ログインしていません。

返信

メッセージを書いて送信してください。
オプション

戻る

トピックレビュー(最新表示)

聖書についての質問
2024年03月15日 14:24:42

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“1年で一番大切な日に向けて準備する(2)”で、キリストの死の記念式を利用して、信者集めに頑張ろう、という内容です。」
「毎年同じような記事が出るけれど、参加する必要のないカルトの儀式についてのつまらない記事だね。」

「1節には“エホバに仕える人たちは,キリストの死の記念式を1年で一番大切にしています。それはイエスが行うようにと弟子たちに命じた,たった一つの行事だからです。”とありますが、これ以外の行事はするなと言外に言っていますね。でも命じていない行事をしてはいけないということはないですよ。」
「キリストの誕生を祝ってはいけないと聖書にはないので、祝ったって、イエスは文句を言わないでしょう。」

「JWの考えるエホバという神は偏狭で、起源がどうのこうのと些末なことにこだわるつまらない神なので、機嫌を損ねないように細心の注意を払わなくてはいけないのです。」
「JWの教義では、宇宙の創造者があまりにもけちくさい存在なので呆れるね。子どもの誕生祝いにも不機嫌になる神様なんだよね。」

「3節に“賛美の歌を2曲歌い,パン とぶどう酒を回します。”とあります。飲み食いする人は順調に増加して2020年には2万人を超えました。組織としては困った事態ですよ。」
「塔1999/2/1の“土の器にあるわたしたちの宝”と言う記事の中に、“もう追加はありません!”という囲み記事があって、“そのような召しは,すでに1931年ないし1935年ごろに終わったのです。もはや追加はありません。では,交わりはじめたばかりで記念式の表象物にあずかる少数の人はどういう人なのでしょうか。もしその人が残りの者だとしたら,それは補充です。油そそがれた者の隊伍への追加ではなく,離れ落ちたかもしれない人に代わる補充なのです。”とある。この見解は今も変わっていないはず。」

「天に行く人を選ぶのが1935年頃に終わったという聖書的根拠はあるのですか?」
「あるわけないよ。JWの教義の多くと同様聖書的根拠はない。」

「記念式で飲み食いする人が今も2万人以上いるということは、天に行くはずだった人のかなりがJWをやめたことになりますね。それも組織には不都合ですよ。」
「それで、塔2011/8/15の“読者からの質問”と言う記事で“過去の宗教信条や,精神的・感情的な問題などにより,誤って自分は天の召しを受けていると思い込む人がいるかもしれないからです。”と、飲み食いする人の中に相当数の少し頭のおかしな人が含まれていると見なしているようだ。」

「組織としては、そういうおかしな人を除けば飲み食いする人は減少しているはずと言いたいわけですね。」
「なにせ、塔2000/1/15の“ずっと見張っていなさい”と言う記事で、今が終わりの日である証拠を6つ挙げているのだけれど、その6つ目として“第六に,キリストの油そそがれた真の弟子たちの人数が減少しています。”と言っている。終末カルトとしては飲み食いする人が本当に増加しているとは認めがたいわけだね。記念式の話の半分くらいは、飲み食いできる人はこの中にはいません、絶対飲み食いするなよ、というものになるよ。」

「5から12節が“記念式に向けて心を整えるには”です。 記念式に向けて精神修養が必要なようです。5節で“記念式に向けて心を整えるために,イエス・キリストの犠牲の価値についてじっくり考えることは重要です。”といっています。9節までがイエスの生涯に触れています。普段はイエスを無視しているJWもこの記事ではさすがにイエスを持ち上げています。」
「5節に“「イエスは何のために死にましたか」の動画も参照。”とある。来年からは、つまらない話はやめて、全部動画にしたらいいよ。」

「10節では“自分の息子がみんなから退けられ,虐待され,苦しむ様子を見るのは,エホバにとって本当につらいことだったに違いありません。”とありますが、聖句は引用されていません。」
「つらいかどうかなど、人間がどうして知ることができるでしょうか?と今の統治体だったら言うのかと思ったけれど、この記事でも相変わらず根拠のない断定を続けている。」

「11節で“西暦33年の春に愛する子イエスが苦しんで死ぬのを見た時,エホバがどんな思いでいたのかイメージすることができます。”とあります。JWとしては、イエスは33年に死んだことにしたいようですが、JW以外では30年とすることが多いですよ。」
「30年と33年のどちらが聖書の記述にあっているかというと、30年なんだよ。イエスの処刑の日について、マルコ15:33には“昼の12時になった時,闇が全土に垂れ込めて,午後3時にまで及んだ。”とある。これは日食があったことを示していると解釈できる。使徒2:20に“太陽は闇に,月は血に変わる。”とあり、日食と部分月食を意味しているようだけれど、これはイエスの死と復活について述べている部分と解釈できる。」

「つまりイエスの死の前に日食と月食があったと読めるということですね。」
「すると、29年11月24日に皆既日食、29年12月9日に部分月食がエルサレムで見ることができたことが分かった。それでイエスの死は30年だろうと推定されることになる。33年の前にはそのようなことが起きていない。」

「イエスが死んだのは30年4月です。日食も月食もだいぶ前ですね。」
「イエスの死の話が伝承されるなかで、数か月前の出来事が、イエスの死んだ日に起きたことに変えられたと推定しているわけだ。」

「JWがイエスの死を33年と主張するのは、JWのダニエル書9:25-27の解釈で33年に死んだことになっているからですね。今さら30年に変えられない。」
「69週と週の半ばというのを、483年と3.5年とし、33年になるわけだ。アルタクセルクセスの第20年,つまり西暦前455年を起点としているのだけど、史実では445年なんだよね。このずれは、エルサレム滅亡年をウソの西暦前607年としたことの影響。JWの年代学はメチャクチャ。多少の知性のある人はJWには向いていないね。」

「12節で“記念式までの間,個人研究や家族の崇拝で贖いについて調べてみるのはどうですか。”とあり、JWの資料から調べることを勧めています。」
「記事で書くのが面倒くさかったんだろう。それで自分で調べてくださいとなったんだよ。」

「13から16節が“ほかの人を助ける”です。 ここからが本論です。要するに、記念式にいかに来させるかということです。13節に“まずは招待しましょう。”とあります。そんなにやる気のあるJWはいますか?」
「もし招待して、何か誤解して本当に来てしまったら、気まずいよ。あのつまらない意味不明の儀式にあきれ返るのが目に見えているからね。」

「15節で“エホバの証人の集まりに出席したことがない人は特に,知りたいことがいろいろあるかもしれません。それで,どんなことを聞かれるかもしれないか予想しておいて,答えられるようにしておくのは良いことです。”と、質問に対する模範解答を準備せよと言っています。」
「新しい人なんか来ないし、来ても質問なんかしないよ。」

「16節は“記念式の後も,いろんな疑問を持つ人がいるかもしれません。”とあり、そういう人のために“jw.orgの「エホバの証人が主の晩餐を守り行なう方法はほかの教会と違いますが,なぜですか」という記事を活用できます。”と、タブレットで記事を見せることを勧めています。」
「多くの人はわざわざタブレットに書かれていることを読んだりしないよ。読むのが面倒だし、それ程興味があるわけじゃない。」

「カルトに大事なのは人を引き込む話術ですよ。それでJWも今まで話し方を練習来たわけですよ。それを放棄するわけですね。」
「JWの質が低下して、それが期待できないので、タブレットで見せるという誰でもできる方法を推奨しているのだろうけれど、ダブレットに頼るようになっては、宗教としてはおしまいだね。」

「17,18節が” しばらくお休みしている人をサポートする”です。 JWに嫌気がしてJWから離れている人を記念式に来させろ、と長老に指令しています。」
「英語ではINACTIVEなので、活動していない人、不活発な人、でしょう。それを”しばらくお休みをしている人”と訳すとは、幼稚園みたいだね。」

「17節に“兄弟姉妹のことを心から気に掛けるようにしましょう。(エゼキエル 34:12,16を読む。)”とあるのですが、聖句の誤用ですよ。」
「そこには“散らされた羊を見つけて養っている羊飼いのように,私は自分の羊を世話する。雲と濃い暗闇の日に散らされた全ての場所から,羊を救い出す。”とあるけれど、ここでいう“私”は神のことで、“羊”はバビロン捕囚によって散らされたイスラエル人のこと。JWとは関係ないよ。」

「17節には誘い方も出ています。“兄弟姉妹のことを愛していること,助けになるためにできることは何でもしたいと思っていることを伝えてください。そして,記念式に招待しましょう。”とあります。記念式の直前にそんな見え透いたウソを言っても、反感をかうだけですよ。」
「長老は、こういう白々しいウソをまじめに言える男じゃないと務まらないということだね。いやなら長老をやめればいいだけ。」

「18節で、しばらくお休みをしている人が記念式に来た場合、”“気まずくさせるような質問をしたり,傷つくようなことを言ったりしないようにしましょう。”と言っています。余計なことを言うJWがいるということですね。」
「18節の下に2枚の写真と二人の人の体験談が出ているけれど、ウソくさい話だね。」

「歓迎を受けて、一人は、“わが家に帰ってきたんです”と言っていますし、もう一人は“まるで家に帰ってきたかのようでした”と言っています。何かの冗談ですか?ありえませんね。」
「以前JWとして活動していたなら、JWの行動パターンを知っているはず。熱烈に歓迎を受けてもそれは表面だけで、本音は別の所にあることぐらいわかるよ。“わが家”なんて思うはずがない。」

「最後の19節では“では,1年で一番大切な日である記念式に向けて,今年もできる限りの準備をしましょう。”と信者のしりを叩いています。時間も報告しなくてよくなったので、どれほどの信者がまじめにやるのか楽しみです。」
「19節の後に、“2024年のように,日曜日に記念式が行われる場合,週末の集会はありません。そのため,来週の研究記事はありません。”とある。これは良いニュースだ。」

聖書についての質問
2024年03月08日 14:35:52

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに頼って恐れを乗り越える(1)”で、恐ろしいことが次々起こるけれど、エホバに頼って耐えなさい、という内容です。」
「迫害の恐怖をあおっている。それは信者を支配するカルトのいつものやり方。」

「ノルウェーでの裁判、JWが負けましたよね。エホバは裁判では頼っても無駄のようです。」
「弁護士費用だけでも数千万円使ったようだけど、エホバを頼って、上訴するんじゃないかな?」

「この号から、質問の答えを書く四角い欄がついています。小学生のワークブックに増々似てきましたね。」
「答えをアプリにインプットすると、自動的に組織に転送されるようになっているのかな?不気味だね。」

「1節に“私たちの誰もが恐れを感じることがあります。もちろん聖書を学んでいるので,亡くなった人や邪悪な天使を恐れたり,将来について不安に思ったりすることはもうないかもしれません。”とありますが、JWは悪霊を恐れていますし、将来については不安だらけです。現実を無視しています。」
「JWはサタンと悪霊が自分たちを狙っていると、とても怖がっているよ。中古の物には悪霊がついているかもしれないと恐れて買わないのがJWでしょう。」

「2節からダビデの話になります。突然、旧約聖書の世界に飛ぶのはよくあるパターンですが、旧約の出来事を現代のJWと関連させようとしても、何のリアリティも感じませんよ。」
「ダビデは何度も取り上げられている。信者にとっては退屈だね。」

「3節に“ダビデは恐れを感じた 時,エホバに頼りました。(詩編56:1-3,11を読む。)”とあります。引照聖句には“私は恐れる時,あなたに頼る。”とありまして、これが今年の年句です。」
「詩編56の表題には“フィリスティア人がガトでダビデを捕らえた時”とあり、その時の詩とJWは思っているようだけど、表題は後からつけられたもので、表題と中身はあまり関係ない。ダビデは作者だという根拠もない。」

「3節で“エホバの助けによって,そこから逃げる方法を思い付きました。普通では考えられないことですが,狂人のように振る舞ったのです。”とありますが、エホバの助けで狂人のふりをすることを思いついたなんて聖書のどこにも書いていません。」
「普通の人なら、別な方法をお願いします、と神様に言うね。この話はサムエル記一21章にでているわけだけど、サムエル記では神の介入はほとんどない。ダビデが追い詰められて狂人のふりをしたら、うまく騙せたという話。」

「狂人のふりをするというのは、エホバを頼っている人間のすることとは思えません。」
「詩編56の作者は56:9で“私が助けを求めるその日に,敵は退却する。私は確信している。神が味方であることを。”といっている。こう確信している人物が敵につかまって狂人のふりをするなんてありえない。」

「ダビデは狂人のふりまでしてアキシュ王の支配するガトから逃れたのに、サムエル一27章で、ガトに戻っています。アキシュ王はダビデにチクラグという町を与えます。サムエル一21章とつじつまが合いません。」
「サムエル一21:10には“その日,ダビデは立ち上がってサウルからさらに逃げ,やがてガトのアキシュ王の所に来た。”とある。その直前はどこにいたかというと、ノブにいる祭司アヒメレクの所。ダビデがガトで狂人のふりをした話は直前の話とつながらない。」

「この話は後からの挿入ということですね。」
「ダビデはアキシュ王の傭兵だったということを否定したくて、この話を挿入したのだろう。」

「4節で頼りになる医師の例を持ち出して、“同じようにエホバがこれまでどんなことをしてきたか,今どんなことをしているか,これからどんなことをしてくれるかを考えるなら,エホバに頼ろうという気持ちが強くなります。”と言っていますが、エホバってろくなことをしていません。」
「神を医師に例えるのは全く不適切だね。神を例えるなら、医師ではなく、人間を断罪し、処罰を加える裁判官兼死刑執行人でしょう。」

「5から7節が“エホバはこれまでどんなことをしてきたか”です。 5節では“詩編56:12,13を読む。”とありますが、その後に書いてあることとほとんど関連しません。」
「5節で言っているのは“例えば,ダビデはエホバが造った物に注目して,エホバの力強さや人間に対する温かい気遣いをじっくり考えました。(詩 65:6-9)また,エホバがご自分に仕える人たちをどのように助けてきたかも思い巡らしました。(詩 31:19; 37:25,26)何よりも,エホバが自分にこれまでどんなことをしてくれたかについてじっくり考えました。”ということ。詩編56:12,13とは無関係。」

「6節では自然観察に関連して、“例えば,鳥や花を「よく観察」するなら,エホバが私たちのことを必ず養ってくださると確信することができます。”といていますが、少しも確信できません。自然界の厳しさを知れば、確信できる方がおかしいです。」
「誕生した鳥のほとんどは1年以内に死ぬよ。そうでなければ地球上鳥だらけになっている。」

「7節が体験談です。真偽不明の体験談がJWの主要な教材なのはいつものことです。ストーカーの被害に遭った姉妹が“警察に連絡する時には長老にサポートしてもらいました。”とあります。警察に助けを求めるというのは珍しいですね。祈れば解決するのでは?」
「警察に通報することを推奨しているようだけれど、“長老にサポートしてもらいました。”とあるから、警察に相談する前に、無知無学の長老にまず相談しろということ。組織にとって不利益と判断したら長老は警察への通報をやめさせるのだろう。」

「組織にとって、被害者救済は重要ではないですからね。」
「死んでも復活するから問題ないという考えでしょう。」

「7節では、“でもそれだけでなく,エホバがご自分に仕える人をどのように助けてきたかについて考えるようにしました。”と続きます。誰のことを考えたかというと、ダニエルのことです。“ダニエルは悪いことを何もしていなかったのに,おなかをすかせたライオンのいる穴に投げ込まれました。でもエホバはダニエルのことを助けました。”と言っています。」
「大昔に書かれた本よりも、現実を直視すべき。過去どれだけの女性JWが伝道中に殺されたり、ひどい目にあったかを調べた方がいいよ。集会中に襲われたり、爆弾が爆発したりして何人の人が死んでいるかも調べた方がいい。そうすれば“エホバがご自分に仕える人をどのように助けてきたか” についての真実を知ることができる。」

「8から11節が“エホバは今どんなことをしているか”です。 8節はダビデの話で、9節では“あなたが恐れを感じている時,エホバはそのことを分かっていて,恐れを乗り越えられるよう助けたいと思っておられます。”と言っています。」
「でも何もしてくれないよね。」

「そんなことはないようですよ。10節で“問題にぶつかって恐れを感じている時には,エホバが助けてくれていることになかなか気付けないかもしれません。”とあります。助けてくれているのですが、気付けないだけのようです。それで、“エホバの助けに気付けるようにしてください,と祈ることができます。”と言っています。」
「普通では気付かない程度にしか助けてくれないということね。」

「10節で“最近,集会で話やコメントを聞いて,まさに自分に必要なことに気付かせてもらえたと感じたことがあっただろうか。出版物や動画やオリジナルソングから力をもらっただろうか。誰かから励みとなる考えや聖句を教えてもらって,元気が出たことがあっただろうか。”と自問せよとあります。答えは全て、“いいえ”です。」
「集会での話やコメントなんか誰も興味ないでしょう。大多数は仕方なく参加しているだけ。」

「11節は体験談です。セネガルに住むアイダ姉妹の話です。“開拓奉仕を始めるために生活をシンプルにしたので,生計は苦しくなりました。家族は怒って姉妹を責めました。”とあります。それで祈ったら、“祈りが聞かれていることに気付いて,穏やかな気持ちを持てるようになりました」。やがて姉妹は,開拓奉仕を続けながら親をサポートできる仕事を見つけることができました。”とよくあるパターンのメデタイ話です。」
「祈ったら、よい仕事が見つかった、とは言っていないね。そう誤認されるように書いているけれど。」

「この姉妹が高学歴で、お金を稼げる資格を持っていれば、祈らなくても“開拓奉仕を続けながら親をサポートできる仕事”はすぐに見つかったと思います。」
「組織のいうことを聞いて低学歴・低スキルなので、よい仕事がなかなか見つからず、苦労しているだけ。組織の言うことなど聞くものではないことがよくわかる。」

「“やがて”見つかりましたとあるだけですね。運がよかっただけですね。やっぱりエホバは大したことはしてくれません。」
「家族を犠牲にしても、カイタク奉仕をやれという指令だよ。組織の言いなりになっていると家族関係が滅茶苦茶になるということ。」

「12から15節が“エホバはこれからどんなことをしてくれるか”です。 12節がダビデの話で、13節が楽園の話です。13節に、エホバは“どんな問題も経験しないで済むようにしてくれるわけではありません。”とあるのですが、訳に問題がありますね。」
「We do not expect him to shield us from all problems. で、私たちは神が全ての問題から守ってくれるなど期待してはいけません、だね。だいぶ意味が違うよ。祈れば問題解決みたいな調子のことを言っていたのはどうなったの?」

「その後に“でも,この体制で経験するどんな試練も新しい世界で取り除くと約束しています。(イザ 25:7-9)”と、楽園さえ来たら全て解決と思わせています。楽園幻想ですね。」
「単なる楽園幻想だけじゃないよ。“そして,私たちを攻撃する人たちを除き去ることもできます。(ヨハ一 4:4)”と、しっかり復讐願望も満たしてくれることを言っているよ。」

「でも引照聖句はそんなことを言っていませんよ。“子供たち,皆さんは神から出ており,偽預言者たちを征服しました。”とあるだけです。これは未来のことじゃありません。」
「動詞の時制は完了形。もうすでに起きたことを示す時制。JWの言う楽園は聖書的根拠はないね。」

「14節では“サタンと悪い人たちがいなくなり,正しい人たちだけが残って,日に日に完全さに近づいていく様子をイメージしてみてください。”とイメージトレーニングの勧めです。現実逃避です。」
「完全になるとはどういうことか教えて欲しいね。ここで言う“正しい人”とはJWのことだよね。JWしかいない世界って、理想の世界の真逆のイメージ。ベテルのような不気味な世界でしょう。」

「14節ではテモテ二3:1-5の読み替え法が出ています。“終わりの時代は困難で危機的な時になります。人々は自分を愛し,お金を愛し,・・・”を、“新しい世では,最も幸福な時代が来ます。というのは,人々は他の人を愛する者,霊的な富を愛する者,・・・”と読み替えるのだそうです。こんなくだらないことを大真面目でいうほど、知的レベルが低下しているわけですよ。」
「爆笑ものだね。現実逃避の新しい遊び?もっと役に立つことを教えて欲しいね。」

「15節が体験談です。親から家を追い出されたタンヤ姉妹が、“エホバの側にしっかり付くなら,どんな良い結果になるかを考えるようにしました。この体制で何かを失うことになるとしても,エホバが新しい世界でいつまでも幸せに暮らせるようにしてくださいます。今経験しているつらい出来事を思い出すこともありません。”と言っています。イスラム原理主義者の自爆テロリストも似たようなことを言っていますよ。」
「殉教者の論理だね。こんなJWが組織に命令されたらとんでもないことをしそうで恐ろしい。」

「このタンヤ姉妹はどうなったかというと、“そして,エホバの助けで,住む場所を見つけることができました。今では夫婦で全時間奉仕を楽しんでいます。”とこれまたメデタイ結末です。」
「家から追い出されるのはJWだけじゃないよ。JWであることを拒否したJWの子どもだって、家から追い出される。それがいかに不当で残酷なことかを、この記事を読んだJWが少しでも気付いてくれることを望むね。」

「最後の16,17節が“今エホバに頼るのは大切”です。 大患難の話です。“大患難の時,人々は「恐れ……から気を失います」。でも,エホバに仕える人たちは揺らぐことなく勇気を持って行動します。(ルカ 21:26-28を読む。)”とあります。ルカ21章で信者に何か行動することを命じていましたか?」
「ルカ21:34で、“食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で心が圧迫されないよう注意していなさい。”とあり、21:36で“常に祈願をしつつ,ずっと目を覚ましていなさい。”と言っている。JWの場合、“勇気を持って行動します。”というと、集会に参加し、伝道し、建設工事をすることを指していると思うけれど、そんなことは聖書は言っていない。」

「16節のその後の文が“どうしてそうできるのでしょうか。エホバに頼って助けられた経験を積み重ねてきたからです。”となっていますが、誤訳ですよ。」
「Because we will have already learned to trust in Jehovah だから、エホバを信頼することをすでに学んでいるからです、と言っているだけ。“助けられた経験を積み重ねてきた”なんてどこにも書いていない。余計なことを勝手に付け加えるのが日本語翻訳者の好きなこと。」

「その後、タンヤ姉妹のセリフなのですが、これもテキトウに訳していますよね。“どんなに大変な状況にいるとしても,エホバは必ず私たちのために行動してくださるということが分かりました。”とありますが、そんなことは言っていません。」
「ここは、エホバにできないことはないことを学びました、と言っているだけ。そもそも“エホバが私たちのために行動”したことなんかないでしょう。もしそうなら信者はどんどん増えているよ。」

「17節がまとめで、“今年一年,この聖句(私は恐れる時,あなたに頼る)について考えましょう。”と言っています。」
「17節に“この聖句について,ある聖書学者は次のように言っています。「ダビデは恐れの気持ちをただ募らせたり,問題のことばかり考えたりするのではなく,自分を救ってくれる方に目を向けていた」。”とあるけれど、英語版の引用は“ダビデは”は含んでいないよ。翻訳者が勝手に含めている。」

「これも引用元を明らかにしない不正引用ですよね。どこからの引用ですか?」
「ネット上にthe teaching ministry of Jay Mack というサイトがあり、その中の詩編56について解説しているページからの引用だね。He neither feeds his fear nor stares at his problems, but instead, looks to his Redeemer, who will deliver him.とある。ダビデは出てこないよ。」

「末端の信者には組織の提供する資料しか見ないように情報を統制し、上層部はネットから得た怪しげな情報を出典を隠して、ご都合主義的に引用するわけですね。」
「カルトってそんなもの。信者を無知無学のままにしておくと、管理統制しやすいからね。」

「17節の下にある写真は、地震で壊れた家を背景に聖書を抱きしめた女性が立っているというもので、“被災した姉妹が,年句についてじっくり考えている。”と説明があります。こういう災害被災者に、エホバを頼りなさいというのですか?もっとましなことが言えないのかと思います。」
「被災した場合、神様じゃなくて政府や慈善団体に頼った方がいいよ。」

聖書についての質問
2024年03月01日 14:01:41

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い兄弟たち,クリスチャンとして成長していきましょう(53)”で、前回の記事の男性版で、前回の記事にあったことを、今度は若い兄弟にあれこれ要求しているという内容です。」
「男尊女卑のJWとしては、若い兄弟と言うのは若い姉妹に比べて貴重な存在だよね。あれこれ要求しすぎて、やめられたら困るよ。」

「人手不足なので、全くやる気のないダメ兄弟でも、男と言うだけでチヤホヤされる傾向にあるようです。」
「若い援助奉仕者だけど全く奉仕していないのに、文句を言われるどころか、集会で適当なコメントをするだけでほめられて困っている、という話を聞いたことがあるね。元気づけようとしているのか、単なる引き留め工作なのか?」

「2節に“若い兄弟たちは,将来どんな責任を担うことになるか,考えたことがあるでしょう。”とあります。男性に求められるのは責任のようです。この記事では“責任”は何度も出てきます。」
「女性は服従で、男性は責任ね。男性は余計な責任からうまく逃げる方法を学んでおかないと無限に責任を押し付けられて泣くことになるね。」

「4から8節が“成長するためにできること”です。 3つのことが出ています。4節には①“良い手本に注目する。”、5節が②“「思考力」を身に付け,守る。”です。」
「思考力はJWにはいらないでしょう。無知無学無思考力が理想のJW。思考力があると、組織のおかしさに気づいてしまう。」

「思考力を身に着けるは良いとしても、思考力を“守る”と言う表現はヘンですよ。」
「格言3:21にある“役立つ知恵と思考力を守れ。”から来ているけれど、翻訳がおかしい。“守る”ではなく“保ちなさい”でしょう。思考力というのもヘン。分別とか思慮深さでしょう。」

「5節では“まず,聖書を調べてエホバの考え方を学び,それに自分を合わせるとよいのはどうしてかを考えます。次に,エホバに喜んでいただくには何をしたらいいか,具体的に考えましょう。(詩編119:9を読む。)”とあります。要するにJWのルールを学んで、それに従えということです。これが思考力を身に着けることのようです。理解できません。」
「具体的には“(1)姉妹と接するとき,(2)服装を選ぶとき,どのように思考力を働かせることができるか,考えてみましょう。”とある。“思考力”と訳しているのでヘンな文章だ。“分別”と訳しておけばよかったのに。異性関係と服装に異常にこだわるのがJWの特徴だね。」

「6節は女性との付き合い方です。“結婚を真剣に考えていないのに思わせぶりなことを言ったりしたりしません。(テモ一 5:1,2)デートする場合でも,付き添いなしで2人きりになることがないようにします。”とあります。時代錯誤ですよ。そもそも、付き添いと一緒のデートは聖書のどこに書いてあるのですか?」
「JWの聖書だけにあるのかも。付き添いと一緒のデートをしている男女がいたら、JWということだね。日本で他にそんなことしている宗教はあるの?」

「映画“ゴットファーザ”で付き添いと一緒のデートのシーンがありました。シチリア島のシーンで男女二人の後を大勢の人間がついて歩くのです。1950年代でしようか。」
「付き添いと一緒のデートでは誰もがいい子のふりをするよね。相手を知るという点では全く無意味。結婚後にこんなはずじゃなかった、と後悔するJWはけっこういるだろうね。」

「邪魔な付き添いを何とかできないですか?」
「お金を渡して、できるだけ遠くの自動販売機で飲み物を買うように頼むんだよ。」

「付き添いと一緒のデートをしてみて、相手が気に入らない場合、結婚をやめられるのでしょうか?」
「無理なんじゃないの。結婚への圧力は強いし、結婚しないとなると、いろいろな問題が起こるからね。気の合わない相手でも、祈れば解決するとか適当なことを言われて、結局無理をして結婚するのだろう。不幸な結婚が増えることになるね。」

「6節の最後に“相手の評判を傷つけないように気を配ります。”とありますが、それが付き添いの目的ですね。」
「名誉が何よりも優先される文化では、ふしだらな女ではないという娘の名誉を守るために付き添いが付く。」

「名誉優先の地域では、今でも“名誉殺人”はありますよね。」
「自由恋愛や親の許可を得ない結婚、異性と一緒にいただけでも、家族の名誉を汚すものと見なし、親族がその名誉を守るために女性を殺害するのが“名誉殺人”。イスラム圏やインドに多い。JWは殺人はしないけれど、似たような思想でしょう。さっさと辞めよう、JW。」

「7節は服装です。悪い服装として“体にぴったりし過ぎるスタイルや,女性的な服装”をあげています。」
「そういう服装をしている男は同性愛者だと、元統治体のモリスが言っていたけれど、モリスが追放されても、この考えは変わらないわけだ。すごい偏見。」

「服装を選ぶ基準として、“自分の服装には健全な考え方や仲間の気持ちを大切にしていることが表れているだろうか。ほかの人からもエホバに仕える人と見てもらえるような格好だろうか。”とあります。よくわかりませんね。1950年代のアメリカのセールスマンの服装をお手本にしろ、ネクタイは真夏でもきちんと締めろ、とはっきり言えばいいのに。」
「記事ではっきり言わずに、長老に指示させるのが組織のやり方。そのため奇妙なローカルルールがあちこちにある。」

「ローカルルールには、白いワイシャツでなくてはいけない、靴は黒か茶色で、スーツでなくてはいけない、聖書朗読の時は上着のボタンをはずしたままではいけない、などなどあります。」
「JWの男性はどんな服を着るかも自分では決められない情けない存在ということね。」

「8節が③“信頼される人になる。”です。“与えられているどんな仕事も一生懸命果たすようにしましょう。どのようにすればいいのか分からないときは,自分から経験のある兄弟たちに助けを求めてください。最低限のことをするだけで満足しないようにしましょう。”とあります。無給の労働者に対して過大な要求です。実際は組織の仕事は適当に手を抜く、賢い若い兄弟が多いということですね。」
「“最低限のことをするだけで満足しないようにしましょう。”と言うのは泣けるね。最低限の事しかしない若いJWばかりということじゃないの?それも無理もないけどね。」

「9から13節が“実用的なスキルを身に付ける”です。先週の女性版と同じ3つのことが書かれています。珍しく男女差別しないようにですね。10節が①“上手に読み書きできるようになる。”です。」
「11節に“兄弟姉妹は,聖書から教えたり良いアドバイスをしたりできる兄弟たちの助けを必要としています。”とある。英文では“兄弟たち”ではなく、capable men(有能な男たち)の助けを必要としている、とある。JWには有能な男なんていないから、兄弟たちに変えたのだろう。」

「12節が②“コミュニケーションのスキルを磨く。”です。宗教活動に励むのではなく、まじめに学校に行ったら、読み書きもコミュニケーションのスキルも身に付きますよ。」
「アメリカでは学校に行かずに、ホームスクーリングで済ますJWが多いんだよ。当然低学力で本を読むのも苦手で、他人とコミュニケーションをとるのが下手になる。」

「12節に“メールやメッセージなど電子的なツールにいつも頼っているなら,人と話すのが苦手になってしまうかもしれません。”とありますよ。」
「これは、このような電子ツールをあまり使うなという、指示だね。便利なものは、禁止したところで、必ず普及するよ。」

「13節が③“自活できるようになる。”です。“テモテ第一5:8を読む。”とあります。そこには“もしもある人が,自分の家族,特に一緒に住んでいる人たちに必要な物を与えないなら,クリスチャンの信条を否定していることになり,信仰のない人より悪いといえます。”とあるのですが、シンプルな生活を勧めるJWは滅多にこの聖句は引用しませんから、これは珍しいです。」
「親と一緒に暮らして、親に食わせてもらっている、無職のJW男性が結構いるんだよ。その親も高齢化して、このままじゃ親子共倒れだ。せめて若い人は働いて、自立してよ、という情けないメッセージだね。」

「14から18節が“将来に備える”です。 若いJW男性のライフコースを教えてくれます。前回の女性版とほぼ同じで、4つのことが出てきます。」
「14節が①“全時間奉仕者。”だね。“若い兄弟は,開拓奉仕をすることによって,いろんなタイプの人と協力して働く方法を学ぶことができます。”とある。JW男性の人生は、開拓者として始まるわけだ。こんなことを本当にやりたい若い人なんかいるの?」

「JWというだけで恥ずかしいわけで、開拓者なんてもっと恥ずかしい存在ですよ。周囲からの圧力で、仕方なくやっているんじゃないですか。」
「“まずは,補助開拓奉仕をやってみましょう。”とある。こういうことを若いJWは言われるのだろうけれど、うまく断る方法を今から考えておいた方がいいよ。」

「以前なら、外国で宣教するために外国語を学ぶとか、必要がより大きなところで奉仕するといった選択肢を示したものですが、この記事では出てきませんね。」
「組織は衰退局面にあるので、若い人が魅力を感じる選択肢を提供できないということだね。開拓者というのは月50時間奉仕すればいいだけでしょう。空いた時間で大学に行きましょうと言えばいいのに。」

「15節が②“援助奉仕者や長老。”です。“10代後半の若い兄弟も,資格を満たせば援助奉仕者になることができます。そして,20代前半だとしても,資格を満たすなら長老に任命されることもあります。”と、あります。」
「会衆によっては、長老の平均年齢70歳以上だよ。半分は80代なんてところもある。組織には長老という名の雑用係が必要で、その雑用をやってくれる男だったら、誰でもいいという会衆はけっこうあるでしょう。」

「もう既に、世界各地で20代前半の若い人が長老になっているらしいです。」
「それは人材難の表れで、組織の衰退を物語るもの。若い人は長老という名のカルトの雑用係を目指すよりも、さっさと逃げた方が賢明だよ。」

「17節が③“夫。”です。18節が④“父親。”です。JW男性は結婚して、子どもをもうけてもいいし、そうしなくてもいいようですね。お金のないJWは住むところも見つけられませんし、結婚もできないですし、子どもも育てられません。」
「結婚するには安定した収入が必要です、とは書いていないね。JWはろくな収入がなくても結婚して構わないようだ。」

「17節の上に、日本人らしいJW家族の写真があります。夫婦ともにパート労働者では、こういう家に住めませんよ。」
「宣伝用の写真だからね。夫は鍋つかみをはめて土鍋を持ち、それをテーブルに置こうとしていて、妻は側で食材(人参、しいたけ、ジャガイモなど)を持っているというヘンな写真。普通は土鍋に食材を入れ、食材が煮えたら、土鍋をテーブルに持ってくるよ。夫が持っている土鍋には何も入っていないのだろう。」

「18節に“子供ができたなら,愛していることをいつでも伝えるようにしましょう。良いことをしたときには,ためらわずに褒めてあげてください。”とあります。これって、聖書とは無関係の、アメリカ流の育児です。」
「間抜けな統治体も聖書の育児は古代の野蛮なものだと、ようやく認識したのかな。」

「間もなく大患難が始まるので子どもをつくるのは避けましょうと、なぜアドバイスしないのか不思議です。乳児を抱えて地下室に隠れても、すぐ警察に見つかります。」
「大患難がくるなんて思っていないよ。この記事の隠れたメッセージは終わりの日が間もなく来るなんて思わず、自分の人生設計を考えろ、ということ。」

「最後の19、20節は“今どんなことができますか”です。単なるまとめです。この記事は中身が薄いですね。」
「昔みたいに、若い人はこの体制で老人になることはないでしょう、大学に進学することも、専門的な職業に就こうとすることも無駄なことです、卒業する前に楽園が来ます、と力強く宣言したら、多少は面白かったのに、残念。」

「20節で“クリスチャンとして成長するようできる限りの努力をするなら,人生は楽しくて充実したものになるでしょう。”とありますが、ウソですよ。JWとしての人生は、永遠に小学4年生レベルのことを学ばされ、退屈で無意味な集会と伝道を強制される、楽しくない人生の典型です。」
「英文ではyour life will be rich and satisfyingで、あなたの人生は豊かで、満足のいくものとなるでしょう、といっている。楽しいとは言っていない。翻訳者はJWの人生が比ゆ的でも文字通りでも、”rich”とはとうてい言えないので、“楽しい”に変えたのだろう。」

「この記事では楽園が近い、といった明るいメッセージがありませんでした。あったのは楽しく充実した人生を送るでしょうという、ウソだけです。」
「楽園が近いというのはすぐばれるウソだから、それよりはましなウソを選んだということだね。」

聖書についての質問
2024年02月23日 15:40:48

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い姉妹たち,クリスチャンとして成長していきましょう(52)”で、発展途上国にいる教育水準の低い若い女性JW向けにあれこれとおせっかいなアドバイスをしているという内容です。」
「そういった国なら、女性差別的なJWの考えも受け入れられると思っているのだろうね。でも先進国の女性JWもこの記事を見るわけで、うんざりすると思うよ。」

「3から9節が“内面を磨いてエホバに喜ばれる人になる”です。 3つの徳目が出ています。謙虚、慎み、良い判断です。女は出しゃばるなということですね。1950年代のアメリカの白人中流家庭の主婦ですね。」
「JWの神様は女性にはその程度のことしか望んでいないようだ。男性を立てて、時にはいい助言を控えめにするという、内助の功的な女性が理想なんだ。」

「2節に“エホバは男性と女性を創造しました。”とありますが、英文ではJehovah made human to be male or female. で、エホバは人間を男か女かに創りました、というものです。意味が違いますよ。」
「英文では人間は男か女の2種類しか認めないという組織の意志が込められている。男と女の中間なんかは認めないというものだね。そういう非科学的な考えを翻訳者は嫌ったのかもね。」

「 現実には中間のような人は生まれてくるわけですよね。」
「昔は半陰陽と呼んだけど、今では性分化異常と呼ぶことが多い。また生まれたときに割り振られた性に違和感を持つ人もいる。人間には男と女しかいない二元論では性別は語れない。」

「3節に“聖書の中には,エホバを愛し,エホバに忠実に仕えた女性たちの素晴らしい記録がたくさんあります。(jw.orgの「聖書に出てくる女性たちから何を学べますか」の記事を参照。)”とありますが、聖書は女性軽視が甚だしいですよ。女性が出てきても、名前がなかったりする例が結構あります。」
「ノアの家族がそうだね。ノアの妻は人類の母だよ。にもかかわらず名前はない。3人の息子は名前があるのに、その妻は名前がない。親が誰であるかも書かれていない。単なる女。聖書には“女性たちの素晴らしい記録”など滅多にない。」

「“聖書に出てくる女性たちから何を学べますか”には21人の聖書に登場する女性が紹介されています。内容は小学生レベルですね。」
「面白いのは、一人一人、顔のイラストがあること。どんな顔をしていたかは誰も知らないのだから、そんなものは必要ないだろう。子供向けだから必要なのか。」

「悪人としてイゼベルが出ているのですが、列王二9:30に“目に黒い化粧を塗り”とあるのですから、もっと毒々しくアイシャドーをしているように描いて欲しかったです。」
「そういう化粧をしているJWの中年女性がアメリカには結構いるから、そうしなかったんじゃないの?」

「良い人は美人に、悪い人は悪人風に描いています。人間は外見で判断できるという誤ったメッセージを子どもに与えています。」
「ハンサムな性犯罪者はいるし、美人の詐欺師もいる。子どもは大人の外見に騙されないようにと、教えるべきなのに、その逆のことをしている。教育的じゃないね。」

「5節が①謙虚です。“エホバを愛する謙虚な女性は,会衆や家族の中でエホバから権威を与えられている人たちに心から従いたいと思うことでしょう。”とあります。要するに男に従えということですね。」
「男に逆らう女は許さないぞ、という訳だ。JWの長老は職場では女性の上司や同僚に命令されているから、その反動で、会衆では女に命令し、威張りたいんだよ。」

「6節には“リベカの手本に注目できます。”とありますが、リベカはそんな立派な人ですか?イサクをだましませんでしたか?」
「創世記27章だね。イサクが目をみえないことを利用し、息子のヤコブをエサウに成りすませて、長子の特権を奪った。」

「聖書の中では、このインチキは非難されていませんよね。」
「聖書の登場人物はアブラハムでもモーセでもダビデでも、必要なら策略を使う。聖書はそんなに高い道徳を求めていないので、夫をだましたくらい、問題ないのだろう。6節に“リベカのように,エホバから権威を与えられている人たちに謙虚に従うなら”とあるけれど、違うよね。執筆者は聖書を読んだことがないね。」

「7節が②慎みです。今度はエステルの登場です。エステルは慎み深い女性だったということですが、8節では“エステルの慎み深さは別の面にも表れていました。エステルは「容姿が美し」い人でしたが,目立とうとはしませんでした。”とあります。そこから服装の話になっていきます。」
「聖書では重要な女性はなぜか美人と決まっている。これは聖書の話が一種の民話だからだね。民話では王様は強くてハンサム、王妃は美人、と決まっている。複雑な性格は与えられず、善人か悪人のどちらか。分かりやすいようになっている。エステル記もそんな話。」

「8節では、“姉妹たちは,どうすればエステルの手本に倣うことができるでしょうか。一つの方法がテモテ第一2章9,10節に書かれています。(読む。)”とあります。引用聖句には“女性は,慎みと健全な考え方が表れた,きちんとした服装をすべきです。”とあります。そして、“ここで使われているギリシャ語は,他の人の見方や感情に配慮した上品な服装を指しています。”と解説していますが、ウソでしょう。」
「派手で奇抜な服装をするな、と言っているだけでしょう。“他の人の見方や感情に配慮した”というのはJWの思想。他人をつまずかせてはいけない、といって恣意的な規制をするのがJWのやり方。JWって、すぐにつまずく人たちの集まりなんだよね。」

「JWの考えるきちんとした服装は、1950年代のアメリカ白人中産階級の服装ですよ。」
「だからJWはアメリカの宗教と言われる。」

「9節が③良い判断力です。アビガイルの登場です。」
「夫が突然死したあと、ダビデの何番目かの妻になった人ね。良い判断だったのかな?」

「10から14節が“生活に役立つスキルを身に付ける”です。 無知無学の女性向けの内容です。4つのことが出てきます。」
「11節には①“上手に読み書きできるようになる。”とある。読み書きできない女性が多いということね。これは女の子は学校に行かせてもらえないアフガニスタンみたいな国のことなんだろうか。大学に行ったら上手に読み書きできるようになりますと書いて欲しいね。」

「12節が②“コミュニケーションのスキルを磨く。”です。なぜこれがことさら女性に求められるのでしょう?伝道者としてタダでこき使うためじゃないですか?」
「そうでしょう。聖句がいくつか引用されているけれど、それらは男性に向けられたものなんだけどね。」

「12節に“格言31:26を読む。”とあり、そこには“口を開く時には賢く語り,いつも親切の律法に従って話す。”とあるのですが、“親切の律法”とはなんですか?」
「それは直訳だね。訳した人も意味が分からないから、直訳するしかなかったんでしょう。協会共同訳では“口を開いて知恵を語り/慈しみの教えをその舌に乗せる。”とある。ここは理想の妻が描かれている部分だけれど、理想の妻は、知恵と慈しみの両方を兼ね備えている、という意味か、あるいは夫に対しては知恵を語り、子どもに対しては慈しみを語る、と言いたいのだろう。」

「13節が③“家事を上手に行えるようになる。”です。家事は女の仕事で、男はしなくていいようです。シンディー姉妹は、“料理や掃除,裁縫,買い物といった家事のコツを教わったので,生活の知恵が身に付きましたし,エホバにもっと奉仕できるようになりました。”といっています。要するに効率よく家事を行い、余った時間で伝道者として働けということです。」
「JWの女性は大変だね。女性が忙しく家事をしている間、男はゆっくり風呂に入り、その後ビールを飲むわけだ。楽園でもこんな生活が続くとしたら、女性にとっては悲惨な楽園だ。」

「14節が④“自活できるようになる。”です。 クリスタル姉妹が“両親は,私が高校で実用的なスキルを身に付けられる授業を選ぶように助けてくれました。父は会計の授業を取るようにアドバイスしてくれました。実際,本当に役立ちました。”とあります。でっち上げの体験だと思いますが、“会計の授業”とはなんですか?」
「会計学のことじゃないだろうから、お金の状況の記録とか管理の仕方を学んだということじゃないの。高校では受験勉強よりも、実用的な知識を学んで、卒業後開拓者として自立しましょう、と言いたいんだよ。でも、大学に行って会計士の資格を取った方が自立できるのになぜそう言わないのかな?」

「確かに14節では、“シンプルな生活で満足し,不必要な負債を背負わないようにするなら,クリスチャンとしての目標に思いを向け続けることができます。”とあります。“シンプルな生活”とは“極貧の生活”のことですね。」
「この記事を読んだJWの女の子は自分に許されている未来がどんなものか知って、JW人生に絶望するかも。今からJWをやめる準備をしよう。」

「15から20節が“将来に備える”です。 JWの女性の人生のガイドラインが示されます。4つのことが出ています。16節は①“しばらく独身でいる。”です。しばらく結婚をせず、組織のために働けということです。」
「17節は②“全時間奉仕をする。”だ。開拓者や建設ボランティア,ベテル奉仕者として奉仕できるかもしれません。”とある。組織にとってタダの労働者は大歓迎ということ。」

「18節が③“結婚する。”です。もちろんダサくて未熟なJWの男の中から適当な人を選ばなければなりません。」
「18節の上に、掃除をしている、小太りの兄弟をある姉妹が見ているという写真があるね。これが理想の結婚相手?見られていると知って、掃除をしているんだよ。誰も見ていなければ、掃除なんかしないよ。それがJWでしょう。」

「それでもJWの中ではましな方なんですよ。」
「JWでは男女の数が非常に不均衡であることを言って欲しいね。JWでは男性は女性に比べてわずかしかいませんから、多くの女性は結婚相手を見つけられないでしょう、くらい教えるべき。」

「18節には、よい結婚相手かどうか判断するためのチェックリストがあります。“この兄弟はクリスチャンとして成長するように努力しているだろうか。生活の中でエホバに喜ばれることを第一にしているだろうか。賢い決定をしているだろうか。自分の間違いを認められる人だろうか。敬意を持って女性に接しているだろうか。エホバとの絆を強められるように助けてくれるだろうか。家族をきちんと養い,感情面でも支えになってくれる人だろうか。責任をしっかり果たせる人だろうか。例えば,会衆ではどんな仕事を任され,どのように果たしているだろうか。”です。これに全て当てはまる人はいません。幾つ当てはまれば、結婚していいのか教えて欲しかったです。」
「“家族をきちんと養い”という条件があるとは驚きだ。王国第一にしていればエホバが備えてくれるはずだよ。」

「“自分の間違いを認められる人だろうか。”とありますが、JWにはこんな人はいません。」
「JWはカルト宗教の一員であるという間違いを認められないので、JWを続けているわけだからね。特に誤りを認めないのは統治体だよ。何か問題が起きると、悪いのは末端の信者という姿勢だ。下のものは統治体の真似をするから、ますます誤りは認めない。」

「“会衆ではどんな仕事を任され”とあるから、援助奉仕者か長老が望ましいということのようです。結婚相手候補はますます限られます。」
「若いJW女性は、年の離れたくたびれた長老と結婚できたら、それで満足するしかないわけだ。さっさと辞めよう、JW。」

「19節には“聖書によると,妻には夫を「補って助ける」という役割があります。(創 2:18)”と書いています。引照聖句には“彼を補って助ける人を造ろう。”とありますが、訳がヘンじゃないですか?」
「“補って”はないね。でも、ヘルパーとしての女性の役割を少しでも価値あるものに見せかけたいというJWの意図はわかるね。協会共同訳では“彼にふさわしい助け手を造ろう。”だね。」

「聖書では、女性は男性に従属する二流の人間という位置づけですね。一夫多妻も認められています。それなのに、19節では“これは女性が劣っているということでしょうか。そうではありません。女性の助け手としての役割は大切なものです。”とあります。」
「聖書には古代の家父長制の価値観が貫かれており、女性に差別的で、女性の地位は低い、と正直に認めるべき。」

「20節が“母になる”です。“良い母親になるためにどんなことが必要かを考えておくことは大切です。良い妻また母親になるために,内面を磨いてエホバに喜ばれる人となり,いろんなスキルを身に付けておくことができます。”とあります。」
「JW女性の生き方というのは、読み書きできる程度の最低限の学歴で、独身のまま開拓者か、結婚して開拓者か、結婚して母になって開拓者の3択しかないということだね。」

「一番可能性が高いのは、独身のまま開拓者ですね。」
「そんな姉妹が年を取り、病気になって集会に行けなくなると、そのまま忘れ去られ、一人寂しく極貧のまま死ぬことになる確率は90%。JWの女性の一生は過酷だね。さっさと辞めよう、JW。」

「最後の21節に“若い姉妹たち,私たちは皆さんのことを愛しています。皆さんがエホバと仲間のためにたくさんのことをしてくれていることにも感謝しています。”とあります。若い女性がタダの労働力として感謝されています。」
「女性に関しては、組織は少しも進歩していない。せめて服装の非聖書的な規則を改めるべき。新しい光が必要だね。この記事を読んで若い女性たちがJWに完全に失望してくれたら、この記事も少しは役に立ったことになるね。」

聖書についての質問
2024年02月16日 14:36:09

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私たちの希望が失望に終わることはない(51)”で、ローマ5:1-5について学ぶという内容です。」
「JWの言う希望は地上の楽園で永遠に暮らすという聖書的根拠の乏しい希望のことでしょう。真面目に考えれば実現するわけがない希望なのに、そう言った希望が実現すると信者に思わせようとしているのがJWという宗教団体なわけだ。」

「1節では、アブラハムを取り上げます。アブラハムは実現しそうもない希望を信じた偉大な人なのです。」
「それなのに、先週も行ったけれど、引照聖句のローマ4:18では“かないそうにない希望でしたが,それでもアブラハムは希望に基づいて信仰を持ちました。”と訳しているのはだめだね。希望のない状態だったということを明記しないと、アブラハムの聖書的な意味での偉大さがわからなくなる。」

「そんな偉大なアブラハムもJWの奇妙な教義では、復活しても単なる地上要員で、天で支配者になる統治体よりはるかに格下の存在です。」
「その教義はJWらしい教義なので、この記事でももっと強調して欲しかったね。聖書の中のどんな偉人も統治体から見れば格下の地上復活組にしかすぎません、とね。そうすることによって統治体の偉大さがわかるというものだ。」

「2節に“アブラハムはエホバとの強い絆があったので,「神が約束を必ず果たされるということを確信していました」。(ロマ 4:21)”とあるのですが、訳がヘンじゃないですか?」
「JW訳は原文の半分しか訳していないね。原文は直訳すると、完全に確信させられた、神が約束した事を、神は約束を実行できることを、というもの。協会共同訳では“神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。”となっている。」

「4から8節が“素晴らしい希望”です。 ローマ5:1,2の解説です。4節に“ローマの兄弟姉妹はエホバとイエスについて学び,信仰を行動に表してクリスチャンになりました。”とあるのですが、“信仰を行動に表して”は誤訳ですよ。翻訳者は“行い”が大事という思想から離れられないようです。」
「英文ではhad exercised faithだから”信仰を働かせ”だね。学び、信仰をもち、クリスチャンになったと言っている。翻訳者の思想では、伝道し、集会に参加し、建設工事という”行い”を伴っていないと、クリスチャンとは呼べないのなのだろう。」

「5節で“選ばれたクリスチャンには,復活後に天での永遠の命を与えられ,そこでキリストと一緒に統治するという希望があることが分かります。(テサ一 4:13-17。啓 20:6)”とあります。引照聖句はそんなこと言っていません。」
「テサロニケ一4:17は多くの人に誤解されている聖句の代表的なもの。そこには“その後,私たちのうち生きている者が雲に包まれて引き上げられ,彼らと一緒になって空中で主に会い,こうして常に主と共にいることになります。”とあるけれど、これは天から降りてきたイエスを地上にいる者が空中まで出迎えに行き、イエスとともに地上に降りてくるという意味。イエスは地上に降りて何をするかというと、テサロニケ一5:3に“人々は,「平和だ,安全だ!」と言っている時に,突然滅ぼされることになります。”あるように、イエスの敵を滅ぼす。」

「JWでは、テサロニケ一の4章と5章は別々に論じられて、一連の出来事と理解していないことが多いですよ。」
「もともとの聖書には何章何節なんか書かれていない。それらは全て後の時代に付け加えられたもの。章が終わると、そこでその話題が終了したわけではない。パウロは手紙を一続きのものとして書いている。」

「古代では王がある都市に来るときは、その都市の主要な人物が都市の外まで迎えに行き、王をエスコートして都市に迎え入れるというのが慣例だったわけです。それをイエスの帰還に当てはめて描いているのがテサロニケ一4:17なわけですね。」
「イエスは天から降りてくるので、迎えに行く人は空中にまで上がらないといけないわけだ。JWはそれからそのまま天に昇っていくと誤解している。そんなことは書かれていない。」

「6節では、元会長のフランツの“その希望は,たとえ100万年かかろうとも待つだけの価値があるのです。”と言う言葉を引用しています。」
「フランツは1975年に終わりが来るよ・う・な・ことをさんざん言いまくった人物。終末カルトにしばしば現れる預言者タイプの詐欺師だね。自分の預言に反して、終わりの日を見ることなく死んだ。墓の下で100万年待つつもりなのだろう。」

「7節が地上組の希望に触れます。”それはアブラハムが持っていたのと同じ希望で,神の王国が統治する地球で永遠に生きるというものです。(ヘブ 11:8-10,13)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「ヘブライ11:10には“アブラハムは真の土台を持つ都市を待ち望んでいたのです。その都市の設計者および建設者は神です。”とある。これが地上の都市を指しているとJWは解釈するの?神が設計し建設した都市は地上にはないよ。普通は天の都市のことを言っていると解釈するけどね。」

「アブラハムは地上に復活すると思い込んでいるからですよ。自分の信念に合わせて、聖書を解釈しているのです。自分たちの信念に合わない部分は無視するだけです。」
「ヘブライ11:16には“彼らは,より良い場所,つまり天と関わりのある場所を切望しています。それで神は,彼らを恥じてはおらず,彼らから神として呼び掛けられることも恥じていません。彼らのために都市を用意しています。”とハッキリと天の都市のことだとわかるように書いてあるのだけどね。」

「9から14節が“希望に対する確信をどのように強められるか”です。 ローマ5:3の話です。“ここでパウロは苦難を経験することと希望への確信が強まることを関連付けています。これを不思議に思う人もいるかもしれません。実際,キリストに従う人たちはみんな苦難を経験します。”とあります。」
「ローマ5:3には“それだけでなく,苦難に遭っても喜びましょう。私たちが知っている通り,苦難によって忍耐力が身に付くからです。”とあるよ。苦難と忍耐力を結び付けているわけで、希望については触れていないよ。」

「10節で、現代のJWの苦難について触れています。“友達や親族からばかにされたり,厳しい接し方をされたりすることもあるかもしれません。正直に行動しているために,職場で嫌がらせを受けていますか。(ヘブ 13:18)政府から伝道活動をやめるようにと圧力をかけられているかもしれません。”とあります。被害者意識丸出しです。」
「大多数の人はJWのことを知らないし、関心も持っていないから、JWゆえに迫害に合うということはまれなこと。JWは自分たちを過大評価しているけれど、実際はJWは社会的には取るに足りない存在。」

「“正直に行動しているために,職場で嫌がらせを受けていますか。”とありますたが、これは職場では正直でいなさい、職場のものを盗んだりするなという指示ですよ。」
「JWが職場で嫌がらせを受けるとしたら、職場の各種行事に参加しないとか、真面目に働かずよく休むとか、JWであることを知られないようにするため異常に秘密主義的で職場の人たちと打ち解けないとか、理由はいろいろあるけれど、正直だから嫌がらせを受けるということはまずないでしょう。極めてまれなことをよくあることのように書くのがJWの記事。」

「11節で、やっと忍耐のことが出てきます。“全てのクリスチャンは苦難を経験することになっているので,忍耐することを心に決めておく必要があります。忍耐して初めて,将来の希望が現実のものとなるのを自分の目で見ることができます。”とあります。翻訳に問題がありますね。」
「英文ではWe need to be determined to endure whatever trials we may face.とあり、私たちはどんな試練に直面しても耐えるという決意が必要です、と危機意識をあおった宣伝文になっている。日本の信者にはそんな危機意識は必要ないと判断したのだろう。」

「13節はローマ5:4で、“パウロは,忍耐すると「神から良いと認められる」と言っています。でも,これは私たちが試練を経験するのをエホバが喜ぶという意味ではありません。私たちが忍耐し,忠実に仕え続ける姿を見て,エホバは喜んでくださるのです。”と説明しています。」
「ローマ5:4には“そして,忍耐すると神から良いと認められ,神から良いと認められると希望を持てます。”とあるけれど、訳がヘンだよ。協会共同訳では“忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。”となっている。」

「“良いと認められ”はan approved conditionの訳ですね。承認された状態という意味ですよ。」
「元のギリシャ語はパウロ以前には使用例がない珍しい単語。“吟味して本物であることを証明する”を意味する動詞から造られた名詞。パウロは人格形成のことを言っているので、“良いと認められ”は全くダメで、人格が吟味された結果明らかになるものという意味として、協会共同訳では“品格”と訳された。」

「苦難を耐えることによって、耐えたものだけがもつ品格が生れるということですね。」
「そういう訳で、耐えると神様から良い人間ですねと喜ばれるという意味ではない。13節に書かれていることは、小学生レベルの間違い。」

「14節はその間違いが続きます。“あなたは今まさに忍耐しながらエホバに仕えていますか。もしそうなら,エホバがあなたのことを喜んでいるということを忘れないでください。”とあります。」
「ローマ5:4は忍耐したら神様が喜ぶなんてことは書いていないよ。」

「15から18節が“希望への確信をこれからも強めていく”です。 ローマ5:4bと5の話です。そこには“神から良いと認められると希望を持てます。その希望が失望に至ることはありません。”とあります。それで15節で、こう問いかけます。“パウロは,ローマ 5章2節でローマのクリスチャンがすでに希望を持っていると言っていました。「神によって栄光に輝くという希望」です。それで,「希望を持っているクリスチャンにパウロが改めて希望を持てると言ったのはどうしてだろう」と思う人もいるかもしれません。”とあります。」
「5:2で言う希望と5:4で言う希望が違うものなんだよ。それだけのこと。」

「16節がその問いかけの答えで、“希望に対する確信は強くすることができる,という点を考えるなら,パウロの言葉の意味をよく理解できます。”とあります。5:2の希望より、5:4の希望の方が確信が強くなっていると言いたいようです。」
「JW活動をやっていると、楽園の希望がどんどん強くなり、最後は確信に変わるといいたいのかな?そんなことパウロは言っていないけれど。」

「17節で“献身してバプテスマを受けてからも,エホバについてさらに学び,エホバをもっと愛するようになり,希望に対する確信は強くなってきたはずです。”とありますから、JW活動をやればやるほど楽園の希望は確信へと変わるということですね。」
「それが組織が信者にJW活動をたくさんさせようとする理由だね。JW活動をやらせればやらせるほど、これは意味のあることだと思い込むようになる。コミットメント原理とか一貫性の原理が働くからね。」

「18節では“その希望が必ず実現するということです。”とあります。しかし、JWの地上の楽園で永遠に暮らすという希望は実現しません。そんなことを神は約束していません。」
「それはJWが聖句をあちこち拾い集めて作った希望だからね。神とは関係ない希望だね。」

「最後の19節で“私たちもエホバに忠実に仕え続けるなら,希望が実現するのを見ることができます。”と締めくくります。エホバというのは組織のことですから、組織にひたすら従っていないと希望は実現しないということですね。」
「年取って、体も頭も弱って、集会参加も伝道もできなくなったら、最後まで忠実に使え続けなかったということで、希望は実現しないね。希望が実現するためには、そうなる前に死なないといけないようだ。」

聖書についての質問
2024年02月09日 14:38:42

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“信仰を持って行動するなら,エホバから見て正しい人になれる(50)”で、パウロの信仰義認論とヤコブの行為義認論との関係を説明したという内容です。」
「今までの中で一番難しそうな内容だね。」

「1,2節にはアブラハムの話が出てきます。」
「それはパウロもヤコブも自分の主張を創世記15:6の“そこでアブラムはエホバに信仰を持った。神はそのことを正しいと見なした。”を引用して正当化しているからね。」

「4から7節が“正しい人と見てもらうには信仰が欠かせない”です。 パウロの主張の紹介です。5節に“アブラハムは信仰を示したので,エホバの惜しみない親切によって正しいと認められました。(ローマ 4:2-4を読む。)”とあります。」
「6節では“神に信仰を持つ人は……信仰のゆえに正しいと見なされます。”とローマ4:5を部分的に引用している。そして、“そうした人たちの信仰に注目して,罪がない正しい人と見なしてくださるのです。”と言っている。」

「7節では、アブラハムは“不完全な罪人でした。でも,エホバはそれらの人たちの信仰に注目して,非難されるところがない人と見なしました。周囲の人たちに比べると,それらの人たちの信仰は確かに際立ったものでした。”と言っています。アブラハムは他の人と比べると信仰があるから、正しいとされたという解釈のようです。」
「知らなかったね。相対評価だったとは。でもそんなことは聖書のどこにも書いていないよ。」

「8から15節が“信仰と行動にはどんな関係があるか”です。 この記事の中心部分ですね。8節に“何世紀にもわたり,キリスト教の指導者たちの間で,信仰と行動の関係性が激しく議論されてきました。”とあります。パウロの主張とヤコブの主張の整合性を問題にしているようです。」
「9節に“パウロもヤコブも聖書を書いた時,エホバの聖なる力に導かれていたので,内容に矛盾はないはずです。(テモ二 3:16)では,どんなふうに理解したらいいのでしょうか。”と言っている。矛盾はないはずと最初から決めつけているのがいただけないね。」

「その後に“それぞれの文脈を考えてみましょう。”とあります。これは珍しいです。」
「文脈や歴史的背景など全く無視して、自分たちに都合のよいように聖句を解釈するのがJWだからね。」

「10節で“行い”の意味を取り上げます。パウロは“主に,シナイ山で与えられたモーセの「律法に従った行い」のことを話していました。”といっています。パウロは正しいとされるのは行いによるのではない、と言った時、その意味するところは、律法に従った行いをすれば正しいとされるわけではないということのようです。」
「ヤコブの言う“行い”はそういう意味ではないというのだろう。」

「そのとおりで、11節で“一方,ヤコブ 2章で説明されているのは,「律法に従った行い」のことではありません。クリスチャンが毎日の生活の中で取る行動のことです。”と説明しています。」
「同じ言葉でも違った意味で使っています、ということで解決ね。12,13節で、行いの具体例が出ているね。」

「12節では“ヤコブは1つ目に,全ての人に分け隔てなく接することの大切さを教えています。”とあります。また“2つ目に,兄弟や姉妹が着る物や食べ物に困っていることに気付いても,必要な物を与えない人について語っています。”とあります。こういう行いをしていなければ、信仰は死んでいるのだそうです。」
「どちらもJWは熱心じゃないよね。JWのすることは集会と伝道と建設工事で、それさえしていれば楽園に行けるという教義じゃなかった?ヤコブがそんなJWをみたら、偽クリスチャンと呼ぶよ。」

「13節ではラハブの例です。ヤコブ2:25には“娼婦ラハブも,使者たちを親切に迎えて別の道へ送り出し,行動によって,正しいと認められたのではありませんか。”とあります。」
「13節で“信仰に基づいて行動し,偵察に来た2人のイスラエル人をかくまい,命を助けました。”とあるけれど、She showed her faith by her actionsだから、彼女は行動で信仰を示しました、だよ。信仰に基づいて行動したとは書いていない。誤訳。」

「それからshe protected two Israelite spiesとありますから、二人のイスラエル人スパイをかくまった、です。偵察じゃないです。」
「日本の信者に神の民がスパイを使ったことを知られたくなかったのだろう。JWもスパイを使って、自分たちのことを監視しているのだろうか、と疑問に思う信者が出かねない。」

「13節の結論が“このことから,信仰を持って行動することの大切さを学べます。”とありますが、違いますよ。」
「the importance of having faith backed up by worksだから、行いに裏付けられた信仰の重要性だ。信仰を強調しているのに、日本語訳では行いが強調されている。翻訳者はJWらしく、信仰よりも集会参加、伝道、建設工事等々という行いこそが大事と信じているのだろう。」

「そういうJW的思想をパウロは批判しているのですよ。」
「ローマ3:28で“人は律法に従った行いによらず,信仰によって正しいと認められる,と私たちは考えるからです。”とパウロは言っているけれど、それに対して、JWは組織の指示に従った忠実な行いによって、正しいと認められる、というもの。パウロとは調和しないね。」

「14節が結論で“パウロとヤコブは信仰と行いの関係についてそれぞれ別の角度で説明していたことが分かります。パウロはユダヤ人のクリスチャンに,モーセの律法に従うだけではエホバに良いと認めてもらえないということを教えました。一方ヤコブは,全てのクリスチャンに,人に親切にして信仰を示すことの大切さを強調しました。”とあります。これでいいのですか?」
「パウロの言っていることがずいぶん矮小化されている。パウロはローマ書の1から3章で、善を行えば義となるという考えを否定している。そこまでだと、“モーセの律法に従うだけではエホバに良いと認めてもらえないということを教えました。”というのは正しいけれど、4章以降のことを無視している。」

「ヤコブは“人に親切にして信仰を示すことの大切さを強調”したというのも、だいぶ矮小化していますよ。これだとどこにでもある道徳を説いたというだけになります。」
「そもそもヤコブ書は短い勧告がたくさん並んでいる。格言集と似たものだよ。」

「ヤコブとパウロの関係ですが、パウロの死後、パウロの教えを曲解し、どう生きようと信仰さえあれば救われるという人たちが現れてきて、それに対してヤコブがそれではダメだ、行いのない信仰は死んだも同然と批判したという関係じゃないですか?」
「それが一番ありそうなことだね。」
「ということは、ヤコブ書はパウロの死後、パウロの教えが相当広まった後の時代に、ヤコブの名をかたって書かれた偽名文書になるわけですね。」

「ヤコブ1:1で“神と主イエス・キリストの奴隷であるヤコブ”と作者は名乗っているだけ。ヤコブはごくありふれた名前だから、これだけからはどういうヤコブかは不明。」
「わかるのはギリシャ語を話す、教育水準の高いユダヤ人ということぐらいですね。」

「しかし、JWではイエスの兄弟のヤコブと決めつけていて、そのヤコブは60年代前半に殺されているので、ヤコブ書は60年代前半に書かれたものとしている。」
「パウロが死んだのは65年くらいですから、JWの年代計算ではヤコブ書はパウロが死ぬより前に書かれたとしているわけですね。」
「普通、ヤコブ書は90年以降に書かれたと推測されている。一方、ヤコブ書にはキリスト教的要素が非常に乏しくユダヤ教的なので、非常に早い段階、つまり40年代ごろに書かれたものと主張する人もいるね。」

「15節がさらにあり、ここは聖書とは関係のないJWの教えの部分です。“エホバに信仰を持っていることを表す方法はいろいろあります。引っ越してきた兄弟姉妹や集会に出席するようになった人を温かく歓迎したり,困っている仲間を助けたりできます。家族に親切にすることもエホバに喜ばれます。(ロマ 15:7。テモ一 5:4,8。ヨハ一 3:18)さらに,良い知らせを熱心に伝えることはとても大切です。(テモ一 4:16)”とあります。JWとしては伝道活動が大事ということですね。」
「こうなるとパウロもヤコブも関係ないね。伝道することが信仰を示すことらしいけれど、そんなことは聖書のどこにも書いていないよ。」

「英文ではAn especially fine work that gives evidence of our faith is our zealously sharing the good news with others.です。だいぶトーンダウンした訳ですね。」
「信仰の証拠となる特に優れた行いは他の人に良い知らせを熱心に伝えることです、とある。伝道が信仰の証拠になるなんて、バカバカしいと思ったので、“大切です”にしたのだろう。」

「開拓者に求められる奉仕時間はどんどん減っていますよね。信仰の証拠=伝道なら、JWの信仰はどんどん減っているということになります。」
「15節の上に写真が3枚あって、その一つがカート奉仕しているというもの。カート奉仕が“良い知らせを熱心に伝えること”のようだけど、ただ突っ立っているだけの史上最もやる気のない伝道方法でしょう。」

「引照聖句のテモテ一4:16には“自分自身と自分の教えに絶えず注意を払いなさい。これらのことを粘り強く行いなさい。そうするなら,あなたは自分自身と,あなたの言葉に耳を傾ける人たちを救うことになります。”とありますが、これはパウロの思想じゃないですね。もちろんテモテの著者はパウロじゃないですが。」
「この聖句の前半のことをすると、“あなたは自分自身と,あなたの言葉に耳を傾ける人たちを救う”といっているね。これだと一生懸命修行をしたら全人類を救えるといっているも同じこと。こんな思想はパウロにはないよ。パウロによれば、救いは神の御業だ。神が救ってくれる。」

「テモテがどんなに偉くても、“自分自身と,あなたの言葉に耳を傾ける人”を救えませんよ。」
「テモテがそんなことできるなら、テモテは普通の人間じゃないね。」

「16節が“希望は信仰を強める”です。 “ローマ4章では,アブラハムの例から,希望に目を向け続けることの大切さについても学べます。”と言っています。」
「そこでは“「アブラハムは希望に基づいて信仰を持ちました。……多くの国の人々の父祖となることを信じたのです」。(ロマ 4:18,19)”とある。まず、この訳がへんだよ。」
「希望に基づいて信仰を持った、という部分ですね。協会共同訳では、“彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ”ですよ。JWの教義に合わせて勝手に付け加えています。改ざん聖書です。」

「JW訳ではローマ4:18は“かないそうにない希望でしたが,それでもアブラハムは希望に基づいて信仰を持ちました。”だけど、“かないそうにない希望でしたが”という日本語訳もヘンだね。英文ではAlthough beyond hope。希望が絶えた、絶望的な状況を言っている。例えばHe is beyond hope of recoveryなら、彼は回復する見込みがない、という意味。」

「“望みはなかったが”と訳して欲しいですね。」
「協会共同訳で“望みえないのに望みを抱いて信じ”となっているように、望みに基づく信仰なんてことは言っていない。絶望的だけれど、神の約束なので、希望があると信じていた、ということ。」

「この子孫がいっぱい増えるという約束をアブラハムが信じたことを信仰の例として持ち出すのは何か理由があるのですか?」
「ローマ書のこの部分は、ユダヤ教を意識して書かれたと想定されている。ユダヤ教でもアブラハムは信仰の模範だけれども、その際に取り上げられるのはイサクを犠牲として捧げようとしたという野蛮な行い。」

「ヤコブ2:21には“私たちの父祖アブラハムは,息子イサクを祭壇の上に捧げ,行動によって,正しいと認められたのではありませんか”とありますね。これはユダヤ教的な発想なわけですね。」
「パウロは大事なのは行いではない信仰だと言いたくて、イサクの話ではなく、子孫繁栄の約束を信じた話をとりあげていると推測されている。」

「最後の17節がまとめです。“私たちはアブラハムのように,エホバに信仰を持ち,良いことを行い,希望を持ち続ける必要があります。”とあります。これも訳がへんですね。この記事は翻訳者には少し難しかったようですね。」
「we need to have both faith and works as well as hope.だから、希望だけでなく信仰と行いの両方が必要です、という意味。16節で希望を強調したけれど、希望だけでいいと思うなよ、信仰とJWの行いを忘れるな、というメッセージだね。」
「楽園の希望と伝道、集会、建設工事ですか。」

聖書についての質問
2024年02月02日 14:32:23

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは本当に祈りを聞いてくれる?(49)”で、なぜ祈っても無駄なのか、あれこれ言い訳を述べたという内容です。」
「少し前にも似たような記事があった。その記事の評判が悪かったので、また祈りを扱った記事を書いたのだろう。」

「“エホバは祈りに答えてくださる どのように?”(21)という記事ですね。」
「その記事では、期待通りの答えではないこともある、間接的にこたえてくれる、エホバからの答えを探して受け入れるには信仰が必要、と祈っても答えられないことの言い訳をしていた。」

「1節に、祈りが聞かれなかった例が出ています。“ある独身の姉妹は,王国福音伝道者のための学校に行きたいと祈っていますが,何年も招待されていません。消耗性の病気と闘っている若い兄弟は,会衆でもっと奉仕できるように病気を治してほしいと祈っていますが,なかなか良くなりません。ある親は,子供が真理から離れないようにしてくださいと祈っていましたが,子供がエホバに仕えるのをやめてしまいます。”」
「なぜ一生懸命祈っても、学校に招待されないのか、病気が治らないのか、子どもがJWをやめるのか、を説明するのが、この記事の主旨なわけだ。」

「祈っても、祈らなくても結果に大きな影響はないです、とは言えませんからね。」
「この記事では、祈りがかなわないのは、祈りの内容がダメ、時期が悪い、祈りは予期したものとは違った仕方でかなうことがある、と言い訳している。これで納得できるかな?」

「4から8節は“エホバはどんなことをしてくださるか”です。 エホバ側の都合を述べています。まず4節で“エホバは私たちの祈りを聞くと約束している。(エレミヤ 29:12を読む。)”と、信者を安心させます。」
「引照聖句には“あなたたちが私を呼び,私のもとに来て祈る時,私は耳を傾ける。”とあるけれど、これは“バビロンで70年が満了したら,私はあなたたちに注意を向ける。”と言った後の言葉。JWとは何の関係もないよ。」

「5節は“エホバは祈りを聞くときに,ご自分の目的について考える。(イザ 55:8,9)”です。サタンとのあの宇宙主権論争という宇宙最大の問題があるので、祈られてもサタンが有利になるようなことはしないということのようです。」
「“サタンは,人間が自分で治めた方がうまくいくと言いました。(創 3:1-5)サタンの言っていることがうそであることを証明するために,エホバは人間が支配することを許しました。”とあるね。引照聖句はそんなことは言っていない。JWの作り話。」

「バベルの塔事件で、人間の言語を乱し、分裂させるようにしたのはエホバです。人間の支配を妨害しておきながら、サタンの言うことがウソであるという証明なんかできません。」
「サタンは神が言語を乱さなければ、人間はうまく行っていたと主張できる。神は反論できず、悔し涙を流すのかな?」

「5節では“エホバはこうした問題を今すぐに取り除くことはしません。もしそうしてしまうなら,ある人たちは人間の支配がうまくいっていると勘違いして,全ての問題は自分たちで解決できると考えるかもしれません。”とあります。これもひどい話ですよ。病気で苦しんでいる人がいて、必死に大勢の人がその人のために祈っても、奇跡的に直してしまうと、ある人たちが増長し、サタンが喜ぶから、そのまま死んでもらうということですよ。優先順位がおかしいです。」
「“ある人たちは人間の支配がうまくいっていると勘違い”するのを避けるために、祈りに応えないとは、JWの神はなんとけち臭い神だこと。あきれるね。」

「6節が“同じような祈りであっても,エホバはいろいろな方法で答えることがある。”です。別の方法で答えてくれるのだから、祈りがこたえられないと文句を言うなということです。まず“パウロは体に刺された「1つのとげ」を取り除いてほしいとエホバにお願いしました。この「とげ」は慢性的な病気のことだったと思われます。でも,エホバはこの問題を取り除くことはしませんでした。”とパウロの例をあげ、次に“使徒のヤコブとペテロについても考えてみましょう。ヘロデ王はこの2人のことを殺そうとしていました。会衆はペテロのためにもヤコブのためにも祈ったことでしょう。それでもヤコブは処刑され,ペテロは奇跡的に助け出されました。(使徒 12:1-11)”とペテロとヤコブの例をあげています。」
「引照聖句には“会衆はペテロのために熱烈に神に祈っていた。”とあるけれど、ヤコブのために祈ったとは書かれていない。“会衆はペテロのためにもヤコブのためにも祈ったことでしょう。”は単なる推測。ヤコブは先に逮捕され、すぐに処刑されたようだから、会衆が知った時にはすでに死んでいて、祈るタイミングを逃したんじゃないの。」

「6節の結論は“私たちはエホバがいつも愛情深くふさわしい仕方で祈りに答えてくれることを信じています。それで,エホバの祈りの答え方についてあれこれ言うことはしません。”でして、とにかく“あれこれ”言うなということです。」
「あれこれ言う人は、信仰のない人と決めつけて、終わりということだね。」

「7節では“自分の状況をほかの人と比べないことも大切です。同じようなことを祈ったのに,自分の祈りは聞かれず,ほかの人の祈りは聞かれているように思えることがあるかもしれません。”とあります。文句が出るのは、比較するからのようです。」
「病気回復の例が出ていて、“姉妹たちは無事に回復しましたが,夫は亡くなってしまいました。アナ姉妹は,エホバが姉妹たちのことを助けたのであれば,どうして夫のことは助けてくれなかったんだろうと思いました。”とある。それに対する答えが、“姉妹たちが回復した理由についてはっきりしたことは分かりません。でも私たちは,エホバがやがて全ての苦しみを終わらせてくださるということを知っています。”というもの。分からないことを分からないと認めるのはいいことだけど、その後がよくないね。」

「楽園を持ち出すのがJWの解決法ですね。でも、これは慰めになりません。」
「信者の疑問や苦しみに寄り添うことをしないのがJW。死んでも復活するのだからいいじゃないか、そんなことは気にしないで伝道をしよう、という態度だ。残酷だね。」

「8節が” エホバはいつも変わらず支えてくれる。”ですが、そうじゃないから信者は疑問に思うのですよ。現実否定です。」
「そこには“エホバは「川」や「炎」のような難しい問題を取り除くことはされません。(イザヤ 43:2を読む。)とはいえ,その状況を切り抜けられるように助けると約束しています。”とあるけれど、イザヤ43:1に“ヤコブよ,あなたを創造した方,イスラエルよ,あなたを形作った方,エホバはこう言う。”とあるように、引照聖句はイスラエル人に向かって言っているもので、現代のJWとは関係ないよ。」

「9から11節が“エホバは私たちにどんなことを願っているか”です。 正しい祈る態度を教えてくれます。」
「正しい態度で祈らないと、聞いてくれないよ、ということだね。祈りがかなえられるためのハードルがさらに上がったね。」

「9節が“私たちがエホバを信頼すること。”です。10節が“祈るだけでなく,自分でもできる限りのことをすること。”です。神頼みだけではダメということです。11節が“諦めずに祈り続けること。”です。」
「要するに、祈る側の努力次第で、祈りがかなえられるかどうかが影響されるという思想だ。特に、しつこさが大事ということね。そうしないと祈りはかなえられないわけだ。」

「12から15節が“調整が必要?”です。 自分の要求について3つのことを自問せよとあります。12節に①“自分は正しいことを祈っているだろうか”です。正しいことを祈ってないから、祈りは答えられないということです。」
「その具体例が面白い。“この記事の初めに出てきた親は,子供が真理のうちにとどまれるようにしてください,と祈っていました。これはふさわしい祈りに思えます。でもエホバは,ご自分に仕えることを強制したりはしません。子供たちを含め,一人一人が自分で選んでご自分に仕えることを願っています。”だって。子どもにJW活動を強制するな、というメッセージだよ。」

「宗教による児童虐待問題を気にしているということですね。JWと言えば、子どもを連れまわして、子どもをダシに雑誌を売る人たちというのが昔のイメージですし、今でも宗教を強制し、体罰をしまくる児童虐待の常習犯と非難されています。」
「宗教を親に強制されている子どもはこの記事を親に見せよう。」

「12節の下に“自分の祈りにはエホバへの敬意が表れているだろうか”と言う囲み記事がありまして、祈りがかなえられない理由がさらに3つ挙げられています。①正しい動機で神の意志に沿った祈りをする。②自分の考えをエホバに押し付けない。③エホバが毎日してくださっていることに感謝する。これだけ前提条件が付くと、祈りがかなう方が不思議ですね。エホバは相当気難しい神様ということですね。」
「祈りがかなえられないと文句を言う人には、そもそも祈る動機が不純なんだよ!それはエホバの意志ではないのがわからないのか!日頃の感謝が足りないんだよ!と言えばいいわけだね。でも、これらはパワハラ上司が部下をいじめているようなセリフだよ。」

「13節が②“エホバから見て今は一番良い時なのだろうか”です。時期が悪いので祈りがかなわないということですね。ご都合主義的な言い訳です。」
「ここも具体例が面白い。“この記事の初めに出てきた若い兄弟は,病気を治してほしいと祈っていました。でも,もしエホバが病気を奇跡的に治したなら,サタンはこの兄弟がエホバに仕え続けているのは病気を治してもらったからだ,と言うかもしれません。”とある。サタンに突っ込まれるのが嫌だから、信者の病気を治さないようだ。自分の評判ばかりに気にしている人命軽視の情けない神ということがよくわかる。」
「エホバはサタンにどう思われるかが人命よりもはるかに大事ということですね。愛ある神とは言えません。」

「13節に“エホバは全ての病気を取り除く時をすでに決めています。(イザ 33:24。啓 21:3,4)その時までは,病気が奇跡的に治ることを期待することはできません。”とハッキリ言っている。病気が治るように祈ったってムダということだね。」
「これはコロナ問題でJWが結構亡くなったことを背景にしていますよ。コロナにかかったら祈っても無駄だった、という厳しい体験を多くのJWがしたのです。祈りに対する不信感が強まりますよ。」
「それで、ダメージコントロールとして、病気には祈りはモトモト効きません、と宣言したね。」

「14節はジャニス姉妹の例です。“ベテルで奉仕したいと祈っていましたが,エホバが祈りに答えてくれていたことに気付いたのは5年ほどたってからでした。”とあります。どうなったかと言うと“後に姉妹と夫は巡回奉仕をすることになりました。”とあります。メデタイです。」
「以前の祈りに関する記事でも似たような話があったね。祈ったのとは別の形で祈りがかなったというもの。祈りはかなわなかったと評価すべきことなのにね。この論理ならどんなら祈りも必ずかなえられることになる。しかし、こんなことを言っていると、宗教とは詭弁を弄して、黒を白と言いくるめるようなものと、みんなが思うよ。」

「15節が③“祈り方を変えられるだろうか”です。“祈りが限定的になり過ぎないよう意識できます。”だそうです。あいまいで漠然とした祈りなら、何が起きても祈りがかなえられたと誤解できますからね。」
「英文ではShould I be praying for something else?で、”何か他のことを祈るべきか?”で、祈り方ではなくて、祈る内容を変えることをいっている。かないそうな祈りに変えたら、祈りはかなうよ、という当たり前のことだね。ステーキではなく、ハンバーグをお願いしよう、ということだ。」

「15節の具体例は“王国福音伝道者のための学校に行きたいと祈っていた先ほどの姉妹について考えてみましょう。”というものです。“学校に招待されるように祈ることに加えて,どうすればエホバのためにもっと多くのことができるか教えてくださいと祈ることもできるでしょう。”といっています。学校は定員があるので、何のコネもない姉妹には入学が難しいので、開拓者が必要とされる会衆に行くことを祈れ、というとこのようです。」
「これは祈りの否定だよ。無理とわかっても、そう願わざるを得ないことを抱えている人間はいるんだよ。祈るしかできないから、ひたすら祈る。それをやめろと言っているようなもの。」

「最後の16節はまとめです。“これまで考えた通り,エホバが私たちの祈りに愛情深くふさわしい仕方で答えてくださることを確信できます。”とありますが、この記事を読んで、そう確信した人はほとんどいないと思いますよ。」
「この記事で言っていることは、要するに、祈りがかなうためにはいろんな条件が付いていてそれを満たさなくてはいけないし、祈りがかなう時期も内容もよくわからないということ。でも祈りはかなうと強弁しておしまいという滅茶苦茶なもの。」

「JWの教義では楽園が来たら全ての問題が解決して、祈りがこたえられるということです。楽園が早く来ますようにと祈るしかないのですが、いつ来るかはもうすでに決まっているようなので、祈っても無駄です。つまりJWは祈る必要はないのですよ。」
「祈りを習慣にしている人はけっこういるからね。習慣として続けて行けばいいんじゃないの。」

聖書についての質問
2024年01月26日 14:56:47

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“大変な時にもエホバを信頼する(48)”で、生活が大変なJWに、それでもエホバを信じて、JW活動を続けろという内容です。」
「これもよくある記事だね。生活が大変なら、JW活動を一時的にやめて、真面目に働くようにしたら。その程度のことで宇宙の創造者は怒ったりしないよ。」

「1節で、困っているJWに対して“古代イスラエルの人たちも同じような経験をしました。エホバがその人たちをどのように助けたかについて考えるなら,力づけられるでしょう。”と言っています。そんなことありませんよ。」
「古代イスラエルに起きたことが今のJWに起きるなんてことは全くないからね。それから古代イスラエルの話は国家あるいは民族単位の話で、個人についてではない。」

「つまり古代イスラエルの話でも個人が救済されたという話は滅多にないということですね。」
「旧約聖書の神は王様などの権力者以外の個人には無関心で、国家あるいは民族単位でしか関心を持っていない。」

「2節に“そこで,熟練した写字生であるエズラがバビロンからエルサレムにやって来て,正しい崇拝を第一にするよう助けました。(エズ 7:1,6)”とあるのですが、“写字生”はおかしいですよ。学生ですか?」
「協会共同訳では書記官だね。エズラ7:11に“以下は,祭司また写字生であり,エホバのおきてとイスラエルに対する規定の研究者であるエズラに,アルタクセルクセス王が送った手紙の写しである。”とある。エズラは王に仕えて、王から手紙をもらう立場にあることから、書記官といった方が適切でしょう。」

「2節の下に年表がありまして、“468年: エズラと,捕囚にされたユダヤ人の2番目のグループがエルサレムに戻る”とありますが、これは間違いですよ。」
「エズラはアルタクセルクセス王の第7年にエルサレムに行ったわけだけど、JWの立場は“洞察”によると、“クセルクセス1世の子アルタクセルクセス・ロンギマヌスは,エズラ 7章1-28節およびネヘミヤ 2章1-18節,ならびに13章6節で言及されている王です。大抵の参考文献はその即位年を西暦前465年としていますが,それを西暦前475年としてよい十分の理由があります。”というもの。もちろん“十分な理由”なんかないよ。JWのでっちあげ。平気でうそをつく。」

「JWは勝手に即位年を10年ずらしたのですね。それで、7年目は前468年になるわけです。聖書改ざん・歴史改ざんのJWですね。JWであることは本当に恥ずかしいことですね。」
「10年ずらしたのは、ダニエル書にある70週の預言に合わせるため。JWはなぜか36年にその70週(70×7=490年)が終わったとしている。そうすると始まりは前455年。これはネヘミヤがエルサレムを修復せよと命じられた年で、アルタクセルクセスの治世の第20年と書かれている。アルタクセルクセスが475年に即位したことにしないと計算が合わなくなる。それで10年ほど即位年をずらした。恥ずかしいね。」

「年表には“484年: クセルクセス1世(アハシュエロス)がユダヤ人を全滅させるようにという命令を出すが,エステルによって悲劇は回避される。”とありますが、エステルの話は史実じゃありません。よくある宮廷物語ですよ。」
「ダニエル書の前半や創世記のヨセフ物語と同じ構造の話だ。“悲劇は回避される”とあるけれど、そんなことはないだろう。」

「エステル9:16には“王の州にいたほかのユダヤ人も集合し,自分たちの命を守った。敵に打ち勝ち,自分たちを憎む者7万5000人を殺したが,略奪はしなかった。”とあります。75000人の殺害を悲劇とは呼ばないのですか?」
「執筆者はエステル記を読んだことがないか、神の民の敵の死は無条件に喜ばしいことと思うカルト宗教の信者そのものなのだろう。」

「4から7節が“戻ってきたユダヤ人たちは問題にぶつかった”です。 バビロン捕囚から帰ってきたユダヤ人の話です。神殿を建設しようとしたけれど、様々な妨害があり、なかなか完成せず、中断した後、“紀元前520年に神殿を建て直す仕事に再び取り掛かり,5年もたたないうちに完成させることができました。”と7節で言っています。」
「その後、“エホバは生活に必要な物を与え,ご自分との絆を持ち続けられるように助けました。”とあるけれど、必要な物は天から降っては来なかったね。」

「エズラ6:4には“費用は王の財産から支払われる。”と言うキュロス王の命令が書かれています。ペルシャ王室からの資金援助があったから再建できたのです。この記事でそれについて何も触れないのは問題です。」
「エズラ6:10には“天の神に喜ばれる捧げ物と,王と王族の幸福を願う祈りが,絶えず捧げられるようにするためである。”と資金援助の目的が説明してある。ペルシャ王とその家族の幸福のための祈りが捧げられるためで、決してエホバのための神殿とは言えない。」

「7節にある引照聖句の一つがエズラ6:22で“彼らが喜んだのも,以前にアッシリアの王の心が友好的になったのも,エホバのおかげだった。”とあるのですが、アッシリアの王ではなくペルシャの王ですよ。エズラ記の作者は歴史を知りません。」
「エズラ記にはアルタクセルクセス王がでてくるけれど、アルタクセルクセス王は1世、2世、3世と3人いるので、どれかがはっきりしなくて、エズラに関する年代を決めるうえで大きな問題となっている。もっと正確に書いて欲しかったけれど、無理なのかな。」

「8から11節が“エホバに喜ばれることを何よりも大切にする”です。 8節には“大患難が近づくにつれ,良い知らせを伝えることはますます大切になっていきます。”とありますが、組織の方針はその逆の方向ですよ。」
「開拓者に求められる時間はどんどん減り、伝道者には時間の報告を求めなくなった。ドアからドアの伝道は減り、史上最低の伝道方法であるカートの横に突っ立っている方式が目立つようになっている。“良い知らせを伝えることはますます大切”ではなくなっている。」

「8節に“経済的な問題や迫害を経験すると,伝道に打ち込むのは難しいと感じるかもしれません。どうすればエホバに喜ばれることを何よりも大切にできるでしょうか。”とあります。“エホバに喜ばれること=伝道”というのがJWの公式のようです。聖書のどこにもそんなことは書いていません。」
「経済的な問題や迫害がなくても、伝道に打ち込むのは難しいよ。誰からも歓迎されないことがわかっているのに、他人のドアをノックすることに嫌気がして当然。」

「9、10節がオレグ兄弟とイリーナ姉妹の興味深い体験談です。二人は失業し、経済的に困窮します。その時どうしたかというと、“できるだけ多くの時間伝道するようにしました。そうすることが,生活の中で一番大切なことに目を向け続ける助けになったと思います。”と言っています。これは自暴自棄、やけくそ、としか言いようがない生活態度ですね。」
「現実逃避かも。仕事を探しに行っても、履歴書にかける職歴も学歴も資格もないJWは毎回惨めな思いをするだけ。そんな辛い思いをするよりは、外の空気を吸いながら伝道をしているほうがましだったということじゃないの。」

「10節では“ある日,2人が伝道から戻ってくると,食料品がいっぱい入った袋が2つ置いてありました。それは160㌔ほど離れた所にいる親しい友人が届けてくれたものでした。”とあります。JWらしい素晴らしい体験談です。でも二袋の食糧を160キロも遠くから持ってきた友人は賢いのか、疑問に感じます。ガソリン代を節約するためにも、現金書留でお金を送るか、小切手を送る方が賢明です。」
「現金は組織に寄付するもので、貧乏な仲間に与えていいのは余った食べ物だけ。それとも、無知なJWで単にお金を送る方法を知らないのかも。」

「この話を逆にいうと、160キロ以内に会衆の人たちは誰も助けなかったということですね。」
「東京駅から軽井沢駅まで150キロぐらいだよ。もしそこが日本なら、冷たい会衆ばかりが東京から軽井沢まで広がっていたということになる。とんでもなく冷たい宗教。」

「オレグ兄弟は、“エホバや仲間がどれほど深く気に掛けてくれているかをしみじみと感じました。”と言ったことになっていますが、英文では“エホバや会衆”です。」
「翻訳者は周囲160キロ内のどの“会衆”は誰もオレグ兄弟のことを気にかけていないことから、“会衆”を“仲間”に変えたのだろう。会衆のメンバーは仲間じゃないことがばれちゃったね。」

「11節で“エホバは私たちが人々を弟子とする活動に打ち込むことを願っています。聞く人の命が懸かっているからです。”といい加減なことを言っています。」
「そう願っているのは統治体でしょう。でも本音としては、人々を弟子とする活動はどうせ成果なんかないのだから、そんなに熱心にしなくてもいい、というものじゃないの。」

「12から18節が“エホバをもっと信頼するには”です。 こんなことを言うのは、エホバを信頼していない信者が多いということでしょうね。エズラの話が続きます。12節に“紀元前468年,エズラは捕囚にされたユダヤ人の2番目のグループと一緒に,バビロンからエルサレムへ戻りました。”とありますが、本当は前458年です。」
「12節に“この旅をするには強い信仰が必要でした。神殿のために寄付された金や銀をたくさん運んでいたので,盗賊に狙われる危険がありました。”とあるけれど、そうとも言えないよ。エズラ7:9には“第1の月の1日にバビロンを出発し,第5の月の1日にエルサレムに着いた。”とある。約4か月かかっている。バビロンからエルサレムの距離は通常の北回りで1450キロくらい。ということは平均すると一日13キロくらいしか進んでいない。とてものんびりとした旅で、危険を感じて先を急いでいるというような旅ではない。」

「13節でエステル記の話とエズラを関連させます。“紀元前484年,アハシュエロス王は,ペルシャ帝国にいるユダヤ人を全滅させるようにという命令を出します。(エス 3:7,13-15)”とあります。この年代もインチキですね。」
「エステル3:7に“アハシュエロス王の治世の第12年”とある。この王はクセルクセス1世で在位は前486から前465年。正しくは前474年。JWの年代計算は10年ずれている。」

「13節では“その時エズラは恐らくバビロンにいたので,命が危険な状況にありました。”とあります。ユダヤ人全滅の命令は史実じゃありません。」
「エステルというユダヤ人の王妃がいたことだって史実じゃない。エステル2章では美女を集めて王妃を選んだことになっているけれど、そんな習慣はない。王妃の選択は極めて政治的な行為で、美女だからとか王様が気に入っているからという理由で選ばれるものではない。物語と史実を混同していて、恥ずかしいな。」

「14節が体験談です。“東ヨーロッパに住むアナスタシヤ姉妹は,政治的な中立を保つために仕事を辞めなければなりませんでした。こう言います。「人生で初めてお金が底を突きました。……でも,エホバに頼って全部お任せしました。するとエホバが優しく世話してくださいました。”というものです。160キロ先から食料を持ってきた仲間はいなかったようです。」
「ひどい誤訳。I had never been in a situation where I was without money.だから、”お金がないという状況に陥ったことは一度もありませんでした。”と言っている。つまり失業してもお金はなくならなかった、エホバのおかげだ、というお話。翻訳にはエホバの助けはないようだ。」

「16節が面白いです。“大会や全ての集会に出席するために,休暇や予定の調整を上司にお願いすることがあるかもしれません。そのような時,エホバが確かに助けてくださることを経験できます。”とあります。休みが取れるかどうかはその国の労働法制や職場の規則によって決まるわけで、エホバは関係ないですよ。」
「英文では上司ではなく、雇用主だね。法律など無視しまくっている零細企業がJWの職場なんじゃないの?休みをお願いしたら、クビになるような。その場合でも、クビになったので大会に行ける、これはエホバのおかげ、と思うのが良きJW。」

「16節の上に3枚の写真があって、“兄弟が大会のための休暇を取らせてほしいとお願いしているが,上司に断られている。もう一度上司に話すために,助けと導きを求めて祈っている。上司に大会の招待状を見せ,聖書から大切なことを学べると説明している。上司は感心した様子で考え直している。”と説明しています。こんなJWに理解のある上司はいませんよ。」
「3番目の写真は、上司は職場に危険なカルト宗教の信者がいることを知り、どのように早く辞めさせるか考え直している、という説明が正しいでしょう。大会から戻ってきたら、自分の居場所がなくなっているかも。」

「17節でエズラはよく祈ったことを取り上げた後、18節は体験談です。“3人の子供を持つエリカ姉妹は,短い間におなかの子と愛する夫を亡くすというとてもつらい経験をしました。”とあります。そのつらい体験をしたエリカ姉妹は“友達の言ってくれたことやしてくれたことが祈りの答えだと思ったことが何回もあります。友達に自分の気持ちを話すなら,助けてもらいやすくなります。”と言っています。」
「つまり頼りになるのは、神様じゃなくて友達ということだね。10節にあった体験談と同じで、良い友人を持とうということだ。」

「19,20節が“終わりまでエホバを信頼し続ける”です。 この記事で一番重要な部分です。19節には“ユダヤ人の中には,年齢や病気や家族の責任のために帰れなかった人たちがいました。それでも,神殿再建に必要な物を寄付することによって,エルサレムに戻る人たちを喜んでサポートしました。”とあります。寄付のおねだりです。」
「統治体は寄付の減少に腹を立てているのだろう。子どもにアイスクリームを買うお金があるなら寄付しなさい、ということだね。」

「最後の21節で“この記事では,ハガイやゼカリヤが語った預言とエズラの手本からたくさんのことを学びました。学んだ点を自分に当てはめるなら,これから先どんな問題にぶつかるとしても,エホバを信頼し続けることができます。”と締めくくっていますが、時代も場所も状況も違う旧約聖書の出来事を自分に当てはめるのは無理があります。」
「誰もまじめに当てはめようなんと思わないから、心配無用。」

聖書についての質問
2024年01月19日 14:39:59

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“兄弟姉妹を心から愛することは大切(47)”で、信者同士もっと仲良くするようにという内容です。」
「またこれかよ、という内容だね。JWの人間関係は、本音の言えない建前だけの関係だから、本当の親密さは生まれないでしょう。一見親しそうでも、親子でも、JWの忠実な信者である限りの関係に過ぎないことはJWなら知っているから、仲良くなる理由がない。」

「1節で“将来,新しい世界に関する神の約束に信仰を持つ必要はなくなります。そして,神の約束に関する希望は全て実現しています。でも,エホバを愛することや人を愛することに終わりはありません。”とあります。面白いですね。楽園が来ることを前提で、楽園後の生活に備えるために、愛が必要だといっています。」
「楽園など来ない、という常識的見解はJWの中では背教者の意見だからね。楽園は数年以内に来ると信じているフリをしなくてはならないのが、JWだ。」

「3から6節が“互いに愛を示すことが大切なのはどうしてか”です。 3節に“互いに愛し合うことが大切なのはどうしてでしょうか。何よりも,それは私たちが本物のクリスチャンである証拠になるからです。”とあります。JWは偽クリスチャン!と言われることを気にしているわけですね。」
「JWはせいぜいキリスト教系の新興宗教という扱いで、クリスチャンとは思われていない。昔だったら、宗教系雑誌の訪問販売員。」

「3節に“使徒ヨハネは仲間の兄弟姉妹に,「神を愛する人は,自分の兄弟も愛さなければなりません」と言いました。(ヨハ一 4:21)兄弟姉妹を愛するなら,神を愛していることになります。”とありますが、最後の部分は間違っていますよ。」
「神を愛するなら兄弟も愛するというのが真実だとしても、兄弟を愛するなら神を愛するは真実とは言えない。執筆者は論理学を知らないね。」

「5節で“もし兄弟姉妹に対する愛が弱まっているなら,神への愛も弱まっているのかもしれません。”とあります。信者同士仲よくしていない人は背教者予備群として警戒すべきということですね。」
「えこひいき、いじめ、悪意のあるうわさなどがはびこっている会衆では、JWの人間関係に嫌気がして、集会に来なくなる信者がでてくる。それを神への愛が弱まっていると言っているだけ。兄弟姉妹への愛と神への愛は別だということは認めたくないようだ。」

「6節に“兄弟姉妹への愛が弱くなっていることに気付いたなら,手を打つ必要があります。そのままにしておくと,エホバとの絆を失ってしまうかもしれないからです。”とあります。要するに、集会に来なくなるわけですね。」
「集会に、遅く来て早く帰るような信者は、信者同士の交流を避けている可能性があるから、要注意人物としてマークせよということだよ。」

「多くの人が宗教に求めるものは親密な人間関係です。共同体の一員という仲間意識や帰属感です。JWはその点うまくいっていません。」
「JWが強調するのは退屈な集会と伝道で、一緒に食事をしたりスポーツをしたり、楽しい宗教行事をしたりすることが極めて少ないつまらない宗教だからね。」

「7から11節が“愛を示すためにどんなことができるか”です。 いろいろな方法があると言っていますが、9節で取り上げられるのは“慰め合う”ことですが、“慰めることによって,つらい思いをしている仲間が永遠の命に続く道を歩き続けられるように助けることができます。”とあります。要するにJWをやめるのを阻止するために、慰めるようにという指示です。」
「信者減少を気にしているね。ここで言う“永遠の命に続く道”というのはJWとして死ぬまで歩き続ける道という意味だね。その道はあまりにも退屈で永遠に続くように感じられるからね。」

「10節で“思いやりと慰めには深い関わりがあります。苦しんでいる人を見てかわいそうに思うと,その人を慰め,つらい気持ちを和らげてあげたいと思うものです。”とありますが、JWは違いますよ。」
「自分の子どもが排斥処分となり、そのことで子どもがひどく苦しんでいても、かわいそうと思わず、慰めることもなく、見捨てるのが正しいJWの態度だよね。思いやりも慰めもないね。」

「10節に“パウロは,エホバの思いやりと慰めを結び付けて,エホバのことを「温かな憐れみの父,あらゆる慰めの神」と言っています。(コリ二 1:3)”とありますが、“温かい憐れみ”はヘンですよ。」
「英文ではtender mercies。優しい憐れみ?元のギリシャ語は一語しかないのだから”憐れみ”でしょう。tenderはJWが付け加えたもの。協会共同訳では” 慈しみ深い”となっている。」

「10節で“エホバは人々への深い思いやりを持っているので,温かな憐れみの父または源ということができます。”とあります。しかし、エホバの過去にした代表的なことと言えば洪水による大虐殺ですし、これからしようとしているのはJWの宗教拡張員を玄関先で断った人を全滅させる大虐殺です。こんな神が“人々への深い思いやり”があるとは思えません。」
「何を語るかではなく、何をするのかで判断すべきだよ。エホバのすることと言えば破壊と殺戮だね。」

「11節に“助けを必要としている兄弟姉妹を慰めることはとても大切です。”とありますが、具体的な慰め方を教えて欲しかったです。JWの慰め方と言えば、家族を亡くした人に向かって、楽園で会えるので悲しまないように、といったバカげたものですよ。」
「長年JWをしていると自然な情愛がなくなるからね。自分の子どもの命を犠牲にする残忍な輸血規則に従うよう強制され、さらに排斥または断絶した親族や友人に対しては感情的および社会的つながりを遮断することを強制される。一方、JW以外の人を劣ったものとして見なし、人々の苦しみに無関心になり、真の配慮を示すことよりもJWのインチキ教義を伝えることこそが真の愛と教え込まれている。こんな人たちが苦しんでいる人を適切な仕方で慰めることなど不可能だよ。」

「12から17節が“強い愛を持ち続けるために何ができるか”です。 12節には“愛のない人たちに影響されてしまわないように注意する必要があります。”とありますが、元の英文ではもっとヘンなことを言っていますよ。」
「“we should remain alert so that we are not influenced by the lack of love in the world around us.”だから、私たちの周囲の世界の愛の欠如に影響されないように注意を払う必要がある、と言っている。典型的なJW思考だね。自分たち以外の世界を根拠もなく貶める。」

「翻訳者はこれではカルト宗教丸出しと思って、表現を和らげたのでしょうね。」
「自分たち以外の人間は麻薬中毒のセックスマニアでサタンの手先と思わせて、JWをやめるのを阻止しようという組織の作戦だよ。翻訳者もそれに従わないとなると背教者とされるよ。」

「13節に“ペテロはこう言っています。「何よりも,熱烈に愛し合ってください。愛は多くの罪を覆うからです」。(ペテ一 4:8)”とあり、14節でこの聖句を解説しています。」
「“ここでペテロが使っている「熱烈に」という語には,「引き延ばす」という意味があります。”とあるけれど、形容詞だから、正確には“引き延ばされた”と言う意味。」

「それについて“愛は伸縮性のある布に例えることができます。それを両手で持って,1つや2つではなく,「多くの罪」を覆うまでに引き延ばしていくことができます。覆うことは許すことを表しています。1枚の布が汚れや傷を覆い隠せるように,愛も仲間の不完全さや弱さを覆うことができます。”と説明しています。つまり、長老が児童性的虐待をしていても、愛で覆い隠せ、JW内でこっそり処理しなさい、ということですね。」
「しかし、JWでは犯罪ではないことでも排斥処分にするよね。愛は使う人次第で自由に伸びたり縮んだりする便利なものということかな?」

「15節では“私たちの愛は,難しいと感じるときでも仲間の不完全さを許せるほど強いものである必要 があります。(コロサイ 3:13を読む。)”とJWの大好きな“不完全さ”が出てきます。犯罪でも不完全だからと許して、被害者は泣き寝入りしなさいという教えですね。」
「引照聖句だけど、JW訳では“エホバが寛大に許してくださったのですから,”となっている。元のギリシャ語は“主 kurios”だよ。ここではキリストのことを指していると解釈するのが普通。それを何の根拠も示さず、エホバにかえるとは、あきれる。エホバ教ならではの聖書の改ざん。」

「同じコロサイ3章でも3:18は“妻の皆さん,夫に従ってください。それは主に従う人にふさわしいことです。”と、主をエホバに変えていません。恣意的です。」
「JWはエホバに従うのだから、“それはエホバに従う人にふさわしいことです。”と改ざんすべきなのに、そうしないのは、わずかに残っている良心がとがめたのか?」

「16節が実際的なアドバイスです。“兄弟姉妹の欠点ではなく,良いところに注目しましょう。”とあります。そして写真のたとえ話が続きます。良くない写真は消去し、いい写真だけを残しましょう、と言っています。」
「スマホで撮った写真はすぐ消去できるけれど、人間の記憶はそうはいかない。つらいイヤな経験はいつまでもまとわりついて、気持ちを落ち込ませるよ。そのように神が設計したんじゃないの?」

「執筆者はJWの出版物に書かれていることしか知らないようなので、PTSDというのを知らないのでしょうね。それでお気楽なことを書いているのですよ。」
「心的外傷後ストレス障害だね。命を脅かされるような外傷的出来事が、意図しない、望ましくない記憶として、あるいは悪夢の形で何度も現れたり、実際にその出来事が起こっているかのように再体験するフラッシュバックが起こる人もいるというもの。」

「17節の引照聖句の格言19:11は“過ちを見過ごす人は美しい。”とあるのですが、“美しい”はヘンですよ。協会共同訳では“背きの罪を赦すことがその人の誉れ”です。」
「元のヘブライ語は美しいという意味もあるけれど、そう訳している聖書はまずないね。文脈から言って“誉れ”だよ。」

「それから“過ち”もヘンじゃないですか?単なるミスなら、厳しくとがめるのではなく、大目に見ることは普通ですよ。」
「“過ち”ではない。元のヘブライ語は宗教上、道徳上の罪という意味で用いられることが一番多い。次は反逆という意味で使われることが多いね。出エジプト34:7に“揺るぎない愛を幾千代までも示し,過ちと違反と罪を許す。”とあるけれど、同じ単語をJW訳でもここでは“違反”と訳しているよ。」

「最後の18,19節は“仲間を愛することが今大切なのはどうしてか”です。 18節はまとめですね。今までの繰り返しです。」
「今週の記事は、体験談が出てこなかったね。そのせいでいつも以上に退屈だ。“好き嫌いの激しいアンドレイ兄弟は服装のことで長老のモリス兄弟と関係が悪くなりましたが、エホバに祈ってから、モリス兄弟をお酒に誘うと、お酒好きのモリス兄弟とはすぐ仲直りできました。お土産を渡したのもよかったようです。おかけでエホバへの愛も深まりました。アンドレイ兄弟は今では長老として働いています。”なんて言うのをどうして加えなかったのかな?」

「19節には“愛し合うことが今特に大切なのはどうしてでしょうか。その理由について,ペテロはこう言っています。「全てのものの終わりが近づいています。ですから,……熱烈に愛し合ってください」。”とありまして、終わりが近いことが愛する理由のようです。」
「終末カルトらしくていいけれど、問題はその終わりが来そうもないこと。」

「終わりが近いから進学しなくていい、終わりが近いから結婚しなくていい、終わりが近いから子供を産まなくていい、終わりが近いから老後に備えなくていい、などなどと、この宗教は100年以上も言ってきました。終末カルトは信者の人生を破壊してきましたね。」
「終わりが近いという宗教は全て詐欺と思って、きっぱりやめよう。」

聖書についての質問
2024年01月12日 14:39:02

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは必ず地球を楽園に変える どうしてそういえるか(46)”で、啓示21章3から6節について、JW流の珍解釈を学ぶという内容です。」
「中身は「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」の303-304ページ8-9節をそのまま引き写したようなもの。新しい天と地は啓示の書に実現すると書いてあるから絶対実現すると言っているだけ。それ以外の根拠はない。」

「1節でイザヤ65:16が引用され、“イザヤがイスラエル人に伝えたかったのは,エホバが言った事は全てその通りになるということでした。実際,エホバの約束は全て実現してきました。”といい加減なことを言っています。」
「JWのお勉強は、信者の無知を前提とした宗教宣伝の押し売りだからね。自分たちに都合のいいことを、嘘でもガンガン主張しまくるわけだ。」

「成就しなかった預言はたくさんありますよね。」
「イザヤ書からだと、イザヤ19:1-8だね。そこでは“海の水は干上がり,川も枯れる。 川は悪臭を放つようになる。エジプトのナイルの運河は水かさが減り,枯れる。アシやイグサは朽ちる”と、ナイル川の水が枯れて、海から水がなくなることを予言しているけれど、実現していないね。」

「イザヤ書19章はその他にもいろいろなことを予言しています。19: 18では“その日,エジプトには,カナンの言語を話し,大軍を率いるエホバに尽くすことを誓う5つの町があることになる。その1つは「打ち壊す町」と呼ばれる。”とありますし、19:21には“エジプト人はその日にエホバを知り,犠牲と供え物を捧げ,エホバに誓約をしてそれを果たす。”とありますし、19:23、24では“その日,エジプトからアッシリアへの街道が備えられる。アッシリア人がエジプトに入り,エジプト人がアッシリアに入る。エジプトはアッシリアと共に神に仕える。その日,イスラエルはエジプトとアッシリアと共になり,世界の中で祝福となる。”とありますが、実現率0%です。恥ずかしいですね。」
「イザヤ書19章は神の預言がいかに実現しないかを示している章だね。」

「旧約聖書の預言者たちはエジプトをやたらと目の敵にして、エジプト滅びるぞ、みたいな予言を何度もしていますが、外れていますよね。預言というより願望ですか?」
「エレミヤ46:13-15で、“バビロンのネブカドネザル王がエジプトを打ち倒すために来ることについて,エホバが預言者エレミヤに語った言葉。「エジプトで伝え,ミグドルで広めなさい。ノフとタフパヌヘスでも広めるように。こう言いなさい。『配置に就き,用意を整えよ。剣があなたの周囲でむさぼり食うからである。あなたの強い者たちが一掃されたのはどうしてか。彼らは踏みとどまれなかった。エホバに押し倒されたのである。”とあるけれど、そういうことは実現していないね。』

「エレミヤ46:19に“エジプトに住む人々よ,捕囚の身となるために荷物をまとめよ。”とあります。エジプト人もイスラエル人と同じように捕囚の身となれというどす黒い願望が出ていますね。」
「そうはならなかったので、エレミヤは悔しがったかな?聖書の預言ってこんなものだよ。」

「2節に“イザヤの時代から800年ほど後,パウロはエホバの約束が必ずその通りになるといえる理由についてこう言いました。「神は偽ることができません」。(ヘブ 6:18)”とあります。ヘブライ書の著者はパウロではないですし、神は偽ることができますよ。できなければ全能とは言えません。」
「ヘブライ6:18は“この2つの不変の事柄に関して,神は偽ることができません。”とあるだけで、神は全く偽ることができないとは言っていないよ。」

「2節に“真理の源であるエホバはうそをつくことができません。1つの泉から真水と塩水が湧き上がってくることがないのと同じです。”とあるのですが、1つの泉から真水と塩水が湧き上がってくることはありますよ。ウソが多いですね。」
「執筆者は本当に無知だね。海岸近くの井戸の水を大量にくみ出すと、塩水に変わるなんてことはよくある話。地下で真水と海洋水がまじりあうと、海洋水は密度が高いので真水の下に潜り込み、上が淡水、下が塩水という2層構造になる。その場合最初は真水で、途中から塩水に変わる。しかし何らかの理由で真水の圧力が増すと、今度は真水が出てくることになる。」

「3,4節が“エホバはどんなことを約束しているか”です。 3節に“(啓示21:3,4を読む。)エホバは,「もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくな[る]」時が来ることを約束しています。”とあります。JWは啓示のこの部分を文字通り実現すると思っているようですね。啓示は文字通り受け取っていいものですか?」
「啓示21:1は“また私は,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない。”とある。これが文字通りなら、新しい地には海がないことになる。海の水が蒸発して雨となるわけだけど、海がなくなると地球は砂漠化するよ。文字通りとは解釈できないね。」

「啓示では、海は野獣が現れるところで、邪悪さの象徴じゃないですか?」
「海がないというのは、文字通りではなく海が象徴するものがなくなるということでしょう。」

「JW訳では啓示21:4は“もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。以前のものは過ぎ去ったのです”となっていますが、協会共同訳では“もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。”です。最後の部分が違います。“以前”なのか“最初”なのか?」
「字義的には“最初”。啓示21:1も協会共同訳では“最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。”で、こちらの方が正しい。“以前のものは過ぎ去ったのです。”は誤訳だからね、JWはよく覚えておいてね。」

「そうなると、最初の天と地はどんな天と地なのでしょうか?海が比ゆ的なものなら、文字通りの天と地ではないですよ。」
「21:4で述べられていること。つまり、死、悲しみ、嘆き、苦痛の満ちた世界。それが最初の天と地。同じことを2度違う表現で繰り返すというのはユダヤ的な文章技法としてよくある。」

「5から7節が“エホバは保証している”です。 3節に“「王座に座っている方が,『見なさい! 私は全てのものを新しくしている』と言い,さらにこう言った。『書きなさい。これらの言葉は信頼でき,真実である』。またその方は私に言った。『これらの言葉は実現した! 私はアルファであり,オメガである。始まりであり,終わりである』」。(啓 21:5,6前半)”とありまして、だから信頼できるということのようです。」
「6節に“『啓示の書の最高潮』の本には次のように説明されています。「それは,あたかもエホバご自身が忠実な人類のために将来のそれらの祝福を記した保証書,もしくは権利証書に署名しておられるようなものです」。”とある。JWの過去の出版物に書かれていることはそんなに権威あるの?新しい光が出て、いずれ廃棄処分となる本じゃないの?」

「7節に“エホバご自身が保証しているのです。この点を考えると,続く保証の言葉には確かに説得力があります。”とありますが、エホバの約束なんてあてになりません。」
「それは言える。例えば、ヨシュア1:3-5で神はヨシュアに、“モーセに約束した通り,あなたたちが踏む所全てを,私はあなたたちに与える。あなたたちの領土は,荒野からレバノンや大河ユーフラテスまで,また西の大海まで広がり,ヘト人の全土を含む。 あなたが生きている限りあなたに立ち向かえる者は誰もいない”と保証する。それでどうなったかというと、ヨシュアは大した領土を獲得せずに終わる。」

「ヨシュア13:1-5に“ヨシュアは年を取って高齢になっていた。エホバは言った。「あなたは年を取って高齢になった。だが,取得すべき土地はまだ多く残っている。 以下の土地が残っている。・・・”と地名が長々と続きます。エホバはヨシュア1章での約束を忘れたようですね。」
「裁き人の時代でも絶えず周辺の民族と戦っている。神様がやっつけてくれるはずじゃなかったのかな?」

「8から10節が“見なさい! 私は全てのものを新しくしている”です。 8節に面白いことが書いてあります。“エホバは,「私は全てのものを新しくしている」と言っています。これはエホバが将来に行うことですが,その約束は必ず果たされるので,すでに実現しているような言い方になっています。”といっています。違うでしょう。」
「啓示に書かれていることは遠い将来のことという結論が先にあって、その結論に合うように、現在形の文でも、未来のことを意味しているのだ!と強引に解釈しているだけ。」

「啓示22章では“私は速やかに来る。”といっていますから、啓示に書かれていることは、本来ならとっくの昔に実現しているはずのことですよ。」
「啓示の作者は間もなく、あるいは今生じていることを書いたつもりだと思うよ。でも実現しないので、後の時代の人たちは自分たちの生きている時代に生じることが書かれていると解釈し続けてきた。JWもその仲間。」

「9節で“「全てのものを新しくしている」という表現についても考えてみましょう。啓示 21章でこの言葉は,エホバが行われる2つのことを指しています。滅ぼすことと回復させることです。”と断定しています。」
「何の根拠もないね。啓示21:1で“また私は,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない。” とあるわけだけど、これは文字通りの海のない新しい地球が創られるということではない。比ゆ的な意味。何が新しいかというと、21:3に“神は人々と共に住み,人々は神の民となります。”とある。つまり神と人間の関係が新しくなると言っている。」

「JWの解釈は、9節にあり、“エホバは,今存在している「天」と「地」を単に手直しするのではなく,完全に除き去ります。そして,「新しい天と新しい地」,つまり新しい政府と人間社会に作り替えます。”というものです。聖書はそんなことは言っていません。」
「既に言ったように、啓示21:5には“私は全てのものを新しくしている。”とあって、現在形なんだよ。JWの言うような遠い未来のことではない。」

「10節では“全てのものを新しくしている」と言っています。これはつまり,エホバは地球と人間を完全な状態に戻そうとしているということです。”と説明していますね。“完全”という言葉は啓示の本のどこにも出てきませんよ。」
「完全とか不完全が大好きなのはJWであって、聖書ではないよ。」

「10節で“イザヤが預言していた通り,地球全体はエデンの園のような美しい場所になります。”とあり、引照聖句がイザヤ 25:8; 35:1-7なのですが、地球全体のことなど言っていませんよ。」
「イザヤ25:1-8は敵の都市が破壊されたことについての神への感謝を述べている部分。イザヤ35:1-10はシオンへの帰還について述べたもので、地球全体のことなど述べていない。」

「11,12節は“これらの言葉は信頼でき,真実である。……これらの言葉は実現した!”です。 啓示21:5、6からの引用です。」
「面白いのは、12節の“楽園に関する ご自分の約束がすでに実現したかのような言い方です。”とわざわざ書いてあること。この表現に違和感を覚えたのだろうけれど、そうとしか読めないよ。実現したんじゃないの?新しい天と地の創造は完成したと宣言している。」

「13から17節が“私はアルファであり,オメガである”です。 ここは新しい主張ですよ。アルファとオメガについて奇妙なことを言っています。」
「14節の設問が“どんな出来事を「アルファ」また「オメガ」ということができますか。”だけど、この設問自体がおかしい。アルファもオメガもどんな出来事も指していないよ。単なるギリシャ文字の最初と最後。」

「その設問の答えは、“「神は2人を祝福し,こう言った。『子を生み,増えて,地上全体に広がり,地球を管理しなさい』」。(創 1:28)エホバがこの言葉を語った時が「アルファ」となりました。そして,エホバの考えていることが実現し,完全になったアダムとエバの子孫が地球全体に広がって地球を楽園に変える時,それが「オメガ」となります。”です。なぜそうなのか、その根拠は不明です。」
「啓示21:6では“私はアルファであり,オメガである。始まりであり,終わりである。”と説明しているよ。宇宙の始まりから終わりまで支配している存在だといっている。聖書に書かれていないことを勝手に付け加えるのがJWのようなニセ預言者の特徴だ。」

「14節に創世記1:28が引用されていて、“地上全体に広がり,地球を管理しなさい”とあるのですが、これは酷い訳ですね。英文ではfill the earth and subdue it.ですから、地に満ち、地を従えよ、ですよ。」
「“地球を管理しなさい”は爆笑もの。まず地球という概念は古代にはないよ。日本語翻訳者は本気で聖書では球体としての地球を想定していると思っているのだろう。subdueには管理するという意味はない。征服する、抑えるという意味だよ。」

「14節に“エホバはアダムとエバを造った後,人間と地球について自分が考えていることを伝えました。”とありますが、英文ではHe expressed his original purpose for mankind and for the earth.で、人類と地球に関する本来の目的を表明されました、です。目的をごまかしていますよ。神の目的がなんなのか、日本の信者から隠すつもりですよ。」
「神の本来の目的は、14節によると人間が“地上全体に広がり,地球を管理しなさい”だよ。恐らく、この考えに賛成できなかったんだよ。」

「15節にはJW特有の宇宙主権論争が出てきます。“エホバがアダムとエバを滅ぼして,代わりに創造した別の完全な夫婦によってご自分の考えを実現させるとしたらどうでしょうか。もしそうしたなら,サタンはエホバのことをうそつき呼ばわりしたことでしょう。創世記 1章28節にある通り,エホバはアダムとエバの子孫が地球全体に広がることになる,と言っていたからです。”とあります。これはなぜ反逆したアダムとエバを焼き殺して、新しい夫婦を土をコネコネして作らなかったのかという疑問に答えるためのものですね。」
「これはJWが創った神学だね。聖書にはそんなことは書かれていない。JWの神学では神様はサタンにどう思われるかを過剰に気にしている情けない存在という設定だね。気に入らない人間は簡単に殺すのに、なぜサタンを消してしまわないの?」

「創世記にはサタンは出てきません。旧約聖書全体でもサタンは出てきても、悪魔サタンは出てきません。のちの時代の思想を創世記にさかのぼって適用しているわけですよ。」
「悪魔サタンの思想は旧約と新約の間の時代の約200年間に発達したもの。それで旧約では重要な存在でなかったサタンが、新約ではいきなり出てきて、イエスを誘惑したりするわけだ。」

「16節で“そして,アダムとエバの子孫が完全になることができなければ,エホバは失敗したと言ったはずです。エホバは地球を完全な人間で満たすと約束していたからです。”と言っていますが、“地球を完全な人間で満たす”と約束していません。“完全”はJWが勝手に付け加えたものです。」
「完全と不完全にこだわるのはJWの特徴。その違いは何なのかはどこにも説明されていないけどね。」

「17節では“サタンはエホバの贖いの取り決めについて知って,あぜんとしたことでしょう。”と言ってから、“千年統治の終わりまでに,アダムとエバの子孫でエホバに従う人たちは完全になり,楽園になった地球で暮らします。”と断定していますが、根拠はありません。聖句は引用されていません。」
「神様とサタンは人類をゲームの駒として勝敗を争っているとJWでは考えているようで、おかしいね。JWによると、“贖い”は神様の考えた裏技のようなもので、サタンはそれにあぜんとしたわけだ。このゲームのせいでどれだけの人類が苦しもうが、神様は気にしないようだ。」

「最後の18、19節が“楽園に関するエホバの約束に対する確信を深める”です。 エホバは3つの保証をしているようです。“1つ目は,エホバご自身が約束しているということです。”、“2つ目は,この約束が実現することは確実なので,エホバの目から見てすでに起きたも同然であるということです。”、“3つ目は,エホバが始めたことは必ず成功に終わるということです。”とあります。簡単に言えば、啓示21:3-6にそう書いてあるから、確信できると言っているだけです。」
「そこには楽園という言葉は出てこないよ。JWがイメージしているような楽園のことなど一言も言っていない。」

「啓示21章は新しいエルサレムについての章ですよ。それは21:9で“子羊の妻となる花嫁”と説明されていますが、12の門があるとか、城壁があるとか、宝石でできているとかいろいろ書いていますが、楽園は出てきませんね。」
「これが楽園に関するエホバの約束だと思っているのはJWだけ。願望と書かれていることを混同している。」

「19節に“伝道の時に,啓示 21章4節にあるパラダイスの約束について,「そんなことが起きるとはとても思えない」と言われたらどうしますか。続きの5節と6節を読んで説明することができます。”とありますが、これは日本では通用しませんね。」
「聖書に書いてあるから、その通り実現するという理屈が通用しそうなのは聖書に書かれていることは何でも真実と思い込んでいるキリスト教徒が多い国だけだね。そんな国は強いて言えばアメリカだけど、アメリカでもそういう人は減りつつある。」

「JWはキリスト教が主流の国でキリスト教にケチをつけて、JWに改宗させることによって信者を増やしてきた宗教ですからね。聖書なんて大昔の宗教の本でしょう、という国では信者獲得は困難ですね。」
「JWは過去のキリスト教の伝道の成果に寄生した宗教ということ。非キリスト教圏では信者獲得はほとんどうまくいっていない。過去のキリスト教宣教師に感謝しよう。」

聖書についての質問
2024年01月05日 14:50:52

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバの神殿で崇拝できるのは素晴らしいこと(45)”で、ヘブライ書に出てくる神殿について学ぶという内容です。」
「そんなことは、日々の生活に追われる信者にとって、どうでもいいことなんじゃないの?終末論宗教らしく、終わりの日の預言と結び付けてくれないと誰も興味持たないよ。」

「英語のタイトルは、エホバの霊的神殿で崇拝できる特権を大切にしましょう、という意味です。“霊的”を省略していますね。それで本当にJWは神殿を作るのかと思いましたよ。」
「翻訳者は“霊”が嫌いだからね。それから“特権”という言葉も嫌いだね。たいていは省略する。元の英文は単なる雑用のことも特権と呼ぶくらい、特権が大好き。」

「2節に“この神殿は文字通りの建物ではありません。イエス・キリストの贖いの犠牲に基づく,エホバに喜ばれる崇拝を捧げるための取り決めのことです。”と説明しています。」
「その具体的なことがヘブライ書に書いてあるというわけだね。やっぱり、いまのJWにとってどうでもいいこと。」

「3節で“パウロはどうしてユダヤに住むヘブライ人のクリスチャンに手紙を書いたのでしょうか。”とありますが、ブライ書はパウロが著者じゃないですし、手紙でもありません。」
「ヘブライ書には誰が書いたかも、誰にあてたかも書かれていない。手紙の形式をとっていない文章で、説教ないしは勧告といった謎の文章。正典の中に入れられたのはずっと後になってから。パウロが書いたものではないと知られていたが、正典に入れるためにパウロが書いたという主張がなされた。JWはそれを真に受けているわけだ。」

「それが疑問視されるようになったのは宗教改革の頃ですよね。ルターはアポロを著者と言っています。」
「それに対して、カトリック側は1546年のトレント会議で、パウロはヘブライ書の著者と決めてしまう。しかし、1914年のローマの聖書委員会で必ずしもパウロを著者とする必要はないとする。そんなわけで、ヘブライ書はパウロが書いたと主張するのはごく一部の人だけ。」

「「パウロは目立ちたがり屋ですよ、自分が書いたのなら、キリスト・イエスによって選ばれた使徒パウロより、というようなことを絶対書きますよ。」
「パウロは異邦人の使徒だったはずなのに、そのパウロがヘブライ人に向けて書いたというのは不自然だね。」

「ヘブライ書では旧約時代の祭司と神殿儀式が大きく取り上げられていますが、パウロはそんなことに関心ありませんよ。パウロが関心を持っていたのは信仰ですが、それはヘブライ書ではパウロと違った意味で使われています。」
「作者は神殿儀式に詳しいから、祭司関係の人かもしれない。イエスを大祭司として描いているけれど、それはヘブライ書だけの思想で、パウロにも当然ない。」

「3節にヘブライ書が書かれた理由が出ていて“1つ目に,パウロは励ましを与えたいと思っていました。”とあります。」
「それはそう。ヘブライ書の作者は迫害を受けてユダヤ人クリスチャンが元のユダヤ教に戻ることを恐れているからね。それでユダヤ教よりもキリスト教のほうが優れているということをしつこく言っているし、キリスト教から離れたらひどい罰が待っていると脅かしてもいる。」

「4節に、ヘブライ書が書かれたもうひとつの理由が出ていて“2つ目に,ヘブライ人のクリスチャンは,「固い食物」つまり神の言葉の中にある新しい教えや深い教えを理解しようと努力していませんでした。(ヘブ 5:11-14)”とあります。」
「引照聖句の中で“固い食物ではなく,乳を必要とする状態に逆戻りしています。”と作者が怒っているけれど、それはユダヤ教に逆戻りすることを言っている。今のJWには何の関係もない。」

「5節で、実体と影の話が出てきます。“ユダヤ人が行っていた崇拝は,後に行われることになっていた,クリスチャンの崇拝という「実体」の「影」にすぎませんでした。”とあり、“では,「ヘブライ人のクリスチャンへの手紙」の中で説明されている「影」(ユダヤ人が行っていた崇拝)と「実体」(クリスチャンの崇拝)を比べてみましょう。”と続きます。」
「実態と影という二元論はプラトン主義ね。キリスト教の優越を主張するのに、ヘブライ書の作者はユダヤ教はキリスト教の影にすぎないとプラトン的理屈を持ち出したということ。こんな思想はパウロにはない。」

「6,7節が“幕屋”です。 “ユダヤ人が行っていた崇拝”と“クリスチャンの崇拝”の比較です。7節で“幕屋は「天にあるものの影」で,エホバの偉大な神殿,つまり崇拝の取り決めを表していました。”とあります。」
「英文では“つまり崇拝の取り決めを表していました。”という部分はない。翻訳者が付け加えた。」

「その後、“パウロは,「この天幕[つまり,幕屋]は今あるものを表して[いる]」と言いました。(ヘブ 8:5; 9:9)”ですが、これはヘブライ9:9の引用ですけれど、日本語訳が間違いじゃないですか?」
「元の英文はThis tent is an illustration for the present timeで、この幕屋は今の時代、つまりヘブライ書が書かれた時代を表している、という意味。協会共同訳では“この幕屋とは、今という時代の比喩です。”となっている。」

「そして“この神殿は,西暦29年に存在するようになりました。その年にイエスはバプテスマを受け,聖なる力によって選ばれ,エホバの「偉大な大祭司」となりました。(ヘブ 4:14。使徒 10:37,38)”とあります。バプテスマを受けた時が大祭司になった時とは引照聖句は言っていません。」
「関係するのはヘブライ4:14だけど、“私たちには,天に行った偉大な大祭司,神の子イエスがいるのですから”とあるだけ。天に行ってから大祭司になったのか、天に行く前かはわからない。」

「“天に行った”とありますが、英文ではhas passed through the heavensで、天は複数形ですよ。」
「協会共同訳では“もろもろの天を通って来られた”と、ちゃんと複数の天にしている。神のいる天の下には様々な下天があるという宇宙観だね。そこを通過して神のいる天に来られたという意味。日本語翻訳者はそんなことを知らないから、天と誤訳している。」

「8,9節が“大祭司”です。 ヘブライ7章の話です。人間の大祭司よりイエスの大祭司の方が優れていると言っています。」
「引照聖句のヘブライ8:2が“人間ではなくエホバが立てた真の天幕の聖なる場所で奉仕している”とあるけれど、英語版は“a minister of the holy place and of the true tent”だよ。“聖所と真の天幕での奉仕”であって、“真の天幕の聖なる場所”じゃないよ。適当に訳しているよね。協会共同訳では“人間ではなく主がお建てになった聖所と真の幕屋”。」

「10、11節が“祭壇と犠牲”です。 11節で“イエスは,エホバの「望まれること」を表す“祭壇”で自分を犠牲にしました。”とあります。これって理解できません。」
「“望まれること”が祭壇だなんて聞いたことがない。引照聖句はヘブライ10:10で“この「望まれること」により,イエス・キリストの体が一度限り捧げられたので,私たちは神聖なものとされています”となっているけれど、元のギリシャ語で“望まれること”にカッコなんか使われていない。勝手にJW が付け加えたカッコ。」

「普通のキリスト教ではイエスは十字架で死んだわけで、十字架こそが祭壇に相当すると言うと思います。」
「JWはそれが言えないので、“エホバの「望まれること」を表す“祭壇”という珍説を作り上げたと思うね。」

「12から14節が“聖所と至聖所”です。 13節に“イエスの弟子のうち14万4000人だけが,聖なる力によって選ばれ,イエスと一緒に天で祭司として働きます。”とJWのインチキ教義が出てきます。」
「これはヘブライ書とは関係ないね。JWが勝手に言っているだけ。」

「その後“幕屋の聖所は,天に行く人たちが地上にいる間に持つことのできるエホバとの特別な関係を表しています。(ロマ 8:15-17)至聖所は,エホバが住んでいる天を表しています。”といっていますが、おかしいですよ。まず引照聖句のローマ書はそんなことを言っていません。」
「そこには幕屋の聖所なんてことは出てこないね。JW得意のこじつけだね。」

「その後“イエスは人類のために人間としての体を犠牲にすることによって,選ばれたクリスチャン全てが天で生きられるようにしました。”とあります。引照聖句のヘブライ10:19には“従って,兄弟たち,私たちはイエスの血により,確信を持って,聖なる場所に入る道を歩むことができます。”とあるのですが、これは144000人限定というのがJW解釈のようです。人類の大多数にとっては関係のないわけです。」
「天に行くのはピッタリ144000人だけというのは“啓示”から来たJW独自の教義。それがヘブライ書にも時間をさかのぼって適用するわけだ。もちろんそんなことを言っているのはJWだけ。」

「ここでは“兄弟たち”とありますが、144000人は女性もいますよ。それは文字通りではないという解釈なのでしょうね。」
「JWの解釈の不思議な点だね。144000人だけは文字通りで、それ以外は全て比喩的と見なす。この場合だって、“兄弟たち”は文字通りの意味でなく、真のクリスチャンをさす比喩的な言葉で、男性も女性も含まれます、と強弁するのだろう。」

「ヘブライ書は、ユダヤ教よりキリスト教の方がいいよ、と主張していて、その根拠のひとつとして、ユダヤ教は聖なる場所に入れるのは特別な人限定だけれど、キリスト教では聖なる場所は全ての人に開かれている、という主張ですよ。でもJWの教義はユダヤ教的ですよ。」
「JWでは聖なる場所は144000人限定だからね。大多数はユダヤ教と同じで聖なる場所を外から眺めるだけ。エホバ教はユダヤ教に近い宗教だね。」

「15,16節が“庭”です。 16節に“天に行くクリスチャンのうち地上に残っている人たちは,イエスと一緒に祭司として奉仕する前に,エホバの神殿の内側の庭で忠実に奉仕します。”とあります。そして、“地上で生きる希望を持つ大群衆は,外側の庭で奉仕しています。(啓 7:9,13-15)”とユダヤ教的なことを言っています。」
「ヘブライ書の話なのに啓示に飛ぶのがJWらしいね。ヘブライ書の作者は啓示のことなど知らないし、144000人も大群衆の話も知らないよ。終末論宗教のJWにとって啓示は聖書の中心なので、なんでも啓示に書かれていることと結びつける。」

「大群衆は地上で暮らすなんて一言も聖書に書かれていません。」
「大群衆は啓示19:1にも出てくる。“私は大きな群衆の大声のようなものが,天でこう言うのを聞いた。”とある。つまり大群衆は天にいる。啓示7:9の“大群衆”と同じなのに、“大きな群衆”とあたかも別の存在かのように訳しているのが笑えるね。」
「英文では、7:9も19:1も“a great crowd”で同じ単語になっています。」
「それなのに19:1を“大群衆”と訳すると彼らが天にいることになってしまうと翻訳者は気づいて、“大きな群衆”と訳することにしたんだろう。JWの教義を守るために苦労しているね。」

「それからJWは144000人と大群衆が全く別の存在と考えますが、両者は区別なんかされていませんよ。」
「144000人については7:4で“そして私は,証印を押された人たちの数を聞いた。”とあって、聞くだけ。そして、7:9で“その後,私が見ると,全ての国や民族や種族や言語の人々の中から来た,誰も数え切れない大群衆が・・・”と続く。ヨハネが実際に見たのは大群衆だけ。144000人も大群衆の一部。」

「最後の17,18節が“エホバへの崇拝を大切にする”です。 17節で“私たちは皆,神の王国の活動を推し進めるために,自分の時間や体力,資産を用いることができます。”と言っています。厚かましい要求ですね。」
「英文ではOUR PRIVILEGE TO WORSHIP JEHOVAHで、エホバを崇拝する特権だね。特権嫌いの翻訳者は”大切にする”と訳している。全然意味が違うよ。」

「resourcesを資産と訳していますが、誤訳ですよ。」
「資産と訳したので、JWは信者の財産を狙う悪徳宗教になっている。翻訳者はそう思っているのだろう。」

「17節で“「絶えず神に賛美の犠牲を捧げ……神の名を人々に伝えて,言葉で神を賛美する」ことができます。(ヘブ 13:15)”とありますが、訳がヘンですよ。これって伝道の勧めですか?」
「協会共同訳では“賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。”とあるように、“伝える”は誤訳で“たたえる”が正しい訳。要するに神を賛美しようと言っている。伝道の勧めなんかじゃないよ。JWのヘブライ書は誤訳だらけだということがこの記事を読んでわかったね。」

「18節では“ヘブライ 10:22-25を読む。”とあります。そこでは“定められた日が近づいているのですから,ますますこうしたことを行っていきましょう。”といっていますが、終わりが近いと言ってユダヤ教に戻るのを阻止しようとしているのですか?」
「そうだろうね。でも“定められた日”という訳はヘンだよ。英語では単にthe day。勝手に意味を加え過ぎだ。」

「引照聖句の要約として“エホバを崇拝する上で大切にするべき点を教えています。それは,エホバに祈ること,良い知らせを伝えること,会衆の仲間と集まること,励まし合うことです。”とありますが、“良い知らせを伝えること”なんていうことは書かれていません。」
「英文では、making public declaration of our hope だね。10:23の引用で、私たちの希望を公に宣言することで、“良い知らせを伝えること”という意味ではない。」

「協会共同訳では、“告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。”ですね。だいぶ違いますね。」
「この文を直訳すると、希望の告白をしっかり保つ。要するに希望を堅持せよ、という意味。それがJWの英語訳では、私たちの希望を公に宣言すること、になり、その日本語訳が、私たちの希望をしっかり表明し、になり、それがこの記事では、良い知らせを伝えることになった。」

「JWの伝言ゲームは実にいい加減ですね。」
「でも、信者は誰も気づかないので、問題ない。」

聖書についての質問
2023年12月29日 14:30:17

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“聖書を深く掘り下げて学ぶのは楽しいこと(44)”で、JW流の聖書の読み方を学ぶ、という内容です。」
「英文のタイトルはExplore Every Dimension of God’s Wordで、“楽しいこと”なんてないよ。勝手に付け加えたのは、信者の感情までコントロールしようというカルト体質のせいかな?」

「次回は今年の最後です。」
「来年こそ、楽園が来るといいね。」

「1節は“家を買うかどうかを考えているとしましょう。”と始まります。貧困層が多いJWには不適切な内容です。夢を持たせるつもりですか?」
「せめて、家賃の安い引っ越し先を探しているとしましょう、と現実にあうように変えて欲しいね。でも対外的イメージを良くしたいようで、JWの生活実態とは無関係な写真やたとえを使うのが好きだね。」

「2節に“ある聖書学者は,聖書を「土台が深いところにある,広くて高い建物」に例えています。”と相変わらず出典を示さない不正引用ですが、訳がヘンですね。」
「“土台が深い”がヘンだね。元の英語はdeep foundationsだから“深い基礎”でしょう。土台というのは木造建築で、基礎の上にある柱を受ける横材のこと。“ある聖書学者”は欧米人だろうから木造建築をイメージしていないよ。」

「2節にJW流の聖書解読法が出ています。“聖書を学ぶ時は,読んでいる部分が別の部分とどのように関係しているかに注目しましょう。”とあります。別々に書かれたものを何の根拠もなく勝手に結びつけて、これが聖書の預言だといって、ことごとく外してきた自分たちの過去に対する反省がありませんね。」
「代表的なのは、ダニエル書にある“7つの時”を、ルカにある“異邦人の時”と勝手に結び付けて、1914年に終わりが来るという解釈だね。終わりが来なかったので、目に見えない形で天の王国が設立されたというバカバカしい解釈に変更した。JWであるということは本当に恥ずかしいことだ。」

「その計算の起点は前606年だったのですよね。後で西暦0年はないことに気づき、こっそりエルサレルム破壊の年を前607年にずらしたというインチキぶりです。」
「エルサレム破壊の年は前587年だけれど、JWは未だにそれを変更しないし、今さらできないという泥沼状態。信者にはJW以外の情報には触れないよう、信じないように教え込み、信者の愚民化で乗り切ろうとしている。」

「3節で“パウロは仲間のクリスチャンに,聖書を真剣に学ぶようにと勧めました。”とあります。引照聖句はエフェソス 3:14-19ですが、そこには聖書なんて言葉は出てきません。」
「パウロの時代に聖書はなかったからね。パウロも自分の手紙がまさか聖書の一部として崇め奉られるとは思っていなかったでしょう。聖書ができるのは4世紀で、当時のキリスト教の偉い人達が決めたもの。その決定をJWは支持しているようだけど、その当時のキリスト教はJWの教義によれば背教者集団でしょう。なぜ無条件に受け入れるのか理解できない。」

「JWが使用している聖書はプロテスタント系の聖書です。聖書外典を外していますが、これはルターのしたことじゃないですか?」
「そんなことはJWは知らないから話題にもならない。聖書と言えば昔から今の形であると思っている。」

「引照聖句の翻訳ですが、エフェソ3:17に“皆さんがしっかりと根を張り,強固な土台の上に建てられますように。”とあるのですが、ヘンですよ。協会共同訳では“あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって”とあり、ここでのキーワードは愛ですよ。それなのにJW訳では愛がありません。
「愛がないのはいけないね。」

「さらに3:18では“真理の幅と長さと高さと深さがどれほどかを十分に理解できるようになり,”とあるのですが、協会共同訳では“キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り”とあります。JW訳では“真理”ですが、協会共同訳では“キリストの愛”です。JW訳は誤訳ですよね。」
「実は3:18の元の文には真理も愛もない。3:17で愛が強調されているので、3:18も当然愛のことを言っているというのが協会共同訳の理解ということ。」

「JW訳は3:17で“愛”を落とし、3:18で文脈上無理な“真理”を付け加えたわけですね。」
「その方がJWには都合が良いからだろう。この記事だって、その誤訳を基に信者への説教にその聖句を使っている。JWに愛は必要ないからね。」

「3節にある“「真理の幅と長さと高さと深さがどれほどかを十分に理解」するためです。そうするなら,信仰面で「しっかり と根を張り,強固な土台の上に建てられ」た建物のようになることができます。(エフェソス 3:14-19を読む。)”というのは全くのデタラメを言っているわけですね。」
「愛がない点でおかしい。全くダメ。」

「4,5節が“聖書の深い真理を調べる”です。 4節で“エホバとの絆を強めるために,個人研究のプロジェクトを始めるのはどうでしょうか。”とあります。これは最近のJWが聖書を知らないことにたいする危機感のあらわれですね。」
「JWの対外イメージを良くしたいということでしょう。まじめに聖書を勉強する人たちと思われたいんだよ。実際はJWの教義を暗記してオウム返しするだけでしょう。それも教義がよく変わるから困難になっている。」

「個人研究と言っても、組織の出版物をつかって、組織の出版物にあるように聖書を理解するだけですよ。」
「それ以上深く調べることは禁止だよね。背教者になるよ。」

「5節に、調べることの“幾つかの例が,「 じっくり調べてみましょう」という囲みに載せられています。”とあります。囲み記事には7つのことが出ています。これらは調べるべきですか?」
「ここにあるのは全てJWの教義だね。それが正しいことを前提に、JWの出版物から調べるので、JWに都合のよい結論しか出てこない。洗脳法の一つといえるね。」

「1は“創世記から「啓示」の書まで,聖書全体がどのように1つのテーマでつながっているか。”ですが、1つのテーマでつながっているはずだ、というのはJWの思い込みですよ。」
「聖書の各書のテーマはバラバラ。例えば、排外的な民族主義が強調されているものもあるし、それを否定しているものもある。JWの大好きな“啓示”は他の新約聖書の主張とかなり違うよ。」

「6から8節が“エホバが持っている目的についてじっくり考える”です。 6節で“聖書を調べると,エホバが目的を持って行動する方だということが分かります。”と言って、7節でその目的を説明しているのですが、よく理解できません。」
「7節で“エホバは人間にどんなことを願っているかについて,最初の夫婦にこのように伝えました。「子を生み,増えて,地上全体に広がり,地球を管理しなさい。……あらゆる生き物を治めなさい」。(創 1:28)”とある。これが目的。英文ではhis purposeとはっきり書いてある。それを“願い”に変えるなんておかしい。」

「これが神の目的とは、翻訳者は納得できなかったんじゃないですか?」
「そうかも。翻訳者は統治体の意見より自分の意見を優先するからね。」

「その後に“アダムとエバが反逆したために,罪が人間家族に入り込んでしまいました。そこで,エホバは目的を果たすための方法をすぐに調整しました。人間に対して最初に考えていたことを実現させるために,天に王国を設立することを決めました。(マタイ 25:34を読む。)”とあります。エホバってJWみたいに“調整”するとは知りませんでした。全知全能ではないわけですね。」
「自分たちに合わせて、自分たちに似せた神を創造するというのがよくわかるね。」

「引照聖句のマタイ25:34ですが、目的を調整したなんて書いていません。“世が始まって以来あなたたちのために用意されている王国を受けなさい。”とあるだけです。しかも、これが“天の王国”とも言っていません。」
「全て、JWの解釈だね。それを真理として信者に押し付けているだけ。」

「8節にはJWの奇妙な神学がでてきます。“聖書のテーマは,エホバの名誉が回復されることです。”とあります。知りませんでした。どこをどう読んだらそういう理解になるのですか?」
「宇宙主権論争だったかな?そんな名前のバカバカしい教義でしょう。その教義から来たわけで、聖書から来たわけじゃないよ。」

「その後に“エホバの目的は,天と地にいるエホバに仕える全ての者が一つになることで実現します。その時,全ての者がエホバを主権者として認め,従います。(エフェソス 1:8-11を読む。)”とあります。これも理解できませんね。要するに全員がエホバが一番偉いです、従います、と言えばエホバの目的達成ということですか?愛ある神のくせに、そんな目的のために人類の苦しみを放置してきたわけですか?」
「これはJWが無い知恵絞って作り出した神学だけど、この神学では神はずいぶん卑小な存在だね。神は自分の名誉が他のどんな問題よりも優先する宇宙最大の問題と考えるどうしようもないナルシストにすぎないわけだ。」

「9から11節が“将来についてじっくり考える”です。 聖書は預言の書でこれから起きることが書いてあるというカルトらしいことが出てきます。10節に“聖書に予告されている,世界を揺るがすような出来事について考えてみましょう。”とあります。平和安全宣言がでて、“間違った宗教全てを攻撃し,「突然」大患難が始まります。(啓 17:16)その後,「人の子が力と大きな栄光を帯びて天の雲に乗って来る」という超自然の現象が生じるでしょう。”とあります。その後、“「マゴグの地のゴグ」と呼ばれる諸国家の連合体がエホバに仕える人たちを攻撃するように仕向けます。(エゼ 38:2,10,11)どこかの段階で,天に行くクリスチャンのうち地上に残っている人たちが天に集められ,キリストが率いる軍勢に加わってハルマゲドンの戦争で戦います。”とあります。バカバカしいですね。そんなシナリオを聖書は預言していません。」
「聖書のあちこちから聖句をかき集めて、JWが作った起こりそうもないシナリオを聖書の預言と称しているだけ。1000年後にはそういう世界情勢になるかも。」

「昔はマタイ24章にある地震をはじめとした天変地異や戦争を強調し、マタイ24:34の“はっきり言いますが,これら全てが起きるまで,この世代は決して過ぎ去りません。”というイエスの言葉を引用したものですが、今では忘れ去られたようです。JWの教義はそんなものです。」
「世代の解釈で行き詰まったからね。違う聖句を利用して、もっともらしいシナリオを作ったつもりなんだろうけれど、平和安全宣言なんか出るような世界情勢じゃない。早く理解を調整した方がいいよ。」

「11節が面白いです。“「エホバに近づきなさい」の本の319ページには,私たちの思考を刺激するこのような説明があります。・・・”とあり、JWの出版物の駄文が聖書みたいに引用されています。JWの出版物はすごい権威があるんですね。」
「JWの中でも権威はないでしょう。JWの出版物なんて何年かしたら完全に時代遅れになって廃棄処分になる、ということは皆知っているよ。」

「古い出版物なんて、今読んだらデタラメだらけです。」
「今読んでいるこの記事も何年かしたら、みんなそう思うよ。」

「11節の上に楽園での様子を描いたイラストがあります。パンダの代わりにクマが描かれています。クマは珍しいですよ。クマ好きのイラストレーターがいるということですか?」
「パンダじゃ子どもっぽいし、ライオンも飽きたし、クマにしてみたというだけでしょう。」

「12から14節が“天の様子を知る”です。 エホバとイエスのことが出てきます。たいした話はありませんが、その結論は14節の“私たちはいろいろな形でエホバとイエスに心から感謝していることを示せます。中でも,人々がエホバの証人またイエスの弟子となるよう助けるのは,とても良い方法です。”というものです。」
「どんな話も、あの無意味な伝道活動へと圧力をかけるものになるのがJWの記事だね。」

「15節が“聖書を調べることを楽しむ”です。 “詩編作者は,「エホバの律法を喜び,昼も夜も思い巡らす」人は幸せになり,成功すると言いました。(詩 1:1-3,脚注)”とあるのですが、引照聖句は“昼も夜も小声で読む”とあります。そう訳しておきながら“昼も夜も思い巡らす”と引用するのはいつものご都合主義ですね。」
「“小声で読む”というのは詩の訳として説明的でヘンだね。今ごろ”思い巡らす”にしておけばよかったと後悔しているよ。協会共同訳では“唱える”だ。」

「15節で“聖書翻訳者ジョセフ・ロザハムは「詩編の研究」(英語)の中で,・・・”と珍しく引用元を明らかにしています。これはどういう人ですか?」
「カタカナ表記だとロザラムじゃないかな。19世紀のイギリスの牧師で聖書の翻訳をしている。雑誌の編集もしていて、JWの会長だったラッセルと似たような人だけど、こちらの方がはるかに教養がある。」

「最後の16節は来週の予告です。“次の記事では,パウロが「ヘブライ人のクリスチャンへの手紙」の中で説明したエホバの偉大な神殿について学びます。”とあります。」
「大多数の信者は、そんなことより来年こそは終わりが来るのか、はっきりさせろ、と思っているよ。」

聖書についての質問
2023年12月22日 14:32:44

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは私たちを強い人にしてくださる(43)”で、落ち込んだ時の元気の出し方、という内容です。」
「JWという人生はつらいことが多いからね。力づけてもらう必要は常にあるよね。でもこの記事は役に立ちそうもないよ。」

「4から9節が“祈りと個人研究”です。 4節に“エホバに祈り,聖書を読むなら,忍耐し,喜びを保つのに必要な力をもらえます。”とあります。」
「いつもの決まり文句。」

「5,6節にヨナの話が出てきます。ヨナの話を実話として取り上げているのがイタイですね。“ヨナは船の外に投げ出され,気が付くと,大きな魚の腹の中にいました。この異様な空間で,ヨナはどう感じたでしょうか。”とあります。小学校3年生の国語の時間ですか?普通は死んでいます。」
「5節に“大きな不安を感じたヨナは”とあるけれど、ヨナ2章にあるヨナの祈りには、何の不安も苦しみも出てこないよ。」

「6節で“悔い改めて謙虚に祈りました。ヨナは,聖書の言葉をじっくり考えることもしました。このことは,ヨナの祈りの中に「詩編」で使われているのと同じような表現がたくさん出てくることから分かります。(ヨナ 2:2,5と詩編 69:1; 86:7を比較。)”とありますが、全然違いますよ。」
「ヨナの祈りはふざけた祈りだね。」

「ヨナの祈りは悔い改めでも、救いを求めるものでもありません。まだ魚のお腹の中にいるのに、苦難から救い出されたものが神に感謝する祈りです。しかも詩編からのパクった表現が多いです。」
「ヨナ2:2に“苦難のさなか,私はエホバに向かって叫びました。”とある。事実に反するんだよね。ヨナは1:6で船員から“どうして眠っているんだ。起きて,あなたの神に呼び掛けてくれ!”と言われるけれど、ヨナは神に呼びかけず、1:14で船員たちが“ああ,エホバ,どうかこの人のことで私たちを死なせないでください!”と代わりに呼びかける。」
「つまり、ヨナはでたらめな祈りをしているわけですね。」

「2:4で“私はあなたの目の前から追い払われた。”とヨナは言うけれど、本当はヨナが神から逃げた。」
「それから2:8で“無価値な偶像を崇拝する人は,揺るぎない愛を示す方を捨てています。”というのもへんですよね。異教徒の偶像崇拝者である船員たちがヨナよりエホバを信頼していました。」
「つまりヨナの祈りは真の祈りのパロディで、この祈りの部分は読者を笑わせる部分。」

「7、8節が台湾の兄弟の体験談です。輸血問題が出てきます。8節で“大きな手術が終わった後,看護師に,赤血球の数値が下がっているので輸血が必要だと言われました。”が、“同じ手術を受けた姉妹の経験を読んでいました。姉妹は兄弟より赤血球の数値が低かったのに,輸血を受けずに無事に回復することができました。”と、個人研究のおかげで輸血せずに済んだということのようです。」
「運が良かっただけ。急性出血の場合、へモグロビンが6g/dL 以下では輸血はほぼ必須となっているけれど、その基準を下回ったのに輸血しないからと言って直ちに全員死亡するわけではないよ。何%か知らないけれど、助かる少数の人はいる。」

「出版物にあった真偽不明の体験談をもとに重要な判断をするのはやめた方がいいですよ。」
「JWという宗教はこうやって信者の命を危険にさらすわけだ。」

「実際は、輸血を拒否したにもかかわらず助かった人の、何十、何百倍の人が輸血拒否ゆえに死んでいるわけですよ。それは体験談として取り上げられることはないだけです。」
「取り上げられるときは殉教者として、その死を賛美するためだね。今の体制で生きるよりも、楽園で永遠に生きることを選んだのです、と賛美する。実に危険な宗教だ。」

「10から14節が“仲間の兄弟姉妹”です。 10節に“エホバは仲間の兄弟姉妹を通して私たちを力づけてくださることもあります。”と書いています。でもそんなことは滅多にありません。JW以外の人の方がよっぽど頼りになります。」
「高齢の貧しい信者を助けることよりも、無意味な伝道活動を優先するのがJWという宗教。他の宗教の方が貧しい人に対して配慮する。」

「11,12節がルカ1章にあるイエスの母のマリアの話です。12節に“自分一人で頑張るのではなく,助けを求めました。例えば,ガブリエルにこの任務についてさらに教えてくれるようにと頼みました。(ルカ 1:34)その後すぐ,ユダの「山地」まで長旅をし,親族のエリサベツに会いに行きました。”とあります。仲間の兄弟姉妹は出てきませんね。頼ったのは親戚じゃないですか。」
「マリアはエリサベツに会いに行くけれど、それは天使がエリサベツも高齢だけど妊娠したよ、と言ったのでそれを確かめに行ったと思うよ。助けを求めに行ったとは聖書に書いていない。」

「13節が、父親が病気の姉妹の体験談です。一人で頑張っていたのですが、限界が来て、“それで姉妹は,自分の状況について何人かの友達に伝えることにしました。こう言っています。「仲間の兄弟姉妹が本当に力になってくれて,感激しました。”とあります。いい話じゃないですか。」
「自分が困っていることを伝えるまで、誰も助けてくれないことこそ問題だよ。積極的に助けを求めないと誰も助けてくれない冷たい人たちがJWということだね。」

「長年開拓者として奉仕していたけれど、病気になって入院し、集会に来られなくなったら、誰も見舞いにも現れず、そのまま忘れ去られて、あの姉妹はどうなったんだろうと、話題になった時は、すでに死亡してから1年くらいたっていた、なんて話はよくあります。」
「無意味な伝道なんかやめて、お互い助け合うようにすると、今よりいい宗教になると思うよ。」

「14節は長老を取り上げます。“心配事があるときには,長老に伝えてください。長老からの助けをためらわずに受け入れましょう。”とあります。祈ったり、聖句を読んだりと、助けてくれるのでしょうか?」
「JWの教義しか知らない長老に多くのことを期待する方が間違い。善意と聖書の知識だけでは人を助けることはできない。過大な任務を押し付けられる長老なんかさっさと辞任しよう。」

「15から19節が“将来の希望”です。 この記事の主要な部分ですね。15節で“クリスチャンである私たちには,永遠に生きるというかけがえのない希望があります。”とあります。いつものニンジンですね。こんなことをまじめに信じているJWはどれほどいるのでしょうか?」
「みんな信じているんでしょう。でもそれが信者を走らせるためのニンジンとしては役立っていないようだね。天国や地獄を信じていても、それが現実の行動にそれほど影響しないのと同じ。」

「16,17節はパウロの話です。17節に“パウロは希望に目を向けることによって力を得ました。(コリント第二4:16-18を読む。)”とあります。」
「引照聖句の中で“たとえ私たちの外面は衰えていくとしても,内面は日々新しくされていくのです。”とあるけれど、これはJWには当てはまらないね。外面も内面も衰えていくのがJWじゃないの。」

「18節が弟を事故で亡くした兄弟の体験談です。“兄弟の家族は立ち直るために,将来の復活の様子について思い描くようにしています。”とあります。復活こそが将来の希望ということですね。」
「終末論があまり説得力がなくなったので、代わりのセールスポイントとして強調しているのが、楽園で死んだ人に再び会えますという復活幻想ということだ。」

「多くの宗教は死後の世界で死んだ人と会えるといっていますよ。死んだ人に会いたという希望が欲しければJWに入る必要はありません。JWの楽園は住むところも指定され、1000年間も仕事に明け暮れることになっていて、少しも楽園ではありません。」
「多くのJWはそのことを知らないよ。18節でも“弟とどこで会うか,どんな料理を作ってあげるか,最初のパーティに誰を呼ぶか,終わりの時代についてどんなことを話すか,といったことをみんなで話し合っています。”と言っている。復活した人の服や靴は誰が作っているの?料理に使う食材は誰が生産するの?その生産したものを誰がどうやって自分の家まで運んでくるの?そういうことは何も考えていないよね。だから単なる幻想なんだよ。」

「パーティに欠かせないのは冷たい飲み物です。おそらく冷蔵庫は楽園にないですよ。楽園の想像図では電信柱も電線も見たことがありません。電気のない世界です。」
「冷たいビールが飲めないなら、楽園とは呼べない。」

「18節の下の挿絵の説明には“耳の不自由な姉妹が聖書の約束についてじっくり考えている。ミュージックビデオを見て,新しい世界で自分がどんなことをしているか,イメージを膨らませている。”とあるのですが、これはどうなんですか?耳の不自由な人がなぜ音楽家にあこがれるのか理解できません。違和感を覚えます。」
「執筆者は耳の不自由な人はそういうものだと思い込んでいるだけ。JWでは障がいのある人は自分を欠陥人間とみなして、楽園でその欠陥が修正されることを夢見ながら、伝道、集会、建設工事、寄付といったJW活動をしなさいというメッセージだね。」

「この挿絵の女性はきれいな歯並びをしています。お金をかけて歯列矯正したのでしょうか?楽園に行くと歯並びはよくなるのか知りたいです。」
「統治体に手紙でも書いたら?間もなく楽園が来て、楽園では歯並びが完全になるのであれば、歯列矯正を先延ばしにしたいと思いますが、どうすべきでしょうか?」

「19節は、希望をしっかり持ち続けるための方法論です。まず“パラダイスに関する聖書の言葉を読んでじっくり考えるようにしましょう。(イザ 25:8; 32:16-18)”とあります。引照聖句はJWのいう楽園のことを言っていません。」
「例えばイザヤ25:8には“神は死を永久にのみ込む。主権者である主エホバは全ての顔から涙を拭う。ご自分の民に対する非難を全世界から除き去る。”とあるけれど、ここで言う民はイスラエル民族のこと。すぐ後の25:10では“エホバの手がこの山の上にとどまる。モアブは自分の場所で踏みつけられる。肥やしの山の上で踏みつけられるわらのように。”とイスラエル人が大嫌いなモアブ人の破滅を予言していることからわかるように、古代の話で現代とは関係ないよ。」

「イザヤ書にある理想の国家は古代人の理想であって、現代人にとって魅力的じゃないですよ。やたらと果樹園が出てきますが、そんなに果物を食べたいですか?古代イスラエルの果樹というとなんですか?」
「代表的なのはオリーブ、イチジク、ブドウかな。生で食べることはあまりない。冷蔵庫がないからね。」

「干しブドウでも古代イスラエルにとって贅沢品なんでしょうね。」
「そこで理想の状態を描くときやたらと果樹園が出てくる。しかし現代人にとっては貧弱な食生活のように思えるよ。」

「JWの楽園では肉食は禁止なんですよね。そうなると、絶対、動物をひそかに殺して食べる人が続出しますよ。その場合は死刑ですか?すこしも楽園じゃないですね。今の北朝鮮ですね。」
「JWの楽園での食生活を想像すると、そんなところに住みたくなくないな。しかも、細かで理不尽な規則がたくさんあって、住む場所は組織が決めて、復活した人に1000年間JWの教義を教え続けなくてはならないのだから、冷たいビールとうまい肉がないと絶望して自殺者が続出するよ。」

「19節では“楽園の様子を描いた出版物の挿絵やミュージックビデオを見ることができます。”とあります。これから楽園幻想を振りまく動画や音楽が、信者の寄付でたくさん作られていくということですね。現実逃避の勧めです。JWであるということは、決して自分の人生に真剣に取り組むことはない、ということですね。」
「でも、そんな動画もすぐにネタ切れになる。似たようなものが粗製乱造されることになるよ。信者の寄付はもっと、信者のために使って欲しいね。」

「JWの楽園を描いた動画を見たのですが、太っている人は出てきません。楽園にいくと自然に最適な体重になるということですか?いくら食べても太らなくなる?」
「よく見ると、けっこう太っている人も出ているよ。服装でごまかしているだけ。」

「最後の20節はまとめです。“真剣に祈り,個人研究をしてエホバからのアドバイスを探しましょう。兄弟姉妹からの支えを喜んで受け入れてください。将来の希望について具体的に思い描くようにしましょう。”とあります。」
「楽園を思い描くことは何の力にもならないよ。カルトが利用するのは恐怖心。組織の言うことを聞かないと、どんな恐ろしいことになるかを言わないと、信者は動かないよ。」
「カルトらしく、楽園幻想ではなく、ハルマゲドンで死者が街にあふれているという悪夢のような挿絵や動画を作るべきということですね。」

聖書についての質問
2023年12月15日 14:34:32

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“あなたは進んで従いますか(42)”で、平信者に求められていることは従うことだ、というカルト色100%の内容です。」
「親、上位の権威、組織に従えとある。服従は人間にとって最も重要なことというのがJWの価値観だね。」

「こういう記事が出るということは、多くのJWが組織の指示に従わなくなっているということですよ。」
「コロナ問題以降、集会に来ない、伝道に参加しない、排斥した家族と断絶しないで交流を持つ信者が増えたようだね。」

「1節で“ダビデ王はエホバに,「あなたに進んで従う気持ちを私の内に呼び起こしてください」と祈りました。(詩 51:12)”とありますが、それに相当する協会共同訳では“導きの霊で私を支えてください。”です。全然違います。」
「もちろんJW訳はおかしい。霊という言葉を避けたかったのだろう。使われている動詞は支える、置くという意味だからJW訳はダメでしょう。」

「1節では“エホバやエホバが権威を与えている人たちに従うためには,真剣な努力を払う必要があります。”と、神と不完全な人間を同列に並べて、両者に服従しなさいといっています。」
「これぞカルト宗教。指導者を神と思って従えということだね。」

「2節で“ヤコブ 3:17を読む。聖書を書いたヤコブは,知恵を持つ人は「進んで従[う]」と言っています。”とありますが、協会共同訳では“従順”です。」
「ここで使われているギリシャ語は聖書の中でこの箇所にしかでてこないレアな単語。意味を確定するのは難しい。JW訳はとにかく服従を強調する。カルト宗教らしい訳といえる。」

「3節の論理が理解できません。“エホバは親や人間の政府や長老にある程度の権威を与えています。(格 6:20。テサ一 5:12。ペテ一 2:13,14)こうした人たちに従うなら,エホバに 従っていることになります。”とありますが、政府の指示に従うことは単に政府に従っているだけですよ。神様は関係ないです。」
「政府は神の執行機関じゃないからね。サタンの執行機関でしょう。政府に従うことはサタンに従うこと、とJWの教義に従っていうべきだけど、今の政治体制でもめごとを起こさずに、信者を増やし、寄付を増やしたい統治体には、とてもそんなことを言う気はないね。」

「4から8節が“親に従う”です。 “親が言っていることとしていることは全然違う,と感じているのかもしれません。また,親の言うことは時代遅れで役に立たないし,厳し過ぎると考えている人もいます。”とあります。これって、JWの親のことですよ。」
「英文ではhypocritical(偽善的)とあるのに、それをぼかして訳している。JWの親が偽善的なことをよく知っているからだろう。」

「JWの親になぜ従わなくてはならないのでしょうか?不完全な人間にすぎません。子どもが輸血をすれば助かるというときに、輸血を拒否して死なせるのがJWの親ですよ。こんな人を親とは呼べません。」
「JWの親の言うことは組織の言うことと同じだから、JWの子どもは従うべきという理屈じゃないの。JWの親のいうことをまじめに聞いていたら、ろくなことにはならないというのはJWの子どもなら知っているよ。」

「4節に“聖書には,「主に喜ばれるよう親に従ってください。そうするのは正しいことです」とあります。でも,エホバのこのおきてに従うのを難しく感じている人は少なくありません。(エフェ 6:1)”とあります。これって、“おきて”ですか?単なる勧告とみなすべきですよ。」
「英文では“命令”とあるね。でも、その根拠があいまいだ。“そうするのは正しいことです”とあるけれど、正しいとはどういう意味?当時のエフェソスという社会では正しいという意味?聖書的に正しいということ?それから、これが神の命令とすると問題になるのはエフェソス6:5の“奴隷である人は,自分の主人に従ってください。畏れと敬意を抱きつつ,誠実な心で,キリストに従うのと同じように従うのです。”との関係。奴隷制も神の命令なの?」

「そうなると、奴隷制は神の支持のもと、維持されるべきだということになります。きっとエホバはこの世界から奴隷制がなくなりつつあることに憤慨していますね。」
「服従がそんなにいいことなら、奴隷でもいい、いやむしろ進んで奴隷になって一生服従しましょうということになると思うよ。」

「5節はイエスの例が出てきます。ルカ2章にある12歳のイエス置き去り事件です。“帰りの道中で,子供たちがみんな付いてきているかを確認するのは,親の責任でした。”とありますが、これは訳に問題がありますね。」
「It was ultimately Joseph and Mary’s responsibility to make sure that all their children were among the group who were traveling home after the festival.とあり、親の責任じゃなくて、“ヨセフとマリアの責任”とある。これは明らかにおかしいと翻訳者は思ったので、親の責任に変えたのだろう。」

「ヨセフとマリアはエルサレム訪問団の団長じゃありませんよ。それなのになぜすべての子どもの責任者になるのですか?」
「執筆者の頭の中ではヨセフ団長、マリア副団長なんだよ。」

「5節で、イエスがマリアに叱られたとき、“イエスは,理不尽だと言うこともできましたが,そうするのではなく敬意を込めて答えました。”とあります。敬意をこめていましたか?」
「ルカ2:49で“なぜ捜されたのですか。(Why were you looking for me? )私が父の家にいるはずだと思われなかったのですか”と答えている。どこに敬意がこもっているの?ぶっきらぼうな答えだよ。」

「これとほぼ同じ答えがルカ24:5の“なぜ,生きている者を墓の中で捜しているのですか。(Why are you looking for the living one among the dead? ) イエスはここにはいません。生き返りました。”です。」
「これは謎の二人が女性たちに言った言葉だね。これは敬意がこもった言い方?ちがうよね。」

「6,7節が親に従うのが困難な若い人向けの3つのアドバイスです。“1つ目に,エホバの気持ちを考えることです。”、“2つ目に,親の気持ちを考えることです。”、“3つ目に,従うことがどのように自分のためになるかを考えることです。”とあります。」
「結局、自分を殺して、ひたすら忍従しろということだ。ひどいアドバイス。これでは心が病むのも仕方がない。」

「7節に“聖書は,親に従うなら「物事はうまくいき,地上で長く生きられる」と教えています。(エフェ 6:2,3)”とありますが、事実に反します。」
「親に従うことと寿命は無関係だよ。でもJWの親に従っていると、必要な医療も受けられず、早死にする可能性が高いよね。」

「8節が体験談です。“ブラジルのルイーザ姉妹は,親が携帯電話を持たせてくれない理由を初めは理解できませんでした。”とあります。これは単にお金の問題じゃないですか?」
「それもあるけれど、信者の孤立化、情報の遮断はカルトの特徴。だから携帯電話を持たせたくない。」

「それなのに“親の言うことを,自分を縛るものではなく,自分の命を守ってくれるシートベルトのように考えるようになりました。”と言っています。バカですね。」
「こんな立派な子どもをもって、両親はさぞかし誇らしいだろうね。でもこれは架空の体験談だろう。」

「9から14節が“「上位の権威」に従う”です。 政府の命令に従えと言っています。」
「10節に“聖書によると,人間の政府は苦しみをもたらしてきました。サタンの権威の下にあり,間もなく滅ぼされることになっています。”とあるよ。間もなく滅ぼされるサタン支配下の政府の命令になぜ従わなければならないのか、理解できない。どうせ滅びる政府なのだから、税金など払う必要はないでしょう。できるだけ滞納しよう。」

「統治体は自分たちが宗教貴族として信者の寄付で安楽に生きられるよう、信者が政府ともめ事を起こして欲しくないのです。それから終わりがまもなく来るなんて信じていませんよ。大規模な建設工事を進めている最中なんですから。」
「10節で“エホバは,神の命令に背くことにならない限り,上位の権威に従うように求めています。”とあって、政府に反抗するなと強調している。アホな信者の犯罪で統治体にとばっちりが来ないように必死の説得だね。」

「11節で再びヨセフとマリアの登場です。ルカ2章の話で“マリアが妊娠9カ月の頃,ローマ皇帝アウグストゥスが登録を行うようにという命令を出します。”とあります。これはイエスをベツレヘムで生まれさせるためのルカの創作ですよ。」
「史実性はないし、しかも勅令が出たのが“マリアが妊娠9カ月の頃”という根拠はない。聖書のどこにもそんなことは書いていない。」
「クリスマスの物語や絵の影響ですよ。お腹の大きなマリアが登場しますから。それに影響されていますね。」

「仮に住民登録が本当にあったとしても、妊婦のマリアを連れて行く必要はないよ。それは家長であるヨセフの役目。」
「でも12節には“ヨセフとマリアは,心配なことがいろいろありましたが,それでも命令に従いました。”とあり、マリアも行く義務があったかのように書いていますが、これは執筆者の無知ということですね。」
「住民登録は自宅のある所で行う。先祖のいた所でするなんてことはあり得ない。ルカのイエス誕生物語は100%創作で、その話でルカが言いたいことはイエスの誕生はローマ帝国全体に関係する大事件だったということ。」

「13節で、上位の権威に従う理由がでています。“エホバの証人への良い評判にもつながります。”とあります。やっぱり自分たちの評判を気にしていますね。」
「無駄だね。JWの評判など、体罰を推奨し輸血拒否して子どもを死なせる反社会的で迷惑なカルト宗教というもの。」

「15から18節が“エホバの組織の指示に従う”です。 この記事の最重要ポイントですね。まず“モーセの律法で汚れているとされていた動物を食べるようにと天使から言われた時,ペテロは3回も断りました。(使徒 10:9-16)”とペテロの不服従をとりあげるのですが、天使がそう言ったとは聖書に書いていません。」
「使徒10:14で“それはできません,主よ。汚れたものや清くないものはこれまで食べたことがありません。”とペテロは答えている。答えた相手は“主”だね。つまりイエス。ペテロは天からの声を聴いて、これはイエスの声とわかったのだろう。それなのに、どうして天使が言ったと決めつけるの?」

「15節で“私たちが不完全な人間から与えられる指示に従いにくく感じるのも不思議なことではありません。”とありますが、従いにくく感じるのは指示内容がおかしいからであって、それを指示した人が不完全だからじゃありませんよ。」
「排斥された家族と一切連絡を取るな、は従いにくい指示の代表だけど、それは不完全な統治体の指示だからという理由ではなくて、単にその指示自体がおかしいから。」

「16節に” パウロは理不尽と思えるような指示を受けた時も,「進んで従い」ました。”と、使徒21章の話をとりあげるのですが、理不尽な指示ですか?」
「どういう指示を受けたかというと使徒21:24に“この人たちを連れていって一緒に儀式上の清めをし,費用を出してやり,彼らが頭をそってもらえるようにしてください。”というもの。これはユダヤ人たちから狙われているパウロの身の安全を図るためのもので、どこが理不尽なの?パウロを理不尽な指示でも従った模範として仕立て上げたいだけだね。」

「17節が体験談なのですが、“ステファニーという姉妹は,支部の決定を受け入れるのを難しく感じました。姉妹は夫と外国語のグループで奉仕を楽しんでいました。でもある時,支部はグループを閉鎖することを決定し,2人に地元の言語の会衆に戻るようにという指示を与えました。”というものです。これを取り上げるのは、世界各地で外国語会衆の閉鎖が相次いでいて、それに対する不満が相当たまっているからですね。」
「外国語会衆を立ち上げるために、相当苦労したJWはけっこういる。それなのに唐突に閉鎖され、元の会衆に戻れと言われても、納得できないだろう。」

「組織は外国語会衆は失敗と見ているということなんでしょうか?以前は外国語会衆の増加は、エホバが物事を加速させている証拠だ、などと自慢していたと思うのですが。」
「外国語を学びだすと、それまで何も考えなかった人も少しは考えるようになるからね。JWのバカバカしさに気づく人も増える。」

「例えば、外国語でこのつまらない記事を読めば、普段より単語の意味や文章表現に注意を払いますからね。それで目ざめるかも。」
「17節でも“時間がたつにつれて,兄弟たちがなぜそのような決定をしたのかが分かってきました。”とある。組織防衛のためには、外国語会衆をつぶした方がいいと納得したようだ。外国語会衆のために働いてきた多くのJWは組織から見捨てられたと思っているのに、この人は実に模範的な人だ。」

「18節では新型コロナウイルスの話が出てきます。“私たちは王国会館での集会や家から家の伝道を中断するようにと指示されました。この指示に従うのは簡単ではなかったかもしれません。”とあるのですが、本当ですか?喜んで従ったように思えますよ。」
「集会や伝道が好きなJWはいないでしょう。」

「本当はワクチンのことを言いたいのですよ。ワクチンを打つというのが統治体の方針なのに、アメリカではワクチンを打つと○○になる、といったデマを信じて、ワクチン拒否者が多かったようです。」
「ということは、ワクチンを打たないで伝道しているJWがいるということ?その点は組織の指示に従って欲しいね。」

「18節では“でも従った結果,私たちは守られ”とありますが、ウソですよ。JWのコロナによる死亡率は他の集団より高かったはずです。少しも守られていません。」
「従わなかった人が多かったということじゃないの。それでこんな従え、従え、そして従え、という記事が書かれたんだよ。」

聖書についての質問
2023年12月08日 14:33:55

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ペテロの2通の手紙から学べること(41)”で、JW活動をまじめにやりながら、終わりを待ち続けろ、という内容です。」
「ペテロの手紙の作者はペテロじゃないというのは常識なんだけどね。それをJWに言っても仕方がないか。」

「1節に“西暦62年から64年ごろに,聖なる力に導かれて2通の手紙を書きました。「ペテロの第一の手紙」と「ペテロの第二の手紙」です。”とありますが、この書かれた年代も違いますよね。」
「作者をペテロとすると、死亡年から言って、そのあたりだろうという推測だね。実際に書かれたのは2世紀以降だろう。」

「ペテロ二だと、それが知られるようになるのは3世紀ですよ。」
「使徒ペテロが60年代に書いたとすると150年以上も知られていなかったことになる。そんなことありえないよね。ペテロ二では終わりの日が来ないことが問題になっているから、書かれた年代はかなり後だね。」

「しかもペテロ二はユダの手紙と同じ部分がけっこうありますよ。」
「それもペテロ二の作者がペテロではないことの根拠の一つだ。ペテロ二がユダの手紙から引用していると普通は考える。JWはそう考えないけれどね。」

「3節に“ペテロが書いた手紙は,1世紀のクリスチャンに宛てられたものでしたが,エホバはそれを聖書に含めることにしました。”とあります。歴史を無視していますね。」
「ペテロの手紙を聖書に含めることにしたのは4世紀のキリスト教の指導者たち。JWの見解では、この人たちは背教した偽クリスチャンじゃなかったの?」

「そういうことを言われないように、エホバが選んだと根拠もなく強弁しているわけですね。」
「JWが使っている聖書はプロテスタント系の聖書。これもエホバが選んだというのかな?JWがいうように、エホバは聖書に関してちょくちょく介入したのなら、聖書のオリジナルを保存させるということも、神の名前を維持することもはしなかったのはなぜなのかな?」

「4から6節は“エホバの日を待ち続ける”です。 ペテロ二3章の話です。4節では“私たちが長年「終わりは近い」と言い続けていることをばかにする人もいるかもしれません。”といっています。さすがに鈍感なJWでも終わりが来ないことで、気まずい思いをしているようです。」
「その後に、“「終わりなんて絶対に来ない」という人さえいます。(ペテロ第二3:3,4を読む。)”とあるのは、JW流の“わら人形”的詭弁だ。終わりが絶対来ないという意見は聞いたことがないし、引照聖句にもそういう人のことは書かれていない。何事も永遠に続かない以上、どんなものにもいつか終わりは来るよ。」

「わら人形は英語でストローマンというので、ストローマン論法ともいいますよね。」
「わら人形論法は、相手の考えや意見をわざと歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという詭弁だね。相手の本当の意見には反論しづらい時に、反論しやすいようにわざと歪めるわけだ。そして相手を論破したように見せかける。JWがよく使う手法。」

「5節は終わりが来ない理由で、“エホバの時間の感覚は人間とは大きく異なる,とペテロは書いています。(ペテロ第二3:8,9を読む。)エホバにとって,1000年は1日のようです。エホバは,一人も滅ぼされないでほしいと思って辛抱してくださっています。”とあります。これも聞き飽きましたね。」
「JWはこれを終わりが来ない言い訳に使うだけで、真剣に受け止めていないよ。5000年先でも、神にとっては5日後にすぎないよ。イエスの時代からまだ2000年くらいしかたっていない。つまり2日だ。まだまだ終わりの日は来ないと考えるべきでしょう。JWは自分の老後を心配しよう。」

「年取ったJWなら60年くらいは終わりの日を待っていますよ。エホバも忍耐強いですから、同じ年月待てるとすると、エホバ感覚では60×365×1000=21900000年は待てます。」
「そういう訳で、終わりに日が近いと言っているのはおかしな終末宗教だけということになる。」

「それから“一人も滅ぼされないでほしいと思って辛抱”しているのなら、まだまだ先です。世界では1日に約20万人生まれています。新たに1日で20万人以上JWに改宗させないと、JW以外の滅ばされる人がどんどん増えることになります。あと100万年ぐらいしたら、ひょっとしたら人口の80%がJWになっているかもしれませんよ。それまでエホバは待ちます。」
「JWの数は相当水増しされていると言われるから、本当はJWは減少し続けているかも。滅ばされる人は増え続けていて、終わりの日はまだまだ来ないね。」

「6節に“ペテロはエホバの日について「いつも考え」るようにと勧めています。(ペテロ第二3:11,12を読む。)”とあるのですが、引照聖句の訳がへんですよ。そこには“エホバの日が来るのを待ち望み,それについていつも考えましょう”ですが、そんなこと言っていますか?」
「協会共同訳では“神の日の来るのを待ち望み、それが来るのを早めなさい。”だね。こちらが普通の訳。神の日は固定したものではなく、神の民や人類全体の準備状況で早まるという思想が述べられている。」

「“いつも考える”は誤訳ということですね。」
「そう訳している聖書は他にないでしょう。JWの教義では終わりの日は固定したものなので、“早める”という訳はJW的には不都合なので、別の訳にしたのだろう。JWの教義があって、次にそれに合った聖書を作るというのがJWのやり方。」

「6節では“新しい世界での素晴らしい生活について,毎日考えることができます。”とあり、信者には幻想の世界に逃避することを勧めています。」
「こんなことしかJWという宗教は信者に与えるものがないということだね。余命わずかな老人ならそれでいいかもしれないけれど、若い人にはそれではダメでしょう。」

「7、8節は“人への恐れを乗り越える”です。 伝道の勧めです。伝道をしたがらないJWが増えているようです。7節では、“でも,人の目が気になって話すのをためらってしまうことがあるかもしれません。”と言っています。JWであることくらい恥ずかしいことはありませんよ。」
「JWのメッセージに誰も確信が持てないから、話せないんだよ。輸血禁止や体罰のことでも、組織はそれまでの発言を翻して、それは個人の見解や決定で組織は無関係という態度をとっている。まじめな信者ほど何が真実なのかわからなくなるよ。」

「それもありますけれど、末端の信者はこの社会の中で生きていかなくてはならないのですから、JWの独善的な主張を述べて、周囲の人と不必要な摩擦を引き起こしたくないのです。」
「周囲から切り離された本部の建物の中で、信者の寄付で優雅に暮らしている宗教貴族たちとは置かれている状況が違う訳だね。」

「8節で“どうすれば人への恐れを乗り越えられますか。ペテロはこう言いました。「心の中で主キリストを神聖な方としてください」。(ペテロ第一3:15を読む。)”とあります。エホバ教のJWには関係ないですね。引照聖句が、いつの間にかペテロ一に変わっています。」
「JWにとって、イエスはどうでもいい存在。大事なのはエホバなる神様だけ。」

「協会共同訳では“ただ、心の中でキリストを主と崇めなさい。”です。JW訳とは違いますね。どちらが正しいのですか?」
「この部分はイザヤ8:12、13を基にしていると考えられた。そこには“彼らが恐れるものを恐れてはいけない。恐怖に震えてはいけない。 大軍を率いるエホバだけを神聖なものとし,この神だけを畏れ,この神の前で震えるべきである。”とある。」

「ペテロ一3:14,15は“人々が恐れるものを恐れたり,動揺したりしてはなりません。  心の中で主キリストを神聖な方としてください。”となっていますね。確かにそっくりですね。」
「それは初めからではなく、元は“キリストを主と崇めなさい”というものだったのに、イザヤ書に合わせるために“キリストを神聖なものとしなさい”へと改変されたと考えられている。」
「協会共同訳はその考えに基づいて訳しているのですね。」
「現代の他の訳もほとんどがそうしているよ。新改訳では“むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。”と折衷的な訳にしている。」

「8節では“職場や学校にいる時など,いろんな機会に伝道したいと思いますか。”とあります。答えは、したいと思わない、に決まっています。」
「組織の方針は職場や学校で伝道しなさいということなんだ。大多数のJWはこんな記事など真面目に受け取っていないから、職場や学校で伝道するなどと言う迷惑行為はしないよ。」

「9から12節が“熱烈に愛し合ってください”です。 ペテロ一1:22からの引用です。11節に“この「熱烈に」愛するという表現には,愛を示すのが難しいと思える相手にも努力して愛を示す,という考えが含まれています。”と解説しています。本当にそういうことを言いたいなら、別の表現をしますよ。」
「仲の悪いJWがあまりにも多いので、強引に嫌いなJWでも仲良くしなさいという説教にもって行ったということだね。」

「12節では“仲間を許して仲直りするために,できる限りのことを行うようにしましょう。”とあります。これもよく繰り返されます。会衆内での犯罪が後を絶たないということですね。」
「児童性的虐待の被害者も、加害者を許して仲直りしないと、周りから非難されるのがJWの道徳観。」

「13から15節が“長老として会衆の仲間を支える”です。 長老に向けた部分です。14節では“長老の皆さんは兄弟姉妹を愛し,支えになりたいと思っていることでしょう。でも,忙しかったり疲れていたりして,そうするのが難しいと感じることがあるかもしれません。”とあり、今の長老が大して働いていないことを間接的に認めています。」
「“長老の皆さんは兄弟姉妹を愛し,支えになりたいと思っていることでしょう。”というのはすごい皮肉だよね。たいていの長老は自分を支えるのも難しいという状況。」

「15節では“長年長老として奉仕しているウィリアム兄弟は,牧羊は大切だと感じています。”とあり、長老はもっと牧羊をしろ、と言っています。」
「これは架空の長老だろう。15節に“兄弟はこう言います。「家に独りでいると,いろいろと良くない方向に考えてしまうことがあるものです」”とある。コロナの間、信者は集まりあうことがなかった。集会が再開されたのに、出席率は低いし、奉仕活動も低調。やっぱり信者を一人にさせるとダメだ、と組織は再認識したということだね。それで長老の尻を叩いているわけだ。」

「具体的に何をするかというと、“そしてjw.orgから役立ちそうな動画や資料を見つけて,それを伝えるようにしています。”とあります。これなら誰でもできそうですが、こんなことでいいのですか?」
「長老の半数は60代以上で、若い人の多くは長老になりたくないし、長老になりたい人はたいてい問題ありの人。動画を見せれば解決するとは思っていないだろうけれど、人手不足なんだよ。」

「15節の最後が泣けます。ウィリアム兄弟は“一人でも多くの人にエホバについて知らせるよう一生懸命努力するのであれば,兄弟姉妹がエホバの側にとどまれるよう支えるためにも,同じように努力するべきだと思います。”と言っています。信者の新規獲得が困難な現状では、今の信者の脱落を何とか防ぐことに努力すべきという主張です。衰退期の組織とはこんなものですね。」
「長老は現有信者を一人でも減らさないよう努力せよと、はっきり書いてくれないと、あまり頭の良いとは言えないJWの長老には伝わらず、これからも気楽に排斥処分を乱発するよ。」

「最後の16,17節は“エホバに最後まで訓練していただく”です。 ここはまとめで新しいことはほとんどありません。15節で終わらせるわけにはいかないようです。」
「16節の最後に“そして,ペテロが言っている通り,「神は,皆さんの訓練を終え……皆さんをしっかりした人,強い人,揺らぐことのない人にしてくださ」います。(ペテ一 5:10)”とある。神が訓練する?訳がへんだよ。」

「協会共同訳では“神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。”ですね。訓練なんか出てきません。」
「元のギリシャ語の文は最後に動詞が4つ連なるというもの。それで、協会共同訳は“癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。”となっている。JW訳はその辺が滅茶苦茶。神が訓練するなんて言っていない。」

「インチキ翻訳に基づいて、エホバに訓練していただくというのは、要するにエホバ=組織が信者を訓練するということですね。」
「そんな訓練を受けたら、ろくなことにはならないね。でも17節では“エホバに訓練していただくなら,永遠の命を得ることができます。”と断言している。」
「またもや永遠の命が登場です。楽園での永遠の命という幻想しか信者を走らせるニンジンはないということですね。」

Board footer