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トピックレビュー(最新表示)
- さやか 666
- 2015年07月04日 22:22:17
あんずさん かわいい名前ですね
王国会館に行かないのなら心配ありませんね♪♪
お休みなさい
- あんず
- 2015年07月04日 22:18:48
1,000時間奉仕者さん、ありがとうございます。読み易そうですね^^
JWになってから、どんどん読書が苦痛(読み物が多くて読みたい本が読めない)になって、WTの出版物はもちろんのこと新世界訳すらしんどくなり、もはや読みたくない…読んでない状態でして。
さやか666さん、お気遣いありがとうございます。
恐らくもう王国会館に行くことはないと思うので、大丈夫です^^
- さやか 666
- 2015年07月04日 11:44:22
出ました リビングバイブル❗
私も好きでした ただ王国会館で読むと縦書きなので 目立ちますよ ご注意を
- 1,000時間奉仕者
- 2015年07月04日 09:45:14
- あんず
- 2015年07月04日 08:53:38
おはようございます。
改めて聖書を読むとしたら、どの訳(?)が読みやすいですか?
- 万年研究生
- 2015年06月27日 09:37:01
おはようございます
ラハムさん: 真理でないものとは雑誌や書籍のことを意味します。
神の霊感によるものでないのは明白で(古い雑誌に明言されてますので)
私はそのようにいつも形容しております。
ささらほーさらさん: いつかは理解できるだろうと続けております。
なぜ妻がそこまで強く信じられるかが知りたいという願いもあります。
求め続けなさいともいいますので細々と継続しております。
こういった人って会衆の人たちはどのように目に映っているのでしょうね?
本音で教えてほしいとも思っています。
- ラハム
- 2015年06月27日 09:06:28
JW、あるいはものみの塔の言う「聖書研究」というのは
JW、あるいはものみの塔の「聖書解釈」あるいは「聖書理解」のことです。
わたしは純粋な聖書研究とそれらの違いに気が付いたので
集会に行くことをやめて、いわゆる脱塔を実行しました。
ものみの塔研究の時など、質問と答で同じ解釈を勉強するのですが、
このやり方はJ・F・ラザフォードの時代に始まったようです。
このようなやり方は信者をマインドコントロールするのに効果的だということでした。
たしかに奉仕会などは見方を変えれば「雑誌の売り方講習会」だと思います。
わたしが脱塔しようという直前の巡回訪問では
まさしく巡回監督による「書籍販売の講習会」になっていて、
非常にうんざりした記憶があります。
それ以前は、信者を築き上げる話を多く聞くことができたからです。
無駄な時間を過ごしていると強く感じました。
1,000時間奉仕者さんのおとうさんはこうしたことを
最初から理解できたので、冷笑的だったのでしょう。
万年研究生さんも直観的に良い点を気付いていると思います。
ただ、あなたのいう「真理でないもの」とは何を指しているのかわかりません。
もしこれが集会で学ぶいわゆる真理だと彼らが信じていることであれば、
JW信者たちは自分たちが学んでいる教義・解釈・理解・教理は
聖書に基づく完全な真理だと思い込まされているので、
たぶん、その質問には答えられないと思いますよ。
多くのJWは自分の知覚力や考え、判断力を停止させられている
ところに問題の根源があるとわたしは思っています。
- ささらほーさら
- 2015年06月27日 08:34:03
- 万年研究生
- 2015年06月27日 07:53:39
自分もこの点が理解出来ません。
よく集会などで周りの方に尋ねるのですが
「真理でないものを勉強したり信じたりするとなぜ真理が理解できるようになるのか?
聖書だけでは不十分で不足しているのか?」
誰も答えてくれません。
周りの方は理解しているので研究してるのだと思うのですがここでも思考停止が発動しているようです。
自分にとってはこの点がクリアにならなければどれほどの年数をかけて書籍を研究しても
一歩も前進しないと考えます。
- るい
- 2015年06月26日 13:11:32
- 1,000時間奉仕者
- 2015年06月26日 11:32:50
私の父は未信者のまま病気で死にました。家族の信仰に冷笑的ではあるものの、初期の反対の激しさからは大幅に和らいで、会衆のお父さん兄弟たちの訪問を拒否したりはしなかったし、イベント事がある時には家族を会場まで送ったり、時にはプログラム中に座ったりすることもありました。
ただ、「冷笑的」であることは一貫していて、特に奉仕会とかQ&Aのプログラムの事をせせら笑い、「雑誌の売り方の講習会」「下線を引いたところの答え合わせ」「身内にしか通じない外国語でやってる」と評していました。
至言です。
ささらさん(だっけ?)も述べておられたように、JWの「研究・討議」はほぼ全て、出版物からの引用・参照に過ぎず、自分で一生懸命、他から資料を集めて自分の言葉遣いで注解しても「なるほどー」とだけでスルーされたり、場合によっては集会後に呼ばれたり?します(笑)。
先日、「羊とヤギを分ける業」の研究記事で、集会に出席するのは5回目という研究生がある節で手を挙げて当たって、「これに関連して、イエスは山上の垂訓で“羊の覆いをかぶった狼”についても話しました」という一見、トンチンカンな注解をしました。全く的外れ、とまでは言わずとも「う、うぐぐ」と詰まってしまうようなコメントです。もちろん司会者は「……じゃ、それについては集会後に扱いましょう(汗)」とかわしました。まぁ、妥当な線ですね。その後どうなったかについては確認していません。
「予定調和」とか「シャンシャン総会」とか、普通の日本には「式次第」どおりにイベントが進むのを前提に催しを計画しています。だからこそ「総会屋」と言われる異分子を恐れ、株主から鋭い質問が出るとパニックになる、といった現象がままあります。
私たちがしているのは本当に「研究」なんでしょうか? 父がかつて言っていたように「答え合わせ」に過ぎないのでしょうか?
集会のシステムが変わって週2回制になって、書籍研究のことを「会衆の聖書研究」と呼ぶようになった時、すごく“違和感”を覚えました。どう見ても「塔出版物研究」にしか見えなかった。「討議」も賛否が飛び交うディスカッションでは決してなかった。「けんきゅう」というものに慣れていない人々にとっては、取っかかりとしては良い方法かもしれないが、いつまでもそれに依存し続けるのはいかがなのか、と。
外国の事情をご存知の方、どなたか教えて下さい。
(この間YouTube で記念式のワインを回している途中で一人の若い出席者が立ち上がり、グラスに口を付けて、「I’ve been anointed!」みたいなことを叫んでいる動画を見かけました。きれいな画像でしたから撮影隊も準備していた「確信犯」だったのでしょう)
いずれ日本でもこういう予想外の場面が見られるようになるんでしょうか?