#1 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月13日 09:14:23
世のキリスト教には、「迫害を受けても、精神的、感情的または身体的な苦悶を耐え忍んだイエスのように」信仰を貫いて殉教の死を遂げられた多くの信仰者がいますけど、彼らは油そそがれた追随者と見なされますか?
恐らく土の器のかけらさんの立場からいうと「分からない」というのが答えになるのかも知れませんね?
はい、runさんのいうとおり、私にはわかりません。油そそがれた追随者もいれば、そうではない人もどちらも存在したと思います。
リッチさんに、私は数多くの人々が殉教したという事実に感動したと答えたのですが、彼らが油そそがれた追随者かどうかではなく、私の側の気持ちです。私の思い込みですね。
しかしながら、殉教した人々に続くさらなる数多くの人々が存在するという事実は、もしかしたら「聖霊の後ろ盾がある人」かも知れません。ファンタジックな物語です。
またまた余談ですが、殉教者とはギリシア語で本来「証人」を意味します。バプテスマを受ける前のそれ以前の討議で、私の「わかりません」という答えが増加していきます。
#2 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月13日 08:14:09
土の器のかけら さんの発言:私の主観では、油そそがれた追随者はキリストの苦しみにあずかる者であり、燃えさかる火の試練を忠実に首尾よく切り抜ける人です。
「首尾よく切り抜ける人」とはどういう意味ですか?
私が「首尾よく切り抜ける人」かどうかは別という前提でよろしければ、模範回答で答えます。
使徒 14章22節では「わたしたちは多くの患難を経て神の王国に入らなければならない」と信仰にとどまるように励ましています。また、ローマ 12章12節には「患難のもとで耐え忍びなさい」と付け加えています。
そして、テモテ第二 3章12節では「キリスト・イエスにあって敬虔な専心のうちに生活しようと願う人はみな同じように迫害を受けます」と預言されています。
したがって、「首尾よく切り抜ける人」とは、迫害を受けても、精神的、感情的または身体的な苦悶を耐え忍んだイエスのように信仰にとどまる人のことです。
#3 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月13日 06:29:44
「経済的な支援」という解釈は私も聞いたことがありません。財宝や宝物を持って来るというのは千年王国設立に伴う「ギフト/贈り物」でしょう。
まぁ、重要なのは、自分がそこに居るという確信があるかどうかですよね。貴方には、まだその答えは「わからない」とのことですし、いつか確信が与えられるといいですね。
runさん、ありがとうございます。
巡回監督の質問は「あなたはハガイ2章7節の『あらゆる国民のうちの望ましいもの』ですか」ということですから、私は人的資源という意味に捉えました。「聖霊の後ろ盾があることを認識していますか」というような質問もよくありますね。私は「聖霊に満たされ」「聖霊の後ろ盾があることを認識している人」ではありません。
巡回監督は質問一覧表のようなものを持っていたので、どのように答えればよいのか知りたいと思いました。
私の主観では、油そそがれた追随者はキリストの苦しみにあずかる者であり、燃えさかる火の試練を忠実に首尾よく切り抜ける人です。私は溜め息ばかりです。
#4 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月13日 05:23:36
#5 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月13日 04:48:04
土の器のかけら さんの発言:ハガイ2章7節の「あらゆる国民のうちの望ましいもの」を経済的な支援とするのはいかがでしょうか。
意味が解りません。
「財宝/宝物」という訳を JWでは「望ましいもの」と訳しているわけですけど、そうではなく「経済的な支援」と訳すのはいかがでしょうか?という意味でしょうか?いや、違いますね。「神と共に働く者たちを経済的に支援する」と解釈するのはいかがでしょうか?という意味で言っているのでしょうか?
runさん、不明瞭でごめんなさい。議員さんなどが用いる「いかがなものか」という疑問符、不賛成、賛同しかねるという言い回しです。「あらゆる国民のうちの望ましいもの」を経済的な支援とするのは間違いではないでしょうか、という意味です。
「望ましいもの」と同じ意味の「自発的な捧げ物」(歴代第一 29:14)を、「自発的な寄付」と解釈するのもズコーっとなりました。これは、他の人の見解に反論するものではありません。
runさんが新共同訳に付記した意訳のイメージをありがとうございます。7節の「諸国のすべての民の財宝(神と共に働く者)をもたらし」で正確な理解です。
8節は「銀(神と共に働く者A)はわたし(神)のもの、金(神と共に働く者B)もわたし(神)のもの」になると思います。
銀と金はさまざまな特質の違いだと思います。さまざまな能力などの特質や、経済力も含まれます。
但し、コリント第一 3章5‐9節の「神と共に働く者」とは油そそがれた追随者です。『ものみの塔』には「神と共に働く者」という言葉が掲載されていますが、同時に「聖霊に満たされ」「聖霊の後ろ盾があることを認識している人」のことだと明確に併記されています。(コリ一 3:9。使徒 4:31)これ以上言うと、ズコーっとなる人がいるかも知れませんね。
#6 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月13日 03:18:36
「この神殿」、「この宮」、「この家」とは千年王国の神殿のことです。その神殿は栄光で満たされます(エゼキエル40~48章参照)。
千年王国の神殿は、豪華に飾られたものとなります。なぜなら、諸国の民が宝物をもたらすからです。銀も金も、【主】のものです。
run さんの考え方が正しいと思います。
#241の「ベテルにいったよ」の歌詞について考察しましたが、「エルサレムの霊的神殿」または「エルサレム神殿」ですね。そうであるなら、物質的な金や銀の経済的な支援は必要ありません。
そうだとするなら、ハガイ2章7節の「あらゆる国民のうちの望ましいもの」を経済的な支援とするのはいかがでしょうか。
啓示 21章24節の「地の王たちは自分の栄光をそこに携え入れる」と同じイメージではないでしょうか。(啓示21章の地の王たちはパラダイスにおける王たちです)
#7 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月13日 02:43:49
土の器のかけら さんの発言:巡回監督は「あなたはハガイ2章7節の『あらゆる国民のうちの望ましいもの』ですか」という質問をします。私はわかりませんと答えました。とても重要な質問だったと思います。
「望ましいもの」とは、他の訳では「財宝」「宝物」となっています。
続けて文脈を見ると、「銀はわたしのもの、金もわたしのもの」とあります。
runさん、さまざまな翻訳の提示をありがとうございます。
ハガイ2章8節で「銀はわたしのもの、金もわたしのものである」と述べておられる神ですから、ご自分の業を成し遂げる点でわたしたちからの経済的な支援に依存しておられないことは確実です。パラドックスのようなものですね。翻訳の質でしょうか。
神にとっての金や銀とは、引照聖句の歴代第一 29章14節の「自発的な捧げ物」と同じ意味です。詩編 24:1では「産出的な地とそこに住む者とはエホバのものである」と述べられいます。
したがって、コリント第一3章5節から9節の「神と共に働く者」ではないでしょうか。
これはハガイ2章8節、歴代第一 29章14節の「自発的な捧げ物」を経済的な支援と考える人に反論するものではありません。runさんの指摘は本当に考える糧です。こころから感謝します。
#8 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月13日 02:14:37
土の器のかけら さんの発言:runさんの指摘した文書は2003年のものです。2016年以降は次第に用いられなくなりました。
そうでしたか。貴方がいつからJWに関わるようになられたのかは知りませんけど、この変化に気づいた人たちは何も思わなかったのでしょうかね?
思うところがあったとしても ものみの塔の教えに従うだけなのかな?
runさん、繰り返しの返信ありがとうございます。
2014年頃からの変更は私にとって大きく印象的でした。特に「級」を用いてはいけないと、手持ち文書の「級」を目の前で抹消するように指示されました。口頭での言葉遣いも助言を受けました。「天的級」も「忠実で思慮深い奴隷級」も改訂されたことに驚いた人が多いと思います。
runさん、もう一度「なんか、ズコー(っていうAAが欲しい)ってな感じです」と言ってくださいね。
「思うところがあったとしても ものみの塔の教えに従うだけなのかな?」という疑問ですが、私には他の人のこころの中までわかりません。従った人もいれば、従わなかった人もいると思います。他の人が自分の文書を抹消したり破棄したかどうかわかりません。
もし、私が他の人から質問を受けたら、この掲示板と同じ答えをします。または具体的に説明せずに、会衆の年長者たちの援助を求めるよう返答します。そこまでしか、私にはわかりません。
#9 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月13日 00:30:07
#10 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月12日 22:36:39
例えば、下記ページを見るだけでも普通に「クリスチャン」という言葉を使ってますよ?
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2003803独身の人も結婚している人も,幾万というクリスチャン女性が開拓者や宣教者として奉仕し,生活の必需品だけで満足しながら王国の音信を広めています。
もちろん,多くのクリスチャン女性は家族に対する責任を顧みなければなりませんが,それでも王国の関心事をいつも大切な位置に置いています。
「主にある者とだけ」結婚するようにとのエホバの助言に忠節に従うゆえに結婚していない,クリスチャンの姉妹たちについて考えてみましょう。
一人の姉妹はこう語っています。「わたしは主にある者とだけ結婚することを決意していますが,多くの涙を流してもきました。友人たちがとても良いクリスチャン男性と結婚するのを見ながら,自分は独りのままです」。
runさんが教えてくださった記事が興味深いので注解してみます。これは私の主観です。他の人の考えに反論するものではありません。
この記事では「クリスチャン」と「姉妹」に区別しています。記事の前半、1世紀においてイエスに奉仕する特権を得たクリスチャン女性は「油そそがれたクリスチャン」です。
例えに登場するグウェン、ボニー、スーザン、オリビアなどは「油そそがれたクリスチャン」だと思います。なぜなら、参照聖句がハガイ 2章7節であることからわかります。ハガイ 2章7節の「あらゆる国民のうちの望ましいもの」の引照が、啓示の「子羊の血で洗って白くした長い衣を着て」いる人たちだからです。
runさんが引用した「ひとり身でも貴重な姉妹たち」の「忠節な者」は「あらゆる国民のうちの望ましいもの」と共通しています。(サムエル第二 22:26)
「わたしは主にある者とだけ結婚することを決意していますが、多くの涙を流してもきました」とは、「わたしはエホバに忠節を保つように決意していますが、多くの涙を流してもきました」ではないでしょうか。「忠節な者」であり続けるには多くの涙を流すこともあるという意味だと思います。
しかしながら、記事全体は現代の多くの姉妹たちを励ますことが目的であり、「油そそがれたクリスチャン」かどうかを問うものではありません。現代の油そそがれたクリスチャン女性を励ますとともに、「忠実なクリスチャン女性 」に倣うように励ます記事ですね。
また、複数の筆者と翻訳者が正確に記述しているわけではありません。日本語表現は曖昧です。しかし、私は参照聖句にハガイ 2章7節を記述した筆者からの情報を感謝して受け容れました。長文失礼しました。
#11 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月12日 21:12:10
でも、普通に使ってますよね?ライブラリーでも普通に使っていますし、JW自体はそんなに拘ってないのでは?
例えば、下記ページを見るだけでも普通に「クリスチャン」という言葉を使ってますよ?
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2003803独身の人も結婚している人も,幾万というクリスチャン女性が開拓者や宣教者として奉仕し,生活の必需品だけで満足しながら王国の音信を広めています。
もちろん,多くのクリスチャン女性は家族に対する責任を顧みなければなりませんが,それでも王国の関心事をいつも大切な位置に置いています。
「主にある者とだけ」結婚するようにとのエホバの助言に忠節に従うゆえに結婚していない,クリスチャンの姉妹たちについて考えてみましょう。
一人の姉妹はこう語っています。「わたしは主にある者とだけ結婚することを決意していますが,多くの涙を流してもきました。友人たちがとても良いクリスチャン男性と結婚するのを見ながら,自分は独りのままです」。
普通にクリスチャンという言葉を使っているように思うのですけど…
それとも上記に挙げられているクリスチャン女性たちは皆「油そそがれた追随者」たちなのでしょうか?
runさん、返信ありがとうございます。runさんの疑問は非常に興味深いものです。
「JWでバプテスマを受けた人たちのことを『クリスチャン』と言いますよね?」については、「油そそがれたクリスチャン」「地的な希望を持つ人(人々、人たち)」という表現が用いられています。2015年頃までは「地的な希望を持つクリスチャン」という表現がありましたが、用いられなくなりました。
前述の#273において「2015年頃までは」クリスチャンという表現がありましたと説明しました。runさんの指摘した文書は2003年のものです。2016年以降は次第に用いられなくなりました。
runさんが教えてくださった「神の家=ベテル・ホーム=ものみの塔協会の本部や支部事務所で働くクリスチャンの自発奉仕者の住居のこと」の例と同じように、参照聖句と文章全体を読んで判断することをお勧めします。翻訳の問題も少なくありません。
「JW自体はそんなに拘ってないのでは?」という疑問については、私は他の人が拘っているかどうかその人のこころの中がわかりません。拘っている人もいれば、拘っていない人もいると思います。しかし、他の人の考えがどうであれ、私が口出すべきではありません。runさんの疑問は私の主観による答えではなかったのですか。
私は「地的な希望を持つ人(人々、人たち)」という表現を支持しています。しかし、現在、その人なりの考え方で公の宣言をする人々がいるとしても、それを排除したりしていません。それについては私も同様に支持しており、それでよいと思います。他の人のことについては何も言えません。私の説明が十分ではなかったことをお許しください。すみませんでした。
余談ですが、runさんが用いた「天的級」という表現も同じように用いられなくなりました。「天的な希望を持つ人」という表現に改められています。私に対しては、手持ち文書の「級」を目の前で抹消するように指示されました。口頭での言葉遣いも助言を受けます。ですから、この場合は他の人の考えを排除しないというのではなく厳格な命令だと思います。しかし、これもまた他の人がどうであるか私にはわかりません。
これは、私の主観です。正しいかどうかについては述べていません。また、他の人の考えに反論するものではありません。
#12 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月12日 05:07:56
ギリシャ語クリスティアノスのラテン語化された形で,クリスチャン・ギリシャ語聖書中に3回だけ出ており,キリスト・イエスの追随者,つまりキリスト教の唱道者たちを表わしています。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200000967「キリスト・イエスの追随者」、「キリスト教の唱道者たち」というのは、油そそがれた追随者(天的級)だけを指すものではないでしょう?
それともライブラリーで説明されている「クリスチャン」の項目は油そそがれた追随者(天的級)だけを指して語られているのでしょうか?
『洞察,第1巻』807–810ページ 「クリスチャン」における「クリスチャン・ギリシャ語聖書中に3回だけ出ており、キリスト・イエスの追随者、つまりキリスト教の唱道者たち」とは、参照聖句が全て「油そそがれた追随者」に関するものであることから、「油そそがれたクリスチャン」を指しています。
21世紀の現代社会におけるクリスチャンではなく、ギリシャ語聖書中に3回だけ出てくるクリスチャンが前提となって説明されています。当時、「神慮によってクリスチャンと呼ばれ」、超自然的な事柄、神託や神に関する事柄と結びつけられていることからも「油そそがれた追随者」だと思います。(使徒 11:26)
また、『洞察,第1巻』「クリスチャン」には、「地的な希望を持つ人(人々、人たち)」については全く書かれていません。啓示1章5節、 3章14節の「忠実な証人」というのは、エホバの証人のことではなくイエス・キリストです。
さらに、「地的な希望を持つ人(人々、人たち)」について明確に記述されたのは、1世紀末に記された『ヨハネへの啓示』巻末ですから、クリスチャンと呼ばれた西暦44年頃はまだ知られていませんでした。
#13 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月12日 03:22:42
ん?土の器のかけらさんの言葉は、やはり解り辛いものがあります。
土の器のかけら さんの発言:私は、神の家の者たち、油そそがれた追随者ではありません。クリスチャンではない私が正確に全てを理解することもできません。
「クリスチャンではない私」というのは、「私は天的級のクリスチャンではない」ということですね。
runさん、返信ありがとうございます。runさんのいうとおりです。念のため、「天的級」という意味が「油そそがれた追随者」という前提ならばです。
しかしJWでバプテスマを受けた人たちのことを「クリスチャン」と言いますよね?その点で言えば、貴方はクリスチャンですよね?
(恐らくバプテスマを受けた方であろうという前提で語ってしまいましたけど)
バプテスマの前にバプテスマの意義を説明する聖書的な話が行なわれます。その話の結びでバプテスマ希望者は、質問に答えることにより信仰に関する公の宣言を行なうように求められます。(ローマ 10:10)
バプテスマを受ける前には、神との個人的な関係を築き、聖書の基礎的な事柄を正確に理解し、献身に関係した事柄を明確に把握していなければなりません。どんな霊的進歩が明らかになっているか、神はご自分の僕たちにこの段階を踏むよう求めておられます。
runさんに、このような私がバプテスマを受けた者だと誤解を与えたとしたら、本当に申し訳なく思います。すみませんでした。
「JWでバプテスマを受けた人たちのことを『クリスチャン』と言いますよね?」については、「油そそがれたクリスチャン」「地的な希望を持つ人(人々、人たち)」という表現が用いられています。2015年頃までは「地的な希望を持つクリスチャン」という表現がありましたが、用いられなくなりました。
しかし、その人なりの考え方で公の宣言をする人々がいるとしても、現在、それを排除したりしていません。私はそれでよいと思いますし、他の人のことについては何も言えません。
「霊にしたがう者は霊の事柄に[向ける]」(ローマ 8:5)
#14 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 16:51:26
土の器のかけらさんは、聖書や神の存在は信じてはいるが、模範的な行動が出来ていない、もしくはする気がない、という事でしょうか?
リッチさん、書き込みありがとうございます。
前半の「模範的な行動が出来ていないという事でしょうか?」の答えは、そのとおりです。
パウロは「全くへりくだった思いと温和さとをもち、また辛抱強さをもって愛のうちに互いに忍び、結合のきずなである平和のうちに霊の一致を守るため真剣に励みなさい」と懇願しました。(エフェ 4:1‐3)私は全てにおいて「善い行いをする正しい人」とはいえません。したがって、できません、無理です、というのが答えです。
後半の「する気がない、という事でしょうか?」の答えは、私はこころの中で思考したことの全てを実行できるわけではありません。する気がないというより能力的に無理があります。
そうすると、あなたは神によって滅ぼされる側だと考えているのですか?
滅ばされる側かどうか私にはわかりません。私にはそれを考える権限もありません。また、被造物である人間存在が滅ぼされる側かどうか考えたりすると、エデンのときと同じ結果になると思います。
これは、私の主観です。正しいかどうかについては述べていません。また、他の人の考えに反論するものではありません。
#15 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 16:33:32
iris さん、私はルカ 20章34節から36節のイエスの言葉からもそのように考えました。
「死人の中からの復活をかち得るにふさわしいとみなされた者たち」とは、油そそがれた者たちが「神の王国にふさわしい者とされ」ています。(テサ二 1:5,11。ロマ 5:1,18; 8:1)
「神の王国にふさわしい者」と同じ意味の聖句については、啓示 3章4節で「彼らは白い[外衣]を着てわたしと共に歩くであろう。[それに]ふさわしい者だからである」と記述されています。
「彼らはもう死ぬこともないのです」、他の聖書翻訳では「彼らはもはや死に服することがない」「死は彼らに対してもう何の力もない」と訳されています。天に上げられ、不滅性を与えられた者たちです。(コリ一 15:53,54)
これは、私の主観です。正しいかどうかについては述べていません。また、他の人の考えに反論するものではありません。
#16 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 15:39:57
土の器のかけら さんの発言:記念式で表象物にあずかる油そそがれたクリスチャンは、 自分がイエスの「苦しみに」あずかり、自分が新しい契約の当事者であるという絶対の確信を持っている人々 です。(ルカ 12:32。フィリ 3:10。啓 22:5)
これがあなたの考える『クリスチャン』ということですか?
エホバの証人の中だけに、クリスチャンがいるのですね?
irisさん、返信ありがとうございます。
前半の「これがあなたの考える『クリスチャン』ということですか?」については、そのとおりです。
啓示 14章1節に「子羊がシオンの山に立っており、彼と共に、十四万四千人の者が、彼の名と彼の父の名をその額に書かれて[立っていた]」と記述されているからです。ルカ 23章43節の「今日あなたに真実に言いますが、あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」という聖句からもそう考えました。
後半の「エホバの証人の中だけに、クリスチャンがいるのですね?」については、エホバの証人の中だけに限定するかどうか、現在、わかりません。誰かが天への召しを受けたとしても、報いを受ける最終的な確証が与えられたわけではないからです。油そそがれた人が天での報いを得るかどうかは、誰にもわかりません。(啓 2:10; 7:3,14)
また、その人なりのクリスチャンという考えで表象物にあずかる人々がいますが、私は何も言えません。(啓 2:10; 7:3,14)ローマ 9章16節では「願う者にでも走る者にでもなく,ただ憐れみを持たれる神にかかっているのです」と書かれているとおりです。
また、ゼカリヤ8章23節の「十人の者が、ユダヤ人である一人の者のすそをとらえ、まさしくとらえてこう言う。『わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです』」という預言があります。
聖書は特定の人に従うことを決して勧めていません。指導者はユダヤ人である一人の者、イエス・キリストです。―マタ 23:10。
#17 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 14:41:35
被造物以外とは具体的になんですか?
神が創造した被造物以外という意味です。被造物以外ですから、被造物である人間は知ることができず、具体的に名前をつけることもできません。リッチさんの質問に答えることができません。すみません。
これは仮定ですが、神の力が及ばないのは被造物以外になると思いますが、被造物以外にも実現できる力があるかも知れません。どちらなのかよくわかりません。
もう一つの仮定ですが、人間が知ることのできない被造物以外というのは存在するかどうかについてを考察します。
現在、人間には未知なる存在が数多くあります。しかし、未知なる存在というのは人間が知らないというだけであり、存在そのものを否定していません。したがって、人間が知らないというだけでは存在を否定できないため、被造物以外の存在も否定できないと考えました。
#18 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 14:03:53
土の器のかけらさんの考える「クリスチャン」=「神の家の者たち」というのは、油そそがれた追随者(天的級)のことのようです。
irisさんの仰ること よく分かります。(^^;)
土の器のかけらさんはクリスチャンではなかったのですか?
なんか、ズコー(っていうAAが欲しい)ってな感じです。では、この辺で。
runさん、書き込みありがとうございます。
私は繰り返し同じ意味の答えをしてきたつもりなのですが、誤解を与えたならすみませんでした。
私は、神の家の者たち、油そそがれた追随者ではありません。クリスチャンではない私が正確に全てを理解することもできません。
#19 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 14:00:45
JWの2種類のクリスチャンのことは知っていますが、土の器のかけらさんのお考えは一般的なJWの考え方とはちょっと違う感じもしてよくわかりません。
もっと端的に、誰にでもわかるように書いていただければなぁともどかしい感じです。
irisさん、わかりやすい実例を考えてみました。
記念式で表象物にあずかる油そそがれたクリスチャンは、自分がイエスの「苦しみに」あずかり、自分が新しい契約の当事者であるという絶対の確信を持っている人々です。(ルカ 12:32。フィリ 3:10。啓 22:5)
しかし、これはそういう考え方があるという意味です。そうではない考え方、その人なりの考えの人々も多数存在します。
近年、さまざまな国々の記念式において、表象物にあずかる人々が増加してきたという数値的な事実があります。それは、前述の油そそがれたクリスチャンとは異なる考え方で、表象物にあずかる人々が存在するということです。
しかし、その人なりのクリスチャンという考えで表象物にあずかる人々がいたとしても、現在、その人を追い出したり排除したりしていません。私はこの考え方で、暫定的によいと思います。
#20 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 13:22:27
JWの2種類のクリスチャンのことは知っていますが、土の器のかけらさんのお考えは一般的なJWの考え方とはちょっと違う感じもしてよくわかりません。
もっと端的に、誰にでもわかるように書いていただければなぁともどかしい感じです。
irisさん、ごめんなさい。
「誰にでもわかるように」努力します。
結局、あなたの考える「クリスチャン」=「神の家の者たち」というのはどういう人のことなのですか?
ものみの塔の聖書研究のようにペトロの手紙の該当箇所から切り出すと、「神の福音に従って善い行いをする正しい人」となるのでしょうか?
神の福音、善い行い、正しい人、というのも、それぞれ人によって解釈が多様になりそうですが。
そうですね。人によって解釈が違うと思います。
クリスチャンというのはどういう人のことなのかということを、クリスチャンではない私が正確に全てを理解できるわけがありません。その前提で読んでもらえれば嬉しく思います。
「ペトロの手紙の該当箇所から切り出すと、『神の福音に従って善い行いをする正しい人」となるのでしょうか?』」という質問は、どの聖句を切り出すかにその人によると思います。私はペテロ第一4章全体の主旨を考えて、自分に当て嵌めてみました。
irisさんがペテロ第一 4章15節から19節(新共同訳)を提示してくださったことに感謝します。#247において、irisさんに答えているのですが、新共同訳など他の翻訳では少し異なるようですね。解釈も違ってきて当然かと思います。他の翻訳や参照聖句を調べてみたいと思います。
私は、正しいかどうかについては述べていません。また、他の人の考えに反論するものではありません。例えば「教会で洗礼を受けた人」がクリスチャンであるという考えを否定するものではありません。
#21 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 12:54:14
土の器のかけらさん、回答ありがとうございます。
聞き忘れていましたが、土の器のかけらさん自身は、「聖書を信じ、神の教えを守ろうとつとめ、神を崇拝する者」ですか?
土の器のかけら さんの発言:私の考える神とリッチさんの考える神が異なるという前提で考えると、リッチさんの神を崇拝する者ですかという質問になります。そうであるなら、私は違います。
いいえ、あなたが考えている神です。
あなたはあなたが考えている神を崇拝する者ですか?
リッチさん、質問の内容が変更になりましたか。
先の質問は3項目含まれていますが、次の質問は「神を崇拝する者ですか?」という1項目ですね。
先の質問の神の教えを守るかという質問には、私は神の教えを守り、全ての隣人を愛しますということができません、と答えました。別の例えでは、私は全てにおいて「善い行いをする正しい人」とはいえません。したがって、できません、無理です、というのが答えです。したがって、できません、無理です、というのが答えです。
「崇拝する者ですか?」という質問には、私は「クリスチャンとして苦しみに遭う」「キリストの苦しみにあずかる」ということができませんから、クリスチャンとして崇拝しているとは言えません。
また、崇拝とは言葉で「崇敬の念を示す」だけではなく、「霊と真理をもって」神のご意志に調和した振る舞いをすることです。もし、私が自分は崇拝する者だと言ったなら、その瞬間に嘘をつく罪を犯すことになります。
#22 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 05:24:44
#23 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 05:07:05
聞き忘れていましたが、土の器のかけらさん自身は、「聖書を信じ、神の教えを守ろうとつとめ、神を崇拝する者」ですか?
私の考える神とリッチさんの考える神が異なるという前提で考えると、リッチさんの神を崇拝する者ですかという質問になります。そうであるなら、私は違います。
また、リッチさんのいう「聖書を信じ、神の教えを守ろうとつとめ、神を崇拝する者」という意味が正確に理解できているわけではありませんが、例えば、私は神の教えを守り、全ての隣人を愛しますということができません。
これは私の主観です。正しいかどうかについては述べていません。また、他の人の考えに反論するものではありません。
リッチ さんの発言:所で、あなたは自分はクリスチャンだと思いますか?
私は自分自身が、ペテロ第一 4章15節から19節などのクリスチャン、神の家の者であると思いません。
#234において、リッチさんのこの質問にも答えています。
#24 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 04:36:05
土の器のかけら さんの発言:結論としては、リッチさんが考える神が騙す行為を行うか、行わないか、私には答えることができません。よくわかりません。
では神を土の器さんが考えているようなものと前提した時、その神は、聖書を信じ、神の教えを守ろうとつとめ、神を崇拝する者に対して、精神的、肉体的に傷つけるような偽る行動を行いますか?
私が考える神を前提とした場合、その神は、聖書を信じ、神の教えを守ろうとつとめ、神を崇拝する者に対して、精神的、肉体的に傷つけるような「騙す」行為を行いません。「偽りを言って騙す」というようなことはありません。
例えば、「お前を不幸にする」という嘘をつき、自分の家の者であれ、他の神々の崇拝者であれ、どのような者であれ、その人の心を傷つけたりすることはありません。(ヨハ一 4:16; ヨハ 3:16)
リッチさん、意味が曖昧で正確な理解ができませんが、一応、私の主観による神を前提として答えました。
#25 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年02月11日 03:31:44
ま、それはそれで、
聖書を信じ、聖書の神の教えを守ろうとつとめ、聖書の神を崇拝する者に対して、神は精神的、肉体的に傷つけるような偽る行動を行うか?
土の器のかけらさんが定義するクリスチャンの場合と、上記の場合の両方で答えて下さい。
リッチさんの考えるクリスチャンと私が考えるクリスチャンが見解の相違があることを、既に#230において告知しています。リッチさんも「私と土の器のかけらさんのクリスチャンは違うという事がわかったので」と書いています。
さらに、リッチさんによる現役の牧師さんの答えから「教会で洗礼を受けた人」ということも前提ですね。その前提でしたら、信仰している神が異なります。信教の自由の保障がされていますから、それはその人の自由であり不問です。
結論としては、リッチさんが考える神が騙す行為を行うか、行わないか、私には答えることができません。よくわかりません。
また、私が考えるクリスチャン(神の家の者)に対して、神は精神的、肉体的に傷つけるような騙す行為を行いません。例えば、「お前を不幸にする」という嘘をつき、自分の家の者の心を傷つけたりすることはありません。
(これは私の主観です。正しいかどうかについては述べていません)