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聖書についての質問
2026年05月08日 12:38:09

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“「教える技術」を磨く”で、新しい信者獲得を目指して、指導法を学ぶ、という内容です。」
「この記事は聖書研究と何の関係もないよ。無給の宗教拡張員向けの空疎なスローガンを並べただけの駄文。」

「1節に“もちろん,「正しい態度を持つ人」を引き寄せるのはエホバです。”とありますが、JWの教えを学んでいる人といえば代表的なのはJWの家族、特に子どもですよ。これってエホバの働きなんですか?違いますよ。」
「“正しい態度を持つ人”(使徒13:48)という日本語訳がおかしい。JW英語訳ではthose who were rightly disposed for everlasting life(永遠の命のために正しく整えられた人々)。協会共同訳では”永遠の命を得るように定められている人“。それから、使徒13:48には”引き寄せる“という単語は使われていない。それはヨハネ6:44にある言葉。」

「つまり、二つの異なる聖句を組み合わせて作ったのが“「正しい態度を持つ人」を引き寄せるのはエホバです。”という主張なわけですね。これって聖書に基づいているとは言えません。創作ですよ。」
「しかも、いつものように訳もテキトウ。」

「1節には“そして,そういう人を見つけられるよう天使たちが助けてくれます。”とあります。根拠としている聖句は啓示14:6ですが、そこにはそんなことは書かれていません。自分たちに都合の良いように解釈しているだけです。」
「そこには“別の天使が空高く飛んでいるのを見た。その天使は,地上に住む人々,すなわち,あらゆる国や民族や言語や種族の人々に伝える,永遠の良い知らせを携えていた。”とあるだけで、JWの伝道活動を助けるとは書いていないよ。天使は単数形で、一人の天使を意味する。JWひとりひとりに天使が付いているわけじゃないよ。」

「1節に“パウロとバルナバのことを考えてみましょう。イコニオムの会堂で伝道していた時,2人が「立派に話をすると,ユダヤ人もギリシャ人も非常に大勢の人が信じるように」なりました。(使徒 14:1)”とありますが、これもヘンですよ。」
「引照聖句には“パウロとバルナバが一緒にユダヤ人の会堂に入って立派に話をすると,ユダヤ人もギリシャ人も非常に大勢の人が信じるようになった”とあるけれど、協会共同訳では“パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。”だね。元のギリシャ語に“立派に”という単語はない。」

「2節に“もちろん,私たちが良い知らせを伝えても,みんなが聞いてくれるわけではありません。”とありますが、現実をゆがめています。」
「私たちの話を聞く人は極めてまれです、と書いて欲しいね。」

「3から6節は“相手を心から思いやる”です。 教える技術が3つ出ているのですが、その①です。イエスは相手のことをよくわかっていたそうです。“当時の人たちはエホバについてきちんと教えてもらえず,たくさんの伝統や規則に縛られて苦しんでいました。”とあるのですが、まるでJWのようです。」
「JWはエホバが神の名前です、とウソを教えられ、聖書的根拠のない伝統や規則に縛られて苦しんでいる。JWこそイエスが必要だ。」

「4節に“伝道で会う人を心から思いやるには,まずその人たちがどんな悩みを抱えているか知ろうとすることが大切です。”とあります。要するに人々の悩みや苦しみに付け込んで、JWに入らせろということですね。」
「思いやるふりをして、どんな悩みや苦しみを抱えているかを聞き出し、その問題は聖書が解決してくれるんですよ、と誠実そうな顔で言うわけだね。」

「4節には“聖書の希望を知らずにこの「危機的な時」を生きるというのがどれほど大変なことか,想像してみてください。”とありますが、JW以外の人をずいぶん見下していますね。」
「本当はJWの方が大変なわけだけど、それに気づかせないように、そういう見下したことをいう。そうやって、JWは選ばれた特別な人と思うように誘導するわけだ。」

「5節ではイエスは“パリサイ派の人たちが一般の人たちを見下し,ばかにしていたのとは大違いです。”とイエスをほめていますが、パリサイ派って今のJWそっくりですよね。」
「JWは一般の人を見下し、バカにしているよ。オンライン・ライブラリーを“一般の人々”で検索すると、“一般の人々は物質的な安定にもっぱら関心を払います。塔11 2/15”、“世の一般の人々は,「邪悪な者の配下に」あります。塔10 1/15”、“パウロは,終わりの日に一般の人々が「自然の情愛を持たない」者になると預言しました。塔09 7/15”、“エホバの証人が示している正直さ,親切,平和,勤勉さなどは,偏見を持たない人々から称賛されており,神の民を世の一般の人々から区別するものとなっています。塔06 5/15”、“世の一般の人々は清潔さや秩序をあまり重視しない 塔93 2/15”等々が出てくる。JWによれば、一般の人はクズ以外のないものでもない。」

「JW用語に“世の人々”というのがありまして、JW以外の人を指すわけですが、これで検索すると、世の人々は悪人なので、付き合うのは禁止みたいです。」
「例えば、“この世の人々との交わりは,あなたを助けて正しい欲望をつちかうことには,けっしてなりません。 塔57 10/1”、“今日の世の人々は,貪欲と利己心に支配されています。 塔08 4/15”、“必要以上に世の人々と交際することにも注意していなければなりません。 塔94 2/15”、“この世の人々との交わりはなおのこと現代のクリスチャンの若者に害を及ぼすはずです。 塔93 4/15”等々が出てくるね。JWは自分たちを凄く立派で偉い人たちと思っている。」

「6節で“私たちとしては次のことを忘れたくありません。「塩で味付けされた快い言葉を語るように心掛けましょう。そうすれば,誰に対してもどのように答えるべきかが分かります」。(コロ 4:6)”とあるのですが、聖句の訳がヘンですね。」
「JW英語訳はLet your words always be gracious, seasoned with salt,(あなたがたのことばは常に恵み深く、塩で味付けされたものとしなさい。)で、“快い言葉”はないね。翻訳者の勝手な追加。塩で味付けされたというのは、機知に富んだ、あるいはユーモアのセンスのある言葉という意味でしょう。」

「7から12節は“聖書を使って教える”です。  教える技術のその②です。7節で“イエスは自分の考えではなく,いつも聖書を基に教えました。”とありますが、違うでしょう。イエスの時代に聖書はないですよ。」
「元の英文は“神の言葉に基づいて”だから、聖書という単語は避けている。日本語翻訳者の頭の中で、神の言葉=聖書という公式が出来上がっているのだろう。」

「7節では“聖書には,イエスが「律法学者たちのようにではなく,権威を授かった人のように教えていた」とあります。みんなが「大変驚」くような見事な教え方でした。(マル 1:22。注釈「律法学者たちのようにではなく」の項目を参照。)当時の律法学者たちは有名なラビの言葉をよく引用しましたが,イエスは聖書の言葉を引き合いに出して教えました。”とありますが、間違いですよ。」
「福音書には、イエスは○○と書かれていると言った、ではなく、イエスは言った。○○だ、というのが多い。例えば、マタイ12:11には“イエスは言った。「あなた方の中で,飼っている1匹の羊が安息日に穴に落ちた場合,つかんで引き出さない人がいるでしょうか。 人は羊よりずっと価値があるのではないでしょうか。それで,安息日に立派なことをしてよいのです」。”とある。聖書の言葉なんか引き合いに出していないよ。」

「9節では“人の心を動かせる最強のツールは聖書です。(ヘブ 4:12)それで,教える時はいつも聖書を使うようにしましょう。”と言っています。」
「実際は、聖句をひとつかふたつ読ませて、あとはJWの怪しげな教義を教えるのがJWの聖書研究。そもそもJWは聖書のことをよく知らないから、聖書を教えるなんてことはできない。」

「9節には“聖書に書かれていることは人間の知恵よりはるかに優れている,ということをみんなに知ってほしいと思います。”とありますが、具体的にはどんなことですか?子どもには体罰をバンバンやれとか言うことですか?」
「聖書に書かれていることは人間の知恵より優れているとは言えない。聖書の道徳水準は現代の道徳水準より相当低い。聖書では奴隷制問題なし、一夫多妻問題なし、女性差別問題なし、同性愛差別問題なし、民族皆殺し問題なし、だけど、現代の多くの国では犯罪行為だ。子どもを保護するという思想もほとんどない。ノアの大洪水では子どもも妊婦も胎児もろとも皆殺し。全能の神なら子どもや胎児を救う方法はいくらでもあるはずなのに、無差別殺人で安易に済ます。生命尊重という思想がゼロ。」

「出エジプト記に金の小牛の話が出ていて、22:20に“モーセは彼らが作った子牛を取って火で焼き,粉々に砕いた。そして水面にまき散らし,それをイスラエル人に飲ませた。”とありますが、金の小牛を火で焼いても粉々になりません。粉々になったとしても水に浮かぶことはなく、沈みます。」
「聖書の作者は金属の展性、延性を知らないということ。金属は割れずに変形する性質があるけれど、金は特にその性質が優れていて、金箔にもできるし、金線もできる。簡単に割れたりしない。聖書の知恵は大したことない。」

「10節に“レッスンの時,ポイントとなる聖句を読んで,何が学べるかレッスン生に考えてもらいます。イラストや動画を使う場合も,そこから聖書のどんな大切な考えが学べるかをしっかり理解できるようにします。そうすればレッスン生は,聖書を勉強している,と実感できます。”とあります。聖書を学ぶと言っても、断片的な聖句を学ぶだけですね。」
「これは、カルトの教えではなく、聖書を学んでいると誤解させるためのテクニック。」

「12節に、ついていくのが難しい人への対応策が出ています。“「新世界訳聖書」の最初の「初めて聖書を読む方へ」の質問を見せて,聖書には役立つことがたくさん書かれていると紹介できます。質問15の「どうすれば幸せになれますか」の所に載っている聖句を1つか2つ見せることもできます。”とあります。そこには20の質問と解答となる聖句があるのですが、中身は単なるJWのプロパガンダです。」
「どうすれば幸せになれるかという質問で引用されている聖句は、“たくさんの物を持っていても,命は所有物からは生じない ルカ 12:15”とか、“ですから,食物と衣服があれば,それで満足します。テモテ第一 6:8”という貧困の勧めみたいなもの。あとは“神の導きが必要であることを自覚している人たちは幸福です。天の王国はその人たちのものだからです。マタイ 5:3”や、“神の言葉を聞いて守っている人たちこそ幸福です! ルカ 11:28”といった、服従・従属の勧めのようなもの。北朝鮮のプロパガンダと似ているね。」

「質問4は“聖書に書かれていることは科学と合っていますか”で、3つの聖句が出ていますが、翻訳を変えて、科学にあっているように見せかけているだけです。」
「そこにはあるヨブ26:7は“神は北の空を何もない所に広げ,地球を空間に浮かせている。”だけど、“地球”と訳したら人間の住むところを球体と認識していたことになるけれど、聖書の作者にはそんな認識はない。また“浮かせている”は“吊るす、架ける”という意味。協会共同訳では“地を何もないものの上に架ける。”となっている。科学と合っていないよ。」

「一番バカバカしいのは質問3の“聖書を書いたのは誰ですか”の答えです。5つの聖句がでています。もちろん“聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれた。テモテ第二 3:16”もあります。聖書自身がこれは神によって書かれたと主張したら、神よって書かれたことになると思っているようです。」
「この書物全体はサタンの導きによって書かれた、と書いてある書物があったら、それはサタンが書いたことの証拠になるというのがJWの考えのようだね。本当にだまされやすい人たちなんだね。」

「13,14節は“エホバが目立つようにする”です。  教える技術のその③です。エホバに焦点を当てろと言っています。14節で“教える人の役割は,単にエホバの証人になるにはどんな行動を取るべきかを伝えるだけではありません。エホバへの愛の気持ちからぜひそうしたいと思ってもらうことです。”とあります。これがマインドコントロールですね。」
「伝道したいですか?と尋ねて、ハイと答えたら、なぜですか?と尋ね、ハルマゲドンで殺されたくないからですと答えたら、エホバへの愛からですと答えを変えさせる。行動、情報、思考、感情までコントロールするのがJW。」

「最後の15,16節は“教える技術を磨き続ける”です。  15節で“教えるのが上手な兄弟姉妹にレッスンに参加してもらい,気付いたことを言ってもらいましょう。”とあります。信者の新規獲得のために協力しあえということですね。」
「そもそも、教えるのが上手なJWっているの?レッスン生なんか持ったことのない人が大半でしょう。他人をJWに巻き込むのは止めよう。」

「16節で“将来,新しい世界でもたくさんの人を教える機会があります。”と少しだけ地上の楽園のことに触れています。新しい世界で、JWは復活してきた人をJWになるよう教育する仕事を課せられるようです。断ることはできないのがJWの地上の楽園です。」
「そんなことしたいJWはいるの?楽園の想像図といえば、遊んだり、飲み食いしているよ。本当の楽園では、したくない仕事を強制的に押し付けられて、苦労するとは!」

A 愛
2026年05月04日 03:06:42

過去、真面目に組織に浸かってたから
社会で全ての行事避けてきたから生きにくかった。でも楽なこともあった。世の人との交際はほとんど出来ないですね。

Gemini
2026年05月01日 14:30:15

「イエス」と「現代の組織」の同一視:
14節で、ペテロの有名な言葉「私たちはだれのところに行けばよいのでしょうか」(ヨハネ6:68)を引き合いに出しています。聖書本文でペテロは「イエス・キリスト個人」への信仰を語っていますが、記事ではこれを「組織を通して教えてくれた真理」と結びつけ、組織から離れない理由として適用しています。キリストへの信仰を「特定の現代宗教組織への従順」とイコールにするのは、エホバの証人特有の解釈です。

排斥(会衆から除かれること)と忌避の適用:
コリント第一5章13節などを根拠に、重大な罪を犯した者が「会衆から除かれる」ことに触れています。聖書には確かに罪を犯した者を退ける記述がありますが、エホバの証人のように、家族間であっても関係を断つような厳格な「忌避(きひ)」を実践することに対しては、多くの主流派キリスト教の聖書学者から「愛や許しの精神から外れた過度で厳格すぎる解釈である」と指摘されることが多い部分です。

クリスマスの放棄など:
記事の体験談に「クリスマスができなくて寂しかった」とあります。異教の風習を理由に祝祭日を厳格に禁じるのはエホバの証人の独自教理です。聖書そのものがクリスマスを直接禁じているわけではなく、新約聖書(ローマ14:5など)では、特定の日を重んじるかどうかは個人の良心に委ねられているという解釈が一般的です。

聖書についての質問
2026年05月01日 12:49:26

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“バプテスマの後にぶつかる問題に備える”で、バプテスマの後、会衆の人の態度がコロリと変わるけれど気にするな、という内容です。」
「バプテスマの前まではお客様で、バプテスマの後はブラック企業の新入社員だからね。中にはこんなはずじゃなかった、だまされたと嘆くおバカな人もいるのだろう。」

「1節に“サタンが支配する世界には問題が付きものです。イエスはその現実を踏まえて,「信仰を妨げるものが生じるのは仕方ありません」と言いました。(マタ 18:7)”とありますが、引照聖句の訳がヘンですよ。」
「JW英語訳では“ it is inevitable that stumbling blocks will come, (つまずきの石は避けられないが)なのに、日本語訳は”信仰を妨げるものが生じるのは仕方ありませんが,“となっている。”つまずきの石“という単語を使いたくないようだけど、この表現はこの部分で何度も出てくる重要表現。サタンのことを言っているわけではない。」

「3から6節は“仲間に傷つけられる時”です。 JWにはろくな人がいないようです。3節に“初めて集会に行った時のことを覚えていますか。エホバの証人の温かい愛に触れて,これは本物の宗教だと思ったかもしれま せん。”とあります。新人を熱烈歓迎するのは全てのカルト宗教の特徴ですよ。」
「執筆者は他の宗教のことを全く知らないんだよ。新しく来た人を熱烈歓迎するのはJWだけの美徳と思っている。」

「ブランカ姉妹の話です。“ある姉妹からとても嫌なことをされました。姉妹はほかの兄弟姉妹のことも悪く言っていました。エホバの証人はみんな優しくて仲良くしていると思っていたので,とてもショックでした。”とあります。これは通過儀礼というものですね。JWの嫌な面をうんざりするほど見ることによって一人前のJWになるわけです。」
「カルトの特徴は信者同士監視しあい、気に入らない信者の悪いうわさを流し、些細な悪行を密告し、他の信者の足を引っ張りあうことと、誰か教えてあげた方がいいね。」

「4節には“兄弟姉妹に傷つけられることは十分にあり得ます。そういう時に備えて何ができるでしょうか。エフェソス 4章32節のアドバイスの通りにすることを心掛けましょう。(読む。)”とあります。そこには“寛大に許し合いましょう。”とあります。傷つけられても許して終り、泣き寝入りというのがJW流の解決策です。」
「加害者よりも被害者に多くの責任を負わせるのがJWの不思議な倫理観。同じ宗教の信者に傷つけられるなんて、とんでもない宗教。愛のある宗教というのは単なる宣伝。さっさとやめよう、JW。」

「5節に“格言 19:11を読む。洞察力があれば誰かに傷つけられてもすぐに怒ることはない,と聖書は言っています。”とあります。引照聖句には“洞察力があればすぐに怒ることはない。過ちを見過ごす人は美しい。”とありますが、訳がヘンです。過ちを見過ごす人というのは無能で不注意で他人の過ちに気づかないボンクラですよ。」
「協会共同訳では“見識ある人は怒りを遅くし/背きの罪を赦すことがその人の誉れ。”で、後半の部分がかなり異なる。JWでは不正行為を見て見ぬふりをするのが美しいことなのでしょう。」

「5節にはリマ姉妹の話が出ていて、自分を傷つけた人と“一緒に伝道して,その人のことをよく知るようにもしています。”と言っていますが、ウソでしょう。」
「伝道すればすべて解決という組織の方針に沿った話なわけで、創作でしょうね。」

「6節には“みんなの良いところに注目するようにしましょう。(格言 10:12と比較。)”とあります。引照聖句には“愛は全ての違反を許す。”とありますが、これも訳がヘンです。」
「これは日本語訳の問題。JW英語訳ではlove covers over all transgressions(愛は全ての違反を覆い隠す)。元のヘブライ語の動詞の意味は“覆う、隠す、着せる”で、許すではない。」

「6節にはマーク兄弟の話が出ていて、“世の中の人がしていることと比べれば,兄弟姉妹の言動は全然気にするようなレベルではありません。”と言っていますが、ウソですよ。JWは他の人たちと基本的に同じです。JWは特別善良な人達と思わせたい組織のプロパガンダです。」
「児童性的虐待でたくさんの逮捕者を出している現実を完全に無視しているし、反省もない。この組織はダメ。」

「7から11節は“捨てたものに未練を感じる時”です。  7節に“エホバの証人になった時,サタンの世界から抜け出せてほっとしたはずです。”とあります。自分たち以外の世界を“サタンの世界”と呼ぶなんてカルトそのものです。」
「JWを長くやっていると、そういうことを気楽に言うようになり、その結果カルトに洗脳されたおかしな人と周りから評価されるようになる。変人の話など誰も聞かないよ。新しい信者を増やすのは難しいね。」

「7節では“例えば,給料が良くて一目置かれるような仕事を辞めた人がいます。聖書を学ぶようになって,友達を失った人もいます。良くない習慣を断ち切った人もいます。そうやって捨てたものに未練を感じてエホバから離れてしまうとしたら,本当に残念です。”とあります。バプテスマを受けたものの、犠牲ばかり大きくて何も得るものはないとJWを見限る人がけっこういるということですね。」
「捨てたものに未練を感じたからJWをやめるという分析は正しいのかな?JWという宗教が要求ばかりするくせに、楽園幻想以外信者に提供できるものがないからでしょう。成功した宗教は安心できる共同体を提供してきたけれど、JWはそれができない。JWはギスギスした宗教拡張員の集まりに過ぎない。」

「8節はアブラハムとサラの話です。“アブラハムとサラはエホバの命令に従って安全な都市ウルを離れ,天幕生活をしました。・・・でも,2人は過去を振り返るのではなく,将来に目を向けていました。”とあります。二人を見倣えということです。」
「アブラハムは神と直接コミュニケーションを取っていたよ。JWはニューヨークに居る老人から命令されるだけ。あまりにも状況が違いすぎる。それから、サラは家父長制の下では夫に従う以外の選択肢はない。アブラハムが行くと言ったら、嫌でも行くしかない。」

「9節はパウロの話です。“もしパウロが大変なことにばかり目を向けて昔と今を比べていたら,クリスチャンになったのは間違いだったと思ったかもしれません。でも,そんなことはありませんでした。パウロは今イエスに仕えられている栄誉と明るい未来に目を向け続けていました。”とあります。」
「パウロはイエスから直接話しかけられた。JWはニューヨークに居る老人から命令されるだけ。あまりにも状況が違いすぎる。」

「10節では“過去に手放したものと,クリスチャンになったからこそ手に入れられた素晴らしいものを比べてみてください。”と言っています。英文では“クリスチャンになった”ではなく、coming into the truth(真理に入った)です。」
「“真理を学ぶ”とか“真理に入る”というのはいかにもカルト的表現だから、“クリスチャンになった”に変えたのだろう。でもJWはクリスチャンではなくて、エホバの人。」

「10節はJWになったことで得られるものが列挙されています。“例えば,誰よりも高い地位にいるエホバとの友情があります。(格 3:32)愛情あふれる家族が世界中にいます。(マルコ 10:29,30を読む。)希望にあふれる未来があります。(イザ 65:21-23)”とありますが、ウソでしょう。そんなものがJWにありますか?」
「JWの幹部になればそうなのかもよ。世界のどこに行っても地元のJWが神のごとく歓迎し、こびへつらってくれるし、現金や高価な贈り物ももらえる。JWの幹部には、間もなく天の王国で支配者になると思い込んでいる人も多い。希望あふれる未来だよ。」

「11節はローズマリー姉妹の話です。“しばらくはクリスマスができなくて寂しかったです。・・・毎年,クリスマス以外の日に家族を家に呼んでプレゼントを渡して,感謝の気持ちを伝えるようにしています。”とあります。好きな日にプレゼントしているというのはJWが対外向けによく言う話ですね。プレゼントをいっぱいもらえそうでJWはうらやましいな。」
「クリスマスの日に同じことをしたらいいと思うよ。なぜ特定の日はダメで、それ以外の日はOKなのか理解できない。文句を言われたら、クリスマスの日とは気づきませんでした、たまたまです、といえばいい。」

「これはクリスマスはダメだという組織からの指令ですね。」
「アメリカなどではクリスマスを祝うJWはけっこういるらしい。家で密かに祝うのなら長老も黙認する。“愛は全ての違反を覆い隠す”わけだ。組織はそれはダメだ、やめさせろと、ここで間接的に言っている。」

「ローズマリー姉妹の次の話は“聖書を学ぶようになって,長い付き合いだった友達が離れていきました。そういう友達のことを思い出して切なくなることがありました。・・・いろんな姉妹を誘って一緒に伝道するようにしました。・・・かけがえのない大切な友達ができました。”というものです。JWこそ真の友だちと言いたいようです。」
「JWになると、それまでの人間関係が壊れることを認めている。それは周囲の人のせいじゃないでしょう。友人だけでなく家族とも関係が壊れるわけだけど、それは言わないね。家族関係を破壊するカルト宗教と思われたくないからだね。」

「JWの人間関係は統治体に盲目的に従っている時のみ成立する人間関係です。統治体の言うことはおかしいとでも言おうなら、危険人物として監視対象になります。」
「だからJWはカルトと言われる。」

「12から16節は“ほかの人がエホバから離れた時”です。  12節には“重大な過ちを犯して,会衆から除かれる人もいます。”とあります。」
「“排斥する”をやめて“除かれる”という表現に変えたんだよね。サタンの世界といいながら、JWでない人たちに受け入れてもらいやすくするための用語変更。神に選ばれた唯一の宗教というなら妥協せず、サタンの世界と徹底的に対決して欲しいね。」

「14節では“多くの弟子たちがイエスに従うのをやめてしまった時,ペテロはどうしたでしょうか。ヨハネ 6章66-68節には,ペテロが何と言ったかが書かれています。(読む。)”とあります。そこでは、ペテロは“主よ,私たちは誰の所に行けばよいのでしょう。あなたは永遠の命の言葉を持っています。”と言います。JWがよく使う聖句です。」
「でもJWは“永遠の命の言葉”を持っていないよ。持っているのはよく変わる怪しげな教義と外れてばかりの預言。そもそもイエスとJWは違う。」

「14節では“ほかの人がどんなことをするとしても,エホバが組織を通して教えてくれた真理の価値は変わりません。その真理を大切にしましょう。”とあります。まずJWの教義はエホバが教えてくれたものではないでしょう。」
「英文ではthe valuable truth you have found with the help of God’s organization.(神の組織の助けによって見出した貴重な真理)で、エホバは出てこない。翻訳者は頭の中に、神の組織=エホバという公式が出来上がっているね。」

「それから“真理”は信者が見出したもので、組織が教えたものではないと言っています。」
「JWの“真理”はよく変わるからね。信者が見出したものなので、変わることもあると言い訳できるようにするためでしょう。エホバが教えてくれたものを変えたらまずい。」

「14節でサーマル姉妹は“誰かが悪いことをしたとしても,会衆や組織全体が間違っているというわけではありません。”と、犯罪者の多いJWという組織を弁護しています。これもよく聞きますが、この弁護は全ての宗教や団体に適用可能ですよ。」
「JWは他の宗教をサタンの支配下と攻撃するけれど、そのような宗教が悪いことをしても、それは一部の人だけで、全体が悪いわけではありませんと言われれば、反論できないよ。せいぜいJWと同じですね、JWもそうなんです、同類ですね、としか言えなくなるよ。」

「15節は、母親が排斥されたエミリーの例です。“母がいなくて寂しいです。・・・私は独りぼっちじゃありません。優しい父がいますし,会衆の兄弟姉妹は本当の家族みたいです。”と言っています。JWは家族を破壊する危険なカルトということですね。」
「もし父親が熱心なJWなら子どものことなどかまっていられないでしょう。仕事に加え、JWの伝道、集会、雑用に追われる。家事なんかはどうするの?エミリーは悲惨な子ども時代を過ごすわけだ。JWが本当の家族みたいだなんてことはまずないよ。もしエミリーの会衆がそうなら極めてまれなケースだということ。」

「JWが年を取って、老人施設に入ると、JWの誰も訪ねて来てくれない、という嘆きはよく聞きます。家族みたいだなんてウソです。」
「JWは無給の宗教拡張員で、働けなくなったら忘れ去られる。」

「最後の17節はまとめです。バプテスマを受けたあと、失敗だったと思ってもJWをやめるなと言いたいようです。“エホバに助けてもらえば,どんな試練が立ちはだかっても,エホバとの絆が断ち切られることはありません。”とありますが、エホバは何もしてくれません。」
「JWの教義では、エホバは会衆の兄弟姉妹を通して助けてくれるんだよ。でもその兄弟姉妹の大半は役立たずで、結果としてエホバは何もしてくれないんだよ。さっさとJWをやめよう。」

エボバは気持ち悪い
2026年04月24日 14:17:19

エボバは気持ち悪い

エボバは気持ち悪い
2026年04月24日 14:08:00

エボバは気持ち悪い

聖書についての質問
2026年04月24日 12:28:07

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“バプテスマに向けて動き出しましょう”で、さっさとバプテスマを受けて、組織のために働け、という内容です。」
「不幸にもバプテスマを受けてしまったJWは次回は休んでいいね。年に1回は集会でバプテスマを受けるように圧力をかけなさい、という統治体の指示があるんだろうね。」

「1節で、“罪を許してもらい,エホバに喜ばれるためにはバプテスマが必要だ,ということも分かっているはずです。(使徒 2:38-40)”とありますから、バプテスマを受けないとエホバは怒って、エホバに滅ぼされるということですね。でも、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「英文ではto gain Jehovah’s approval(エホバの是認を得る)で、”喜ばれる”ではない。バプテスマを受けないと是認が得られないと脅している。」

「使徒2:38で“悔い改めなさい。そして一人一人,罪の許しのためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。”とペテロが言ったのですが、罪を許してもらうための必要条件としてバプテスマという儀式が必要だといっているわけではありませんよ。儀式そのものに重要な価値があるというのは単なる形式主義です。」
「使徒3章で、ペテロはソロモンの柱廊で説教しているけれど、3:19では“ですから,罪を消し去っていただくために,悔い改めて生き方を変えなさい。”と言っていて、バプテスマは出てこない。罪を許されるには悔い改めて生き方を変えることが求められているだけ。もともとバプテスマを受けないと罪が許されないという思想はないよ。バプテスマは悔い改めの象徴でしょう。」

「2から9節は“バプテスマをためらうのはどうしてか”です。  バプテスマを嫌がるJWの子どもが増えているということのようです。バプテスマをためらう5つの理由が取り上げられています。」
「JWがろくな宗教じゃないから、バプテスマを受けたくないだけでしょう。」

「2節には①“不安を感じてバプテスマをためらう人がいます。”とあります。具体的には“エホバに喜ばれるようなレベルにはいけない”、“家族や友達から反対されるのではないかと不安に感じる”です。」
「英文ではfear(怖れ)で、不安ではない。恐怖心がバプテスマを妨げていると言っている。それに対してどうするかというと、” そんな時は,次のような気持ちになれるようエホバにお願いしましょう。「エホバは私の側にいてくださる。私は恐れない。人が私に何を行えるだろう」。(詩 118:6)”とあるだけ。祈り以外の対処法は思いつかないようだ。」

「3節では②“まだ知識が足りないと思う人もいます。”とあります。これからはバプテスマを受けるのに知識なんか必要ないようです。“聖書の基本的な教えを理解し,罪を悔い改め,エホバに喜ばれる生き方をしたいと思っていますか。そうであれば,もうバプテスマを受けられるところまで来ています。(マル 12:30)”とあります。引照聖句はバプテスマとは無関係です。」
「これからは、3歳児でも神様の名前は何ですか?と聞かれて、“エホバ”と答えられたら、バプテスマを受けられるようになると思うよ。」

「4節は③“バプテスマを受けると失うものが大きい,と感じる人もいます。”です。キャンディスの話が出ています。“自分なりの生活を楽しんでいて,そういうものを手放したくありませんでした。”と言っています。バプテスマを受けると、生活の楽しみがなくなるようです。また“大きな罪を犯して会衆から除かれたらどうしよう,と思ってしまいます。”ともあります。排斥問題です。」
「JWの生活が不合理な禁止事項ばかりで何の楽しみもないことや排斥制度を知っている人ならバプテスマを受けないよ。キャンディスの話は創作だね。」

「5節はそういう人に向けて、“エホバとの絆にどれほどの価値があるかに目を向けるのは大切です。”と説教しています。そんなのに価値なんかないと多くの人は思っていますよ。」
「エホバとの絆があると、楽園でパンダと永遠に遊べるという楽園幻想を振りまくのかと思ったら、なぜかそれはしていないね。」

「かわりに、イエスの2つの例えを持ち出しています。“マタイ 13:44-46を読む。”とあります。天の王国についての例えです。“どちらの例えに出てくる人も,とても価値ある物を見つけると,それを買うために持ち物全てを売りました。あなたも良い知らせという素晴らしい宝を見つけました。バプテスマを受けるかどうか迷っているなら,この2つの例えについて考えてみてください。”とありますが、ヘンなことを言っていますね。バプテスマは全財産売り払ってもすべきといいたいのですか?」
「イエスの例えは“喜びのあまり,行って持ち物を全て売り,その野原を買います。”そして、もう一つは“行って持ち物全てを即座に売り,その真珠を買いました。”というもの。ポイントは“喜びのあまり”と“即座に”。全財産を売り払ったという犠牲を強調したいのではなく、そうさせた動機が重要。圧倒的にすばらしいものに出会ったとき、それを手に入れるためには喜んで即座に全財産を売り払ってでもそれを手に入れるでしょう、天の国とはそういうものだ、とイエスは言っている。JWとは無関係だね。」

「5節では、こう問いかけなさいとあります。“良い知らせがかけがえのないものだと本当に思っているだろうか。エホバとの絆,いつまでも生きられるという希望,家族のような仲間のことをどれほど大切に思っているだろうか。”というもので、バプテスマを嫌がっている人に罪悪感を覚えさせようという作戦ですね。」
「JWの教義とか希望とか仲間とか、全てニセモノ感がただようものでしょう。かけがえのないものとは程遠い。とにかくバプテスマを早く受けさせようという意志は伝わってくるね。」

「6節は④“心の状態”です。“心の状態が良くないと,良い知らせを聞いても成長できません。”とあります。イエスの種まく人の例えの話です。ルカ8:15に“良い土の上のもの,これは非常に良い心で神の言葉を聞いた後,それをしっかり保ち,耐え忍んで実を結ぶ人です。”とあります。良い心じゃない人はどうすればいいかというと、“エホバに助けてもらえば,「新たな心」,エホバに喜んで従いたいと思う心を持つことができます。”と無責任なことを言っています。」
「イエスの例えにはそんなことは含まれていない。150年間伝道して、JWになった人は全人口のわずか0.1%くらい。この事実が示しているのは、“エホバに喜んで従いたいと思う心”を持てるように、エホバは全く助けてくれないということだよ。」

「7節は⑤“周りの影響を受けてバプテスマをためらってしまう人がいます。”です。周囲の人の影響力が大きいということです。“例えば,性に関してはオープンな見方を持つように,と勧める先生がいるかもしれません。”とありますが、英文ではそんなこと書かれていませんし、そんなことを言う教師には親から苦情が殺到します。」
「英文ではadvise students to “keep an open mind” about moral standards(道徳的基準に関して”偏見を持たないでください”と生徒にアドバイスする)とある。”性に対してオープンな見方を持つ”とは書かれていない。」

「教師が言うとすれば、女性蔑視とか性的少数者にたいする差別や偏見とか、異教の起源をもつものはダメだとか、カルトならではの道徳的基準を盲目的に正しいと思うなということでしょう。」
「それを性の問題にしてしまった翻訳者は、相当性の悩みを抱えているね。道徳といえば性の問題が真っ先に頭に浮かぶのだろう。」

「8節に“エホバの証人の親が,子供がバプテスマを目指せるよう十分サポートできていないという場合もあります。”とありますが、これも英文をゆがめていますね。」
「英文はsome Witness parents hold their children back from baptism.(エホバの証人の親の中には子供にバプテスマを受けさせない人がいる)だけど、日本のJWに子どもにバプテスマを受けさせないJWがいるという事実を知られたくなかったのだろう。」

「8節では“若い皆さん,バプテスマを受けたいのに,親があまり応援してくれていないと感じますか。”とあります。そうであれば大歓迎ですよ。なんてよい親なのでしょう。」
「自分の宗教を子どもに無理やり押し付ける行為はこれから児童虐待とされて、そういう親に対する非難は強くなるはず。子どもにバプテスマを強要するJWはこれから減っていくかも。子どもにとってはよいことだ。」

「8節には“エホバと友達になるのに年齢は関係ありません。(格 20:11)”とあります。バプテスマを受けることはエホバと友達になることですか?JWの幼児化がよくわかります。」
「3歳児がバプテスマを受ける日が近づいているね。」

「10から15節は“終わりが近いことを意識する”です。  終わりが近いから早くバプテスマを受けろ、ということです。もはや終わりが近いなんて、誰も本気にしていません。」
「でも終末論はJWという宗教の根底をなすものだから、終わりが近いと言い続けるよ。終わりがまだまだ来ないのであれば、だれもJW活動などまじめにしなくなる。」

「10節では“「用意をしていなさい。思ってもいない時刻に人の子は来るからです」。(ルカ 12:40)”、11節では“ヤコブは,明日がどうなるかは誰にも分からないと言っています。もしかすると,「正しいことを……行う」チャンスは今日が最後かもしれません。”とバプテスマを急がせています。」
「これらは、みなバプテスマを受けていない人は滅ぼされるという考えを前提としている。でも、JWのオモテの教義ではそんなことは言っていないよ。もっとはっきりバプテスマを受けてない人は間もなく火で焼き殺されると言えばいいのに。」

「12節で“イエスが話したブドウ園の例えを考えて,今バプテスマを受けても後で受けても,そんなに変わりはないと思う人もいるかもしれません。確かに,ブドウ園で1時間しか働かなかった人たちも,一日中働いた人たちと同じ賃金を受け取りました。”とあります。マタイ20章にある例えです。」
「この例えでは、少ししか働かなかった人もたくさん働いた人と同じ賃金をもらい、たくさん働いた人が文句を言う。長年JWをやっている人はこの例えのたくさん働いた人同じで、最近の教義変更で、大患難になってからJWになってもなぜ長年苦労した自分たちと同じように楽園に行けるのか、と本部に文句を言っているのだろう。」

「それに対する言い訳として、12節に“でも1時間だけ働いた人たちは,楽をしたかったわけではありません。「誰も雇ってくれなかった」と言っています。それで声を掛けてもらえるとすぐに,働き始めました。”とあります。」
「少ししか働かない人でもたくさん働いた人と同じ賃金をもらえた理由として、すぐに応じたからという解釈は昔からあったね。働く意欲が等しいから同じ賃金というわけだけど、JWもそういう解釈だとは知らなかった。」

「この例えの解釈としてはそれは違いますよ。この例えの焦点はブドウ園の主人です。」
「マタイ20:15で、ブドウ園の主人は“私は自分の物で望むことをしてもいいのではありませんか。それとも,私が惜しみなく与えるので,あなたはねたむのですか。”といっている。この主人は驚くべき寛大さと憐みの持主だけど、神も同じだと言っている。」

「でもJWの神様は違います。伝道、集会、建設やその他の雑用を一生懸命死ぬまでやった人にだけご褒美を与えるという寛大さと憐みのない神様です。この例えは多くのJWは理解できないし、納得のいかないものです。」
「少し働いた人は少しの賃金、たくさん働いた人は多くの賃金。それがこの世界のルールだけど、そんなルールだと、働けない人や能力のない人はどうなるの?神の王国のルールは違うとイエスは言っている。イエスはアメリカの資本主義とは無縁だ。」

「すべての人は平等にご褒美をもらうということですか?」
「そういう平等原理を言いたいのではなくて、神の王国ではただただ神の恵みや慈しみに基づいてご褒美が与えられるということ。」

「13節では“バプテスマを先延ばしにして,ぎりぎりで変わればいいと思う人もいます。でも,そううまくいくでしょうか。イエスは弟子たちに,「ロトの妻のことを思い出しなさい」と言いました。(ルカ 17:31-35)”と、先延ばししている人を脅しています。ルカ17章の話はバプテスマの話ではなく、終わりの日の話ですよ。」
「とにかくバプテスマを早く受けさせたくて仕方ないようだけど、これはバプテスマの数を増やして、組織が成長していることを示したいだけ。組織にとってバプテスマ数は企業でいえ営業利益の数字のようなもの。」

「14節では“終わりの時代についての預言が実現しているのを,私たちは毎日のように目にしています。たとえ身近でそういうことが起きていなくても,世界の様子を見ると,バプテスマをためらっている時間はもうないように思えます。”と、滅茶苦茶なことを言っています。終りの日の預言が実現している?何を根拠に?毎日のように見ている?デタラメを言うな!」
「理屈などどうでもよくて、ひたすら脅してバプテスマを受けさせようということのようだね。終りの預言が毎日実現しているというなら、終りが迫っているから早くバプテスマを受けないと、ハルマゲドンで滅ぼされる、とはっきり書けばいいのに、そうは書かないわけで、本当はそんな確信はないよ。何も考えていないあわて者をだまそうとしているだけ。」

「14節に“1世紀にペテロは仲間のクリスチャンに,「全てのものの終わりが近づいてい」るので「目を覚まして」いるように,と言いました。(ペテ一 4:7,脚注)「終わり」とは,ユダヤ人の体制の終わりのことだったようです。”とありますが、違いますよ。“全てのものの終わり”であって、ユダヤ人の体制の終わりのことではありません。」
「“全てのものの終わりが近づいています。”と書かれてから、約1900年たったからね。1世紀に起きたことにしないと、外れた預言となってしまうからでしょう。ペテロ一はエルサレムの破壊から相当たった2世紀以降に書かれたとされる。」

「最後の16、17節は“絶好のタイミングは今”です。  使徒8章にあるエチオピアの宦官がすぐにバプテスマを受けた話を持ち出して、今すぐバプテスマを受けるよう圧力をかけています。」
「こんな記事に惑わされないで、若い人はバプテスマを受けるのはなるべく先延ばしして、家を出られるようになったら、さっさと家を出て、JWとサヨナラしよう。多くの元JWはバプテスマを受けるという決断は人生最悪の決断でした、と言っているよ。」

名無し
2026年04月22日 01:14:20

もう塔の上のおじいちゃんたち、多数決もやってないと思います
宗教コンサルの言いなりで
一般的なユルイ宗教へと急ハンドルを切り始めて
なんとかこの宗教の生き残りを賭けて
だから
これまで頑なに守ってきたJWが他のキリスト教とは明らかに異なるというJWたる教理も
あっけらかんと “無かったことにする“ という荒技を繰り出せるのです
聖書をよーく読んで
よーくよーく祈ったら別に守る必要のないどうでも良いルールだったと
ふざけた理由でね

ジョエル
2026年04月21日 20:52:21

>誰でも土壇場で悔い改められるなら、誰でも今すぐバプテスマを受けられる


ノアが何年もかけて箱舟を作ったことがバプテスマに似ているという割には、それまで何もしなくても大雨が降りだすのを見てから「あ、これヤバそう」と悔い改めればOK、に緩和修正されたとか

J2時代は雨が降ってからでは遅いと人が溺れ死ぬ絵でさんざん脅されていたような


ソドムとゴモラの時のアブラハムみたいに統治体が総出で陳情して、緩和修正していいかどうかのご神託を伺える儀式でもあるんでしょうかね

ただのおじいちゃんたちの多数決だとおもいますが

投稿 in USA
2026年04月20日 08:47:28

アメリカの掲示板にあった投稿を紹介します。

***
彼らは今、誰にでもバプテスマを施している。 They’re just baptizing anybody now.

親戚がバプテスマを受けます。対面での集会にも行かず(ほとんどはZoom)、伝道活動にも出かけません。私の知る限り、集会でコメントもしません。

当初、上記の点を改善するために来年の別の大会まで待つように言われましたが、突然、どこからともなくゴーサインが出たのです。

巡回監督が、バプテスマを受けさせるように指示したのではないかと思います。

誰でもバプテスマを受けられるようにしているのです。

私の時代(かなり昔です)は、野外奉仕は月に最低平均10時間は必要でした。非公式な奉仕や手紙などではなく、毎週末に戸別訪問をして、誰の目にも触れるようにしなければなりませんでした。また、すべての集会で発言し、定期的に出席する必要がありました。欠席してしまった場合は、もう少し会議への出席率を高める必要があると言われました。

誰でもバプテスマを受けられるというのは実に素晴らしいニュースです。ただ一つ残念なのは、教義など何も知らない人たちは目覚めにくいことです。復活した愛する人たちと楽園で過ごせると約束されている限り、彼らは組織に留まり、JWのプロパガンダを鵜呑みにするのです。

私は「バプテスマ志願者」と聖書について何度も話しましたが、彼らは基本的なことすら理解していません。彼らは、楽園に行くためには集会に出席しなければならないということ以外、何も知りません。

統治体は、自分たちにのみ従うようにプログラムされた従順なロボットの軍隊を生産したことを誇りに思うでしょう。
***

コメントを紹介します。

#1 組織が必死になっているのが本当に嬉しい。

「静かに絶望が増す」というのが、まさに私が感じる雰囲気です。

#2 これは、組織の全盛期が過ぎ去ったことを示すもう 1 つの兆候です。

他にも兆候があります。その一つが伝道です。それは不十分で、哀れで、弱々しく、臆病で、不明瞭です。JWの活動が、滅びようとしている世界全体への公正で公平な警告となることは到底不可能です。彼らが主張するように、マタイによる福音書 24章14節を成就しているはずがありません。伝道の全盛期だった頃でさえ、その力強さと明確さは十分ではありませんでしたが、今では全くの冗談です。

#3 現在行われているバプテスマはすべて、ビジネス界で言うところの「売上の前倒し」です。彼らは成長を見せつけることに躍起になっているため、次のような行動に出ています。

・ますます幼い子供たちにバプテスマを施しています。
・誰でもバプテスマを受けられるようにしています。バプテスマを受けることは、JWであることが何を意味するのかを理解することと、せいぜいわずかな関係しかありません。
・バプテスマ希望者が伝道活動に従事しているという証拠さえ要求しません。伝道はチェックするだけです。

今日、バプテスマを受けることは、実際には何の意味もありません。

#4 ええ、本当に必死です!障害があって特別な支援が必要な親戚がいます。彼女はバプテスマを受けることができました。彼女の精神年齢は6歳くらいです!

彼女の両親は、自分たちが死んだら彼女がこの世でどうなるのかと心配しているのでしょう。JWたちが彼女を大切に思い、受け入れてくれることを願っています。

恐らく最終的には州の保護下に置かれることになるでしょう。

#5 誰でも土壇場で悔い改められるなら、誰でも今すぐバプテスマを受けられる、と彼らは考えているでしょう。それに、時間を数える必要もありません。

神はエホバであり、その御子イエスは私たちの罪のために死んだと知っていれば、おそらくそれで十分でしょう。そして、地上は楽園となり、地獄の火はありません。多くの人は表面的な知識しか持っていません。そして、彼らにとってはそれで十分です。

#6 彼らは、私の会衆にいた、麻薬密売に関わっていた、年老いてはいるがいかがわしい男にバプテスマを施し、後に援助奉仕者にしました。彼は長年妻に不貞を働いていましたが、その後間もなく亡くなりました。

#7 私の会衆でバプテスマを受けたのは、6歳児並みの知能を持つ26歳の自閉症の男性です。彼は読み書きもできず、意見も言えず、集会では冗談ばかり言っています。バプテスマとは何かを表面的にでも理解しているかどうか、私には非常に疑わしいです。

#8 排斥された人の復帰が突然緩和されたのは納得できます。

#9 私の所属する会衆は「誰でも」バプテスマを授けるわけではありませんが、何十年もの間、明らかな人種差別主義者にバプテスマに受けさせてきました。(ここの「ボス」長老は、母親が文字通りドイツ出身で15歳で彼を産んだ、とんでもないいじめっ子です。ええと、彼の父親はナチスで、女性嫌いで、他の文化に不快感を抱いています。)

それに、刑務所から出たばかりの男が集会で祈りを捧げていますし、a) バプテスマを受けたばかりで、b) 血の教義/立場に公然と反対していた男を援助奉仕者に任命しました。とても奇妙です。何でもありなのかもしれませんね…。

#10 両親の会衆に参加していたある年配の女性がバプテスマを受けました。彼女はアメリカ国旗がプリントされたTシャツを着、会衆を「教会」と呼んでいました。彼女はバプテスマが何なのか全く分かっていませんでした。

聖書についての質問
2026年04月17日 13:24:19

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“バプテスマについてよく理解する”で、JWのバプテスマを説明したという内容です。」
「年1回の恒例行事のような記事。JWのバプテスマを受けないと、まもなく滅ぼされるぞ!さっさとバプテスマを受けろ、とはっきり書けばわかりやすいのに、そうは書けないようで、あいまいな書き方をしているのがダメだね。」

「今では9歳や10歳の子どもがバプテスマを受けています。バプテスマの意味なんか何も分かっていなくても、バプテスマを受けられるわけですから、バプテスマについて理屈を並べるとかえって、自分たちの首を絞めることになりますよ。」
「確かにJWはバプテスマを受けることについて要求事項が多すぎる。でも誰も本気にしていない。建前と現実が離れすぎている。」

「1節に“「キリストに関する初歩の教理」には「さまざまなバプテスマ……についての教え」が含まれる,とパウロは書きました。(ヘブ 6:1,2)それで,バプテスマは基本的な教えです。”とあります。ヘブライ書からの引用ですが、これは引用しない方がいいですよ。本来バプテスマとは関係ないですから。」
「そこには、基本的な教えとして“むなしい行いを悔い改めること,神への信仰,さまざまなバプテスマ,手を置くこと,死者の復活,永遠の裁きについての教えです。”とある。これがキリスト教の基本的な教え?イエスについて何も触れられていないのに、“手を置くこと”など1世紀のユダヤ教の要素が含まれていてヘンだよ。」

「“さまざまなバプテスマ”というのもヘンですよ。色々なバプテスマがあるということですよ。JWは全くこれを無視しています。」
「ここで使われているギリシャ語はbaptismosで、baptismaではない。最近の英語の翻訳では、バプテスマと訳さずに、cleansing rites(清めの儀式)、washings(洗い)と訳している。」

「ヘブライ9:10に“食べ物や飲み物やさまざまな洗いの儀式に関連したものにすぎません。”とありますが、“洗いの儀式”と訳されているのがbaptismosです。この文脈ではJWもバプテスマとは訳せませんからね。ヘブライ6:2も” さまざまな洗いの儀式”と訳すべきですよ。」
「この程度のことも理解していないのがJW。ヘブライ6:1,2はバプテスマと関係ない聖句。」

「3から6節は“バプテスマの意味”です。  タテマエの部分ですですが、JWならでは味つけがあります。3節に、バプテスマを受けることで“エホバの望むことをエホバの組織と共に行いたい,と祈りの中でエホバに伝えた。”とあります。JWのバプテスマを受けることはJWの入会儀式ということがよくわかります。」
「聖書には組織という言葉は一度も出てこないけれど、JWにとって組織は重要な単語。ニューヨークに本部のある組織のために生き、組織のために死ぬのがJWだね。」

「5節に“ペテロ第一 3:18-21を読む。私たちがバプテスマを受けるためにすることは,ノアが箱船を造るためにしたことに似ています。”とありますが、違いますよ。」
「引照聖句には“その時代,神が辛抱して待っていた間,箱船が建造され,それに乗ったわずか8人の人が水の中を通って救われました。これに相当するものであるバプテスマ(肉体の汚れを除くことではなく,健全な良心を神に願い求めること)により,今皆さんはイエス・キリストの復活を通して救われています。”とある。バプテスマを受けるのに似ているのは、箱舟の建造ではなく、“水の中を通って”来たこと。」

「6節には“バプテスマを受ける人は,そのようにして永遠に生きる見込みを持てるようになるという意味で「救われています」。”とあります。要するに、バプテスマを受けないと、永遠に生きる見込みは持てないよ、と言いたいわけですね。」
「本当は、永遠に生きたければ、JWのバプテスマを受けなくてはなりませんと言いたいところだけど、聖書的根拠はないから言えない。ルカ23章に出てくるイエスの隣で処刑された男にイエスは“私と共にパラダイスにいる。”と言っている。JWみたいに、まず勉強して、集会に行って、伝道して、バプテスマを受けたら、パラダイスにいるかもしれない、とは言っていない。」

「7から10節は“クリスチャンのバプテスマとはどういうものか”です。  ここで言うクリスチャンとはJWのことです。クリスチャンを称するのは信者獲得に有利だからですね。エホバ教では誰も信者になりません。7節に“聖書によると,バプテスマは全身を完全に水に沈めることです。”とありますが、引照聖句はありません。ウソでしょう。」
「聖書のどこにもそんなことは書かれていないのに、そう断言するというのは、JWのバプテスマがそういう形式だからでしょう。初期のキリスト教の文献によると、水の中に沈められるか、水の中で跪いて頭に水をかけられるというのが最も古い形式のようだね。12世紀以降西ヨーロッパでは水に浸かる形式は放棄されていったけれど、再洗礼派などが現れて水に浸かる形式が復活してくる。東方教会では水に浸かるのが通常の形式。」

「8節では“聖書によると,私たちは「口で人々に伝えることによって」,つまり信仰を表明することによって「救われます」。(ロマ 10:9,10。注釈「人々に伝え」の項目を参照。)”とありますが、“口で人々に伝えることによって”は誤訳です。」
「引照聖句には“人は,心で信仰を抱くことによって正しいと見なされ,口で人々に伝えることによって救われます。”とあり、伝道することが救われるための必要条件かのようだけど、JW英語訳は one makes public declaration(公に宣言する)。” 人々に伝える”は日本語翻訳者の間違い。」

「8節には、バプテスマを受ける人に対する2つの質問が出ています。①“あなたは自分の罪を悔い改めてエホバに献身し,エホバがイエス・キリストによって救ってくださることを信じていますか。”と②“あなたは,バプテスマを受けることによって自分がエホバの組織と共に働くエホバの証人になる,ということを理解していますか。”です。問題は②ですね。8節には“神に献身した人たちは,エホバの組織が出す指示に従い,仲間のクリスチャンと一緒に神に仕えます。1世紀の弟子たちもそうしました。(使徒 2:38-42を読む。)”と、組織に盲目的に従うことが求められています。」
「JWがエホバの組織という根拠はないでしょう。自分たちが勝手にそう言っているだけ。神に献身したのに、いつのまにかニューヨークにある本部の人間の命令に従わなくてはならないという立場になるのがJWのバプテスマなんだね。」

「“1世紀の弟子たちもそうしました。”とありますが、引照聖句には組織に従うなんて書かれていません。歴史の捏造です。」
「1世紀には統治体は存在しないし、上からの命令に盲目的に従うのがイエスの教えだなんて誰も思っていないよ。JWは聖書も変えるし、歴史も変える。」

「8節の下に、バプテスマを受ける人たちが立っているという写真があるのですが、小学生はいません。小学生がバプテスマを受けるのは隠したいようですね。」
「ものみの塔はJWのプロパガンダ雑誌だからね。書かれていることと実態は違うよ。」

「10節に“以前,別の宗教でバプテスマを受けた人もいるかもしれません。それでも,エホバの証人になるためには改めてバプテスマを受ける必要があります。”とあります。その理由は“以前バプテスマを受けた時は,エホバとイエスについて正しく理解していなかったからです。”とあります。よく理解していないときのバプテスマは無効ということですか?」
「他のキリスト教はダメということでしょう。救われるためにはJWのバプテスマが必要という立場なんだよ。」

「子どもの時、JWのバプテスマを受けたけれど、あの時は9歳でエホバとイエスについて何も理解していなかったから、無効だ、自分はJWではない、と主張したらどうなるんですか?」
「それは極めてまともな主張だけれど、JWはそれが通用するまともな組織ではないね。」

「11から14節は“父と子と聖なる力の名によって”です。  マタイ28:19の“父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し”の解説です。イエスが本当にそんなことを言ったのですか?マタイによる創作じゃないですか?」
「父と子と聖霊の名によって、というのはいかにもイエスの後の時代の思想のように思えるね。その前に“全ての国の人々を弟子としなさい。”とイエスは言ったことになっているけれど、使徒たちの活動をみると、異邦人への伝道にかなりの抵抗があったことがわかる。本当にイエスが全ての国の人を弟子としなさいと言ったとしたら、弟子たちはイエスに従っていないことになるよ。」

「12節は“父の名によって。”で、“祈る時も,ほかの人にエホバについて話す時も,エホバという名前を自由に,でも敬意を込めて使います。”とあります。イエスは父と呼んでいて、エホバとは呼んでいません。」
「聖書の神の名前はエホバではないのだけれど、そのことは全く無視だね。」

「13節は“子の名によって。”で、イエスのことを色々書いています。“「会衆……の頭」イエスを敬います。それで,兄弟姉妹を世話し,教え導く責任を与えられている人たちに喜んで協力します。”とあるのですが、相当元の文を変えています。」
「元の文はWe respect Jesus as the “head of the congregation,” so we gladly submit to those whom he entrusts to take the lead and to care for his followers.(私たちはイエスを「会衆の頭」として敬っているので,イエスから指導の任を託され,兄弟姉妹たちを世話する人たちに喜んで服従します。)で、JWの役職者は” イエスから指導の任を託され”の部分が省略されている。それから”協力”ではなく”服従”だよ。カルト的でいい文章だけど、翻訳者はこれはまずいと思って変えたのだろう。」

「統治体はイエスから任命されたと言いたいわけですが、そこまで書くとウソがミエミエなので、あいまいな書き方をしているわけですね。」
「それをさらにカルト色を薄めたのが日本語訳。でも求められているのは協力ではなく服従ということはちゃんと訳して欲しいね。」

「14節は“聖なる力の名によって。”で、聖霊のことです。聖霊は“聖なる力とは神が送り出す力だと認めています。意思を持っているとか,三位一体の一部だなどとは 考えていません。”とあります。それなら、なぜマタイ28:19に父や子とあたかも同等なものかのように出てくるのかは説明がありません。」
「不都合な点は無視するのがJWでしょう。聖霊の名によってバプテスマを受けるとはどういうことか説明されていないね。」

「14節には“聖書と聖書の預言が聖なる力に導かれて書かれたことも認めています。それで,聖書をいつも読み,聖書の教えに従います。”とありますから、聖書と聖書の預言なるものを信じることが“聖なる力の名によって”の意味と言いたいようですよ。」
「JWは幾つかの聖句を適当に拾い集め、つなげて、聖書の預言なるものをでっちあげるけれど、あれは聖書の預言じゃないよ。」

「14節の下に“天に行くよう選ばれた人たちが受けるバプテスマ”という記事が出ています。これは珍しい記事ですよ。」
「“聖なる力によるバプテスマ”、“キリストへのバプテスマ”と“キリストの死へのバプテスマ”の3種類のバプテスマを受けると書いてあるけど、144000人だけが天に行くという教義自体が非聖書的なのに、それらの人がさらに特別なバプテスマを受けるというのも非聖書的でしょう。記念式で飲み食いする人がこれ以上増えないようにするための工夫かも。」

「最後の15節では“次の記事では,バプテスマに向けてどんなことができるかを考えます。”とあります。でも、このいいかげんな記事を読んで、バプテスマを受けようと思う人はほとんどいないですよ。」
「バプテスマを受けるよう圧力を受けている人は今週と来週は休んだ方がいいよ。そしてそのままJWをやめよう。」

聖書についての質問
2026年04月10日 12:56:12

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの証人ではない家族に温かい心で寄り添う”で、まだ信者でない家族をJWにするよう努力しなさい、という迷惑な内容です。」
「英文では“家族”とも“寄り添う”とも言っていない。題名はHow to Help Our Unbelieving Relatives(未信者の親族を助ける方法)で、信者でない親族を助けてくれるそうだよ。今までJWという宗教が家族関係を破壊してきたことに全く触れていないのはおかしいね。」

「それなりに幸せに暮らしている人を言葉巧みに誘導して、JWという統治体の奴隷にすることを“助ける”とは、翻訳者も訳せなかったのでしょう。」
「でも寄り添うは意味不明。題名は“エホバの証人ではない親族をいかに改宗させるか”とわかりやすいものにして欲しかったね。」

「1節でマルコ5:19が引用されていて、” 親族のもとに帰り,エホバがしてくださった全てのこと……について知らせなさい。”とあるのですが、ここは親族じゃなくて家族じゃないですか?」
「元のギリシャ語は、家とか家族という意味。例えば、マタイ9:7で“男性は起き上がり,家に戻っていった。”と訳されているように、ほとんどの場合、家という意味で使われている。親族は意味を広げすぎ。」

「4から6節は“心から思いやる”です。  JWでなくても思いやりを示せば、JWになるかもしれないという甘い考えのようです。4と5節はイエスがイスラエルの人を思いやっていたとあります。それに倣えということですね。5節には“私たちもイエスと同じような温かい気持ちを持ちたいものです。そうすれば家族や親族を助けたいという意欲が湧いてきます。”とあります。迷惑ですね。」
「JWでない家族から見れば、JWの家族を危険なカルトから助け出したいと思っているよ。JWは自分たちがどういう立場か、全くわかっていないね。」

「6節では“ガラテア 6:9を読む。家族がなかなか良い知らせに興味を持ってくれないとしても,焦らずに「立派なことを行い続けましょう」。”とあります。しつこく改宗を迫れ、と言っています。」
「ここでの立派なことには家族へ改宗を迫ることは含んでいないよ。ガラテア6:9は“それで,諦めずに立派なことを行い続けましょう。諦めないなら,やがて刈り取ることになります。”とあるけれど、誤訳でしょう。」

「協会共同訳では“たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。”ですね。“諦めず”はないですね。」
「JWが“諦めずに”と訳しているギリシャ語の意味は、“疲れる、弱る”という意味で、直訳すれば、弱ることなく善をなせ。“諦めず”はJW向けの訳だね。JW訳でも、同じ単語が使われているエフェソス3:13を“皆さんのために私が苦難を味わっているからといって,落胆しないでください。”と訳している。諦めないでください、とは訳せなかったようだ。」

「7から10節は“否定的な言動の裏にある気持ちをくみ取る”です。  3つのアドバイスが書かれています。8節は①“否定的な態度の背後にある理由を考える。”で、“親族は私たちのことを宗教にのめり込んでいると考えているのかもしれません。もしそう思われているなら,私たちが決して狂信的ではないことを行動で示していくことが大切です。”とあります。それは難しいですね。実際、狂信的なんですから。」
「150年間、終わりが間もなく来ると言っている終末カルトを信じているだけで、ダメでしょう。輸血をすれば助かるのに、聖書が禁じていると言って輸血を拒否して死を選ぶことを狂信的としか言いようがないよ。」

「9節は②“行動で分かってもらう。”で、“妻は予定を調整し,夫と過ごす時間を増やすことができます。例えば,夫が留守の時や,1人で何かをしている時などに合わせて伝道に出るようにします。”とあります。これは、夫が家にいるので伝道は休みます、と言っていいということですか?」
「そういうことでしょう。伝道なんか誰も真剣にやっていないでしょう。でも、集会の参加については何も言っていないので、夫が反対しても集会には来いということだね。結局夫の反対は変わらないでしょう。」

「10節は③“批判されてもいちいち気にしない。”で、“私たちも,批判されてもいちいち言い返す必要はありません。私たち自身を見て,良識があり暮らしを楽しんでいる人たちだと分かってもらえるようにしましょう。”とありますが、これも難しいですね。JWは良識にかけた不幸な人ですから。」
「宗教優先で、話すことと言えばエホバがどうしたこうしで、あまり働かず、子どもに自分の宗教を無理やり押し付け、自分たちの主張は声高に言うけれど、他人の意見は聞かない。とても良識があるとは思えないね。JWがカートの横でぼ~と立っているのを見て、暮らしを楽しんでいる人とは見えないよ。」

「11、12節は“希望を捨てずに助け続ける”です。  12節で“私たちは最近,エホバがどれほど憐れみ深い神か,よく理解できるようになりました。大患難が始まってからも,エホバの側に付く人がいる可能性があります。私たちの親族にも,間違った宗教が滅びるのを見て,私たちから聞いていたことを思い出してエホバに仕えるようになる人がいるかもしれません。”と、最近の教義変更について触れています。」
「大患難が始まってから、JWに改宗しても、楽園に行けるというのが今の教義。今からJWになる必要は全くないけれど、大患難が始まったら急いでJWになりなさいと、親族に説明するわけだね。」

「12節では“今のうちから親族のためにできることがあります。もし親族がつらい目に遭っているなら,寄り添って力になってあげましょう。”とあります。将来のJWを確保するために、親族に親切にしなさいという指示です。」
「JWには純粋な愛や親切はない。JWの示す愛や親切は勧誘活動の手段にすぎないことをJWの周囲の人は理解しよう。」

「13から19節は“大切に思っていることが伝わるようにする”です。  3つの指示が出ています。14節は①“こまめに連絡を取る。”で、“例えば,旅行先や友達との写真を添えてメッセージを送れます。ちょっとしたプレゼントをしたり,手紙を送ったりする”とあります。」
「そういうことをJWが突然してきたら、何かウラがあると、警戒すべきということだ。」

「15節はアンナ姉妹の話です。“親戚に会いにいった時は,普段の生活について話すようにしています。うちにも呼んで友達を紹介しています。そうしているうちに,親戚も私の友達と仲良くなりました。私が楽しそうにしているのを見て安心しているみたいです。”とありますが、日本ではJWが親戚に会いに行ったり、親戚を招いたりなんかしませんよ。」
「もしJWの親戚が会いたいとか家に来て欲しいと言ったら、何かウラがあると、警戒すべきということ。」

「この体験談はインパクトがありません。もっとすごい体験談をなぜ用意しなかったのか不思議です。」
「アンナ姉妹は親戚を積極的に食事に招待し、JWの友人たちと一緒に楽しく過ごしました。そのおかげで、アンナ姉妹の親戚全員がバプテスマを受け、今では開拓奉仕を楽しんでいます。というような話が欲しかったね。」

「16節は②“様子を気に掛ける。”で、17節に具体例が出ています。“例えば,親族に子供が生まれた時は,プレゼントを送ってお祝いの気持ちを伝えられます。大切な人を亡くした時は,慰めたり,カードを送ったり,いろんな用事を代わりにやってあげたりできます。”とあります。親戚の子どもの誕生祝いはOKということです。親戚のお葬式の手伝いもOKということです。親戚付き合いが多少はましになるということですね。」
「自分の子供の誕生日を祝うことはダメだけど、親戚の子どもの誕生は祝ってもいいわけね。親戚付き合いが重要な国で、親戚の誕生祝もしない、葬式も出ないとなれば、付き合いの悪い異様な宗教と見なされるので、それくらいはしなさいという指示なんでしょう。」

「17節の下に、“結婚式や葬式に出席してもいいだろうか”という囲み記事があります。4つの考慮すべきことが出ています。一番目は“宗教的な儀式や慣習が含まれている式でしょうか。それとも社交的な場にすぎないでしょうか。”でして、非宗教的だったらよいみたいです。」
「結婚式でも葬式でも出たい人は出ればいいということだよ。文句を言われたら、あれは社交の場にすぎません、と言えばいい。あるいは、英文では社交の場ではなくa secular event(世俗的行事)とあるので、あれは単なる世俗的な行事にすぎませんよ、といえば問題ないということだね。」

「会衆内の誰が結婚式や葬式に出たなんて、長老は知りませんよ。黙っていれば、よいだけじゃないですか?」
「それで、JWはお互い監視しあい、知ったことを長老に密告するわけだ。カルトはそういうもの。」

「18節は③“会衆の兄弟姉妹を紹介する。”で、“例えば,集会や食事に誘ったりして,兄弟姉妹に実際に会ってもらえます。エホバの証人がごく普通のきちんとした人たちだと分かってもらえるかもしれません。”とありますが、集会に誘っても無理でしょう。」
「JWは自分たちを“普通のきちんとした人たち”と見られたがっていることがよくわかる。JWは見た目重視だよね。」

「19節は“ペテロ第一 3:15を読む。”とあるのですが、このJW訳は問題ですね。」
「そこには“心の中で主キリストを神聖な方としてください。”とあるけれど、協会共同訳では“心の中でキリストを主と崇めなさい。”だね。そういう訳はエホバ教には不都合だね。」

「ペテロ一3:12に“エホバは正しい人に目を留め,その人たちの祈願に耳を傾ける。しかし,エホバは悪を行う人に厳しい顔を向ける。”とJW訳ではなっていますが、本当はエホバではなく“主”です。それを受けて3:15で“心の中でキリストを主と崇めなさい。”となるわけです。」
「新約の“主”をエホバに勝手に変えるJWも、3;15をキリストをエホバとして崇めなさいとはできないので、そこは主のままで、へんな訳にしている。JWの訳はひどいね。」

「最後の20、21が“諦めないでください”です。  イエスの弟ヤコブが取り上げられています。“ヤコブはイエスと一緒に伝道するチャンスを逃してしまいました。でも,後になってイエスの弟子になりました。”とあります。イエスの弟も初めはイエスに従わなかったけれど、後で弟子になったので、諦めるなといいたいようです。でもイエスとJWは違いますよ。同列に扱えません。」
「20節で“ヤコブが聖なる力に導かれて書いた手紙には”とあるけれど、ヤコブの手紙は手紙でもないし、イエスの弟のヤコブが書いたものでもない。」

「21節には“いつか一緒にエホバを崇拝できるかもしれないという希望を捨てずに,ベストを尽くして家族を助けていきましょう。”とあります。そういう希望は早く捨てて欲しいですね。」
「新しくJWになりそうな人といえばJWの親族というのが組織の見解なんだよ。それでこんな記事を書いたのだろう。親戚をJWの犠牲者にするのはやめよう!」

聖書についての質問
2026年04月03日 14:14:25

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“真理を親切に伝える”で、JWの伝道の仕方を学ぶ、という内容です。まだ伝道するつもりなんですね。」
「JWの教えを“真理”と呼ぶのは笑えるよね。自分たちだけにしか通用しない特殊用語を好むのはカルトの特徴。真理とは普通は、時代や場所、個人の主観を超えて、常に変わることのない、普遍的に正しい道理や事実のことを指す。JWの教えは、常にコロコロと変わる。そんなものは真理とは呼ばない。」

「1節では“エホバの家族になるためには,真理を愛し,真理に従って生きることが大切です。”とあります。“真理”というのはJWに所属するために守るべき規則集のようなものですね。」
「そういうわけで、“真理”かどうかは統治体が多数決で決める。自己血輸血も突然聖書的に問題ないことになったね。」

「4から6節は“どこで真理を見つけられるか”です。  4節に“真理を知りたいなら,エホバについて学ぶ必要があります。”と言っています。エホバはJWの神のことですよね。JWの所で真理が見つけられると言いたいわけですね。」
「ここでいう真理はあくまでもJWの“真理”だから、JW以外の所ではそんな怪しげな“真理”は見つけられないよ。」

「6節には“エホバを見つける1つの方法は,聖書を学ぶことです。聖書を書いた人たちは神の聖なる力に導かれていました。(ペテ二 1:20,21)それで聖書に書かれていることは全部真実で信用できます。”とあります。狂信的ですね。でも聖書=神の言葉=すべて正しい、という公式はJW以外にも福音派も言っていますね。」
「福音派はアメリカに多く、人口の23%くらい。アメリカ人の4人に1人は聖書に書かれていることをそのまま真実と思っているわけで、驚きだね。でも、福音派は全世界のキリスト教徒の13%くらいで、聖書=神の言葉=すべて正しい、と主張しているのはキリスト教徒の中でも少数派。」

「6節では“聖書によると,イエスは将来,悪を終わらせ,亡くなった人を生き返らせ,地球をパラダイスにし,人間が完全になれるようにしてくれます。(ヨハ 11:25,26。ヨハ一 3:8)こういう聖書の記述は全て真理です。”とありますが、引照聖句には“地球をパラダイスにし”とは書かれていませんし、“人間が完全になれる”とも書かれていません。JWの創作です。」
「ここで言う“真理”は聖書ではなく、JWの決めた真理だからね。統治体が正しいと言えば、聖書に書かれていなくても真理になる。それに文句をいう奴は組織から追い出され、集団絶交という制裁を受ける。」

「7から9節は“どうして真理を語るか”です。  7節には“どうして真理を語るのか,その動機が大切です。”とあります。いちいちうるさいことを言いますね。信者の内面まで管理しようとするのはカルトですよ。」
「でも、周囲の圧力に負けてそうせざるを得ないので伝道していますとか、時間を入れるためにノロノロとやっています、というのはダメとは書いていないよ。」

「7節にはダメな例として、“マルコ 3:11,12を読む。”とあります。そこには“邪悪な天使たちでさえ,イエスを見るたびに,ひれ伏して「あなたは神の子です」と叫ぶのだった。 しかしイエスは,そのことを誰にも話さないようにと何度も厳重に命じた。”とあります。この聖句について、“邪悪な天使たちがイエスについて本当のことを言ったのはどうしてでしょうか。聞いていた人たちに自分たちのことを信頼してもらい,エホバから引き離そうとしていたのかもしれません。確かに,邪悪な天使たちが言ったこと自体は真理でした。でも真理を語った動機が不純でした。イエスはそれを見抜いていました。それで邪悪な天使たちに,自分について話してはならないと命じました。”と解説していますが、違いますよ。」
「まず、“邪悪な天使たち”は日本語訳の創作で、JW英語訳では“汚れた霊たち”。汚れた霊たちがなぜそういうのかについては聖書には書かれていない。通常は、古代において人物の正式の名前、あるいは地位や称号を言うことはその人物になんらかの力を及ぼすことになるという信念が背景にあると推測されている。だからみだりに名前を呼ぶことは好ましくないとされる。」

「汚れた霊たちはイエスに“ひれ伏して”います。これは服従の姿勢です。イエスを恐れているということです。」
「それで汚れた霊たちはイエスを神の子と呼んでイエスの正体を明かすことにより、イエスが自分たちを罰しないように試みたのだろう。周囲の人間に自分たちを信頼してもらいたいからそう言ったというのは違うね。」

「イエスの正体を隠すのはマルコの福音書の特徴で、同じことは弟子たちにも言っています。」
「例えば、マルコ8:29、30で“イエスは質問した。「でも,あなたたちは,私のことを誰だと言いますか」。ペテロが答えた。「キリストです」。 するとイエスは,自分のことを誰にも言わないようにと弟子たちに厳重に命じた。”とある。これもペテロの動機が不純だから、イエスはそう言ったの?違うよ。」

「8節はこの話の教訓で、“私たちはエホバを愛しているので,真理を伝えます。自分に注意を向けるのではなく,エホバがたたえられるようにします。”とあります。なぜ伝道という無意味なことをしているのですか?と尋ねられた時の模範解答ですね。」
「JWでは、自分が注目を浴びることは悪なんだね。注目を浴びてよいのは統治体の老人だけというのがエホバの考えなのかな?」

「9節では秘密を漏らすなと言っています。“あなたが,責任を委ねられている兄弟から何か秘密の情報を知らされたとします。でもあなたはその情報をほかの人に伝えます。それを聞いた人は後になってその情報が本当だったことを知ります。それで,あなたがきっとほかにも秘密の情報をたくさん知っている特別な人だと思うかもしれません。”とあります。秘密を漏らす奴は自分に注目を集めようとしているワルだ!といっています。」
「これはJWの秘密がよく漏れるからこんなことを書いているのだろう。自己輸血の解禁だって、かなり前から漏れていた。組織の中枢にいる人も組織に対する忠誠心が低いということでしょう。情報の漏洩は匿名の誰かによって行われているわけで、注目を浴びるためではないよ。」

「10から13節は“どのように真理を語るか”です。  10節では“コロサイ 4:6を読む。”とあります。そこには“塩で味付けされた快い言葉を語るように心掛けましょう。”とあります。JWならみな知っている聖句です。そして“ここで使われているギリシャ語は,聞く人のためになるだけでなく,親切で魅力的な言葉を指しています。”と解説しています。セールスマンのように調子のいいことを言えということですか?」
「charisという単語のことを言っているのだろうけれど、辞書には“恵み、恩恵、親切、祝福”とあるよ。ルカ1:30に“天使は言った。「マリア,恐れることはありません。あなたは神の恵みを得ました。”とあり、ここでは“恵み”と訳されている。“快い言葉”というより、宗教的なありがたい言葉という意味でしょう。」

「聖書は19世紀の終わり頃に神の“真理”を伝えると称して出版物を売り歩く人たちが現われることを想定していません。セールスのハウツー本として読むのは間違いです。」
「聖書は、自分の立場や職業にとって役立つことを見つけるために読まれてきた。宗教を装った出版会社の幹部はコロサイ4:6に雑誌や書籍を売り歩く秘訣を見出したわけだ。」

「12節が具体例です。“伝道で会ったある男性はいつも像に向かって祈りを捧げ,家族でクリスマスとイースターを祝っています。私たちは聖書を使って,命のない像に祈るのは無意味だということや,クリスマスもイースターもキリスト教とは無縁だということを説明できるかもしれません。”とあります。でも、出会った最初の日にはそういうことは言うな、と指示しています。」
「英文ではUsing the Bible, we could show the man how foolish it is to pray to lifeless statues and prove to him that Christmas and Easter are pagan celebrations.(聖書を用いて、命のない像に祈ることがいかに愚かなことかを示し、そしてクリスマスとイースターが異教の祝祭であることを証明することができます。)とあって、かなり既成のキリスト教に攻撃的。こういう攻撃的な態度はかつてのJWのもので、今はそんなことをいうJW はあまりいないでしょう。逆に輸血の問題で反撃されて、逃げかえることになる。」

「聖書を用いて、輸血を拒否して死ぬことが無意味なことや、1914年の教義や世代の解釈やJWの数々の禁止事項がキリスト教と無縁だということを説明できるかもしれませんが、初めて会ったJWにはそういうことは言わない方がいいということですね。」
「そういうことだね。」

「ここでクリスマスとイースターを攻撃しているということは、クリスマスの解禁はまだまだ先ということですね。」
「現在でも他のJWに公言しない限り、クリスマスを祝うことは問題ないよ。10年後には新しい光が来て、それは個人の判断することです、クリスマスを祝っているからと言って非難したりすることはありません、という発表があるかもよ。」

「13節は“塩で味付けされた”言葉の解説です。“ここでパウロは,相手に合わせて話し方を調整し,真理の味を引き立てることを勧めて いました。”とありますが、意味を勝手に付け加えすぎですよ。」
「JWはセールストークに関心があるから、“相手に合わせて話し方を調整”することを強調したいだけ。“塩で味付けされた”にそんな意味はない。JWは聖書を学ぶのではなく、JWの教えを聖書を使って学ぶことがよくわかる。」

「14、15節は“いつ真理を語るか”です。  14節には“でもイエスは全部を教えようとはしませんでした。弟子たちを思いやったからです。”とあり、少しずつ時間をかけて教えるように言っています。」
「福音書の中の弟子たちは、一度に全部を理解するような頭のよい人間ではないという設定だからね。時間をかけて教えたことになっている。」

「15節は具体例です。“家族でクリスマスやイースターを祝っている男性のことをもう一度考えてみましょう。どちらの行事も異教に起源があり,エホバに喜ばれないことを私たちは知っています。でも,その男性との聖書レッスンが始まったのがクリスマスの1,2週間前だとしたらどうでしょうか。異教の行事について聖書が何と言っているかを説明し,クリスマスを祝うのはやめた方がいいと伝えるのは,思いやりのあることでしょうか。”とあります。学び始めた人にクリスマスはダメと言わなくてよいということですね。でも新しい聖書レッスン生なんか今どきほとんどいないですよ。」
「レッスン生を思いやって何も言わないとしているのはウソでしょう。せっかく見つけた聖書レッスン生を逃したくないだけ。」

「クリスマスがダメなのは“異教に起源”があるからのように書いていますが、元の英文は起源を問題にしていますか?」
「英文ではwe showed him what the Bible says about pagan celebrations(異教の祝祭について聖書が何と言っているかを示し)とある。起源を問題にするのは古いJWの教えのようだね。カンパイの解禁のときに起源を持ち出して禁止することは適切じゃないと言ってなかった?翻訳者は古い思考のままで、異教起源だからダメと思い込んでいる。」

「乾杯解禁の時、レットは“乾杯はどうですか。エホバの証人は長年乾杯は間違った宗教に由来しているという理由でこの慣習を避けてきました。でも現代、多くの場所では乾杯に宗教的な意味合いがあるとは全く考えられていません。社交辞令の一部と考えられています。それで統治体は祈って導きを求めつつじっくり考えた結果、乾杯に関してルールを作る必要はないという結論に至りました。”と言っていました。異教に起源があっても、宗教的意味がなければいいというのが新しJW思考ですよ。」
「この記事の翻訳者はその翻訳はサボって、しなかったんだろう。」

「15節では“聖書レッスン生が成長していくには,ちょうどいいタイミングでアドバイスをしてあげることが大切です。(格言 25:11を読む。)”とあります。引照聖句には“適切な時に話される言葉は,銀の器の中の金のリンゴのようだ。”とあるのですが、この訳でいいのですか?」
「この聖句の意味ははっきりしていない。“適切な時に”と訳されているけれど、文字どおりは“車輪の上で”で、この言葉は聖書中ここでしか使われていない。だから意味不明だ。“車輪の上で語られた言葉”が何を意味するのかだけど、格言15:23に“適切な時に話される言葉は,何と良いのだろう。”とあるので、同じ意味と考えられたのだろう。格言には同じことが何度も出てくるからね。でも違う意味だと思うよ。」

「格言25:11の後半は精巧な金属細工の作品が出てきます。それとグッドタイミングの言葉はつながりません。」
「“銀の器の中の金のリンゴ”を重視すると、“車輪の上で語られた言葉”はよく練られた精巧な言葉を意味しているという解釈も可能。古代ではスムーズに動く車輪をつくるのは高い技術を要した。でも意味は不明だ。聖書は神の言葉の割には意味不明の箇所が結構あるんだよね。」

「最後の16節はまとめで、“真理”の伝えるには、“自分自身が良い手本になるようにします。聖書に書かれている約束を心から信じていることが表れた生き方をします。純粋な気持ちで真理を語ります。優しく親切な言葉を選んで,良いタイミングで真理を教えます。自分ではなく,エホバがたたえられるようにします。”と、要求事項が羅列されています。これでうまくいくなら、JWは1億人を超えていますよ。」
「問題は“真理”の中身で、伝え方を改善したところで大した効果はない。クリスマスはダメとか生活の細部まで口を出しすぎ。こんな宗教に入りたい人は増えないよ。」

聖書についての質問
2026年03月27日 13:27:24

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバとイエスの愛に応えてあなたには何ができますか”で、贖いに感謝するなら、もっとJW活動を熱心にやれ、という内容です。」
「イエスの贖いの話だけれど、ほとんど関係ないことばかり。JWは色々要求されて大変だ。」

「3節で” 贖いへの感謝の気持ちをあなたはどのように表したいと思いますか。”と、問いかけます。感謝しない奴は人間じゃない!というような雰囲気です。」
「英文ではIn what way will the loving provision of the ransom compel you?(贖いという愛ある備えはどのようにあなたを駆り立てるでしょうか?)だよ。compel(強いる、無理にさせる、強要する)という動詞が使われている。感謝することを強要している。嫌な宗教だね。」

「4から7節は“聖書レッスン生”です。  聖書レッスン生も贖いに感謝しなくてはいけません。4節に“あなたが良い知らせを聞いて聖書を学んでいるのであれば”とあるのですが、JWの聖書レッスン生は聖書ではなくJWの出版物を学んでいるだけです。聖書から短い文章を抜き出して、その文脈や歴史的背景を無視して、辞書のように用いるだけです。」
「しかも誤訳だらけ、改ざんだらけで、JW以外は誰も相手にしない聖書を使っている。」

「4節には“エホバとの友情を育めるのは,贖いがあるからです。(ロマ 5:10,11)それを当たり前のことと考えないようにしましょう。”と、レッスン生に恩を感じろと圧力をかけています。」
「ローマ5:10には“神の子の死によって神と和解した”とあるよ。感謝するとすればエホバじゃなくてイエスなんだけど。イエスに感謝しても、JWに感謝する必要はないから、聖書レッスンなんて、さっさとやめよう。」

「5節では“今聖書を学んでいる人は,贖いへの感謝をどのように表せますか。”と、問いかけます。答えは“たとえ問題があっても聖書を学び続け,命の道を進んでいくことが大切です。”で、JWの道を突き進めば感謝を表すことになるようです。JWになることと贖いへの感謝は全く関係ありません。」
「しかも“聖書を学び続け,命の道を進んでいく”なんて、ウソでしょう。聖書は学ばないし、命の道ではなく組織に搾取されつづける悲惨な人生への道だよ。」

「5節ではフィリピ3:16が引用されていて、“私たちはこれまで進歩してきたのですから,この同じ道をきちんと歩んでいきましょう。”とあるのですが、訳がヘンですよ。元のギリシャ語の文章に、理由を示す接続詞なんかありません。」
「協会共同訳では“私たちは到達したところに基づいて進みましょう。”だね。これが妥当な訳でしょう。JW訳は間違い。それをさらに間違って訳したのがJW日本語訳。」

「6節では“最近学んだ教えの中でなかなか納得できないものがありますか。”と問いかけて、その際どうしたらよいかというと、調査し、祈り、“それでもよく理解できないときは,いったんそれを脇に置き,レッスンを続けてみましょう。”とあります。納得できなくてもレッスンを続けるようです。」
「貴重なレッスン生を手放したくないのだろうね。」

「誕生日禁止とか輸血禁止とか統治体の命令には絶対服従とか、排斥制度とか、JWの教えにはレッスン生には納得できないことがたくさんあります。」
「納得できないことを学び続けるのはやめよう。納得できないということは、JWが危険なカルトと気づいた良い兆候だよ。JWの言うことより、自分の直感を信じよう。」

「6節では、さらに“では,聖書が良くないと言っているのにやめられないことがある場合はどうですか。”と問いかけます。答えは“私たちにできないことをエホバは決して求めたりしない,ということを思い出しましょう。あなたもエホバが喜ぶ生き方ができます。”というものです。楽観論を振りまいているだけです。レッスン生にやめられたら困るからですね。」
「聖書はタバコを吸ってはダメと言っていないのに、JWは禁止している。聖書に基づかない禁止事項についてはエホバは助けてくれないんじゃないの?JWには聖書に基づかない理不尽な禁止事項が多いので、レッスン生はJWにならない方がいいよ。」

「7節は“クリスチャンの親に育てられている若い人も,聖書レッスン生といえます。親にとっては一番大切な聖書レッスン生です。”と、JWの子どもをとりあげます。」
「JWの親にとって、子どもは“一番大切な聖書レッスン生”にすぎないの?子どもがもうJWになりたくない!といったら、親子関係はそこで終了なの?JWの親にとって、子どもより組織の方が大事だからね。自然の情愛がないのがJW。」

「7節では“今年の記念式に出席する前に,イエスの死が自分にとってどれほど大切なものか,じっくり考えてみるのはどうですか。・・・エホバのために自分にも何かできると思えるようになってくるでしょう。”とあります。JWの子どもにとっては、記念式などない方がいいですね。それを機に様々なことを押し付けられるようです。」
「英文ではyour next spiritual goal(次の霊的な目標)に向かって努力せよ、とあるよ。それをあいまいに翻訳したのは、絶えず“次は?”と信者に要求し続ける組織の姿勢にうんざりしているからかも。」

「8から13節は“バプテスマを受けたクリスチャン”です。  JWのことをクリスチャンと呼ぶのはヘンですね。9節で“最初の頃はエホバへの愛の気持ちから祈り,集会に行き,伝道に参加していても,いつの間にか,それがただの習慣になってしまうことがあります。”と、警告しています。単なる習慣として集会や伝道に参加するのはダメみたいです。」
「意外だね。そういうことが習慣となっているJWは理想のJWでしょう。そういう人でなければ、カートの横にぼ~と立っているなんてバカバカしくて、できないよ。」

「10節では要求事項が並びます。“例えば,集会にもっと集中できるようにしっかり準備して参加します。また,自分で聖書を勉強する時間をもっと充実させるために,静かな環境でじっくり考えながら学びます。・・・また,記念式の前の時期,エホバの証人だからこそ味わえている幸せを改めて考えてみるのはどうでしょうか。”とあります。集会に準備なんかいらないですよ。小学生レベルなんですから。“エホバの証人だからこそ味わえている幸せ”って、なんですか?そんなものありますか?JWといえば不幸そうな人たちの集まりとしか見えませんけど。」
「世界で唯一の真の宗教の信者であるということでしょう。真の神に出会え、素晴らしい長老や兄弟姉妹に出会え、人々の命を救うという地球上で最も価値のある仕事に携わっていることを考えれば、自由のない貧乏暮らしでも、自分はなんと幸せなんだと思えるよ。」

「11節は熱意がなくなったJWに対してです。“「たとえ自分の意志に反して果たすとしても,管理人としての責任があることに変わりはありません」。(コリ一 9:17)どういう意味でしょうか。”と問いかけ、答えは12節で“パウロにも,伝道する意欲が湧いてこない時がありました。それでも伝道を続ける決意でいました。”というものです。まず聖句の訳がヘンですよ。」
「協会共同訳では“しかし、強いられてするなら、それは、委ねられた務めなのです。”だね。JW訳は言葉を付け加えすぎ。」

「この聖句は、パウロの宣教活動が自発的な場合と自発的でない場合について言っていて、意欲がある場合と意欲がない場合について言っているわけではありません。」
「パウロはイエスに直接召命されたことになっていて、宣教活動は義務のようなもの。JWとは全く立場が違うよ。パウロを無理に見倣う必要なんかない。やりたくない時は休めばいい。それを認めないから信者を支配するカルトと呼ばれる。」

「13節は信者への指示です。“時々こう問い掛けてみましょう。「エホバへの奉仕を何よりも大切にしているだろうか」。(マタ 6:33)「気分転換に見たり聞いたりするものはどうだろう。悪いことを心から嫌っているだろうか」。(詩 97:10)「会衆の和やかな雰囲気に貢献しているだろうか」。(エフェ 4:2,3)記念式の時期は自分を見つめるいい機会になります。”と、関係ないことを無理やり記念式に結び付けています。」
「信者の生活を細部に至るまでコントロールするわけだけど、娯楽についても干渉するのはJWらしいね。何か役職についている人はJWがよくないとする娯楽をどんどん楽しんで、その後それを長老に告白し、役職を辞任すればいい。そういう人がどんどん増えれば、組織は人手不足で困り果てて、最終的に娯楽について何も言わなくなるよ。」

「何か信念のある組織じゃないですからね。周囲の価値観や考え方の変化によって、禁止事項がいつの間にか問題なくなることがよくありますよ。最近も自己血輸血は問題ないことになりました。」
「これからどんな風に変わるか楽しみだね。10年後にはまったく別の宗教になっているかも。」

「14から16節は“エホバの家族から離れてしまっている人たち”です。  英文ではSHEEP WHO HAVE STRAYED(迷い出た羊)ですけれど、羊に例えるのは失礼と思ったのですか?」
「羊って動物の中で一番頭が悪そうに見える。聖書では服従を重視するので羊がよい人を表すシンボルになっているだけ。現代人なら、あなたは羊のような人ですと言われてもうれしくないよ。」

「15節に、エホバは迷い出た羊を“何とかして捜し出し,世話し,戻れるよう助けたいと思っています。(エゼキエル 34:11,12,16を読む。)”とあります。引照聖句はバビロン捕囚下にあるイスラエル人のことを言っていて、JWのことではありません。JWと無関係です。」
「エゼキエル34:16には“しかし,肥えた羊と強い羊を滅ぼし尽くす。私は彼らに処罰を食らわせる。”とあるよ。これがJWのことを言っているとすれば、肥満した統治体の老人は真っ先に滅ぼされることになるよ。」

「16節では“エホバのもとに帰ってきてください”の冊子を引用し、“安心してください。エホバは,帰ってくるあなたを迎えてくださいます。”とあります。これっておかしいですよ。それを書いたのはJWの執筆部門の人です。勝手にエホバの気持ちを代弁しているだけです。」
「JWがJWの主張の根拠としてJWの冊子を持ち出してくるという行為のおかしさに気付かないほど、JWの知性は低下しているということでしょう。そのうち、自分たちの主張の正当性の根拠として、過去の出版物に○○と書かれています、という文章が乱発されるようになるかも。」

「JWにとって記念式は組織から離れた人をもう一度呼び戻すためのイベントという意味があるので、こんな記事を書いているわけですね。」
「記念式といっても、宗教を装った企業の営業用のイベント。新規の顧客がほとんど望めない状況なので、仕方なくかつての顧客にアプローチしている。」

「最後の17、18節は“あなたには何ができますか”です。  贖いのことを考えると、“感謝の気持ちでいっぱいになり,何とかしてその感謝を表したくなります。”とあります。感謝するよう誘導していますね。」
「英文ではshouldが使われていて、誘導じゃなくて感謝を強制しているよ。」

「18節では“感謝の表し方は人によっていろいろです。世界中の兄弟姉妹が,「自分のために生きるのではなく,自分のために死ん[だ]方のために生き」ようとしています。”とあります。感謝を表すには宗教活動第一にしないといけないみたいなことが書いてあって、恐ろしいです。JWにはなるものではありませんね。」
「それは、どんな話も集会と伝道をしなさいという結論に持って行くのがJW流の作文術だから。心の中で感謝すれば神様はわかってくれるよ。」

聖書についての質問
2026年03月20日 10:13:31

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“私たちにはどうしても贖いが必要”で、記念式に備えてイエスの死の意味を教えるという内容です。」
「毎年ある話だけど、今回の記事は少し難解だね。もうすぐ終わりが来るとか、楽園では死んだ家族ともう一度会えるとか、そういう記事じゃないと、多くのJWは興味持てないでしょう。」

「3節に“パウロはイエスの贖いの犠牲によって救われると言っていました。贖いのおかげで(1)罪が許され,(2)希望が持て,(3)神と和解できるように なります。”とあります。これが要点ですよ。JWでもわかりますよ。」
「JWの贖い論は“代理的贖罪論”と言うタイプのもの。人類のかわりにイエスが罰を受けたので、人類の罪が許されたという考え。キリスト教初期では、人類を屈服させていた悪の力にキリストが勝利したので、人類は悪の力から解放されたという考えが強かった。」

「4から8節は“贖いのおかげで罪が許される”です。  JWの贖い論です。4節で“私たちの罪が許されるためには,贖いが必要です。人は誰しも間違ったことを言ったりしたりして罪を犯します。(伝道の書 7:20を読む。)”とあります。ここで言う罪とは悪い行いと言うような意味ですよね。」
「引照聖句には“常に善を行って罪を犯さない正しい人は,地上に一人もいない。”とあるけれど、英語訳では sinsとなっていて、複数形。複数形で罪が語られる時は違反行為というような意味。」

「細かすぎる律法のもとでは、誰もが違反をしてしまうということですね。JWを見ればわかります。乾杯禁止というルールがなければ、乾杯をしてしまうという罪はありません。」
「ローマ4:15では“実のところ,律法は憤りを生じさせるものであり,律法がなければ,違反もありません。”とパウロは言っている。細かいルールだらけのJWは違反ばかりしている罪人ということになるね。」

「“罪が許されるためには,贖いが必要です。”とありますが、これは自然法則ではありません。単なる決まり事です。スピード違反をしたら罰金を払わなければなりません、というのと同じです。」
「神は何でも決められるはず。罪を許すには腕立て伏せ30回と決めることもできたはずだけど、なぜか動物の犠牲や血が必要というルールにしたようだね。古代中東での習慣が大好きでそれを取り入れたようだ。」

「7節で“モーセの律法では,イスラエル人は罪を償うために動物の犠牲を捧げる必要がありました。”とあります。そして“動物の犠牲は後に捧げられるもっと素晴らしいイエスの犠牲を表していました。”とありますが、そんなことないでしょう。」
「旧約聖書の書かれていることが新約聖書に書かれていることを表していたというのは、予型論というけれど、キリスト教の側の主張にすぎない。新約聖書に基づくキリスト教の優越性を言いたいという意図がある。」

「7節には、イエスの犠牲は“エホバが私たちの罪を許す法的な根拠になります。”とあります。“法的な根拠”ってなんですか?旧約聖書にある律法のことですか?」
「どういう意味で使っているのか聞きたいね。JWとしては神は勝手に罪を許すことができない不自由かつ無力な存在で、罪を許すときに何らかの法に基づかないといけないと思っていることはわかるね。アメリカの弁護士的な宗教だ。」

「エホバは現代の裁判官みたいな存在で、法律の基づかない限り無罪と宣言できない、法律の下に位置づけられるわけですね。」
「JWのエホバは本当に無力な存在。」

「8節に“今年の記念式に向けて心を整える時,エホバに許してもらえることが自分にとってどれほど深い意味を持つかを考えてください。”とあります。贖いというのは記念式向けの時事ネタということがわかります。」
「贖いとかイエスの犠牲は終末論カルトであるJWにはあまり関係ないからね。記念式のときに取り上げられるマイナーなテーマにすぎない。人類の許しよりもJWを除く人類の皆殺しがJWの教義の中心。」

「9から13節は“贖いのおかげで希望が持てる”です。  9節に“聖書の中で「罪」は行動だけではなく,生まれつきの状態も指します。”とあります。」
「キリスト教では罪は人間を神から引き離す障壁のことで、罪は行為でもあり状態でもあるわけだ。」

「9節では、“私たちがつい悪いことをしてしまうのも,病気になり,年を取り,死んでいくのも全部罪のせいです。”とありますが、聖書的根拠はほとんどないですよ。動物は病気になり、年を取り、死んでいきますが、罪のせいではないですよ。」
「ここで言っているのは“原罪”という思想で、その起源は聖書ではなくテルトゥリアヌスという人。最初の両親からすべての人が受け継ぐものとして原罪を唱えた最初の人がテルトゥリアヌスで、その200年後にそれを発展させたのがアウグスティヌス。」

「親から子へ罪はどうやって受け継ぐのですか?罪のDNAがあるわけですか?」
「罪を受け継ぐことは科学的に説明できないでしょう。古代人の考えだよ。だから罪を受け継ぐなんてあまり言わない方がいい。罪が病気や死の原因というのもバカバカしい。動物の病気や死を説明できない。」

「10節では“アダムとエバは罪を犯した後,エホバに背いた結果をすぐに思い知らされました。「心に書かれている」律法,つまり良心にさいなまれるようになりました。(ロマ 2:15)”とありますが、そんなことは聖書のどこにも書かれていません。」
「引照聖句はアダムとエバのことを言っているものではない。創世記3:7には“すると,2人の目は開かれ,自分たちが裸であることに気付いた。それで,イチジクの葉をつなぎ合わせて腰を覆う物を作った。”とあるだけ。良心にさいなまれたなんてことはないよ。」

「10節では、さらに“罪悪感,不安,心配,痛み,恥ずかしさ。2人はそういう感情を初めて味わいました。このような感情は2人が死ぬまで付きまといました。(創 3:16-19)”と、見てきたようなウソが書かれています。」
「単なる推測。引照聖句には、もちろんそんなことは書かれていない。旧約聖書は登場人物の心理状態についてほとんど無関心。登場人物の行動を淡々と書くだけのことが多い。何を考え、何を感じていたのかはわからない。」

「そもそもアダムとエバの話はお話です。事実じゃありません。そんなお話を根拠にしているJWの教義はバカバカしくて、ついていけません。」
「今から6000年ほど前に造られたアダムとエバが人類の祖先だなんて、世界中の考古学的資料が否定している。そのころ日本は縄文時代早期で、日本列島にはアダムよりだいぶ前から人が住んでいたよ。」

「11節も聖書の誤用です。まず“聖書にある通り,私たちは「むなしい状態に置かれ」ているからです。(ロマ 8:20)”と言ってから、“例えば人類は,環境問題への取り組み,犯罪の抑制,貧困の撲滅,国家間の平和の実現など,いろんな努力をしてきましたが,むなしい結果に終わっています。”とありますが、聖句と関係ないです。“むなしい状態”とは何をやっても失敗するという状態ではないです。」
「犯罪の抑制や貧困の撲滅は100年前、1000年前と比較したら、相当成果があったよ。JWのようにほとんど働かず、宗教道楽に励めるのは豊かな社会になったから。終末論カルトらしくJWは何でも否定して、人間のすることは全てダメ、楽園が来るしか救われる方法はないと信者に思い込ませたいだけ。」

「12節は楽園の話です。贖いのおかげで、“新しい世界では人間は完全になります。体も心も健康になり,罪悪感,不安,心配,痛み,恥ずかしさといった感情に悩まされることはなくなります。”とありますが、聖書的根拠はありません。」
「地上の楽園という発想が聖書にはほとんどないよ。地上の楽園で完全になるとか、罪悪感がなくなるとかは、JWの教えにすぎない。」

「13節も楽園の話です。“新しい世界では,毎朝爽やかに目覚め,自分や家族の食べる物のことを心配したり,病気や死を恐れたりすることはありません。今でも,そういう「希望をしっかり持ち続けること」で穏やかな気持ちでいられます。”とあります。JWにとって楽園幻想のことを希望と呼ぶようです。」
「希望というにはあまりにもはかないね。すぐにそれが来てくれないと意味がない。でもそれは自分が死んでからずっと後の話のようだ。今から老後の生活を考えないと。」

「13節では“いかりが船を安定させるように,希望があれば,信仰が揺らぐことはありません。”とありますが、多くのJWは自分の生きている間に“新しい世界”が来るとは思っていません。希望を失った状態です。」
「そういうわけで、JWは疲れ切った老人の社交クラブへと変わりつつあるわけだ。」

「14から16節は“贖いのおかげで神と和解できる”です。  15節には“聖書によると,「イエスは私たちの罪を償うための犠牲です」。(ヨハ一 2:2)”とあります。JW英語訳ではa propitiatory sacrifice(なだめの犠牲)です。勝手に”罪を償うための犠牲”に変えています。」
「協会共同訳では“全世界の罪のための宥めの献げ物です。”だね。翻訳者は“なだめの犠牲”という意味がよくわからなかったのだろう。日本語の翻訳者はわかりにくい表現は勝手に簡単な言い方に変える。」

「15節では“エホバの公正の基準がいわばなだめられた,つまり満たされたということです。”とあります。そういう意味ではないでしょう。」
「なだめの犠牲と訳されているギリシャ語は新約聖書では2回しか使われていないレアな単語だけど、異教の文献ではよく使われる単語で、意味は神の怒りを鎮めるためのささげもの。イエスによって神の怒りがなだめられたという意味でしょう。公正の基準が満たされたなどという意味ではないよ。」

「16節ですが、その設問は“記念式に向けて心を整えるために,どんなことも考えるといいですか。”でして、記念式に向けて心を整えなくてはいけないようです。16節には“エホバをお父さんや友と呼べるのは,ひとえに贖いのおかげです。”とありますから、これが答えですか?」
「あらかじめ決められた質問の答えを本文からただ探すだけのことを、JWでは“研究”と呼ぶんだよね。19世紀の多くの人が読み書きも十分できなかった時代ならいいかもしれないけれど、21世紀の人はバカバカしくてまじめにやる気が起こらない。」

「神を父とよべるのはイエスの贖いのおかげではないでしょう。イエスが祈りの中で使っているからじゃないですか?それからイエスは神を友と呼べなんて言っていません。」
「マタイ6:9に“それで,このように祈らなければなりません。『天におられる私たちの父よ,・・・”とある。この時点でイエスはまだ死んでいないよ。また、神は友達というのは幼児化したJWの教えにすぎない。」

「最後の17,18節は“エホバは憐れみ深い神”です。  17節に“贖いについて考えると,エホバが「憐れみ深い」ことがよく分かります。”とあります。その憐れみ深い神が何をするかというと、17節に“エホバは助けを求めるその声を聞いてどうするでしょうか。王国の良い知らせを伝え,エホバとイエスについて知ることができるようにしています。”とあります。JWがやっている伝道活動のことですね。あれがエホバのしていることとは驚きです。それなら、どんどん衰退しているのはなぜですか?」
「エホバというのは統治体のことでしょう。王国の良い知らせなんかJWは伝えていないよ。幸せな家族とか幸せな結婚生活といった一般の人に迎合したことを伝える方が多いよ。」

「18節には“では,私たちは贖いに心から感謝していることをどのように表せるでしょうか。次の記事で考えます。”とあります。これだからエホバは嫌われる。感謝の強要なんて、愛のある神のすることじゃないです。」
「エホバは△△のことをしてくれたのだから、当然○○のことをすべきです、といって信者を特定の活動を強いるのがJWのやり方。それをやらないと霊性が低いとか言って差別する。さっさとやめよう、JW!」

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