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- ジョエル
- 2024年10月04日 23:14:32
旧約は亡国の歴史を歴史家ではなく宗教者が事後にまとめた資料なので大抵の王は悪く書かれますよね。
ユダ王朝滅亡の流れを決定づけたとされる、ヤハウェ崇拝の宗教改革者でもあったはずのヨシヤの敗死(このあたりから旧約と古代オリエント史の整合性がほぼ取れていますが、JW歴史はエルサレム陥落をBC607にしているのでカルケミシュの戦いやらニネベ陥落やら何から何まですべて20年ずれている)も「神の口から出たネコの言葉を聞かなかった」からだと、意味不明の苦しい理由が挿入されています。
十字軍にエルサレムを奪還されてアラーの加護があるはずなのになぜキリスト教徒に負け続けるのかと問われれば、宗教者は王たちがツミブカイからだと、神が無力なのではなく指導者を悪者にするしかない、一神教の思想は同じです。
- 聖書についての質問
- 2024年10月04日 14:25:30
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“イスラエルの王たちから学べること(30)”で、古代の王様の話を取り上げて、組織に従えと信者に強要する内容です。」
「聖書によると古代のイスラエルの王たちにはろくな人がいないことになっている。これは宗教原理主義者の評価だから、相当偏った評価。今だと、JWの統治体がアメリカ大統領を評価するようなもの。」
「3節に“この記事では,エホバがイスラエルの王たちのどんな点に注目していたかを考えます。心の全てがエホバに向いていたか,罪を心 から悔い改めていたか,真の崇拝をしっかり支持していたかという3つの点です。”と要約してくれています。」
「英文ではthree factors that Jehovah evidently took into considerationで、エホバが明らかに考慮された3つの要素と言っている。”明らかに”が出てくるときは根拠がない時なんだよね。この3つを注目していたなんて言う聖句はない。」
「4から7節が“心の全てがエホバに向いていたか”です。 4節では“良い王だったエホシャファトは「心を尽くしてエホバに仕え」ました。(代二 22:9)また,ヨシヤについては聖書にこうあります。「ヨシヤのように……心を尽くし[て]エホバのもとに戻ろうとした王は後にも先にもいなかった」。(王二 23:25)”とあります。」
「エホシャファトについては、列王一22:43では、“しかし高い場所は取り除かれなかった。民は依然として高い場所で犠牲を捧げたり,犠牲の煙を立ち上らせたりしていた。”とあるよ。これは問題ないわけね。」
「“高い場所”とはどんなものですか?」
「山の頂上など高い場所にある宗教施設で、多くは柱のような石が置かれていた。その石に神が宿るとされていたようだね。そばに祭壇があり、そこで犠牲を捧げていたと思われる。」
「歴代二17:6には“彼は意欲的にエホバの道を歩み,高い場所と聖木をユダから取り除いた。”とあります。“高い場所”は問題なので、後の時代に書かれた歴代誌では修正したわけですね。」
「列王記ではエホシャファトは一の22:1-36、41-50に書かれているにすぎないけれど、歴代誌では二の17:1から20:37までとなんと4章も費やして書かれている。歴代誌ではエホシャファトは理想化された王になっているけれど、史実性はほとんどないでしょう。」
「歴代二17章によると、エホシャファトの軍勢は116万人です。サムエル二24:9にはダビデ時代の人口調査でユダには50万人いたことになっています。100年もしないうちに2.3倍以上になっていることはあり得ません。それだけの人口増加に伴う食食糧生産の伸びがなければ大多数は飢え死にします。」
「ダビデ時代にユダに50万人の男性がいたことさえありえない。それをさらに誇張したのが歴代誌。古代では農業の生産性の伸びはほとんどないわけで、人口増加の余地もほとんどない。人類の人口が急激に伸びるのは産業革命以降。」
「ヨシヤ王は良い王の代表ですが、その最後は列王二23:29に“ヨシヤ王はネコに立ち向かおうと出ていった。ヨシヤを見たネコは,メギドでヨシヤを殺した。”と言うものです。良い王でもエホバは何もしてくれません。」
「歴代二34:28では“私はあなたを先祖たちと共に横たわらせ,あなたは安らかに自分の墓に入る。”と女預言者フルダが神の言葉を伝えている。ここで言う“あなた”とはヨシヤ王のこと。ヨシヤ王の死は安らかじゃなかったよ。良い王に対する約束も守っていないよ。」
「6節が現代のJW向けの指示です。“例えば,息抜きをする時に不健全なものを見たり聞いたりするなら,心がエホバからそらされることがあります。良くない交友や,お金や物を愛する考え方にも注意が必要です。”というものです。これはイスラエルの王とは無関係ですよ。」
「イスラエルの王の話は、聖書を学んでいるという幻想を維持するためにあるだけだね。信者を管理統制するというのがこの記事の主旨。」
「7節も現代のJW向けの指示です。” 世の中には,冷たい「空気」のような,神を敬わない態度が広まっています。それで,良くない影響が入り込んで心がエホバからそれてしまうことがないように,いわばドアを閉める必要があります。(エフェ 2:2)”というものです。JW以外の人と付き合うな、JW以外の情報を締め出せ、というカルトらしい指示です。」
「JWをやめた人にはドアを閉めて付き合うなということでしょう。そうしないと信仰が維持できないほどJWの信仰はもろくて崩れやすいからだね。」
「引照聖句に“人々に影響を及ぼしている空気の支配者に従って歩んでいたのです。その空気つまり精神は,不従順な人たちに行き渡っています。”とありますが、誤訳ですよ。“空気の支配者”ってなんですか?酸素の量を調整しているのですか?“空気つまり精神は”は翻訳者が付け加えた説明ですよ。」
「JW訳の英文はthe ruler of the authority of the air, the spirit that is now at work in the sons of disobedience.となっている。the airは空気ではなく、空、空中でしょう。空気なら単なるairだよ。the spiritは精神ではなく霊。」
「空気の支配者ではなく、空中という領域にある権力という意味なわけですね。つまり悪魔のことです。」
「協会共同訳では“空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。”だね。JWの日本語訳は“霊”を嫌って、勝手に“精神”に変えているのがおかしいね。」
「8から11節は“罪を心から悔い改めていたか”です。 ダビデとヒゼキヤが出てきます。二人とも心から悔い改めたそうです。ダビデの場合、その根拠が“詩編 51編の表現を見ると,心から悔い改めていたことが分かります。”というものですが、詩編51はダビデが作者ではないですよ。」
「表題にダビデの歌とあるけれど、それは後の時代に付け加えられたもの。内容からして、ダビデの時代でない。」
「詩編51:18,19は“憐れみを掛け,シオンに善いことを行ってください。エルサレムの城壁を築いてください。 その時,あなたは正しく捧げられる犠牲を喜びます。”とあります。これはエルサレムの城壁が壊され、犠牲を捧げる儀式が正しく行われていない時代のことですよ。」
「詩編51はバビロン捕囚後につくられたもので、個人の懺悔ではなく集団の懺悔だね。」
「10節がアマジヤ王の話です。“ユダのアマジヤ王は正しいことを行いましたが,「心を尽くしてはい」ませんでした。(代二 25:2)”とあります。11節が現代のJWへの教訓ですが、これまたほとんどそれまでの話と関係ありません。」
「11節には“もし,ささいに思えるような点について会衆の長老たちから助言を受けたならどうでしょうか。”と問いかけているけれど、3人の王は些細なことで助言を受けたわけじゃないよ。長老は古代の預言者に相当する人物でもないでしょう。」
「11節の教訓は“間違いを正された時,(1)謙遜に受け入れ,(2)必要な調整を行い,(3)心を込めてエホバへの奉仕を続けてください。”というものです。なにがあっても奉仕を続けなくてはいけないわけです。」
「間違いを正された時、反省の意を表すために、1年ほど集会に行かず自宅に謹慎するというのもありだと思うよ。JWは集会が大好きだから本当につらいだろうけどね。。」
「12から19節が” 真の崇拝をしっかり支持していたか”です。 12節に” エホバは真の崇拝をしっかり支持した王たちを忠実な人と見ました。”とあります。王の評価は宗教政策だけで決まるというようです。」
「それは列王記や歴代誌を書いた人が宗教原理主義者でそれ以外の尺度を持っていない偏った人だったということ。」
「13節は“邪悪な王アハブ”が取り上げられています。“よく知ら れている通り,妻の影響を受けて間違った崇拝を広めました。”とありますが、現代風に言えば寛容な宗教政策をとったということじゃないですか?」
「アハブの支配した地域にはかなりの数のカナン系の人がいた。彼らの宗教を否定し、イスラエルの宗教を強要すれば国の安定が損なわれる。それは今でいえばイスラム教の人が相当いる国でキリスト教を押し付けるようなもの。」
「アハブは賢明な王ということですね。でも宗教原理主義者から見ると、なぜイスラエルの宗教をカナン人に押し付けないのか、と憎まれたわけですね。」
「聖書の作者は宗教にしか関心がない人。前853年に、アハブはアッシリア軍とシリアのカルカルで、シリア・パレスチナ連合軍の一員として戦って、アッシリア軍を退けたことが、アッシリアの年代記に記録されている。当時の大戦争だったはずだけれど、聖書は全く無視している。悪役としてアハブを描くことしか関心がない。」
「16節が現代のJWへの教訓です。“どんなことを学べるでしょうか。私たちは間違った崇拝を避けることを決意していなければなりません。それだけでなく,真の崇拝をしっかり支持し,それに励む必要もあります。”とあります。JW活動に励む必要があるようです。」
「16節の最後では、“エホバに仕えるのをやめるなら,それは重大な罪になってしまいます。”と脅迫している。カルトらしいね。JWをやめると間もなく滅ぼされるわけだ。」
「17節で突然結婚相手の話になります。“ある人に魅力的なところがあるとしても,エホバに仕えていないなら,今その人はエホバから見て正しい人といえるでしょうか。”と言っています。つまりJW以外の人と結婚するなということですね。」
「となると、女性の多いJWでは、半分くらいの女性JWは結婚できないということになる。誰と結婚するかも自分で決められない宗教はさっさとやめよう。」
「18節は親に向けてです。“聖書を学ぶこと,集会や伝道に参加することなど,エホバとの絆を強める活動を何よりも優先させてください。そのようにする大切さを言葉や手本によって教えましょう。(マタ 6:33)そうしないなら,子供たちは「自分がエホバの証人なのは家の宗教だから」と考えるようになるかもしれません。”とあります。JWの子どもがJWをやっているのは親がJWだからなのは当たり前じゃないですか?」
「その当たり前のことを否定しようという訳だ。子どもがJWなのはエホバが大好きだからです、と思わせたいようだね。でも、JW以外の家に生まれたらJWになんか絶対ならない。家から出られるような年齢になったら、さっさと家を飛び出し、JWと縁を切るのが大多数だよ。」
「19節は、JWをやめた人に向けてです。“悔い改めてもう一度エホバのもとに帰ることは可能です。でも,そのためには長老たちの助けを謙遜に受け入れなければなりません。”とあります。」
「JWに戻るのなら、JWの言う“大患難”が始まってからの方がいいよ。それでも楽園に行けるというのが現在の教義。焦ってJWに戻って、長老にこき使われる必要はないよ。」
「19節の下に“あなたもエホバのもとに帰ることができます”という囲み記事があります。マナセ王の話です。マナセ王は悪いことを色々し、“捕らえられてバビロンに連れていかれた時”に“苦難の中,「謙遜にな」って「祈り続け」ました。その結果どうなったでしょうか。エホバはマナセの祈りを聞いて,「その懇願に心を動かされ」ました。そしてマナセを許し,エルサレムに帰らせ,王位に復帰させました。(代二 33:12,13)”とあります。すぐに諦めず、しつこく祈ることが大事のようですが、このマナセの話は史実性ゼロですよ。」
「マナセはアッシリアが全盛期だったころの王で、アッシリアの忠実な臣下だった。アッシリアの宗教も積極的に取り入れた。そうしなければちっぽけなユダ王国はたちまち滅ぼされたよ。マナセは50年以上も君臨し、平和を保った。宗教原理主義者から見れば悪い王だけど、一般のイスラエル人からみればとてもいい王。」
「アッシリアが捕らえたマナセ王をなぜアッシリアではなくバビロンに連れて行くのですか?これは歴代誌にしか書かれていないことですが、バビロン捕囚と混同していますよ。」
「歴代誌二33章には、マナセがバビロンに連れていかれて、回心し、帰国後異教崇拝を排除したことが書かれているけれど、これは最も悪い王が50年以上平安の内に君臨したという不都合な真実を、宗教原理主義の立場から合理化するための創作と見るべきで、アッシリアの記録にもないし、史実性はない。」
「最後の20節の結論は“大切なのは,忠実な王たちのようにエホバだけに心を向けて仕え続けることです。”というものです。でも、最も忠実な王はヨシヤ王ですよ。列王二23:25では“ヨシヤのように,モーセの律法全てに従って,心を尽くし,力を尽くし,自分の全てを尽くして,エホバのもとに戻ろうとした王は後にも先にもいなかった。”と絶賛しています。でもその最後はエジプトの王によって殺されるという悲惨なものです。」
「そういう訳で、この記事ではヨシヤ王のことは軽く触れる程度。不都合だからだね。まあ、エホバに使え続けても、ろくなことにはならない。これが古代イスラエルの王から学べることだね。」
- 聖書についての質問
- 2024年09月27日 14:50:19
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“誘惑に負けないように用心する(29)”で、ポルノを避けるようにという内容です。」
「ポルノはJWのお気に入りのテーマだね。ポルノを見ている人は間もなくハルマゲドンで殺されます、とはっきり書いてくれたら、ポルノ大好きなJWも多少控えるかも。」
「JWにとってポルノはあたかも人類最大の問題のようです。」
「ポルノ好きのJWを誘惑に弱いダメな人間と思わせて、組織に依存するよう仕向ければ組織としては満足なのだろう。」
「1節に“「もっとも,心は強く願っていても,肉体は弱いのです」。*(マタ 26:41後半)この言葉から,イエスが私たちの弱さを理解してくれていることが分かります。さらに,自信過剰に気を付けなければいけないということも学べます。”とあります。脚注を見ると“正しいことをしたいという気持ちを指して「心」という表現を使いました。そして,「肉体」という表現を使って,人間は罪深くて完璧ではないので,悪いことを考えたり行ったりすることがある,ということを強調しました。”とあります。違いますよ。そこに書かれている通りの意味ですよ。」
「まず英文ではspirit(霊)で、それを“心”に変えている。霊は心ではない。このイエスの発言は、精神は気高くとも肉体的な弱さを抱えているのが人間だと言っている。」
「さらに1節では“でも,恐れを感じると,その決意が簡単に揺らいでしまうということに弟子たちは気付いていませんでした。それでイエスは,「ずっと見張っていて絶えず祈り,誘惑に負けないようにしていなさい」と言いました。(マタ 26:41前半)”と言っていますが、違うでしょう。」
「“誘惑に負けないように”と言うのは、イエスが弟子たちが寝ているのを見てペテロに向かって言ったもの。眠ってしまいたいという誘惑に負けないようにという意味。でも、弟子たちは26:43で再び眠ってしまう。眠たさに負けてしまった。肉体は弱いね。」
「4から7節が“どんな分野で用心するか”です。 具体例として出てくるのが、“また,マスターベーションをすることやポルノを見ることなど,汚れた行いに強く引かれる人もいます。”です。小さな子どもに対する配慮が全くないのがJWです。」
「集会中に子どもが、“お母さん、マスターベーションってなあに?”と聞いたら、どう教えるのか知りたいね。」
「マスターベーションを禁じる聖書的根拠はありませんよね。」
「誕生日はダメとか、ヒゲはダメというのと同じで、聖書的根拠はない。でも、塔11/11の“性に関する10の質問とその答え”と言う記事に、“しかし,クリスチャンに対して,「淫行,汚れ,[みだらな]性的欲情……に関して,地上にあるあなた方の肢体を死んだものとしなさい」と命じています。―コロサイ 3:5。”とあり、コロサイ3:5がマスターベーション禁止の根拠のようだ。でもこれは拡大解釈だね。」
「その記事のその次に“マスターベーションは,性に対する歪んだ自己中心的な見方を助長します。”とありますが、根拠はありませんね。単なる決めつけです。」
「“あなたの若い時代,それから最善のものを得る”と言う本の第5章“マスターベーションと同性愛”には、“実際,マスターベーションは同性愛に至ることがあるのです。”と、見てきたようなウソを書いている。性に関して根拠のないデタラメを言うのがJW。」
「これほどマスターベーションとポルノを取り上げるのに、児童性的虐待は取り上げません。優先順位がおかしいです。」
「性の問題を取り上げるのは、組織は個人の私生活に対して無制限に介入できることを示すためで、性犯罪をなくしたいわけじゃない。」
「8から16節が“どうすれば誘惑から自分を守れるか”です。 8節で“格言 7章に出てくる若者の例から学びましょう。その若者は不道徳な女性と性的不道徳を犯しました。”とあります。性的な問題がしつこく取り上げられます。」
「格言7章は若者が女性に誘惑されるという話だけれど、JWなら若者に焦点を当てるのではなく、誘惑する女性に焦点を当てるべきだよ。」
「独身中年の不気味な姉妹が同じ会衆の少年に手を出すという話はありますからね。そういうことはやめろとこの記事ではっきり書いて欲しかったです。」
「楽園が来たらみな若くなるから年の差なんて関係ないというJW特有のトンデモ理論がそういうことを助長させている。それは少年に対する性的虐待。そういうことに厳しく対処しないと、若い人はますますいなくなるよ。」
「8節に“22節には「突然」その女性に付いていったとあります。でも,前の部分を見ると,若者が幾つかの段階を踏んで徐々に罪に近づいていったことが分かります。”とあります。格言7:22は “突然,彼はその女性に付いていく。ほふられに行く雄牛のように。足かせ台に行って罰せられる愚かな人のように。”ですが、後半の訳がヘンですよ。」
「協会共同訳では“屠り場に行く雄牛のように/罠に急ぐ鹿のように。”となっている。JW訳のもとになっているヘブライ語の読み方は古い昔の読み方。“足かせ台”と訳されているヘブライ語にはそのような意味はない。ヘブライ語の本文が破損しているということだね。ここは若者を動物にたとえているところなので、JW訳はおかしい。」
「10節に“ソロモンが書いたことは,エホバを崇拝している人の誰にでも起き得ることです。”とあり、格言の作者をソロモンとしていますが、違うでしょう。」
「仮にソロモンが作者だとしても、ソロモンは1000人の女性を抱えていた王だよ。そんな人が性道徳を説くこと自体バカバカしい。お前がゆうな、と言われるだけ。」
「11節で“どんなことを学べるでしょうか。罪を犯すことだけでなく,それにつながる行動も避ける必要があります。”と言っています。また、“罪につながる状況から遠く離れているようにしましょう。”と言っています。これはポルノ禁止を正当化するための詭弁ですね。」
「滑りやすい坂の詭弁というもの。JWがよく使うね。滑りやすい坂では一歩でも踏み出したら、滑って坂道を転げ落ちて死んでしまうから、一歩も近づくなと禁止を正当化する。ポルノを一度見ると、そのままずるずる進んで性犯罪者になるから、ポルノは一切ダメといっているようなもの。」
「11節では“また,「彼女から遠く離れていよ。彼女の家の入り口に近づいてはならない」とも書きました。(格 5:3,8)”とあります。そういうことなら、集会でも男女別に分けるのはどうでしょうか?男性席と女性席を指定するのです。」
「それでもまだ危険だ。女性は全員ズームで参加することにしたらいいよ。集会参加は男性だけの特権とする。イスラム教を見倣おう。完全に男女が一緒になることがないようにしないと会衆の全員が淫行の罪を犯して、間もなく滅ぼされることになる。命を守るために、直ちに完全に男女を分離しよう。」
「12節にはヨブが登場です。“ヨブは女性をみだらな目で見たりしないように,「自分の目と契約を結」びま した。(ヨブ 31:1を読む。)そのような強い決意を持っていたので,姦淫を犯す危険から遠く離れていることができました。”とあります。しかし、ヨブの時代は一夫多妻が認められていたわけですよ。このヨブの態度はその時代にそぐわないですよ。」
「ヨブは子どもたちを全員殺されてしまうけれど、新たに10人の子どもをもうけたことがヨブ記42章にある。この10人をヨブの妻一人で産んだとは考えにくい。この物語の初めの時点でヨブの妻はそれほど若くないよ。ということは、ヨブは病気が快復した後、好みの若い女性を何人か妻に迎え、それぞれに子どもを産ませたというのがもっともありそうなこと。」
「ヨブ31:1には“私は自分の目と契約を結んだ。だから若い女性に対して不適切な関心を向けることなどできない。”とありますが、第2、第3の妻にするためなら、若い女性に関心を持っても、それは不適切な関心を向けたことにはならないわけですね。」
「訳がヘンだよね。“不適切な関心”なんてJW用語みたい。そんなことをヨブは言わないよ。協会共同訳では“どうしておとめに目を注ぐことがあろうか。”となっている。」
「13節には“私たちはどんなことを考えるかにも注意を払う必要があります。(出 20:17)良くない空想にふけっても,実際に行動に移さなければ問題ないと考える人もいます。でもそれは間違っています。”とあり、信者の空想まで管理するつもりです。」
「性的な空想をしていると、性犯罪者になる、というのがJWの理論なんだよ。もしそれが本当ならこの世は性犯罪者だらけになっている。」
「14節では“エホバのおきてを守ることは必ず自分のためになる,という強い確信を持つことが大切です。”とあります。ここでいう“エホバのおきて”とは組織が決める恣意的なルールのことですよ。それが必ず自分のためになるなんてことはありません。女性はスカートでなくてはいけないというルールは女性のためになりましたか?なりませんよ。」
「何と言っても輸血に関するルールは自分のためにならないことは明白。自分を大事にする人はJWをやめよう。」
「16節では“クリスチャンの活動にできる限り打ち込むことです。集会や宣教に参加している時には,悪いことをしたいという誘惑は感じにくくなり,エホバに喜んでもらいたいという気持ちが強くなります。”とあります。それはウソでしょう。集会中に良からぬことを考えるJWはたくさんいますよ。」
「JW活動のことを“クリスチャンの活動”と呼ぶのはヘンだよ。教会ではなく王国会館、十字架ではなく杭と変更し、クリスマスは絶対祝わないくせに、なぜかクリスチャンとは呼ばれたがる。エホバの人でいいでしょう。」
「悪いことをしないように、誘惑に会わないように、JW活動をするというのはヘンな理屈です。」
「それぐらいしかJW活動の意義はないのかも。」
「17から19節が“いつも用心している”です。 16節で終わっていいのに、この記事は無駄に長いです。17節ではペテロがダメな例として取り上げられています。」
「でもペテロはポルノの話とは関係ないよ。おかしいよ。」
「18節が体験談です。やっと出てきました。“10年間ポルノを見なかったので,もう大丈夫だと思っていました。でも,ふとした時にポルノを見たいという衝動に駆られることがあるので,油断できません。”とあります。ポルノの怖さを誇張していませんか?」
「誇張しているね。ポルノは麻薬と同じです、と言っているようなもの。」
「宗教とポルノ依存に対する自己認識に関連性があるんですよね。」
「信心深い人々ほどその実体に関わらず、自らをポルノに依存していると信じ込む傾向にあるようだ。宗教は人間の罪悪感を増幅させるということだね。」
「19節に“格言 28章14節にある通り,「いつも用心している人は幸福」です。”とありますが、この訳はヘンじゃないですか?」
「“用心している”が問題だね。“恐れる”でしょう。同じ単語が格言3:24で使われているけれど、JW訳でも“横になる時,恐れを感じることはない。”と訳しているよ。協会共同訳では“幸いな者とは常に主を畏れる人。”となっている。これが妥当な訳でしょう。」
「JW訳は簡単な文でも信用できないことがよくわかりますね。」
「JWにとって聖書は自分たちの教義を裏付ける道具だから、しばしば教義に合わせて訳も変える。“いつも用心”はJWのお説教に使えるからね。」
「最後の20,21節は“いつも用心していることには大きな価値がある”です。 20節で“罪に伴うどんな「つかの間の快楽」も,エホバの基準に沿って生きることから来る幸せとは比べものになりません。”と根拠のないことを言っています。エホバの基準に従って生きることは少しも幸せではないので、基準自体が時々変わるわけですよ。幸せなら基準を変える必要はありません。」
「JWがいうエホバの基準って具体的にどんなことか書いて欲しいね。そうしないのは、具体的に書けば幸福とは無関係だということがはっきりわかるから。それで、いつも抽象的に言うだけ。」
「その後に“私たちはエホバに従って生きることで幸せになるように造られているからです。(創 1:27)”と言っていますが、引照聖句はそんなことを言っていません。“それから神は人を自分に似た者,神に似た者として創造した。”とあるだけです。」
「その聖句からは、少なくとも人間は奇妙なカルト組織に従って生きるようには作られていないということは言える。幸せになりたいなら、さっさとやめようJW。」
- 聖書についての質問
- 2024年09月20日 15:58:38
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“真理を見分けていますか(28)”で、JWにとってよくない情報はニセ情報だから信じるな、統治体は頼りなく見えても信じろ、という内容です。」
「裁判で組織が負けたり、長老が性犯罪でつかまったりというニュースが続くと組織は予想していて、それに対するダメージコントロールを予めしておこうということだね。」
「1節で、いきなり“私たちは,「教え導いている人たち」が聖書の真理を説明したり,神の意志に沿って指示を与えたりする時,喜んで従います。(ヘブ 13:17)”と、上からの指示に従えという命令です。」
「命令文ではないけれど、そうしないと虐められたり排斥されるわけで、実質的には命令だ。この種のずる賢い文章表現はカルト特有だよ。」
「3節では“間もなく,悪魔サタンは全世界で間違った情報を大々的に広め,人々がエホバに逆らうように仕向けます。(啓 16:13,14)私たちは,サタンがますます必死になって私たちを惑わし,エホバから引き離そうとすることも予期しています。(啓 12:9)”と言っています。組織の悪事がばれても、信者が動揺しないようにあらかじめ、それはサタンの攻撃だから信じるなと言ってごまかすつもりですね。」
「多くの信者は何か変だと感じつつも、組織のウソを信じるから大丈夫と統治体に言いたいね。」
「エルサレム滅亡の年を前607年とウソを言い続けていますが、信者は疑ったりしませんし、世代の解釈がコロコロ変わり、重なる世代なんて誰も理解できませんが、気にしていません。どんなデタラメでも信者はついてきますね。」
「統治体の長年の教育のおかげで、信者は不都合なことは無視し、信じたいことだけを信じるようになっている。」
「5から9節が“真理を見分けるために必要なこと”です。 JWに真理は見分けられないと思いますが、2つの必要なことが出ています。」
「たいていは3つなんだけどね。3つ目が思いつかなかったのだろう。」
「5節では①“エホバを畏れること。”とあります。エホバを畏れることは真理を見分けるのに必須のようです。“エホバへの愛よりも人を恐れる気持ちが強くなってしまわないように気を付ける必要があります。人を喜ばせようとすると,エホバを悲しませてしまうことがよくあるからです。”といっていますから、エホバを恐れて、必要なら自分の愛する家族を捨てろということですね。そうするとエホバはにんまりするようです。」
「エホバ=組織だからね。この節の意味は、組織を恐れ、一度もあったことのない統治体の老人を恐れて、服従しなさいということ。」
「6節が聖書からの例です。民数記12,14章の話です。“イスラエルの部族の12人の長は,エホバがイスラエル人に与えると約束した土地に偵察に行きました。そのうちの10人は,エホバへの愛よりカナン人を恐れる気持ちの方が強くなってしまいました。”とあります。一方、ヨシュアとカレブはカナン人を恐れなかったという話です。」
「こんな話を今どき模範的な例として出すなんて、JWは倫理性が欠落している。神が約束した土地だからと言って、他人の土地を奪っていいの?宗教の名の下に行われる侵略戦争でしょう。奪われる方は、そうですか、と言っておとなしく土地を譲るの?自分たちの生活を守るために戦うしかないでしょう。戦争が続くのはサタンのせいじゃなくて神のせいだね。」
「カナン侵略は作り話ですよ。プロパガンダです。イスラエル人は外部からカナンに来たのではなく、もともとカナンにいた人たちが作った集団です。ヘブライ語なんてカナン地域の言語の方言のようなものなんですから。同族ですよ。」
「神を畏れて、人を恐れるな、というのは一見もっともらしいけれど、信者に非常識で反社会的なことをさせようとする宗教が使う悪質なスローガンであることが多い。」
「7節に“その世代のイスラエル人は,ヨシュアとカレブが語った真理を見分けることができませんでした。結果として,約束の地に入る機会を失ってしまいました。”とあります。“世代”と言う言葉が出てくると、ドキッとしますよ。世代の話はなかったことにした方がいいと思います。」
「JWの最新教義では重なる世代は同一の世代と見なす。ヨシュアとカレブが生きていた時、1歳の人も同じ世代なんだよ。そうなると、“その世代”の中には約束の地に入った人もいたことになる。7節に書いてあることは間違いでしょう。」
「8節が真理の見分けるのに必要なこと②で“謙虚であること。”です。謙虚だと真理が見分けられるようです。“誇り高くなると,自分の意見を聖書の教えやエホバの組織からの指示と同じくらい重視するようになってしまうかもしれません。”とありますが、一番誇り高い人は統治体の老人ですよ。間違っても絶対に謝りません。」
「統治体は間違っても謝罪する必要はないし、間違いを時々調整すればよいのだというのがJWの公式見解。しかし、謙虚であることを一番学ぶ必要があるのは、神に選ばれていると主張する統治体なのは間違いないね。謙虚じゃない統治体が真理を見分けられなくても無理はないという言い訳かな?」
「9節には“もっと謙遜な人になって,教えられることを素直に受け入れられるよう助けてください,と祈ることができます。”とあります。組織のいいかげんな指示を素直に受け入れられないのは謙遜さが足りないからというのがこの節の主張です。こうやって盲目的服従を押し付けるのですね。」
「神の代理人である統治体様が言ったことを受け入れないのは謙遜じゃない、と言う方が少しも謙遜じゃないだろう。どんな組織も地位が上がると謙遜な人は珍しくなるけど、JWも同じ。」
「10から16節は“どうすれば真理にしっかり従うことができるか”です。 ここで言う真理とはよく変わる組織の教えのことですよ。少しも謙遜じゃないですね。3つのことが出ています。10節には①“エホバが導く組織からの指示を信頼する。”とあります。やっと“組織”がでてきました。これがこの記事の中で一番言いたいことですね。組織に服従しろ!です。」
「英文には“組織”という言葉は使っていないけどね。theocratic direction(神権的な指示)とある。でも言っていることは組織に従えだね。」
「10節に“現代でも,エホバが導く組織からの指示に従うなら,物事はうまくいきます。”とありますが、うまく言っていませんよ。事実に反します。そもそもJWが神に導かれているという証拠はありますか?自称・神の組織というだけです。」
「その後に“でも責任を委ねられた人たちのことを認めようとしないなら,エホバはどう感じるでしょうか。”と続く。これは感情的な脅迫だね。エホバを悲しませてもいいのか、エホバを怒らせてもいいのか、と信者を脅している。カルトらしいね。」
「11節は民数記16章の話です。“主立った人たちが,エホバから役割を与えられていたモーセに反抗するようになりました。”とあります。その後どうなったかというと、“エホバはその反逆を先導した人たちや,それに同調した大勢の人たちを処罰しました。(民 16:30-35,41,49)”とあります。」
「英文ではちゃんとGod struck down the leaders of the rebellion as well as thousands more who sympathized with them.と、数千人以上をぶち殺したと書いてあるのに、“処罰しました”と胡麻化している。神の恐ろしさをなぜわからせようとしないのか不思議だね。」
「引照聖句には“この神罰で死んだ人は1万4700人で,ほかにコラの件で死んだ人たちがいた。”とありますから、英文でも死亡者数を過小にしています。」
「人間をいっぱい殺しているのは神であって、サタンじゃないことは聖書を読めば誰でもわかることなんだけどね。」
「11節の結論は“今でも,エホバの組織の指示や取り決めに従わない人たちがエホバに認められることはありません。”というものですが、根拠が示されていません。JW=神の組織と根拠もなく決めつけて、旧約聖書にある一つの出来事を持ち出して、今でもそうだと言っているだけです。」
「聖書を読むと、指導者に従わなかった事例は他にもあるけれど。直ちに神罰が下ったということはあるかな?聖書の神はダビデの人口調査の時のように無関係な人を殺すことはよくやるけどね。神が何を考えているのかは、神のみぞ知る。統治体が知るわけがない。」
「12節では過去の失敗を美化しています。“特定の聖書の理解やさまざまな活動に調整が必要となったとき,統治体は進んで調整を加えます。(格 4:18)”と言っています。引照聖句は、例の明るさが増す、という教義変更とは本来何の関係もないものです。」
「教義の変更は明るさが増すというものとは全然違うね。例えば、滅ぼされたソドムの住民は復活するのかについては、“はい”と“いいえ”が何度も入れ替わり、最新の教義では“わからない”というもの。光が増したなんて言うものではない。」
「12節では“そうするのは,何よりもエホバに喜ばれることをしたいと思っているからです。”とありますが、ウソでしょう。伝道時間を報告しなくてよくなりましたが、エホバはあれを嫌っていたわけですか?排斥された人に挨拶をしてよくなり、あごひげが許可され、女性はスカートでなくてもよくなりましたが、これもエホバを喜ばすためですか?違いますよ。」
「裁判に負けたことと信者の減少を防ぐためでしょう。それをエホバを喜ばすためと言って信者をだましているだけ。洗脳されている信者でもおかしいことはなんとなく感じているよ。」
「13節が②“健全な言葉の型に絶えず従[う] (テモ二 1:13)”です。これで真理にしっかり従えます。“「健全な言葉の型」とは,聖書に収められているクリスチャンの教えを指しています。(ヨハ 17:17)”と説明していますが、翻訳がおかしですよ。」
「テモテ二1:13は“私から聞いた健全な言葉の型に絶えず従い,キリスト・イエスと結ばれた人として信仰と愛を示しなさい。”だね。問題は“言葉の型”。英語版はthe standard of wholesome wordsで、言葉の“基準”だ。それを“型”に変えたわけだ。“型pattern、form”と訳している他の翻訳は幾つかあるので、日本語翻訳者は無学な人間が訳したJW訳より、そちらの翻訳を正しいと考えたのか?」
「協会共同訳では“キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。”です。これが普通の訳ですよ。」
「元のギリシャ語には“型”と言う意味もあるけれど、ここでは“手本”だろうね。同じ単語はテモテ一1:16に使われて、“私を,永遠の命を求めてキリストに信仰を持とうとしている人たちの見本とするためでした。”となっている。JW訳でもここは“型”ではなく“見本”だ。」
「この単語はhupotupósisですが、聖書ではテモテに2回出てくるだけですね。」
「パウロは使わない単語。テモテの作者がパウロではないとされる理由の一つは単語が他のパウロの手紙で使われる単語と異なるというもの。これもそのひとつ。」
「14節はテサロニケ二2章に出てくる話です。“当時,エホバの日がすでに来ているといううわさが,一部のクリスチャンの間で広まっていたようです。”とあります。そして“パウロは,聞いたことを何でも信じたりしないようにと助言を与えました。(テサ二 2:1-5)”とあります。これってJWにぴったり当てはまりますね。違いは、組織の方が終わりが○○年頃に来るという話を作ったことです。」
「終末論を戒めるのか、それとも、まもなくすぐそこに終わりの日が来る来ると信者をあおるのかで、カルトかどうか判断できる。」
「15節ではJWの敵が行う工作活動を取り上げます。“以前,旧ソ連の兄弟たちの間で,世界本部から来ているように見せ掛けた手紙が出回ったことがありました。その手紙は反対者たちが偽造したもので,兄弟たちに独立した別の組織をつくるよう促す内容でした。”とあります。偽手紙作戦ですか?すぐばれると思いますよ。素人のいたずらじゃないですか?」
「15節に“それは本物らしく見えましたが,エホバを愛する兄弟たちはだまされませんでした。”とあるように、間抜けなJWでさえ偽物と気付いたわけで、まともな情報機関の作戦ではないでしょう。」
「15節には“今でも,真理に反対する人たちは,インターネットやソーシャルメディアを使って私たちを 混乱させ,分裂させようとすることがあります。”とあります。インターネット上にあるJWに不都合な情報は背教者が作った偽物と信者に思わせようとしていますね。」
「そういうわけで、JWにどんなニュースを見せても、不都合であればフェイクだ、AIで作ったものだ、とか言って拒否する。そうやってカルトの檻に一生閉じ込められるわけだ。」
「16節が③“エホバに揺るぎない愛を示す人たちと一緒にいるようにする。”です。これで真理にしっかり従えるようです。“エホバは,真理からそれて会衆の中に分裂をつくり出す人を「避ける」ようにと警告しています。”とあり、排斥、忌避をきちんと実行することをエホバは望んでいるようです。」
「“避ける”ことを扱っているのは、この節だけ。なぜもっと扱わないの?この話題は軽く触れるだけで済ませたいようだ。組織は自信を失っているね。」
「最後の17節です。結論は“真理から決して離れないようにしましょう。「そうすれば,平和の神が共にいてくださいます」。(フィリ 4:8,9)”です。真理=組織ですね。組織から出たほうが、はるかに平和に過ごせますよ。」
「“避ける”ことについての話題を避けたので、17節で終わりだ。いつもより短くてよかったね。」
- ジョエル
- 2024年09月17日 21:21:17
このあたりの物語伝承って、ハンターハンターの王位継承戦みたいな、勝ち組の視点で語られるただの骨肉の権力闘争ですよね。
ヤハウェもソロモンを選んでいたのなら、後でどうにでも創作加筆できるようなシチュエーションでひっそりこっそり伝えるんじゃなくてもっと大々的に啓示してあげれば血なまぐさい権力争いを止められたんじゃないの、くらいの読書感想文が中学生でも書けそうですが、アムノンもアブサロムもアドニヤもそんな話聞いてないよどころかそんな話があったことすら知らないのか、まったく話題にもならない様子。
第4王子(子ども何十人もいて第何王子かも知らんけど)のアドニヤが勝っていれば、実はこっそりヤハウェに選ばれていたエピソードを挿入して、アビヤタルが救国の祭司、ザドクは狡猾で卑劣な敵側の人間、て感じでしょうか。
この組織もラザフォードに始まり盾突く人間を排除して権力を握ってきた側が支配している「ごく普通の組織」ともいえるので、勝てば官軍、勝ち組につけ、という人類普遍の教訓はその通りですね。
- 聖書についての質問
- 2024年09月13日 14:36:25
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“ザドクのように勇敢な人になる(27)”で、ザドクと無関係なJWにザドクを見倣えと言って、あれこれ要求するという内容です。」
「ザドクなんて誰も知らないし、知る必要もないね。豆知識としては、新約聖書に出てくるサドカイ派という名称は祭司の中で主流になったザドクに由来する。」
「ザドクはソロモン王に油注いだ人として知られていますよ。」
「ヘンデルの曲に“祭司ザドク”があって、イギリスの戴冠式で用いられる。歌詞は”司祭ザドクと預言者ナタンはソロモン王を聖別せり。/諸人すべてこれを祝賀して曰く、/神よ王を護り給へ!王に長寿あれ!/王の末永からむことを、/アーメン、アレルヤ。”というもの。それでザドクと言えばソロモンに油の人というわけだね。」
「ザドクはダビデ、ソロモンの時代にうまく立ち回って権力者になり、その子孫もユダヤ社会の支配階級の一員として続いたということですね。」
「ザドクに倣うとしたら、権力闘争では勝つ方に着け、ということかな。」
「1節で、“歴代第一 12:22,26-28を読む。”とあるのですが、そこには“強くて勇敢な若者ザドクとその氏族の22人の長”とあります。ザドクがその氏族の中で唯一名前を挙げられているということはリーダー的存在ということじゃないですか?」
「訳に問題があるね。この訳ではザドクは勇気だけはある若造にしか思えない。協会共同訳では“若く力ある勇士ツァドク”で、ザドクが戦士となっている。ここはダビデのために集まった兵士を列挙している所なので、単なる若者ではなく戦士で、指揮官クラスの人ということでしょう。」
「でも、ザドクは別の所では祭司です。」
「それと矛盾しないようにJW訳では“強くて勇敢な若者ザドク”と訳したのだろう。」
「ザドクは正体不明ですよ。サムエル二8:17には“アヒトブの子ザドクとアビヤタルの子アヒメレクは祭司”とあり、アヒトブはザドクの父ですが、サムエル一22:20では“アヒトブの子アヒメレクの息子の1人,アビヤタルが逃れ”とあり、アヒトブはアヒメレクの父です。アビヤタルはアヒメレクの父ではなく息子になっています。」
「サムエル一22:9でも“アヒトブの子アヒメレクの所に来るのを見ました。”とあり、アヒトブはアヒメレクの父。サムエル二8:17だけが、アヒトブをザドクの父としている。本当はザドクの父は知られていないのだろう。ダビデ王国の初期メンバーは父親の名前がない人が多い。素性のはっきりしない山賊のような集団が武力によって権力を奪取したのだろう。」
「歴代誌6章にある系図ではザドクの父はアヒトブになっています。」
「これはサムエル二8:17にあることを採用し、他の箇所のことは無視したからだろう。」
「ダビデの仲間は、ベナヤ、ヨアブ、ヨシャファト、セラヤ、ウリヤ、ヨナタンといった名前で、エホバの本当の名前であるヤハウエの要素を含むヤハウエ系の名前なのに、祭司とされるザドク、アヒメレクは違います。違う宗教の人じゃないですか?」
「ザドクはダビデが占領した土着の神をまつるエルサレムの神殿の祭司で、ダビデの宗教とは違うけれど、エルサレムという重要都市の住人の支持を得るためにそのまま祭司職を認めたのではないか、という推測が昔からなされている。ヨシュア記10:1に“エルサレムのアドニ・ツェデク王は”とあり、ダビデの時代のはるか昔に、エルサレムではザドクと似た名前の王がいたことがわかる。ザドクという名前はダビデたちとは違う集団に属する人間の名前でしょう。」
「2節で、ザドクは“神の意志を認識できる予見者でもあり,普通を超えた洞察力を神から与えられていました。(サム二 15:27)”とあるのですが、ザドクは予見者ですか?」
「引照聖句には“王は祭司ザドクに言った。「あなたは予見者ですね。気を付けて都市に戻りなさい。”とあるけれど、誤訳でしょう。意味が通らない。予見者にむかって、気をつけて帰ってね、なんて言う必要がないよ。聖書にはザドクが予見者としての能力を発揮したなんてことも描かれていない。」
「協会共同訳では“王は祭司ツァドクに向かって言葉を続けた。「分かったか。・・・”とありますね。」
「元のヘブライ語があいまいなの。貴重な神の言葉を伝えるのになぜ神はヘブライ語を選んだのか、不思議だね。JW訳のようにしている訳は他にもあるけれど、予見者(seer)ではなく、わかった(see)という意味の方が文脈にあっている。」
「4から7節が“神の王国を支持する”です。 王国を支持するためには、“この邪悪な世界でエホバの基準に従って生活し,王国の良い知らせを 伝える”、また“政治的な対立や分断が進む中で中立でいる”ことが必要なようです。そのためには勇気がいるということですね。」
「それって王国を支持しているのではなく、ニューヨークにいる統治体を支持しているだけだよ。この記事では神の王国=統治体。」
「5、6節はザドクのことです。“武具を身に着け,戦いのための用意をしてきていました。”とあり、“祭司だったザドクが勇気を示せたのはどうしてでしょうか。ザドクは,周りにいた強くて勇敢な人たちの手本から学んだに違いありません。”と言っていますが、ご都合主義的な単なる推測です。ザドクは戦士ですよ。」
「JWの主要な教えのひとつに、周囲のJWのまねをしろ、というのがある。それに一致するように、聖書の中の模範的な人物は全員周囲の人から学んだと決めつけるわけだ。」
「7節が今のJWの話で、“今の時代,大勢の若者の手本もあります。良心的に兵役を拒否した人たちや,政治活動に全く関わらないことにした人たちです。”とあります。ザドクの例と真逆じゃないですか?」
「ザドクは戦争の準備をし、政治という権力闘争に深くかかわって、うまくやった人だよ。兵役拒否や政治活動拒否の若者はJWというカルト信者のお手本に過ぎない。」
「聖書は兵役拒否を勧めていませんよ。」
「マルコ15:39に“イエスを前にして立っていた士官は,このようにしてイエスが息を引き取ったのを見て,「確かにこの人は神の子だった」と言った。”とある。イエスとは何者かということを最初に理解した異邦人は軍人だったという設定。軍人を差別したり、嫌ったりするという思想は聖書にないよ。」
「聖書は平和主義だといって、イザヤ2:4の“彼らは剣をすきに,やりを鎌に作り替える。国は国に向かって剣を振り上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。”を引用しますが、これは聖書の思想の中心ではありません。」
「全く逆のことを言っている部分もある。ヨエル3:9,10では“国々にこう知らせよ。『戦いの準備をせよ! 戦士たちを奮い立たせよ!全兵士が進軍し,攻撃せよ! あなた方のすきを剣に,鎌をやりに作り替えよ。”とある。好きな方を引用していいね。」
「8から13節が“兄弟姉妹を助ける”です。 信者同士お互い助け合え、と言っています。8節では“戦争”を想定しているようです。“長老たちはエホバの羊である兄弟姉妹を愛しているので,仲間が何を必要としているのか気付き,たとえ危険があるとしても仲間のために行動します。”とあります。無給の長老にこんなことが要求されるなら、早く長老をやめた方がいいですね。」
「危機意識をあおっているだけ。そんなに危険なら、せめて生命保険の掛け金を組織が負担すべきだよ。危険手当もなしに社員に危険を冒せという会社があったら、そんな会社はすぐやめるよ。」
「9節がザドクの話です。アブサロムがクーデターを起こした時、“ダビデはその後もアブサロムの計画について知るために誰かに残ってもらう必要があることに気付きます。それで,情報を収集させるため,ザドクとほかの祭司たちを都市に戻らせました。”とあります。“命を失いかねない危険な任務 ”とあり、非常に危険で勇気が必要だったと推測しています。」
「ザドクにとって、ダビデの命令を断る方が勇気がいるよ。断ったら、アブサロムに通じていると思われ、ダビデに殺される。」
「ザドクはスパイとして活動するわけですが、これを称賛しているのはどうですか?」
「カルトは信者に相互にスパイしあうように求めるもの。JWではスパイ活動は称賛されこそすれ、非難されることはない。」
「10節はフシャイが出てきます。フシャイは工作員です。フシャイはダビデを裏切ってきましたと言って、アブサロムの家来になります。フシャイはわざと間違ったアドバイスをし、“その後,フシャイは事がどのように進んでいるかをザドクとアビヤタルに伝えます。”とあります。聖書の世界は権謀術数が飛び交う汚い世界ですね。」
「“エホバの助けによって,ザドクと仲間の祭司たちはダビデの命を守る上で大切な役割を果たすことができました。”と無邪気に言っているけれど、エホバって実に汚い手を使う神様ということになる。愛と正義の神なら別な助け方をするはず。」
「11節は今のJWに向けてです。これまでの話とほとんど関連しませんが、これがこの記事で一番言いたいことでしょう。3つの指示が出ています。(1)指示に従う。(2)勇気を持ちつつも注意深くある。(3)エホバに頼る。」
「エホバが3番目というのが問題だね。エホバが何の役にも立たないといっているようなもの。最初に出てくるのは“支部事務所の指示に沿って行動しましょう。”だね。エホバよりも支部の偉い人が優先される。」
「12、13節がウクライナでの体験談です。12節には“ウクライナのビクトル兄弟とビタリー兄弟は,仲間の兄弟たちに食べ物や水を届けるために働きました。”とあり、とても勇気が必要だったようです。」
「英文では“their fellow believers”だから“仲間の信者たち”で、“兄弟たち”じゃないよ。13節では“兄弟姉妹”とあるのにへんだね。それからhumanitarian aid(人道支援物資)を“救援物資”と訳しているのもいただけないね。」
「人道支援物資と訳すると、それはJW以外の団体や国が提供してくれたものと日本の信者にわかるからじゃないですか?お互い助け合うはずなのに、必要な物はJW以外からもらっていて、さらにJWはそれを仲間だけに配るという人道主義のかけらもないことをしていることがわかってしまうことがイヤなんですよ。」
「人道主義というのは、人間愛に基づいて、人種、民族、国籍にかかわりなく、人類の福祉を増進することをめざす立場だけど、JWにはJW愛はあっても、人間愛はないよね。JW以外の人間は間もなく滅ぼされて、死体は鳥の餌になると考えている。」
「14から18節が“エホバから決して離れない”です。 15,16節がザドクとアビヤタルの話で、“ザドクは,ダビデの統治の終わりごろに親しい友人であるアビヤタルが反逆した時も,エホバから決して離れませんでした。”とあります。ここではエホバ=ダビデですね。」
「ダビデの晩年、宮廷ではアドニヤ派とソロモン派に分裂して、権力闘争がおきたけれど、アビヤタルはアドニヤ派で、ザドクはソロモン派だったということ。ソロモン派が勝ったので、勝った方が自分たちに有利なように歴史を書いたというだけ。勝った方が正義の側なんてことはない。」
「16節で“ソロモンは王になった時,「祭司ザドクをアビヤタルの代わりに」大祭司に任命しました。(王一 2:35)”とあります。こうやって、ソロモンはザドクに報いたわけですね。」
「“大祭司に任命しました。”はいただけないね。引照聖句には“祭司ザドクをアビヤタルの代わりに任命した。”とあるだけ。“大祭司”と言う称号ができるのは、ずーーと後の時代で、ダビデ、ソロモンの時代に大祭司という称号はないよ。」
「英文では“大祭司”と言う言葉は出てきませんので、翻訳のミスです。」
「日本のJWだけがザドクは大祭司に任命されたと誤解するわけね。」
「17節は今のJWに対してです。“親しい人がエホバから離れたとしても,ぐらつかないようにしましょう。”とあります。エホバ=組織ですね。親しい人が組織から離れたら、一緒に離れるという選択肢も考慮すべきですよ。」
「会ったこともないニューヨークにいる統治体の老人の指示に従って、よく家族などの親しい人を捨てる気になるよね。カルトの恐ろしさがよくわかる。」
「18節は、娘たちがJWを去った夫婦の体験談です。“私が落ち込んでいる時,妻が励ましてくれました。妻が落ち込んでいる時,私が励ますことができました。エホバはそうやって夫婦で助け合えるようにしてくれています。”といっています。カルトにどっぷり漬かった夫婦で助け合っているだけで、エホバは関係ないですよ。」
「よい事はエホバのせい、悪いことはサタンのせい、という単純な二元論で生きているということだね。」
「さらに“私は,こうなってしまったのは自分のせいだという気持ちに襲われました。それで,どう感じているかをエホバに伝えました。それから数日後,何年も会えていなかった姉妹に再会しました。姉妹は私の所に来て,肩に手を置き,目を見て,『シセのせいじゃないのよ。よく頑張ったんだから』と言ってくれました。”とあります。祈ったら、友人が現れ、励ましてくれた、エホバね、というのは体験談の定番です。」
「自分の娘よりカルトを選ぶなんて、まともじゃない。少しも同情しないね。被害者ぶるのはいい加減にしろよ、と言いたい。それから英文では“よく頑張ったんだから” という部分はない。翻訳者が勝手に付け加えた。」
「カルトに狂った両親に育てられた娘の方に深く同情します。普通の親のもとに生まれたかったと、幼い時から何度も思ったはずです。」
「JWから離れて、本当の自分の人生を歩んでほしいね。JWとして無意味に生きることを考えれば、たいていの苦労は耐えられるよ。」
「最後の19節はまとめで、“エホバはご自分に仕える人たちが皆,ザドクのように勇敢な人になることを願っています。”とあります。」
「本当に勇敢な人はカルトから出る勇気を持っている人だよ。エホバはそれを望んでいるということだね。」
- 聖書についての質問
- 2024年09月06日 14:23:18
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは私たちの岩(26)”で、岩のようなエホバを見倣えと言って、信者にあれこれ要求するという内容です。」
「JWはクリスチャンと称しているけれど、イエスはほとんど取り上げられず、いつもエホバ、エホバの連呼だね。この記事も旧約聖書を使ったエホバの話。」
「3から10節が“エホバが岩と呼ばれている理由”です。 3つ出てきます。4節に①“エホバは避難所”とあります。“ひどい嵐の時,大きな岩があれば,その陰に隠れることができます。”と説明していますが、これはヘンですよ。」
「わかっていないね。ひどい嵐なら岩の陰に隠れるくらいではダメでしょう。洞窟じゃないと。聖書が書かれた中東では、旅人は強い日差しに苦しむ。そこに大きな岩があれば、岩がつくる日陰で一休みできる。そういう状況でしょう。嵐じゃないよ。」
「4節では“詩編 94:22を読む。”とあり、そこには“私の神は私の岩,避難できる場所。”とあります。この詩はそんな穏やかな詩じゃないですよ。」
「詩編94:1には“復讐する神,エホバ,復讐する神,輝きを放ってください。”とある。この詩は敵の滅亡を願う物騒な詩。古代イスラエル人は神がイスラエルの敵を滅ぼしてくれることを願っていたけれど、滅びたのはイスラエルだったね。」
「5節では“岩のような方であるエホバのもとに逃げ込む1つの方法は,祈ることです。”とあります。祈りはなんにでも効果がある魔法です。」
「5節には“信仰のために投獄されたアルチョーム兄弟の例を考えてみましょう。”と、体験談がでている。信仰ゆえに投獄されているJWなんか、信者の0.01%もいないのに、こうやって取り上げて、迫害の恐怖をあおる。カルトは信者を恐怖心でコントロールするわけだね。」
「ところで、アルチョームなんて言う名前があるんですか?英文ではArtemですよ。これがどうしてアルチョームになるんですか?」
「読み方はアルテムでしょう。ウクライナやロシアの名前だね。翻訳者はこの人と知り合いで、アルチョームと自己紹介されたのかも。」
「6節が②“エホバは信頼できる方。”です。“エホバは決して動かない岩のように,いつでも私たちのそばにいて助けてくれます。エホバは「永遠の岩」です。(イザヤ 26:3,4を読む。)”とあります。」
「“永遠の岩”だけど、古代イスラエルに永遠という概念はない。永遠と訳されているヘブライ語は長い期間を指す言葉にすぎない。例えば、創世記6:4に“ネフィリムは,古代の人々の中でよく知られた,力の強い者たちだった。”とあるけれど、ここで“古代”と訳されているのが、“永遠”と訳されたのと同じ単語。出エジプト21:6に“こうしてその人は生涯,主人の奴隷となる。”とあるけれど、ここでは“生涯”と訳されている。文脈によって訳語が変わるわけだね。」
「7節にはまた投獄された人の体験談がでてきます。“ウラジーミル兄弟はこう言っています。「拘置所にいた時間は,神との絆を強める上で最高の時間[でした]。”とあります。」
「ウラジミールはロシアによくある名前。7節の下には刑務所らしき場所で一人座っている人の写真があるけれど、聖書を持っている。ロシアの刑務所ではJWの聖書の持ち込みは可能なの?他の囚人はウクライナとの戦争に動員されて居ないのかな?」
「8節が③“エホバは安定していて変わらない。”です。そこでは“つまり,どんなことがあっても,誰が何をしようとも,エホバは振り回されたりせず,ご自分の考えや基準を変えることもないということです。”と言っていますが、ウソでしょう。」
「聖書の神様って後悔したことあるでしょう。創世記6:6に“エホバは,地上に人を造ったことを嘆き,悲しんだ。”とある。全知全能の神なら完全な計画を立てるんじゃないの?人を作ったことを悲しむなんてありえないよ。その後大洪水を起こしてリセットするわけだけど、そこでも失敗するわけだ。」
「出エジプト記のエホバは情緒不安定な子どものようですよ。32:9、10で“私はこの民が強情であることが分かった。それで今,私を止めるな。私は怒りに燃えて彼らを根絶やしにし,代わりにあなたから偉大な国民が生まれるようにしよう。”とエホバはモーセに言います。モーセはこのすぐかんしゃくを起こす神様を何とか説得します。32:14で“それでエホバは考え直し,先に言った災難を民にもたらさなかった。”となるわけです。すぐ考えを変えています。」
「似た話は民数記14:10-23にもある。エホバがかんしゃくを起こして民を滅ぼそうとする→モーセ説得→エホバ考えを変える、というパターン。人間に説得されて考えを変える情けない神だよ。古代の神ってこんなもの。」
「9節は体験談です。“信仰を理由に自宅拘禁されていたタチアナ姉妹の例を考えてみましょう。”とあります。これもロシアの話ですね。」
「そこには“こうしたことが起きている理由を考えるように心掛けました。そうすると,自分はエホバを愛していて,エホバに喜ばれるために頑張っているんだ,ということを思い起こすことができました。”とある。この姉妹の考えではロシアでJWが迫害されている理由はなんなのだろうね?統治体の命令で、JWがロシアに対して嫌がらせの手紙攻撃をしたから自分は自宅拘禁されていると考えたかな?」
「ロシアではJW以外の非ロシア的宗教は迫害されていて、JWだけを狙い撃ちにしているわけではありません。」
「統治体は、ロシアのJWのおかげで、JWは迫害されても屈しない真の宗教という宣伝ができたから満足しているでしょう。」
「10節で“間もなく,これまで以上にエホバに頼らなければ乗り越えられない試練を経験することになるでしょう。”と、大患難の予告です。危機意識をあおります。」
「ということは、間もなく平和安全宣言が出されて、JW以外の宗教が禁止されるわけだ。楽しみだね。」
「11から17節が“岩のような方であるエホバに倣う”です。 信者に対する要求事項が並びます。11節に“シモンはイエスからケファ(「ペテロ」と訳される)と呼ばれました。これは「小岩」という意味です。(ヨハ 1:42)”とあります。“小岩”ですか?誤訳でしょう。」
「英文ではA Piece of Rockとある。これを小岩という意味と誤解したようだね。直訳すれば一つの岩。普通の日本語なら岩でいいよ。地名以外の普通の日本語に小岩というのはないよ。小石ならあるけれど。」
「11節の下に、“若い兄弟たちはどんな点で努力できますか”と言う囲み記事があります。3つのことが出ています。①避難所のような存在になる。集会で兄弟姉妹と会話し,みんなが歓迎されていると感じられるようにしましょう。年長の人たちのことを気遣ってください。②信頼される人になる。王国会館に集まる時,仲間の助けになることを進んで行いましょう。割り当てや仕事を任されたなら,指示にしっかり従ってください。③安定した人になる。聖書を毎日読み,じっくり考えましょう。どうすれば聖書の教えに基づいて決定できるかを学んでください。これらを行うと長老になれるようです。」
「援助奉仕者・長老が不足しているようだからね。長老という肩書をエサに若者をこき使うつもりだね。」
「12節は①“避難所のような存在になる。”と言う指令です。実際に避難場所を提供したり、互いに助け合えという指示です。」
「組織は寄付を要求するだけで、援助はしてくれないから、信者同士で互いに援助しあえということだね。でもJWは伝道と集会に忙しいからそんなことをしている暇はないよ。」
「13節は長老に対する指令です。“自然災害や医療上の緊急事態が起きた時,実際的なサポートをするためにすぐに動きます。”とあります。長老が病院に押しかけて、輸血を阻止する仕事はまだまだ続くようです。」
「13節で“長老 が優しく気持ちに寄り添って話を聞くなら,兄弟姉妹にとって話しやすい人になれるでしょう。”とあるけれど、これは無給の無知無学のボランティアに対する過大な要求。本当にこれが重要と思うなら、系統的な教育プログラムを作らないとダメ。単なる精神論でどうにかなるものではない。」
「20代前半の若造を長老にしようとしているわけですから、そんなカウンセラー的な態度など期待する方が間違いです。」
「長老は雑用係に徹して、余計なことはするなと指導した方がいいよ。悩み事や生活上の問題がある人は専門家や公的な相談窓口に行けばいい。」
「14節は③“信頼される人になる。”です。“約束したことをきちんと行ったり,時間を守るようにしたりして,エホバに倣う努力を続けることができます。”とあるのですが、あまりにも低レベルで呆れます。」
「約束を守らない、時間をまもらない、そんなJWが多いということだね。でもその程度のことで信頼される人になれると思っている執筆者も問題だ。」
「15節は長老への指示です。“長老たちの助言が自分独自の考えではなく,聖書や忠実な奴隷が準備した出版物に基づいているなら,長老たちへの信頼は深まります。”とあります。長老独自の指示が多いということですね。くだらないローカルルールは止めろとはっきり書いて欲しかったです。」
「さらに“人のプライベートなことをほかの人に漏らさないようにするなら,長老たちをいっそう信頼することができるでしょう。”とあるけれど、これも個人情報を漏らさないことは義務ですと、はっきり書かないとダメだよ。」
「16節が③“安定した人になる。”です。“優柔不断になったり不安定になったりすることも,この世の中の間違った教えや考え方に振り回されることもありません。”とありますが、そんなことはないでしょう。ひげを生やしてよいとか、ネクタイを締めなくてよいといった服装に関する規定の変更は、優柔不断じゃないですか?ルールを変えること自体不安定な証拠です。JWの服装規定は変えて欲しくなかったという老人のJWはけっこういるみたいですよ。」
「JWが行えば時期にかなった適切な調整と呼び、他の宗教が行えば優柔不断で不安定と呼ぶ。それだけだよ。」
「17節は長老向けです。“良い手本を示し,よく気遣うことによって,兄弟姉妹が集会や伝道に定期的に参加し,個人研究の習慣を守れるように助けます。”とあります。定期的に集会や伝道に参加していないJWを指導せよということですよ。」
「長老に何か言われるのが嫌で仕方なく伝道に出ているというJWがいるからね。嫌われ役の口やかましい長老が最低一人は必要ということかな。」
「最後の18節では“この記事でエホバの素晴らしい性質について考えることができました。”とあります。エホバ=岩ですね。エホバの性質をJWに強引に押し付けようとしたという記事でした。」
「この記事ではイエスと言う単語は1回出てきただけ。主な登場人物はエホバとダビデ。これで真のクリスチャンはないよ。エホバ教と名前を変えて欲しい。」
「18節の下に“エホバとの絆をもっと強める 個人研究のプロジェクトで,次のようなエホバの称号について調べてみましょう。”と言う囲み記事があります。6つの称号が出ています。教師、全能の神、創造者、父、年月を経た方、牧者です。」
「個人研究するならそんなわかりやすいのではなく、難しい称号にいどんでほしいね。例えば、創世記17:1に“アブラムが99歳の時,エホバはアブラムに現れて,こう言った。「私は全能の神である。・・・”とあるけれど、“全能の神”の所は“エル・シャッダイ”と言っている。シャッダイの意味はよくわかっていない。」
「創世記14:19には“メルキゼデクはアブラムを祝福し,こう言った。「至高の神,天地を造った方によって,アブラムが祝福されますように。”とありますが、“至高の神”はエル・エリョンです。これも個人研究して欲しいです。」
「そうすると聖書の神が古代中東の様々な神を取り入れたものだということがわかるんだけどね。」
- 聖書についての質問
- 2024年08月30日 15:28:17
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは「生きている神」(25)”で、エホバは生きている神なので信頼して、苦労に耐えろ、という内容です。」
「エホバは生きているけれど、信者が苦労しないようにはしてくれないのね。JWに求められることは服従と忍耐のふたつだね。」
「1節は“聖書は今の時代を「困難で危機的な時」と表現しています。(テモ二 3:1)”と始まります。今は終わりの時代ということのようです。」
「引照聖句には“終わりの時代は困難で危機的な時になります。”とあるけれど、誤訳だろう。元のギリシャ語はchaleposとあるだけで、“困難な”と訳すべき。それなのに“困難で危機的な”と勝手に言葉を付け加えている。JWにとってはその方が都合がよいからだね。」
「いつの時代も困難はありますから、この聖句はいつの時代にも適用可能です。」
「しかし、現代は人類史上最も困難が少ない時代。終わりの時は遠のいたようだね。」
「JWはそんなことは認めません。今は歴史上もっとも困難で危機的な時代とかたくなに信じています。」
「19世紀まで世界の平均寿命は30歳前後と推定されている。これは30歳ごろ死ぬということではなくて、乳幼児死亡率が非常に高いので平均すると30歳前後になるという意味。現在は72歳くらい。」
「世界の平均寿命が延びたのは乳幼児死亡率が大きく減ったことが大きな原因ということですね。」
「統計があるスウェーデンだと、19世紀では子どもの4人に1人が5歳までに死亡した。今は千人に1人以下に減少。子どもの死は大変な悲しみをもたらすもの。子どもが死ななくなった現在は悲しみも困難が減ったのはまちがいないでしょう。」
「3節に“その祈りが聞かれてエホバに助け出された後,「エホバは生きている」と言いました。(詩 18:46)ここでダビデは,単にエホバが存在していると言っていたわけではありません。ある文献によると,ダビデはエホバについて,「ご自分に仕える人たちのためにいつでも行動する生きている神」であるという確信を言い表していました。”とあります。いつもの不正引用です。」
「これは恐らくUnited Bible SocietiesのTIPSというサイトからとってきたものでしょう。Translation commentary on 2 Samuel 22:47のなかに“The LORD lives is a cry of confidence in Yahweh as a living God who constantly acts on behalf of his people.”(主は生きておられるということは、常に彼の民のために行動してくださる生ける神であるヤハウェに対する信頼の叫びです。)と説明してある。」
「JWには聖書の専門家はいないので、日ごろサタンの手先と誹謗中傷しているキリスト教関係者の知恵を勝手に拝借しているわけですね。」
「それで引用元をいつも隠す。」
「5から9節が“生きている神エホバは力づけてくれる”です。 5節に“エホバは全能者で,私たちに忍耐する力を与えることができます。(フィリピ 4:13を読む。)”とありあす。引照聖句には“力を与えてくださる方のおかげで,私は強くなり,どんなことも乗り越えられます。”とあります。」
「パウロはそうだったということでしょう。それがすべての人に当てはまるかどうかは何も言っていない。」
「“どんなことも乗り越えられます”と聖書に書いていますか?単に強くなると言っているだけじゃないですか?」
「そこで使われている単語はendunamoóだけ。意味は“強くなる”。元の英文ではgives me power。それを翻訳者が“ 強くなり,どんなことも乗り越えられます”と勝手に意味を膨らませた。」
「ここで言う“力を与えてくださる方”と言うのはエホバではなくて、キリストじゃないですか?」
「普通はそう考えるね。テモテ一1:12に“私は,力を授けてくださった主であるキリスト・イエスに感謝しています。”とほぼ同じ表現があるけれど、そこではキリスト・イエスとはっきり書かれている。しかし、JWはエホバ教なのでイエスは抹殺する。」
「6節に“ダビデがエホバへの確信を深めた出来事について考えてみましょう。”とあり、まずダビデがクマやライオンから羊を守ったという話が出てきます。7節では、ゴリアテを倒した話が出てきます。こんな話に史実性はありませんよ。」
「ダビデは素手でクマやライオンを倒したようだけど、古代人の好きな誇張表現でしょう。ゴリアテについてはサムエル記で詳しく書かれているので、時代錯誤的な描写ということがよくわかる。後代の創作だね。」
「8節で“私たちも,生きている神エホバがいつでも助けてくれることを覚えているなら,試練を忍耐できます。”とあります。ダビデの話を覚えていても、試練を忍耐できませんよ。それからエホバはいつでも助けてくれません。」
「元の英文には“いつでも助けてくれる”なんて書いていない。The living God is ready to assist us(生ける神は私たちを助けるのを厭いません)とあるだけ。直訳すれば助ける準備をしています。“いつでも助けてくれる”はいつもの翻訳者の誇張だね。誇張していた方がカルトらしいけれどね。」
「8節では“エホバは私たちのためにいろいろなことをしてくださっています。ご自分の友になるよう引き寄せてくださいました。”とあります。エホバがJWになるよう人々を引き寄せてくれたというウソ話がまたもや登場です。」
「JWの多くはJWの子どもたちで、引き寄せられたわけじゃない。引き寄せられた人はたいてい精神的に落ち込んでいたり、生活上の困難を抱えていた人じゃないの。」
「9節が笑えます。“エホバを生きている現実の存在と見ることは,試練に対する正しい見方を持つ上で助けになります。自分が経験している問題を,エホバと悪魔サタンが関わる大きな問題の一部と見ることができます。”とあります。これは“試練に対する正しい見方”ではなく、カルト的妄想です。」
「JWの試練とは、具体的に何なの?9節の上には刑務所に入れられた人と思われる写真があるけれど、JWゆえに刑務所に入っている人は、性犯罪などの犯罪で刑務所に入っているJWより少ないでしょう。」
「9節では“サタンは私たちについて,つらい経験をするとエホバから離れるだろうと主張しています。(ヨブ 1:10,11。格言 27:11を読む。) 私たちが試練に遭ってもエホバから離れないなら,エホバを愛していることを証明し,サタンがうそつきであることを明らかにできます。”とあります。JWにそんな任務が課せられているなんて、聖書のどこにも書いていません。信者をこき使うための創作ですよ。」
「読むように指定されている格言27:11には“わが子よ,賢くあって,私の心を喜ばせよ。私をあざける者に私が答えるためである。”と書かれている。サタンとは無関係だね。ここで求められているのは、賢くなることで、“サタンがうそつきであることを明らかに”することじゃないよ。」
「これはJWが好きな聖句ですが、先生が弟子に向かって言っているものです。」
「ここで言う“あざける者”はもちろんサタンではない。“あざける”より“非難する”でしょう。弟子の出来が悪いと、先生が非難されるわけだよ。だから弟子に賢くあれといっている。それだけだよ。」
「9節では“エホバは私たちが耐えられないほどの試練を受けるままには決してされません。(コリ一 10:13)”とあるのですが、引照聖句は“皆さんが耐えられないほど誘惑を受けるままにはしません”です。試練と誘惑は違います。」
「そういう細かなことは無視して、聖書を読むのがJW流なんでしょう。」
「10から13節が“生きている神エホバは報いを与えてくれる”です。 エホバのご利益についてです。10節には“私たちに今穏やかな心や満足感を与え,将来,永遠の命を与えてくれます。”、そして“そう考えると,一生懸命エホバに仕えたいと思うようになります。”とあります。利益誘導されて、エホバに仕える気になるようです。」
「利益誘導しているのは不完全で霊感も受けていない組織だよ。そんな組織に無給で仕えたい気にはならないでしょう。」
「11節にはテモテの話が出てきて、12節は長老に対する勧告です。“そのような仕事を行っている長老たちは,会衆を人間のつくった組織とではなくエホバのものと見ています。それで,エホバが必ず報いてくれることを確信し,全力を尽くして奉仕を行います。”とあります。会衆はどうみても人間が創った人間的な組織ですよ。」
「こういう風に現実をゆがめて、偽情報を信じさせるのは一種の精神的虐待だね。会衆を任されたまじめな長老は会衆はエホバのものと思い込まされ、全力で奉仕しなければならないと考える。会衆に何か問題が起こると、神から罰せられるとさえ思うようになる。そうなると、たいていは疲れ果て、追い詰められ、精神的に病んでいく。」
「13節が平信者への勧告です。“少額であってもエホバの証人の活動のために寄付をする時,目を留めてくださいます。人前で話すのが苦手でも手を挙げてコメントしようと努力する時,喜んでくれます。いらいらさせられてもそれを見過ごして許そうとする時もそうです。”とあります。寄付、コメント、許しが平信者に求められることのようです。」
「寄付が最初に来るのがいいね。でもコメントするとエホバが喜ぶなんて、聖書のどこに書いてあるの?」
「訳にも問題がありますよ。“いらいらさせられてもそれを見過ごして許そう”とありますが違いますよ。」
「元の英文は we overlook an offense and extend forgiveness.で、offenceは攻撃、犯罪という意味で、イライラさせられるというような気分を害されることではない。JWは会衆内の犯罪は見過ごすという事なかれ主義を変えるつもりはないね。」
「14から17節が“生きている神エホバから決して離れない”です。 信者に対する要求事項が並びます。14節ではヨセフが取り上げられ、いつものことですが、“ヨセフは,性的に不道徳なことをきっぱり避けました。”とほめられます。」
「ヨセフが最初に取り上げられるとは、JWの倫理観では性的な不品行は殺人よりも重大な悪のようだね。」
「殺人を犯すJWは滅多にいませんが、性的な問題を起こすJWはたくさんいるということじゃないですか?」
「性的な問題など、当事者以外は関係ないわけで、私たちは不完全なんだから、許しましょうと言えば済む話なのに、排斥の対象とするからこれほど重視せざるをえなくなる。」
「15節は“ヘブライ 3:12を読む。”とあり、そこには“兄弟たち,皆さんの誰も,生きている神から離れて,信仰が欠けた悪い心を育てることがないよう,気を付けてください。”とあります。“生きている神”が出てくる聖句を集めたという感じですね。」
「これが単なる“神”だったら、とりあげられなかったね。」
「16節では“神の存在を認めない人が大勢います。”とありますが、そんなことありませんよ。」
「2017年に、68カ国を対象に行ったギャラップ・インターナショナルの調査によると、世界人口の71%が神を信じている。無神論者は少数派だよ。JWの記事は全く事実に反する思い込みがけっこうある。」
「16節では“神の基準を無視している人たちが人生を楽しんでいるように見えることがあるかもしれません。”とありますが、ここで言う“神の基準”とはなんですか?誕生日を祝うなとか、子どもが輸血が必要な時でも輸血を拒否して死なせるとか、排斥されたら親子でも縁を切るとか、高等教育はダメとか、そんなことですか?」
「そんなことでしょうね。そういう基準を無視したほうが人生うまくいくよ。組織もそれがわかっているから、神の基準をよく変える。」
「17節は詩編73を取り上げています。“詩編作者はどのようにして正しい見方を取り戻すことができたでしょうか。エホバを忘れて離れていく人たちがどうなるかをじっくり考えました。(詩 73:18,19,27)そして,神に仕えることがどれほどためになるかを考えました。(詩 73:24)”とあります。詩編73は格言のような知恵文学の詩ですね。」
「この詩の思想は、悪は繫栄しているようだけれども、それは一時的なものでやがて滅び、神と共にある者こそ幸いである、というもの。このような思想はよくあるものだけど、事実に反する。」
「伝道の書7:15には“私はむなしい生涯の間に全てを見た。正しい人が,正しいことを行っていても死んでいき,悪人が,悪いことを行うにもかかわらず長生きする。”とあります。8:14には“正しい人が,悪を行ったかのように扱われ,悪人が,正しいことを行ったかのように扱われている。”とあります。これが現実ですよ。」
「正しい行いをすれば報われる、という考えを拒否しているのが伝道の書の作者だね。通俗的道徳をまき散らす格言の後の時代に書かれたものということがわかる。」
「最後の18節に“終わりの時代にどんなことが起きるとしても,心配は要りません。私たちは「生きている真の神に仕え」ているからです。”とありますが、これも事実に反します。JWが仕えているのは生きている統治体ですよ。統治体がヒゲはダメ、ネクタイを締めよ、と言うと聖書的な根拠は何もなくても従い、統治体がヒゲはいいよ、ネクタイも締めなくていいよ、というと疑問も持たずにまた従う。生きている神とは関係ないです。」
「それにJWは心配だらけでしょう。家賃をどうするかとか、食費をどうするかとか、病院代をどうするかとか、車の修理代をどうするかとか、心配事は尽きないけれど、組織は何もしてくれない。」
「18節には終末カルトらしいことが出ています。“間もなく,これまで経験したことのない大患難が起きます。”と力強く宣言しています。間もなくって、150年近く言い続けるところがすごいです。」
「大患難とかハルマゲドンとか地上の楽園とか永遠の命とかはJWという宗教のセールスポイントなのだから、毎週1回は必ず取り上げて、信者の気持ちを盛り上げて欲しいね。」
- ジョエル
- 2024年08月27日 13:57:24
集会所によってはキリストの絵を飾っている所もあったがあれは偶像ではないのかよ
自分のJ2時代は絵を飾るとかはしていなかったと思います。
キリストの絵や彫刻を教会に置くことは偶像崇拝なのか、も確か西暦8~9世紀頃をピークに200年くらいキリスト教でも盛んにお題にされていたようです。
キリストのものであっても絵画や彫刻を置くべきではない、それは偶像崇拝だから排除すべき、とJWのような急進的な主張を強く訴える派閥があったようですが、現在のJWがキリスト教に寄せて「視覚に訴えるもの」を積極的に取り入れているように、旧約の律法が禁じていたのは、動物や想像上の生き物を象った異形の崇拝対象のことで、受肉したキリスト後の絵画や彫刻は視覚に訴えてキリストへの崇敬の想いを強める要素として「効果的だ」との結論に落ち着いた歴史があります。当時は一般信者のほとんどは聖書はおろか字すら読めなかったことも大きかったようです。
JWが彼らの絵は偶像崇拝ではないとする理由は「絵に向かって」祈ったり拝んだりしていない、ことですが、これも、キリストの絵を礼拝堂(彼らの崇拝場所)に飾っておきながら絵以外の方向に向かって、つまり「キリストの絵に背を向けて」祈ればOKとなると、何がしたいのかよく分からない宗教ですね。
- 聖書についての質問
- 2024年08月23日 13:42:10
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“ずっとエホバの友でいる(24)”で、JWでいるための必要事項を並べたという内容です。」
「英文では“友”ではなく”客 guest”なんだけど。翻訳者が勝手に変えるのはいつものことだね。」
「詩編15について学ぶようです。」
「どの聖句でも結局、組織に服従という結論になるのがJW。」
「2節に“詩編 15編はこう始まっています。「エホバ,あなたの天幕にとどまるのは誰ですか。あなたの聖なる山に住むのは誰ですか」。(詩 15:1)”とあります。これは先週やりましたね。本当は、誰があなたのテントの客となるのでしょうか、です。」
「詩編15はまずそのように問いかけて、その答えが続き、最後に神の約束がくるという構成。この記事では答えの部分を学ぶようだね。」
「3節に“ほとんどのイスラエル人は幕屋で奉仕することができませんでした”とありますが、“でも,エホバの友となってエホバに忠実に仕える人たちはみんな,いわばエホバの天幕の中に入ることができたといえます。”と続きます。入れないけれど、入ることができた?全く理解できません。」
「英文ではguests in his figurative tentで、比喩的なテントの客になれたと言っている。これでも意味がよくわからないけどね。」
「JWの記事で“比喩的”と言う単語が出てくるときは、白を黒と言いくるめようと詭弁を弄する時です。今のJWの会衆を比喩的な楽園というくらいですから。」
「それがわかるから、翻訳者は“比喩的”ではなく“いわば”と言う言葉を使ったのだろう。」
「4から6節が“非難されるところがなく,正しいことを行う人”です。 詩編15:2に出てくる言葉です。エホバのテントの客として迎え入れてもらうにはこの2つが必要です。」
「4節に“ベストを尽くしてエホバに従うなら,「非難されるところがな[い]」人とエホバに見てもらえます。”と根拠のないことを書いている。そんなこと聖書のどこにも書いていない。」
「JWはベストを尽くせばいいという、少年野球の監督のようなことをよく言いますね。」
「これはアメリカ人の思想で、聖書とは関係ない。」
「5節には“集会に定期的に参加しているだけでは不十分です。(サム一 15:22)生活の全ての面でエホバに従うように努力しなければなりません。”とカルト丸出しのことを言っています。要するに、生活のすべてをカルトに捧げろということですよ。そんなこと無理です。」
「そもそも詩編15では集会に出ろ、なんて一言も言っていない。道徳的に正しい生き方をしなさいと言っているだけ。勝手にあれこれ無理な要求を付け加えているのは組織だよ。」
「6節では、ヘブライ6:10-12 を読み、“エホバは私たちが以前に行った良いことを決して忘れません。とはいえ,「最後まで」私たちが心を込めて仕えることを願っています。”とまとめます。年老いたJWにはきつい話ですよ。JWには定年退職というのがないのですね。」
「JWの教義ではハルマゲドンの直前でJWになれば救われる。早々とJWになるのは限りなく損ということだね。」
「7から13節が“心に真実を語る人”です。 エホバのテントの客となるための条件③ですね。でも“心に真実を語る”は誤訳ですよ。心に語ると訳すると、独り言をつぶやいているかのようです。」
「JW英語訳ではspeaking the truth in his heartなので、心の中の真実を話す、という意味。話すことと本当に考えていることが一致しているという状態だ。JWにはそんな人はあまりいないでしょう。本音の言えない組織だから。」
「8節で“「心に真実を語る人」は,みんなの前ではエホバに従いながら,隠れてエホバのおきてを破るようなことをしません。”と、おきてを守れ、エホバに服従という話になります。律法主義全開です。」
「詩編15とは関係ない話。8節に“心が不正直な人は,エホバのおきてや知恵が本当に良いものかどうか疑うようになるかもしれません。”とあるけれど、JWの場合だと、多少思考力のある人はJWのおきてや知恵が本当に良いものかどうか疑うようになるかもしれません、でしょう。」
「聖書に基づかないおきてが多すぎますからね。」
「長年神が命じたかのように実施していた、ヒゲ禁止、女性のスラックス禁止、ネクタイ絶対必要、奉仕時間の報告絶対必要、排斥された人には挨拶禁止が最近になってひっくり返ってしまった。JWのルールに何の疑問もなく従っている方がどうかしているよ。」
「9節にナタナエルのことが出てきます。イエスがナタナエルのことを“「見なさい,まさにイスラエル人,心に偽りがない人です」と言いました。(ヨハ 1:47)”とあります。この記事でイエスが出てくる唯一の場所です。ナタナエルを見倣えということのようです。」
「でもナタナエルはちょっと変な人だよ。イエスに褒められた後、何を言ったかというとヨハネ1:48に“ナタナエルは言った。「どうして私のことを知っているのですか」。”とある。」
「確かに、“心に偽りがない人です。”と言われたら、普通の人なら、過大評価ですとか、そんなことありません、ぐらいは言いますよ。」
「それなのに“どうして私のことを知っているのですか”と答えている。それを聞いたイエスはナタナエルのことをよっぽどの人物か、単なるバカかのどちらかと思っただろう。」
「10節に“詩編 15編3節によると,エホバの天幕にいる人は「中傷せず,周りの人に何も悪いことをせず,友をけな」しません。”とあり、他の人のことを中傷するなと言っています。“中傷”という訳は適切ですか?」
「11節に“中傷とは,誰かの評判を損なうようなうそを言うことです。そうしたことを続け,改めようとしない人は,クリスチャン会衆から除かれることになります。”とあるけれど、元のヘブライ語はそんな限定した意味ではないよ。元の意味は“徒歩で歩き回る”というもの。そこから“スパイする、偵察する”と言う意味が派生した。」
「民数記21:32に“モーセはヤゼルを偵察させた。”とありますが、これですね。」
「協会共同訳では“舌で人を傷つけず”となっているけれど、こちらの方が原文に忠実だね。悪口を言うなという程度の意味だよ。」
「13節では、さらに禁止事項が出てきます。“ネガティブな情報を広めて,意図せずに誰かをけなしてしまうということがあり得ます。例えば,(1)ある姉妹が全時間奉仕を中断したとき,(2)ある夫婦がベテル奉仕者でなくなったとき,(3)ある兄弟が長老や援助奉仕者でなくなったときなどです。そうした調整の理由についてあれこれと考えてほかの人と話すのは適切なことでしょうか。”とあります。要するに、見ざる、聞かざる、言わざるでいけ、ということです。」
「今、この例にあるようなJW活動から少し距離を置く人が増えているのでしょう。そういう人のことを話題にするなという指示だね。」
「同じ会衆の人のことをアレコレうわさするのはJWの数少ない娯楽ですよ。嫌いな長老が長老をやめたり、偉そうにしている夫婦がベテルをやめてきた夫婦だということを知ったりすると、その理由をあれこれ推測してしゃべりまくるのがJWですよ。」
「それが嫌なら、きちんと説明すればいいだけ。隠ぺい体質だから、信者が真偽不明のうわさで暇つぶしをする。」
「14から16節が“エホバを畏れる人を敬う人”です。 14節に“詩編 15編4節には,エホバの友は「卑劣な人を退け」るとあります。”、また“エホバから見て「卑劣な」行いをしている人だけを退けるべきです。”と言っています。排斥された人には挨拶はしていいけれど、会話はするなということですね。」
「ここで英文でも客が“エホバの友”に変わっている。友なんか詩編15に出てこない。こういういい加減さはJWらしい。」
「15節では“一方,詩編 15編4節は,「エホバを畏れる人」を敬うことを勧めています。”、“「損失を被るとしても約束を破らない」ようにすることです。”とあります。そして、“エホバは,夫婦に結婚の誓いを守ることを期待しています。”と続きます。不幸な結婚でも離婚するなということですね。」
「夫が暴力亭主でも、アルコール依存症でも離婚できないのがJW。みじめで不幸な結婚を楽園を夢見てひたすら耐えるしかないわけだね。JWであるということは本当に不自由なことだ。」
「17,18節は“お金を愛するような生き方をしない人”です。 17節に“ここでお金について書かれているのはどうしてでしょうか。お金に対してバランスの欠けた見方をするなら,周りの人を傷つけたりエホバとの友情を失ったりすることになりかねないからです。”とありますが、違いますね。」
「詩編15:5には“お金を貸すときに利息を取らず,罪のない人を陥れる賄賂を受け取らない人”と具体的に禁止事項を言っているわけで、JWの好きな“お金に対してバランスの欠けた見方”をするなと言っているわけではない。利息と賄賂の禁止をいっているだけ。」
「貸しても利子を取るなとか、賄賂を取るなとか、大多数のJWには関係ない話ですよ。」
「巡回監督にお金を渡すのは寄付であって賄賂ではないしね。」
「18節では、それを拡大解釈して、次のように自問せよと言っています。“お金のことや買いたい物のことばかり考えているだろうか。お金を借りた時,どうせ返さなくてもあの人なら困らないだろうと思って,なかなか返さないことがあるだろうか。お金があることで優越感に浸ったり,逆にけちになったりしていないだろうか。たくさんお金を持っている兄弟姉妹のことを,お金を愛している人と決め付けていないだろうか。裕福な人とは仲良くして,お金のない人にはそっけない態度を取っていないだろうか”です。つまり、これらのことはほとんどの貧乏JWに当てはまるということですね。」
「お金のことで一番問題のあるのは統治体でしょう。湖のそばの高級マンションで暮らし、高価な時計や指輪をして、一般の信者には最低賃金で暮らすように強いながら、子どものアイスクリーム代があるなら組織に寄付をするよう求めている。しかも、その寄付が一体どのように使われているのかは末端の信者には知らされない。」
「一般の人が見たら、統治体こそがお金を愛する生き方をしているように見えますよ。」
「でも、信者には統治体の老人たちはイエスの真の弟子と見えるんだよね。不思議だね。」
「最後の19,20節は“エホバは友を大切にする”です。 19節に“詩編 15編は,「こういう人は決して動揺させられることがない」という言葉で終わっています。(詩 15:5)”とあります。」
「19節の最後には“エホバが教えていることに従うなら,私たちはより良い人生を送り,エホバに守ってもらうことができます。”とあるけれど、元の英文はそんなことは言っていない。bring us his blessing and protection(祝福と保護をもたらす)と言っている。」
「祝福というのがキリスト教的で嫌なのでしょう。」
「でも、“より良い人生を送り”と訳するのは間違い。誰が考えても、JWの人生は“より良い人生”じゃない。エホバが教えていることに従えば従うほど、人生は悪くなるよ。」
「最後の20節に“その招待を受け入れるなら,エホバの友達として,エホバの天幕にずっととどまることができるのです。”とあるのですが、友達になるとは詩編15のどこにもありません。」
「今週もインチキ聖書研究だったということだね。」
- 聖書についての質問
- 2024年08月16日 14:28:40
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバからの素晴らしい招待(23)”で、とにかくJWという組織に留まりなさい、という内容です。」
「そんなことを言わなくても、JWの多くは老人で、今から生き方を変えるのは難しいから、残念だけど惰性でJWを続けるよ。」
「詩編15:1の“エホバ,あなたの天幕にとどまるのは誰ですか。あなたの聖なる山に住むのは誰ですか。”と言う聖句についての記事なのですが、訳に問題がありますよね。」
「元の英文はO Jehovah, who may be a guest in your tent?で、エホバ、誰があなたのテントの客となるのでしょう?だよ。”客 guest”がキーワードなのに、この単語を使わないところをみると、翻訳者はこの詩を全く理解していないね。」
「古代中東において、旅人を客として暖かく迎え、保護するということは重要なことだったわけですよね。この詩は神と人間の関係を主人-客関係に見立てて、創作されたものです。」
「この詩がどのように使われたのかについては幾つかの説があって、その一つはエルサレムに巡礼に来た人が聖なる場所に入場する際の儀式に使われたというもの。もしそれが正しいとなると、“聖なる山”が出てくるので、シオン山への巡礼が盛んになった時代の詩だろう。」
「2節に” この言葉から,エホバが私たちを友として天幕に招いてくれていることが分かります。”とありますが、友ではなく客ですよ。神に客として迎え入れられ、保護ともてなしを受けて、聖なる場所に住むのにふさわしい人は誰ですか?と問いかけている詩ですね。」
「JWの神学では“エホバは友達”のようだけど、聖書的じゃないね。神の友とはっきり書かれているのはアブラハムだけ。」
「友といっても、現代とかなり違う存在じゃないですか?」
「聖書には友達関係はほとんど出てこないので、どのような人を友と呼んだのかははっきりしない。列王一4:5に“ナタンの子アザリヤは代官たちをまとめ,ナタンの子ザブドは祭司であり王の友人だった。”とあるけれど、“王の友人”とは王に助言する人を指すわけで、現代なら友とは呼ばない。創世記26:26に“その後,アビメレクがゲラルからイサクの所にやって来た。相談役のアフザトと軍隊の長フィコルが一緒だった。”とあるけれど、ここで“相談役”と訳されているのが“友”と訳されているのと同じ単語。」
「3から5節が“エホバはご自分の天幕に私たちを招いている”です。 エホバはイエス、天使、人間を招いたと言っています。」
「3節に“招かれたイエスも「いつも神の前で喜ん」でいました。(格 8:30)”とあるのはいただけないね。格言8章は8:1で“知恵が呼び掛けていないだろうか。”とあるように、知恵を擬人化して、知恵の重要性を述べている部分。知恵は女性名詞なので、女性として擬人化されている。ギリシャ語ではソフィア。」
「それが新約になると知恵がイエスと見なされ始めるわけですか?」
「ルカ7:33-35に“同じように皆さんは,バプテストのヨハネが来てパンを食べたりぶどう酒を飲んだりしないと,『彼は邪悪な天使に取りつかれている』と言い,人の子が来て食べたり飲んだりすると,『見ろ,大食いで,大酒飲みの男,徴税人や罪人たちの仲間だ!』と言います。しかし,知恵は結果によって明らかになります。”とある。最後の部分がJWらしいテキトウ訳で、元の英文は wisdom is proved righteous by all its children.(知恵はその全ての子どもたちによって正しいと証明されます。)というもの。“知恵の子どもたち”とは誰かというと、バプテストのヨハネとイエスだと、解釈される。イエス=知恵ではないね。」
「ルカ7:33-35の並行記事であるマタイ11:19では“しかし,知恵は行動によって明らかになります”となっています。これだとイエスの行動=知恵の行動で、イエスと知恵の一体化が進んでいますよ。」
「イエスはどのような存在かについては新約聖書の段階では教義としてまだ整理されていなくて、多様なキリスト論があったということ。イエスを神の知恵の受肉と考える知恵キリスト論の萌芽は見られるね。」
「5節に“エホバは長い間ずっとご自分の天幕に友を招いてきました。(エゼキエル 37:26,27を読む。) エゼキエルの預言から,ご自分に仕える人たちと親しくなりたいというエホバの温かい気持ちが分かります。”とありますが、ここには“私は彼らと平和の契約を結ぶ。”とありまして、契約の話ですよ。温かい気持ちはわかりません。」
「ここで言う“彼ら”とはイスラエル人のこと。JWとは関係ないよ。」
「5節には“この預言は,天に行く希望を持つ人たちと地球で生きる希望を持つ人たちが「1つの群れ」になってエホバの天幕に集まる時のことを言っています。(ヨハ 10:16)これは,今実現しています。”とあります。エゼキエルの預言が今JWにおいて実現しているとは知りませんでした。」
「こんなバカなことをだれが言い出したのかな?JWのたわごとだね。ヨハネ4章ではイエスがサマリアの女性と会話するけれど、その中で“いいですか。あなた方がこの山でもエルサレムでもない所で天の父を崇拝する時が来ます。”と聖なる山とか神の天幕という思想そのものを否定しているよ。」
「6,7節が“エホバは私たちがどこにいても大切にしてくださる”です。 ここからが本論ですね。どこにいてもJWならエホバの天幕にいると言っています。それから死んだ人もエホバの天幕に留まっているのだそうです。」
「7節で、死んだ人も“エホバの記憶の中では生きているからです。”と説明している。でも死者は神の記憶の中で生きていると聖書のどこにも書いていないし、記憶されている=生きているなんている公式は成立しない。JW独自の奇妙な神学だね。」
「8,9節は“エホバがしてくれることと私たちがすべきこと”です。 エホバの天幕にいると保護されるようですね。8節に“エホバの天幕の中にいれば,エホバとの絆を傷つけようとしたり希望を失わせようとしたりするものから守られます。”とあります。つまり貧困や暴力、病気等々からは守られないということですね。」
「英文では spiritual harm and hopelessness(霊的な害や絶望)から守ってくれると言っている。日本語翻訳者は霊がきらいなので、霊を使わずにテキトウに訳するわけだけど、たいした保護は与えられないようだね。」
「しかもその保護も条件付きです。エホバに服従しなければなりません。」
「それをはっきり書かないところがズルいね。9節で“誰かの家に招かれた場合,その家の人の失礼にならないようにしたいと思うでしょう。もし家の人が家に入る前に靴を脱いでほしいと思っているなら,喜んでそうするはずです。同じように,エホバの天幕にとどまりたいなら,エホバがどんなことを望んでいるかをぜひ知りたいと思うことでしょう。”とある。」
「エホバが何を望んで、何を望んでいないかを判断できるのはニューヨークにいる統治体の老人だけというのが、JWの教義ですよ。要するに統治体の言いなりになりなさいということですね。」
「統治体の老人によると、エホバは誕生日は祝わないで欲しいと望んでいるわけだね。少し前まではあごひげや女性のスラックスは望んでいなかったけれど、気が変わったというわけだ。それから伝道者の奉仕時間の報告も以前は望んでいたけれど、それも気が変わったようだね。」
「10から12節が“エホバはイスラエル人を公平に扱った”です。 出エジプト後の荒野での話が出てきます。12節に“例えば,エホバはイスラエル全体が幕屋の上にあった雲の柱や火の柱を見ることができるようにしました。(出エジプト記 40:38を読む。)”とあります。これがエホバが公平であることの根拠の主なものですね。“幕屋からの距離はエホバとの友情の深さを示すものではありませんでした。イスラエル国民の全てがエホバの天幕に招かれていて,エホバが自分たちを導いて保護してくださっていることを感じることができました。”とあります。」
「全く納得できないね。10節に“幕屋で奉仕するよう祭司たちを任命しました。また,レビ族の人たちに幕屋に関する仕事を割り当てました。でもエホバは,幕屋で奉仕していた人や,その近くに宿営を張っていた人を特別扱いしたりしませんでした。”とあるけれど、エホバのルールでは重要な宗教上の仕事をするのは特定の家系の人間に限定している。これを公平とはいわない。出自による差別という。それなのにエホバは公平というJWの倫理観は狂っている。」
「レビ21:16-18では“エホバは続けてモーセに言った。 「アロンにこう告げなさい。『代々,あなたの子孫で体に障害がある人は誰も,神のパンを捧げるために近づいてはならない。 体に障害がある人がいるなら,その人は近づいてはならない。”とあります。障害のある人を公平に扱うどころか、滅茶苦茶差別しています。」
「でも、寄付は貧しい人も裕福な人も公平なんだよ。出エジプト30:14,15に“20歳以上の登録された人は皆,エホバへの寄進をする。自分の命のための贖罪としてエホバへの寄進をする時,裕福な人も5.7グラムより多く納めるべきではなく,貧しい人もそれより少なく納めるべきではない。”とある。でもこれは別な見方をするとひどく不公平だね。裕福な人にやさしく、貧しい人に厳しい。」
「そもそも出エジプトや40年間の荒野の放浪の史実性はありません。」
「イスラエル民族成立の神話だね。それを実際あったかのようにいつまでも信者に教えるのはサギだね。」
「14節で“エホバが公平な方であることは,聖書を世界中の人に読めるようにしていることからも分かります。”とありますが、世界のさまざまな言語に翻訳されたのは、ここ100年ほどのことじゃないですか?」
「しかも、その翻訳はJWがサタンの支配下にあるとするキリスト教関係者によるものでしょう。それもエホバがやらせたと主張するのかな?」
「JWも翻訳していますが、1950年から開始して、1冊にまとめて出版されたのが1961年です。聖書全ての日本語訳が出たのは1982年です。しかも日本語訳は英語を訳しただけ。翻訳の誤りもたくさんあります。エホバの仕事は遅いし、いい加減ということですね。」
「エホバは英語をとりわけひいきにしている点で公平じゃないね。」
「15節には“高い教育を受けていたり,聖書の原語に関する知識を持っていたりしなくても,エホバの友達になることができます。”とあります。反高等教育の反知性主義の宗教ですから、当然の主張ですよ。」
「“高い教育を受けていたり,聖書の原語に関する知識を持っていたり”すると、JWのおかしな教義や翻訳に気づきやすいからね。騙されやすい無知無学な人が理想のJW。」
「最後の16,17節が“エホバの天幕にとどまる”です。 16節に“エホバの天幕に迎え入れていただけるのは本当に素晴らしいことです。”とありますが、具体的にどう素晴らしいのかわかりませんでしたね。」
「エホバの良い便りを無給で人々に伝える素晴らしい特権が与えられますとか、エホバへの清い崇拝を行う王国会館の建設に無給で携わるという素晴らしい特権が与えられます、などと具体的に書いて欲しかったね。」
「17節には“次の記事では,ずっとエホバの友でいるために何をする必要があるか,具体的に考えます。”とあります。信者にいろいろな要求が突きつけられるようです。」
「最初にうまいことを言ってその気にさせてから、その後にいろいろ要求事項を並べるのは詐欺的な勧誘方法の典型だ。最初からなぜ言わないのかな。」
- 聖書についての質問
- 2024年08月09日 14:23:15
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“付き合っている2人ができること(22)”で、交際中の男女に組織があれこれと干渉するという内容です。」
「最近のJWの男女関係が乱れているので、先週に続いて引き締めを図ろうということでしょう。本当に信者を管理統制するのが好きな宗教だね。」
「英文のタイトルはHow to Have a Successful Courtshipですが、Courtshipとはなんですか?」
「結婚しようとしている男女がより親密になる期間のこと。」
「JWでは結婚を前提としない男女交際は禁止なわけですね。」
「直接言ってはいないけれど、そういうことだね。JWには恋愛はない。恋愛したい人はJWをやめよう。」
「聖書の時代にCourtshipなんてありませんよね。」
「ないよ。だから、この記事に書かれていることは聖書とは関係ない。アメリカの保守的なキリスト教の思想が述べられているだけ。いつものように聖句が使われているけれど、無理やり関連付けているだけ。文脈無視の聖句の誤用。」
「3,4節は“付き合うのは何のため?”です。 3節で“それは結婚につながるかもしれない大切なステップでもあります。”とあって、結婚を前提にしたものということがわかります。」
「“結婚するという決定もあれば,付き合うのをやめるという決定もあるでしょう。”とあるけれど、結婚しないという決定は困難だ。ある男性JWは交際してから1週間後に女性JWの親から結婚式の話を持ち掛けられたよ。」
「JWは離婚が難しいですし、再婚するにもJWルールがあって大変です。JWでいることに満足しているなら、結婚はリスクが高いです。」
「結婚して、嫌なら別れよう、とできないのがJWだよね。JWに生まれると、余計な重荷をたくさん背負わされる。」
「4節に“独身の人は結婚するつもりがないのにデートをしたりすることはないでしょう。”と決めつけています。それはJWルールですよ。」
「結婚するつもりがなくても、話し相手がいた方が楽しいよ。一人で映画を見に行くよりも、気の合う人と一緒に見て、映画が終わったら、おいしいものを食べ、おいしいお酒を飲みながら映画について話すのも楽しいよ。JWという人生はつまらない人生だ。」
「4節で、ある姉妹が“付き合っている2人は,周りの兄弟姉妹からプレッシャーを感じることがあります。それで,関係がうまくいっていないのに付き合い続けてしまう人や,そもそも付き合い始めるのをためらってしまう人もいます。”と言っています。周囲の者は結婚へ圧力をかけるなということです。先週も同じことを言っていました。」
「組織はJWの結婚がうまく言っていないケースが多いと判断しているのだろう。その理由として、結婚したくなかったのに周囲の圧力で結婚してしまった夫婦が多いと分析したのかも。」
「JWはデートの時に監視役が必要というルールです。それだけで結婚への圧力になります。偽善的です。」
「デートに監視役をつけるというのは地域差があるようだよ。そんなバカバカしいことをやっていられるかという地域もあるし、監視役不足という地域もある。」
「5から8節が“互いをよく知る”です。 5節に“自分の夫や妻になるかもしれない人がエホバとどれほど強い絆を持っているか,どんな性格や考え方をしているかをもっと知るようにしましょう。”とあります。エホバとの関係が一番重要なんですね。」
「結婚後、どちらかがJWのおかしさに気づいた場合、もう片方も影響を受けるケースがあるからね。その場合夫婦そろってJWをやめてしまう。組織としてはイタイ。そうならないようにエホバ教に疑いを持っていない相手を選べという指示だね。」
「5節で“お互いが必要としている愛情や関心を示せるだろうか。お互いの欠点を受け入れられるだろうか”とあります。これって、実際に結婚してみないとわからないと思いますよ。」
「JWの交際期間は短いようだ。交際半年で結婚ということもよくあるみたい。それだけ結婚の圧力が強いのだろうけれど、こんな短い交際期間では相手をよく知ることはできないね。」
「6節に“健康やお金に関する問題やトラウマになっていることなど,プライベートな点についてはどうでしょうか。”とあります。“トラウマになっていること”と言うのが気になりますね。」
「JWというと、児童性的虐待だね。子どもの時に長老にひどいことをされ、そのことを親に言っても無視され、絶望したとか。あとは体罰。お尻むき出しにされてベルトで皮膚が破れるまでたたかれたとか。後は会衆でのいじめ。JWにはトラウマとなるようなことはたくさんあるよね。」
「7節では“会話を楽しみながら行えることを一緒にするのは良い方法です。例えば,人目がある所で一緒に散歩したり,食事をしたり,伝道したりすることができます。”と言っています。“人目のある所”と言うのがポイントですね。」
「人目のないところで二人きりでいると、宗教裁判にかけられ、○○を触ったか、○○を入れたか、と非常識な質問をされるのがJW。」
「7節の下に、“遠距離の場合”という記事があります。“付き合っている間に相手に会いに行くための費用や,結婚後,相手の家族や友人を訪ねるための旅費をやりくりできるかどうかも考えましょう。”と言っています。遠距離の相手はお金がかかるからやめとけということですね。」
「こんな記事をわざわざ書くということは、身近なところで適当な相手を見つけられず、遠距離の場合が結構あるということだろう。限られたJWの中から見つけなくてはいけないからね。」
「8節では“一緒に聖書を学ぶのも,互いのことを知る良い機会になります。”とあります。そんなことする人たちがいるんですか?」
「それを理由に二人きりになるのを狙うんじゃないの。でも、“私たちは付き合い始めてすぐ,デートや結婚,家族生活について出版物を調べて話し合うようにしました。”とある兄弟が言っている。結局調べるのはJWの出版物だよ。JWには聖書はいらないね。」
「9から13節が“ほかにも考えたいこと”です。 4つのことが出ています。9節は①“付き合っていることを誰に伝えるか。”です。“良いアドバイスやサポートをしてくれそうな人たちに伝えておくのは良いことです。(格 15:22)例えば,家族や信頼できる友人や長老たちが助けになってくれるかもしれません。”とあります。」
「監視役を頼まなくてはいけないようだからね。秘密にはできないよね。JWにはプライバシーはない。」
「10節は②“付き合っている間もどうすればエホバに喜ばれる行動ができるか。”です。具体的には“お酒を飲み過ぎたり,2人きりになったり,不道徳な内容の会話をしたりしないようにしましょう。”とあります。」
「こんなアドバイスをするということは、組織は信者を10歳の子ども程度の人間とみているね。JWは子どもっぽい未熟な愚か者の集まりということね。」
「11節で“付き合い始めて早いうちにエホバの基準について話し合い,愛情の表現の限度をはっきり決めておくようにしましょう。”とあります。脚注には“相手の性器を刺激することは性的不道徳に含まれ,会衆の長老たちは審理処置を取る必要があります。胸を触ることや,メッセージや電話で性的に不道徳な内容の会話をすることも,状況によっては審理処置が必要になります。”とあります。性器と胸以外は問題なしということですか?これがエホバの基準?」
「英文ではBible principlesと言っている。聖書の原則だって。翻訳者は聖書の原則とJWのルールがあまり関連しないことを知っているので、エホバの基準とあいまいな表現に変えたのだろう。」
「JWの男女はみな、エホバの基準なるものに従っているのですか?そんなことないでしょう。」
「従っている人もいるし、いない人もいるだろうね。愛情表現なるものがどうしても過度になる人はいるよね。JWという組織は間抜けな人間が運営している組織だから、エホバの基準から大いに外れてもうまく隠し通すことはできる。そんな人でも、今では長老あるいは開拓者として立派に奉仕しています、ということもあるでしょう。」
「12節が③“意見が合わない場合どうすればいいか。”です。“もし自分にとってその人はふさわしくないと気付いたなら,別れるのが2人にとって一番良い場合もあります。”と言っています。意見の合わない人と無理に結婚しなくていいよということですね。」
「意見の合わないのに無理に結婚した夫婦がJWに多いということだろう。選択肢が少ないと、どうしてもそういうことは起こりやすい。」
「13節が④“どれくらいの期間付き合えばいいか。”です。“関係が深まると,性的な衝動を抑えにくくなるかもしれません。(コリ一 7:9)”とあります。引照聖句には“しかし,自制できないなら,結婚しなさい。情欲に燃えるよりは結婚する方がよいからです。”というものです。JWの結婚に多いケースじゃないですか?」
「JWだと、半年の交際で、若くして結婚するのが普通の国も結構ある。排斥を避けるためだね。そして若くして離婚する。」
「14から16節が“周りの人はどのようにサポートできるか”です。 JWの大半を占める老人はここから参加ですね。14節で“食事や遊びや家族の崇拝に誘うことができます。(中略)ほかにも,付き添いをしたり,車に同乗したり,家に呼んで2人がゆっくり話せるようにしてあげたりすることもできます。”とあります。監視を怠るな、という指示ですね。」
「二人がイケナイことをしていたら密告しろとは書いていないのは、そういう場合喜んで密告するのが大半のJWだからだよね。」
「15節では“周りの人は,付き合っている2人についてうわさしたり,個人的な事柄について批判したりすべきではありません。”とあります。また“結婚しないといけないというプレッシャーを掛けるようなことを言ったり聞いたりすべきでもありません。”とあります。でも噂はJWの主な娯楽ですから。特に男女の間の噂は。」
「特に独身の婚期を逃した女性JWは面白くないだろう。素直に祝福するほど性格のいい人はJWに少ないから、悪意のあるうわさが飛び交うことになる。」
「16節では“もし2人が別れることにしたなら,詮索したり,どちらかの肩を持ったりしないように気を付けましょう。”とあります。いろいろ詮索するのがJWの習慣です。単純な白黒思考ですから、片方を悪者にして攻撃するのもJWの習慣です。」
「別れることにしたら、どちらかが会衆を移動することになるだろう。移動先で新しい相手を探すわけだ。」
「16節では“傷ついた気持ちを引きずったり寂しく思ったりするかもしれません。それで,周りの人は優しくサポートしてあげましょう。”と言っています。これは珍しいです。他人の気持ちに鈍感なのがJWですから。」
「JWの関係は宗教ビジネスの社員のようなものだからね。仲間を思いやるとかサポートするということはほとんど強調されない。大事なのは自分がどれくらい伝道したとか、どんな特権があるかということ。」
「JWは結婚相手には向いていないということですね。」
「まず結婚を避けるべき人といえば、JWというのは常識でしょう。」
- 聖書についての質問
- 2024年08月02日 15:09:11
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“結婚相手を見つけるためにできること(21)”で、早く結婚して、組織のために働けという内容です。」
「この記事は、男女交際のルールを示したという内容だね。JWの男女関係が乱れがちだ、引き締めが必要だ、と統治体は思っているということだね。老人が半数以上のJWだけど、まだ若い人も少数ながらいるからね。」
「間もなく終わりが来るので、結婚・進学よりも伝道を優先しましょう、となぜ言わないのですか?」
「誰も終わりが来るなんて思っていないからだろう。あと数十年生きるとしたら、結婚して二人で協力した方が生活はしやすい。」
「3から6節が“結婚相手に良さそうな人を見つける”です。 3節で“もちろん,付き合う相手はバプテスマを受けたクリスチャンであるべきです。”とあります。JWでなくてはいけないという規則ですね。」
「JWの男女比は1対2くらいかな?どう頑張っても、女性JWの半数は独身のままということ。その事実を組織は明らかにして、JW以外の人との結婚も認めるべきでしょう。」
「4節では祈れと言っています。“エホバは結婚相手に出会えるようにすると約束してはいませんが,あなたの気持ちや必要としているものを分かっていて,気遣ってくださいます。そして,結婚相手を探している間ずっと支えてくださいます。”とあります。結婚相手を探していると支えてくれるんですね。初めて知りました。」
「体験談が出ているけれど、祈った結果素晴らしい相手に出会えましたとは書いていない。そういう話をなぜ書かないのかな?」
「男女の数の不均衡などの問題がありますし、JWの若い人には精神病の割合が高いといううわさもありますし、ヘンな期待をあおるのを控えているのですよ。」
「夢を持たせるべきでしょう。白雪姫とかシンデレラみたいな話をでっちあげればいいのに。ウソだと思っても、楽しめる。」
「ジョン兄弟は“私はどんな姉妹と結婚したいかを具体的にエホバにお伝えしています。そういう人との出会いの機会があるようにとも祈っています。”とあります。具体的にというと身長、体重、年齢、美人度とかバストサイズ等々を祈るのでしょうか?そんなことを祈っていてバカバカしいと思って、空しくなりませんか?」
「元の英文はI tell Jehovah the qualities I desire in a mateというもの。結婚相手に望むthe qualities(性質)を伝えているとあるだけで、“どんな姉妹と結婚したいかを具体的”に伝えているとは言っていない。翻訳者がかってに膨らませているだけ。」
「組織がマッチングアプリを開発すればいいのですよ。結婚したいJWが登録して、希望を細かく記入するのです。その方が祈るより効果があります。めでたく夫婦になったら、成功報酬を寄付させるのです。」
「アメリカには個人が作ったものがあるらしい。信じやすいJWが詐欺にあわないか心配だね。」
「5節でJW活動を活発に行っていると、良い出会いがあるかも、と言っています。“そういう時間は仲間との交友を楽しむ機会になるだけでなく,エホバに仕えることを大切にする人と出会う機会にもなるかもしれません。”とあります。出会いを求めて、あちらこちらと動き回れということですか?」
「そういう人もいるみたいだね。会衆を変えていい相手がいないか探し、いないと判断したら別の会衆に移動する。以後それを繰り返す。たいていは薄気味悪い変人なので、結婚に至る確率は極めて低いらしい。」
「大会に双眼鏡を持って行く兄弟がいますよ。バードウォッチングではなく、シマイウォッチングのためです。」
「そういう楽しみがないと大会など耐えられないでしょう。」
「5節では“コリント第一 15:58を読む。”とあり、そこには“皆さんが知っているように,主のために働くことは無駄ではないのです。”とあるのですが、これは結婚相手探しにも適用されるとは驚きです。」
「ここでいう“主”はキリストのことで、JWは関係ないよ。JWはエホバのために働く人たちでしょ。」
「7から11節が“時間を取って相手の様子を観察する”です。 7節で“思いを伝える前に,少し相手の様子を観察する期間を持ちましょう。”と言っています。観察には双眼鏡が必要ですね。」
「一時的な感情に流されるなということだね。すぐに結婚を決める人が多いからこんなことを言っている。」
「8節は相手のことを知る方法についてです。“会衆の集会や交友の場でのその人の様子から,性格や振る舞い方,神との友情について何か分かることがあるかもしれません。”、また“その人の会衆の長老や,その人のことをよく知っている信頼できる兄弟姉妹に尋ねてみることもできます。”とあります。ということはソトズラのいい人が良い結婚相手ということですね。」
「二人でデートしてみましょう、とは言えないわけね。直接会って話しをする方が相手のことをよく知ることができるよ。JWの結婚がうまくいかないのもよくわかるね。」
「9節に“告白する前にどれくらい時間をかけて相手のことを知るとよいでしょうか。”とあります。いったい何を告白するのでしょうか?結婚してくださいと、いきなり言うわけじゃないですよね。」
「英文ではexpress your interestで、あなたの関心を示す、という意味。告白は誤訳。翻訳者は、女性と付き合ったことのないうぶな男なんだろう。」
「9節では“付き合い始めたらその人と結婚しなければいけないと考える必要はありません。”とあります。それは現実的ですか?やっぱりやめた、と言うのは難しいと思いますよ。」
「周囲の圧力と監視があるからね。結婚にまで至らなかったら、特に女性の方はダメージが大きい。結婚を拒否した方は悪者扱いだろう。」
「10節で“付き合うつもりがないのに思わせぶりな態度を取るのは,親切なことではありません。”とあります。そう単純に白か黒と決められない場合だってありますよ。」
「単純な白黒思考のJWもそう簡単に割り切れないこともあるよね。点数でいえば合格ラインを下回るけれど、ほかに適当な相手もいないとなれば、この辺で妥協するかと迷うのは普通でしょう。相手はよいけれど、相手の親が最悪という場合もある。自分の年齢や置かれた状況で判断がより難しくなる場合もある。」
「11節は、相手を紹介して欲しいと頼まれた場合です。“エホバとの強い絆は,収入や学歴,社会的地位よりもはるかに大切です。”とあります。つまりJWに結婚相手の紹介を頼まない方がいいということですね。」
「エホバとの絆というのはあいまいだね。JW内での地位のこと?カイタク者じゃないとダメとか?特権なしだとダメだけど、マイク係ならいいとか?」
「中年の独身の長老がいた場合、なぜか若い女性JWを結婚相手に選びます。円熟した素晴らしいJW女性がたくさんいるにもかかわらずです。これってエホバとの絆を大切にした結果ということですか?」
「長老ともなれば、結婚で重要なのはエホバとの絆なんかじゃないということをわかっているんだよ。記事に書いてあることを真に受けるのは未熟なJWだけ。」
「12から13節が“付き合い始める”です。 12節で“付き合いたいと思っていることをはっきり伝えてください。(コリ 一 14:9)”とあります。あいまいな態度はエホバが許さないようです。はいかいいえでなくてはいけません。でもそう簡単に割り切れないのが人間ですよ。」
「引照聖句に“皆さんも舌を使って理解しやすい言葉を話さないなら,何を言っているのかどうして分かるでしょうか。空気に話していることになってしまいます。”とあるけれど、“空気に話している”はヘンだよ。翻訳者は女性経験ゼロで英語も怪しい中学生かも?」
「英文ではinto the airですから、空に話している、ですか。」
「協会共同訳では“空に向かって語ることになるからです。”だね。元のギリシャ語は空気ではなく空。」
「空気は古代ギリシャでは4大元素のひとつですよ。それに向かって話すなんて、ギリシャ語を話すパウロが言うわけありません。」
「古代ギリシャでは火、水、土、空気を万物の根源をなす4大元素とすることが多い。JW訳は笑えるような誤訳がいっぱいあって、楽しませてくれるね。」
「12節に“その人が付き合うことを望まないなら,その気持ちを尊重しましょう。”とあります。JWにはしつこい男が多いということですか?」
「一度断られたくらいで引き下がっていたら、誰とも結婚なんかできないと思っている人はいるよ。でも、ストカー行為はやめよう。」
「13節では“もし付き合う気がないなら,そのことを親切にはっきりと伝えましょう。”とあります。JWらしい単純は割り切り方です。付き合う気持ちが10%くらいあればどうするのですか?20%なら、50%なら・・・というわけで、0か100ではないですよ。」
「JWの思考は単純だから、0か100しかないんだよ。」
「断られた人のことをいたわる文章がないのがJWらしいです。思いやりゼロです。」
「付き合う気がないときっぱり断られたら、心の傷をいやすために、集会や伝道はしばらく休み、旅行などに出かけるのもいいかもしれません、くらいの思いやりのある文章を書いて欲しいね。」
「14,15節が“周りの人ができること”です。 今まで集会で寝ていた老人JWを起こすときですね。14節に“こう考えてみましょう。「自分は独身の人をからかったりしていないだろうか。独身の兄弟と姉妹が話しているのを見たとき,2人にその気があると決め付けていないだろうか」。”とあります。JWによくあることですね。」
「JWという生活は退屈だからね。その種の噂は重要な娯楽。皆であることないことしゃべりまくって、退屈を紛らわせる。」
「14節では“独身の人に劣等感を抱かせるようなことを決して言わないようにしましょう。”とあります。早く結婚するよう圧力をかけるな、ということのようです。」
「JWは他のことには圧力をかけるのに、結婚への圧力はダメなのね。」
「15節では“頼まれていないのに世話を焼くことがないようにしましょう。”とあります。個人の私生活に遠慮なく介入するのがJWですが、結婚はそうでないようです。」
「過去にいろいろトラブルがあったんじゃないの。そういう苦情が世界各地の支部に寄せられているのかも。」
「最後の16節では“結婚していても独身であっても,私たちは皆,幸せな人生を送ることができます。”とあります。それなら今までの記事は何だったのか?と思いますよ。」
「男女の数が合わないから、JW女性の半数は結婚できないからね。一生独身で過ごす人のことも少しは触れないとね。」
「終わりが近いのに結婚の話なんておかしい、と結婚できそうもない独身JWは正論を言って怒るべきです。」
「それは負け犬の遠吠え、とバカにされるだけ。」
「16節にあるマカオの姉妹の話が笑えます。“パラダイスで夫婦一緒に過ごせる時間と比べると,独身でいる期間は短いものです。ですから,独身でいられる時間を大切にして有意義に過ごしてください。”とあります。楽園で結婚するつもりですよ。」
「そういう老いた姉妹はカルトの犠牲者として、同情に値するよ。笑っちゃダメ。」
- 聖画
- 2024年07月28日 09:43:12
集会所によってはキリストの絵を飾っている所もあったがあれは偶像ではないのかよ
- ジョエル
- 2024年07月27日 22:28:04
マタイ25章の羊とやぎのくだりも使っているようですが、そこに出てくるのが「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」という文章です。
マイルドなキリスト教で人気があるのは、苦しむ人の内には共に苦しむ神(わたし=キリスト)がいて、彼らに対する善行はキリストに対するものである、という解釈です。
では誰が「この最も小さい者」なのでしょうか?
それは我らエホバの証人の最高指導者様である、というカルト全振り解釈をしているのはJW以外に知りませんが、共同体思想を強調したパウロ書簡のようにクリスチャン(JWの場合はJW)かどうかで対象の優先度に差をつけるよりも、サマリア人の小話のように信仰や信条を異にする人にこそ親切を施しなさい、が逆説大好きなイエス先生の教えです。
ヒツジの人も「自分はいつ救いに値するようなことをしたのですか?」と思い当たりなさげです。
誰なのか?どうやって見分けるのか?どうすれば救われるのか?などと考えて「あの人がそうだと思うから親切にしておこう」と打算的に行動する必要は全くない(むしろイエス先生に嫌われてしまうかも)ことになります。
JW伝道がますます時代遅れで効果がなくやる人も減ってくると、普通に隣人愛を説くようなキリスト教に寄せた話が出てきそうですね。