#976 2019年05月17日 14:30:37
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
#977 2019年05月17日 22:53:38
- 仰天
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Re: アブラハムの神の限界
#978 2019年05月18日 06:04:16
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
訂正
三重の祝祷は、このアロンによる祝祷でした。
民数記/ 06章 24–26節
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。
これは、三重の祝祷であるが、祝福されるのはひとりの神であるという事に注意すべきです。
他の箇所でも、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかなと、2回でも、4回でもなく、3回呼ばわっているのも三位一体を示唆しているように思われる。
その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
(イザヤ書 / 6章 2-3節)
ヨハネの黙示録/ 04章 08節
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
#979 2019年05月18日 07:55:32
- さやか666
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Re: アブラハムの神の限界
アロンおじいちゃんの三回繰り返しですか
解釈のアレコレは、宗教を楽しむ上での醍醐味かもしれませんね
カートコバーンが歌った「ハロー ハロー ハウロウ ハウ・ロウ? ×3」
これは私の退屈な学生生活に風穴をあけてくれましたがカートコバーンはこのように語っています
「どうもみんな深読みしたがるみたいだけど、あれは単なるゴミだよ」
以下、他人のコピペです
百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スメルズ・ライク・ティーン・スピリット はニルヴァーナを代表する曲というだけでなく、グランジを代表する曲といっても良いでしょう。 70年代後半に登場したパンクが複雑になりすぎたロックをぶち壊し、単純で荒々しい不良の音楽に戻したように、この曲もまたシンプルでストレートなものとなっています。
'90年代にグランジやオルタナティブ・ロックと言われたグループが出てきた中で、ニルヴァーナはパール・ジャムやスマッシング・パンプキンズらと共に中心的な存在でした。 けれども一躍時代の寵児となったものは、大抵は時代の要求するものや過度の期待に圧(お)しつぶされてしまうものです。
'70年代のジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンがそうであったように、ニルヴァーナのカート・コベィン(コバーン)も薬物中毒になり、'94年に自らの頭を撃ち抜くことでその活動に終止符を打ってしまいました。 グランジ・ブームはその後、急速に衰退して行きます。
この曲が売れ過ぎたことで、彼らはこの曲に対して否定的な発言もしていますが、それはこの曲と並び称される「クリープ」が売れてしまったレディオヘッドでも同じだったみたいです。
歌詞についてカート・コベインは、「どうもみんな深読みしたがるみたいだけど、あれは単なるゴミだよ」と語っていますが、あの時代のやり場の無い苛立ちや閉塞感を見事に表しています。
#980 2019年05月18日 07:59:28
- さやか666
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Re: アブラハムの神の限界
それでですね、こんな感じにアレコレ書き連ねる人もいたりしてhttps://otokake.com/matome/qS3067
ライナーノーツを読むのを楽しむ人もいるわけですからね
じゃあ、さやか666、お前はどちら派なんだ?と
敢えて伏せておきます
#981 2019年05月18日 08:00:44
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
あら、さやかさん、お久しぶりです(^_^)
お元気そうでなによりです。
#982 2019年05月18日 12:16:59
- ジョエル
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Re: アブラハムの神の限界
昔に友人から「clouds taste metallic」というアルバムを勧められて、どんな深いメッセージがそこに、とライナーノーツを見たら「雲って金属の味がするよね☆とか訳わかんないこと言ってんじゃねえよこのクスリ野郎」と解説されていました。
ただ、エゼキエルの半神半獣や黙示録の幻獣などは、高度に分化した意識の境界線による元型性の幻視で、「病的な」ものではないそうです。
これも深読みしすぎのような気がしなくもないですが、それも含めて、いろんな楽しみ方があるのが醍醐味ですね。
#983 2019年05月18日 13:09:18
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#984 2019年05月18日 14:00:59
- さやか666
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#985 2019年05月22日 06:14:00
#986 2019年05月22日 06:44:46
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
横から恐縮ですが、確かにアブラハム時代のラクダについては否定的な意見もありますね。
そして、一般的には出エジプトの記述はなかったと考えられています。
しかしながら、長谷川さんによると全体的に否定的ではありますが、何らかの史実が反映されている可能性もあるとの事です。
聖書にしか記述がないからといって、全否定するのはどうなんでしょうか。
引用
長谷川修一『聖書考古学 遺跡が語る史実』中公新書、2013年。
第3章以降は考古学の痕跡と文献学の史料の双方を批判的に検証しながら史実を再構成するという作業が実践されます。そこであらわれる歴史の姿は旧約聖書の記述の信憑性を突き崩す破壊的なものになります。だからこそ興奮を誘う。特に面白いのがラクダの話です(76–82ページ)。アブラハムからその孫ヤコブにいたるまでのいわゆる「族長時代」の出来事を記した旧約聖書の箇所にはラクダが頻繁に登場します。族長時代は聖書の記述から判断するに、紀元前2160年頃から1870年になります。しかし実は考古学的痕跡からも、この時代の文書史料からも、紀元前2000年頃にはラクダはまだ西アジアで家畜化されていなかったことがわかります。家畜化がなされたのは紀元前二千年紀の末、つまり紀元前1000年に近い時期でした。旧約聖書にあるアブラハムたちについての記述は、このラクダが家畜化された時代以降の人々によって文字として記されたと考えられます。
もう一つ興味深いのは「出エジプト」についての議論です。旧約聖書ではモーセに率いられてエジプトを脱出したユダヤ人がパレスチナにいた先住民族を征服したことになっています。しかし考古学的調査からはむしろ、元来パレスチナの山地に住んでいた人々が、じょじょに平野部に進出していたことが推測されます。この人々が後に自分たちをイスラエル人として認識しはじめたのではないかと多くの研究者はみなしています。しかもある学説によれば、この山地に住んでいた人々は、平野に住んでいた人々から分かれたものとされます。となると、イスラエル人による先住民族の駆逐とは、元来は「同胞」であった人々との抗争ということになります。もしイスラエル人が元来パレスチナに住んでいたとすると、彼らがエジプトから来たという「出エジプト」の伝承の史実性は疑わしくなります。実際、出エジプトを裏づける聖書以外の記録はありません。もちろん、イスラエル人となった人々の一部が祖先の記憶として伝承していた史実がそこに反映されている可能性はあります。近年はヒクソスという王朝のエジプトからの追放とイスラエル人の出エジプトを結びつけるヨセフス(!)の記述を真剣に考慮せねばならない発掘成果も出ているようです(104–105ページ)。著者の結論は以下のようなものです。
本書の著者自身は、現在入手できる資料のみから、出エジプトの年代やルートについて生産的な議論をすることはきわめて難しい、と考えている。むしろ、こうした伝承が成立した時代に目を向けて、この伝承が当時の読者に伝えようとしたメッセージや、伝承をまとめた人物の意図などを明らかにする方が、たとえそれが虚構であれ本当に起きた事件であれ、イスラエル史における出エジプトという出来事の重要性につてより有意味な議論ができよう。(216ページ)
#987 2019年05月22日 06:54:57
- 仰天
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Re: アブラハムの神の限界
#988 2019年05月22日 16:58:59
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
てつてつさんの質問ですが、難しい質問ですね。てつてつさんの参考になるかわかりませんが、お答えしましょう。
てつてつさんは、
「自分は現在はアブラハムからイスラエルの12部族が生じたというのは 神話で実際におこったことではないと思っています」
と書いています。
そうです。アブラハム、イサク、ヤコブは神話でしょう。別々の伝承があり、それを直系の家族の神話に作り替えたのが今の聖書の話だと考えられています。となると、ヤコブの12人の子どもから、イスラエルの12部族が生じたというのも神話になります。
12部族の名称と順序は、創世記49章、民数記26章、ヨシュア記に出てくるのですが、一致しません。古い時代に書かれとされているのが、裁き人5章にある戦争の勝利をうたった「デボラの歌」です。そこには10部族しか出てきません。ユダとシメオンの南の部族がないのです。しかし、部族そのものは、架空のものではなく、12という数は別にして、実際に存在し、社会の中の集団の単位として機能していたと考えられています。
私はパキスタン人の大学生と会ったことがあるのですが、彼は、自己紹介の時、自分の名前と部族tribeを言っていました。イスラム社会では部族は今でも存在し、重要な役割を果たしています。部族長もいて、大変権威があるそうです。
イスラエルの部族は、聖書の記述とは違って、共通の祖先をもつ血縁集団として出発したのではありません。エフライムとユダ(とおそらくナフタリ)という名前は、カナンの地の同じ名前の山に由来すると考えられていますし、ベニヤミンは、「南の人」という意味です。つまり、部族は血縁集団というより、同じ地域に住む地縁集団が始まりで、それが拡大していったものだろうと考えられています。
やがて政治的経済的利害が一致する各部族は連合体を形成し、絆を強めるため、自分たちは共通の祖先から生まれた子孫だという神話が造られていきます。その際各部族に伝わる神話が一つの共通の神話へと編集されていきます。それが今の聖書です。アブラハム、イサクやヤコブの話は本来別々の集団に伝わった話だと考えられていますが、それは各話の舞台となっている地域が異なるからです。話を寄せ集めたため、似たような話の重複も生じます。話の重複は創世記に特に目立ちます。
単なる部族連合ではなく、中央集権的な国家が成立すると、国家は自己を正当化するために、国家として正しい歴史を編纂します。日本では、天皇制が成立すると、「日本書紀」が書かれました。天皇は神の子孫として描かれます。イスラエルの場合は、サムエル記の元の資料がそれにあたると思います。サムエル記の主な目的は、ダビデ王朝の正当化です。ダビデが神に選ばれたというたぐいの話がそれにあたります。サムエル記自体は、バビロン捕囚以降の人間による編集がかなり入っています。
というわけで、普通は、地域共同体として出発した部族は存在し、それが部族連合へと進み、やがて国家になった、と考えるわけです。しかし、聖書にある、その部族の成り立ちや名称などは、史実ではなく、後の時代の創作です。
てつてつさんは、
「ソロモンの時代に北と南に別れたというのも 神話でもともと二つの別々の国だった
それで失われた10部族というものももともとなかったものならつじつまが合うと思います」
と書いています。
この文の意味はよくわからないのです。
現代の普通の見解は、統一イスラエルというのは同君連合(personal union)に過ぎないというものです。別々の国が同じ君主を迎えただけということです。ソロモンの死後以降、同君連合が解消され、それぞれ別の王が地位につき、時代によって友好国だったり、戦争をしたりをしたというものです。しかし、宗教的な結びつきが強く、そのため同じ仲間という意識は存在し続けたようです。
「失われた10部族」という話しの聖書的根拠とされたのは、列王二17:6で、“ホシェアの治世の第9年,アッシリアの王はサマリアを攻め落とした。イスラエルの民を捕らえてアッシリアに連れていき,ハラハ,ゴザン川のそばのハボル,メディア人の町々に住ませた。”です。しかし、どこにも10部族とは書かれていません。「失われた10部族」という言葉は聖書にはないということです。もちろん聖書以外の資料もありません。
この記述から、北の10部族が拉致されて、行方不明になった、しかしどこかで生きているという話しができます。ヨーロッパ人が17世紀に大航海時代を迎えると、この話はとても人気が出て、南米の○○に、失われた10部族の子孫を発見した、というような話がしばしば真実として語られるようになります。
モルモン教は、失われた10部族の一部がアメリカ大陸に渡り、いわゆるインディアンになったと信じているのではなかったでしょうか?モルモン教に詳しい人、教えてください。
北のイスラエル王国が10部族からなるという聖書的根拠は、列王一11:31の“アヒヤはヤラベアムに言った。「10切れを取りなさい。イスラエルの神エホバはこう言っています。『私はソロモンから王国を引き裂いて取り上げ,10部族をあなたに与える。”です。これは史実かというと違うでしょう。
一方、歴代二15:9では、“エフライムやマナセやシメオンから来てその人たちに加わった外国人居住者も集めた。エホバ神がアサと共にいるのを見て,アサを頼ってイスラエルからやって来た大勢の人たちである。”とあります。北のエフライムとマナセとシメオンの3部族が、アサ王を頼って、南のユダ王国に逃げてきたという意味です。これが史実なのかはわかりません。考古学上の根拠は、エルサレムの拡張工事です。北からの人間が流入したからではないかと推定されています。
てつてつさんは、
「であればどうしてパウロは自分がベニヤミン部族の者だと主張できたのでしょうか」
と書いています。
部族の数や名称は別にして、部族という社会単位は存在し続けます。国家が消滅しても、続いていきます。ベニヤミン部族は存在し、パウロは自分がベニヤミン部族と思っていたからでしょうとしか、答えようがありません。
てつてつさんは、
「あと部族がそれほど大切なものだったのなら最後まで残っていたらしい ユダとベニヤミンがなぜユダヤ人に収束したのでしょうか」
と書いています。
部族が実際果たした役割は、聖書を読む限りたいしたものはありません。聖書以外の資料もありません。はっきりしているのは、戦争のときに部族ごとに兵士を出す仕組みがあったことです。
例えば、裁き人4:10、“バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び,1万人が彼の後に従った。デボラも一緒だった。”とあります。ゼブルンとナフタリは北の方の部族名です。両部族に提供すべき兵士数が割り当てられ、部族長とその部下が割り当てられた人数分の徴兵業務を担ったと考えられます。当時の人口から言って1万人はありえず、聖書によくある誇張表現です。
しかし、イスラエルは国家が消滅し、他国の支配下に置かれますので、徴兵業務はなくなり、部族も名目だけのものとなっていったのではないでしょうか。ユダヤ人は家系図にこだわりがあるようなので、自分の祖先が○○だ、自分は○○部族だと真偽は別にして知っていたと思います。
最後に、ユダヤ人に収束したと、てつてつさんは書いていますが、どういう意味でしょうか?よくわかりません。
以上、かなり適当に書きました。歴史は難しいです。疑わしいと思ったところは、ご自分でお調べください。
てつてつさんの参考になれば幸いです。
#989 2019年05月22日 17:35:57
#990 2019年05月22日 17:44:18
#991 2019年05月22日 17:58:25
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#992 2019年05月22日 21:08:24
#993 2019年05月23日 09:08:31
#994 2019年05月23日 17:07:50
- 聖書についての質問
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
てつてつさんは、ソロモンの大神殿は実際に存在したと思いますかと、お尋ねです。
てつてつさんは、作り話だと思うとのことですが、規模や豪華さは不明ですが神殿自体は存在していたと考えられます。その神殿は、いつごろ誰が造ったのかですが、ソロモンではなく、後の王でしょう。
てつてつさんもご存知の通り、ソロモンの神殿が存在したという考古学的証拠はありません。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて神殿の丘周辺の発掘調査が行われましたが、ソロモンの神殿や宮殿にかかわるものは見つからなかったわけです。
しかし、ソロモンの神殿があった主張する人は、それはバビロニア帝国によって、徹底的に破壊されたからと主張するわけです。
しかし、ダビデ、ソロモンの時代の地層の発掘調査から、その時代のユダヤ地方の人口を推定すると4万5千人くらいとなりました。90%はエルサレムより北側の地域に住んでいたようです。エルサレムやヘブロン、その他の20ほどの村に5000人くらいが住んでいたようです。つまり、当時のエルサレムは、丘の上にある比較的大きな村だったわけです。
これまでの発掘調査では、ダビデ、ソロモンの時代の地層からは、大きな国を支配するために必要な行政機関や軍隊の施設、壮麗な宮殿なども、どこにも見当たりません。その種の施設が発見されても、それは後の時代のものばかりです。
ダビデが征服したとされる地域の発掘調査が行われていますが、その調査が示すのは、文化の連続性です。異民族に侵略され支配されると、それまでの文化が破壊され、支配者の文化が押し付けられます。例えば、日常生活に使う壺や容器のデザインや材質が変わったりするわけです。しかし、そのような変化があったことを示す証拠はありません。ダビデが征服したとされる地域は、何事もなくそれまでの生活を営んでいたということです。
それで、わたしの意見は、ダビデ、ソロモンは実在したかもしれないが、地方の豪族程度の人で、聖書にあるように他の国を征服したり、豪華な宮殿や神殿など作れるわけがないというものです。
国際政治の世界で、ソロモンの神殿なんかなかったと言っている人たちがいて、それはアラブ系の反イスラエルの人たちです。それに対して、イスラエルやキリスト教関係者は猛烈に反発しています。聖書は争いの種をまき散らしていますね。
ついでですが、ラクダが家畜化されたのは紀元前10世紀ごろです。アブラハムの時代じゃありません。イスラエルの考古学者の研究(2013)の結果の要約がナショナルジオグラフィックに出ています。インターネットで見ることができます。研究論文そのものも英語ですが読むこともできます。
#995 2019年05月23日 18:33:29
#996 2019年05月24日 14:30:12
- 聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界
木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“会衆で思いやりを示しましょう”で、このとおりの内容です。ということは、会衆以外の人には思いやりは必要ないということですね。」
「このタイトルは日本語版だけ。英語版では、“Show Concern for the Feelings of Others”(他の人の感情に配慮せよ)で、“会衆で”という限定はない。第3者の目を意識しているからだろう。日本語翻訳者は、そのようなことを考えることなく、本文の内容に合わせて、タイトルを変えたのだろう。」
「14節の下に、思いやりを示している人たちの写真が出ていますが、会衆内で、老人や子どもに思いやりを示しているだけですからね。」
「この写真では、思いやりを示しているのは中年男ばかりだね。白人ばかりにならないように黒人も入れているのに、思いやりを示しているのが一人くらいは女性にしようという発想はJWにないんだね。JWの男性優位思想が示されている。」
「2節で、思いやりを示すのが困難な理由を説明しています。理由の第1は不完全だからです。JWの決まり文句ですね。“そのため,自分のことで頭がいっぱいになってしまいがちです。”とあります。」
「不完全だから、自分のことを優先するの?仮に自分のことよりも他人のことを優先する人がいたとしても、自分のことを優先する人のほうが高い確率で生き延びて、子孫を多く残すので、そのような人は大昔に死に絶えたからじゃないの?」
「そういう進化論的な発想はJWにはないのですよ。」
「自分のことを優先するのは生物として合理的ということ。不完全だからじゃないよ。」
「人間以外でも思いやりは示すのですか?」
「チンパンジーを使った実験で、こういうのがある。2頭のチンパンジーが別々のケージに向かい合って入れられている。1頭のチンパンジーは2つのレバーを押すことができるようになっている。右を押すと、自分にだけ食べ物が出てくる。左を押すと、自分と相手にも食べ物が出てくる。チンパンジーはどちらを押すかという実験。」
「左を押して、自分にも相手にも食べ物が出てくるようにするわけですね。」
「そのとおり。チンパンジーも人間も、自分に何の得がなくても他者のことを配慮する。これを“他者配慮選好”があるという。」
「でも、他者配慮を示すのは自分の所属している集団の仲間だけですよね。それを越えて、配慮は示さない。JWはJWにだけ思いやりを示すわけで、生物として普通の行動をとっているに過ぎないわけですね。」
「人間が思いやりを示す対象は、歴史的に見ると、家族から血縁・地縁集団、そして国民へと拡大してきた。現在では同じ国の人間は助け合っている。例えば、年金制度。JWの老人が貰っている年金は、自分が積み立ててものではなくて、今働いている人が支払っているお金だよ。医療保険制度もそう。聖書の時代から見れば、人類は大きな進歩をとげだ。」
「4から7節で、エホバの思いやりの手本が書かれています。出エジプトとヨナの話が出ています。」
「出エジプトの話は思いやりの話ではないよ。アブラハムとの契約があったから。」
「出エジプトの話では、神はファラオの心をかたくなにして、民を解放させないように仕向けたあげく、様々な災厄でエジプト人を苦しめ、最後はエジプト人の長子を皆殺しにします。エジプト人を不必要に過度に苦しめています。旧約の神の残虐性がよくわかります。」
「これは旧約の倫理が、あくまで古代の仲間内の倫理に過ぎないことの反映だね。仲間でなければ、子どもでも皆殺しだから。仲間でない人に対してどうあるべきかは考えられていない。」
「出エジプトの話は、発端からバカバカしいです。イスラエル人がどんどん増えていったので、人口を抑制しようと、ファラオが産婆に男の子が生まれたら殺すように言う。これは非合理的ですよ。」
「確かにおかしい。人口を抑制するためには女の子を殺すべきだろう。しかも、神のような存在であるファラオが産婆と直接話をするなんてこともあり得ない。ストーリ上、男であるモーセを主人公にするために、男の子を殺せという命令が必要だったということだね。出エジプトの話は非合理的な点が沢山あって、昔から冗談の対象になっている。」
「聖書には、エホバが思いやりを示さなかった例の方が沢山ありますよね。4節では、イザヤとゼカリヤから、エホバが思いやりがあることを示す聖句が引用されています。イザヤとゼカリヤから、エホバの思いやりのなさ、無慈悲さ、残酷性を示す聖句を教えてください。」
「イザヤにはたくさんある。例えば13章。バビロンに対して、エホバの日が来るとどうなるか、残酷なことを延々と描いている。13:15,16では、“見つけられる者はみな刺し通され,一度に集め捕られた者はみな剣によって倒れる。 彼らの子供たちさえ,彼らの目の前で打ち砕かれる。彼らの家は略奪され,彼らの妻は犯される。”子どもだって許さない、親の目の前で打ち砕くというわけ。女でも許さない。強姦されて殺されるんだろうね。思いやりがあるかな?実現しなかったからよかったけれど。」
「ゼカリヤはどうですか?」
「ユダヤ人に対して、ゼカリヤ11:6は、“『わたしはこの地に住む者に対してもはや同情を示さない』と,エホバはお告げになる。”と言っている。同情は示さないけれど、思いやりは示すのかな。」
「JWの教義では、エホバは、間もなく人類の99.9%を皆殺しにして、残りの0.1%にその死体を片付けさせるという仕事をやらせようとしているわけです。思いやりのある神様ではないですよ。」
「旧約聖書のおかげで、キリスト教は多くの信者を逃してきたと思うね。」
「8から13節は、イエスの手本に倣うという内容ですが、8節に、“イエスはそのすべてに喜びを感じましたが,特に人間に深い愛情を抱いていました。「親愛の情を抱く事柄は人の子らに関してであった」と記されています。(箴 8:31)”とあります。箴言が引用されていますが、これはイエスのことなんですか?」
「JWはそう解釈しているようだね。箴言は知恵が擬人化されて、知恵自らが語るというスタイルをとっている部分が多い。箴言8章もそうだけど、8:22-31は創造における知恵の関わりを語っている部分。」
「8:22、23では、“エホバが,創造の初めとして,昔の偉業の最初として私を生み出した。 私は,昔から据えられた。初めから,地球より前の時代から。”と知恵が語っています。これはヨハネのロゴスと似ていますね。それで、箴言の知恵がイエスであるという解釈が出てきたんですね。」
「擬人化された知恵なのに、JWは、この“わたし”をイエスと解釈している。このような解釈は昔はよくあったけれど、今はそれを支持する人はほとんどいない。JWの基本的な教義は20世紀前半までに作られたようだ。その当時の聖書解釈をそのまま維持しているということだね。」
「この知恵である“わたし”は女性ですよね。それから、この“わたし”の性格はかなり傲慢です。知恵のないものに対して非常に辛辣です。」
「イエスとは違うキャラクターだね。」
「12節で、ラザロが死んだときイエスが涙を流したというヨハネ11:35について、“親しい友を亡くして悲しかっただけではなく,マルタやマリアの悲しみに胸を打たれたからです。”と解説しています。これは間違いですよね?」
「ヨハネ11:36に、“それでユダヤ人たちは言いだした。「見なさい,本当に愛情を抱いていたのだ」。”とある。となると、JWの見解は、このユダヤ人たちの見解と同じということ。でも、ヨハネでは、イエスの敵対勢力は、“ユダヤ人”とひとくくりにされることが多い。」
「このユダヤ人の見解は、イエスの敵の見解であって、本当は違うということですね。」
「ユダヤ人の発言を聞いた後、11:38で、“イエスは,再び心の中でうめいてから,墓に来た。”とあり、イエスはユダヤ人の発言を是認していないよ。ヨハネのイエスは神のごとき存在。そのイエスが涙を流したとすれば、ひとりの知人の死に対してではなく、罪と死によって生じた人間の悲惨さそのものに涙したという方がもっともらしい。」
「15から17節は、長老たちは思いやりを示せ、という内容です。17節には、“多くの兄弟姉妹が長老に一番期待するのは,思いやりです。”とあります。これは、思いやりのない長老がいかに多いかということですね。」
「長老は、マニュアル通りのことをやるだけで精一杯なんじゃないの。」
「15節で、“どうすれば思いやりを示せるでしょうか。”と問いかけます。その答えは、16節で、“質問をし,辛抱強く耳を傾けます。”です。これで思いやりを示したことになるのら、簡単なことですよ。話を聞いて、適当にうなずいて、後はお決まりの聖句の引用でおしまいです。重要なのは話を聞いてどう行動するかじゃないですか。」
「長老に期待しすぎだ。JWのようなカルト宗教に優秀な人材はそもそも集まらない。」
「18,19節は一般のJWがどのように思いやりを示すべきか、が書かれています。19節で、“他の人を助ける時には,相手に合わせることが必要です。”とあり、“あまり立ち入った質問をしないようにしましょう。”、それから、“相手の見方に同意できないことがあるかもしれません。でも,その人はそう感じているのです。”と注意しています。」
「これは、JWが個人のプライバシー侵害に鈍感で、他人の感情や意見を尊重せず、自分の意見を押し付けたがることを示しているね。」
「大多数のJWでは、奉仕活動をし、集会に出席するだけで、精一杯ですよ。さらに思いやりを示せとか、過大な要求されても、多くのJWは、無理です、と心の中で言っていると思います。」
「カルトは信者に過大な要求をし、達成できないことで罪悪感と恥の感情を持たせるのが普通だね。それで、JWも信者にどんどん要求するわけだね。」
#997 2019年05月24日 21:06:02
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#998 2019年05月24日 21:09:18
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#999 2019年05月24日 21:11:58
- 仰天
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
#1000 2019年05月24日 23:20:11
- akame
- ゲストユーザー
Re: アブラハムの神の限界
最近は事情でROM専ですが、
>出エジプトの話では、神はファラオの心をかたくなにして、民を解放させないように仕向けたあげく、様々な災厄でエジプト人を苦しめ、最後はエジプト人の長子を皆殺しにします。エジプト人を不必要に過度に苦しめています。旧約の神の残虐性がよくわかります。
聖書をある程度史実として読むと、聖書の神に(私的に)野蛮性を感じる部分がかなりあります。ジェノサイドを始め、イサクを生贄にするよう求める場面、その他これまで複数のトピで述べさせていただいている通りです。
「神さま、何もそこまでしなくても!」「人にそこまで求める?」
素直な気持ちです。幾ら考えても、至高の神ではないような気がします。
聖書は先人の知恵として役立つ部分も多々あると考えていますから、其々の内容で是非を自問しながら今後も読ませていただきます。
結局、人はその時点におけるその人の価値観や感性に基づき、自分の信じたいように自分の中で情報を変換するものです。取分け、信条においては....ですから、感性が近い者同士が集うのです。
口は重宝なものです。あーでもない、こーでもない、藁人形論法も駆使、他のサイトでも散々この10年しましたが、もうウンザリで、今の私には時間の無駄です。
また、自分の信条を宣伝したい方は、姑息なことをしないで、自分のトピを立て、堂々と行ってください。