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トピックレビュー(最新表示)

sk
2013年09月15日 20:39:14
sk
2013年01月07日 22:59:48
iris
2012年12月30日 20:06:33

「実際の命の救い」とはどのようなことでしょうか?
ラザロが死んで何日も経ってから生き返ったというようなことでしょうか?
それとも、ものみの塔が楽園に期待させているようなことでしょうか?

お答えは教理のトピックの方にお願いします。

もんもん
2012年12月30日 08:54:26

irisさん
少し話を変えますね。irisさんは「命の救い」が聖書の主要なテーマであるとお考えですか。「精神的な救い」ではなくって「実際の命の救い」です。

iris
2012年12月30日 07:06:34

もんもんさん
反省してくださってありがとうございます。もんもんさんは誠実な方ですね。

私は、ものみの塔には人を行動で裁き、組織の望む行動をしない人を排除する傾向があると感じています。
その人の心が何を感じているかにかかわらず、強制的に組織の規律に従わせる力が働いています。
そのため、規律を守れない人は去り、規律を守れる人だけが残る仕組みができていると思います。

私は、エホバの証人の中に真剣に聖書に従おうとしている人がいることを知っています。その人の心は尊いものだと思います。
もんもんさんにも、カトリック(に限らずエホバの証人以外)の中に真剣に神を愛している人がいることを知っていただきたいと思います。

それから、純潔は特に女性にとっては名誉にかかわる問題です。ものみの塔の教えや、世間の情報などで、「世」の性は
乱れきっていると誤解している人も多いかもしれませんが、統計上は結婚するまで純潔を守る人は少なくないのです。
安易に侮辱するのは慎まれることをお勧めします。

もんもん
2012年12月30日 00:27:22

irisさん
わたしが語ったことには、人づてで聞いたもので、確かな根拠はないです。統計的な裏づけもないです。というわけで、カトリック教会について誤解を招くだけですので、取り下げます。申し訳ありませんでした。

iris
2012年12月29日 19:21:43

もんもんさん

そのプロテスタントの方の言葉の意味は、
「後でイエスを信じているといえば救済されるから、どんなに極悪なことをしてもよい」という意味ですか?
もしそうであれば、その方は神を愛しているとは言えません。

殺人を犯すとき、殺す相手を本当に自分のように愛していると言えますか?
人のものを盗むとき、その人を本当に自分のように愛していると言えますか?
そう言える状況があるとすればどんな状況なのか、教えていただきたいです。
神の求めるように神と人とを愛していれば、殺すことも、姦淫することも、盗むこともできません。

イエスの求める愛は、「友のために自分の命を捨てる」ほどの愛です。
「愛している」という言葉で神を欺くことはできません。その人の心を神は御覧になるからです。

カトリック教会の人の中に、平気で婚前交渉を行う人がたくさんいるかどうか、もんもんさんは調査したことがあるのですか?
特にカトリック教会を目の敵にしているものみの塔の言うことを、鵜呑みにしたわけではないですよね?
では、どの程度の比率で存在するのか参考までに教えてください。ついでにエホバの証人についての統計もお願いします。
カトリックはともかく、ものみの塔の組織の中でそのような調査が可能であるとは思えませんが。

カトリックは有効な洗礼を受けた人をすべて信者とみなします。
信仰を持ち続けていようがいまいが、破門にするという制度が事実上ないからです。
ものみの塔では、婚前交渉を行った人がエホバの証人であり続けられるのでしょうか?
そのあたりの事情も統計に影響しそうですね。
(性的虐待は組織的に隠蔽されるのに、婚前交渉は断罪されるというバランスが理解できませんが。)

もんもん
2012年12月29日 17:12:14

irisさん

>「互いに愛し合うこと」自体は新しいおきてではありません。昔ながらの律法に含まれているおきてです。
>何が新しいかというと、契約の条件として「互いに愛し合うこと」以外には何も要求されない、ということが新しいのです。

わたしはプロテスタントの人ともこの点で話したことがありますが、たぶんここがエホバの証人と一番相違するところだと思われます。
たとえば互いに愛しているといいながら、婚前交渉を持ったとします。
また愛してるといいながら、殺人を犯したとします。
また愛しているといいながら、仲間の兄弟が持っているものを盗んだとします。

わたしが前に話したプロテスタントの方は、どんなに極悪なことをしても、イエスを信じていると言うなら救済されるといいました。
カトリック教会の人は、神は許してくださるからということを言い訳にして
平気で婚前交渉を行う人がたくさんいるのではないでしょうか。
この点では、わたしはきちんと守ろうとしているエホバの証人を支持します。

単に愛していると言うだけではなくって、
実際に愛し合うということが、どういうことなのかが、
聖書から論じられる必要があると思います。

iris
2012年12月29日 05:51:32

補足です。

キリスト教で最も大切なメッセージは、「神はあなたを愛している」ということです。
もんもんさんがものみの塔のおかげで本当のキリスト教の教えを知らなくても、神はもんもんさんを愛しておられるのです。
人間の目から見るとどんなに極悪に見える人でも、神はその人を愛しておられます。

けれども、神が愛であるのに対し、人間は愛そのものではありません。
神のように隣人を愛することもできないし、自分を愛することさえできないかもしれません。
神から離れ、隣人(や自分)を愛せない状態を、罪といいます。

神は罪とはかかわりのない方です。ですから人間が神と親しく交わるには、罪のない状態でなければなりません。
しかし人間は自分の力で罪をなくしたり、ゆるしたりすることはできません。
神の恵みによって、キリストを信じることで罪をゆるされ、神との親しい関係に戻ることができる、というのが新しい契約でありキリスト教の教えです。
そして、二度と神から離れることのないように、神を愛し隣人を愛しなさいと勧められているのです。

もんもんさん、ものみの塔の教えと比べてみて、どう思われますか?
エホバの証人研究さんのご感想も伺いたいものです。

iris
2012年12月29日 05:08:51

もんもんさん

>これはもしかして「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは、わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うことです」という
>おきてのことを言っておられますか。もしそうであれば、イスラエル国民に与えられた律法契約が廃されて、イエス・キリストによる愛の契約が
>できたということは、エホバの証人で学ぶことのひとつですよ。
>ものみの塔聖書冊子協会が主張する「新しい契約はイエス・キリストと14万4000人との契約」という主張は、妥当かどうかskさんがこれから論じてくれる気がします。

「イエス・キリストによる愛の契約」=「イエス・キリストと14万4000人との新しい契約」という図式が成り立つとして、
もんもんさんはこの契約に関係があるのでしょうか? ないのでしょうか?


詳しい解説はskさんにお願いするとして、簡単に説明しましょう。

旧い契約は、神とイスラエルの民との間に結ばれました。
イスラエルの民が神の民として神と結ばれ守られる条件は、律法を守ることでした。律法は長い歴史の中で細かくなり、守りきれないほどになりました。

新しい契約は、神と(キリストを信じる)すべての人との間に結ばれました。
キリストの血によって罪のゆるしが与えられるというこの契約の条件が、「新しいおきて」を守ることです。

「互いに愛し合うこと」自体は新しいおきてではありません。昔ながらの律法に含まれているおきてです。
何が新しいかというと、契約の条件として「互いに愛し合うこと」以外には何も要求されない、ということが新しいのです。


私もこの契約にあずかっています。私の心には神さまの「契約済」のハンコが押されています。
「キリストが御自身を犠牲としてささげることによって、神さまから私の罪のゆるしを得てくださった」と信じる人は誰でも、
神さまとの間に罪という壁のない、平和な親しい関係をもつことができるのです。これが新しい契約であり救いなのです。

もんもん
2012年12月28日 10:15:45

irisさん
>「本来のキリスト教の教え」の指す内容がわからないのは、もんもんさんの責任ではありません。ものみの塔の責任です。

これはもしかして「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは、わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合うことです」というおきてのことを言っておられますか。もしそうであれば、イスラエル国民に与えられた律法契約が廃されて、イエス・キリストによる愛の契約ができたということは、エホバの証人で学ぶことのひとつですよ。

ものみの塔聖書冊子協会が主張する「新しい契約はイエス・キリストと14万4000人との契約」という主張は、妥当かどうかskさんがこれから論じてくれる気がします。

>ものみの塔も、表向きは「聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定する」ように勧めていることでしょう。
>けれども、実際に聖書の指針に基づいて、自分の良心に従って、輸血を受け入れる決定をしたとしたら、どうなるでしょうか?
>「それは本当に神に受け入れられることでしょうか」などと言われませんか? 輸血を受けたら排斥だと暗に脅されませんか?
>そして輸血を受けずに家族が亡くなったとしても、「本人の自由な決定です」ということになりませんか?
>ものみの塔の組織は事実上「排斥」などの方法によって、個人の信仰を細部まで規定しようとしています。
>その適用には会衆による違いがあるかもしれませんが、それによって苦しんでいる人がいるのは確かだと思います。

何も言い返すことはないです。そのとおりだと思います。現状は「聖書の教え」と「ものみの塔聖書冊子協会の教え」が混ざっています。

蒼き風
2012年12月28日 09:48:41
iris
2012年12月28日 00:27:13

もんもんさん

お返事ありがとうございます。もんもんさんとのやりとりが楽しくなってきました。

>名前で呼ばれることは神にとっては失礼ではないと思いますよ。

失礼ということはないでしょうけれども、私の習慣にはないということです。
最近ではYHWHは「ヤーウェ」と読まれていた可能性が高いと考えられており、カトリックでは詩編のYHWHは必要に応じてヤーウェと読みます。

>神の教えは、聖書全編に書かれていると思います。新約だけにキリスト教の教えが書かれていると信じる信仰が、カトリック教会の信仰なのではないでしょうか。
>わたしには「本来のキリスト教の教え」が何を指しているのかよくわかりません。

「本来のキリスト教の教え」の指す内容がわからないのは、もんもんさんの責任ではありません。ものみの塔の責任です。

skさんも、次のように書かれています。
>すべてのエホバの証人の兄弟・姉妹たちは、ものみの塔の誤りの教えにより、新しい契約についての正確な知識を阻まれており、キリストの死の記念の意義を逸しています。

本来のキリスト教の教えとは、新しい契約についての教えです。新しい契約については、新約聖書に書かれています。
「新約」とは、この新しい契約のことであって、それが書かれている聖書が新約聖書なのです。
skさんのおっしゃるとおり、ものみの塔は新しい契約についてウソを教えています。ですからキリスト教とはいえません。

本来のキリスト教の教えを、私はこの掲示板で何度も書いてきましたが、ものみの塔の教えを先に学んだ人には理解しにくいかもしれません。
skさんはエホバの証人であったにもかかわらず、聖書をきちんと読んで新しい契約について正しく理解されていると思います。
もんもんさんには、skさんから説明していただいた方がわかりやすいのではないのでしょうか。

>irisさんは、個々のエホバの証人について誤解しています。個々のエホバの証人は、組織によってすべてを規定された信仰で生きているわけではないです。
>聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定することが、最近ではとても重要視されるようになってきています。

私が問題にしているのは個々のエホバの証人の信仰ではありません。新しい契約についてウソを教えているものみの塔の教えです。
「エホバの証人はキリスト教ではない」というのは、エホバの証人研究さんが「エホバの証人はキリスト教か」と表現しているのに合わせただけで、
正確には「ものみの塔の教えはキリスト教の教えではない」という意味です。詳しく説明している場合は、そのように表現してあります。

個々のエホバの証人は、誠実に聖書に従おうと努めていると思います。
ものみの塔も、表向きは「聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定する」ように勧めていることでしょう。
けれども、実際に聖書の指針に基づいて、自分の良心に従って、輸血を受け入れる決定をしたとしたら、どうなるでしょうか?
「それは本当に神に受け入れられることでしょうか」などと言われませんか? 輸血を受けたら排斥だと暗に脅されませんか?
そして輸血を受けずに家族が亡くなったとしても、「本人の自由な決定です」ということになりませんか?

ものみの塔の組織は事実上「排斥」などの方法によって、個人の信仰を細部まで規定しようとしています。
その適用には会衆による違いがあるかもしれませんが、それによって苦しんでいる人がいるのは確かだと思います。

sk
2012年12月27日 21:17:32
もんもん
2012年12月27日 19:34:04

irisさん

>イエスが教えた父である神にエホバという名があると私は思いませんが、エホバという名があると思う人がいてもかまわないと思います。

あるないという議論で言えば、間違いなく名前はあります。ヘブライ語で書かれた旧約聖書には、YHWH(ローマ字表記)という4文字が神の名前としてでてきます。またダビデは詩編の中で、神のことを名前で頻繁に呼んでいますから、名前で呼ばれることは神にとっては失礼ではないと思いますよ。

>旧約聖書の時代には、この神はイスラエルの神でした。イエスによって、すべての民への救いの道が開かれたのです。

新約の時代も、同じ神です。新約の時代も、ヤコブの神、イサクの神、アブラハムの神と呼ばれた、旧約時代の神が、新約時代の神でもあります。神の子イエスだけを仲介者とするという新しい部分が加わりましたが、神は何も変わっていないのではないでしょうか。

>キリスト教の教えは新約聖書に書かれています。
うーん、神の教えは、聖書全編に書かれていると思います。新約だけにキリスト教の教えが書かれていると信じる信仰が、カトリック教会の信仰なのではないでしょうか。わたしには「本来のキリスト教の教え」が何を指しているのかよくわかりません。

>もんもんさんにも、組織によってすべてを規定された信仰ではなく、もんもんさんだけの信仰があるべきなのです。
irisさんは、個々のエホバの証人について誤解しています。個々のエホバの証人は、組織によってすべてを規定された信仰で生きているわけではないです。聖書の指針に基づいて、自分の良心で決定することが、最近ではとても重要視されるようになってきています。特に神との個人的な関係は大切です。

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