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#51 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月16日 22:07:43

Jay

調べる方法はこうした本を読む以外にもあります。

WTの出版物: 一貫性があるかどうか、都合のいい言い回しをしていないかどうかはわかります。言い換えればノーガードで読むのではなく「斜に構えて読む」ということ。こうして読むと途端に変に見えてくることが多々有ります。出版物が見えます

指示と実際の比較: 特に「王国宣教学校」などで長老に与えられる指示や教えがどのように現場に反映されているか。これで建前や保身、プライドや権力等々がどれほど根強いものかがわかります。人間が見えます

指示の出し方:「王国宣教学校」での教え方と内容を振り返るとその背後にある洗脳や誘導の意図が見えてもきます。「学校」のプログラムの構成の仕方を見ると「最初に目立つ一手を打ち、次いで多くの布石を置き誘導し、最後に目的に落とし込む」という構図が見えてきます。こうした「学校」は新しい教義を伝える場ではありません。あくまで長老の手綱を締めWTが長老と会衆をコントロールしやすくするための手段です。組織が見えます

こうした方法によって出版物・長老・組織のシステムでの「生み出している実」に目を向けることができます。それで変だと感じた理由を確認し「やはり変だ」になれば十分です。うまく言えませんが・・・研究生からバプテスマに移行する時期(あくまで例えばですが)「年代計算」に感銘を受けてJWになろうと思ったわけではないのであれば「では何がそうさせたのか?」をもう一度振り返りそこに戻り、その分岐スイッチを切り替え直す、と言えばいいのでしょうか・・・・分かりません。私の場合は当時のJWが「平和という実」を実際に生み出している人たちに見えていたのです。ですので実際にはそのような実は生み出してはいない、ことの確認作業が自分にとっての「調べる」なのだと思います。

そうは言ってもインターネットを使うこともありましたので、そこで見ることができた情報のソースが「良心の危機」であれば結果としてはそうした本を見ているのと同じですね。でも「本に書かれていたから・・」という風にはしたくないです。たとえ他者から見ると稚拙な理由であってたとしても「自分が感じた・思った」ことを大事にしていきたいです。

家内に対する言葉は「逆証言」ではありません。もちろんこういう事実がある、というようなことは伝えてはいますがそれで相手を変えれるとは思っていません。終始言っていることは「オープンマインドな姿勢で調べ直して欲しい」という一点です。

#52 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月16日 10:55:25

Jay

カウンセラーとの最初に話をした時「これから始まるのは所謂JAZZでいうImprovisation Sessionです。」との説明を受けました。これは面白いと感じました。どこまで心からの言葉でImprovise出来るか楽しみです。2回目のセッションで既に単なる説明を求められるのではなく、心の底から何かを引っ張り上げなければ答えられないような質問をされたり&したり・・・2 Way Improvisationになっています。

「アイデンティティ・クライシス」は2回目のセッションの前の晩に自分で見つけたワードでした。自分の状態の一面を表していると感じたので翌日カウンセラーにこのワードを伝えたところ。「今日まさにそれを伝えようと昨日の晩考えていたのでびっくり・・・」と言われました。期せずしてほぼ同時に同じことを考えていたわけです。

で、その夕方佐藤のり氏の本を読んでいたら(ご指摘の通り)そこにも同じワードが・・・二度びっくりです。

「良心の危機」は今読んでいるところです。でもこうした本は今まで読んでいませんでした。この2冊が最初ですね。数日前に手に入れました。前にも書きましたが、私の場合まず感覚的に結論のようなものに到達し、その後何故そう思ったのかを調べてみるタイプなのですが、その作業としてこの2冊は読んでおこうと思いました。

佐藤氏の本を読み、「自分自身の思いの推移経緯」とあまりにも酷似している点が多いので驚きました。

#53 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月15日 22:36:19

Jay

久しぶりの投稿です。
カウンセリングを受けると決め即行動、すでに2回のセッションを受けました。未だカウンセラーへの説明や質疑応答をしている段階ですので、これといった効果や結果が出ているわけではありません。今後の進展を自ら期待している、という感じです。

とはいえ色々違った角度で自分を見る助けにはなっています。で、自分で自分の状態を考察したところ見つけたキーワードは「アイデンティティ・クライシス」でした。JWとして費やした時間と思いが自分から抜け落ちる時、そしてこの歳で社会復帰できるだろうかと将来を思い悩む時、そして(カウンセラーから指摘された)家内という大きな存在を失う時、多分残るのは「自分には何もない」という空虚感でしょう。似てはいますが喪失感とは違うと思います。(ただ家族の死に関しては喪失感ですし、そこに罪悪感も伴います。)

決して自己否定に向かわず、この空虚を何をもってどのように埋めるのかを考える・・・、これが肝のような気がします。

今後のカウンセリングに期待しますが、皆さんはこのような「空虚感と空虚の再充填」は経験されましたでしょうか?

#54 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月05日 01:23:23

Jay

エホバ松蔵さんもドクターなのでしょうか? それとも心理カウンセラー?
前にも書きましたが、松蔵さんの言葉一つ一つは重いです。ヘビー級です。

Irisさんにも言葉をいただきましたが、「鬱診断と処方、そしてストップ」を経験して以来、メンタル医療に信頼を置くことを難しく感じていました。以前、家内にカウンセリングを勧められたこともありましたが、「身内の死に起因する心理状態に対して言われることはおおよそ想像がつく。そしてそれらの言葉はJWの信条と相容れないものもあると思う。その状況と対峙しなければならない面倒くささもあるが、死の前後の事柄を回想しながら説明するのもつらい。」と言う理由で受けませんでした。例えば「死んだ親が今のあなたを見て悲しんでいる。」的なことを言われたとしても受け入れることは無理でしょう。当時は。

でも今はカウンセリングを受けてみようという気になってきました。どういうことかというと「自分の心に響く言葉は確かに存在するようだ。ならばぜひ聞いてみたい。それで何かが変わるかもしれない。」と思えるようになってきたのです。今はJW縛りから解き放たれていますのでどのように耳を傾けてくれ何を言ってくれるのか、Open Mindで聞くことができます。前述したようなセンチメンタルな同情の言葉などではなく、きっとプロのカウンセラーはIrisさんや松蔵さんのような言葉を持っていると期待しています。言葉の力を期待しています。

すみません。私の話に耳を傾けてくださり言葉をかけてくださる皆さんのことを軽視しているのではありません。くれぐれも誤解なきようお願い致します。このフォーラムではなんでも話すことができ、そして相談に乗ってくださる仲間を得ることもできています。相談できる仲間は貴重ですし、今の私にとっては不可欠です。これからも同じです。でもここはひとつ「治療と言うステージ」に飛び込んでみようと思います。みなさん全てのおかげです。効果があるのかどうかは分かりません。未知の世界ですから。でも気落ちしないようにダメ元精神で望んでみたいと思います。

皆さん、今後ともよろしくお願いします。

#55 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月04日 12:10:57

Jay

irisさん、ドクターなんですね。

>精神科医の中には、チェックリストだけで診断して簡単に薬を出す輩もいるようですが、

まさにこのケースだったと思います。簡単な問診だけで鬱と言われすぐに薬が処方されました。でも処方された薬に関してもそのまま鵜呑みにはせず色々自分でも調べました。薬剤師の友人もいますので彼から抗不安薬やデパス(という名前だったか・・)等幾つかの薬の副作用なんかも教えてもらいました。効果はもちろんあるでしょうが、根本治療にはなりえないと思いました。加えて主治医の「ずっと飲み続けててもいいから。」の言葉で「薬に依存したくない。結局は症状を抑えているだけ。」と思い、薬は止めることにしました。

高血圧を抑えるのに薬は効果がありますしそこには特に不安は感じないのですが、鬱症状を抑える薬となると途端に不安を感じてしまいます。

すでに書きましたが、薬をやめても心身共に変化なしでした。こうなると鬱という診断も果たして正しかったのかどうか・・・。

irisさん、ありがとうございます。自殺を回避できるよう出来るだけのんびり構えるようにしてみます。

#56 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月04日 11:40:46

Jay

マタイさん、コメントありがとうございます。

>ここに来ていていいなと思うのは、本当のことことが言えること。

同感です。本当にこのフォーラムでは思いを吐き出すことができます。

#58 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月03日 22:01:22

Jay

三太郎さん、

三太郎さんのコメント、心に届きました。涙が出る思いです。この言葉を糧に前に進めそうな思いがしてきました。ありがとうございます。

#59 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月03日 21:47:46

Jay

袋小路さん、コメントありがとうございます。
前に書きましたように要因ではありますが「JWを辞めた、で自殺」という短絡式ではないです。とはいえJWに対して「WTの教えの結果はこれだよ。満足?」という皮肉たっぷりのアンチテーゼの意味もあるにはあります。
でもこんなことしてもWTや周りのJWは意に介さず「不活発&脱落者」と見なし、もっと言えば「自殺という殺人の罪を犯したもの」としか見ないでしょう。
それがWTでありJWです。

#60 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月03日 21:35:47

Jay

エホバ松蔵さん、

エホバの証人の奥様との話し合いは消耗するだけで、明確な結論は出ない。奥様はかわりません。
その通り今のところ変わりません。でも敵対(?)しているのは私であり家内は「売り言葉に買い言葉」的反応はしてきません。今は「僕はエホバの証人とは関わりたくない。貴女はエホバの証人である。なので僕は貴女と関わりたくない。」との三段論法を使っていますが、相手の反応は「別れたら楽になるのね・・でもそうはしたくない」です。いつもこうです。でその後は、

「僕も別れたくはないがエホバの証人とは別れたい。別れないというのは僕の忍耐と我慢の上に成立するもの。貴女はそれを望むのか?」
「・・・・・」
で堂々巡り、今は結論を見出すことができていません。確かに消耗しますが弱音を吐かずもう少し時間をかけてみます。

#61 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月03日 21:17:04

Jay

Takさん

両極端の考えをあげてその中庸を探っている
その通りです。でも不器用なのでなかなか難しいのも事実です。以前「エホバ松蔵さん」に指摘された潔癖さ故なのかもしれません。ループにはまっているというよりもこの中庸案を考えあぐねているのでしょう。考えが行ったり来たりしています。そして一方の極端が自殺なのでしょう。もう一方の極端はJWへの復帰? まさに極端の極みですが両方ともテーブルの上に置いてあります。

#62 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月03日 21:01:08

Jay

ささらほーさらさん、

JWを拒否しているのは「感覚」or 明確な「根拠」か?
私の性格からすると。。。「感覚」が少し強めだと思います。根拠が複層に積み重なった結果として「これは違う」となった(根拠+根拠+根拠・・・=違う)のではないです。確かに根拠となりうる事柄はいくつもあったのですが、だからというのではなく、むしろ「違う」という思いがどうにも強くなったのでその理由を自分なりに改めて探してみたり考察してみたりをしてきた感じです。(違う=理由+理由・・・)いわゆる「逆算」です。
そしてその理由も感覚的なものが多いです。

「結果は多くを(時には全てを)語るはず」と思うからです。例として、ある人を見て「変な人」と思ったとします。しかしそれは感覚です。なので本当に変なのどうかそう言える根拠を探します。で「これだけの根拠があったのでやはり変だ」となるのでしょうが、もしかするとその結果に至る十分な根拠を見つけられないかもしれません。その場合「変だと思ったけどそうではなかったんだ」となるでしょうか? いや、自分が「変だと思った」という判断はどうにも覆りません。「そうかなあ・・自分には変な人にしか見えない・」です。先入観や考えに固執するというのでもないです、自分が「変だ」と思ったものは他の人がどう思おうと自分にとっては変なのです。この逆もしかりです。

でもささらほーさらさんのおっしゃる通り根拠なしに説得はできません。ましてJWの信仰心を「変だよ」で崩せるわけありません。なので家内を説得して辞めさせようとは思っていません。他人の価値観を他人が変えるのは??と思うのです。私が持っている価値観を他の人が根拠を並べて「それは違う。変えろ。」と言われても無理なのと同じです。本人が考えて変わるしかないと思います。なので家内には私の考えと思いを伝えた上で、彼女自身の判断に任せます。そうしたくはないけどそこは尊重しなければならないと・・・・。

中途半端に「変だ。異常だ。おかしい!」という直感論に頼っていたらずっとグルグルと「カオス」の中から出ることはできないでしょう。

決して中途半端な直感論に頼っているというわけではないです。初めて接する対象にであれば直感論も成立するでしょうが、JWに関しては直感論に終始しているわけではないです。なので過去のコメントで信仰心や輸血等々の考察を書いたわけです。とはいえ、「変だ。異常だ。おかしい!」と思っていること自体はその通りです。

で、グルグルカオスからどう抜け出すか。簡単でもあり難しくもあり、シンプルでもあり複雑でもあり・・・グルグルですね、すみません。

#63 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月03日 19:51:49

Jay

皆さん、いろいろなお言葉をいただき嬉しいです。ありがとうございます。
一つずつコメントさせていただきたいと思います。

#64 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月03日 13:08:15

Jay

元信者さん
JWへの反発と離脱がそのまま自殺願望(?)に結びついているわけではないのです。もちろん全く無関係でありませんが・・・でもそんなシンプルな話でもないんです。かと言って私の歴史の全てをこの場でお伝えするのは到底無理なことなので・・・。中途半端なことを書いてしまい申しわけありません。

気が済むか済まないかではないです、自分の中で処理できない思いと事柄が雪崩のように覆いかぶさっているのでそこから逃れる術として、です。自殺なんて回避できれば一番いいのですが、正直まだ分かりません。

こうした思いになったのは自分の弟の自殺を間近に経験したことが大きいと思います。自殺というオプションを身近におくことができてしまうようになった、と言えばいいでしょうか・・・。今日も家内と話し合いました。自殺も考えているというのは家内も重々承知しています。

このフォーラムは「自殺相談フォーラム」ではないのでこの話題は引っ込めます。重くなってしまってすみません。

#65 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月03日 04:05:47

Jay

自殺について今日も調べていました。実家の家族も自殺したので自殺がどれほど残された者に心痛を与えるのか身を持って知っているつもりです。その点を考えると思いが揺らぎます。また遺体の処理を含む事後処理などを考えると、少なくとも人目につかないところでひっそりと、と考えてしまいます。「樹海」・・?

自殺は自分本位で自分のことしか考えていない者のすること、とありました。その通りかもしれません。死んだと思えば何でもできる、とも言いますよね? 死んだと思えば心身の苦痛も我慢できるということでしょうか? JWとの心通わぬ同居も平気になるのでしょうか? 「心頭滅却すれば火もまた涼し」なのでしょうか?

文字通りの死は多く人の迷惑になることを考えると、「心頭滅却・・・」の精神でJW(家内)との心通わぬ同居も全て受け入れてみようか、達観するが如く残りの人生を受け入れてみようか、とも考えています。結果として相手の思う壺にはまるようで悔しさもあります。でも「死んだ」と思えば可能なのかもしれません。感情を働かせるから腹も立つ、悔やみもする、悲しさも覚える。もし感情に蓋をして鍵をかけて生活をすることができれば、と思います。

JWでない(もしくは脱塔した)ご主人でJWの奥さん(逆の場合もあるでしょう)をお持ちの方、もしこのメッセージをお読みでしたら「どのように気持ちを整理して日々を過ごしておられるのか」教えていただけないでしょうか?お願いします。ただし「自分は相手の宗教信条の自由を認めている」というのではなく、「できればやめて欲しい。」と思っておられる方のアドバイスがぜひ聞きたいです。

迷ってますね・・・情けないです。

もし達観生活・達観人生を選択したとして、果たして「生きててよかった」となるのでしょうか・・。それとも皮肉的選択肢ですが再度JWに逆戻りしてみる・・・、まさに文字どおり残りの人生を賭けてみる、ということもありなのでしょうか。それこそ自殺行為? でも家内の人生に寄り添うことが表面上は可能になりますが、「心を込めて、思いを込めて・・・」とは裏腹の偽JWですけどね。。

果たして「死んだ」と思えば本当に何でもできるのでしょうか?

#66 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月03日 00:57:56

Jay

ここ数年で母をガンで亡くし(最後の数週間はいわゆる自宅ホスピスで私が実家で世話をし、私と訪問看護師の二人で最後を看取りました。)そしてほぼ同時期に兄弟を自殺で亡くしています。(自殺遺体の第一発見者は私でした。)その半年後、鬱病になりました。薬も処方され1年ほど服用しましたが、薬に依存し続けるのは嫌だったので主治医に相談し、自己モニターしつつ段階的に薬をやめました。特にその前後に大きな心的変化は感じませんでしたし「死にたい」と思うことも特にはありませんでした。いずれにせよ「鬱と薬を処方されることは経験済み」です。

その時に感じたのは、鬱を経験していない医者に「あなたは鬱ですね、薬が必要です。」と言われることへの強い違和感でした。医学書からの知識だけで「何がわかるのか?」という憤りもありました。うまく言えませんが・・・。まあ医者とはそういうものであることも当然ながらわかってはいます。医者には何ら責任はありません。でも心はそう感じました。

今の状態は鬱ではないと思います。自殺を望むものが皆鬱病を患っているとは限りません。正確に自己分析や自己診断することは到底無理でしょうが、今は「怒り・絶望・不安・後悔・混乱」等が自分の中で渦巻いている感じです。そして本来であれば助けや支えになってくれるのであろう妻がこうした思いの主要な原因となっている・・・。本心では離婚はしたくないが、現実には離婚以外の「脱出策」はなさそう。出口のないループ&スパイラルで、どう転んでも・・・苦しい明日しかないようです。

死にたいと思ってしまうが、同時に「死にたくない」という心の声があるときに薬は助けになるのかもしれません。ですが、本人は本当に死にたいと思っていて周囲の者も手を差し伸べようとはせず本人がただ孤立している場合、病院へ行くというのはなかなか難しいものです。

以下、蛇足を承知で・・。
こうした状況の中でのJWは極めて冷酷ですよ。聖書を開いて何かの例を話されても仕方のないことですし。「信仰が足りない」と言われても何の発奮材料にもなりません。これらはかける言葉の術をなくした時のその場しのぎのゼスチャーでしかありません。JW達はは立派なことを言っているつもりなのでしょうが、その言葉には全く力がないばかりかむしろ「他人事」としか思っていないことが浮き彫りになるだけです。

#67 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年04月02日 21:26:17

Jay

このフォーラムの皆さんの言葉によりある程度の冷静さを取り戻すことができ、思うところを色々と書かせていただくこともできています。ここに改めて感謝いたします。ありがとうございます。

先日の「メモリアル」にはもちろん出席しませんでした。言うまでもなく家内は出席しています。

で、日曜日にまた二人でじっくり話し合いました。ポイントが多岐に及ぶ複雑な話となりましたが、要旨は
「貴女が僕と同じく不活発になることを厭わず、まずは夫婦関係をもう一度立て直したいと思ってくれるのであれば、僕としてはもう一度夫婦関係の修復に向けてトライする思いはある。」
「そうでないなら・・JWと一緒にいることはやはり苦痛を感じるし、ここまで心が離れてしまった状態を(今の生活を現状のまま継続しながら)元に戻すのは難しいと思う。できる自信はない。」
「貴女との離婚をただシンプルに望んでいるというわけではないけど、正直に言えば離婚などしたくはないけど、もしかすると不可避なのかもしれない・・・もう解放してほしい。」
「そのあとは生きるも死ぬも、すべて自由だから。」
というようなものでした。

その夜の夢に数年前に死んだ母が出てきて、また別の複雑な思いが絡みつくようになっています。寝ても起きても苦しい状態が続いています。そして翌朝、その思いを夢の説明と共に家内に伝えました。「死者のメッセージ」ではないと思いますが、このような話に家内がどう反応するのかも知りたいところでした。

極端に聞こるかと思いますが「自らの絶命」も考えています。その方法もネットで調べています。なぜそうなるのか?というツッコミはあるでしょう。でも決して短絡的な思いではないんです。悩んで苦しんで・・・今そうなっています。あえて客観的な書き方をするならば、「WTとJWは人をそこまで追い詰める。」ということです。

信仰や輸血等々、私の考えに関して色々そして長々と書いてきていますが、心の状態はこんな感じです。

#68 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年03月31日 00:20:48

Jay

Takさん、

輸血について。
そもそも最近までは輸血そのものが広く認知された医療措置ではありませんでした。いわゆる現代医療の一つが輸血だと思います。そして輸血に伴う二次感染等の問題もまったくないわけではありません。であれば今後一層の医学研究が進みその結果として、「輸血は過去のもの」となる可能性は否定できません。その時には代替医療措置も確立しているはずです。しかし「今」はそうではありません。

以前に「手が届く医療措置」的なことを書きました。この「手が届く」というのは経済的な意味もあり、自分の国や土地でAvailable なものという意味もあります。全ての人が最新の医療措置の恩恵を受けられるわけでは残念ながらありません。それが現実です。それを考慮に入れず、世界中の各々異なる境遇にあるJW全てに対して一様に「輸血を禁じる」のは、現実に沿うものではないばかりか、無茶ですね。かといってそこで「適用範囲の差」を認めてしまうと「輸血はダメ」という主張そのものが崩れます。WTとしても難しいところなのでしょう。

それよりも何よりも・・・
「輸血について・・・」という表現でなく「ふさわしい医療措置」という言葉でしか書かれていません。
これが気になります。

輸血に対しての主張を緩和するため、もしくは覆すための布石でしょうか? もしそうであるなら、すでに輸血拒否によって悲しい結果を経験された方々にとっては受け入れがたいことでしょうね。「よかった。私たちが経験した苦しい思いが、これで繰り返されることはなくなる。」と思えるか、「では私たちの戦いと受けた結果はなんだったんだ!どう責任を取るんだ!自分たちも戦ったんだ、みんな同じように戦うべきだ!」となるのか・・・・。
もしくは主張緩和など行われないまま現状維持か。とすれば上記の表現方法の変更の真意はどこに?単なるごまかしか・・・?

疑問は尽きません。

#69 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年03月30日 23:43:38

Jay

Takさん、

私も科学的事実と信仰心は十分に両立すると思います。
科学的事実が先行すれば科学技術に対する信仰となると思いますが、それもまた一つの信仰でしょう。いわゆる宗教の信仰心が先行し、(たまたま)科学的事実が後追いしたとしてもそれもいいと思います。

ただし「科学的事実の後追い」「後付けの論証」を前提とした宗教は難しいでしょうね。特にまだ論証できていないものをあたかも事実かのごとく主張した上での宗教主張はいかがなものでしょうか。しかも「論証不可能ということが論証」されたとしてもそれを無視し、頑なに主張を続けるのは滑稽にさえ見えてしまいます。(これがWTのヘブライ11:1でしょう。)

そもそも信仰心というものは人間の本能的なものの一つだと思います。なので場所は違えど、その風土や環境・文化によって違いこそあれ信仰心は多種多様に存在します。一例として、日本には「八百万の神」という考え方があります。ではそれらの神々は明白に論証されているでしょうか?否でしょう。でも確かに信仰心はある。それも日本の文化の一面です。なので、信仰の対象は全て論証され証明される必要は必ずしもないのだと思います。「分からない。説明できない。」ものに対しても成立するのもまた信仰心ではないでしょうか?「分からないからこそ信仰」であるのかもしれません。

それを考察するのが宗教論や宗教学なのかもしれませんが、信仰の対象を解明しようとするのはナンセンス(というかそもそも不可能)であるとするなら、宗教学は「考察するための場」(それ自体を否定はしません)であり、その核となるのは「なぜ人間は信仰心を持つのか?」という心理学なのかもしれません。そしてこの心理面考察の副産物が「本能に基づく信仰心を利用したビジネスモデル」という可能性はあります。

純粋な目と思いで周りの事象を観察し畏敬の念を覚える、それに対して生まれるのが純粋な信仰心。自分の存在の小ささを認め謙虚な気持ちになり、感謝の念を示したいと心が動かされた時に生まれる思いこそが信仰心の根本かもしれません。(あくまで私見です。宗教学者に言わせれば的外れかもしれません。)

ご利益主義や恐怖感をあおることによって生まれるのは信仰心ではないと思います。自分にメリット(ご利益)があることを期待した打算的な考えと行動、恐怖感を持った時にそれから逃れたいという回避手段をこうじる、それだけです。

これって本来あるべき信仰心とは似て非なるものだと思います。

私が以前に書いた「復活を含めたWTの教えにギャンブル的に乗っかった」のはまさに「自分にメリット(ご利益)があることを期待した打算的な考えと行動」なのでしょう。なのでこの論理からすると私は「信仰心など持っていなかった。」ことになるのでしょうね。要するに「心は動いていなかった」ということです。故に、ディ−ラー(WT)がルール(教えと主張の詳細)を変えてきたりイカサマ(嘘)を行ったと感じた時に、そこから離れ(ゲームから降りる)イカサマを指摘してやろう、という思いになったのでしょう。

#70 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年03月30日 01:43:41

Jay

Irisさん、コメントありがとうございます。

その通りだと思います。
人間の「生きたい」という本能故の「医療手段の自由選択」は認められてしかるべきだと思います。そこを強制的に封じ込めて、命を落としたら自己責任ですます。ましてそのようなJWを模範的と賛辞し「後に続け」とばかりに煽り立てる・・・。ひどいです。

輸血を拒否することが「復活が保証される条件」ではないはずです。実際には「悔い改めなければ排斥」となるだけです。(悔い改める必要があるかどうかは今の論点ではありません。)
間も無く終わりが来るはずはない(と思う)ので、今は手の届く医療手段(輸血を含む)を受けて「生きる」。排斥になるならそれも仕方なし。で、寿命を全うすれば「死によって全ての罪は赦される」ので(もしWTの教えが真理であるならば)その後復活もあるでしょう。それでいいのでは?

それとも命を失うことより排斥を恐れるのでしょうか? 周りからの村八分を恐れるのでしょうか?

「生きて楽園に行ける、大群衆は死ぬことはない」「今ある命がすべてではない」等々の言葉が複合的に働いた結果、今ある命を軽視するように洗脳されているのでしょうか・・・。それでいのでしょうか?

とはいえ、輪廻を信じ今を生きる人たち、現実社会から自らを隔離し修行する人たち、即身仏となることを選ぶ一部の人もいるわけです。「信仰と信念によって自分の命をどう扱うか」は自由なのかもしれませんし、それを含めて「宗教」なのかもしれません。でも、命を左右することで強制するのは絶対に違うと思います。

JWはこうした議論においては「自分たちも信仰と信念によって決定している」というかもしれません。果たしてそうでしょうか? 子供や若い人たちは信仰と信念を持っているとは思えません。どう考えても犠牲者だと思います。

もしWTが「10代20代でのバプテスマは禁止。30代以降のバプテスマを勧める。それまでは研究生とし、何ら会衆からの圧力を受けることはない。自由選択と自己責任においてバプテスマを受けたいと本当に思えたときにのみそれを認める。それまでは退会の自由が保証される。」とすれば色々改善されるかもしれません。でもWTとしてはビジネスモデルが破綻してしまうでしょうね。

#71 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年03月29日 03:19:51

Jay

irisさん、コメントありがとうございます。

iris さんの発言:

当然ものみの塔の教えも事実だけの積み重ねではないわけですが、それをあたかも科学的事実であるかのように教えているのは、たいへん不誠実なことだと思います。このような教え方をしているため、エホバの証人の中には、信仰上の事実(妄想)と科学的事実とを区別できていない人が多いと思います。

この「科学的事実」ですが・・・少し思うところがあるので書かせてください。
例えば遺跡の年代を知る手立てとして「放射性炭素年代測定」というものがあります。現在においては一応信頼できるものとして認知されているはずです。では例えば何か建造物や人骨が発掘され「放射性炭素年代測定」によって1万年以上前のもの、と判断されたとします。WTとしてはこれは困ります。WTが唱える人類の歴史のスパンと整合しません。この場合、こうした「科学的事実」を無視したり、時には「サタンは私たちを惑わすためにどんな工作もする。」なんてことも言い出すわけです。
ところがWTが唱える人類の歴史のスパンと枠内に収まる測定結果であれば途端にこの測定結果を引き合いに出し、「放射性炭素年代測定」によって聖書記述の正しさが裏付けられた、とも言い出すのです。

都合の悪いものはなんでも「サタンの仕業」で片付けることに憤りを感じてしまいます。

iris さんの発言:

ものみの塔の組織はすべてを投資させる仕組みになっており、「普通の人」は強制力に逆らえません。
せめて輸血と脱退については、誰でも制裁を恐れずに自己決定ができるようになってほしいものです。

誰でも元は普通の人だったはずです。しかし、WTの教えと誘導、または洗脳システムによって普通ではなくなっていってしまいます。

で、何か問題が起きるとWTは「個人責任です」と主張し、片付けてしまいます。実体のない投資話を持ちかけ投資させた挙句、約束されていたリターンが全く発生しない。しかし投資話をした輩は「最終的に投資を決めたのはあなた自身です。個人責任です。それが投資というものです。」で責任回避します。どうも私にはそれと重なって見えてしまいます。

しかし、輸血に関しては「個人の決定」を尊重しません。ここでは組織の方針(教え)が最優先されます。少なくともそれを排斥を振りかざして精神的に強制をします。なのにです・・・、輸血を受けずに命を落としてしまったり家族が崩壊したりしても組織は何も関知しません。「個人の決定です」なのでしょう。これってどう考えても納得いきません。無理があります。

個人の決定で献身し、個人の決定で二つの質問にはいと返事をしバプテスマを受け、個人の決定で寄付をし、個人の決定で生活をどの程度犠牲にするかを決めれるのであれば、輸血も個人の決定でいいと思います。もちろん「普通の人」がしているように「輸血に伴うリスク」も個人の決定(自己責任)で受け入れなければなりません。しかしWTはこの点では個人の決定を許さず、「個人の決定」で輸血をした場合、制裁を加えるのです。

冷静に見ればひどい話です。

JWがWTの主張内容の不整合さ、不誠実さ、偽りの宗教組織である証拠を知ったにも関わらずそこから離れない(「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい」、を適用しない)。のはいったいな何故なのでしょう。irisさんが指摘されたようにきっと「普通の人」ではなくなっているのでしょう。なので冷静に考察できない、判断できない、行動できないのです。感情さえもただ押し殺すことだけを習慣的にしてきたのでしょう、感情的な反応さえ示さないのです。

何かが明らかに変です。

#72 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年03月28日 12:42:56

Jay

Takさん、
「こんなのがありました」と紹介すると場所が特定される、という危惧はよくわかります。「このスレッドは面白いのでは?」という提案はそうした可能性を考慮していない無責任な発言でした。お詫びして撤回いたします。

でも場所が特定できるほどユニークなローカルルールがあるというのも考えてみれば凄いことですね。それゆえにローカルルールなのでしょうが、そういう意味でもローカルルールはあっちゃあいけないものだと改めて断言できます。

そもそも・・・4−5年前の王国宣教学校に出席した時、教訓者から「あなたたちの会衆でローカルルールと言えるものはどういうものがありますか?」と質問されました。私を含め多くの長老が自由に発言しました。いろいろなルールがあるんだなあ、と思った後で「それら全てのローカルルールは書かれているものではありません。全く必要のない、ふさわしくないものなので全て廃止しなさい。」と明確に教えられました。当時の全ての長老はそのように教えられましたので会衆で適用しているはずです。(全てのクラスのプログラムが共通のものであるという前提ですが)

なのでこのコメントの最初に「こんなのがありました」と過去形で表現したのです。もし今でもローカルルールが存在するのであれば問題ですね。「あってはいけないもの」なのですから。ましてそれで人に影響を与えたりコントロールしてしまっているとしたら大問題です。「書かれていないルールを強要している」のですから長老団が審理委員会で問われなければならないレベルだと(個人的には)思います。さらに言えば、廃止しない理由が「長老のプライド故に廃止したくない」「そのローカルルールによって長老の威厳が保たれているので廃止したくない」「全ては会衆の成員のためだ。なのでこのルールは有益だ。廃止の必要なない」等々なのであれば大大問題でしょう。

とはいえ、その王国宣教学校の教訓者は「ローカルルールを廃止しなさい」と教えはしましたが、「それでも引き続きローカルルールを用いるようであれば問題として扱われます」とは全く言っていませんでした。なので「ザル法」ならぬ「ザル教え」ですね。残念です。本当であれば巡回監督はこの教えが各会衆で実行されているかどうかを確認しながらフォローすべきだと思いますが、そんなこと全くしていないでしょうね。

少なくとも当時私がいた会衆の長老団では話し合いの際、ローカルルールに関わる状況が生まれたりコメントが出た時には「その規準ってどこかに書いているものですか?そうでないならローカルルールなのでそのような考えを適用すべきではないのでは?」という感じで互いに注意していました。

#73 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年03月27日 21:59:49

Jay

「ここが変だよ、ローカルルール」というスレッドを立ち上げたら面白いでしょうね。色々な驚きのローカルルールが存在していそうな気がします。

#74 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年03月27日 21:51:12

Jay

Takさん、コメントありがとうございます。

まさに言わんとするポイントをまとめてくださったように感じました。
「人生をかけるのは、私にはどうしても究極のギャンブルのように思える。」と書きましたが、その言葉のままではあるのですが、これはあくまで一般論であって私はこのようにはしませんでした。

Jay さんの発言:

自分が犠牲にしなければいけない時間や思いをある程度見極めながら、無理することなく乗っかってきたのだと思います。なので正規開拓は考えたこともありませんし一度もしたことがありません。

このような感じです。ですので仕事も好きな仕事をしましたし、好きな旅行をしたり、好きな時に好きなところへ引っ越したりもしました。そうした個人的な分野だけでなく、僕や長老としても結構自由気ままにやっていた方だと思います。二世ではなかったからかもしれません。基本誰からも強制されることはありませんでしたし、強制されても応じませんでした。「あなたはその選択の結果に責任を持ってくれるのか?」と詰め寄ったこともありました。
問題発言かもしれませんが、こうも考えています。「趣味」って基本的に余暇をあてますよね、時間的にも経済的にも。なのでこれが無駄になってもダメージは受けません。また次の「無駄」な趣味に意気揚々と向かってさえいけます。これぐらいの感じでJWをやればどうでしょうか?もちろん余暇以上の投資は必要かもしれませんが、人生すべてを賭ける必要はありません。ダメ元で乗っかってみる・・・。不謹慎なコメントで申し訳ありません。これでは組織の中枢構築と運営は成立しませんね。でもこれぐらいの気持ちであればダメージは小さくおさえられると思います。

Tak さんの発言:

WTととても結びついているようででもよく考えてみると実はそれほど関係のなさそうな、自分独自の選択でどうにかなるものもあります。

おっしゃる通りです。自由意志を行使できる範囲は実は結構広いと思います。そして「リスクヘッジ」です。まさに「Don’t Put All your Eggs in One Basket」の精神でやってました。だからでしょう、猪突猛進タイプのJWからは結構煙たがられていました。

Jay さんの発言:

これに人生をかけるのは、私にはどうしても究極のギャンブルのように思えてしまうのです。

これをもっと表現したかったニュアンスで正確に言うならば「これに人生をかけてしまうなんて、私にはどうしても究極のギャンブルのように思えてしまうのです。」ですね。

リスクヘッジしながら、好きなところに住み、好きな仕事を見つけ、好きな趣味を楽しみ、好きな車に乗り、好きな生き方をすればいいのではないかと思います。JWとして聖書に書かれていることに抵触せずにこれらを行うことは可能です。「犯罪行為」になってしまうことは「自由な選択肢」からは当然ながら除外します。常識としてしないこと、聖書に書かれているからしないこと、これらを差し引いても十分の選択肢が残っています。

ではなぜJWが不自由になっていくのか? それは組織が書き加えたルールであったり、会衆内でまかり通っているローカルルールです。これら加えられたルールをさらに拡大解釈し自分に当てはめて勝手に苦しみ、他の人にも当てはめ苦しめる。そのようになってしまっていると考えます。なので以前書きましたように日本のJWは仏教修行僧のように忍耐の美学を持っていると思うのです。ざっくりした言い方ですが、他の国のJWはもっと自由気ままに生きていると思います。もちろん皆全てではないでしょうし、いい人悪い人変な人の振り幅も極端でしょうけど。日本人のように(色々な意味で)コンパクトにはまとまってはいないと思います。

#75 Re: 親睦・相談 » 遅すぎることはないとの覚悟を持って » 2018年03月27日 15:00:54

Jay

irisさん、初めまして。

ヘブライ11:1
信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実体についての明白な論証です。

よくこの定義が「明日の朝、太陽が東から昇る」ことに使われることがあります。そうですね、私たちはそれが当たり前と思っていますし、その通りのことが期待通り確かに起きます。しかし実のところそのシステムの全てを理解しているわけではないでしょう。なぜ正確に地球が自転しながら公転しているのかなんて誰も説明できていないと思います。(私が知らないだけで、もしかするとできているかもしれませんが・・。)なので「保証された期待」なのでしょう。保証されてはいるものの所詮「期待」でしかありません。しかし同時に期待とはいえ「保証されている」とも言えるのです。なので「明日の朝、太陽が東から昇る」ことを信じるのは信仰と言えるかもしれません。

では復活は保証されているでしょうか?そんなわけないでしょう。聖書の記述以外に(聖書で言うところの)復活の実例はないはずです。なので保証されてはいないと言えます。となると復活は「単なる期待」です。

では神の存在はどうでしょうか?実際に神を見た人はいません。イエスは神を体現していたかもしれませんが、神そのものではありません。現代においては誰一人神を見たものはいません。では神の実体の真偽を論証することなど果たしてできるでしょうか? それも明白に。もし仮に「明白に論証」できていれば神の存在を誰も否定できないはずです。全ての人は 信じるしかありません。でも実際はそうではないわけです。故に、神の存在はまだ「明白に論証されていない」ということになります。

となるとこの聖句にある「信仰の定義」をどう適用すればいいのでしょうか? 期待はあるが保証されているとは決して言えない「復活の希望」。論証しようとはするが明白なものにはなり得ていない「神の存在」。ということは・・・?

この二つの命題はこの「信仰の定義」を適用できる対象とは言えず、無理やり信仰の対象にしようとするならば相当摩訶不思議な状況になってしまうのではないかと思うのです。

なので「信仰」とは「結果が出るまで本当にそうなるのか(or そうなのか)どうかは全くわからない命題に対して『必ずそうなる(or そうだ)』という全きの確信(全幅の信頼)を置くこと」的なものになってしまうのでは? これに人生をかけるのは、私にはどうしても究極のギャンブルのように思えてしまうのです。

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