#1576 2025年05月30日 14:45:17
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“信仰によって歩んでいますか(12)”で、これからも組織の言いなりの人生を歩みなさい、という内容です。」
「4節に“これから信仰によって歩むことが大切な3つの分野を考えてみましょう。仕事を選ぶとき,結婚相手を選ぶとき,神が責任を委ねている人たちからの指示を受けるときです。”とある。信者の人生を管理統制しようというわけだ。カルトらしいね。」
「JWには自分の人生を自分で決めることは許されないのですね。気の毒です。」
「一度も会ったことのないニューヨークにいる老人たちに自分の人生を決めてもらうなんて、カルト信者以外ありえない。」
「2節に“パウロは,自分と仲間の兄弟姉妹が「見えるものによってではなく信仰によって歩んでいる」と言いました。(コリ二 5:7)何を言おうとしていたのでしょうか。”と問いかけます。その答えは“信仰によって歩む人は,エホバを信頼して決定します。また,聖書に書かれているエホバのアドバイスに従えば,エホバが必ず支えてくれて良い結果になる,と信じています。”というものですが、パウロはそんなことを言っていません。」
「JW流の聖書の珍解釈がよくわかって、勉強になるよ。」
「コリント二5:6で“この体を住まいとしている間は主から離れていることを知っています。”とあります。その状態を5:7で“見えるものによってではなく信仰によって歩んでいるのです。”と言い換えたというのが文章の流れです。」
「今の状態がイエスから離れた状態だというと、今の状態はイエスから離れたダメな状態と誤解される。そこで、信仰によって歩んでいるものにとっては見えないけれどイエスは身近にいる、と補足した。そして5:8では“この体から離れて主のもとに住まいを持ちたいと思っています。”と将来のことを語るわけ。」
「JWでは144000人だけが天への希望を持つとさらなる珍解釈をしています。」
「もちろん、パウロはそんなことを言っていない。この144000人の教義も新しい光によって、いつかは捨てると思うよ。」
「3節で“信仰によって歩んでいくなら,将来いつまでも生きられるようになります。(コリント第二 4:18を読む。)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。そこには“私たちは,見えるものではなく見えないものに目を留めます。見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです。”とあるだけです。」
「見えるもの=一時的、見えないもの=永遠という関係を言っているだけだね。この場合、見えるものは今の世界のことで、見えないものは来るべき新しい世界のこと。したがって今の苦難は一時的だけれど、来るべき世界でのご褒美は永遠と、信者を励ましている。」
「5から9節が“仕事を選ぶとき”です。 信仰によって歩むと仕事も制約を受けるようです。6節に“信仰によって歩んでいるなら,仕事を選ぶとき,エホバとの絆にどう影響するかも考えます。”とあります。“その仕事をすると,エホバが嫌うことに関わることになるでしょうか。(格 6:16-19)エホバへの崇拝がおろそかになったり,家族と長い間離れ離れになったりするでしょうか。(フィリ 1:10)もしそうなら,その仕事には就かない方がいいでしょう。”と言っています。他に仕事がなかったらどうするのですか?組織は責任を取ってくれませんよ。」
「答えは6節にある。“たとえ仕事を見つけるのが大変だとしても,エホバが必ず養ってくれると信じて決定します。(マタ 6:33。ヘブライ 13:5を読む。)”とある。エホバが養ってくれることを前提に、職をえり好みしなさいということらしい。」
「読むように指定されているヘブライ13:5には“神はこう言っています。「私は決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない」。”とありますが、これは聖書のどこに書いてあるのですか?」
「このとおりに書かれている所はない。新約聖書の作者の旧約聖書からの引用は、ギリシャ語訳からだけど、極めていい加減なものなの。神はそんなこと言っていないよ。」
「7,8節はハビエル兄弟の話です。よくあるパターンの話で、給料の高い仕事があったけれど、それを断り、開拓者になったというものです。こうやって一人の信者の人生が破壊されていくわけです。」
「JWには給料の高い仕事と開拓者の2つの選択肢だけで、その他の選択肢はないのが不思議だ。」
「8節で“数カ月後にはパートの仕事が見つかりました。兄弟はこう言っています。「エホバは私の祈りを聞いて,開拓奉仕がしやすい仕事を与えてくれました。・・・”とあります。パートの仕事を見つけるのに数カ月かかったのですね。その間エホバが養ってくれたのか、それとも失業保険で暮らしていたのか知りたいです。」
「エホバが与えてくれた“開拓奉仕がしやすい仕事”が具体的に何か知りたいね。愛に満ちたエホバの御業をなぜ詳しく書かないのか不思議だ。」
「全知全能の神が与えてくれた仕事がパートの仕事とは・・・。短時間で高収入で安定して、福利厚生も充実している仕事を与える能力はないのですね。」
「エホバよりも、転職サイトの方が役に立つということだね。世界中で悲惨なことがたくさん起きても助けることはないのに、JWにパートの仕事をあっせんする神というのは理解できないね。」
「9節はトレゾール兄弟の話です。“兄弟は残業のせいで集会を休みがちになりました。会社では,不正を隠すようにとプレッシャーをかけられました。”とあります。そしてこの兄弟は仕事を辞めます。」
「たいていの会社はなぜかJWに不正を隠すように指示するね。JWはパート労働者じゃないの?不思議だな。」
「この兄弟は“雇い主はたいてい従業員に対して,良い給料を払っているんだから,家族や宗教などどんなものも犠牲にして働くのは当然だ,と考えます。”と言っていますが、偏見に満ちた発言です。この人は法律無視のブラック企業でしか働いたことがないのでしょう。」
「JWという宗教ゆえに職場で差別などの不当な扱いがあったとすると、組織はすぐに裁判に訴えるよ。訴訟好きの組織だからね。でもそんな裁判は聞いたことないな。」
「この兄弟の結論は“エホバとの絆を一番大切にしようとすると,お金の面で苦労することもありますが,エホバは必ず支えてくれます。”というものです。この兄弟がそうだったからと言って、様々な条件が違う他のJWがそうだということにはなりません。年齢が進むと、パートの仕事だってなかなか難しいですよ。」
「この結論を一個人の発言としているのがズルいね。組織は仕事を辞めて開拓奉仕をしなさいとか、仕事を辞めてもエホバが支えてくれるなんて言っていません、その種の発言があったとしたらそれは一個人の発言です、と何か問題があっても逃げられるようにしている。」
「10から12節が“結婚相手を選ぶとき”です。 JWは自由に結婚相手を決めることはできません。11節に具体的な話が出てきます。まず“例えば,聖書のアドバイスの通り,「若さの盛り」を過ぎてから結婚について考えるようにしている兄弟姉妹がいます。(コリ一 7:36)”とあります。若すぎる結婚はJWに多いようですが、それをたしなめていますね。“早すぎる結婚→早すぎる離婚”が普通になっている国もあるようです。」
「欧米では20歳前後で結婚する人が多いようだ。結婚前についついイケナイことをしてしまって、排斥になるのを避けるためでもあるし、女性の場合は早く結婚相手を見つけないと年を取ってからは見つけるのが困難ということもある。」
「でも一番強調しているのは“「主に従う人とだけ」結婚するようにというコリント第一 7章39節の言葉の通りにします。(読む。)”ということです。JW同士で結婚しなさい、ということですね。」
「そうなるとJWには男性が少ないので、女性の半分は結婚できない。結婚は女性の生活を安定させるという面があるわけで、組織の言うことを聞いて一生独身パートで年金支払い猶予の開拓者だったら、年取った時、悲惨なことになるよ。組織は偉そうなことを言うだけで、その責任は取らない。」
「12節はロサ姉妹の話です。JWでない男性から好意を持たれていたが、その男性との関係を断ち、“今では特別開拓者として奉仕しています。姉妹はこう言っています。「エホバは私の心を幸せでいっぱいにしてくれました」。”というものです。決まりきったパターンの話ですね。」
「これではJWは結婚するか、特別開拓者の2つの選択肢しかないかのようだ。この話の終わりは、今では素晴らしいJWの男性と結婚し、一緒に特別開拓奉仕を楽しんでいます、というものに変えた方がいいよ。だいたい独身の特別開拓者というのがそんなに幸せいっぱいなものじゃないでしょう。負け惜しみを言っているだけと思われる。」
「13から16節が“神が責任を委ねている人たちからの指示を受けるとき”です。 JWは、決して優れた人とはいえないアブナイ人でも長老とか巡回監督という役職についていたら、その人の指示に従わなくてはいけないということです。14節には“信仰によって歩む人は,・・・どんな指示にもすぐに前向きな姿勢で従えます。(ヘブライ 13:17を読む。)”とカルト丸出しのことを言っています。」
「指導者に対する盲目的服従はカルトの特徴。本当にアブナイ宗教だね。」
「引照聖句には“皆さんを教え導いている人たちに従い,進んで応じてください。・・・その人たちが喜んで働けるようにしてください。もし嘆きながら働くことになれば,それは皆さんのためになりません。”とあります。これはどのような人に向けて言っているのですか?」
「恐らく大きな会衆の中の考え方の違う人たちで、指導者としばしば対立するような人に向けてと思われる。」
「JWなら排斥されてしまう人ですね。」
「この当時は指導者と意見が違うからとか、従わないからといったことでJWみたいに追放し、集団で無視するなんてことは行われていないからね。1,2世紀ではキリスト教と言っても多様で様々な考え方があったから、当然指導者とは異なる意見を持ち、指導者と対立する人もいたわけだ。」
「14節では“そして指示に従うなら,会衆のみんなが心を一つにすることができます。(エフェ 4:2,3)”とありますが、引照聖句はそんなことを言っていません。訳もヘンです。そこには“聖なる力による一致を保つよう真剣に努力してください。”とありますが、英語訳ではto maintain the oneness of the spiritで、霊の一致を保つ、です。」
「日本語の翻訳者は霊という言葉を避けるからね。でも“聖なる力による一致”は全く誤訳。それなら一致を保つのは聖なる力の仕事になってしまう。“霊の一致”という概念が理解できなかったのだろうね。」
「14節ではさらに“指示を出している兄弟たちが完璧ではないとしても,私たちが従うならエホバは喜んでくれます。(サム一 15:22)”とあります。カルト的です。引照聖句はそんなことを言っていません。」
「誤った指示に従うことを正義の神は喜びません、という当たり前のことをなぜ言えないのかな?組織を維持することを最優先しているからでしょう。」
「14節ではさらに“もし本当に正されなければいけないことがあるなら,エホバは一番いい時に必ず正してくれます。(ミカ 7:7)”とあります。引照聖句はそんなことを言っていません。“私の救いの神を辛抱強く待つ。私の神は聞いてくださる。”とミカが言っているだけです。」
「JWが正すときは、税金をかけられそうになった時やお金が減った時や、裁判に負けそうな時でしょう。エホバが正したわけではない。そういうことがなければ、何も変えず、文句を言う人を排斥して終わり。」
「体罰推奨から体罰反対に正されたのは、多くの国で体罰が禁止されるようになったからです。聖書では体罰推奨にもかかわらずです。昔はワクチン接種反対だったのに、多くの国で予防接種を義務付けるようになってから、個人の決定に任せるように正されました。エホバなんか関係ありません。」
「JWは非戦闘員としての任務や代替任務を含む兵役に従事することを許されず、その結果、多くの若者が投獄されたけれど、これも正された。理由はブルガリアがJWの宗教登録を拒否したから。宗教登録を許可してもらうために、代替任務を認めることにしたわけだ。エホバなんか関係ない。」
「15,16節がケビン兄弟の体験談です。ケチュア語という少数言語を話す人に伝道していたのですが、政府の規制を守るように言われたというものです。16節に“ケビン兄弟は新しいやり方に取り組んでみることにしました。どうなったでしょうか。「こんなに良い結果になるとは思ってもみませんでした。これまでは伝道でたくさん歩いても,ケチュア語を話す人に1人か2人会えればいい方でした。でも,ケチュア語を話す人が多くいる区域で重点的に奉仕することにしました。そうしたら,前よりも会話できるようになり,再訪問や聖書レッスンも増えました。集会に来る人も増えています。”とあります。よく理解できません。なぜ今まで“ケチュア語を話す人が多くいる地域で重点的に奉仕”しなかったのでしょうか?単に頭が悪いせいでしょうか?」
「本当は一人か二人に会えればそれで時間が入り、JWとしてはそれで十分よかったからだよ。本気で伝道したいなんて思っていないのがJW。」
「最後の17節がまとめです。“何を決めるときも,見えるものだけに頼るのではなく,エホバとの絆を大切にしましょう。”とあります。エホバ=組織ですから、組織のいうことに従え、ということです。」
「この記事で、JWの言うとおりにしてはいけないのが、就職と結婚ということがわかったから、多少役立ったかも。来週は経済的問題と老後の問題を取り上げるようだけど、これもJWの意見を聞かない方がいい問題だ。」
#1577 2025年06月06日 14:24:37
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの手はあなたのところにも届きます(13)”で、エホバを信じて貧乏に耐えろ、という内容です。」
「JWの大好きな旧約聖書の話を取り上げ、それを現代のJWに無理やり適用し、後は真偽不明の体験談を付け加え、エホバは○○です、と能天気なことを言って終わり、というよくあるタイプの記事だね。」
「でも多少は現実的になっています。13節では“できるなら将来のために貯金をしておくのも賢明なことです。”とあります。本当に今は終わりの終わりなら、将来のための貯金なんかいりませんよ。」
「終末カルトのJWも自信を失っているね。こんな宗教は直ちにやめて、真面目に働いて老後に備えよう、ということだね。」
「2節に“でも,エホバはモーセにこう言います。「それはエホバにできないことだろうか」。(民数記 11:21-23と23節の脚注を読む。)この表現は,元のヘブライ語では「エホバの手はそんなに短いのだろうか」とも訳せ ます。”とあります。これはへんですね。」
「英語訳ではIs the hand of Jehovah too short?で、エホバの手は短すぎるのかとあるよ。ヘブライ語なんか持ち出しているのは、英文を忠実に訳していなことをごまかすため。」
「日本語訳は小学4年生にもわかるように、改変していますからね。英語訳とは相当ずれた訳が多いですよ。」
「適当に訳した聖句がものみの塔の記事で使われると、記事の内容とつじつまを合わせるために余計な文を入れたり、不都合な文を削除したりするよね。聖書より重要なものみの塔の記事でも改変している。」
「そのあとに“「エホバの手」とは,聖なる力,つまりエホバが望むことを行うために使う力のことです。”とありますが、英文ではGod’s holy spirit(神の聖霊)です。」
「聖霊はおかしい。聖霊という思想は旧約聖書にはない。エホバの手は短すぎるのか?ということは、単にエホバにはできないことなのか?という意味の慣用句に過ぎない。」
「4から9節が“モーセとイスラエル人が経験したこと”です。 出エジプト後、荒野をさまよっているときの食糧問題を取り上げています。4節で“荒野でマナを食べることに飽き飽きした外国人は文句を言い始め,イスラエル人もそれに加わります。(民 11:4-6)”とあります。引照聖句には“民の中にいたさまざまな外国人が利己的な願望を口にし”とありますが、“利己的な願望”はヘンですよ。異民族差別が露骨すぎます。」
「協会共同訳では“民の一部の輩が飢えと渇きを覚え”となっている。これは旧約聖書の異民族差別的なところを弱めようという訳だね。それに対して、JWは差別に鈍感なので、JW訳は原文以上に異民族差別をしている。」
「5節では“イスラエル人は,エホバへの感謝の気持ちが欠けた外国人から影響を受けてしまったようです。私たちにも同じようなことが起こり得ます。周りには感謝の気持ちが足りない人が多いので,・・・”とあります。JW以外の人を差別し侮辱しています。」
「英文ではそんなことを言っていないよ。We too could be influenced by the ungrateful spirit of others(私たちも他の人の感謝のかけた気持ちに影響を受けることがあるかもしれません。)と言っているだけ。それを日本語翻訳者が下品な差別的な文に変えた。」
「翻訳者は単にcould beという表現の意味を知らないだけかも。Couldを単にcanの過去形と思っているだけです。それで“起こり得ます。”と訳しているのですよ。」
「Could beは「そうかも」「たぶん」「おそらく」など、ハッキリ断定できないときに使われる表現なんだけどね。」
「6節には“私たちも今の体制で手に入らないものにではなく,新しい世界で与えるとエホバが約束しているものに気持ちを向けるようにしましょう。”とあります。JWは未来の贅沢を想像して今の貧困に耐えろということですね。」
「新しい世でエホバが与えると約束しているものというと、具体的になんなの?ものみの塔に出てくる楽園の想像図からは果物が豊富にある18世紀程度の技術レベルの社会としかわからない。電気はないようだから、近代的な生産設備はなく、当然パソコンも携帯電話もない。今以上に物のない世界だよ。」
「8節は民数記11章のエホバがウズラを与えた話を取り上げます。“エホバは「利己的な渇望を示した人々」に対して激怒し,処罰しました。(民 11:31-34)”とありますが、引照聖句には“処罰しました”とは書いていません。“民に対してエホバの怒りが燃え,エホバは民を打ち始め,非常に大勢の人を滅ぼした。”とあります。怒りのあまり、エホバの大好きな大虐殺をやらかした、というだけです。」
「処罰なら、違反行為のある人を罰し、そうでない人は罰しない。文句を言ったことがそれに該当するなら、文句を言った人だけを処罰すべきだけど、そうは書いていない。それから処罰は違反行為の程度によって変えられるべきもの。些細な違反には小さな罰、大きな違反には大きな罰というのが通常の正義の原則。ところが旧約聖書の神は文句を言った程度のことでいきなり死刑にしてしまう。頭のおかしい残忍な独裁者にしか見えないね。」
「9節は現代のJWについてです。“お金や物を失ったり,ひもじい思いをしたりすることは絶対にないのでしょうか。そうではありません。たとえそういう経験をするとしても,エホバが私たちを見捨てることは決してありません。大変なときも必ず支えてくれます。”とあります。何を言っているかよくわかりません。こんなあいまいなことでは人生設計できません。」
「お金が無くなり、食べ物もなくなることはあるけれど、支えてくれるらしい。どうやって支えるのか、どの程度支えてくれるのかは誰も知らない。神のみぞ知る。」
「10から12節が“生活が苦しいとき”です。 ここから具体的な困難を取り上げます。10節では“この世界が終わりに近づくにつれ,経済事情は悪くなっていくはずです。”とデタラメを言っています。100年前と比べれば、多くの国では人々は豊かで健康になっています。」
「経済事情が悪くなっているのはJWだね。組織の言いなりの人生を送っていることが原因。それなのに経済的困難をこの世が終わり日に近づいているせいにしているだけ。」
「11節が対処法です。“まずできるのは,不安な気持ちをエホバに伝えることです。(格 16:3)”とありますが、訳をだいぶ変えています。要するに祈ればよいということですね。」
「英文ではA primary and effective step is to take your concerns to Jehovah.(最も大切で効果的なことは心配事をエホバに伝えることです)だね。そんなことが最も大切で効果的なこととは思えなかった翻訳者が“まずできるのは”と当たり障りのない表現に変えたね。」
「12節では、良い仕事えようとして家族が離れ離れになるのはダメといっています。大きなお世話ですよ。生活の面倒を見ない組織が個人の生活の仕方にあれこれ口を出すのはやめて欲しいです。実例が出ていて“西アジアに住むトニーは,外国での仕事の話を幾つか持ち掛けられました。でもエホバに祈り,妻とも話し合った後,その打診を断り,節約を心掛けました。”とあります。こうして貧困から抜け出すチャンスを失うわけです。」
「日本にはあまりないかもしれないけれど、欧米にはアジアやアフリカから出稼ぎにきたJWがけっこういる会衆もある。そういう人は12節を読んで、信者の寄付で安楽に生活している奴に何がわかるんだ!俺たちの苦労を知っているのか!と怒鳴って、JWをやめて欲しいね。」
「13から16節が“老後の暮らしが心配になるとき”です。 間もなく終わりが来るから老後の心配など無用です、若い人は老後を迎えることなど絶対にありません、と終末カルトらしく言って欲しかったのですが、そうは言っていません。かといって、老後に備えて貯金をしましょうとも言っていません。どっちつかずのあいまいなことを言っています。」
「13節には“聖書は,先のことも考えて一生懸命働くよう勧めています。(格 6:6-11)できるなら将来のために貯金をしておくのも賢明なことです。”とあるよ。これは終わりが間もなく来ると信じて、宗教道楽に励んだ結果、貧困に苦しむJWに、なんで先のこと考えて一生懸命働かなかったの?自業自得だね、と傷口に塩を塗っているようなもの。詐欺的で冷酷な宗教だ。」
「組織は今までは収入のよい仕事をやめ、開拓奉仕を始めた人を模範的な人とほめたたえてきました。その結果貧乏暮らしにあえいでいる人は組織に騙された!と怒っていいわけですね。」
「そういう人には引照聖句の“怠け者よ,アリの所へ行け。そのやり方を見て,賢くなれ。アリには司令官も,役人も,支配者もいないが, 夏の間に食物を用意し,収穫の時に食糧を集める。”を読んで、聖書にこう書かれているのを知らなかったのですか?と冷淡に言って、おしまいなのがJW。」
「14節はカルト的です。“イエス は自分の弟子になりたいなら,持ち物全てに「別れを告げ」なければいけない,とも言いました。(ルカ 14:33)”とあります。老後のための貯金を奪い取るつもりですよ。」
「引照聖句には“同じように,持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません。”とあるけれど、これってその前のたとえの結論部分だけれど、つながりが悪いんだよね。」
「その前は戦争の話です。勝てそうもないなら使節団を送って和平を求めますとあって、そのあとに、“同じように・・・”と続きます。全く同じではありません。」
「本当の結論部分は、同じようにキリストの弟子は戦うのではなく、神にゆだねます、というようなものだったと推測される。それがのちに今のようなものに変えられて、つながりが悪くなったと考えられている。」
「15節では“文化圏によっては,年を取ってから経済的にサポートしてもらうことを期待して子供を持つことにする人たちもいます。”と、子どもについてです。組織としては、“でもクリスチャンの親にとって一番うれしいのは,子供がエホバに仕えるようになることです。子供が老後の安心材料になることではありません。(ヨハ三 4)”というものです。子どもを頼りにするな、子どもは開拓者にでもさせろ、という指示です。」
「そんなこと言わなくても、JWの息子・娘は年老いたJWの親の面倒なんか見ないよ。まず組織を喜ばすことを考え、親のことは少しも気にかけないのが、模範的なJW。」
「それで排斥された、非JWの息子・娘が年老いたJWの親の面倒をみるというケースがよくあるわけですね。なぜエホバに任せないのか不思議です。」
「その場合、排斥された人なのに親も組織も文句は言わないようだね。エホバが面倒みるから、排斥された人は近寄らないでください、と言って欲しいね。」
「16節は子どもについてです。“一生懸命働くことの大切さを小さい時から教えましょう。(格 29:21。エフェソス 4:28を読む。)学校でしっかり勉強するようにも教えてください。”と、これまた終末カルトらしくないことを言っています。子どもには、学校を卒業する前にハルマゲドンが来るから、勉強などせずに伝道しましょうといったのが昔のJWですよ。終わりの日は遠くになりにけり、ですね。」
「勤労の美徳を説くなんてJWらしくない。最低限の労働、最大限のJW活動、というのがJWが言ってきたこと。JWの子どもはまじめに勉強しない、まじめに働かないという悪評が定着しつつあるのかな?」
「最後の17節では“エホバは腕を伸ばして,その力強い手で必ず支えてくれます。”とまとめています。本当にそうなら、こんな記事は必要ありません。」
「この記事にあったエホバが支えた事例は、古代イスラエルでウズラをくれたということだけだったね。しかもその後は大虐殺。エホバはろくに支えてくれません、というのが妥当な結論でしょう。」
「現代のJWの嘘くさい体験談もありませんでした。お腹を空かしていたら、会衆の人たちが行列を作ってご馳走をもってやって来たとか、仕事がなくて困って、エホバに祈ったら、今までの3倍の給料の仕事にありつけたとか、エホバが支えてくれた話の2つや3つがあってもよさそうなのに・・・。」
「その種の話はだまされやすいJWさえ、もはやまじめに受け取らなくなったことを、組織は知っているのだろう。」
#1578 2025年06月07日 20:15:10
- 匿名
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
昔は大学教育を否定していたと聞きましたが本当でしょうか?16節に「親が聖書をよく調べ 子供がどんな教育を受けるか賢く選択できるようにサポートしてあげましょう」
とあります 子どもが大学教育を選択するのも可能という事ですね 噂では昔は大学教育を受けること自体 白い目で見られたと聞きましたが。180度変わったということですか?
#1579 2025年06月08日 08:51:26
- AIの回答
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1578さんの質問にGoogle AI Studioに答えてもらいましょう。
============
はい、エホバの証人が大学に行くことはできます。
ただし、これを理解するにはいくつかの重要な背景を知る必要があります。単純な「はい/いいえ」で答えられる問題ではなく、組織の教えと個人の選択が複雑に絡み合っています。
結論から言うと、**「公式に禁止されてはいないが、組織としては強く推奨しておらず、大学進学には多くの霊的な危険が伴うと教えている」**というのが最も正確な答えになります。
以下に詳しく解説します。
ものみの塔組織の公式な見解と指導
エホバの証人の指導部(統治体)は、大学進学(特に4年制大学)に対して、長年一貫して否定的な見解を示してきました。その理由は主に以下の点です。
1.霊的な危険
悪い交わり: 大学は、エホバの証人の信条や道徳観とは異なる考えを持つ人々との密接な交わりを増やす場所だと見なされます。
世俗的な哲学: 進化論、人間主義、唯物論、批判的思考といった「世の知恵」に触れることで、聖書に基づく信仰が揺らぐ危険があると考えられています。
不道徳な環境: 大学のキャンパスは、性的不道徳、薬物乱用、過度の飲酒などが蔓延する場所として警告されます。
2.時間の使い方
エホバの証人は、現在の「終わりの日」において最も重要な活動は「伝道活動」であると信じています。
大学での勉強や課題、サークル活動に多くの時間を費やすことは、集会、奉仕、個人研究といった霊的な活動の時間を奪うと教えられます。
3.物質主義への懸念
高等教育の主な目的は、高い地位や収入を得るためであると見なされることが多く、これは物質主義的な考え方につながり、霊的な目標から目をそらす危険があるとされています。
近年の変化とニュアンス
かつては大学進学がほぼタブー視されていた時代もありましたが、近年ではその語調に若干の変化が見られます。
・生活のための技術: 現代社会では高校卒業だけでは生計を立てるのが難しい場合があることを組織も認識しています。そのため、生活を支えるための実用的な技術を身につけるための短期大学や専門学校、技術学校など、限定的な高等教育は容認される傾向にあります。
・目的の重要性: 大切なのは「なぜ高等教育を受けるのか」という動機です。自己実現や富のためではなく、「家族を養い、開拓者(全時間奉仕者)として自分を支えるため」といった霊的な目的がある場合は、比較的理解されやすいかもしれません。
大学に進学した場合に起こりうること
大学進学は、血液の問題や喫煙のように**「排斥」の対象となるような罪ではありません**。しかし、進学を選択した信者は、会衆内で以下のような経験をする可能性があります。
・「霊的に弱い」と見なされる: 周囲の信者や長老から、霊的な事柄よりも世俗的な成功を優先していると見なされることがあります。
・「特権」を失う: 会衆内で与えられる奉仕の割り当て(マイク係、朗読、注解など)や、開拓者、長老、奉仕の僕といった立場に就くことが難しくなる場合があります。
・長老からの「助言」: 心配した長老たちが家庭訪問し、大学進学の危険性について話し合うことがあります。これは善意からですが、本人にとっては大きなプレッシャーとなります。
まとめ
・ルール上の禁止ではない: 大学に行ったからといって、自動的にエホバの証人でなくなるわけではありません。
・強いプレッシャーがある: 組織の出版物や集会では、大学進学のデメリットが繰り返し強調されるため、信者は進学を思いとどまるよう強い心理的圧力を感じます。
・個人の選択だが、結果が伴う: 最終的な決定は個人とその家族に委ねられますが、その選択は会衆内での立場や人間関係に影響を与える可能性があります。
そのため、エホバの証人の若者の多くは、大学進学の代わりに、高校卒業後にすぐに全時間奉仕(開拓奉仕)を始めたり、生活のために職業技術を身につける専門学校などを選んだりする傾向があります。
============
#1580 2025年06月08日 15:40:13
- 匿名
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
御回答 ありがとうございます
#1581 2025年06月13日 14:23:05
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1582 2025年06月14日 17:19:26
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
「造ったから崇拝するのは当然」
造られた存在である=目的がある、希望がある
造られた存在ではない=目的がない、希望もない
J2として洗脳されるとこのような公式というか演繹前提を勝手に刷り込まれますが、どこから湧いて出てきたんでしょうか。しかもなぜか造った存在を崇拝して無条件に服従までしなければならないおまけつきで、さらにJWは造った存在の代理人だと言っているだけの方々への絶対服従です。
エウレカセブンの受肉したデューイは自分が「創造された存在」であることに絶望して、創造主を消し去ることで自身の尊厳を守ることに存在理由を見出してるぽいです。
「造られた存在である」ほど恐ろしく絶望的なものはない、という公式があったらどう反論するんでしょうか。思うか思わないかの話でどっちも証明しようがなさそうですが。
#1583 2025年06月20日 14:43:29
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1584 2025年06月27日 13:47:00
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1585 2025年07月04日 14:28:00
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1586 2025年07月11日 14:16:37
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“若い兄弟たち,マルコとテモテの手本に倣ってください(18)”で、若い信者はマルコとテモテに倣って、組織のために働け、という内容です。」
「若い信者をこき使うことしか考えていない。やめる若者が多くなるのも無理ないよね。」
「1節に“あなたはエホバや会衆の仲間のためにもっとできることがないだろうかと思っていますか。そういうやる気があるのはとても立派です。”とあります。つまり、もっとできることはないかと思っていない人はやる気のないダメな人ということですね。」
「こうやって、絶えず信者にお前はダメだ、不十分だ、やる気がない、と思わせて自信を奪い、組織に従属させようとするのがカルトのやり方。」
「2,3節にマルコとテモテのことが出ていますが、この二人の記録は限られていますよね。」
「ペテロ一にマルコが出てくるけれど、これはペテロの名をかたった偽名文書。テモテ一と二、コロサイにテモテが出てくるけれど、これらはパウロの名をかたった偽名文書。著者がペテロあるいはパウロらしく見せかけるために、マルコやテモテの名前を使っているだけで、本当の著者がこの二人を知っていたとは思えない。」
「4から7節が“マルコはエホバと人のために進んで働いた”です。 マルコ(別名ヨハネ)の話です。4節は英文をかなり変えていますね。According to one reference, serving, or ministering to, others implies reaching out to help them “with diligence and persistence.”(ある文献によると、他の人に仕える、あるいは奉仕するということは、助けるために”勤勉に粘り強く”手を差し伸べることを意味しています。)を、” 誰かのために進んで働く人は,相手に尽くし,そうするのが大変なときも諦めません。”に変えています。」
「日本語翻訳者はこのような引用元を隠した不正引用をすることが、真の神の組織としてふさわしくないと思ったのだろう。あるいは、翻訳者はこれは小学生向けの本からの引用と思ったのかも。さすがにそれは恥ずかしいと思って削除した。」
「4節で” パウロが2回目の宣教旅行に連れていってくれなかった時,きっと傷つき,落ち込んだことでしょう。(使徒 15:37,38)”とありますが、これがマルコの主な出来事ですね。」
「使徒13:13に“次いでパウロの一行はパフォスから船に乗って,パンフリアのペルガに着いたが,ヨハネは2人から離れてエルサレムに帰った。”とあり、マルコ(ヨハネ)がパウロたちから離れてエルサレムに帰ってしまったことが書かれている。このためパウロは2回目の宣教旅行ではマルコを連れて行くのを拒否した。」
「6節はマルコとペテロの関係です。“マルコはローマでパウロといくらか時間を過ごした後,バビロンで使徒ペテロと奉仕しました。ペテロが「私が愛するマルコ」と呼んでいることから,2人の強い絆が読み取れます。(ペテ一 5:13)”とあります。ペテロ一も二も作者はペテロじゃありません。それから引照聖句にバビロンという地名が出てくるのですが、これは通常ローマのことを指すと解釈しませんか?」
「ペテロはローマで死んだことになっている。またペテロがバビロンで活動したという記録はない。啓示に大いなるバビロンは倒れました、とあるように、バビロンはローマを指す単語として使われていた。それで、ペテロ一に出てくるバビロンはローマのことだと考えられている。」
「6節には“マルコは,おそらくペテロからイエスの生き方や伝道について詳しく話を聞き,それを福音書にまとめたのでしょう。”とありますが、これは言い伝えに基づく推論ですね。」
「マルコの福音書の作者は不明。マルコの福音書は福音書の中でもっともペテロをダメな弟子として描いている。ペテロのことが嫌いだったのかも。」
「7節がマルコからの教訓です。“自分のしたい奉仕をなかなかさせてもらえないように感じる時,がっかりして諦めたくなるかもしれません。でも,踏みとどまってエホバと仲間のためにできることがないか探しましょう。”というものです。」
「無理やりでっちあげた教訓だね。ダラダラとダメな組織に踏みとどまるのではなく、この組織はダメだ、やめよう、と早く決断すべき。」
「長老の勝佑(スンウ)兄弟の話が出ています。ダメな組織を早くやめられなかった人です。“長老からいろいろな仕事を任されている人たちがいる中で,自分にはそういうチャンスが与えられていないと感じました。”とあります。」
「長老にゴマをするのが下手な、真面目な人なんだろうね。」
「それでどうしたかというと“集会に来るための交通手段がない仲間や,高齢の仲間を助けてあげることにしました。”とあります。それで長老になったようですね。」
「もちろん長老になってからはそんな雑用はしていないよね。今は21歳から長老になれる。苦労して長老になった人は面白くないだろう。」
「8から11節は“テモテは仲間に優しく寄り添った”です。 8節に“また,テモテは仲間を心から気遣う人でもありました。(フィリピ 2:19-22を読む。)”とあります。引照聖句には“テモテほど皆さんのことを心から気遣える人は,ほかにいません。”とあります。偉い人ですね。」
「テモテはパウロから立派な人物と評価されているのに、偽パウロ文書であるテモテ一と二では、全く頼りない若者かのようにテモテに細々とした指示が書き連ねられているよ。」
「テモテ一5:23では“胃のため,また度々かかる病気のために,ぶどう酒を少し飲むとよいでしょう。”とあります。健康に関する真偽不明のアドバイスが必要なほど、頼りない男なんですよ。」
「テモテ二2:22では“若い時に抱きがちな欲望から逃れ,清い心で主に頼る人たちと共に,正しさと信仰と愛と平和を追い求めなさい。”とある。これだとテモテは模範的というより、かなりアブナイ人物だね。」
「10節は長老である佑在(ウジエ)兄弟の話です。この兄弟は話すのが苦手で、長老から“兄弟姉妹のどんなところに感謝しているかを伝えると,もっと会話が弾むよ”とアドバイスを受けたそうです。感謝するようなことがなければどうするのですか?」
「これは訳がヘンだね。元の英文はtelling his fellow believers what he appreciated about themで、appreciateという動詞は、感謝するという意味もあるけれど、ここではほめるということでしょう。相手の何か素晴らしい点を見つけてそれをほめてあげなさい、そうすれば会話が弾むよ、という意味。」
「11節では“若い兄弟たちも人にもっと関心を持ち,人をもっと好きになることができます。”とあります。具体的には“例えば,JW Library®の使い方を教えてほしいと思っている年配の人がいるかもしれません。”とあります。組織が老人のことを考えずに、勝手に電子化したので、ついていけない老人がたくさんいるわけです。そのしりぬぐいを若い人にやらせようというわけです。」
「JW Libraryの使い方を教えるような重要なことは長老にお願いします、と言えばいい。」
「12から17節が“親心のあふれたパウロのアドバイスから学ぶ”です。 テモテ一と二から学ぶというものです。13節は“神への専心をいつも示せるように自分を訓練しなさい」。(テモ一 4:7,後半)”です。そして“神への専心とは何でしょうか。エホバから絶対に離れたくない,いつもエホバの喜ぶことをしたい,という気持ちのことです。”と説明しています。これはヘンですね。勝手に意味を膨らませています。」
「元のギリシャ語の意味は、信心深い、敬虔というもので、協会共同訳では” 敬虔のために自分を鍛えなさい。”となっている。組織は信者を管理統制することを重視しているので、単純な表現を” 神への専心をいつも示せるように”と過大な要求に変える。組織は少しも親心がない。」
「14節が具体的な要求です。“聖書を毎日読むことです。聖書を読む時は,エホバともっと親しくなることが目標だということを忘れないようにしましょう。”とあります。一日でもさぼると滅ぼされるのでしょうか?」
「英文には毎日読め、なんて書かれていない。日本語版だけ。エホバと親しくなるのではなく、エホバに近づくのが目標と言っている。エホバは親しい友達という思想は日本のJWに目立つ思想で、元のJWの思想からだいぶ逸脱している。世界的一致はどうした?」
「聖書の読み方の例が出ているのですが、面白いです。“例えば,イエスと若くて裕福な男性のやりとりから,エホバについて何が学べるでしょうか。(マル 10:17-22)”と問いかけています。イエスの話なのに、エホバについて学ぶことを強要しています。まともな聖書の読み方ではありません。エホバ教の読み方です。」
「イエス=エホバなんでしょう。イエスとエホバは一体なので、イエスの行いや発言はすべてエホバと読み替えましょう、と説明すべきだね。」
「15節が“忠実な人たちの手本となってください」。(テモテ第一 4:12,13を読む。)”です。そこには“言葉や振る舞い,また愛,信仰,清さの点で,忠実な人たちの手本となってください。”とあります。若い人もこれらの点で手本になれ、というわけですね。それは過大な要求です。自分には無理なのでJWをやめよう、と思うだけですね。」
「テモテは若い人と想定されているけれど、当時の有名なクリスチャンだよ。使徒16:2で“ルステラとイコニオムの兄弟たちから良い評判を得ていた。”とある。2つの町で名が知られているわけで、その辺のJWの若者とは立場が異なる。」
「16節が具体的な要求事項です。“例えば,「言葉……の点で」手本になるにはどうしたらいいでしょうか。”と問いかけ、“周りの人を元気づけるためにどんなことを話せるか,考えてみましょう。”とあります。親には感謝の言葉を、集会で講演や実演した人には誉め言葉を、集会ではコメントすることが求められるようです。」
「そうすると21歳で長老になれるでしょう、と書いてくれればやる気が出るのにね。要求が多すぎるよ。」
「17節が“若い時に抱きがちな欲望から逃れ,……正しさ……を追い求めなさい」。(テモテ第二 2:22を読む。)”です。具体的には“例えば,スポーツやネットサーフィンやゲームにどれぐらいの時間を使っているでしょうか。その時間をエホバや仲間のために使えるでしょうか。王国会館のメンテナンスやカートの奉仕に参加できますか。”とあります。要するに、若い人を組織のためにタダでこき使おうということです。」
「欲望から逃れ、正しいことを追い求めると、暑い中、何時間もカートの横でボーと立っている人間になるわけだ。それが若い人が目指す理想の人生なのね。」
「18,19節が“仲間に尽くす生き方は素晴らしい”です。 これまでのまとめです。18節で“エホバは,仲間に尽くしたマルコとテモテのことをとても喜んだに違いありません。”と断言しています。」
「元の英文はObviously, Jehovah was pleased with the self-sacrificing spirit shown by Mark and Timothy.(明らかに、エホバはマルコとテモテの示した自己犠牲の精神を喜んでおられました。)で、エホバが喜んでいたのは自己犠牲の精神。自己犠牲を賛美するのは、いかにも危険なカルト的なので訳を変えたのだろう。」
「それに“明らかに”とある文は、根拠のない決めつけというのが明らかですから、忠実に訳したくなかったんですよ。」
「自己犠牲の先に何があるかというと、19節に“そうするなら,今最高の人生を送り,「真の命をしっかり捉えることができ」ます。(テモ一 6:18,19)”とある。何時間もカートの横でボーと立っている“最高の人生”なんて、誰も興味ないよ。」
#1587 2025年07月18日 14:38:18
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバに仕える天使たちに倣う(19)”で、天使を見倣って、なぜか組織の言いなりになりなさいという内容です。」
「いつもは旧約聖書の登場人物を取り上げるのだけど、もうネタが尽きたのか?それで天使をとりあげたのか?」
「3節に“この記事では,エホバに仕える天使たちの謙虚さ,人への愛,忍耐,会衆を清く保つための働きについて考えます。”とあります。天使はそんな存在とは知りませんでした。」
「ここでのポイントは“会衆を清く保つ”でしょう。組織への密告・排斥・忌避をまじめに実行しなさいという、カルトらしい内容となっている。」
「天使がどんな存在かについて、聖書はほとんど何も語っていません。」
「ヨブ4:18には“何と,神はご自分に仕える人のことを信じていない。ご自分の天使をとがめる。”とあるよ。ヨブ5:15にも“何と,神は天使たちを信じていない。神から見れば,天でさえも清くない。”とある。天使はあまり信頼されていないようだね。人間も天使もダメなのが多いのかも。それであまり聖書に登場しないのかな。」
「天使の外見としては、JWでは白髪で白いひげで、翼のある白人男性として描かれることが多いのですが、聖書的根拠はないでしょう。」
「聖書に出てくる天使は人間と同型でしばしば人間と間違われる。すべて男性だね。それから翼なんかないよ。啓示14:6に“また私は,別の天使が空高く飛んでいるのを見た。”とあるけれど、翼を使って飛んでいたとは書いていない。翼を天使につけるようになったのは後のキリスト教美術だね。有翼の天使は異教が起源だからやめるように支部に電話しよう。」
「信者を守る“守護天使”なんかも、聖書ではなく異教が起源ですよ。」
「JWは“守護天使”なるものを積極的に言わないけれど、否定はしない。守護天使という考えは現代アメリカでは人気があるからね。」
「4から7節は“天使たちは謙虚”です。 天使が謙虚という聖書的な根拠は、4節にある“自分たちの名前が知られることにならなかったとしても,神が望んでいることを喜んで行います。 (創 32:24,29。王二 19:35)”だけですね。」
「引照聖句の創世記32章はヤコブが川の側である人物と闘う場面だけれど、創世32:30に“ヤコブはその場所をペニエルと名付けた。彼が言うには,「神と顔を合わせたのに,まだ生きている」からだった。”とあり、ヤコブと闘った人は天使ではなく、神だよ。」
「この話は多神教的な古代の宗教の残滓ですよ。ヤコブは川の神と闘ったのです。」
「それを後の人が後の時代の宗教にあうようにあいまいな形に変えたわけだね。」
「5節は啓示19章の話です。” 幻を見たヨハネはどう反応したでしょうか。その天使を崇拝しようとしました。でもその忠実な天使は,すぐにこう言ってやめさせます。「気を付けなさい! そうしてはなりません! 私は,あなたや……あなたの兄弟たちの,仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい!」(啓 19:10)本当に謙虚な反応です。”とあります。」
「コロサイ2:18に“見せ掛けの謙遜さや天使の崇拝を好む人のせいで,賞を得られなくなることがないようにしてください。”とあるように、天使崇拝が当時はあったようだ。それを止めるようにというのが啓示19:10のメッセージで、天使が謙虚だったからではないよ。」
「6節が“謙虚な天使たちにどう倣えるか。”で、“割り当てられたことを果たした時,それを誇ったり,自分の手柄にしたりしないようにします。(コリ一 4: 7)”とあります。割り当てられたことをきっちり果たすのはあたりまえだということですね。」
「引照聖句には割り当てのことなど出てこないよ。いちばん謙虚さを学ぶ必要があるのは統治体の老人たちでしょう。神の代理人かのように振舞っている。」
「8から10節が“天使たちは人を愛している”です。 特に美しい女性を愛しているのでしたよね。」
「創世記6:2に“真の神の子たちは,人の娘たちが美しいことに気付くようになった。そして気に入った女性たちを妻にしていった。”とあるね。でもこの記事ではこれは不都合なので、触れないね。」
「8節に“直接伝道することはありませんが,神について知りたいと思っている人の所に伝道者を導くことがあります。もちろん,天使たちが具体的にどの場合に関わっていたか,はっきりしたことは分かりません。”といいかげんなことを書いています。聖書的な根拠はありません。」
「伝道の時天使が見守っている、と信じるように誘導しているけれど、断定は避けたということだね。根拠は聖書ではなく個人の体験談でしょう。」
「8節の後に“祈りが聞かれた”という囲み記事がありまして、“次のようなエピソードから,天使たちが私たちのためにいろいろな場面で働いている様子が想像できます。”といってから、3つの体験談が出ています。どんな宗教でもありそうな、天使の働きにしてはつまらないものばかりです。」
「英文ではIs it possible that the angels were involved in any of the following experiences?(天使が以下のいずれかの経験に関わっていた可能性はあるでしょうか?)とあるだけで、天使がJWの伝道を助けているといった迷信じみたことは言っていないよ。」
「3つ目の体験談では“男性は,神様が祈りを聞いて,エホバの証人の夫婦と出会わせてくれたんだと感じました。”とありますが、英文ではHe viewed this chance meeting as an answer to his prayer.(彼はこの偶然の出会いを祈りの答えと見なしました)です。偶然(chance)と言っています。天使は関わっていないということですよ。」
「ごく普通のことでも、エホバのおかげ、天使のおかげと考えるように条件づけられているのがJWなんでしょう。偶然でも天使のおかげなんだよ。文句を言うやつは排斥だ。」
「伝道で知らずに殺人犯の家に言ったけれど、天使が守ってくれたので無事だったとか、冬道で滑って車が3回転したけれど天使が守ってくれたので誰もかすり傷一つ負わなかったとか、もっとインパクトのある話を書いて欲しかったですね。」
「そういうミエミエのウソ話は会衆の長老が講演で話すネタにするけれど、記事にはしない。」
「9節が“人を愛している天使たちにどう倣えるか。”で、“伝道活動のためにベストを尽くすことによっても天使に倣うことができます。(伝 11:6)”とあります。伝道をまじめにやれという指令ですね。もちろん引照聖句は伝道とは関係ありません。」
「旧約聖書に不特定多数に伝道するという思想はないよ。でもJWでは、天使の話も伝道の話に変わるわけだね。」
「10節はインドに居る病気で寝たきりになったサラ姉妹の話です。これは結構すごいですよ。“できるのは電話での伝道に限られました。それで,再訪問をしていた人たちに電話して,聖書に興味のある別の人たちを紹介してもらいました。どうなったでしょうか。数カ月のうちに70件の聖書レッスンを始めることができました。”というものです。この調子だとインドは間もなく世界一JWが多い国になりますね。」
「この話が本当だと、天使はインドに沢山いると思ってしまうけれど、インドも中国も人口大国なのに、JWはほとんどいない。」
「JWの多い国って、もともとキリスト教の国ですよ。イスラム教の国にはまずいません。天使はイスラム教が嫌いなわけですね。」
「JWの伝道方法は、聖書を学びましょうと呼びかけるもので、この方法が有効なのはキリスト教の国というだけ。天使なんか関係ないよ。」
「11,12節は“天使たちは忍耐している”です。 天使が忍耐しているという聖句はありません。単なる推測です。」
「天使たちは天での暮らしを楽しんでいるとばかり思っていたよ。天は髭面のむさくるしい男しかいないことを除けばいい所なんじゃないの?」
「12節は“忍耐している天使たちにどう倣えるか。”で、“神が一番良いタイミングで悪いことを全て取り除いてくださることを天使たちと同じように確信しています。”とあります。ハルマゲドンが遅いと文句を言うなということですね。」
「ハルマゲドンという言葉も使うのをやめたんじゃないの?それは直接触れたくない話題のようだよ。まじめなJWだって間もなくハルマゲドンなんて信じていないでしょう。」
「13から15節は“天使たちは会衆の清さを保つために働いている”です。 13節には“終わりの時代にエホバは天使に特別な任務を与えています。(マタイ 13:47-49を読む。)”とあります。そこには“体制の終結の時にもそのようになります。天使たちは出ていって,正しい人の中から邪悪な人をより分け,”とあります。」
「そこで引用をやめるはズルいね。より分けた後、どうなるかというと13:50には“火の燃える炉に放り込みます。彼らはそこで泣き悲しんだり歯ぎしりしたりします。”とある。天使は悪い人を燃やしてしまうんだよ。そんなこと全然していないよ。」
「この聖句の意味について“これは,会衆の清さが守られるよう助けているということです。”と解説していますが、違うでしょう。13節の最後には“私たちは天使が会衆の清さを保つために一生懸命働いているということを確信できます。”とあります。根拠もなく勝手に確信しているだけです。」
「JWの中には児童性的虐待で有罪になった人が何人もいるよ。それは警察が動いたから。天使は何もしていない。JWの排斥や忌避を正当化するために、それは天使の働きです、と言いたいだけでしょう。」
「これはイエスの言ったことになっていますが、イエスの時代に会衆なんかありませんよ。」
「イエスは会衆を単位とした組織宗教を作っていない。それができるのはイエスの死後。イエスが会衆の清さについて語るはずがない。」
「14節が“会衆の清さを気に掛けている天使たちにどう倣えるか。”で、密告を勧めています。“例えば,兄弟姉妹が重大な罪を犯していることに気付いたなら,どうすべきでしょうか。その人を愛しているので,長老たちに話すよう勧めます。もし本人がそうしようとしないなら,私たちがそのことを長老たちに伝えます。”とあります。密告は愛ゆえの行いというのがカルトらしくていいですね。」
「天使は密告するって、聖書のどこに書いてあるの?密告と天使は何も関係ないよ。」
「15節には“会衆から除かれた人と交友を持たないようにすることは,その人にとっても親切なことです。”と言っています。排斥・忌避=親切というカルトらしいねじ曲がった主張です。」
「これって天使と何の関係があるの?何の関係もないけれど、排斥した人と交流を持つふとどきなJWが結構いるので、それをやめさせようとしたいだけだね。」
「最後の16節には“私たちは信仰の目で天使たちの様子を見ています。そして,一緒に働くことができています。”とあります。天使はJWと一緒に働いているようです。カートの横でぼ~と立っているJWの隣には、目には見えないけれど天使がぼ~と立っているわけですね。」
「気の毒な天使。」
#1588 2025年07月25日 14:41:37
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“慰めの神エホバは私たちを安心させてくださる(20)”で、バビロン捕囚の話を利用して、不安や恐怖をあおり、組織に従属させようという内容です。」
「3節に“この記事では,エホバが当時の人々に安心感を与えた3つの方法を考えます。エホバは,(1)悔い改めた人たちを許すことを約束し,(2)ご自分に仕える人たちに希望を与え,(3)不安を和らげ ました。”とあるけれど、この記事では不安をあおっているよ。恐怖と不安はカルトのエネルギーだからね。」
「4から7節が“エホバは憐れみ深く許してくださる”です。 お前たちは許しが必要なダメな人間だけど、エホバは許してくれるというわけです。気が滅入りますね。4節では“ユダヤ国民は罪の結果を身に招きましたが,ずっとバビロンにとどまるわけではないとエホバは約束しました。捕囚の期間には終わりがありました。(イザ 40:2)”とあります。エホバはバビロン捕囚は防いでくれないけれど、その期間に制限を設けてくれたので、憐れみ深いようです。」
「バビロン捕囚が罪の結果というのは当時の宗教原理主義者の解釈にすぎない。実際は古代の中東によくあった強い国が弱い国を征服して、役に立つ人材を自国に連れて行ったということ。宗教的な罪と罰の話ではない。」
「古代人の考えではユダヤ国家が滅ぼされたのはユダヤ人の神が無力だからというものです。神を擁護し、その結論を避けるための手段が、ユダヤ人は罪深いから罰を受けているという思想なわけですね。」
「さらにユダヤ人の神は単なるひとつの民族の神ではなく、宇宙全体を支配していて、他の民族も自由にコントロールしているという思想も生み出すわけだ。こうしてバビロン捕囚以降に旧約聖書の宗教が出来上がる。」
「4節の最後に“悔い改めた人たちは,こうした言葉を聞いて慰められ,安心したに違いありません。”とありますが、何の根拠もありません。」
「自分の死んだ後の何十年かあとに帰れると知っても、慰められないでしょう。今のJWだって、自分が死んだあとの何十年後にハルマゲドンが来てもうれしくないよね。」
「5節からは“学べること。”です。 なんと3節も続きます。学べることが多すぎますよ。」
「聖書の話は、本当はどうでもいいんだよ。組織の特定の考えを押し付けるのが、ものみの塔の記事の主な目的。」
「5節では“エホバは本当に憐れみ深い神です。”とあります。これが学べることの①です。でも聖書の他の部分では、好戦的で残虐な神ですよ。」
「そういう不都合な部分は取り上げず、信者獲得につながる愛と憐れみの神という宣伝に仕える部分だけを取り上げるのがJWのやり方。」
「6節には“エホバは,罪を一度許したなら,後からそれを思い出すようなことはしません。(エレミヤ 31:34と比較。)”とあります。それに倣うようにということのようですが、引照聖句はユダヤ人に向けて言ったもので、JWとは関係ないですよ。」
「エレミヤ31:31に“私がイスラエル国民およびユダ国民と新しい契約を結ぶ時が来る。”とあり、誰に向けた言葉かは明らかなのに、それは無視だね。」
「エレミヤ31:34では“私は彼らの過ちを許し,彼らの罪をもはや思い出さない。”とありますが、これは出エジプトの際に結んだシナイ契約をイスラエル人たちが守らなかった罪について言っているものですよ。その罪は許そう、忘れようと言っているだけです。」
「神はイスラエル人以外の異民族は許さないよ。申命記7:1,2に“それは,ヘト人,ギルガシ人,アモリ人,カナン人,ペリジ人,ヒビ人,エブス人で,あなたより人口が多くて強い7つの国民です。エホバ神は彼らをあなたに渡し,あなたは彼らを打ち破ります。必ず滅ぼし尽くしなさい。”とある。ある集団にたまたま生まれただけで、それがどんなに良い人でも殺すべきだというのが旧約聖書の神。」
「6節では“エホバは,私たちがこれまでにどんな間違いをしたかではなく,今何をしているかに注目しています。(エゼ 33:14-16)”とありますが、これも聖書の誤用ですね。エホバは些細なことでも許さず、人間を滅ぼす神ですよ。」
「引照聖句には“その人は,犯したどの罪についても責められることはない。公正で正しいことを行ったために,必ず生き続ける。”とあるけれど、これは、エゼキエル33:10に“人の子よ,イスラエル国民に言いなさい。”とあるように、バビロンに捕らわれているイスラエル国民を励ますための言葉。歴史的状況を無視して、現代JWに当てはめるのは滑稽だから、やめて欲しいね。」
「7節には” 罪を隠していて良心の痛みを感じているなら,どうすべきですか。聖書は,長老たちに助けを求めるよう勧めています。(ヤコ 5:14,15)”とあります。引照聖句は病気の人のことに触れているだけで、” 罪を隠していて良心の痛みを感じている”人のことなど出てきません。
「そこには“病気の人がいますか。その人は会衆の長老たちを呼んでください。そして,自分のために祈ってもらい,エホバの名によって油を塗ってもらってください。”とあるよ。これは古代ユダヤの慣習にすぎない。」
「5:15の最後には“また,その人が罪を犯したのであれば,許されます。”とありますが、これは病気の背後に罪を犯したことがあるという古代的信念を反映したものですよ。長老に相談したら罪が許されるなんてことはありません。」
「マルコ2:5に“イエスは彼らの信仰を見て,まひした男性に言った。「あなたの罪は許されています」。”とあるように、病気と罪は関係しているという思想が古代ユダヤでは普通だった。それで病気が治ったなら、罪も許されたという発想が出てくる。」
「7節にはアーサー兄弟の話が出てきます。“約1年にわたってポルノを見ていました。でも,良心に関する話を聞いて,妻と長老たちに自分の罪を打ち明けました。”というものです。罪というのはポルノ鑑賞なんですね。これは滅ぼされるに値する重大な罪なんでしょうね。そしてその後どうなったかというと“今アーサー兄弟は援助奉仕者で,開拓奉仕を楽しんでいます。”というお決まりの結末です。」
「ポルノを見たくらいで大人が罪悪感に打ちひしがれて、無知無学な長老に相談するなんて、JWだけでしょう。JWであるということは余計な重荷をたくさん背負わされることがよくわかる。カルトが利用するのは罪悪感だからね。」
「8から12節が” エホバは希望を与えてくださる”です。 8節では捕らわれていたユダヤ人にエホバは再び帰れるという希望を与えたとあります。” イザヤはこう書いています。「希望を抱いてエホバを待つ人は,再び力を得る」。(イザヤ 40:29-31を読む。)”とありますが、この聖句の訳はヘンですよ。」
「英語訳ではThose hoping in Jehovah will regain power.(エホバを待ち望むものは再び力を得る)だね。”希望を抱いて”は翻訳者が付け加えたね。」
「9節では“エホバは当時の人たちに,ご自分の約束を信じられる根拠も与えました。すでに実現した預言です。”、“全てエホバが予告した通りになりました。”とあります。でも、実現しなかった預言はたくさんありますよ。」
「そうなんだけど、JWはそれは無視して、聖書の預言はすべて実現したというプロパガンダを続けている。」
「10から13節が“学べること。”で、希望を持てということです。でもJWの希望は現実逃避の妄想です。10節には“新しい世界でどんな素晴らしい生活を送れるか,時間を取って考えることを習慣にできます。”とあります。悲しいですね。パンダと遊ぶことですか?」
「“希望を思い描くのに役立つ記事やビデオ,歌を活用しましょう。”とあるから、“楽園での夢の生活”というビデオがつくられるかもよ。落ち込んだらそれを見るように指導される。」
「11節は“慢性的な病気を抱えているジョイ姉妹の例”です。“姉妹は「『私は病気だ』と言う住民はいなくなる」という約束が実現する時,新しい世界で自分がどんな生活をしているかをイメージするようにもしています。(イザ 33:24)”とあります。病気のJWはこの姉妹に倣えということのようですね。でもイメージトレーニングで病気がよくなることはないですよ。」
「イザヤ33:24はJWの想像する楽園のことを言っていない。その一つ前の33:23には“その時,たくさんの戦利品が分けられ,足が不自由な人も多くの略奪品を手に入れる。”とあるよ。」
「JWはハルマゲドン後に金持ちの家から略奪するつもりなんですよ。」
「JWは伝道しながら、そういうことを考えているらしいよね。恐ろしいね。」
「12節では“今実現している預言について考えてみましょう。例えば,英米世界強国には確かに「強い部分ともろい部分」があります。(ダニ 2:42,43)また,「あちらこちらで……地震が」起きています。そして,私たちは「世界中で」良い知らせを伝えています。(マタ 24:7,14)”とあります。これって実現した預言ですか?違うでしょう。」
「信者向けのプロパガンダだけど、これを真に受けて、JW以外の人にしゃべってしまう間抜けなJWが居そうで、心配だね。」
「どんな国にも“強い部分ともろい部分”がありますし、地震はいつでも起きます。JWが伝道していない国や地域はたくさんあります。」
「実現した預言の例として、このようなものしか思いつかないわけだ。これはダメだね。希望なんか持てないよ。」
「13から16節は“エホバは不安を和らげてくださる”です。 14節には“エホバはご自分の無限の力や知恵を思い起こさせることによっても,捕囚にされていた人たちの不安を和らげました。その人たちに夜空の星を見上げるように勧めました。そして,ご自分が星を創造しただけでなく,その名前も全て知っているということを伝えました。(イザ 40:25-28)”とあります。そのあとに“エホバは,ご自分に仕える一人一人の名前も当然知っているに違いありません。エホバが星を造る力を持っているのであれば,ご自分に仕える人たちを助ける力を持っていることも確実です。”と解説しているのですが、これは違いますよ。全く理解していませんね。」
「JWの執筆者は無学だからね。古代の中東において天体は神であり、人間の運命を支配するものとして崇拝されてきたけれど、星はユダヤの神が作ったもので、40:26に“星の軍勢を数え上げて率いている者である。”とあるように、星々はユダヤの神の兵卒にすぎないと、異民族の神に対してユダヤの神の優越性を主張している部分。」
「15節も珍解釈が出てきます。“同じイザヤ書の中でエホバはご自分の民にこう言っていました。「奥の部屋に入り,扉を閉めなさい。少しの間,隠れていなさい。憤りが過ぎ去るまで」。(イザ 26:20)この言葉はバビロンがキュロス王によって征服された時に最初に実現した可能性があります。”とあります。ずいぶん自信なさげですね。“可能性があります”とはなさけない。イザヤ26章はバビロンが攻撃を受けた事とは関係ないですよ。」
「イザヤ26:1-19がひとまとまりで、神に対する賛美と嘆願の詩。26:20以降がそれに対する神の応答という構成。引照聖句の26:20は出エジプト12章にある“過ぎ越し”をほのめかしていると通常は解釈される。」
「15節には” 古代ギリシャの歴史家によると,キュロスはバビロンに入った時,兵士たちに「屋外にいる者は,見つけ次第,皆殺しにするようにとの命令を与え」ていました。”とあります。これまた不正引用です。出典を明らかになぜしないのでしょうか。」
「クセノポンの「キュロスの教育」からの引用でしょう。バビロン陥落からおよそ200年後に書かれたもので、歴史の資料的価値はないことを知っているのだろう。それで出典を隠した。」
「キュロスは本当に皆殺し命令を出したのですか?」
「そんな非合理な命令を出すのは聖書の神様だけかも。同時代の記録としてナポニドゥス年代記があるのだけど、そこにはバビロンは戦うことなく陥落し、バビロンの市民はキュロスが平和をもたらしてくれたと歓迎した。キュロスの円筒形碑文にも平和的な征服だったことが記録されている。」
「つまり、イザヤの預言は実現した可能性があるという根拠は信頼性の低い文献一つにすぎないわけですね。」
「JWは緻密に聖書解釈をするわけでもないし、誠実に歴史を調べるわけでもない。自分たちの教義を正当化するためなら、聖書の珍解釈でも、歴史の捏造でも、何でもするということ。」
「16節が“学べること。”で、ここでは不安をあおります。“間もなく,私たちは人類史上最大の患難に遭うことになっています。その時,人々は恐怖を感じ,混乱します。”とあります。“人類史上最大の患難”というあいまいな書き方がいいですね。伝染病でも戦争でも大地震でも、何でも当てはめ可能です。」
「恐怖をあおって、信者をつなぎとめようとしているわだけ。」
「16節には“エホバは,天使たちを使って私たちを保護することに加え,命を救うための指示を与えます。その指示はどのようにして伝えられるのでしょうか。私たちにはまだ分かりません。恐らくそうした指示は会衆を通して与えられるでしょう。”とあり、“与えられる指示に進んで従いましょう。”と指示しています。でも会衆から与えられる指示はろくなものではないことが、コロナ騒動のときに明らかになりましたからね。食糧難には家庭菜園で対処するとか。」
「組織にはいかなる分野の専門家はいないので、せいぜい政府の指示を繰り返すだけ。JWは科学を敵視してきたので、反ワクチンの人も多いのに、組織はワクチンを推奨して、反感を買った。」
「最後の17節には“これからどんなことが起きるとしても,慰めの神エホバに頼るなら安心感を得ることができます。本当に憐れみ深い神を信頼しましょう。”とありますが、この記事の本当の目的は信者を大患難で脅かし、もっと不安にさせて、組織に依存するようにさせるということでした。」
「エホバに頼ろうが、JWに安心感などないことは、長年JWやっていればわかるよ。」
#1589 2025年08月01日 14:25:22
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1590 2025年08月02日 17:13:07
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
1~2世紀の迫害期からエウセビオス時代のローマ公認に至るまでに、初期キリスト教の教導権が収れんしたのはローマ、アンティオキア、アレクサンドリアなどの、後に五本山としても知られる個別の都市教会(共同体)で、キリスト信仰発祥の聖地エルサレム共同体がペラに集団移動したなら、そこにキリスト教の活動中心が移ったはずですが、そんな話はローマ史にも、同時期の初期教父文献にも、新約聖書にも、どこにもありません。
初期キリスト教最高指導者評議会だったらしい統治体(笑)の天啓により中心聖地エルサレム教会が強力に一致団結して救われた!はずなのにその後の記録が一切なく統治体ごと雲散霧消したのでしょうか。
アンティオキアの非ユダヤ人割礼問題でユダヤ人教会(エルサレム)側との折衝を図る臨時会合があったことが使徒行伝に1回だけ書かれていますが、ローマ帝国内の全信者に首位教導権を持つ「統治体」などもとから存在しません。
も塔は「歴史家」ヨセフスが書いた話も都合のいい箇所だけ切り取って、ユダヤ人がアレクサンドロスに「あなたのことが予言されていたんですよ」とダニエル書を見せたという伝承を事実のように書いていますが、ヨセフスのユダヤ古代誌は、他にもモーセのエチオピア遠征など、どこまでが物語なのか史実なのかさっぱり分らない、裏を取りようがない何百年も前の旧約にまつわる伝承がローマ人向けに盛られているのに、そのヨセフスさえ書いてない話です。
「歴史家」のカトリック司教が他に裏付け資料もなく、何百年も後になって書いただけの伝承を事実扱いするのも、やめる気配がないですね。
#1591 2025年08月08日 12:25:22
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“エホバの名前はイエスにとってどれほど大切か(22)”で、エホバの名前は大事なんだ、信者はエホバという奇妙な名前を恥じるな、という内容です。」
「この記事はJWの独自の奇妙な神学を信者に教え込もうとしているね。エホバの名前が重要だなんて、エホバ教の教えで、キリスト教とも聖書とも関係ない。」
「3から5節が“私はあなたのお名前を彼らに知らせました”です。 3節に“イエスは祈りの中で,「私はあなたのお名前を彼らに知らせました」と言っています。イエスは同じような表現を2回使っています。(ヨハネ 17:6,26を読む。)”とあります。これがこの記事の中心的な聖句です。神の名前を知らせるというのは、神を知らせたということの婉曲表現ですよ。」
「その基本がわかっていないのがJWだね。ヨハネ17章はイエスの祈りが書かれているところ。イエスの祈りとしては最長のもので、1-5節は自分のための祈り、6-19節が弟子たちのための祈り、20-26節はこれから弟子になる人たちへの祈りと3つの部分からなる。」
「3節で“弟子たちはユダヤ人だったので,神の名前がエホバであることはすでに知っていました。その名前はヘブライ語聖書中に何千回も出てきます。”といきなりとんでもないウソを書いています。歴史の捏造です。」
「神の名前はエホバではないことはJWだって知っているよね。ユダヤ人は、神の名をみだりに唱えてはならないという戒めを守り、神の名を呼ぶ代わりに、アドナイ(我が主)とかハシェム(御名前)呼んでいた。後にYHWHを表わす子音と、アドナイの母音とが組み合わされて、誤ったエホバという発音が生じたことは、キリスト教関係のたいていの本に書いてあるからね。」
「そのあと“それでイエスは,単に神の名前がエホバだと教えたわけではありません。その名前を持つ神がどんな方かを教えました。”とあります。神の名前を教えるというのは、神がどのような方かを教えることですよ。」
「イエスは神の名前を口に出して言ったことはない。そうしたら冒とく罪で処刑されていた。」
「4、5節がたとえ話とその説明です。医師の長老がいて、その名前は以前から良く知っていますが、その長老に手術をしてもらい一命をとりとめたら、その人は単なる長老ではなく命を救ってくれた医者です、とあります。そして5節では“同じように,弟子たちもエホバの名前は以前から知っていました。でもイエスのおかげで,エホバという名を持つ方についてもっとよく分かるようになりました。”とあるのですが、少しも“同じように”とは言えません。例えと説明が一致していませんよ。」
「例えは医師と自分との2項関係だけど、説明はイエス-エホバ-自分の3項関係になっている。エホバが余計なんだよ。余計なエホバを入れ込もうとしてヘンなことになるのがJWのたとえ。」
「6から8節が“私に託してくださったお名前”です。 6節に“イエスは弟子たちのためにこう祈りました。「あなたは私にあなたのお名前を託してくださいました。そのお名前のためにこの人たちを見守ってください」。(ヨハネ 17:11,12を読む。)”とあります。聖句の日本語訳に問題がありますね。」
「JW英語訳ではyour own name, which you have given me(私に与えてくださったあなた自身の名)で、“託して”ではない。名前をくれたと言っている。」
「“そのお名前のためにこの人たちを見守ってください”は日本語訳としてはよいですが、元の英訳が間違いです。意味がよく分かりません。」
「元のギリシャ語を直訳すると、名前のうちにお守りください(keep in the name)。協会共同訳では“御名によって彼らを守ってください。”となっている。ここでは名前は名前が差し示すもの、つまり神の婉曲表現。」
「そのあと聖句の解説です。“イエスは,神の代理として神のメッセージを伝えてきました。また,天の父の名によって地上に来て,その名によって奇跡を起こしました。(ヨハ 5:43; 10:25)”とあります。これもヘンですね。」
「ヨハネ17章はイエスと神が一体であることを強調している部分で、イエスが神の代理ではないことを言っているんだけど。ヨハネ17:11でイエスは神との関係を“私たちが一つであるように”と言っている。」
「最後に“さらに,イエスという名前には「エホバは救い」という意味があるので,イエスの名前とエホバの名前には深い関係があります。”とありますが、これも正しくないです。」
「ヘブライ語のヨシュア(Yhowshuwa)のギリシャ語訳がイエス―スで、それが日本ではイエスになった。ヤハウエは救う、あるいはヤハウエは救いという意味。エホバは無関係。」
「8節はJWのイエス論です。JWではイエスの地位が低いことがよくわかります。まず“イエスは聖書の中で言葉と呼ばれています。ほかの天使たちや人間に神からのメッセージや指示を伝える,ということです。(ヨハ 1:1-3)”とあります。イエス=メッセンジャボーイです。軽い扱いです。」
「ヨハネ1:1に“初めに,言葉と呼ばれる方がいた。言葉は神と共にいて,言葉は神のようだった。”とあるけれど、これはJWの聖書の改ざんでは非常に有名な箇所だね。協会共同訳では“初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。”で、こちらが正しい。JWはイエスが神であると認めないので、“神のようだった。”と変えている。」
「言葉であったというのは、イエスはメッセージャボーイという意味と説明するJWがいかに無知でバカかよくわかります。」
「ここでいう言葉(logos)は難解な概念で、説明するのは難しいね。専門書を読んでくださいとしか言えないね。」
「その後、さらに“イスラエル人を導くためにエホバが遣わした天使はイエスだったと思われます。エホバはイスラエル人にその天使に従うように命じ,そうすべき理由についてこう言いました。「彼は私の名によって行動するからである」。(出エジプト記 23:20,21を読む。)”とあります。イエスは神の言葉を伝えるメッセンジャーだったというわけですが、無理がありますね。」
「“彼は私の名によって行動するからである”ことが出エジプト記23章の天使がイエスである根拠なわけだ。でも訳がヘンだね。英文ではBecause my name is in him(私の名が彼の中にあるからだ)だよ。それは神の代理という意味ではなく、彼は神そのものという意味。それで、これは特別な天使で、イエスのことだ、という主張が三位一体を唱えるキリスト教の側から出てきた。でも出エジプト記を書いた人はイエスなんか知らないよ。」
「そもそも出エジプト記では神と天使の区別があいまいですよ。13:21では“エホバは民の前を進んだ。昼は雲の柱で道案内し,夜は火の柱で照らし,民が昼も夜も進めるようにした。”とあります。ここではイスラエル人をエホバが導いています。それが23:20では“私はあなたの前を行く天使を送り,道中あなたを守らせ,私が用意した場所に連れていかせる。”と天使に変わり、この天使の中に神の名があるというわけです。神も天使も似たような存在です。」
「天使思想が発展するのはペルシャ帝国に支配されるようになってから。出エジプト記が書かれた時代では天使思想は未熟なんだよ。」
「出エジプト3:2では“その時,エホバの天使が,いばらの木で燃える炎のうちに彼に現れた。”とあるのに、モーセが炎に近づくと、3:4では“エホバは,モーセが調べようとして近づいたのを見て,いばらの木から呼び掛け,「モーセ,モーセ」と言った。”とあり、天使がエホバに変わっています。」
「出エジプト記以外でも天使と神の区別があいまいで、同一と思える箇所が何か所かある。」
「9から11節が“父よ,お名前を栄光あるものとしてください”です。 10節で“イエスは,エホバの名前が栄光あるものとされるには,エホバの名前が神聖なものとされ,名誉が回復されなければいけないということを知っていました。”とあります。」
「名誉が快復?英文ではhis reputation vindicated(エホバへの非難が不当であることを立証される)だけど。まず、エホバはダメな神という非難が間違っていることを証明するわけで、名誉回復はその後のできごと。」
「11節はJWの神学です。“エデンの園で悪魔サタンがエホバ神のことを悪く言ったことが始まりです。サタンは,エホバがうそつきでアダムとエバに良いものを与えていないと主張しました。(創 3:1-5)”とありますが、デタラメです。そんなことは言っていません。」
「まず、創世記にサタンは出てこない。3:1には“て,エホバ神が造った野生動物の中で蛇が最も用心深かった。蛇が女に言った。”とある。野生動物の蛇が言ったんだよ。古代のお話では動物が喋ったりするのはよくあること。古代では動物と人間の区別もあいまい。」
「ヘビが喋ることで、これは寓話であるということを示しているわけですね。」
「エデンの話は聖書の他の箇所で引用されたり言及されることのないどうでもいい話。エデンの園はエデンの東にあったそうだけど、エデンという地名だって数回しか出てこない。後の時代の人が書かれていないことを付け足して、この話に過剰な意味を見出していった。JWもその仲間ということ。」
「そのあと“ヨブの時代にサタンは,人間がエホバに仕えているのは自分にメリットがあるからに過ぎない,とも言いました。”とあります。ヨブ記は文学作品ですよ。あれを史実と思っているわけですか?」
「ヨブ記のサタンは固有名詞ではなく官職名で、JWの考える悪魔サタンとはちがう。ヨブ記のサタンは神の部下に過ぎない。」
「そして“本当にうそつきなのは,エホバとサタンのどちらでしょうか。そのことをはっきりさせるには時間が必要でした。”と締めくくります。これがJWの宇宙神権論争というものです。」
「JWの神学の中心である宇宙神権論争は創世記のエデンの話とヨブ記の2つのお話だけを根拠にしているわけだ。そんなに重要なことならなぜイエスはそのことを弟子たちに言わなかったのか不思議だね。」
「創世記2:17で神は“しかし,善悪の知識の木の実は,食べてはならない。それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである。”と言っていますが、食べてもその日のうちには死にませんでした。アダムは930年生きました。聖書の中では4番目の長生きです。最初のうそつきは神というのははっきりしています。」
「そうなんだけど、神が嘘をついたとなると不都合なので、いろんな人がいろいろ言い訳を考えている。でも、アダムたちは食べた後、なんだ、死なないや、神様のうそつき、と思ったよ。」
「12,13節は“私は命をなげうつ”です。 12節に“イエスはエホバの名前のためなら命を犠牲にすることもいといませんでした。 こう言っています。「私は命をなげうつ」。(ヨハ 10:17,18)” とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。聖句の誤用です。」
「そこには神の名前なんて言葉は出てこないよ。いつ神の名前のために命をなげうつことになったの?」
「13節に“イエスは自分の生き方によって,エホバではなくサタンがうそつきであるということを,疑いの余地なく証明しました。(ヨハ 8:44)”とあります。それならもう決着がついたのですから、さっさとサタンを滅ぼして地球を楽園にすればいいのに、なぜぐずぐずしているのか不思議です。」
「不思議だよね。本当はどっちがうそつきかなんて、宇宙的な問題ではないということ。」
「引照聖句に“その者はその始まりから人殺しで,真理から離れました。真理を好まないからです。”とありますが、英語訳はhe did not stand fast in the truth, because truth is not in him.(彼は真理に堅く立っていませんでした。真理が彼のうちにないからです。)です。テキトウナ訳です。」
「“真理から離れた”、“真理を好まない”と訳することで、JWをやめた人はサタンと同じだ、とこの聖句を使って攻撃できるようにしたね。聖書はJWにとって単なる道具だから、使いやすいように改変するわけだ。協会共同訳では“悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。”となっている。」
「14から18節が“私は,あなたから委ねられたことを成し遂げ……ました”です。 イエスがこれから何をするかが書かれています。15節には“イエスはハルマゲドンの時に神の敵たちと戦い,悪い人たちを滅ぼします。(啓 16:14,16; 19:11-16)”とあります。」
「久しぶりにハルマゲドンという単語を見た。もう死語にしたのかと思ったよ。」
「ものみの塔に前回出たのは2024年9月号です。」
「8か月ぶりだね。JWは終末カルトなのだからハルマゲドンという言葉はいくら手あかにまみれた忘れたい嫌な言葉でも大事にして欲しい。」
「英文ではIn the near future(近い将来)といっているのに、日本語訳では省略しています。信仰心がない翻訳者ですね。」
「翻訳者はハルマゲドンが当分来ないと思っているんだろう。偽預言者と呼ばれるのが嫌なんだよ。」
「16節では千年王国の話です。“亡くなった人たちは生き返っているので,墓は空っぽです。生きている人は一人残らず完全になっています。(コリ一 15:25,26)”とあります。」
「引照聖句に、千年王国なんて言葉は出てこない。それから人間が完全になるとも書かれていない。聖書を超えたJWの推測だね。」
「17節では千年統治の終わりに“エホバの名前を巡る問題に決着がつきます。エホバの名前について悪く言う人はもう一人もいません。”とあります。論争の決着を1000年統治後に持って行くのがJWの教えなんですね。理解できません。前の節ではサタンがうそつきと証明されたとありましたよ。」
「1000年統治なんて出てくるのは啓示に1回だけ。それがどんなものかなんか誰もよくわからない。JWが好きなことを言っているだけ。」
「最後の19節で“エホバの名前をここまで大切にしているイエスに,私たちはどのように倣えるでしょうか。次の記事で考えます。”とあります。来週は信者にあれこれ要求するわけですね。」
「イエスに倣って、命をささげろという記事がいつ出るか、心配だね。そんな記事が出る前にさっさとやめよう、JW!」
#1592 2025年08月12日 17:56:29
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
「忠誠」を奪い去らない(JW訳)と誤訳しているが、後半になるにつれ因果応報的なことを言われて逆上し、ヨブは自分の「潔白」を奪い去らない(聖書協会共同訳)と言っているだけ
しかも神は善人も悪人も滅ぼすのだ!と神を呪いだしており、「あなたは自分を神よりも正しい者とした」と叱られたのはヨブの方で、サタン本人は一切のお咎めなし
仮にサタンが負けたとしてそこで済む話で、 他の人間でリベンジマッチさせてくれとは言ってないし、新約でもキリストの死は「多くの人の身代金として命を捧げるため」で、ヨブ記の延長戦に決着をつけるためにキリストは来たとは、イエスもパウロも言っていない
#1593 2025年08月12日 18:41:34
- ジョエル
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1594 2025年08月15日 14:28:03
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1595 2025年08月22日 14:26:05
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“ヤコブの臨終の預言から学べること パート1(24)”で、ヤコブが12人の息子たちに残した言葉から教訓を得るという内容です。パート1は4人を取り上げます。)
「なぜ今どきそんなことを学ぶのか理解できないね。」
「ヤコブ一族の顔のイラスト付きです。子ども向けの聖書物語みたいで、やる気がでませんね。」
「みな同じような顔をしていているのがいただけないね。個性的に描くほどの技術がないのか。」
「JWの好きな性的な話がたくさん出てきます。大人向けなんでしょうね。」
「それを除くと、小学生2年生レベル。」
「3節に“この時ヤコブが語った言葉は臨終の預言と呼ばれています。”とあります。誰が呼んでいるのですか?普通は預言とは呼ばれていません。」
「普通はヤコブの祝福だね。英文ではJacob was a prophet.(ヤコブは預言者でした)とある。だから、ヤコブの言ったことは預言なんじゃないの?でも翻訳者はそれはヘンだと思ったのか、ヤコブは預言者でしたとは訳していない。」
「5から8節が“ルベン”です。 第1子です。6節に“創世記 49:3,4を読む。”とあり、そこには“荒れ狂う水のように奔放なため,秀でることはない。父のベッドに上がったからだ。”とあります。これは“ヤコブのそばめのビルハと性関係を持ったからです。”と説明しています。しょうもない話ですね。」
「これについて6節では“ルベンがしたことはエホバにとってもヤコブにとっても,とても悪いことでした。”とあるけれど、エホバは余計でしょう。ヤコブはそばめをルベンに取られて腹が立ったというのはわかるけれど、エホバはなにも怒っていないよ。もし怒ったら、ルベンは焼き殺されているよ。」
「創世記では性道徳はあってなきがごとしです。やりたい放題やっていますよ。」
「JWは神は変わらないと言うけれど、聖書を読む限りかなり変わる。性道徳もそうだね。」
「8節が“学べること。”です。“私たちは間違った欲望と闘い,性的に不道徳なことを一切避ける必要があります。”だそうです。拡大解釈しすぎです。」
「後で出てくるユダは義理の娘タマルを売春婦と間違えて性関係を持つけれど、お咎めなしだよ。創世記の神は性的なことにこだわる神じゃないんだよ。」
「ルベンは父親の所有物である女に手を出したことが問題だったわけです。」
「だから学べることは、おやじのものには手を付けるな、でしょう。それを性的に不道徳なことを一切避けると拡大解釈するのは、信者を罪と恥の意識でコントロールするためでしょう。」
「9から12節が“シメオンとレビ”です。 第2子と第3子です。9節に“創世記 49:5-7を読む。”とあり、そこには“彼らのひどい怒りと激しい憤りは,災いを受けよ。彼らをヤコブの中に追い散らし,イスラエルの中に散らそう。”とあります。創世記34章でシメオンとレビは妹のディナが強姦されたことに対して復讐したわけですが、そのことをヤコブは怒っているわけです。」
「これも納得いかないよね。創世記34:27-29には“ヤコブのほかの息子たちも,殺された人たちの所にやって来て,町の物を略奪した。妹を汚されたからである。羊,牛,ロバ,町や野原にあった物を全て奪った。人々の所有物を全て奪い,小さな子供や妻たちを皆捕らえ,家々にあった物を残らず強奪した。”とある。シメオンとレビが主導的な役割を果たしたかもしれないけれど、他の兄弟だってひどいことをしている。でもそれは問題にしないわけで、全く不公平。」
「10節で“この預言は,200年以上後にイスラエル国民が約束の地に入った時に実現しました。シメオン族は,ユダ族の領地に点在する土地を相続地としてもらいました。(ヨシュ 19:1)レビ族にはイスラエル各地の48の町が与えられました。(ヨシュ 21:41)”とありますが、シメオンについての訳がヘンですね。」
「元の英文はThe tribe of Simeon received as its inheritance isolated portions of land inside Judah’s tribal territory.(シメオン族はユダ族の領内の孤立した土地を相続地として受け取りました。)とある。これだと”イスラエルの中に散らそう。”という預言が実現したことにならないと思った翻訳者が”点在する土地”と変えて、見事予言が実現したことにしたわけだ。でも引照聖句には” 彼らの土地はユダの土地の中にあった。”とあるだけ。」
「その後シメオンの子孫たちはどうなったのですか?ほとんど聞きません。」
「シメオンに割り当てられたとされる土地はユダ族に奪われ、シメオン族はユダ族に吸収されたのだろう。バビロン捕囚後のことを書いてあるネヘミア書にはシメオン族が帰還したことは触れられず、シメオン族に割り当てられたとされる町はユダ族のものとなっている。」
「北王国が10部族からなり、北王国が滅亡後その10部族が失われたという話は間違いなわけですね。」
「それは伝説。架空の歴史。失われた10部族にシメオンも入っているけれど、シメオンの土地は南のユダ族の中で、北に属しているわけがない。シメオンはユダに吸収された。ヤコブの予言は実現したのかな?」
「12節が“学べること。”です。” 怒りに任せて行動することがないようにしましょう。(中略)腹立ち紛れに何かを言ったりしたりすることをエホバは喜びません。”とあります。まとはずれなことを言っていますね。シメオンとレビは怒りに任せた行動なんかしていません。やったのは計画的なだまし討ちです。」
「ディナと結婚したいのなら割礼を受けろと要求し、割礼を受けた3日目、痛みで苦しんでいる時を見計らって襲ったわけだ。そして男たちを皆殺し。学べることは、十分計画を練ってから行動することの重要性でしょう。」
「このときエホバは怒ったりしていません。」
「ヤコブは“私は,この地方に住むカナン人やペリジ人から憎まれてしまった。私の方は人数が少ない。彼らはきっと束になって私を攻め,私と家族を滅ぼしてしまうだろう。”という。要するに戦いを恐れているということ。道徳的に非難をしていない。すると創世記35:1で、神は“立ってベテルに行き,そこに住みなさい。”と言う。つまり逃げろというだけ。道徳的な非難はない。」
「創世記35:5には” 旅の道中,神が周辺の町を恐怖に陥れたため,ヤコブの息子たちが人々に追跡されることはなかった。”とあります。大量殺人をやらかしたヤコブの息子たちを保護しています。」
「神にとって大量殺人なんか大した問題じゃないということがわかるね。」
「ゴッドファーザーの冒頭のシーンを思い出します。葬儀屋の男性がマフィアのボスに自分の娘が暴行されたから、犯人を殺してくれと頼みます。マフィアのボスは殺すのはダメだ、痛めつけるだけで十分だといいます。聖書の神より暴力に対して抑制的で、まともです。」
「創世記34章では、ヤコブの息子たちは強姦された仕返しに、男は皆殺し、女と子供、家畜は略奪する。神はそれをとがめるどころかむしろ保護する。暴力的で血なまぐさい恐ろしい神だね。」
「13から18節が“ユダ”です。 第4子ですが、ユダが事実上の後継者に指名されるわけです。」
「ユダを後継者に指名したいので、ユダより年上の兄弟に対して難癖をつけたわけ。」
「13節にはユダの悪行が出ています。“例えば,シェケムの町の略奪に関わっていました。(創 34:27)兄弟たちと一緒にヨセフを奴隷として売り,そのことで父親にうそをつきました。(創 37:31-33)息子の嫁のタマルを娼婦だと思って,関係を持ったこともありました。(創 38:15-18)”とあります。けっこう悪い男です。」
「でもユダの場合は問題視しない。めちゃくちゃ不公平。正義という概念はない。」
「15節では“ヤコブは,ユダが指導者として兄弟たちを率いると予告しました。”とあります。これは事後預言なわけですね。」
「ダビデ王がユダ族出身なので、それがヤコブの時代に予言されていたものだとするために、書き加えられた部分でしょう。」
「16節が問題です。そこには“ヤコブは,ユダの子孫の1人が人類を永久に統治することを予告しました。(創世記 49:10と脚注を読む。)ヤコブがシロと呼んでいるその統治者とは,イエス・キリストのことです。”とあります。引照聖句には“王笏はユダから離れず,司令官のつえも足の間から離れない。ついにシロが来て,あらゆる民が彼に従う。”とあります。永久に統治するなんて書いていませんよ。訳もヘンです。」
「協会共同訳では“シロが来るときまで、もろもろの民は彼に従う。”だから、意味が違うね。“シロが来て”は誤訳でしょう。」
「16節でシロをキリストと断定していますが、根拠を示していません。シロは人名ですか?」
「旧約聖書の他の部分でシロが人名を表したり、救世主を表したりする個所はない。地名でシロというところがあるけれどヘブライ語の綴りが違う。この個所の解釈は難しい。」
「17節が“学べること”です。“仲間の兄弟姉妹が特別な奉仕をすることになった場合,その人の短所に目が向き,「どうしてあの人が?」と思うかもしれません。でも,エホバはいつも人の良いところを見ています。私たちも同じようにしましょう。”とあります。問題のある人が長老になっても、文句を言うなということですね。でもユダの話と関係ないですよ。」
「神は売春婦と関係を持つのは気にしないようだけど、JWによると、ポルノをみるのは憎むんだよね。でも良いところがあれば問題なしということかな?理解しがたいね。」
「18節では“ユダの例から,辛抱して待つことの大切さも学べます。エホバは必ず約束を果たす方ですが,私たちが望む方法やタイミングでそうするとは限りません。”とあります。簡単にいうと、エホバの約束などあてにならないということですね。」
「無茶苦茶なことを言っている。約束が実現したというためには方法やタイミングが重要でしょう。借金を返しますと約束して中古車を持ってきたらどうなの?中古車を売って、現金持ってこいというよ。また、借金を返しますと約束して、貸した人がとっくの昔に死んでいる100年後にその子孫に返しても約束を守ったことになるかな?ならないよ。」
「最後の19節はまとめです。“ヤコブの臨終の預言からどんなことを学べたでしょうか。「人間の見方と神の見方は違う」ということです。(サム一 16:7)”とあります。要するにヤコブの息子についての評価はおかしいということですね。それをおかしいとはいえないので“人間の見方と神の見方は違う”と強弁して、信者を納得させようというわけです。」
「引照聖句はエッサイの息子の中から王を選ぶ場面で、エリアブについて“彼の容姿や背の高さに注目してはいけない。私は彼を選んでいない。人間の見方と神の見方は違う。人間は目に見えるものを見るが,エホバは心の中を見る。”と神は言うわけだけど、神が選んだダビデは見た目がよいけれど、結構悪い男。」
「神は心の中を見るというのは、神のはったりに過ぎないようですね。」
「JWでも表面的には善人そうでも、結構邪悪な長老がいるでしょう。神は心の中を見るのになぜなのだろうと思った人は聖書の神を誤解しているね。」
#1596 2025年08月22日 14:59:31
- 1,000時間奉仕者
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Re: アブラハムの神の限界
#1597 2025年08月29日 13:33:11
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1598 2025年09月04日 08:23:16
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“全てを知らないことを謙虚に認めましょう(26)”で、終わりがいつ来るか知らないけれど、明日かもしれないので、組織に服従しなさい、という内容です。」
「統治体の一人のレットが今は終わりの終わりの終わりと言ったのが5年前。コロナ問題でいよいよ終わりの時が来たと早とちりしたわけだけど何も起こらず、多くの信者は失望している。そういう失敗に対するダメージコントロールを狙った記事だね。」
「3節で“この記事では,私たちがどんなことを知らないか,知らないとどんな気持ちになることがあるかを考えます。”とあります。“私たち”じゃないですよ。統治体がどんなことを知らないか、ですよ。」
「“私たち”という言葉がやたらと出てくる。統治体が指導して、“私たち”は盲目的に従っているだけなのを忘れたのかな?統治体の失敗なのに、あたかも“私たち”の失敗かのようにごまかしているのが不誠実だ。」
「4から7節が“終わりがいつ来るかを知らない”です。 いつ来るか知らないのに、今は終わりの終わりなどと言っていたわけですか?謝罪と賠償を求めます。」
「謝罪など一切しない。都合の悪いことは黙り込んで、忘れ去られるのを待つのが組織のやり方。」
「4節では“マタイ 24:36を読む。私たちは今の世界がいつ終わるのかを知りません。イエスでさえ,地球にいた時はその「日と時刻」を知りませんでした。”とあります。今ごろになってやっとわかったんですか?無能の極みです。」
「そこには“その日と時刻については誰も知りません。天使たちも子も知らず,父だけが知っています。”とあるけれど、こんな聖句があることに統治体は今まで気づかなかったようだね。組織にとっては驚異の大発見なのかも?」
「ヘンな注があります。“イエスは,サタンの世界を終わらせるために先頭に立って戦うことになっています。それで,いつハルマゲドンで「征服を完了する」かを今は知っているはずです。”とあります。イエスは2000年前は終わりの日を知らなかったけれど、今は知っていると主張しています。何を根拠に?イエスに聞いたのですか?」
「統治体はエホバの気持ちもイエスの気持ちも何でも知っているんだよ。エホバはポルノを憎むと断言しているぐらいだから、イエスが何を知っているかもわかるのだろう。」
「5節に“家族や周りの人から終わりはいつ来るのかと,ばかにされることもあるでしょう。”と他人事のように書いています。信者をバカにされるようにしたのは終わりがクルクルとあおってきた統治体のせいです。それなのに責任感ゼロです。」
「キリスト教は終末論から離れていくことで宗教として成熟していった。JWは100年以上たっても終末カルトのまま。成熟しようがない。」
「6節では“エホバが,終わりが来る日付を知らせていないことには良い面があります。私たちは日付を知らないからこそ,エホバを心から愛し,信頼していることを証明できます。”とあります。良い面を見なさいということのようです。とんでもない詭弁です。」
「学校の先生がテストの日にちを教えないのは、君たちはテストのために勉強するのではなく、本当に勉強が好きということを証明するためだと言っているようなもの。こんな教師は生徒を精神的に虐待していると言われるよ。」
「JWは“間もなく”とか、“すぐに”とかいう言葉を乱発して、期待をあおってきました。そのことに対する謝罪も反省もないですね。」
「間もなく終わりが来ると宣伝すると、信者が増えるからね。組織の主な関心は信者を増やし、寄付を増やし、立派な本部を作ることなので、信者集めに有効なことはウソでも何でもするということだろう。それで信者をさらに増やそうと20世紀末まで終末論をエスカレートさせてきたわけだ。」
「でもその終末論も期限切れになったわけですね。」
「世代の解釈があまりにもバカバカしいものになったからね。1914年を見た世代は決して過ぎ去らないと言ってきたのに、過ぎ去ってしまって、それに対処するために“重なる世代”という訳の分からないことを言い出して、完全に失敗した。世代のことはもう触れないようにしている。」
「7節は“今,知っていること”です。“例えば,私たちは1914年に終わりの時代が始まったことを知っています。”とあります。“私たち”は知らないですよ。そんなこと。統治体の老人がそう言い張っているだけです。」
「今のJWで1914年の計算方法を説明できる人はどれだけいるのかな?起点となっている前607年がインチキ年代ということはどれだけ知っているのかな?607ことは最近ほとんど触れないね。」
「JWの教義では終わりの日が始まったのは1914年の10月です。たとえば塔2014/7/15の“あなた方は……わたしの証人となるでしょう”には“しかしエホバは,イエスを人類に対する王として即位させます。1914年10月のことです。”とあります。でも第一次世界大戦は6月28日のオーストリア皇太子の暗殺事件をきっかけに始まったわけで、そうすると第一次世界大戦は終わりの日の前の出来事ですよ。」
「JWの教義では天で神の王国設立に伴って、サタンが地に投げ落とされ、その結果“地に災い”がもたらされるというシナリオ。1914年が終わりの時代の始まりという根拠となっているのは第一次世界大戦の開始だけれど、JWの教義からするとそれはおかしい。戦争の始まる時期が早すぎだね。」
「7節では“さらに エホバが今,私たちに何をしてほしいと思っているのかも知っています。できるだけ多くの人に「王国の良い知らせ」を伝えることです。(マタ 24:14)”とあります。知りませんでした。組織が信者集めのために伝道して欲しいだけかと思っていました。」
「JWとして知っているのは、今は終わりの時代で、王国の良いたよりを伝道するのがエホバなる神の意志であるということだけなの?輸血は禁止というのはどうなの?排斥に関するルールとか誕生祝い禁止とかはどうなの?それらはエホバが私たちにして欲しことだと自信を持って言えないの?」
「7節の最後に“その「日と時刻」を知らなければ,熱意を持って伝道できないわけではありません。”とありますが、そんなことはないです。終わりの日が迫っていると言われてきたから、自分の人生を投げ捨てて、伝道に打ち込んだ信者がたくさんいますよ。そういう信者はいまごろ騙されたと心の中で思っています。」
「終わりがクルクル詐欺で信者を働かせてきたのがJWでしょう。そうしないと信者は熱意をもって伝道しないことを組織は知っているよ。高校を卒業するまでにハルマゲドンが来ると言われて、小学生の時から伝道をやらせられた人もいるよ。高校を卒業してから40年たっても終わりの日が来ないことをはじめから知っていたらそんなことしなかったよ。」
「8から11節が“エホバがどんなことをするか,全ては分からない”です。 聖書の神は情緒不安定で何をやらかすか予測しがたい神であることは間違いないです。8節には“私たちは「真の神の行い」をいつも理解できるわけではありません。(伝道の書 11:5を読む。)”とあります。“真の神の行い”と言う訳はヘンですよ。」
「協会共同訳では“すべてをなす神の業は知りえない。”で“真の”はないね。もとのヘブライ語にもない。JWが勝手に付け加えた。」
「人間は神のすることは知らないわけです。でも、JWの教義ではそうではないですよ。」
「統治体は神の喜怒哀楽をよく知っていることになっている。それで信者の生活の細部に至るまで、あれはエホバが喜ばれないとか、悲しむとか言って制限したり禁止したりしてきた。」
「9節で“エホバが私たちを助けるために何をしてくれるかが分からないと,不安になってしまうことがあります。”と信者の不安感に理解を示しています。不安感を持つのは当然です、なぜならエホバは何もしてくれないからです、と断言したらどうですか?」
「そんなことないでしょう。食べ物がなくて祈ったら誰かが食べきれないほどの食糧を持ってきてくれた、なんていう話は、よくものみの塔の記事に出ているよ。エホバは決して信者を見捨てない、不安を持つのは信仰が足りないからです、と断言したらいいね。」
「10節では“エホバの行いを全て理解することはできないと認めると,もっと謙虚になれます。”とあります。具体的には“宣教や何かのプロジェクトで成果を上げたときも,エホバのおかげだと考えます。(詩 127:1。コリ一 3:7)自分の期待通りにいっていないように感じるときも,物事を動かしているのがエホバだと思い出すと,穏やかな気持ちでいられます。”とあります。これって謙虚な態度ですか?単に無責任なだけじゃないですか?開拓者なら時間が入ればそれでいい、結果なんか気にしない、という態度です。」
「無責任というより、傍観者的だね。何事もどうでもいいという投げやりな態度に見える。JWってそんな人たちでしょう。」
「11節はエホバについて知っていることで、“エホバはいつも優しく,正しいことを行う賢い方です。また,私たちがエホバや兄弟姉妹のためにすることを何一つ見逃したりせず,喜んでくれます。エホバを深く愛する人たちに必ず報いてくれます。”とありますが、そんな神とは知りませんね。それは単なるJWの宣伝じゃないですか?」
「神は人間の理解を超えた存在なはず。でもJWの宣伝する神は優しくて気の利く金持ちのお父さん程度の便利な存在に過ぎないようだ。」
「12から15節は“明日がどうなるかは分からない”です。 12節には“現実として,この世界では「思いも寄らないことがいつ誰にでも起き」ます。(伝 9:11)”とあります。それでどうすべきかというと、14節で“でも大変な時こそ,自分がエホバに仕えているのはエホバを愛しているからだということを証明できます。”とあります。思いもよらない不幸にあったら、エホバへの愛を証明できる良い機会なので、JW活動をこれまで以上に熱心にしなさい、と言っているようです。過酷な宗教ですね。」
「信者はやたらと○○を証明することが求められているようだけど、神ではなく組織の他のメンバーに対して、私は立派なJWです、と証明する必要があるだけ。周りからどう見えるかが重要な宗教というだけで、神とは無関係。」
「14節では“本当の幸せは,エホバに導いてもらい,エホバの言う通りにすることに懸かっています。”と断言しています。エホバ=組織ですから、要するに組織の言うとおりにすれば幸せになれるわけです。」
「14節の下に、災害にあってテント暮らしをしているという写真が2枚あって、その説明は“エホバに導いてもらい,エホバの言う通りにするなら,守られる。”とある。エホバが実際に災害にあったJWにあれこれ指示をしたという話はものみの塔にも出ていないので、実際は組織の指示に従えば守られるということだけど、ウソだろう。」
「コロナの時でも、統治体は感染を防いだり、感染した信者の治療をしたりする点で、特別何も貢献していません。」
「組織の言うことを聞くより、専門家の言うことを聞こう。その方が守られるよ。」
「15節が将来について知っていることで、“将来いつまでも生きられるとエホバが約束していることです。”とあります。そして、“エホバは偽ることができず,どんなことがあっても必ず約束を守る方だと知っています。(テト 1:2)”とあります。でも、偽ることができないというのは神らしくないですよ。正しいことしか言えない論理ロボットみたいな存在ということですか?」
「訳がおかしい。JW訳では“神は偽ることができません”だけど、協会共同訳では“偽ることのない神は”となっている。“偽ることができない”というのは古い聖書にはあるけれど、最近の訳は“偽らない”が多い。」
「アダムに善悪の知識の木の実を食べたらその日のうちに死ぬとウソを言ったのはエホバですよ。偽る神ですよ。」
「アダムは930歳まで生き、聖書の中では4番目の長寿者。」
「16から19節が“エホバが私たちのことをどれほどよく分かっているかは理解できない”です。 16節では“詩編 139:1-6を読む。人間を創造したエホバは私たちのことを誰よりもよく分かっています。そして私たちをいつも見守ってくれています。”とあります。エホバは優しく見守ってくれる神というイメージを植え付けようという宣伝ですね。でも詩編139全体からはそんなイメージは浮かびません。」
「詩編139の後半がすごいよ。139:19では“神よ,どうか悪人を殺してください。”とある。139:22,23では“その人たちに対して感じるのは憎しみだけです。紛れもない敵だからです。神よ,私の全てを探り,私の心を知ってください。私を調べ,不安な気持ちを知ってください。”とある。優しく見守る神じゃないよ。」
「私のことを知っているなら、私が嫌っている人を殺してください。あいつらのせいで私は不安なのですから、と言っているわけですね。」
「私のことをよく知っているなら、私の敵を殺すぐらいして欲しい、という祈りだね。見守るだけの神なんかいらない。」
「17節では“エホバのことをいつも温かく見守ってくれるお父さんと見るのが難しい人もいます。”と、組織のイメージ戦略があまりうまく言っていないことを認めています。JWが求めているのは1日も早くハルマゲドンで、自分の嫌いな連中を皆殺しにしてくれる神です。見守る神じゃないです。信者のニーズに合っていません。」
「組織の描く神は優しく見守るのではなく、信者の生活の細部にまであれこれ干渉し、過度に要求的で余計な重荷を背負わす不快で搾取的な神。信者が増えないのも無理はない。」
「医療にまで口出しし、信者を死なせ、排斥制度を振りかざし家族は破壊する神です。なぜ温かく見守れないのでしょうね。」
「7節に“どうしてありのままの自分を受け入れてくれないんだろう。どうして,ここまで大変なことを要求するんだろう。”と感じる人がいるとあるけれど、これはLGBTの人のことじゃないの?性的志向にも干渉する神だから、温かく見守ることが苦手なのかも。」
「18節では“エホバは私たちの成長の可能性を見ています。そう考えると,前向きな気持ちでエホバのために一生懸命頑張っていく力が湧いてきます。”とあります。“成長の可能性”と言っていますが、結局、組織の望むように一生懸命頑張って変わらなければいけないということですね。」
「温かく見守る神というのはウソで、組織が気に入るように変わらなければ、ハルマゲドンで殺されるというのがJWの教え。でも、そのハルマゲドンもいつかは知らないというわけで、力が全く湧いてこないね。」
「18節の下にイラストがあって、“今,先行きに不安を感じるとしても,エホバが約束している明るい将来について考えると,前向きになれる。”と言う説明文がついています。結局楽園幻想しか信者がすがるものはないということですね。」
「組織の言いなりの人生だと、そうなる。先行きに不安を感じたら、まじめに働いてお金を貯める、自分を支えてくれる人間とよい関係を築く、宗教ではなく社会のことを勉強するなどなどしたほうが、幻想にすがるよりまし。」
「19節ではエホバについて知っていることです。“エホバは愛です。これは疑いようのない事実です。(ヨハ一 4:8)エホバは私たちを愛していて,私たちのことを思っているからこそ,はっきりした基準を設けています。”と、組織の細々した規則を擁護しています。組織のすることは全て愛に基づくという宣伝です。」
「“はっきりした基準”は誤訳。his righteous standards(義の基準)だ。とても義の基準とは恥ずかしくて訳せなかったのだろう。」
「輸血禁止も排斥制度も誕生日祝いの禁止も同性愛嫌悪も貧乏暮らしの開拓者生活推奨もエホバの義の基準とは思えませんからね。」
「ネクタイや髭やスカート、高等教育に関する基準みたいにいつ変わるかもしれない、いい加減な基準でしょう。」
「最後の20節では“エホバは私たちが本当に知るべきことは全て教えてくれています。大切なのは,それを謙虚に認めることです。そうすると,知らないことについてあれこれ考えて心配し過ぎたりせず,知っている大切なことに注意を集中していられます。”とあります。要するに、組織にあれこれ質問をして困らせるなということですね。エルサレムは本当に前607年に滅亡したのですかとか、楽園では電力はどうするのかとか携帯電話は使えるのかといったことは誰も知らないから質問するなということです。組織が与える情報だけを感謝して暗記しなさいというわけです。」
「結局、組織は偉そうなことを言うけれど、何も知らないわけだ。こんな頼りない宗教は早くやめよう。」
#1599 2025年09月12日 14:19:04
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「次回のものみの塔は、“聖書レッスン生がエホバのために生きていきたいと思えるよう助ける(27)”で、聖書レッスン生をいかにして伝道者に仕立て上げるか、という内容です。」
「聖書レッスン生とは変な言い方だね。JWが教えるのは聖書を素材にしたエホバ教の教えでしょう。今どきJWの子供以外でレッスン生なんかいないでしょう。情報弱者の中には、JWと聖書の勉強してみようという人がまだいるのかな?」
「2節に、この記事で学ぶことが出ています。“(1)どんなことが成長を妨げる壁になっているかを知る,(2)エホバへの愛を深める,(3)優先順位を見直す,(4)反対されても上手に対応する。”です。」
「壁になっているものといえば、JWの教えそのものじゃないの?エデンの園で蛇がどうしたこうしたとか、ノアの大洪水でノアの家族以外は全て溺死しましたとか、まともな大人がまじめに受け止めるようなものじゃないでしょう。」
「3から6節が“どんなことが壁になっているかを知る”です。 まずニコデモが取り上げられます。3節に“すでにニコデモはイエスが神から遣わされたことを認めていました。(ヨハ 3:1,2)でも,人目を避けてイエスに会いに行きました。「ユダヤ人たちを恐れていた」からです。”とあります。4節で“イエスはニコデモをどのように助けましたか。夜にやって来たニコデモとゆっくり話し合い,弟子になるために何をする必要があるかをはっきり教えました。”とあります。このイエスのやり方を学びましょうということですね。」
「こういうことぐらいだね。イエスを取り上げるのは。」
「4節の引照聖句にヨハネ3:5がありまして、そこには“水と聖なる力によって生まれなければ,誰も神の王国に入ることはできません。”とあるのですが、イエスはこんなことは言っていません。」
「JW英語訳ではborn from water and spirit(水と霊から生まれる)となっている。日本語訳は霊と聖霊の区別もなくし、みな聖なる力にしているわけだ。」
「次のヨハネ3:6もひどいですよ。JW英語訳ではWhat has been born from the flesh is flesh, and what has been born from the spirit is spirit.(肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。)なのに、日本語訳では“人間の親によって生まれるのは人間の子供であり,神の聖なる力によって生まれるのは神の子供です。”となっています。霊とは神の子供という意味ですか?勝手な解釈を加えています。」
「日本語の翻訳者風に訳すれば、聖なる力によって生まれるのは聖なる力です、となるはずだけど、これはヘンだと思い、勝手に“神の子供”に変えたね。聖書の改ざんを何とも思っていない邪悪な人間だ。」
「5節では“聖書をよく理解しているレッスン生でも,なかなか成長していないように見えることがあります。仕事や家族からの反対がネックになっているのでしょうか。”とあります。そういうときには“お茶をしたり散歩したりして一緒に時間を過ごしましょう。”とあります。これって効果ありますか?」
「JWに大事なのは結果じゃない。開拓者なら時間が入ればいいわけだ。それから、レッスン生と親しくなれば、相手もJWの言うことを断りにくくなるということはあるね。」
「レッスン生がなかなか成長しないように見えるのは、“エホバ”で検索するからじゃないですか?検索すると、JWはキリスト教とは認められていないとか、輸血禁止とか、クリスマス禁止などと出てきて、これはあまり関わらない方がいいと思うわけですよ。」
「そういうことはこの記事では一切触れられていない。楽園でパンダと遊ぶというJWの素晴らしい教えに一度でもふれた人は、周囲の反対さえなければ自動的にJWになると思っているようでおかしいね。」
「6節では自信を持たせろと指示しています。“単にエホバが何を望んでいるかを教えるだけではなく,エホバがいれば必ず壁を乗り越えられるという自信をレッスン生が持てるようにしましょう。”とあります。」
「あなたならできる、と強調するわけね。そうやってカルトに引きずり込むわけだ。」
「7から9節が“エホバへの愛を深める”です。 エホバへの強い愛を育てろと指示しています。8節で“エホバの素晴らしさや魅力的な性格についてよく話すようにしましょう。”とあります。具体例としては“例えば,贖いについて教える時,それが自分への贈り物だと思えるよう助けましょう。”とあります。」
「8節の最後にある引照聖句のガラテア5:20には“人間としての今の命を,神の子への信仰によって生きているのです。神の子は私を愛し,私のために自分を差し出してくださいました。”とあるよ。キリスト教というのは神の子であるキリストを中心にした宗教。エホバ、エホバと連呼するとキリスト教ではなく、改ざん聖書に基づくエホバ教の教えにしか聞こえないよ。」
「聖書レッスン生と呼ぶくらいですから、JWのたわごとではなく聖書を学んでいるのだと思わせる必要があるわけです。エホバ教的なことは最初はなるべく避けた方がいいと思いますけど。」
「基本的には聖書に無知だけど、聖書に関心のある人が聖書レッスンの対象ということだね。エホバが神の名前ですと言われたら、違和感なく受け入れられる人だね。エホバなんてインチキネームで、JWしか言わない名前だ、という程度の知識がある人は対象外。」
「9節が体験談です。マイケルは“「いつまでも幸せに暮らせます」のレッスン27の「もっと調べよう」を学んだ時,マイケルは心を揺さぶられました。”とあります。そして“贖いに深く感謝するようになったマイケルは,ぜひ生き方を変えたいと思えるようになり,バプテスマを受けました。”とあります。今ごろは長老として奉仕活動を楽しんでいますね。」
「どうも“贖い”の話をセールスポイントにしたいようだ。“いつまでも幸せに暮らせます”というのは薄っぺらな内容だけど、心揺さぶられる人もいるわけだ。驚いた。」
「10から12節が“優先順位を見直す”です。 10節はペテロとアンデレがイエスの弟子になった時の話です。“でもペテロ とアンデレは「網を捨て」,漁業を後にしました。家族をきちんと養えるような計画を立てた上でそうしたようです。”とあります。そんなこと聖書に書いていません。何を根拠にイエスの弟子と家族の扶養を両立する計画があったなんていうのですか?あきれます。」
「今のレッスン生に仕事をやめてJWになりなさいとは言えないから、イエスの弟子たちも宗教と家族の扶養の両方を考えて行動していたんですよ、とウソを教えるつもりなんでしょう。」
「10節では“イエスが起こした奇跡を見て,エホバが必ず養ってくれるという確信を持てるようになったからです。(ルカ 5:5-11を読む。)”とあります。引照聖句には奇跡的な大漁の話が出ているのですが、それを見てからイエスの弟子になったとしたら、結構計算高い男だったんですね。」
「ペテロとアンデレが弟子になった経緯はヨハネ1章では全く違う。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子でイエスを発見する。そのあとペテロに“私たちはメシア(「キリスト」という意味)を見つけた。”といい、イエスの所に連れて行く。イエスは“ヨハネの子シモン,あなたはケファ(「ペテロ」と訳される)と呼ばれます。”という。その後ガリラヤへ向かう。どっちが本当なんだろうね?レッスン生にはどう説明するのか知りたいね。」
「ヨハネは福音書の中では最後に書かれたものです。ルカの福音書も知っていたと思います。ヨハネはルカの奴、でたらめを書きやがって、俺が本当のことを書いてやる、と思ってペテロとアンデレが弟子になる場面を書いたんじゃないですか?」
「そうかもしれないし、何か神学的な理由があってそう書いたのかもしれない。矛盾など気にするのは近代人の特徴で、古代人は気にしなかったのかもしれない。」
「11節では“レッスン生に,エホバへの崇拝を優先するとエホバがどのように支えてくれるかを話すことはできます。”とあります。具体例として“集会に行きたいので残業できないと上司に伝える必要があったかもしれません。エホバのために一歩踏み出した時,どのようにエホバがサポートしてくれたか,そしてその経験を通してどれほど信仰が強くなったかを話してあげてください。”とあります。要するに適当な作り話をしてレッスン生をだましなさいということですね。詐欺的な宗教です。」
「そこまでは言っていないけれど、そうするように誘導しているよね。具体例を書いて欲しかったね。例えば、アンドレは集会に行くので残業できませんと言ったところ、それならクビだと上司に言われたのですが、エホバを優先して集会に行きました。いったい何が起きたでしょう。集会中に勤め先で火事が起きて上司が焼け死んだのです。クビの話はうやむやになりました。エホバが助けてくれたのです。アンドレは今では長老として奉仕活動を楽しんでいます。というのはどうかな?」
「12節では“レッスン生にとって,兄弟姉妹がどのように優先順位を見直したかを知るのは良いことです。それで,いろいろなバックグラウンドの兄弟姉妹にレッスンに参加してもらいましょう。”とあります。複数の人間の作り話を聞かせるわけですね。」
「エホバを第一に生きてきたお年寄りなんかがいいね。必要とされる所に行って奉仕活動を長年してきたけれど、苦労ばかりであんなことはするもんじゃなかった、と言ってくれたら励みになる。」
「ベテルで長年働いたあと、高齢で追い出されたJWもいいですよ。さっさとJWをやめた知り合いは快適な家に住み退職金と年金でのんびり暮らしているのに、自分はエホバを第一にしたせいでボロアパート暮らしで75歳になっても朝から夕方まで痛む背中と腰に湿布薬を張りながら毎日のように働かなくてはいけない、と言ってくれたら励みになると思います。」
「そういうわけで“いろいろなバックグラウンドの兄弟姉妹にレッスンに参加してもらいましょう。”だね。」
「13から18が“反対されても上手に対応する”です。 JWには周囲の反対がつきものですからね。反対されることをあらかじめレッスン生に伝えるわけですね。14節には“反対に遭った時どうすればよいか,できるだけ早く考えておけば,実際そうなった時にうまく対応できるようになります。”とあります。」
「そうやって、反対する人はサタンの手先と教え込むわけだね。自分は善で正義、反対する人は悪で不正義という単純な二分法、白黒思考に誘導する。そう信じ込ませれば迫害されてもそう簡単には考えを変えない。」
「15節では“レッスン生が家族から反対されているなら,家族の身になって考えてみるよう勧めることができます。だまされているのではないかと心配しているのかもしれませんし,エホバの証人に偏見を持っているのかもしれません。”とあります。家族が反対するのはJWが反社会的なカルトだからですよ。」
「輸血禁止の教義はいつ教えるのかな?それを家族が知ったら、JWにならないように言うよ。輸血をすれば助かるのに、輸血を拒否して死を選ばせるという宗教には絶対入ってはいけないとしかいいようがないよ。」
「16節では“jw orgを紹介するのも一つの手です。”と言っています。17説では“そういう時に備えてjw orgの「よくある質問」を使って,どんなふうに答えられるか一緒に考えることができます。”とあります。“よくある質問”に書かれていることはJWのことをよく知らない一般人を誤解させるような内容のことが多いですよ。」
「例えば“エホバの証人は自分たちだけが救われると考えていますか”の答えは“いいえ”となっている。“救われる”はあいまいで多義的だから、いいえと言ってごまかせるかもしれない。しかし、JWにとって“救われる”とはハルマゲドンを生きて通過すること。そのように意味をはっきりさせると、“救われる”のはJWだけ。」
「“エホバの証人ではなくなった人を避けますか”も面白いです。1段落目の答えは“バプテスマを受けてエホバの証人になったものの伝道をやめ,仲間との交友から遠のいている人たちを避けることはしません。”です。“しません”は太字で強調しています。これだけ読むと避けないのかと思いますが、2段落目では“バプテスマを受けたエホバの証人が聖書の道徳規準を破って悔い改めないなら,排斥されます。”とあります。排斥された人は避けられるわけですよ。でもそれは書いていません。」
「質問に率直に答えず、カルト的言葉遣いで誤解するように書かれている。ハイはハイではないし、イイエはイイエではない。様々な留保条件を付けて、そのうえでイイエといったり、カルト特有の特殊用語をちりばめて一般人に誤解させるように書く。」
「18節では伝道者にさせる方法です。“伝道者になれるようにレッスン生をどんなふうに助けられますか。記念式や地区大会の招待キャンペーンについて会衆で知らされたら,レッスン生に伝道者になるよう勧めましょう。”とあります。記念式や招待キャンペーンにはこういう目的があったのですね。」
「まず参加しやすいことから参加させて、それからは後戻りできないようにほめたり、脅したりするわけだね。そうやって新しいJWが出来上がるわけだ。」
「19,20節が“レッスン生を信じる”です。 19節ではイエスが弟子たちを信じたように信じなさいとあります。20節が体験談です。カトリックを攻撃しています。“アリナフェーという若いカトリック教徒の女性と聖書レッスンをしていました。姉妹はレッスン14を学び終えた時に,像を使って崇拝することについてどう思うか質問しました。アリナフェーは感情的になって,「それは私が決めることです」と言いました。”とあります。この女性を信じて教え続けた結果、“しばらくしてアリナフェーは像を使うのをやめ,バプテスマを受けました。”とあります。今では巡回監督の妻として奉仕を楽しんでいるかもしれませんね。」
「カトリック教徒は世界で12億人以上いて、JWの主なターゲット。それでこんな記事が出るのだろう。」
「カトリックの側はどう反論するのですか?」
「カトリックは偶像崇拝を認めていない。カトリック教会にはマリア像やイエスが十字架にかかっている彫刻などが飾られているけれど、それは像を崇拝するのではなく、像が思い出させる聖なる者に祈っているだけ。」
「カトリックは聖書の権威をあまり認めませんよね。」
「それはそうだよ。今の聖書を決めたのは神ではない。カトリック教会だよ。福音書なんかいっぱいあるけれど結局4つに限定した。聖書より聖書を決めたカトリック教会の方が上なんだよ。プロテスタントはカトリックに対抗するために“聖書のみ”という主張をした。」
「最後の21節はまとめです。“単に,神が何を望んでいるかを教えるだけではありません。エホバへの愛が深まるように助けます。その愛に動かされて優先順位を見直すよう勧めます。反対された時にどのようにエホバに頼って対応できるかを教えます。レッスン生を信じていることを伝え,やる気を引き出しましょう。”とあります。これがカルトの新しいメンバーの作り方です。」
「そうやってJWになる人って、精神的に病んでいたり、社会から落ちこぼれていたりしているような人が多いような気がするけれど、大丈夫なのかな?そういう人は排斥されやすい。排斥されてJWにうらみを抱いて、とんでもない事件を引き起すことだってあるよ。無理な信者獲得はやめよう、JW!」
#1600 2025年09月14日 19:52:11
- サタン姉さん
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
そう、ものみの塔2025年6月号研究記事27はどう考えても研究生ををどうすれば信者に引っ張れるかの教えにしか思えません。聖書研究ではないよね。信者を増やす方法を教え込む教育記事。信者を増やす=資金を増やす金目当て。こんな宗教、神は必ず滅ぼされます。