#29 2017年06月26日 22:07:58
- iris
- メンバー
Re: JW辞めてよかった体験
ユーリさんコメントありがとうございます。
カトリック教会で最も大切にされているのはミサです。
ミサのなかでも最後の晩餐を再現する部分が最も重要で、
ここでキリスト役が必要なのです。
キリスト役は誰でもよいというわけにはいきませんからね。
カトリック教会では司祭の養成にはかなり手間をかけていますよ。
しかし昨今は志願者が非常に少なくたいへん困っています。
神道にも神職が必要ですし、仏教にも僧侶が必要です。
同様にカトリック教会には司祭が必要です。
人間が本質的に宗教的な存在である以上は、よい宗教が必要ですし、
そのために専門職は必要だと思います。
ものみの塔も初めはよく勉強する研究者たちの集まりでしたね。
人間と宗教の本質を勉強しない無知な人が偉そうに振る舞うようになったことが、
エホバの証人にとっての不幸の始まりだったのかもしれませんね。
編集者 iris (2017年06月26日 22:56:11)
オフライン
#37 2017年06月27日 22:41:22
- iris
- メンバー
Re: JW辞めてよかった体験
鬼太郎さんコメントありがとうございます。
私は『医療とキリスト教』がユーリさんの話したいテーマではないと思います。
私がユーリさんの書き込みから感じることは、ユーリさんが
・宗教組織なんかないほうがよいと思っている
・irisはものみの塔に文句をつけているが、カトリックだってダメじゃないかと思っている
のではないかなーということです。
ユーリさんはカトリックの抱えている問題について私の意見を知りたいのであれば、具体的に質問してください。
ユーリさんの書き込みのどの部分が質問なのかがわかりません。
私も疑い深いタチでして、受洗前にはカトリック教会のあら探しを丹念にやりましたので、カトリックの悪事には驚きません。
それから、過去にささらほーさらさんがユーリさんとよく似た感じで私とやり取りなさっています。
ささらほーさらさんの書き込みを検索されると参考になるかもしれません。
最後に、私はカトリックですが、みなさんにカトリック教会をお勧めするつもりはありません。
常連さんなら聞き飽きたくらい、何度も書いていることですけれどね。
編集者 iris (2017年06月28日 00:13:18)
オフライン
#42 2017年07月01日 06:59:27
- erikoairitokairi
- ゲストユーザー
Re: JW辞めてよかった体験
私も辞めてから医療に関して現代の最新の技術を束縛される事なく選ぶ事ができます。
先日も同じ病棟の小学2-3年の抗がん剤の為頭が一休さんになている男の子から短冊を渡され、書いてねと頼まれた時躊躇せず受け取れ書きました。これが現役の信者はどのように断るのかと考えてしまいました。もうすぐ、七夕なんですね。こんな小さな命を親の都合で死なせてしまった何人もの子供がいたんですね。そしてなんでも自己責任、本人たちの意思です。ですませてしまうのです。ある意味殺人宗教です。
#45 2017年07月01日 12:40:51
- 鬼太郎
- メンバー
Re: JW辞めてよかった体験
JW現役の時は、、、、
兄弟姉妹達が『輸血するのは医者の腕が悪い』高齢の姉妹などは、『戦争中は ダルマさん といって両手両足を
切断しても生きて帰ってきたのに、大輔ちゃん事件の医師はよほどのヤブ医者では、、』という話を聞きました。
JWは統治体崇拝のためWTの出版物が絶対的に正しいと思いこむ傾向が強すぎます。
外科医が上から下まで『完全武装』するのは患者の血を浴びないため と信じ込んでいたわけです。
どうか現役JWと研究生の皆さん、自身と子供さんの命は犠牲にされないでください。
そんな犠牲を喜ぶのは、、古代の風習で、幼い子供を火に捧げさせた悪魔サタンだげです。
オフライン
#47 2021年05月18日 03:06:52
- 通りすがり
- ゲストユーザー
Re: JW辞めてよかった体験
JWを捨てて良かったこと、いろいろありすぎます。
【1】永遠の意識の希望が本当の意味で持てたこと。
「死ぬと無になる」という教理こそ危険かつ捨て去るべき盲信です。臨床医や量子論から、人の意識は原子以上の物質ではなく量子物理学上の存在であることがわかってきました。全能の人格神など存在しないので、「死ぬと無になる」と固く信じてしまうと、本当に死後「文鎮」になってしまいます。死後、その文鎮を起こしてくれる全能者など存在しないのです。お迎え現象や意識量子論から、今では本当の意味で死後の「完全変態」をたのしみに生きられています。青虫は自力で精一杯、チョウに完全変態します。実は聖書自身もこの完全変態能力自体は否定していません。私たちもこの希望が科学的にも持てるのです。
【2】自由な歴史観からさらに見聞を広められる
JWのトリックのひとつが、聖書以前の人間の歴史はない、という前提に縛られていること。しかし、実は何万年、何十万年も前の超古代文明の存在が明らかとなっています。アブラハムですら、高度文明であったギョベクリテペから逃れた前文明の末裔であり、聖書はそれ以前の文明が残した知恵の二番煎じに過ぎないことがわかっています。万年単位で歴史を見れば、呪縛から解放され、もっと億年単位で見れば、人類誕生の前から、幼い動物たちが噴火や自然災害に襲われて大量死してきたことなど、「愛の神」など存在しないことがはっきりわかります。愛は人類が他者と共存する中で自ら築いてきた人間特有の特質なのです。
【3】「人生の目的」トリックからの解放
瞬間暗示である、「人生の目的はなんですか」という命題。これこそ詐欺師が使う瞬間暗示です。心理学者のアドラーによれば、「人生というものは、目的に縛られるほど小さいものではない」のです。長い歴史の中でようやく「基本権的自由」を得た人類の中には、逆に「自由」と言われると不安になり、道を与えてほしいという隷属志向に逃避したくなる人が現れます。しかし、全体主義国家の国民がそうであるように、実際に隷従させられて幸福になることなど決してありません。自らに備わっている意思や選択で人生はどのようにでも形作れます。自分にとってさわやかなほうを選んでいく生き方は、本人の資質を最大限に発揮できます。
JWだけが助けられるハルマゲドンなど決して来ません。しかしあなたの今の人生はこれ1回きりです。排斥でも断絶でもなんでも、忌まわしい専制と隷従から出られるうちに出ましょう。もうしばらくすれば、組織に関係していること自体が危険人物、憲法違反とみなされ、出るに出られなくなる、連帯して損害賠償させられる立場になってしまう可能性があります。そうならないうちに、です。
かつての長老より。
#49 2021年05月25日 17:12:12
- 通りすがり
- ゲストユーザー
Re: JW辞めてよかった体験
Jayさん,万感の思いのこもったコメントありがとうございます。
さて,続きを書きます。
自由になった私ですが,神を信じなくなったわけでもありません。神は存在するし,神はいないとも言えます。
例えで私の境地を説明します。
人間は皆,「菌糸」のようです。一人一人は無力。ですが,一定の環境で菌糸が社会を形成していくと,菌糸たちはそれとは似ても似つかない,大きくて立派な,傘を有したキノコを現せしめはじめます。
「神」も同様で,人が,ひとりまた一人と集まり,社会を形成すると,その土地その環境に適した,立派な庇護を有した神が現せしめはじめるのです。
我が国日本の場合,豊かな自然を育み,人々の和を重んじた立派な神が現れるようになりました。人々の意識,知恵,思いが共通項となり,形成され,その神が庇護を与え,繁栄を後押しするようになったので,私もその神に心から手を合わせています。
中東には中東の人々の意識の総体が,アフリカにはアフリカの,南米には南米の人々の意識の総体がそれぞれ必要とする神を現せしめたと考えられます。
キノコは立派です。ですが,分解すれば菌糸の集まりですから,菌糸以外のものは存在しない,とも言えますし,キノコの機能を考えれば,存在する,とも言えます。
それぞれの人間社会が成熟し,意識の総体が形成されると,人智を超えた存在は必要とされるのだと思います。思いは集合し,意識は集められて,その土地その土地に繁栄をもたらす...。すばらしい営みだと思います。
日本の我々がマツタケのような立派な神を有するようになったのであれば,あえて中東のキノコの菌糸を取り入れる必要はないと思います。また,全部同じキノコにする必要もないと思いますし,もしそうしようとすれば,環境が破壊され,中東を含め世界中からキノコは消えてなくなると思います。
傘を有するキノコは決して,その構成要素である菌糸を痛めつけたり滅ぼしたりしません。そのようなキノコがあればそれは環境を破壊し,他を駆逐する雑草となんら変わりありません。
これを書くのは,私も,神というものをまったく考えなくなったわけではなく,この地で形成された社会が護ってきた神に敬意を持っていること,そして,他種ではあるものの,中東には中東の神が現せしめられ,その神をも,私は外からではありますが敬意を持って拝見していることを伝えようと思ったからです。人の精神性は,神を信じる人とそうでない人を二極にわければ議論が深まるものでもない,と思います。そういう意見表明の場を設けてくださっていることに,感謝しております。
#50 2021年05月25日 21:48:22
- Jay
- メンバー
Re: JW辞めてよかった体験
通りすがりさん、深い話をありがとうございます。
仰ることを読ませていただいた時、パスカルの「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」という言葉を思い出しました。自然界においての個々の人の存在はか弱いものです。しかしそれらが群となり「考える存在」となった時、多くのことを成せる力を持ち得ます。
その意味では、人間は海岸の砂粒のような存在ではないでしょう。
人が考える神性は、実のところ人の内奥にあると考えます。しかし自分自身の内奥を見ることは困難です。ですから神という客観的存在を置き、それを介して自身の内奥と対話しているのではないでしょうか。ですからその神がどのようなものであるかは関係ないのです。それが岩や山などの八百万の神であってもいいのです。
祈りも同様のものではないかと考えます。神への祈りとは実は自分の内奥への語りかけなのです。祈りに対する応えが与えられてそれに基づいて行動するとは、自分の深層心理(潜在意識)の声を聞きそれに基づいて行動する、と近いものではないかと。
こう考えると異なる言語圏・文化圏・宗教圏でそれぞれに異なる神がいることも、同じ名前の神であっても解釈が異なることも、ある教義に共感する人が群となることも(あくまで僕的にですが)説明がつきます。
オフライン