エホバの証人はマタイ24章を要約して「終わりの日のしるし」あるいは「終わりの日に関する預言」と表現します。しかしマタイ24章の中に「終わりの日」という言葉が存在するわけではなく,実際には「スンテレイア(終結)」と「アイオーン(世)」というギリシャ語を組み合わせた語として「事物の体制の終結」と訳される語が出ています。
スンテレイアを「終結」と訳するのは間違っていません。スンテレイアは「完結,終焉,終わり」を意味しているからです。しかし,ものみの塔がしているように『「事物の体制の終結のとき」が始まった1914年』(塔92 6/15 20ページ)という表現は完全に読者に誤解を与えるものです。「終結」は「終結」であり,「終結の始まり」などという概念は含んでいないからです。もし特定の年代から始まる期間を示すことが目的であれば「終結」という語を用いることはないでしょう。(補足:一世紀の考え)
ですから,クリスチャンが終わりが来るすぐ手前という意味で「事物の体制の終結のとき」に言及するのは間違っているわけではありません。しかし多くの聖句は「事物の体制の終結」とはキリストがみ使いたちを伴って裁きに来られる,その時を表していることを示しています。
「事物の体制の終結」という言葉を初期クリスチャンが聞いたときに「特定の日付から始まる期間」という概念でとらえなかったことはなかったことは以下のイエス自身の言葉から理解できます。
(マタイ 28:20) …そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです…
上記のイエスの言葉とものみの塔が言う「事物の体制の終結のときは1914年に始まった」という考えは相反しています。キリストの昇天後に語られたとされるマタイ28:20の聖句はキリストの再臨のときまで象徴的な意味で共にいるということを示すための言葉であると考えられます。皮肉なことですが,もし「見えないキリストの臨在」なるものを何かに当てはめるのであれば,この言葉こそ最も近いものに思えます。
マタイ 28:20
わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです。 – 新世界訳
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 -新改訳
自分たちを中心にして解釈するものみの塔
ものみの塔協会が福音書中のイエスの例え話を解釈するとき,ほとんどの場合に自分たちを中心にした「預言的な意味」を付与します。協会は書かれた当時のクリスチャンがどのように解釈したであろうかという点を全く無視しています。例えば「小麦と雑草のたとえ」(マタイ13章)の協会による独自の解釈にその点がよく表れています。
マタイ 13:39,40
新世界訳 | 新改訳 |
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それをまいた敵は悪魔です。収穫は事物の体制の終結であり,刈り取る者はみ使いたちです。それゆえ,雑草が集められて火で焼かれるのと同じように,事物の体制の終結のときにもそのようになります。 | 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。 |
ではものみの塔は上記の聖句をどのように説明しているでしょうか? ものみの塔2013年7月15日号10ページから始まる挿絵は以下のように説明しています。このような解釈はイエスから直接例えの意味を説明してもらった弟子たちには思いもよらない解釈であるに違いありません。
ものみの塔の記事は「収穫は事物の体制の終結であり」という言葉を使って収穫が1914年に始まったと説明しています。そして例えの中のキリストの言葉をすべて自分たちを中心にして当てはめて細かな適用を解説しています。
(上記の挿絵に出てくる”油そそがれた者たち”というのはエホバの証人の中に1万人ほどいる人たちのことです)
「小麦と雑草のたとえ」 はすでにイエスが解説している
小麦と雑草のたとえを当時の弟子たちは十分に意味を理解することができたはずです。なぜならこの聖句はイエス自身によるたとえの意味の解説の言葉だからです。直前の聖句は次のようになっています。
(マタイ 13:36) …群衆を解散させた後,イエスは家の中に入られた。すると弟子たちがそのもとに来て,「畑の雑草の例えをわたしたちに説明してください」と言った。 イエスは応じて言われた・・・
ものみの塔がしていることはイエスが弟子たちに明確に説明したものをさらに独自に解釈をつけて「ものみの塔の読者」に説明しているのです。イエスの説明はそのような二重の説明が必要なのでしょうか?
まったく説明になっていない「ものみの塔」の解説
聖書の中の小麦と雑草のたとえ話は次のようになっています。
(マタイ 13:30) …収穫の季節になったら,わたしは刈り取る者たちに,まず雑草を集め,焼いてしまうためにそれを縛って束にし,それから,小麦をわたしの倉に集めることに掛かりなさい,と言おう…
この聖句によると,「事物の体制の終結」における「み使いたち」(刈り取る者)の役割は第一に「雑草を集め,焼いてしまうためにそれを縛って束にする」ことであると述べられています。この点に関して,ものみの塔は次のように説明を試みています。
ものみの塔2013年7月15日号12ページ
このように「雑草を集める業」と述べながら,具体的に何を表しているのかを説明していません。「雑草を集める」ための「み使い」は具体的に何をしているのでしょうか?今回のものみの塔は反論が出てくるような部分はあえて不明瞭にしているように見えます。「収穫は事物の体制の終結です」とイエスが述べたときに誰が100年以上にわたる1914年から始まる期間であると想像しえたでしょうか?
ものみの塔は「事物の体制の終結」という言葉をある場面では1914年に当てはまるように説明し,別の場面ではキリストの最終的な裁きのときであるかのように説明します。しかし1世紀のクリスチャンが「事物の体制の終結(スンテレイア・アイオーン)」という言葉をそのような複雑な意味に解釈したとは考えられません。そしてこの言葉を語ったとされるイエスも,そのような解釈がなされることは想定していなかったことでしょう。
レイモンド・フランズが一般の聖書注釈書を読んで「何年も経たないうちに「無効」になり、もう出されなくなってしまう自分たちの出版物と比べずにはおれなかった」(良心の危機 p.30)と述べたのもうなずけます。彼はエホバの証人のための聖書辞典の作成(洞察の本の原型)を行なっていた際に,ものみの塔協会のご都合で度々解釈が変わる聖書理解の貧弱さを痛感させられていました。そのような貧弱な解釈は,結局のところご都合主義で聖書を解釈してきた結果であるとも言えます。
(2013年8月26日 加筆)
記事の終わり
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