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#1476 2023年09月22日 14:27:25

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバと仲間への愛を深めていきましょう(30)”で、信者同士もっと助け合いなさい、という内容です。」
「組織はタダで働かせたり、寄付を集めたりするだけで、何もしてくれないからね。」

「1節に“聖書を学び始めた時のことを覚えていますか。神に名前があることを知って驚いたかもしれません。神が人々を地獄で苦しめることはないと知って,安心したことでしょう。そして,亡くなった愛する人と再会して地上のパラダイスで生きられるということを知って,感激したに違いありません。”とあります。ここに書いてあることが、JWのセールスポイントということですね。」
「JWは聖書を学ばないよ。JWの出版物を学んでいるだけ。」

「ここでは神のお名前はエホバである、とは言っていませんね。JWもエホバがインチキネームということは知っているからですね。」
「ウソでも神の名前を使うことが大事だというのがJWの教義なんでしょう。」

「地獄はないと安心したかもしれませんが、JWにはハルマゲドンで滅ぼされる恐怖や体罰の恐怖や家族から捨てられるという恐怖や学校で証言しなければならない恐怖や・・・」
「JWの方が不安と恐怖でいっぱいだよ。特に子供時代はね。」

「亡くなった人と再会するというのもJWのセールスポイントですね。でも、それっていいことばかりじゃないですよ。」
「過去に死亡した人が復活してきたら、どんな混乱が生じるか、恐ろしいね。復活した人から借金を返せと言われたら、返す必要はあるのか心配で、復活したくない人も結構いるよ。」
「どんな法律が制定されるのか不明ですよね。死んだからすべては無効といわれても、貸した側は取り返すまで納得しません。」
「JWの楽園でも法律や法執行機関や刑務所は必要だ。結局北朝鮮みたいな所になるね。」

「2節に“聖書を学ぶにつれて,エホバへの愛はどんどん深くなっていったことでしょう。”と断定していますが、気持ち悪いですね。異論は許さないというカルト体質そのものです。」
「それを気にしたのか、日本語版では“でしょう”と断定調を和らげている。英文では“でしょう”なんて言う表現はないよ。」

「5から8節が“エホバへの愛を深める”です。 これは4節分しかなく、無視するわけにはいかないので、エホバへの愛に一応触れたというだけですね。5,6節はパウロの話です。」
「そのパウロの話もうまくつながっていないよね。7節では“私たちも聖書をよく学ぶことによって,エホバへの愛を深めることができます。”とあり、8節では“祈りで心を打ち明けることによっても,エホバへの愛を深めることができます。”とある。いつもの聖書と祈りだ。」
「エホバへの愛というJWという宗教にとって最も重大なテーマなのにおざなりな対応ですね。」
「本当はエホバへの愛なんかどうでもいいんだよ。」

「そもそも聖書を学ぶとエホバへの愛は深まりません。古代の残酷で野蛮な神でしかありませんよ。」
「例えば、出エジプト4:11に“エホバは言った。「誰が人に口を与えたのか。誰が,口を利けなくしたり耳を聞こえなくしたり,視力を良くしたり失わせたりするのか。それは私,エホバではないか。”とあるよ。障害のある人に対して愛ある神とは思えないね。」

「イザヤ45:7には“光を形作り,闇を創造し,平和をつくり,災いを創造する。私エホバがこれら全てを行っている。”とありますから、災害の被害者に対して愛ある神ではないようですね。」
「ホセア13:16には“サマリアは有罪とされる。神に逆らってきたからだ。彼らは剣によって倒れる。子供は打ち砕かれ,妊婦は切り裂かれる”とある。子どもや胎児に対して愛ある神じゃないよ。これは民族絶滅という重大な犯罪行為。」

「8節で“エホバは私たちの祈りに答えてくださいます。”とあります。こんなこと言っていいのですか?」
「答えるというのは祈りを実現させるという意味じゃないからね。誰かから殺されそうになって、助けてくださいと祈っても多分殺される。この場合、お前は死ね、というのが答えだね。」
「殺されても、殺されなくても、神は祈りに答えたことになるという理屈ですね。」
「という訳で神はいつも祈りに答えてくれる。」

「8節に“アジアに住むカン姉妹”の話が出てきますが、英文ではKhanhとあります。カンと読むのですか?」
「多分カインじゃないかな。ベトナム人の名前だと思う。」

「この姉妹は“でもその愛は,祈りが聞かれた経験を通してどんどん深まりました。”といっています。それなら、なぜ具体的に祈りが聞かれた実例を出さないのでしょうか?JWにとって強力な宣伝材料になるはずですよ。」
「具体性のない体験談は無意味だね。でも具体的に書きすぎるとウソがばれるしね。無意味な体験談は字数を稼ぐためじゃないの。」

「9から14節が“人々への愛を深める”です。 人々というのはJWの信者のことですね。9節でテモテのことに触れますが、これは聖書を学んでいるという幻想を抱かせるためですよ。中心はJWの体験談です。アナ姉妹が登場です。」
「アナ姉妹は災害に遭ったJWの家族の“服を洗濯して,アイロンをかけ,畳んで戻しました。”と言っている。それくらいのことはしてあげなさいという指示だね。大した出費じゃないしね。アナ姉妹はそれにかかった時間を奉仕時間に加えているよ。」

「災害に遭った場合、一番助かるのは現金です。それは勧めませんよね。」
「現金は災害で苦しんでいる人ではなく、統治体へというのがJWの教え。」

「11節に再びカン姉妹の話が出てきて、“姉妹たちは,私を迎えに来て,奉仕に連れていってくれました。お茶やランチに誘ってくれることもありました。帰りも,家まで安全に送り届けてくれました。”とありますから、こういうことをしなさいという指示ですね。」
「奉仕時間に入れていいなら、するんじゃないかな。」

「11節の最後に“格言19:17を読む。”とあり、そこには“立場が低い人に親切にする人はエホバに貸しており,神はその行いに報いてくださる。”とあるのですが、この訳はヘンですよ。」
「“立場が低い人”が問題だね。格言19:4に“富は多くの友を引き付け,貧しい人は友にも見捨てられる。”とあるけれど、ここでは同じ単語が“貧しい人”と訳されている。なぜ19:17はそうしないのかな、不思議だね。」

「JWは貧しい人に親切にするということはないからですよ。“立場が低い人”とすれば、会衆内の立場の低い人と解釈でき、仲間に限定できます。」
「JWの都合の良いように、同じ章にある同じ単語も訳し分けるのがJW訳ということだね。」

「12節は若い兄弟に与えた長老のアドバイスが出ています。“王国会館に早めに来てみんなを歓迎すること,集会でコメントすること,野外奉仕グループの兄弟姉妹と定期的に伝道すること,どうすれば仲間の助けになれるかを具体的に考えることなどです。”とあります。これらのことをしないと援助奉仕者にはなれないぞと、いう脅かしですね。」
「今どき、若い兄弟で援助奉仕者になりたがる人はいるのかな?」

「組織は人材難に苦しんでいて、10代で援助奉仕者、20代前半で長老を目指して欲しいのですよ。そして自分の親や祖父母のような年齢の人に家庭生活や宗教上のアドバイスをするわけです。」
「コメディー映画の間抜けな牧師と同じだね。混乱を招くだけ。」

「それで、13節では“以前は長老や援助奉仕者として奉仕していたものの,今はそうではない場合はどうでしょうか。”と言って、元長老などの復帰を促すことを書いています。」
「降格処分を受けた人のことのようだね。“クリスチャンという兄弟は,長老でなくなった時とてもがっかりしました。”とある。“やがて,兄弟は再び長老に任命されました。”とのこと。児童性的虐待で降格されたわけじゃないよね?」
「その場合は他の会衆に移動すれば降格もありません。」
「被害者は加害者を許せ、警察には言うなという宗教だったね。」

「14節に隣人愛が出てきますが、その中身は“初め,私はエホバへの愛の気持ちだけで伝道を行っていました。でも,エホバへの愛が深まるにつれて人々への愛も深まっていきました。”とあり、隣人愛=伝道という公式はここでも繰り返されます。」
「それ以外の方法でJWではない人と接触することはダメなんだよ。JWでない人はサタン支配下の邪悪な人間だから。」

「エホバへの愛で伝道をしていたなんてウソですよ。周囲の圧力と、周囲から認められたいという承認欲求と滅ぼされたくないという恐怖が主な動機じゃないですか。」
「時間を入れるためだろう。奉仕時間を報告するという非聖書的な取り決めをやめたら、いくらエホバへの愛があっても、伝道など無意味なことはしないよ。」

「15から17節が“愛を示すなら,どんな良い結果になるか”です。 良い結果になるから愛を示せと言いたいようです。」
「実際は愛を示して良い結果になることもあるし、悪い結果になることもある。愛は物事をよくする魔法じゃないからね。」

「ここで取り上げられているのは伝道の時に仲間を助けたというものです。JWの言う愛はJW活動限定です。15節では“パウロ兄弟は妻と一緒に,電子機器を使って伝道を行えるようたくさんの年長の姉妹たちを助けました。”とあります。これがJWの愛です。」
「その電子機器を買う費用を組織は出さない。お金のない人でも個人負担だ。組織はもっと愛を示して欲しいね。」

「その兄弟は、16節で“大事なのは知識や能力ではなく愛だ,ということです。”とおかしなことを言っています。大事なのは愛ではなく知識ですよ。知識がなければ電子機器の使い方をどう教えるのですか?」
「愛が大事だという結論がまずあって、それに関係しそうな体験談を探したけれど、適当なものがなかったんだよ。電子機器の話を使わざるを得なくなって、おかしなことになったのだろう。でも、細かいことを気にするJW はいないから、問題ない。」

「17節でも“開拓者の兄弟が暑い中,1人で奉仕しているのを見掛けました。それで,土曜日の午後は毎週その兄弟と一緒に奉仕することにしました。”と、伝道の話です。JWのルールに従って、暑い中でもネクタイを締めていたのでしょね。」
「英文ではhe saw a pioneer witnessing along the road.とあるので、”道路沿いで証言している開拓者を見かけました。”だよ。”道路沿い”を省略している。伝道方法としては史上最低の効率であるカート奉仕をしていることを日本の信者に知られたくないのだろう。」

「その後“兄弟が聖書のメッセージを上手に伝え,良い話し合いをしているのを見て,私も奉仕が好きになっていきました。”とあります。ウソじゃないですか。伝道先で“よい話し合い”なんかありません。」
「英文ではI listened to the pioneer’s way of teaching and saw how fruitful his ministry wasとなっていて、良い話し合いをしているとは言っていない。聖書のメッセージを伝えているとも言っていないけどね。いつものテキトウ訳。」

「でも、そこには“彼の宣教がいかに実りのあるものであるかを見た”とありますが、あまりにも見え透いたウソなので、適当に変えたと思います。」
「JWのドアからドアへの伝道とカートに文書を並べてその横にぼ~と立っているカート奉仕がいかに実りのないものか、JWなら知っているからね。」

「JWは伝道先で聖書やJWのことについて話し合いはしませんし、するだけの能力もありません。」
「何か尋ねられても、JWのサイトを見てくださいというだけかな。」

「最後の18節はまとめですが、これが内容とあっていません。“では,これからもエホバと人々への愛を深めていきましょう。”ですが、この記事の内容は伝道を中心とした奉仕活動への愛を深める、ですよ。」
「JWの愛は仲間限定で、それ以外の人には伝道活動をすることが愛、ということがよくわかった記事だったね。本当の隣人愛を実践したければ、JWを辞めよう。」

#1477 2023年09月29日 14:48:31

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“しっかり立って,動じないようにする(31)”で、輸血が必要になっても、輸血しないで死を選べという、内容です。」
「JWに反対する人はサタンだ!ということも言っているね。カルト丸出しの記事だ。」

「1節で“1970年代の終わりごろ,東京に60階建ての超高層ビルが建てられました。人々は,頻繁に起こる地震に耐えられるんだろうかと思いました。”とあります。見てきたようなウソですね。心配した日本人はどれくらいいるのでしょうか?これって具体的になんというビルですか?」
「60階というと池袋にあるサンシャインビルのことだね。開業したのは1978年だし。そのころ日本には超高層ビルはけっこうあり、地震で倒壊することなど心配はされていなかった。JWによくある作り話。」

「そのあと、“私たちクリスチャンも,この建物のようになる必要があります。”と言っている。その意味は、2節で“クリスチャンは,確固とした態度と柔軟性のバランスを取る必要があります。”と説明している。ところがこの記事は確固とした態度を取れと言っているだけで、柔軟性は無視なんだ。」

「この記事の主な主張は確固として輸血を拒否しなさいというものです。でもそれは4つの主な成分だけで、それから抽出した成分は取り入れてよいというのがJWの今の立場です。これは柔軟な態度と思っているんじゃないですか?」
「組織はずる賢く、柔軟でコロコロ変わるけれど、信者は確固とした態度で輸血を拒否し、微笑みながら死んでいくということでバランスが取れているわけ?」

「3から7節が“どうすればしっかり立つことができるか”です。 3節で“例えば,1世紀の統治体は,クリスチャンがしっかり立つべき3つの大切な点を挙げています。(1)偶像崇拝をきっぱり避け,エホバだけを崇拝すること,(2)血の神聖さに関するエホバのおきてを守ること,(3)聖書に書かれている高い道徳基準に従うことです。(使徒15:28,29を読む。)”とあります。まず、1世紀に統治体は存在しませんよ。にもかかわらず、“1世紀の統治体”と繰り返して、JWの統治体が1世紀の制度を見倣っているかのように誤解を与えようとしています。」
「統治体はアメリカに本部を置く新興宗教の発明品だろう。過去の統治体のメンバーは圧倒的にアメリカの白人男性だ。JWが全宇宙の支配者である神の地上の組織とすれば、神はアメリカの白人の男性を人類の中でとりわけ愛していることになるけど、奇妙だね。」

「引照聖句には“像に犠牲として捧げられた物,血,絞め殺された動物,性的不道徳を避けていること”とあり、これが輸血禁止の教義につながるわけですが、血を避けるとは食物として動物の血を避けるという意味ですよ。」
「JW以外の人はみんなそう解釈している。魚にも血はあるけれど、聖書の作者はそのことを知らなかったようで、何も言っていないから、魚の血は問題ない。人間の血についても言っていないと思うよ。口の中で出血したら、それを吐き出せとは聖書は言っていないから、飲み込んだって問題ないでしょう。」

「バッタは食べ物として聖書の中に出てきますが、昆虫だって血液はありますよ。」
「あるよ。ただ昆虫は閉じた血管がないので、血液、リンパ液、組織液が混じった状態で存在していて、血リンパという。たいていの昆虫はヘモグロビンがないので、赤くなく、薄い黄色や緑色していることが多い。動物以外の魚、昆虫は血を含んだまま食べても問題ないということだ。」

「JWの輸血禁止に関する教義は破綻していますよ。」
「組織はそのことはわかっているだろう。それで、その正当性を訴えることはこの記事でもしていない。知的な議論を放棄して、輸血をさせようとするのはサタンの策略だとバカなことを言うだけ。」

「JWは全血と4つの主要な成分はダメと言っています。例えば、塔15 9/15の“あなたの良心は信頼できる導きとなっていますか”では、“例えばクリスチャンは,「血……を避けている」ように,という聖書の命令を銘記する必要があります。(使徒 15:29)この命令からすれば,全血か,血液の4つの主要成分のいずれかを取り入れる治療は,明らかに排除されるでしょう。”と述べていますが、少しも“明らか”じゃありません。まず血液は4つの主要成分からなるという主張はどの程度正しいのですか?」
「聖書は血液は4つの主要成分からなるとは言っていない。聖書では血は血であって、それを成分に分ける発想はない。聖書的には輸血を受け入れるか、受け入れないかの2択しかないはず。」

「JWの主張する血液の4つの主要な成分とは血漿、赤血球、白血球、血小板ですが、何を根拠にしているのかよくわかりません。」
「一般向けの血液についての説明図には、試験管に入っている血液が3つの層に分かれているのがよく描かれていて、それぞれ血漿、白血球、血小板、赤血球と説明してある。それが4つの主要成分の根拠じゃないの?」

「ちゃんとした医学書ではないわけですね。」
「普通の医学書では血液は血漿と血球成分の2つからなる、とあるよ。JWの根拠である一般向けの血液の説明図は血液を遠心分離機にかけた後の図だ。自然にそう別れるわけではない。聖書時代に遠心分離機はない。遠心すると、血漿、軟膜層(白血球と血小板)、赤血球の3つの層に分かれるけれど、軟膜層の容積は1%もない。軟膜層ができるのは、赤血球より比重が軽く、血漿より重いから。それだけの理由で主要な成分と言えるかな?単なる成分でしょう。」

「特に白血球を主要な成分とするのはヘンだと思います。白血球は数種類の細胞の総称でしかありませんよ。さらに白血球は、母乳を介して母親から子どもに輸血されますよ。これはJW的に言えば神の設計じゃないですか?」
「好中球、好酸球、好塩基球、単球、リンパ球を白血球と分類しているけれど、それぞれは構造も大きさも、機能も違う。」

「塔04 6/15の“生ける神の導きに従う”には“2001年の「救急医療」(英語)というテキストの「血液の組成」という見出しのもとには,「血液は,血漿,赤血球,白血球,血小板という成分によってできている」とあります。ですから,医学上の事実とも一致してエホバの証人は,全血の輸血も血液の四つの主要成分いずれかの輸血も拒みます。”とありますが、参考にした本は医学書じゃありませんね。」
「一般向けの本だね。だから“医学上の事実とも一致”なんてデタラメ。」

「デタラメばかりのJWの血に関する教義のなかで、一番デタラメなのが、血液の4つの主要成分をさらに細かく分けたもの(分画)は利用していいというルールです。そして、JWは利用するだけで、献血をしません。」
「主要成分はダメだけど分画はいいという教義のパロディがいろいろ作られているよね。アダムは善悪の実を食べるときに、皮をむいて、種を取って、ミキサーに入れて細かく砕いて、食べたので、自分は善悪の実を食べていないと主張したとか、ハンバーガーを食べてはいけないと言われたJWの子どもが、ハンバーガーの分画を取り入れることは禁止されなかったと考えて、ハンバーガーをパンと中身を別々にして食べたとか。」

「医者からアルコールを避けるように言われたJWが、医者の指示に忠実でありたいと言って、コロナ下でもアルコール消毒も拒否して、感染症にかかって死んだ、というジョークもありませんでした?」
「アルコールを避けるように言われた場合、聖書に基づくとアルコール消毒は許されないことは明らかです、というのが、JWでしょう。」

「8から13節が“サタンが使う方法”です。 5つ出ています。迫害、巧妙な攻撃、神を無視した考え方、欺き、気を散らすものです。JWはサタンのやり方など全てお見通しだ、ということですね。この記事ではサタンは間抜けな悪役という位置づけです。」
「9節は“巧妙な攻撃”なんだけど“手術の前の晩,家族が家に帰った後,麻酔科医が訪ねてきました。そしてこう言いました。「多分輸血はしないと思うけど,万が一に備えて準備はしておきますね」。もしかするとこの医師は,家族がいなければボブ兄弟は考えを変えると思ったのかもしれません。”とある。これは必要な医学上の処置で、患者のためにしているのに“巧妙な攻撃”だなんてひどいね。サタンが麻酔科医をリモコンで操っているとでも思っているの?」

「これは周囲にJWがいない場合、輸血に同意するJWがいるからですか?」
「それはいるよ。仕方なくJWをやっている人は大勢いるでしょう。そんな人はJWのばかげた教義のせいで死にたくないからね。医師もそれを知っているから、家族が帰ってから話しかけたんじゃないの。いい医師だね。」

「11節は“神を無視した考え方”の部分ですが“イエスの時代の宗教指導者たちは,この点で大きな間違いを犯しました。神の律法に人間が作った規則を加えることによって,人々に重い負担を負わせていたのです。”とあります。これって現代のJWのことですよ。自分で自分を攻撃しているのですか?」
「“エホバは私たちに聖書や組織を通してはっきりとした指示を与えてくださっています。ですから,私たちは何かを付け加えるべきではありません。”といっているから、JWの規則は人間が作ったものではなくエホバの指示というタテマエなんだよ。」

「12節は“欺き”ですが、“現代でもサタンは,メディアやインターネット を使って,陰謀論や権力のある人が発信する間違った情報を広めています。最近のパンデミック中にも,こうしたものが多く見られたのではないでしょうか。”とあります。ワクチンを打つと2年以内に死ぬとか、ワクチンにはマイクロチップが入っているとか言っていた人がいましたが、あれはサタンに操作されていた人だったんですか?」
「統治体はコロナを恐れていて、ワクチン推進派だったのに、陰謀論を信じ込んでワクチンを打たない信者があまりにも多かったので、怒っているんだよ。」

「JWの教義はそもそも陰謀論のたぐいですよ。この記事だってサタンがこの世の中を支配しているというサタン陰謀論を展開しています。」
「JWの信者が陰謀論に弱いのは仕方がないね。13節は“気を散らすもの”だけど、“サタンはこうした方法を使って,正しいことを行おうとする私たちの決意を弱めようとしてきます。”と言っている。こういうことをまじめに信じているとすれば、バカバカしい陰謀論にすぐにだまされても無理ない。サタン陰謀論は信じながら、それ以外の陰謀論は信じないというのは無理だろう。」

「14から18節が“どうすればしっかり立ち続けることができるか”です。 サタンの陰謀に対する対策です。4つ出ています。14節が①“献身しバプテスマを受けた理由をじっくり考える。”です。これはあまり効果ないですね。」
「人生最大の過ちはバプテスマを受けたことだ!という人はけっこういるからね。“あなたは,エホバに仕え続けたいという気持ちから,この重要なステップを踏んだことでしょう。”とあるけれど、仮にそうだとしても、気持ちや考えは変わるし、それを一生続けなくてはならないということはない。」
「結婚と同じですね。」
「バプテスマは奴隷契約じゃない。いつでも撤回可能だよ。」

「15節は②“聖書を学んで思い巡らす。”です。“聖書を学んで思い巡らすなら信仰が強まります。エホバの方法に従うなら必ず良い結果になる,という確信も強まります。”とありますが、そんなことありませんよ。」
「聖書は読む人を洗脳するようなものではないし、読んでも大して感銘は受けない。旧約聖書だとヘンテコな話満載だ。子どもには全く勧められないね。」

「16節は③“揺るぎない心を持つ。”です。揺るぎなく輸血拒否を貫けと言いたいようです。ボブ兄弟が“「輸血される可能性が少しでもあるなら,この病院を出ていく」と答えました。後に兄弟は,「何の迷いも不安もありませんでした」と言っています。”とあります。迷惑な男ですよ。」
「医者は口には出さなかったけれど、出て行っていいよ、と思ったよ。医師は輸血なしの治療を要求されたからと言って、それに従わなければならない義務はない。JWは二度と受け入れないと密かに決意したかも。こうしてJWを受け入れる病院はどんどん減っていくわけだ。」

「17節では、ボブ兄弟は“まず,エホバに喜ばれることをしたいと思っていました。そして,命や血の神聖さについて,聖書や出版物を使ってよく調べました。さらに,エホバの指示に従うことがいつまでも続く幸せにつながるということを確信していました。”とあります。輸血拒否して死ぬとエホバが喜ぶのですね。恐ろしい神です。そもそも血は神聖だ!なんて聖書のどこにも書いていませんよ。」
「組織は全血と4つの成分以外は問題ないと言って輸血の拡大を図っている。血の神聖さを無視していると神様は怒らないの?」

「18節が④“エホバを信頼する。”です。バラクが登場します。女預言者デボラの指示に従って戦ったら勝ったという話ですが、血なまぐさい話が好きですね。言いたいことは“私たちも,エホバを信頼し,組織からの指示に従うなら,必ず素晴らしい結果になります。(申 31:6)”という組織崇拝・組織盲従の勧めです。もちろん引照聖句はそんなことは言っていません。」
「聖書には組織という言葉は出てこないからね。JWに指示に従っているとろくなことにはならないことは長年組織に忠実に使えたお年寄りのJWをみればよくわかるよ。こんなはずじゃなかった、と皆思っている。」

「最後の19節が“しっかり立ち続けることを決意する”です。“迫害,巧妙な攻撃,神を無視した考え方,欺き,気を散らすものによって決意が揺らがないようにしましょう。(エフェ 4:14)エホバへの献身の思いを貫き,どんな時もエホバの命令に従うことが大切です。”とまとめています。エホバ=組織と誤認させて、信者に要求事項を並べています。」
「この記事を読んで、このままJWに留まると、無意味に早死にすると危機感を持った人はどれくらいいるのかな?そういう人が少しでも現れたら、この記事はいいことをしたと言えるね。」

#1478 2023年10月06日 14:36:09

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバのように分別がある人になりましょう(32)”で、信者に余計な生活上の細々とした指示を与える、という内容です。」
「信者の服装とか髪形までさらにコントロールしようということだね。こういう宗教で信者が増えると思っているのかな?」

「3から7節が“エホバとイエスの手本”です。これは聖書を学んでいると誤解させるためにある部分ですね。中身はほとんどありません。」
「4節で“エホバの物事の扱い方は完全で,いつもバランスが取れています。”と断定している。その根拠が“全ての人に同じ犠牲を要求するのではなく,それぞれが状況に合わせて犠牲を捧げることができるようにしました。(レビ記5:7,11を読む。)”というもの。説得力ないね。物事の扱い方が完全ではなく、バランスを欠いている事例はたくさんあるよ。」
「エホバは女性の扱い方がひどいです。異民族に対してもひどいです。奴隷制度も容認しています。障がい者に対してもひどいです。罰の与え方も不公平です。」
「きりがないので、次に行こう。」

「5節には“エホバは謙遜で思いやり深い方なので,分別を示します。”とあります。その根拠は“ロトの願いを聞き入れ,ゾアルを滅ぼさないことにしました。(創 19:18-22)”ということと、“ニネベの人たちが悔い改めた時,エホバは彼らを思いやり,その都市を滅ぼさないことにしました。(ヨナ 3:1,10; 4:10,11)”です。大量殺人が大好きなエホバにとって、滅ぼすのをやめるというのは相当つらかったでしょうね。」
「ノアの洪水で赤ん坊も妊婦もパンダもコアラも溺れさせておいて、思いやりの深い方であるわけないだろう。ロトの妻だって、振り返っただけで塩の柱に変えられた。思いやりなんかないよ。」

「この時、ソドムの町を滅ぼすはずだったのに、なぜゾアルも滅ぼすのですか?やりすぎです。」
「申命記29:23に“エホバが怒りと憤りのうちに滅ぼしたソドム,ゴモラ,アドマ,ツェボイイムのようになります。”とあるから、本当は5つの町を滅ぼすつもりだったけれど、4つで我慢した。ソドム以外の町がなぜ滅ぼされなければならなかったのかは不明。たまたま機嫌が悪かったからかも。」

「創世19:13で天使たちが“私たちはこの場所を滅ぼそうとしています。ここの住民についての苦情の大きな叫びがエホバに届いたので,エホバはこの町を滅ぼすために私たちを遣わされたのです。”と言っています。天使がスーパーパワーで街を全滅させるのかと思ったら、創世19:24では“そこでエホバはソドムとゴモラに硫黄と火を降らせた。エホバのもとから,天から硫黄と火が降ったのである。”とあります。一貫性がないですね。」
「創世記はいたるところに矛盾がある。複数の話を一つにまとめたからと推測されている。ソドムの話はもともとロトの話とは無関係だったのに、後からロトの話を組み込んだのだろう。それで細部に一貫しないところがある。」

「ソドムの住人が家に押しかけてきた時、ロトは19:8で“私には,男性と関係を持ったことがない娘が2人います。2人を差し出しますから,どうぞいいようにしてください。”と言いますが、後で娘の婿が出てきます。娘が処女とは思えません。」
「その矛盾はJWも気が付いていて、19:14で“娘たちと結婚することになっていた婿たち”と訳している。正しい訳は“婿たち”。これではまずいと思って“娘たちと結婚することになっていた”を勝手に付け加えた。これなら娘たちはまだ処女と解釈できる。JWの訳とはどういうものかよくわかるよね。」

「6節はイエスです。イエスが取り上げられるのはこの節だけです。」
「エホバ教だからね。イエスはどうでもいい存在。」

「7節で“エホバは私たちにも分別がある人になってほしいと思っています。(フィリピ 4:5を読む。)”とあり、引照聖句には“分別があることが全ての人に知られるようにしてください。主はすぐ近くにいます。”とあるのですが、この訳でいいのですか?」
「違うでしょう。“分別がある”というのは英語のreasonableの訳だけど、英語の聖書でreasonableと訳しているのはあまりない。多いのはgentleness(穏やか、寛大、親切)だね。協会共同訳では“寛容な心”としている。」

「分別があるというのは、善悪の判断や、物事の判断などをする能力などを身に付けていることです。知的な能力ですよ。クリスチャンにはそういう能力があることを周りの人にわからせろ、とパウロが言っているとは思えませんね。」
「フィリッピ4:5はこの手紙の終わりの部分で、いわばまとめ。お互い、寛大であれ、他人の失敗を許し、攻撃されても復讐しようと考えるな、ということじゃないの。クリスチャンはそう人たちだと外部の人に知らせることによって、信者の獲得と迫害の回避を狙っている。」

「7節でこのように自問せよと言っています。“私は,分別があり,寛容で融通が利く人として知られているだろうか。それとも,厳しくて頑固な人と見られているだろうか。自分がいいと思う方法を押し付ける傾向があるだろうか。それとも,ほかの人の意見を聞いて,可能なときには合わせるようにしているだろうか”というものですが、JWは“厳しくて頑固な人”で、“自分がいいと思う方法を押し付ける”人ですよ。特に統治体は。」
「自分たちの意見は押し付けるけれど、他人の意見は聞かないね。他の人の宗教を変えようとするくせに、JWがほかの宗教に改宗することや、やめる自由は認めない。」

「8から12節が“状況が変化するとき”です。 JWは状況が変化するというのは、状況が悪化するということの婉曲表現ですね。8節に“次の4つの点を意識するなら順応することができます。(1)現実を受け入れること,(2)将来に目を向けること,(3)良い面に注目すること,(4)人のためになることを行うことです。”とあります。」
「JWはインチキで、楽園が来ないという現実を受け入れ、自分の老後という将来に目を向け、JWをやめた場合に生じる良い面に目を向け、自分のためになることを行う、ということかと思ったら、違うようだね。」

「9節は“現実を受け入れる。”で、“早めに新たな状況を受け入れるなら,それだけ早く喜びを取り戻すことができます”とあります。それなら楽園など来ないという現実をどうして受け入れないのか不思議ですね。」
「JWが真の宗教でも、よい宗教でもないことを受けいれて、さっさとやめると、“それだけ早く喜びを取り戻すことができます”と言いたいね。」

「10節は“将来に目を向け,良い面に注目する。”ですが、“日本に住むクリスティーナというルーマニア人の姉妹”の話です。“自分がいた英語会衆が解散になった時”とあります。お気の毒です。」
「それを期にJWをやめればよいのに、“日本語会衆でベストを尽くし,伝道を頑張っていこうと決意しました。”とある。外国語会衆の解散という組織の衰退がもたらした変化だね。」

「外国人がたどたどしい日本語で伝道する意味があるのですか?まともに会話もできないでしょう。」
「伝道は新しい信者を獲得するためにあるわけじゃないからね。信者を忙しくさせ、社会から孤立させるのが目的。」

「11節は“人のためになることを行う。”ですが、“私たちも状況の変化を経験するとき,ほかの人を助けること,特に伝道を行うことの大切さを忘れないようにしましょう。”とあり、JWにとって、人のためになることというのは“伝道”という迷惑行為しかないことがわかります。」
「体験談では“伝道を忙しく行っていると,ネガティブなことを考える時間は減り”とある。これが伝道の目的。信者の新規獲得なんてどうでもいいようだ。」

「13から16節が“ほかの人の意見を尊重する”です。 ここがこの記事の主な所です。2つのことが取り上げられていて、①服装や髪形と②医療や健康管理です。」
「宗教と直接関係のないところまで口出す宗教はカルトだから、さっさとやめよう。」

「14節が①服装や髪形で、“エホバは服装について細かなルールを作るのではなく,原則を与えてくれています。”とありますが、そうとは言えないと思います。テモテ一2:9が引照聖句としてありますが、“凝った髪形をしたり,金や真珠や非常に高価な服を身に着けたりするのではなく”とあります。これは細かなルールですよ。」
「それをいつの時代でも適用される文字通りのルールと解釈するとそうなるだけ。その時代のある地域の人に向けられたもので、現代には適用されないと解釈すれば、そうならない。」

「JWはこのような聖句を神の定めた永遠の律法として解釈するわけですね。」
「律法主義者だからね。でもそれでは不都合な場合がある。その時は聖書の翻訳を変える。“凝った髪形”とあるけれど、協会共同訳では“髪を編んだり”とあって、こちらのほうが正しい。」

「現代では髪を編むのは普通のことで、それを非難するのは理解されないと考えて、“凝った髪形”に変えたということですね。」
「そうやって聖書をどんどん変えていきながら、聖書は神の言葉ですからその言葉通りにしなければなりませんという。何も知らないのは末端の信者。」

「統治体の老人は高価な時計を身に着けていますね。これは統治体にはこのようなルールは適用されないということですね。」
「統治体が貧乏くさかったら、JWという宗教に対してマイナスのイメージが作られると考えているのだろう。金持ちが尊敬されるアメリカの宗教だからね。」

「14節に“長老たちも,聖書の原則を大切にし,服装や髪形について独自のルールを作ったりはしません。”とありますが、“ステージに上がった時に,聴衆が話の内容よりも服装や髪形に注目するとしたら,考え直した方がいいと思わない?”とアドバイスするよう勧めています。」
「それならステージに上がるようなことは辞退します、と言うのはどうなの?長老に気に入られたって、何かいいことあるの?」

「自分の意思をはっきり言えるような人間なら、JWなんかやっていませんよ。」
「長老ごときに髪形や服装に関するルールを作る権限はありません、個人の自由に対する過剰な介入です、と書くべきだけど、絶対言わないよね。」

「元の英文では、“考え直した方がいいと思わない?”ではなく、“There is a problem with your dress and grooming. あなたの服装と身だしなみに問題がある”と言っています。意味が違いすぎます。」
「細いズボンはダメといった具体的な指示をだすと、その理由を聞かれて、返答に困るだろう。クビになったモリスみたいに、それはゲイの服装だ!と言う訳にはいかないからね。問題があるとだけ告げて、あとは本人に考えさせるようにせよ、という指示なんだよ。そうやって組織のルール通りの服装に誘導していくわけだ。」

「15節が②医療や健康管理です。“特定の治療法や健康法についてどんな意見を持っているとしても,兄弟姉妹の決定する権利を尊重するようにしましょう。”とありますが、これはアメリカで、コロナのワクチンを打つか打たないかで会衆が分裂したことが背景にありますね。」
「アメリカでは統治体がワクチンを禁止しないことに腹を立ててJWを辞めた人がいるくらい反ワクチン感情は強かったみたいだ。」

「JWはだまされやすく、医学的な知識もないので、会衆の誰かが勧めるインチキ療法に金を使う人が多いですよ。それでも、その決定を尊重せよということですか?おかしいです。」
「JWも高齢化が進んで医療に対する関心は高いので、ちょっとした医療問題が大きな対立を生みかねないと、組織は心配しているのだろう。それで個人の決定を尊重しましょうなどと、JWらしくないことを言っている。」

「中にはインチキ健康食品とかを同じ会衆の信者に売りつけて、金儲けしているJWもいます。その決定も尊重するわけですね。」
「信者をインチキ療法から守ろうという姿勢が全くないのがカルトらしくて清々しい。でも、JWの健康問題というと精神疾患だよね。JWはその場合、精神科へ行くのを好まないだろう。インチキ療法を積極的に勧めるのかな?」

「模範的なJWなら、毎日祈って、聖書を読めば、精神疾患なんか治るといいますね。」
「つまり治療なしということ。こんな有害な宗教、早くやめよう。」

「15節には4つの具体的な指示が出ています。その(2)が “自分にとって何が良いかは,各自が考えて「確信している」べきです。(ローマ 14:5を読む。)”ですが、この聖句は健康問題と関係ありませんよ。」
「そこには“ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,ある日がほかのどの日とも同じだと判断します。いずれにしても,各自が考えて確信しているべきです。”とあって、健康問題とは無関係。使えそうな聖句がこれしかなかったということじゃないの。」

「この聖句は安息日の問題を言っているのですよ。」
「ローマにはかなりの数のユダヤ人クリスチャンがいて、彼らは安息日の規定を守っていたと考えられている。ユダヤ人以外の人はそれを理解できないので、意見の対立があった。パウロはどちらが正しいとは言わず、各自の判断に任したということだ。」

「15節の指示(4)は“クリスチャンは愛を示し,自分の権利よりも会衆の一致を大切にします。(ロマ 14:15,19,20)”ですが、引照聖句は食べ物のことを言っていますが、健康とは関係ありません。」
「ローマ14章は食物規定のことを扱っていて、クリスチャンは自由に何を食べるか決めてよいのに、それを受け入れられない人がいることが背景になっている。」

「ローマ14:2に“ある人は何でも食べてよいという信仰を持っていますが,弱い人は野菜しか食べません。”とありますね。“弱い人”は胃が弱い人ではなく、信仰が弱い人という意味ですね。」
「それで会衆には強い人と弱い人がいるわけで、それぞれどうすべきかパウロは指示を与えているけれど、特に強い人が弱い人に配慮するよう求めている。」

「“自分の権利よりも会衆の一致を大切に”というのはカルト宗教がよく言うことですよね。」
「異論を認めない、質問もするな、上からの指示に従えばいい、という宗教が“一致”をいうんだよね。」

「16節が長老に対する指示です。“エホバの聖なる力は,どの長老からも良い決定につながるコメントを引き出すことができるからです。それで,自分が思っていたのとは違う決定になるとしても,聖書の原則に反していないなら,長老団の多数の意見を喜んで支持します。”とあります。多数派に従えということですね。」
「少数の良心的な長老は沈黙を強いられ、多数の無能で良心のかけらもない長老たちの意見が通るのがJWの会衆ということだね。」

「長老には聖なる力が働くというウソ話が出ていますね。ウソも繰り返せば本当になると信じているようです。」
「それはウソというよりタテマエだね。誰も表立ってそれはウソだとは言えない。そのタテマエのおかげで、長老の決定には逆らえない。組織を維持するのに必要なウソなんだよ。」

「最後の17節が“どんな良い結果になるか”です。 “分別を示すなら,たくさんの良い結果を味わうことができます。”と宣言して終わりです。でもJWでいる限り、分別がある人とは思われませんよ。カルト宗教の分別のない信者と思われるだけです。」
「本当に分別があるなら、JWをさっさとやめて、良い結果を味わっているよ。」

#1479 2023年10月13日 15:05:54

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ダニエルの手本から学べること(33)”で、若いJWはダニエルを見倣って、周囲からバカにされても堂々としていようという内容です。」
「“何を学ぶか”には“エホバに仕える若い人たちは,勇気とエホバへの揺るぎない愛が必要となる状況に直面することがあります。創造を信じているということで,クラスメートからばかにされることがあるかもしれません。神を信じ,聖書の基準に沿って生活していることをからかわれることもあるでしょう。”とあるね。JWの若い人は気の毒だね。おとなのJW の何倍も試練に会うわけだ。」

「バプテスマを受けていない人はエホバの証人ではありません。バプテスマを受けていない人はこの記事とは無関係ですよ。」
「親がJWなら、エホバなんかまったく信じていなくても、子どもはJWのふりをしなければならないのが現実でしょう。そうしないと家から追い出される。宗教虐待だ。」

「2節に“実際,ダニエルが20歳ぐらいの時,エホバはダニエルの名前をノアやヨブと一緒に挙げました。”とありますが、これはエゼキエル14:14のことを指しているわけですね。」
「そこには“たとえノア,ダニエル,ヨブの3人が国の中にいたとしても,彼らは自分たちの正しさゆえに自らを救うことしかできない”とある。ここに出てくるダニエルはダニエル書のダニエルじゃないよ。」

「20歳の無名の若者がノアとヨブという伝説的な人物と同列に並べられるわけないですよ。」
「英文ではDaniel may have been only in his late teens or early 20’sとあり、10代後半から20代前半と言っているのに“20歳ぐらいの時”と、いつものテキトウ訳だね。」

「エゼキエル書では28:3に“あなたはダニエルよりも賢い。あなたに解けない秘密はない”とあります。これは28:2に“人の子よ,ティルスの指導者に言いなさい。”とあるように、ティルスの指導者に向けての言葉です。ティルスの指導者がバビロニアに囚われているユダヤ人の青年より賢いと言われても、全く理解できませんよ。」
「エゼキエル書に出てくるダニエルはダニエル書のダニエルじゃなくて、フェニキア人によく知られた神話の人物と考えた方が妥当だと思うよ。」

「つまり、ダニエル書のダニエルはエゼキエル書の謎の人物ダニエルの名前を借りた架空の人物ですね。」
「ダニエル書が書かれたのは前2世紀で、バビロニアとかペルシャが滅びた後の時代に、ダニエルという架空の人物を主人公にして書かれたもの。それが書かれたのは迫害に苦しむユダヤ人を励ますため。」

「4から9節が“ダニエルの勇気に倣う”です。 ダニエルが勇気を示した例が2つ取り上げられます。ネブカドネザル王の見た夢の謎解きです。これが勇気を示した例ですか?」
「4節に“ダニエルは「王のもとに行き,解き明かしをするための時間を願い求め」ました。(ダニ 2:16)これには勇気と信仰が必要でした。”とあるけれど、ダニエルは殺される寸前という状況で、生き延びるために時間稼ぎをしただけ。勇気と信仰がなくても、黙って殺されるわけにはいかないから、同じことをしたと思うよ。」

「5節ではダニエル4章の話を取り上げ、“王はそのメッセージを伝えたダニエルを反逆者と見なし,殺す可能性もありました。でも,ダニエルは勇気を持って伝えました。”とあります。これも勇気が必要ですか?」
「ここでは、王は“私の王国の他の賢人たちは誰も解き明かせないのだ。だが,あなたにはできるだろう。聖なる神々の力を持っているからだ。”と言っている。要するに命令だ。断る方が勇気がいるよ。ダニエルを無理やり勇気の人に仕立てたいだけ。」

「6節がバカバカしいです。“子供の頃,ダニエルは親からよく学んでいたことでしょう。ダニエルの両親はエホバがイスラエル人の親たちに与えていた指示に従い,子供に神の律法を教えたに違いありません。”と、空想を書いています。ダニエルの子ども時代など誰も知りません。」
「“違いありません。”が出た時は、単なるご都合主義的な推測ということだね。」

「要するにJWの親は自分の子どもをしっかり洗脳しろと言いたいわけですね。」
「それを直接言うと問題になるので、ダニエルを持ち出して、都合の良い話を作ったわけだ。」

「7節では“私たちと同じように,ダニエルも生まれつき勇気があったわけではありません。でも,神の言葉を調べ,祈り,エホバに頼ることによって勇気を示すことができました。”とあります。JWの若者も同じようにしなさいということですね。」
「8節で具体的に指示しているよ。“ダニエルのように神の言葉をよく知るようにする必要があります。祈りによっていつでもエホバに話し掛けるようにし,エホバとの絆を深めていくことも大切です。エホバの支えを確信し,エホバを信頼しましょう。このようなことを行っていくなら,信仰が試される時に勇気を持って行動することができます。”この節はいらないね。7節の繰り返しだ。」

「9節は体験談です。ドイツの話ですが、“ある日兄弟は,どうして自分が創造を信じているのかをクラスの前で話す機会がありました。勇気を出して自分の信条を話した結果,どうなったでしょうか。こう言っています。「先生はよく聞いてくれました。そして,話すために準備していた資料をコピーしてクラス全員に配ってくれました」。クラスメートの反応はどうだったでしょうか。「みんな,一つの考え方として受け入れてくれて,褒めてもくれました」と兄弟は言っています。”とあります。ドイツの先生も生徒は実に素晴らしいですね。」
「嘘くさい話だ。そういうことがあったとしても、それは例外中の例外でしょう。」

「この話を真に受けて、自分も学校で同じように証言しようなどというバカは日本にはいないと思います。」
「この体験談ではJWでない生徒はJWのばかげた話をまじめに聞いて評価してくれたわけだけど、JWはそういうことは絶対ないよね。JWは自分たち以外は悪魔の手先と見下して、JW以外の人の意見を“一つの考え方として受け入れ”ることも褒めることもない。JWとJW以外の人を較べたら、どちらが素晴らしい人たちか、明らかだね。」

「10から16節が“ダニエルの揺るぎない愛に倣う”です。 ダニエル書6章の話が出てきます。ダニエルがライオンの巣に投げ込まれるという話ですが、これって愛の物語ですか?」
「よくある宮廷物語だね。成功した家臣が妬まれて、苦境に陥るが、奇跡が起こりハッピーエンド。悪者にされるのは家臣で、王は善意の人として描かれ、政治問題にならないように配慮している。愛とは関係ないよ。」

「ダニエル書6章では、“30日の間,王以外の人や神に請願をしてはならず,背いた者はライオンの穴に投げ込まれる,という禁令”が制定されたことになっていますが、こんな史実はあるのですか?」
「ないよ。創作。お話だよ。」

「10節に“聖書の中で「揺るぎない愛」と訳されているヘブライ語は,温かくて変わらない愛情という考えを伝えています。”とありますが、英文では“loyalty,” or “loyal love,”です。”忠誠”あるいは”忠実な愛”ですよ。それを”揺るぎない愛”と訳するのはヘンですよ。」
「ここで取り上げられているヘブライ語は、聖書の中では200回以上も出てくるごく普通の単語で、それを” 揺るぎない愛”と特別な単語であるかのように訳するのはヘンだね。」

「引照聖句のサムエル二9:7では、ダビデがヨナタンの息子に“私は必ずあなたに揺るぎない愛を示します。”となっていますが、不自然な訳ですね。協会共同訳では“あなたに誠意を尽くそうと思う。”となっています。」
「JWは旧約聖書中心の宗教だけど、旧約は愛が乏しい。それでは信者獲得に不都合と翻訳者は考え、翻訳の際に“揺るぎない愛”なんて言う言葉を採用して、愛を増やしているのだろう。」

「11節に“その結果,ライオンの穴に投げ込まれましたが,エホバはダニエルの揺るぎない愛に応えてライオンの口から救い出しました。(ダニ 6:12-15,20-22)”とありますが、そんなことは聖書の中に書かれていません。」
「ダニエル6:23には“引き上げられたダニエルは,全く無傷だった。自分の神を信頼したためである。”とあるよ。“揺るぎない愛”じゃなくて“信頼”だよ。とにかく愛を水増ししたいということだね。」

「11節に“バビロンはメディアとペルシャによって征服され”とあります。歴史書にはバビロン征服でメディアなんか出てきません。なぜJWはメディアにこだわるのですか?」
「聖書にメディアが出てくるからでしょう。ダニエル8:3に“目を上げると,1匹の雄羊が水路の前に立っていた。それには2本の角があった。2本の角は長かったが,一方が他方よりも長く,長い方は後から伸びたものだった。”とあって、これはメディア―ペルシャ二重強国を表すとJWの解釈だから、メディアは無視できない。」

「史実としては、メディア王国は前550年頃キュロスによって滅ぼされたことになっています。メディア―ペルシャ二重強国なんて作り話です。」
「メディア人は文書による記録を残していない。文字がなかったと思われる。文字もないのに広大な王国は維持できないよ。それで、一部の専門家は強大なメディア王国など存在しない、とさえいっている。メディア王国に関する資料は皆外国人の残したもので、その信ぴょう性は何とも言えない。」

「JWが想定している、広大な範囲を支配した統一国家メディア「王国」はヘロドトスをはじめとした古代ギリシア人の著作家の記録にのみ登場するのですよね。ダニエル書はギリシア時代に書かれたものなので、ギリシア人の見解をそのまま受け継いだだけですよ。」
「そういうわけで、メディア王国とは古代ギリシア人の想像の産物に過ぎず、その実態はイラン系遊牧民の部族連合のようなものであったとする見解もある。」

「12節に“こうして,エホバへの揺るぎない愛はどんどん強くなっていきました。”とありますが、英文ではDaniel undoubtedly developed that loveです。undoubtedlyを訳していませんよ。」
「undoubtedlyは疑う余地のないほど確実だ、という意味。これを訳すると、また根拠のないことをあたかも真実かのように言うことになり、翻訳者は避けたのかも。」
「ちゃんと訳すれば、“こうして,エホバへの揺るぎない愛は疑いもなくどんどん強くなっていったに違いありません。”ですね。」
「翻訳者はJWによくある空虚な強弁に嫌気がしたのかも。」

「13節に“神を信じているという理由で,嫌われたりいじめられたりするかもしれません。”とあります。違いますよ。」
「JWが嫌われるのは、神を信じているからではないね。思想や行動に問題があるからだよ。」

「元の英文はSuch people may dislike anyone who claims to love God.で、神を愛していると主張する人を嫌うかもしれません、です。それをなぜ単に”神を信じている”と変えたのでしょうか?」
「日本人で神を愛していると主張する人はいないからでしょう。特にエホバなる神は愛の対象ではないよ。それで“神を信じている”に変えた。」

「英文ではSome even try to bully our young ones into breaking their loyalty to Jehovah.(若い人たちをいじめてエホバに対する忠誠を破らせようとする人さえいます。)とあるのに、” こういうとき,エホバへの愛が試されます。”とまともに訳していません。」
「周囲の人から迫害されるJWというわけだけど、これはあまりにも被害者意識丸出しで、翻訳者は恥ずかしかったのか、若い人に迫害の恐怖をあおるのを避けたかったのだろう。」

「13節には体験談が出ています。オーストラリアの高校の話です。“ある授業で先生は,友達から同性愛者であることを打ち明けられたらどうするか,とみんなに尋ねました。そして,同性愛を一つのライフスタイルとして受け入れる人は教室の片側に,そうでない人は反対側に立つように,と言いました。兄弟はこう言います。「クラスの中で同性愛を支持しなかったのは,私ともう1人のエホバの証人の子だけでした」。”こんな授業ってあるのですね。」
「13節の上にその様子をあらわした写真がある。すごい悪意のある写真だ。JWはおとなしそうな高校生で、それを非難している高校生は野蛮で攻撃的な人物として描かれている。本当に野蛮なのは宗教原理主義者で差別主義者のJWの方だよ。」

「13節では“穏やかな態度で自分が信じていることについて頑張って説明しましたが,全然聞いてもらえませんでした。”とありますが、この差別主義者のJWはどのように同性愛差別を正当化したのでしょうか?」
「恐らく“大昔に書かれた聖書という本に同性愛者は死刑と書かれています。レビ20:13です。僕はそれを神の言葉と信じています。ですから同性愛者は殺すべきです。でも僕は殺しません。愛ある神が間もなくそのような罪深い邪悪な人間を全員滅ぼしてくれるからです。滅ぼされたくなければ、JWのバプテスマを受け、アメリカのニューヨークに住む統治体のおじいさん達に絶対服従し、伝道、集会、建設、寄付を一生懸命しなければなりません。さらに大学は悪魔の住処なので進学してはならず、輸血は聖書の教えに反するので拒否しなければなりません。”と穏やかな態度で言ったんだよ。当然誰もまじめに聞かないね。」

「14節で“エホバへの愛や敬意を深めたいと思うなら,「だれかが設計?」のシリーズの記事やビデオを見ることができます。「生命 ― どこから?」や「生命の起源 ― 5つの大切な質問」の冊子を読むこともできるでしょう。”とあります。あれは読むに耐えないです。」
「組織の言うことを鵜呑みにしてはいけないという良い例だね。あれは無知無学でだまされやすい人を対象にしたものでしょう。そういう人はいつの時代でも一定の割合でいるからね。」

「14節では“説明が論理的ですごくいいと思います。”、“命の源は神だと確信できました。”と信者の感想がでていますよ。だまされやすい人たちです。」
「実際はThe reasoning is fantasticといっている。”論理的”とは言っていない。また2つめはIt proved to me that God created life.なので、”確信できました”ではなく、”証明されました”と言っていて、もっと狂信的。」

「15節でイエスを取り上げます。キリスト教のふりをするためですね。イエスはダニエルよりも格下ですね。」
「でも“イエスを通してエホバのことがもっとよく分かるようになりました。”とあるよ。やっぱりエホバ教だね。」

「17,18節が“ダニエルからさらに学ぶ”です。 来週の予告です。“次の記事では,ダニエルが記録した2つの預言に注目します。”とあります。楽しみですね。」
「北の王のロシアの話だったら面白い。プーチンはどうなるのか聖書から預言して欲しいね。」

#1480 2023年10月20日 14:43:21

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“聖書の預言から学べること(34)”で、JWの聖書解釈をそのまま信じて、組織の言いなりになりなさいという内容です。」
「ダニエル書の鉄と粘土の足と北と南の王の解釈が出てくるけれど、この解釈は今まで何度も変わってきた。ここに書かれていることも、いずれ変わるから、読む必要ないでしょう。」

「3から6節が“聖書の預言を調べるべきなのはどうしてか”です。 4節に“それで,私たちが重要な出来事について前もって知ることができるように,聖書に預言を記録させました。(イザ 46:10)ですから,聖書の預言はお父さんエホバからの愛のこもったプレゼントだと言うことができます。”とあります。何を書いてあるかよくわからない本をプレゼントされても、うれしくないですよ。」
「ダニエル書が書かれたのは2000年以上前。ダニエル書が21世紀のことを預言しているのなら、そんなに早く預言する必要がないね。ちょっとプレゼントをくれるのが早すぎる。」

「聖書の預言は本当はそれが書かれた時代か、せいぜい次の時代にむけて書かれたものですよ。」
「ダニエル書だとほとんどが事後預言。過去のことを預言の形で書いているだけ。でも作者の歴史的知識は不十分で過去についても間違いがある。」

「JWの解釈もほとんどが事後解釈ですよ。北の王=ロシアだって、150年前から言っていたのならまだしも、最近ですからね。」
「150年前から言っていたのは、間もなく終わりがくるということ。JWの“間もなく”は少なくとも150年以上の期間をあらわすようだ。」

「5節に、JWに疑問を持ったマックス兄弟は“聖書の預言を自分でも調べ,学んだことを会衆の若い兄弟姉妹と話し合いました。その結果どうなったでしょうか。「聖書は神からの本だと確信できるようになりました」と言っています。”とあります。もう少し頭が良ければ、JWのおかしさに気づいたのに残念です。」
「“自分でも調べ”とあるけれど、JWの出版物を調べただけでしょう。それから同じ信者同士話し合ったら、組織の言いなりになるだけ。」

「どんなバカげたことでも、それを信じている者だけで話し合ったら、バカげたことという結論には絶対なりませんよ。ますます正しいと確信してしまいます。疑いを持っていても、口に出したりはしませんよ。」
「それで疑問を持ったら仲間の信者に相談することを推奨しているわけだ。本当に終わりが間もなく来るのでしょうか?と仲間の信者に尋ねると、100年以上待っているのですから、そろそろ来ますよ、と笑顔で答えてくれるわけだね。」

「6節に“聖書には本当のことが書かれているんだろうか,と疑いの気持ちが芽生えたとしても,自分を責めないでください。”とあります。これは疑問を持つことは悪という思想をほのめかしていますね。」
「6節で“疑いはさびのようです。放っておくと,大切な物が徐々に駄目になってしまいます。”と言っている。違うよ。疑いは間違いに気づくきっかけとなるもの。盲信こそ危険なこと。疑いの芽を大きく伸ばして、より正しい考えに近づいて欲しいね。」

「7から11節が“どのように調べるとよいか”です。 3つのことが出ています。①正しい動機、②謙遜な態度、③注意深く調べる、です。精神論ですね。もっと具体的な方法を教えるべきですよ。」
「③は英文ではthoroughで”完全な、徹底的な”という意味だよ。勝手に”注意深く調べる”に変えていいのかな?」

「7節では、ダニエルを模範として取り上げていて、“さらに,ダニエル は注意深く調べました。当時手に入れることができた聖書をよく調査しました。(エレ 25:11,12。ダニ 9:2)”とあるのですが、引照聖句のダニエル9:2には“その年に,私ダニエルは書物を調べ,エルサレムの荒廃が終わるまでの年数を知った。”とあります。“その年”とは9:1によれば“アハシュエロスの子ダリウスの治世の第1年のことである。(ダリウスはメディア人の子孫で,カルデア人の王国の王とされた。)”と説明しています。でもこんなダリウス王は存在しません。」
「ダニエルは書物はよく調べたけれど、歴史は調べていなかったということだね。」

「8節は“自分の動機をよく考える。”で、“あなたは,真理を知りたいという強い願いを持って聖書の預言を調べていますか。もしそうなら,エホバは助けてくださいます。”とあります。ということは、預言を外しまくっているし、解釈もコロコロ変わるJWはエホバの助けを受けていないということですね。」
「誰もがそう思うね。」

「8節に“ある人は,聖書が神からの本であることを否定する証拠を探そうとします。”とあるのは被害妄想じゃないですか?」
「これは笑えるね。聖書の作者は科学的知識の乏しく、差別的で偏見に満ちた人間だということは一度読めば明らかだよ。わざわざあら捜しをする必要はないでしょう。そうではなくて“神からの本”だと主張するなら、そう主張する側がその証拠を示すべき。」

「9節は“謙遜である。”です。ここがこの記事で最大の問題個所です。聖書の預言を理解するには、“また,信仰を強める食物をふさわしい時に与えるために,エホバが忠実な奴隷を用いていることを認める必要もあります。(ルカ 12:42)エホバは秩序を大切にする神なので,ただ一つの経路を用いているというのは筋の通ったことです。(コリ一 14:33。エフェ 4:4-6)”とあります。引照聖句は、神は“ただ一つの経路を用いている”とは書いていません。」
「それはJWの教義にすぎない。要するに、統治体以外の者は聖書解釈をするな、ということだね。聖書解釈の独占権を主張しているね。カルト宗教だね。」

「10節が“注意深く調べる。”です。ある姉妹の体験談で、“「15歳の時,こうした預言が本当にイエスの時代よりも前に書かれたのか,証拠を調べてみることにしました」。姉妹は,死海写本についての資料を読んで確信が深まりました。こう言います。「そうした写本の中には,イエスの時代よりも前に書かれた物が含まれているので,聖書の預言は間違いなく神からのものだと思いました」。”とあります。“死海写本についての資料”といってもJWの出版物に書いてあることを読んだだけじゃないですか?組織はJW以外の本を読むことは勧めていませんよ。」
「死海写本がイエスより前の時代となぜ信じられるのかな?JWではない研究者が年代測定をしたのだよ。その年代測定を信じるわけだ。」

「研究者は人類の始まりは6000年ほど前ではないと言っていますし、ノアの洪水が起きたとされるよりも古い遺跡が残っていると言っています。死海写本の年代測定を正しいと判断するなら、当然これらのことも正しいと判断すべきですよ。」
「専門家の意見は自分にとって都合がよい時だけ尊重し、そうでない場合は難癖をつけて無視するのがJW。」

「それから“イエスの時代よりも前に書かれた物が含まれているので,聖書の預言は間違いなく神からのものだと思いました。”という理屈が全く分かりません。福音書の作者は旧約聖書に書かれていることを知っているわけです。旧約の預言が実現したように福音書の作者が書いただけじゃないですか?」」
「特にマタイは旧約聖書に書かれていることに合致するようにイエスの生涯を描いている。預言が実現したと福音書に書いてあった場合、そう思わせたい人間が福音書を書いたからとは全く考えず、いきなり“神からのものだ”という飛躍した結論に飛びつくわけだ。」

「12から14節が“鉄と粘土でできた足”です。 今まさに実現している預言の例だそうです。12節には“ダニエル書や啓示の書のほかの預言と併せて考えると,この足の部分は,今大きな力を持っている英米世界強国を表していることが分かります。”と断定していますが、こんなことを言っているのはJWだけです。」
「聖書に書かれていることは現代を預言しているという結論から逆算して、英米世界強国という奇妙なものを造り出したのだろう。ダニエル書2章に出てくる王国は全て古代に存在していたユダヤ人にとって敵である王国のことで、当時存在していない英米を指すわけがない。」

「JWの解釈では、ダニエル書2章の巨像はバビロン→メディア・ペルシャ→ギリシャ→ローマを指していて、足の部分が英米を指すというもののようですね。」
「それだったら第5の王国について述べていることになるけれど、そんなことは書かれていない。4つの王国だよ。第5の王国を想定しないと現代につながらないから、無理矢理そう解釈しているだけ。」

「12節に“この世界強国は鉄のように強いとはいえ,軟らかい粘土で表されている一般の人々によって力を弱められています。”とあります。粘土があらわしているものは、昔は労働者階級とか社会主義者とか、各時代の目立つ反政府グループを挙げていました。それが今は“一般の人”になったわけです。いいかげんな預言解釈の典型ですね。」
「各時代の状況を見て、○○は何をあらわしていると言っているだけ。だから時代とともに変わる。」

「13節で“2つ目に,この世界強国は神の王国が人間の政府全てを終わらせる時まで支配を続けるという点です。たとえ対抗する国が現れるとしても,そうした国がこの世界強国に取って代わることはありません。”とあります。今が歴史の終末ということを言いたいのですね。」
「アメリカ人のJWに安心感を与えるという意図もあるかも。ロシアや中国などがアメリカと対立しているわけだけど、アメリカが勝つから心配するなと言っているのと同じ。」

「14節では、“あなたは,鉄と粘土の足に関するダニエルの預言が実現していることを確信していますか。もしそうなら,それはあなたの生き方に影響を与えるはずです。”と断定し、信者への正しい生き方について指令が続きます。」
「こんなことを確信できる人は知性の点で問題があるね。JWの過去の実績を見れば、この解釈もいずれは変更される、と確信できるよ。」

「信者への指令は“もうすぐなくなってしまうお金や物に頼ることはしないでしょう。”と“伝道したり教えたりすることの大切さを意識することもできます。”というものです。仕事をせずにJW活動に全てを捧げよ、ということです。だまされやすい人の人生を破壊する危険な宗教です。」
「“伝道したり教えたりすることの大切さを意識する”というのはタイミングが悪いね。奉仕時間の報告をやめたわけだけど、これは伝道することの重要性を意識することにはならないよ。言うこととやることが一致していないね。」

「15から18節が“「北の王」と「南の王」”です。 15節には“「北の王」はロシアとそれを支持する国々,「南の王」は英米世界強国を表していることが分かります。”と断定していますが、全くわかりませんね。」
「この解釈もいろいろ変わって来て、今はこうだというだけ。10年後はロシアがすっかり衰退していて、北の王は中国ですと言っているかも。まじめに受け取る必要はないでしょう。」

「16節では“「北の王」が支配している地域に住むエホバの証人は迫害を忍耐しています。”と言ってから、“神に仕える人たちに対する迫害はダニエルの預言が実現していることの証拠だと理解しているからです。 (ダニ 11:41)”と言っています。」
「引照聖句は“『美しい地』にも入り,多くの国が倒れることになります。”とあって、“美しい地”はエホバの民の活動を指していて、この聖句はエホバの民が迫害を受けることを意味しているというのがJWの解釈なんだ。」

「ひどいこじつけですね。」
「そもそも北と南の王の話はダニエル書が書かれた時代の話で、現代に適用すべき預言じゃないよ。細部を全く無視して、都合の良いところだけ取り上げて、これは○○を指しています、と言っているだけだね。」

「17節は南の王についてなのですが、“選挙活動が行われていると,ある政党や候補者を支持したいという気持ちになるかもしれません。投票に行くことまではしなくても,心の中で支持してしまうということがあるでしょうか。行動だけでなく考えや気持ちの面でも中立でいるのは,本当に大切なことです。”と政治的中立を強調しています。でも“考えや気持ちの面でも中立”は無理でしょう。」
「まさしくマインドコントロールだね。」

「これはアメリカの信者向けですよね。アメリカではキリスト教右派と呼ばれる政治家がいますからね。」
「そういう政治家たちは、妊娠中絶、同性愛、学校で進化論を教えること、男女平等などに反対し、保守的なキリスト教道徳を支持する。JWとしては自分たちと価値観が近いそういう候補者を“心の中で支持してしまう”わけだね。」

「19,20節が“これからも預言に注意を払う”です。 19節で“私たちは,聖書の預言がどのように実現するかを完全に理解しているわけではありません。”とあります。その割には、この記事でも偉そうなことを書いてきませんでしたか?」
「英文ではWe do not know how some Bible prophecies will be fulfilled.で、”完全に理解しているわけではない”ではなく、単に” We do not know 知らない”と言っている。翻訳者は”知らない”とは、とても恥ずかしくて書けなかったのだろう。」

「これは保険なんでしょうね。」
「いずれ生じる解釈変更に備えているわけだ。We do not knowという表現は最近増えている。しかしこんな統治体でも、その命令には絶対服従ということは変わらない。」

「19節に“エホバはこれまで,必要な情報をぴったりのタイミングで明らかにしてきました。”とあるのも解釈変更に備えた保険ですね。」
「あの時の解釈はタイミングが悪かったと言い訳して、別の解釈をこれこそ、グッドタイミングの真実ですと何の謝罪も反省もなく言うわけだね。それがミエミエなのが情けないね。」

「20節は、現在のJWの終末シナリオが出ています。“間もなく,「平和だ,安全だ!」という宣言が行われます。(テサ一 5:3)世界の政治勢力は間違った宗教を攻撃し,一掃します。(啓 17:16,17)そして,エホバに仕える人々を攻撃します。(エゼ 38:18,19)その後,最後の戦いであるハルマゲドンが始まります。”とあります。バカバカしいですね。」
「JWの“間もなく”は150年以上の年月を指すようだから、150年後にはこんなことが起きるかもね。」
「今は平和・安全宣言なんて出る世界情勢じゃないですよ。それでも、今は終わりの終わりの最後の瞬間と統治体の老人は言い続けるのでしょうね。」

#1481 2023年10月27日 14:41:15

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1482 2023年11月03日 13:53:52

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“大切な荷物は持ち,余分な荷物は捨てる(36)”で、JWとしての責任は絶対果たせ、それ以外の責任は気にするな、という内容です。」
「一般の伝道者は奉仕時間を報告しなくてよくなったけれど、あれは余分な荷物だったんだね。奉仕時間をでっち上げる負担から解放されてよかったね。」

「1節に“ゴールはすぐそこまで近づいているので,私たちはベストを尽くして走り続ける必要があります。”と言っています。これを素直に信じる信者がどれくらいいるか気になります。」
「英文では“ゴールはすぐそこまで近づいている”とは書いていないよ。the finish line is closer than everなので、“ゴールはこれまで以上に近づいている”と、当たり前のことを書いているだけ。日本語訳は詐欺的だね。」

「統治体のレットが今は終わりの時代の最後の最後ですと言ったのが2020年です。それから3年もたちましたよ。」
「組織は大規模な建設計画を予定している。完成まで相当かかる。まもなく終わりの日が来るなんて思っていないよ。」

「1節で“「あらゆる重荷……を捨て,参加している競走を忍耐して走りましょう」。(ヘブライ 12:1を読む。)”とあるのですが、この重荷というのは余計な体重のことですよ。」
「重荷と訳されているギリシャ語はアスリートがトレーニングによって減らそうとする過剰な体重を指すために使用された単語。つまり贅肉だね。比ゆ的には誇りや慢心を指していると思うね。」

「そうすると贅肉だらけの肥満体が多い統治体にとっては不都合なので、そのことには触れないわけですね。」
「重荷の次には“すぐに絡み付く罪を捨て”とあるけれど、これは走ると足に絡みつく服をイメージした表現。体重を落とし、余計な服は脱いで走れということだね。これも高級スーツを好む統治体には不都合なので飛ばしたね。」

「4から9節が“負うべき荷”です。重荷を捨てろという話なのに、まずは負うべき荷物が登場するというのは、JWらしいですね。」
「信者に際限なく負担を負わせる宗教だからね。」

「負うべき荷が3つ出ています。4節が①“献身の誓いを守る。”です。右も左もわからない子どもの時に献身させて、それを一生負わせるつもりですね。JWをやめることは許さないぞということですね。」
「やめることを罪悪視させる宗教はカルトだね。良い宗教なら、誰でも宗教はやめたい時に辞める権利があると教えるべきだよ。」

「“献身に沿った生き方をすることには大きな責任が伴いますが,重荷ではありません。”と言っています。事実に反します。重荷そのものです。」
「ここで言いたいのは重荷と感じる信者がいたら、それは組織ではなくその信者が悪いと思えということ。組織はすべて正しく、問題なのはすべて個人という考えを植え付けようとしている。」

「4節の最後に“さらに,エホバとイエスに従うなら,「爽やかさを感じる」こともできます。(マタ 11:28-30)”とあるのですが、引照聖句は“私と共に働くことは心地よく,私が負わせる荷は軽いのです。”とあり、“私”とはイエスのことです。エホバなんか出てきません。勝手にエホバを付け加えています。インチキですよ。」
「イエスと違ってエホバの荷は滅茶苦茶重いからね。聖句の誤用だ。」

「5節が“どのようにそうできるか。”で、“1つ目に,エホバへの愛を強め続けることです。”とあり、“2つ目に,イエスに倣うことができます。”とあります。JWには無理ですね。エホバを恐れこそすれ、愛している信者なんかいませんよ。」
「イエスはJWにとってどうでもいいキャラクターだから、イエスに倣おうなんて思う信者はいないね。」

「6節が②“家族の中での責任を果たす”です。でも、“命を目指す競走を走っている私たちは,自分の家族よりもエホバとイエスを愛する必要があります。”とまず釘を刺します。」
「JWは自分が一番大事で、家族は重要ではないということだね。組織を離れた家族は徹底的に忌避しようということだね。こうやって自分たちは家族を破壊する邪悪な宗教です、と堂々と認めている所が清々しいね。」

「7節が“どのようにそうできるか。”で、“夫も妻も子供も,聖書のアドバイスに頼ることが大切です。感情や,専門家の意見や,自分が住んでいる地域の常識に頼ってはいけません。(格 24:3,4)”と、危ないことを言っています。聖書のアドバイスに従って大丈夫ですか?」
「子育てに関する聖書のアドバイスというと、代表的なものと言えば格言13:24の“むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない。”でしょう。聖書のアドバイスに従って児童虐待をするのはやめて欲しい。」

「妻に対する聖書のアドバイスだと、エフェソス5:24の“会衆がキリストに従っているのと同じように,妻も全ての面で夫に従うべきです。”が代表的ですね。」
「こんなアドバイスに従うとろくなことにならないよ。JWの男なんて、上からの指示なければ何も決められない人ばかりでしょう。」

「聖書は夫に対して大したアドバイスをしていませんよね。」
「聖書は一夫多妻の家父長社会の産物だからね。聖書のアドバイスに従っていたら、男は危険な暴君になるよ。せめて妻に暴力をふるってはならないと、聖書のどこかに書いてあったら、少しはましなものになったのにね。」

「引照聖句は“家庭は知恵によって築き上げられ”とありますが、“家”じゃないですか?」
「英文ではhouseだから家だね。24:4には“部屋”が出てくるしね。知恵で家を建てて、知識で部屋を宝で満たすと言っている。家庭じゃないよ。」

「7節ではその後、“聖書に基づく出版物を活用しましょう。”と続きます。結局、組織の出版物がJWの知恵であり知識なわけです。」
「JWのいう聖書のアドバイスはJWがサタンの手先と憎んでいるアメリカの保守的なキリスト教が言っていることとほとんど同じ。JWに特別な知恵や知識があるわけじゃない。」

「8節は③“自分の決定に責任を持つ。”ですが、誤訳じゃないですか?」
「英文はAccountability for our decisionsなので、決定に対する説明責任をはたす、だね。組織はそういう責任を全く果たしていないのに、末端の信者にだけは要求するわけだ。上に甘く下に厳しい組織だね。」

「具体的には“自分の決定の責任を取ることの大切さを理解しているなら, 罪を告白し,間違いを正し,同じ失敗を避けるよう動かされます。”とあります。要するにイケナイことをしたなら長老に告白しろということですね。」
「例えばポルノを見たとすると、大人でも小学生のようにそれを正直に告白するということね。そして嫌われている長老なら降格処分になるわけだ。」

「9節が“どのようにそうできるか。”で、結構いいことが書いています。“自分を正当化したり自分やほかの人を責めたりすることに,時間やエネルギーを奪われないようにしましょう。”とあります。統治体がまずこれを実行すべきですね。」
「“失敗から学び,同じことを繰り返さないようにしましょう。”ともあるね。執筆者は本当は統治体に向けて書いているよ。」

「10から15節が“捨てるべき重荷”です。 ここでも3つのことが出ています。10節には①“現実的ではない期待。”です。これを捨てるということはJWそのものを捨てることじゃないですか?」
「ここで言っているのは“他の人と比べるなら,自分に重荷を負わせることになります。”ということ。楽園で永遠に生きることこそ“現実的ではない期待”の代表なのに、それについては何も言わないね。」

「11節は“どのように捨てられるか”です。“健康上の理由から割り当てを果たすのが難しいと感じる場合は,バルジライのように辞退することもできます。”とあります。健康問題を挙げれば、特権という名の重荷を捨てられるようです。」
「組織は老人を重荷と思っているよね。11節で“モーセのように助けを受け入れ,ふさわしいときには他の人に責任を委ねましょう。”とある。親切そうに言っているけれど、役立たずの足手まといの年寄りはさっさと引退しろということだよ。」

「12節が②“ほかの人の良くない決定に責任を感じること。”です。“自分の子供がエホバに仕えるのをやめた場合,親は本当につらい気持ちになるでしょう。でも,子供が決めたことについて自分を責めるなら,それは大きな重荷になってしまい ます。”と他人事のように言っています。子どもがJWをやめた場合、親がつらい気持ちになるのは組織のせいですよ。やめた子どもと関係を持つなと指導しています。」
「でも頭の悪い信者はそういうことに気づかない。むしろ、組織は何と思いやりがあるのだろう、私たちのことを気遣ってくれるのだろうと、感謝する。やめた人との交際を禁止するというのはカルトの特徴。それが家族まで及ぶのがJWということ。」

「13節が“どのように捨てられるか。”で、“子供の決定に責任を持つべきなのは,子供自身です。親ではありません。(格 20:11)”と、親が過剰な罪悪感を持たないようにと言っています。」
「でも、JWをやめた子どもと一切関係を断つというのは親自身の決定だからね。その結果については責任を持つべきだし、罪悪感を当然持つべき。」

「貧乏で孤独な老人になったとしても、一度捨てた子どもと再び仲直りできるという幻想を持たないようにして欲しいです。」
「子どもが親の助けを一番必要としているときに家から追い出したJWの親は、まともな人間ではなく宗教ロボットだからね。子どもは縁を切って、親という重荷を捨てる方がいい。」

「引照聖句は“子供でさえ,日々の行動によって,振る舞いが清く正しいかどうかを知られる。”とありますが、子どもの自己決定権や責任について述べていません。聖句の誤用です。」
「ここで言っているのは、子どもの性質は行動によって示されるということ。行動を見て判断しろと言っている。その責任は子どもにあるなどということは全く言っていない。」

「14節が③“自分を責め過ぎる気持ち。”です。“自分を責め過ぎてはいけません。それは捨てるべき重荷です。”と言っています。子どもに性的虐待をしても、自分を責めすぎないで、忘れようということですね。」
「そして被害者は加害者を許すべきというわけだ。加害者はしばらくするとまた同じことを繰り返す。でも自分を責める必要はないようだ。JWは犯罪者にとって住み心地がいい宗教だね。」

「15節が“どのように捨てられるか。”で、“エホバが「本当に許す方」だということをじっくり考えましょう。(詩 130:4)”とあります。エホバってそんな神様ですか?」
「ある人の罪を子孫にまで負わせる神だよ。JWによれば、アダムのせいで人類が死ぬことになったらしいけれど、これは“本当に許さない方”ということじゃないの。ひとりの過ちのために1000億人を死刑にしたというのと同じ。まともじゃないし、残酷すぎる。」

「16,17節が“最後まで走り抜く”です。寿命が尽きかけている老いたJWもよろめきながらも最後まで走りぬけということなのでしょうね。」
「16節で“イエスは,「食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で心が圧迫され」ることがあると警告しました。(ルカ 21:34)”とあるけれど、協会共同訳では“二日酔いや泥酔や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。”だよ。“食べ過ぎ”は誤訳。誤訳だらけのJWの聖書だね。」

「最後の17節で“ペースを落とさないようにしましょう。”とあります。JWの高齢化が進み、ペースは落ちる一方じゃないですか?」
「ペースをもっと上げろと言わないだけでも、ありがたいと思えということなんだよ。」

#1483 2023年11月10日 14:09:39

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

#1484 2023年11月17日 10:58:43

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

厚労省のガイドラインにも示唆されていますが、間違いに気づいて辞めるときの損失や反動が大きい、ペナルティや制限が厳しい、のもカルト的な宗教の特徴です。

統一は数百万円の「献金」をだまし取られたと訴え出ればネットニュースになりますが、エホバの証人の終末詐欺にひっかかって無給建設労働者やマルチマーケティング宗教セールスマンとして費やす「時間」を換算すれば数百万円どころではないでしょう。

エホバの証人をペナルティなしで辞めるには、無宗教しかありません。自分たちの信教の自由は認めろと裁判を起こす割には、脱会者には信教の自由は一切認めません。「忌避対象にはするが自由は制限していない」は詭弁で、自由とは制限やペナルティが課せられないことです。

そんなことを言ったらエホバの証人が認可されていない国でも「タイホはするけどそれでもエホバの証人するかしないかはあなたの自由だよ、禁錮中もお祈りはできるし崇拝する自由はあるよ」と言っているのと同じです。


冗談なしに、今後も彼らの終末インチキ解釈や組織運営が破綻していくにつれて、「神よ、最後にわたしを思い出してください、彼らに復讐させてください、わたしはここで彼らとともに死ぬのだ」のような事件が起きないか気がかりです。

#1485 2023年11月17日 14:07:55

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い皆さん,どんな人生を送りたいですか(38)”で、若い人にJWという悲惨な人生を送るように圧力をかけるという内容です。」
「どんな人生を送りたいかって?JW以外の人生じゃないの。」

「エホアシュ、ウジヤ、ヨシヤという聖書に出てくる3人の王について学ぶようです。聖書って、支配者層の話ばかりですね。普通の庶民はまず出てきません。」
「それは聖書の宗教が庶民の宗教とは無関係の支配者層の宗教だから。古代では宗教と政治は一体。庶民には庶民の宗教があったはずだけど、それは抹殺されている。」

「エホアシュ、ウジヤ、ヨシヤの3人と現代の若いJWとの間には何の共通点もありませんよ。時代も、立場も違いすぎます。それなのに、そんな古代の権力者の話を無理やり現代の若いJW の教訓にしようとしています。ついていけません。」
「聖書にある大昔の話と99%はウソと思われる体験談がJWの教材だからね。バカバカしいと思っても、古代の王の話を現代社会の底辺で生きているJWの若者向けの教訓話に無理やりでっちあげるしかない。」

「3から8節は“良い友を選ぶ”です。 エホアシュ王の話です。3節は“エホアシュのように賢い決定をする。”で、“エホバに忠実に仕えていた大祭司エホヤダの教えに従いました。”とありますが、その後の話とはほとんど無関係です。」
「3節の上にある写真は、スカートを見ている若い女性がミニスカートはダメと言われているという内容だけど、エホアシュ王とは無関係だよね。」

「4節が体験談風の内容ですが、“親がルールを作るのは私の自由を奪うためではなく,守りたいと思ってくれているからだ,ということが分かりました。”と、アナスタシヤ姉妹が言っています。これが組織の公式見解なのでしょうね。」
「学校の様々な行事に参加しないとか、クラスの誕生会の時には、JWの子どもだけ廊下で自習するとかは子どもを守るためなの?いったい何から守るの?」

「JWの規則は信者を守るというより、管理統制することと、JW以外の世界から隔離することを主な目的としていますよ。」
「カルト宗教は、自分たちは特別な存在というエリート主義をあおり、自分たち以外は堕落しているとか悪であると見下す。そして自分たちだけの独自ルールのもと、孤立した生き方を強いる。それを正当化するのに使われる理屈が、この世界の悪影響から信者を守るためというもの。JWも同じということだね。」

「5節に“あなたが聖書に基づくアドバイスを当てはめて行動するなら,親は喜ぶことでしょう。さらに大切なこととして,エホバに喜んでもらうことができます。エホバとの絆を強くすることもできます。(格言22:6; 23:15,24,25を読む。)”とあります。“聖書に基づくアドバイス”というのは要するにJWの規則のことです。それを守っていればJWの親は喜ぶでしょうが、聖書の神とは関係ないですよ。」
「誰かを喜ばすために自分の人生があるわけじゃないよ。周囲の期待通りに生きるとしたら、それはその人の人生ではないね。他人の人生を生きているようなもの。空しい。」

「引照聖句で、“わが子よ”とかあるけれど、みな男の子のことですよね?」
「古代では女子教育なんてない。女の子には“聖書に基づくアドバイス”なんかほとんどないよ。」

「6節は“エホアシュの悪い決定から学ぶ。”で、“エホヤダが死んだ後,エホアシュは友達の影響を受けて悪いことを行うようになりました。(歴代第二 24:17,18を読む。)”とあります。史実性が高いとされる列王記12:2でも“エホアシュは祭司エホヤダに教えられていた間ずっと,エホバから見て正しいことを行い続けた。”とありますから、これは信用していい?」
「そうでもない。協会共同訳では12:3で、“ヨアシュは、祭司ヨヤダの教えを受け、生涯を通じて主の目に適う正しいことを行った。”となっている。これは接続詞の訳の違い。協会共同訳では、“なぜなら”と言う意味と解釈して、ヨアシュは生涯いい王様だった、なぜなら祭司ヨヤダが教えたから、という意味にしている。こちらの方が正しい。」

「そう訳すると、歴代誌と矛盾するので、JWとしてはそう訳せないわけですね。」
「JW訳は歴代誌と矛盾しないように、“祭司エホヤダに教えられていた間”だけいい王様でしたと訳したわけだね。JWも苦労しているね。」

「6節で、 “そして最後には,自分の家来たちに殺されました。(代二 24:22-25)”とあります。引照聖句は歴代誌ですが、これは信用できますか?」
「信用できないね。歴代二24:24には“シリア人がエホアシュに重傷を負わせて引き揚げると,エホアシュの家来たちは,エホアシュが流した祭司エホヤダの子たちの血のことで,謀反を企て,エホアシュをベッドの上で殺した。”とある。シリアとの戦争で重傷を負って、それからすぐに謀反が起きて殺されたようだけど、列王記にはそう書かれていないし、シリアとの戦争は前811年頃で、エホアシュが死んだのは前796年以降なので10年以上は間があるはず。」

「7節が教訓で、“エホバを愛していない人は,あなたにとってためになる友達とは言えません。”とありますが、訳がヘンですね。」
「Frankly, if your friends do not love Jehovah, you do not need them.だから、“率直に言って、あなたの友達がエホバを愛していないなら、必要ありません。”だよ。さっさと縁を切れ、ということ。カルトらしくて、ほれぼれする文章だ。」

「これではカルト色が強すぎると思った翻訳者が“あなたにとってためになる友達とは言えません。”と表現を和らげたのですね。」
「JWは典型的なカルトということだね。若い信者を孤立させるつもりだ。組織の言いなりになっていると、40歳になっても、組織の外には誰も知り合いさえいないということになり、この組織から出られなくなる。」

「奇妙な宗教の信者にたいしても親切に接してくれる同じクラスの生徒も、JWでなければ、you do not need them.というわけで、必要ないわけです。」
「これが自称・真のクリスチャンの態度ね。JWでなくても、親切な友達は必要だよ。テスト問題を教えてくれるかもしれない。彼らは宗教的信念を変えただけで、口も利かなくなる冷酷な人間ではない。」

「7節に“どんな年齢の人とも友達になることができます。エホアシュも,自分よりずっと年上のエホヤダを友としていました。”とありますが、JWが言うと不気味です。どれだけのJW少年・少女が親切な長老に性的虐待されたかを考えると恐ろしいです。」
「10歳の少年に親切そうに近づいてくる中年男がいれば、性的捕食者かもしれませんので、警戒しましょう、とこの記事で書くべきだ。それとは真逆のことをしている。」

「8節でソーシャルメディアを取り上げているのですが、“統治体の成員として奉仕したネイサン・ノア兄弟はこう言いました。「人を喜ばせようとしてはなりません。結局だれも喜ばせることはできないでしょう。エホバを喜ばせなさい。そうすればエホバを愛する人すべてを喜ばせることができるでしょう」。”とあります。3代目会長のノアの言葉は聖書並みの権威があるようです。」
「これは不完全な人間の統治体を喜ばそうとするのではなく、神を喜ばせなさいという意味でしょう。統治体の言うことは単なる参考程度でよいということじゃないかな。」

「ノア会長は輸血禁止の教義を推し進めた会長ですよ。確かに人を喜ばせようとはしていませんね。この教義でどれほどの人が死んだかを考えると、怒りを感じます。」
「輸血を拒否して何人死のうとも、エホバなる神様は喜んでいるからいいじゃないか、というのが、カルト宗教のリーダーとしてのノアの考えじゃないの。」

「9から11節が“謙虚な心を忘れない”です。 ウジヤ王の話ですが、たった3節しかありません。歴代誌からの話でよくある勧善懲悪ものです。10節には“残念なことに,ウジヤはエホバに忠実に仕え続けなかったために罰せられ,重い皮膚病になりました。”とあります。」
「英文ではleprosyとあるからハンセン病でしょう。古代にハンセン病の診断基準は確立していないけれど、どうしてハンセン病とわかったのか不思議だ。」

「このまま訳すとハンセン病差別になるから、“重い皮膚病”に変えたのですね。」
「そうだろうけれど、JWという宗教では、ハンセン病としていることはごまかさないで欲しいね。」

「ウジヤ王にはエホバは厳しすぎませんか?」
「とても不公平な神だね。ダビデは数々の罪を犯しながら、罰を受けるのはダビデ以外の人だった。それから、その息子のソロモンは、列王一11:5では“シドン人の女神アシュトレテとアンモン人の極めて不快な神ミルコムに従った。”とあり、列王一11:7では “モアブの極めて不快な神ケモシュのため,またアンモン人の極めて不快な神モレクのために,エルサレムの前の山に高い場所を築いた。”とある。とんでもない背教者なのに、皮膚病なし。」

「11節が教訓で“私たちが得ている全ての良いものはエホバから来ているということを忘れてはいけません。自分の成し遂げたことについて誇るのではなく,エホバに感謝するようにしましょう。”とあります。そうなると、良いものを得てない人はエホバから嫌われているということですか?」
「そうなんじゃないの。ヨブの話から分かるように、旧約聖書の思想は、裕福で子孫に恵まれているのは神から祝福されている証拠というもので、その逆は神から祝福されていないということ。」

「JWの多くはJWではない人より良いものを得ていません。貧乏で、技術や資格もありませんし、家族も真の友人もいないし、自由な時間もありません。エホバから嫌われているということですよ。」
「楽園の入場券があるから、それでいいじゃないか。」

「12から16節が“エホバに仕え続ける”です。 ヨシヤ王の話です。たいしたことは書かれていません。“ヨシヤは10代の頃にエホバに仕え始めました。”というのがキーポイントのようです。13節では“14歳でバプテスマを受けたルーク兄弟”が登場します。」
「14節では“12歳でバプテスマを受けたジョハン兄弟”が出てくる。組織は12歳までにバプテスマを受けさせたいということかな?幼児洗礼ではなく、児童バプテスマ推進派としてJWはこれから世の中に知られることになるのかな。」

「児童保護の観点からすれば、反社会的な政策です。」
「12歳でバプテスマ、16歳で排斥、17歳でホームレスという悲惨な若者を生み出さないか心配だ。バプテスマだけは受けない方がいいよ。」

「“12歳でバプテスマを受けたジョハン兄弟”は” クラスメートから電子たばこを吸うようにという圧力をかけられました。“とありますが、よっぽどすさんだ学校に通っているのでしょうね。」
「JWは貧困層の宗教だから、貧困層の多い地区に暮らし、貧困層が多い荒れた学校に通うことが多いのだろう。十代のJWの体験談は学校でセックスに誘われたとか、麻薬をすすめられたとか、というヒドイ話が多いのは、そういうことじゃないかな。」

「15節は聖書の勧めです。“あなたは聖書を毎日読んでいますか。聖書を読むのは楽しいですか。自分に役立ちそうな聖句を覚えておくために工夫していますか。”とあります。聖書は楽しいものですか?役に立ちますか?」
「奇妙な話で笑えることはあるけれど、悲惨で不条理な話が多い。楽しいものではないし、役にも立たない。特に改ざんしてあるJW訳は。」
「奴隷制容認、女性差別、一夫多妻容認、大量虐殺、民族差別、同性愛差別などうんざりしますよ。」

「実は、英文では、聖書を読むのは楽しいですか?とは言っていないね。」
「how is it going?とあるだけですね。」
「うまく行っていますか?、どんな調子ですか?という意味だよ。楽しいですかと誤訳したのは、翻訳者は聖書を読んだことがないからだよ。」

「16節が恐ろしいです。“ヨシヤは39歳の頃,良くない決定をしたために命を落としました。エホバに導きを求めずに,自分に頼ってしまいました。(代二 35:20-25)”と言ってから、この教訓として“何歳であっても,どれほど長く聖書を学んでいるとしても,エホバとの絆を大切にし続ける必要があるということです。”とあります。エホバってどんなに功績があっても、過ちを許さず、守ってもくれない神ですね。これは教訓として覚えておくべきですよ。」
「海外で宣教活動中に犯罪者に襲われて死亡しても、“良くない決定をしたために命を落としました。エホバに導きを求めずに,自分に頼ってしまいました。”と組織は言うかも、と覚えておくべきだね。」

「引照聖句には“エジプトのネコ王がユーフラテス川のそばのカルケミシュで戦うために上ってきた。ヨシヤはネコに立ち向かおうと出ていった。”とあり、結局ヨシヤ王は戦死するのですが、これは史実ではないようですね。」
「考古学調査によるとヨシヤ王の時代ではパレスチナ一帯は既にエジプトの支配下にあった。そうなるとヨシヤ王はエジプトのネコと戦うために出撃したのではなく、ネコの命令でネコの援軍として出撃したことになる。聖書に書かれていることは間違い。」

「それなのに殺されたわけですね。」
「ヨシヤ王の改革を知って、ネコ王は傀儡にふさわしくない、信用の置けない男と判断し、殺したのだろう。それを後の時代の人が戦死したことに変更した。」

「17から19節が“若い皆さん,幸せになってください”です。 3人の王について学ぶと、“そうすれば幸せな生き方ができます。”と言っています。ウソでしょう。」
「何を学んでも、JWである限り不幸だね。幸せになりたければ、若いうちからJWをやめるために慎重に計画を立てること。JW以外の友人を持つことは重要だ。」
「それでJW以外の友人を持つことを、組織は妨害するわけですね。」
「そうでしょう。JWから脱出するにはお金も大事だから、お金も持たせないようにしている。」

「18節で“ダビデの生涯について調べると,エホバに忠実に仕えていこうという気持ちが強まるでしょう。”と言っています。その反対ですよ。エホバのダビデのえこひいきがひどすぎます。バテシバの件では、ダビデを罰せず、産まれてきた子どもを死なせますし、人口調査の件では無関係な7万人を殺します。道徳観がおかしいです。」
「ダビデの生涯について調べると、ダビデは自分たちの宗教を他の民族に伝えるよう言われたことも、伝道するように言われたことも一度もないことがわかるよ。それなのになぜJWだけバカバカしい伝道をしないと滅ぼされると脅かされるのか、と疑問に思うよ。そう疑問に思ったJWがひとりでもいたら、ダビデの話も役立ったことになるね。」

#1486 2023年11月24日 14:02:21

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“温和な人は強い人(39)”で、主に学校に行っているJWを対象に、JWゆえにいろいろ非難されるけれど、むきになって反論するな、という内容です。」
「反論できるような知識や元気のあるJWはいないでしょう。何か言われたら、JWのホームページを見てくださいというだけ。」

「2節に“温和な人はすぐに怒らず,気分を害されたり思いも寄らないことが生じたりしても自分をコントロールできます。”とあります。すぐに怒るな、ということですか?」
「誤訳だね。英文ではA mild person does not get easily upset.なので、怒らずではなく“動揺しない”だね。自制とか克己ということ。」

「3から7節は“温和な人になるには”です。 3節では“聖なる力を求めて祈り,温和な人になれるように助けてください,とお願いすることが大切です。”とまず言っています。」
「まず祈りを持ち出すのはお決まりのパターンだね。執筆者は1節分稼げる。」

「4節は、創世記26章にあるイサクの話です。井戸の所有権でもめたとき、イサクは争わなかったとあります。そして“相手が悪意を持っているように思える時でも,イサクが穏やかでいられたのはどうしてでしょうか。いつも平和を大切にしていたアブラハムや,「物静かで温和な精神」を持っていたサラの様子をよく見て,たくさんのことを学んでいたに違いありません。”と、断定しています。“違いありません。”というのは根拠のない時のJW流の言い方です。」
「英文では“違いありません”とは断定していない。翻訳者が勝手に断定しているだけ。」

「その時は、イサクは神の恵みを受けて、資産がどんどん増えているという状況ですよ。金持ち喧嘩せず、ということじゃないですか?貧乏な人が多いJWにはあまり参考になりません。」
「創世26:12,13に“その年の収穫は,まいた物の百倍にもなった。エホバが祝福したからだった。イサクは裕福になり,その後も成功していき,非常に裕福になった。”とある。井戸一つでむきになることもない状況だ。」

「創世記を見ると、イサクはあちこちで井戸を掘りあてていますよ。」
「イサクは移動しながら生活する遊牧民として描かれているから、一つの井戸に執着しないのは当たり前。」

「5節が体験談です。“17歳のマクサンスは,学校や伝道で怒りっぽい人に会うことがよくありました。両親は,マクサンスが温和な人になれるよう辛抱強く助けました。”とあります。」
「17歳のマクサンスはまだ子どもだね。JWの独善性が周囲の人の怒りを引き出してしまうことにはまだ気づかないのだろうね。」

「両親は“自分を抑えられる人の方が強い”と教えたとありますが、いつも抑えられているJWがさらに抑えられるわけですよ。抑圧のさらに抑圧。まともな大人になりません。」
「マクサンスはJWをやめるという計画を周りに悟られないように自分を押さえて、よいJWを演じているだけだといいけどね。そうでなければ死んだ魚のような眼をした大人になるしかないね。」

「8から14節が“洞察力はどのように助けになるか”です。 9節には“ギデオンがエフライムの人たちにどう接したか考えてみましょう。”と言って、ギデオンが怒っているエフライムの人たちをうまくなだめた話が出てきます。これって洞察力と関係しますか?」
「ギデオンがどうやってなだめたかというと、裁き人8:2で“皆さんがしたことに比べれば私は大したことはしていません。”と言っている。要するに、ヨイショしただけ。洞察力がなくてもこれくらいはできるよ。」

「10節が職場や学校で取るべき態度です。“質問されたことを攻撃や批判と見なすのではなく,相手がどんなことに関心があるかを知るチャンスと考えることは助けになります。相手がどんな理由で質問したかに関わりなく,穏やかで親切な仕方で接するように心掛けましょう。”とあります。」
「例えば、エホバの人って、輸血するよりは死ぬことを選ぶって本当なの?と質問されたら、ニコニコしながら、穏やかに“はい、輸血するぐらいだったら死を選びます。”と答えるわけね。」

「11節が職場での誕生祝いパーティの断り方です。“仲間への気遣いにどれほど感謝しているかや,チームで仲良く働きたいと思っていることを伝えられます。そうするなら,同僚の不安を和らげることができるかもしれません。”とあります。具体的なセリフを教えて欲しいですね。」
「例えば、“聖書には誕生祝いで首を切られた話が出ています。これは誕生祝いを神が嫌っている明白な証拠に違いありません。私は間もなく来るハルマゲドンの戦いで、皆さんのように滅ぼされたくないので、神が嫌う誕生祝いには絶対参加しないのです。”と穏やかで親切な仕方で言えばいいよ。周囲の人は、誕生祝いにまでいちいちケチをつけるしょうもない神とあきれるだろうけどね。」

「12節は同性愛差別のごまかしかたです。“私たちがどんな人も大切に思っていることや,それぞれに自分の生き方を決める権利があると認めていることを知ってもらえるといいかもしれません。”とあります。偽善者ですね。」
「JWは自分の家族が同性愛者だったらどうするかを説明して欲しいね。忌避し、縁を切り、家族の葬式にも呼ばないでしょう。」

「同性愛者を嫌っているのはエホバであって、JWではないと答えるのはどうですか?」
「いいかも。責任転嫁し、とりあえず攻撃をかわす。」

「13節は“強い意見を持った人に会ったなら,どうしますか。”というものです。“学校の友達から,神を信じているなんてばかげている,と言われたとします。そういうとき,相手は進化論を信じているからそう言っている,と考えますか。実際は,誰かから聞いたことをそのまま話しているだけなのかもしれません。科学について議論を始めるのではなく,友達が後で考えられるように,資料を渡したり質問したりできます。”と、議論するのではなく、議論から逃げろと言っています。それがJWのできることですね。」
「JWこそ“誰かから聞いたことをそのまま話しているだけ”でしょう。“科学について議論を始めるのではなく”とあるけれど、“科学について議論を始めることは能力的に無理なので”というべきでしょう。」

「14節では“10代のニール兄弟は,エホバの証人に対する誤解を解くためにjw.orgを活用しました。”とあり、jw.orgを見せることを勧めています。それなら無知無学なJWもできます。」
「jw.orgにあるのは対外的な宣伝。組織の都合のいいことを言っているだけ。ある程度知性のある人はそのことにすぐ気づくよ。」

「14節では“ニール兄弟はjw.orgの「科学と聖書」のセクションを見てもらうことにしました。”とあります。あれは根拠のない断定が多すぎて、説得力がありません。せいぜい頭の悪い小学生をだますくらいですよ。」
「例えば、“恐竜について聖書は何と述べていますか”という記事。“化石を研究すると,恐竜は徐々に進化したというより突然現われたことが分かります。これは,神様がすべての動物を創造されたとする聖書の記録と一致しています。”とあるけれど、ウソだろう。」

「そもそもJWには古生物の専門家がいません。どこかのキリスト教原理主義の創造論者の意見を受け売りしているだけです。」
「しかも引用元を示さず、まるで広く信じられている意見かのように見せかけているのはサギ的だね。」

「それから“聖書によれば,海と陸の動物は創造の「五日目」と「六日目」に造られました。”とあり、脚注には“聖書中の「日」という語は,何千年にもわたる長い期間を指すことがあります。”とあるので、JWの主張では、恐竜は数万年ほど前に造られてことになります。」
「単位が違うよ。2,3億年前だよ。これは小学生でも気づくよ。」

「そこには“神様が恐竜の絶滅をお許しになったのは,その目的が果たされたからです。”とあります。どんな目的なのでしょうか?一部のJWは、恐竜はその巨体で土を耕す目的があったと信じているようです。バカバカしいです。」
「聖書の神様は恐ろしいね。目的を果たせば絶滅させる。それでも神は愛というわけ?」

「ここまでひどいと、jw.orgの「科学と聖書」のセクションなど誰も信じません。」
「インターネットで検索すると、はるかに詳しい情報が得られて、JWからの情報のウソがすぐばれる。」

「15から18節が“家族で準備する”です。 子どもの訓練の話です。JW得意の宗教的児童虐待ですね。子どもに親の宗教を押し付けるのは虐待です。」
「そんなことを気にするJWじゃないね。ガンガン子どもに宗教を押し付ける気だ。15節には“学校で尋ねられそうな話題を選び,どのように答えられるかを話し合って,実際にやってみましょう。”とある。JWの子どもはそんな嫌なこともさせられるとは、気の毒だ。JWについて、学校で何か尋ねられたら、あれは親がやっているだけですから、とJWじゃないふりをしたらいいよ。と」

「15節の下に、想定される反対意見が6つ出ています。こんなことを小学生は言いませんよ。」
「それに、かなり意図的に誤訳している。」

「最初の“神を信じるのは教養のない人だけだ”は、Only uneducated people believe in Godなので、教育を受けていない人だけが神を信じます、です。」
「JWは教育を受けていない人が多いので、反論しづらいということで、教養にかえたのだろう。」

「” 生命は進化によって存在するようになったんでしょ?”は、Evolution is a factで、進化は事実、ですね。翻訳を超えた創作ですね。」
「翻訳者は進化は事実と知っているから、別の文を創作したのだろう。それから進化は生命の発生とは関係ないよ。」

「3つ目が“神が全ての物を造ったんだとしたら,神を造ったのは誰なの?”も変えてますね。創造が真実なら、誰が創造者を創造したのですか、ですね。」
「これにJWがどう答えるのか知りたいな。これは答えづらいよ。」

「4つ目は“エホバの証人は同性愛者を嫌っているよね”ですが、英文ではhateですから、“憎んでいる”です。こんなことを言う子どもはいませんよ。」
「アメリカでは同性愛差別のJWとして有名なのかもね。でも日本ではまず話題にならないよ。」

「5つ目は“エホバの証人が宗教を変えるように圧力をかけるのは良くないと思う。”ですが、本当は疑問文ですよ。なぜ圧力をかけるのですか?と尋ねています。」
「これには圧力はかけていませんと、否定するのかな?こんなことを言う小学生もいないね。」

「6つ目の“あなたたちは都合のいいように聖書を解釈している”は、本当は“あなたたちは自分の信念に合わせて聖書を変えました。”ですね。」
「これは反論できないから、反論しやすい“解釈”にすり替えたのだろう。姑息な翻訳者だ。」

「16節に“練習するなら,説得力のある話し方ができるだけでなく,自分自身の確信を強めることができます。”とあります。子どもの洗脳が話し方を練習させる主な目的ということがわかります。」
「いくら練習したって、JWにだまされる人はあまりいないからね。JWの子どもは気の毒だ。」

「18節で“温和で親切な話し方をすることは助けになります。(コロサイ 4:6を読む。)”とありますが、誤訳ですし、引照聖句を理解していませんね。」
「expressing ourselves with tact and mildness can helpとあるので、”機転”と温和さをもって自分自身を表現することは助けになります、と言っている。tactは親切という意味はないよ。その場に応じて、とっさに適切な応対や発言ができることだ。」

「引照聖句には“塩で味付けされた快い言葉を語るように”とありますが、“快い”という単語は存在しませんから、付け加えたものです。塩で味付けされた言葉とあるだけです。」
「古代ギリシャでは、塩が振られた会話というのは、機知に富んだ楽しい会話と言いう意味なんだけど、翻訳者はわかっていないね。」

「18節では“自分の信じていることを誰かに伝えることは,ボールを投げることに似ています。優しく投げることもできれば,力いっぱい投げ付けることもできます。優しく投げるなら,相手はそれを受け取りやすくなるので,キャッチボールは続いていきます。”とありますが、納得できませんね。キャッチボールをするつもりのない人にやさしくボールを投げても、受け取りません。ボールはどこかに転がっていくだけです。」
「くだらない例えが多いのがJWの記事だよね。執筆者は伝道したことがないのかな?伝道したことがあれば、顔いっぱいの笑顔を作って、猫なで声で話しかけたところで、誰もJWの言うことなんか聞かないという経験をしているはずなんだけどね。」

「18節ではさらに“もちろん,ただ議論したり批判したりしようとしている人とは,話し合いを続ける必要はありません。”とあります。そういう人と対等に話せるJWはまずいませんので、しっぽをまいて逃げることを勧めているのでしょう。」
「やっぱり執筆者は伝道したことないよ。18節の最後で“多くの人は聞いてくれるでしょう。”と言っている。多くの人はカルトのたわごとに付き合うほど暇でもないし、物好きでもないことがわかっていない。」

「最後の19節では“温和な人であることを目指すなら,多くの良い結果につながります。”と、断定しています。そんなことありませんよ。」
「19節で“私たちの温和で敬意のこもった話し方を聞いた人たちは,エホバの証人や聖書に対する見方を変えるかもしれません。”とある。この記事の言う温和とは外部の人にJWは良い人と思わせて、JWにさせるためのテクニックにすぎないということだね。温和なJWにだまされる人が一人も出ないことを望むね。」

#1487 2023年12月01日 14:03:22

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“決して諦めなかったペテロに倣う(40)”で、JW失格気味の人でも、諦めずにJWを続けろ、という内容です。」
「JWの減少を食い止めようという記事だね。」

「1節に“ペテロは,「私から離れてください,主よ。私は罪深い男なのです」と言います。(ルカ 5:6-9)自分なんかがイエスと一緒にいるのはふさわしくない,と感じたのでしょう。”とあるのですが、違いますよ。」
「これはペテロ召命の場面。ペテロはイエスを主と呼んでいる。これはイエスが聖なる存在であることに気づいたことを示している。単なる人間にすぎない自分はその聖なる存在の前に立つに値しないと言っているわけで、ペテロがとりわけ個人的に罪深い存在ということではない。人間そのものが罪深い存在ということ。」

「2節に“確かに,ペテロは「罪深い」人でした。聖書にある通り,後悔するようなことを言ったりしたりしてしまうことがありました。”とあり、ペテロの“私は罪深い男なのです”発言を、執筆者は個人的な問題と解釈していることがわかります。」
「的外れだけれど、そう解釈すると、JW個々の信者へとつなげやすいからね。欠点や弱点があっても、ペテロのように頑張りましょうと言うわけだね。」

「2節に“エホバは,弱さがあっても諦めずに頑張り続けてほしいと思っています。”とありますが、エホバじゃなくて統治体の老人たちがそう思っているわけですよ。」
「統治体は自称・地上における神の代理だから、統治体=エホバで問題ないと思っている。」

「3節に“後悔するようなことを言ったりしたりしてしまうことは,誰にでもあります。でも,諦めずに努力を続けるなら,エホバは私たちが成長できるように助けてくださいます。”といっていますが、これは排斥された人向けですね。」
「組織は排斥を乱発しすぎたと、少し後悔しているのかもね。」

「3節の最後で“ペテロに対するイエスの思いやりにも注目するなら,エホバに仕え続けたいという気持ちを強められるでしょう。”と言っていますが、エホバ教らしいねじれですね。」
「普通なら、イエスの思いやりに注目するなら、イエスに仕え続けたいと思うでしょう、と続くよ。でもエホバ教だと、なぜかエホバに仕え続けたいという気持ちになるわけだ。」

「4から8節は“ペテロは諦めずに闘い続け,素晴らしい経験をした”です。 福音書にあるペテロ関連の話を適当にピックアップして、記事にしています。ペテロの“罪深い男”発言をとらえて、4節では“もしかすると,大きな失敗を何度かしていたのかもしれません。”と推測しています。」
「ペテロは犯罪者じゃないよ。“罪深い男”発言は召命の場面でのもので、イエスに会ったばかりのころ。宗教上の問題発言をするのはその後。」

「ペテロの召命の場面がいつ頃起きたかは福音書によって違いますよね。」
「ルカでは、イエスがカペルナウムに行き、シモンのしゅうとめを治療した後に召命。しかし、マルコではまず召命があり、その後にイエスはシモンのしゅうとめを治療し、重い皮膚病の男を治療し、カペルナウムに行くという時系列。マルコではペテロは何も言わず、“直ちに網を捨てて後に従った”とあるだけ。ヨハネでは全く違うストーリとなっている。」

「ルカでは数々の奇跡の後に、ペテロの召命があるわけで、奇跡が重要な働きをしたという設定ですね。」
「そして、ルカでは単なる漁師のペテロが極めて敬虔なことを言う。ルカの創作だね。黙って従ったというマルコの方が劇的でいいね。」

「6節に、ペテロの数々の失敗談が出ているのですが、水に落ちた話がありません。あれは面白い話なのに残念です。」
「マタイ14章だね。ペテロは“主よ,あなたでしたら,水の上を歩いてそちらに行くよう私に命令してください”といい、イエスは来なさいという。“そこでペテロは舟から出て,水の上を歩いてイエスの方に向かった。ところが暴風を見て怖くなり,沈み始めた時,「主よ,助けてください!」と叫んだ。 イエスはすぐに手を伸ばしてペテロをつかみ,「信仰の少ない人よ,なぜ疑いに負けたのですか」と言った。”とある。あまりにも情けない話なので省略したね。」

「ペテロの性急さ、すぐ気持ちが変わる不安定さ、そして何よりも信仰のなさがわかります。」
「だから、ペテロは愛すべきキャラクターなんだよ。」

「6節に“イエスが亡くなる前の晩には,ある人に襲い掛かり,耳を切り落としてしまいました。(ヨハ 18:10)”とあります。引照聖句には“大祭司の奴隷に襲い掛かって右耳を切り落とした。”とあります。つまりペテロは左利きということですね。」
「正面から切りつけたとすると、左利きということだね。耳を切られると、身体に欠損があることになり、大祭司の所では働けなくなる。」

「不思議なことに、ペテロは逮捕されていませんね。」
「ペテロは無視されて、イエスが逮捕される。ペテロはその後逃げもしない。現実にはあり得ない展開だね。」

「7節に“そして,ペンテコステの日にエルサレムで天に行く人たちが初めて選ばれた時,ペテロもそのうちの1人になりました。”とあるのですが、引照聖句がありません。つまり聖書的根拠はないということですね。」
「ペンテコステの話は使徒2章だけれど、天に行く人が選ばれたなんてどこにも書いてないよ。英語版でもそんなことは言っていない。翻訳がおかしい。」

「among the first to be anointed by holy spiritですね。」
「“聖霊によって油注がれた最初の人のひとり”という意味。天に行くなんてどこにもない。翻訳者は聖霊が嫌いだから、意図的に誤訳したんだろう。」

「8節に“西暦36年,ペテロはコルネリオが聖なる力によって天に行くよう選ばれるのを目撃します。”とありますが、英文ではanointed with holy spiritですから、聖霊によって油注がれた、ですね。」
「今のJWだと、天に行くように選ばれたというのは、単なる自己申告で、主の記念式の時に飲み食いする人という意味だよね。だから、こういう表現は誤解を招くし、そもそも翻訳者が創作してはダメだろう。」

「コルネリオの話は使徒10章ですが、その部分を読むと、およそ史実性があるとは思えません。」
「使徒10:28に“ペテロは言った。「よくご存じの通り,ユダヤ人にとって,別の人種の人と交友を持ったりそのもとを訪れたりするのは許されないことです。”とあるが、ウソだね。その当時、ユダヤ人は様々な民族・人種の人と様々な状況で交流していた。そうしなければ、ユダヤのようにローマ帝国に組み込まれている地域では経済も社会生活も成立しない。“使徒”の著者はユダヤ社会のことをあまり知らないということ。」

「ガラテア2:7で、パウロは“彼らは,割礼を受けた人たちにペテロが良い知らせを伝えることになったように,割礼を受けていない人たちに私が良い知らせを伝えることになったのを知りました”と書いています。ペテロはユダヤ人に伝道し、異邦人はパウロが伝道するという役割分担があったようですが、こちらの方が正しいのじゃないですか?」
「恐らくそうだろう。ペテロたちは異邦人に伝道することに消極的だったと考えられている。しかし、使徒たちの活動が書かれた時代ではキリスト教は異邦人中心の宗教となっていて、その事実をふまえ、最初からペテロたちも異邦人への伝道活動を開始していたというように歴史を書き直した。」

「つまり、異邦人への伝道活動は、パウロのような新参者のだけが推し進めたのではなく、ペテロのようなイエスの直弟子たちも賛成していたということにしたわけですね。」
「使徒たちの活動は、ペテロもパウロも同じ考えで、一致協力していたというように、初期キリスト教を描いているが、それはプロパガンダで、実際は様々な対立があった。」

「8節にもそのような対立を少し取り上げていますね。“ユダヤ人のクリスチャンの中には,ユダヤ人と異国人が一緒に食事をすべきではないと考えていた人たちもいました。そうした人たちがアンティオキアに来た時,ペテロは異国人の兄弟たちと食事をするのをやめてしまいます。”とあります。」
「エルサレルムにいた主流派はモーセの律法を守るべきと考えていて、パウロとは対立していた。その板挟みで困ったのがアンティオキアという異郷の地にいたペテロという構図だね。」

「9から11節が“何が頑張り続ける力になったか”です。 9節に“ペテロは揺るぎない愛を持っていました。だからこそ,どんなことがあってもイエスに従い続けることができました。”とありますが、訳がへんです。愛はでてきませんよ。」
「Peter was loyal だから、ペテロは忠実でした、だね。忠実を愛にすり替えている。翻訳者はペテロが忠実な男とは思えなかったのだろう。」

「10節に“イエスも揺るぎない愛を示し,ペテロのことを見放しませんでした。”とありますが、Jesus did not abandon Peterとあるだけで、愛など書かれていません。」
「イエスはペテロを見捨てませんでした、とあるだけ。翻訳者はこれだと説明不足と思って、翻訳者の大好きな愛を勝手に入れたんだよ。」

「11節はJWらしいひねりが加わります。イエスは“復活した後に奇跡を行い,ペテロとほかの使徒たちがまた大量の魚を捕れるようにしました。(ヨハ 21:4-6)この奇跡を見たペテロは,生きていくのに必要な物をエホバが必ず与えてくれるということを確信したはずです。使徒たちは,「王国……をいつも第一に」するならエホバがほかのものを与えてくれる,というイエスの言葉を思い出したことでしょう。”とあります。ペテロの話も、いつのまにか王国第一主義の宣伝になりました。」
「イエスが与えてくれたのに、なぜ“必要な物をエホバが必ず与えてくれるということを確信”するわけ?エホバ教ならではのねじれだね。」

「12から15節が“どんなことを学べるか”です。 体験談がでてきます。12節は“例えば,ある兄弟は真理を学ぶ前,同性愛者で,その生き方を何年も続けていました。”と同性愛者をとりあげ、“エホバが力を与えてくださいます。”と言ったことになっています。」
「同性愛者は絶対認めないぞ、というメッセージだね。同性愛差別のJWだからね。」

「13節はナチス時代の話です。ホルスト兄弟は“当時学校では,「ヒトラー万歳!」というあいさつをすることが求められていました。兄弟は,先生やクラスメートへの恐れの気持ちに何度か負けてしまったことがありました。そんな兄弟のことを両親は叱るのではなく,勇気を求めて一緒に祈ってくれました。”とあります。ハイル・ヒトラーくらい気にしなくていいということですか?」
「そうではないと思うけれどね。この体験談の元の記事は1998/2/22の“目ざめよ”の記事だけど、そこには“終戦となった1945年5月のほんの数か月前,私はヒトラー青少年団の活動に自発的に参加してしまいました。”とある。本当はエホバよりヒトラーの方が好きだったんじゃないの?」

「13節で、この兄弟は、“エホバは決して私を見捨てられませんでした。”と言っていますが、戦争が終わり、ナチス体制が崩壊したので助かっただけですよ。」
「JWはその程度のことでも理解できないようだね。良いことが起きると、エホバのおかげだと条件反射的に考えるよう訓練されている。」

「14節には“長年長老として奉仕しているポール兄弟は,落ち込んでいる兄弟姉妹をいつも元気づけています。兄弟はそうした人にまず,エホバがどのように引き寄せてくださったかを思い返すように勧めます。”とあるのですが、JW2世の人にはどう元気づけるのですか?JWの両親のもとに生まれるなんて、なんという特権でしょう、と元気づけるのですか?」
「それは逆効果だから言わないでしょう。普通の家に生まれたかった、というのはJW2世の切なる願いだからね。」

「この兄弟は“落ち込んでいたもののエホバに助けられて頑張り続けている兄弟姉妹の様子をたくさん見てきました。”と言ったことになっています。JWゆえに落ち込んでいたんですよ。つまらない伝道や集会に参加させられて、嫌でしょうがないのに、JWを続けざるを得ないとは気の毒です。」
「“頑張り続けている”となっているけれど、英文ではpersevere。これは我慢してやり通す、辛抱する、耐える、という意味。“頑張り続けている”だと、まるで喜んで続けているかのような誤った印象を与える。」

「15節に、この記事で一番言いたいことが出ています。“エホバは,ペテロや使徒たちに必要な物を与えました。私たちが生活の中で宣教を第一にするとき,エホバは同じように支えてくださいます。”とあります。騙されやすい信者を無給の宣教活動にさらに駆り立てるつもりですね。」
「こんなことで騙されるJWはもう死に絶えたよ。それで、今や、奉仕時間を報告する義務もなくなった。」

「先ほどのヒットラー大好きだったホルスト兄弟の話が出ていて、“巡回訪問中,毎日奉仕に出て,エホバが必要な物を本当に与えてくださるかを試してみることにしました。週の終わりに,兄弟は巡回監督から匿名の封筒を渡され,びっくりしました。中には数カ月開拓奉仕をやっていくのに十分なお金が入っていたのです。”とあります。こんなことは宝くじに当たるよりも滅多にないことくらい、完全に洗脳されているJWでもわかりますよ。」
「巡回監督はいつも会衆に意地汚くたかってばかりいないで、時にはカネを恵んでやれという指示だよ。誰も実行しないと思うけれど。」

#1488 2023年12月08日 14:33:55

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“ペテロの2通の手紙から学べること(41)”で、JW活動をまじめにやりながら、終わりを待ち続けろ、という内容です。」
「ペテロの手紙の作者はペテロじゃないというのは常識なんだけどね。それをJWに言っても仕方がないか。」

「1節に“西暦62年から64年ごろに,聖なる力に導かれて2通の手紙を書きました。「ペテロの第一の手紙」と「ペテロの第二の手紙」です。”とありますが、この書かれた年代も違いますよね。」
「作者をペテロとすると、死亡年から言って、そのあたりだろうという推測だね。実際に書かれたのは2世紀以降だろう。」

「ペテロ二だと、それが知られるようになるのは3世紀ですよ。」
「使徒ペテロが60年代に書いたとすると150年以上も知られていなかったことになる。そんなことありえないよね。ペテロ二では終わりの日が来ないことが問題になっているから、書かれた年代はかなり後だね。」

「しかもペテロ二はユダの手紙と同じ部分がけっこうありますよ。」
「それもペテロ二の作者がペテロではないことの根拠の一つだ。ペテロ二がユダの手紙から引用していると普通は考える。JWはそう考えないけれどね。」

「3節に“ペテロが書いた手紙は,1世紀のクリスチャンに宛てられたものでしたが,エホバはそれを聖書に含めることにしました。”とあります。歴史を無視していますね。」
「ペテロの手紙を聖書に含めることにしたのは4世紀のキリスト教の指導者たち。JWの見解では、この人たちは背教した偽クリスチャンじゃなかったの?」

「そういうことを言われないように、エホバが選んだと根拠もなく強弁しているわけですね。」
「JWが使っている聖書はプロテスタント系の聖書。これもエホバが選んだというのかな?JWがいうように、エホバは聖書に関してちょくちょく介入したのなら、聖書のオリジナルを保存させるということも、神の名前を維持することもはしなかったのはなぜなのかな?」

「4から6節は“エホバの日を待ち続ける”です。 ペテロ二3章の話です。4節では“私たちが長年「終わりは近い」と言い続けていることをばかにする人もいるかもしれません。”といっています。さすがに鈍感なJWでも終わりが来ないことで、気まずい思いをしているようです。」
「その後に、“「終わりなんて絶対に来ない」という人さえいます。(ペテロ第二3:3,4を読む。)”とあるのは、JW流の“わら人形”的詭弁だ。終わりが絶対来ないという意見は聞いたことがないし、引照聖句にもそういう人のことは書かれていない。何事も永遠に続かない以上、どんなものにもいつか終わりは来るよ。」

「わら人形は英語でストローマンというので、ストローマン論法ともいいますよね。」
「わら人形論法は、相手の考えや意見をわざと歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという詭弁だね。相手の本当の意見には反論しづらい時に、反論しやすいようにわざと歪めるわけだ。そして相手を論破したように見せかける。JWがよく使う手法。」

「5節は終わりが来ない理由で、“エホバの時間の感覚は人間とは大きく異なる,とペテロは書いています。(ペテロ第二3:8,9を読む。)エホバにとって,1000年は1日のようです。エホバは,一人も滅ぼされないでほしいと思って辛抱してくださっています。”とあります。これも聞き飽きましたね。」
「JWはこれを終わりが来ない言い訳に使うだけで、真剣に受け止めていないよ。5000年先でも、神にとっては5日後にすぎないよ。イエスの時代からまだ2000年くらいしかたっていない。つまり2日だ。まだまだ終わりの日は来ないと考えるべきでしょう。JWは自分の老後を心配しよう。」

「年取ったJWなら60年くらいは終わりの日を待っていますよ。エホバも忍耐強いですから、同じ年月待てるとすると、エホバ感覚では60×365×1000=21900000年は待てます。」
「そういう訳で、終わりに日が近いと言っているのはおかしな終末宗教だけということになる。」

「それから“一人も滅ぼされないでほしいと思って辛抱”しているのなら、まだまだ先です。世界では1日に約20万人生まれています。新たに1日で20万人以上JWに改宗させないと、JW以外の滅ばされる人がどんどん増えることになります。あと100万年ぐらいしたら、ひょっとしたら人口の80%がJWになっているかもしれませんよ。それまでエホバは待ちます。」
「JWの数は相当水増しされていると言われるから、本当はJWは減少し続けているかも。滅ばされる人は増え続けていて、終わりの日はまだまだ来ないね。」

「6節に“ペテロはエホバの日について「いつも考え」るようにと勧めています。(ペテロ第二3:11,12を読む。)”とあるのですが、引照聖句の訳がへんですよ。そこには“エホバの日が来るのを待ち望み,それについていつも考えましょう”ですが、そんなこと言っていますか?」
「協会共同訳では“神の日の来るのを待ち望み、それが来るのを早めなさい。”だね。こちらが普通の訳。神の日は固定したものではなく、神の民や人類全体の準備状況で早まるという思想が述べられている。」

「“いつも考える”は誤訳ということですね。」
「そう訳している聖書は他にないでしょう。JWの教義では終わりの日は固定したものなので、“早める”という訳はJW的には不都合なので、別の訳にしたのだろう。JWの教義があって、次にそれに合った聖書を作るというのがJWのやり方。」

「6節では“新しい世界での素晴らしい生活について,毎日考えることができます。”とあり、信者には幻想の世界に逃避することを勧めています。」
「こんなことしかJWという宗教は信者に与えるものがないということだね。余命わずかな老人ならそれでいいかもしれないけれど、若い人にはそれではダメでしょう。」

「7、8節は“人への恐れを乗り越える”です。 伝道の勧めです。伝道をしたがらないJWが増えているようです。7節では、“でも,人の目が気になって話すのをためらってしまうことがあるかもしれません。”と言っています。JWであることくらい恥ずかしいことはありませんよ。」
「JWのメッセージに誰も確信が持てないから、話せないんだよ。輸血禁止や体罰のことでも、組織はそれまでの発言を翻して、それは個人の見解や決定で組織は無関係という態度をとっている。まじめな信者ほど何が真実なのかわからなくなるよ。」

「それもありますけれど、末端の信者はこの社会の中で生きていかなくてはならないのですから、JWの独善的な主張を述べて、周囲の人と不必要な摩擦を引き起こしたくないのです。」
「周囲から切り離された本部の建物の中で、信者の寄付で優雅に暮らしている宗教貴族たちとは置かれている状況が違う訳だね。」

「8節で“どうすれば人への恐れを乗り越えられますか。ペテロはこう言いました。「心の中で主キリストを神聖な方としてください」。(ペテロ第一3:15を読む。)”とあります。エホバ教のJWには関係ないですね。引照聖句が、いつの間にかペテロ一に変わっています。」
「JWにとって、イエスはどうでもいい存在。大事なのはエホバなる神様だけ。」

「協会共同訳では“ただ、心の中でキリストを主と崇めなさい。”です。JW訳とは違いますね。どちらが正しいのですか?」
「この部分はイザヤ8:12、13を基にしていると考えられた。そこには“彼らが恐れるものを恐れてはいけない。恐怖に震えてはいけない。 大軍を率いるエホバだけを神聖なものとし,この神だけを畏れ,この神の前で震えるべきである。”とある。」

「ペテロ一3:14,15は“人々が恐れるものを恐れたり,動揺したりしてはなりません。  心の中で主キリストを神聖な方としてください。”となっていますね。確かにそっくりですね。」
「それは初めからではなく、元は“キリストを主と崇めなさい”というものだったのに、イザヤ書に合わせるために“キリストを神聖なものとしなさい”へと改変されたと考えられている。」
「協会共同訳はその考えに基づいて訳しているのですね。」
「現代の他の訳もほとんどがそうしているよ。新改訳では“むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。”と折衷的な訳にしている。」

「8節では“職場や学校にいる時など,いろんな機会に伝道したいと思いますか。”とあります。答えは、したいと思わない、に決まっています。」
「組織の方針は職場や学校で伝道しなさいということなんだ。大多数のJWはこんな記事など真面目に受け取っていないから、職場や学校で伝道するなどと言う迷惑行為はしないよ。」

「9から12節が“熱烈に愛し合ってください”です。 ペテロ一1:22からの引用です。11節に“この「熱烈に」愛するという表現には,愛を示すのが難しいと思える相手にも努力して愛を示す,という考えが含まれています。”と解説しています。本当にそういうことを言いたいなら、別の表現をしますよ。」
「仲の悪いJWがあまりにも多いので、強引に嫌いなJWでも仲良くしなさいという説教にもって行ったということだね。」

「12節では“仲間を許して仲直りするために,できる限りのことを行うようにしましょう。”とあります。これもよく繰り返されます。会衆内での犯罪が後を絶たないということですね。」
「児童性的虐待の被害者も、加害者を許して仲直りしないと、周りから非難されるのがJWの道徳観。」

「13から15節が“長老として会衆の仲間を支える”です。 長老に向けた部分です。14節では“長老の皆さんは兄弟姉妹を愛し,支えになりたいと思っていることでしょう。でも,忙しかったり疲れていたりして,そうするのが難しいと感じることがあるかもしれません。”とあり、今の長老が大して働いていないことを間接的に認めています。」
「“長老の皆さんは兄弟姉妹を愛し,支えになりたいと思っていることでしょう。”というのはすごい皮肉だよね。たいていの長老は自分を支えるのも難しいという状況。」

「15節では“長年長老として奉仕しているウィリアム兄弟は,牧羊は大切だと感じています。”とあり、長老はもっと牧羊をしろ、と言っています。」
「これは架空の長老だろう。15節に“兄弟はこう言います。「家に独りでいると,いろいろと良くない方向に考えてしまうことがあるものです」”とある。コロナの間、信者は集まりあうことがなかった。集会が再開されたのに、出席率は低いし、奉仕活動も低調。やっぱり信者を一人にさせるとダメだ、と組織は再認識したということだね。それで長老の尻を叩いているわけだ。」

「具体的に何をするかというと、“そしてjw.orgから役立ちそうな動画や資料を見つけて,それを伝えるようにしています。”とあります。これなら誰でもできそうですが、こんなことでいいのですか?」
「長老の半数は60代以上で、若い人の多くは長老になりたくないし、長老になりたい人はたいてい問題ありの人。動画を見せれば解決するとは思っていないだろうけれど、人手不足なんだよ。」

「15節の最後が泣けます。ウィリアム兄弟は“一人でも多くの人にエホバについて知らせるよう一生懸命努力するのであれば,兄弟姉妹がエホバの側にとどまれるよう支えるためにも,同じように努力するべきだと思います。”と言っています。信者の新規獲得が困難な現状では、今の信者の脱落を何とか防ぐことに努力すべきという主張です。衰退期の組織とはこんなものですね。」
「長老は現有信者を一人でも減らさないよう努力せよと、はっきり書いてくれないと、あまり頭の良いとは言えないJWの長老には伝わらず、これからも気楽に排斥処分を乱発するよ。」

「最後の16,17節は“エホバに最後まで訓練していただく”です。 ここはまとめで新しいことはほとんどありません。15節で終わらせるわけにはいかないようです。」
「16節の最後に“そして,ペテロが言っている通り,「神は,皆さんの訓練を終え……皆さんをしっかりした人,強い人,揺らぐことのない人にしてくださ」います。(ペテ一 5:10)”とある。神が訓練する?訳がへんだよ。」

「協会共同訳では“神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。”ですね。訓練なんか出てきません。」
「元のギリシャ語の文は最後に動詞が4つ連なるというもの。それで、協会共同訳は“癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。”となっている。JW訳はその辺が滅茶苦茶。神が訓練するなんて言っていない。」

「インチキ翻訳に基づいて、エホバに訓練していただくというのは、要するにエホバ=組織が信者を訓練するということですね。」
「そんな訓練を受けたら、ろくなことにはならないね。でも17節では“エホバに訓練していただくなら,永遠の命を得ることができます。”と断言している。」
「またもや永遠の命が登場です。楽園での永遠の命という幻想しか信者を走らせるニンジンはないということですね。」

#1489 2023年12月15日 14:34:32

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1490 2023年12月22日 14:32:44

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは私たちを強い人にしてくださる(43)”で、落ち込んだ時の元気の出し方、という内容です。」
「JWという人生はつらいことが多いからね。力づけてもらう必要は常にあるよね。でもこの記事は役に立ちそうもないよ。」

「4から9節が“祈りと個人研究”です。 4節に“エホバに祈り,聖書を読むなら,忍耐し,喜びを保つのに必要な力をもらえます。”とあります。」
「いつもの決まり文句。」

「5,6節にヨナの話が出てきます。ヨナの話を実話として取り上げているのがイタイですね。“ヨナは船の外に投げ出され,気が付くと,大きな魚の腹の中にいました。この異様な空間で,ヨナはどう感じたでしょうか。”とあります。小学校3年生の国語の時間ですか?普通は死んでいます。」
「5節に“大きな不安を感じたヨナは”とあるけれど、ヨナ2章にあるヨナの祈りには、何の不安も苦しみも出てこないよ。」

「6節で“悔い改めて謙虚に祈りました。ヨナは,聖書の言葉をじっくり考えることもしました。このことは,ヨナの祈りの中に「詩編」で使われているのと同じような表現がたくさん出てくることから分かります。(ヨナ 2:2,5と詩編 69:1; 86:7を比較。)”とありますが、全然違いますよ。」
「ヨナの祈りはふざけた祈りだね。」

「ヨナの祈りは悔い改めでも、救いを求めるものでもありません。まだ魚のお腹の中にいるのに、苦難から救い出されたものが神に感謝する祈りです。しかも詩編からのパクった表現が多いです。」
「ヨナ2:2に“苦難のさなか,私はエホバに向かって叫びました。”とある。事実に反するんだよね。ヨナは1:6で船員から“どうして眠っているんだ。起きて,あなたの神に呼び掛けてくれ!”と言われるけれど、ヨナは神に呼びかけず、1:14で船員たちが“ああ,エホバ,どうかこの人のことで私たちを死なせないでください!”と代わりに呼びかける。」
「つまり、ヨナはでたらめな祈りをしているわけですね。」

「2:4で“私はあなたの目の前から追い払われた。”とヨナは言うけれど、本当はヨナが神から逃げた。」
「それから2:8で“無価値な偶像を崇拝する人は,揺るぎない愛を示す方を捨てています。”というのもへんですよね。異教徒の偶像崇拝者である船員たちがヨナよりエホバを信頼していました。」
「つまりヨナの祈りは真の祈りのパロディで、この祈りの部分は読者を笑わせる部分。」

「7、8節が台湾の兄弟の体験談です。輸血問題が出てきます。8節で“大きな手術が終わった後,看護師に,赤血球の数値が下がっているので輸血が必要だと言われました。”が、“同じ手術を受けた姉妹の経験を読んでいました。姉妹は兄弟より赤血球の数値が低かったのに,輸血を受けずに無事に回復することができました。”と、個人研究のおかげで輸血せずに済んだということのようです。」
「運が良かっただけ。急性出血の場合、へモグロビンが6g/dL 以下では輸血はほぼ必須となっているけれど、その基準を下回ったのに輸血しないからと言って直ちに全員死亡するわけではないよ。何%か知らないけれど、助かる少数の人はいる。」

「出版物にあった真偽不明の体験談をもとに重要な判断をするのはやめた方がいいですよ。」
「JWという宗教はこうやって信者の命を危険にさらすわけだ。」

「実際は、輸血を拒否したにもかかわらず助かった人の、何十、何百倍の人が輸血拒否ゆえに死んでいるわけですよ。それは体験談として取り上げられることはないだけです。」
「取り上げられるときは殉教者として、その死を賛美するためだね。今の体制で生きるよりも、楽園で永遠に生きることを選んだのです、と賛美する。実に危険な宗教だ。」

「10から14節が“仲間の兄弟姉妹”です。 10節に“エホバは仲間の兄弟姉妹を通して私たちを力づけてくださることもあります。”と書いています。でもそんなことは滅多にありません。JW以外の人の方がよっぽど頼りになります。」
「高齢の貧しい信者を助けることよりも、無意味な伝道活動を優先するのがJWという宗教。他の宗教の方が貧しい人に対して配慮する。」

「11,12節がルカ1章にあるイエスの母のマリアの話です。12節に“自分一人で頑張るのではなく,助けを求めました。例えば,ガブリエルにこの任務についてさらに教えてくれるようにと頼みました。(ルカ 1:34)その後すぐ,ユダの「山地」まで長旅をし,親族のエリサベツに会いに行きました。”とあります。仲間の兄弟姉妹は出てきませんね。頼ったのは親戚じゃないですか。」
「マリアはエリサベツに会いに行くけれど、それは天使がエリサベツも高齢だけど妊娠したよ、と言ったのでそれを確かめに行ったと思うよ。助けを求めに行ったとは聖書に書いていない。」

「13節が、父親が病気の姉妹の体験談です。一人で頑張っていたのですが、限界が来て、“それで姉妹は,自分の状況について何人かの友達に伝えることにしました。こう言っています。「仲間の兄弟姉妹が本当に力になってくれて,感激しました。”とあります。いい話じゃないですか。」
「自分が困っていることを伝えるまで、誰も助けてくれないことこそ問題だよ。積極的に助けを求めないと誰も助けてくれない冷たい人たちがJWということだね。」

「長年開拓者として奉仕していたけれど、病気になって入院し、集会に来られなくなったら、誰も見舞いにも現れず、そのまま忘れ去られて、あの姉妹はどうなったんだろうと、話題になった時は、すでに死亡してから1年くらいたっていた、なんて話はよくあります。」
「無意味な伝道なんかやめて、お互い助け合うようにすると、今よりいい宗教になると思うよ。」

「14節は長老を取り上げます。“心配事があるときには,長老に伝えてください。長老からの助けをためらわずに受け入れましょう。”とあります。祈ったり、聖句を読んだりと、助けてくれるのでしょうか?」
「JWの教義しか知らない長老に多くのことを期待する方が間違い。善意と聖書の知識だけでは人を助けることはできない。過大な任務を押し付けられる長老なんかさっさと辞任しよう。」

「15から19節が“将来の希望”です。 この記事の主要な部分ですね。15節で“クリスチャンである私たちには,永遠に生きるというかけがえのない希望があります。”とあります。いつものニンジンですね。こんなことをまじめに信じているJWはどれほどいるのでしょうか?」
「みんな信じているんでしょう。でもそれが信者を走らせるためのニンジンとしては役立っていないようだね。天国や地獄を信じていても、それが現実の行動にそれほど影響しないのと同じ。」

「16,17節はパウロの話です。17節に“パウロは希望に目を向けることによって力を得ました。(コリント第二4:16-18を読む。)”とあります。」
「引照聖句の中で“たとえ私たちの外面は衰えていくとしても,内面は日々新しくされていくのです。”とあるけれど、これはJWには当てはまらないね。外面も内面も衰えていくのがJWじゃないの。」

「18節が弟を事故で亡くした兄弟の体験談です。“兄弟の家族は立ち直るために,将来の復活の様子について思い描くようにしています。”とあります。復活こそが将来の希望ということですね。」
「終末論があまり説得力がなくなったので、代わりのセールスポイントとして強調しているのが、楽園で死んだ人に再び会えますという復活幻想ということだ。」

「多くの宗教は死後の世界で死んだ人と会えるといっていますよ。死んだ人に会いたという希望が欲しければJWに入る必要はありません。JWの楽園は住むところも指定され、1000年間も仕事に明け暮れることになっていて、少しも楽園ではありません。」
「多くのJWはそのことを知らないよ。18節でも“弟とどこで会うか,どんな料理を作ってあげるか,最初のパーティに誰を呼ぶか,終わりの時代についてどんなことを話すか,といったことをみんなで話し合っています。”と言っている。復活した人の服や靴は誰が作っているの?料理に使う食材は誰が生産するの?その生産したものを誰がどうやって自分の家まで運んでくるの?そういうことは何も考えていないよね。だから単なる幻想なんだよ。」

「パーティに欠かせないのは冷たい飲み物です。おそらく冷蔵庫は楽園にないですよ。楽園の想像図では電信柱も電線も見たことがありません。電気のない世界です。」
「冷たいビールが飲めないなら、楽園とは呼べない。」

「18節の下の挿絵の説明には“耳の不自由な姉妹が聖書の約束についてじっくり考えている。ミュージックビデオを見て,新しい世界で自分がどんなことをしているか,イメージを膨らませている。”とあるのですが、これはどうなんですか?耳の不自由な人がなぜ音楽家にあこがれるのか理解できません。違和感を覚えます。」
「執筆者は耳の不自由な人はそういうものだと思い込んでいるだけ。JWでは障がいのある人は自分を欠陥人間とみなして、楽園でその欠陥が修正されることを夢見ながら、伝道、集会、建設工事、寄付といったJW活動をしなさいというメッセージだね。」

「この挿絵の女性はきれいな歯並びをしています。お金をかけて歯列矯正したのでしょうか?楽園に行くと歯並びはよくなるのか知りたいです。」
「統治体に手紙でも書いたら?間もなく楽園が来て、楽園では歯並びが完全になるのであれば、歯列矯正を先延ばしにしたいと思いますが、どうすべきでしょうか?」

「19節は、希望をしっかり持ち続けるための方法論です。まず“パラダイスに関する聖書の言葉を読んでじっくり考えるようにしましょう。(イザ 25:8; 32:16-18)”とあります。引照聖句はJWのいう楽園のことを言っていません。」
「例えばイザヤ25:8には“神は死を永久にのみ込む。主権者である主エホバは全ての顔から涙を拭う。ご自分の民に対する非難を全世界から除き去る。”とあるけれど、ここで言う民はイスラエル民族のこと。すぐ後の25:10では“エホバの手がこの山の上にとどまる。モアブは自分の場所で踏みつけられる。肥やしの山の上で踏みつけられるわらのように。”とイスラエル人が大嫌いなモアブ人の破滅を予言していることからわかるように、古代の話で現代とは関係ないよ。」

「イザヤ書にある理想の国家は古代人の理想であって、現代人にとって魅力的じゃないですよ。やたらと果樹園が出てきますが、そんなに果物を食べたいですか?古代イスラエルの果樹というとなんですか?」
「代表的なのはオリーブ、イチジク、ブドウかな。生で食べることはあまりない。冷蔵庫がないからね。」

「干しブドウでも古代イスラエルにとって贅沢品なんでしょうね。」
「そこで理想の状態を描くときやたらと果樹園が出てくる。しかし現代人にとっては貧弱な食生活のように思えるよ。」

「JWの楽園では肉食は禁止なんですよね。そうなると、絶対、動物をひそかに殺して食べる人が続出しますよ。その場合は死刑ですか?すこしも楽園じゃないですね。今の北朝鮮ですね。」
「JWの楽園での食生活を想像すると、そんなところに住みたくなくないな。しかも、細かで理不尽な規則がたくさんあって、住む場所は組織が決めて、復活した人に1000年間JWの教義を教え続けなくてはならないのだから、冷たいビールとうまい肉がないと絶望して自殺者が続出するよ。」

「19節では“楽園の様子を描いた出版物の挿絵やミュージックビデオを見ることができます。”とあります。これから楽園幻想を振りまく動画や音楽が、信者の寄付でたくさん作られていくということですね。現実逃避の勧めです。JWであるということは、決して自分の人生に真剣に取り組むことはない、ということですね。」
「でも、そんな動画もすぐにネタ切れになる。似たようなものが粗製乱造されることになるよ。信者の寄付はもっと、信者のために使って欲しいね。」

「JWの楽園を描いた動画を見たのですが、太っている人は出てきません。楽園にいくと自然に最適な体重になるということですか?いくら食べても太らなくなる?」
「よく見ると、けっこう太っている人も出ているよ。服装でごまかしているだけ。」

「最後の20節はまとめです。“真剣に祈り,個人研究をしてエホバからのアドバイスを探しましょう。兄弟姉妹からの支えを喜んで受け入れてください。将来の希望について具体的に思い描くようにしましょう。”とあります。」
「楽園を思い描くことは何の力にもならないよ。カルトが利用するのは恐怖心。組織の言うことを聞かないと、どんな恐ろしいことになるかを言わないと、信者は動かないよ。」
「カルトらしく、楽園幻想ではなく、ハルマゲドンで死者が街にあふれているという悪夢のような挿絵や動画を作るべきということですね。」

#1491 2023年12月29日 14:30:17

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“聖書を深く掘り下げて学ぶのは楽しいこと(44)”で、JW流の聖書の読み方を学ぶ、という内容です。」
「英文のタイトルはExplore Every Dimension of God’s Wordで、“楽しいこと”なんてないよ。勝手に付け加えたのは、信者の感情までコントロールしようというカルト体質のせいかな?」

「次回は今年の最後です。」
「来年こそ、楽園が来るといいね。」

「1節は“家を買うかどうかを考えているとしましょう。”と始まります。貧困層が多いJWには不適切な内容です。夢を持たせるつもりですか?」
「せめて、家賃の安い引っ越し先を探しているとしましょう、と現実にあうように変えて欲しいね。でも対外的イメージを良くしたいようで、JWの生活実態とは無関係な写真やたとえを使うのが好きだね。」

「2節に“ある聖書学者は,聖書を「土台が深いところにある,広くて高い建物」に例えています。”と相変わらず出典を示さない不正引用ですが、訳がヘンですね。」
「“土台が深い”がヘンだね。元の英語はdeep foundationsだから“深い基礎”でしょう。土台というのは木造建築で、基礎の上にある柱を受ける横材のこと。“ある聖書学者”は欧米人だろうから木造建築をイメージしていないよ。」

「2節にJW流の聖書解読法が出ています。“聖書を学ぶ時は,読んでいる部分が別の部分とどのように関係しているかに注目しましょう。”とあります。別々に書かれたものを何の根拠もなく勝手に結びつけて、これが聖書の預言だといって、ことごとく外してきた自分たちの過去に対する反省がありませんね。」
「代表的なのは、ダニエル書にある“7つの時”を、ルカにある“異邦人の時”と勝手に結び付けて、1914年に終わりが来るという解釈だね。終わりが来なかったので、目に見えない形で天の王国が設立されたというバカバカしい解釈に変更した。JWであるということは本当に恥ずかしいことだ。」

「その計算の起点は前606年だったのですよね。後で西暦0年はないことに気づき、こっそりエルサレルム破壊の年を前607年にずらしたというインチキぶりです。」
「エルサレム破壊の年は前587年だけれど、JWは未だにそれを変更しないし、今さらできないという泥沼状態。信者にはJW以外の情報には触れないよう、信じないように教え込み、信者の愚民化で乗り切ろうとしている。」

「3節で“パウロは仲間のクリスチャンに,聖書を真剣に学ぶようにと勧めました。”とあります。引照聖句はエフェソス 3:14-19ですが、そこには聖書なんて言葉は出てきません。」
「パウロの時代に聖書はなかったからね。パウロも自分の手紙がまさか聖書の一部として崇め奉られるとは思っていなかったでしょう。聖書ができるのは4世紀で、当時のキリスト教の偉い人達が決めたもの。その決定をJWは支持しているようだけど、その当時のキリスト教はJWの教義によれば背教者集団でしょう。なぜ無条件に受け入れるのか理解できない。」

「JWが使用している聖書はプロテスタント系の聖書です。聖書外典を外していますが、これはルターのしたことじゃないですか?」
「そんなことはJWは知らないから話題にもならない。聖書と言えば昔から今の形であると思っている。」

「引照聖句の翻訳ですが、エフェソ3:17に“皆さんがしっかりと根を張り,強固な土台の上に建てられますように。”とあるのですが、ヘンですよ。協会共同訳では“あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって”とあり、ここでのキーワードは愛ですよ。それなのにJW訳では愛がありません。
「愛がないのはいけないね。」

「さらに3:18では“真理の幅と長さと高さと深さがどれほどかを十分に理解できるようになり,”とあるのですが、協会共同訳では“キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り”とあります。JW訳では“真理”ですが、協会共同訳では“キリストの愛”です。JW訳は誤訳ですよね。」
「実は3:18の元の文には真理も愛もない。3:17で愛が強調されているので、3:18も当然愛のことを言っているというのが協会共同訳の理解ということ。」

「JW訳は3:17で“愛”を落とし、3:18で文脈上無理な“真理”を付け加えたわけですね。」
「その方がJWには都合が良いからだろう。この記事だって、その誤訳を基に信者への説教にその聖句を使っている。JWに愛は必要ないからね。」

「3節にある“「真理の幅と長さと高さと深さがどれほどかを十分に理解」するためです。そうするなら,信仰面で「しっかり と根を張り,強固な土台の上に建てられ」た建物のようになることができます。(エフェソス 3:14-19を読む。)”というのは全くのデタラメを言っているわけですね。」
「愛がない点でおかしい。全くダメ。」

「4,5節が“聖書の深い真理を調べる”です。 4節で“エホバとの絆を強めるために,個人研究のプロジェクトを始めるのはどうでしょうか。”とあります。これは最近のJWが聖書を知らないことにたいする危機感のあらわれですね。」
「JWの対外イメージを良くしたいということでしょう。まじめに聖書を勉強する人たちと思われたいんだよ。実際はJWの教義を暗記してオウム返しするだけでしょう。それも教義がよく変わるから困難になっている。」

「個人研究と言っても、組織の出版物をつかって、組織の出版物にあるように聖書を理解するだけですよ。」
「それ以上深く調べることは禁止だよね。背教者になるよ。」

「5節に、調べることの“幾つかの例が,「 じっくり調べてみましょう」という囲みに載せられています。”とあります。囲み記事には7つのことが出ています。これらは調べるべきですか?」
「ここにあるのは全てJWの教義だね。それが正しいことを前提に、JWの出版物から調べるので、JWに都合のよい結論しか出てこない。洗脳法の一つといえるね。」

「1は“創世記から「啓示」の書まで,聖書全体がどのように1つのテーマでつながっているか。”ですが、1つのテーマでつながっているはずだ、というのはJWの思い込みですよ。」
「聖書の各書のテーマはバラバラ。例えば、排外的な民族主義が強調されているものもあるし、それを否定しているものもある。JWの大好きな“啓示”は他の新約聖書の主張とかなり違うよ。」

「6から8節が“エホバが持っている目的についてじっくり考える”です。 6節で“聖書を調べると,エホバが目的を持って行動する方だということが分かります。”と言って、7節でその目的を説明しているのですが、よく理解できません。」
「7節で“エホバは人間にどんなことを願っているかについて,最初の夫婦にこのように伝えました。「子を生み,増えて,地上全体に広がり,地球を管理しなさい。……あらゆる生き物を治めなさい」。(創 1:28)”とある。これが目的。英文ではhis purposeとはっきり書いてある。それを“願い”に変えるなんておかしい。」

「これが神の目的とは、翻訳者は納得できなかったんじゃないですか?」
「そうかも。翻訳者は統治体の意見より自分の意見を優先するからね。」

「その後に“アダムとエバが反逆したために,罪が人間家族に入り込んでしまいました。そこで,エホバは目的を果たすための方法をすぐに調整しました。人間に対して最初に考えていたことを実現させるために,天に王国を設立することを決めました。(マタイ 25:34を読む。)”とあります。エホバってJWみたいに“調整”するとは知りませんでした。全知全能ではないわけですね。」
「自分たちに合わせて、自分たちに似せた神を創造するというのがよくわかるね。」

「引照聖句のマタイ25:34ですが、目的を調整したなんて書いていません。“世が始まって以来あなたたちのために用意されている王国を受けなさい。”とあるだけです。しかも、これが“天の王国”とも言っていません。」
「全て、JWの解釈だね。それを真理として信者に押し付けているだけ。」

「8節にはJWの奇妙な神学がでてきます。“聖書のテーマは,エホバの名誉が回復されることです。”とあります。知りませんでした。どこをどう読んだらそういう理解になるのですか?」
「宇宙主権論争だったかな?そんな名前のバカバカしい教義でしょう。その教義から来たわけで、聖書から来たわけじゃないよ。」

「その後に“エホバの目的は,天と地にいるエホバに仕える全ての者が一つになることで実現します。その時,全ての者がエホバを主権者として認め,従います。(エフェソス 1:8-11を読む。)”とあります。これも理解できませんね。要するに全員がエホバが一番偉いです、従います、と言えばエホバの目的達成ということですか?愛ある神のくせに、そんな目的のために人類の苦しみを放置してきたわけですか?」
「これはJWが無い知恵絞って作り出した神学だけど、この神学では神はずいぶん卑小な存在だね。神は自分の名誉が他のどんな問題よりも優先する宇宙最大の問題と考えるどうしようもないナルシストにすぎないわけだ。」

「9から11節が“将来についてじっくり考える”です。 聖書は預言の書でこれから起きることが書いてあるというカルトらしいことが出てきます。10節に“聖書に予告されている,世界を揺るがすような出来事について考えてみましょう。”とあります。平和安全宣言がでて、“間違った宗教全てを攻撃し,「突然」大患難が始まります。(啓 17:16)その後,「人の子が力と大きな栄光を帯びて天の雲に乗って来る」という超自然の現象が生じるでしょう。”とあります。その後、“「マゴグの地のゴグ」と呼ばれる諸国家の連合体がエホバに仕える人たちを攻撃するように仕向けます。(エゼ 38:2,10,11)どこかの段階で,天に行くクリスチャンのうち地上に残っている人たちが天に集められ,キリストが率いる軍勢に加わってハルマゲドンの戦争で戦います。”とあります。バカバカしいですね。そんなシナリオを聖書は預言していません。」
「聖書のあちこちから聖句をかき集めて、JWが作った起こりそうもないシナリオを聖書の預言と称しているだけ。1000年後にはそういう世界情勢になるかも。」

「昔はマタイ24章にある地震をはじめとした天変地異や戦争を強調し、マタイ24:34の“はっきり言いますが,これら全てが起きるまで,この世代は決して過ぎ去りません。”というイエスの言葉を引用したものですが、今では忘れ去られたようです。JWの教義はそんなものです。」
「世代の解釈で行き詰まったからね。違う聖句を利用して、もっともらしいシナリオを作ったつもりなんだろうけれど、平和安全宣言なんか出るような世界情勢じゃない。早く理解を調整した方がいいよ。」

「11節が面白いです。“「エホバに近づきなさい」の本の319ページには,私たちの思考を刺激するこのような説明があります。・・・”とあり、JWの出版物の駄文が聖書みたいに引用されています。JWの出版物はすごい権威があるんですね。」
「JWの中でも権威はないでしょう。JWの出版物なんて何年かしたら完全に時代遅れになって廃棄処分になる、ということは皆知っているよ。」

「古い出版物なんて、今読んだらデタラメだらけです。」
「今読んでいるこの記事も何年かしたら、みんなそう思うよ。」

「11節の上に楽園での様子を描いたイラストがあります。パンダの代わりにクマが描かれています。クマは珍しいですよ。クマ好きのイラストレーターがいるということですか?」
「パンダじゃ子どもっぽいし、ライオンも飽きたし、クマにしてみたというだけでしょう。」

「12から14節が“天の様子を知る”です。 エホバとイエスのことが出てきます。たいした話はありませんが、その結論は14節の“私たちはいろいろな形でエホバとイエスに心から感謝していることを示せます。中でも,人々がエホバの証人またイエスの弟子となるよう助けるのは,とても良い方法です。”というものです。」
「どんな話も、あの無意味な伝道活動へと圧力をかけるものになるのがJWの記事だね。」

「15節が“聖書を調べることを楽しむ”です。 “詩編作者は,「エホバの律法を喜び,昼も夜も思い巡らす」人は幸せになり,成功すると言いました。(詩 1:1-3,脚注)”とあるのですが、引照聖句は“昼も夜も小声で読む”とあります。そう訳しておきながら“昼も夜も思い巡らす”と引用するのはいつものご都合主義ですね。」
「“小声で読む”というのは詩の訳として説明的でヘンだね。今ごろ”思い巡らす”にしておけばよかったと後悔しているよ。協会共同訳では“唱える”だ。」

「15節で“聖書翻訳者ジョセフ・ロザハムは「詩編の研究」(英語)の中で,・・・”と珍しく引用元を明らかにしています。これはどういう人ですか?」
「カタカナ表記だとロザラムじゃないかな。19世紀のイギリスの牧師で聖書の翻訳をしている。雑誌の編集もしていて、JWの会長だったラッセルと似たような人だけど、こちらの方がはるかに教養がある。」

「最後の16節は来週の予告です。“次の記事では,パウロが「ヘブライ人のクリスチャンへの手紙」の中で説明したエホバの偉大な神殿について学びます。”とあります。」
「大多数の信者は、そんなことより来年こそは終わりが来るのか、はっきりさせろ、と思っているよ。」

#1492 2024年01月05日 14:50:52

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1493 2024年01月12日 14:39:02

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1494 2024年01月19日 14:39:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“兄弟姉妹を心から愛することは大切(47)”で、信者同士もっと仲良くするようにという内容です。」
「またこれかよ、という内容だね。JWの人間関係は、本音の言えない建前だけの関係だから、本当の親密さは生まれないでしょう。一見親しそうでも、親子でも、JWの忠実な信者である限りの関係に過ぎないことはJWなら知っているから、仲良くなる理由がない。」

「1節で“将来,新しい世界に関する神の約束に信仰を持つ必要はなくなります。そして,神の約束に関する希望は全て実現しています。でも,エホバを愛することや人を愛することに終わりはありません。”とあります。面白いですね。楽園が来ることを前提で、楽園後の生活に備えるために、愛が必要だといっています。」
「楽園など来ない、という常識的見解はJWの中では背教者の意見だからね。楽園は数年以内に来ると信じているフリをしなくてはならないのが、JWだ。」

「3から6節が“互いに愛を示すことが大切なのはどうしてか”です。 3節に“互いに愛し合うことが大切なのはどうしてでしょうか。何よりも,それは私たちが本物のクリスチャンである証拠になるからです。”とあります。JWは偽クリスチャン!と言われることを気にしているわけですね。」
「JWはせいぜいキリスト教系の新興宗教という扱いで、クリスチャンとは思われていない。昔だったら、宗教系雑誌の訪問販売員。」

「3節に“使徒ヨハネは仲間の兄弟姉妹に,「神を愛する人は,自分の兄弟も愛さなければなりません」と言いました。(ヨハ一 4:21)兄弟姉妹を愛するなら,神を愛していることになります。”とありますが、最後の部分は間違っていますよ。」
「神を愛するなら兄弟も愛するというのが真実だとしても、兄弟を愛するなら神を愛するは真実とは言えない。執筆者は論理学を知らないね。」

「5節で“もし兄弟姉妹に対する愛が弱まっているなら,神への愛も弱まっているのかもしれません。”とあります。信者同士仲よくしていない人は背教者予備群として警戒すべきということですね。」
「えこひいき、いじめ、悪意のあるうわさなどがはびこっている会衆では、JWの人間関係に嫌気がして、集会に来なくなる信者がでてくる。それを神への愛が弱まっていると言っているだけ。兄弟姉妹への愛と神への愛は別だということは認めたくないようだ。」

「6節に“兄弟姉妹への愛が弱くなっていることに気付いたなら,手を打つ必要があります。そのままにしておくと,エホバとの絆を失ってしまうかもしれないからです。”とあります。要するに、集会に来なくなるわけですね。」
「集会に、遅く来て早く帰るような信者は、信者同士の交流を避けている可能性があるから、要注意人物としてマークせよということだよ。」

「多くの人が宗教に求めるものは親密な人間関係です。共同体の一員という仲間意識や帰属感です。JWはその点うまくいっていません。」
「JWが強調するのは退屈な集会と伝道で、一緒に食事をしたりスポーツをしたり、楽しい宗教行事をしたりすることが極めて少ないつまらない宗教だからね。」

「7から11節が“愛を示すためにどんなことができるか”です。 いろいろな方法があると言っていますが、9節で取り上げられるのは“慰め合う”ことですが、“慰めることによって,つらい思いをしている仲間が永遠の命に続く道を歩き続けられるように助けることができます。”とあります。要するにJWをやめるのを阻止するために、慰めるようにという指示です。」
「信者減少を気にしているね。ここで言う“永遠の命に続く道”というのはJWとして死ぬまで歩き続ける道という意味だね。その道はあまりにも退屈で永遠に続くように感じられるからね。」

「10節で“思いやりと慰めには深い関わりがあります。苦しんでいる人を見てかわいそうに思うと,その人を慰め,つらい気持ちを和らげてあげたいと思うものです。”とありますが、JWは違いますよ。」
「自分の子どもが排斥処分となり、そのことで子どもがひどく苦しんでいても、かわいそうと思わず、慰めることもなく、見捨てるのが正しいJWの態度だよね。思いやりも慰めもないね。」

「10節に“パウロは,エホバの思いやりと慰めを結び付けて,エホバのことを「温かな憐れみの父,あらゆる慰めの神」と言っています。(コリ二 1:3)”とありますが、“温かい憐れみ”はヘンですよ。」
「英文ではtender mercies。優しい憐れみ?元のギリシャ語は一語しかないのだから”憐れみ”でしょう。tenderはJWが付け加えたもの。協会共同訳では” 慈しみ深い”となっている。」

「10節で“エホバは人々への深い思いやりを持っているので,温かな憐れみの父または源ということができます。”とあります。しかし、エホバの過去にした代表的なことと言えば洪水による大虐殺ですし、これからしようとしているのはJWの宗教拡張員を玄関先で断った人を全滅させる大虐殺です。こんな神が“人々への深い思いやり”があるとは思えません。」
「何を語るかではなく、何をするのかで判断すべきだよ。エホバのすることと言えば破壊と殺戮だね。」

「11節に“助けを必要としている兄弟姉妹を慰めることはとても大切です。”とありますが、具体的な慰め方を教えて欲しかったです。JWの慰め方と言えば、家族を亡くした人に向かって、楽園で会えるので悲しまないように、といったバカげたものですよ。」
「長年JWをしていると自然な情愛がなくなるからね。自分の子どもの命を犠牲にする残忍な輸血規則に従うよう強制され、さらに排斥または断絶した親族や友人に対しては感情的および社会的つながりを遮断することを強制される。一方、JW以外の人を劣ったものとして見なし、人々の苦しみに無関心になり、真の配慮を示すことよりもJWのインチキ教義を伝えることこそが真の愛と教え込まれている。こんな人たちが苦しんでいる人を適切な仕方で慰めることなど不可能だよ。」

「12から17節が“強い愛を持ち続けるために何ができるか”です。 12節には“愛のない人たちに影響されてしまわないように注意する必要があります。”とありますが、元の英文ではもっとヘンなことを言っていますよ。」
「“we should remain alert so that we are not influenced by the lack of love in the world around us.”だから、私たちの周囲の世界の愛の欠如に影響されないように注意を払う必要がある、と言っている。典型的なJW思考だね。自分たち以外の世界を根拠もなく貶める。」

「翻訳者はこれではカルト宗教丸出しと思って、表現を和らげたのでしょうね。」
「自分たち以外の人間は麻薬中毒のセックスマニアでサタンの手先と思わせて、JWをやめるのを阻止しようという組織の作戦だよ。翻訳者もそれに従わないとなると背教者とされるよ。」

「13節に“ペテロはこう言っています。「何よりも,熱烈に愛し合ってください。愛は多くの罪を覆うからです」。(ペテ一 4:8)”とあり、14節でこの聖句を解説しています。」
「“ここでペテロが使っている「熱烈に」という語には,「引き延ばす」という意味があります。”とあるけれど、形容詞だから、正確には“引き延ばされた”と言う意味。」

「それについて“愛は伸縮性のある布に例えることができます。それを両手で持って,1つや2つではなく,「多くの罪」を覆うまでに引き延ばしていくことができます。覆うことは許すことを表しています。1枚の布が汚れや傷を覆い隠せるように,愛も仲間の不完全さや弱さを覆うことができます。”と説明しています。つまり、長老が児童性的虐待をしていても、愛で覆い隠せ、JW内でこっそり処理しなさい、ということですね。」
「しかし、JWでは犯罪ではないことでも排斥処分にするよね。愛は使う人次第で自由に伸びたり縮んだりする便利なものということかな?」

「15節では“私たちの愛は,難しいと感じるときでも仲間の不完全さを許せるほど強いものである必要 があります。(コロサイ 3:13を読む。)”とJWの大好きな“不完全さ”が出てきます。犯罪でも不完全だからと許して、被害者は泣き寝入りしなさいという教えですね。」
「引照聖句だけど、JW訳では“エホバが寛大に許してくださったのですから,”となっている。元のギリシャ語は“主 kurios”だよ。ここではキリストのことを指していると解釈するのが普通。それを何の根拠も示さず、エホバにかえるとは、あきれる。エホバ教ならではの聖書の改ざん。」

「同じコロサイ3章でも3:18は“妻の皆さん,夫に従ってください。それは主に従う人にふさわしいことです。”と、主をエホバに変えていません。恣意的です。」
「JWはエホバに従うのだから、“それはエホバに従う人にふさわしいことです。”と改ざんすべきなのに、そうしないのは、わずかに残っている良心がとがめたのか?」

「16節が実際的なアドバイスです。“兄弟姉妹の欠点ではなく,良いところに注目しましょう。”とあります。そして写真のたとえ話が続きます。良くない写真は消去し、いい写真だけを残しましょう、と言っています。」
「スマホで撮った写真はすぐ消去できるけれど、人間の記憶はそうはいかない。つらいイヤな経験はいつまでもまとわりついて、気持ちを落ち込ませるよ。そのように神が設計したんじゃないの?」

「執筆者はJWの出版物に書かれていることしか知らないようなので、PTSDというのを知らないのでしょうね。それでお気楽なことを書いているのですよ。」
「心的外傷後ストレス障害だね。命を脅かされるような外傷的出来事が、意図しない、望ましくない記憶として、あるいは悪夢の形で何度も現れたり、実際にその出来事が起こっているかのように再体験するフラッシュバックが起こる人もいるというもの。」

「17節の引照聖句の格言19:11は“過ちを見過ごす人は美しい。”とあるのですが、“美しい”はヘンですよ。協会共同訳では“背きの罪を赦すことがその人の誉れ”です。」
「元のヘブライ語は美しいという意味もあるけれど、そう訳している聖書はまずないね。文脈から言って“誉れ”だよ。」

「それから“過ち”もヘンじゃないですか?単なるミスなら、厳しくとがめるのではなく、大目に見ることは普通ですよ。」
「“過ち”ではない。元のヘブライ語は宗教上、道徳上の罪という意味で用いられることが一番多い。次は反逆という意味で使われることが多いね。出エジプト34:7に“揺るぎない愛を幾千代までも示し,過ちと違反と罪を許す。”とあるけれど、同じ単語をJW訳でもここでは“違反”と訳しているよ。」

「最後の18,19節は“仲間を愛することが今大切なのはどうしてか”です。 18節はまとめですね。今までの繰り返しです。」
「今週の記事は、体験談が出てこなかったね。そのせいでいつも以上に退屈だ。“好き嫌いの激しいアンドレイ兄弟は服装のことで長老のモリス兄弟と関係が悪くなりましたが、エホバに祈ってから、モリス兄弟をお酒に誘うと、お酒好きのモリス兄弟とはすぐ仲直りできました。お土産を渡したのもよかったようです。おかけでエホバへの愛も深まりました。アンドレイ兄弟は今では長老として働いています。”なんて言うのをどうして加えなかったのかな?」

「19節には“愛し合うことが今特に大切なのはどうしてでしょうか。その理由について,ペテロはこう言っています。「全てのものの終わりが近づいています。ですから,……熱烈に愛し合ってください」。”とありまして、終わりが近いことが愛する理由のようです。」
「終末カルトらしくていいけれど、問題はその終わりが来そうもないこと。」

「終わりが近いから進学しなくていい、終わりが近いから結婚しなくていい、終わりが近いから子供を産まなくていい、終わりが近いから老後に備えなくていい、などなどと、この宗教は100年以上も言ってきました。終末カルトは信者の人生を破壊してきましたね。」
「終わりが近いという宗教は全て詐欺と思って、きっぱりやめよう。」

#1495 2024年01月26日 14:56:47

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“大変な時にもエホバを信頼する(48)”で、生活が大変なJWに、それでもエホバを信じて、JW活動を続けろという内容です。」
「これもよくある記事だね。生活が大変なら、JW活動を一時的にやめて、真面目に働くようにしたら。その程度のことで宇宙の創造者は怒ったりしないよ。」

「1節で、困っているJWに対して“古代イスラエルの人たちも同じような経験をしました。エホバがその人たちをどのように助けたかについて考えるなら,力づけられるでしょう。”と言っています。そんなことありませんよ。」
「古代イスラエルに起きたことが今のJWに起きるなんてことは全くないからね。それから古代イスラエルの話は国家あるいは民族単位の話で、個人についてではない。」

「つまり古代イスラエルの話でも個人が救済されたという話は滅多にないということですね。」
「旧約聖書の神は王様などの権力者以外の個人には無関心で、国家あるいは民族単位でしか関心を持っていない。」

「2節に“そこで,熟練した写字生であるエズラがバビロンからエルサレムにやって来て,正しい崇拝を第一にするよう助けました。(エズ 7:1,6)”とあるのですが、“写字生”はおかしいですよ。学生ですか?」
「協会共同訳では書記官だね。エズラ7:11に“以下は,祭司また写字生であり,エホバのおきてとイスラエルに対する規定の研究者であるエズラに,アルタクセルクセス王が送った手紙の写しである。”とある。エズラは王に仕えて、王から手紙をもらう立場にあることから、書記官といった方が適切でしょう。」

「2節の下に年表がありまして、“468年: エズラと,捕囚にされたユダヤ人の2番目のグループがエルサレムに戻る”とありますが、これは間違いですよ。」
「エズラはアルタクセルクセス王の第7年にエルサレムに行ったわけだけど、JWの立場は“洞察”によると、“クセルクセス1世の子アルタクセルクセス・ロンギマヌスは,エズラ 7章1-28節およびネヘミヤ 2章1-18節,ならびに13章6節で言及されている王です。大抵の参考文献はその即位年を西暦前465年としていますが,それを西暦前475年としてよい十分の理由があります。”というもの。もちろん“十分な理由”なんかないよ。JWのでっちあげ。平気でうそをつく。」

「JWは勝手に即位年を10年ずらしたのですね。それで、7年目は前468年になるわけです。聖書改ざん・歴史改ざんのJWですね。JWであることは本当に恥ずかしいことですね。」
「10年ずらしたのは、ダニエル書にある70週の預言に合わせるため。JWはなぜか36年にその70週(70×7=490年)が終わったとしている。そうすると始まりは前455年。これはネヘミヤがエルサレムを修復せよと命じられた年で、アルタクセルクセスの治世の第20年と書かれている。アルタクセルクセスが475年に即位したことにしないと計算が合わなくなる。それで10年ほど即位年をずらした。恥ずかしいね。」

「年表には“484年: クセルクセス1世(アハシュエロス)がユダヤ人を全滅させるようにという命令を出すが,エステルによって悲劇は回避される。”とありますが、エステルの話は史実じゃありません。よくある宮廷物語ですよ。」
「ダニエル書の前半や創世記のヨセフ物語と同じ構造の話だ。“悲劇は回避される”とあるけれど、そんなことはないだろう。」

「エステル9:16には“王の州にいたほかのユダヤ人も集合し,自分たちの命を守った。敵に打ち勝ち,自分たちを憎む者7万5000人を殺したが,略奪はしなかった。”とあります。75000人の殺害を悲劇とは呼ばないのですか?」
「執筆者はエステル記を読んだことがないか、神の民の敵の死は無条件に喜ばしいことと思うカルト宗教の信者そのものなのだろう。」

「4から7節が“戻ってきたユダヤ人たちは問題にぶつかった”です。 バビロン捕囚から帰ってきたユダヤ人の話です。神殿を建設しようとしたけれど、様々な妨害があり、なかなか完成せず、中断した後、“紀元前520年に神殿を建て直す仕事に再び取り掛かり,5年もたたないうちに完成させることができました。”と7節で言っています。」
「その後、“エホバは生活に必要な物を与え,ご自分との絆を持ち続けられるように助けました。”とあるけれど、必要な物は天から降っては来なかったね。」

「エズラ6:4には“費用は王の財産から支払われる。”と言うキュロス王の命令が書かれています。ペルシャ王室からの資金援助があったから再建できたのです。この記事でそれについて何も触れないのは問題です。」
「エズラ6:10には“天の神に喜ばれる捧げ物と,王と王族の幸福を願う祈りが,絶えず捧げられるようにするためである。”と資金援助の目的が説明してある。ペルシャ王とその家族の幸福のための祈りが捧げられるためで、決してエホバのための神殿とは言えない。」

「7節にある引照聖句の一つがエズラ6:22で“彼らが喜んだのも,以前にアッシリアの王の心が友好的になったのも,エホバのおかげだった。”とあるのですが、アッシリアの王ではなくペルシャの王ですよ。エズラ記の作者は歴史を知りません。」
「エズラ記にはアルタクセルクセス王がでてくるけれど、アルタクセルクセス王は1世、2世、3世と3人いるので、どれかがはっきりしなくて、エズラに関する年代を決めるうえで大きな問題となっている。もっと正確に書いて欲しかったけれど、無理なのかな。」

「8から11節が“エホバに喜ばれることを何よりも大切にする”です。 8節には“大患難が近づくにつれ,良い知らせを伝えることはますます大切になっていきます。”とありますが、組織の方針はその逆の方向ですよ。」
「開拓者に求められる時間はどんどん減り、伝道者には時間の報告を求めなくなった。ドアからドアの伝道は減り、史上最低の伝道方法であるカートの横に突っ立っている方式が目立つようになっている。“良い知らせを伝えることはますます大切”ではなくなっている。」

「8節に“経済的な問題や迫害を経験すると,伝道に打ち込むのは難しいと感じるかもしれません。どうすればエホバに喜ばれることを何よりも大切にできるでしょうか。”とあります。“エホバに喜ばれること=伝道”というのがJWの公式のようです。聖書のどこにもそんなことは書いていません。」
「経済的な問題や迫害がなくても、伝道に打ち込むのは難しいよ。誰からも歓迎されないことがわかっているのに、他人のドアをノックすることに嫌気がして当然。」

「9、10節がオレグ兄弟とイリーナ姉妹の興味深い体験談です。二人は失業し、経済的に困窮します。その時どうしたかというと、“できるだけ多くの時間伝道するようにしました。そうすることが,生活の中で一番大切なことに目を向け続ける助けになったと思います。”と言っています。これは自暴自棄、やけくそ、としか言いようがない生活態度ですね。」
「現実逃避かも。仕事を探しに行っても、履歴書にかける職歴も学歴も資格もないJWは毎回惨めな思いをするだけ。そんな辛い思いをするよりは、外の空気を吸いながら伝道をしているほうがましだったということじゃないの。」

「10節では“ある日,2人が伝道から戻ってくると,食料品がいっぱい入った袋が2つ置いてありました。それは160㌔ほど離れた所にいる親しい友人が届けてくれたものでした。”とあります。JWらしい素晴らしい体験談です。でも二袋の食糧を160キロも遠くから持ってきた友人は賢いのか、疑問に感じます。ガソリン代を節約するためにも、現金書留でお金を送るか、小切手を送る方が賢明です。」
「現金は組織に寄付するもので、貧乏な仲間に与えていいのは余った食べ物だけ。それとも、無知なJWで単にお金を送る方法を知らないのかも。」

「この話を逆にいうと、160キロ以内に会衆の人たちは誰も助けなかったということですね。」
「東京駅から軽井沢駅まで150キロぐらいだよ。もしそこが日本なら、冷たい会衆ばかりが東京から軽井沢まで広がっていたということになる。とんでもなく冷たい宗教。」

「オレグ兄弟は、“エホバや仲間がどれほど深く気に掛けてくれているかをしみじみと感じました。”と言ったことになっていますが、英文では“エホバや会衆”です。」
「翻訳者は周囲160キロ内のどの“会衆”は誰もオレグ兄弟のことを気にかけていないことから、“会衆”を“仲間”に変えたのだろう。会衆のメンバーは仲間じゃないことがばれちゃったね。」

「11節で“エホバは私たちが人々を弟子とする活動に打ち込むことを願っています。聞く人の命が懸かっているからです。”といい加減なことを言っています。」
「そう願っているのは統治体でしょう。でも本音としては、人々を弟子とする活動はどうせ成果なんかないのだから、そんなに熱心にしなくてもいい、というものじゃないの。」

「12から18節が“エホバをもっと信頼するには”です。 こんなことを言うのは、エホバを信頼していない信者が多いということでしょうね。エズラの話が続きます。12節に“紀元前468年,エズラは捕囚にされたユダヤ人の2番目のグループと一緒に,バビロンからエルサレムへ戻りました。”とありますが、本当は前458年です。」
「12節に“この旅をするには強い信仰が必要でした。神殿のために寄付された金や銀をたくさん運んでいたので,盗賊に狙われる危険がありました。”とあるけれど、そうとも言えないよ。エズラ7:9には“第1の月の1日にバビロンを出発し,第5の月の1日にエルサレムに着いた。”とある。約4か月かかっている。バビロンからエルサレムの距離は通常の北回りで1450キロくらい。ということは平均すると一日13キロくらいしか進んでいない。とてものんびりとした旅で、危険を感じて先を急いでいるというような旅ではない。」

「13節でエステル記の話とエズラを関連させます。“紀元前484年,アハシュエロス王は,ペルシャ帝国にいるユダヤ人を全滅させるようにという命令を出します。(エス 3:7,13-15)”とあります。この年代もインチキですね。」
「エステル3:7に“アハシュエロス王の治世の第12年”とある。この王はクセルクセス1世で在位は前486から前465年。正しくは前474年。JWの年代計算は10年ずれている。」

「13節では“その時エズラは恐らくバビロンにいたので,命が危険な状況にありました。”とあります。ユダヤ人全滅の命令は史実じゃありません。」
「エステルというユダヤ人の王妃がいたことだって史実じゃない。エステル2章では美女を集めて王妃を選んだことになっているけれど、そんな習慣はない。王妃の選択は極めて政治的な行為で、美女だからとか王様が気に入っているからという理由で選ばれるものではない。物語と史実を混同していて、恥ずかしいな。」

「14節が体験談です。“東ヨーロッパに住むアナスタシヤ姉妹は,政治的な中立を保つために仕事を辞めなければなりませんでした。こう言います。「人生で初めてお金が底を突きました。……でも,エホバに頼って全部お任せしました。するとエホバが優しく世話してくださいました。”というものです。160キロ先から食料を持ってきた仲間はいなかったようです。」
「ひどい誤訳。I had never been in a situation where I was without money.だから、”お金がないという状況に陥ったことは一度もありませんでした。”と言っている。つまり失業してもお金はなくならなかった、エホバのおかげだ、というお話。翻訳にはエホバの助けはないようだ。」

「16節が面白いです。“大会や全ての集会に出席するために,休暇や予定の調整を上司にお願いすることがあるかもしれません。そのような時,エホバが確かに助けてくださることを経験できます。”とあります。休みが取れるかどうかはその国の労働法制や職場の規則によって決まるわけで、エホバは関係ないですよ。」
「英文では上司ではなく、雇用主だね。法律など無視しまくっている零細企業がJWの職場なんじゃないの?休みをお願いしたら、クビになるような。その場合でも、クビになったので大会に行ける、これはエホバのおかげ、と思うのが良きJW。」

「16節の上に3枚の写真があって、“兄弟が大会のための休暇を取らせてほしいとお願いしているが,上司に断られている。もう一度上司に話すために,助けと導きを求めて祈っている。上司に大会の招待状を見せ,聖書から大切なことを学べると説明している。上司は感心した様子で考え直している。”と説明しています。こんなJWに理解のある上司はいませんよ。」
「3番目の写真は、上司は職場に危険なカルト宗教の信者がいることを知り、どのように早く辞めさせるか考え直している、という説明が正しいでしょう。大会から戻ってきたら、自分の居場所がなくなっているかも。」

「17節でエズラはよく祈ったことを取り上げた後、18節は体験談です。“3人の子供を持つエリカ姉妹は,短い間におなかの子と愛する夫を亡くすというとてもつらい経験をしました。”とあります。そのつらい体験をしたエリカ姉妹は“友達の言ってくれたことやしてくれたことが祈りの答えだと思ったことが何回もあります。友達に自分の気持ちを話すなら,助けてもらいやすくなります。”と言っています。」
「つまり頼りになるのは、神様じゃなくて友達ということだね。10節にあった体験談と同じで、良い友人を持とうということだ。」

「19,20節が“終わりまでエホバを信頼し続ける”です。 この記事で一番重要な部分です。19節には“ユダヤ人の中には,年齢や病気や家族の責任のために帰れなかった人たちがいました。それでも,神殿再建に必要な物を寄付することによって,エルサレムに戻る人たちを喜んでサポートしました。”とあります。寄付のおねだりです。」
「統治体は寄付の減少に腹を立てているのだろう。子どもにアイスクリームを買うお金があるなら寄付しなさい、ということだね。」

「最後の21節で“この記事では,ハガイやゼカリヤが語った預言とエズラの手本からたくさんのことを学びました。学んだ点を自分に当てはめるなら,これから先どんな問題にぶつかるとしても,エホバを信頼し続けることができます。”と締めくくっていますが、時代も場所も状況も違う旧約聖書の出来事を自分に当てはめるのは無理があります。」
「誰もまじめに当てはめようなんと思わないから、心配無用。」

#1496 2024年02月02日 14:32:23

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバは本当に祈りを聞いてくれる?(49)”で、なぜ祈っても無駄なのか、あれこれ言い訳を述べたという内容です。」
「少し前にも似たような記事があった。その記事の評判が悪かったので、また祈りを扱った記事を書いたのだろう。」

「“エホバは祈りに答えてくださる どのように?”(21)という記事ですね。」
「その記事では、期待通りの答えではないこともある、間接的にこたえてくれる、エホバからの答えを探して受け入れるには信仰が必要、と祈っても答えられないことの言い訳をしていた。」

「1節に、祈りが聞かれなかった例が出ています。“ある独身の姉妹は,王国福音伝道者のための学校に行きたいと祈っていますが,何年も招待されていません。消耗性の病気と闘っている若い兄弟は,会衆でもっと奉仕できるように病気を治してほしいと祈っていますが,なかなか良くなりません。ある親は,子供が真理から離れないようにしてくださいと祈っていましたが,子供がエホバに仕えるのをやめてしまいます。”」
「なぜ一生懸命祈っても、学校に招待されないのか、病気が治らないのか、子どもがJWをやめるのか、を説明するのが、この記事の主旨なわけだ。」

「祈っても、祈らなくても結果に大きな影響はないです、とは言えませんからね。」
「この記事では、祈りがかなわないのは、祈りの内容がダメ、時期が悪い、祈りは予期したものとは違った仕方でかなうことがある、と言い訳している。これで納得できるかな?」

「4から8節は“エホバはどんなことをしてくださるか”です。 エホバ側の都合を述べています。まず4節で“エホバは私たちの祈りを聞くと約束している。(エレミヤ 29:12を読む。)”と、信者を安心させます。」
「引照聖句には“あなたたちが私を呼び,私のもとに来て祈る時,私は耳を傾ける。”とあるけれど、これは“バビロンで70年が満了したら,私はあなたたちに注意を向ける。”と言った後の言葉。JWとは何の関係もないよ。」

「5節は“エホバは祈りを聞くときに,ご自分の目的について考える。(イザ 55:8,9)”です。サタンとのあの宇宙主権論争という宇宙最大の問題があるので、祈られてもサタンが有利になるようなことはしないということのようです。」
「“サタンは,人間が自分で治めた方がうまくいくと言いました。(創 3:1-5)サタンの言っていることがうそであることを証明するために,エホバは人間が支配することを許しました。”とあるね。引照聖句はそんなことは言っていない。JWの作り話。」

「バベルの塔事件で、人間の言語を乱し、分裂させるようにしたのはエホバです。人間の支配を妨害しておきながら、サタンの言うことがウソであるという証明なんかできません。」
「サタンは神が言語を乱さなければ、人間はうまく行っていたと主張できる。神は反論できず、悔し涙を流すのかな?」

「5節では“エホバはこうした問題を今すぐに取り除くことはしません。もしそうしてしまうなら,ある人たちは人間の支配がうまくいっていると勘違いして,全ての問題は自分たちで解決できると考えるかもしれません。”とあります。これもひどい話ですよ。病気で苦しんでいる人がいて、必死に大勢の人がその人のために祈っても、奇跡的に直してしまうと、ある人たちが増長し、サタンが喜ぶから、そのまま死んでもらうということですよ。優先順位がおかしいです。」
「“ある人たちは人間の支配がうまくいっていると勘違い”するのを避けるために、祈りに応えないとは、JWの神はなんとけち臭い神だこと。あきれるね。」

「6節が“同じような祈りであっても,エホバはいろいろな方法で答えることがある。”です。別の方法で答えてくれるのだから、祈りがこたえられないと文句を言うなということです。まず“パウロは体に刺された「1つのとげ」を取り除いてほしいとエホバにお願いしました。この「とげ」は慢性的な病気のことだったと思われます。でも,エホバはこの問題を取り除くことはしませんでした。”とパウロの例をあげ、次に“使徒のヤコブとペテロについても考えてみましょう。ヘロデ王はこの2人のことを殺そうとしていました。会衆はペテロのためにもヤコブのためにも祈ったことでしょう。それでもヤコブは処刑され,ペテロは奇跡的に助け出されました。(使徒 12:1-11)”とペテロとヤコブの例をあげています。」
「引照聖句には“会衆はペテロのために熱烈に神に祈っていた。”とあるけれど、ヤコブのために祈ったとは書かれていない。“会衆はペテロのためにもヤコブのためにも祈ったことでしょう。”は単なる推測。ヤコブは先に逮捕され、すぐに処刑されたようだから、会衆が知った時にはすでに死んでいて、祈るタイミングを逃したんじゃないの。」

「6節の結論は“私たちはエホバがいつも愛情深くふさわしい仕方で祈りに答えてくれることを信じています。それで,エホバの祈りの答え方についてあれこれ言うことはしません。”でして、とにかく“あれこれ”言うなということです。」
「あれこれ言う人は、信仰のない人と決めつけて、終わりということだね。」

「7節では“自分の状況をほかの人と比べないことも大切です。同じようなことを祈ったのに,自分の祈りは聞かれず,ほかの人の祈りは聞かれているように思えることがあるかもしれません。”とあります。文句が出るのは、比較するからのようです。」
「病気回復の例が出ていて、“姉妹たちは無事に回復しましたが,夫は亡くなってしまいました。アナ姉妹は,エホバが姉妹たちのことを助けたのであれば,どうして夫のことは助けてくれなかったんだろうと思いました。”とある。それに対する答えが、“姉妹たちが回復した理由についてはっきりしたことは分かりません。でも私たちは,エホバがやがて全ての苦しみを終わらせてくださるということを知っています。”というもの。分からないことを分からないと認めるのはいいことだけど、その後がよくないね。」

「楽園を持ち出すのがJWの解決法ですね。でも、これは慰めになりません。」
「信者の疑問や苦しみに寄り添うことをしないのがJW。死んでも復活するのだからいいじゃないか、そんなことは気にしないで伝道をしよう、という態度だ。残酷だね。」

「8節が” エホバはいつも変わらず支えてくれる。”ですが、そうじゃないから信者は疑問に思うのですよ。現実否定です。」
「そこには“エホバは「川」や「炎」のような難しい問題を取り除くことはされません。(イザヤ 43:2を読む。)とはいえ,その状況を切り抜けられるように助けると約束しています。”とあるけれど、イザヤ43:1に“ヤコブよ,あなたを創造した方,イスラエルよ,あなたを形作った方,エホバはこう言う。”とあるように、引照聖句はイスラエル人に向かって言っているもので、現代のJWとは関係ないよ。」

「9から11節が“エホバは私たちにどんなことを願っているか”です。 正しい祈る態度を教えてくれます。」
「正しい態度で祈らないと、聞いてくれないよ、ということだね。祈りがかなえられるためのハードルがさらに上がったね。」

「9節が“私たちがエホバを信頼すること。”です。10節が“祈るだけでなく,自分でもできる限りのことをすること。”です。神頼みだけではダメということです。11節が“諦めずに祈り続けること。”です。」
「要するに、祈る側の努力次第で、祈りがかなえられるかどうかが影響されるという思想だ。特に、しつこさが大事ということね。そうしないと祈りはかなえられないわけだ。」

「12から15節が“調整が必要?”です。 自分の要求について3つのことを自問せよとあります。12節に①“自分は正しいことを祈っているだろうか”です。正しいことを祈ってないから、祈りは答えられないということです。」
「その具体例が面白い。“この記事の初めに出てきた親は,子供が真理のうちにとどまれるようにしてください,と祈っていました。これはふさわしい祈りに思えます。でもエホバは,ご自分に仕えることを強制したりはしません。子供たちを含め,一人一人が自分で選んでご自分に仕えることを願っています。”だって。子どもにJW活動を強制するな、というメッセージだよ。」

「宗教による児童虐待問題を気にしているということですね。JWと言えば、子どもを連れまわして、子どもをダシに雑誌を売る人たちというのが昔のイメージですし、今でも宗教を強制し、体罰をしまくる児童虐待の常習犯と非難されています。」
「宗教を親に強制されている子どもはこの記事を親に見せよう。」

「12節の下に“自分の祈りにはエホバへの敬意が表れているだろうか”と言う囲み記事がありまして、祈りがかなえられない理由がさらに3つ挙げられています。①正しい動機で神の意志に沿った祈りをする。②自分の考えをエホバに押し付けない。③エホバが毎日してくださっていることに感謝する。これだけ前提条件が付くと、祈りがかなう方が不思議ですね。エホバは相当気難しい神様ということですね。」
「祈りがかなえられないと文句を言う人には、そもそも祈る動機が不純なんだよ!それはエホバの意志ではないのがわからないのか!日頃の感謝が足りないんだよ!と言えばいいわけだね。でも、これらはパワハラ上司が部下をいじめているようなセリフだよ。」

「13節が②“エホバから見て今は一番良い時なのだろうか”です。時期が悪いので祈りがかなわないということですね。ご都合主義的な言い訳です。」
「ここも具体例が面白い。“この記事の初めに出てきた若い兄弟は,病気を治してほしいと祈っていました。でも,もしエホバが病気を奇跡的に治したなら,サタンはこの兄弟がエホバに仕え続けているのは病気を治してもらったからだ,と言うかもしれません。”とある。サタンに突っ込まれるのが嫌だから、信者の病気を治さないようだ。自分の評判ばかりに気にしている人命軽視の情けない神ということがよくわかる。」
「エホバはサタンにどう思われるかが人命よりもはるかに大事ということですね。愛ある神とは言えません。」

「13節に“エホバは全ての病気を取り除く時をすでに決めています。(イザ 33:24。啓 21:3,4)その時までは,病気が奇跡的に治ることを期待することはできません。”とハッキリ言っている。病気が治るように祈ったってムダということだね。」
「これはコロナ問題でJWが結構亡くなったことを背景にしていますよ。コロナにかかったら祈っても無駄だった、という厳しい体験を多くのJWがしたのです。祈りに対する不信感が強まりますよ。」
「それで、ダメージコントロールとして、病気には祈りはモトモト効きません、と宣言したね。」

「14節はジャニス姉妹の例です。“ベテルで奉仕したいと祈っていましたが,エホバが祈りに答えてくれていたことに気付いたのは5年ほどたってからでした。”とあります。どうなったかと言うと“後に姉妹と夫は巡回奉仕をすることになりました。”とあります。メデタイです。」
「以前の祈りに関する記事でも似たような話があったね。祈ったのとは別の形で祈りがかなったというもの。祈りはかなわなかったと評価すべきことなのにね。この論理ならどんなら祈りも必ずかなえられることになる。しかし、こんなことを言っていると、宗教とは詭弁を弄して、黒を白と言いくるめるようなものと、みんなが思うよ。」

「15節が③“祈り方を変えられるだろうか”です。“祈りが限定的になり過ぎないよう意識できます。”だそうです。あいまいで漠然とした祈りなら、何が起きても祈りがかなえられたと誤解できますからね。」
「英文ではShould I be praying for something else?で、”何か他のことを祈るべきか?”で、祈り方ではなくて、祈る内容を変えることをいっている。かないそうな祈りに変えたら、祈りはかなうよ、という当たり前のことだね。ステーキではなく、ハンバーグをお願いしよう、ということだ。」

「15節の具体例は“王国福音伝道者のための学校に行きたいと祈っていた先ほどの姉妹について考えてみましょう。”というものです。“学校に招待されるように祈ることに加えて,どうすればエホバのためにもっと多くのことができるか教えてくださいと祈ることもできるでしょう。”といっています。学校は定員があるので、何のコネもない姉妹には入学が難しいので、開拓者が必要とされる会衆に行くことを祈れ、というとこのようです。」
「これは祈りの否定だよ。無理とわかっても、そう願わざるを得ないことを抱えている人間はいるんだよ。祈るしかできないから、ひたすら祈る。それをやめろと言っているようなもの。」

「最後の16節はまとめです。“これまで考えた通り,エホバが私たちの祈りに愛情深くふさわしい仕方で答えてくださることを確信できます。”とありますが、この記事を読んで、そう確信した人はほとんどいないと思いますよ。」
「この記事で言っていることは、要するに、祈りがかなうためにはいろんな条件が付いていてそれを満たさなくてはいけないし、祈りがかなう時期も内容もよくわからないということ。でも祈りはかなうと強弁しておしまいという滅茶苦茶なもの。」

「JWの教義では楽園が来たら全ての問題が解決して、祈りがこたえられるということです。楽園が早く来ますようにと祈るしかないのですが、いつ来るかはもうすでに決まっているようなので、祈っても無駄です。つまりJWは祈る必要はないのですよ。」
「祈りを習慣にしている人はけっこういるからね。習慣として続けて行けばいいんじゃないの。」

#1497 2024年02月09日 14:38:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“信仰を持って行動するなら,エホバから見て正しい人になれる(50)”で、パウロの信仰義認論とヤコブの行為義認論との関係を説明したという内容です。」
「今までの中で一番難しそうな内容だね。」

「1,2節にはアブラハムの話が出てきます。」
「それはパウロもヤコブも自分の主張を創世記15:6の“そこでアブラムはエホバに信仰を持った。神はそのことを正しいと見なした。”を引用して正当化しているからね。」

「4から7節が“正しい人と見てもらうには信仰が欠かせない”です。 パウロの主張の紹介です。5節に“アブラハムは信仰を示したので,エホバの惜しみない親切によって正しいと認められました。(ローマ 4:2-4を読む。)”とあります。」
「6節では“神に信仰を持つ人は……信仰のゆえに正しいと見なされます。”とローマ4:5を部分的に引用している。そして、“そうした人たちの信仰に注目して,罪がない正しい人と見なしてくださるのです。”と言っている。」

「7節では、アブラハムは“不完全な罪人でした。でも,エホバはそれらの人たちの信仰に注目して,非難されるところがない人と見なしました。周囲の人たちに比べると,それらの人たちの信仰は確かに際立ったものでした。”と言っています。アブラハムは他の人と比べると信仰があるから、正しいとされたという解釈のようです。」
「知らなかったね。相対評価だったとは。でもそんなことは聖書のどこにも書いていないよ。」

「8から15節が“信仰と行動にはどんな関係があるか”です。 この記事の中心部分ですね。8節に“何世紀にもわたり,キリスト教の指導者たちの間で,信仰と行動の関係性が激しく議論されてきました。”とあります。パウロの主張とヤコブの主張の整合性を問題にしているようです。」
「9節に“パウロもヤコブも聖書を書いた時,エホバの聖なる力に導かれていたので,内容に矛盾はないはずです。(テモ二 3:16)では,どんなふうに理解したらいいのでしょうか。”と言っている。矛盾はないはずと最初から決めつけているのがいただけないね。」

「その後に“それぞれの文脈を考えてみましょう。”とあります。これは珍しいです。」
「文脈や歴史的背景など全く無視して、自分たちに都合のよいように聖句を解釈するのがJWだからね。」

「10節で“行い”の意味を取り上げます。パウロは“主に,シナイ山で与えられたモーセの「律法に従った行い」のことを話していました。”といっています。パウロは正しいとされるのは行いによるのではない、と言った時、その意味するところは、律法に従った行いをすれば正しいとされるわけではないということのようです。」
「ヤコブの言う“行い”はそういう意味ではないというのだろう。」

「そのとおりで、11節で“一方,ヤコブ 2章で説明されているのは,「律法に従った行い」のことではありません。クリスチャンが毎日の生活の中で取る行動のことです。”と説明しています。」
「同じ言葉でも違った意味で使っています、ということで解決ね。12,13節で、行いの具体例が出ているね。」

「12節では“ヤコブは1つ目に,全ての人に分け隔てなく接することの大切さを教えています。”とあります。また“2つ目に,兄弟や姉妹が着る物や食べ物に困っていることに気付いても,必要な物を与えない人について語っています。”とあります。こういう行いをしていなければ、信仰は死んでいるのだそうです。」
「どちらもJWは熱心じゃないよね。JWのすることは集会と伝道と建設工事で、それさえしていれば楽園に行けるという教義じゃなかった?ヤコブがそんなJWをみたら、偽クリスチャンと呼ぶよ。」

「13節ではラハブの例です。ヤコブ2:25には“娼婦ラハブも,使者たちを親切に迎えて別の道へ送り出し,行動によって,正しいと認められたのではありませんか。”とあります。」
「13節で“信仰に基づいて行動し,偵察に来た2人のイスラエル人をかくまい,命を助けました。”とあるけれど、She showed her faith by her actionsだから、彼女は行動で信仰を示しました、だよ。信仰に基づいて行動したとは書いていない。誤訳。」

「それからshe protected two Israelite spiesとありますから、二人のイスラエル人スパイをかくまった、です。偵察じゃないです。」
「日本の信者に神の民がスパイを使ったことを知られたくなかったのだろう。JWもスパイを使って、自分たちのことを監視しているのだろうか、と疑問に思う信者が出かねない。」

「13節の結論が“このことから,信仰を持って行動することの大切さを学べます。”とありますが、違いますよ。」
「the importance of having faith backed up by worksだから、行いに裏付けられた信仰の重要性だ。信仰を強調しているのに、日本語訳では行いが強調されている。翻訳者はJWらしく、信仰よりも集会参加、伝道、建設工事等々という行いこそが大事と信じているのだろう。」

「そういうJW的思想をパウロは批判しているのですよ。」
「ローマ3:28で“人は律法に従った行いによらず,信仰によって正しいと認められる,と私たちは考えるからです。”とパウロは言っているけれど、それに対して、JWは組織の指示に従った忠実な行いによって、正しいと認められる、というもの。パウロとは調和しないね。」

「14節が結論で“パウロとヤコブは信仰と行いの関係についてそれぞれ別の角度で説明していたことが分かります。パウロはユダヤ人のクリスチャンに,モーセの律法に従うだけではエホバに良いと認めてもらえないということを教えました。一方ヤコブは,全てのクリスチャンに,人に親切にして信仰を示すことの大切さを強調しました。”とあります。これでいいのですか?」
「パウロの言っていることがずいぶん矮小化されている。パウロはローマ書の1から3章で、善を行えば義となるという考えを否定している。そこまでだと、“モーセの律法に従うだけではエホバに良いと認めてもらえないということを教えました。”というのは正しいけれど、4章以降のことを無視している。」

「ヤコブは“人に親切にして信仰を示すことの大切さを強調”したというのも、だいぶ矮小化していますよ。これだとどこにでもある道徳を説いたというだけになります。」
「そもそもヤコブ書は短い勧告がたくさん並んでいる。格言集と似たものだよ。」

「ヤコブとパウロの関係ですが、パウロの死後、パウロの教えを曲解し、どう生きようと信仰さえあれば救われるという人たちが現れてきて、それに対してヤコブがそれではダメだ、行いのない信仰は死んだも同然と批判したという関係じゃないですか?」
「それが一番ありそうなことだね。」
「ということは、ヤコブ書はパウロの死後、パウロの教えが相当広まった後の時代に、ヤコブの名をかたって書かれた偽名文書になるわけですね。」

「ヤコブ1:1で“神と主イエス・キリストの奴隷であるヤコブ”と作者は名乗っているだけ。ヤコブはごくありふれた名前だから、これだけからはどういうヤコブかは不明。」
「わかるのはギリシャ語を話す、教育水準の高いユダヤ人ということぐらいですね。」

「しかし、JWではイエスの兄弟のヤコブと決めつけていて、そのヤコブは60年代前半に殺されているので、ヤコブ書は60年代前半に書かれたものとしている。」
「パウロが死んだのは65年くらいですから、JWの年代計算ではヤコブ書はパウロが死ぬより前に書かれたとしているわけですね。」
「普通、ヤコブ書は90年以降に書かれたと推測されている。一方、ヤコブ書にはキリスト教的要素が非常に乏しくユダヤ教的なので、非常に早い段階、つまり40年代ごろに書かれたものと主張する人もいるね。」

「15節がさらにあり、ここは聖書とは関係のないJWの教えの部分です。“エホバに信仰を持っていることを表す方法はいろいろあります。引っ越してきた兄弟姉妹や集会に出席するようになった人を温かく歓迎したり,困っている仲間を助けたりできます。家族に親切にすることもエホバに喜ばれます。(ロマ 15:7。テモ一 5:4,8。ヨハ一 3:18)さらに,良い知らせを熱心に伝えることはとても大切です。(テモ一 4:16)”とあります。JWとしては伝道活動が大事ということですね。」
「こうなるとパウロもヤコブも関係ないね。伝道することが信仰を示すことらしいけれど、そんなことは聖書のどこにも書いていないよ。」

「英文ではAn especially fine work that gives evidence of our faith is our zealously sharing the good news with others.です。だいぶトーンダウンした訳ですね。」
「信仰の証拠となる特に優れた行いは他の人に良い知らせを熱心に伝えることです、とある。伝道が信仰の証拠になるなんて、バカバカしいと思ったので、“大切です”にしたのだろう。」

「開拓者に求められる奉仕時間はどんどん減っていますよね。信仰の証拠=伝道なら、JWの信仰はどんどん減っているということになります。」
「15節の上に写真が3枚あって、その一つがカート奉仕しているというもの。カート奉仕が“良い知らせを熱心に伝えること”のようだけど、ただ突っ立っているだけの史上最もやる気のない伝道方法でしょう。」

「引照聖句のテモテ一4:16には“自分自身と自分の教えに絶えず注意を払いなさい。これらのことを粘り強く行いなさい。そうするなら,あなたは自分自身と,あなたの言葉に耳を傾ける人たちを救うことになります。”とありますが、これはパウロの思想じゃないですね。もちろんテモテの著者はパウロじゃないですが。」
「この聖句の前半のことをすると、“あなたは自分自身と,あなたの言葉に耳を傾ける人たちを救う”といっているね。これだと一生懸命修行をしたら全人類を救えるといっているも同じこと。こんな思想はパウロにはないよ。パウロによれば、救いは神の御業だ。神が救ってくれる。」

「テモテがどんなに偉くても、“自分自身と,あなたの言葉に耳を傾ける人”を救えませんよ。」
「テモテがそんなことできるなら、テモテは普通の人間じゃないね。」

「16節が“希望は信仰を強める”です。 “ローマ4章では,アブラハムの例から,希望に目を向け続けることの大切さについても学べます。”と言っています。」
「そこでは“「アブラハムは希望に基づいて信仰を持ちました。……多くの国の人々の父祖となることを信じたのです」。(ロマ 4:18,19)”とある。まず、この訳がへんだよ。」
「希望に基づいて信仰を持った、という部分ですね。協会共同訳では、“彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ”ですよ。JWの教義に合わせて勝手に付け加えています。改ざん聖書です。」

「JW訳ではローマ4:18は“かないそうにない希望でしたが,それでもアブラハムは希望に基づいて信仰を持ちました。”だけど、“かないそうにない希望でしたが”という日本語訳もヘンだね。英文ではAlthough beyond hope。希望が絶えた、絶望的な状況を言っている。例えばHe is beyond hope of recoveryなら、彼は回復する見込みがない、という意味。」

「“望みはなかったが”と訳して欲しいですね。」
「協会共同訳で“望みえないのに望みを抱いて信じ”となっているように、望みに基づく信仰なんてことは言っていない。絶望的だけれど、神の約束なので、希望があると信じていた、ということ。」

「この子孫がいっぱい増えるという約束をアブラハムが信じたことを信仰の例として持ち出すのは何か理由があるのですか?」
「ローマ書のこの部分は、ユダヤ教を意識して書かれたと想定されている。ユダヤ教でもアブラハムは信仰の模範だけれども、その際に取り上げられるのはイサクを犠牲として捧げようとしたという野蛮な行い。」

「ヤコブ2:21には“私たちの父祖アブラハムは,息子イサクを祭壇の上に捧げ,行動によって,正しいと認められたのではありませんか”とありますね。これはユダヤ教的な発想なわけですね。」
「パウロは大事なのは行いではない信仰だと言いたくて、イサクの話ではなく、子孫繁栄の約束を信じた話をとりあげていると推測されている。」

「最後の17節がまとめです。“私たちはアブラハムのように,エホバに信仰を持ち,良いことを行い,希望を持ち続ける必要があります。”とあります。これも訳がへんですね。この記事は翻訳者には少し難しかったようですね。」
「we need to have both faith and works as well as hope.だから、希望だけでなく信仰と行いの両方が必要です、という意味。16節で希望を強調したけれど、希望だけでいいと思うなよ、信仰とJWの行いを忘れるな、というメッセージだね。」
「楽園の希望と伝道、集会、建設工事ですか。」

#1498 2024年02月16日 14:36:09

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“私たちの希望が失望に終わることはない(51)”で、ローマ5:1-5について学ぶという内容です。」
「JWの言う希望は地上の楽園で永遠に暮らすという聖書的根拠の乏しい希望のことでしょう。真面目に考えれば実現するわけがない希望なのに、そう言った希望が実現すると信者に思わせようとしているのがJWという宗教団体なわけだ。」

「1節では、アブラハムを取り上げます。アブラハムは実現しそうもない希望を信じた偉大な人なのです。」
「それなのに、先週も行ったけれど、引照聖句のローマ4:18では“かないそうにない希望でしたが,それでもアブラハムは希望に基づいて信仰を持ちました。”と訳しているのはだめだね。希望のない状態だったということを明記しないと、アブラハムの聖書的な意味での偉大さがわからなくなる。」

「そんな偉大なアブラハムもJWの奇妙な教義では、復活しても単なる地上要員で、天で支配者になる統治体よりはるかに格下の存在です。」
「その教義はJWらしい教義なので、この記事でももっと強調して欲しかったね。聖書の中のどんな偉人も統治体から見れば格下の地上復活組にしかすぎません、とね。そうすることによって統治体の偉大さがわかるというものだ。」

「2節に“アブラハムはエホバとの強い絆があったので,「神が約束を必ず果たされるということを確信していました」。(ロマ 4:21)”とあるのですが、訳がヘンじゃないですか?」
「JW訳は原文の半分しか訳していないね。原文は直訳すると、完全に確信させられた、神が約束した事を、神は約束を実行できることを、というもの。協会共同訳では“神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。”となっている。」

「4から8節が“素晴らしい希望”です。 ローマ5:1,2の解説です。4節に“ローマの兄弟姉妹はエホバとイエスについて学び,信仰を行動に表してクリスチャンになりました。”とあるのですが、“信仰を行動に表して”は誤訳ですよ。翻訳者は“行い”が大事という思想から離れられないようです。」
「英文ではhad exercised faithだから”信仰を働かせ”だね。学び、信仰をもち、クリスチャンになったと言っている。翻訳者の思想では、伝道し、集会に参加し、建設工事という”行い”を伴っていないと、クリスチャンとは呼べないのなのだろう。」

「5節で“選ばれたクリスチャンには,復活後に天での永遠の命を与えられ,そこでキリストと一緒に統治するという希望があることが分かります。(テサ一 4:13-17。啓 20:6)”とあります。引照聖句はそんなこと言っていません。」
「テサロニケ一4:17は多くの人に誤解されている聖句の代表的なもの。そこには“その後,私たちのうち生きている者が雲に包まれて引き上げられ,彼らと一緒になって空中で主に会い,こうして常に主と共にいることになります。”とあるけれど、これは天から降りてきたイエスを地上にいる者が空中まで出迎えに行き、イエスとともに地上に降りてくるという意味。イエスは地上に降りて何をするかというと、テサロニケ一5:3に“人々は,「平和だ,安全だ!」と言っている時に,突然滅ぼされることになります。”あるように、イエスの敵を滅ぼす。」

「JWでは、テサロニケ一の4章と5章は別々に論じられて、一連の出来事と理解していないことが多いですよ。」
「もともとの聖書には何章何節なんか書かれていない。それらは全て後の時代に付け加えられたもの。章が終わると、そこでその話題が終了したわけではない。パウロは手紙を一続きのものとして書いている。」

「古代では王がある都市に来るときは、その都市の主要な人物が都市の外まで迎えに行き、王をエスコートして都市に迎え入れるというのが慣例だったわけです。それをイエスの帰還に当てはめて描いているのがテサロニケ一4:17なわけですね。」
「イエスは天から降りてくるので、迎えに行く人は空中にまで上がらないといけないわけだ。JWはそれからそのまま天に昇っていくと誤解している。そんなことは書かれていない。」

「6節では、元会長のフランツの“その希望は,たとえ100万年かかろうとも待つだけの価値があるのです。”と言う言葉を引用しています。」
「フランツは1975年に終わりが来るよ・う・な・ことをさんざん言いまくった人物。終末カルトにしばしば現れる預言者タイプの詐欺師だね。自分の預言に反して、終わりの日を見ることなく死んだ。墓の下で100万年待つつもりなのだろう。」

「7節が地上組の希望に触れます。”それはアブラハムが持っていたのと同じ希望で,神の王国が統治する地球で永遠に生きるというものです。(ヘブ 11:8-10,13)”とありますが、引照聖句はそんなことは言っていません。」
「ヘブライ11:10には“アブラハムは真の土台を持つ都市を待ち望んでいたのです。その都市の設計者および建設者は神です。”とある。これが地上の都市を指しているとJWは解釈するの?神が設計し建設した都市は地上にはないよ。普通は天の都市のことを言っていると解釈するけどね。」

「アブラハムは地上に復活すると思い込んでいるからですよ。自分の信念に合わせて、聖書を解釈しているのです。自分たちの信念に合わない部分は無視するだけです。」
「ヘブライ11:16には“彼らは,より良い場所,つまり天と関わりのある場所を切望しています。それで神は,彼らを恥じてはおらず,彼らから神として呼び掛けられることも恥じていません。彼らのために都市を用意しています。”とハッキリと天の都市のことだとわかるように書いてあるのだけどね。」

「9から14節が“希望に対する確信をどのように強められるか”です。 ローマ5:3の話です。“ここでパウロは苦難を経験することと希望への確信が強まることを関連付けています。これを不思議に思う人もいるかもしれません。実際,キリストに従う人たちはみんな苦難を経験します。”とあります。」
「ローマ5:3には“それだけでなく,苦難に遭っても喜びましょう。私たちが知っている通り,苦難によって忍耐力が身に付くからです。”とあるよ。苦難と忍耐力を結び付けているわけで、希望については触れていないよ。」

「10節で、現代のJWの苦難について触れています。“友達や親族からばかにされたり,厳しい接し方をされたりすることもあるかもしれません。正直に行動しているために,職場で嫌がらせを受けていますか。(ヘブ 13:18)政府から伝道活動をやめるようにと圧力をかけられているかもしれません。”とあります。被害者意識丸出しです。」
「大多数の人はJWのことを知らないし、関心も持っていないから、JWゆえに迫害に合うということはまれなこと。JWは自分たちを過大評価しているけれど、実際はJWは社会的には取るに足りない存在。」

「“正直に行動しているために,職場で嫌がらせを受けていますか。”とありますたが、これは職場では正直でいなさい、職場のものを盗んだりするなという指示ですよ。」
「JWが職場で嫌がらせを受けるとしたら、職場の各種行事に参加しないとか、真面目に働かずよく休むとか、JWであることを知られないようにするため異常に秘密主義的で職場の人たちと打ち解けないとか、理由はいろいろあるけれど、正直だから嫌がらせを受けるということはまずないでしょう。極めてまれなことをよくあることのように書くのがJWの記事。」

「11節で、やっと忍耐のことが出てきます。“全てのクリスチャンは苦難を経験することになっているので,忍耐することを心に決めておく必要があります。忍耐して初めて,将来の希望が現実のものとなるのを自分の目で見ることができます。”とあります。翻訳に問題がありますね。」
「英文ではWe need to be determined to endure whatever trials we may face.とあり、私たちはどんな試練に直面しても耐えるという決意が必要です、と危機意識をあおった宣伝文になっている。日本の信者にはそんな危機意識は必要ないと判断したのだろう。」

「13節はローマ5:4で、“パウロは,忍耐すると「神から良いと認められる」と言っています。でも,これは私たちが試練を経験するのをエホバが喜ぶという意味ではありません。私たちが忍耐し,忠実に仕え続ける姿を見て,エホバは喜んでくださるのです。”と説明しています。」
「ローマ5:4には“そして,忍耐すると神から良いと認められ,神から良いと認められると希望を持てます。”とあるけれど、訳がヘンだよ。協会共同訳では“忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。”となっている。」

「“良いと認められ”はan approved conditionの訳ですね。承認された状態という意味ですよ。」
「元のギリシャ語はパウロ以前には使用例がない珍しい単語。“吟味して本物であることを証明する”を意味する動詞から造られた名詞。パウロは人格形成のことを言っているので、“良いと認められ”は全くダメで、人格が吟味された結果明らかになるものという意味として、協会共同訳では“品格”と訳された。」

「苦難を耐えることによって、耐えたものだけがもつ品格が生れるということですね。」
「そういう訳で、耐えると神様から良い人間ですねと喜ばれるという意味ではない。13節に書かれていることは、小学生レベルの間違い。」

「14節はその間違いが続きます。“あなたは今まさに忍耐しながらエホバに仕えていますか。もしそうなら,エホバがあなたのことを喜んでいるということを忘れないでください。”とあります。」
「ローマ5:4は忍耐したら神様が喜ぶなんてことは書いていないよ。」

「15から18節が“希望への確信をこれからも強めていく”です。 ローマ5:4bと5の話です。そこには“神から良いと認められると希望を持てます。その希望が失望に至ることはありません。”とあります。それで15節で、こう問いかけます。“パウロは,ローマ 5章2節でローマのクリスチャンがすでに希望を持っていると言っていました。「神によって栄光に輝くという希望」です。それで,「希望を持っているクリスチャンにパウロが改めて希望を持てると言ったのはどうしてだろう」と思う人もいるかもしれません。”とあります。」
「5:2で言う希望と5:4で言う希望が違うものなんだよ。それだけのこと。」

「16節がその問いかけの答えで、“希望に対する確信は強くすることができる,という点を考えるなら,パウロの言葉の意味をよく理解できます。”とあります。5:2の希望より、5:4の希望の方が確信が強くなっていると言いたいようです。」
「JW活動をやっていると、楽園の希望がどんどん強くなり、最後は確信に変わるといいたいのかな?そんなことパウロは言っていないけれど。」

「17節で“献身してバプテスマを受けてからも,エホバについてさらに学び,エホバをもっと愛するようになり,希望に対する確信は強くなってきたはずです。”とありますから、JW活動をやればやるほど楽園の希望は確信へと変わるということですね。」
「それが組織が信者にJW活動をたくさんさせようとする理由だね。JW活動をやらせればやらせるほど、これは意味のあることだと思い込むようになる。コミットメント原理とか一貫性の原理が働くからね。」

「18節では“その希望が必ず実現するということです。”とあります。しかし、JWの地上の楽園で永遠に暮らすという希望は実現しません。そんなことを神は約束していません。」
「それはJWが聖句をあちこち拾い集めて作った希望だからね。神とは関係ない希望だね。」

「最後の19節で“私たちもエホバに忠実に仕え続けるなら,希望が実現するのを見ることができます。”と締めくくります。エホバというのは組織のことですから、組織にひたすら従っていないと希望は実現しないということですね。」
「年取って、体も頭も弱って、集会参加も伝道もできなくなったら、最後まで忠実に使え続けなかったということで、希望は実現しないね。希望が実現するためには、そうなる前に死なないといけないようだ。」

#1499 2024年02月23日 15:40:48

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い姉妹たち,クリスチャンとして成長していきましょう(52)”で、発展途上国にいる教育水準の低い若い女性JW向けにあれこれとおせっかいなアドバイスをしているという内容です。」
「そういった国なら、女性差別的なJWの考えも受け入れられると思っているのだろうね。でも先進国の女性JWもこの記事を見るわけで、うんざりすると思うよ。」

「3から9節が“内面を磨いてエホバに喜ばれる人になる”です。 3つの徳目が出ています。謙虚、慎み、良い判断です。女は出しゃばるなということですね。1950年代のアメリカの白人中流家庭の主婦ですね。」
「JWの神様は女性にはその程度のことしか望んでいないようだ。男性を立てて、時にはいい助言を控えめにするという、内助の功的な女性が理想なんだ。」

「2節に“エホバは男性と女性を創造しました。”とありますが、英文ではJehovah made human to be male or female. で、エホバは人間を男か女かに創りました、というものです。意味が違いますよ。」
「英文では人間は男か女の2種類しか認めないという組織の意志が込められている。男と女の中間なんかは認めないというものだね。そういう非科学的な考えを翻訳者は嫌ったのかもね。」

「 現実には中間のような人は生まれてくるわけですよね。」
「昔は半陰陽と呼んだけど、今では性分化異常と呼ぶことが多い。また生まれたときに割り振られた性に違和感を持つ人もいる。人間には男と女しかいない二元論では性別は語れない。」

「3節に“聖書の中には,エホバを愛し,エホバに忠実に仕えた女性たちの素晴らしい記録がたくさんあります。(jw.orgの「聖書に出てくる女性たちから何を学べますか」の記事を参照。)”とありますが、聖書は女性軽視が甚だしいですよ。女性が出てきても、名前がなかったりする例が結構あります。」
「ノアの家族がそうだね。ノアの妻は人類の母だよ。にもかかわらず名前はない。3人の息子は名前があるのに、その妻は名前がない。親が誰であるかも書かれていない。単なる女。聖書には“女性たちの素晴らしい記録”など滅多にない。」

「“聖書に出てくる女性たちから何を学べますか”には21人の聖書に登場する女性が紹介されています。内容は小学生レベルですね。」
「面白いのは、一人一人、顔のイラストがあること。どんな顔をしていたかは誰も知らないのだから、そんなものは必要ないだろう。子供向けだから必要なのか。」

「悪人としてイゼベルが出ているのですが、列王二9:30に“目に黒い化粧を塗り”とあるのですから、もっと毒々しくアイシャドーをしているように描いて欲しかったです。」
「そういう化粧をしているJWの中年女性がアメリカには結構いるから、そうしなかったんじゃないの?」

「良い人は美人に、悪い人は悪人風に描いています。人間は外見で判断できるという誤ったメッセージを子どもに与えています。」
「ハンサムな性犯罪者はいるし、美人の詐欺師もいる。子どもは大人の外見に騙されないようにと、教えるべきなのに、その逆のことをしている。教育的じゃないね。」

「5節が①謙虚です。“エホバを愛する謙虚な女性は,会衆や家族の中でエホバから権威を与えられている人たちに心から従いたいと思うことでしょう。”とあります。要するに男に従えということですね。」
「男に逆らう女は許さないぞ、という訳だ。JWの長老は職場では女性の上司や同僚に命令されているから、その反動で、会衆では女に命令し、威張りたいんだよ。」

「6節には“リベカの手本に注目できます。”とありますが、リベカはそんな立派な人ですか?イサクをだましませんでしたか?」
「創世記27章だね。イサクが目をみえないことを利用し、息子のヤコブをエサウに成りすませて、長子の特権を奪った。」

「聖書の中では、このインチキは非難されていませんよね。」
「聖書の登場人物はアブラハムでもモーセでもダビデでも、必要なら策略を使う。聖書はそんなに高い道徳を求めていないので、夫をだましたくらい、問題ないのだろう。6節に“リベカのように,エホバから権威を与えられている人たちに謙虚に従うなら”とあるけれど、違うよね。執筆者は聖書を読んだことがないね。」

「7節が②慎みです。今度はエステルの登場です。エステルは慎み深い女性だったということですが、8節では“エステルの慎み深さは別の面にも表れていました。エステルは「容姿が美し」い人でしたが,目立とうとはしませんでした。”とあります。そこから服装の話になっていきます。」
「聖書では重要な女性はなぜか美人と決まっている。これは聖書の話が一種の民話だからだね。民話では王様は強くてハンサム、王妃は美人、と決まっている。複雑な性格は与えられず、善人か悪人のどちらか。分かりやすいようになっている。エステル記もそんな話。」

「8節では、“姉妹たちは,どうすればエステルの手本に倣うことができるでしょうか。一つの方法がテモテ第一2章9,10節に書かれています。(読む。)”とあります。引用聖句には“女性は,慎みと健全な考え方が表れた,きちんとした服装をすべきです。”とあります。そして、“ここで使われているギリシャ語は,他の人の見方や感情に配慮した上品な服装を指しています。”と解説していますが、ウソでしょう。」
「派手で奇抜な服装をするな、と言っているだけでしょう。“他の人の見方や感情に配慮した”というのはJWの思想。他人をつまずかせてはいけない、といって恣意的な規制をするのがJWのやり方。JWって、すぐにつまずく人たちの集まりなんだよね。」

「JWの考えるきちんとした服装は、1950年代のアメリカ白人中産階級の服装ですよ。」
「だからJWはアメリカの宗教と言われる。」

「9節が③良い判断力です。アビガイルの登場です。」
「夫が突然死したあと、ダビデの何番目かの妻になった人ね。良い判断だったのかな?」

「10から14節が“生活に役立つスキルを身に付ける”です。 無知無学の女性向けの内容です。4つのことが出てきます。」
「11節には①“上手に読み書きできるようになる。”とある。読み書きできない女性が多いということね。これは女の子は学校に行かせてもらえないアフガニスタンみたいな国のことなんだろうか。大学に行ったら上手に読み書きできるようになりますと書いて欲しいね。」

「12節が②“コミュニケーションのスキルを磨く。”です。なぜこれがことさら女性に求められるのでしょう?伝道者としてタダでこき使うためじゃないですか?」
「そうでしょう。聖句がいくつか引用されているけれど、それらは男性に向けられたものなんだけどね。」

「12節に“格言31:26を読む。”とあり、そこには“口を開く時には賢く語り,いつも親切の律法に従って話す。”とあるのですが、“親切の律法”とはなんですか?」
「それは直訳だね。訳した人も意味が分からないから、直訳するしかなかったんでしょう。協会共同訳では“口を開いて知恵を語り/慈しみの教えをその舌に乗せる。”とある。ここは理想の妻が描かれている部分だけれど、理想の妻は、知恵と慈しみの両方を兼ね備えている、という意味か、あるいは夫に対しては知恵を語り、子どもに対しては慈しみを語る、と言いたいのだろう。」

「13節が③“家事を上手に行えるようになる。”です。家事は女の仕事で、男はしなくていいようです。シンディー姉妹は、“料理や掃除,裁縫,買い物といった家事のコツを教わったので,生活の知恵が身に付きましたし,エホバにもっと奉仕できるようになりました。”といっています。要するに効率よく家事を行い、余った時間で伝道者として働けということです。」
「JWの女性は大変だね。女性が忙しく家事をしている間、男はゆっくり風呂に入り、その後ビールを飲むわけだ。楽園でもこんな生活が続くとしたら、女性にとっては悲惨な楽園だ。」

「14節が④“自活できるようになる。”です。 クリスタル姉妹が“両親は,私が高校で実用的なスキルを身に付けられる授業を選ぶように助けてくれました。父は会計の授業を取るようにアドバイスしてくれました。実際,本当に役立ちました。”とあります。でっち上げの体験だと思いますが、“会計の授業”とはなんですか?」
「会計学のことじゃないだろうから、お金の状況の記録とか管理の仕方を学んだということじゃないの。高校では受験勉強よりも、実用的な知識を学んで、卒業後開拓者として自立しましょう、と言いたいんだよ。でも、大学に行って会計士の資格を取った方が自立できるのになぜそう言わないのかな?」

「確かに14節では、“シンプルな生活で満足し,不必要な負債を背負わないようにするなら,クリスチャンとしての目標に思いを向け続けることができます。”とあります。“シンプルな生活”とは“極貧の生活”のことですね。」
「この記事を読んだJWの女の子は自分に許されている未来がどんなものか知って、JW人生に絶望するかも。今からJWをやめる準備をしよう。」

「15から20節が“将来に備える”です。 JWの女性の人生のガイドラインが示されます。4つのことが出ています。16節は①“しばらく独身でいる。”です。しばらく結婚をせず、組織のために働けということです。」
「17節は②“全時間奉仕をする。”だ。開拓者や建設ボランティア,ベテル奉仕者として奉仕できるかもしれません。”とある。組織にとってタダの労働者は大歓迎ということ。」

「18節が③“結婚する。”です。もちろんダサくて未熟なJWの男の中から適当な人を選ばなければなりません。」
「18節の上に、掃除をしている、小太りの兄弟をある姉妹が見ているという写真があるね。これが理想の結婚相手?見られていると知って、掃除をしているんだよ。誰も見ていなければ、掃除なんかしないよ。それがJWでしょう。」

「それでもJWの中ではましな方なんですよ。」
「JWでは男女の数が非常に不均衡であることを言って欲しいね。JWでは男性は女性に比べてわずかしかいませんから、多くの女性は結婚相手を見つけられないでしょう、くらい教えるべき。」

「18節には、よい結婚相手かどうか判断するためのチェックリストがあります。“この兄弟はクリスチャンとして成長するように努力しているだろうか。生活の中でエホバに喜ばれることを第一にしているだろうか。賢い決定をしているだろうか。自分の間違いを認められる人だろうか。敬意を持って女性に接しているだろうか。エホバとの絆を強められるように助けてくれるだろうか。家族をきちんと養い,感情面でも支えになってくれる人だろうか。責任をしっかり果たせる人だろうか。例えば,会衆ではどんな仕事を任され,どのように果たしているだろうか。”です。これに全て当てはまる人はいません。幾つ当てはまれば、結婚していいのか教えて欲しかったです。」
「“家族をきちんと養い”という条件があるとは驚きだ。王国第一にしていればエホバが備えてくれるはずだよ。」

「“自分の間違いを認められる人だろうか。”とありますが、JWにはこんな人はいません。」
「JWはカルト宗教の一員であるという間違いを認められないので、JWを続けているわけだからね。特に誤りを認めないのは統治体だよ。何か問題が起きると、悪いのは末端の信者という姿勢だ。下のものは統治体の真似をするから、ますます誤りは認めない。」

「“会衆ではどんな仕事を任され”とあるから、援助奉仕者か長老が望ましいということのようです。結婚相手候補はますます限られます。」
「若いJW女性は、年の離れたくたびれた長老と結婚できたら、それで満足するしかないわけだ。さっさと辞めよう、JW。」

「19節には“聖書によると,妻には夫を「補って助ける」という役割があります。(創 2:18)”と書いています。引照聖句には“彼を補って助ける人を造ろう。”とありますが、訳がヘンじゃないですか?」
「“補って”はないね。でも、ヘルパーとしての女性の役割を少しでも価値あるものに見せかけたいというJWの意図はわかるね。協会共同訳では“彼にふさわしい助け手を造ろう。”だね。」

「聖書では、女性は男性に従属する二流の人間という位置づけですね。一夫多妻も認められています。それなのに、19節では“これは女性が劣っているということでしょうか。そうではありません。女性の助け手としての役割は大切なものです。”とあります。」
「聖書には古代の家父長制の価値観が貫かれており、女性に差別的で、女性の地位は低い、と正直に認めるべき。」

「20節が“母になる”です。“良い母親になるためにどんなことが必要かを考えておくことは大切です。良い妻また母親になるために,内面を磨いてエホバに喜ばれる人となり,いろんなスキルを身に付けておくことができます。”とあります。」
「JW女性の生き方というのは、読み書きできる程度の最低限の学歴で、独身のまま開拓者か、結婚して開拓者か、結婚して母になって開拓者の3択しかないということだね。」

「一番可能性が高いのは、独身のまま開拓者ですね。」
「そんな姉妹が年を取り、病気になって集会に行けなくなると、そのまま忘れ去られ、一人寂しく極貧のまま死ぬことになる確率は90%。JWの女性の一生は過酷だね。さっさと辞めよう、JW。」

「最後の21節に“若い姉妹たち,私たちは皆さんのことを愛しています。皆さんがエホバと仲間のためにたくさんのことをしてくれていることにも感謝しています。”とあります。若い女性がタダの労働力として感謝されています。」
「女性に関しては、組織は少しも進歩していない。せめて服装の非聖書的な規則を改めるべき。新しい光が必要だね。この記事を読んで若い女性たちがJWに完全に失望してくれたら、この記事も少しは役に立ったことになるね。」

#1500 2024年03月01日 14:01:41

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“若い兄弟たち,クリスチャンとして成長していきましょう(53)”で、前回の記事の男性版で、前回の記事にあったことを、今度は若い兄弟にあれこれ要求しているという内容です。」
「男尊女卑のJWとしては、若い兄弟と言うのは若い姉妹に比べて貴重な存在だよね。あれこれ要求しすぎて、やめられたら困るよ。」

「人手不足なので、全くやる気のないダメ兄弟でも、男と言うだけでチヤホヤされる傾向にあるようです。」
「若い援助奉仕者だけど全く奉仕していないのに、文句を言われるどころか、集会で適当なコメントをするだけでほめられて困っている、という話を聞いたことがあるね。元気づけようとしているのか、単なる引き留め工作なのか?」

「2節に“若い兄弟たちは,将来どんな責任を担うことになるか,考えたことがあるでしょう。”とあります。男性に求められるのは責任のようです。この記事では“責任”は何度も出てきます。」
「女性は服従で、男性は責任ね。男性は余計な責任からうまく逃げる方法を学んでおかないと無限に責任を押し付けられて泣くことになるね。」

「4から8節が“成長するためにできること”です。 3つのことが出ています。4節には①“良い手本に注目する。”、5節が②“「思考力」を身に付け,守る。”です。」
「思考力はJWにはいらないでしょう。無知無学無思考力が理想のJW。思考力があると、組織のおかしさに気づいてしまう。」

「思考力を身に着けるは良いとしても、思考力を“守る”と言う表現はヘンですよ。」
「格言3:21にある“役立つ知恵と思考力を守れ。”から来ているけれど、翻訳がおかしい。“守る”ではなく“保ちなさい”でしょう。思考力というのもヘン。分別とか思慮深さでしょう。」

「5節では“まず,聖書を調べてエホバの考え方を学び,それに自分を合わせるとよいのはどうしてかを考えます。次に,エホバに喜んでいただくには何をしたらいいか,具体的に考えましょう。(詩編119:9を読む。)”とあります。要するにJWのルールを学んで、それに従えということです。これが思考力を身に着けることのようです。理解できません。」
「具体的には“(1)姉妹と接するとき,(2)服装を選ぶとき,どのように思考力を働かせることができるか,考えてみましょう。”とある。“思考力”と訳しているのでヘンな文章だ。“分別”と訳しておけばよかったのに。異性関係と服装に異常にこだわるのがJWの特徴だね。」

「6節は女性との付き合い方です。“結婚を真剣に考えていないのに思わせぶりなことを言ったりしたりしません。(テモ一 5:1,2)デートする場合でも,付き添いなしで2人きりになることがないようにします。”とあります。時代錯誤ですよ。そもそも、付き添いと一緒のデートは聖書のどこに書いてあるのですか?」
「JWの聖書だけにあるのかも。付き添いと一緒のデートをしている男女がいたら、JWということだね。日本で他にそんなことしている宗教はあるの?」

「映画“ゴットファーザ”で付き添いと一緒のデートのシーンがありました。シチリア島のシーンで男女二人の後を大勢の人間がついて歩くのです。1950年代でしようか。」
「付き添いと一緒のデートでは誰もがいい子のふりをするよね。相手を知るという点では全く無意味。結婚後にこんなはずじゃなかった、と後悔するJWはけっこういるだろうね。」

「邪魔な付き添いを何とかできないですか?」
「お金を渡して、できるだけ遠くの自動販売機で飲み物を買うように頼むんだよ。」

「付き添いと一緒のデートをしてみて、相手が気に入らない場合、結婚をやめられるのでしょうか?」
「無理なんじゃないの。結婚への圧力は強いし、結婚しないとなると、いろいろな問題が起こるからね。気の合わない相手でも、祈れば解決するとか適当なことを言われて、結局無理をして結婚するのだろう。不幸な結婚が増えることになるね。」

「6節の最後に“相手の評判を傷つけないように気を配ります。”とありますが、それが付き添いの目的ですね。」
「名誉が何よりも優先される文化では、ふしだらな女ではないという娘の名誉を守るために付き添いが付く。」

「名誉優先の地域では、今でも“名誉殺人”はありますよね。」
「自由恋愛や親の許可を得ない結婚、異性と一緒にいただけでも、家族の名誉を汚すものと見なし、親族がその名誉を守るために女性を殺害するのが“名誉殺人”。イスラム圏やインドに多い。JWは殺人はしないけれど、似たような思想でしょう。さっさと辞めよう、JW。」

「7節は服装です。悪い服装として“体にぴったりし過ぎるスタイルや,女性的な服装”をあげています。」
「そういう服装をしている男は同性愛者だと、元統治体のモリスが言っていたけれど、モリスが追放されても、この考えは変わらないわけだ。すごい偏見。」

「服装を選ぶ基準として、“自分の服装には健全な考え方や仲間の気持ちを大切にしていることが表れているだろうか。ほかの人からもエホバに仕える人と見てもらえるような格好だろうか。”とあります。よくわかりませんね。1950年代のアメリカのセールスマンの服装をお手本にしろ、ネクタイは真夏でもきちんと締めろ、とはっきり言えばいいのに。」
「記事ではっきり言わずに、長老に指示させるのが組織のやり方。そのため奇妙なローカルルールがあちこちにある。」

「ローカルルールには、白いワイシャツでなくてはいけない、靴は黒か茶色で、スーツでなくてはいけない、聖書朗読の時は上着のボタンをはずしたままではいけない、などなどあります。」
「JWの男性はどんな服を着るかも自分では決められない情けない存在ということね。」

「8節が③“信頼される人になる。”です。“与えられているどんな仕事も一生懸命果たすようにしましょう。どのようにすればいいのか分からないときは,自分から経験のある兄弟たちに助けを求めてください。最低限のことをするだけで満足しないようにしましょう。”とあります。無給の労働者に対して過大な要求です。実際は組織の仕事は適当に手を抜く、賢い若い兄弟が多いということですね。」
「“最低限のことをするだけで満足しないようにしましょう。”と言うのは泣けるね。最低限の事しかしない若いJWばかりということじゃないの?それも無理もないけどね。」

「9から13節が“実用的なスキルを身に付ける”です。先週の女性版と同じ3つのことが書かれています。珍しく男女差別しないようにですね。10節が①“上手に読み書きできるようになる。”です。」
「11節に“兄弟姉妹は,聖書から教えたり良いアドバイスをしたりできる兄弟たちの助けを必要としています。”とある。英文では“兄弟たち”ではなく、capable men(有能な男たち)の助けを必要としている、とある。JWには有能な男なんていないから、兄弟たちに変えたのだろう。」

「12節が②“コミュニケーションのスキルを磨く。”です。宗教活動に励むのではなく、まじめに学校に行ったら、読み書きもコミュニケーションのスキルも身に付きますよ。」
「アメリカでは学校に行かずに、ホームスクーリングで済ますJWが多いんだよ。当然低学力で本を読むのも苦手で、他人とコミュニケーションをとるのが下手になる。」

「12節に“メールやメッセージなど電子的なツールにいつも頼っているなら,人と話すのが苦手になってしまうかもしれません。”とありますよ。」
「これは、このような電子ツールをあまり使うなという、指示だね。便利なものは、禁止したところで、必ず普及するよ。」

「13節が③“自活できるようになる。”です。“テモテ第一5:8を読む。”とあります。そこには“もしもある人が,自分の家族,特に一緒に住んでいる人たちに必要な物を与えないなら,クリスチャンの信条を否定していることになり,信仰のない人より悪いといえます。”とあるのですが、シンプルな生活を勧めるJWは滅多にこの聖句は引用しませんから、これは珍しいです。」
「親と一緒に暮らして、親に食わせてもらっている、無職のJW男性が結構いるんだよ。その親も高齢化して、このままじゃ親子共倒れだ。せめて若い人は働いて、自立してよ、という情けないメッセージだね。」

「14から18節が“将来に備える”です。 若いJW男性のライフコースを教えてくれます。前回の女性版とほぼ同じで、4つのことが出てきます。」
「14節が①“全時間奉仕者。”だね。“若い兄弟は,開拓奉仕をすることによって,いろんなタイプの人と協力して働く方法を学ぶことができます。”とある。JW男性の人生は、開拓者として始まるわけだ。こんなことを本当にやりたい若い人なんかいるの?」

「JWというだけで恥ずかしいわけで、開拓者なんてもっと恥ずかしい存在ですよ。周囲からの圧力で、仕方なくやっているんじゃないですか。」
「“まずは,補助開拓奉仕をやってみましょう。”とある。こういうことを若いJWは言われるのだろうけれど、うまく断る方法を今から考えておいた方がいいよ。」

「以前なら、外国で宣教するために外国語を学ぶとか、必要がより大きなところで奉仕するといった選択肢を示したものですが、この記事では出てきませんね。」
「組織は衰退局面にあるので、若い人が魅力を感じる選択肢を提供できないということだね。開拓者というのは月50時間奉仕すればいいだけでしょう。空いた時間で大学に行きましょうと言えばいいのに。」

「15節が②“援助奉仕者や長老。”です。“10代後半の若い兄弟も,資格を満たせば援助奉仕者になることができます。そして,20代前半だとしても,資格を満たすなら長老に任命されることもあります。”と、あります。」
「会衆によっては、長老の平均年齢70歳以上だよ。半分は80代なんてところもある。組織には長老という名の雑用係が必要で、その雑用をやってくれる男だったら、誰でもいいという会衆はけっこうあるでしょう。」

「もう既に、世界各地で20代前半の若い人が長老になっているらしいです。」
「それは人材難の表れで、組織の衰退を物語るもの。若い人は長老という名のカルトの雑用係を目指すよりも、さっさと逃げた方が賢明だよ。」

「17節が③“夫。”です。18節が④“父親。”です。JW男性は結婚して、子どもをもうけてもいいし、そうしなくてもいいようですね。お金のないJWは住むところも見つけられませんし、結婚もできないですし、子どもも育てられません。」
「結婚するには安定した収入が必要です、とは書いていないね。JWはろくな収入がなくても結婚して構わないようだ。」

「17節の上に、日本人らしいJW家族の写真があります。夫婦ともにパート労働者では、こういう家に住めませんよ。」
「宣伝用の写真だからね。夫は鍋つかみをはめて土鍋を持ち、それをテーブルに置こうとしていて、妻は側で食材(人参、しいたけ、ジャガイモなど)を持っているというヘンな写真。普通は土鍋に食材を入れ、食材が煮えたら、土鍋をテーブルに持ってくるよ。夫が持っている土鍋には何も入っていないのだろう。」

「18節に“子供ができたなら,愛していることをいつでも伝えるようにしましょう。良いことをしたときには,ためらわずに褒めてあげてください。”とあります。これって、聖書とは無関係の、アメリカ流の育児です。」
「間抜けな統治体も聖書の育児は古代の野蛮なものだと、ようやく認識したのかな。」

「間もなく大患難が始まるので子どもをつくるのは避けましょうと、なぜアドバイスしないのか不思議です。乳児を抱えて地下室に隠れても、すぐ警察に見つかります。」
「大患難がくるなんて思っていないよ。この記事の隠れたメッセージは終わりの日が間もなく来るなんて思わず、自分の人生設計を考えろ、ということ。」

「最後の19、20節は“今どんなことができますか”です。単なるまとめです。この記事は中身が薄いですね。」
「昔みたいに、若い人はこの体制で老人になることはないでしょう、大学に進学することも、専門的な職業に就こうとすることも無駄なことです、卒業する前に楽園が来ます、と力強く宣言したら、多少は面白かったのに、残念。」

「20節で“クリスチャンとして成長するようできる限りの努力をするなら,人生は楽しくて充実したものになるでしょう。”とありますが、ウソですよ。JWとしての人生は、永遠に小学4年生レベルのことを学ばされ、退屈で無意味な集会と伝道を強制される、楽しくない人生の典型です。」
「英文ではyour life will be rich and satisfyingで、あなたの人生は豊かで、満足のいくものとなるでしょう、といっている。楽しいとは言っていない。翻訳者はJWの人生が比ゆ的でも文字通りでも、”rich”とはとうてい言えないので、“楽しい”に変えたのだろう。」

「この記事では楽園が近い、といった明るいメッセージがありませんでした。あったのは楽しく充実した人生を送るでしょうという、ウソだけです。」
「楽園が近いというのはすぐばれるウソだから、それよりはましなウソを選んだということだね。」


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