エホバの証人研究

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イエスの臨在と統治体

キリストの目に見えない臨在

間違いの原点

ものみの塔2013年7月15日号3ページ

マタイ 24章3節 各日本語訳の比較

新世界訳 新改訳 新共同訳 口語訳
「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。 「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。

上記はマタイ24章3節の日本語訳を並べたものです。ものみの塔協会の新世界訳だけギリシャ語パルーシアを「臨在」と訳しています。これは言語上は間違っているとは言えません。なぜならパルーシアは臨在と訳することが可能な言葉だからです。しかし「臨在」と訳すことが可能であるからといって,聖書筆者がそのような意図で書いているという結論にはなりません。パルーシアが「到来」とも「臨在」とも訳せるのであれば,どちらが望ましいかは当時の筆者が何を念頭に置いていたかを判断する必要があります。

聖書筆者の意図

ものみの塔がパルーシアを「臨在」と訳している意図は明確です。それはものみの塔協会がキリストの「目に見えない臨在」を教理として信じているからです。聖書翻訳に宗派の教理が反映することは望ましいことではありませんが,ある程度は許容できます。しかし,それが許されるのは聖書筆者の意図が不明確なときで,どちらの訳語をあてるのか判断が難しいときに限ります。ではマタイ24:3の場合,筆者の考えは不明確でしょうか?

マタイ 24:3 は弟子たちによるイエスへの質問の言葉となっています。ではイエスの弟子たちが「あなたのパルーシアのしるし」と述べた時,それは将来のキリストの「目に見えない臨在」を念頭に置いていたということはあり得るでしょうか?

ものみの塔の教理や翻訳が正しいとしたら弟子たちは実質上次のような質問をしていたことになります。

「あなたが将来,目に見えない仕方で臨在される時,地上にいる私たちがそれを識別できるように,目に見えるしるしを教えてください」

しかしそのような考えを念頭に置いて弟子たちが質問することは考えられません。そもそも弟子たちの頭にそのような発想は当時ありませんでした。そして,もしパルーシアが「目に見えない臨在」を念頭に置いて述べられたものでないとしたら,もう一つの考え方の間違いも明らかになります。それは「しるし」という言葉に関する間違いです。

なぜ「しるし」を尋ねたのか

エホバの証人は「臨在のしるし」と聞くと「キリストの目に見えない仕方で臨在している証拠」という意味合いの解釈をします。確かに目に見えないものを弟子たちが想定していたのであれば,臨在を識別できるような証拠を欲するのは自然です。しかし前述のように当時の弟子たちが「目に見えないキリストの臨在」を想定していない以上,彼らがキリストがすでに来られていることを識別するための「しるし」を求めていたことはあり得ません。彼らが「しるし」を求めたのは別の意味合いになります。

「しるし」と訳されているギリシャ語のセーメイオンは以下のように意味を持ちます。

セアの新約聖書希英辞典

σημειον (セーメイオン)

しるし,印,証明

  1. 人や物が他と異なることを示すもの
  2. しるし,奇跡,前兆,つまり自然から発生するものとは異なる出来事
    1.   起きようとしている特別な出来事の前触れとなる兆候
    2.   神によって遣わされたと証明づける奇跡や不思議,あるいは人が神を喜ばせているという証拠になるもの

ではマタイ24:3の場面で弟子たちが,エルサレムの神殿の崩壊と世の終わり,そしてキリストのパルーシアの「しるし」を聞こうとしたとき何を求めていたのでしょうか? 上記のギリシャ語辞書の定義のうちの「起きようとしている特別な出来事の先触れとなる兆候」を念頭に置いていたと考えるのが道理にかなっています。それは実質上,「キリストの二度目の到来に備えるための関連する警告」(Jamieson Fausset Brown Bible Commentary 1871)であると言えます。

この点は他の福音書の並行記述を見るならばより明確になります。

マルコ 13:4

マタイ 24:3 の並行記述である マルコ 13:4 は以下のようになっています。

(マルコ 13:4) …「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,これらのすべてのものが終結に至るように定まった時のしるしには何がありますか」。

弟子たちが「終結に至るように定まった時のしるし」を尋ねた時,終わりが到来する前兆を訪ねていました。弟子たちにとってユダヤ教の中心地であるエルサレムの神殿が倒壊するということは信じがたいことであり,それに対する前兆あるいは根拠を求めているのは自然な記述と言えます。(補足:事物の体制の終結のとき

*  これは「今は終わりの時である」という表現が間違いであるという意味ではありません。以下の聖句が示しているように一世紀のキリスト教徒は自分たちが世の終わりの時に生きていると信じていました。しかし彼らはそれを特定の年から始まる期間とはとらえていません

(コリント第一 10:11) さて,これらの事は例として彼らに降り懸かったのであり,それが書かれたのは,事物の諸体制の終わりに臨んでいるわたしたちに対する警告のためです。
(ヘブライ 1:2) これらの日の終わりには,み子によってわたしたちに語られました。[神]は彼をすべてのものの相続者に定め,また彼を通して事物の諸体制を作られました。
(ヘブライ 9:26) そうでなければ,世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けなければならなかったでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです。

同じようにパルーシア(到来もしくは臨在)のしるしについての記述を読んだ初期のクリスチャンはキリストの再臨の前兆という意味にとらえていました。そのことは西暦2,3世紀の初期キリスト教の教父たちの残した文書にも表れていますし,何よりも聖書自体がそのことを示しています。

聖書の内面的証拠

さらに聖書の他の個所ではキリストの臨在をどのような意味合いで用いているでしょうか?ものみの塔が言うように1914年から目に見えない形でキリストの臨在が始まっているとすると幾つかの聖句はとても不自然になります。

ヤコブ 5:7‐9

以下の新世界訳の言葉は1914年に「主の臨在」が始まったとすると大変不自然な言葉になります。

(ヤコブ 5:7‐9) ですから,兄弟たち,主の臨在の時(パルーシア)まで辛抱しなさい。ご覧なさい,農夫は地の貴重な実を待ちつづけ,早い雨と遅い雨があるまで,その実ついて辛抱します。8 あなた方も辛抱し,心を強固にしなさい。主の臨在(パルーシア)が近づいたからです。 9 兄弟たち,互いに対して溜め息をついてはなりません。それは,あなた方が裁かれないためです。ご覧なさい,裁き主が戸口の前に立っておられます。

ヤコブは1914年まで辛抱しなさいということを勧めていたのでしょうか?1914年以降にエホバの証人になった人にとってはヤコブの言葉はいったいどのような意味を持つのでしょうか?エホバの証人の解釈で言うならば上記の聖句は「心を強固にしなさい。1914年が近づいたからです」という意味になってしまうのです。

テサロニケ第一 5:23

(テサロニケ第一 5:23) 平和の神ご自身が,あなた方を全く神聖なものとしてくださいますように。そして,あなた方兄弟たちの霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ,わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際(パルーシア)とがめのないものでありますように。

パウロが上記の言葉を1914年の目に見えない臨在に当てはまるようなものと考えて書いていたとは思えません。むしろ以下のコリント会衆に書き送った言葉と同じ意味合いでパルーシアを用いているように思えます。この二つの聖句ではキリストの臨在と「主イエス・キリストの表わし示されること」とが同義語のように用いられています。(同じ例として ヨハネ第一 2:28 もご覧ください)

(コリント第一 1:6‐8) …それは,キリストについての証しがあなた方の間で確固たるものとなっていることに見られるとおりです。7 その結果あなた方はどんな賜物にも欠けることなく,わたしたちの主イエス・キリストの表わし示されることを切に待っています。8 キリストはまた,あなた方を終わりまで確固たる者とし,わたしたちの主イエス・キリストの日にあなた方が何ら訴えられることがないようにしてくださるでしょう。

結論

エホバの証人は1914年から始まった”キリストの臨在”を教理上の重要な位置に据えてきました。そして1914年に関連する多くの「いごごちの悪い教理」は訂正されてきました。現代に適用していた「預言」の多くは大患難後に起きる事柄とみなされるようにもなってきました。その意義が確実に小さくなり,年代学的にも重大な欠陥があり,そして何よりも多くの聖書的な反証があるにも関わらず1914年の教えが根底から変えられることはありません。なぜでしょうか?かつての統治体の運営について熟知していたレイモンド・フランズが書き残している考察の中に答えを見出すことができます。

エホバの証人の教えが特に他と違うのは、一九一四年という年代を中心とする教義である。この年にキリストが支配を始め、審判を開始したのであり、何よりもものみの塔協会を正式の経路として選び、地の統率を「忠実で思慮深い奴隷級」に任せた。そして事実上の絶対権限をその幹部グループに任せた。 この根本教義を手放すようなことがあれば、教義構造すべてが揺らぐことになる。したがって一九一四年がなくなることはまずあり得ないし、あるとすればその説明は非常に困難になろう。事実、ここ何年かの動きはまったく反対方向で、『ものみの塔』その他の出版物ではこの一九一四年に関わる様々な解釈を繰り返すのに熱心である。現行の信仰をさらに強化させようとしているのである。中でも重要なのは組織の権威に関する主張であって、この権威構造を支持し、これに忠節であるようにという宣伝が目下強力に行なわれている。

・・・確かに、年が経つに連れて一九一四年の教義とそれにまつわる主張の居心地は悪くなってくる。一九九九年現在、一九一四年から八十五年が経過している。すでに見た通り、一九一四年に生きていた「世代」についての教義はもはや続けることができなくなり、「修正」が行なわれた。

どういう変更点が出てくるにせよ、神の導きによるものとして登場することに間違いはあるまい。捨て去られてしまう教義や規則については、「その当時の神のご意志」、はたまた天に支配するキリスト・イエスの「作戦」の一つであったとされ、目標のための手段だったとされるだろう。この組織が過去百年間ずっとそうであった通り、変更を加えた場合でもそのことをはっきり認めはしないだろう。通常このような変更が必要になるのは、まずそもそも聖書にしっかり従っていない証拠であるが、大概はある方針についてその正当性が擁護できなくなり、そのまま置いておくとまずいことになるという見込みの下に変更を余儀なくされる場合である。こういう変更の仕方は、聖書をしっかり調べた人たちが誤りを正すのとは違う。つまり聖書を見た上で、なるほど自分たちは間違っていた、だからこの誤りを正したいという姿勢とは程遠いのである。

・・・結局、いかなる変更があろうと、その考え、その出版物、その行ないすべてを支配する基本的な前提はかたくなに守られる。すなわち、神は何らかの組織を通じて人間に接しているに違いない、そのはずだ、そして王たるイエス・キリストはその組織としてものみの塔協会を選んだ、という大前提である。これがあるため、もののわかった人でも多くが問題の本質をつかめずにいる。

良心の危機 433,434ページ – レイモンド・フランズ

 

 

記事の終わり

 

 


 
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補足資料

1 コメント

  1. あかちゃん

    calebさん 正しい理解を感謝します。「到来」ですね。これから裁きに到来されるのですね。それにしても1914年を固守したいがために、(全てが崩壊するからでしょうが)、エホバ神に(聖書に)逆らった解釈を、「も塔」はいつまで続けるのでしょうか。神の裁きを恐れていないとは、古代のイスラエル(神に裁かれた)や、1世紀のパリサイ人(偽善者)と同じレベルの組織ですね。誠実なJWが悲惨です。

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