#376 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月24日 15:34:18
NHKで「100分de名著」という番組が放送されています。
今月の名著は「歎異抄」で、昨日第4回(歎異抄の最終回)が放送されたのですが、来週の月曜日(10/30)にもまた第4回が再放送されます。
宗教とは何なのか考えたい方にはとても参考になると思います。
歎異抄は浄土真宗を開いた親鸞の教えの解説書のようなもので、皆さまも中学校で書名くらいは習ったはずです。
私は、カトリックの教えと親鸞の教えとはとてもよく似ていると思います。
私がイエスと出会う前に親鸞と出会っていたら、私にはキリスト教なんか要らなかったことでしょう。
集団の統制のための宗教もどきではなく、ひとりひとりの救いのための宗教とはまさにこのようなもので、本当に人を救う宗教は洋の東西を問わず同じなんだなと思っています。
2016年の再放送ですので、NHKオンデマンドでもまとめて見られます。お金がかかっちゃうみたいですけど。
皆さまの感想が聞けたら嬉しいです。
#377 Re: 総合フォーラム » アブラハムの神の限界 » 2017年10月21日 01:36:57
事実であるかどうか問題にならない
そうでしょうね カトリックの巨大な看板を維持するには仕方ない方便です、少なくともものみの塔よりは知恵があると思います
宗教というのは科学ではなく、どの信仰もつまるところは「妄想」なのですから、「妄想」の部分に関しては、事実であるかどうかにこだわる必要がないのですよ。
それはカトリックに限らず、すべての宗教に共通のことがらです。宗教の働きそのものが仏教でいう「方便」なのですから。
ものみの塔が、自分たちの教えがすべて「事実」であると言い張るのは、宗教というものに対する認識が誤っている(宗教と科学とを区別できなかった時代の認識のまま)か、あるいは貢がせるために証人たちを騙しているかのどちらかでしょう。
また、ものみの塔のいう「真理」が「科学的事実(史学などの科学を含む)」であると信じてしまう人も、宗教とは科学的事実を教えるためのものではないという認識が欠けているのだと思います。
わたしはシンプルに事実はあくまで事実だと思うのですが
おっしゃるとおりですね。
ただ、ヒトというのは自分の身に起こった事実を単なる事実のまま認識するのは非常に苦手な生物でして、意味のわからないことには耐えられず、どうしても解釈し妄想せずにはいられないのです。残念ながら。
どうせ妄想するなら、毒になる妄想より薬になる妄想のほうがいいでしょう。薬も使い方が悪ければ立派な毒になりますから、解毒方法も知っておくことは安全管理上重要ですけれどね。
#378 Re: 総合フォーラム » アブラハムの神の限界 » 2017年10月20日 17:37:42
#379 Re: 総合フォーラム » アブラハムの神の限界 » 2017年10月20日 16:59:04
#380 Re: 総合フォーラム » アブラハムの神の限界 » 2017年10月19日 22:57:37
万年研究生さん、お返事ありがとうございます。
イエスが神(神の子)であって人類を祝福しに再臨するということであれば
人類にとってこんな幸福なことはありません。
(中略)
私はイエスを信じたいですし信じるための証拠やきっかけを切望しています。
「イエスが神(神の子)であって人類を祝福しに再臨する」ということを信じたいので、イエスが実在したという証拠になる記録があってほしいのですね。
イエスという人物が実在したことは歴史的事実でしょう。ただ、彼が復活したとか、神あるいは神の子であったとか、再臨するとかいうことに関しては、誰もが納得するような証拠はないと思います。
現代に生きながらキリストと出会い、キリストを信じるには、個人的な体験として自分なりの証拠を見つけるしかありません。
客観的な証拠がなくても信じることを、イエスは求めていることになっていますよ。
「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネによる福音書20章29節)
#381 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月19日 11:19:27
#382 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月19日 10:53:01
「真の宗教」とはどんな宗教でしょうか?
実際に証明できること、つまり歴史的事実や科学的事実だけを教える宗教でしょうか?
日本でもヨーロッパでも、昔は寺や教会があらゆる学問の場であり、教育や医療も担っていました。信仰に関する事柄だけでなく、実学でも寺や教会が実質的に最高学府として機能していたのです。
現在、実際に証明できる歴史的事実や科学的事実を示すのは科学者の仕事です。客観的に証明できる事実を確定するという分野において、宗教には科学の成果を否定するだけの力はありません。つまり、自分たちだけが「本当のこと(客観的に証明できる事実)」をすべて知っていると言う宗教があるとすれば、その宗教の言うことは明らかに嘘あるいは勘違いです。
ものみの塔やエホバの証人の多くは、宗教と科学の区別がつけられていないために迷走するしかないのだと感じます。
客観的に正しい事実を知りたいなら、宗教ではなく科学者に教わりましょう。
#383 Re: 総合フォーラム » アブラハムの神の限界 » 2017年10月19日 10:26:29
万年研究生さん、こんにちは。
本当のことを知りたいというお気持ちは素晴らしいと思います。
ものみの塔は聖書の記述や自分たちの教えのすべてが歴史的事実あるいは科学的事実として正しいと主張し、証人たちにそのように信じるように強制します。
しかし、カトリック教会は自分たちの教えのすべてが歴史的事実あるいは科学的事実であるとは教えません。カトリック信者は、信じている事柄の多くが事実を超えたものであることを直感的に知っています。ですから、信じていない人に対して論証によって信じさせようとはしません。信仰は恵みであり、「本人がその気になるまで信じることはできないものだ」と知っているからです。
万年研究生さんはキリストを信じていらっしゃるのでしょうか?
それとも信じたいと思っておられるのでしょうか?
キリストを信じるためにはどのような根拠が必要だとお考えなのでしょうか?
#384 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月19日 10:06:23
#385 Re: 総合フォーラム » アブラハムの神の限界 » 2017年10月19日 00:03:01
それで 自分は イエスという人間は実在したと思いますが 教えたことが曲解されたり美化されたり また多くの奇跡をおこなったということは盛られたり創作されたりしたものではないかと思います
私もそのとおりだと思います。
イエスを信じた人々の理想が、現代にまで伝えられているわけですから、すべてが歴史的事実でないとしてもそれは決して嘘ではなく、信じる人にとっては真実であると思います。
日本にもいろいろな伝説になっている歴史上の人物はたくさんいますね。陰陽師の安倍晴明とか、菅原道真とか、源義経とか。伝説のすべてが実際の出来事であるとは考えられませんが、その伝説はその人物の素晴らしさを伝えたいと願った人々が知らず知らずのうちに「盛った」物語であって、歴史的事実でないから嘘だと決めつけるのは野暮というものです。
#386 Re: 総合フォーラム » アブラハムの神の限界 » 2017年10月18日 23:46:25
「宗教の役割のひとつは、自分は罪深い人間だと思わせることのようだね。」
私は中学生のときに三浦綾子の作品をたくさん読んでいました。三浦綾子はプロテスタントの作家で、クリスチャンの立場を前面に出した作品を数多く残しています。
三浦綾子を知ったきっかけは、小学校のころ国語の問題集に作品が採用されていたことでした。ほかにキリスト教作家を知りませんでしたので、彼女の作品ばかり読み、たいへん勉強にはなりましたが、結局のところあまり好きにはなれませんでした。
おそらく彼女の教会がそうだったのだと思いますが、彼女の作品からは、人間は自分の罪深さを強烈に意識すべきだと考えていることが伝わってくるのです。人間は罪深いからキリストの贖いが必要なのだという理屈です。
その理屈は間違ってはいません。間違ってはいませんが、イエスが罪人に向けた眼差しはもっと温かいものだったと私は思っています。
ヨハネによる福音書8章で、姦通の現場で捕まった女に、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言っています。私たちは、いつでも自分のように隣人を愛して生きるなどということはできない弱さを持っています。その弱さが罪につながるのは事実だとしても、神は罪人である私たちをこそ愛しておられるのだというのがイエスの教えでしょう。
必要以上に罪深さを意識させることは、救いには繋がりません。もっとも、ものみの塔が生まれたアメリカには、そのくらい責められないと内省できない人がたくさんいるのかもしれませんが。いずれにしても人間の罪深さを強調することは、一般的な日本人には向かない教え方だと思います。
#387 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月15日 17:31:49
先ほどの信条は最初から物語として信者さんに言わせていたのですか?それとも途中から物語に変わったのですか?そうだとしたら事実だと信じている信者さんは間違いを信じていて救われないのですか?
事実はいつから物語になるのでしょうか?
それは客観的な事実に主観的な解釈が加えられた時です。
小学校1年生の子どもが学校で友だちに意地悪されたと思い、家に帰って母親に訴えます。
母親がわが子の口から聞くのは、客観的な事実が何割か含まれた「物語」です。母親が子どもの考え方をきちんと把握していれば、実際の出来事がどのようなものだったのか推測することはできますが、その場にいたように正確に把握することは難しいでしょう。つまり母親がわが子の話から知ることができるのは、学校で起きた事実そのものではなく、わが子の物語であるということです。物語の中の事実が客観的事実であるかどうかを判断するのもまた、母親の主観になります。
(そして客観的事実と思われる事件が重大な問題であれば、他者の物語と突き合わせて真相を究明する必要が出てきます)
信条や聖書が成立したのは、イエスの復活・昇天を目撃できた(かもしれない)人々の死後です。信条を信じる人々は、その場で目撃したわけではありませんから、物語(伝承)の中で語られる事実を信じるしかありません。それが客観的事実であるかどうかも、直接的な証拠がない限り、信じる人の意思によって決まることになります。
信条や聖書の物語を信じるということは、その中で語られる事実が科学的に立証されなくてはならないということを意味しません。信仰とは望んでいることがらを確信することだからです。
科学的事実を認めるのには、信仰は要りません。
#388 Re: 親睦・相談 » 元・エホバの証人同窓会・脱塔分室~JWからの脱塔指南します~ » 2017年10月12日 16:37:13
#389 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月12日 13:58:50
iris流カトリックは普通のカトリックとは違うとお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、私は至って普通のカトリック信者のつもりでいますよ。
例えば、将棋などはルールがきちんと決まっていますが、特徴的な棋風をもっているプロ棋士もいるようですね。谷川浩司九段は「谷川前進流」、米長邦雄永世棋聖は「泥沼流」とか。ルールの範囲内でも個性が現れるのが、生身の人間が対戦する面白さではないでしょうか。スポーツ選手でも戦術に個性が出ますよね。
カトリック信者も基本的な教えは共有しながら、それぞれの個性に合った生き方(信じ方)をしているのが普通です。
カトリック教会は、ものみの塔のように一挙手一投足に干渉するようなことはしませんからね。
#390 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月12日 13:12:30
てつてつさんこんにちは。
自分は正しい神様の崇拝方式があってそれ以外はダメという ものみの塔で教えられた名残があって ちょっとうーん これって十戒の あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない 出エジ20.3の違反じゃないのー?と思っていたのですが
今までも書いていますとおり、私にとって「わたしの神」は、イエスが示された父なる神のほかにありません。私は十戒の第1戒をちゃんと守っていますよ。
ただ、その神がてつてつさんの神、つまりてつてつさんにとっての「自分の神」である必要はないと思います。てつてつさんの神はてつてつさん御自身が見つけるべきです。
神仏は、ひとりひとりの人生の物語の中で働かれるものだからです。
まあ歴史上カトリックがこの言葉のとおり行動してきたかは疑問ですが いちおう書かれていることはよいと思いました
逆の行動に走った時代もありましたね。
世界中の人々とともに生きる時代になって、多様性を認めるという当然のことに、カトリック教会もやっと気づいたのでしょうね。
#391 Re: 総合フォーラム » 最近のjw事情 » 2017年10月09日 04:23:57
#392 Re: 総合フォーラム » 最近のjw事情 » 2017年10月08日 20:56:05
#393 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月05日 01:38:20
ここで発言される方の中には、「妄想に基づいた物語を現実に信じるなんて、論理的に考える人間のやることじゃない」とお思いになる方が多いのではないかなと勝手に妄想してみます。
しかし、人間が他人と交流して生きるには、妄想に基づいた物語を信じて行動するしかないんですよ。
「irisさんは他人の心の中を客観的に事実として観察できるのですか?」と質問されたことがありますが、そんなことできる人がいるんでしょうか? 他人が実際に何を考えているか、科学的に証明できますか?
他人と交流しながら社会生活を営むには、他人の行動を観察して、相手の意図を推測(妄想)し、その妄想に基づいて、自分なりの物語を構成して、自分の役割を演じることになります。ですから、多くの人が同じ経験をしても、その経験に関する物語は人によって違うものになりますし、場合によっては知らず知らずのうちに事実と違う物語になってしまうこともあります。客観的な事実と異なる物語になったとしても、その人が意図的に捏造したのでない限りは、その物語がその人にとっての真実となります。
「物語の中の事実(真実)」に基づいて行動することは、理性のない人間のやることなどではなく、社会性を身に付けた人間なら誰もが日常的にやっていることです。それができないと、他人との間に人間関係を築くことができないからです。なにしろ他人の心の中は、客観的な事実として科学的に証明できるものではありませんからね。
神仏の「意図」を妄想することは、本人と周囲とに著しい悪影響がない限りは、他人の意図を妄想するという誰もが日常的に行っている作業の延長でしかありません。ヒトというのは他人の意図を妄想せずにはいられない生物なのですから、仕方のないことです。
#394 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月04日 22:45:06
#395 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月04日 13:35:46
#396 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月04日 13:24:21
「隣人愛」こそが真理である…という考えではないでしょうか?
宗教では「真理」という語をよく使いますが、その意味するところは人によって違うように思います。つまり、日本語話者が全員一致で納得するような厳密な定義がはたしてあるのか、疑問に思います。科学における真理、キリスト教における真理、仏教における真理、それぞれ少しずつ違うものを指しているのではないでしょうか。
カレブさんは「“真理”のように教える」という言い方をよくされますが、私にはどのように教えることなのかがよく理解できないのです。ですから、“真理”のように教えるとはどのように教えることを指すのかお尋ねしたのですが、お答えはいただけないようですね。
私は#8を書くために、小学生向けの国語辞典から定義を借りてきました。
真理:いつでもどこでも変わらず、正しいとされることがら。(チャレンジ小学国語辞典第6版)
さて、これに基づいて考えますと、「人間として最も大切なことは、隣人を自分のように愛すること」という教えは、いつでもどこでも変わらず正しいと私は思いますので、上の「真理」の定義に合致します。
一方、「イエスは処女マリアから生まれ、死んで3日目に復活し、生者と死者を裁くために来られる」という教えのほうは、いつでもどこでも変わらず正しいわけではないと私は思いますので、上の「真理」の定義には合致しません。
ただ、私は「いつでもどこでも変わらず、正しいとされることがら」という定義が、宗教上の意味を含めて“真理”ということばを説明し尽くしているとは思えません。
というわけで、私は「隣人愛」こそが真理であると思っているわけではありませんが、「人間として最も大切なことは、隣人を自分のように愛すること」という教えは、いつでもどこでも正しいと思っています。
#397 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月04日 12:58:10
#398 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月03日 13:07:38
runさん、お久しぶりですね。コメントありがとうございます。
自分でどんどんお返事できればよいのですが、なかなか時間がとれませんので、少しずつお返事しています。
キリストの復活を信じているとしても 飽くまでもカトリックの物語として受け入れているだけのことで、全人類が共有すべき真理であると思っているわけではない。
概ねrunさんのおっしゃる通りです。
私はカトリックですからカトリックの物語を信じています。
しかし、科学的事実を認めるのと同じように信じているわけではありません。
カトリックの物語はカトリック信者にとっては真実ですが、カトリック信者でない人にとって真実である必要はありません。
エホバの証人とカトリック信者とでは、信仰というものに対する認識がまるで違うと私は思うのですが、エホバの証人にとっての「信仰(宗教)」のあり方こそが一般的な「信仰(宗教)」というものだと信じている方々には、なかなか理解していただくのは難しいようです。
#399 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年10月03日 01:29:35
てつてつさん、コメントありがとうございます。
ヘブライ11.1はものみの塔の聖書を見ると
(ヘブライ 11:1) 信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です…
となっていて 聖書は 自分は見えない実態もきちんと証拠立てて調べることによりはっきり理解できるようになり それゆえに信じるということが信仰という意味かなと考えていました 一例電波はみえないが計測器などにより証明できる ものみの塔もそのように教えていたような気がします
これは、見えない電波が計測器などによりその存在や性質が証明できるように、「見えない実体」も客観的な証拠に基づいて実在することを証明できると教えているように思います。
つまり、ものみの塔の指示に従って「研究」すれば、「見えない実体」も科学的事実と同じように客観的な(誰にでも証明可能な)事実と理解できるということではないでしょうか。
私はこのような教え方こそ、「見えない実体」すなわち信仰上の事柄と科学的事実とを混同させる原因だと感じます。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)新共同訳
カトリック教会はどう教えているかというと、ヘブライ11:1に関しては「カトリック教会の教え」(カトリック中央協議会 2003年)の34ページに解説があります。
それによると、「望んでいることがら」「見えない事実」とは、「壊れない幸せ」「永遠に変わることのない過ぎ去らない愛」「死ぬことのないいのち」といった、この世に存在しない超自然のことがらをさしており、信仰とはこのような「人がこの世のものには見いだすことができずとも心底希望していること」が存在し、実現するのだと確信することとされています。
つまり、ものみの塔の教えでは「見えない実体」が観測できるもの、実在するものと考えられているのに対し、カトリックの考え方では、これらのことがらはそもそもこの世に存在しない超自然のことがらであるというのが大前提であることがわかります。つまり信仰が扱うことがらは、カレブさんのおっしゃるところの「妄想」の中に存在するものであって、科学的事実のように誰もが客観的に観測して確認できるような性質のものではないということです。
信仰と科学とでは、そもそも対象も考え方も異なるのです。
念のために繰り返し申し上げますが、カトリックの教えを紹介するのはものみの塔の教えと比較するためであって、カトリックが正しいからでも、カトリックに勧誘するためでもありません。
#400 Re: 総合フォーラム » 宗教なんていらない ~「真の宗教」は存在するのか » 2017年09月30日 08:27:58
みなさまおはようございます。
(ヘブライ 11:1) 信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です…
てつてつさんが紹介してくださった新世界訳の聖句ですが、
この文は何を言いたいのか、日本語の意味が私にはさっぱり理解できません。
日本語訳が悪いのか、あるいはもとの英文がおかしいのか、いずれにしても、
もともとの聖書のギリシャ語とは違うことを言っているように思われます。
私の手元にある英文の聖書は、40年以上前のTEV(The New Testament in Today's English Version)ですが、ヘブライ11:1は次のようになっています。
To have faith is to be sure of the things we hope for,
to be certain of the things we cannot see.
これを直訳すると「信仰するということは、わたしたちの期待(待望・希望)している事柄を確信すること、わたしたちの見ることができない事柄を確信すること」となり、先日私が御紹介した新共同訳の聖句
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」
とほぼ同じ意味であることがわかります。
原文のギリシャ語から別々に英語(TEV)と日本語(新共同訳)に訳された文が一致していることから、TEVや新共同訳が原文のギリシャ語を正しく反映しているものと考えてよいと思います。
新世界訳とはかなり違いますね。
エホバの証人の中には、信仰(宗教)と科学との区別がつかなくなってしまっている人が少なくないように私には思われます。
新共同訳聖書は「信仰とは見えない事実を見えないまま信じること」という信仰者として適切な態度を示していると思いますが、新世界訳を使うと「信仰があれば見えない事実も無理やり見えることにできる」と教えることができ、これが信仰上の事柄と科学的事実とを混同させる原因になっているように感じます。
カレブさんが「カトリックでは真理でないことを真理のように教える」とお考えだったり、ささらほーさらさんが「進化を認めながら信仰も持つのは矛盾している」とお考えだったりするのも、信仰上の事柄(物語の中の事実)と科学的事実との区別をつけさせない(意図的に混同させる)ものみの塔の考え方が影響しているのかな…とてつてつさんの書き込みを読んで考えました。
聖書の時代なら、事実を科学的に解明する技術は現代と比較にならないので、信仰上の事実と科学的事実とが混同されても仕方ない部分はあると思いますが、原文のギリシャ語は本当のところどのような意味なのでしょうね?
