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#51 2014年07月24日 19:00:55

隠れんぼ
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

「通りすがりの信者A」さん情報ありがとうございます。

目ざめよ紙に関しても「輸血―生き延びるためのかぎ?」
の部分にも目を通させて頂きました。
確かに88年のJAMAが参照となっていますね。また漁って見てみます。

『エホバの証人の家族の世話と医療』は
「Family Care and Medical Management for Jehovah’s Witnesses」
のようですね。92、95年版があったそうですが少し古い資料ですので
書籍自体は持っていないそうですが、PDF形式の物がアップされている可能性が
かなり高いとのことですので探してみます。
(ちなみに『既にこの内容はかなり古いためアメリカで現在使っている所はないよ:-D』
との情報も頂きました。すでに他の書籍やパンフレットに切り替わっているようです。)

連絡委員に関しての引用は「ふれ告げる」の13章の部分で間違いありません。
「ボランティア」云々については実際に海老名支部に問い合わせて回答を頂きました。

血の問題についての「通りすがりの信者Aさん」の考えは大変良く分かりました。
あなた自信の信仰についてはもちろん尊重されるべきであり、あなたが神を信じ「聖書」
の内容を忠実に守る行為は個人の問題や信条として大事なものです。

ここで多くの方が反感をおぼえるのは、通りすがりの信者Aさん個人は「協会」などではなく、
「聖書」を通じて神の律法を守ろうとしているのでしょうが、
エホバの証人と呼ばれる多くの人が「協会」が言っている、書いているから輸血を避けており、
「聖書」ではなく「協会」が言えば輸血を否認も容認するという姿勢が「エホバの証人」
と言われる(法的には団体としては別物ですが…)実質「ものみの塔協会」の下部組織の成員、
兄弟姉妹達に浸透している事が問題であるということです。

「聖書」そのものを研究して血を避けよう、とするのはまさに神との個人的な霊的関係であり、
個人の信条といえるでしょうが、「協会」を通して教わった・「協会」の出版物にそう書いてあるから
血を避けようとしているところが大きな違いであり、問題と言えます。
組織ぐるみの殺人・自殺教唆などと言われる理由もそこにあります。
「聖書」の研究と言いながら、つまるところ「協会」発行の「新世界訳聖書」という
聖書を協会発行の書物を通して読んでおり(せめて行間逐語訳聖書でもとは思うのですが…)、
「聖書研究」という名の下「協会発行文書研究」をしているところが非難されている部分なのです。

さらにゾッとするのはこの血を避ける(輸血)という教義に反して血を受け入れなかった場合に
神に裁かれる可能性があるという教えだけならまだ理解できますが、神ではなく「協会」が
自分たちで取り決めたルールの下、人間によって審理委員会という名の裁判を行い、排斥という罰を下し、
排斥されると「ものみの塔協会」の下に戻らない限り、ハルマゲドンで
神に裁かれるという強迫に近い教えが背景にある事です。

通りすがりの信者Aさんが「聖書」に書かれている通りに血を避け、
(まぁパウロが会議でどういった時にどういう意味で誰に対して言ったとかは別に議論されるべき内容でしょうが)
神の目にかなうであろう行動を示すのは「聖書」を信じるうえでとても大事だと思いますが、
エホバの証人の多くが「聖書」に書かれている神にではなく「協会」に忠誠を誓って輸血を受け入れないという
姿勢が怖ろしいのです。

神の教えで唯一だと言っているはずの「聖書」の血に対する教義を、
通りすがりの信者Aさんのように守り通すのではなく、血(輸血)は部分輸血も含めて絶対ダメ!から、
ずいぶんと遅れて血はどこまでが血かわからないと言い出し、分画という大雑把に取り決めまでして
個人の良心で決めましょう…などとコロコロと変えてしまう。
その結果、すでにあった血液製剤などを良心の自由で受け入れれば助かった
(現在の教義内容であれば受け入れる人もたくさんいたことでしょう)
「輸血は絶対拒否」の時代に死んでしまった人はどうなるのかと言ったこと等を考えると
「ものみの塔」の教えで死んでいったことに憤りを感じている方が多いのです。

「聖書」を信じその内容を守ろうとして亡くなった人々ではなく、「ものみの塔」を信じて
亡くなった方がいるというのが本当に悲しむべきことだと私自身は思っています。

#52 2014年07月24日 22:46:41

カレブ
Administrator

Re: 輸血拒否に関する議論

http://kyoto-min-iren-c-hp.jp/rinri-ken … iroku.html
議事(2)「エホバの証人医療機関連絡委員会京都委員会との懇談」

この公開議事録は 数か月前に読んだ覚えがあります。
とてもオープンでフランクに語る病院側と、言葉を選んで部分的に不明瞭に語るエホバの証人側が
対照的で面白いですよね。

以下、上記の議事録の中で、解説すべきと思った点を取り上げます。

エホバの証人の医療機関連絡委員会京都委員会 さんの発言:

具体的には血に含まれる何を受け入れないのでしょうか。聖書は医学的な用語を用いていませんが、全血および主要成分の赤血球・白血球・血小板・血漿を受け入れないものと考えています。その分画のアルブミン・免疫グロブリン・トロンビンや第VII因子製剤などの凝固因子については、聖書は細かなことを述べていませんので、個人で判断します。自己血に関係する医療処置については、聖書に「体から出た血は地面に注ぐように」との記述がありますので、血液を事前に採取・貯蔵して輸血する術前自己血貯血などは受け入れていませんが、明文化された神の原則に反していると断言できないものもあり、希釈式自己血輸血や回収式自己血輸血は、迂回する血液が依然として循環系の一部であると感じるかどうかを、個人が判断して医療上の決定を下すことになります。

http://kyoto-min-iren-c-hp.jp/rinri-ken … iroku.html
議事(2)「エホバの証人医療機関連絡委員会京都委員会との懇談」

解説:

聖書は医学的な用語を用いていませんが、全血および主要成分の赤血球・白血球・血小板・血漿を受け入れないものと考えています。

文脈からすると、主語は「わたしたちエホバの証人は~受け入れないものと考えています」となります。
しかし主語が抜けて、何か日本語が あいまいだと思いませんか?

結局 要点は
ものみの塔協会は聖書に線引きはないが「赤血球・白血球・血小板・血漿」は受け入れるべきでないと判断した、
ということではないでしょうか?

それとも もし聖書が「医学的な用語を用いて」いたなら
「汝は赤血球・白血球・血小板・血漿を受け入れてはならない」
とでも書いたであろうといいたいのでしょうか?

その分画のアルブミン・免疫グロブリン・トロンビンや第VII因子製剤などの凝固因子については、聖書は細かなことを述べていませんので、個人で判断します。

アルブミン・免疫グロブリン・トロンビンや第VII因子 については
「聖書は細かなことを述べていない」 yikes yikes

その通りですね。 では

「赤血球・白血球・血小板・血漿」については
聖書は何か述べているのでしょうか?

もし「細かなことを述べていない」のが「個人で判断する」根拠になるのであれば
聖書は どの成分についても細かなことを述べていないので、どの成分を受け入れるかでさえ
個人で判断すべきなんじゃないでしょうか??


つづいて

聖書に「体から出た血は地面に注ぐように」との記述があります

そんな記述はありません。

「体から出た血」という形容詞は聖書の中にありません。

むしろ、聖書が血を地面に注ぐように要求しているのは
すべて 動物を食用あるいは犠牲として 屠る(殺す)ときです。
http://wol.jw.org/ja/wol/l/r7/lp-j?q=de … ev+17%3A11

それが必要であったのは 動物の命を取り去る際に 命を奪うことは
本来人間に与えられた権利ではないことを示すこと、あるいは
動物の命を奪って肉を食べても魂を食べるわけではないということを
示すためであったと思います。

これは動物の命を奪ったときに大きな意味を持つのですから
例えば 人が鼻血を出したら その鼻血に魂が宿っているとか
解釈すべきものではないと思います。

血という物質そのものが魂を意味しているのではないことは
一般の方法で屠殺を行っても食肉から血を完全に抜くことはできない
ことからもわかります。

医療上の輸血は 動物や人間を殺すこととは無関係で
なおかつ人の命を救うことが目的であるのですから、
「血を避ける」の本来の意図を考えるならば、
子供の救命を妨げるような行為は聖書的に見ても
逆に罪深い行為となり得ると思います。

ものみの塔の教えの愚かしいところは自己血の輸血の正邪を
「血液が依然として循環系の一部であると感じるかどうか」などと
しているところにも表れています。

ときどき感じるのですが ものみの塔が描写する神様は
ちっちゃい神様 変人、マニアであって
パリサイ人が描写した神を さらに劣化させたように思えます。

オフライン

#53 2014年07月25日 00:10:41

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

信者Bさんへ
あなたは次の重要な事を忘れてしまっているように感じます。

「山をも動かすような信仰を持っていたとしても、愛がなければ何の価値もないのです」

業は確かに信仰の表れです。しかし、業それ自体は信仰ではありません。
神のことを否定するような人にさえ、神に是認されるような行動が認められるように、
信仰のない業というのも確かに存在するからです。
しかし、これだけは真実です。業の動機が愛でなければ、
その業という捧げられた犠牲は、神の御前に何の価値もありません。

輸血を避けるのは愛(神への従順)だからであり、協会の指針だからと考えるべきではありません。
神への経路は贖い主キリストただ一人であり、そこに協会の入り込む余地なんて初めから無いのですから。
もし自分の動機を「協会の指針だったから」と説明する人がいるならば、
自分が神に対してではなく、協会に対して愛の犠牲を捧げている、という事実に気がつかなかったのでしょう。
言葉は悪いんですが、その業は無駄どころか偶像崇拝にも等しい、神の目から見て嫌悪すべきものです。
神に受け入れられる犠牲と、受け入れられない犠牲とがある。
そう、アベルとカイン、それぞれが捧げたの犠牲のように。
もちろん、教理の変遷に惑わされる事に対する義憤が理由なだけの人もいるでしょう。
その事自体は否定しませんが、その人は神聖な奥義(洞察参照)への理解が不十分なものと思われます。

実際のところ、輸血を拒否する事それ自体には大きな意義があるわけではありません(ローマ 14:6-9,14)。
神への従順(愛)を示すことによって信仰の質(ヤコブ 1:3)が試されているのですよ。
もし、輸血の教理が崩れたとしましょう。
しかし神に示された愛と質の高い信仰は、神の記憶になお残り続けます(コリント第一 13:13)。
そうした真理の前に、教理の変更などというものがどれほどの意味を持つのでしょう?
キリストは「実によって見分けられる」と言っておられるからです。あなたに聞く耳があるならば幸いです。


> このサイトに書きこむ時点で、WT協会のすべての指示に盲従してはいないのですから。

あとはこの点だけ回答しておきます。協会の指示なんてなかった…
ネット上では本人が嘘をついている可能性もある。
だから当然ながら背教者との交わりの危険性なんてのもあります。
協会はそうした危険性を指摘しているに過ぎないのです。








隠れんぼさんへ

> との情報も頂きました。すでに他の書籍やパンフレットに切り替わっているようです。)

*** 目93 11/22 26  エホバの証人と医療専門家との間の協力 ***
判事,ソーシャルワーカー,小児専門病院,新生児科医,小児科医などに対して,
使用可能な無血性の代替療法に関する情報を提供するため,
エホバの証人はこのような医療関係者や当局者を特に対象とした,
「エホバの証人の家族の世話と医療」と題する260ページの書籍を出版しています。
これはルーズリーフ形式のハンドブックであるため,情報を最新のものに保つことができます。

うーん、この説明を見た限りでは、小児科の現場で文字通りの対策マニュアル
(つまりは宣教目的の書籍ではなく、無輸血医療の運用マニュアル)
としても用いる事ができるような専門色の強い内容のように思えるので、
書籍やパンフレットごときで代用できるような代物では無いと思うのですが…


> 「輸血は絶対拒否」の時代に死んでしまった人はどうなるのかと言ったこと等を考えると
> 「ものみの塔」の教えで死んでいったことに憤りを感じている方が多いのです。

言いたい事は理解できます。しかしそれを言うならば、医療関係者に対して、
「あなた方は輸血を疑いなく推進する事によって大勢の罪なき人たちを
エイズをはじめとするあらゆる感染症に感染させて苦しめてきた」
と言えば気が済むのでしょうか?それこそ不毛な言い争いになるだけではありませんか。
輸血の危険性が広く認識され始めたのはエイズ以降であると推察され、
それ以前には悪くて肝炎程度だったのでしょう。
今では明らかに無用と思われる輸血でも、広く行われていたのではありませんか?
エイズにしても、今は死の病気では無くなったのかもしれませんが、
当初はエイズ由来の免疫不全を理由とする死者が大勢いたはずなのです。

エホバの証人の輸血拒否という教理は、疑いようもない絶対的マイノリティーです。
だからこそ昔から圧力も多かった。信条に同意するわけではないものの、
快く受け入れてくれる医師たちに、それはもう感謝したわけです。
受け入れてくれる人を探すこと自体がすでに大仕事だったことは想像に難くありません。
そして、そこには大きな副産物が生まれることになります。

主にエホバの証人をはじめとする、無輸血治療により得られたデータは、
輸血した場合のデータと比較可能な、貴重なサンプルデータとなった事でしょう。
サンプルが集まるにつれ、医師たちは
どこまで壁を低くしても安全なのかを知るようになったのです。
そして、その貴重なサンプルデータはリアルタイムで増え続けています。

フラビウス・ヨセフスを評して「偽メシアのメシア」と言った人がいます。
ヨセフスはユダヤ人からすれば祖国を裏切った裏切り者なのですが、
現代イスラエルでは、彼の残した著書からローマに対するマサダでの玉砕を知り、
"No More Masada!"と叫んで自らのアイデンティティーを主張するそうです。
彼らはヨセフスを憎むと同時に、その著書の存在こそが
彼らのアイデンティティーをも支えている、ということです。

医療現場でも似たような現象が起きているようです。
エホバの証人はきちがいじみた教理で怒りの矛先を向けられていますが、
臨床データのほかにも、斬新的な新技術の開発であるとか技術の向上の裏に、
輸血拒否を理由としてモルモットとなったエホバの証人がいた事が忘れ去られています。
批判者はエホバの証人を憎むと共に、その行動から生まれた副産物の恩恵に、
当たり前のようにあずかっているだけなのではないでしょうか?
それともそこから得られた副産物までも徹底的に憎むのでしょうか?

もちろん全ての医療関係者が忘れていると言っているわけではありません。
こちらは出す必要性が無くなればいいなと思っていたのですが、
カレブさんのHPからの転載

> しかし天皇陛下のバイパス手術を執刀した天野篤教授は
> 「冠動脈バイパス手術自体はポピュラーな治療で、
> 今回の手術も特別難しい手術ではありません」と述べました。

その同じ人がこうも言っています。
http://www.shinshinkai.net/watashitachi/1_3.htm

> それから心臓の無輸血手術のことですが、
> 一体誰が努力したから無輸血手術が出来るようになったかと言えば、
> 無論医師も努力していますが一番努力したのは、
> 多少の偏見はありますが私は「エホバの証人」という、
> 輸血を拒否するという信仰を持っている患者さんたちだと思っています。

あとは多くを言いません。デリケートな問題であるだけに、
一度じっくり時間をかけて考慮して頂けますならば幸いです。



カレブさんの投稿は…
ちょっと時間が無いので後で読んでおきます

#54 2014年07月25日 06:35:39

sk
メンバー

Re: 輸血拒否に関する議論

おはようございます。



代替血液の開発の功績はエホバの証人あるという主張について、

これは、医療リスクの改善問題と、エホバの証人の信仰のがたまたま重なったからに過ぎません。


エホバの証人たちがいなくても、つまりものみの塔インチキ「神の代理店」が輸血拒否キャンペーンの音頭をとらなくても、いずれ医学会は輸血忌避の方向へ進まざる得ない状況に直面することになったでしょう。

その場合、輸血に代わる代替療法の開発の功績は、エイズや肝炎その他の感染症により苦しむ宗教と関係のない犠牲者たちといういつものパターンとなります。

科学技術の進歩は、多くの人々の犠牲の上になされます。
ある技術の安全性が担保されるまで、多くの人々が命を落とします。
人間の知力の限界がそのような犠牲を伴う改善を余儀なくしています。

公害病の除去、車や電気器具の安全性の向上などは全て誰かの犠牲の上に成り立っています。

医療分野についても同じです。
歯科で使用されていたアマルガムの危険性、その他多くの薬剤の危険性の除去とおなじで、輸血の危険性もやはり多くの犠牲者が出てから改善が始まります。

この物事の進展に普通宗教は関わりません。
たまたま、ものみの塔JWの教理がそこに関わったという理由で、輸血に代わる代替療法の開発は、唯一この宗教組織の働きかけのおかげであると結論づけることはできません。

ものみの塔協会の働きかけがなくても、輸血のもたらす医療リスクの否めない増加に、誰かが声を上げるでしょう。

どちらの過程を経たとしても、輸血排除の歩みは、聖書の「血を避けなさい」の助言の知恵をの立証となります。

輸血によるリスクが極めて甚大であることが明らかな現在では、宗教に関係なく輸血を避ける人がいるでしょう。


ものみの塔インチキ「神の代理店」の血の問題の扱い方は、#52でカレブさんが指摘しているように極めてパリサイ人的です。

編集者 sk (2014年07月25日 06:53:15)

オフライン

#55 2014年07月25日 07:30:11

信者B
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

> 信者Aさん

うう・・褒章は「マラソン=教理の実践」をゴールすることによるって、言ったじゃないですか・・

それを指摘しただけなのに、今度は神への愛が大事で、教理=輸血拒否自体に大きな意義はない、
あなたはそれを忘れている、って言うんですか・・

信者Aさんの発言・・『自分が神に対してではなく、協会に対して愛の犠牲を捧げている、という事実に気がつかなかったのでしょう。言葉は悪いんですが、その業は無駄どころか偶像崇拝にも等しい、神の目から見て嫌悪すべきものです』

繰り返しますが、信者Aさんの個の信念を否定してはいませんよ。教理でなかったものをいきなり教理にして、
その1点で排斥(JW的には考えを改めなければ永遠の裁き)にする組織のやり方だと申し上げたのですが・・
それにはコメントいただけませんね。カレブさんが指摘するように、人間が言い出したある教理が神を辱める
愚かしいものであり、それに従うことがまさに偶像崇拝と考え、神への愛と良心の内にその教理を拒む人を
神はどう御覧になるのでしょうか。

大部分のJWはものみ協会が定めたマラソンコースを走り、協会がコースを変えるたびに、その先にゴールが
あると信じて走ります。しかし、どの宗教団体に属すか、その教団の掟だから、ということはではなく、神への愛
と信仰こそが重要・・実際、それに気づいてものみ協会との関係を断ち、何かの教団の掟を実践することに依存
しない神への愛と信仰を抱き続けている人もいます。そしていつか信者Aさんもそのような選択をすることもある
のではないかという印象を受けたのです。大きなお世話ですね、すみません。

『背教者と議論するのは賢明ではありません。直接話すことはもちろん、ブログにメールを送ることも他のどんな
方法も間違っています。そのような交流は、相手を助けるためであったとしても、ここで考慮してきた聖書の指示
に反しています』

ものみの塔7月15日号です。

危険性を指摘しているに過ぎませんか?聖書の指示に反している、と言っています。でも、信者Aさんはここに
書き込むことがそれにあたる、とは考えておられませんね。つまり、その点においても信者Aさんは協会と一致
した見解を持ってはいないからです。

#56 2014年07月25日 19:14:28

sk
メンバー

Re: 輸血拒否に関する議論

こんばんは、

信者Aさんも信者Bさんも、人間の基本的な欲求を満足させていると思いませんか。

つまり、制裁を受けることなく自由に自分の考えや見方を述べて他の人と交友するという欲求です。

ものみの塔インチキ「神の代理店」にいる限り、この人間の基本的な欲求を満たすことは禁じられています。
ものみの塔が解釈するように解釈し、教えるように教えるのパターンが一律に適用され、組織の聖書解釈を批判することは許されない罪となり、当人が神やキリスト教の精神を信じていたとしても背教者とされます。

そのことから明白なことは、ものみの塔が言っている背教者とは、ものみの塔の聖書解釈や教理に背く者ということです。
それは、聖書の教えや神やキリストへの信仰を否定していることを意味していません。
つまり、聖書的には、全く背教者ではないということです。

それで、神とキリストを信じ、聖書の教えを正しく理解することを追い求めている、ものみの塔と見方や理解を異にするクリスチャンを背教者として裁く権威はものみの塔にはありません。

彼らこそ、「[自分の]隣人を裁くあなたは,いったいだれなのですか。」と問われる者たちです。

ヤコブ 4:11-12
11 兄弟たち,互いのことを悪く言うのはやめなさい。兄弟のことを悪く言ったり,自分の兄弟を裁いたりする人は,律法を悪く言い,律法を裁いているのです。そして,律法を裁くのであれば,あなたは律法を行なう者ではなく,裁き人です。12 立法者また裁き主である方はひとり,それは救うことも滅ぼすこともできる方です。しかし,[自分の]隣人を裁くあなたは,いったいだれなのですか


マルコ 9:38-42
38 ヨハネが彼に言った,「師よ,わたしたちは,ある人があなたの名を使って悪霊たちを追い出しているのを見ましたので,それをとどめようとしました。彼はわたしたちと一緒に従って来ないからです」。39 しかしイエスは言われた,「彼をとどめようとしてはなりません。わたしの名によって強力な業を行ないながら,すぐさまわたしをののしることのできる者はいないからです。40 わたしたちに敵していない者は,わたしたちに味方しているのです。41 あなた方がキリストのものであるという理由であなた方に一杯の飲み水を与える者がだれであっても,あなた方に真実に言いますが,その者は決して自分の報いを失わないでしょう。42 しかし,信じるこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者は,ろばの回すような臼石を首にかけられて海に投げ込まれてしまったとすれば,そのほうが良いのです



ものみの塔の誤りを指摘する信者を背教者として裁き沈黙させるものみの塔の専横的な態度(霊)は、信じる小さな者の一人をつまずかせるものです。

信者Aさんも、信者Bさんも、輸血の正当性の証明を考えるよりも、ものみの塔の霊が神に是認されるかどうかをまじめに考える方が自他ともに有益でしょう。

この掲示板の読者は、輸血か聖書的かどうかという視点よりも、ものみの塔の信者に対する輸血拒否の要求のあり方の方に問題意識を持つ方々が大半だと思います。

エホバの証人が力説しなくても、聖書を信じるクリスチャンが「血を避けなさい」の聖書の指示を無視することなど考えれません。

他の信者の信仰を疑ったり、クリスチャンの兄弟たちに信頼を示せないあなた方はいったいどんなクリスチャンなんですか。

編集者 sk (2014年07月25日 20:04:29)

オフライン

#57 2014年07月25日 20:01:00

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

カレブさんへ

>> 聖書に「体から出た血は地面に注ぐように」との記述があります

> そんな記述はありません。

ご指摘の通りです。読んだ瞬間、あれ?そんな直接的な聖句あったかな?
とは感じたのですが、ご指摘の後、聖書を全検索して、
地面に注ぐよう指示されている血は全て、
犠牲に用いられた動物のものである事を確認しました。

回答すべき点があるのはこの程度ですね。
他の論点については回答すべき意義を見出せません。

ただ、輸血を避けるべきかどうかに関しては、
問題点を整理していくうちに、重要教理のうちに1つの類似性を見出しました。

現在、輸血拒否問題は主に、「親の信条を子供に~」という点に集約されます。
子供が親のために犠牲となるのはおかしい、という事です。
まるでカナン人が我が子をバアルに捧げるようなものではないか、という事なのでしょう。
その思考は全く正常で健全なものであって、
非難されるに値するものであるはずがありません。

しかしどうでしょう。父はみ子キリストを、人類の罪を贖うと称して
むざむざ敵の手に渡して死に至らしめた極悪非道の神様なのでしょうか?
そうではありませんよね?贖いという過分のご親切によって、
死の未来しかなかった私たちに、命の見込みを与えてくださったのですから。

キリストがユダヤ人にとっての「つまずきの石」(ローマ 9:32-33)となったように、
輸血拒否も神に仕える動機を見分ける試金石
(つまり神ご自身があえて据えた)という見方すら成り立ちそうです。
この点に気づいた時、輸血拒否が段階的に緩和されるどころか
撤去される事などまずないだろう、との確信度が、
99%くらいから99.99%くらいに上昇しました。

豚(真理の言葉を理解しない者)に真珠を与えるな、とキリストは言われます。
私はあなたがどんな人であるかの背景を全く知りませんが、
少なくとも豚であるなどとは思いたくありません。
この書き込みに対する反応次第では、
今後の書き込みを控えさせていただこうと思います。





信者Bさんへ

> うう・・褒章は「マラソン=教理の実践」をゴールすることによるって、言ったじゃないですか・・

”教理の実践」をゴールすること”ではありません。
主流のキリスト教においては、マラソン(教理の実践)なんてそもそも不要なのですよ。
そしてエホバの証人の場合は、死はマラソン(教理の実践)のゴールテープ
と言っているに過ぎないのです。つまり死ぬまで実践し続けなければならない。
ただし、同じ教会に所属する仲間同士の間で、表面上は同じ事をしているにしても、
その動機、神への愛の深さ、信仰などは、
神の目にそれぞれ異なって映ることを忘れてはなりません(マルコ 12:41-44)。

それから、たぶんこちらも表面的に読んで熟考もせずにスルーされてしまったのかもしれませんが、
アベルとカインのところはけっこう重要なテーマです(問題の本質は上と同じ)。
ものみの塔と無縁の一般教会の解説にも…というか、
一般教会のほうが優良なものを沢山解説しているような気さえしますので、
一度このテーマを掘り下げて考えてみると良いのかな、と思いました。
http://www.habi.ne.jp/takabayashi/kaintoaberu.html

ちなみに、他の人宛に前にも言ったのですが、
ここは輸血拒否に関する事柄を扱うトピックです。
妨害になるかもしれないので、以降、他の疑問は他で提起されると良いでしょう。


> 危険性を指摘しているに過ぎませんか?聖書の指示に反している、と言っています。

その記事のその部分は、相手が「明らかに」背教者である事が明確な場合の適用だと思いますよ?
排斥者(掟の違反者)と背教者(かつては仲間であったが、道理の通じない熱狂的な批判者にまで転落)
との間にさえ、埋めがたい大きな溝がある事を忘れていませんか?
私があなたに回答するのは、少なくとも道理の通じない者とは映らないからなのです。

#58 2014年07月25日 20:06:14

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

隠れんぼさんへ

自分なりに問題点をまとめたものを提示しておきます。
議論のたたき台になればと問題点を整理していた途中なんですが、
カレブさんの提起された問題をじっくり考えていくうちに、
これ以上まとめる必要もなさそうだとの結論に至ったので、
現在の形のまま投稿しておきます。

エホバの証人と輸血拒否の問題を医療機関側から想定してみると…
救急医療の現場は聖域であるとして、他の全てのケースにおいて、
病院側としては厄介な患者としか定義できないというのが偽らざる本音です。

---------------------------------------------------------------
定義:
絶対的無輸血 - 輸血拒否という患者の意思を最後まで尊重
相対的無輸血 - 可能な限り輸血は避けるが、最後は医師の判断で輸血を行う

問題点:
A.輸血を選択肢として除外されるのは、手足を縛られての手術を強要されるようなもの。
死ななくてもよいはずの患者が死亡する懸念がある時点で、医師の精神的ストレスとなる。
B.また、受け入れを断ったら断ったで、追い出したという良心の呵責に苛まれる。
C.救急医療の現場では、どう対処したら良いのだろう。
D.患者が未成年者である場合、親の信条をそのまま受け入れてしまってもよいのであろうか。

Aの問題をクリアする病院だけが絶対的無輸血の方針を受け入れられる模様。
この場合において、Bという問題はそもそも発生しない。
一方で、エホバの証人は、国内に独自の連絡網を有しており、
Bという問題はさほど深刻に捉える必要はないと考えられる。

Cの救急医療の現場における優位性については、
東京高裁 平成9(ネ)1343において、
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030 … nreiKbn=04

「医師はその良心に従って治療をすべきであり、患者が医師に対して
その良心に反する治療方法を採ることを強制することはできない。」

「また交通事故等の救急治療の必要のある場合すなわち
転医すれば救命の余地のないような場合には、
医師の治療方針が優先される。」

とあり、患者の意思より医師の判断が優先されるべきと解する事ができる。

一方で、同判決は、

「いかなる場合であっても医師が救命(本件ではむしろ延命)のため手術を必要と判断すれば
患者が拒否しても手術をしてよいとすることに成り兼ねないものであり、
これを是認することはできない。」

「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、
輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、
このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。」

とも説明して、転院する余地が残る場合、輸血は「むしろ延命」であると解され、
尊厳死等の概念等も視野に、患者の自己決定が優先されるとしている。

その裁判を引き継いだ、最高裁第三小法廷判決 平成10(オ)1081においては、
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030 … nreiKbn=03

「説明を怠ったことにより…
手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、
この点において同人の人格権を侵害したものとして…
精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。」

とあり、相対的無輸血においては「命の危険があると医師が判断した際には輸血を行う」とする
病院側の方針を明確に伝え、それを「相手が理解している事を十分確認」しておく必要が生じる。



Dの患者が未成年者の場合においては近年、
親の信条を子供にまで押し付けるのは良くないとの社会通念に基づき、

・医療ネグレトを理由に児童相談所に通報
・児童相談所が家庭裁判所に一時的な親権執行の停止を要請
・家庭裁判所による親権執行停止命令

というパターナリズム化した方式がとられるケースが出てきている。
確認できただけで日本でも過去に3件の事例があるが、

家庭裁判月報59巻4号135頁(平成17年/大阪家庭裁判所岸和田支部)
家庭裁判月報59巻4号127頁(平成18年/名古屋家庭裁判所)
共同通信社発(2007年夏-平成20年/所轄裁判所不明)

共同通信社によるものと同じものと見られるエホバの証人側の主張が
---------------------------------------------------------------

ここまで

家庭裁判所の記録は未公開資料のようで、細部の検証は不可能でした。

ただし、様々な角度から検証してみると、恐らく共同通信社の報道と
例の議事録の事例は類似性の多さから同一案件であり、
転院先として選ばれた病院は、東京高裁の判決文にも含まれている、
上尾甦生病院(埼玉)である可能性が極めて高いように思えます。
http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009031401000512.html

まとめそこなった点として、

1.現在の15歳の基準が不明瞭。
・15歳未満で意思表示をする書類を所持している場合はそれでいいのか
・16歳以上で書類のない未成年者についてはどうするのか
という2つの問いに明確な回答を与えるものではない。

2.医療ネグレトとして児童相談所に通報、という安易なテンプレート対応を続けた場合

親権停止の法的手続きを取る時間的猶予はあるのに、
転院の手続きを取る時間的余裕が無かったなどという事はありうるのか?

との主張に正面から耐えうるものでは無く、ここに専断的医療行為としての主張が
認められる可能性は少なくないように思われます。
今はまだ実績不足で、転院後の手術成功率が高ければ、
いずれアメリカあたりで先行して大きな裁判が起こるかも?。

唯一の例外は、転院する時間的余裕もない場合の未成年者への強制輸血程度ですが、
こちらについては大人の場合ですら医師の判断が優先されるのですから、
問題になることはまずないでしょう。



その他、公式サイトから

『エホバの証人の家族の世話と医療』については、
日本語のものがすでにあるようです(目録に登録されています)。
http://m.wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200276167

海外ではすでに医療ネグレトとの通報があった事案について、
転院手続きを経て無輸血の手術で成功した例が複数あるようです。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2003484?Xgeo=world

#59 2014年07月25日 20:43:17

sk
メンバー

Re: 輸血拒否に関する議論

こんばんは、



マイコンロボット さんの発言:

キリストがユダヤ人にとっての「つまずきの石」(ローマ 9:32-33)となったように、
輸血拒否も神に仕える動機を見分ける試金石
(つまり神ご自身があえて据えた)という見方すら成り立ちそうです。
この点に気づいた時、輸血拒否が段階的に緩和されるどころか
撤去される事などまずないだろう、との確信度が、
99%くらいから99.99%くらいに上昇しました。


真のクリスチャンを見分ける印は、輸血拒否のような教理ではありません。


ヨハネ 13:34-35
34 わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。35 あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。


ものみの塔JWに、うつ病、自殺者が一般の人と比べて多い事実や、排斥、常識を逸した村八分などの人権を無視した人間味に欠けた隣人の扱いなどはこの宗教団体が真のキリスト教を実践しているとの主張の正しさに深刻な疑問を投げかけます。

これらの深刻な問題については、この掲示板の投稿を読めば誰の目にも明らかであり、その記述を読んでもその重大性を理解できない何と悲しいマイコンロボットなのだろう。

「血を避けなさい」との聖書に従う個人の信仰をなぜ個人の良心や信仰に委ねないのだろうか。
ものみの塔の身勝手で気ままに変わる宗教教義を論じる意義などないでしょう。

よっぽどそれにこだわりたいんだね。
パリサイ人と同じだね。


マルコ 3:4-5
4 次いで彼らにこう言われた。「安息日に許されているのは,善行をすることですか,悪行をすることですか。魂を救うことですか,殺すことですか」。しかし彼らは黙っていた。5 それで[イエス]は憤りを抱いて彼らを見回したのち,その心の無感覚さを深く憂えつつ,「あなたの手を伸ばしなさい」とその人に言われた。そこで彼が伸ばすと,その手は元どおりになったのである。

ルカ 13:14-17
14 しかし,これに対してその会堂の主宰役員は,イエスが安息日に[病気を]治したということで憤慨し,群衆にこう言いはじめた。「仕事をすべき日は六日ある。だから,それら[の日]に来て治してもらうがよい。安息日にはいけないのだ」。15 しかしながら,主は彼に答えてこう言われた。「偽善者たち,あなた方はそれぞれ安息日に自分の牛やろばを畜舎からほどき,[水を]飲ませに引いて行くのではありませんか。16 それなら,アブラハムの娘で,サタンが,見よ,十八年も縛っていたこの女が,安息日にこのかせから解かれるのは当然ではありませんでしたか」。17 さて,[イエス]がこれらのことを言われると,その反対者たちはみな恥ずかしく思うようになった。しかし,群衆はみな,彼の行なった栄光ある事柄すべてを歓ぶようになった。

編集者 sk (2014年07月25日 20:48:32)

オフライン

#60 2014年07月25日 21:23:40

信者B
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

> 信者Aさん

誤解なさらないでください。
重ねて申し上げますが、私は信者Aさんの信念を尊重したいと思っています。
理由が何であろうと、成人した大人に輸血拒否の権利が基本的に認められている
ことも知っています。そこは議論していません。

ただ、カレブさんのご指摘にお答えになっておられないように思います。

聖書によれば「地面に注ぐ」のは屠殺された動物の血です。

①    自己血使用が「循環系の一部」とみなせるか

②    成分が「主要」か「分画」であるか

という聖書に書いていない線引きで信者の選択を限定し、その時点の解釈に異を唱える人を
宗教裁判で除き去るものみの塔協会のやり方についてどうお考えですか。

おそらく、信者Aさん個人の信仰とは全く関係のないことで、回答の必要さえ感じない愚かしい
レベルの低い質問かもしれませんが、ここは「エホバの証人研究」サイトの掲示板なので、純粋な
聖書解釈や、信仰の自由と医療がどう関わるべきかの一般論、また一個人信者の私的信念の是非を
問う、よりもエホバの証人組織の問題点を考察することで、この組織を本当に神の唯一の経路として
認めるべきかについて訪れる人に参考となる情報や観点を提供する場ではないかと思います。

輸血拒否はそのためのトピックの1つであり、上記の点について信者Aさんの考えをお尋ねする
ことには意義があると自分は考えています。

#61 2014年07月26日 00:41:12

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

> ①    自己血使用が「循環系の一部」とみなせるか

これはおかしな質問です。この点に関しては自己裁量のはずで、文字通り、
あなた方が求めている個人の自由裁量が保障されているではありませんか。
一方では個人の自由がないと避難し、その同じ舌が個人裁量である事をも避難する。
そんな言葉遊びには付き合ってられんのですよ。


> ②    成分が「主要」か「分画」であるか

まず、はじめは全血輸血しか存在しませんでした。
エホバの証人が輸血拒否の教理を取り入れたのはこの時代の事です。
「血を避けなさい」を意味するところは1つの理解しか無かったと言えます。

後になって血液の分画利用という手法が登場しました。
全血は論外として、それぞれの分画について検討する必要が生じたと言えます。
「血は命だからである」という言葉を根拠に、生命維持に直結すると考えられる部分
(エホバの証人が便宜上「主要分画」と定義)だけを避ければそれで良いとの理解で
良心が傷まない人はそれを受け入れればいいし、
やはり全て受け入れられないという人は全て受け入れなければいいのです。
「主要」か「分画」か、などと言ってる時点で、
あなたはこうした基本ですらまるで理解していないようにも感じます。
主要もまた「分画」であることは、まぎれもない事実なのですから。

これもやはり自由裁量なので、ここを避難される事自体が無意味と言えます。
分画方法は増え続けてきた経緯があり、全てを説明し理解せよ、というのは酷というものです。
最新の医療ばかりに目が向かい、こうした歴史的背景が完全に忘れ去られているようにも感じます。


で、こうした個人裁量であるはずの隅々の是非について論じる行為それ自体が、
他人を裁く行為そのものである事に、そろそろ気づいてください。

#62 2014年07月26日 02:26:08

iris
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

こんばんは。急に議論が活発になっていますね。

私の以前のコメントについては、カレブさんの解説どおりです。

信者Aさんがそうかどうかは存じませんが、多くのエホバの証人の方々の輸血拒否の理由は「神を愛しているから」です。
けれども、医療機関と議論するときには、「輸血よりも医学的に優れた方法がある」と説得しようとします。
これはおかしいですよね。

『エホバの証人の家族の世話と医療』については、専門色の強い内容などではありません。
一般のエホバの証人の方々にとっては、医学用語が書いてあって専門的に見えるかもしれませんが、
ほかの出版物と同様に、ものみの塔の思い込みを主張してあるにすぎません。


エホバの証人であるかどうかに関わらず、輸血を受け入れるかどうかは個人的な問題です。
確かに輸血は危険性の高い治療法です。ですから、今ほどインフォームド・コンセントについてうるさくなかった頃から、
詳細に説明をして、書面で同意を得てからでなければ輸血は行えませんでした。

私がエホバの証人の方々を気の毒に思うのは、輸血に関する教義も今までコロコロ変わっており、これからも変わる可能性が
十分あるのに、現時点での教義に縛られて命にかかわる決断をしなくてはならない状況におかれているためです。
さらに、不正確な医療情報を与えられて、誤解に基づく判断を迫られています。

特に小児科は、子どもに害を与えないために、必要のない投薬や処置を嫌います。(だから儲からず不採算でつぶれやすい)
それでも、命を救うために輸血を選択するしかない場面は少なくありません。
転院すれば大丈夫と思っている方、小児専門病院(ほかの病院で手に負えない児が運ばれるところ)の中には、
輸血拒否には応じないとはっきり宣言しているところもあるのですよ。
輸血はできる限り避けるべきですが、救命を目的とした場合に必ず避けることができるものではありません。

#63 2014年07月26日 06:49:38

信者B
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

> 信者Aさん

うう・・その自己裁量であるべき事柄に線引きをして信者個人の選択を限定する
ものみの塔のやり方についてどうお考えかをお尋ねしたのですが・・

> 「血は命だからである」という言葉を根拠に、生命維持に直結すると考えられる部分
(エホバの証人が便宜上「主要分画」と定義)だけを避ければそれで良いとの理解

そこは聖書ではなくものみの塔の定義に委ね、それに反する行為を裁く彼らのやり方を
支持している、と理解しました。

>で、こうした個人裁量であるはずの隅々の是非について論じる行為それ自体が、
他人を裁く行為そのものである事に、そろそろ気づいてください。

「循環系の一部か?」「主要か分画か?」なんてパリサイ人みたいなこと、私が言い出した
のではなく、こうした隅々の是非を論じて信者を裁いているはものみの塔協会ですよ。
確かに気づいてほしいですね。

聖書で地面に注ぐよう命じられているのは屠殺された動物の血(ゆえにその命を表す)と
考え、神から与えられた命を大切にしたいと思い、生きたままの自分の血を、貯血式で
自らに戻す方法を選択して手術に臨みます。

しかし「循環系の一部」とは見なされないため審理委員会にかけられますが、自分は
自分の良心の内に神の律法に違反したとは考えていない、と言ったら勝手に断絶扱い
されます。

そういう人の判断も尊重し、掲示板で交流を持っていただけますか?

どうも、かみ合わないようですね・・これで失礼します。

#64 2014年07月26日 15:16:58

sk
メンバー

Re: 輸血拒否に関する議論

こんにちは、


信者B兄弟は書きました。

「循環系の一部か?」「主要か分画か?」なんてパリサイ人みたいなこと、私が言い出した
のではなく、こうした隅々の是非を論じて信者を裁いているはものみの塔協会ですよ。
確かに気づいてほしいですね。

聖書で地面に注ぐよう命じられているのは屠殺された動物の血(ゆえにその命を表す)と
考え、神から与えられた命を大切にしたいと思い、生きたままの自分の血を、貯血式で
自らに戻す方法を選択して手術に臨みます。

しかし「循環系の一部」とは見なされないため審理委員会にかけられますが、自分は
自分の良心の内に神の律法に違反したとは考えていない、と言ったら勝手に断絶扱い
されます。




B兄弟、
兄弟がお気づきのように、ものみの塔は真のクリスチャン会衆ではありません。

それは、人々の宗教心を利用して成長し利益を上げる宗教企業体です。
しかも、それが生み出している実は良くありません。
いつまでも、そこに留まることは兄弟の人格育成に貢献しないでしょう。



では、次に、
「血」の扱いに関するものみの塔の独善的で、一貫性の欠けた見方を暴露します。


輸血は、第二次世界大戦において負傷した兵士の救命のために開発され用いられ始めました。
1950-1960年代は全血の輸血がほとんどで、その後医療の進歩とともに現在では各種血液成分の輸血に取って代わりました。

「血を避けるように」との聖書の命令の解釈を宗教組織が独善的に行い独自の基準を信者に強要し、それに基づいて裁くということが生じています。


ものみの塔協会は、血を「禁じられた成分」と「受け入れらる成分」に分類しました。
その分類の基準となる考え方は、彼らの説明によると血液中に占める各成分の割合であるとされています。
しかし、その見方でさえ極めて独善的で一貫性に欠けています。


では、これからご説明いたします。



禁じられている血の成分
血漿
白血球 (leukocytes)
赤血球
血小板


許可された血の成分
アルブミン
免疫グロブリン
血友病治療剤、血液凝固第8, 9因子


これは、血液に占める割合による分類とされています。
しかし、その主張は一貫性を欠きます。



まずは、血漿から。

血漿は血液の55%を占めているので血の主要な成分と見なされました。
しかし、その血漿の93%は水です。
残りの7%を占める成分は、アルブミン、免疫グロブリンです。


ものみの塔の裁決によると、血漿は禁じられ、アルブミンと免疫グロブリンはOKとなりました。
血漿としては占める割合が高く、アルブミンやグロブリンとしてはその割合が低いからということです。
しかし、血漿のほとんどは水ですね。
この分類、何か変だと思いませんか。

アルブミンは1Lの血液中に45gあるといわれています。
また1Lの血液から25gのアルブミンを抽出できます。

体の30-50%の火傷の治療に600gのアルブミンが必要とされます。
それだけのアルブミンを得るために何リッターの血液が必要でしょうか。

45Lの血液が必要です。
その45Lもの血液はいったんどこかに溜め置く必要があります。

ものみの塔の聖書解釈によると全ての血は地面に流されるべきで溜め置いて後で利用することは禁じられています。
しかし、アルブミンを得るために大量の血がどこかで貯蔵され処理される必要があります。


次は、免疫グロブリンについて。

免疫グロブリンはワクチン注射に用いられます。
1本のワクチン注射に使う免疫グロブリンを得るために3Lの血が必要です。
免疫グロブリンのために大量の血が貯蓄され処理されます。
ものみの塔協会の宣教者たちは第3世界に派遣される際、コレラワクチンの注射を受けます。


献血がなされると、大量の血液が貯蔵され、各血液成分を得るために処理されます。
このプロセス自体が、ものみの塔の聖書解釈では肯定されません。
しかし、ものみの塔は、アルブミンやグロブリンは血液の微量成分なので良心的に受け入れるかどうか決めてくださいと無責任で一貫性を欠いた説明をします。


あなたは、ものみの塔の独善的(独断的)な決まりについて行けますか。


次に白血球について考えて見ましょう。

人体は、2-3kgの白血球を持っています。
ほとんどの白血球は体の細胞の中にあり、免疫として細菌の駆除を行っています。
白血球の僅か2-3%が血液中にあります。

割合からすると、白血球は血液の主要な成分とはいえません。
臓器移植の場合は、輸血よりも多くの白血球が他人に移植されます。

母親の初乳の白血球の量は、50,000個/平方ミリメートルあります。
血液の場合は、4,000-11,000個/平方ミリメートルあります。

初乳を飲むことは、輸血より多くの白血球を取り入れることになります。


最後は、白血病の治療について。

1940年代は、白血病患者の平均寿命は16.5歳でした。
しかし、現在は、輸血により通常の寿命となっています。


医学の進歩により、病気の人が恩恵を受けることを喜べるのではありませんか。




ものみの塔はパリサイ人みたいだね。



パリサイ人の特徴とは

細かい規則を作りたがる。

マタイ23:16-22
16 「盲目の案内人よ,あなた方は災いです! あなた方は,『神殿にかけて誓っても,それは何のことはない。しかし,神殿の金にかけて誓うなら,その者には務めがある』と言うのです。17 愚か者,また盲目の者たちよ! 金とその金を神聖にした神殿とでは,実際のところどちらが偉大なのですか。18 また,『祭壇にかけて誓っても,それは何のことはない。しかし,その上の供え物にかけて誓うなら,その者には務めがある』と[言います]。19 盲目の者たちよ! 供え物とその供え物を神聖にする祭壇とでは,実際のところどちらが偉大なのですか。20 それゆえ,祭壇にかけて誓う者は,それとその上のすべての物にかけて誓っているのです。21 そして,神殿にかけて誓う者は,それとそこに住んでおられる方にかけて誓っているのです。22 また,天にかけて誓う者は,神の座とそこに座しておられる方とにかけて誓っているのです。





規則にこだわり、憐れみを忘れる。

マルコ 3:4-5
4 次いで彼らにこう言われた。「安息日に許されているのは,善行をすることですか,悪行をすることですか。魂を救うことですか,殺すことですか」。しかし彼らは黙っていた。5 それで[イエス]は憤りを抱いて彼らを見回したのち,その心の無感覚さを深く憂えつつ,「あなたの手を伸ばしなさい」とその人に言われた。そこで彼が伸ばすと,その手は元どおりになったのである。



規則が犯されると憤慨する。

ルカ 13:14-17
14 しかし,これに対してその会堂の主宰役員は,イエスが安息日に[病気を]治したということで憤慨し,群衆にこう言いはじめた。「仕事をすべき日は六日ある。だから,それら[の日]に来て治してもらうがよい。安息日にはいけないのだ」。15 しかしながら,主は彼に答えてこう言われた。「偽善者たち,あなた方はそれぞれ安息日に自分の牛やろばを畜舎からほどき,[水を]飲ませに引いて行くのではありませんか。16 それなら,アブラハムの娘で,サタンが,見よ,十八年も縛っていたこの女が,安息日にこのかせから解かれるのは当然ではありませんでしたか」。17 さて,[イエス]がこれらのことを言われると,その反対者たちはみな恥ずかしく思うようになった。しかし,群衆はみな,彼の行なった栄光ある事柄すべてを歓ぶようになった。





おまけ

それは医療が善良な人々だけにより運営されていないという現実です。
サタンの世の政治、産業、教育、宗教、その他の領域に見られる貪欲や欺きが医療の分野にも存在します。

ですから、血液製剤による感染症の問題や医療ミスなどの問題が後を絶ちません。

それで、輸血について個人的にどうするかを決める際、医療上のリスクも考慮すると良いと思います。
だれも個人の決定を裁くことはできないでしょう。

編集者 sk (2014年07月29日 17:43:23)

オフライン

#65 2014年07月26日 15:42:58

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

irisさんへ

変な言い回しが無くなり安心しました。先の発言の非礼をお許し下さい。

> 信者Aさんがそうかどうかは存じませんが、多くのエホバの証人の方々の輸血拒否の理由は「神を愛しているから」です。
> けれども、医療機関と議論するときには、「輸血よりも医学的に優れた方法がある」と説得しようとします。
> これはおかしいですよね。

その動機を「協会への愛」ではなく「神への愛」と評して下さった事に感謝致します。
そうですね、おかしな姿勢だと思います。

一応、聖書には、「希望の理由を問う人に対し、しっかり弁明できるよう常に備えておきなさい」とありまして、
その観点からするならば、いざ患者となり、自分の立場を表明する時になっておかしな発言をしないよう、
前々からどのように話せばよいかを考えて、常に備えておくべきなのですが、
その聖書の言葉を「家々を訪問する宣教の場面ででどのように話すか」でしか当てはめておらず、
仕方がないのでその場で無い知恵を絞って、その時の本心の言葉を語っているのが実情なんじゃないかと思います。
(その辺はご愛嬌という感じで受け流していただければと、基本的には連絡委員ですら医学知識が無さそうなので…)


> 輸血に関する教義も今までコロコロ変わっており

私の1つ前の投稿で説明したように、「分画」という概念が取り入れられたのは、
医学の発展に伴ってその必要性が必然的に生じたからであって、要約するとこうなります。

・エホバの証人が輸血拒否を導入した当時、全血輸血しか手段は無かった。
・分画技術の登場。「血は命だからである」とする聖書の言葉を根拠に、
生命維持と直結すると思われる4つの分画のみを「主要分画」と便宜上定義した。
・主要分画の定義(赤血球、白血球、血小板、血漿)は今日まで変化無し。

これが真相のはずなのですが、それでも「コロコロ」という表現が妥当でしょうか?
カレブさんのHPを調べてみても、これに反する歴史的な変化を認めることはできないように思います。
というか、こと、輸血拒否に関していえば、長文である事で満足してしまい、
一番重要な証明の部分が完全に抜け落ちているようにも思うのです。
あるいは上記の説明が真実ではないと、信ずるべき別の証拠が確かに存在するのであれば、
可能な限りの情報を、まずご提示いただけたらと思います。
(定義すら存在しない批判には、反証すらできないのです)

なお、分画とは、限りある資源である血液を有効活用するために、
特定の因子のみを取り出して、残りを別の用途に使うために、
1970年代ごろ確立された技術であろうと認識しております。
エホバの証人の輸血拒否の導入は、それよりずっと前です。

先にも述べた通り、私はエホバの証人になる前から、命が惜しいと思ったことなどありません。
神の存在についても、「いるかどうかわからない」という当初の漠然とした考えから、
神は確かに存在すると考えたほうがいろいろと辻褄が合うようだ、と考えるようになりました。
だから輸血拒否の教理自体はなんの問題も無く受け入れられました。
しかし、学ぶにつれ、この団体は救いを安売りしているようにも感じました。
救い目的で入信して、それが自分にどんな意味があるというのだろう、という事です。
動機がそんなものであっては、それは浅ましい以外の何物でもない、と考えたわけです。

そんな時、なんの気無しに手に取ったのが、『20世紀におけるエホバの証人』という、
私たちがブロシュアーと呼ぶ形態の小冊子です。主に一般人向けに書かれた、
エホバの証人の信条を簡単にまとめた程度の内容なので、
普通のエホバの証人なら通常は見向きもしません。
ところがそんなところに私の疑問に対する答えが書いてありました。
あまりにも短い文なので、私なりの解説も加えると、その理由とはこうなります。

永遠の命の見込みとは元々、神がアダムに対してお与えになったものであって、
アダムは永遠に生きる見込みのある者として誕生した。
その永遠の命の見込みは当然ながらその子供たちにも受け継がれるはずであったが、
アダムは最初の子供をもうける以前に不従順という大罪を犯してしまい、
結果として全人類が死ぬようになってしまったのである。
従って、人間が永遠に生きるというのは神の当初の目的であって、
これを求めるのはけっして浅ましい行為などではない、となります。

たぶんこの発見が私の人生のターニングポイントとなったのだろうと思います。
だから、私自身にとっては、輸血拒否にまつわる問題なんていうのは、
信仰という側面からのみ考慮するならば、
考慮するに値しないほどちっぽけな問題なんですよ。

こんな話があります。海で4人の人が遭難しました。
救援が来る気配はなく、やがて1人が死亡しました。
2人の人は、死亡した人の肉を食べましたが、1人は食べなかったそうです。
なぜなら、彼はプロテスタントの牧師で、人肉嗜食に相当するそのような行為は
とても耐えられないと考えたから…のようです
(本人そう語ったのか定かではありませんし、作り話かもしれません。
エホバの証人とは無関係の情報源なので)。
しばらくすると、その牧師も死亡しました。残った2人はその肉も食べたそうです。

ここでもし、2人が無理やりにでも死亡した人の肉を牧師に食べさせて、
その牧師が確かに生還したとしましょう。その牧師は幸せでしょうか?
食べさせた2人は良心が傷まなかったのでしょうか?
私が輸血拒否をする理由は、この牧師が人肉を食べるのを拒んだのと
動機の点では全く同一であろうと思っています。





信者Bさんへ

先にリンクで示したアベルとカインの解説文には目を通したのでしょうか?そこには

アダムの罪=神への不従順

という事がはっきりと書かれています。
ところが、私が血を避ける理由を神への従順(愛)という言葉で示したところ、
それは危険な考えだとカレブさんから指摘されたのです。
もちろんカレブさんに悪意は無かったのでしょう。
ただ、そうしたもっともらしい人間的な思考に、
あなたは完全に毒されてしまっているようにも感じます。

放任主義の親に育てられたある人は、親のことを悪し様に言うかもしれません。
あの人達は私に対して何もしてくれなかった、と。
一方で同様に、放任主義の親に育てられた別の人は、
私の両親は何もしてくれなかったが、体罰をしたわけでもなければ
食べるのにも困るようなひもじい思いをしたわけではない。
として、親に服することを受け入れています。
両者の違いがわかりますか?全ては受け止め手の心次第なんですよ。

相手の悪い所ばかりに目を向けて批判の言葉を並べ立てるのは、
愛ある行動ではありません。これは肉の業です。
一方で、霊の実を示す人は、相手の良い所を探し出し、
立て起こし、築き上げ、励ますような言葉を使うよう心がけます。
全く無関係の第三者からすれば、どちらに好感を持つかは自明ではありませんか?
エホバの証人の信条に同意しないまでも、
その信念を自ら進んで尊重してくれる医療関係者がいるのは、
そのように霊の実を示し続ける実績を積んできたからなのです。

あなたに対してはもうこれで十分でしょう。
あとはあなたの信ずるところに従って行動されると良いと思います。

#66 2014年07月26日 16:37:05

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

あー、すまん、よく読んでなかったので
信者Bさんが何を問題視してるのかよくわかってなかったよ。
ちょっと論点を整理するので時間をくださいね。

#67 2014年07月26日 17:45:15

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

1.エホバの証人が輸血を避けるのは、輸血という医療行為については、
使徒15章の聖句「血を避けなさい」という
クリスチャンが守るべき掟を踏み越えている可能性があるように見えるからです。
つまり、安全側に倒していると言い換えてもいい。

この主張に異議のある人は、この件に関して
使徒15章の適用についてのみ論じるべきなのです。
ここまでは受け入れていい、という人は次へ進みます。



2.エホバの証人が赤血球・白血球・血小板・血漿の4つを避けるのは、
「魂は血」「血は魂」のような意味を伝える数多くの聖句の言葉からして、
生命維持に直結すると考えられるこの4種類については
掟を踏み越える可能性があるように見えるからです。
これもまた、安全側に倒しているのです。

この主張に異議のある人は、この件に関して
関連聖句のみで論じるべきなのです。
ここまでは受け入れていい、という人は次へ進みます。



3.エホバの証人が自己血保存血の使用を避けるのは、
「血を地面に注ぎ出しなさい」としたレビ記の聖句や、
聖書全体を通して、血の使用が神聖な目的のみに限って許される事実、
などによって、自己血保存の精神そのものが、
血に対する神の目的から逸脱しているとの解釈であろうと推察されます。

この主張に異議のある人は、この件に関して
レビ記等、関連聖句のみで論じるべきなのです。
ここまでは受け入れていい、という人は次へ進みます。

※あまり考えた事はなかったのですが、
この部分については考慮する価値があるかもしれません。



4.エホバの証人がセルセーバーを個人の良心の問題としているのは、
バイパス手術における小さな管を大規模にしたものとの解釈も可能であり、
このあたりになると、個人裁量で決めるべき事柄と判断したのであろう。

となります。個人裁量の部分なので、このあたりまで来ると、
批判それ自体が無意味などころか、他人を裁く行為そのものになりかねないのです。




で、3のレビ記の聖句の解釈をもって、
1の輸血の是非そのものを論じるから話がややこしくなる。
つまりはそういう事なんだと思います。

全員が守るべき命令としている事が問題だ、という(神権統治への)批判は、
ちょっと輸血とは別問題になってくるので、
このトピックで扱っていいのかどうなのか…という事になります。
当然ながら、議論すべき関連聖句も全く異なってくるのです。

#68 2014年07月26日 18:21:51

sk
メンバー

Re: 輸血拒否に関する議論

こんばんは、


マイコンロボットは相変わらずピンボケですね。



マイコンロボット さんの発言:

私の1つ前の投稿で説明したように、「分画」という概念が取り入れられたのは、
医学の発展に伴ってその必要性が必然的に生じたからであって、要約するとこうなります。

・エホバの証人が輸血拒否を導入した当時、全血輸血しか手段は無かった。
・分画技術の登場。「血は命だからである」とする聖書の言葉を根拠に、
生命維持と直結すると思われる4つの分画のみを「主要分画」と便宜上定義した。
・主要分画の定義(赤血球、白血球、血小板、血漿)は今日まで変化無し。

これが真相のはずなのですが、それでも「コロコロ」という表現が妥当でしょうか?
カレブさんのHPを調べてみても、これに反する歴史的な変化を認めることはできないように思います。
というか、こと、輸血拒否に関していえば、長文である事で満足してしまい、
一番重要な証明の部分が完全に抜け落ちているようにも思うのです。
あるいは上記の説明が真実ではないと、信ずるべき別の証拠が確かに存在するのであれば、
可能な限りの情報を、まずご提示いただけたらと思います。
(定義すら存在しない批判には、反証すらできないのです)

血の主要成分として、ものみの塔が決めた理由は単純であり、それは彼らの雑誌や出版物にはっきり書かれています。
赤血球、白血球、血小板、血漿という主要成分は他の血液誘導体より量的に割合が多いと医学会が認めていたからであり、生命維持に直結する重要性がポイントではありません。

事実、病気の人にとって生命維持に直結する成分は、血液からすると微量のアルブミンや免疫グロブリンのような血液誘導体である場合がほとんどです。

ものみの塔はそのようなことさえ理解していませんでした。
彼らの推論は極めて表面的であり、それ故に血に関する裁決において一貫性がありません。
#64を参照してください。
http://www.jwstudy.com/jwbbs/viewtopic. … 1698#p1698




マイコンロボットが挙げた「人肉嗜食」の例について、

この例は神への信仰とは別物です。
神を信じていない多くの人々は、人間や動物の血を飲むことや、人肉嗜食を良心的に拒みます。
そこには、神への忠誠の問題はありません。
同じように輸血を見なす人がいても不思議ではありません。

それで、輸血の問題を神への信仰の表明に位置づけ、それによって人を裁き制裁まで課すものみの塔のやり方は通常の人間の判断を超えた極めて独断的、独善的で専横なものです。

それができるのは、自らを「神の代理店」として意識し、その権威を印象付けたいためです。

それで、マイコンロボットのこの問題へのアプローチはピンボケそのものです。

編集者 sk (2014年07月26日 18:57:20)

オフライン

#69 2014年07月27日 18:58:08

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

信者Bさんへ

自己血保存血については、塔89年3月1日号が初出のようで、
細部を検証してみましたが、そこに論点の不備はないように思います。
#67の、1,2,3の件ですが、1,2が心情的に受け入れられるのに、
神聖さについて語る3だけはどうしても受け入れられないというのは通常は考えにくく、
あなたの発言が、なにか実際にあった具体的なケースというよりも、
ありもしない仮定の話でつつく事によってボロが出るのを待っているようにすら見えます。
そこであなたに質問します。

あなたご自身は、1,2,3どこまで受け入れられているのですか?

例えば、1すら受け入れられない人が3について受け入れられないのは当たり前なので、
そうした人が3についての主観的議論しかしないような人であると、
いくら議論を重ねても着地点など見出せるはずがないのです。
言い方を変えると、回答するだけ時間の無駄、不毛でしかないのですよ。





それとは別に

> 全員が守るべき命令としている事が問題だ、という(神権統治への)批判は、

自分の発言ですが、神権統治の是非を検討するまでもない事に気づいてしまったのでこちらに投稿。
過去にも散々言われているように、現在エホバの証人の組織に所属している人は、
エホバの証人が輸血拒否を信条としている事を知りながら、これに加入しています。
というか、あまりにも有名な話なので、
エホバの証人でない人ですら輸血拒否については知らない事の方が稀なんです。

・いい教えだと思うんですけどね~、輸血拒否を除いては
・輸血拒否が無かったら喜んでエホバの証人になるんですけどね~

エホバの証人やってれば、こうした意見なんてそれこそ数多く耳にする機会があります。
研究生を10年やってます、なんて人の多くが特に、このパターンに当てはまります。
では、エホバの証人の場合、輸血拒否をするかどうかを
自己決定する権利自体が制限されているのでしょうか?違うんですよ、
受け入れられない人は自己決定権を行使して最初から加入なんてしていないんです。
だからこの点に関してまで「自己決定」うんぬんで論じようとする事自体が
ナンセンスである、と結論せざるを得ませんね、論点が170°ほどずれていると感じます。

#70 2014年07月27日 22:38:28

seiei00r
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

「そもそも、キリストが現世に生きていたとして、輸血を推奨するとお思いですか?
どんな病もたちどころに癒し、死者でさえ蘇らせる事ができるほどの力をお持ちであったというのに。」

上記の記述は、信者A自身が書き込んだものだ。わずか10日前に。
信者Aに関しては、123とか書く前に、まず、自分の発言に責任をもてよ。

信者Aの(「どんな病もたちどころに癒し、死者でさえ蘇らせる事ができるほどの力をお持ちであ」る)イエス・キリストが、
「赤血球の輸血は推奨できないが、血液分画製剤の輸血なら推奨できる」と、ほんとうに言うと思っているのか?

いい加減、自分の額の聖句箱をでかくすることは止めたらどうだ。

いったい、肘の何ミリ上まで洗えば、「食事の前には手を洗いなさい」と言った神のご意志に沿っていて、それ以下なら永遠の滅びに至るんだ。
答えてみろよ。

#71 2014年07月27日 23:32:05

seiei00r
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

使徒15章には、こう書かれている。
「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。」

まず、
「神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。」という部分にも注目したいが、それはとりあえず置いておく。

問題は、「偶像に供えて汚れた物」に関してだ。
パウロは、偶像に備えられたものを食べても(それ自体は)罪を犯したことにならないと書いている。
罪になるとしたら、それによって信仰の弱い人間を信仰から外れさせてしまったときだと。

では、なぜ、「血」に関しては、血液分画製剤のような細かいところまで議論しなくてはならないのか。
血液分画製剤のような細かい規則を守ることは、神への信仰を守ることを意味しない。
(この点に関しては、前の書き込みに書いた)
それは単に、ものみの塔聖書冊子協会への忠誠を証しているにすぎないのである。

だが、このことは議論の蒸し返しに過ぎないだろう。
ただ、ここで言えることは、輸血の問題を考えるときには、使徒15章の「避けるように」という、言葉の問題だけでは解決しないということだ。

当然ながら、創世記やレビ記の記述を考慮しなければ、真実の答えはでない。

一つ思うことがある。
人間は、「肉を血のままで食べてはいけない」と神に言われた。
では、「肉を血のままで食べている」のは誰か?

それは、野獣だ。
ライオンがシマウマを食べる映像を、多くの人が見たことがあるだろう。
肉食の動物たちは、肉を血のままで食べている。

言いたいことが、わかるだろうか?
輸血をしながら懸命に救命が行なわれている手術現場を想像して欲しい。
それは、野獣が肉を食らう光景に似ているだろうか?
あるいは、赤血球を輸血する現場は野獣のそれに似ていても、ヘモグロビンを輸血する現場は似て非なるものだろうか?

……

どこの病院に行けば「絶対的輸血」を認め、自らの信仰を貫けるか、それさえ知らない人間が輸血拒否を唱える。

さて、無輸血手術には、健康保険がきかない。
(健康保険適用と自由診療の)混合診療を限定的にしか認めない日本の医療界にあって、無輸血手術を選択することは、(ほとんどの場合)すべての医療費を自分で支払うことを意味する。
その金を、あなたはもっているのか? ないとしたら、その金はどこからでるのか?
そもそも、無輸血手術を選択することは、(健康保険のきかない)自由診療を選択することだとわかっているのか。
実際に、救急で病院に運ばれて無輸血手術を選択したエホバの証人が、1週間にわたり集中治療室で施術を受けながら、その高額な医療費を支払えないと言ったという事例だってあるのだ。

輸血拒否を実践しているとは、いったい何を実践しているのだろう?

輸血拒否とは、それほど厳密な決まりではないと言ったエホバの証人もいた。
では、なぜ、そんなことで人間は死んでいくのか。

輸血拒否を声高に唱える人間は、まったくのところ無責任な態度を取り続け、恥を知ることがない。

#72 2014年07月28日 17:52:59

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

seiei00rさんへ

うん、今回のはまともな主張ですね。あなたの反対理由も義憤だと感じました。

#47のように
> 「通りすがりのエホバの証人A」のような、偽善を偽善とも感じない馬鹿なエホバの証人がいることによって、自分が「エホバの証人の反対者」と呼ばれることが恥ずかしくて仕方がない。

みたいに強烈な批判の言葉で始まる投稿は、最初から目を通してすらいないのですよ。
(今回は比較的柔らかく、短文でもあったので目を通してみました)
だからskさんには無反応、だってその主張を理解どころか
読んですらいないのだから反応の返しようが無い。
そこで改めて#47を読み返してみました。#47の大ちゃん事件の部分については、
カレブさんへの指摘と重なる部分があるので、詳しくはそちらを見てください。
他は…もう回答の必要なさそうですね…


> さて、無輸血手術には、健康保険がきかない。

ふむ、これは初耳です。しかし思い悩んだところで仕方がないのです(マタイ 6:25-34)。
そうした事実があれば、その結果についても受け入れましょう。
大多数のエホバの証人もそう結論するのではないかと思います。
そもそも輸血に関する意思決定とは金銭面の問題とは無関係なのですから。
というか、医療の発達によってそうした選択肢が増えてしまった結果、
医療費が高くなるのであれば、どちらが主でどちらが従なのかは明白なはずなのです。





論点はあらかた明確になってきたと思うので、
あとはこれだけ主張してしばらく黙ります(質問があれば回答はしますが)。

カレブさんへ

「輸血拒否 – 医師たちの声」の記事ですが、

> ・医師たちが血液を使うため裁判所命令を取りつける場合憤慨すべきではありません

> ・患者の治療をまったく行なわないことにした場合でも憤慨すべきではありません

前者は医療ネグレトの例だと思うので一時保留して、後者については事実無根ですね。
むしろ証人側としては、その病院で無輸血が無理なのであれば他へ行きたい。
つまり、転院する自由まで奪わないで下さい、と考えているはずです。
受け入れ拒否については病院側の姿勢を尊重しているはずで、
そこで初めて医療機関連絡委員の出動(転院先の確保)となるわけです。
最高裁まで争われた裁判をリンク付きで解説しましたが、
判決文には含まれていない事実が1つあります。
患者が後から輸血の事実を知ったとありますが、実はこれ、内部リークによるもの
らしいんですよ(伝聞です、活字として確認したわけではありません)。
つまり、病院側としては最後まで輸血の事実を隠し通してしまえ、と思っていたところ、
内部からの密告があり、輸血の事実が判明してしまった、というのが真相のようです。
それを最高裁まで引っ張ろうとする病院側の姿勢とは…(各自判断されるとよいかと)。

エホバの証人の起こす訴訟というのは、
尊重されて然るべき当然の権利を守るための闘いなんだと思います。
というのも、大きな裁判については、いつ、どのタイミングで裁判を起こすかを、
基本的には協会(アメリカ本部)が主導している、と考えるべき証拠も、
出版物の中から見出す事ができるからです(剣道実技拒否がその1例です)。
その問題を放置してしまうと、「こうした事例があったから~」との理由で、
まだ被害に遭っていない他の信者までもが権利侵害の危険に晒されるから
というのが最大の理由なのでしょう。少なくとも憤慨が理由というのはありえません。

受け入れ拒否を理由とした裁判というのは、世界中探しても1つも無いと思います。
つまり、もしこうした問題が発生するのであれば、
むしろ医療機関側の姿勢にこそ問題があった可能性を追求すべきように思います。

このHPや掲示板では無いかもしれませんが、調べているうちに、どこかの書き込みで、
連絡委員に病院を紹介してもらおうとしたら、まず自分で探すように言われた、
というのを見たんですが、その意味するところは、その病気それ自体は、
相対的無輸血の方針を打ち出している病院であっても無輸血での対応が可能かもしれず、
そんな症例にまで協力医師に連絡を取って、必要以上に煩わせるわけにはいかない、
という事なんでしょう。つまり、そうした不満が生じたのであれば、
そこまで頭が回らずに連絡委員に不満を抱いた人と、
きちんと説明しなかった連絡委員の双方に落ち度があったと言えるかもしれません。

と、ここまでが前置きで、先ほど保留した対象が子供の場合ですが、
ここで初めて、海の遭難に関する私の話が関係してくるわけです。
子供に強制的に輸血を施したとしましょう。医師の良心は傷まなかったのでしょうか?と。
そんな卑劣な手段を用いてまで輸血を強行しようとするのであれば、
子供を愛する親であれば、取り乱すのはむしろ当然なのではありませんか?という事です。
もちろん、医師の側にも主張はあるでしょう。
自分の見立てでは、無輸血で手術したら死んでしまう可能性が高いのだ、と。
しかし、死亡確率が低い場合であってもパターナリズム化した対応で問題ないのであろうか、
など、そのように様々な角度から検証すると、この問題が非常に複雑でセンシティブであり、
誰もが納得できるような回答を示すのが困難な問題である事を理解する事ができるのです。


最近増えてきた、「本人の意思なんだから尊重してやればいいではないか」とする意見。
医師の立場からすると、第三者の無責任な発言にしか思えないでしょう。
しかし、そうした主張をする側からすれば、自分たちは寛容、
たいした根拠もなく声高に反対するのは不寛容と映っているんだと思います。
ましてや医療関係者ですらない人が反対する事については唖然としているのではないかと…

そのようなわけで、輸血問題についてアプローチするなら、
論点は子供の輸血に焦点を向けた方がいいんじゃないかと思いました。
ただし、ここで1つの注意があります。大ちゃん事件に関しては、

> この事件をこれ以上取り上げるなということである。大ちゃんのご両親のためにも、
> そして聖マリアンナ医科大の医師たちのためにも、である。そっとしておこう。
http://2nd.geocities.jp/new_koujima/keiken/

と言う人がいる事をも考慮してあげてください。
それでも取り上げる必要がどうしてもあるんだ、というのであれば、
そこで示されているように、

・「輸血しても助からなかった」

・運び込まれた段階で整形外科医は即”無輸血手術”に踏み切るべきではなかったか
とする医師の主張

こうした点についても取り上げないのであれば、フェアではないと感じます。



あと、「輸血拒否 – 変わることはあり得るか?」の記事からすれば、

> 何かがおかしいと直感的に感じたものの、その疑念を振り払ってある事柄を信じたことはありますか?

輸血について言うならば、それは全ての人、つまりエホバの証人でさえ直感的には感じるんです。
しかし、事実を調べもせずに直感のみに頼って結論するのは「偏見」なのであって、
重要なのはむしろ事実関係をよく調べる事のはずです。
しかしカレブさんご自身は直感を優先させるべきとのお考えのようで、
その後の自説を展開してしまっています。
この、調べる事よりも直感を優先させよという大前提そのものがおかしいのです。
だからこそ証明のない結論へと至っているにもかかわらず、
その点にすら気づけていないのだと思います。

クライアントを勝たせる事だけが目的の弁護士であれば、それでも問題ないのでしょう。
もし、本人の反省を理由に刑の軽減だけを主張する弁護士であるならば、
それはまともに映る…というか気の毒にすら映ります。
しかし、明らかな違法行為についてまでも「これは犯罪ではない」と争う姿は
「よくこんな犯罪者を変な主張で擁護できるな~」
とその弁護士の良識をすら第三者が疑うのは言うまでもありません。

私が提示したこれらの情報からなにかしら汲み取り、
記事がより良い方向へと修正されて行くことを期待しています。

#73 2014年07月28日 18:06:25

通りすがりの信者A
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

フレームページを示してしまった…具体的なページはこちらになります
http://2nd.geocities.jp/new_koujima/kei … est16.html

#74 2014年07月28日 20:33:44

もんもん
メンバー

Re: 輸血拒否に関する議論

こんばんは、通りすがりの信者Aさん。通りすがりの信者Aさんは、輸血拒否の方針や裁判についてなど、非常にお詳しいようですが、どのような立場の方なのですか。

>判決文には含まれていない事実が1つあります。
>患者が後から輸血の事実を知ったとありますが、実はこれ、内部リークによるもの
>らしいんですよ

どうして、こんな内容を知っておられますか。この事件についての、何らかの関係者なのですか。

オフライン

#75 2014年07月28日 22:52:01

隠れんぼ
ゲストユーザー

Re: 輸血拒否に関する議論

輸血に対しての議論ですが色々とすれ違っていますね。

「通りすがりの信者A」さんの意見はいわゆる「通りすがりの信者A」さん自信が
なぜ輸血拒否を行うのかという個人の聖書に対する見解ですので
その信仰の礎となっている「ものみの塔」の「聖書」見解について聞いても
意見が返ってこないのは仕方ないと思われます。
※本当に信者であれば 「ものみの塔」の見解=「聖書」の内容 と信じておられるでしょうから
「ものみの塔」に対する批判は出来ないと思いますので。
「ものみの塔」の見解≠「聖書」の内容とは考えられないと思われます。

「通りすがりの信者A」さんの見解=「聖書(とは言っても所謂新世界訳聖書ですが)」の内容=「ものみの塔」の見解
となっていることがちょっと混乱してしまいます。
「通りすがりの(たぶん)信者A」さんの見解、「聖書」の内容、「ものみの塔」の見解はそれぞれ独立していますので
そこの部分を分けて考えないとちょっと危ないかなと。

まぁ各会衆によくおられるような、ちょっと古いタイプの一般(※羊の群れレベル)の兄弟姉妹の意見も
輸血の教理に関しては「通りすがりの信者A」さんの内容と殆ど同じになるとは思いますが。
※ここに書き込むのは元より、ものみの塔の文書以外からの引用や、
「ものみの塔」からの指示とは少し違った思惑があるなどの点で
各会衆における真の特権者(長老)レベルの人は無理だと思いますので;

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