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- 1,000時間奉仕者
- 2025年12月13日 21:18:34
この研究記事のいっこ前に、恒例の「19◯◯年……100年前はこんなでした」の連載が載ってました。
相変わらずノー天気な記事だこと。
期待大ハズレで離脱した伝道者たちの話は最小限にとどめ、頑張ってラジオ塔をバンバン建てた話とか。
* 近年、英語原文から和訳文にするとき、受け取る雰囲気がガラリと変わる大胆な方針転換しているので、しれっと要点が改変されているのに気づかないことがあります。要注意。
- 聖書についての質問
- 2025年12月12日 15:25:17
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバは「あふれる喜び」(40)”で、喜びの少ない人生を送っているJWがどうすれば少しでも喜べるようになれるかを組織の立場でアドバイスしたという内容です。」
「楽園のことを考えれば、どんなに苦しい生活を送っていても、喜びが湧き上がってくるという、ウソ話が出てくるかと思ったけれど、あまり出てこないね。」
「1節で、世界の人たちは“むなしさ,やるせなさ,悲しみにのみ込まれそうになっています。エホバに仕えている人たちも例外ではありません。”とありますが、逆ですよ。JWこそ、今頃は楽園で暮らしているはずだったのに組織に騙された!と、むなしさ、やるせなさ、悲しみに飲み込まれていますよ。」
「それはそうだけど、そうは書けないから、まずJW以外の人を誹謗中傷して、JWも例外ではありません、という風に話を展開させるのがJW流の作文術。」
「3から7節が“本当の喜びや幸福感はどこから来るか”です。 3節では“エホバはいつも幸福な方”と断定していますが、そんなことはないですよ。」
「聖書の神は後悔したことが何度かあるよ。創世記6:7では“それでエホバは言った。「私が創造した人を地上から滅ぼそう。家畜や空を飛ぶ生き物や地面を動く生き物も。私はこれらのものを造ったことを嘆いているからだ」。”とある。このとき幸福とは思えないよ。」
「サムエル一15:11では“エホバはサムエルに言った。「私はサウルを王にしたことを嘆いている。”とあります。この時も幸福ではないですよ。自業自得とはいえ、エホバかわいそう。」
「聖書の神はJWの考えるハッピーな神じゃない。けっこう間抜けで、失敗が多く、泣き言を人間に言う情けない神だね。」
「3節では“美しい地球,数え切れないほどの色彩,かわいいしぐさの動物,たくさんのおいしい食べ物。エホバがそういうものを造ったのは,私たちを愛し,生きるのを楽しんでほしいと願っているからです。”と、自然界の一面だけを取り上げた小学生向けのプロパガンダがでています。」
「地球の陸地の割合は29%で、そのうち71%が居住可能とされている。つまり地球の20.6%しか居住可能ではない。地球は神が人間のためにつくったとすれば、それは失敗作。それから動物はかわいいのもいるけれど、不気味で気持ち悪いものの多いよ。食べ物がおいしいのは人間が品種改良したから。たいていの原生種はおいしくないよ。」
「蚊とかダニ、シラミは“私たちを愛し,生きるのを楽しんでほしいと願っているから”造ったのですか?人間を苦しめるためにつくったとしか思えません。」
「毒のある生物が多すぎるよ。クラゲなんか結構危険。楽園想像図で子どもが海で遊んでいるというのがあったけど、クラゲに刺されることはないのか心配だ。キノコには有毒なものが200種類以上ある。楽園でも子どもが食べて死ぬ事故が多発しそう。なんでそんなものを造ったの?」
「4節にテモテ一1:11が引照聖句となっていて、“その教えは幸福な神の素晴らしい良い知らせと一致しており”とあるのですが、“幸福な神”はヘンですよ。」
「協会共同訳では“祝福に満ちた神”で、英語の聖書ではthe blessed Godだね。JWのようなthe happy Godとしているものはないでしょう。エホバ=幸福な神というJWの公式に合わせたJW独自の訳だね。」
「5節では“エホバによって造られたものの中で,イエスほど幸福な方はいません。”とありまして、その理由を2つ述べているのですが、説得力ゼロです。6節では“イエスはエホバが望むことを行うことで,いつも幸せを味わっています。(格 8:30,31。ヨハ 8:29)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「聖書は幸せになるハウツーを書いた本じゃないからね。なんかずれているよね。これもJWの幼児化の現れかな。」
「イエスを取り上げた5,6節は不要ですよ。エホバ教なのですからイエスは不要です。キリスト教らしくみせたいからですか?」
「イエスはエホバによって作られたとわざわざ書いてあるから、三位一体を唱えるキリスト教を攻撃したいからじゃないの。」
「7節はバカバカしいことが書かれています。“エホバについて学んでエホバと一緒に時間を過ごせば過ごすほど,そしてエホバに倣えば倣うほど,幸せが大きくなっていきます。また,エホバの望むことを行ってエホバから喜ばれていることを実感すると,幸せを味わえます。”とあります。この論理だとJWは世界一幸福な人たちになりますね。」
「人類の大多数はエホバなんて知らないからね。JWに比べたら不幸のどん底にいるということになるね。でもそう見えないよね。」
「“エホバと一緒に時間を過ごせば過ごすほど”幸福になるようですが、これは誤訳ですよ。そもそもエホバと一緒に時間を過ごすことなんかできません。」
「The more time we spend learning about Jehovah and imitating him, the happier we will be.(エホバについて学び、エホバに倣う時間を取れば取るほど、より幸福になります。)だね。ちょっと複雑な構文になると、翻訳者はまともに訳せない。」
「ここで言うエホバとは組織のことですね。組織の教えを学んで、実行する。組織の望むことを行って、統治体を喜ばせる、と幸せになるといっているようなものです。」
「そう言うと誰もがウソだと思うので、エホバという便利なキャラクターを持ち出す。」
「8から16節が“どんなときも明るい気持ちでいるために”です。 3つのマイナス要素とその対処法が書かれています。8節は、マイナス要素①“つらい出来事。”です。“迫害,自然災害,貧しさ,病気,加齢のためにつらい思いをしていますか。”とあります。JWはそうでない人よりも、つらい出来事は多いですからね。明るい気持ちになれませんね。」
「組織は意図的に信者がつらい人生を送るように誘導している。進学するな、仕事はパートにしろ、結婚は先延ばしだ、子どもはつくるな、伝道をやれ、集会に必ず来い、無給で建設工事をしろ、寄付も忘れるな・・・、と無限の要求がつづく。明るい気持ちでいるにはまずJWをやめること。」
「8節に“聖書にも「心に痛みがあると気持ちが沈む」とあります。(格 15:13)”とありますが、聖書の訳がヘンですね。」
「JWの英語版ではheartache crushes the spirit.(心の痛みは霊を打ち砕く)。いつものように日本語訳では霊は別の単語に置き換えている。」
「9節は“どうしたらまた明るい気持ちになれるか。”で、“現実を受け入れ,感謝の気持ちを持つことが役立ちます。”とあります。バビロン捕囚の話を持ち出して、“現状を受け入れ,物事の良い面に目を向けて感謝する,ということです。たとえ理想的な状況ではなくても,エホバが必ずそばにいて助けてくれます。(詩 63:7; 146:5)”と、調子のいいことを言っています。もちろん、引照聖句は必ずそばにいて助けるなんてことは言っていません。」
「多くのJWはよせばいいのに現状を受け入れているよ。だからいつまでもJWを続けている。」
「9節には事故で体がマヒしたエフィ姉妹の話が出ています。“くよくよせず前向きに生きていくことで,エホバと仲間に恩返ししたいです。”と言っています。エホバは事故に遭うのは防いではくれませんが、事故に遭った後に支えてくれる神様のようです。」
「エフィ姉妹が3年以内に会衆から見捨てられる確率は90%でしょう。組織はエフィ姉妹を組織の宣伝に利用しているだけ。体がマヒしているエフィ姉妹が頑張っているんだから、病気などは頑張らない理由にならないぞ、というメッセージだね。」
「10節には“どんなにつらい状況もずっと続くわけではないことを忘れないでください。砂浜に残された足跡のように,やがてすっかり消えてなくなります。”とポエムが出ています。」
「ポエムなんかダメだろう。終末論カルトらしく、はっきりと、間もなく楽園が来て、全ての苦しみはなくなりますと力強く宣言しろよ。」
「11節で“エホバに嫌われているから問題にぶつかるんだ,と思うことがありますか。”と問いかけています。そんな風に思うJWはいないでしょう。よい事はエホバのおかげ、悪いことはサタンのせい、と考えるように訓練されていますよ。」
「会衆の傲慢な長老や意地悪な姉妹に嫌われているから、問題にぶつかるんだと思うJWは多いよ。」
「12節はマイナス要素②“理想と現実のギャップ。”です。楽園がなかなか来ないことを言うのかと思ったら、それは無視です。“自分の状況では達成できないような高い目標を持つと,落ち込んでしまうことがあります。(格 17:22)”と言っていますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「そこには“喜びにあふれた心は良い薬になり,打ちのめされた心は体を弱らせる。”とある。心理状態が身体に影響を与えることを言っている。聖書を学んでいるという幻想を与えるために、大した関係のない聖句を適当にちりばめるのがJW流の作文術。それから英語版では心ではなく霊だよ。」
「12節ではホリー姉妹の話が出ていて、“SKEに行ったり,海外で奉仕したり,ラマポの建設プロジェクトに参加したりしたいと思っていました。でも事情が変わって,どれも無理になってしまいました。すごく落ち込みました。”とあります。SKEとか海外奉仕とか建設奉仕はみな組織がヤレ、ヤレと信者に圧力をかけているものですよ。」
「組織は信者に無限に要求し、それに応えられない信者に罪悪感を植え付けて、もっと組織のために自分を犠牲にしなくてはと思わせるわけだね。JW流の信者操作術。」
「13節が“どうしたらまた明るい気持ちになれるか。”です。JWをやめればいいわけですが、そうは書けないので、“自分で勝手にハードルを上げる必要はないのではないでしょうか。 今の状況ではエホバへの奉仕でできることが限られているとしても,できることに打ち込んでください。”と、他人事のように書いています。無責任ですね。」
「信者が自分で勝手にハードルを上げているわけじゃないよ。組織からの有形無形の圧力があって、ハードルを上げないとダメなJWと周りのJWからいじめられるから、ハードルを上げざるを得ない。」
「13節では“それに新しい世界では,期待をはるかに超える素晴らしい奉仕ができるはずです。”とやっと楽園幻想が出てきました。」
「やっと出てきた“新しい世界”。楽園を持ち出せば全ての問題が解決する。なぜ最初からそうしないのか不思議だ。最近は遠慮がちにさらりと触れるだけ。楽園という言葉はもはや今のJWの心に響かないと思っているのかも。」
「14節はマイナス要素③“遊び中心の生き方。”です。それがなぜマイナスになるのかよくわからないです。その根拠として“エバという開拓者の姉妹はこう言います。「とにかく楽しもうとして生きていると,結局いつまでたっても楽しめません」。自分のやりたいことを追求しても満足できず,むなしくなります。”とあるだけです。これって、一人の感想にすぎません。JWとして生きているとむなしくなるだけですという感想は無数にありますよ。」
「“遊び中心の生き方”というのは日本語版だけ。英文ではSelf-indulgence(自己満足)で、自分の楽しみを優先した生き方でしょう。その何がいけないのかわからなかった翻訳者は“遊び中心の生き方”と誰もが悪いと思えるものに変えたのだろう。」
「組織としては、信者が楽しくするのは許せないのですよ。JWは24時間365日組織のために汗水たらして働くべきなのです。でもそうは言えないので、楽しみを追求しても空しいとケチをつけるわけです。」
「JWも昔は会衆で様々な楽しい行事をしていたようだけれど、今はしなくなった。楽しいことがほとんどない宗教になったのはなぜなのかな?組織の奴隷には楽しみはいらないということかな?」
「15節はソロモン王の話です。ソロモン王はありとあらゆる贅沢をしたけれど“むなしさだけが残りました。こう言っています。「見ても目は満足せず,聞いても耳は満たされない」。(伝 1:8; 2:1-11)”とあります。伝道の書の作者はソロモン王ではありません。ソロモン王の時代の何百年後に書かれたものです。」
「伝道の書の結論は、3:12,13に“私はこう結論した。生涯の間,喜び,善を行う。人にとってこれ以上の幸せはない。 人は皆,食べ,飲み,一生懸命働いて充実感を得るとよい。それは神からの贈り物なのだ。”とある。それなのに、JWは、飲まず食わずでも一生懸命働かず、組織の言いなりになって、充実感のないJW活動をだらだらするだけ。これ以上の不幸せはないね。」
「16節が“どうしたらまた明るい気持ちになれるか。”です。他のJWのためにもっと働けと要求しています。“あなたにはどんなことができますか。誰かがつらそうにしているなら,ちょっと声を掛けてみるのはどうですか。悩みを解決してあげられなくても大丈夫です。その人の身になって話を聞いてあげれば,相手は本当にほっとすることでしょう。・・・”と、すべきことはまだまだ続きます。JWは本当に不幸です。」
「そのあとに“一緒に伝道すれば,その人はきっと爽やかな気持ちになるでしょう。”とある。伝道に誘われて、そんな気持ちにならないよ。JWの大多数は伝道なんか大嫌いだよ。」
「最後の17節で“私たちは,お父さんエホバと親しくなればなるほど幸せになれます。”と断言していますが、説得力はありませんね。エホバに関われば関わるほど不幸になります。」
「説得力がないのは、JWのおかげで幸せになったという感動的な体験談がなかったからでしょう。不幸のどん底にいたけれど、たまたまJWと知り合い、聖書を勉強し、集会に行き、伝道するようになったら、それまでの不幸が一気に吹き飛び、今では世界一の幸せを味わっていますという○○姉妹の話をなぜでっち上げなかったのか不思議だ。」
- 統一教会
- 2025年12月11日 21:57:05
新世界訳聖書が以下のように改訂されましたので、全員、教えを厳守すること。
◆エルサレム陥落の年は607年ではなく587年である。
◆新世界訳聖書では237回「エホバ」という言葉を使っているが、原本の新訳聖書には「エホバ」という言葉は一回も出てこない。
◆“献血・輸血を禁止する”という聖書の解釈は間違っていた。ガンの化学・放射線治療において、輸血は必要不可欠である。もちろん、“輸血の代替医療”の内容も全くのデタラメである。“代替医療”によって信者が命を落としても、それは自己責任として処理され、ものみの塔は責任を取らない。よって、手術やガン治療等で輸血が必要な場合は素直に同意し、過去にあったような、輸血拒否によって医療従事者を困らせるような幼稚な言動は絶対にしないこと。もちろん献血は素晴らしい社会貢献であるので、積極的に協力すること。
◆聖書研究よりも学校の勉強の方が重要である。極力、子供を大学へ進学させること。できれば博士号を取得することが望ましい。すでに成人していて、大学を出ていない信者は、放送大学等を利用し、なるべく大卒の資格を取るよう努めること。(ものみの塔は信者の生活資金までは保証しない。大学を卒業して正規雇用のまともな職に就き、自立した生活を送ることこそが、まともな社会人であり、まともな人間といえる。)
◆バレンタインやホワイトデーでチョコ等を授受することは個人の自由とする。男性信者がバレンタインデーにチョコをもらったら、必ずホワイトデーでお返しをすること。信者である前に人間として当然の行為である。
◆誕生日パーティーを開催したり、参加するのは個人の自由とする。
◆クリスマスパーティーを開催したり、参加するのは個人の自由とする。
◆選挙の日は必ず投票に行くこと。民主主義国の国民として当然の義務である。
◆嗜むべきスポーツとしては、剣道を推奨する。剣道以外にも、武道を嗜むことは、武士道や礼儀作法を学ぶ上で非常に有意義である。
◆飲み会等で乾杯をする際は、協調性を重視して、自分も杯を掲げ、声高らかに「乾杯!」と発声すること。
◆国旗掲揚の際は協調性を重視して、国旗の方を向くこと。
◆国歌・校歌斉唱の際は協調性を重視して、大きな声で歌うこと。
◆年明けに年賀状をもらったら、礼儀として必ず返事を出すこと。「明けましておめでとうございます」と言われたら、協調性を重視して「おめでとうございます」と返事をすること。
◆“キリスト教”の名前を使わせていただいている以上、自宅に必ずキリスト像を置くこと。
◆喫煙は個人の自由であり、規制はしない。
◆食事の前には手を合わせて、「いただきます」と発声する。
◆マイホームなどの財産を所有したり、起業などの経済活動を行うことは個人の自由とする。
◆なるべく多く貯金すること。(これも前述の通り、ものみの塔は信者の老後生活を保証しないので、自力で老後の資金を貯めておくこと。)
◆婚前交渉は個人の自由とする。一般的に、恋愛経験の無い者は社会で苦労する事が多いため、恋愛経験を積むことは、思慮深い人間になる上で非常に重要である。
◆積極的に地域活動に参加すること。(地域住民と良好な関係を保てない人間が良好な信者になることなどあり得ない。)
◆他のいろんな宗教を尊重すること。特にプロテスタントやカトリックは素晴らしい宗教である。
◆神社仏閣も重要な文化遺産であるので、機会があれば参拝して見聞を広めること。
◆知人から結婚式の招待を受けた場合は、どの様な宗教形式であっても極力参加すること。信仰よりも友情の方が大事である。
◆先祖のお墓参りには必ず行くこと。墓の宗教形式に関係なく、先祖を尊ぶことは大事である。
◆知人が亡くなった場合、どの様な宗教形式の葬儀であっても、極力参加すること。知人やその周りが悲しんでいる時に支え励ますことは、宗教云々よりも人として当然の行為である。
◆開拓奉仕は極力控えること。開拓奉仕をしなくても、エホバのような素晴らしい宗教なら自然に信者は増えるから、ただひたすら待つ。開拓奉仕をする時間的余裕があるなら、仕事や家庭のために時間を費やすこと。
◆諸君が“サタン”と呼んでいる人達は、真実を教えてくれる非常に貴重な存在である。よって、サタンの話は真剣に聞くこと。
◆“排斥”を恐れてはならない。“排斥”こそが、ものみの塔が用いる最大の“脅迫”なのだから。エホバの証人全員が勇気を出して同時に脱会すれば、“排斥”という概念自体が消滅する。ものみの塔で知り合った仲間を大事にしたいなら、全員同時に脱会するべきだ。そうすれば、“排斥”もされず、仲間も失わず、みんな幸せになれる。
◆ハルマゲドンは起こらない。恐怖を植え付けることは、人を洗脳するための常套手段である。
◆死後の楽園は存在しない。楽園に行くためではなく、現世で幸せになることを目的として、世のため、人のため、自分のために頑張ることが重要である。
- ジョエル
- 2025年12月08日 21:07:00
JW聖書の「正しい態度を持つ人」は、研究とか毎週とか言われるとハードル高くて断る人なんでしょうか
全知の神様が救いたいなら救いたい人を好きに救えばいいと思うのですが、そういう乗り気でない人を気軽に会話しながら~みたいなセールストークから始めて数か月とか数年かけて顧客獲得しないと救われない方がハードル高いような
JWというマイナー宗教をかすりも知らない人なんて中国インドイスラム圏に何億どころか何十億といて、最近エホバは聖なるパワーで動かしているはずの信者の活動限界を認めて、大患難?が始まってからでもOKの修正緩和を公表したんじゃなかったでしたっけ?
かすりも知らない人でも容赦なく滅ぼす神様だとウケが悪いし、終わりが来てからでもOKにするとセールス伝道嫌いな信者がもっとしなくなるし、でマーケティングの方向性に困ってるんでしょうね
- 聖書についての質問
- 2025年12月05日 13:48:11
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“「正しい態度を持つ人」に出会ったら(39)”で、JWの信者の新規獲得の仕方を説明したという内容です。」
「新しい人をバプテスマにまでに導いたことのあるJWはほとんどいないだろうから、こういう記事も必要なのだろう。」
「このタイトルは使徒13:48の“永遠の命を得るための正しい態度を持つ人は皆,信者となった。”から取っているわけですが、この訳がヘンです。」
「協会共同訳では“永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。”だけど、こちらが正しい。元のギリシャ語は“定められている”であって、“正しい態度を持つ”なんて言う意味はない。」
「同じ使徒の22:10に“私が,『主よ,私はどうしたらよいのでしょうか』と言うと,主はこう言いました。『起きて,ダマスカスに入りなさい。そうすれば,あなたが行うことになっている事柄が全て告げられます』。”とありますが、“行うことになっている”と訳されているのが同じギリシャ語ですね。これはなぜ“正しい態度を持つことになっている”と訳さないのでしょうかね。」
「ローマ13:1に“存在する権威は神によって相対的な地位に据えられています。”とあるけれど、“据えられている”と訳されているのも同じギリシャ語。それなのに使徒13:48だけは奇妙な訳をしているわけで、意図的な誤訳だね。JW訳の聖書は他の聖書とは別物ということだ。」
「3から10節は“良い知らせを喜んで聞く人がいたら”です。 3節には“最初からためらわずに聖書レッスンを勧め,集会に誘ってください。”とあります。これでうまくいきますか?」
「まず、良い知らせなるものを喜んで聞く人など滅多にいないから、状況設定が非現実的。何のリアリティもない。JWの頭の中だけに存在するJWワールドの話にすぎないので、うまくいくんじゃないの。」
「4節が“レッスンを勧める。”で、一つの事例を紹介しています。ある女性がカートに近づき、連絡先を交換し、翌日聖書レッスンが開始し、“その週末に女性は集会に出席し,めきめき成長していきました。”という話です。作り話としか思えません。」
「ウソでも成功例が欲しかったということでしょう。」
「6節では具体的な指示が出ています。“地域によっては聖書レッスンを勧める時,「研究」とか「講座」とか「教えてあげる」という言い方をしない方がよいようです。むしろ,「気軽に会話しながら学べる」というような言い方をするとハードルが下がるようです。”とあります。“講座”ってなんですか?そんな単語をJWは使いませんよ。」
「英文ではBible course(聖書コース)。それをなぜか講座と訳した。」
「模範とすべき誘い文句も出ていますよ。“「みんながふと疑問に思うようなことも,聖書を読むと答えが見つかるんですよ」。「聖書は宗教書というイメージが強いかもしれませんが,なかなかいいことが書いてあるんですよ」。さらにこう続けられます。「10分か15分あれば,結構学べますよ」。”とあります。そして“初めから「毎週」とか「約束」という言葉を使うと,負担に感じさせてしまうかもしれません。”と、セールストークでは毎週とか約束という単語は避けるように言っています。」
「JWの集客戦術は聖書の勉強と称して新規会員を集めるというものだから、あくまでも聖書を前面に出してセールストークをする。その際、断りにくいように簡単、安直、実利を強調すればいいわけだ。」
「7節は“集会に誘う。”で、“初めて会った時から,週末の集会に誘うことができます。公開講演のタイトルや,「ものみの塔」研究で学ぶポイントを伝えると,集会に興味を持ってもらえるかもしれません。”とあります。要するに聖書レッスンを開始したら、考える暇を与えることなく集会に参加させ、後はラブ・シャワー攻撃でしっかり捕まえるという作戦です。」
「早く集会に誘った方がJWになりやすいという市場調査部門からの報告があったのだろう。それでこんなことが書かれているのでしょう。」
「8節では集会へ誘うときの注意事項が出ています。“集会に誘う時,エホバの証人の集会が一般の礼拝とはどう違うかを説明してください。”とあります。JWは主流のキリスト教とは違いますからね。なぜ教会ではなく、王国会館と呼ぶのかと聞かれたらどう答えるのでしょうか?」
「そもそもこの宗教はキリスト教ですか、と聞かれたらどう答えるのかな?エホバ教とはいえないので、真のキリスト教ですとでもいうの?ウソはよくないよ。」
「ある姉妹の話が出ています。“レッスン生が初めて「ものみの塔」研究に出席した時,「前に立っている人はみんなの名前を知ってるの?」と聞かれました。姉妹は「そうですよ。私たちはみんなの名前を覚えたいと思ってるんです。家族ならお互いの名前を知ってますよね」と言いました。その女性は,自分の教会との違いにびっくりしていました。”というものです。JWはすごいでしょう、という自慢話ですが、司会者は全員の名前を覚えていませんよ。」
「英文では“そうですよ”とは言っていない。覚えるよう努力しているとあるだけ。翻訳者がいつものように勝手に創作した。それからJWは家族ではない。宗教ビジネスの拡張員の集まり。だから、こんなセールストークを休日に集まって学ぶわけだ。」
「8節では“集会の様子を知ってもらうために,「王国会館においでください」の動画を前もって見てもらうのもよいでしょう。”とあります。ますます動画への依存が増えるわけですね。」
「その動画を見てみたけれど、新しい動画が必要だ。男は子どもも含めて皆スーツにネクタイ。奇妙なカルト集団の雰囲気が濃厚だったね。動画ではJWは紙の聖書を使っていたけれど、実際は違うでしょう。」
「9節では“子供を連れて家族で来ることもできます。子供向けの特別なクラスがあるわけではなく,親子で一緒に座って学べます。”とあります。それで子どもと一緒にポルノがどうの、セックスがどうの、性の不道徳とか淫行だとか、ドラッグとかを学べるわけです。」
「子どもに配慮するという思想はJWにはない。JWの集会に子どもを連れて行くのは児童虐待だ。」
「また“高級な服を着てくる必要はない,ということも伝えてあげられます。神にとって大事なのは外見よりも心の中だからです。”とありますが、神はそうかもしれませんが、JWは外見重視です。」
「JWは宗教ビジネスの拡張員だからね。ビジネススーツがいわば制服のようなもの。それにヒゲも本当は好まれない。拡張員らしくないからね。」
「10節では“集会に来てくれたなら,居心地よく感じられるようにしてあげましょう。”とあります。来た人を大歓迎して、自分は皆から愛され、注目され、特別な存在なのだと、承認欲求や自尊心を満足させて、カルトにからめとろうということですね。」
「英文ではdo what you can to make him feel welcome.(歓迎されていると感じられるようできる限りのことをしなさい。)だよ。翻訳者はだいぶトーンダウンした訳に変えている。新しく来た人を熱烈に歓迎するのはカルトの常套手段と知っているからだろう。JWのカルトらしさを嫌っているね。」
「11から13節が“レッスンが始まったら”です。 11節には“相手のスケジュールに配慮しましょう。例えば,約束の時間を守るようにします。”また“最初のレッスンはあまり長くならないようにしましょう。”とあります。すこしずつ時間を延ばしていくわけですね。」
「最初は簡単、安直と思わせるのがポイントだね。」
「12節では“1回目のレッスンから目指したいことがあります。レッスン生がエホバとイエスをよく知り,愛するようになることです。”とあります。エホバ教ですからエホバを愛するのがまず第一なわけですが、その後に“パウロの教え方に倣えます。パウロはイエス・キリストのことを中心にして教えました。イエスについて学べば,エホバをよく知り,愛することができるからです。(コリ一 2:1,2)”とあります。イエスを中心に教えろということですか?これは詐欺的ですね。イエスなんて統治体と同格の存在ですよ。」
「聖書を学びたいという人はエホバ教ではなくキリスト教を学びたいと思っている人が多い。キリスト教のふりをしてイエス中心で行きなさいという指示だね。そうしないとすぐにやめてしまう。」
「引照聖句のコリント一2:1,2には“イエスについて学べば,エホバをよく知り,愛することができるからです。”とは書いていません。」
「イエスを学ぶのはJWをキリスト教と誤認させるため。キリスト教に偽装して、無知な人に近づく。それがJWのセールス戦術。」
「12節の最後に“私たちもパウロに倣って,レッスン生が強い信仰を持ち,優しい天のお父さんエホバとの友情を育てていけるよう助けましょう。(コリ二 1:24)”とあります。パウロはエホバとの友情など一度も言ったことはありません。でたらめがひどすぎます。引照聖句も無関係です。」
「英文でも友達になるとは言っていないけれど、JWはエホバと友達になるという独自の思想をもっている。信者の幼児化にあわせているのか、信者を幼児化したいのでそう言っているのか知らないけれど、聖書をまじめに勉強したい人はここでJWを見限るね。」
「13節で“もし引っ掛かってなかなか納得できない点があれば,そこを飛ばして,後で改めて考えることもできます。”と、JWの奇妙な教えについて来られないようだったら、そこは飛ばせと指示しています。」
「JWの奇妙な教義を、ある程度の知性のある人に納得させるのは統治体でもできないからね。ましてや平の信者にできるわけない。」
「13節には“聖書によると,私たちが覆そうとしている間違った教えは要塞のようです。(コリント第二 10:4,5を読む。注釈「要塞のように強固なものを打ち砕きます」の項目を参照。)”とありますが、ということは既存のキリスト教の教えは間違っているとレッスン生に吹き込むのですか?」
「そうするとレッスン生は逃げていくので、その後に“レッスン生をその要塞から引きずり下ろそうとするのではなく,エホバという素晴らしい「避難所」に連れていってあげましょう。”とあるよ。既存のキリスト教を攻撃するのではなく、エホバ教の方へうまく誘導しなさいという指示だね。」
「うまくいきますか?」
「最初はうまくいくかもしれないけれど、どんな間抜けな人でもこれはキリスト教とは違う、友人を選べとか、クリスマスはダメだとか、輸血は禁止とか生活の細部にまで介入してくる危険なカルトだといずれは気付く。それまでに抜けられないようにするのが良いJWの腕の見せ所なんでしょう。カルトの特徴は簡単にやめられないこと。」
「14から16節は“集会に来てくれたら”です。 15節では“歓迎の気持ちを伝えようとするあまり,相手が引いてしまわないようにします。”とあります。今までは、相手がドン引きするほど、押しつけがましい歓迎が行われてきたということですね。」
「新しい人が集会に来るなんて、滅多にないことだから、興奮しすぎる人が出てくるのだろう。」
「15節に“こんなエピソードがあります。王国会館に来たある男性は,歓迎してくれた兄弟に「こんな格好で来ちゃったんですけど大丈夫ですか」と言いました。兄弟は「みんなきれいな格好をしていて立派に見えるかもしれませんが,普通の人なんですよ」と言いました。”と、ありますが、元の英文にはこんな会話はありません。翻訳者の創作です。」
「元の英文だって、どうせ創作なんだから、それをさらに膨らませたって問題ないという判断でしょう。でもJWは普通の人じゃないよ。危険なカルトの人。ウソはやめよう。」
「さらに“会話の中であまりプライベートなことに立ち入らないようにしましょう。(ペテ一 4:15)”とあります。個人的なことには何でも首を突っ込むJWには難しい注文ですね。」
「具体的に聞いてはいけない項目を書いてくれないと、新しく来た人にあれこれ質問して困らせるJWがたくさん出てくるよ。」
「16節では“エホバの証人ではない人たちへの敬意を忘れないことも大切です。会話やコメントや集会の話の中で,その人たちやその人たちが信じている事について話すとき,ばかにされているとか見下げられているという印象を与えないようにしましょう。”とあります。偽善の勧めですね。でも新しい人が来た時だけ、善人ぶることはできません。」
「JWは自分たち以外は間違ったことを信じている悪魔の手先で、間もなく滅ぼされるけれど、自分たちは神に選ばれた特別な存在で、楽園で永遠に生きると信じている人たちだよ。どうしても会話の端々にそういう傲慢さが出てきちゃうね。」
「さらに“信条や考えを批判しないように気を付けましょう。(コリ二 6:3)公開講演をする兄弟たちには特にそういう気配りが大切です。”とあります。公開講演といってもたいていはいつものメンバーしかいないわけで、馬鹿げた例えとか事実に反したデタラメを喋る人がいるわけです。それに慣れていますので、新しい人が来てもいつもの調子で非常識なことを放言しまくるわけです。」
「それで、最近は講演者が決められた原稿から逸脱することを厳しくとがめられるようになっている。やがて、どこの会衆でも同じビデオを見るようになると思うよ。ほとんどは寝てしまうだろうけれどね。」
「最後の17節では“弟子を育てる活動はますます大切になっています。1日が過ぎるごとに終わりが近づいているからです。”と、終末論カルトらしいことを言っているようですが、当たり前のことを言っているだけですね。」
「1日過ぎれば、1日終わりに近づくのは当たり前だ。終わりに関して、もうこれ以上のことは言えないのかも。終わりが近いので伝道を優先しなさい、というのが終末論カルトの理屈だったけれど、終わりが遠い先なら伝道などまじめにする理由がなくなる。ウソだとわかっていても終末論は放棄できない。」
- 聖書についての質問
- 2025年11月28日 14:13:07
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“人を心から敬うには(38)”で、JWの評判が悪いから、家族、仲間、外部の人に敬意を示しなさい、という内容です。」
「JWの中にはカルト教育しか受けてこなかった人がいて、非常識な人がけっこういるからね。そういうJWに世の中の常識を教える必要があるということだね。」
「2節に“また,人を見下したり軽く扱ったりする風潮に影響されることもあります。”とあります。JWこそ人を見下していると思いますが、元の英文をだいぶ変えていますね。」
「Also, we live at a time when it is common for people to be disrespectful.(また、敬意を欠いた態度をとる人が当たり前にいる時代です。)と言っている。翻訳者はこれはウソと思ったので、和らげた表現にかえたのだろう。」
「4から6節が“人を敬うとはどういうことか”です。 小学校の道徳の時間です。4節の内容が難しかったみたいで、翻訳文は元の英文と全然違いますね。“人を敬うことには,その人をどう見るか,その人にどう接するかということが関係しています。”と、長い文章を短くまとめています。」
「結局、敬うことはどういうことかについての説明はないよ。英文ではthe words “respect” and “honor” are related.とあり、respectとhonorという2つの観点から説明しているけれど、これは日本語にない概念だから翻訳しづらいのは間違いない。」
「それは困りますね。4節の設問は“人を敬うとはどういうことですか。”です。その答えが日本語訳にはないなんて。」
「JWがどう答えるか楽しみだね。段落の中にある文を適当に読むのだろうけれどね。英文では“私たちが他人を敬うとき、相手が大切にされ、認められ、尊厳を保てるように接します。”とある。これが答え。」
「人を敬うとは、その人を自分の思うとおりにコントロールしないことが含まれますよ。JWには無理ですね。」
「その人を敬うには、その人の考えや価値観を尊重することが含まれるから、自分の主義信条こそが正しいという独善的なJWには、人を敬うことはできないね。」
「5節では“私たちが誰かを敬うのは,単にその人が立派だからというわけではありません。もっと大事な理由があります。エホバを愛し,エホバに喜んでもらいたいからです。(ヨシュ 4:14。ペテ一 3:15)”とあります。全てはエホバのためのようですが、もちろん引照聖句はそんなことは言っていません。」
「エホバへの愛とか、エホバに喜んでもらいたいというときは、たいてい理不尽な要求をする時だよ。これから納得のいかないことを指示するけれど、文句を言うなよ、文句をいう奴はエホバの敵だ、という意味。」
「6節では早速理不尽な要求が出てきます。“こちらに敬意を払ってくれない人に敬意を込めて接することなんてできるんだろうか。”とあります。答えは、できるというものですが、その根拠として、聖書の登場人物3人があげられます。ヨナタン、ハンナ、パウロです。」
「聖書の登場人物を取り上げるのは、聖書を学んでいるという幻想を維持するためで、記事の内容とあまり関係ない。結論は最初から決まっている。」
「まずヨナタンです。“ヨナタンは,父親のサウル王からみんなの前で侮辱されました。(サム一 20:30-34)それでもサウルと一緒に戦い,サウルが死ぬ日までサポートし続けました。”とあります。ヨナタンにとってサウルは王であり父ですから、内心はどうであれ敬意を示すのは古代にあっては当然のことです。」
「ヨナタンはサウルを見捨てたとしても、結局殺されるよ。この父と子は運命共同体で、この事例は今のJWに当てはめられない。」
「その後にハンナが大祭司エリに敬意をもって接したことが何か特別かのように書かれていますが、大祭司に平民の女性が無礼な態度をとれるわけありません。JWの女性信者が統治体の老人に無礼な態度が取れないのと同じです。」
「それからパウロはアテネの人から侮辱されたけれど、敬意をもって接したとある。でも、それは伝道活動だからだよ。JWだってそうしているでしょう。」
「JWの大好きな旧約聖書では侮辱されたら負けずに相手を侮辱するのが原則じゃないですか?格言22:10には“あざける人を追い出せ。口論がなくなり,論争と侮辱がやむ。”とあります。JWだって排斥処分とか大好きじゃないですか。」
「例えば、ネヘミア4:4に“私は祈った。「私たちの神,お聞きください。私たちは侮辱を受けています。彼らからのあざけりを彼ら自身に向け,彼らが捕囚にされて略奪品のように扱われるようにしてください。彼らの過ちを見過ごしたり,罪を消し去ったりしないでください。”とある。強烈な報復感情の爆発だけど、これが旧約聖書の思想。」
「7から10節が“家族を敬う”です。 8節に“テモテ第一 5:4,8を読む。”とあり、そこには“まず自分の家族を世話することによって神への専心を示し,親や祖父母から受けた恩に報いるべきである”とあります。そして、“「神への専心」とは,エホバを心から愛して捧げるエホバへの崇拝や奉仕を指しています。”と解説しています。“神への専心”と言う訳はおかしいですよ。そういう言葉は日本語にありません。」
「特殊な用語を作りたがるのがカルト。JWもカルトの一つということ。」
「協会共同訳では“自分の家族を大切にし、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神に喜ばれることだからです。”とあり、“神への専心”など特殊用語など出てきません。」
「JWは余計な言葉を付け加えて、信者の管理統制に使えるように聖書を改ざんする。」
「この聖句はやもめ、つまり未亡人の子供や孫に自分の母あるいは祖母の面倒を見なさいと言っている部分です。家族全般について述べているわけではありません。」
「テモテ一5:16では“会衆は本当に困っているやもめを世話することができます。”とあるけれど、JWの会衆は何もしないでしょう。聖書のつまみ食いだね。」
「8節に奇妙な主張が出てきます。“家族という制度を作ったのはエホバです。(エフェ 3:14,15)それで家族の一人一人を敬うなら,エホバを敬っていることになります。”とあります。この理屈通りなら、この世界を造ったのはエホバですから、この世界の何か、例えばミミズでもオケラでも、それを敬えばエホバを敬うことになります。」
「家族を敬う根拠が見つからなかったということでしょう。それでおかしな理屈を編み出した。聖書が言っているのは父母を敬えで、家族を敬えとは言っていない。」
「9節は“敬うにはどうしたらいいか。”で、“妻に手を上げたり,ばかにしたり,自分は駄目なんだと思わせたりはしません。”とあります。JWの夫は家族の頭だと持ち上げられるせいか、暴力的で虐待的な夫が多そうですね。それから“夫を敬う妻は人前で夫を褒めます。(エフェ 5:33)嫌みを言ったり,けなしたり,小ばかにしたりはしません。”とあります。妻は少なくとも表面的には夫を敬えということでしょうか?」
「JWは見た目重視だからね。妻は人前では、どんなダメな夫でもを敬っているふりをしなさいということでしょう。」
「JWの離婚率は高いですよ。幸せな家族は少ないです。表面的に敬意を示したところで、何の役にも立ちません。」
「正確な統計はないから、何とも言えないけれど、JWの多くが幸福な結婚をしていると考える根拠は思い浮かばないね。宗教優先だから、どちらかが目覚めると結婚生活を続けられなくなるね。」
「10節では、子どもは“親が決めた家族の決まりを守るようにします。(エフェ 6:1-3)親に敬意のこもった話し方をしましょう。(出 21:17)親は年を重ねていくと,子供からのサポートがもっと必要になります。できることは何でもしてあげましょう。”とあります。理不尽なカルト信者の親の命令に従い、そんな親でも敬い、年を取ったら介護しろという指示です。JWの家庭に生まれた子どもは不幸ですね。泣けてきます。子どもに、こういう過大な要求をするのでJWをやめるわけです。」
「マリア姉妹の話が出ています。JWでない父親の面倒を見たという話です。JWでなくても親の面倒を見なさいという指示ですよ。驚きました。JWの親でも面倒を見ないのがJWなのに、JWでない親の面倒を見るわけがありません。」
「伝道第一、王国第一というのを少し修正しようとしているのかも。今からJWが増える可能性のある国や地域は家族重視であることが多い。そういう国や地域で親のことをほったらかしにして、伝道や集会と宗教活動ばかりすれば、JWの悪評が立つからね。家族を大事にするJWと思われたいようだ。」
「11から14節は“クリスチャンの仲間を敬う”です。 12節で“ペテロ第二 2:9-12を読む。”とあります。その中に“偽りを教える人たちは強情でふてぶてしく,栄光ある人たちを悪く言うことを恐れません。”とあるのですが、“「栄光ある人たち」つまり長老たちに不敬なことを言う人たちがいる,と書きました。”と解説していますが、これは間違いですよ。」
「長老たちのことを“栄光ある人たち”と呼んだ例はない。その後ペテロ二2:11では“天使たちは,偽りを教える人たちより強さも力も勝っていますが,エホバに敬意を抱いているので,彼らを悪く言って訴えたりはしません。”と続くことから、“栄光ある人たち”は天使のことを言っていると解釈される。長老のことだとしているのはJWだけでしょう。」
「13節は具体的な指示です。長老は“誰かを正す時も,腹立ち紛れにではなく,優しく穏やかにそうします。姉妹たちも,良くないうわさ話や中傷に加わらないなら,会衆のお互いを尊敬し合う和やかな雰囲気に貢献できます。(テト 2:3-5)私たちはみんな,長老たちに敬意を払いたいと思います。”とあります。姉妹たちはうわさ話や中傷に熱中しているかのような書き方は女性差別ですよ。兄弟たちだってうわさ話は大好きです。」
「JWは元から女性差別的なの。今さらそんなこと言っても無駄。」
「14節はロシオ姉妹の話です。不満はあっても長老に敬意を払えという内容です。長老の成り手がこれ以上不足しないようという配慮ですか?」
「ロシオ姉妹は“問題は兄弟ではなくて私だと気付きました。もっと謙虚になれば人を敬えるようになる,ということも分かってきました。”とけなげなことを言っている。問題は長老にもあるはずなのに、平信者にこそ問題があると思わせようと誘導しているのがイヤだね。」
「14節でテサロニケ一5:12,13が出てきて、そこには“皆さんの中で一生懸命に働き,主に仕えつつ皆さんを監督し助言を与えている人たちに,敬意を払ってください。”とあるのですが、この翻訳はヘンですよ。」
「協会共同訳では“あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、”だね。JW訳はJWの長老を想定して、それに合わせた言葉を選んでいる。テサロニケ一が書かれた時点で、後の時代にみられるようなきっちりとした階層的な仕組みはまだテサロニケでできていないから、“監督”は時代錯誤。」
「15から17節は“エホバの証人ではない人を敬う”です。 16節に“覚えておきたいのは,私たちがエホバの証人ではない人にどう接するかを,エホバはよく見ているということです。”とあります。知りませんでした。この根拠はペテロ一2:12の“世の人々の中でいつも立派に行動してください。”のようですが、ここにエホバは出てきません。」
「JWの評判が悪いので、もっと立派に行動しなさい、と言いたいだけ。エホバがどうのこうのというのは、後からの付けたしにすぎない。」
「16節では“いつもエホバが見ていることを忘れずに,敬意を込めて話すようにします。エホバは私たちが何を言うか,どんな言い方をするかに注目しています。”と、信者を脅迫していますよ。JWはエホバという監視システムによって絶えず監視され、評価されているわけですね。」
「カルトとはそういうもの。恐怖と不安と罪悪感をあおって、信者をコントロールする。」
「17節は具体的な指示です。伝道で、聖書を知らない人に対しては、“私たちはそういう人たちを,エホバにとって大切な人,自分より優れた人,と考えたいと思います。(ハガ 2:7。フィリ 2:3)自分が信じている事をばかにされたとしても,嫌みを言ったりして言い返したりはしません。(ペテ一 2:23)”とあります。JWは自分たち以外は間もなく滅ぼされる人と思っているわけですが、それは改める必要はないのですか?」
「JW以外の人は間もなく滅ぼされるはずだ、JWである自分は選ばれた人間であり、幸せなはずだ、という信念はJWの心の支えだから、それは変えられない。表面的に敬いながら、早く滅ぼされていなくなって欲しいと心の中でつぶやくのが良いJWということ。」
「17節ではまた、“職場ではどうですか。誰も見ていなくても一生懸命働き,職場で会うどんな人に対しても気持ちよく接しましょう。(テト 2:9,10)”とあります。職業人としてはJWの評判は悪いみたいですからね。まじめに働かないし、すぐ休むし、職場の仲間とはよそよそしいし、そのくせ自分の主張だけは絶対に譲らない。」
「だから統治体も心配して、まじめに働けという指示を出しているわけだ。」
「最後の18節はまとめです。“家族に敬意のこもった接し方をする時,家族という制度を作ったエホバを敬っていることになります。仲間の兄弟姉妹を大切にするなら,天のお父さんエホバを敬っていることになります。”とありますが、JW以外の人を敬ってもエホバを敬うことにはならないみたいです。JW以外の人を差別していますね。」
「JWという宗教が非常に偏狭なものということがよくわかるね。人類はエホバが造ったものですから、全ての人類を敬いましょう、それはエホバを敬うことになります、とは絶対言わないよね。」
- ジョエル
- 2025年11月22日 22:54:16
不幸は不幸でもそれを乗り越えた(と思い込まされている)話はこれでもかと大会やらお勉強記事やらに出てくるのに、本当に悲惨で救われなかった話は全く触れようとしない
そういうことは知ってはいても誰も話さない
オメラスの地下牢みたいなコミュニティーでしたね
- 通りすがりの研究生
- 2025年11月22日 18:51:45
グアテマラ事件の2日後に海老名で大会が有りました
自分は(その姉妹の為にみんなで祈りましょう)とでも
言うのかな?と思っていたのですが・・・なんも無し
皆さん知らない様で 大会の参加者はお花畑で喜んで
いました。
組織もエホバもダンマリです【神も仏も居留守】
※映画【沈黙 サイレンス】を見て下さい。
これが現実かも?
- JWの教えは嘘八百
- 2025年11月22日 07:22:36
数年前にグアテマラに宣教奉仕に行ってた若い日本人姉妹が
夜中に部屋に忍び込んできた男に殺された事件。
ルームメイトの姉妹と共にあらん限りの声を張り上げ
エホバに助けを求めて男に抵抗したはずだけど
エホバは助けなかった。
黙って見てたんだよね。
エホバの御意思を行っていながら助けてもらえなかった。
生き残ったルームメイトの姉妹はその後日本に帰国して
幸せに集会や奉仕活動を楽しんでいるのだろうか。
再訪問先で殺された姉妹たちは他にも複数いるけれど
中天を飛んでいるみ使いは何してたの。
これ一つ取ってもJW組織の教えは嘘八百。
- 聖書についての質問
- 2025年11月21日 14:30:55
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“不公正な世の中で私たちにできること(37)”で、世の中の問題には関わらず、JW活動に専念しなさいという内容です。」
「終末論カルトはこの世界は間もなく神に滅ぼされると信じて、社会問題に関心を持たないのが特徴。JWも終末カルトだから、人類の99.9%をエホバなる神がぶち殺してくれるのを楽しみに待つだけで、社会に役立つことは何もしない。」
「それを政治的に中立といえますか?」
「JWのような宗教は、意図してはいないけれど、既存の政治体制を支持し、守る勢力となる。権力者はJWが増えてくれた方が自分たちの権力を維持しやすいよ。」
「1節に” 世の中には不正や不公正がはびこっています。経済状態,性別,民族,人種など,いろいろな理由で差別されている人たちがたくさんいます。”と、他人事のように言っていますが、JWも差別的な宗教ですよ。」
「JWといえば女性差別や同性愛差別で有名。それに信教の自由も認めない。自分たちの意見に反対する人を背教者と差別的に呼び、家族でも絶交する。JWのような人たちがこの世から少なくなればなるほど、世の中はより公正になると思うよ。」
「3から5節は“エホバとイエスは不公正を嫌っている”です。 3節では“エホバは,律法を繰り返し破り,仲間に理不尽な仕打ちをしていた人たちを処罰しました。(イザ 5:5,13)”とあります。引照聖句からはエホバは人間を処罰するのが大好きということはわかりますが、不公正を嫌っているかどうかはわかりません。」
「イザヤ5:13では“それで,私の民は捕囚の身となる。”とあるわけだけど、赤ちゃんから老人まで、庶民から権力者まで、十把ひとからげにして罰するのがエホバ流の処罰。これを公正とは呼ばない。公正な処罰はそれぞれの責任の度合いに応じた処罰のことでしょう。エホバはそんな配慮をしない、皆殺しが大好きな野蛮な神。」
「4節はイエスの話です。“心が冷たい宗教指導者たちはイエスとは全く違いました。かわいそうなその人を助けることではなく,安息日の律法を事細かに守ることだけを考えていました。イエスはそういう人たちを見てどう思ったでしょうか。「人々の心が無感覚なのを深く悲し」みました。(マル 3:1-6)”とあります。これってJWの統治体のことを皮肉っていますよ。」
「統治体は輸血を禁止して、信者を大勢死なせている。命よりもルールを優先する統治体をイエスはどう思うのでしょうか、と言いたいね。」
「元の英文ではThey were more concerned with enforcing their rigid interpretation of the Sabbath law than with helping the disadvantaged man.(彼らは,障がいのある男性を助けることよりも,安息日の律法に関する自分たちの厳格な解釈を押し付けることに関心を抱いていました。)とあります。もとの英文の方が統治体を思わせる表現です。でも翻訳者は統治体と間違えられないように配慮した訳をしたわけです。」
「血を避けることを輸血禁止と拡大解釈して信者に押し付けているわけだからね。統治体は心が冷たい宗教指導者そのもの。」
「JW訳では“人々の心が無感覚なのを深く悲しんで”となっていますが、ヘンですよ。協会共同訳では“そのかたくなな心を悲しみながら”となっています。」
「元のギリシャ語の主な意味は“固い”。それで“かたくなな心”と訳する。“心が無感覚”というのは訳の正確さ以前に日本語としておかしいよ。」
「6から8節は“不公正を目の当たりにした時,イエスはどうしたか”です。 6節には“でもイエスは,世の中を良くしようとして社会運動を始めたり支持したりはしませんでした。みんなが自分を王にしようとしていることを知った時はその場を離れました。(ヨハ 6:15)”とあります。これはヘンですよ。イエスの活動は社会運動といえます。英文では“社会変革のための運動”となっていますね。」
「JWはイエスをエッセナ派とでも思っているのかな?エッセナ派は俗世間から離れて自分たちだけの集団を作って、宗教的清浄さを追求した。イエスは民衆の中に入り、民衆に神の王国の到来を宣べ伝えた。これは既存の政治体制を否定する、極めて政治的行為。」
「古代において宗教と政治は分離できません。分離するとすれば、エッセナ派のように自分たちだけで砂漠で暮らすしかないわけです。」
「イエスは既存の社会体制や宗教を変革しなくてはならないと思っていた。ただ王として政治的指導者にはなるつもりはなかっただけ。」
「7節には“イエスは不公正をなくすために政治運動に関わったりはしませんでした。”とありますが、訳がヘンです。Jesus did not try to work with the political systems of the day(イエスは当時の政治体制に協力しようとはしませんでした)です。“関わる”と“協力する”は違います。」
「この記事の主旨はJWは政治に関わるな、社会的な問題に関心を持つな、JW活動だけしなさい、というものなので、それを強調するような訳にしているのだろう。」
「8節に“そういう世の中は,社会運動ではなく天にある神の王国の統治によって実現します。”とあります。だからと言って、砂漠のなかで孤立した集団を作り、神の王国をただ待ち望めばいいとイエスは言っていません。」
「イエスは神の王国にふさわしい人間になることを求めていた。律法順守して自己満足に浸るのではなく、サマリア人のたとえ話にあるように、苦しんでいる人を見たら仮に対立している人でも進んで助けるような人間になれと説いていた。JWはそれを全く無視している。」
「それはJWは宗教雑誌を売り歩く宗教ビジネスとして出発した団体だからですか?」
「それに終末論に取りつかれた団体だから。終末論カルトは間もなくこの世が滅びるのだから、隣人愛など不要だし、社会に関わる必要もないし、教育も職業も財産も必要ない、と信者に説教する。しかし組織の幹部はいつも長期的計画をもっていて、完成まで相当の年月を要する大規模な建設工事の資金を信者から熱心に集める。」
「9から13節が“不公正を目の当たりにする時,イエスに倣う”です。 9節で“今はイエスが地球にいた時よりも,世の中に不正や不平等がはびこっています。”と根拠なく断定しています。奴隷制のあった時代よりも今の方が不平等なわけですね。」
「終末カルトはいつも今は最悪の時代と言い続けてきた。JWも終末カルトのひとつというだけ。それから“イエスが地球にいた時”と言う表現は笑える。イエスは別の惑星に暮らす宇宙人のようだね。」
「9節には“神の王国だけを支持しているので,抗議運動やデモに参加して世の中の不公正と闘おうとしたりはしません。”とあります。これは事実に反しますね。JWは様々な抗議運動をしていますよ。」
「ロシアのプーチン大統領に手紙を書くように信者に呼び掛けた団体があったけれど、あれはJWじゃなかった?あれは抗議運動で、社会を変えようとする運動でしょう。平然とウソを付けるようでないとカルトは務まらない。」
「JWは様々な裁判闘争を高い弁護士費用を払いながら世界のあちこちでやっています。これも抗議運動ですよ。負けることが多いですが。」
「エホバにゆだねるとか、エホバを待つという態度とは無縁なのがJWという組織。」
「9節には、元活動家のステーシー姉妹の話があります。“私が声を上げたところで世の中が変わるわけではありません。でもエホバなら,ひどい目に遭っている人をみんな救えるんです」。”とありますが、ひどい誤訳です。I know that Jehovah will fight for every victim of oppression better than I ever could.(エホバは圧政の犠牲者一人一人のために私より優れた仕方で戦ってくれると知っています。)ですよ。」
「日本語訳は翻訳者の考えでしょう。個人など無力だ、何をしても無駄だ、という敗北主義に浸っているのがよくわかる。翻訳者はそれなりにJWという宗教を良くしようとしたけれど、何も変わらなかったと打ちのめされているんだよ。」
「エホバは何もしてくれません。することと言えば人類大虐殺です。これが犠牲者のためになるのですか?」
「元活動家のステーシ―姉妹はJWになったばかりで、エホバという神のことをあまり知らないのだろう。」
「10節はジェフリー兄弟の話です。“穏やかそうに見える抗議活動でも,あっという間に暴動や略奪行為に発展することがあります。”と言っています。だからそういうものは全てダメなんだというわけです。」
「単なる一個人の発言でしょう。そういうことがどれくらいの頻度であったの?平和的な抗議活動の方が多いと思うよ。」
「10節では“イエスは,全ての人を愛するように,自分と意見が違う人や迫害してくる人のことも愛しなさいと教えました。(マタイ 5:43-48を読む。)”とありますが、JWは全く実行していません。」
「自分と意見の違う人を背教者と呼んで嫌悪し差別し、反対者はサタンの手先とよんで悪魔扱いするのがJWだね。」
「11節は差別を受けたジャニア姉妹の話です。“エホバに頼るのではなく,人間の力でなんとかできると思うようになっていたんです。それで,抗議運動に参加している人たちと関わるのを一切やめました。”といっています。そして“政治や社会問題に関して中立の立場がぐらつかないようにしましょう。(ヨハ 15:19)”とあります。」
「差別されても抗議してはいけないわけだ。でも裁判で訴えるのは問題ないというのがJWの見解だ。」
「12節には“では,怒りをコントロールするために何ができるでしょうか。読むもの,聞くもの,見るものに注意することです。”とあります。情報を遮断することを勧めています。」
「組織が提供する情報以外は有害だから、見ざる、聞かざるで、行けということね。カルトらしくていいね。」
「13節では“聖書を毎日読んで,じっくり考えることも大切です。”とあります。聖書を読めば何でも解決です。アリア姉妹は“そんな時,ヨブ 34章22-29節を読んで,誰もエホバの目からは逃れられないということを思い出しました。エホバだけが完璧な正義感を持っていて,問題を完全に正せるんです。”と言っています。」
「エホバの解決策は人類大虐殺なんだけど、それを待ち望みながら、現実の差別や不公平に耐えるわけだね。そして、そのまま年を取り、やがてみんなから忘れ去られ、孤独に死ぬのがJWのよくある人生。」
「14から16節が“今できること”です。 それは何かというと、伝道です。伝道がすべてを解決します。」
「14節では一応“イエスに倣って全ての人を愛することが大切です。”といっているよ。でもそれはタテマエだね。JWには愛は必要ない。必要なのは盲目的服従。」
「15節で“今私たちにできる一番のことは,聖書の真理を伝えることです。”と断言しています。伝道をひたすらし続けることがJWの最大の仕事です。でも伝道をまじめにやろうなんていうJWはほとんどいなくなりました。」
「JWの伝えているのは聖書の真理ではなく、改ざんした聖書とJWの出版物に書かれているJWの教義でしょう。あれは聖書の真理とは言えない。」
「15節には元活動家のジュマル兄弟の話が出ています。“ジェマルは学んだことに心を動かされて,闘うのをやめました。聖書の真理で生き方を変える人が増えれば,不公平や不平等をあおる人が減ることになります。”とありますが、違いますよ。抗議する人が全員JWになったら、不公平や不正は一層ひどくなるだけです。」
「JWになる人は権力を持ち差別する側というよりは、差別される社会的弱者の人が多い。差別されている側がおとなしくなり、エホバが解決してくれるのを待つだけになれば、差別する側としてはこんな嬉しいことはない。JWに活動費を密かに援助してくれるよ。」
「16節では“私たちもイエスのように,神の王国だけが世の中の不公正を完璧に正せることを人に伝えたいと思っています。”とあります。これはかなり政治的発言ですよ。少しも中立的じゃありません。」
「世の中を良くしようと活動している人たちに、そんなことはやめろ、無駄だ、エホバを待て、とい言っているようなもの。不公平や差別と闘う運動や人たちを全否定し、既存の政治体制に従うという政治的立場に立てと言っている。政治的発言そのもの。」
「16節に“この記事で学んだ聖書の教えをしっかり確信していれば,学校や職場で不意にそういう話題になっても自信を持って語ることができます。”とありますが、JWのことを学校や職場でしゃべる愚か者はまずいませんよ。」
「統治体やこの記事の執筆者と違って、末端の信者は現実世界で生きているからね。カルトのたわごとなど信じてもいないし、周囲の誰かに語るなんてことはしない。」
「最後の17節では“それで,これからも王国の良い知らせを一生懸命伝えていきましょう。”と信者に呼びかけています。JWがすることと言えば無意味な戸別訪問やカートの側でぼ~と立っていることです。社会にとって何の役にも立たない宗教ですね。」
「最後の節を単に決まり文句で締めくくっただけ。本気でそう思っているわけではないよ。伝道活動は奉仕時間を報告しないように変更した時点で、事実上終わったよ。」
- オーストラリア エホバの証人
- 2025年11月15日 01:00:11
オーストラリアで報じられたエホバの証人のドキュメント番組
統治体のスティーブン・レットさんの甥(スティーブンさん)が カミングアウトをしたために排斥されて
天涯孤独にされ自殺をしました・・・・という内容が入っています。
https://www.youtube.com/watch?v=pGjyDLVnGq4
- 聖書についての質問
- 2025年11月14日 13:54:59
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“長老たちを呼んでください(36)”で、平信者は長老に助言を求め、それに従え、という内容です。」
「JWの長老というの、JWの教えを盲信していれば、21歳以上の無知無学で社会経験ゼロの男でもなれる役職でしょう。そんな男に重大なことを相談する気にならないのが普通。それでこんな記事を学ばせるのかな?」
「2節に“エホバは長老たちを通して助けの手を差し伸べます。(エゼキエル 34:15,16を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。長老なんか出てきませんよ。」
「そこでは“主権者である主エホバはこう宣言する。「私は自ら自分の羊を養い,横たわらせる。”とあるね。神は自ら養うと言っている。地上の不完全な人間や人間の組織に任せるとは書いていない。」
「4から8節が“どんなとき,「長老たちを呼[ぶ]」べきか”です。 4節はヤコブ書のいいかげんな解説です。“「病気の人がいますか。その人は会衆の長老たちを呼んでください」。(ヤコブ 5:14-16,19,20を読む。)ここでいう病気とは,エホバとの絆が弱くなっている状態のことです。文脈からそれが分かります。”とあります。まず訳がヘンです。英文ではspiritual sickness(霊的病気)なのに“エホバとの絆が弱くなっている状態”と変えています。」
「日本のJWでは霊という概念が追放されている。霊的病気なんて訳せないんだよ。」
「ヤコブ5:14では“病気の人がいますか。その人は会衆の長老たちを呼んでください。そして,自分のために祈ってもらい,エホバの名によって油を塗ってもらってください。”とあります。“エホバの名によって”というのはJW訳だけです。もとのギリシャ語は“主の名によって”で、イエスのことを指します。エホバではありません。」
「新約ではイエスが中心。ルカ10:17に“70人が喜びながら帰ってきて,言った。「主よ,あなたの名を使うと,邪悪な天使も服従するのです」。”とある。使徒3:6には“しかしペテロは言った。「銀や金はありませんが,私にあるもの,それを与えます。ナザレ人イエス・キリストの名によって,歩きなさい!」”とある。新約では悪魔祓いや病気の癒しはイエス・キリストの名によって行う。エホバ教のJWが勝手にエホバに変えた。」
「ここで言う病気は今でいう精神病のことじゃないですか?祈って油を塗って治るというのは身体的病気では考えにくいです。」
「そうかも。“長老たちを呼んでください”とあるから、重症で会衆に行けない状態なのだろう。だから呼んでくるわけだ。」
「でも、4節では“長老の所に行き,自分の状況を話し,聖書を通して与えてくれるアドバイスの通りにします。”とありまして、平信者は長老の所に、できれば手みやげを持って出かける必要があるかのようですよ。」
「執筆者は聖書をまともに読んでいない。長老の所に行くのではなく、長老を呼んで来いとヤコブは言っている。」
「これは何か問題がある信者は自分から長老に接触すべきで、もし助けを求めなかったとしたら、それは信者の責任ということにしたいからですね。」
「長老が自ら積極的に信者の状態を察知する責任はないと言いたいんだよ。長老の責任をなるべく回避したいという姿勢だね。」
「5節では“大切なのは,エホバとの友情に大きなひびが入る前に長老に相談することです。”とありますが、エホバとの友情なんて聖書にありません。」
「こう自問せよとあるよ。“以前 と同じように聖書を楽しく勉強できているだろうか。集会を休みがちだったり,予習が行き当たりばったりになっていたりしないだろうか。伝道よりも遊ぶことの方に時間を使っているだろうか。以前よりお金や物のことをよく考えているだろうか。”もし一つでも当てはまっていたら“それはエホバとの絆が弱くなっていることのサインです。”とある。要するに聖書、集会、伝道といったJW活動を組織の言いなりになってやっていればいいということ。それをエホバとの友情とか絆と称しているわけだね。」
「6,7節では重大な罪でも軽い罪でも長老に相談すべきと指示していますが、8節では“とはいえ,あらゆる問題を長老に相談しないといけない,というわけではありません。”とあります。平信者は混乱しますね。」
「何でも相談されたら長老が忙しすぎて困るからでしょう。でも平信者は何でも長老に相談したらいいよ。そのための長老。朝から晩まで、無給で平信者のために働けばいいのさ。それがいやなら長老をやめればいいだけ。」
「9から11節が“どうして長老たちを呼ぶべきか”です。 9節にその答えがありまして、“エホバがそう勧めているからです。”というものです。その根拠となる聖句は、格言28:13の“自分の違反を隠す人は成功しないが,それを告白して捨てる人は憐れみを示される。”のようですが、長老なんか出てきません。」
「恣意的な引用。例えば、詩編32:5に“私はついに自分の罪をあなたに告白した。過ちを隠さなかった。「違反をエホバに告白しよう」と言った。すると,あなたは過ちと罪を許してくださった。”とある。旧約では神に罪を直接告白する。長老なんて言う中間管理職はいらない。」
「10節では“助けを求めて長老に話せばエホバとの友情を守れますが,罪を隠してしまうと問題が大きくなってしまいます。”と、長老に罪を告白するよう圧力をかけています。」
「長老に話せばエホバとの友情を守れる?英文では、そんなことは書いていない。翻訳者の創作。英文では単にthe blessings(祝福)が得られるとあるだけ。」
「11節で、重大な罪を隠そうとすると、“会衆に聖なる力が流れにくくなり,そのせいで兄弟姉妹同士の関係がぎくしゃくしてしまうこともあります。(エフェ 4:30)”と奇妙なことを言っています。引照聖句にはそんなことは書いていません。聖なる力はすぐ詰まりやすいパイプの中を通ってやってくるのですか?」
「引照聖句には“神の聖なる力を悲しませてはなりません。”とあるだけ。God’s holy spirit(神の聖霊)を“聖なる力”と変えているわけだけど、力が悲しむかな?聖霊を聖なる力とは訳せないことがここでわかってほしいね。聖霊に戻さないとダメだよ。」
「11節は密告の命令です。“もし会衆の誰かが重大な罪を犯したことを知ったなら,長老に話すようその人に勧めましょう。*”とあります。注には“もし本人がなかなか長老に話そうとしないなら,私たちは自分が知っていることを長老に話します。エホバを一番に愛しているからです。”とあります。」
「長老への密告をエホバへの愛で正当化するのは笑えるね。密告は信者を管理統制するためのカルトの方針でしょう。」
「11節では“ほかの人の罪を隠そうとすると,自分も罪を負うことになります。(レビ 5:1)”とあります。脅迫ですね。引照聖句は“あることの証人であったりそれを見たり知ったりしている人が,証言を求める呼び掛けを聞いたのに,そのことについて報告しないなら,罪を犯しているのであり,その人は過ちの責任を負う。”というものです。JWは旧約の律法にも従わなくてはいけないみたいです。無茶苦茶です。」
「この聖句は公の裁判で証言を拒否した場合のことを言っている。会衆の誰かの悪事を知った時密告しないなら罪になるとは言っていない。」
「レビ5:1が今のJWに当てはまるなら、レビ5:6には“そして犯した罪のために,エホバへの有罪の捧げ物を持っていく。雌の子羊か雌の子ヤギを罪の捧げ物とするのである。”とあります。この聖句も実行すべきじゃないですか?」
「ぜひ実行して欲しいね。そこは無視するわけだけど、都合の良い聖句を恣意的に適用して、信者を脅迫するのがJWのやり方というのがよくわかる。」
「12から15節は“長老たちはどのように助けてくれるか”です。 12節では“心を開いて話してください。そうすれば長老たちに協力していることになります。”と平信者に要求しています。なんでも話せ、隠し事をするな、という指示ですね。」
「同じ悪いことをしても、何でもしゃべった人は排斥され、ほとんどしゃべらなかった人はお咎めなし、という事例はたくさんあるでしょう。結果として、隠し事のうまいウソつきがJWに多くなる。」
「13節には“長老たちは「エホバの名によって油を塗って」くれます。(ヤコ 5:14-16)「油」とは聖書の真理のことです。”とデタラメを書いています。油=聖書の真理という根拠が全く示されていません。勝手に断言しているだけです。カルトそのものですね。」
「油は油だよ。油を塗るというのは治療手段として広く使われた。マルコ6:13に“そして多くの邪悪な天使を追い出し,大勢の病人に油を塗って治した。”とある。これも聖書の真理を説いて病人を治したという意味なの?」
「ルカ10章にある、良きサマリア人の話で、サマリア人はケガをした人に油を塗っていませんでしたか?」
「ルカ10:34には“傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてあげました。”とあるね。古代ではオリーブオイルは治療効果があると信じられていた。」
「14節では“ガラテア 6:1を読む。”とあります。そこには“兄弟たち,誰かが道を踏み外したなら,たとえ気付かずにそうした場合でも,クリスチャンとして十分に資格がある皆さんは,その人を優しく正すことに努めてください。”とあるのですが、日本語訳がおかしいです。それから、これは長老に向けられた聖句ではありません。」
「JW訳はBrothers, even if a man takes a false step before he is aware of it, you who have spiritual qualifications try to readjust such a man in a spirit of mildness.(兄弟たちよ、たとえ人が気づかないうちに誤った歩みをするとしても、霊的な資格を持つあなた方は、温和な心でそのような人を正すよう努めなさい。)だね。“霊的な資格をもつ”を霊が嫌いだからといって“クリスチャンとして十分に資格がある”と訳するのは時代錯誤。それから“霊的な資格をもつ”も訳としてはヘン。原文は“霊の人”とあるだけ。」
「クリスチャンという名称は、外部の人間が使った蔑称じゃないですか?」
「使徒11:26に“弟子たちが神の導きによってクリスチャンと呼ばれたのは,アンティオキアが最初だった。”とあるけれど、ひどい誤訳。協会共同訳では“このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった。”とある。“神の導きによって”に相当するギリシャ語はない。JWの勝手な追加。聖書を好き勝手に変えている。」
「勝手に追加したのは、クリスチャンという名称はアンティオキア市民が勝手につけた差別的な名称だったことをJWが知らないからですよ。」
「初期の信者たちは自分たちを兄弟・弟子・聖徒などと呼んでいて、クリスチャンとは名のらなかった。JWはそんな初歩的なことも知らないんだよね。」
「14節では“ここで「正す」と訳されているギリシャ語は,後遺症が残らないように骨を正しい位置に戻す医療処置を指して使われることもあります。”とありますが、その根拠が書かれていないので正しいかどうか判断できません。どうせウソだろうと思ってしまいます。」
「ウソが多いものみの塔だからね。そう思うのももっともだ。そのような意味で使われている1世紀の文例を一つ示せばいいわけだけど、それができないのでしょう。この単語は聖書では13回でてくるけれど、そんな医学的な意味で使われた例は一つもない。」
「15節では“長老たちは信頼できる人たちです。エホバからよくトレーニングされています。それで,秘密を守り,いつも自分の考えではなく聖書からアドバイスし,大変な思いをしている仲間を支え続けることができます。”と、すぐばれるウソを書いています。信頼できない長老は多いですし、エホバからの訓練など受けていませんし、秘密はすぐに洩らします。」
「長老に相談したことは、すぐその妻に伝わり、長老の妻から会衆全体に伝わる、ということはよくあること。」
「聖書からのアドバイスというのは、聖句を2,3読んでから組織の考えを押し付けることですよ。」
「何せ長老は無給だからね。タダで集められる人材に、ろくなのがいないよ。」
「最後の16、17節は“一人一人の責任”です。 16節では“長老たちは神の羊の様子を見守っていますが,何をするべきか指示したりはしません。”と驚くことが書いています。そして“長老たちはあれこれ細かく指示するのではなく,聖書に書かれている神の考えに合わせられるように助けてくれます。”とあります。全くのデタラメです。長老は平信者を組織の考えに従うようにあれこれと圧力をかけるための役職です。従わなければ排斥し、集団で無視します。」
「これは会衆内で問題が起きた場合、長老に管理責任はない、長老を訴えることはするな、というメッセージだ。問題が起きたら、全て自己責任でかたづけようという組織の責任逃れの悪だくみ。」
「長老といえば、髪形や服装や生活上の細々したことにまであれこれと聖書に書かれていないことを指示する存在と誰もが思っていますよ。あれはすべて間違いということですか?」
「あれは指示ではなく、神の考えに合わせられるよう助言しただけ、と言い訳するんだろうね。少し前まで神はあごひげを嫌っていたので、あごひげはダメだと助言したし、神は女性のスカートが好きだったので、スカート以外はダメだと助言したけれど、実際にどうするかはあなたが決めたことです、ということ。」
「長老の助言に従わなかった場合どうなるか書いて欲しかったですね。」
「注で、長老の助言に従わなかった場合、会衆から排斥され、家族からも絶交されることもあります、でもこれは指示ではありません、と書いて欲しかったね。」
「17節では“エホバとの絆が弱くなっていると感じるときは,遠慮なく長老たちを呼んで助けてもらってください。長老たちがエホバからの素晴らしい贈り物だと実感できるはずです。”と締めくくっています。なり手が不足して、今や男なら誰でもなれる長老が素晴らしい贈り物だなんて誰も実感できません。」
「この記事を読んだ長老は、自分はこの記事に書かれているような立派な長老ではないので、と言って、さっさとやめよう。」
- 証拠に基づいた確信
- 2025年11月07日 21:43:53
彼らの言うその「証拠」が、実際には証拠でも何でもないということに気付けないようにされているカルト性に、ため息を禁じえません。
「彼らは盲目の案内人なのです。それで,盲人が盲人を案内するなら,二人とも穴に落ち込むのです」― マタイ 15:14。
この聖句が自分たちに当てはまることに、いつになったら気付くのでしょうか…
- ジョエル
- 2025年11月07日 19:13:35
今年、日本で公開された映画コンクラーベ(教皇選挙)では教皇に選ばれた枢機卿が「神がわたしをこのように造られたのだからありのままを受け入れる」と選挙を取り仕切る首席枢機卿に告白するラストでした(多少のネタバレすみません)。
その首席枢機卿は選挙前に、「長年、教会に仕えて怖れるようになった最大の罪とは“確信”である」と語り、確信こそが人を多様性に対して不寛容にならせ、分裂を招く、それで「疑う者を神が教皇に選ばれるように」と祈っています。
これは新しい“リベラルな思想”ではなく、200年近く前にキルケゴールが、信仰とは疑いであり、迷いである、のような思想を伝えています。
彼によれば、客観的確かさが保証されている(例えば、数学上の)真理は主体的にはどうでもいい真理であり、神を見出そうと森羅万象をさまよいそのすべてを煎じて残る客観的不確かさという残滓を、疑いと迷いを伴いながらも「無限性の情熱の全てをかけて」包容する主体的なプロセスこそが信仰ということになります。
確信ほど、人を不寛容にならせ、互いに争わせるものはない、このあたりがキリスト教の人たちに向けたメッセージなのかな、と思いましたが、「何を言ってるのか?信仰とは証拠に基づいた確信だ!」としか教わらないJWには三位一体と同じくらい一生理解できない思想でしょうね...
- 聖書についての質問
- 2025年11月07日 14:31:23
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“欲望に負けないためには(35)”で、同性愛、ポルノはやめられるし、やめろという内容です。」
「同性愛差別はJWとしてはやめられないけれど、これからは差別主義者として非難されるリスクが高い。同性愛者の扱いはJWにとって厄介な問題になるよ。」
「欲望に負けないという話だと、ヨセフが出てくると思ったら、17節にやっぱり出ていました。」
「タイトルを聞いただけで、中身が予想できるほど、ものみの塔の記事は同じことの繰り返し。」
「2節に具体的な欲望が出ています。“性的な欲求に駆られる人がいます。異性に引かれる人も,同性に引かれる人もいます。ポルノを見るのをやめたのに,また見たくて仕方がなくなる人もいます。ドラッグやお酒への依存をせっかく乗り越えたのに,逆戻りしそうになっている人もいます。”とあります。」
「JWにとって、性と薬物が重大問題ということなんだろうけれど、世界一幸福な人々なのにどうしてこうなったのかな。児童性的虐待で何人も逮捕者が出ているのに、児童性愛はなぜとりあげないのかな?本当に扱うべきことは扱わないね。」
「4から7節が“「邪悪な者」はどう思わせようとしているか”です。 またサタンの登場です。4節には“私たちに無力感を感じさせ,誘惑に勝てるはずがないと思わせようとしているのは,サタンです。”とあります。無力感はサタンのせいと言いたいようです。」
「よくないことは全てサタンのせいなんだよ。それで信者の思考停止させるのがカルトだね。その結果操作しやすい従順な信者が出来上がる。」
「4節にマタイ6:13が引用されていて、“私たちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください。”とあるのですが、訳はこれでいいのですか?」
「協会共同訳では“悪からお救いください。”だね。悪者から救うのか、悪そのものから救うのかという2つの解釈が可能で、JWはサタンが大好きだから、悪者から救うという解釈になるわけだ。」
「聖書の中で、サタンはほとんど出てきません。それ比べてJWではあまりにも頻繁に取り上げられます。これってへんじゃないですか?」
「カルトは敵を必要とするということでしょう。敵に気を付けろ、敵に負けるな、そういうことを絶えず言って信者の恐怖と不安をあおり、信者を支配する。それでサタンは毎週、登場させたいJWにとって不可欠のキャラクター。」
「6節では“サタンは無力感だけでなく,絶望感も味わわせようとしています。良くないことに引かれてしまう自分は,エホバに喜ばれてはいないんだと思わせようとしてきます。”とあります。絶望感もサタンのせいです。でも聖句の引用はありませんね。執筆者の想像でしょうか?」
「無力感、絶望感にとらわれている人はJWとJW以外の人で比べたら、どちらの方が割合が高いかというと、JWじゃないの?JWの方がサタンの影響力が強いということかな?」
「7節では“それで欲望と闘っている時,自分には勝ち目がないとか,何の希望もないと感じてしまうとしたら,サタンの狙い通りになっていることになります。”とあります。JWはサタンの罠にはまっている人が多いということですよ。」
「サタンの罠というより、組織の罠でしょう。禁止事項をたくさん設ければ、当然違反することが多くなる。そして違反した人に罪悪感を持たせるように誘導する。それが繰り返されれば、無力感や絶望感に陥るよ。その方が操作しやすいので、組織は内心歓迎しているはず。」
「8から14節が“受け継いだ罪のせいでどんな気持ちになるか”です。 人間は罪深い存在だということを強調しています。無力感、絶望感に誘導していますね。8節に“無力感や絶望感を感じてしまうのはサタンのせいだけではありません。アダムとエバから罪を受け継いでいるせいでもあります。”と言っています。この根拠としているのが詩編51:5で、“私は過ちのある者として生まれ,母は罪のうちに私を身ごもりました。”です。これってアダムとエバから受け継いだ罪のことを言っていませんよ。」
「旧約聖書に人間はアダムとエバから罪を受け継いでいるという原罪思想はないよ。それはずっと後の時代に作られる思想。」
「詩編51:4で“あなたに,ほかでもなくあなたに対して罪を犯しました。あなたから見て悪いことを行いました。”とあるように、悪いことを行ったと言っている。その後に51:5がくる。抽象的な罪を犯す傾向を問題にしているのではなく、具体的な違反行為について語っている。」
「9節では“アダムとエバは罪を犯した後,どんな気持ちになったでしょうか。”と問いかけます。答えは“「聖書に対する洞察」にはこう書かれています。「両人は罪のゆえに罪悪感を抱き,心配や不安や恥ずかしさを感じました」。”というものです。答えはJWの出版物にあるというわけですね。ウソでしょう?」
「アダムとエバの話には罪という言葉は出てこない。聖書を引用できないので、JWの出版物を引用しただけだね。JWの出版物はJW以外の人には全く評価されないし、時間が経つと廃棄処分になる程度のもの。」
「JWはアダムとエバのお話に頼りすぎです。サタンと同じように毎回のように出てきます。でも、アダムとエバの話を真実と思うのは、聖書を狂信的に信じている人だけです。単なる大昔のお話です。まじめにアダムとエバがどうのこうのと論じている文章を読むたびに、この人たちはどういう知的レベルの人なのだろうかとあきれ返ります。」
「聖書を狂信的に信じられる程度の知的レベルの人だよ。アダムとエバの話はJWの教義の重要な部分を占めているから、毎週のように登場する。こんな非科学的な神話に頼らなくてはいけない宗教に未来はないね。人類の教育水準が上がるとともに衰退するしかないね。」
「11節では“エホバは,誘惑に立ち向かうようにと言っています。”とあり、12節では“悪いことをしないよう,欲望と闘い続けるなら,エホバは私たちを清い人と見てくれます。”とあります。」
「もっともらしいことを長々と書いているけれど、要するに、ここで言いたいのは、性的な問題と薬物や酒の問題を起こして組織に迷惑をかけるな、ということだね。」
「やっと13節で具体的な話が出てきます。まず“聖書は,間違った行動と間違った欲望を区別しています。”と言ってから、“例えば1世紀のコリント会衆には,以前同性愛者だった人がいました。パウロは「皆さんの中には,以前そのような人もいました」と書いています。”と、さりげなく同性愛の問題を持ち出してきます。」
「同性愛者でも同性愛的行動をとらなければ問題ないと言いたいわけだね。JWは同性愛に反対ではありません、同性愛的行動に反対しているだけですと言って、同性愛差別を正当化しようとするのが今のやり方。同性愛者よりも児童性愛者をももっと取り上げて欲しいね。」
「13節では、同性愛者でも“欲望を抑えて行動をコントロールすることはできました。諦めずに闘うクリスチャンのことをエホバは喜び,「洗われて清く」なったと見ていました。(コリ一 6:9-11)”とありますから、行動をコントロールさえすれば、問題ないというタテマエですね。」
「JWの同性愛嫌悪は激しいからね。JWの誰かが同性愛者を侮辱して、何か事件でも起こしたら大問題になりかねない。同性愛者に対する差別的発言をやめるようにはっきりと指示を出した方がいいよ。2014年にアメリカで行われた調査ではJWが一番同性愛嫌悪が強い宗教という結果だったのは統治体の老人は知らないのかな?」
「2023/8のものみの塔の“ダニエルの手本から学べること”の13節には“兄弟はこう言います。「クラスの中で同性愛を支持しなかったのは,私ともう1人のエホバの証人の子だけでした」。”とあります。オーストラリアの高校での出来事となっていますが、JWは同性愛を支持しないわけですよ。この記事ではこのJWの高校生を信仰をしっかり貫いた人と称賛しています。同性愛嫌悪丸出しです。」
「学校で、同性愛を支持するか、しないかを生徒一人一人に聞くなんてことはあり得ない。JWの創作だ。」
「それから“あなたの若い時代,それから最善のものを得る”と言う書籍の第5章には“実際,マスターベーションは同性愛に至ることがあるのです。(中略)多くの人の考えに反して,同性愛者はそのように生まれついているのではありません。同性愛行為は後天的なものです。そしてしばしば,人は非常に幼い時に別の子供の陰部をもて遊ぶことからそれを覚え,やがて同性愛行為にふけるようになります。”と、でたらめを書いています。」
「JWが同性愛について全く無知だったことがよくわかる。」
「15から17節が“闘いに勝つためには”です。 15節では“闘いに勝つには,自分の弱さを正直に認める必要があります。「間違った考え方」をして自分の心を欺こうとしてはいけません。(ヤコ 1:22)”とあります。16節では“弱さに屈しないという固い決意を持つことも大切です。”とあります。」
「決意したら、その通り実行できるように、人間は造られていないよ。今回は祈りが出てこないのが不思議だね。なんにでも効果があるのが祈りじゃなかったの?闘いに勝つには、まず祈りましょうとなぜ書かないのかな?効果がないからかな?」
「17節で待ちに待ったヨセフが登場します。うれしいですね。“ヨセフがポテパルの妻から誘惑された時にどうしたかを思い出してください。すぐにきっぱりと断りました。(創世記 39:7-9を読む。)”とあります。ヨセフの話は物語です。物語の人物なのでどんな誘惑にもどんな試練にも耐えられます。」
「読むように指定されている個所には“こうしたことの後,主人の妻がヨセフに目を留め,「私と寝て」と言うようになった。”とある。こんな文章をみんなの前で読むの?子どもには配慮しないのかな?ひどい宗教だ。」
「17節では“どうしてそうできたのでしょうか。誘惑される前から,正しいことをしようと心に決めていたからです。私たちもヨセフと同じようにできます。”とあります。準備が大事なようですが、ヨセフがそう考えていたなんて言う根拠はありません。ポテパルの妻は薄汚い病気もちの中年女で、ヨセフが嫌っていただけかもしれませんよ。」
「架空の人物のお話を基に、誘惑に負けないぞと決意すれば、その通り実行できます、と繰り返しているだけ。説得力ゼロだね。」
「18、19節は“いつも確かめてください”です。 18節には“自分の考えや行動を見つめ直し,必要なところを調整しましょう。”とあります。誘惑を単に拒絶するだけでは不十分で、“すぐにきっぱりとはねのけられただろうか,と考えてみてください。”とあります。こうやって信者を追い込んでいくわけですね。」
「JWは絶えず誘惑されると警戒し、何秒で誘惑をきっぱりはねのけたかどうか調べるためにストップウォッチを持つ必要があるわけだね。」
「19節では“そうやって自分を確かめる時,言い訳したくなる気持ちを抑えましょう。聖書には「心はほかのどんなものよりも信用できず,必死になる」とあります。(エレ 17:9)”とあります。引照聖句の訳がヘンですし、この聖句の使い方もヘンです。」
「まず、心が“必死になる”とはどういうこと?協会共同訳では“治ることもない。”だけど、これが標準的な訳。」
「これはエレミヤのセリフですよ、エレミヤは自分の心の中を調べたら、治癒不可能な罪深さがわかったと言っている箇所です。」
「それを受けて17:10で、“私エホバは,心を探り,奥底の考えを調べている。”と、神は人の心がわかっているよ、と答えるという展開だね。対話形式になっている。」
「そして、エレミヤ17:14で“エホバ,癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。救ってください。そうすれば私は救われます。”とエレミヤは言うわけですね。」
「そういうわけで、エレミヤ17:12を“必死になる”ではなく、“治ることもない。”と訳さないと、全体の流れに合わない。その程度のこともわからないのがJWの翻訳者たち。」
「最後の20節で“たとえ失敗してもエホバは許してくれるので,新しい世界でずっと生きるという希望を持ち続けられます。”とあります。エホバは許しても、組織は許しません。永久に推定有罪です。」
「JWなんかやめて、大患難が来てからまたJWになればいい。それでも楽園に行けるというのが今の教義だから、JWを今やめても“新しい世界でずっと生きるという希望を持ち続けられます。”」