、エホバをズート信頼してきた結果が、無一文のまま放り出されたんじゃないの。これ以上何をすればいいの?」
「7節には、エホバとの親しい関係を保つには、“聖書を毎日読み,読んだ事柄を思い巡らす必要があります。”とあり、さらに“家族の崇拝と集会の予習”と伝道をしなくてはいけないようです。エホバという神様は信者に対してそんなことを要求するようです。」
「7節に、“エホバはご自分に忠実に仕え続ける人のことを忘れたりされません。(ヘブライ 6:10‐12を読む。)”とあるけれど、そこまでしないと忘れてしまう神様なのね。忘れてくれたほうがいいかもよ。」

「8節は、“シンプルな生活を送る。”です。JWでは、貧乏生活のことを、“シンプルな生活”と呼びます。」
「出費を抑えれば、それほど働かなくても暮らせる。そのぶん奉仕活動の時間が取れるという組織の計算だね。死ぬまで無給の宗教セールスマンとしてこき使うつもりなんだ。」
「“エホバは私たちを「必要な時に」助ける,と約束しておられます。”とあります。これが本当かどうか、調査をしてみればわかるんじゃないですか?」
「そんな組織の甘言を信じた結果が、無一文でリストラ。調査するまでもない。」

「8節の引照聖句のヘブライ4:16には、“惜しみない親切を示してくださる神*に近づきましょう”とあります。英文では、“Let us, then, approach the throne of undeserved kindness”です。近づくのは神じゃないですよ。」
「ヘブライ4:14-16は、偉大な大祭司イエスについて述べている部分。近づいていくのは神じゃなくてイエスだよ。the throne of undeserved kindnessを“惜しみない親切を示してくださる神”とするのは意図的な語訳で、イエスが嫌いだからだね。エホバ教らしいね。」

「9節では、“安易に負債を抱えない。”です。貧乏生活を強いておきながら、借金はするなとは、無理な要求です。世間知らずの執筆者の空理空論です。」
「普通の人は、人生では何が起こるかわからないから、保険に入る、貯蓄する、そして何よりも安定した収入が得られるような仕事をする、といったアドバイスをするけれど、カルト宗教は、その当たり前のことが言えない。カルトに入ると生活が破壊されるというのがよくわかるね。」
「“引っ越しに予想以上のお金がかかり,負債を抱えてしまうことがあります。”とあります。海外に引っ越すとなると、引っ越し代はそうとうなものなんですか?」
「もとの英文では、“A move can be surprisingly costly(引っ越しは驚くほど費用が掛かるに違いありません)”で、日本語訳とはニュアンスが違うね。日本からニューヨークまで船便で、かなり少なめの荷物として、段ボール40個分の荷物を送ると、50万円はかかると思う。」

「10節は、“兄弟姉妹や家族との良い関係を保つ。”で、話の流れからすると、借金を申し込む相手として兄弟姉妹や家族しかいないのだから、彼らとよい関係を作っておけ、ということでしょうか。」
「なかなか鋭い読み取りだね。“あなたがなぜ全時間奉仕に熱心か,理解できない人もいるかもしれません。”という文が気になるね。会衆の中で、全時間奉仕者を嫌う人がある程度いることを認めている。全時間奉仕者の中に、自分たちが援助を受けるのは当然だ、というような傲慢な態度の人がいるからじゃないの。」
「“自分が成し遂げた事ばかり話したり,不満を口にしたりしないようにしましょう。”と注意していますので、反感を買うような言動をする全時間奉仕者がいるということです。JWを長くやればやるほど、人間としては劣化していくということですよ。」

「11節では、夫婦のどちらかが病気になったり、“思いがけず子供ができ”て、奉仕が続けられなくなっても、罪悪感を持つな、子どもを大事にしろ、とあります。」
「JWにとって、奉仕のほうが子どもより重要だよね。子どもでも排斥されたら、無視するのが正しいJW。この倒錯した価値観だと、思いがけず妊娠し、それで大事な奉仕活動ができなくなったら、子どものことを、“エホバからの「贈り物」”とは思えないよ。」
「それで、“それまでの奉仕よりもお子さんの方が大切だと思っていることをお子さんが感じ取れるようにしてください。(詩 127:3‐5)”と言っています。わざわざこんなアドバイスをするのは、そう思わないJWが多くいるからですよ。子どもがかわいそうです。」
「引照聖句の詩篇127:3-5の5の後半が“子供が町の門で敵と渡り合うから。”と訳している。子どもが多いことの利点を言っている部分だけど、英文では、“they will speak with enemies ”だよ。新共同訳のように、“敵と論争する”と訳すべき。」
「町の門の前は裁判が開かれる場所ですよね。ここでは法的な争いを言っているわけで、殴り合いのけんかではないのです。日本の翻訳者の無知がわかりますね。」
「その後に、“そうすれば,お子さんはあなたと同じように,エホバへの奉仕に打ち込みたいと思うことでしょう。”と続く。子どもをJWするために、子どもとよい関係を築けといっているようなもの。JWにとって、JWにならない子どもは、無価値なんだろうね。」

「12から14節は、“兄弟姉妹はどのように支えになれるか”で、この記事の中心部分でしょうか。リストラJWは配属された会衆で面倒を見ろ、という主旨です。」
「12節に“お金や物を差し入れたり,それらの奉仕者の家族を世話したりしています。”とあるね。この文を読んだJWは、また負担が増えるのか、と憂鬱になるよ。」
「でも“全時間奉仕者があなたの会衆に来ることになった場合,何かの失敗をしたか矯正を受けたので割り当てが変わったのだ,と考えるべきではありません。”という文には笑いが出るでしょう。一方、リストラJWは、余計なことを書きやがってと内心怒ると思います。」
「長年ベテル奉仕をしていたけれど、役に立たない、あるいは数々の不祥事を起こしたというJWが、地方の会衆に飛ばされるということは誰もが知っている。」
「ところが、どんな不祥事を起こしても、組織の秘密を知りうる上位の幹部クラスになると、そんなこともありません。のうのうと地位を保ったまま生きていられます。」

「13節の翻訳がおかしいね。“Most important, they need, not pity, but understanding.”という文が、“その人の気持ちに寄り添うことも大切です。”となっている。」
「“もっとも重要なことは、彼らに必要なのは、憐みではなく、理解であるということです。”という意味ですね。Pity(憐み)という語が、いやだったんじゃないですか。」
「リストラJWが憐みの対象であるという不都合な真実をわざわざ言いたくなかったんだろう。日本語の翻訳者は、忠実に訳するという気持ちはないからね。」

「15節からは、“ベストを尽くす”です。リストラされても、組織に不満を持つことなく、真面目に奉仕活動をやれ、という指示です。」
「そうすれば、いい人生だったと、笑って死ねるということかな?」
「最後の17節では、“新しい世”の希望をアレクセイという人に語らせています。“新しい世はいつ来てもおかしくない,と思っています。”とあります。」
「これはアレクセイが勝手に言っていることなので、組織は関係ないという含みがあるんだよ。新しい世は来ないけれど、末端の信者には希望を持たせなくてはいけないので、こんな姑息なことをしているじゃないか。」

#1107 2019年11月01日 16:47:06

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは謙遜な人を高く評価する(35)”で、先週の続きで、リストラされても、文句を言わず、組織に奉仕せよ、という内容です。」
「組織から理不尽な扱いを受けて、文句を言うと、傲慢な態度と見なすという訳だ。組織に説明を求めるのも、質問するのも、ダメということだね。」

「3から7節が、“謙遜とは何か”です。3節には、“謙遜とは,自分を低く見ることです。誇ったり人を見下したりしないことです。”とあります。」
「その3節には、“全ての人に自分より優れている点がある,ということを認めます。(フィリ 2:3,4)”とある。引照聖句に、“謙遜になり,自分より他の人の方が上だと考えてください”とあるから、そう書いているのだろうけれど、ここでいう謙遜は自分を低く評価することじゃないよ。自分の必要性より他人の必要性を優先しましょうという意味。だから、そのあとに、“自分のことばかり考えずに,他の人のことにも気を配りましょう”と続く。」
「この訳はおかしいですよ。新共同訳では、“へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、”です。新世界訳では、“互いに”がありません。」
「謙遜さは相互的なもので、一方的に誰かに求めるものじゃない。“互いに”を訳さなかったのは、JWでは、上に立つものが下のものに一方的に謙遜さを求めるからだろうね。」
「一番、謙遜さに欠けているのは統治体ですよ。予言が外れても、性的虐待があっても、絶対に謝らない。謙遜とは言えないです。」

「謙遜さはそれ自体では美徳だけれど、JWのような宗教団体が謙遜を強調するときは、注意した方がいい。JWの求める謙遜さは単なる盲目的な服従に過ぎない。JWの信者は、ただでさえ、異常に厳格な規則を押し付けられ、そのため自分たちは不完全で罪深く価値がないと思わされがち。これ以上自分を低く見る必要はないよ。」

「6節は、パウロの例が出ています。“自分がエホバとの良い関係を得たのは,性格が良かったからでも多く働いたからでもなく,エホバの惜しみない親切のおかげであることを認めています。(コリント第一 15:10を読む。)”とあります。」
「この“惜しみない親切”という言葉だけど、“undeserved kindness”を訳したもの。でも、英語では“grace”という単語を使うのが普通で、こんな言葉にしているのはリビングバイブルくらいだ。そこでは“special  favor”とある。」
「リビングバイブルというのは、子どもや教育を受けていない人でも読みやすいように、日常語を使用して、意味が分かりやすいように意訳した聖書ですよね。」
「新世界訳はリビングバイブルに似ているよ。JWの知的水準に合わせたんだろう。」
「graceは“神の恵み”と訳されていますね。」
「以前は聖寵とか恩寵なんて言葉が使われたけれど、言葉として難しすぎるからね。」

「パウロは謙遜な人と言えますか?結構自慢していますよ。」
「コリント一14:18で、“私は,皆さんよりも多くの言語を話せることを神に感謝しています。”と言っているし、自分の見た幻を語った後、コリント二12:7で、“特別な啓示を受けたということで過大評価してほしくないのです。”と言っている。謙遜な人かもしれないが、しっかり自分のことはアピールしている。」
「コリント一14:18の“多くの言語”というのは異言のことですよね。パウロが何か国語も話せたという意味ではありませんよね。」
「非常におかしな訳だね。」

「7節は、元統治体のカール・F・クライン兄弟の話です。謙遜な人と褒めたたえています。」
「この人は2001年に亡くなっている。長い間執筆部門の責任者だった人。この人の時代の教義は今では古い光となってしまっているね。」
「なぜこの人を今更取り上げたのでしょうか?傲慢な現在の統治体に反省を促すためでしょうか?」
「わからないね。この人は謙遜な人かもしれないが、嘘の多いJWの出版物の責任者だった人だからね。褒めたたえる気にはならないね。」
「クライン兄弟は義務教育以上の教育は受けていません。こんな人が執筆部門の責任者になれる組織は、高等教育軽視のJWだけじゃないですか?」
「知性よりも組織に対する忠誠心が重視された結果だろう。」
「レイモンド・フランズの“良心の危機”の中にクライン兄弟のことが少し出ています。JWが兵役のかわりの代替任務を受け入れてよいか、投票を統治体の中で行ったところ、クライン兄弟は反対票を投じたことが、147ページに出ています。過半数の統治体のメンバーは賛成していたのですが、3分の2以上の賛成が必要なため、代替任務を受け入れることは否決されます。そのため多くのJWが刑務所行きとなりました。」
「聖書的根拠など全くない、この方針は1996年に撤回されて、急に良心の問題とされる。それまで代替任務を拒否して投獄されたJWはどう思っただろうね。クラインはマラウイでのJWの迫害にも責任がある人だ。」

「8節から、“謙遜さを身に付ける必要があるのはなぜか”です。まず、謙遜だとエホバが喜ぶからだそうです。そこでは、ペテロ15:6、“神の力強い手の下で謙遜になってください。そうすれば,神はやがて皆さんを重んじてくださいます。”を読みます。」
「後半が変な訳だね。古い訳の“[神]はしかるべき時にあなた方を高めてくださるのです。”の方が普通の訳。“高める”だと天に行くという意味にとられるので、人類の大多数は地上組とするJWの教義上不都合なので、“重んじる”に変えたのだろう。新共同訳は、“かの時には高めていただけます。”となっている。」

「10節で、“生活する中で,正しくない,公平ではない,と思える事柄は起きるものです。賢い王だったソロモンはこう言っています。「私は,権力者が召し使いのように歩いているのに,召し使いが馬に乗っているのを見た」。(伝 10:7)”とあります。この聖句は、公平ではないことの例ですか?権力者が歩いて、召使が馬に乗って、どこがいけないのですか?」
「いけないことはない。これは、伝道の書の著者の階級意識の表われに過ぎない。著者は上流階級の人間で、上流階級特有の価値観を持っていたので、高貴なものが歩くなんて、なんとみっともない、と思っているし、下賤のものが馬に乗るなんて許せないことだと思っているだけ。」

「11節からは、“どんな場合に,謙遜であるのが難しくなることがあるか”です。まずは“何かの指摘を受ける場合”だそうです。」
「指摘されたことが正当であれば、感謝し、不当であれば怒るのが当然だよ。JWは不当な指摘も黙って従えということなんだろう。写真は、白人の老人が黒人の若者から注意されているというものだけど、人種問題が背景にあるかもね。」
「13節は、“何かの奉仕の機会が他の兄弟や姉妹に与えられるとき。”です。」
「ここはわざと誤訳しているね。“privileges of service”だから“奉仕の特権”だよ。なぜ特権という言葉を使いたくなかったんだろう?特権と謙遜は両立しないと思ったのかもね。特権意識をあおり、つまらない特権を与えたり奪ったりして、信者をコントロールするのがJWなんだけど。」
「他の人に特権を取られると、“なぜ自分ではなかったのだろうと思うことがあります。”とありますが、その理由はすぐ思いつきますよ。単に長老に嫌われているからですよ。」
「上の人にはゴマをする、付け届けをする。それをしないで、特権が得られると思っているJWは、謙遜じゃないよ。」

「14節で、モーセのことを取り上げ、“謙遜だったので,民のために裁きを行う務めをほかの人たちも果たせるようにしました。(出 18:13‐24)”とあります。出エジプト18章では、モーセの義理の父にあたるエトロがいろいろアドバイスをして、モーセがそれに従ったという話しなのですが、エトロって偉すぎますよ。何者なんですか?」
「モーセは若いころ、ある事件を引き起こし、ミディアンの地に逃れてきた。そこでミディアン人の祭司と知りあい、その娘チッポラと結婚した。モーセは羊を放牧しているときに神の山ホレブに来て、神様から啓示を受ける。」
「エトロは祭司というわけですが、どんな神様の祭司なんですか?YHWHつまりJWのいうエホバなら、エホバ崇拝はミディアン人の宗教だったということになりますよね。」
「出エジプト18章では、出エジプトに成功したモーセの所にエテロがお祝いにやって来て、18:12で、“エテロは神への全焼の捧げ物と犠牲を持ってきた。アロンとイスラエルの長老も皆やって来て,エテロと一緒に真の神の前で食事をした。”とある。この宗教儀式をリードしているのはエテロ。アロン以下は従属的な立場。どうみても、エテロはYHWHつまりJWのいうエホバの祭司だ。」
「ということは、イスラエルはミディアン人の神様をパクって、自分たちの神様にしてしまったということですか?」
「それをYHWHのミディアン人起源説という。別の説ももちろんあるけどね。イスラエル人は、最初はYHWHつまりエホバなんて言う神様は知らなかった。その神様はあとから取り入れたもの。」

「15節が、“状況が変化するとき。”で、要するに特権から降ろされた人たちのことです。やっとこの記事の重要箇所に来ました。気の毒にも“ここ数年,大勢のベテル奉仕者が野外で奉仕する割り当てを受けました。”とあります。」
「多くのJWは、こういう人を同情するどころか自業自得と冷ややかに見るようだね。いい組織だね。」
「16節では、“でも,そのうち新たな状況に順応できるようになりました。なぜでしょうか。何よりもエホバを愛しているからです。”とあります。」
「順応するしかないから、順応していっただけだよ。」
「リストラされたJWには選択肢なんかないですよ。不満を隠して、謙遜なJWをやるしかないです。」
「それができない人は、辞めていくか、精神がおかしくなるか、あるいは自殺する。」
「最後の17節で、“謙遜であるよう努めることは,自分のためになり,ほかの人のためにもなります。”とまとめていますが、JWが謙遜であると、一番得をするのは傲慢な今の組織なのです、ということも言ってくれたら最高なんですが・・・。」

#1108 2019年11月08日 16:40:18

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ハルマゲドンは良い知らせ!(36)”で、ハルマゲドンがどのように起こるのかを、よせばいいのに予言しています。」
「JWらしい笑える記事だ。信者を喜ばそうという善意の現れじゃないかな。聖書のあちこちをつまみ食いして、人類滅亡のストーリーを作るという、19世紀以来の手法だね。残念なことは、そのストーリーが極めて嘘くさいこと。」
「1節では、“ハルマゲドンの戦いによって人類は滅びるのではなく,救われるからです。”と主張しています。」
「すごい強弁だね。排斥は愛である、というJWの主張を思い出させる。JWの教義では、救われるのは全人類の0.01%に過ぎない。人類は救われるのではなく、滅びるといえるよ。」
「ハルマゲドンはヨハネの啓示に一回しか出てこない言葉です。その啓示1:1には、“イエス・キリストによる啓示。これは神が,間もなく必ず起きる事柄をご自分の奴隷たちに示すため,イエスに与えたものである。”と書いてあります。要するに啓示の預言は実現しなかったということですよね。」
「啓示22:7には、“私は速やかに来ます。この巻物の預言の言葉を守る人たちは幸福です”とある。これが書かれてから2000年近くたったけれど、預言したことは全く実現しなかった。この事実に目を向けるべきだね。」

「6節は、おもしろいです。“ハルマゲドンで,エホバはどのように敵を打ち負かしますか。いろいろな方法を使うことが考えられます。例えば,地震やひょうや稲妻を使うかもしれません。”とあります。ハルマゲドンをワクワクしながら待っている感じが出ていますね。」
「ハルマゲドンの時は、あちこちで雷に打たれて黒焦げになった人間が見られるわけだ。その遺体をかたづけるという楽しい仕事をするのは生き残ったJWなんだろう。」

「7節からが主な内容です。まず、“「平和だ,安全だ!」という宣言が行われ,「エホバの日」がそれに続く。(テサロニケ第一 5:1‐6を読む。)”とあります。また“「エホバの日」は,「大患難」を指しています。(啓 7:14)”とあります。テサロニケ一の“エホバの日”を啓示の“大患難”と同じものだとする根拠はないですよね。」
「啓示の終末思想は独特のもので、他の新約聖書の思想とは相いれない。パウロはハルマゲドンなんかまったく知らないよ。」

「パウロの言う“エホバの日”、正しくは“主の日”は何を指しているのですか?」
「“主”とは、たいていの場合、新約聖書ではイエスのことを指す。“エホバの日”なんていう訳はあり得ない。パウロは、フィリピ1:6で、“皆さんの中で良い事を行い始めた神が,キリスト・イエスの日までにそれを完了する,ということです。”といっている。パウロの言う“主の日”は“キリスト・イエスの日”。」
「新世界訳の新約聖書はイエスを指す“主”を恣意的に“エホバ”に変えているので、とても読めたものじゃないですね。」
「テサロニケ一4:13から5:11は、イエスの再臨の前に死んだ人はどうなるのかについての質問に答えている所。パウロはイエスがすぐにやってくるとテサロニケの人に教えていたけれど、イエスは現れず、死ぬ人もでてきた。その人たちについてテサロニケの人は心配していた。」
「パウロの答えは、4:16,17の“主が天から下り,天使長の声で号令を掛け,神のラッパが鳴り響くと,キリストと結ばれて死んだ人たちがまず生き返るからです。 その後,私たちのうち生きている者が雲に包まれて引き上げられ,彼らと一緒になって空中で主に会い,こうして常に主と共にいることになります。”というものです。ここはエホバじゃなくて“主”としていますね。」
「これが、テサロニケ一5:2の“主の日”だよ。簡単に言うとイエスの再臨の日。」
「イエスの再臨は信者にとって救いの日となり、信者でない者にとっては裁きの日になるわけですね。」

「テサロニケ一5:2で、“人々は,「平和だ,安全だ!」と言っている時に,突然滅ぼされることになります。”とあるけれど、これは、実際にそういう宣言が文字通り出されるということではなく、世界が自己満足に陥った状態を表現しているにすぎない。ところがJWはこれを文字通りの預言と見なし、世界の指導者が集まった国際会議で、そのような宣言が出されると解釈している。もしそうなら、パウロは“平和だ,安全だ!”と言うのは、王や皇帝と書くよ。ところが、そう言うのは、普通の人々にすぎない。」
「7節の下の挿絵がまさしくその様子を描いています。アメリカ大統領風の人がテーブルに座っています。トランプに似せて描いて欲しかったですね。JWの解釈は、人々が世界の指導者を指しているという誤解に基づくものですね。」
「“突然滅ぼされる”とパウロは言っているのに、9節で、“サタンの世全体を一度に取り除くことはしません。サタンの世の滅びには,2つの大きな局面があります。エホバはまず,大いなるバビロン,つまり世界中の間違った宗教全てを滅ぼします。”と、パウロを無視して、啓示に基づいて勝手な推測をしている。」

「どのように間違った宗教が滅びるかというと、11節に、“エホバは「大娼婦」を「緋色の野獣」の「10本の角」によって滅ぼします。緋色の野獣は国際連合を表しています。10本の角は,国際連合を支持する政府を表しています。”とあります。」
「この辺の解釈は滅茶苦茶だね。大いなるバビロンは宗教勢力というけれど、啓示17:17の“あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである。”を完全に無視している。大きな都市が宗教勢力を指すという事例が聖書の中にあるの?」
「緋色の野獣が国際連合だというのは、国連を何も知らない人間の言うことですよ。国連は何の力もない国際組織です。」
「緋色の野獣は7つの頭と10本の角があるわけだけど、JWは7つの頭の方が具体的な大国と考えて、エジプトから英米2重強国と史実に基づいた名前を挙げている。ところが10本の角は、象徴的な数として理解する。こういうのを恣意的な解釈という。ヨハネの啓示に出てくる7とか10という数字は基本的に象徴的なものだろう。」
「英米2重強国なんて言う概念は、世界史に無知なJWがねつ造したものですからね。」

「新世界訳もおかしい。例えば17:11で、野獣について、“8人目の王でもあります。7人の王から生まれて,やがて滅びます。”と訳している。8番目が7人から生まれる?これはへんだね。」
「新共同訳は、“第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる。”とあります。全然違いますね、当然、JWの訳が間違っているわけですね。」
「JWの解釈では、獣は国連なので、まったく新しいもの。新共同訳のように“七人の中の一人”だと、その解釈が成立しない。そこで意図的に誤訳している。英語の聖書では、意訳的なNIVが“He belongs to the seven(彼は7人に属している)”で、字義訳的なNASVは“and is one of the seven(7人の一人である)”」

「JW以外の宗教が滅びた後、13節によると、“諸国家の連合体である「マゴグの地のゴグ」がエホバに仕える人々を攻撃すると,ハルマゲドンの戦いが始まります。”とあります。今度はエゼキエル書に飛びます。」
「これぞ、聖書のつまみ食い。」
「マゴグのゴグの解釈もよく変わるのですが、現在は諸国家の連合体としているのです。ずっと昔はロシアと言っていました。そのあとサタンが任命した悪魔の組織の支配者、そしてサタンそのもの、これは60年くらい続きましたが、2015年に新しい光がさして、諸国家の連合体となりました。この解釈も何年もつか、楽しみですね。」
「三流オカルト雑誌の記事みたいな、こんな終末論が聖書に基づくなんてどうしていえるのかな。」

「15節によると、“キリストと天の軍勢は,エホバに仕える人々を守り,ゴグの軍隊を粉砕します。”そのあと、啓示20章に飛び、“イエスはサタンと邪悪な天使たちを底知れぬ深みに投げ入れ,1000年間閉じ込めます。(啓 20:1‐3)”とあります。」
「エゼキエル38:2によると、“メシェクとトバルの長たちの長である,マゴグの地のゴグ”とあり、ゴグは、位置が不明のマゴグの地の支配者で、小アジアの2つの部族の長だよ。一方、啓示20:7,8は、“1000年が終わるとすぐ,サタンは牢獄から解放される。 彼は出ていって,地の四方にいる人々,ゴグとマゴグを惑わし,戦争のために集める。”とあり、キリストの1000年統治の後の話となっている。このようなマゴグのゴグがどうしてJWを攻撃する諸国家の連合体となるのか理解できない。」
「啓示では、“ゴグとマゴグを惑わし”と、マゴグが地名ではなく人名となっているように思えるのですが?」
「マゴグというのは、まず聖書以外に出てこない正体不明なもの。しかも聖書にあるのは、創世記10:2に、“ヤペテの子は,ゴメル,マゴグ,マダイ,ヤワン,トバル,メシェク,ティラス。”とあるだけ。ここでは、マゴグは、ノアの息子のヤペテの子ども。またエゼキエル38章の70人訳ではマゴグは地名ではなく、人名となっている。」
「啓示を書いたヨハネはギリシャ語訳の70人訳を読んでいたので、マゴグを人名と思った?」
「そういう可能性もあるけれど、啓示を書いたヨハネは、ギリシャ語は不得意のようで、70人訳からではなくヘブライ語の旧約聖書を読んでいた可能性が高い。エゼキエル書は、エレミヤ書同様、幾つかのバージョンがあったようで、啓示の著者が参照にしたのが、今のエゼキエル書とは違ったものという可能性が高いと思うね。」
「エゼキエル38章のマゴグを地名とする写本と人名とする写本があったということでしょうか。」

「16節からは、“どうすればハルマゲドンの時に救われますか”で、救われる条件が書いてあります。17節によると、“エホバへの奉仕を生活の中で第一にし,エホバの道徳基準を守り,神の王国について伝道するのです。(マタ 6:33; 24:14)重い責任を担っていて,キリストの兄弟として天に行くよう選ばれた人たちを支援する必要もあります。(マタ 25:31‐40)”とありまして、JW以外は死ぬということです。」
「最後の部分が強調したいところだね。天に行く人を支援せよ、つまり統治体を金銭面で支えよ、ということじゃないの?」
「そうは言っていませんが、そう解釈してくれたらうれしいな、という文章ですね。18節では、“大群衆には,天に行く人たちがまだ地上にいる間にその人たちを支援する,という素晴らしい機会が開かれているのです。”と、しつこく天に行く人を支援せよと書いていますね。」
「その18節に、“ハルマゲドンの戦いが始まる時には,14万4000人全員が天に復活し,不滅の存在になっています。”とあるけれど、これは2014年からの教義だよ。この教義変更の理由は不明だ。それまでは、油注がれたものはハルマゲドンを生き延び、死んだら天に行くという教義だった。」
「“啓示の書 その最高潮は近い”の41章ではそうですね。この教義もいつまでもつのでしょうか?」
「このへんになってくると、あまりにも荒唐無稽で、オウム真理教と大差がない。」

#1109 2019年11月15日 13:11:17

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバに従いましょう なぜ,どのように?(37)”で、長老、父親、母親がどうふるまうべきかを述べたものです。」
「1節が、いきなり“私たちはエホバに従わなければなりません *。”という命令で始まるのがカルトらしくていいね。でも、*をクリックすると、“従うという語に,誰かに従うよう強制されるという否定的なイメージを持つ人もいます。しかし,エホバに仕える人は自分の意思でエホバに従うので,従うことを否定的に見てはいません。”と、言い訳めいたことを言っている。意味不明で、かっこ悪いね。」
「“従わなければなりません”とあれば、従うことを強制していると思いますけど。」
「翻訳に問題があるんだよ。英文では“WE SHOULD submit * to Jehovah”だよ。mustじゃないのだから、“従うべき”と訳すべき。shouldだと、従うべきだけれど、最終判断はあなたがするということを言外に含むので、*の語句説明が成立する。」

「4節から、“エホバに従うのが難しい場合があるのはなぜか”です。“全ての人が罪を受け継いでいて不完全だからです。そのため,エホバに反抗する傾向があります。”とあります。」
「何でも説明できるのが不完全という概念のようだね。不完全は完全ではないということだけれど、完全な人間とはどんな人間か、JWはどこかで定義していた?」
「アダムは完全な人間ということになっています。アダムは頭よさそうではないですから、完全さと知的能力は関係なさそうですね。」
「完全なアダムは神に従わなかったんだろう。それなら完全さと神に従うかどうかは無関係というのが論理的な帰結じゃないの?」

「6節に取り上げられている、エホバに従うことが難しい例というのが、収入の良い仕事を断ることなのです。これは完全な人間でも、断るのは難しそうです。」
「エホバに従うことじゃなくて、組織に従うのが難しいだけでしょう。」
「JWの集会や奉仕活動をするというのは、組織の命令ですね。」
「組織の命令に従おうとすると、低賃金のパートタイムの仕事しか選べない。まともな人は、宗教はほどほどにとどめるという知恵があるけれど、JWはその知恵が欠けているからね。7節に出てくるメアリーはトップレベルの大学に通っていたらしいけれど、JWの小学生でも退屈するバイブルレッスンに満足しているのかな。」
「なぜメアリーのようなまれなケースを取り上げるのでしょうか?大多数のJWは、間もなくハルマゲドンという組織の宣伝を信じ、大学など行かず、低賃金労働をしながら、なんとか生きてきたわけで、メアリーのようなトップレベルの大学など無縁ですし、良い収入の仕事の誘いがあるなんてことも無縁です。ごく普通の例を取り上げてほしいです。」
「皆、そういう暗い話は聞きたくないの。集会では、自分をメアリーと重ね合わせて、私だって、トップレベルの大学を出て、高収入の仕事につけたけれど、その道を選ばずに、JWとして誇りをもって生きていますという、白日夢に浸るほうが、気持ちがいいの。」

「9から13節が、“長老がネヘミヤから学べること”です。」
「9節に、“エホバは長老に,牧者として民を世話するという重要な務めを委ねました。(ペテ一 5:2)”とある。その参照聖句の翻訳がひどいね。」
「ペテロ15:2は、“皆さんに委ねられた神の羊の群れを世話してください。強いられてではなく,神の前で進んで監督として奉仕し”の部分ですね。相当加筆していますね。」
「古い新世界訳だと、“あなた方にゆだねられた神の[羊の]群れを牧しなさい。強いられてではなく,自ら進んで[行ない]”だ。新しい訳は、“神の前で”と“監督として”が付け加わっている。もちろん本文にはない。」
「長老の権威付けを狙った、意図的な誤訳ですね。こういうインチキをしているのが新しい新世界訳の特徴ですね。」
「神が長老に信者を支配・統制する権威を与えたなんてことは、聖書のどこにも書いていないよ。JWという組織の決まりにすぎない。」

「ところで、ネヘミヤってどういう人でしたっけ?」
「ネヘミヤはペルシャ帝国のアルタクセルクセス1世の献酌人という高官で、ユダヤの総督となり、エルサレムの城壁の再建を行った人だね。」
「10節では、“ネヘミヤは大きな権限を与えられていましたが,自分の考えを押し付けることはしませんでした。”とありますが、これは嘘でしょう。」
「ネヘミヤは古代の指導者として、自分の考えをかなり強引に押し付けている。総督に選挙で選ばれたわけじゃないからね。」
「ネヘミヤ13:7、8に、ネヘミヤがペルシャからエルサレムに戻ってきた時、“私は,エルヤシブがトビヤのためにしていた悪事に気付いた。トビヤに真の神の家の庭の貯蔵室を使わせていたのである。私は非常に不快に思い,トビヤの家の家具を全部,貯蔵室の外に投げ出した。”とあります。ネヘミヤはかなり乱暴な男ですよ。」
「エルヤシブは祭司で、トビヤは有力者。その家具を投げ捨てるとは穏やかじゃないね。」
「ネヘミヤは外国人の女性と結婚しているユダヤ人に対して何をしたかというと、ネヘミヤ13:25に、“私は彼らをとがめ,神の処罰について警告し,何人かを打ちたたき,毛を引き抜き,神に懸けて誓わせた。”とあります。このことからも、10節の、ネヘミヤは、“自分の考えを押し付けることはしませんでした。”というのがでたらめということがよくわかります。」
「宗教的情熱はわかるけれど、やっていることはアフガニスタンのタリバンと同じだね。自分たちの宗教的思想や慣習を、無差別に強制し、従わないと処罰する。」

「11から13節は、長老へのアドバイスですが、ネヘミヤとほとんど関係のないアドバイスです。」
「ものみの塔の書き方として、聖書中の人物を取り上げ、それを見倣いましょう、というスタイルが確立しているので、この執筆者もそれに倣おうとしている。しかし、この執筆者はネヘミヤを取り上げたものの、あまり聖書を知らないので、うまく教訓部分へとつなげられなかったんだろう。」
「11節には、“長老だからといって偉そうな態度を取ったりはしません。兄弟姉妹に優しく接します。”、12節には、“長老はエホバのように謙遜でなければなりません。”、13節では、“エホバに従う長老は,「舌を制御して」いなければなりません。”とあり、偉そうな態度で信者をいじめる長老に警告しているようです。」
「長老って、無給の名誉職でしょう。信者いじめくらいしか楽しみがないでしょう。それができないなら、長老なんて、さっさとやめたほうがいいよ。」

「14から16節が、“父親がダビデ王から学べること”です。ダビデが父親の模範だなんて笑えますね。」
「ダビデは山賊みたいな男だよ。ろくな子どもを育てていない。アブサロムは反乱を起こし、ダビデの側室を強姦し、兄弟のアムノンを殺している。そのアムノンは腹違いの妹のタマルを強姦している。ソロモンも聖書の中で美化されているが、強欲な専制君主にすぎない。」
「15節によると、“ダビデは謙遜だったので,男性だけでなく,女性が与えるアドバイスにも従いました。(サム一 19:11,12; 25:32,33)”とあります。」
「でも、引照聖句がそのような内容になっていないよ。サムエル一19章の話は、ダビデはサウル王の娘ミカルと結婚したけれど、サウルから命を狙われ、妻としたミカルの機転で危うく逃れたというもの。ダビデの謙遜とは無関係。サムエル一の25章の話は、ダビデの部下達がナバルの羊の群れを守ってやったのだから、その見返りに何かよこせと要求したけれど、ナバルは拒否した。」
「ダビデの行いは、自分たちの力をちらつかせたうえでのゆすりですね。」
「それで、危険を察知した妻のアビガイルは、“急いでパン200個,ぶどう酒が入った大きなつぼ2つ,下ごしらえした羊の肉5匹分,炒った穀物35リットル,干しぶどうの菓子100個,干しいちじくの菓子200個を用意し”、ダビデに贈る。ダビデは、おかげでナバル一家皆殺しをしなくて済んだと喜んだ、というもの。その後、ナバルは急死し、アビガイルはダビデの何人目かの妻となる。このダビデのどこが謙遜なの?ダビデの山賊ぶりがよくわかる話だよ。」

「17から20節が、“母親がマリアから学べること”です。マリアについて聖書はほとんど何も述べていませんので、マリアから学ぶのは難しいですね。」
「18節に、“マリアは聖書の言葉をよく知っていました。”とある。この根拠が、引照聖句のルカ1:46-55だ。これは以前にも言ったけれど、マニフィカトという詩だね。」
「この詩の初めがラテン語ではMagnificatで始まるから、そういわれているのですね。」
「この詩はサムエル第一のハンナの歌と似ている。詩編やマラキ書からの引用もある。というわけで、この詩を書いたのはかなりの知識人。」
「イエスの母マリアは教育など受けているわけはないですし、妊娠時の推定年齢は10代前半ですから、この詩の著者でないことは明らかですね。」

「19,20節が、マリアから学べることらしいけど、マリアとは何も関係ない教訓ばかりだね。」
「19節に、“親がすぐにかっとなって,子供にきつい話し方をする家庭で育った人もいます。”、20節では、“自分が子供の時に親から温かい愛情を示してもらえなかったという人がいます。”とあります。」
「JWの母親にはこのような人が多いということだろうね。JWの子どもということは不幸なことだね。」

「最後の22節にある結論は、“長老,父親,母親がエホバに従うなら,いっそう喜ぶことができ,家族はもっと幸せになり,会衆の兄弟姉妹の一致が強まります。”というものです。」
「元の英文は、“their lives improve, their families are happier, and the entire congregation is more united.”だよ。“their lives improve”を“いっそう喜ぶことができ”と訳するのはへんだろう。“生活は改善し”という意味だろう。」
「翻訳者は、経験上、エホバに従うと生活は悪化することを知っているので、“生活は改善し”とは訳せなかったんですよ。多少良心が残っているということじゃないですか。」
「そもそも、自分で考え、自分で決断することを禁じて、誰かに従っていれば、より幸せになれると主張するのは、カルト宗教の教えそのものだ。」

#1110 2019年11月22日 16:36:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私の所に来てください。そうすれば,爽やかにしてあげましょう(38)”で、信者は一生懸命組織のために働けという内容です。」
「22節もあるね。長すぎるよ。普通だったら17節まで行くと、もう終わりかと喜ぶところだけど、この記事だと、あと5節もあると思って、落ち込んじゃうよ。」

「1節に、“重い病気で苦しんでいた女性のためにイエスが何をしたかを考えましょう。”とあり、ルカ8:43-48の話が出ています。」
「2節に、“でもイエスは病気を治しただけではなく,女性の気持ちにも寄り添いました。温かく,敬意を込めて「娘よ」と語り掛けました。”とあるけれど、新しい日本語訳では、“あなたが良くなったのは信仰があったからです。安心して暮らしなさい。”とイエスが言ったことになって、“娘よ”がないよ。」
「英語版の聖書では、“Daughter, your faith has made you well. Go in peace.”なので、“娘よ”とあるのに、翻訳者が自分の判断で変えたわけですね。そのおかげで、この記事と聖句に不一致が生じてしまったわけです。翻訳には相当問題がありますね。」
「“娘よ”を“あなた”にしてしまったのは、翻訳者がいかに無知かということだね。当時のユダヤ人教師は大人の女性に対して“娘よ”と呼びかけた。慣用表現だ。だから、2節にある“敬意を込めて「娘よ」と語り掛けました。”というのは間違い。また、同じ8章の20節で、“私の母また兄弟たちとは,神の言葉を聞いて実行するこの人たちのことです。”とあり、それを受けた“娘よ”発言ともとれるわけ。というわけで、ここは2つの理由で、
“あなた”と勝手に変えてはいけないところなの。JWの日本語翻訳者は、間抜けだね。」
「おそらく、無知なJWが、この人はイエスの娘なのかと誤解することを心配したからですよ。」
「それから、この女性に対して、イエスは、私の所に来てくださいなんて言っていない。ましてや伝道しなくてはいけないとか集会に来なくてはいけないともいっていない。“Go in peace安心していきなさい”と祝福を示す慣用句をいって、立ち去るようにいっている。」

「それだとJWとしては都合が悪いので、そのことは無視して、4節からは、イエスの所に行く方法が出ています。バプテスマを受けろ、長老に助けを求めろ、とあります。要するに組織の忠実な一員になれということですね。」
「5節に、“イエスの所に行く別の方法は,必要なときに長老の助けを求めることです。イエスは「人々という贈り物」を用いて,羊のような人を世話しています。(エフェ 4:7,8,11)”とある。“人々という贈り物”はエフェソス4:8にあるのだけれど、これは誤訳でしょう。こんな訳は見たことない。」
「新共同訳では、“人々に賜物を分け与えられた”とあります。」
「それが普通の訳。長老はイエスからの贈りものです、というへんてこな教義を作るために、わざと誤訳しているのかもね。」
「5節に、“体を壊してベテル奉仕を辞めることになった時,友達が『長老に話を聞いてもらったら?』と勧めてくれました。”とあります。何を相談したんでしょうね?退職金もなく放り出された後の生活のことでしょうか?」
「ベテルでは、病気でも、コネがあったり、偉い人から気に入られていれば、楽な仕事に回してくれるらしいよ。それを頼んだんじゃないの。でもダメだったということだろう。」

「6節は、私と共に働くとはどんな意味かを扱っています。ここは元の英文とはかなり違った内容になっていますね。」
「それも、引用されているマタイ11:18-20の翻訳が英語版とだいぶ違うことが原因だ。英語版では、“共に働いて”ではなく、“Take my yoke upon you私のくびきを負い”だよ。」
「“いずれにしても,イエスは働くことを勧めていました。”とまとめていますね。本当でしょうか?」
「マタイにおけるイエスのメッセージは、ものすごく単純化すると、神の王国は間もなく来るから、それにふさわしい人間になろうというもの。伝道しろとか、俺と一緒に働け、なんてことはイエスのメッセージではない。」
「くびきは弟子として受けなければならない訓練の象徴ですよね。イエスが比較対象としているのは、厳格な律法順守を強調するパリサイ派のくびきですよね。それに比べるとイエスのくびきは、心地よく軽いと言っているわけです。」
「イエスの発言は、イエスが生きていた1世紀のパレスチナの生活の場における発言として解釈すべきで、JWのように21世紀の人間に向けられた言葉かのように解釈するのはおかしいね。」

「8節からは、マタイ11:29の“私から学んでください”の解説です。イエスは、“温かく,謙遜”で、“親切な行いと優しい言葉によって人々が爽やかさを感じるようにしました。”とあります。」
「10節に、イエスは“弟子たちに質問するよう促したり,意見を聞こうとしたりしました。”とあるけれど、これはJWには無理だね。」
「教義について質問すると、まともに答えてはくれませんし、児童の性的虐待の裁判のことを聞くと、どこからそれを知ったのかと警戒されるだけですから。寄付について意見を聞くことはあっても、それは形だけで、全員賛成と答えは決まっていますからね。」
「11節に、“パリサイ派の人のようにならないようにしましょう。彼らは,質問されるのを嫌がり,反対意見を述べた人を迫害しました。”とあるのには笑ってしまうね。JWこそ現代のパリサイ派と言われていることを知らないようだ。」

「12節からは、“イエスのために働くと爽やかさを感じるのはなぜですか。”について解説しています。3つの理由があるのだそうです。最高の監督、仲間、仕事があるからだそうです。」
「イエスのために働く=JWの組織のために働くという前提なのね。そうなの?」
「この部分は、これを書いている人も信じていないですね。単なるプロパガンダですから。北朝鮮が地上の楽園といっているようなものです。」
「面白いのは、14節の“最高の仲間たち”だ。ここではJWのことを、誉めまくっているけれど、日本語版は英語版よりかなり表現を抑えている。文化の違いかもね。」
「アメリカ人は、誇大な自己宣伝を当たり前のことと思っていますが、日本人はそうではないですからね。」
「英語版では、“No other people have a sense of purpose or a bond of love like ours私たちのような目的意識や愛の絆がある人々は他にいません”だけど、日本語では、“同じ目的で働き,愛の絆で結ばれている仲間たちです。”と当たり障りのない表現に変わっている。英語版では、JWは、“the highest moral standards最高の道徳基準”を持っているのに対し、日本語になると、“高潔な道徳基準”へとトーンダウンだ。」
「でも、日本語版でも、“互いを愛し,仲間のために命を懸けてもよいと思っています。”とあります。JWが、そんな覚悟を抱いているとは知りませんでした。」
「命を懸けるなんてことを安易に言う宗教は危険だよ。JWも恐ろしいね。」

「15節の、“最高の仕事があります。エホバについての真理を教え,悪魔のうそを暴くという仕事です。”は意味不明です。普通の人はついていけないと思います。」
「執筆者は、今の世界ではエホバとサタンが毎日戦っている、という妄想にとらわれているようだ。そして、エホバの側について孤軍奮闘している自分を、頭の中で思い浮かべては、子どものように興奮しているんだろう。そうでなければ理解できないね。」
「恐らく、JWの仕事は最高の仕事と書けと命じられた執筆者が、苦しまぎれに思いついたのが、この部分じゃないですか。」
「15節に、サタンのウソについて、“エホバ神は人間の罪を許さず,人間を愛していない,と信じ込ませようとするのです。人の力を奪う,本当にひどいうそです。”とあるけれど、JWの神様は、まもなく人類の99.9%を虐殺する予定なんだよね。本当にひどいウソなのかな?」

「16節からは、“イエスと共に働いて爽やかさを感じる”で、生活のための仕事は適当でいいから、組織の活動を真面目にやれという内容です。」
「17節に、マルコ10章の裕福な男の話しを取り上げて、“「弟子になりなさい」という招きには応じず,「富[の]奴隷」のままでいました。(マタ 6:24)あなたがこの男性だったらどうしましたか。”とある。JWは何と答えるんだろうね?」
「マルコ1:29に、“一行は会堂を出て,シモンとアンデレの家に行った。”とあります。シモン、つまりペテロですが、弟子となった後もカペルナウムに家を所有し、そこはイエスたちの活動拠点となっています。また、ルカ8:2、3に、“マグダレネと呼ばれるマリア, また,ヘロデ家の管理人クーザの妻ヨハンナ,スザンナ,その他多くの女性たちである。この女性たちは,自分の持ち物を使ってイエスと使徒たちに仕えていた。”とあり、この女性たちは相当な資産を所有していたと思われます。全財産を売って、貧しい人に与えよ、というのはこの裕福な青年に対する要求で、全ての人に対するものではないと答えると思いますよ。」

「この青年が“「富[の]奴隷」のままでいました。”とは聖書の中で言っていないよ。この青年が裕福なのは、おそらく単に親が裕福だっただけだろう。それを“富の奴隷”というのはおかしい。」
「旧約聖書では、富は神の恵みですよね。箴言10:22、“エホバの祝福が人を富ませる。それに痛みは伴わない。”、ヨブ42:10では、“エホバはヨブの苦難を取り去り,再び豊かな生活を送らせた。エホバは,ヨブが以前に持っていた物を,2倍にして与えた。”とあります。豊かなヨブは神の王国には入れないのですかね。」

「18節にマークという開拓者の話が出ています。“どうして生活するのがこんなに大変なのだろう,と思いました。”と間抜けなことを言っています。その答えは、組織の言いなりになって開拓者をしているからですよ。」
「でも、その答えはマークのJWとしての信条に反するから、受け入れるわけにはいかない。マークの作り出した答えは、“自分のしたいことを優先し,余った時間とエネルギーでエホバに奉仕していたからです。”というもの。」
「開拓奉仕を熱心にやればエホバが支えてくれると信じていたけれど、そうならない。それは、自分の熱心さが足りないからだと、思うようにしたということですね。それで、パンの耳をかじりながら、一層開拓奉仕にのめりこんでいき、ますます生活に困窮する。」
「こういった不合理な行動を説明するものとしてできたのが認知的不協和理論だね。」

「19節からは、“イエスと共に働いて爽やかさを感じるためにできることが3つあります。”ということで、正しい見方、正しい動機、正しい期待をもつことだそうです。」
「何が正しいかは、組織が決めるわけで、正しくありなさいということは、要するに組織の言いなりになれということだね。」
「信者に期待されているのは、組織の命令は神の命令と信じて、動ける限り組織のために働く、ということのようです。」

#1111 2019年11月29日 16:40:54

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「大群衆」とは誰のことですか(39)”で、人間は天に行く144000人と地上の大群衆という2階級からなるというJW独自の教義が、1935年以降修正された経緯についての言い訳ですね。」
「それもかなり不誠実な言い訳だよね。」

「なぜこのような記事が書かれたのでしょうか?」
「主の記念式で飲み食いする人が増えたからじゃないの。お前たちは、大群衆なんだから、記念式で飲み食いするな、と言いたくて、大群衆について取り上げた。」
「18節で、“神の聖なる力によって選ばれておらず,イエスと共に天で仕えることができなくても,不満に思ってはいません。”と言っています。地上組の中には、あんな人が天にいくなんておかしい、と不満に思っている人がいるということですね。」
「記念式で飲み食いする人の中には単なる奇人変人が相当いるらしいからね。以前のJWの教義は1935年に天に行く人の定員はいっぱいになった、もう席はないよ、というもの。ところが、記念式で飲み食いする人は減るどころか増え続ける。そこで教義を変更した。」

「2007年の5月1日号のものみの塔の“読者からの質問”に、“天への希望を抱くようクリスチャンを召すことは,いつ終わるのですか”という記事が出ましたね。」
「もちろん、そんな質問が実際にあったわけではなく、質問に答える形で、こっそり教義変更をするためのでっち上げだ。来るはずの終わりの日が来なかったので、偽預言者と非難されながらも、せっせと教義変更せざるを得ない。」
「質問に対する答えは、“聖書は,この質問について明確な答えを述べていません。”です。」
「つまり1935年に天は満員という教義は、間違いだったということだね。」

「1節で、“西暦1世紀の終わりごろ,使徒ヨハネは困難な状況にありました。高齢になっており,パトモス島で監禁されていました。”と、啓示の著者を使徒ヨハネとしていますが、啓示の中では、単なるヨハネで、使徒ヨハネとはいっていません。」
「啓示は、独特のへんなギリシャ語で書かれていることで有名。少なくともヨハネの福音書や手紙の著者とは違う。JWはヨハネの福音書の著者は使徒ヨハネとしているから、啓示の著者は違うヨハネだね。」

「修正前の教義は、8節に出ていまして、“次の3つのグループがあると考えていました。(1)イエスと共に天で治める14万4000人。(2)あまり熱心ではないクリスチャンで,天で王座とイエスの前に立つ大群衆。(3)キリストによる1000年の統治期間中,地上でエホバについて教えられる大勢の人。”というものです。」
「そして1935年に新しい光がさしたわけだ。」
「9節によると、“大群衆が天の「王座と子羊の前」に文字通りに立っているのではないことを理解しました。象徴的な意味で立っているのです。大群衆は地上で生活しますが,”と説明しています。大群衆は天から地上に落下してしまいました。」

「啓示7:9の“その後,私が見ると,全ての国や民族や種族や言語の人々の中から来た,誰も数え切れない大群衆が,王座と子羊の前に立っていた。その人たちは白くて長い衣服を着て,ヤシの枝を持っていた。”とあるけれど、“王座と子羊の前に立っていた。”は象徴的な意味で、文字通りじゃないと解釈変更したわけだ。」
「大群衆が地上組になった理由は、この記事ではこれしか説明していません。」
「この記事の執筆者は、解釈変更の理由を言いたくないんだよ。」
「14万4000人が支配者となる教義がまずあって、それじゃ誰が支配されるのかという問題があったわけです。神の王国というためには、支配される人間が必要だということから、支配される人間として大群衆が選ばれたわけです。それから、JW全員が天に行ったら、復活した人を教え導く人はいなくなる、それはへんだ、という意見があったわけですよ。」

「“エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々”の第12章“大群衆 ― 天で生きるのか,地上で生きるのか”によると、1932年に、“エホバの証人と交わっていた人々の中には,神の霊が自分たちの中に天の命の希望をはぐくんではいないということに気づいた人も(当時は比較的少数ながら)いました。彼らはヨナダブ級として知られるようになりました。というのは,古代のヨナダブ(エホナダブ)と同様に,エホバの油そそがれた僕たちと結びつくことを特権とみなし,神の言葉が自分たちのために指し示していた特権に喜んであずかったからです。”とある。」
「“ヨナダブ級”なんて言葉があったんですね。古い光ですね。要するに地上組のことですね。」

「その“ふれ告げる”によると、1935年に、“その時,啓示 7章9節と10節の大群衆が,イエスの言われた「ほかの羊」の中に含まれること(ヨハネ 10:16),キリストの『兄弟たち』の援助に赴く人々であること(マタイ 25:33-40),キリスト教世界で行なわれている嫌悪すべきことにあきれかえり,それを避けているので,生き残るための印を付けられる人々であること(エゼキエル 9:4),神から与えられた任務を果たす,エホバの油そそがれた僕との結びつきを公に認めたエホナダブに似ていること(列王第二 10:15,16)などが明らかにされました。エホバの証人は,その人々がハルマゲドンを生き残り,楽園の状態を取り戻した地上で永遠に生きる見込みを持つ,神の忠節な僕であることを理解しています。”となった。」
「つまり、啓示7:9,10とは無関係なヨハネ 10:16、マタイ25:33-40、エゼキエル 9:4、列王第二 10:15,16を、強引に結び付けて、ハルマゲドン後地上で暮らす大群衆という概念を創作したということですね。」
「たくさんある中から自分にとって都合のよいことだけを取り上げて、何かを主張する、つまりチェリーピッキングという詭弁だね。」
「JWの主張の多くは、だいたいそんなものです。」
「大群衆をあらわすものとして現在まで維持しているのはヨハネ10:16の“ほかの羊”だけだろう。あとは大群衆とは関係ないと教義変更されたと思うよ。」
「ヨハネ10:16の“ほかの羊”は異邦人のことを指すわけで、ハルマゲドン後に地上で生きる人たちなんてことは一言も書いてないわけで、これもいずれ大群衆とは関連付けられなくなるのでしょうね。」
「でもね、1935年の教義変更により、地上に暮らす大群衆がいるということになり、ますます伝道活動に邁進するよう信者たちは求められて、信者の数もどんどん増えていった。組織にとってはいい教義変更だったわけだ。」

「JWは、大群衆は地上で永遠に暮らす人であると、聖書のどこにも書いていないことを主張していますが、JW以外ではどのように解釈しているのですか?」
「2節に、“神の奴隷たちとは,天でイエスと共に治める14万4000人のことです。(ルカ 12:32。啓 7:4)ヨハネは別のグループも見ました。そのグループがとても大勢だったので,”とある。144000人と大群衆は別のグループと決めてかかっているけれど、そう解釈はしないのが普通だね。啓示7:4の、“そして私は,証印を押された人たちの数を聞いた。それは14万4000人であり”で始まり、長々と○○族から何人というリストが続く。そして啓示7:9で、“その後,私が見ると,全ての国や民族や種族や言語の人々の中から来た,誰も数え切れない大群衆が”と続く。」
「まず数を聞いて、その後見たら大群衆がいたという展開ですね。144000人=大群衆というわけですか。」
「同じグループについて、初めは聞いて、次に見たという内容。当然、大群衆は天で暮らすことになる。大群衆が地上で暮らすということを示す聖句はない。」

「JWは、“大群衆が天の「王座と子羊の前」に文字通りに立っているのではない”、象徴的に立っていると解釈変更したのですが、これは無理がありますよね。」
「キーワードは啓示7:9の“前enopion”だ。これは啓示の中で何度も出てくる。例えば、その2節後の啓示7:11、“天使たちは皆,王座と長老たちと4つの生き物の周りに立っていた。そして,王座の前にひれ伏して神を崇拝し,”の“王座の前”の“前”は7:9と同じ単語。JW流に解釈すると、天使たちは地上にいることになる。」
「天使たちは天にいるでしょう。天使なんですから。」
「JWの解釈の特徴は、同じ単語でも、ある時は象徴、ある時は文字通りと、なんの根拠もなく、自分たちに都合の良いように適当に変えること。“前”という単語は文字通り“前”として、啓示では使われている。」
「大群衆は、王座と子羊の前に文字通り立っている、つまり天にいる、というのが普通の解釈ということですね。」
「啓示19:1には、“その後,私は大きな群衆の大声のようなものが,天でこう言うのを聞いた。「ヤハを賛美しなさい! 救いと栄光と力は私たちの神のものです。”とある。大群衆は天にいるよ。」

「地上に暮らす大群衆というものが教義上必要になったのは啓示7章の144000人を文字通りと解釈したからです。天に定員を設けたので、定員を超えた人たちを地上に住むことにせざるを得なくなったというバカバカしい話なわけです。144000人を文字通り解釈するのはへんですよ。」
「文字通りに解釈するなら、すべて文字通りに解釈すべき。144000人はイスラエルの12部族からくると書いてあるわけだから、すべてユダヤ人からなると解釈すべきだし、そう解釈する立場もある。その場合、大群衆はユダヤ人以外の異邦人を指すことになる。」
「144000人は、啓示14:4に“この者たちは,女によって自分を汚さなかった。童貞なのである。”とある。JWは、これらは文字通りではないと解釈するんだよね。」
「JWは144000人について書かれていることは、その数だけは文字通りとし、それ以外は比ゆあるいは象徴で、なんでもありとしています。」
「12の12倍の1000倍の144000こそ一番象徴的なものなのにね。それを文字通りと解釈し、それ以外はそうでないとするJWは理解できないね。」

「14節以降は、自分たちは確かに大群衆になったと自画自賛の記事です。15節で、“大群衆は800万以上が集められています。確かに大群衆になりました。”とあります。」
「大群衆=800万というと、まもなく生じるハルマゲドンを生き延びる人は800万のJWしかいないということだ。それ以外の70億人以上は虐殺されるわけだ。人口の多い中国(約14億人)とインド(約13億人)の伝道活動はほとんど進んでいないよね。そうなると彼らは事実上全滅だ。イスラム圏も全滅だ。」
「エホバは中国人やインド人が嫌いなんですよ。」
「それなら、なぜ伝道に励む必要がるの?」
「つまりエホバは人間の大量死なんか気にしないのに、一人でも救われるように、なぜ自らの生活を犠牲にして奉仕活動する必要があるのか、ということですね。」
「統治体は、信者を奉仕活動に駆り立てる別の理屈を考えたほうがいいということ。」
「JWらしく、奉仕活動をさぼると、ハルマゲドンで火に焼かれて死ぬと脅すのがいいと思います。」

#1112 2019年12月06日 16:24:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「終わりの時代」が終わる今,活発に奉仕する(40)”で、タイトルの通りの内容です。終わりの終わりでも、組織に尽くせということです。」
「英語版ではKeep busyとあるだけで、“活発に奉仕する”ではないよ。」
「翻訳者の解釈が相当入っていますね。」

「1節がいいね。英語版では、WERE you born after the year 1914?(あなたは1914年以降にうまれましたか)といきなりバカげた質問する。1914年生まれだと、現在105歳だよ。そんな高齢のJWは何人いるの?」
「日本語版では、その部分を省いています。執筆者より翻訳者の方が、多少は常識があるみたいですね。」
「1節で“私たちは,イエスが今の時代について予告した事柄に関する報道を聞いています。戦争,食糧不足,地震,流行病があり,不法なことが増え,エホバの民が迫害されてきました。(マタ 24:3,7-9,12。ルカ 21:10-12)人々は使徒パウロの予告通りの行動をしています。”と、根拠も示さず断定している。JWはこうでなくてはね。」
「統治体の老人はほとんどが太りすぎです。食糧不足は昔の方がひどかったことは明らかなのに、JWの頭の中では、1914年以降食糧不足が深刻化したことになっているのでしょうね。」

「3節で、“テサロニケ第一 5:1‐3を読む。”とある。そこには、“人々は,「平和だ,安全だ!」と言っている時に,突然滅ぼされることになります。”とあるけれど、その説明が、“「エホバの日」が始まる直前に,国々は「平和だ,安全だ!」と宣言します。(略)この宣言が出される時に人々は,世界の指導者たちのおかげで世界は平和で安全な場所になったと考えます。”なんだ。聖書に書いていないことを勝手に付け足している。」
「パウロは世界の指導者が平和安全宣言を出すなんてことは言っていませんね。パウロがそのような政治的な話をするとは思えません。パウロは政治的な扇動家じゃないですからね。」
「なぜ、“「平和だ,安全だ!」と言っている時に”を文字通りに解釈するのかな?パウロは、人々が自己満足に陥っていって状況をそう表現しただけだろう。」
「JWの言うように、決まったスケジュールで終わりの日が来るのなら、テサロニケ一5:3:の、“妊婦に起こる陣痛と同じように突然で,彼らは決して逃れられません。”と矛盾しますよ。JWの解釈では、少しも突然じゃないことになります。」
「それは終末カルトだからだね。まもなくこんなことが起きて終わりの日になりますと、神様から直接聞いたかのように、自信たっぷりに信者に語る。過去に何度も失敗しても、それ以外に信者を引き付けるものがないから、それを繰り返す。信者もその種の話を聞きたがるしね。」

「現実の世界情勢は、平和安全宣言が出る状況にはないですよね。」
「トランプ大統領は中距離核ミサイルの開発に乗り出した。中国はものすごい勢いで軍事予算を増加させているし、日本だって、防衛関連予算は増加の一途。北朝鮮の核ミサイル開発は止まらない。イスラム諸国では内戦状態の国が幾つかある。世界は不安定化しつつある。」
「JWだけが、愚かにも、平和安全宣言を世界の首脳たちが、まもなく出すと信じているわけですね。」
「JWは国連を過大評価しているから、単なる事務方のトップにすぎない事務総長あたりが、そのような宣言を出すと空想しているんじゃないかな。」

「7節以降、JWがすべきことが書かれています。いつものように、まずは伝道です。」
「7節で、“「エホバの日」が始まるまで,わずかな時間しか残っていません。”と、危機意識をあおっている。しかし、執筆者も本気でそう思っていないね。本当にそう思っているなら、こんな駄文なんか書いていないよ。」
「9節には、“人々がエホバ神とイエス・キリストのことを知るための時間は,あとどれほど残っているでしょうか。(ヨハ 17:3)それは分かりません。”と書いています。わからないのに、“わずかな時間しか残っていません”となぜ言えるのか不思議ですね。」
「神様が本当に人間を救いたければ、人類絶滅計画をやめればいいだけ。でも、JWは早くそれを実行してくれないと困るみたいだ。」

「10節で、宣教ツールボックスの宣伝、11から13節でオンライン聖書講座の宣伝がでています。」
「オンライン聖書講座で興味ある人を見つけて、聖書レッスンにつなげるという信者獲得計画ね。毎日全世界で230件ほどの申し込みがあると書いている。」
「ということは、1年で8万4000件ほどですね。伝道より効率がいいかもしれません。家から家への伝道をやめる方向なんでしょうかね。」
「もしそうなら、グーグルで、“聖書”と入力して検索したら、オンライン聖書講座が一番先に出るよう、世界800万人の信者を動員して工作活動をしたらいいんじゃないの。今だと最初のページにJW関係のホームページは出ていないよ。」

「14節からは、“人々を弟子とする努力を続ける”です。“マタイ 28:19,20を読む。”とあります。“それで,行って,全ての国の人々を弟子としなさい。”で始まるのですが、こんなことイエスは本当に言ったのですか?」
「原始キリスト教の段階では、異邦人伝道に対してかなりの抵抗や議論があったことが、使徒たちの活動やパウロの手紙などからうかがえる。もしイエスが本当に全ての国の人々を弟子としなさいといったのなら、異邦人伝道に対する抵抗や議論がなぜ生じたんだろうか?また、異邦人伝道は、結局イエスの直弟子ではない、後からやってきたパウロが担うことになったのは、なぜなんだろうか?」
「マタイ28:19,20は、異邦人が伝道の主な対象になった1世紀後半の時代を背景にしたものとみるべきなんですね。」。
「“父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し”と続くけれど、のちの時代の思想である三位一体思想が現れている。“私は体制の終結までいつの日もあなたたちと共にいるのです。”というのも初期のキリスト教の思想だ。」

「14節で、“エホバに献身し,バプテスマを受けるよう助けるためです。こうして初めて,人々はエホバの日を生き残ることができるのです。”とありますから、JWの教義では、バプテスマを受けていない人は滅ぼされるということですね。」
「JWの中には、JWでなくてもハルマゲドンを助かる可能性がある、誰が助かるかどうかはJWではなく、エホバが決めると言う人がいるけれど、間違いということだね。」
「ハルマゲドンでは、JW以外は死ぬ、赤ちゃんでも死ぬ、妊婦も胎児もろとも死ぬ、というのがJWの教義だと、正しく人々に伝えてほしいですね。」
「バプテスマを受けても、組織に忠実でないと、やっぱり死ぬんだよね。JWの神様は人を殺すのが大好きなようだ。」

「15節に“キリストの弟子になるつもりがない人との聖書レッスンをいつまでも続けるわけにはいきません。”とあるのは面白いですね。何年も研究生をやっている人は打ち切れということです。これでいいんですか?」
「JWは宗教セールスマンなんだよ。商品を買うつもりがない客とは手を切って、ほかの買い手を見つける。あたりまえじゃないか。奉仕時間が入ればいいと聖書レッスンをだらだら続けるJWが多いから、打ち切り命令が出たんじゃないかな。」

「16から18節は、“間違った宗教との関係をきっぱり絶つ”というもので、まず、“啓示 18:2,4,5,8を読む。”とありまして、大いなるバビロンから出ろという部分ですね。」
「大いなるバビロンはJW以外の宗教のこととJWは解釈しているんだよね。」
「そうです。珍しく、これは昔から一貫しているようですね。」
「大いなるバビロンは伝統的にはローマを指すとされている。他の解釈もあるけれど、JW以外の宗教組織という解釈はJW独自のものだね。」
「プロテスタント系の宗派では、大いなるバビロンはカトリック教会だ、反キリストはローマ教皇だ、とカトリックを敵視する解釈は昔からありましたから、JWの解釈はその拡大版ですね。偽りの宗教と言っても、JWにとって、その中心は既成のキリスト教ですから。」
「19世紀のアメリカでウィリアム・ミラーという人が1843年にイエスの再臨があると主張して、宗教的な熱狂を作り出していくのだけれど、その再臨待望運動に参加した人たちは、元々所属していた教会から迫害されたり追放されたりした。その時、ミラー派の雑誌が、“バビロンからでよ”という記事を書いたんだ。」
「ミラー派の中では、既成のキリスト教会をバビロンと呼ぶようになったんですね。」
「予言は外れ、再臨待望運動に参加した人たちの多くは、元の教会に戻ったようだけど、そうしなかった人も結構いて、自分たちの教会を作った。」
「その代表が、セブンスデー・アドベンチスト教会ですね。エレン・ホワイトという女性が中心になって作った。信者数は、現在2000万人と称しています。」
「JWも再臨待望運動の末裔のような宗教団体で、自分たちの宗教上の祖先が示した大いなるバビロンの解釈を維持しているということ。JWの信者数は800万人だから、あまり成功したほうではない。」

「大いなるバビロンを離れよということで、16節で、“所属している宗教や関連団体に脱退届を提出する必要があります。”、17節で、“宗教組織の従業員にはなりません。”、“自営業に就いている人なら,大いなるバビロンと関連のある仕事の受注や入札はしません。”とあります。」
「今、世界中で、王国会館や大会ホールが売りに出されていて、それを宗教団体が買うというケースがある。それは問題視しない。別の宗教団体から金をもらっても問題ないのだから、自営業者の人が別の宗教団体から仕事をもらうぐらい問題ないと思うよ。」

「18節の体験談が何を言いたいのかよくわからないのです。ある長老がある業者から教会の大工仕事を頼まれたけれど断った。翌週の新聞に、別の大工が教会に十字架をつけている写真が載った、というものです。そして“兄弟はぞっとしました。仕事を請け負っていたら,自分の姿が新聞に載ったかもしれないからです。”とあるのです。教会の仕事をしても写真に写らなければ問題ないということでしょうか?」
「そうなんじゃないの。この種の問題は、様々なケースがあって白か黒の境界を引くことは難しい。自営業のJWが怪しげな人の仕事をすることだってあるでしょう。いちいち相手がどんな人か調べるわけにはいかないからね。でも、ちょっとまずい仕事をしている時は写真に撮られるなよ、証拠として残るからね、という親切なアドバイスじゃないの?」
「細かい規則で信者を縛るJWですよ。何か違うような気がしますが・・・」
「あれもダメ、これもダメといっていたら、仕事なんかできないよ。組織からお金を貰って生活している特権階級の人は何でも言えるけれどね。普通の人は、寝言と思って聞き流せばいい。」

「19,20節は、まとめで、この記事の要約です。」
「それはいいことだ。執筆者も、これで2節分楽をしたね。はやく一杯やりたかったんだろう。」

#1113 2019年12月13日 16:31:31

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、 “「大患難」の間もエホバに忠実でいましょう(41)”で、間もなく大患難が来るぞ、と信者の引き締めを狙った記事ですね。」
「JWでは、100年以上先でも“間もなく”と言うことは、長年JWをやっている人にはわかりきったことだから、今さら終末論を振りかざしても、信者の引き締めになるのかな?」

「1節で、“平和だ,安全だ!」 世界の国々はついにこの宣言を出します。待望の世界平和が達成されたと主張します。”と書いています。これが大患難の始まりというのがJWの終末論ですね。」
「英文と翻訳ではかなり受ける印象が違う。英文はかなり控えめな表現なのに、日本語では断定した言い方になっている。“待望の世界平和が達成されたと主張します。”は、英文では“They may boast that the world has never been so safe.”」
「mayがありますから、かもしれませんということですね。断定はしていない。」
「英文ではmayとかit seemsは頻繁に出てくる。単なる推測に過ぎないことがわかる。ところが日本語版だと断定調になる。日本のJWが狂信的になるわけだね。」

「2節に、“大患難の間も忠実でいるため,今からどんなことができますか。(マタ 24:21)”とあって、マタイ24:31“その時,世界の始めから今まで起きたことがなく,いえ,二度と起きないような大患難があるからです。”を引照聖句としています。ここでいっている“大患難”は、JWの言っている“大患難”と同じですか?違うと思うのですが?」
「マタイ24の15から21がひとまとまりになっている。そこには、“その時,ユダヤにいる人は山に逃げ始めなさい。”とか、“逃げるのが冬や安息日にならないように祈っていなさい。”とあって、地理的・文化的状況は非常に限定されている。この世界の終わりというよりは、西暦70年のローマ軍によるエルサレム滅亡のことを言っていると解釈するのが普通だね。」

「3節で、“「10本の角」は,「野獣」つまり国際連合を支持する政府全てを表しています。(啓 17:3,11-13; 18:8)これらの政治勢力が間違った宗教を攻撃する時,大患難が始まります。”とあるね。日本も国際連合に加盟しているけど、その時日本政府は創価学会とか靖国神社とか伊勢神宮を攻撃するということね。これを普通の日本人に説明したら、頭がおかしいと思われるだけだね。」
「これは最近の教義ですね。昔は、大患難は1914年から始まったといっていましたが、2013年7月15日号のものみの塔の“「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか」”という記事からで、そこには“国際連合(現代の「嫌悪すべきもの」)がキリスト教世界(一般のクリスチャンから見て聖なるもの)と大いなるバビロンの残りの部分を攻撃する時です。その攻撃のことは啓示 17章16-18節に描かれており,それをもって大患難が始まります。”と書かれています。」
「この記事の執筆者は、世界の宗教や国家の多様性や複雑な関係など何も知らないで、この記事を書いているね。」
「政治権力が宗教を攻撃すると想定していますが、これは共産主義国家のような政治と宗教が完全に分離している国家だけにありうる話ですよ。」
「イランのように、宗教が政治をコントロールしている国もあるし、日本のように、特定の宗教勢力から支援を受けた政党が与党である国もある。その様な国では、JWの言うようなシナリオがそもそも成立しそうもない。」

「4節で、“所属する宗教組織が壊滅するのを見た人々は,宗教の指導者たちが無力であることを知り,宗教と距離を置こうとするでしょう。”とありますが、そんなことはないでしょう。これはJWの単なる推測です。」
「たいていの宗教は弾圧されても、そう簡単に壊滅しない。しかし、JWとしてはそうなって欲しいので、自分たちの都合に合わせて話を作っているだけ。」

「6節からは、JWがすべきことが取り上げられています。7節で、“同性婚など,同性愛の関係も不道徳なことと見ています。”とわざわざ書いています。同性愛者は大患難で死ぬようですね。同性愛嫌いのJWにとっては良いニュースなのでしょう。」
「8節に、“大患難の時には,ひょうのような厳しい糾弾のメッセージを伝えることになります。”とある。どんなメッセージか楽しみだね。でも英文では、“we may well deliver a message as hard-hitting as hailstones.”で、“かもしれません”だよ。単なる推測。」
「9節には、” 私たちが伝えるメッセージを聞いて,国々は伝道を何としてもやめさせようとするでしょう。”と、迫害を予想しています。これも単なる推測です。自分たちが、重要な存在と思いたいという願望の表れですね。」
「国家からすれば、JWはちょっとばかり風変わりな原理主義的な宗教にすぎないわけで、児童性的虐待のような社会問題を引き起こさなければ、放置しても問題のない存在でしょう。」
「国や行政のレベルでJWが話題になることなんかないですよ。輸血拒否問題で、医療の世界で多少話題になるくらいです。」

「とにかく、他の宗教はなくなるけれど、JWだけは宗教活動を続けるというわけだ。JWらしい、自分勝手な予想だね。」
「そうなると、11節で、“人々は不快感をあらわにし,ネット上でもエホバの民をたたくでしょう。”とあります。わざわざ“ネット上でも”というのがおかしいですね。ネット上での批判が気になって仕方がないようです。」
「その後、“国々はマゴグのゴグ として行動します。一致結束してエホバの民への総攻撃に着手します。”とあって、いよいよJWが攻撃される。カルト的誇大妄想の典型例だ。」

「12節から、突然、2016年から2018年の過去3年間の地区大会のテーマの復習になります。忠節、忍耐、勇気だったそうです。」
「14節の、“大患難の間に,エホバの民全体を教え導いてきた兄弟たちの交代があります。天に行くよう選ばれ,まだ地上に残っている人たちが,ある時点で天に集められるからです。ハルマゲドンの戦いに加わるためです。(マタ 24:31。啓 2:26,27)ですから,統治体は地上に存在しなくなります。”は面白いね。統治体のあの老人たちが、突然天に昇って行くわけだ。」
「ハルマゲドンの戦いで足手まといにならないといいですけれど。」

「1989年の“啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!”の41章では、“ハルマゲドン後になお地上で生きている油そそがれた者がいれば,その後まもなく死んで復活させられ,天で報いを受けるに違いありません。”とあって、油そそがれた連中は、死んでから天に行くという教義だったんだけどね。変わったんだね。」
「2014年2月15日号のものみの塔の“子羊の結婚を歓びなさい!”という記事に、“大いなるバビロンの滅びの後,イエスは花嫁級の残っている者たちをご自分のもとに集めます。(テサ一 4:16,17)ですから,ハルマゲドンの戦いが勃発する前,「花嫁」の成員はすべて天にいます。”とあって、今から5年前に教義変更です。ずっと昔の教義に戻ったんです。」
「教義に一貫性のないのがJWの特徴だからね。アメリカの掲示板で、これは統治体が金を持って逃亡する前触れじゃないか、という意見が出ていたね。これから天に行きます、探さないでください、というメモを残して統治体は突然いなくなるかもね。」

「17節に、“エホバが合図を出すと,イエス・キリストが天の軍勢を率いて戦いに打って出ます。”とあって、その様子を描いた挿絵があるよね。この根拠となっている聖句は、啓示6:2の“見ていると,白い馬が現れた。それに乗っている者は弓を持っていた。そして冠を与えられ,征服しに,また征服を完了するために出ていった。”のようだけど、これってイエスキリストじゃないよ。」
「白い馬にのって冠をつけているので、イエスですよ。」
「これは子羊が7つの封印の最初の封印を解くと飛び出してきたものだよ。子羊がイエスなら、この飛び出してきたものはイエスではありえない。イエスは啓示19:11、12で“私が見ていると,天が開かれ,白い馬が現れた。それに乗っている者は,忠実で真実な方と呼ばれ,正しく裁き,正義のために戦う。この方の目は燃える炎のようであり,頭には多くの王冠がある。”と描かれている。6:2とは、白い馬以外の共通点がない。」
「そういえば、6:2では武器が弓なんですが、イエスらしくないです。」
「マゴグのゴグに対する言葉として、エゼキエル39:3には、“あなたの左手から弓をたたき落とし,あなたの右手から矢が落ちるようにする。”とある。弓矢はマゴグのゴグの武器ということがわかる。聖書では、弓矢は神の民の敵対勢力が使用するものとして描かれることが多い。」
「サムエル一31:3では、“サウルへの攻撃が激しくなり,弓を射る人たちに見つかったサウルは撃たれ,ひどい傷を負った。”とありますね。その後サウル王は剣で自決します。」
「他には、列王一22:34では、“1人の人が特に狙いを定めずに弓を射ると,イスラエルの王のよろいの継ぎ目に命中した。”とある。この王はアハブ王でこの後死ぬ。歴代二35:23には、“ヨシヤ王は弓を射る人たちに撃たれ,家来たちに言った。「ここから連れ出してくれ。ひどい傷を負ってしまった」。”とある。ヨシア王はこの後死ぬ。」
「聖書では、弓を使うのは神の敵対勢力なので、啓示6:2の白い馬の乗り手は反キリスト勢力を表しているということですね。」

「啓示6章の4種類の馬の話は、オリーブ山でのイエスの話をほぼ再現していると考えることができる。」
「マタイ24章ですね。弟子たちが、“教えてください。そのようなことはいつあるのでしょうか。あなたの臨在と体制の終結のしるしは何ですか。”と尋ねる場面ですね。」
「イエスは、“誰にも惑わされないように気を付けなさい。 私の名を使う人が多く現れ,『私がキリストだ』と言って多くの人を惑わすからです。 あなたたちは戦争の音や戦争の知らせを聞きます。動揺しないようにしなさい。これらのことは必ず起きますが,終わりはまだなのです。  国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,あちらこちらで食糧不足や地震があります。  これら全ては苦しみの激痛の始まりです。”と答える。」
「終わりの徴として、ニセキリスト、戦争、食料不足、地震をあげています。」
「啓示6章の4種類の馬がこの徴とほぼ並行関係にあるとすると、最初の白い馬は、ニセキリストということになる。ちなみに、火のような色の馬は戦争、黒い馬は飢餓、青白い馬は病気による死をあらわす。」
「となると、啓示6:2の白い馬に乗った人をイエスと誤認して、挿絵にまでしているこの記事は、爆笑ものですね。」

「最後の19節に、“統治体のメンバーとして奉仕したジョージ・ギャンギャス兄弟 は,こう語ったことがあります。”と、この人の発言を引用しているのですが、この人は、レイモンド・フランズの「良心の危機」の103ページに、“ジョージ・ギャンギャスは快活なギリシャ人で、統治体の最古参のメンバーの一人でもあったが、とにかく意見が定まらず、その時の気分によっていうことが変わった。”と酷評されています。」
「気分野のギリシャ人ということね、統治体には大した人物はいないとようだ。」

#1114 2019年12月20日 16:40:46

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバはあなたを何にならせますか(42)”で、聖書から様々な人物の例を出し、無理やり、お前たちも同じようにもっと組織のために働け、という内容です。」
「例が多いぶん散漫な内容だね。16節で終わるのがいい点かな。」

「1節に、“ご自分の望むことを行うための知恵や力を与え,私たちの誰をも必要なものにならせることができます。エホバという名にはこうした意味合いが込められていると,多くの学者は考えています。”とありますが、本当ですか?」
「不正引用だね。具体的にそれが誰なのかを示すべき。おそらく、出エジプト3:14の“神はモーセに言った。「私は自分がなろうとするものとなるI Will Become What I Choose to Become」。”を指しているんじゃないのかな。」
「モーセが、もし神の名を聞かれたらなんていえばいいのでしょうという問いに対する答えですね。これはおかしな訳じゃないですか?」
「へんだよ。新共同訳では、“わたしはある。わたしはあるという者だ”となっているけれど、これもへんだね。普通英語では、“I AM WHO I AM”と訳している。新世界訳は相当解釈が入っている。」
「ヘブライ語では、エヒイェ アシェル エヒイェですよね。エヒイェは、私はあるI AMという意味ので、“I AM WHO I AM”と英語では訳すわけですね。日本語だと、私は有りて有るとでも訳するのでしょか?」
「要するに、JWの訳は誤訳で、それ基づいたと思われる1節のエホバの名前の意味の解説もおかしいということ。」

「4節に、エホバは“私たちの生来の能力をご自分の聖なる力によって強めることができます。”とあります。“聖なる力”とはholy spirit(聖霊)の意図的な語訳ですよね。」
「日本のJWは、聖霊を抹殺しようとしている。霊というのが気に入らないようだし、聖霊を電気エネルギーのようなものと考えているからだろう。これは、宗教は土着化、つまり各地域のそれまでの宗教的伝統や習慣にあわせて変化していくという例だね。」

「5から8節が、“男性を助けた例”なのですが、聖書中の結構マイナーな人も取り上げています。6節はバルジライです。サムエル二17章の話です。」
「バルジライって、3人で、ダビデとその軍に必要な物資を供給しただけだよ。3人の中からバルジライだけをわざわざ取り上げているのは高齢だからみたいだね。」
「6節の結論が、“エホバはどんな年齢の人も用いて,ご自分に仕える国内外の兄弟姉妹に必要な物を供給できる,という点です。(格 3:27,28; 19:17)直接支援できなくても,世界的活動に寄付するなら,救援の奉仕を資金面で支えることができます。”という奇妙なものです。老人でも、持っているものや金を組織に差し出せ、ということにつなげています。」
「サムエル二19:33では、“バルジライは非常に年を取っており,80歳だった。とても裕福で,王がマハナイムにいた時には食物を供給した。”とあるよ。バルジライは高齢だけど、“とても裕福”なんだ。どうして高齢ばかりを取り上げ、裕福であることには沈黙しているのかな?」
「大多数のJWは裕福じゃないからですよ。“とても裕福”なバルジライだと、JWの教訓話にならないじゃないですか。そこでバルジライの高齢という側面を強調し、JWの50%以上を占める高齢JWに、年だからと言い訳を言うなよ、と圧力をかける話にもっていっているわけです。」
「JW流の聖書の使い方がよくわかるね。」

「7節は、ルカ2章に出ているシメオンの話です。“エホバはエルサレムに住む高齢の忠実な男性シメオンに,メシアを見るまでは死なないことを約束しました。”とあります。約束したのはエホバなんですか?」
「ルカ2:26では、“エホバのキリストを見るまでは死なない,と聖なる力によって神から啓示されていた。”とある。ひどい訳だね。エホバ、キリスト、聖霊、神が一つの文に出ているよ。啓示したのは聖霊だよ。しかし、JWは聖霊を聖なる力と、その人格性を否定しているので、神から啓示されたと嘘を言っている。新共同訳の、“主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。”の方が正しい。」

「ところで、シメオンが高齢とは聖書には書いていませんよね。」
「書いていない。キリストを見るまで死なないという文から、間もなく死ぬ老人と解釈したのだろう。しかし、この文はシメオンが老人であることは必ずしも意味しないよね。」
「シメオン伝説ってあるんですよね。」
「シメオンは70人訳の訳者の一人だったけれど、イザヤ7:14の“処女”が妊娠するという部分の翻訳を、これはへんだろうと思い、“女性”に修正しようとしたら、突然天使が現れて、それなら実際に処女がキリストを生むのを見るまで死なないようにしてあげようといったという。それでシメオンは、奇跡的に長生きし、イエスを抱いたときは200歳以上だったという。もうすぐクリスマスだけれど、キリスト教美術で、赤ん坊のキリストを抱いている老人がシメオンだ。」
「この記事の執筆者も聖書に基づかない伝説に影響されているのですね。」
「聖書外典には、シメオンが113歳と書いてあるのもあるよ。」

「8節はヨセフことバルナバの話です。バルナバは“慰めの子”という意味で、“今日でも,エホバは私たちが兄弟姉妹にとって「慰めの子」になれるようにしてくださいます。”という話しにつなげていきます。」
「JWが慰めるのは兄弟姉妹だけというのがJWらしくていいね。使徒4:36に“ヨセフという人は,使徒たちからバルナバ(「慰めの子」という意味)とも呼ばれ”とあるけれど、バルナバは“慰めの子”という意味じゃないよ。使徒を書いた人は、アラム語をよく知らなかったんだろうね。アラム語の意味は“預言の子”という意味。」
「9節の最後に、“兄弟の皆さん,ワシーリーのようにエホバへの奉仕に自分を差し出すことができますか。”とあります。こんなことを英文では言っているのですか?」
「英文では、“Brothers, if like Vasily you make yourself available to be used by  Jehovah,”で、“兄弟たち、もしワシーリーのように、エホバに用いられるようになれば、”という意味。誤訳だ。」

「10から13節が、“女性を助けた例”です。10節には、サムエル一25章のアビガイルの話が出ています。“クリスチャンの女性も,機転を利かせ,識別力を働かせることにより,エホバに用いていただけます。”という結論ですが、意味不明です。」
「アビガイルはナバルの妻で、ナバルは裕福な牧畜業者。ダビデが家畜を守ってやったんだから、みかじめ料を払えと、要求をしたところ、ナバルは断った。怒ったダビデがナバルをぶっ殺す、と騒いでいたら、ナバルの妻のアビガイルが酒や食い物をどっさり持ってやって来て、詫びを入れたので、ダビデは、今回のことは美人の奥さんに免じ出て水に流そうと言ったという話しだね。ナバルはなぜかその10日後に突然死し、その後、アビガイルはダビデの何人か目の妻になるという、若い女性にとって、とても教訓になる話だ。アホな男の妻より、王の妾の方が幸せという教訓だね。」
「JWでは、妻は夫に従っていればよいという教えなので、アビガイルの話は教訓にはなりませんね。」
「サムエル一25:3では、アビガイルを“機転が利く美しい人”となっている。この記事では、“機転が利く”は取り上げているけれど、“美しい”には沈黙だ。高齢で裕福だったバルジライの裕福を無視したのと同じだね。」
「聖書で、神に用いられる人は、ほぼ美しい人ですよ。男だって、サウロもダビデも美しい男となっている。」
「聖書を読む限り、神様は人間の外見重視だ。」

「11節は、“それから数百年後,シャルムの娘たちはエルサレムの城壁を修復するためにエホバに用いられました。”と、シャルムの娘たちを取り上げています。それを、“現在でも,意欲を持つ姉妹たちが特別な形の神聖な奉仕を喜んで行っています。エホバに献堂される建物の建設やメンテナンスという奉仕です。”という話しにつなげます。男の少ないJWなので女性を建設現場で使おうということですね。」
「城壁修復で女性が出てくるのは、ネヘミヤ3:12の“ハロヘシュの子シャルムが娘たちと共に修復した。”だけ。例外中の例外だ。それを現代のJWの建設工事に適用するなんておかしいよ。女性差別の宗教なんだから、女はお茶でも入れていろ、というべきだろう。」
「こき使うときは男女平等です。」
「ネヘミヤ3:12の“ハロヘシュ”は個人の名前じゃなくて、ささやく、つまり呪文を唱えるものといった意味。魔術や魔法を使う人たちの集団を表す言葉ではないかと思われる。そうだとすると、娘たちは自分の子どもではなく、女占い師のような女性たちを指す可能性が高い。」

「12節は、使徒9章のタビタの話です。教訓は、“老若男女を問わず,誰もが兄弟姉妹のためになることを行える,という点です。”とあります。繋がりがよくわかりません。」
「タビタは、使徒9:36で、“ヨッパにタビタという弟子がいた。”とある。弟子と呼ばれた唯一の女性。タビタは病死するわけだけど、ペテロによって復活する。その時のセリフが、“タビタ,起きなさい!”でアラム語だと、“Tabitha koum”。マルコ5:41のイエスのセリフ、“タリタ クミtalitha koum”と1文字しか違わない。」
「ペテロはイエスのセリフをおぼえていて、そのセリフをタビタに使うと、一文字違いなので、これは一種の駄じゃれだね、と思ったのでしょうね。ペテロもユーモアがありますね。」
「というより、使徒の活動自体が、イエスの活動の再現のようなもの。例えば、パウロは、宣教し、捕まり、裁判を受けて、死ぬ。これはイエスの生涯をなぞっている。使徒の活動では、裁判を受ける前で終わっているけれどね。」

「13節はルツという女性の話ですが、ルツというのはへんじゃないですか?」
「恐らくアメリカ人でRuthだから、ルースだと思うよ。聖書のルツもRuthなので、ルツと読んでしまったんだろう。」
「ルツは、1998年の年鑑の“日本”の“日本における英語の区域”の記事に出ています。“1981年3月に,ジェームズ・マンツ・シニアと妻のルツは,それぞれ62歳,59歳という年齢で,厚木基地の近くの相模原に移転しました。”とあります、基地のアメリカ兵相手に伝道活動をしていたようです。」
「夫は、日本に来て間もなく亡くなったとある。13節には、“奉仕を80年近く行った後,こう語りました。”とあるから、奥さんの方はかなり長生きしたんだ。」

「14節に、“あなたが自分を差し出すなら,エホバはあなたを熱心な福音伝道者,上手に教える人,温かく慰める人,腕のいい職人,心強い友にならせ,ご自分の望むことを行えるようにしてくださいます。”とあります。どれにもなりたくないですね。」
「15節が泣けるよ。“多くの会衆では,援助奉仕者の数が長老の数を下回っています。若い兄弟は,会衆のためにもっと貢献しようという意欲を高めることができますか。兄弟の中には,「伝道者として定期的に奉仕できればそれで十分です」と言う人がいます。”とある。無気力・無関心な若いJWの姿が目に浮かぶね。」

#1115 2019年12月20日 18:36:14

しろ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

質問さんへ
初めて読みました
ブラックユーモアみたいで 吹き出しそうになりました
次回 楽しみにしてます

#1116 2019年12月24日 08:50:36

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんへ
いつも興味深い書き込みありがとうございます 今自分の立てたトピで福音書の筆者はどんな人なのかについて話し合っているのですが 聖書についての質問さんの意見も聞きたいと思いましたのでよろしかったらまた書き込みお願いいたします

オフライン

#1117 2019年12月24日 15:51:13

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

月曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週はいろいろ予定があるので、早めに予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバに全くの専心を示しましょう(43)”で、お金を愛するな、娯楽を愛するな、JWの活動以外は興味を持つな、という内容です。」
「これが今年の掉尾を飾る記事という訳だ。もっと楽しい記事にできないのかな?」
「掉尾は“とうび”と読まれることが多いですが、本当は“ちょうび”と読むんですよね。“とうび”だと“塔美を飾る”(美しいものみの塔がさらに美しくなる?)と無知なJWが誤解します。」

「このタイトルは、ナホム1:2の“エホバは全くの専心を要求する神”からきているけれど、ちゃんと引用すると“エホバは全くの専心を要求する神,復讐する神。”だよ。どうして後半を無視するのかな。エホバの性格を見倣うのがJW でしょう。」
「新共同訳では、“主は熱情の神”となっていますね。護教的な訳ですね。英語の聖書ではほとんどが、jealousつまり嫉妬深い、ねたむという言葉を使っています。新改訳も、“主はねたみ、復讐する神。”としています。」
「古代では多神教が当たり前。ところがイスラエルの神だけは多神教を認めない。自分だけを拝めと非常識なことを要求する。当然、なぜですか、と尋ねられるよね。その答えが、嫉妬深い、ねたむ神だからというもの。これなら無知無学な人でもわかる理由でしょう。」
「それが熱情の神では答えにならないですね。たくさんの神がいて、その中の一つに過ぎない神のくせに、なぜ自分だけを拝めなんて厚かましい要求するのか、という大問題の答えにはならないですね。」
「後に、多神教的世界から、神は一人しかいないという唯一神教へと変化する。我々の神しか、本当の神じゃない、他のは偽物だから、我々の神以外拝んじゃダメという理屈になる。」

「4節に、“悪魔は今の体制を支配しており,その体制を用いて人間の自然な欲求や罪深い傾向に付け入ろうとしています。”とあります。JWは悪魔がこの世界の支配者と信じているようですが、このような思想は旧約聖書にはないですよね。」
「唯一神教へと宗教観が変わっってから、悪魔が登場する。唯一神教では、神が全てをコントロールしていると考える。そうなると、その一人しかいない神を拝んでいるイスラエルが他の民族より不幸続きなのはなぜなのか、という疑問が出てくる。初めは、不信仰ゆえの神罰というのが答えだった。」
「預言者たちの主張ですね。」
「ところが、異民族に支配されて、信仰に忠実であろうとすればするほど迫害されるという事態が生じる。不信仰ゆえの神罰という説明は完全に説得力を失う。」
「そこで悪魔登場というわけですね。不幸なのは悪魔のせいと説明する。」
「それが、善と悪が宇宙規模で戦っているという黙示論的世界観となっていく。JWの世界観はその世界観を真面目に引き継いでいるわけだね。」

「宇宙の片方の勢力を代表する悪魔ですが、JWの考える悪魔はたいしたことはしないようです。4節によると、“悪魔が目的を遂げるために使って成功してきた2つの方法を考えましょう。第一に,お金を稼ぐことを優先させようとします。第二に,良くないエンターテインメントを選ばせようとします。”だそうです。」
「JWの考える悪魔は、支配者ではなく誘惑者にすぎないことがわかる。人間の欲望を擬人化したものだね。」

「5から10節が、“お金を愛さないよう気を付ける”です。これも、JWが大好きなテーマですね。お金を愛さないけれど、寄付金は愛するのがJWです。」
「6節に啓示3章に出ているラオデキアについて、“富を愛するあまりエホバとの関係が弱くなっていたので忠告したのです。(啓 3:14-17)”とあるけれど、そんなことどこにも書いていないよ。」
「啓示の中で“私は裕福で,富を得た。何一つ必要なものはない”といっているからじゃないですか?」
「通常、クリスチャンが自分の富を自慢するということはない。啓示という書物の性質から言っても、文字通りのことではなく、霊的に自分たちは豊かであると自己満足に陥っていることをあらわしていると、普通は解釈するよ。」
「ラオデキアについて最初に言われるのは、“あなたが生ぬるく,熱くも冷たくもない”ということです。まさしくぬるま湯状態ということですね。」
「“私は裕福で,富を得た。何一つ必要なものはない”はその生ぬるい状態を言い換えたものと理解すべき。啓示は、同じことを、表現をあれこれ変えて繰り返すというスタイルを好んでいる。」
「ラオデキアは近くに温泉があったのですよね。あなたたちは生ぬるい温泉のようだ、役に立たないといっているわけですよね。」
「ラオデキアについて、啓示3:17に“貧しく,目が見えず,裸であることに気付いていません。”と言っているけれど、これはラオデキアが豊かな町で、目薬と質の良い羊毛で有名なことを前提にした表現。同じように、“生ぬるい”はラオデキアの温泉が有名なことを踏まえている。」

「7から9節にかけてデイビットの例が長々とでいています。元は裕福な会社員が、今は掃除夫で収入は10分の1になったけれど、“王国を第一にする人をエホバが世話してくださることを実感しています。”という感動的な貧乏自慢の話です。」
「でも9節に、“仕事の予定を見直し,上司に希望を伝えました。すると何と解雇されてしまい ました。”とある。そんなに優秀な人をこんなに簡単にクビにするのかな。」
「この人は解雇された翌日に補助開拓者を申し込んでいます。仕事で挫折し、誇りと生きがいを失い、JW活動に逃避しただけのように思えます。」
「新しい仕事が、清掃ということだけど、その仕事のことを、9節で“地味な仕事”と呼んでいる。英文では“secular work that is looked down on by many”で、“多くの人から見下される世俗の仕事”だよ。」
「清掃関係の仕事しているJWに配慮したんですよ。」
「清掃の仕事をしている人は、ほとんどが女性だ。少数ながら男性もいるけれど、大抵は障害がある人か、どこか風変りな人だ。」
「その風変わりな男性清掃員はJWの長老かもしれないということですね。」
「これからは、なるべく目を合わせないようにしよう。」

「11から17節が、“エンターテインメントを賢く選ぶ”です。これもJWの大好きな話題ですが、今回はポルノやラップダンスという言葉が出てこないので面白みに欠けますね。」
「これは、道徳家ぶって、信者の個人的な時間の過ごし方までコントロールしようというカルト体質の現れだ。大きなお世話だろう。」
「11節の下のレストランの挿絵ですが、“あなたのエンターテインメントを用意しているのは誰ですか。”とあります。挿絵の中身と一致していませんね。」
「挿絵は不潔なキッチンで作った料理を客に出しているという内容だけれど、作っている人がだれかとは直接関係ないね。異教の人が作った料理をJWは食べないの?」
「JWが力を入れている映像作品ですが、あれは外注ですよね。JWの人間が作っているわけじゃないですよ。」
「ソフィアとカレブそっくりのキャラクターはJWとは無関係な映像にも登場している。同じ会社で作ったからだろうね。“あなたのエンターテインメントを用意しているのは誰ですか。”と問いかけているわけだから、JWも映像制作を委託した会社名を明らかにして欲しいね。その会社にJW以外の宗教を信じている人がいたらどうするのかな?他の宗教団体の映像を作っていたらどうするのかな?」

「12節の文章は論理性がないですね。“「エホバの食卓」と「邪悪な天使の食卓」の両方で食べることはできません。(コリント第一 10:21,22を読む。)”といいます。そして、“罪深い欲望や行いを助長するエンターテインメントを選ぶのは,神の敵たちが用意した食卓に着くようなものです。”という結論です。食事と娯楽は別ですよ。」
「コリント一10:21,22は、異教の神にささげられた食べ物を食べてよいのかどうかという問題を扱っている。パウロの答えはダメというもの。JWはそれを無制限に拡大しようとしている。娯楽は異教の神にささげられたものなの?信者の私生活を管理・統制したいだけでしょう。」

「14節に、“良くないエンターテインメントの影響はすぐには表れないかもしれませんが,やがてはっきり表れます。”と断定していますが、科学的根拠はありますか?」
「あったら、しつこいくらい記事の中で引用するよ。よくない宗教のほうが影響はあるでしょう。娯楽より、まず宗教を選ぶべきだよ。」
「15節に、“多くの兄弟姉妹は,JW Broadcastingを楽しんでいます。健全な情報が配信される,エホバの証人によるインターネットテレビ局です。”とあります。JWの映像の中には、恐怖をあおる、偏見をあおる不健全なものがありますよ。」
「2018年に、スウェーデンで地域監督が4128ユ-ロ(約500万円)の罰金を科された。それは大会で使われる映像は幼い子どももみるにもかかわらず、年齢制限の審査を受けていなかったという理由だ。子どもにへんな映像を見せるなということだね。」

「17節には、“テレビ,インターネット,スマホのゲームなどに使った時間をカレンダーに記録するのです。”と、JWらしいアドバイスが出ています。時間を記録するというのがJW流の管理術です。」
「ここまで個人の生活に干渉するのは異常だよ。こんなことを言っているから、JWしかいない“楽園”には住みたくない、ハルマゲドンで死んだほうがましだ、と若いJWが思うんだ。」

「18、19節が、“エホバに全くの専心を示し続ける”で、この記事はこれで終わりです。」
「この記事によると、エホバのライバルというのは、お金と娯楽だ。」
「となると、エホバに専心できる可能性が高い人は、これ以上働く必要がないくらいお金がたっぷりあって、なおかつ楽しみがない人ということになるね。でも、そういう人がエホバなんかに専心するかな?」
「統治体がそうじゃやないですか?働く必要はないし、かといって好きなことができるわけでもない。楽しみといえば人目を忍んで酒をがぶ飲みするくらい。することがないから宗教でもやるか、となります。」

「18節で、“使徒ペテロは,(略)こう語っています。「愛する皆さん,これらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点も傷もない平和な人と神に認めていただけるよう,最善を尽くしてください」。(ペテ二 3:14)”とある。この記事と全然あっていないよ。」
「最善を尽くすべきことは、汚点も傷もないこと、神と平和な関係を築くことです。スーツを着て集会に出るとか伝道するとか建設業の真似事をしろとかじゃないですね。」
「ましてや開拓者になるとか、長老を目指すことでもない。」
「今年も、ものみの塔からはいろいろ学ばせていただきました。この記事は“塔美を飾る”、いい内容でしたね。」

#1118 2019年12月28日 01:49:27

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

お久しぶりです
ちょっと一言だけお礼が言いたくて
質問先生、一年間楽しく読ませてもらいました
いつもすごく勉強になりました
本当にありがとうございました!
また来年もよろしくお願いします。

#1119 2020年01月03日 16:48:23

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「新年早々2020年最初の予習に来ました。JWは正月など無関係です。次回のものみの塔は、“終わりが来る前に兄弟姉妹との絆を強める(44)”で、JW同士、もっと仲良くしなさい、という内容です。」
「仲良くするという当たり前のことを言うのに、終末論をからめるのがJWらしい。最初に出ている聖句は、格言17:17で“真の友はどんな時にも愛を示す。”だよ。終わりが来でも来なくても、友は友なんじゃないの?」

「終わりの時には、JWは迫害されるのですよ。だから、終わりの時にはきずなを強める必要があるのです。最初の挿絵では、JWたちが狭い屋根裏部屋に重なるようにして隠れている様子を描いています。こんな時、仲たがいをしていたら大変です。」
「挿絵でも写真でも、太った人は一人も出てこないね。JWには太った人はいないの?アメリカ人の成人の半分は太りすぎだよ。JWだって同じでしょう。それなのに太った人がひとりも描かれないということは、太った人とは一緒に隠れないということ?」
「太った人を差別しているのではなくて、太った人は老人たちと地下室にいるという設定じゃないですか?」
「確かに、太った人は屋根裏部屋の狭い入口に入りそうもないね。」

「3から7節は、“エレミヤから学べる点”で、エレミヤ36章のエレミヤと秘書官バルクの話です。」
「エレミヤの言葉をバルクが書き写し、それをバルクが人々の前で読んだ。しかし、エホヤキム王は巻物を燃やし、エレミヤとバルクの逮捕を命じる。二人はもう一度巻物に書き写すことをした。そんな話。これが友情物語だと、この記事では言いたいようだけど、そうかな?」
「バルクが読み上げた時期は、エレミヤ36:9に、“ユダの王,ヨシヤの子エホヤキムの治世の第5年,第9の月”です。西暦前604年の、JWの独自の歴史では20年ずれているので西暦前624年となっていますが、11から12月で、バビロニア軍が海岸沿いを南下し、アシュケロンの町が陥落した時期です。もしバビロニア軍が東に向きを変えたら、次はエルサレムという危機的状況です。エレミヤもバルクも国を救いたい一念で必死に神の言葉を書き写したのだと思います。」
「未曽有の国難に孤立無援で立ち向かっている憂国の同志だね。」

「2010年に出版された“わたしたちに対する神の言葉 ― エレミヤを通して”の第9章が“「自分のために大いなることを求め」てはならない”で、バルクのことを扱っているのです。そこでは、バルクは少し問題のある人物と否定的に描かれていて、エレミヤの同僚、秘書、書記官とありますが、友とは呼ばれていません。」
「その本の中では、“バルクが望んでいたのは,名声や名誉に関連したものだったのかもしれません。”とあって、名声や名誉を求める人物と決めつけている。その評価を変えたんだろうね。JWの出版物に書かれていることは10年くらいで変わるものでしょう。」

「ところで、エレミヤは、エレミヤ22:19で、エホヤキムのことを“彼は死んだロバのように扱われる。引きずり回され,エルサレムの門の外に投げ捨てられる。”と予言していますが、はずれたんですよね。」
「列王二24:6に、“エホヤキムはやがて死に,代わりにエホヤキムの子エホヤキンが王になった。”とあり、これは定型的な言い方で、特別変わったことがなかったことを示す。普通に死んだということ。預言はけっこう外れているよ。」

「8,9節が、“心を通わせる”ですが、エレミヤとバルクとの関連はあまりありませんね。」
「9節に20代のシンディと60代の開拓者マリールイーズが親しくなったことが出ている。“考えや気持ちを何でも話せると,友情は育ちます。”とあるけれど、JW同士では難しいだろう。」
「若いシンディが年寄り姉妹に本音を語るなんてありえません。JWは告げ口が義務のような集団です。JWの誰にも本音を話してはいけないことなど、若いシンディだってわかっていますよ。」
「当たり障りのない表面的な話をしながら、相手の本心を探るというテクニックが求められるのがカルト信者だね。」

「10から12節が、“一緒に働く”で、一緒に伝道すれば親しくなれるという、話です。」
「10節で、“兄弟姉妹と一緒に働いて魅力的な性格を直接目にするなら,その人の良い面が分かり,自分もそうなりたいと思うようになります。(格言 27:17を読む。)”とあるけれど、その格言27:17は、“鉄が鉄を研ぐように,人は友を研ぐ。”というもの。これは他人を模倣するということじゃないよ。」
「鉄と鉄がぶつかり合うような、友人同士の建設的な批判がその人を鍛え上げると言った意味ですよね。」
「JWの世界には、そういうことは想定されていないよね。何が正しいかは上から与えられ、下の者はそれに従うだけ。建設的な批判なんて存在しない。」

「一緒に伝道すれば親しくなれるなんて嘘ですよね。でもJWにとって、伝道はあらゆることを解決するという建て前なんですよ。」
「2つの例が出ているけれど、一つはあまり伝道されていない区域、もうひとつはアフリカでの話。駅前でカートの横にぼ~と立っていないで、そういうところで伝道せよという暗黙のメッセージだね。」
「11節の姉妹は、“もっと真剣に取り組み,奉仕を楽しみ,ベストを尽くしてエホバに仕えたいと思っていました”と言っていますので、普段は、JWらしく、いい加減な仕方で、いやいや伝道しているんでしょうね。」
「英文では、“We both needed a spiritual boost.私たち二人とも霊的な押上げを必要としていました。”といっている。それが、“ベストを尽くしてエホバに仕えたいと思っていました”になっている。翻訳者は創作が仕事じゃないよ。」
「11節の話は、この姉妹はダメなJWだったけれど、一緒に伝道することにより、立派なJWになりました、という筋書きなので、初めのダメっぷりが十分描かれていないと、いけないわけです。」
「翻訳者はその辺が全く分かっていない。この二人のダメっぷりを描くと、日本のJWを励まさない話になると思ったんだろう。」

「13から16節は、“良いところに目を向けて,許す”です。再び、エレミヤとバルクの話が出てきます。」
「16節の最後には、“大患難の時,私たちは皆,親しい友を必要とします。”とあるけれど、JWにとって友は困ったときの役立つ手段にすぎないというのがよくわかる。その手段を今から準備しておこうという呼びかけだね。」
「といいうことは、大患難のときに役立つどころか足手まといになりそうな太った人や老人や病人・障がい者とは友達になる必要はないということですね。」
「そういうことでしょう。JWの人間に対する見方は、自分にとって損か得かを重視する功利主義的なものだというのがよくわかるね。」

「14節に、“エレミヤは,エレミヤ書だけでなく,列王記第一と第二も筆記したものと思われます。その際,エホバが不完全な人間に対してどれほど大きな憐れみを示したかを理解したに違いありません。”とあるけれど、これはいただけないね。何の真実性もない。推測の上にさらに推測だ。」
「列王記の作者がエレミヤというのはユダヤ人の伝承にすぎませんよ。」
「普通は、ヨシュア記から列王記までの歴史書は、思想や文体に共通性があり、バビロン捕囚期以降の特定の学派による著作と考えられている。」
「その学派は、申命記あるいは申命記法の思想と文体に依拠しているので、申命記学派と呼ぶんですよね。」
「国家滅亡、バビロン捕囚という破局は、古代世界ではイスラエルの神がバビロニアの神に敗北したと解釈される。それを受け入れたくない宗教集団が、自らの保身もあって、自分たちの破局は自分たちの神が無力だからではなく、民の側の契約違反、律法廃棄にこそあると考えた。その思想のもとに、ヨシュアの時代からバビロニアによるユダヤ国家の滅亡までの歴史を、既存の資料をもとに書いたと考えられている。」
「民が、悔い改めて神に立ち戻るなら、神は救ってくれるという主張も申命記学派に共通していますよね。」

「それに対して、エレミヤ記は申命記学派の編集を受けてはいるものの、申命記学派とは異なる思想が目立つ。例えば、17:9に“心はほかのどんなものよりも信用できず”とあり、人間は結局本来罪深いものなのだという絶望的な認識があり、31:33では、“これが,そうした時代の後に私がイスラエル国民と結ぶ契約である。私は,私の律法を彼らの奥深くに入れ,彼らの心の中に書き記す。”と書いている。新しい契約、つまり救いは民の心を神が変える必要があるという認識だ。これは新しい思想だね。」
「31:29,30の“その時,彼らはもう,『父たちが酸っぱいブドウを食べたのに,子たちの歯が浮いた』とは言わなくなる。人はそれぞれ自分の過ちのために死ぬのである。酸っぱいブドウを食べる人は,自分の歯が浮く。”も列王記などの思想と根本的に違いますよね。」
「これは親の因果が子に報い、という連帯責任、集団主義的責任観の廃棄だね。エレミヤは列王記までの古臭い思想とは考え方が違うわけで、列王記の著者とは違う。」

「17から19節が“揺るぎない愛を示す”で、エレミヤ記38と39章に出ているエレミヤとエベド・メルクの話が出ています。エベド・メルクはエレミヤの友だそうです。」
「エルサレムがバビロニアに包囲されている時、エレミヤが穴の中に投げ入れられ、それをエベド・メルクが救い出したというのが38章で、エレミヤがエベド・メルクに必ず助け出すという神の言葉を告げるのが39:15-18ね。」
「39:15-18は、本来38章のエレミヤ救出直後にあったというのが通説ですよね。」
「その方が話の繋がりがいいからね。」
「この時の政治状況は、エレミヤはバビロニアに降伏せよと主張し、それに反対する勢力と対立していたというものです。エベド・メルクはエレミヤの主張に賛成だったということですよ。それで助けた。2人が友達とは聖書のどこにもないですよ。」
「そうだね。エベド・メルクのその後が気になるけれど、どうなったかは聖書には書いていないね。」

「19節に、友情を強める理由として、“敵たちがうそやデマを広め,私たちを分裂させようとするからです。不信感をあおり,仲たがいさせようとします。”とある。これって、JWの児童性的虐待のニュースや裁判のことを言っているんじゃないの?往生際が悪いね。」
「自分たちの都合の悪い情報は嘘やデマと決めつけるのが、正しいJWの在り方ですから。」
「19節には、私たちの友情は永遠です、と子どもでも言わないことを書いています。」
「ウィスキーをチビチビ飲みながらこの記事を書いていた執筆者が、最後は完全に酔っぱらってしまったということだね。」

#1120 2020年01月10日 16:20:49

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“聖なる力は私たちをどのように助けますか(45)”で、聖なる力を受けるためには、組織の言うことを聞いて、集会と伝道に励め、という内容です。」

「聖なる力は、英文ではHoly Spiritだよ。どうして聖霊としないの?2節の、“邪悪な天使の勢力”も英文では、“wicked spirit forces”で“邪悪な霊的勢力”で、天使なんかやじゃないよ。」
「日本のJWは霊というのが好きじゃないのですよ。合理的で現代的な宗教を目指しているんじゃないですか?」
「でも、聖書には訳の分からない霊的な存在がたくさん出てくるよ。そういった存在を抹殺するつもり?聖霊は新約聖書では重要な概念で、それを抹殺するということは、日本のJWはアメリカのJWとは違う独自の宗教を目指していると思われても仕方がないよ。」

「聖霊というと、ものみの塔2014年11月号の読者からの質問“会衆の長老と奉仕の僕の任命は,どのように行なわれますか。”で、“神の霊は,任命の過程全体に関係しています。”と、愉快な答えをしています。この記事では、なぜそのことに触れないのでしょうか?」
「長老の任命に聖霊なんて何も関係ないことを知っているからだよ。人間の都合で選ばれるにすぎないのは、誰でも知っているよ。」

「3から6節が、“聖なる力によって強くなる”で、パウロのトゲの話が中心です。コリント二12:7に“体に1つのとげを刺されました。”とありますが、このトゲって何なのでしょう?」
「 “それはサタンの使いであり”と言っているけれど、悪霊は病気を引き起こすと古代では考えられていたので、可能性が高いのは何かの病気。ガラテア4:13には、“ご存じの通り,私が皆さんに良い知らせを伝えるきっかけになったのは,私の病気でした。”とある。次の4:15では、“皆さんは,できることなら自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ってくれていました。”とあることから、目の病気だろうと推測されている。」
「コリント二12:7の前は、パウロが見た幻の話です。その直後にトゲに刺されました、とあるので、目に関係する病気というのがありそうですね。」
「使徒22章にはサウロことパウロが強烈な光で一時的に目が見えなくなった話が出ている。これは創作と思われているけれど、パウロには目の病気があったことからこのような話が作られた可能性があるね。」

「3節の最後に、“聖なる力によって強くされたので,仕事をしながら伝道も十分にできました。”とありますが、これは単なる推測ですよね?」
「訳に問題がある。英文は“Holy spirit gave Paul the power both to work secularly and to accomplish his ministry.聖霊はパウロに世俗的な仕事と宣教をすることの両方の力を与えました”だよ。この執筆者は世俗的な仕事にも聖霊の力が働くと思っているわけだね。JWの仕事がうまくいかないのは聖霊のせいかもね。」

「5節には、“「私は,このとげがなくなるようにしていただきたいと3度主[エホバ]に懇願しました」と言っています。”とあります。新世界訳でも“主に懇願しました。”となっていて、懇願した対象はイエスですよね。主を何でもエホバに書き換えるJWでも、ここはそうしなかったわけですから。」
「主と訳されているギリシャ語はton Kyrionで冠詞がついている。英語だとthe Lord。パウロの場合、冠詞つきの主はイエスを表す。この記事の執筆者はそのことを知らないので、主を勝手にエホバと思ったんだろう。統治体の老人もそんなことは知るわけがないので、修正されないままということだね。JWの新約聖書の解釈は滅茶苦茶ということ。」
「その祈りに対する答えが、5節によると、“エホバは祈りに答えました。問題を取り除くのではなく,耐える力をパウロに与えました。「人が弱い時にこそ,私の力は完全に発揮されるのである」という言葉の通りです。”とあります。これは全く変ですよね。」
「答えたのはイエス。エホバじゃない。“人が弱い時にこそ,私の力は完全に発揮されるのである”というのはイエスならではの答えだよ。旧約聖書の気に入らない奴はすぐぶち殺す神様が言いそうにもないでしょう。」

「しかも、その訳はへんですよね。英文では、“my power is being made perfect in weakness”です。“私の力は弱さにおいて完全になる”ですよ。」
「新共同訳では、“力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ”だね。JWの日本語訳者は、パウロの逆説的な表現を理解できないのだろう。この一節は、パウロの思想を理解するうえでカギとなる部分なんだけどね。」
「JWは、いっぱい伝道し、いっぱい集会に参加し、組織のために死ぬまで働く、そういった強い者こそが楽園に行くという、強者賛美・弱者切り捨ての宗教ですから。弱さの中にこそ力が働くというパウロの思想はまったく理解できませんよ。」
「神様はそういう強い人のためにいるんですか?神様はそういう強い人しか救わないんですか?そうじゃないでしょう。というのがイエスのメッセージなんだけど。」
「JWはクリスチャンと称していますが、律法など旧約重視で、イエスの教えは基本的に無視しています。キリスト教ではなく、エホバ教ですから。」
「細かな規則を設けて、それを守れないと排斥。旧約聖書の宗教だよね。」

「7から12節が、“聖なる力を受けてエホバに仕え続ける”で、ペテロ二1:21の“どの預言も,人間の考えによって語られたのではありません。人が聖なる力に導かれて,神からの言葉を語ったのです。”を取り上げ、9節で、“ペテロは,「航海を連想させる比喩」を使っていました。”とつなげて、強引に船の例えの持っていくと筋書きです。」
「この船は風を受けて進むヨットだね。11節には、“追い風に乗るためにすべきことは2つあります。”とある。」
「ひとつは、風の吹く場所に行くこと、二つめは、帆を上げてしっかり張ることです。このことから、“第一に,エホバの聖なる力が流れている所に自分の身を置かなければなりません。第二に,帆を上げてしっかり張るように,エホバが勧めている事柄を精いっぱい行う必要があります。”という結論にもっていきます。」
「要するに、集会に来て、積極的にコメントしろということね。」
「ヨットの操作と宗教活動は、もともと関係ありませんから、単なるこじつけです。何の論理性もありません。」
「あの退屈な集会に聖なる力が働いているとなぜ言えるの?誰もそう思わないでしょう?」
「集会で態度が悪いという理由で体罰と称した虐待を受けた子どもや、集会の間に盗みの被害にあった人は、聖なる力が働いていると聞いたら、ふざけるなと怒り出すかもしれませんね。」
「もとのペテロ二1:21は預言のことをいっているのに、最後は預言とは何の関係もないところに流れ着いたというわけだ。」

「13から16節は、“聖なる力を十分に受けるために何ができるか”で、聖書を学び、集会に参加し、伝道し、祈るのだそうです。要するにJW活動をまじめにすればいいという結論です。」
「15節には“エホバの聖なる力を十分に受けるには,定期的に伝道し,”とあるけれど、全くの推測。聖書のどこにそんなことが書いてあるの?」

「17と18節が、“粘り強く祈る”で、ルカ11章に出ている、夜中にパンを求めた人のたとえ話から、“聖なる力を受けるには粘り強く祈らなければならないのです。”という結論です。18節の解説は、“不完全な人間でも,しつこく頼まれれば助けてくれます。そうであれば,まして親切な父エホバは,粘り強く聖なる力を求める人を助けてくださる,ということです。”とあります。この解釈でよいのですか?」
「よくないね。その解釈の問題点は、たとえ話の中の人物はしつこく求めていないこと。」
「1回しか求めていませんね。」
「新約聖書の神さまは、しつこく祈らなければ聞いてくれないというケチなJWの神様とは違う。新約の神さまはすすんで祈りに耳を傾けるし、その哀れみや恵みは無限という存在。」
「神様の在り方がJWと新訳聖書では根本的に違うわけですね。」

「ルカ11:8は、“その人は,友人だという理由で起きてきて何かを与えることはないとしても,しつこく頼むなら,必ず起きてきて何でも必要とする物を与えてくれます。”だけど、“しつこく”と訳されているギリシャ語anaideiaは、新約聖書ではここしか出てこない珍しい単語。しつこいという意味はなく、前後の関係からそう訳されているに過ぎない。本来の意味は“恥知らず”。」
「ということは、anaideiaは、頼んでいる人ではなく、家で寝ている人のことを言っているということですか?」
「そう。恥知らずと友人に思われたくないので、起きて物を与えてくれる、という意味になる。」

「それが“しつこく頼むなら”と求める側の性質と解釈されたのは、この例えが祈りについての話の中に挿入されたからですね。」
「この夜中にパンを求める例えは、本来祈りとは無関係だったと推測される。しかし、ルカがこれは祈りの説教の場面でのたとえ話と誤解して、ルカ11章の祈りの話の中に無理やり挿入した。そのため、たとえ話の中で、しつこく求めていないし、ドアをたたき続けてもいないのに、ルカ11:9の“それで,求め続けなさい。そうすれば与えられます。探し続けなさい。そうすれば見つかります。たたき続けなさい。そうすれば開かれます”というつながりの悪い不自然な結論になっている。」
「このルカ11:9はルカ自身の解釈ですね。でもルカ11:10以降とつながりが悪いです。」

「ルカ11:10は、“誰でも求めている人は受け,探している人は見つけ,たたいている人には開かれます。”で、これは神の寛大さを表している。不親切な人でも、恥知らずと思われたくないので親切にする。ましてや天の神はそれ以上のことをなさるだろう。あなたがたはこの神に確信をもってより頼むことができるはずだ、というのがこのたとえ話の主旨だね。」
「それに比べると、JWの神様はケチで不親切ですね。粘り強くない人は助けないのですから。」
「JWは、人間は神の宇宙主権の正しさを証明しなくちゃいけないとか、いろいろ過大な要求が神から課せられていて、それに全力で答えなくては、滅ぼされるという、強迫神経症的な宗教観に基づいているからね。」
「ヨットの例えも、まず頑張って自力で帆を張らないとダメだということです。帆を張った人にだけ神様は風を送ってくれるという話しです。弱者は切り捨てられ、強いものが自力で救済をつかみ取るというがJWの思想です。」

#1121 2020年01月17日 16:24:16

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「信仰の大盾」を手入れしていますか(46)”で、JWの奇妙な信仰の防衛術を解説した内容です。」
「防衛術は、JWのことを盲信することだね。カルト宗教としての特徴がよく出た記事となっている。」

「1節で、エフェソス6:16の“加えて,信仰の大盾を持ってください。それによって邪悪な者の火矢を全て消すことができます。”を読むとあります。そして、“信仰も,今の腐敗した体制の不道徳や暴力など,神の基準に反する事柄に負けないよう私たちを守ってくれます。”と言っています。」
「これもよく使う聖句だよね。でも、この聖句の少し前のエフェソス6:12,13に“人間とではなく,政府や権威,この闇の世の支配者たち,天にいる邪悪な天使の勢力と戦っています。 それで,神からの武具を全て身に着けなければなりません。”とある。神からの武具は、JW的な細々としたイケナイことをしないためではなく、霊的な悪の諸勢力と戦うための武具なんだよ。」
「それはわかっていると思いますよ。意図的に誤った適用をしているのです。」
「その方が信者の管理統制に使えるからね。」

「2節の下にあるローマ兵の挿絵ですが、服装が少し変じゃないですか?スカートのようなものを着ていますが、ひざ下までの長さです。これは身体の露出を嫌うJWの創作ですよね?」
「ローマ兵はチュニカとよばれる服を着て、その上に鎧をつけた。チュニカは今のチュニックの語源だね。JWのダサイ姉妹のスカートじゃないんだから、ひざ下までの長さはないと思うよ。ローマ兵を描くなら、兜の飾りと鉄製の脛当もつけて欲しかったね。」

「3から5節が、“盾を注意深く点検する”です。信仰の盾を点検せよということですが、具体的には、“まず,エホバの助けを求めて祈ってから,聖書を使い,エホバがご覧になるように自分を見つめる必要があります。”だそうです。」
「3節に、“聖書時代の兵士が使っていた盾には大抵,革が張られていました。”というのは疑問だね。ローマ軍の場合、1世紀では木製の盾が一般的だよ。挿絵にある盾はスクトゥムと呼ばれるもので、木を湾曲させて、中心部は金属で補強したものだ。」
「革製の盾ということにして、盾の手入れが大事だという話につなげたかったということですよ。歴史上の真実なんかJWは気にしません。」

「奇妙なことに、4節にある、信仰の盾の点検の具体例が、“では,最近自分が下した決定を振り返ってみてください。お金にとても困るという経験をしましたか。”なんだよ。そして、“エホバが必ず助けてくださると信じることができましたか。そうであれば,信仰という盾は良い状態に保たれています。”だそうだ。JW的で悲しいね。」
「普通に働いていればお金に困ることがないのに、JWであるため貧困に苦しんでいる人がいるわけです。そんな人にも、“エホバが必ず助けてくださると信じることができましたか。”と問い詰めている。本当にいやな宗教です。」
「困っている人がいたら助ける。それがキリスト教精神なんだけどね。JWはなにもしない。」
「組織が貧困の原因を作っておきながら、貧困に苦しんでいる信者に、慰めるどころか、神様に頼ってないからだと、いじめているように見える文章ですね。」
「この執筆者は、決まりきった駄文を書いていれば生活できる恵まれた立場なので、末端の信者の苦労など理解できないんだよ。JWの教義では、神は個々の人間の人生に介入はしないよね。」
「その辺は意図的にあいまいにしていますよ。いいことがあれば、“エホバね”というわけで、個々の人生に介入してくれると思っている信者は多いですよ。」
「悪魔は絶えず信者を誘惑し、信仰を捨てさせようとしていると、JWは教えている。一方、神は基本的には、単なる傍観者で、最後に人類大虐殺をやらかすだけの存在だというのが、JWの教義だと思うけどね。」

「6から11節が、“過度の思い煩い,うそ,落胆から身を守る”です。エフェソス6章とは無関係な内容です。7節は、“過度の思い煩い”を扱っていますが、ここでも、お金の話が出てきます。JWにとって貧困問題は深刻なようです。」
「7節には、“別のタイプの思い煩いもあります。人に気に入られようと気を使い過ぎることです。”というのもある。そして“格言29:25を読む”とあるけれど、そこには、“人への恐れはワナとなる。エホバに頼る人は保護される”と書いてある。これはJWの人は良く考えてほしいね。」
「JWは神ではなく、人の集まりに過ぎない組織を恐れ、その顔色を絶えずうかがっていますね。」
「ワナにかかった動物のように、自由を失い、自分が正しいと思っていることも言えないのがJWじゃないの?神にのみ信頼を置くことによって、人間がつくったワナから逃れることができる、と格言29:25は言っているよ。」

「8節が“うそ”についてで、“背教者は,エホバの組織についてのうそや偽情報をネットやテレビなどのメディアを通して広めます。”とあります。8節の上にある写真は、家族で見ていたテレビを父親が慌てて消しているというものですが、そんなことをすれば子どもはますます興味を持つだけだと思います。ネットやテレビのJW情報は大体真実ですよね?」
「そうだね。それはテレビで嘘を流せば、厳しく批判され、ウソの記事を書いた人は責任を取らされる仕組みになっているからだ。そのようなことがないJWはウソのつき放題になる。マスコミの真実に対抗できないので、8節では、“話を聞いてはいけません。(略)どんな形であれ,背教者とのやりとりはしません。(略)背教者を相手にしません。”と、全くの逃げ腰だ。本当に背教者のウソというなら、JWの方から積極的にテレビに出演して、真理を伝えるということをなぜしないの?」
「ウソであれば簡単にそれを打ち破ることができるはずですよ。逃げ回るのは、反論できないからですよね。」
「JWの戦術は、抑圧と沈黙。閉鎖的なカルトの特徴だね。格言17:28に、“愚かな人でも黙っていると,賢いと見られ,唇を閉じていると,識別力があると見られる。”とあるから、この聖句通りにしているのかもね。」

「9節が、“落胆”で、10節に嘘くさい体験談が出ています。重病の夫を抱えた姉妹が、組織に感謝している手紙の一節が引用されています。」
「嘘くさいことはないよ。この姉妹は、金もない、頼れる人もいない、もはや信仰しか頼るものがないという悲惨な状況なんだよ。信仰のおかげで生きていられると本気で思っていると思うよ。そう思っていれば、組織に対する感謝の気持ちも自然にわいてきて、本部にわざわざ手紙を書いたりもするだろう。」
「もともとは、そのおかしな宗教に入信したことが、現在の絶望的状況の原因じゃないですか?」
「そういう風に考えないように、10節では、“試練の元凶はサタンである,ということを認識しましょう。”と強調している。不幸は、自分たちのおかしな宗教のせいではなく、サタンのせいだと、信者に思い込ませれば、信者はサタンに負けないように、不幸になればなるほど、組織に依存するわけだ。」

「“試練の元凶はサタンである,ということを認識しましょう。”は、訳がへんですよね。」
「“View your trials as being a test from Satan.”だから、“あなたの試練はサタンによる試みと見なしましょう。“といった意味だね。サタンが不幸の元凶なんて、カルト丸出しみたいなことは言っていない。不幸な出来事は自分に課せられた試練であると考えて、頑張りましょうといっているだけ。」

「13から16節は、“物質主義から身を守る”です。“物質主義”もJWが好む言葉です。今回は、テモテ二2:4の“兵役に就いている人は,商売に手を出したりはしません。”を取り上げて、JWを古代ローマ兵に例えています。」
「古代ローマ兵は給料をもらっていたよ。だから副業に手を出すのは好ましくないといえる。JWは無給の宗教セールスマンだから、他の仕事でお金を稼ぐしかない。古代ローマ兵は戦いに勝てば特別にお金がもらえたりしたし、攻略した都市から略奪して、お金に変えることもできた。敵国の人間を奴隷商人に売って儲けることもできた。軍隊は戦争が養ってくれた。JWは宗教が養ってくれない。」
「物質主義を非難するのもよいですが、組織は末端の信者の生活をもっと気にかけて欲しいです。組織の言うことを真に受けて生活すれば、悲惨な老後を迎えることになります。」
「長年JWをやっている人は、自分たちより年上の人がどんな末路を迎えたかを知っているから、組織の言うことなど適当に聞き流せばいいことはわかっているよ。組織は金を集めるだけで出すことはないし、自分たちの発言に責任は取らないし、間違っていても謝罪もしない。偉そうに空理空論を言うだけのクズということぐらいわかっているだろう。」

「16節は、“お金があり,いろいろな物を買えるとしましょう。どうしても必要なわけではない物を買う,というのは良くないことでしょうか。”と、新しい論点を取り上げています。答えは、もちろんダメのようです。」
「信者の個人的な生活に無制限に介入するカルトらしいね。豊かな国に住んでいる人が買うものは、ほとんどが“どうしても必要なわけではない物”だよ。必要品ではなく、生活をより豊かで便利にするものを買っている。」
「最近、音楽を聴くために、ソニーのワイヤレスノイズキャンセリングイヤフォンを買いました。」
「使い心地はどう?こんなものでもJWは罪悪感を覚えなくてはいけないというわけだね。」
「この記事は、贅沢を非難すれば、豊かなJWは罪悪感から少しでも多く寄付するだろうという意図で書かれていますよ。」
「豊かなJWは、組織に寄付しないで、会衆にいる貧しい人を直接助けるためにお金を使うべきだ。そのほうが聖書の教えにかなっているよ。」

「17から19節が、“信仰の盾をしっかり持つ”です。信仰の盾をしっかり持つとは、19節によると、“集会に定期的に出席し,またエホバの名と王国について人々に話すことによってです。(ヘブ 10:23-25)聖なる力の助けを求めながら毎日聖書を読み,聖書のアドバイスや指示に従って生活します。”だそうで、いつもの集会、伝道、バイブルレッスンという話になっていきます。」
「どんなテーマでもその話に収斂していく。JWには、それ以外のメッセージはないということだね。」

#1122 2020年01月24日 16:28:05

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“レビ記から学べること(47)”で、動物の犠牲のかわりに、自分の全人生を組織に捧げよ、という恐ろしい内容です。」
「レビ記をわざわざ取り上げるのはなにか、企んでいるんじゃないかな?レビ記の一節から、新しい光と称してトンデモ教義を打ち出すのかも。この記事はその地ならしかもね。」

「2節に、“レビ記が書かれたのは約3500年前のことですが”とありますが、これはウソでしょう。JWは、レビ記はモーセが出エジプトの直後に書いたとしているのですよ。」
「レビ記はかなり後の時代のものだね。例えば、祭りの日付の表記の仕方が後の時代のものだ。」
「出エジプト23:15では、“アビブの月の決められた時に7日間,無酵母パンを食べる。”ですが、レビ23:5,6では、“第1の月の14日,夕暮れ時は,エホバの過ぎ越しである。この月の15日からエホバの無酵母パンの祭りが始まる。7日間,無酵母パンを食べるべきである。”です。出エジプト記では“アビブ”というなぜかカナンで使われていた月の名前ですが、レビ記になると数字で、しかも日付が詳しいです。」
「出エジプトの前は、イスラエル人は何百年間もエジプトにいたのだからエジプトの暦を使っていたはずだけど、そうなっていない。出エジプト記を書いた人はエジプトとは関係のない人ということがわかる。それから数字で月を表すのはバビロニアの習慣。夕暮れから1日が始まるのも、エジプトではなくバビロニアの習慣。レビ記はバビロニア捕囚期以降に書かれた部分が多いということだね。」
「第1の月の14日と日が設定されているということは、暦を管理する集団がいたということですよね。」
「古代イスラエルでは、暦に関する事項を決定したのはサンヘドリン。閏月が付加されるときもサンヘドリンで決定した。時をコントロールする権威ある組織がなければ、今日は何月何日か、決められない。レビ記は日付が細かく設定されているので、そのような機関が既に存在している相当後の時代に書かれたということ。荒野をさまよう原始的な集団には無理だね。」

「3から8節が、“どうすればエホバに喜ばれるか”で、3節に、“1番目の点: エホバに喜ばれていて初めて,捧げる犠牲は受け入れられます。”とあり、レビ記16章が取り上げています。」
「レビ記16章は、贖罪の日における規定だね。」
「4節で、“注目できるのは,大祭司が罪の捧げ物の血を差し出す前に香をたいた,という点です。”と言っています。5節で、“大祭司はエホバの前で香をたく時,深い敬意を抱きました。私たちもエホバに祈る時,深い敬意と畏敬の気持ちを抱きます。”と解説していますが、的外れですよね。」
「引照聖句のレビ16:23に“香の煙が証しの箱のふたを覆うようにする。死ぬことのないためである。”と書いてあるよ。煙でいっぱいにして、神の箱を直接見ないようにするためだね。出エジプト33:20の“あなたは私の顔を見ることはできない。私を見て生きていられる人はいない”を背景にしている。」

「6節に、突然イエスの犠牲の話が出てきます。“地上で生きていた間ずっと,エホバに忠誠心と揺るぎない愛を示し,自分の犠牲が受け入れられるようにしたのです。”とあります。そしてイエスを見倣いましょうという話しになり、8節で、“エホバの基準に従って生活するなら,祈りはエホバにとって香り高い香のようになります。”と締めくくっています。香りでつながっていますが、もとの贖罪の日の話から大きくそれてしまっているのが、ダメですね。」
「贖罪の日は第7の月の10日だけれど、旧約聖書では、その日のことがほとんど出てこない。実際に行われだしたのは相当後の時代からだと思うね。贖罪の日から話を膨らませようと思っても、素材自体がないということ。それで、イエスの話に飛んじゃったんだよ。」
「6節で、“イエスは,エホバの方法で物事を行うのが正しい,ということを示しました。エホバの主権を立証する,つまりエホバの統治の方法が正しいということを明らかにしたのです。”とあります。これはへんですよ。何の根拠もない。」
「ここは笑えるね。“エホバの主権を立証する”というのはJWの概念でしょう?自分たちの考えを、イエスに押し付けている。」

「9から12節は、“感謝し愛しているのでエホバに仕える”で、学ぶべき2と3が出ています。」
「9節はレビ記7章の“共食の犠牲”の話だね。ふつうは、”和解の犠牲“とか”和解のいけにえ“と呼ぶ。“イスラエル人は「感謝を表すために」共食の犠牲を捧げることができました。”と書いてある。同じようにJWも感謝せよということのようだ。」
「“自発的な捧げ物である共食の犠牲は,エホバ神への愛の表れでした。”とありますが、聖書的な根拠はないですよね。」
「旧約では神への愛という概念はほとんどない。神は愛するものではなく、恐れるもの。恐怖の対象。これが古代宗教の共通点。恐れるから、機嫌を損ねないように、捧げ物をする。捧げ物を怠ると、どんな意地悪をされるかわからないので、一生懸命捧げ物をする。古代宗教を美化するな、と言いたね。」

「10節では、“エホバは脂肪を動物の最良の部分と見ています。また,腎臓を含む他の部分を特に価値が高いものと見なしました。”とあります。これはなぜですか?」
「聖書の中では、脂肪は最高のものというのが決まりだからじゃないの。創世記45:18に“父と家の人たちを連れて私の所に来なさい。エジプトの良い物を与えよう。この土地で取れる最高の物を食べなさい”とファラオがヨセフに言う。“最高のもの”と訳されている言葉は、“脂肪fat”だ。」

「10節の、“イエスは,エホバの律法を心から愛していたので”とありますが、これは違いますよね。」
「この一文の背後には、輸血問題があると思うよ。命よりも輸血禁止のJW律法を心から愛せ、ということを間接的に言っているんじゃないの?」
「でも、イエスは、マタイ12:11、12でイエスは、“あなた方の中で,飼っている1匹の羊が安息日に穴に落ちた場合,つかんで引き出さない人がいるでしょうか。 人は羊よりずっと価値があるのではないでしょうか。それで,安息日に立派なことをしてよいのです”といっています。安息日の決まりを守るより羊の命を救うことのほうが大事だという訳ですから、JWの律法は命よりも大事だというのとは違いますよね。」
「そういって、生意気にも輸血禁止の教義に反対するJWがいるので、イエスは律法順守主義者だと、でっち上げようとしているんだよ。」

「11節で、“エホバへの奉仕は共食の犠牲に似ています。”と話を奉仕へとつなげて、JWも最良のものを捧げよという結論です。」
「11節の上にある写真は、車いすの高齢者が手紙奉仕をしているというものだけど、そういった人たちまでも、伝道活動をさせるのは、悪魔的な組織だと思わないのかな。」
「律法主義のJWですから、組織の決めたことは、年齢や健康状態に関わりなく、しなければならないのですよ。そうしないと滅ばされるというのがJWの教義です。」
「写真のおばあさんは、JW歴は長そうだから、適当にダラダラやればいいということくらいはわかっているよ。」
「12節に、“動物の最良の部分が焼かれ,煙が空に上るのを見て,エホバは喜びました。”とありますが、こんなこと書かないほうがいいですよ。原始的な神だということがわかっちゃいますよ。」
「神とはいかなる存在かについては、初めは素朴な自然神、家族や民族の守り神で、時代とともに超越的な存在になってきたので、いきなり宇宙の創造神という概念が成立したわけじゃない。」

「13から17節が、“エホバはご自分の組織を祝福している”で、18節がまとめです。うんざりするような組織崇拝の内容です。」
「ポイントは、15節の“1919年,イエスは天に行く希望を持つ兄弟たちの少人数の一団を「忠実で思慮深い奴隷」に任命しました。”という文だね。困ったことに、これが本当だという根拠は全くない。自分たちでそう主張しているだけ。自称・神の組織に過ぎない。」
「13節に、“エホバは,任命された祭司たちを認めていることをどのように示しましたか。アロンとモーセが民のために祝福を願うと,エホバは天から火を送り,祭壇の捧げ物が焼き尽くされるようにしました。”とありますから、今のJWにもそれに類似した現象が起きたと言うのかと思ったら、何もないです。」
「聖書では神から認められた人間は、奇跡をおこなったり、天からのしるしがあったりする。今の統治体には、そんなことは全くないよね。」

「16節では、“今,私たちにはたくさんの出版物があります。900以上の言語で無償で提供されています。エホバが忠実な 奴隷と共にいる紛れもない証拠です。伝道が行われていることも,エホバが組織を祝福している証拠です。”とあり、多言語の無償の出版物と伝道活動を神の組織の証拠と言いたいようです。」
「聖書のどこに神の組織の基準が出版物と伝道活動にあるなんて書いてあるの?自分たちに都合の良いように基準を設定し、自分たちがその基準をクリアしていると主張しているだけ。」
「日本聖書協会のHPを見ますと、“全世界の聖書翻訳言語の総数は2012年12月31日現在で2,551言語となりました。”とあります。JWの900の2倍以上です。」
「JW基準では、こちらの方にエホバが共にいることになるよ。」

「“良い知らせは「全ての国の人々」に伝えられています。”とあって、“全て”をわざわざ強調しています。本当でしょうか?北朝鮮やイスラム教の国にJWはいるんですか?」
「これも自分たちに都合の良い基準で判断していると思うよ。ある国に一度でも一時間以上伝道したら、伝道した国と数えるんじゃないの?」
「引照聖句のマタイ24:14は、“そして,王国の良い知らせは,全ての国の人々が聞けるように世界中で伝えられます。それから終わりが来ます。”とありますから、終わりがすぐそこに来ていると主張するJWとしては“すべての国”に伝道したことにしないといけないわけです。」

「17節に、“エホバが組織を用いていることは明らかです。モーセとアロンの時代に天から火が送られてきたのと同じほど明白です。”と強弁しているのには笑える。」
「JWの出版物の中で、“明らかに”とあると、それは少しも明らかじゃないということで、“明白です”というと、それは何の根拠もないということですね。」
「何とかの遠吠えだね。」
「“エホバが用いている組織をどのように支援できますか。”と問いかけて、“伝道し,教える活動をできる限り行うことによっても,支援できます。”と書いています。神の組織なので、人間ごときの支援は不要です、というのかと思いました。その逆とは・・・。」

#1123 2020年01月31日 10:05:00

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

律法の下に無い についてです。

JWの人たちは律法の下に無いという状態を
律法によって裁かれることが無いと解釈して
実際は立法に束縛されています。

「イエスは律法の終わり」という解釈について
聖書についての質問さんはどのように考えておられますか?

#1124 2020年01月31日 16:24:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「始めたことをやり遂げてください」(48)”で、何かを決定する前にすべきこと、決定した後にすべきことを教えてくれる、という内容です。」
「教育水準も低く、社会的常識も乏しいJWに、人間として基本的なことを教えてくれるわけだ。」
「都合が悪ければ約束を平気で破る、借りた金は返さない、とがめられると、ウソの言い訳を長々と喋って、周りをあきれさせる。そんなJWが結構いますからね。」
「JW活動は、人の迷惑や都合を気にしていたらできない。他人の気持ちに鈍感な人ほどJWに向いている。JWがろくでもない人間ばかりになるのは仕方ないね。」

「2節に“よい決定”の具体例が出ているのですが、聖書を読み通す、開拓奉仕をする、牧羊訪問をする、です。これが決定しても実行できないものの例として取り上げられています。」
「この3つを真剣に取り組めという、組織からのメッセージだね。」
「でも、聖書を読み通すなんて馬鹿げた目標ですよ。」
「聖書は小説と違うんだから、読み通す必要などないよ。興味のある所だけ、読めばいいんだよ。」

「この記事も、いつもの通り聖書の話を取り上げてから、その話とはあまり関連のない本題に入るという展開です。3から5節で取り上げられているのが、コリント会衆の寄付金問題です。」
「組織が本当に信者にやり遂げて欲しいと思っていることは、寄付だということだ。」
「3節に、“親切で気前のよいコリントのクリスチャンは,自分たちも募金をしようと決意し,使徒パウロに指示を仰ぎます。”とある。聖書のどこにそんなことが書いてあるんでしょうか?
「コリントでの献金問題は、コリント一16章、コリント二8,9章にでているけれど、初めは、パウロが献金を集めるよう、かなり高圧的に命令しているよ。」
「コリント一16:1,2には、“さて,聖なる人たちのための募金については,私がガラテアの諸会衆に与えた指示に従ってください。毎週の初めの日に,各自が資力に応じて幾らかを取り分けておくべきです。私が到着してから募金することにならないようにしてください。”とあります。かなり強い言葉ですよ。」
「ところが、コリント二8,9章になると、命令形の文は一回だけになる。コリント二8:8では、“こうしたことを言うのは,命令するためではなく,”なんて、かなりへりくだった言い方をしている。初めの手紙とは、パウロとコリント会衆との関係が変化したことがわかる。」

「パウロとコリント会衆の関係はいろいろ問題があって、何度も手紙のやり取りがあったんですよね。コリント二はその複数の手紙を編集したものというのが通説ですよね。」
「コリント二8章と9章は、元は別々の献金依頼の手紙だね。」
「コリント二8:10では、“すでに皆さんは1年前に行動を起こし,行いたいという願いも表しました。”とありますが、9:2では、“私はマケドニアの人たちに,アカイアでは1年前からもう用意ができていると言って,皆さんのことを誇りました。”といっています。つまり、8章では、1年前は単なる決意表明ですが、9章になると献金の準備が完了しています。」
「だから、8章の手紙と9章の手紙の間には1年くらいの時間差があると考えることができる。」
「それなのに、3節では、“ところが数カ月後,コリントのクリスチャンはまだ募金をしていませんでした。”とあり、引照聖句はコリント二9:4,5です。JWはコリント一と二の時間間隔を数か月と想定しているようです。全くおかしいですね。」

「この献金はエルサレムの信者のためのもの。ガラテア2:9,10に“柱と見なされていたヤコブとケファとヨハネが,私とバルナバと握手を交わし,こうして私たちは異国の人々の所へ,彼らは割礼を受けた人たちの所へ行くことになりました。 私たちが言われたのは,貧しい人たちのことを忘れないようにということだけでした。私はそのことに真剣に取り組んできました。”とある。“貧しい人たちのことを忘れないように”とあるけれど、これは献金集めのことを言っている。」
「献金集めに真剣に取り組んだパウロは、この献金を届けるためにエルサレムに行こうとして、逮捕され、ローマに行き、そこで処刑されるわけですね。」
「何でも頑張りすぎるのがパウロだけど、献金問題は、パウロの命取りになった問題なんだ。」

「使徒たちの活動には、パウロの献金のことは出てきませんよね。使徒24:17に、総督の前で行ったパウロの弁明の中で、“今回,寄付金を自分の国民に持ってくるため,また捧げ物をするために,何年かぶりにエルサレムに行きました。”とあるぐらいですね。」
「エルサレムの人たちが、パウロが持ってきた献金を喜んだ、とは一言もない。使徒たちの活動は、使徒たちの間で意見の違いがあったことを隠ぺいし、初期のキリスト教が一致団結していたという神話を作ることを意図したものなの。」
「史実としては、エルサレムの主要なメンバーがパウロの献金を拒否したのではないかと考える人もいますね。」
「それで、使徒たちの活動は、パウロの献金について沈黙しているのではないかと推測されている。」

「6から12節が、“決定する前に”で、1.知恵を求めて祈る、2.よく調べる、3.動機を分析する、4.明確にする、5.現実的である、というアドバイスです。こういうアドバイスが必要なのがJWなんですね。」
「8節が“よく調べる”だけど、“その上で,転職や引っ越し,自活しながら奉仕するためどんな教育を受けるかといった点を決めましょう。”というもの。どんな教育を受けるかではなく、“自活しながら奉仕するためどんな教育を受けるか”と選択肢が極めて限定されているのがJWの悲しいところだ。」
「極めて限られた選択肢しかなければ、決定する前に調べたって意味がないですから、何も調べない、考えないJWが自然と出来上がるわけですね。」

「9節の開拓奉仕の例が面白い。動機が大事だという話なんだけど、初めは、“エホバに喜ばれたいという動機で開拓奉仕を始めたつもりでした。”とある。ウソだろう。聖書のどこに“開拓奉仕”なんて言葉がある?開拓奉仕はアメリカに本部を置くインチキ臭い、ある宗教団体の取り決めにすぎない。本当の動機はそのインチキ臭い宗教団体から評価されたくて開拓奉仕を始めたんでしょう。」
「これは、開拓奉仕をやめる人が多くなったので、そういう人に警告しているのでしょうね。動機の不純なJWと見られていいのか、長老から嫌がらせが増えていいのか、と言っているのです。」
「9節に、“開拓者に求められている時間 の奉仕ができず,喜びが薄れていきます。”とあるけれど、普通は、奉仕時間が足りないだけで、普通は開拓奉仕をやめたりしないよね。数字なんかごまかし放題なのがJWでしょう。中国の経済統計みたいなもの。数字が増加していれば、ウソでもみんなが幸せになれるので、誰も気にしない。それなのに開拓奉仕をやめるのは、組織に疑問を持ち始めたからと、組織は警戒するんだよ。」

「10節にタバコをやめる話が出ています。“ついにやめることができました。エホバを愛し,エホバに喜ばれたいという願いが,大きな力になったのです。”とあります。こんな話をわざわざ取り上げるのは、タバコをやめられない人が多いからですか?」
「この話を額面通り受け取ると、タバコをやめられない人はエホバに対する愛がないせいだ、ということになる。こうやって、圧力をかけようということだね。」
「JWはたばこは吸ってはいけないけれど、たばこ会社の株を買うのは問題ないみたいです。奇妙な倫理観ですね。」
「たばこ会社は、たばこは有害だと敵視され、訴訟などたくさん抱えながらも、高い収益を上げている。組織が見倣いたいと思っている、理想の会社なんだよ。」

「13から18節が、“決定を実行するためのステップ”で、1.力を求めて祈る、2.計画を立てる、3.努力する、4.時間を上手に管理する、5.結果に目を向ける、です。常識的な話です。JWらしい、常識を超えた話がなくて面白くありません。」
「わざわざ、“努力する”と言っているのが笑える。JWの中には、計画を立てて、祈れば、自分は何もしなくても、誰かがやってくれると思う人がいるということ?」
「そういうことかもしれませんね。“努力する”は、英文では“Exert yourself”ですからね。他人を頼らず、自ら働けというニュアンスですよ。」

「この中で面白いのは、“時間を上手に管理する”だね。9節で、“(エフェソス 5:15,16を読む。)”とある。そこには、“時間を有効に使って*ください。今は悪い時代だからです。”とある。時間を有効に使いましょう、なんて現代のセールスマンみたいなことをパウロが言うと思う?訳がへんでしょう。」
「時間を有効に使えというなら、最後の部分は、“今は終わりの時だからです”といった、残された時間の短さを訴えるものになるはずです。ところが、“今は悪い時代だからです。”と締めくくっています。」
「同じ表現は、コロサイ4:5にもあって、“会衆の一員ではない人と接する際にはいつも賢く行動しましょう。時間を有効に使って*ください。”と訳している。脚注*には、“または,「良い時を買い取って」。”とある。これが字義的な意味。でもここでは、時より機会という意味。」
「つまり時間を有効に使えではなくて、あらゆる機会を利用しなさい、という意味なのですね。」
「新改訳の“機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。”がより良い訳。」

「15節に、“毎日のToDoリストを作り”とあります。無学なJWが英語とわからず、“トドリスト”と読まないか心配です。“することリスト”とでも訳せばいいと思います。もとの英文では、“to-do list”となっていますね。」
「日本では、ToDoリストと表記することが多いみたいだね。GoogleのアプリもToDoリストとなっている。このリストを作ることと実行することは別なんだけどね。」

「19節がまとめですが、“エホバに助けていただくなら,始めたことをやり遂げるための知恵と力が得られます。”とあります。結局は神だのみなんですか?」
「ベストを尽くせば、神様も助けてくれますとか、人事を尽くして天命を待つ、とか言わないと、相変わらずの無責任でいい加減なJWのままだよ。」

#1125 2020年02月01日 19:14:48

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、お疲れ様

>「聖書は小説と違うんだから、読み通す必要などないよ。興味のある所だけ、読めばいいんだよ。」


jw時、会衆で競り合うように全通読したものです。私は数回で辞めましたが、中には10回とか20回と自慢げに公表したり....

全体掌握とか、全く無意味とは思いませんでしたが、適用とは殆ど無関係の印象です。

「論語読みの論語知らず」とは正にこのこと。(๑˃̵ᴗ˂̵)

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