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#51 2019年12月23日 23:38:36

アノニマス
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

おじゃまします。アノニマスと申します。#45の誰が福音書を書いたのかについてあくまでも自分の感想ですが、使徒2;5-6、16;1-2  ローマ16;22で推察すると信者の中にはギリシャ語が使える人が結構いたと思います。筆記者と一緒に福音書をまとめたのではないでしょうか。

#52 2019年12月24日 00:05:20

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

#53 2019年12月24日 00:11:18

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

#54 2019年12月24日 08:44:53

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

仰天さんよく調べていただきありがとうございます 確かにそのような可能性もあると思いますが 現時点ではお互いの主張のはっきりした証拠はないようですのでこれ以上はわからないかなという感じです

あと自分はわからないのは彼らが日常使用していた言語がアラム語だと思いますし 誰かに伝えたいと思って本を書くのならまずアラム語で書いて近しい人たちに伝道に使うと思うのですがそれを最初からギリシャ語で書く意味がわかりません

変な例えで申し訳ありませんが日蓮をメシアだと思った弟子たちが日蓮の伝記を英語で書いて日本でひろめようとするようなものでちょっと不自然かなと思います cry

あと聖書についての質問さんにも意見を聞いてみたいので質問してみます

編集者 てつてつ (2019年12月24日 08:51:16)

オフライン

#55 2019年12月24日 10:32:00

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

#56 2019年12月24日 15:34:39

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

福音書の著者は誰なのかについて、てつてつさんからご質問がありましたので、愚考を述べさせていただきます。

まず、話題になっている田川健三氏の「書物としての新約聖書」ですが、これは一般向けの読み物です。なかなか面白いものです。にもかかわらず、長すぎますし、値段が高すぎます。出版社も本当は出版したくなかったんじゃないでしょうか。書かれていることは、田川氏の個人的見解として読めばよろしいものです。根拠の乏しい独断と偏見が随所にみられますが、そこは田川節として鑑賞すべき本だと思います。

田川氏はフランスのストラスブール大学で宗教学博士の学位を取得している、日本では珍しいフランス系の学者です。聖書学というと、日本ではドイツ、イギリス、アメリカが中心なので、フランス系は傍流という位置づけでしょうか。

田川氏の博士論文をもとに書かれたのが「原始キリスト教史の一断面 福音書文学の成立」(1968年、勁草書房)です。マルコの福音書について書かれたものです。こちらは専門家向けなのでしょうが、今読むと論証が甘く、現代でも田川氏のマルコ福音書に対する見解はあまり受け入れられていません。

次にしばしば話題になるアーマン氏ですが、彼の著作は数冊ほど日本語に翻訳されていますので、田川氏以上に有名かもしれません。アーマン氏は自分のことを歴史家と呼んでいます。聖書に対しても、信仰者には厳しい見解が目立つ人です。キリスト教にたいする特別な思いもない多くの日本人には、アーマン氏の主張は素直に受け入れやすいのですが、聖書信仰の強いアメリカでは抵抗が強く、絶えず攻撃されています。毎日嫌がらせのメールが大量に来るそうです。そのため、アーマン氏の著作は信仰者の反論を想定してかなり緻密な内容になっています。いっぽう、たくさんの著書があるせいか、同じことの繰り返しが目立ち退屈な面もあります。

さて、福音書の著者ですが、基本的には誰が書いたかわからないのですが、どのような人が書いたのかというのはある程度推理できます。まず、マルコによる福音書について田川氏の推理を見てみましょう。

「最も古い福音書。伝統的には使徒行伝一五・三七ほかに出て来るマルコが著者とされてきた。近代聖書学においてはそれを疑う学説が強いが、積極的に疑う根拠はない。しかし、ペテロの弟子だったというのは、あてにならない。少なくとも福音書の中身を読む限り、とてもその可能性はない。ギリシャ語が下手なこと、内容等々からして、パレスチナ出身のユダヤ人キリスト教徒であるのは確か。学界では非ユダヤ人キリスト教徒とする説もはやっているが、根拠はない。執筆年代、場所は不明。しかし、エルサレム崩壊を知らないのは確実だから、七○年以前であるのは確か。五○年代か六○年代である。七○年代以降に書かれたなどとする「学」説は、何でもいいから想像をたくましくしようという以外の意味はない。」

最後の一文が田川節です。余計なことを言わずにはいられない人なのでしょうか?

まとめると田川説は、マルコ説を疑う理由がないが、ペテロの弟子というのは疑わしい。パレスチナ出身のユダヤ人。執筆年代は50年代か60年代、執筆場所は不明

では、アーマン氏はどのように推理しているでしょうか?アーマン氏の「The New Testament : A historical introduction to the early Christian writings」(日本語訳はありません。アメリカの大学の新約聖書学の教科書です。)の117,118ページには、要約するとこのように書いています。

匿名の、パレスチナ以外の、ギリシャ語を第一言語とする、異邦人。執筆年代はローマ軍によるエルサレム陥落の年である70年以降。

ふたりの意見は全く違いますね。もちろんアーマン氏の見解の方が主流の見方です。田川氏の見解を支持する人は少数でしょう。しかし、アーマン氏の意見が正しいと決まっているわけではありません。そちらの方がもっともらしいというだけです。もっともらしいとする理由はこのようなものです。

1.    なぜマルコではないのか?
マルコ説は伝承をもとにした説だから。根拠としては弱い。伝承では、マルコはペテロの通訳となっているが、ペテロにそのような通訳がいたことは“使徒”に書かれていない。マルコ福音書の中のペテロは愚かな発言をし、イエスに絶えず批判されている。マルコはありふれた名前なので、仮にマルコだとしても、どのマルコかは不明。名前がわかっただけではあまり意味がない。匿名の誰かとした方がよい。
2.    なぜパレスチナ以外の人なのか?
パレスチナの地理に詳しくなく、地名の間違いがある。例えば、マルコ5:1では“一行は湖の向こう側に着き,ゲラサの人たちの地域に入った。”とありますが、湖と訳されているギリシャ語はthalassēs(タラッサ)で、海です。つまり、マルコはガリラヤ湖を海と誤認している。ルカでは正しくlimnēn(リムネー)という単語を使っています。これは湖という意味です。またゲラサも意味不明の地名なのです。
3.    なぜユダヤ人ではないのか?
ユダヤ人の習慣にうといから。例えば、マルコ7:3,4には、“パリサイ派の人をはじめユダヤ人は皆,父祖たちからの伝統を固守し,手を肘まで洗わなければ食事をせず,市場から戻ったときには,体に水を掛けなければ食事をしない。”とありますが、“ユダヤ人は皆”というのは間違いです。
4.    なぜ70年以降なのか?
著者は、エルサレムの神殿の破壊をすでに知っていると思われるから。例えば、マルコ13:1,2には“イエスが神殿から出ていく時に,弟子の1人が言った。「先生,見てください。何と見事な石と建物なのでしょう」。しかしイエスは言った。「この立派な建物を見ているのですか。石がこのまま石の上に残って崩されないでいることは決してありません。”とあり、実際に神殿は床面を除いて破壊されました。信仰者ではない歴史家はこれを“事後預言”と見なします。つまり福音書を書いた時点で、すでに起きていることを、その前にイエスが預言したかのように創作していると見なすのです。

マルコの福音書の著者は誰なのかはわかりません。マルコと呼んでもかまいませんが、どのマルコかは不明です。ギリシャ語を話す異邦人(マルコはローマ人の名前)で、書かれた年代(イエスの死後40年くらい)から言って、イエスのことを直接は知らない人で、さまざまな伝承(多くはアラム語。そのためマルコ福音書には、タリタ・クミ(5:41)やエファタ(7:34)、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(15:34)などアラム語のセリフが出てくる。)をもとに、ギリシャ語で福音書という新しい文学ジャンルを生み出した創造的な人物です。

マタイ、ルカ、ヨハネの福音書についても、著者は不明です。

ルカについて、田川氏は、「近ごろドイツやアメリカなどで、この著者はパウロを知らない人物である、という学説がはやっているが、かなり無理な説である。」と述べていますが、傍流のフランス系学者の言いそうなことと、笑う部分です。

#57 2019年12月24日 21:40:07

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

編集者 てつてつ (2019年12月24日 23:33:26)

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#58 2019年12月26日 09:35:55

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

編集者 てつてつ (2019年12月26日 09:58:35)

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#59 2019年12月26日 10:46:53

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

てつてつさんの質問というのは、新約聖書を書いた人たちは使徒たちとは関係の薄いギリシャ語を話すパレスチナ以外の人で、思想的には使徒たちと対立していたのではないか、というものと理解しました。

ひとことでいうと、それで正しいと思います。

初期のクリスチャンはどのような人たちだったでしょうか?主にエルサレムにいるユダヤ人たちが最初のメンバーだったでしょう。使徒たちはユダヤ人を主な対象に伝道活動をしていたようですが、ユダヤ人たちは、新しく奇妙な教え(刑死した男が救い主)を受け入れることはなく、使徒たちの活動はあまり成功しなかったようです。

そこへ、パウロが現れます。パウロはよそ者の新参者で、イエスのことを知らず、使徒たちとはほとんど関係がありません。使徒たちに従属しているわけでもなく、自分はイエスから直接使徒に任命されたと主張しています。使徒たちからすれば、到底容認できない主張ではないかと思われます。

パウロは長期間にわたる伝道旅行(主にギリシャ語圏)を開始します。これはパウロ自身の発案で行われ、大成功をおさめました。パウロはキリスト教が世界宗教になる基礎を作ったわけですが、パウロの死後、パウロのような大規模な伝道活動が行われたという記録はありません。パレスチナ以外の初期のクリスチャンは実体としてはパウロの弟子なのです。そのあと、キリスト教は組織的な伝道活動によってではなく、主に口コミで広まっていったと考えられます。

パウロは自分が設立した教会へギリシャ語で手紙を書きます。あて先がギリシャ語圏だからですね。その手紙は、ギリシャ語圏で広く回覧されて、パウロは予想もしなかったと思いますが、聖典となっていったわけです。新約聖書の中で一番数が多く、年代的に最も古いのもパウロの手紙です。

初期のキリスト教を考えるうえで、決定的に重要なこと70年に起こりました。ローマ軍によるエルサレム陥落と破壊です。この時エルサレム教会も消滅したようです。ユダヤ人キリスト教徒の多くは死亡し、これ以降キリスト教の歴史でエルサレムがシンボル以上の重要な役割を果たすことはなくなりました。ユダヤ教的なキリスト教が神殿の破壊とともに力を失ったのです。また、ユダヤ教自体も変わっていきます。

70年以降、クリスチャンは異邦人かギリシャ語を話すパレスチナ以外に住んでいるユダヤ人が大半を占めるようになります。彼らは、エルサレムの破壊という歴史的な惨事に加え、様々な迫害を受けるようになります。そのようなクリスチャンを励ます、信仰を強める、といった目的で、最初の福音書であるマルコの福音書がギリシャ語で書かれたと推測されています。最初のマルコの福音書に触発され、次々と様々な福音書が各地で書かれて行きます。その中から、3つの福音書が聖書に採用され、広く読まれるようになるわけです。福音書には生身のリアルなイエス像はほとんど描かれていません。福音書の作者はイエスを知らない人たちだからです。

要約すると、初期キリスト教は統治体のようなものはなく、各地で独立した宗教活動をしていたわけです。その中で傑出していた人がパウロで、使徒たちとはほとんど無関係に宗教活動をしていました。パウロのような人が各地にいて、様々な論争や対立があったと思われます。しかし、70年のユダヤ社会の崩壊によって、キリスト教の主流は非ユダヤ人でギリシャ語を話す人たちになり、その人たちが現在の新訳聖書におさめられている文書を作り出していったのです。それで新訳聖書はギリシャ語で書かれている。

世界伝道を目指してギリシャ語で書かれたという訳ではないでしょう。

新約聖書の中で、ヤコブの手紙というのがあります。イエスの兄弟で、エルサレム教会の中心だったヤコブを語った偽名文書ですが、これはパウロ的なキリスト教に批判的な、使徒たちの思想を受け継いだ人の作品と考えられています。使徒たちの思想がうかがわれるのがヤコブの手紙ではないでしょうか。
“私の兄弟たち,誰かが自分には信仰があると言っても,行動が伴っていないなら,何の価値があるでしょうか”というのはパウロ的な信仰義認論を批判しているのです。

#60 2019年12月26日 11:25:29

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

#61 2019年12月26日 11:50:57

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

聖書についての質問さん 大変わかりやすくご説明ありがとうございました 自分が今まで見聞きしたのと大体一致しているかなと思いました

あと>初期のキリスト教を考えるうえで、決定的に重要なこと70年に起こりました。ローマ軍によるエルサレム陥落と破壊です。この時エルサレム教会も消滅したようです。ユダヤ人キリスト教徒の多くは死亡し、これ以降キリスト教の歴史でエルサレムがシンボル以上の重要な役割を果たすことはなくなりました。ユダヤ教的なキリスト教が神殿の破壊とともに力を失ったのです

の ユダヤ教的なキリスト教 という表現も興味深かったです 多分これが本当の最初の原始キリスト教だっただろうと思います

編集者 てつてつ (2019年12月26日 11:51:36)

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#62 2019年12月26日 12:00:18

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

仰天さん>割礼や動物の犠牲を捧げる事や食物規定、安息日をクリスチャンが守るのが重要なら...

多分イエスはこうした律法の規定を否定することはなく単に神殿に巣くってる悪徳僧職者たちやそのとりまき また律法の真意を理解することなく自分たちに都合のよいように解釈している人たちを非難しただけなんじゃないかなと思います それで12使徒の教えも割礼と律法は守りつつイエスの教えをそれに加えて伝えるという感じだったんじゃないかなと思います つまりユダヤ教的キリスト教だったんじゃないかなと思います cry

編集者 てつてつ (2019年12月26日 12:03:03)

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#63 2019年12月26日 12:09:03

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

聖書についての質問 さん
ありがとうございます。

別トピで 創世記のところ、  akameさん が紹介されていた
特定の信条の 対象に対する 尋常を超えた熱意
判断能力が失われる
という言葉で検索したら
広島大学の近藤良樹  さんの論文を見つけました。

信じることの認識論的二重構造
「信」 にひそむ  「疑」
ひとは 何を根拠にして信じるのか
不動の「信念」 の動揺

逮捕されても 否定し続ける 政治家
性的な被害を訴えた ジャーナリストを 叩き続けた おかしな人々

お手本が  あのヒトたちだから  やり通せると思ったのか?

「定義 付けられない」  とか オカシナこと言って  応援するから スジを読めない 国民は マンマと騙される。

ジャーナリズムについても  近藤先生は 書いておられます。

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#64 2019年12月26日 12:15:22

モトシモベ
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

#65 2019年12月26日 12:19:52

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

学生時代、 「修道院」  朝倉文市  著   講義をする先生の著作だからみんな仕方なく買いました。  なんのことだか解らなかったから  レポート提出後  街の古本屋さんにあふれていました。 カルトに入ったので 捨てましたが  真面目に読めばよかった。
考古学好きな友人は優秀だから ちゃんと読んでいたらしい。
研究生 の時に  年代計算  組織のあり方を 調べて 辞めたわ!  と言ってました。
原始キリスト教  カッパドキア とか世界中の ことさら不便な地に築かれた 僧院を取材した本です。
日本でも 投入堂  とかありますが  厳しい自然の中に  孤立して  不思議な 修道院

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#66 2019年12月26日 12:43:46

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

#67 2019年12月26日 14:23:01

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

#68 2019年12月26日 14:26:30

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

編集者 てつてつ (2019年12月26日 14:52:26)

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#69 2019年12月26日 15:15:07

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

#70 2019年12月26日 15:54:31

ガッツだぜpart2
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

#71 2019年12月26日 16:21:25

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

ユダヤ人クリスチャンは行方不明になり消えて行きましたが聖書にあるように異邦人クリスチャンへと継承されて世界宗教となったのでした。





使徒言行録/ 11章 01節〜
さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。
そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。

その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。

そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』

すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。

そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。 すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。

彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。

あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』

わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。

そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。

こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。



ヨハネによる福音書/ 10章 16節
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。



ほかの羊とは、もちろん、JWの言うような地的クラスの大群衆ではなく、異邦人クリスチャンの事です。

#72 2019年12月26日 16:30:31

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

つまりは〜

いつも同じパターンのような気がします。 カルトの間違いを 説明している掲示板に それぞれ 時間の経過と共に 聖書に対する見方が変化してきたひとたちが 気持ちや、調べた事を書き込んでいる訳です。
真面目な 学究肌のかた  シリアスなシーンを思い出してるかた  ユーモアたっぷりのかた
カルトは懲り懲りだけども 神さまを信じている  いや 神などいない
カトリック教会は 雰囲気いいですよ〜
ボランティアで 子ども食堂手伝っています
施設に慰問するから、プレゼントを準備しているの~
でもね もう聖書を 神の言葉とか言ってぜんぶ史実とは思わないわ

それそれでいいじゃないですかね

追いかけて行って 
「信仰を維持すべきです!」
「 神の裁きにあったらどうするんですか?」

不粋 です。

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#73 2019年12月26日 16:32:35

仰天
ゲストユーザー

Re: 聖書という書物について

聖書否定の根拠が弱い点を指摘されると不粋ですとかまるで議論にならないわけです。

しかも、あなたとは話していないので。

#74 2019年12月26日 16:40:20

めぐママ
メンバー

Re: 聖書という書物について

ガッツだぜ  さん
音響効果  の記事は 現役でカルトにしびれていた頃 本気で読んでいました。
建築をなさるかたには 興味があるでしょうね。
現在の オペラハウスには  水 の反響よりも 別の方法ですね。

オフライン

#75 2019年12月27日 07:42:07

てつてつ
メンバー

Re: 聖書という書物について

編集者 てつてつ (2019年12月27日 07:46:27)

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