ログインしていません。

#201 2019年12月11日 10:28:11

仰天
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

てつてつ さんの発言:

仰天さん 書き込みありがとうございます リンク先みますと

>「代々の聖人ことごとく日蓮なり」(御本尊七箇相承)とあるから、代々の法主を大聖人と仰がなければならない。...


というのは学会が以前にいったことで


...それと学会が論難する「法主即大聖人」や「法主本仏」などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません。

と書いてありますが シュウイチさんの主張とどちらが正しいのでしょうか?


あと身内の出している本にそう書いてあるから正しいというのは根拠が弱すぎると思います シュウイチさんもエホバの証人の信者の方が自分たちの出している本に自分たちの統治体が正統な支配権があるなんて書いてあっても信じないのと同じだと思います 相手を納得させるつもりならそれ以上の根拠が必要だと思います


シュウイチという人物自体が自己の信じる教義を完全に理解しておらず、適当な日蓮正宗を信じる根拠(と思える)を正当な根拠と思い込んでいるのは明白です。


どちらの主張が正しいかは定かでないにしても(法主によって、ものみの塔協会のような教義の移り変わりが多少ある可能性もあり)


エホバの証人のように、自分たちの信じる聖典や出版物に偽預言者は滅びると書いてあるのと同じような事です。


法主を日蓮と見るような事は、あなたたちの上の者も否定してますよと。


まず、シュウイチという人物が都合の悪い死後硬直やお肉牙の話題から逃げ続けて醜態を晒しているのですからインチキだと言われても仕方ないでしょう。


てつてつさんの問いには答えるようですから、てつてつさんが死後硬直とお肉牙の話題を出して聞いてみて下さい。



順番に答えると言いながら都合の悪い点はスルーしている様は無様であり、てつてつさんとやりとりしていますから黙っていて下さいと話題を逸らして誤魔化し続けている日蓮信者は見苦しいだけではなく真の宗教だと主張する者としては、



あってはならない対応だと思います。

#202 2019年12月11日 11:05:11

さやか666
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

仰天さん、あれから教文館で誰かとお会いされましたか?

#203 2019年12月11日 11:10:14

ジョエル
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

「万事が益となるように共に働く」


これは私たちがすべてのものを身体的に支配して、所有したり使用したりすることではない。なぜなら、私たちは身体的には死ななければならず、だれひとりとして死を免れることはできないからである。・・ここで言っているのは、身体的な圧迫の中にあっても支配している霊的な支配のことである。すなわち、魂に従えば私はすべてのことにおいて自らを良くすることができるのであるから、死や苦難ですらも私に仕えて、私の救いに役立つほかはないのである。

そこではよいものとか、悪いものとかいうものはなく、私が信仰を持つ限り、すべてのものが私に仕えて私の益となる。しかも私はそれらのものをなにひとつ必要としない。信仰だけで私には十分なのである。見よ、これはなんと高貴なキリスト者の自由であり、力であるだろうか。(マルティン・ルターの注解)


(人間が何がいいとか悪いとか言うだけの)善悪や、生死すら超越して「凡てのこと相働きて益となる」という考えは、仏教で説かれる「縁起」にも通じるものがあると思います。

#204 2019年12月11日 12:00:29

仰天
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

さやかさん、あの日は一応、教文館には30分過ぎてから行ったのですが、行った時間帯は人が少なく、ゆりさんらしき人もいませんでしたのでしばらくいて帰りました。

さやかさんも暇なら来てグラマラスなボディを披露してくれたらよかったのに(^_^)

なんちゃって。

#205 2019年12月11日 12:13:07

うめおばさん
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

ほいさん。人生の一齣に移動しました。気づいてくださるといいのですが…。

#206 2019年12月11日 15:56:30

てつてつ
メンバー

Re: 日蓮正宗について

仰天さん>てつてつさんの問いには答えるようですから、てつてつさんが死後硬直とお肉牙の話題を出して聞いてみて下さい。


自分はシュウイチさんのトピのごく最初にそのような質問をしましたが答える気は無いようです cry
>あとシュウイチさんは さやかさんはシャレでお肉の質問していますが 一応教団としてそのような教えがあるのなら無視するのではなく何らかの答えまたは説明をした方が良いと思います 自分にはわからないとか 都市伝説です とか真実ですとか等

オフライン

#207 2019年12月11日 18:50:47

シュウイチ
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

この書き込みは#105への書き込みです。

てつてつ さんの発言:

てつてつ さんの発言:
御本尊の功徳についても、法主の允可や開眼とは一切関係ない。
御書に「信心の厚薄によるべきなり」(日女御前御返事)、法華経にも「以信得入」(書嶬品)とあるように、御本尊の功徳はその人の信心によって決まり、信力・行力に応じて、仏力・法力が顕れるのである。草創期以来、多くの学会員が御本尊の功徳を受けてきたのも、その人たちが広宣流布のために懸命に信心に励んできたからである。逆に、御本尊を受けても、真剣に信心しなければ、功徳がないのは、いうまでもない 31ページあたり

上記ですが、日蓮大聖人様は以下のように、開眼、が必要であることを御書きになられております。

木絵二像開眼之事
「法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し」

日蓮大聖人様の御金言すら無視するのですね。



上記の 木絵二像開眼之事についてですが


日蓮正宗の神話  275ページあたり を見ますと

結局、大石寺宗門における「木絵二像の開眼」とは曼茶羅本尊の開眼を指すのではなく、御影、画像、数珠の類の開眼供養を意味するように思われる。

上記の件、「思われる。」と断定できないのはなぜでしょうか。「曼茶羅本尊の開眼を指す」意味があるからではないでしょうか。


てつてつ さんの発言:

宗門における開眼供養の化儀の原則について、(表②)に整理しておいたので参考とされたい。
そもそも開眼供養とは、仏・菩薩像などの「眼を開く」儀式を言い、一般には「魂を入れる」という意味で用いられる。仏・菩薩像を本尊とすることが多い日本仏教では、各宗派が開眼の儀式を設け、とりわけ真言宗の「印・真言」による開眼が日蓮の在世中に盛んだった。日蓮自身は「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」含本尊問答抄』、全集366・定本1575)等と述べ、法華経の力による開眼を強調している。草木である木像・画像の仏界を顕現させるには、国士世間の成仏が説かれた法華経の一念三千による以外にない。日蓮の意はそこにあった。

...と考えると、大石寺門流の人々は、信仰対象とする曼茶羅本尊の文字自体に本仏の魂が本然的に具わっている、と信ずるべきであろう。

上記の件、「...と考えると」の前と後の意味が真逆で文章として成り立ちません。掲示板に書き込むのであれば、せめて意味が通じるようにお願い致します。


てつてつ さんの発言:

そして、そのゆえに宗門では、あくまで曼茶羅本尊によって木像・画像の開眼を行うべきなのである。〃法主の祈念により初めて文字曼茶羅に本仏の魂が宿る〃とする現日蓮正宗の主張は、日蓮の「法華の文字」即「仏の御意」という思想に反している

とありますので シュウイチさんの属する団体では日蓮大聖人のお言葉をそのように解釈しているだけのことかと思います

上記の件、「あくまで曼茶羅本尊によって木像・画像の開眼を行うべきなのである。」とありますが、「曼茶羅本尊」の御前で行われております。何も知らずに勝手な思い込みで書かれた記事のように思えます。

#208 2019年12月11日 19:10:21

さやか666
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

多弁になればなるほど

特定の話題だけ避けてるのがバレバレです

お部屋の排泄物そのままで必死にクリスマスのデコレーションするのと一緒です

#209 2019年12月11日 19:35:01

さやか666
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

お肉とかホメオパシーについて語るのが無理なら


ダイバダッタのお話でもどうぞ

https://www.buddhanoki.com/deshi13/

#210 2019年12月11日 20:04:59

シュウイチ
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

この書き込みは#110への書き込みです。

てつてつ さんの発言:

これはシュウイチさんの立てたトピの♯81についてです

シュウイチさん>ですが、「総別の二義」をご存じでしょうか。
「日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん」(御書 P.1039)
と、付属には「総別の二義」があり、正しく理解しなければ(仏教の目的である)成仏はできない」と御指南されております。

上記を踏まえますと『生死一大事血脈抄』の上記の部分や「総じて日蓮が弟子檀那等自じ他た彼ひ此しの心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり」(御書 P.514)は「総じて」の意味であり、日蓮大聖人様の仏法を信じる全ての人に対してのものであります。
しかし、『一期弘法抄』では、「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。(乃至)血脈の次第 日蓮日興」(御書 P.1675)と「別して」日興上人御一人だけに対してです


つまりシュウイチさんの意見では二箇相承(にかそうじょう)があるから日蓮正宗 大石寺を興した日興だけが日蓮からの正統な跡継ぎだよとのことですが

ウキを見ますと
二箇相承(にかそうじょう)とは、1282年(弘安5年)、日蓮が、弟子の日興に宛てたとされる二通の書。二通をまとめて二箇相承といい、もともとは重須本門寺(北山本門寺)に伝えられたものであるが現在は日蓮の真筆は共に無く、写本のみが京要法寺、富士大石寺、西山本門寺等に伝えられている。またさまざまな異本が存在する。

というわけで 最初の1通がシュウイチさんのいう「 一期弘法抄」と呼ばれる手紙で日興に跡目をゆずるみたいなことがかかれているわけですね しかし

身延相承は日付が9月13日になっているが、

上記の件、何に「9月13日」と記載されているのでしょうか。


てつてつ さんの発言:

元祖化導記には9月8日に身延沢を出発したとあり13日にはすでに身延山に日蓮は居ないことになる。この日付のずれから二箇相承は偽書であるとの指摘がされている。

などの偽書説もあり

上記の件、身延とは別の場所で御書きになられて、何が問題なのでしょうか。13日に身延で儀式をしたはずだと勝手に思い込んでおられるのでしょうか。


てつてつ さんの発言:

また ただ日興のみ一人が相承したという日興門流の主張は、他の日蓮各派は認めていない。


ともありますので真偽はわからないみたいで 日蓮正宗内でのみ通用する論議のようです というわけでまたまた一子相伝が怪しくなってきました cry

上記の件、日蓮正宗の主張を調べずに書籍を鵜呑みにされておられるとお見受け致します。日蓮正宗の主張もお調べになられてはどうでしょうか。


てつてつ さんの発言:

関連サイト1

追伸 先のウキの中には

1489年(延徳元年)、日教は「六人立義破立抄私記」を著し、その中に二箇相承を引用している。

とありますが 多分これがブルーギル日教の教えかと思います cry

日蓮正宗の神話 60ページあたり

日教は、...『六人立義破立抄私記」(富要4144)では二箇相承の全文を引用・紹介し、「加様なる御禅り余所に有らぱ詮無き事也、然るに余所にはなき也」(富要4144)等と記しながら、日興が日蓮の正嫡たるゆえんを二箇相承の存在に求めている。


...したがって、日蓮から日興への二箇相承を大々的に取り上げ、その全文を引用しながら権威づけた文献は、大石寺門流では長享二(一四八八)年の左京日教『類聚翰集私』(富要21314)をもって噴矢とする。二箇相承の権威を前面に立てて日興正嫡を主張する動きは、日教が帰伏する前の石門流にはなかった

上記の主張は、「権威づけた文献は、大石寺門流では長享二(一四八八)年の左京日教『類聚翰集私』(富要21314)をもって噴矢とする。」との文献の話であり、日蓮大聖人から日興上人への御一人への相伝を否定しているわけではありません。

そして「全文を引用」されたとおり、最初から日興上人に相伝されております。ですから「権威づけ」など必要なく最初から権威のようなものは備わっております。

#211 2019年12月11日 21:34:19

仰天
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

日蓮はパーソナリティ障害



日蓮の間違い
https://blog.goo.ne.jp/nanshiko1116/e/6 … 84df5275f9

#212 2019年12月12日 07:12:40

仰天
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

エバの創造については、アダムと同じ年に創造されたと
ものみの塔1968年8月15日号で断言してます。

紀元前4026年だと。


「伴侶の必要を感じたのは、アダムの創造後、まもなくのことでした。
またふえて地をみたすことが人間に対するエホバのお目的であった以上、アダムにつづいて二、三週間あるいは二、三か月後にエバが創造されたと考えることは理にかなっています。」

#213 2019年12月12日 07:37:18

てつてつ
メンバー

Re: 日蓮正宗について

100分で名著大乗仏教 99ページあたり

『法華経』には「一仏乗」と並んで、もう一つ重要なキーワードが示されています。それが、後半の「如来寿量品」にある「久遠実成」と呼ばれる教えです。久遠遠実成とは、一言で言うと「お釈迦様は永遠の過去から悟りを開いたブッダとして存在していてじつは死んではおらず、私たちのまわりに常に存在している」という考え方のことをさします

じつは『法華経』の前半部分では、お釈迦様は亡くなられたことになっています。「お釈迦様はすでにこの世にはいないけれど、『法華経』がお釈迦様に代わって、あなた方の菩薩としての存在を保証してくれているので安心してください」という話が前半に書かれていますから、『法華経」ではもともと、お釈迦様は死んだと考えていたことがわかります
ところが後半になると、「ブッダ(釈迦)は悟ってからも無限の寿命を持ち、入滅する(死ぬ)ことなく教えを説く。ブッダとは時空を超えた永遠の存在であり、どんな場所、いつの時代でも人々の前に現れてみんなを救うことができるのだ」という話がお釈迦様自身の口から語られているのです

その理由をお釈迦様はこう述べています。「私がこの世に現れて悟りを開く姿をみんなに見せたのは、具体的な救いの方法を示すためであり、わざわざ死んだふりをしたのは、私がいつもそばにいるとわかると人々は安心してしまい、修行を怠ってしまうと考えたからだ」と。これも『般若経』の教えを超えたいという後世の人の思いがあって、書き加えられたものでしょうすでにお話ししたように『法華経』では、「お釈迦様が亡くなったあとは、お経がブッダの代わりをしてくれる」と考えていたのですが、そのままでは『般若経』の教え、つまり経典=ブッダの本体であるという考えと同じになってしまうので超えることができない。それで「久遠実成」という考え方を新たに持ってきたわけです。ブッダが死んではおらず、常にこの世界にいると仮定すれば、私たちはいつでもブッダを供養することが可能となります。大乗仏教では「ブッダを崇めることこそが最高の善行である」ととらえたので、ブッダにいつでも会えるとなると、格段にブッダになるまでのスピードが速まります。先ほど「自動車にたとえると、『法華経』も『般若経』も同型のエンジンを積んでいる」というお話が出ましたが、「久遠実成」という考えを作り出したことにより、『法華経』のエンジンにはターボチャージャーが搭載されることになったと考えてみればよいのではないでしょうか。

編集者 てつてつ (2019年12月12日 08:26:13)

オフライン

#214 2019年12月12日 07:38:35

てつてつ
メンバー

Re: 日蓮正宗について

100分で名著大乗仏教 101ページあたり

大乗経典は「加上」して作られていった

青年 よりスピーディーに悟りを開ける方向へとお経が進化していったのは悪い話ではないと思いますが、『法華経』は『般若経』を超えようとするあまり、お釈迦様のオリジナルの教えとは、ずいぶんかけ離れた方向に向かっていったように感じられますね。

講師 そうですね。初転法輪を書き換えて、さらにお釈迦様を久遠の存在に仕立て上げてしまった時点で、オリジナルの教えとはまるで違ったものになってしまっています。しかし、新しく作られたお経ほどオリジナルから遠ざかっていくのは、ある種の宿命と言えるでしょう
富永仲基という江戸時代の学者が、こうしたお経の成り立ちに注目して「加上の説」というものをとなえています。「すべての思想や宗教は前にあったものを超えようとして、それに上乗せしながら作られていった」と考えるのが、富永の加上の説です。この論理を使って彼は「大乗非仏説論」(大乗仏教はお釈迦様が自ら説いたものではなく後世の産物であるという説)を展開したため、日本の仏教界ではあまり支持されていませんが、すべてのことを合理的に考えたという点においては、もっと評価されてしかるべき人物だと私は思っています。

富永は、仏教経典を研究する際にも、誰かが意図を持って書いたものをその意図にあやつられながら読むのではなく、「真実は歴史の裏に隠れている」と考えて冷静な目で膨大なお経を読んでいきました。そしてその果てに行き着いたのが「加上の説」だったのです。
こうした姿勢はあらゆる研究の基本ともなるはずです。たとえば今回の『法華経』の場合、全体を漠然と読んでいても、あまりに様々な人の意図がそこに加えられているため、教えの本質は見えてきません。歴史的にどこが最初に書かれたのかにまずは注目し、それがなぜ書かれたのかを歴史を遡って考えていく。そうしたプロセスを踏んでこそ、今まで見えなかったものがはっきりと見えてくると私は思います。


というわけで自分は富永の加上の説というのはなんだか聖書の高等批評みたいですけどまじめに推理していると思います

この話とは関係ありませんが4福音書のヨハネが一番後にかかれたそうですが(ヨハネ 1:1) …初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった…
このイエスは神であったというのも上記と同じ理論で後代にできあがった考えじゃないかなと思います 聖書を全部まとめてひとつの本と考えていると絶対にわからないことだと思います

編集者 てつてつ (2019年12月12日 11:00:34)

オフライン

#215 2019年12月12日 08:22:39

てつてつ
メンバー

Re: 日蓮正宗について

104ページあたり

青年 それが正しい研究のスタンスだというのは理解できますが、そうやって突き詰めていくと、やはり最終的には「釈迦の仏教」だけが真実で、『般若経』も『法華経』も偽物ということになってしまいませんか?

講師 この講義の最初に申し上げたことの繰り返しになりますが、私はどの経典が正しくて、どれが正しくないという議論をするつもりは毛頭ありません。そのお経によって救われる人が一人でもいたなら、それは正しい教えだと言えます。特に『法華経』は「常不軽菩薩」の話にもあるように、「誰からも認めてもらえない、苦労しても報われない姿こそが菩薩の正しい姿である」ととらえたため、本当に辛い状況にある人にとっては大きな心の支えとなるはずです。また、「南無妙法蓮華経という題目をとなえさえすればすべてがうまくいく」という教えも、病気や貧困に苦しんでいる人にとっては、明日を生きる希望につながっていきます「法華経』は社会を変える力があると信じられたからこそ、多くの人に支持されたのでしょう。冷静な目で見ると、『法華経』はもはや「ブッダ信仰」ではなく、お経そのものを信じる「法華経信仰」に変容してしまっていますが、本来のお釈迦様の教えから離れていったことで、逆に今まで救うことができなかった人を救えるようになったと考えるならば、それは一方ではプラスの進化ととらえることもできます。
それを無理に「釈迦の仏教」に結合しようとすると、いろいろな理屈を使って強弁せざるを得なくなり、かえってお経の価値を損なうことにもなるのです。


というわけで自分も色々な宗教の教えによって自分の心の平安を得ることができているというのならそのこと自体を否定するつもりは全くありません「フラシーボ効果だとは思いますが」

>それを無理に「釈迦の仏教」に結合しようとすると、いろいろな理屈を使って強弁せざるを得なくなり、かえってお経の価値を損なうことにもなるのです。

シュウイチさんも自分は日蓮正宗の教えによって心の平安を得ることができ救われましたと自分で言っている分には多分みなさんもそうですかそれは良かったですね となると思うのですが 日蓮正宗の教えは絶対に正しくそれを認めないお前らは堕地獄だと強弁するとこの掲示板見ている大勢の人からああ日蓮正宗の教えを受けている人はこんな風になるんだ気をつけなきゃと自分の宗派もまた法華経の価値も損なう結果になっていると思います cry

編集者 てつてつ (2019年12月12日 08:39:59)

オフライン

#216 2019年12月12日 10:29:01

仰天
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

もちろん、イエスを神格化していったという考えもあるわけで、てつてつさんの考えを変えるつもりもないわけですが、成立年代の早いパウロ書簡において既に復活や他の奇跡が記されています。


1世紀のクリスチャンもそうですが、パウロも恵まれた環境を捨ててなぜ自己の不利になる道を歩んだのかという説明が必要になるでしょう。


最古の福音書であるマルコにおいても、イエスは贖いとなるために来たと述べています。


全人類を贖う救い主、数々の奇跡、復活。

それができる方というのは神だと私は思うのですがてつてつさんはどのように説明するわけですか?


以前からそれらの点について述べてきましたが否定派の方の具体的な説明はなかったと思いますので、そちらもループしてる感じですけど。

度々話題にされる福音書記者問題についてはこのような見方もあります。

13. 福音記者とはどのような人物だったか - オプス・デイ
https://opusdei.org/ja-jp/article/13-fu … datsutaka/

#217 2019年12月12日 11:42:03

てつてつ
メンバー

Re: 日蓮正宗について

仰天さん 書き込みありがとうございます この件に関してはかなり広範に調べないとわからないと思います「または永遠にわからないことかも」ので ちょっと当分または永遠にお返事できないかもしれません cry  とりあえず仰天さんの書き込みは読ませていただきましたという書き込みです

編集者 てつてつ (2019年12月12日 12:34:28)

オフライン

#218 2019年12月12日 17:23:29

仰天
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

てつてつさん分かりました。


分からない部分があるから「信じる」人もいれば信じられない人もいるわけですから分からない分野というものもあると思います。


ところで、以前のてつてつさんとのやり取りでは、ノアの洪水の明白な証拠がないから洪水に言及しているイエス様は信じられないという事でした。


それに対して私は、カトリックやリベラルなプロテスタントでは、旧約のある部分は古代の人々の世界観で書かれており、創世記の物語は教訓を与えるための神話、洪水によって神が悪を裁かれたというのは広く知られた物語だった。


故に、イエス様もご自分が再び来られる時にはそのノアの日のようだと言われたのだと話しました。


てつてつさんは、イエス様は「むかしむかし、ある所に」とは言われず実際に起きた事実としてノアの洪水に言及していますから科学的にはノアの洪水は否定されているので信用できないという反応でした。

ですが、このような見方もあります。


イエスは独り子の神、神の子であられましたが地上に降りて人間として身体を持たれました。


神であり人だったわけです。


神なら何でも知っているはずだと考えるかもしれないですが、イエス様は人間として育ちましたから神としての能力、あるいは理解の点で制限があり当時の人間としての理解で語られたとも考えられます。


例えば、モーセ五書は全ての部分をモーセが書いたのではないという見解があります。


ですが当時のユダヤ人の理解ではモーセ五書は当然モーセによると信じられていましたからイエス様も「モーセはこのように述べて」というように実際モーセが書いたと言及しているとも考えられます。

もちろん、福音書記者問題と同じく、実際に記したのは他の文字を書ける人物、マルコによる福音書ならマルコ教団の信徒がマルコからの伝承に基づいて文書としてまとめたという事、

モーセ五書ならモーセからの伝承をまとめたものであって、本人が書いていないからといって決して嘘だという見解にはならないという見方もできます。


ですから、イエス様がノアの洪水の物語に言及しているから信用できないと全ての人がなるわけではないという事です。

(もちろん、本人が書いていないから信用できない、証拠がないので信じられないと考えて信じないという自由もあります。)



『聖書全体は神の霊感を受けたもの』という点についてですが

そう信じた信仰の記録であり、神が操り人形のように導いて一字一句間違いがないよう記させたのではなく、書くように霊によって促したり、書き記すように指示を出されたりしたけれども、全部を手取り足取り導いたわけではないと思います。

逐語霊感説ではないという見解が現代では一部を除いて主流だと思います。


ですので細部に人名の記憶間違いや数字の食い違い等が見られるわけですが、神がおられて愛する御子を遣わされたという点では一致しており、確かだと思うわけです。



また、聖書否定の方によく見られる発言ですが、ダビデをはじめ他の聖書の登場人物が時には堕落したりひどい事をしているのに英雄扱いしているのはおかしいというような話があります。

しかし、聖書はそれらの登場人物が神に忠実に仕えた事だけでなく、犯した罪や悪い手本や失敗まで記しているという事です。

聖書の登場人物が不忠実になり姦淫や偶像崇拝したり殺人を犯したり、死体を切り刻んで送ったりですね。

聖書は悪い手本までありのままに記しているのであって、そのような悪い手本に従うように勧めているわけではないでしょう。

悪行を犯した人物はその結果を刈り取っています。


ですから、そうした点から皆が皆、聖書はおかしいとかいう結論には当然なりません。

(もちろん、聖書はおかしいと思う考えも自由であり信じない考えも尊重されるべきですが、同じように信じる人々の信仰もある程度尊重されるべきでしょう。)

てつてつさんは自分ではどうしても聖書の物語のある部分が疑わしいなら信じられないという結論になりがちなので誰か聖書擁護のトピックを立てるのも需要があるのではないかという事を書いておられましたが、必要なら他の聖書が好きな人が立てると思います。


私が創造論を皆さんに紹介したのは、あくまでも創世記含む聖書の物語が事実でないとどうしても信じられないという考えをお持ちであるようでしたのでその通りに信じている人々の見解を紹介したわけで、決して進化論を信じるカトリックや聖公会、その他プロテスタントの教会を否定しているわけではありません。


ですが、JWの後遺症からか文字通り信じる福音派の人々をも過度に批判する事は私は疑問に思いますね。(※ 批判してはならないとは言いません。)


文字通り信じる人々も救われると思うからです。

#219 2019年12月12日 18:22:23

シュウイチ
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

この書き込みは#111への書き込みです。

てつてつ さんの発言:

シュウイチさんにお聞きしたいのですが 正宗発行の 創価学会ニセ本尊破折をみますと

134ページ
したがって宗門七百五十年の歴史において、御法主上人以外の僧侶が、たとえ高徳、博学、能筆の方であろうとも、御本尊を書写したということはありません。

とありますが 本当でしょうか? もし本当だとすると創価学会がまだ一緒だったころ1000万人くらいの信者さんがいたようですが それだけの数の本尊を法主一人で書写したのでしょうか? 自分は物理的に不可能だと思うのですが cry

上記の件、てつてつさんは私の問い掛けに答えませぬが、てつてつさんは私に問い掛けるのですね。興味深い行動だと思います。

てつてつさんの書き込みに、御形木御本尊、とありましたが、意味も分からずに書き込みをされていたのでしょうか。その様なことはないと思っております。と、ここまで書けば思い出されたのではないでしょうか。

#220 2019年12月12日 18:41:35

てつてつ
メンバー

Re: 日蓮正宗について

仰天さん書き込みありがとうございます ちょっとこの話題になるとこのトピ シュウイチさんと自分と仰天さんのカオス状態になると思いますが まあ別にかまいませんけど kiss

>最古の福音書であるマルコにおいても、イエスは贖いとなるために来たと述べています。
全人類を贖う救い主、数々の奇跡、復活。
それができる方というのは神だと私は思うのですがてつてつさんはどのように説明するわけですか?


>ですが、このような見方もあります。
イエスは独り子の神、神の子であられましたが地上に降りて人間として身体を持たれました。
神であり人だったわけです。
神なら何でも知っているはずだと考えるかもしれないですが、イエス様は人間として育ちましたから神としての能力、あるいは理解の点で制限があり当時の人間としての理解で語られたとも考えられます。


上記の仰天さんの書き込みちょっと混ざってますけど 自分にとっては同じジャンルの質問かなと感じます

贖いとか 復活 奇跡 イエスは神の子であったが人として地上にこられた...等は自分にとっては残念ながら現時点では実証できることではないと思っているので 信じている方がそう信じるのは自由なのですが自分には真実みたいな小説またはファンタジーの域を超えることはないです アーマンさんの言う福音書は実際に起きた事実ではなく筆者の神学という見方を自分はとっています

>1世紀のクリスチャンもそうですが、パウロも恵まれた環境を捨ててなぜ自己の不利になる道を歩んだのかという説明が必要になるでしょう。

パウロについてのアーマンさんの説明を自分は現在支持しています 仰天さんは嫌いでしょうけど cry

キリスト教成立のなぞを解く 71ページあたり

以上紹介した食い違いは、『使徒言行録』とパウロの書簡を水平的に読むと見つけることができるもののごく一部である。他にも沢山の違いがある。このことから言えるのは、パウロを始めとする初期キリスト教の使徒の布教活動に関する限り、『使徒言行録』の記述は正確ではないということだ。『使徒言行録』が歴史的史料として必ずしも信用できない理由の一つは、パウロについて私たちが「知っている」事実が『使徒言行録』にしか書かれておらず、パウロの書簡では一切触れられていないからである。歴史的な本文批評家は、様々な疑問を呈している。例えば、パウロは本当にタルソス出身なのか(『使徒言行録』二十一章三十九節)、エルサレムの祭司、ガマリエルのもとで学んだのか(『使徒言行録』二十二章三節)、ローマ帝国の市民だったのか(『使徒言行録』二十三章一十七節)、「テント造り」を生業としていたのか(『使徒言行録』十八章三節)、福音を説くために町に入った後に、最初に向かう場所がシナゴーグだったのか(例えば『使徒言行録』十四章一節)、エルサレムで逮捕され、何年も牢獄で過ごしたのか(『使徒言行録』二十一章‐二十八章)、ローマ皇帝に上訴したため、ローマで生涯を閉じたのか(『使徒言行録』二十五章十一節)、ということについて本文批評家は懐疑的である。


>ですが、JWの後遺症からか文字通り信じる福音派の人々をも過度に批判する事は私は疑問に思いますね。

自分は批判しているつもりはなく このような情報もありますよということを書いているだけのつもりで判断は読んでいる各人がされると思います

編集者 てつてつ (2019年12月13日 13:01:56)

オフライン

#221 2019年12月12日 19:02:13

てつてつ
メンバー

Re: 日蓮正宗について

シュウイチさん>てつてつさんの書き込みに、御形木御本尊、とありましたが、意味も分からずに書き込みをされていたのでしょうか。その様なことはないと思っております。と、ここまで書けば思い出されたのではないでしょうか。

ああすみません 以前は御形木御本尊という木型で版画を印刷して本尊にしていたので一枚ずつ手で書くことはないのですね ただそれなら日寛上人様の木型で印刷して作っても効果は同じだと思いますが cry

編集者 てつてつ (2019年12月12日 19:02:41)

オフライン

#222 2019年12月12日 19:10:58

シュウイチ
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

この書き込みは#117への書き込みです。

てつてつ さんの発言:

この書き込みは#13への書き込みです。
てつてつ さんの発言:
日顕以前のころは適当に各末寺で調達して売ってたみたいですね

上記の件、具体的に記載して頂けませんでしょうか。
記載できないのであれば、取り消しして、謝罪をお願い致します。


♯100にも書きこみしましたが それのオマケです

日蓮正宗の落日の真因 30ページあたり

日寛上人の御本尊授与に慌てた宗門
平成五年九月、学会が日寛上人の御本尊の授与を決定すると、日顕が新たに持ち出してきたのはニセ本尊という言い掛かりだった。御本尊が学会で授与されることになると、日顕は信徒脅しの最後の〃切り札″を失うことになる。何が何でも阻止しなければならないと、慌てたのは日顕だった。このため日顕は、〃御本尊は法主の「允可」「開眼」が必要だ、ところが学会の御本尊はそれを受けていない、だからニセ本尊だ″と難癖をつけたのである。しかし、これはまったく根拠のない話で、私の妙光寺時代の体験を語るだけで簡単に破折できる、幼稚なものだった。今日のように、時の挽下の御形木御本尊を下付するようになったのは、日達上人の時代になってからで、昔は、各末寺ごとにその寺に縁のある歴代上人の御形木御本尊を下付していた昭和二十年代、私が在勤していた品川の妙光寺では、初代以来、歴代住職のほとんどが五十五世日布上人の系列だったため、日布上人の御形木御本尊を下付していた。折伏が進み、日布上人の御本尊がなくなると、池袋・法道院で印刷していた日寛上人の御形木御本尊を分けてもらい、下付するようになった。他の末寺も同様で、日顕がいうような〃法主の允可″〃法主の開眼″などまったくなく、法道院から直接御本尊を送ってもらい、それを下付していたのである。

上記ですが、日蓮大聖人様は以下のように、開眼、が必要であることを御書きになられております。

木絵二像開眼之事
「法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し」


てつてつ さんの発言:

日顕の代になって、大石寺内事部に第三課がつくられ、御本尊取り扱いの窓口は法道院からこの第三課になったが、御本尊の印刷・表装は外部の業者が行ない、大石寺に納入されたものをそのまま末寺に送っていたのである。

上記の件、開眼が必要無ければ大石寺に送る必要などないと思います。どうしてわざわざ大石寺に送ったのでしょうか。それは開眼が必要だからだと思います。


てつてつ さんの発言:

もちろん、日顕の開眼などなかった 当然のことながら、御本尊の功徳についても、法主の允可や開眼とは一切関係ない。

上記の文は二つの文が接続されてないでしょうか。一つの文だとしたら意味がわかりません。
「当然のことながら」の前と後を別けて解釈致します。
「開眼などなかった」とは末寺での開眼がなかった、との意味ではないでしょうか。そうであれば、当たり前ですので、その通りです。

「御本尊の功徳についても、法主の允可や開眼とは一切関係ない。」であれば、日蓮正宗の信者が日蓮宗が作った本尊を拝んでも功徳がある、ことになりますが、これでは日蓮正宗の主張とは全く違うことになります。異流儀の主張をされたいのであれば、はいそうですね、と思うだけであります。

「法主の允可や開眼とは一切関係ない」のであれば、総別の二義の別しての意義からの日蓮大聖人の御指南をお書き願います。無いのであれば、無い、旨をお書き願います。

#223 2019年12月12日 19:15:38

ほい
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

仰天さん、お久しぶりです。

聖書に対する見方は、私と仰天さんでは残念ながら相いれないと思いますが、それはそれでいいと考えています。

聖書に信仰を置きたいと願うなら、仰天さんのように解釈することも間違ったことではないでしょうし、私はそれを尊重したいと思います。
ただ、それはあくまでも「仮説」であることを認識したうえでの信仰でないと、自分も他人も害してしまう可能性があるので、そこは気を付けた方がいいと思いますが。

私は福音派を批判したいわけではないのですが、聖書を字義通りに理解しようとすると、どうしても極端に走ってしまうことになると思うんですよね(聖書自体が他の信仰に不寛容なので)。
日蓮正宗のシュウイチさんを見ていても、教理そのものが不寛容だと、相互に尊重しあうということがとても難しくなると思います……。

#224 2019年12月12日 19:43:42

シュウイチ
ゲストユーザー

Re: 日蓮正宗について

この書き込みは#118への書き込みです。

てつてつ さんの発言:

あとちょっと 正宗と学会の本尊の違いをみていたのですが

日蓮正宗の正しい本尊は、「日蓮正宗宗規」第三条に「本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫茶羅を帰命依止の本尊とする」と、明確に定められている「本門戒壇の大御本尊」です。

とかかれていました ネットみるとこれですかね 

写真 

ウキの説明

この説明みますと

日蓮正宗では、本門戒壇の大御本尊は、1279年(弘安2年)10月12日宗祖所顕と伝えられ、宗祖の出世の本懐(ほんがい)宗祖所顕の曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅と位置づけ[3][4]、帰命依止の本尊と定める[5]。熱原の法難を契機として日蓮の命により日法が彫刻したとされる[6][7]。

対して日蓮宗はこの立場を取らず日蓮死後の後世に制作されたとし、論争の種になってきた

とまたまた真偽が定かではないようです cry

あと創価学会が正宗から破門されてから本尊としたのが 栃木県浄圓寺にあった26世日寛上人の書写した本尊「こっちは本物のようです」の写真をとってそれを元に作ったもののようです

あと学会の言い分は当人の信心がより大切なのであって本尊はその助けみたいな感じのようです

それに対して正宗は 正宗の本尊 血脈の正しさ 教えを守ってこそ仏となれるみたいな感じのようです

まあ自分にとっては日蓮の教え自体を信じていませんので別にどちらでもいいですし 多分両方とも印刷されているものですので 効果は同じくゼロだと思いますが 「正宗のは法主様の念「怨念かも」がこもっているらしいですが devil

上記の件、「多分両方とも印刷されているものですので 効果は同じくゼロだと思いますが」であれば、「怨念かも」もこもらないのではないでしょうか。自分に都合が良い様に解釈されておられると思います。


てつてつ さんの発言:

あとこうした一連の資料読んで感じたのは

カトリックとプロテスタントの争いと似ているなーと感じたことです
irisさんゴメンネー cry

カトリックは教皇とその権威を主張し プロテスタントはその制度の腐敗に疑問をいだき聖書と個人の信仰が大切と主張している

正宗は法主とその権威を主張し 学会はその制度の腐敗に疑問をいだき御書「日蓮の本で日蓮関連の宗派にとっては聖書と同じくらい重要」と個人の信仰が大切と主張しているみたいな感じかなと思いました

上記のキリスト教と似ている件で大きく違うと私が思うのは、仏教では唯一人だけに相伝を行いますが、キリスト教では聖書にその旨が直接的に書いてないため、基本的に個人が各々で聖書を解釈する、事だと思います。

#225 2019年12月12日 19:47:34

てつてつ
メンバー

Re: 日蓮正宗について

>上記のキリスト教と似ている件で大きく違うと私が思うのは、仏教では唯一人だけに相伝を行いますが、キリスト教では聖書にその旨が直接的に書いてないため、基本的に個人が各々で聖書を解釈する、事だと思います

おおおーすごいです この段階でまだこんなこといってます    さやかさーんツッコミお願いします シュウイチネオにはてつてつエージェントの必死の攻撃も全くきかないようです cry

編集者 てつてつ (2019年12月12日 21:29:50)

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