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トピックレビュー(最新表示)

Jay
2021年01月07日 00:51:16

てつてつさん、ありがとうございます。

>時代も作者もちがう著者が書いたものをむりやりくっつけた本を全体で何を言おうとしているのですか という質問自体が成り立たないと思います

その通りだと思います。すなわち66の書をまとめた「聖書」にテーマを付したり、一つのことを殊更に強調して教えたりするのはナンセンスだと思います。


>あと各書については当然それぞれ 歴史を書こうとか 自分の信じていること書こうとか著者の目的あると思います

その通りだと思います。ですから私の書いたように何を言いたいのかは「書によって異なる」ことになるでしょう。


>>聖書って解釈と使い方によって、万華鏡のように変幻するものなんでしょうか???
>解釈は教祖の都合によって恣意的に変幻させることができるとおもいますよ

私の質問は聖書に親しみのない人が普通に思うことってこうなのではないか、という質問でした。
まさに解釈と使い方によってどんな主張も出来得ると思います。


>自分は聖書にスピリチュアルなものは全然ないと思っています 人間が自分の考えを書いたものだとおもっています

私もそう思います。それ以上でもそれ以下でもないと思います。


>>聖書って「そもそも」なんなんでしょうね?
>Jayさんは ものみの塔から アダムの創造と堕落 啓示の書の楽園の回復までものみの塔のオリジナルの一貫したストーリーを教え込まれて何かスピリチュアルなものを感じてしまうのでこのような質問がでるのかもしれませんね

いやこの質問も普通の人代表の質問です。インタビュアーが「このように言う人もいるかと思いますがいかがですか?」のようなものです。
この「そもそも何?」に対しては答えがない、と言うのが答えだと思います。

でもそのような「聖書」を時代を問わず世界中の人が手にし、読み、意見を戦わせ・・・・筆者(といっても一人ではないですが)にとっては「してやったり」かもしれませんね。


やはり、聖書は「オチのないミステリー」であり、自由にパーツをつなぎ合わせてストーリー構築しオチを想像する・・・・そういうものだと思います。なので別のトピックでも書きましたが、アカデミックな考察を一切しなかったのです。JWに関しても聖書に関しても、です。枝葉をとって議論や考察をしても無駄だと思います。十人十色の解釈と主張があるでしょうから・・・。それよりも感覚的に捉えればそれだけで「おかしいぞ」というのはわかります。

聖書(とJW)に忖度して擁護する必要はないと考えます。各自が思いたいことを思い、信じたいことを信じ、やりたいことをする、つまるところこれしかないのですから・・・。

てつてつ
2021年01月06日 16:26:28

>てつてつさんは「聖書は何を伝えようとしているのか?」についてはどのように思われますか?

以前からいっているように 時代も作者もちがう著者が書いたものをむりやりくっつけた本を全体で何を言おうとしているのですか という質問自体が成り立たないと思います
もちろんものみの塔をはじめとする色々な宗派の解釈はたくさんあると思います

あと各書については当然それぞれ 歴史を書こうとか 自分の信じていること書こうとか著者の目的あると思います

一例 申命記は当時の宗教指導者たちの利益誘導のために書かれたと思います てつてつのブログ

他 福音書は史実ではなく筆者の神学だと思います

>もしそうならJWがするように旧約新約の両方から都合のいい聖句を拾って話をするのはどうなんでしょう? 作り話の部分の正当性を正確な部分で説明したり、正確な部分を歴史の記録ということで済ませ不正確な部分をことさら強調したり。。。。
聖書って解釈と使い方によって、万華鏡のように変幻するものなんでしょうか???

解釈は教祖の都合によって恣意的に変幻させることができるとおもいますよ

ものみの塔のもっとも基盤となる1914年の教理だって 元統治体のレイフランズさんは以下のようにいってますし

しかし、今日のエホバの証人で、次のことを知る人はほとんどいない。すなわち、ほとんど半世紀にわたって(一八七九年から一九一一○年後半に至るまで)『ものみの塔』その他の出版物に公にされていた年代預言の数々は、先に挙げたすべての教義と基本的に正反対のものだったことである。私自身、ずっとこれには気づかなかった。後になって、五十年近くにわたって『ものみの塔』誌という「経路」が先に挙げた教義内容の一つ一つについて異なった年代を当てはめていたことがわかった。また、その理由もわかった。かって一九一四年について期待されていたことがはずれたため、預言の成就とされる事柄に新たな年代が当てはめられていったに過ぎなかったのである。

というわけで 自分は現在一般にいわれている聖書とは ある人たちがそれぞれの考えで本を書き 後の時代にそれを色々な人が解釈し またそれぞれの信条に合わせてそれを編纂したり 合わせたり省いたりしたもの だと思います 仏典なども同じ経緯をたどっていると思います それでその解釈を信じる人が多ければ宗派になるし小さければ個人的な解釈またはグループと呼ばれるのだと思います
自分は聖書にスピリチュアルなものは全然ないと思っています 人間が自分の考えを書いたものだとおもっています
それで聖書と一口にいっても 自分たちが学んだのは創世記から啓示の書までの聖書と呼ばれるものですし たぶんカトリックの聖書はこれに外典を加えたもの プロテスタントなら新約の部分だけ ユダヤ教ならモーセ5書だけ
などと世界ではもっと多岐にわたると思います

>聖書って「そもそも」なんなんでしょうね?

Jayさんは ものみの塔から アダムの創造と堕落 啓示の書の楽園の回復までものみの塔のオリジナルの一貫したストーリーを教え込まれて何かスピリチュアルなものを感じてしまうのでこのような質問がでるのかもしれませんね cry


オマケ
仰天さん>ヨハネの黙示録/ 02章 04節
「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 」

たいていこの聖句はキリスト教からはなれてしまったことを嘆く意味で使うと思いますが

真逆の意味「ユダヤ教から離れた」と 田川さんは解釈してますね
というわけで聖句の意味の解釈も人によって様々かと思います

Jay
2021年01月06日 10:38:48

仰る通り聖書を「一冊」の本と捉えるのには無理があると思います。なので中には正確な書もあればそうではない書もあることには同意します。

てつてつさんは「聖書は何を伝えようとしているのか?」についてはどのように思われますか?

書によって違うとは思いますが・・・・もしそうならJWがするように旧約新約の両方から都合のいい聖句を拾って話をするのはどうなんでしょう? 作り話の部分の正当性を正確な部分で説明したり、正確な部分を歴史の記録ということで済ませ不正確な部分をことさら強調したり。。。。

聖書って解釈と使い方によって、万華鏡のように変幻するものなんでしょうか????
聖書って「そもそも」なんなんでしょうね?

てつてつ
2021年01月06日 09:19:25

jayさん書き込みありがとうございます

聖書を全体を一冊として論じるのは時代も背景も著者も違うのでかなり乱暴かなと感じますjayさんの以前いわれたようにフランケンみたいな本だと自分も思ってますので

正確な部分もあれば 作り話のとこもあると思います
一例 正確な部分はダビデからゼデキヤあたりまで続く王様の支配した期間などかなと思います おかげでエルサレムの滅んだ年がものみの塔がいう前607年ではないことがわかると思います

作り話と思われる部分 アブラハム時代にラクダはこのあたりで使役されていなかったのでまちがい 出エジプトはなかった ソロモン時代の栄華 ノアの洪水 あと最近では聖書についての質問さんが上げたアサ王の100万人の戦いなどはなかった 等

Jay
2021年01月06日 04:23:46

「聖書の記述は真実なのか?」という素朴な「そもそも疑問」です。皆様のご意見をお聞かせいただければと思います。ですからこのトピックは意見交換トピックです。

神は最初の人間アダム、そしてその骨からエバを作られた。彼ら二人は完全な人間であり、死の概念はそこにはなかった。二人は罪を犯した故、神から有罪宣告を受け死ぬようになった。聖書はその経緯と救世主であるイエスを人類に送るまでの記録書であり、またイエスの教えを守るものたちに再び永遠の命を与える指南書でもある。

聖書とその内容の一面をまとめるとこうなりますが、これって変ではないでしょうか?

理由
1)完全な人間として永遠の命を享受したものが一人も存在しない。故に、人間は初めは「死するものではなかった」ということを証明することは不可能。そもそも人間は永遠の命などとは無縁で「常に死にゆく生物」であったのではないか?
2)永遠に生きた人間は過去にも存在しない理由を、「最初の人間が死ぬようになった」で、かたずけているだけなのではないか?
3)生物としての人間は死を恐れ、永遠の命を求めるという概念を持つようになった。故に、「なぜ人間は死にゆくのか?」という疑問に思いを巡らせ、この疑問に対する答えとして識者が「こういう経緯で死ぬようになった」というストーリーを作ったのではないか?
4)そして、「人間は初めは永遠の命を持っていた & こうすれば永遠の命を再び手にすることができる」という命回復アイデアを織り込んだのではないか?
5)しかしそのような方法など存在しえない。故に、聖書の言葉はどうとでも解釈できる不可解な言い回しになってしまったのではないか?
6)とは言え、聖書が単に不可解な書では広く認知されない。そこで、認知されるためには、ある程度「実用書」であることも必要だった。故に著者である識者は多くの知恵と教訓をそこに書き込んだ。
等々・・・。

聖書は人間の本能に訴え、願望をくすぐる書だった故にベストセラーになったのではないか? と感じるのですが、如何でしょうか? 聖書を貫いているテーマは「王国」と言いますが、それはミスリーディングのような気がします。いつの時代も平民は生きづらいものです、食べるに困り、職を失い、病気にもなります。そして本能として「生活が豊かになり長生きしたい」と思います。そこを巧みに刺激する書が「聖書」なのでは? もしかしたら、「これであなたも大金持ちになれる!」という本が人の願望をくすぐり、人気を博するのと大差ないのかもしれません。そのような本でも「有益な知恵」が多く盛り込まれていたら、ある程度認知されロングセラーになりうるかもしれませんし。

皆様にお伺いいたします。
聖書の記述を真実だと信じている方々は何故そう思うのでしょうか?また、聖書の記述を真実だと信じていた方々は何故にそう思われたのでしょうか?

伺うだけではフェアではないので私の回答を書いておきます。
「聖書の内容を知ったのはJWとの聖書研究が初めてでした。のっけから「これは真理です」「聖書は予言(&預言)の書であり、多くの成就を見てきました」「今の世代にうちに間も無く終わりがきます」「エホバの証人だけが救われ、永遠の命を受けます」というインプットがあり、そこからスタートしたからです。自分で調べて真理だという結論が出たわけでも、自分で体験してそう思ったのでもありませんでした。シナリオ的聖書研究によってそう教えられただけです。恥ずかしながらそこに自分の考えは入っていませんでした。それ以後はただレールを歩むだけでした。「聖書は本当に神の言葉ですか?」という公開講演も出張講演を入れたら20回ほどしたと思いますが、もちろんその講演内容に自分の考えを入れることはできませんでした。あれも全てシナリオ通りの結論ありきですから。」

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