エホバの証人レッスン

信仰の枠を超えた真理の探究

カテゴリー: 聖書の史実性 (2ページ / 2ページ)

氷床の年代は正確 – 酸素同位体による年代カウント

客観的なカウント方法  δ18Oの値

別の記事「地球規模の洪水はなかった-氷床は語る」の中で数十年の調査の結果、地球規模のノアの大洪水は完全に否定されてしまったという点を指摘しました。ここではそれらのデータがどのくらい客観的なものなのかを示したいと思います。

前の記事では氷床の年代は歴史に記録されている火山噴火の痕跡と照合することができるという点を紹介しました。しかし単独でも客観的で正確な年代のカウントを行うことができています。その一つの方法は氷床の中の酸素同位体の比率を使ったカウントです。酸素同位体には18Oと呼ばれるものがあり、周辺海域や陸地の気温が低いときは18Oは多く失われ、降り積もる雪の18O同位体の比率(δ18O)の値は少なくなります。逆に夏の時期に降る雪の中では18Oが多く含まれるようになります。下のグラフでは谷になっている部分の紫の帯の縦の破線の部分が冬を表しています。この1年周期のシグナルを確認することで掘り出した氷床の年代を正確にカウントすることができます

下のグラフ:10メートルの間に19の年縞(ねんこう)を確認できる。

このグラフはグリーンランドのCrêteの氷床のδ18Oの変動の一部をグラフ化したものです。Crêteの場合は404メートル掘り進められ、およそ15世紀分、西暦534年までの氷床のサンプルがとられています。Crêteは表面は1年分の雪が70㎝ほど降り積もり、100メートルほど進むと1年分の雪は20㎝ほどに圧縮されています。このように十分な積雪量を記録している場所ではδ18Oの値測定によって正確に毎年のレイヤーを識別することができます。

DYE-3 過去8000年前まで正確にさかのぼる

例えばグリーンランドのDYE-3という場所では表面では1メートルほどの雪が積もるため、δ18Oの値で年代をカウントする十分な条件が揃っています。実際、DYE-3 では8000年分の深さまで安定同位体のデータによってレイヤーが識別できています(*1)。以下のグラフはグリーンランドのDYE-3(先ほど8000年分までほぼ正確に年代をたどれると指摘した場所)の1年毎の氷床の厚さをグラフにしたものです。(*2)

エトナ火山噴火からノアの大洪水までさかのぼると氷床の厚さは規則性をもって圧縮されていきます。表面近くは1メートルほど積もっている雪は100メートルの深さになると半分の50㎝になります。そしてBC425年は深さ924メートルになり1年分の厚みは27㎝です。さらにBC2370年は深さ1367メートルになり15㎝の厚みになります。アダムが創造されたとされているBC4026年(ものみの塔による)は深さ1558メートルの地点になります。しかしどこにも大洪水を示す跡はありません

神が証拠を隠蔽したのか?

このようにグリーンランドや南極での氷床の研究はノアの時代の大洪水を明確に否定しています。地球規模の洪水が起きながらグリーンランドや南極の氷床に洪水の跡を何も残さないということはあり得ません。

洪水の規模と破壊的な影響について、ものみの塔がどのように描写しているか見てみましょう。彼らは以下の記述にあるように世界中に「巨大な激浪が荒れ狂い」、グランドキャニオンのような大峡谷が「何日かのうちに」できたと述べているのです。

ものみの塔1968年10月15日p613

グランドキャニオンのような1200メートルもある地層と渓谷が「何日かのうちに生じ」、世界中を「巨大な激浪が荒れ狂い」ながら、グリーンランド、そして南極だけに証拠が残らないように隠ぺいしたと本当に信じられますか?

記事の終わり

*1 Centre for Ice and Climate – コペンハーゲン大学 – 「安定同位体データによる氷床コアの年代確定について」

*2(データは米国 NOAAサイトの gicc05-holocene-20yr.txt を利用)

 

氷床の年代は正確 – 火山噴火の跡と一致

氷床コアの研究によって数千年あるいは数十万年前までさかのぼっても、世界的な大洪水が起きた形跡がないことが明らかになっています(「地球規模の洪水はなかった – 氷床は語る」を参照)。それでも恐らく反論として”氷床コアの中に洪水の跡がないのは確かかもしれないが、その記録は正確な年代ではないかもしれない”という主張が出てくることでしょう。しかし氷床コアは数十万年までさかのぼる調査結果が出ているため、上記のような反論を有効にするためには、年代の桁を間違えるような誤差が存在していなければならないことになります。

火山噴火と氷床コアの一致

大規模な火山噴火が起きると大量の火山性物質が大気中にばら撒かれます。大きな灰は火山の周辺地域に降ることになりますが、微粒子は大気中を浮遊して火山から遠い場所でも観測することができるようになります。もし氷床コアの年代計算が正確なものであるなら、氷床の中に含まれる火山性物質の体積が各地で起きた大規模火山の年代と一致するはずです。

南極での調査

以下に示すのは南極のボストーク基地で掘り出された氷床コアに含まれている火山性硫酸塩含有量を示すグラフです。グラフの中の点線のラインを超えて上に突出している部分が大規模な噴火を示す火山性硫酸塩の層を含んでいる部分です。

図1:南極氷床コアの火山噴火活動を示す微粒子含有量のグラフ(過去900年分)

vostok

資料:http://www.the-cryosphere.net/8/843/2014/tc-8-843-2014.pdf

では氷床コアの中の火山活動の痕跡は実際の火山噴火の記録と一致しているでしょうか? 答えは「はい、確かに多くの既知の大噴火と一致してる」となります。以下はグラフの中の山の部分(V1~V24)の対応する歴史上の噴火を示す一覧です。

記号 該当する火山活動 場所
V1 ピナツボ火山(1991年) フィリピン
V2 アグング火山(1963年) インドネシア
V3 クラカタウ火山(1883年) インドネシア
V6 タンボラ火山(1815年) インドネシア
V11 不明
V15 パーカー火山+デセプション島(1641年) フィリピン、南極(確定はできない)
V16 ワイナプチナ火山(1600年) ペルー
V17 海底火山クワエ(1452年) バヌアツ
V19 不明
V20 不明
V22 エルチチョンあるいはサマラス火山(1257年頃) 記録なし
V24 不明

 

グリーンランドでの調査

南極と同様にグリーンランドでも氷床コアに含まれる火山性物質の調査が行われています。結果は南極と同じく過去に起きた大規模噴火の跡が表れています。南極との違いは図2で表れている通り北半球で起きたLaki(ラキ火山 アイスランド)とKatmai(カトマイ火山 アラスカ)の噴火で数値が大きく出ている点です。

図2:グリーンランドの氷床に表れている噴火の跡

volcanic_rel_icecore

https://www.projects.science.uu.nl/iceclimate/karthaus/archive/lecturenotes/2009/fischer/HubertusFischer.pdf

調査結果は客観的に検証されている

これらの証拠を科学者のねつ造であることはあり得ません。なぜなら、これらの結果は再現性があり、いくらでも検証が可能であるからです。実際下の図3が示す通り日本の共同研究チームが新たな基地のデータを加えて再び検証したときにも、細かな誤差を除けば過去の調査と同じ結果がでています。

図3:理化学研究所と国立極地研究所の精度を高めた調査結果(http://www.riken.jp/pr/press/2014/20140722_2/

volcanic_japan

 

さらに過去までさかのぼる

ここまでのところで過去900年間のデータを紹介しました。しかし追跡可能な年代は900年分だけではありません。以下のグラフで示されている通り、現在から2500年前にさかのぼるまでの氷床の中の火山性硫酸塩含有量が調査されています。

図:グリーンランド(上段)および南極(下段)の火山性微粒子、そして木の年輪の成長率(中段)の比較

https://www.researchgate.net/figure/280714137_fig1_Figure-1-New-ice-core-timescale-of-Greenland-ice-core-NEEM-NS1-topand-Antarctica-ice

このグラフを見ると紀元前425年頃(グラフの左端の”-425″)にすべての折れ線に大きく影響を与えているポイントを確認できます。

ギリシャの歴史家トゥキディデスはイタリア南部シチリア島のエトナ火山噴火によってカターニア地方に大規模な災害があったことを記録しています( Thucydides 3.116)。ヒエロニムスのエウセビオス年代記(jerome-eusebii_chronici_canones_fotheringham_1923.pdf)はこの噴火をオリンピアード第88期の第3年の出来事として記録しています。これは紀元前426/425年を意味しており、グリーンランド氷床の大規模噴火の跡と一致しています。

図:エウセビオス年代記。オリンピアード第88期第3年「エトナ火山の噴火」

これによって少なくとも紀元前425年までは大きな誤差が認められないことがはっきりします。これより先は歴史書の中に大規模な火山噴火の明確な年代が記録されていないため照合させることはできません。しかしさらに下のほうの氷床の紀元前2370年(ものみの塔がノアの洪水の年としている年代)付近を見ても大洪水の跡は全く存在しません。火山灰の微粒子でさえとらえることができるのに、地球を覆いつくしていた大洪水の跡が何もないということはあり得ないことです。しかも聖書によると洪水の水は1年近くも地上を覆っていたと主張されているのです。

 

 

記事の終わり

 

補足:氷床コアはインチキではない

はじめに

氷床コアの研究とは南極やグリーンランドなど過去に降り積もった雪が氷床となって積み重なっているポイントで下に向かって掘削し、氷床を円柱状(コア)にくり抜き、その中に含まれる大気成分や水の分子を分析する研究のことです。氷床コアからは過去の大気成分をそのまま取り出すことができるため、長い年月における気象変動を調査する上で重要な役割を果たしています。

氷床コアプロジェクトによる調査から高い精度の結果が出されています。そして気象変動のデータは優に数万年を超えるところまで確認することができるため、聖書が示しているとされる紀元前2370年(ものみの塔による年代)において世界が水に覆われるような大洪水が本当に起きたのかどうかは容易に確かめることができるようになっています。しかも「全天下の高い山々がことごとく覆われる(創世記 7:19)」状態になった大洪水から水がはけるまで1年ほどかかっているので、南極やグリーンランドの氷床に明確な事象を示す証拠を残さないで済むことは不可能「南極の氷床は地球規模の大洪水を否定する」をご覧ください。)です。わたしたちは客観的な調査に基づく氷床コアの研究結果を認めるなら聖書のノアの時代に世界的な大洪水は起きていなかったという事実を受け入れざるを得なくなっています。

科学者が示す氷床コアの研究は”インチキ”?

氷床コアのデータは一つの国の一つの調査に基づくものではなく、世界各国の科学者によって行われている調査と研究に基づいています。グリーンランドや南極では複数の基地があり、日本も南極の調査に参加しています。通常考えるとそのような各国の調査をすべて「インチキ」として捨て去るのはかなり大胆なことと言えます。

しかしクリスチャンの創造論者の中には世界中の科学者たちが行ってきた「氷床コア」の調査は「インチキ」であるとする人もいます。そのような主張をする人は多くはありませんが、日本語では以下のページから主張の要旨を見ることができます。

聖書の教え – 氷床コア (ice cores) 2016/11/22
http://bible9.blogspot.jp/2016/11/ice-cores.html

上記のページによると、氷床コアの研究は”無神論の世の担い手フリーメイソン作のインチキ進化論で洗脳されたインチキの伝道者となっている科学者たち”によって行われたもので、「P-38, “Glacier Girl”」の発見がそのインチキを論破したとされています。

このような主張がナンセンスなものであることを証拠から示す前に、一つの点を言及しておく必要があります。それはグリーンランドの雪に埋もれた「P-38, “Glacier Girl”」を救出することに関わった人々が上記ページにあるような主張をしているわけではなく、ごく一部のクリスチャン(主に若い地球創造論者)が48年前の軍用機が「263フィート(78.9m)」から発見されたという文章に注目して主張を始めたにすぎないという点です。ですから「P-38, “Glacier Girl”」の関係者はこの主張をしている人々とは異なります。

彼らの主張

上記の”Glacier Girl”の発見に関係してなされる主張は簡単に述べると次のようなものです。

  • “Glacier Girl”は48年前に雪に埋もれ始めたにも関わらず80メートル近い深さまで雪と氷に覆われていた。
  • 48年で80メートルなら1年で1.65mも氷が堆積したことになる。
  • 「1.65m/1年」で計算すると3000メートルの深さでも1820年の期間しかないはずである。
  • 科学者が発表したデータの中には3000メートルの深さで10万年以上を示すものがあるが、上記の結論からしてインチキである。

大胆な主張、貧弱な調査

前述のクリスチャンの主張は”Glacier Girl”の発掘に関わった科学者や関係者から氷のデータやレポートから得たものではなく、単なる表面的な数字から計算されたものです。このような主張をしているサイトを見ても、詳細なデータが公開されていません。また”Glacier Girl”の関係者の誰かが氷床コアの研究を覆すような画期的な”発見”をしたと主張しているかと言うと、そのような情報も一つも見出すことができませんでした。では実際にこれらの数字は何を意味するのでしょうか?

以下の図はNSIDCのサイトに掲載されているグリーンランドの積雪量や氷床の厚さを示す図です。(http://nsidc.org/greenland-today/category/uncategorized/ )その中から積雪量を示す図だけを拡大させました。

グリーンランドの年間積雪量

zoom

この図に示されているように年間の積雪量は場所によって極端に異なっており、場所によっては10倍以上の差が出ることがわかります。3000メートル付近まで掘削を行う最近のプロジェクトは図でいうと黄色い色になっているエリアで行われています(名称:GRIP、NGRIP、GISP2)。南東の赤くなっている積雪量が非常に多いところでは通常は氷床コアの調査は行われません。特に沿岸部に近いところでは氷床のドリフトが起こり高く積まれた雪と氷は海側に落ちて最終的には海に消えてしまうためそのような場所は選ばれません。

では”Glacier Girl”はどのような場所に埋もれていたのでしょうか?Glacier Girl (P-38) の救出について伝えるニュース映像では以下のように伝えています。

不時着場所を示す地図(動画から)

crash_site

積雪量を示す図と比較してわかるのは、不時着した場所はかなりの積雪量を示す場所であり、沿岸からかなり近い場所であることがわかります。

さらに考えなくてはならない点はグリーンランドでの飛行機事故は”Glacier Girl”の件だけはないという点です。BOSTON.com の中には近年の他の飛行機の調査プロジェクトについて書かれています。

「第二次世界大戦から70年、グリーンランドの氷の中に救出飛行機が発見される」
Seven decades after fatal crash, WWII rescue plane found in ice of Greenland
http://archive.boston.com/metrodesk/2013/01/14/seven-decades-after-fatal-crash-wwii-rescue-plane-found-ice-greenland/FoqPHcnYyGf0UvY3OF6Z8J/story.html

この飛行機事故では生存者はおらず、場所を特定するためにレーダーと金属探査装置が用いられました。そして黒いケーブルと飛行機の残骸を見つけることができました。どのくらいの深度でしょうか?記事の中では地表から約12メートル(40 feet)のところで発見されました。今回の場合は70年で12メートルです。しかし破損したすべての機体とは書かれていませんので、鉄の重たい残骸部分はさらに深いところに沈んでいる可能性もあります。

発見された場所は”Glacier Girl”と同じく「南東部沿岸」ですが、場所や状況の少しの差によって飛行機の上に積もる雪の量は大きく異なっていることがわかります。

近い条件の場所と比較すべき

氷床コアの研究はグリーンランドだけではなく南極大陸でも行われています。各所で行われる調査結果は連動性を示すものの、1年分の氷の厚さの比率は同じではありません。また同じ場所のコアでも単に深さで年代を測定するのでもありません。

例えば以下の図は南極のロードーム(Law Dome)付近の3か所で氷の中の気体が完全に密封される深度を確認した際の調査個所を示すものです。

lawdome-mp

この中にDSS、DE08、DE08-2 と記載されている場所が出ていますが、それぞれの密封深度と年数は以下の通りです。(参照:http://cdiac.ornl.gov/trends/co2/lawdome.html

  • DE08 地表から72メートルで年数40年±1
  • DE08-2 地表から72メートルで年数40年
  • DSS 地表から66メートルで68年

ロードーム(Law Dome)は”Glacier Girl”(P-38)の不時着付近とよく似ており、積雪量が多い沿岸付近です。その地点では地表近くに柔らかい氷床がかなりの深度まで残っています。40年で72メートルですから”Glacier Girl”の数値とほぼ一致します。

もし”Glacier Girl”の例を比較するなら、このような同条件の場所と比較すべきです。

law_dome(図は sciencepoles.org から)赤い地点が Law Dome の場所、”Glacier Girl”の場所と条件が似ている。地表近くは柔らかく、深くなると氷の年縞は極端に狭くなる特性を持っている。

このように見ていくと”Glacier Girl”発見のニュースは事実を覆すような何も新しい情報を含んでいないことがわかります。むしろ創造論者が表面的な矛盾をさも大袈裟に取り上げ大胆な主張をする割に、貧弱な調査しかしていないとう事実を示しているにすぎません。

日本を含め各国の専門家が行う調査を無神論者の陰謀であるかのように”フリーメイソン科学者のインチキ”とするよりも、このような”Glacier Girl”にまつわる創造論者の大胆な主張のほうがよっぽど”陰謀”のように映ります。

 

記事の終わり

 

 

地球規模の洪水はなかった – 氷床は語る

南極の氷床が示す真実

南極やグリーンランドなど過去に降り積もった雪が氷床となって積み重なっている場所が多くあります。それらのエリアから選ばれたポイントにおいて特別な掘削機によって下に向かって掘り進み、氷床を円柱状(コア)にくり抜いて行う「氷床コア」の研究が続けられています。切り出された氷床コアからは過去の大気成分や水の成分を取り出すことができるため、長い年月における気象変動などを知る貴重な手がかりになっています。

以下の写真は北グリーンランドの氷床の様子です。氷床に二つの隣接する穴を掘り、掘ってできた二つの空洞の間には薄い壁を残しています。氷の壁の向こう側からライトを照らすと観察する側には綺麗な層が浮かび上がっています。(参照

しかし氷床の年代のカウントは単に目で見て1年分をカウントしていくだけのものではありません。現代では様々な客観的なデータによって年代を測定することが可能になっています。(参照:ものみの塔の間違い – 劇的な寒冷化

氷床コアプロジェクトによる調査からは高い精度の結果が出されています。そして気象変動のデータは優に数万年を超えるところまで確認することができるため、聖書が示しているとされる紀元前2370年(ものみの塔による年代)において世界が水に覆われるような大洪水が本当に起きたのか否かは容易に確かめることができるようになっています。しかも「全天下の高い山々がことごとく覆われる(創世記 7:19)」状態になった大洪水から水がはけるまで1年ほどかかっているので、南極やグリーンランドの氷床に明確な事象を示す証拠を残さないで済むことは不可能です。

では行われてきた研究の結果はどうなったでしょうか?グリーンランドにおける研究、そして南極における研究、いずれの場合も同じ結果が示されました。今から4千数百年前の紀元前2370年頃に世界的な洪水は起きたことを示す証拠は1ミリもありません。その年代の前も後においても急激な気象変化は見られず、エホバの証人が期待するような地球の大変動は存在しませんでした。

口を閉じてしまった「ものみの塔」

ものみの塔協会は科学者が行っている南極の氷床コアの研究について、今から40年前の1977年に言及していました。

*** 目77 7/8 19ページ 南極大陸,世界最大の“冷蔵庫” ***
今日,南極大陸は科学者のための研究所と呼ぶことができるでしょう。地質学者は膨大な厚さの氷層の下に何が横たわっているかを知るために研究を続けています。

ところが1977年の言及を最後に、その後の研究の結果や成果については具体的な言及を避けています。 本来であればそれ以降に出された研究の成果こそが重要な意味を持つはずですが、氷床コアの研究による過去の気象変動の調査結果について「目ざめよ!」誌が何も語っていないのは不自然です。

参考サイト

日本語による氷床コア研究のわかりやすい解説は以下のサイトからご覧いただけます。動画解説や絵などが豊富です。

国立極地研究所の解説サイト
http://polaris.nipr.ac.jp/~academy/science/hyosyo/

 

日本でも確認できる証拠

紀元前2370年に世界的な大洪水がなかったという点で南極とグリーンランドだけが例外なのではありません。この日本においても日本列島を覆いつくすような大洪水は起きていないという明確な証拠があります。その一つの例は福井県にある水月湖(すいげつこ)の年縞です。この場合の年縞とは湖の底に数千年、数万年の間にたまった堆積物からできる薄い層の模様のことです。水月湖は年縞ができるための多くの条件が整っているため過去7万年にさかのぼって1年ごとの綺麗な層を確認できています。何が明確になっているでしょうか?それは過去に何度か地域的な洪水や火山噴火、地震に見舞われた跡があるもののBC2370年に世界的な大洪水が起きた跡は何もないということです。この点ではドイツのアイフェル地方やベネズエラのカリアコ海盆、イタリアのモンティッキオ、中国の龍湾などで見つかる年縞についても同じです。

参考サイト

水月湖 年縞についての解説
http://satoyama.pref.fukui.lg.jp/feature/varve

「水月湖 年縞」ハンドブック
http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/shizen/nennkou/nennkoukaisetup_d/fil/handbookJp.pdf

 

記事の終わり

 

 

裁き人エフタの約束 – ユダヤ人文書にみられる理解

以下の記述は西暦1世紀頃の文書と考えられている「聖書古代史」(ラテン語のテキスト)の日本語訳の一部です。これはフィロンの文書のラテン語訳と一緒に見つかっていたため、フィロンの作と考えられていました。現在はフィロンではないと考えられていますが、フィロンに近い西暦1世紀頃の文書と考えられています。

この文書の中には聖書には出ていないエフタの娘の名前や、エホバがエフタの娘が犠牲になることを導いたことなどが記されています。

そして聖書の中と一致している点ではエフタの娘の死に関連する習慣、つまりエフタの娘の死を「イスラエルの女らは大いに悼む」習慣が存在していたことが記されています。

聖書古代史 39:10-40:9 作者不明(偽フィロン)

アンモンの子らの王はエフタの声に聞き従おうとしなかったので、エフタは立ち上がり、民全員が出て行って準備万端で戦えるよう彼らを武装させて、言った。「アンモンの子らが私の手に渡されて私が戻ってきたとき、最初に私を出迎えたものはどんなものでも主のために全燔祭の捧げ物となるである」。主はお怒りになっておっしゃった。「見よ、エフタは最初に彼を出迎えたものをどんなものでも私に捧げると誓った。今もし犬が最初にエフタを出迎えたなら、犬が私に捧げられるのだろうか。今エフタの誓いは彼の初子において、つまり彼自身の胎の実において成就するがよい。そして彼の願いは彼に一人娘において成就するがよい。しかし私は今このとき、私の民を解放するであろう。彼のためにではなく、イスラエルが祈った祈りのために」。

エフタは行ってアンモンの子らを攻めた。そして主は彼らを彼の手にお渡しになり、彼は彼らの六〇の町を撃った。エフタは無事帰り、女たちが彼を迎えに踊りながら出て来た。彼には一人娘があり、彼女は自分の父を迎えに真っ先に家から踊りながら出てきた。エフタは彼女を見ると、気を失いそうになって言った。「お前の名がセイラと呼ばれたのももっともだ、お前が犠牲としてささげられるようにと。今、誰が私の心を天秤に、私の魂を秤にかけるであろうか。そうすれば私は立ってどちらがより重いか見るであろう、生じた喜びのほうか、それとも私に降りかかる悲しみのほうか。私は誓いの歌で私の主に対し口を開いたのだから、それを呼び戻すことはできない」。彼の娘セイラは彼に言った。「民が解放されたのを見ていながら、誰が死ぬのを悲しみましょうか。あるいは父祖たちの時代に起きたことをお忘れですか。あのとき、その父親は息子を全燔祭の捧げ物として置き、彼[=息子]は彼に逆らわず喜んで彼に同意しました。そして捧げられようとしていた者は準備ができており、捧げようとした者は喜んでいたのです。今、あなたが誓ったことはどれも取り消してはならず、実行してください。けれど、私は死ぬ前にあなたに一つだけお願いを申し上げます。魂をお返しすることに痛みを覚えるのでもありませんが、父が誓いによって罠にかかったことが悲しいので、私は犠牲のため自らを自発的に捧げたとはいえ、私の死に意に適わないのではないか、あるいは私は魂を空しく失うことになるのではないかと私は恐れています。こういったことを私は山々に告げ、その後戻るでしょう」。彼女の父は言った。「行きなさい」。

エフタの娘セイラは出発した、彼女と彼女の友達の娘たちは。そして民の賢人たちのところに来て語ったが、誰も彼女の言葉に答えることはできなかった。その後彼女はテレグ山に来た。主は夜、彼女についてお考えになり仰せになった。「今や見よ、私はこの世代における私の民の賢人らの口を封じた。彼らがエフタの娘の言葉に答えることができないように。それは私の言葉が成就されるため、また私が考えた計画が覆されることのないためである。私は彼女がその父よりも賢いのを、またここにいる賢人全員よりも娘のほうが思慮深いのを見た。今、彼女の魂はその願いによって与えられよ。彼女の死はいつまでも私の前に貴いものとなろう。彼女は去って死に、その母たちの懐に収まるであろう」。

エフタの娘はテレグ山に来ると嘆き始めた。そしてこれが彼女の哀悼歌である。彼女は逝く前にその哀悼歌でもって悲しみ、身の上を嘆いて言った。「聞いてください、山々よ、私の哀悼歌を。見てください、丘よ、私の目の涙を。証人になってください、岩々よ、私の魂の嘆きの。見よ、私はどのような試練に遭わされていることか。でも、私の魂が空しく取られることはありませんように。私の言葉が天まで届き、私の涙が蒼穹の前に記されますように。すなわち、父は犠牲に捧げると誓った娘を説き伏せているのではない、と。支配者は犠牲にするよう約束された彼の一人娘の言うことを聞き入れている、と。

私は私の夫婦の部屋によって満ち足りたことはなかったし、私の婚礼の花輪で満たされたこともありませんでした。私の高貴さにふさわしく華やかに装ったことはありませんし、香油を用いたこともなく、私のために準備された塗油を私の魂が享受することもありませんでした。ああ母上、あなたが一人娘を産んだのも空しいことでした。なぜなら陰府が私の夫婦の部屋になったからです。私の香料と、あなたが私のために準備してくださった香油の調合物すべては地面に注がれるがよい。そして母が織った白い衣を衣蛾が食い、私の乳母がその時のために編んだ花輪はしおれるがよい。青と紫で私の枝が織り上げた[寝台の]上掛けを衣魚が台無しにするがよい。私の友達の娘たちは何日も私について嘆いて語り、私のことを悼んでくれますように。木々よ、枝を垂れて私の若さを嘆いてください。森の獣よ、来て私が処女のままであることに呻き声を上げてください。なぜなら私の年月は断ち切られ、私の人生の時は闇の中で老いるでしょうから」。

こう言うと、セイラは父のもとに帰った。そして彼は誓ったことをすべて行い、全燔祭の捧げ物を捧げた。それからイスラエルの娘たちはみな集まり、エフタの娘を埋葬し、彼女を悼んだ。イスラエルの女らは大いに悼み、その月の一四日目に毎年集まって四日間エフタの娘を悼むことに決めた。そして彼らは彼女の墓の名をその名にちなんでセイラとした。エフタは一〇年間イスラエルの子らを裁いた。彼は死んで、自分の父祖と共に埋葬された。

聖書古代誌―偽フィロン (ユダヤ古典叢書) – 教文館から

 

記事の終わり

 

裁き人エフタの約束 – 子どもの犠牲

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これはエホバの証人が子ども向けの教材として使用している「わたしの聖書物語の本」の中の挿絵です。これは裁き人の書11章に出てくる旧約聖書の物語からとられています。

ものみの塔2007年5月15日号9ページにはこの物語の場面が父親の立派な模範として描かれています。次のように語られています。

*** 塔07 5/15 9ページ エフタはエホバへの誓約を守る ***
神からの指示を切に望んでいたエフタは,神にこう誓約します。「もしアンモンの子らを間違いなくわたしの手に与えてくださるならば,わたしがアンモンの子らのもとから無事に戻って来た時にわたしの家の戸口から迎えに出て来る者,その出て来る者はエホバのものとされることになります。わたしはその者を焼燔の捧げ物としてささげなければなりません」。それにこたえて,神はエフタを祝福し,エフタがアンモン人の20の都市を討ち,「大いなる殺りく」を行ない,イスラエルの敵を従えることができるようにされます。―裁き人 11:30‐33。

エフタはアンモンの大量殺戮に成功したら、自分の家の者から一人を「焼燔の捧げ物としてささげる」と誓いました。ところがエホバの証人や現代の一部のクリスチャンはこれは焼燔の犠牲のことではなくて神殿での奉仕のことだと述べ、次のように説明を加えます。

*** 塔07 5/15 9–10ページ エフタはエホバへの誓約を守る ***
エフタがその誓約を行なったときには,神の霊がエフタの上に働いていましたし,エホバはエフタの努力を祝福されました。エフタはその信仰と,神の目的に関係して果たした役割のゆえに,聖書の中で褒められています。(サムエル第一 12:11。ヘブライ 11:32‐34)ですから,エフタが人間を犠牲としてささげて殺人を犯すことなど,とても考えられません。では,エフタはどのようなつもりで人間をエホバにささげると誓約したのでしょうか。
エフタは自分の出会った人を神への全き奉仕にささげるつもりだったようです。

今日のクリスチャンは旧約聖書の残虐性を認めることに困難を覚えます。娘を焼燔の犠牲にするなど最悪のことであり、神の民の指導者がそのような行動をとりながら神が戒めずに信仰の模範として扱うはずがない、そして神は人間の犠牲を要求する律法を与えたこともないし、むしろ他の神々へ捧げられていたそのような犠牲を忌み嫌っていることが述べられているという点がしばしば指摘されます。

しかしエフタが娘を焼燔の犠牲としてささげたことを否定する人は幾つもの点を見過ごしています。まずエフタが「焼燔の捧げ物」を「神殿での奉仕」のように唱えていたのであれば、それは異例な言葉の使い方で、それこそ明確に説明がなされるべき内容であるということです。

エフタはその直前に「はなはだ大いなる殺りくを行なった」(裁き人 11:33) と文脈の中で述べられています。ものみの塔は「エフタが人間を犠牲としてささげて殺人を犯すことなど,とても考えられません」と述べていますが、直前の記述を忘れています。エフタによって殺戮された人々、その中には無抵抗の女や子どもたちが含まれていたことでしょう。旧約聖書はイスラエルに対して神が殺戮が命令されたとする記述の中で動物や人間を「滅びのためにささげられたもの」、つまり神に奉納されたものとして描写しています。

1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスの記述

真実の答えは明確です。エフタの”焼燔の捧げ物”の約束が文字通りの意味であったことは1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスの記述から覆しようがなくなります。これが当時のユダヤ人の理解であり、”焼燔の捧げ物”に特別な意味などなかったことを示しています。

フラウィウス・ヨセフス
ユダヤ古代誌 第5巻 7:10
ついで彼は神に勝利を祈願し、もし自分が無事に戻ることができれば、最初に出会った生き物を犠牲として捧げると約束した。そして、彼は敵と戦って徹底的にこれを打ち破り、殺戮を重ねながらミンニテの町まで追撃した。彼はアンモンの土地を横断し、多くの町を破壊して戦利品を獲得し、また一八年もの間彼らの奴隷になっていた同胞たちを解放した。彼がこのような嚇々たる戦果をあげて帰って来ると、そこには思いもかけぬ不幸な運命が待ち受けていた。というのは、彼が帰って最初に出会ったのが彼の娘だったからである。彼女はまだ生娘で彼の一人娘であった。
悲しみに打ちひしがれた父親は、その衝撃があまりにも大きかったために、なぜあわてて会いに出て来たかと娘をはげしく叱りつけた。神に彼女を犠牲として捧げなければならなかったからである。しかし彼女は、父親の勝利と同胞市民の解放の代償として自分が死なねばならぬのを知っても、その運命に不平を言わなかった。ただ、彼女は友だちと自分の青春を惜しむために二か月の猶予を乞い、それがすめばいつでも父親が神への誓約を実行してもかまわないと言った。父親は娘にその猶予期間を与え、それがすむと、娘を播祭の犠牲として捧げた。このような犠牲は、律法に適うものでも、神に喜ばれるものでもなかったが、彼は自分の行為がそれを聞いた者にどのように受け取られるかを洞察できなかったのである。

ユダヤ古代誌〈2〉ちくま学芸文庫 から

ヨセフスは少なくともエフタの行動を無思慮な一面があったことをほのめかしていますが聖書自体にはそのような指摘があるわけではありません。さらにヘブライ11章の中では信仰の模範として列挙されていますがエフタを咎める記述は何もありません。

ユダヤ人の理解を確認するための資料はヨセフスの資料だけではありません。他にも1世紀頃に書かれたとされる作者不明の「聖書古代史」(間違ってフィロンの作とされていた)にはさらに興味深い点が述べられています。

続きは「裁き人エフタの約束 – ユダヤ人文書にみられる理解」からご覧ください。

 

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エホバの証人レッスン