ログインしていません。

#51 2019年06月04日 18:52:35

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

アノニマス さんの発言:

聖書を理解したいから、色々な解説書や哲学書に頼る。教会も宗派があり答えは一つではない。人の歴史書とも合わない。神は残酷であり聖書は自分が理解できないのでウソっぱちである。...ということにならないように。

マタイ7章7節にある求め、探し、たたき続けるのは聖書の事です。そして設問として、王国と神の義を第一に求めよ、です。

アノニマスさん、投稿ありがとうございます。

確かに諦めることなく求め続けるなら与えられると思います。

(^_^)

#52 2019年06月04日 19:16:02

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほい さんの発言:

一言で説明するのは難しいですが、JWとしての活動に青春と20代は捧げました。
命の与え主という創造者への感謝の気持ちも持っていましたし、その方が実在するなら、今でも親に感謝するのと同様に感謝しています。
ただ、事あるごとに「エホバが祈りを聞いてくださった!」と神を身近に感じられる兄弟姉妹ほど感性豊かではありません。

感謝の気持ちも持っていましたという事は、今は持っていないとも受け取れます。

しかし、「実在するなら、今でも親に感謝するのと同様に感謝しています。」というのは、そもそも実在を信じていないわけですよね?

ほい さんの発言:

その考え方だと、ハルマゲドンで人類の99.9%が滅びると信じているJWの教義も(理論上は)筋が通ることになります。
また、確かにごく一部に救われた異邦人などもいたわけですが、それは全体の人数から考えると圧倒的に少数ですし、救われる(保護される)絶対条件はエホバへの無条件な服従です。
そうする決意をするに足る証拠や情報が十分に与えられていたかは分かりませんし、そのような選択肢が個々の人すべてに与えられていたのかも聖書の記述のみだと甚だ疑問です。この条件はやはり過酷だと思います。

99.9%かどうかは分かりませんが、大群衆ではあっても、全体から見ると少ない人々(狭き門)しか助からないというのは聖書の教えですから、JWが正しいかは別にしてその考え自体は何ら不思議ではありません。

救われる絶対条件はエホバへの無条件な服従ですとの事ですが、異教の国々では、他の神々に仕えてはならないという教えを無視して偶像や偽りの神々に仕え、子供を生贄として捧げ、不道徳や暴虐が蔓延していたのですから、まことの神に従う事のほうが益がある事は言うまでもありません。
個々の人々全てに情報が与えられていたかを度々問題にされますが、聖書を史実と考えた場合ですよね?

創造の時から神は人類に語られており、直接に神を知っていたカインや他のイスラエルの者の中からでも神に従わず故意に離れた者もいたわけです。

バベルの塔でそれぞれの国民も神の力を知っていましたが故意に逸れました。

ですから個人個人に十分な情報が与えられていたなら悔い改める人が増えるというのは誤りです。
直接に神を知っていた者でも逸れたのですから。
(それができるのは神が自由意思を尊重しているからです。)

神が今出てきて従うように語られたとしても、不平を言う人は言うのではないでしょうか?
なぜもっと早くに出てこないんだとか、又は神が来られても認めないでしょう。
イエスの奇跡さえ認めない人もいたわけですから。


さて、ほいさんの考えでは、神に従わなかったファラオとエジプトの民を罰した神はカルトだという事でした。

数百年もヘブライ人を虐待し、根絶しようとしてヘブライ人の男児も殺したエジプト社会こそがカルトであり、それを神が罰せられたというのが筋の通った見方だと思うのですが、ファラオや、それを黙認してヘブライ人の男児を殺したエジプト社会はカルトではなく、あくまでも神がカルトであり、間違いだと言われるのですか?


ほい さんの発言:

どの時代に生きていたとしても、その時代の価値観というフィルターがかかるのは当然です。
神が聖書のみを通して人類を教え導くというのであれば、それらのフィルターにかかったとしても納得の理解が得られるような書物にされるべきではないでしょうか。神は全知全能なのですから。しかし、残念ながら聖書の内容はそれには程遠いと感じざるを得ません。

「神から離れた人類全てを神は滅ぼす事もできましたが、それでも神は救済の道を備えられました。」と言われますが、これだと、たくさん人を殺しても、本来殺すこともできた人を何人か見逃したら愛があるということになります(もちろん仰天さんがそう言っているとは思いませんが)。
救済の道を備えたからといって、残虐行為が正当化されるとは思いません。

まず、フィルター無しに考えた場合と言われましたので現代人の視点というフィルターがありますよと指摘したわけです。

神は聖書のみで導くわけではないでしょう。

過去には預言者を何度も遣わし、御子も遣わされて神の力を示されました。
また、現代なら聖書が基本とはいえ、聖霊の導きや有能な働き人等も用いられている事でしょう。個々の例の確かさは証明不能ですが、中には幻を夢で示され救われる人等も稀にはおられるでしょう。

聖書を読んで皆が納得するというのは現実離れした理想論であり、不可能です。なぜなら、神から直接聞いた者でも離れる道を選ぶ事もあるからです。それは自由意思です。

現にどの時代でも納得して神に仕えている人々が存在する以上、納得できない書物というわけではなく、結局は、従うかどうかは自分で選んでいるという事になります。これはどの時代でも共通です。


神が十分な警告を与えて、神から離れるなら死ぬ事になると基準を教えた上で、それでもなおかつ故意に神から離れた者を罰するという事は何ら残虐行為にはなりません。

それは正当化ではなく、正当な権限なのです。

それに、何人か見逃したというものではなく、大勢の者が神の愛により救われるわけですし、他の国民でも神を畏れて従うなら平等に救われます。


ほい さんの発言:

信じるに足る十分な根拠を与えておられれば、またそれだけの魅力があれば信じることはできると思います。実際に信じておられる人も少なからずいるでしょう(教義の若干の相違はあれクリスチャンの割合は各宗教の中で一番多いわけですし)。
しかし、逆の見方をすれば人類の半数以上は信じられないと思っているわけです。その原因の一つはそれだけの根拠がない、疑問の答えが得られないなどの理由でしょう。これらの人も神に反抗する人たちと同様に滅ぼされるわけです。この考え方は極めて排他的、反社会的でありカルトの傾向があると思います。
真の神はカルトではないというのは、まるでJWの主張のようでやや辟易します。

古代社会において救われる異邦人が少なかったとしても、神を畏れ敬う者は救われたのですから、ほいさんの言われる「テロによる無差別殺人」の例えは当てはまらないないでしょう。カルトなエジプト社会を裁いた神がカルトだというのと同様に不適切な例えだと思います。
一律に滅ぼしたとか、暴挙という事でもありません。


身の回りの物を見渡してみて下さい。部屋や社会の中の物をです。
何一つ目的なしにできたものはありません。全て誰かが何らかの目的を持って造ったものなのです。偶然にできたものはありません。
同様に、この世界も、宇宙も偶然にできたというわけではなく設計者がおられると思います。

信じる根拠は、被造物と聖書が示しています。それらを認めず故意に神から逸れてそれぞれ自分勝手な道を歩んでいるわけですから、反逆しているのと大差ないのではないでしょうか。

排他的、反社会的だからカルトというのは神には当てはまりません。神に反抗している人間に問題があるからです。

社会全体が悪に逸れていた場合、その社会に反対するならカルトでしょうか?ほいさんの理屈ではそのようになります。

#53 2019年06月04日 19:21:25

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほい さんの発言:

個々のエジプト人が全くの無実だったとまでいうつもりはありません。
しかし一個人としての人間の能力は微々たるもので限界があります。
仰天さんの理屈だと、現在進行形で起きている世界中の社会問題に対してデモ・抗議活動に参加していない人は同様に罪を背負っていることになるでしょう。
しかし、現実は皆自分の生活、家族を養うことに精いっぱいで、それ以上のことができるほど余裕はないというのが実情ではないでしょうか。
理想は何とでも言えますが、限られた能力、体力、時間、資金力などの中では取捨選択をするしかなく、そのことを罰せられるのは過酷だと思います。

人間としての能力には限界があるとして、エジプト人をかばうわけですか?
微々たる力でも皆が力を合わせて抗議したらファラオも考え直したかもしれません。
大半の者やほとんどの民が従わなければファラオも譲歩するしかないでしょう。
ファラオは部下と民衆が抗議しても考えを変えない者だとしたら、とりなしや祈りによって願いを聞かれる神より非常に劣った暴君という事になります。
そのような指導者とそれに従う民を裁かれたのです。


また、デモ、抗議活動に参加しない者と同じではありません。エジプト人は、神の力をモーセによって示されていたからです。ほいさんの例えは、いずれも不適切なように思います。

400年もイスラエルを奴隷として虐待し、根絶しようとしてヘブライ人の男児を溺れさせて殺したエジプト人は、生活や家族を養うので精一杯だったから仕方ないという見解ですか?
それはとんでもない考えだと思いますけどね。
結局は自分さえよければいい人々だったわけです。

十の災厄で神の力を目の当たりにしておきながら頑なな態度を繰り返した者達は正当化できません。

それでも神はエジプト人を全て滅ぼす事はされずに、生き残らせています。
最終的にイスラエルはエジプトから好意を持たれており、行こうと思えば神を認めるエジプト人もイスラエルに付いて行けたのですから、一律に滅ぼしたとか暴挙だとかいうほいさんの考えは到底受け入れられるものではありません。なぜなら、出エジプトの際に多くの外国人がイスラエル人と共に脱出しているからです。

「さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。」

出エジプト12:38



ほい さんの発言:

これは答えになっていないと思います。
ファラオに責任があるのは分かりますが、決定権のないエジプト人、はたまたその子供たちが処罰の対象になるのは理解できません。

決定権があるかないかは神の目から見て罪人かどうかに関係ありません。
エジプト人は400年もの間イスラエル人を虐待しており、十の災厄によって神の力を実際に見たのですから言い逃れはできません。
災厄によって神の力を知る事によって悔い改めて救われたエジプト人もいたでしょうし、民を去らせる事につながったのですから災厄に意味がなかったわけでもありません。
子供も処罰の対象ですよ。老若男女問わず誰でも、いつでも神から命を奪われても何も言えないのですよ。特に神に故意に背いている人間はなおさらです。
イスラエルの子供を殺したエジプト人への罰、民を去らせる為には必要な罰だったのです。それとも、成人だけ皆殺しにしてエジプト人の赤子だけ残すべきだったと言うのですか?
それだと誰が赤子を育てるのでしょう?
大人も全てが滅びる事なく、子供も初子だけに留めてエジプト人が消滅する事のないようにされました。そこから救われる人々を出すためです。


ほい さんの発言:

殺された子供たちは天国に行ったと解釈するのは自由です。しかし逆に言えば、そうとでも考えないとこの神の残虐性を説明できないということになります。
そして、聖書自身は、殺されたエジプトの長子たちが天国に行ったとは一言も述べていません。

そもそも神が全能なのであれば、長子皆殺しなどの酷いことをしなくても、ファラオを滅ぼす、イスラエルの開放を武力で阻止しようとするエジプト人だけを滅ぼすということもできたのではないでしょうか。
直接の当事者ではない人を、しかも子供たちを殺す理由はどこにあるのでしょうか。
どう考えても全く理解できません。

イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と子供達を祝福しており、ダビデも幼くして死んだ息子の所に行くと言っています。


「しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」IIサムエル12:23

旧約時代の信仰者は、アブラハムの懐と呼ばれるシェオルの喜ばしい場所に行き、不信仰者はシェオルの苦しみの場所に行きました。
新約時代からは、天に引き上げられたアブラハムの懐、パラダイスに信仰者は行き、不信仰者はハデスの苦しみの場所に行きます。
不信仰者は最後の審判の後にハデスから出されてゲヘナに行きます。(永遠の命は聖書の述べている教えです。)

聖書には、死んだ赤子が天国に行ったという記述はないのは確かですが、善悪を知らない幼子を神が地獄に送られるはずはありません。なぜなら神は愛だからです。




長子を撃つ事までしなければイスラエルを解放しなかったという事は既に述べていますからそれが理由です。その前に何度も警告がなされています。

ファラオと武力で阻止しようとするエジプト人だけを滅ぼすべきだという事ですが、ファラオが死んでも次の後継者が継ぐだけであり、武力になりそうなエジプト人が全て滅んだならば、誰が女の面倒を見るのでしょうか?
イスラエルを奴隷としていた事を黙認していた女達は罰せられる必要はなかったのですか?
下された災厄は罰の意味があると思います。

兵士だけを滅ぼすべきだと言われるのですか?何の警告もなしに兵士だけを?
災厄によって警告が与えられ、何度も機会が与えられたものの頑なであった為に初子が撃たれる必要が生じたのです。
私達も頑なになる事がないようにしないといけません。

ほい さんの発言:

神は命の与え主だから、その命を奪う権限もあるというお答えです。
しかしその理屈だと、親による子の虐待も正当化され得ることになります(理論の話なので、親は創造主ではないという逃げはここではなしです)。
子供が幼いときは、その命は完全に親の扶養に頼っているわけですが、だからと言って親は子を虐待してもいいのでしょうか?
子が親の虐待の不当性を訴えることは許されないのでしょうか?

同じように神がいくら創造主であるからといって、正当な理由の説明もなく、人の良心や道徳心に反するような虐殺を行われた(そして将来にも行う)ことを私は到底支持できません。

神による裁きは虐待ではありません。神が裁きを行われる際には理由がありました。
扶養に頼っている子供は親に従うものです。親の有益な指導に従わず悪さばかりしているのなら、たとえ実の子であろうと施設その他に入れられるでしょう。
ほいさんは、成人は裁いてもいいが幼子はダメだと言われるのでしょうか。


何度も指摘しているように、虐殺ではなく神の公正な裁きです。正当な理由の説明は最初の人類の時からされており、神の考えは人の良心や道徳心よりはるかに上のものですから、ほいさんをはじめとする反対派の意見を私は到底支持できません。


ほい さんの発言:

上記の私のコメントも仰天さんの信仰を否定する意図はありません。

ただ、原理主義的に聖書の記述すべてを信じるという姿勢は、あまりにも多くの矛盾と問題を抱えており、やはり私には納得できそうにありません。

保守的な聖書を文字通りに信じる人々を原理主義として非難される割には、ご自身も文字通りに考えて神は残酷だとか虐待だと述べるわけですから、その点では否定派の人も原理主義と何ら変わりがないでしょう。

神の実在も信じず、神が扱われる物事が最善であるという信仰もないわけですから、結局は信仰の欠如という事で、自分から神から離れており、その状態が罪なのです。
命の与え主に感謝する事なく、よいものだけ受けて権利だけ主張する。
従わないでいて滅ぼすのはあんまりだとは、神を直接に知っていた神に反逆した人々と何が違うのでしょうか。
文字通り信じるのは原理主義的だと非難するのであるなら、聖書は教訓を得る為の哲学だとして読むべきという事でしょうか?

それなら、どこからどこまでが哲学、或いはフィクションで、どこからどこまでが史実だと言われるのでしょうか?
その判断基準は何ですか?また、その判断基準が正しいと言える根拠はありますか?
史実ではなく哲学的に考えるというのは、悪く言えば妥協、世へのすり寄りのようにも思えます。

納得いかなければ、自ら神の警告を無視して神から離れて命を拒否しているのですから滅びるしかなく、自分で選んでいるのですから神を残酷だと非難する事はできません。
そこにも否定派の方々の矛盾を感じます。

当然、神に従わないという自由もありますので選択は自由ですが。


ほいさんは、聖書をよく読まないで感情論で異議を唱えてこられたように感じます。

他の元長老という人も、議論はうんざりと言いながらも議論の種になる批判を一方的に行い続けておられるようです。
エデンの剣は、罪を犯した人間が、命の木から取って食べないように神が備えたものであり、争いを助長する為に作られたわけではありません。

批判する人の共通点として、聖書を読み込んでいないという点があるように思います。
エホバの証人の教えをほぼ無批判に受け入れて、聖書否定の見解を無批判で受け入れているようにも思えます。

ギルガメッシュ叙事詩の箱舟の寸法も形も洪水に耐えられるものではなく信憑性はないと思います。

他の神話との共通点を探るのはおもしろいかもしれませんが、安易にパクリだと結論付けるのは危険な気がします。

もちろん、正しい解釈から離れてそれらの事を追求しておられるわけですから、自由なのでしょう。

#54 2019年06月04日 19:29:48

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

山のアザミ さんの発言:

おはようございます

   \\٩( 'ω' )و//

仰天さん  ルワンダの記事掲載感謝します。

  凄いですね、目の前で赤子の我が子を切断されるなど、大変な恐ろしい状況を経験し、      目の前のその本人を許すなんて!

  なんて強く心が綺麗で……

真に神を現実の存在として生きていらっしやるからこそ、

こんな信じられらない虐殺者を許せるのでしょうか?

  いくら考えても、不思議でしかありません。

  仕事いく前だからこれで…


  お時間作ってゆっくり考えます。

   (´-`).。oO(何故だろう?)

アザミさん、こんばんは(^-^)

神を現実の存在として生きておられる人はたくさんおられると思います。

私はどこの教会にも無所属ですが、エホバの証人を辞めて教会に行っている友達の紹介や、仕事で知り合ったクリスチャンの人と話す事があるのですけど、本当に心から信じておられます。

ルワンダの事件は、神の介入があるからこそ、そこまで赦せると思います。

神もおらず子供を殺されたり自分の手を切断されたなら通常なら赦せないと思います。

神に感謝です。



それと、ひよりさんへ


返事はまた今度しますね(^-^)


それと、ゆりさん、元気にしておられますか?

他の神話からのパクリ説で揺らいではおられないとは思います。(笑)

私に他にも聞きたい事があると以前書いておられましたが何でしょうか?

答えられるものなら暇な時に答えますけど。

まぁ、私も全て知ってるわけではないのですけど。(´∀`*)

#55 2019年06月05日 01:57:38

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん、時間をかけ個々の質問に返信してくださったこと、まずは感謝させていただきます。
分かっていただけていると思いますが、私がここに書き込んでいるのは、仰天さんを言い負かして間違いを認めさせようとか、聖書を信じている人たちを批判したりバカにしてやりたいという意図は毛頭ありません。
むしろ私の疑問に対する納得のいく答えが得られるのであれば、自身の間違いを認めてもう一度信仰の道を歩みたいと思っています。実際、家族のこともあるので、そうできる方が私にとっても葛藤に苦しまずに済み楽です。

しかし、どうしても納得のできない疑問に対する答えが得られない限りは、「聖書がそう言っているから」、「組織(教祖)がそう言っているから」という理由だけで盲信することは私の良心が許しません。
これはエホバの証人の教理についても同様です。

もしこれまでの私の書き込みに、信仰者への批判と思える表現があり、気分を害してしまったとしたら謝ります。しかし、そういう意図で書いているわけではないことは分かってください。

仰天 さんの発言:

感謝の気持ちも持っていましたという事は、今は持っていないとも受け取れます。
しかし、「実在するなら、今でも親に感謝するのと同様に感謝しています。」というのは、そもそも実在を信じていないわけですよね?

神の存在を信じるのかという問いには、今の私には「分からない」としか言えません。
存在を否定したいわけではないですし、実際に存在を否定し得る十分な証拠があるとは考えていません。例えば生命の起源に関する議論も現時点では答えはない(分からない)と思っています。
それと同様で、神が存在する証拠も決定力にかけると思います。これまでも書いたように聖書が神の言葉と信じるには、自分には納得できない疑問が多すぎます。しかし、聖書に代わる他の神からのメッセージがあるのかと聞かれると、私は知らない、分からないとしか言えません。


すべての回答に返信できるわけではないので、自分としては特に納得できない部分のみ返信させていただきます。


私はエジプト人によるヘブライ人の男児虐殺をかばうつもりは全くありません。
しかし、その責任を取るべきなのは、指示を出した人(ファラオ)とその実行犯たちであって、無関係のエジプト人の長子たちではありません。
先に手を下したのはエジプト人だから、その他のエジプト人もヘブライ人の男児虐殺に反対しなかったのだから同罪であり滅ぼされても仕方ない、と言われるのかもしれません。
でも、その理論はまるで原爆を落とした米軍の主張のようです。
「日本が先に真珠湾に奇襲した」、「民間人も何らかの形で戦争に協力していたのだから無関係ではない」、だから原爆で民間人を大量に虐殺してもその行為は正当だったというのでしょうか。
当時は学生たちも総動員で軍需工場などで働いていたので、それらの人たちも日本軍をほう助したのだから殺されても仕方ない、殺されるべき人たちだったということでしょうか。

別スレにも書きましたが、人間の能力には限界がありますから、米軍が原爆を使用したのはこれ以上の仲間の被害を防ぐための致し方ない選択だったと言われると、それを全否定することは自分にはできません。
しかし、全知全能の神であるなら、このような手段を使わなくても、より的確な選択的な裁きができたはずです。
そうはせず、エジプト人の長子皆殺しという選択をしたということは、神が人間の道徳心にも劣る存在であったか、はたまた全知全能ではなかったかのどちらかであるとしか思えません。
(実際にそう思っているという意味ではなく、聖書のこれらの記述を史実として考えるとこのような結論にならざるを得ないという意味です)

残念ながら今までの仰天さんの説明では私の疑問は解消されそうにありません。


あまりこのスレの趣旨に反する書き込みをしても悪いので、不快に感じる方がおられればコメントは少し自粛します。

#56 2019年06月05日 04:25:45

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほい さんの発言:

分かっていただけていると思いますが、私がここに書き込んでいるのは、仰天さんを言い負かして間違いを認めさせようとか、聖書を信じている人たちを批判したりバカにしてやりたいという意図は毛頭ありません。
むしろ私の疑問に対する納得のいく答えが得られるのであれば、自身の間違いを認めてもう一度信仰の道を歩みたいと思っています。実際、家族のこともあるので、そうできる方が私にとっても葛藤に苦しまずに済み楽です。


ほいさん。

おはようございますm(_ _)m

私は夜勤勤務の夫がいますので朝が非常に早いんです、
この時間から起き出して、夫が帰宅するまでに朝食を作り、掃除やごみ捨て、洗濯物を干すなどの雑事をこなすんですけど、
誰もまだ起きていらっしゃらないのに、自分は早朝と言う気分がしておらず、以前にはカレブさんにも早朝からメールして御迷惑御掛けしてごめんなさい。


そして、ほいさんと仰天さんの御話し合いに私が横槍を入れることも無礼ですが、御許しくださいm(_ _)m






ほい さんの発言:

これはエホバの証人の教理についても同様です。

もしこれまでの私の書き込みに、信仰者への批判と思える表現があり、気分を害してしまったとしたら謝ります。しかし、そういう意図で書いているわけではないことは分かってください。



ほいさん、皆さんほいさんの御性質はよくわかっておられると思いますよ。
子煩悩でいらっしゃるんですよね。
御自分の御子様が、輸血しなければ命が助からないとの危険が迫っていると仮定します。ほいさんでしたら?


勿論、御子様の命のためなら輸血も辞さないでしょうね。
(代替療法の手段も間に合わない緊迫した状況を仮定します)
輸血すれば、JWの言う【禁止事項】を破った罪で排斥となるわけですが。そういうことになっても、御子様のために輸血をしますでしょう?









ほい さんの発言:

神の存在を信じるのかという問いには、今の私には「分からない」としか言えません。

それと同様で、神が存在する証拠も決定力にかけると思います。しかし、聖書に代わる他の神からのメッセージがあるのかと聞かれると、私は知らない、分からないとしか言えません。


輸血は神の指示とは違っています。
JW組織の聖書解釈の誤りです。
その輸血禁止の教え中で、
神の残酷さは際立ってしまっていると思いませんか?


JWも充分に残酷であると言えると思います。
しかし、輸血によってこどもの命が失われてもJWの親は立派に信仰を貫いた。と見なされます。これでは、周りの世の人(この言い方は差別的ですが敢えて使います)から、JWの神は残酷だとか言われるんですよね。





ほい さんの発言:

しかし、全知全能の神であるなら、このような手段を使わなくても、より的確な選択的な裁きができたはずです。
そうはせず、エジプト人の長子皆殺しという選択をしたということは、神が人間の道徳心にも劣る存在であったか、はたまた全知全能ではなかったかのどちらかであるとしか思えません。
(実際にそう思っているという意味ではなく、聖書のこれらの記述を史実として考えるとこのような結論にならざるを得ないという意味です)




JWは神の残酷な一面を輸血禁止の教えにより
悪い仕方で受け継いでいます。
ほいさん、JW組織を外から見ると、聖書にある神の愛とか
寛容さを全く相入れないパリサイ人のように感じます。

JW組織の中で、ほいさんも理解に苦しむ姿が想像できて
とても御辛いのでしょうね。


話を戻して、長子殺害は、聖書のメインテーマとも言えると思いませんか?(ほいさんは私の考えは独自の聖書解釈であって関心はない、と仰っていたので、読み飛ばしても構いませんけど)



初子。次男も三男もいたでしょうですから長子だけを殺害したのも選択的であったと言えませんか?でも何故、長子だったんでしょうね?(こどもを殺す。最近にはこどもの無差別な殺人事件もあって、人道的に無力なこどもの殺害はナーバスな問題ですよね。)

聖書に寄れば、イエス・キリストも神の初子でした。
アブラハムに初子のイサクを捧げよ、と命じた神。

どうも神は、初子に対して非常に拘りを持っているように思いませんか?何故でしょうね。



神もまた、イエス・キリストという初子を全人類の罪のなだめの犠牲にされたんですが、そこに神の世に対する愛が反映された。というのが、
キリスト教の、公式な見解です(と思います)


ほいさんの主張ですと、この神の初子のイエス・キリストを殺害されるを許された神の行為も残酷であった。と言えませんか?



ほいさんは、イエス・キリストの死についても
神は残酷であったと思っておられますか?
JWは、キリストの死を祝いますが、この行為をどう思っておられますか?残酷な神であった。と思っておられますか?









ほい さんの発言:

残念ながら今までの仰天さんの説明では私の疑問は解消されそうにありません。


あまりこのスレの趣旨に反する書き込みをしても悪いので、不快に感じる方がおられればコメントは少し自粛します。





不快とは全く思いません。
恐らく仰天さんも他の皆さんも、
不快と感じておられないと思います。




私の質問(いつも漠然としてて御答えにくいと思いますが)、
いつでも構いませんので是非、ほいさんの御気持ちを
お聞かせくだされば幸いです。

#57 2019年06月05日 06:11:28

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ほい さんの発言:

仰天さん、時間をかけ個々の質問に返信してくださったこと、まずは感謝させていただきます。
分かっていただけていると思いますが、私がここに書き込んでいるのは、仰天さんを言い負かして間違いを認めさせようとか、聖書を信じている人たちを批判したりバカにしてやりたいという意図は毛頭ありません。
むしろ私の疑問に対する納得のいく答えが得られるのであれば、自身の間違いを認めてもう一度信仰の道を歩みたいと思っています。実際、家族のこともあるので、そうできる方が私にとっても葛藤に苦しまずに済み楽です。

しかし、どうしても納得のできない疑問に対する答えが得られない限りは、「聖書がそう言っているから」、「組織(教祖)がそう言っているから」という理由だけで盲信することは私の良心が許しません。
これはエホバの証人の教理についても同様です。

言い負かしたりバカにしようとしているような部分を感じていたなら真面目に答えてはいませんので、ほいさんがそのような方ではないのは分かっているつもりです。

納得のいく答えがあれば信仰の道を歩みたいとの事ですが、ものみの塔協会の信仰であれば当然お勧めはできません。
聖書の福音とは別の福音を告げて滅びへの道を歩んでいると思うからです。

もちろん、私を含めて聖書を信じる人々は、盲信しているわけではありません。

単にどこかの組織が言っているから信じているわけでもありません。

宗教を信じているのではなく、イエス・キリストを信じています。
一方で、聖書を盲信したくないと言われ、一方では、聖書に書いていないと言われます。それも矛盾に思えます。
聖書を神の言葉だと信じていない不安定さを感じます。(ほいさん自身が神を確信していないので批判しておられるわけです。)

良心を与えたのは神ですから、ほいさんは、ある意味で絶対的な正義を求めておられるわけで、正義は神しか実現できません。


ほい さんの発言:

神の存在を信じるのかという問いには、今の私には「分からない」としか言えません。
存在を否定したいわけではないですし、実際に存在を否定し得る十分な証拠があるとは考えていません。例えば生命の起源に関する議論も現時点では答えはない(分からない)と思っています。
それと同様で、神が存在する証拠も決定力にかけると思います。これまでも書いたように聖書が神の言葉と信じるには、自分には納得できない疑問が多すぎます。しかし、聖書に代わる他の神からのメッセージがあるのかと聞かれると、私は知らない、分からないとしか言えません。

信仰者の人達は神が存在する根拠がある、満ちていると思っています。(科学的な証拠というわけではないですが。)
ほいさんが納得できない点は主に子供への裁きだと思いますが、献身する前に、十分にそのような問題に関して考えて納得してバプテスマを受けたのではないのでしょうか?その上でエホバにも感謝しておられたわけですよね?


ほい さんの発言:

私はエジプト人によるヘブライ人の男児虐殺をかばうつもりは全くありません。
しかし、その責任を取るべきなのは、指示を出した人(ファラオ)とその実行犯たちであって、無関係のエジプト人の長子たちではありません。
先に手を下したのはエジプト人だから、その他のエジプト人もヘブライ人の男児虐殺に反対しなかったのだから同罪であり滅ぼされても仕方ない、と言われるのかもしれません。
でも、その理論はまるで原爆を落とした米軍の主張のようです。
「日本が先に真珠湾に奇襲した」、「民間人も何らかの形で戦争に協力していたのだから無関係ではない」、だから原爆で民間人を大量に虐殺してもその行為は正当だったというのでしょうか。
当時は学生たちも総動員で軍需工場などで働いていたので、それらの人たちも日本軍をほう助したのだから殺されても仕方ない、殺されるべき人たちだったということでしょうか。

別スレにも書きましたが、人間の能力には限界がありますから、米軍が原爆を使用したのはこれ以上の仲間の被害を防ぐための致し方ない選択だったと言われると、それを全否定することは自分にはできません。
しかし、全知全能の神であるなら、このような手段を使わなくても、より的確な選択的な裁きができたはずです。
そうはせず、エジプト人の長子皆殺しという選択をしたということは、神が人間の道徳心にも劣る存在であったか、はたまた全知全能ではなかったかのどちらかであるとしか思えません。
(実際にそう思っているという意味ではなく、聖書のこれらの記述を史実として考えるとこのような結論にならざるを得ないという意味です)

神による裁きは、人間の争いである戦争とは違いますからこの例えも違うと思います。

全知全能であるからこそ、エジプトの初子の命を取らなければイスラエルを解放する事はないとの判断ですから的確な裁きなのです。そこがほいさんとの認識の違いでしょう。

神がされる事は常に最善であると思います。
エジプト人達は初子だけでなく全てのイスラエルの男児を殺しました。神がご自分が与えた命を取られたのは、最後のファラオと軍勢の裁きを別にして初子だけです。その初子も説明した通り、神のあらゆる特質、愛、公正、義、憐れみ等から、また、イエスの言葉から見ても救われていると思います。

エジプト人の初子は成長したならファラオに従う者になった事でしょう。そうしたなら、他のエジプト人同様に、善悪を判断できる状態で故意に神に逆らう者となったでしょう。

遅かれ早かれ裁かれたのです。そういう意味では子供達は犠牲になったとはいえ、多くのエジプト人が救われたと言えるでしょう。要は信仰の問題だと思います。

それに、他の民族との戦いの際に女性や子供も生かしてはならないという箇所もありますが、大抵の場合は戦闘の前に警告を与えていますから、女性や子供達は逃げて助かったでしょう。



申命記 20章 10、11節
「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。

もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。 」


この強制労働とはエジプトのような過酷なものではなく、イスラエルの社会の中で在留外国人は律法により守られ、人権も保護されました。ですから、神の扱いが道徳的に劣っているという指摘は私は間違いだと思います。

み使いが裁くべきで人間が裁くべきではないという指摘もありますが、み使いにも当然感情はあります。み使いがやるべきだとの意見も神の物事の扱い方について言い逆らっている事になります。
剣を最初に作ったのは神だから神が悪いのだというのも神への責任転嫁でしょう。

クリスチャン達はみ使いをも裁く者になるのです。

コリントの信徒への手紙一 6章 3節
「わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。 」



神が実際に命じた事を、そう思い込んだだけなどと勝手に解釈しているのが思い込みなのです。

史実として考えたら神は残酷とそれらの人は言いますが、そもそも聖書の神を信じていないからこそ、批判しているのであり、何も史実として見ていないのです。そこも矛盾だらけでしょう。(特にほいさんがというわけではないです。)

それで、他の人達は聖書の神はファンタジーとして否定しておきながら、心霊術や宇宙人説、また他の思想やシルバーバーチ等にも真理の部分があるとして追求しておられるようです。

それでいて聖書の神を信じる人々を過度に見下してファンタジーだと言っているわけですから、よっぽどそのような分野のほうがファンタジーだと私は思うわけです。
もちろん、何を信じるかは自由ですので私のほうからそれらの他の考えの人にとやかく言うつもりはないのですが、それらの人が私の信条に対して筋違いと思える事を述べるのなら、それらの人も当然意見を言われる事になります。


ほい さんの発言:

残念ながら今までの仰天さんの説明では私の疑問は解消されそうにありません。
あまりこのスレの趣旨に反する書き込みをしても悪いので、不快に感じる方がおられればコメントは少し自粛します。

疑問に思われるのであれば、疑問のままでよいのではないでしょうか。無理に信じる必要はありません。もし、ほいさんが救われる事が神のみこころであるなら、時がきたら信じる事もできるかもしれません。

リアルでも、無宗教の人や他の宗教の人とも話す事もありますが、やはり宗教に関する論争は果てがないように思います。

ほいさんも、ここでのやり取りにきりがないと思われたならいつでも抜けてもらって構いません。

神の探求は自分でできますから。

神は地球ごと全てのものを破壊する事もできますが、そのようにはされず人類を愛して救いのためにご自分の御子を贖いとして与えられました。

その方が、ほいさんの言われるような人間の道徳心にも劣る存在だとは到底思えない。
というのが私の結論です。

#58 2019年06月05日 12:37:56

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ひよりタニタクミ さんの発言:

神もまた、イエス・キリストという初子を全人類の罪のなだめの犠牲にされたんですが、そこに神の世に対する愛が反映された。というのが、
キリスト教の、公式な見解です(と思います)


ほいさんの主張ですと、この神の初子のイエス・キリストを殺害されるを許された神の行為も残酷であった。と言えませんか?



ほいさんは、イエス・キリストの死についても
神は残酷であったと思っておられますか?
JWは、キリストの死を祝いますが、この行為をどう思っておられますか?残酷な神であった。と思っておられますか?

ひよりさん、こんにちは。

イエスの贖いについて、実際に苦しみを耐え抜き完全な命を差し出されたイエス・キリストの行為は偉大です。
批判のしようのない自己犠牲であり、その動機は愛だと思います。

この取り決めを設けた神を残酷だとは思いません。イエスを殺した(手を下した)のは神ではないからです。
しかし、人類を救うためとはいえ、イエスを犠牲にするという決定をした神の気持ちは自分には理解しがたいです。
私は2人の子がいますが、仮に下の子の命を救うために上の子を犠牲にしなければならないとなったとして、自分にはその取捨選択の決定はできそうにありません。

三位一体の教理では、神ご自身が自らを犠牲にされたということになるので、これなら神は愛というのは理解できます。
しかし、聖書には神は三位一体であると直接述べる記述はありませんし、こんな大事なことをはっきりと書かないというのも理解しがたいので、やはりこれは聖書の矛盾を取り繕うための後代の創作なのだろうなと思っています。

私の聖書に対する知識や理解は、仰天さんのそれには遠く及びませんので、上記の認識は間違っているかもしれません。
ただ、これが私が納得できない部分になります。

#59 2019年06月05日 13:05:03

ほい
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天 さんの発言:

もちろん、私を含めて聖書を信じる人々は、盲信しているわけではありません。

単にどこかの組織が言っているから信じているわけでもありません。

宗教を信じているのではなく、イエス・キリストを信じています。
一方で、聖書を盲信したくないと言われ、一方では、聖書に書いていないと言われます。それも矛盾に思えます。
聖書を神の言葉だと信じていない不安定さを感じます。(ほいさん自身が神を確信していないので批判しておられるわけです。)

良心を与えたのは神ですから、ほいさんは、ある意味で絶対的な正義を求めておられるわけで、正義は神しか実現できません。

私は、仰天さんや他のクリスチャンの人たちが聖書を盲信していると言っているわけではありません。
自分自身が盲信はできない、つまり納得していないことを信じることはできないという意味です。

聖書の記述で納得ができない部分は信じられませんし、ましてや書いてもいないことであればなおのこと信じられません。
聖書を神の言葉だと信じていないのは、神の言葉だと確信するに足る根拠が十分に示されていないと感じるからです。

全知全能の神がおられ、人間社会のあらゆる矛盾、暴力、苦しみ、悲しみなどをすべて解決してくださるというなら、こんなに素晴らしいことはありません。
しかし、聖書の記述を字義通りに解釈するなら、聖書の神が全知全能だとは思えないのです(その一例がいま議論している神の残虐さです)。

仰天 さんの発言:

信仰者の人達は神が存在する根拠がある、満ちていると思っています。(科学的な証拠というわけではないですが。)
ほいさんが納得できない点は主に子供への裁きだと思いますが、献身する前に、十分にそのような問題に関して考えて納得してバプテスマを受けたのではないのでしょうか?その上でエホバにも感謝しておられたわけですよね?

他の方がどう感じ、なぜ信じているかというのは私の関知するところではありません。
ただ、私に限って言えば、信じるに足る証拠が十分に与えられているとは現時点では思えません。もちろん、これは私が無知だからなのかもしれませんが。

私は10台でバプテスマを受けましたが、その当時は経験が浅く見識も狭かったので、今ほど深く考えていませんでしたし、疑問点についても私が分からないだけで、いずれその答えは与えられると思っていました。
しかし、残念ながら聖書を読めば読むほど、疑問は解決されるどころかむしろ増えていきました。

聖書の記述で納得できないのは子供たちへの裁きだけではありませんが、議題が増えすぎると話が漠然としてしまうので、今は子供たちへの裁きに論点を絞りたいと思います。

仰天 さんの発言:

神による裁きは、人間の争いである戦争とは違いますからこの例えも違うと思います。

全知全能であるからこそ、エジプトの初子の命を取らなければイスラエルを解放する事はないとの判断ですから的確な裁きなのです。そこがほいさんとの認識の違いでしょう。

神がされる事は常に最善であると思います。
エジプト人達は初子だけでなく全てのイスラエルの男児を殺しました。神がご自分が与えた命を取られたのは、最後のファラオと軍勢の裁きを別にして初子だけです。その初子も説明した通り、神のあらゆる特質、愛、公正、義、憐れみ等から、また、イエスの言葉から見ても救われていると思います。

エジプト人の初子は成長したならファラオに従う者になった事でしょう。そうしたなら、他のエジプト人同様に、善悪を判断できる状態で故意に神に逆らう者となったでしょう。

遅かれ早かれ裁かれたのです。そういう意味では子供達は犠牲になったとはいえ、多くのエジプト人が救われたと言えるでしょう。要は信仰の問題だと思います。

人間は無力ゆえに他に選択肢がない場合があります。
しかし、神は、特に聖書は全知全能の神だと述べているのですから、当然人間以上の正義、公正を求められてしかるべきではないでしょうか。
エジプトの初子をすべて殺すという選択が知恵と愛にあふれた決定だとは到底思えません。
それらの子供たちが救われたのかどうかについても、聖書は何も述べていません。

子供たちが成長したらファラオに従うものになっていたかもしれないと言われますが、その可能性があるからというだけで殺人が正当化されるのでしょうか?
人はまだ犯してもいない罪のために裁かれなくてはいけないのでしょうか?
この説明は、あまりに乱暴だと思います。

仰天 さんの発言:

史実として考えたら神は残酷とそれらの人は言いますが、そもそも聖書の神を信じていないからこそ、批判しているのであり、何も史実として見ていないのです。そこも矛盾だらけでしょう。(特にほいさんがというわけではないです。)

それは誤解でしょう。
聖書の神を信じたくないから、その神の粗探しをして批判しているわけではなく、史実として考えたら神は残酷だとしか思えないがために信じることができないのです。
少なくとも私はそうです。

#60 2019年06月05日 18:30:11

ラハム
メンバー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天 さんの発言:

批判する人の共通点として、
聖書を読み込んでいないという点があるように思います。
エホバの証人の教えをほぼ無批判に受け入れて、
聖書否定の見解を無批判で受け入れているようにも思えます。

これはそうとう痛いところを突かれていますね。
JWのあいだでいちばん「使われている」のは聖書でしょう。
最近はタブレットかもしれない。
でも、いちばん「読み込まれて」いないのも聖書だろうと思います。

わたしが現役だったとき、
毎日聖書通読している人をインタビューするという
奉仕会のプログラムの割り当てがありました。
インタビューできる人を探して、なかなか見つからないので、
長老に出演してくれるよう頼んだのですが、
見事に断られたのです。

脱塔の先駆者、岩村氏も自叙伝で、仲間の長老たちと話し合ったとき、
一人も聖書を創世記から黙示録にわたって読んでいなかったと
認めていたと述べていました。
わたしはその報告を読んで
「はあ、そうなんだ!」と妙に納得していました。

最近は、JWが蔑んでいるキリスト教世界の集会にも参加していますが、
聖書という本をJWの如く自由に使いこなせないようです。
指導者クラスは使えるでしょうと思います。
牧師先生の奥さんが目次を見ないとダニエル書を
開くことができなかったのにはおかしかったのですが、
横で見ていて、正直愕然としました。
普段、聖書を直接開くことのない証拠でしょうね。
JWでダニエル書を開くことのできない
現役さんがいるなんて信じられません。
でも、タブレットですから現状はどうでしょう…。

JWは講演中に何度も聖書を開きました。
ついてゆくのがたいへんだった記憶があります。
わたしが現在参加している教会の講解の解説会では、
最初だけ聖句が開かれ朗読されるのですが、
そのあと最後まで聖書そのものが開かれた記憶がないのです。

そのようなわけで、
平信徒の教会員(ごめんなさい、悪い意味ではありません)が、
JWの聖書を使いこなせる信者には勝てないだろうと思った次第です。

JWにしても、JWが蔑んでいるキリスト教世界にしても、
仰天さんの指摘のように読み込まれていないのが聖書そのものでしょう。

わたしは現役時代10回は読んだと思いますが、
正直、苦しい戦いでしたよ。
現役さんには読破してほしいものです…。

オフライン

#61 2019年06月05日 21:29:07

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

あちらのトピックでは書けませんのでこちらで扱いたいと思います。

聖書についての質問 さんの発言:

「5節に、5000人に食事を提供した奇跡がマルコから引用されているね。」
「イエスは疲れていたのに、“彼らを哀れに思われた。 彼らが羊飼いのいない羊のようであったからである。そして,彼らに多くのことを教え始められた。”という部分を強調しています。」
「6、7節で、“羊飼いのいない羊”を、個人的な問題を抱えている人のように解釈しているのはへんだね。」
「6節では、“貧しくて,家族を養うために長時間働いていた人や,愛する家族を亡くした人がいたかもしれません。”とあります。そういう人を見て、イエスは同情したと、この執筆者は思っているようですね。そういうイエスを見倣おうといっています。」

マルコのその部分のマタイによる福音書の並行記述を読むとこうあります。

マタイによる福音書/ 09章 35節
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

マタイによる福音書/ 09章 36節
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。



エゼキエルでも、イスラエルの牧者が個々の人々の問題を軽視していた事が記されています。

エゼキエル書/ 34章 04節

「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。 」


イエスは、病気や患いを癒し、打ちひしがれている人達を憐れまれたのですから人々の個々の問題に同情して憐れんだという解釈には無理はないように思います。


聖書についての質問 さんの発言:

「聖書はそんなセンチメンタルなものじゃないよ。“羊飼いのいない羊”という表現は旧約に何度も出てくる表現で、それを参照せよ、ということ。新約は旧約を前提に書かれているので、テキスト間のつながりが重要なんだ。」
「羊飼いのいない羊は、民数記27:17にでてきます。これはモーセが死ぬ間際に後継者をだれにすべきかエホバに尋ねる場面ですね。」
「イエスは群衆を見て羊飼いのいない羊と感じて、教えたということは、イエスは新しいモーセで、荒野から人々を導き出す存在であるとほのめかしている。このあと5000人に食事を提供するわけだけど、これも出エジプト後、荒野で神から食料を与えられたことの再現で、イエスが新しいモーセということを意味していると解釈できる。」

言われるように、羊飼いのいない羊という表現は何度も出ており、民数記27:17だけではないですから、そこだけを参照せよという事ではありません。

イエスは、モーセのような預言者とは書いてありますが新しいモーセだとは示されていません。

モーセはエジプトの囚われから救出したので、イエスも救い出す点では共通していますが、約束の地にイスラエルを導いたのはヨシュアであり、その意味ではヨシュアもイエスの予型です。

イエスのヘブライ語の読みはヨシュアです。

ですから、イエスはモーセに限定されません。

荒野で食物を与えたのが神で、新約で食事を与えたのがイエスなら、新しいモーセというより、神そのものとも言えます。実際に「ヤハウェは羊飼い」だと述べられています。

詩編/ 023編 001節
【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。


他にも指導的な者が「羊飼い」、「牧者」として述べられており、モーセに限定はされていません。










聖書についての質問 さんの発言:

「マルコ6:40の食事の場面では、“人々は100人また50人のグループになって座った。”とありますが、これは出エジプト18:25の“モーセはイスラエル全体の中から有能な男性を選び,民の長に任命し,千人長,百人長,五十人長,十人長とした。”をほのめかしているわけですね。」
「新しいモーセとして、イエスは羊飼いのいない羊のような集団を神に属する集団へと変えたというのが、マルコ6章の後半の話の趣旨。」

千人や十人はどこへ行ったのでしょうか?無理なこじつけのように思えます。




聖書についての質問 さんの発言:

「14、15節には、地上のパラダイスの教え方が出ています。」
「相互に無関係な3つの聖句をもとに、誘導していくわけだ。文脈を無視して、都合の良い聖句を取り上げて、話を作るというJW得意のやり方だね。3つの聖句が全て旧約からのものというのがJWらしい。地上のパラダイスなんて教えは新約にはないからだよ。」
「この3つの聖句を使ったセールストークはうまくいきますか?」
「最初に創世記1:28を読んで、“神様は人々がどこで,どんな暮らしをすることを望んでおられましたか。”と質問するそうだけれど、その聖句には、子どもを産んで地に満ちよとある。家の人から、聖書にそうあるのに、なぜJWは結婚していない人が多いし、子どもがいない人が多いのですか、と質問されたらどう答えるのだろうね。」
「不都合な質問は無視するだけです。」

地上のパラダイスというものは明確には出てきませんし、JWが文脈を無視して話を作るのにも同意しますが、聖書についての質問さんにも当てはまると思います。(イエスがラザロを愛していなかったという文脈無視の例等)

JWが子供を作らない選択をするのは、終わりが近いと考えての事、また独身を選択するのは気を散らす事なく主に仕える為だという事くらいは分かると思いますが。

不都合な指摘を無視されるのも聖書についての質問さんにも当てはまると思います。

指摘を無視して何もなかったように聖書批判をされ、それをまた無批判に素晴らしいと意見を言われる方もおられるようです。


聖書についての質問 さんの発言:

「次に、イザヤ 55:11を読み,“神様の目的が失敗することはありますか”と質問するそうだけど、元の英文は、“asks whether God’s purpose has changed.”で、“神の目的が変わったかどうか尋ねる”だ。」
「預言が実現していない例はたくさんありますからね。神の目的が失敗することはありますかと聞かれたら、“あります”と答えればいいのです。神がアブラハムの子孫に約束した土地は、創世記18:18によると、エジプトの川からユーフラテス川までですが、イスラエルがそのような広大な土地を取得したことは一度もありません。」

神の約束が成就していないのは、イスラエルが不忠実になった為です。全ての土地を取得できたわけではないですが、ヨシュア記を読むと多くの勝利が記されていますが、不忠実になり、カナン人の影響を受けイスラエルは腐敗しました。忠実であったなら約束の地を全て与えられたでしょうが、そうでなかった為に神は与えませんでした。不信仰ゆえに自ら約束の地をイスラエルは放棄したのです。

そのような不信仰な者に神は与えません。

しかし、さらに優った天の国をアブラハムは望んでいました。

ヘブライ人への手紙/ 11章 10節
アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。

マタイによる福音書/ 08章 11節
言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。

イスラエルが不忠実になった為に異邦人にも救いが差し伸べられ、結果としてユダヤ人だけでなくアブラハムの子孫の多くが祝福されて神の国への道が備えられました。

最終的にはユダヤ人もイエスを主と認めて救われるでしょう。

ローマの信徒への手紙/ 11章 26節
こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。 」




聖書についての質問 さんの発言:

「聖書の中で、神は何度も後悔していますよ。目的も変わることがあります。」
「例えば、出エジプト32章。子牛事件の後、怒った神様は、10節で、モーセに、“それで今,私を止めるな。私は怒りに燃えて彼らを根絶やしにし,代わりにあなたから偉大な国民が生まれるようにしよう”という。でもモーセがそうしないように神様を説得すると、14節で“それでエホバは考え直し,先に言った災難を民にもたらさなかった。”とあり、前言撤回する。すぐかっとなって人間を殺したがるけれど、モーセになだめられて考えを変える、かっこ悪い神様だね。」

神の目的は変わりません。

また、神は不忠実な人間を罰する権限を持っておられますが、祈りを聞かれる方ですので何ら矛盾はありません。
祈りや執り成しや願いを聞き入れて下さる神は残酷な神とは言えないでしょう。

聖書についての質問さんの偏ったものの見方こそ、かっこ悪いような気もしますが。


聖書についての質問 さんの発言:

「JWに出エジプト記32章を読ませて、どんな神様と思いますかと質問すればいいのですね。」
「JWがイザヤ55:11を読んだあと、同じイザヤの52:1を読むというのはどうかな。そこには、“聖なる都市エルサレムよ!割礼を受けていない汚れた者があなたの中に入ることはもうない。”と予言している。これは実現しましたかと質問する。答えはもちろん、いいえだね。」


預言的に見るなら、そこで述べられているエルサレムとは、新しいエルサレム、天のエルサレムであると思います。割礼も霊による割礼でしょう。

聖書は将来に起きる出来事の預言も含まれているのですから、今はまだ実現していないというのが正しい答えではないでしょうか。

聖書についての質問 さんの発言:

「最後に、詩編37:10,11を読んで、“人間は将来どんな暮らしをすることになりますか”と尋ねるとある。“温厚な人は地上に住み続け”と書いてある部分だけれど、この地とは地球上全体のことですか、とJWに質問すればいい。また、永遠に暮らすと書いていますかと質問すればいい。さらに、10節には、“ほんのもう少しすれば”とありますけれど、これが書かれたのはいつなのですか、あとどれくらいまでまてば実現するのですか、と質問する。」
「JW推奨の地上のパラダイスの教え方も、あまりいい方法とは言えないですね。」
「地上のパラダイスで人類が永遠に暮らすというのは、JWの教義の中でも、バカバカしさでトップ3に入るような教義。聖書的にも、科学的にもあり得ない。」

確かに地球が永続するとは書いてませんが、聖書では新しい天と地について述べられています。

地上のパラダイスだけでクリスチャンが暮らすのかは分かりませんが、天と地があるのであれば、天の国と新しい地があるわけで、
イエスも、マタイによる福音書26章 29節で、

「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

と言われているように、また再び神の国でぶどう酒を飲まれるのですから、地上のパラダイスという考えも聖書的には否定できません。

イエスは、蘇られた後、体を触らせ食事もしておられます。

体の復活を聖書は述べており、新しい体です。それは、イエスが一度にたくさんの弟子に現れ、離れた場所にいる者の前にも現れ、鍵のかかった部屋にも瞬間移動できた体でしたから、クリスチャンの新しい体とは、そのようなイエスと同じような栄光の体であり、地上でぶどう酒も飲め、さらには天にも飛んで行ける体であると思います。

エホバの証人の考える地球に永遠に住むという考えは聖書的にも、科学的にも有り得ませんが、神による新しい天と地は聖書的であり、科学には縛られませんから有り得ないとは言えないのです。

#62 2019年06月05日 22:41:51

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

聖書についての質問 さんの発言:

「最後に、詩編37:10,11を読んで、“人間は将来どんな暮らしをすることになりますか”と尋ねるとある。“温厚な人は地上に住み続け”と書いてある部分だけれど、この地とは地球上全体のことですか、とJWに質問すればいい。また、永遠に暮らすと書いていますかと質問すればいい。さらに、10節には、“ほんのもう少しすれば”とありますけれど、これが書かれたのはいつなのですか、あとどれくらいまでまてば実現するのですか、と質問する。」

もう少しすれば、または、しばらくという聖書の表現は、悪が栄えてもそれはしばらくの間であり、神の民が苦難に遭っても神の救いのご計画の中では、救いまでは、人類の歴史の中ではしばらくである

という表現がされているように思います。

進化論のように何十億年もというのと比べたならほんのしばらくではないでしょうか。



ヨブ記/ 24章 24節
だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えてゆくものと共に倒され/麦の穂のように刈り取られるのだ。」



詩編/ 037編 010節
しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

イザヤ書/ 26章 20節
さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ/激しい憤りが過ぎ去るまで。

イザヤ書/ 29章 17節
なおしばらくの時がたてば/レバノンは再び園となり/園は森林としても数えられる。



しばらく  [2] 【暫▽く】
( 副 ) スル
〔「しまらく」の転。平安時代、主として漢文訓読に用いられた語で、和文では「しばし」が用いられた〕
① 長くはないが、すぐともいえないほどの時間が経過するさま。しばし。 「 -お待ち下さい」 「 -して主人が現れた」
② ある状態がある程度長く続くさま。 「 -会わないうちにずいぶん大きくなったね」
③ (「姑く」とも書く)一時的にそうするさま。将来は別として、今のところ。ひとまず。 「行為そのものが違法か否かの問題は-おく」

#63 2019年06月06日 10:01:13

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ひよりタニタクミ さんの発言:
仰天 さんの発言:

自分を捨てて初めて自分を見いだし


仰天さん。

こんばんはm(_ _)m


この仰天さんの一文を意義深く考えてみました。
(仰天さんの意図した意味に程遠いと思いますがすみません)




私は、
アメブロの科学的聖書解読ブログの
定期的読者(フォロワー)でもあります。

どんな聖書の見方でも
誰かのお考えを自分に取り入れるときに、
私は自分と言う、厄介な自我をいったん、
黙らせます。

脳に取り入れても、それを自分の思いの中に受け入れるか?
これには多くのフィルターがかかっています。

そのフィルターになっている、JW時代の刷り込みや、
学校で受けた教育や、自分の生きてきた時に経験した
道程をも乗り越えて、産まれた時にあった(はずの)、
【乳を慕う赤子の気持ち】をイメージします。

自分が本当に嬉しく思うのは、
長いこと失われていた自分と対峙する、
その良い機会として、自由に多角的に、
聖書を考慮する行為であることです。

聖書をどんな風に理解したいと思うのか?
そこにあるのは、味覚(文章を味わい脳の栄養源)
を満足させる、思考上の楽園が今現在脳の中に実現している。

と感じます。

それは、JW時代によく揶揄された【御花畑】的思考とは異なるもっと、個性豊かな生き物が平和に共存するノアの方舟のなかで大洪水から保護されつつ、新天地を待つノアの家族。


何処に行き着くのかは未知数の日々。
のような当て土ない旅路をゆく日々。

自分を捨てて初めて自分を見いだし

それが今、【JWを辞めた自分】が見いだした【自分】
それを日々見詰めていく人生なのかな?とも思います。



仰天さんは今の御自身の心境について
どう思われますか?

ひよりさん、こんにちはヽ(^o^)

エホバの証人を辞められて様々な思いを抱いておられるのですね。

私の心境という点では、神がおられると思いますので当てのない旅とは思っていなくて、確かな約束だと思っています。

神がおられるなら聖書の神しかおられないと私は思いますので、万が一、神が存在しなかった場合でも、無になるだけでしょうから何も不安もありません。
むしろ、聖書の神の約束は確かだと思いますので心は平安です。(^-^)

まぁ、自分を捨てて完全に神に従う境地まではまだもう少しですが、その時が示されたら力を入れている趣味の分野もほどほどにして聖書の学びと実践に集中したいと思います。

昨日なのですが、新しい聖書とギリシャ語のテキストを何種類か注文しました。

言語の意味が分かれば、より深く聖書のメッセージが理解できるのではないかと思います。

言語の独学は難しいとは思いますが、地道にやっていこうと思います。

私の聖書理解もまだまだなのですが、ほとんど独学ですので努力すれば報われると思います。

#64 2019年06月06日 10:59:41

ゆり
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん、こんにちは。

私は元気ですよ。(^-^)/

毎晩、聖書を楽しく学んでいるのですが、
細かいことが気になるのが私の悪い癖。(笑)
私も、ヘブライ語聖書とギリシャ語聖書を揃えました。
日本聖書協会発行の文語訳聖書やドイツ語、英語の聖書も。(笑)

ヘブライ語やギリシャ語の日本語辞典は何を選べば良いか、お尋ねしようと思っていたのです。 

ご教示頂けましたら幸いです。(*^^*)

#65 2019年06月06日 12:38:21

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ゆり さんの発言:

仰天さん、こんにちは。

私は元気ですよ。(^-^)/

毎晩、聖書を楽しく学んでいるのですが、
細かいことが気になるのが私の悪い癖。(笑)
私も、ヘブライ語聖書とギリシャ語聖書を揃えました。
日本聖書協会発行の文語訳聖書やドイツ語、英語の聖書も。(笑)

ヘブライ語やギリシャ語の日本語辞典は何を選べば良いか、お尋ねしようと思っていたのです。 

ご教示頂けましたら幸いです。(*^^*)

こんにちは。(^o^)

ヘブライ語とギリシャ語の辞典ですか。
私も本格的な辞典を持っているわけではなく、簡単なものしか持っていなくてですね。これから揃えようというところです。
ギリシャ語の辞典で持っているのは、織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』だけですが、この辞典は勧める人も多く、入門者には使いやすいです。


ヘブライ語辞典は同じく簡単なものは持っていますが、あれは限られたものしか載ってませんでしたので他の詳しい辞典のほうがいいと思います。(高いですよね。)(^^;

ギリシャ語に詳しい人に聞いたところ、勧められたのは次の4冊でした。

織田昭『新約聖書のギリシア語文法』
大貫隆『新約聖書ギリシア語入門』
織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』
岩隈直『新約ギリシャ語逆引辞典』 

ただ、テキストや辞典というものは相性があると思いますので、実際に手に取ってみないと分からないと思います。

ギリシャ語については、この掲示板のつくしさんが詳しいようですので聞こうかと思っていたとこです。

英語の他にもヘブライ語、ギリシャ語、ドイツ語の聖書も揃えたという事で、凄いですね。(^-^)

私はYHWHが出ているアメリカンスタンダードバージョン(アメリカ標準訳)のティーチャーズエディションも持っています。革装で豪華な作りです。


ゆりさんの熱意ならすぐに私など抜かれると思います。(笑)

語学もいいですが、注解書や聖書辞典もあったほうがいいと思います。



お互い頑張りましょう♪

#66 2019年06月06日 21:21:55

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ラハム さんの発言:

最近は、JWが蔑んでいるキリスト教世界の集会にも参加していますが、
聖書という本をJWの如く自由に使いこなせないようです。
指導者クラスは使えるでしょうと思います。
牧師先生の奥さんが目次を見ないとダニエル書を
開くことができなかったのにはおかしかったのですが、
横で見ていて、正直愕然としました。
普段、聖書を直接開くことのない証拠でしょうね。
JWでダニエル書を開くことのできない
現役さんがいるなんて信じられません。
でも、タブレットですから現状はどうでしょう…。

JWは講演中に何度も聖書を開きました。
ついてゆくのがたいへんだった記憶があります。
わたしが現在参加している教会の講解の解説会では、
最初だけ聖句が開かれ朗読されるのですが、
そのあと最後まで聖書そのものが開かれた記憶がないのです。

そのようなわけで、
平信徒の教会員(ごめんなさい、悪い意味ではありません)が、
JWの聖書を使いこなせる信者には勝てないだろうと思った次第です。

JWにしても、JWが蔑んでいるキリスト教世界にしても、
仰天さんの指摘のように読み込まれていないのが聖書そのものでしょう。

わたしは現役時代10回は読んだと思いますが、
正直、苦しい戦いでしたよ。
現役さんには読破してほしいものです…。

皆さん、こんばんは
お久しぶりです
最近暑くなってきましたねー
ボクも聖書をまだまだ読んでませんから
勉強不足を反省しなくてはいけません
今のJWはだんだんキリスト教世界の悪口を
言わなくなってきたような気がします
やっと他宗教を蔑むのは傲慢の罪だと理解して
くれたのかなー?
もし理解してなくて訴訟対策だとしても
他宗教を悪く言わなくなってきたのはいいですね

#67 2019年06月06日 22:14:13

ゆり
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

サルガタナスさん、お久しぶりです。
書き込み、ありがとうございます。


そして、仰天さん、
早速ご教示頂きありがとうございます。

そうですね。辞典は実際に手に取って比べてみたいと思います。

先日教文館へ行った際は、そのコーナーの前でベンチに座り長時間熱心に調べ物をされている男性がおられて。私は諦めて帰りました。
・・・あの方、まさか仰天さんではないですよね?(笑)


私が外国語の聖書を揃えたと言ってもお下がりを譲り受けたというか、奪ったというか、そういう経緯なので、ちっとも凄くないんですよ。(^^;;

揃えたきっかけは、
12年間、長血を患っていた婦人についての記述でした。


マルコ5章28節
「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。


この"思っていた"という語について、韓国人の講師の方が声を大にして、

「どうして日本語の聖書は『思っていた』と訳すのでしょうね!
字義的には『言っていた』なんですよ!」

と、嘆いておられたからなんです。
もちろん、脚注には原語の意味が書かれていますが、わざわざ「思っていた」と訳すのは何故なのか私も不思議に思いました。




それと、ヘブライ語の辞典なのですが、

『聖書ヘブライ語-日本語辞典 聖書アラム語語彙付
谷川政美 (著), 古代語研究会 (編集) 』

こちらはどうでしょうね?
口コミでは、本格的に学ぶには不足のある辞典とのことですが。
私が使用する程度なら遜色ないでしょうか?
楽天ならポイントを使えばナントカ購入できそうなのですが。


でも、その前に聖書辞典ですね。

そうそう、
>私はYHWHが出ているアメリカンスタンダードバージョン(アメリカ標準訳)のティーチャーズエディションも持っています。革装で豪華な作りです。

仰天さんがお持ちのこちらの聖書は教文館にありますか?
あっても、きっと中は見られないようになっているのですよね?
薄葉紙に包まれたりして。


今度教文館へ行ったら、仰天さんが紹介して下さったカードを購入してきます。
私もカードコーナーは見たのですが、見逃していたようです。
ご紹介ありがとうございます。(*^^*)


追伸 :
先日、新しい新改訳聖書を購入したのを機に、毎日詩篇を読んでいます。(^-^)
でも、お名前が主に置き換えられているのが悲しいです。

#68 2019年06月07日 06:25:46

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ゆり さんの発言:

そして、仰天さん、
早速ご教示頂きありがとうございます。

そうですね。辞典は実際に手に取って比べてみたいと思います。

先日教文館へ行った際は、そのコーナーの前でベンチに座り長時間熱心に調べ物をされている男性がおられて。私は諦めて帰りました。
・・・あの方、まさか仰天さんではないですよね?(笑)


私が外国語の聖書を揃えたと言ってもお下がりを譲り受けたというか、奪ったというか、そういう経緯なので、ちっとも凄くないんですよ。(^^;;

揃えたきっかけは、
12年間、長血を患っていた婦人についての記述でした。


マルコ5章28節
「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。


この"思っていた"という語について、韓国人の講師の方が声を大にして、

「どうして日本語の聖書は『思っていた』と訳すのでしょうね!
字義的には『言っていた』なんですよ!」

と、嘆いておられたからなんです。
もちろん、脚注には原語の意味が書かれていますが、わざわざ「思っていた」と訳すのは何故なのか私も不思議に思いました。




それと、ヘブライ語の辞典なのですが、

『聖書ヘブライ語-日本語辞典 聖書アラム語語彙付
谷川政美 (著), 古代語研究会 (編集) 』

こちらはどうでしょうね?
口コミでは、本格的に学ぶには不足のある辞典とのことですが。
私が使用する程度なら遜色ないでしょうか?
楽天ならポイントを使えばナントカ購入できそうなのですが。


でも、その前に聖書辞典ですね。

そうそう、
>私はYHWHが出ているアメリカンスタンダードバージョン(アメリカ標準訳)のティーチャーズエディションも持っています。革装で豪華な作りです。

仰天さんがお持ちのこちらの聖書は教文館にありますか?
あっても、きっと中は見られないようになっているのですよね?
薄葉紙に包まれたりして。


今度教文館へ行ったら、仰天さんが紹介して下さったカードを購入してきます。
私もカードコーナーは見たのですが、見逃していたようです。
ご紹介ありがとうございます。(*^^*)


追伸 :
先日、新しい新改訳聖書を購入したのを機に、毎日詩篇を読んでいます。(^-^)
でも、お名前が主に置き換えられているのが悲しいです。


教文館では座って調べ物はした事はないです。(笑)

お下がりで貴重な本がもらえていいですね。^_^

マルコ5章28節は確かに、「言っていた」ですね。

こちらの、『ギリシャ語直訳新約聖書コンコルダンス付』で見たら新約聖書全体の直訳が分かります。


ギリシャ語直訳新約聖書の装画に拙絵を二点使っていただきました – UMEDA Kyoko 梅田恭子の絵 新着情報
http://umedakyoko.com/wp/archives/2376


それと、そのヘブライ語辞典は持ってはいませんが、良さそうなので私もいつか買う予定です。

アメリカ標準訳は昔、キリスト教書店に奇跡的に1冊だけ保管されていたものを譲ってもらったのですが、その当時でもアメリカでも絶版で入手困難との事でした。

神名が主と訳されていて悲しいという事ですが、YHWHの四文字のアルファベットだけでは、もちろん発音できず名前ではありません。
おそらく、ヤハウェまたはヤーウェであっただろうとは言われています。

ユダヤ人達はテトラグラマトンを通常アドナイ(主)と読んでいましたし、YHWHの文字だけでは翻訳できないですから、主という翻訳は正しいと思います。

イエス様も祈りの際には一度もYHWHを用いていませんし、使徒達が伝道で用いたのは、七十人訳でした。そこにもYHWHはありません。

新約聖書の幾千もの写本にもYHWHはありません。

一世紀のクリスチャン達はYHWHを発音せずにキュリオス(主)と発音していて、イエスの名を伝えています。
ですから、クリスチャンはキリストの証人なのです。

父なる神も重視しますが、新約時代に伝えるべき神の名はイエスです。

確か、新世界訳の中でもエホバが一度も出てこない書簡がどこかあったはずです。(どこだったか忘れました)
協会からの手紙で、一度もエホバが出てこないならおかしいと思いませんか?

つまり、一世紀のクリスチャン達は、YHWHを発音しておらず発音は重視していなかった事が分かります。


神名に愛着があるなら文語訳のヱホバをより近い発音とされるヤハウェに置き換えて読まれるのはどうでしょうか。エホバを用いて文語訳で覚えておられるクリスチャンもおられるようです。
欲しい人がいるから未だに文語訳も出されていると思います。

現改訳聖書には旧約部分で主と表記してルビでヤハウェと横に書くとかするという事で出たなら買おうかと思った時期もあったのですが、出版が遅れており、その後、特に必要ないとも思いました。

古代ではテトラグラマトンが発音された時代もありましたが、徐々に発音されなくなり、(十戒の第三戒により)
アドナイと発音され、その後ギリシャ語本文では四文字だけでは訳せないのでアドナイに相当するキュリオス(主)があてられました。

新約時代にYHWHの発音が重要なら、使徒達もその発音を残す事に心血を注いだはずです。

また、み名の発音が重要なら、神も正確な発音を残されたはずです。

そうなっていないのは、崇拝においてクリスチャンはイエスの名を伝えるべきだという事だと思います。
もちろん『エホバ』は誤訳です。YHWHにアドナイの母音を混ぜた本来あり得ない発音ですので。


それと、聖書辞典も注解書も、できたら同じ新改訳で統一されたほうが聖句も覚えやすく総合的に益を得られると思います。

私は、新共同訳の辞典と新改訳の辞典も持っています。

ギリシャ語DVDも教文館にはありまして、この前買おうか迷ったのですが、本も合わせると出費が多いので次回買う事にしました。

イーショップ教文館:DVD やさしく学べる新約聖書ギリシア語独習
https://shop-kyobunkwan.com/product-17293.html

そのDVDには、「新約聖書ギリシャ語独習」玉川直重  が対応しているようです。神学校で用いられているようです。

教文館にはヘブライ語のDVDもありましたが良いかどうかは分かりません。

#69 2019年06月07日 13:53:49

サルガタナス
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

こんにちは
ゆりさん、ありがとうございます
仰天さん、お久しぶりです
仰天さんはプロテスタントの方でしたか
文章から神様とイエスキリストへの愛と信仰が
伝わってくるし、知識もすごくて勉強になります
最近ボクは
いろんな牧師先生のお話をWebで読んでいまして
まあ教会に行きたいけど行けないものですから
つまり牧師先生たちのお話が好きなんですね
ボクはエホバやイエスキリストの愛や信仰のお話が
好きなんですが
本当に読んでいて胸を打たれるお話が多いんですが
個人的にJWの公演よりも牧師先生のお話のほうが
好きですね
ボクもエホバの証人としての信仰はありますから
プロテスタントに改宗するわけではありませんが
リスペクトするのはボク個人の自由だと思っています
またラハムさんや仰天さんとお話がしたい
勉強させてもらいたいと思って来ました
そんな感じなのでこれからもよろしくお願いします

#70 2019年06月07日 15:35:23

ラハム
メンバー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ゆり さんの発言:

マルコ5章28節
「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。

この"思っていた"という語について、韓国人の講師の方が声を大にして、

「どうして日本語の聖書は『思っていた』と訳すのでしょうね!
字義的には『言っていた』なんですよ!」と、
嘆いておられたからなんです。
もちろん、脚注には原語の意味が書かれていますが、
わざわざ「思っていた」と訳すのは何故なのか
私も不思議に思いました。

ゆりさん、
興味深いご指摘、ありがとうございます。
わたしも不思議に思いました。
手元にある12種類の日本語訳を見てみました。

「思っていた」に脚注があるのは新改訳でした。
皮肉なことですが、
新世界訳は「言いつづけていた」です。
回復訳は「言っていた」になっています。
残りの日本語訳は「思っていた」に類似する表現です。
面白いことにバルバロ訳では
「私は救われると心に言い聞かせながら」でした。

その時代長血の病気の女性は人前に出られませんでした。
だから、実際声に出して言いつづけたというより、
心で言いつづけていたという意味に訳する方が、
状況に合致すると翻訳者は判断して、
「思った」という表現にしたのではないでしょうか。

わたしは翻訳者ではありませんから、
確かなことはわかりませんが、
その女性の信仰には見倣いたいと思います。

オフライン

#71 2019年06月07日 16:05:25

ラハム
メンバー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

ゆり さんの発言:

追伸 :
先日、新しい新改訳聖書を購入したのを機に、
毎日詩篇を読んでいます。(^-^)
でも、
お名前が主に置き換えられているのが悲しいです。

わたしもものみの塔に毒されているせいか、
YHWHが訳されていない聖書には違和感があります。
新改訳は太字で表記されている「主」が
YHWHの出現する箇所だとあとがきに記載されています。

YHWHが頻繁に出現する日本語訳ですが、
文語訳:ヱホバ、教文館で販売中
(これは現在でも所有しています。
40年以上前革表紙で5,000円でした。
先日、教文館で同じ聖書をみたら、
9,000円と消費税だったのです。
1978年ごろ購入し、1982年新世界訳が発表されて、
ほとんど日の目をみませんから、
表紙をつまむとちぎれるようになってしまったのです。
申し訳ないような気がしています。
革表紙は使い込んで人の手油がぬられないと
ぼろぼろになってしまうようでした)
新世界訳:エホバ
回復訳:エホバ
岩波版旧約聖書翻訳委員会訳:
ヤハウェ-分冊版(中古で詩編だけでも購入できる)
フランシスコ会訳:ヤーウェ-分冊版
(中古で詩編だけでも購入可、YHWHは合本本文に出現しない)
関根訳:ヤハウェ-岩波文庫、詩編だけでも購入可、教文館で販売中。
関根訳旧約聖書:「ヤハウェ」だったと思います。合本は中古で高い。

わたしの知っている限りです。
一部間違いもあるかもしれません。
けっこうYHWHもそれなりに訳出されていますね…。
なお、教文館から何ももらっていませんので…。

編集者 ラハム (2019年06月07日 17:50:11)

オフライン

#72 2019年06月07日 22:45:44

ゆり
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん

神のお名前について、納得のいくご説明をありがとうございます。

このテーマは私には熟考を要します。お時間を下さい。m(_ _)m

神のお名前と言えば、仰天さんにお尋ねしたかったことを思い出しました。

パウロはローマ 10章13節で、ヨエル 2章32節を引用して、このように述べました。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。

ここで言っている御名とは、父なる神=ヤハウェのことだと思うのですが、どう思われますか?
ヨエル2章32節の"主"はテトラグラマトンになっていますよね。

私は、イエスが私たちの罪の贖いとして死んで下さり、三日目に復活されたことを信じていますが、私たちが呼び求める方は誰なのか混乱しています。



それから、

>『ギリシャ語直訳新約聖書コンコルダンス付』

ご紹介下さりありがとうございます。
こちらを購入したいと思うのですが、底本は何かお分かりになりますか?

やはりネストレ・アーラントでしょうか?

ネストレもウエストコット・ホートと同様の底本と思ってよいでしょうか?

テクストゥス・レセプトゥスを底本にしている翻訳も見てみたいです。
ご覧になったことがありますか?


質問ばかりですみません。m(_ _)m

#73 2019年06月08日 10:05:14

仰天
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

おはようございます。

サルガタナスさん、お久しぶりです。


ゆりさん、今朝読みました。
ギリシャ語直訳新約聖書コンコルダンス付  の底本は、テクストゥス・レセプトゥスです。^_^

他の返信はまた今度しますね。

#74 2019年06月08日 10:48:06

ゆり
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天さん、ありがとうございます!

嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、他に言葉が見つかりません。

バンザーイ!!と叫びたい気持ちです。

#75 2019年06月09日 04:15:56

ひよりタニタクミ
ゲストユーザー

Re: 仰天さんのキリスト教擁護スレッド

仰天 さんの発言:


エホバの証人を辞められて様々な思いを抱いておられるのですね。

私の心境という点では、神がおられると思いますので当てのない旅とは思っていなくて、確かな約束だと思っています。




仰天さん、おはようございますm(_ _)m



(ゆりさん、嬉しそうな歓声が聞こえてきそうな喜びの書き込み、
私も嬉しくなりました。)

(サルガタナスさん。御元気そうで良かったです。私もキリスト教の愛は大好きです。そういう話は心が洗われますよね)

(ラハムさん。私も【エホバ】、という語にはつい愛着が忘れられずにいます。エホバの名をいたずらに取り上げてはならない、と聖書にはあった気がしますが。崇拝に神の名を用いるのか良いのかどうかは、未だよくわからないです)


仰天さんは、私のJW後遺症を癒してくださる数少ない
おおらかなキリスト教的隣人愛の持ち主ですね。

ですから、
今は、このスレッドしか私は読んでいないんですf(^ー^;

どんな背景の人でも、あたたかく受け入れてくれる。そういった
懐の大きさを感じます。ありがとうございます。


ほいさん。返信ありがとうございましたm(_ _)m

ほい さんの発言:

三位一体の教えでは、神ご自身が自らを犠牲にされたということになるので、これなら神は愛というのは理解できます



ほいさん、興味深い御答えですね。三位一体の教義上であれば、イエス・キリストの犠牲の死を理解御出来になられる、
と仰る、現役JWさんって。


本心では、



ほい さんの発言:

私は二人の子がいますが、仮に下の子の命を救うために上の子を
犠牲にしなければならないとして、自分にはその取捨選択の決定は出来そうにありません



なるほどです。

御自身の二人の御子様を平等に愛しておられるのですね。
私が初子に拘っていましたから、そのように御答えになられたと思いました。確かに仰る通りです。


神は全創造物の初子、であるゆえに、神にとっては、初子のイエス・キリストに対しては、イエス・キリスト以外の全ての者達は、二人目のお子さんと同様ではありませんか?


初子のイエス・キリストと、以外の創造した人類全てを天秤にかければ、均等になる。


そのように私は理解していました。対応する【あがない】、ですね。ほいさん、御返信はいつでも構いませんけど、ほいさんはイエス・キリストの犠牲の死を偉大だと仰いましたね。私もそう思います。でも直接手を下したのは神ではない、と言う論議でした。


確かに、エジプトに於いて初子を殺害したのは神御自身です。
ですから、神は残酷だ。と結論されたようですが、
残酷な神が御自身を死によって全人類のために死んだ、(三位一体の教義上であれば)これは、残酷というよりも、自己犠牲の最たるものですよね。神は残酷でしょうか?それとも自己犠牲的なのでしょうか?


これは、私も是非、知りたいと思いました。


仰天さんはどう御答えになられますか?仰天さんの御意見も是非、伺いたいです。お暇なときにで構いません。
どうかよろしくお願いいたします。






話は変わりますが(関連はありますが)

仰天 さんの発言:

昨日なのですが、新しい聖書とギリシャ語のテキストを何種類か注文しました。

言語の意味が分かれば、より深く聖書のメッセージが理解できるのではないかと思います。

言語の独学は難しいとは思いますが、地道にやっていこうと思います。

私の聖書理解もまだまだなのですが、ほとんど独学ですので努力すれば報われると思います。




独学で、ギリシャ語を学ばれるのですか?すごい向学心ですね。

ひとつ、私の稚拙な疑問に御答えいただければ幸いです。


ギリシャ語、【kosmos】ですが、キリスト教神学に於いては、
コスモス(反語はカオスです)、という語には、創造された宇宙を意味するということですが。七十人訳聖書によれば、【生きているものが住んでいる世界】だそうです。


『神は世を深く愛してイエス・キリストを世に与えた。』


この聖書の言う、【世】はギリシャ語、kosmosだそうです。


仰天さん。基礎的な質問で申し訳ありません。
このコスモスという語は、人類全てを何故意味するのですか?


ちょっと、私の言い方が漠然としてるので意味不明であれば
スルーされても構いません。


ギリシャ語、私は全く門外漢です。どうか教えていただければ幸いです。

クィック投稿

メッセージを書いて送信してください。

Board footer