1.クセルクセスは父親ダリウスの共同統治者か?

ものみの塔協会は[自らの聖書解釈の正しさを立証するために]アルタクセルクセスの統治期間を(その統治の開始をBC465年ではなくBC475年とする必要があるため)41年間から51年間に引き伸ばしています。そのため前任者のクセルクセスの統治年数を21年から11年に短縮する必要が出てきます。その目的のために協会はクセルクセスの統治の21年のうち10年間は父親のダリウスと共同統治の分であると主張しています。それによって10年分をずらすことができるからです。

しかしそのような10年の共同統治を支持するような証拠は一つもありません。ものみの塔の聖書辞典「聖書に対する洞察 (1988)」の第2巻781ページから始まる説明は惨めなほどの歴史資料の曲解を含んでいます。その783ページで、彼らは次のように主張しています。

クセルクセスが父親のダリウスと共同統治を行なったことを示す確実な証拠があります。ギリシャの歴史家ヘロドトス(VII,3)は,「ダリウスは[王権を求める]彼[クセルクセス]の嘆願を正しいと判断し,彼を王と宣した。しかし,私が思うに,クセルクセスはこの勧告がなかったとしても王とされたであろう」と述べています。このことは,クセルクセスがその父ダリウスの治世中に王とされたことを示唆しています。(洞‐2 783ページ)

しかしヘロドトスの記述を調べてみると、ヘロドトスが上記の引用の次の文章の中で ものみの塔の主張に真っ向から対立する点を述べていることを見出します。そこにはダリウスがクセルクセスを後継者として任命してから1年後に亡くなっていることが記されており、協会が主張するような10年間の共同統治が存在する証拠になるどころか、むしろ逆に否定するものなのです。ヘロドトスは次のように述べています。

ヘロドトス – 歴史(BC440)第7巻 3章
Herodotus「クセルクセスは王位を継承する者であることが公に宣言された。そしてダリウスは戦争に対して自分の注意を振り向けることが可能になった。しかしながら、そのための準備が完了する前にその計画は死によって果たすことができなくなった。エジプト人の反乱後のこれらの出来事から1年後に死去してしまったのであり、彼は自らの36年間の統治を終え、エジプトやアテネ人に処罰を下す機会は奪われてしまったのである。彼が死んだのち息子のクセルクセスへ王位は引き継がれた。」

ここでわたしたちは、ダリウスがクセルクセスを後継者として任命したのは自分が死ぬ1年前(10年前ではなく!)であったという事実を見出します。ヘロドトスによるとダリウスはクセルクセスを共同支配者としてではなく、むしろ彼の後継者として任命しています。(協会が引用している部分を例えばオーブリー・デセリンコート訳などでご覧ください) この節の前の部分でヘロドトスはペルシャの王たちの間で王が戦争に赴く前に後継者を任命する一般的な習慣が存在することに言及しています。それは王自身が戦闘で倒れる場合を考えての習慣です。ヘロドトスはダリウスによって同じ習慣が守られたことを述べているのです。

このように、ものみの塔協会はヘロドトスの言葉を全く文脈を無視して引用し、彼らの主張を覆す文脈の言葉を排除してしまっています。そして信じられないことに、彼らは自分たちが偽造して提示した内容を「確実な証拠(solid evidence)」として紹介しています!

彼らの聖書辞書(洞察の本)の中では他にも同じように質の低い推論を「確実な証拠」として紹介しています。例えば洞察の本の第2巻783ページではペルセポリスで発見された「浅浮き彫り」について1932年にヘルツフェルトがクセルクセスとダリウスの共同統治を示しているかもしれないと想定した点について触れています。しかし、そのアイデアは現代の学者たちによって否定されています。王子が王座の後ろに立っている様子は、王あるいは共同統治者としての立場ではなく、任命された後継者であることを示していると考えられています。しかも王座に座っている男性がダリウスで、王冠をかぶる王子がクセルクセスであるということも単なる推測にすぎません。J.M.クックはペルシャの歴史に関する論文で、王冠の王子はアルトバザネス、ダリウスの年長の子なのではないかと述べています(クック、ペルシャ帝国、1983 Ney York 75頁)。 現代の他の学者、たとえばA.B.ティリアやヴォン・ガルはその王がダリウスではなく、クセルクセスであり、王冠の王子はクセルクセスの息子であろうと述べています。(クック 242頁 脚注24)

「バビロンの資料から得られる証拠 」の項目の初めに、ものみの塔協会は共同統治の証拠としてバビロンで西暦前498-496年に建設されたとされる「クセルクセスの宮殿」に言及しています。しかしこの宮殿が「クセルクセス」のための宮殿であるという証拠は何もありません。J.M.クックはクセルクセスがダリウスの死(西暦前486年)の1年前になって継承者として任命されたとするヘロドトスの記述に言及し次のように述べています。

「ヘロドトスの述べる通りであるならば、バビロンで490年代初期に王の息子のために建設された住居はもともとはアルトバザネスのためであったに違いない」(クック74,75頁)

ですから、宮殿自体はダリウスとクセルクセスの共同統治については何の証明にもなっていません。

共同統治に関する「証拠」として項目の最後にあげられているのは、二つの粘土板に関するものです。ものみの塔協会によると二つの粘土板は共にダリウスの最後の統治の年の数か月前の日付のものであるとしています(洞‐2 783ページ)。 そして彼らはこの二つの支配の「重複」が共同支配を示していると主張しています。

しかし、ものみの塔が二つの粘土板のいずれの場合でも隠している点があります。もしこの点を意図的に隠しているわけでないのであれば、彼らの貧弱な調査を物語るものでもあります。まず最初の粘土板、トンプソンの1927年のカタログで「A. 124」と名付けられている粘土板は、トンプソンが示唆しているようなクセルクセスの即位年(BC486/485)のものではありません。
これはトンプソンの記載ミスでした。その粘土板の実際の日付はクセルクセスの第1年(BC485/484)です。この点はすでに1941年の時点でジョージ・G・キャメロンによって「セム系諸語文献アメリカ・ジャーナル誌」の中で指摘されています(58巻、320頁、脚注33)。 ですからどこにも「重複」などないのです。

二つ目の粘土板は1934年にM・サン・ニコロとA・ウングナートによって634番として公開された「VAT 4397」粘土板です。そこで彼らは日付を第5の月(アブ)に割り振りました。しかしながら著者たちがその月の名前の部分に「?」というマークを付している点に注目すべきです。粘土板の月の署名部分は壊れていて、幾通りかの読みが可能だからです。パーカーとデュバーシュタインによる近年の研究(バビロニア年代 1956)では同じ粘土板(別名VAS VI 177)に関して「月の署名の部分が傷んでおり、9(IX)とも読めるが、おそらくは12(XII)である」(17頁)と指摘されています。このようにニコロとウングナートによる最初の推測はすべて訂正されています。ダリウスは第7の月に亡くなっているので、粘土板の日付が継承する王の第9あるいは第12の月であることは、極めて正常であるということになります。二つの統治の中に重複などはないことになります。

border

訳者あとがき

洞察の本の中で引用されている「ヘロドトス – 歴史」は英文では以下から読むことができます。
http://classics.mit.edu/Herodotus/history.7.vii.html

ものみの塔協会の執筆者が引用している部分の前後を通して読むと、いかに協会の執筆者が不誠実な仕方で古代歴史家の言葉を用いているかが理解できます。

border

元記事:1. Was Xerxes a coregent with his father Darius?
http://kristenfrihet.se/english/artaxerxes.htm

記事の終わり