エホバの証人は1914年にキリストのパルーシア(到来もしくは臨在)が起きたと教えられてきました。ものみの塔2013年7月15日号の記事はその教理が基本的な真理であることを前提に書かれています。ですから,もし1914年に関する教理が間違っているのならエホバの証人が過去100年以上教えてきた教理体系全体が音をたてて崩れることになります。

エホバの証人は1914年に天でキリストの目に見えない臨在がおきた証拠として,1914年の「戦争や戦争の知らせ」つまり第一次世界大戦が起きたことを指摘します。しかし本当にそのような特定の出来事がキリストが到来した「しるし」になるのでしょうか?

「戦争や戦争の知らせ」はキリストの臨在の「しるし」か?

「しるし」を求めた弟子たちに対する最初のキリストの言葉は「だれにも惑わされないように気を付けなさい」というものでした。キリストの続く言葉は「しるし」そのものではなく,むしろ弟子たちが偽りの情報に惑わされないようにとの警告の言葉とも受け止めることができるものです。そしてその惑わす情報の中に「戦争や戦争の知らせ」も含まれています。もし「戦争や戦争の知らせ」をキリストの「臨在のしるし」であるとするならば,キリストの語り口調は文脈からしてとても不自然なものになります。では C.T.ラッセルはこの点でどのように注解しているでしょうか。

THE WATCH TOWER 1884年3月_p605

質問:マタイ 24:6 が述べている「戦争や戦争の知らせ」は福音時代の終わりのしるしとなりますか?

答え:いいえ,我々はそのように考えません。戦争や戦争の知らせは地上の歴史をずっと特徴づけてきました。その頻度や残虐さは異なりますが人類が堕落してから起きています。

ラッセルは19世紀末期の状況を念頭に置きながら次のように続けています。

しかし聖書は福音時代の終わりの時,あるいは「この世の君」の支配の終わりに,もっと戦争が一般化し,地上の権力すべてを含めた広範囲な戦争状態になることも教えています。我々が現に見ている事柄はそのことを示しています。つまり共産主義原理の台頭が世界的に急速に進んでいます。

ラッセルは当時のヨーロッパの情勢がそのまま大患難にいたると教えていましたが,マタイ 24:6の「戦争や戦争の知らせ」を現在エホバの証人が考えているような仕方で「終わりの日のしるし」などとは考えていませんでした。キリストのパルーシアが近づいていることを示す状況の一部と解釈することができたとしても,それ自体が臨在の「しるし」ではあり得ないのです。ましては特定の戦争を指して「終わりの日が始まったしるし」とか「目に見えないキリストの臨在のしるし」であると主張することは本来の意図とは異なっています。実際聖書は「これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです」という言葉が続いており,戦争や戦争の知らせを「しるし」と混同しないように警告しています。

それを信じて追いかけたりしてはなりません

そもそも弟子たちはキリストが天で臨在していることを示すしるしなど求めていませんでした。彼らは「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう(新改訳)」と尋ねていました。その質問に対する答えは皮肉にもキリストが臨在しているという情報に惑わされないようにというものでした。

(マタイ 24:23) …『見よ,ここにキリストがいる』とか,『あそこに!』とか言う者がいても,それを信じてはなりません。

さらにテサロニケ第二の2章1,2節では次のように記されています。

テサロニケ第二 2:1,2(新共同訳)
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られること(パルーシア)と、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。

キリストが語られたパルーシアのしるし

マタイ 24章の中でイエスは人を惑わす情報に警戒するように告げた後に臨在の「しるし」について語られます。

(マタイ 24:29‐31) …「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。30 またその時,人の子のしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。31 そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう。

ここでイエスは弟子たちの質問(マタイ24章3節)の際にすでに言及されている「しるし」と同じギリシャ語セーメイオンを使い,人の子のしるしが天に現れること,そしてパルーシアとほぼ同義語として理解されていた「来る」(エルコマイ)という言葉を使い(*),弟子たちの質問に対する答えを提供しています。

(*)ものみの塔はギリシャ語パルーシアとエルコマイが意味の異なる単語であるかのように説明していますが,根拠は何も提示されていません。その二つの語は実際にはどちらも「到来する」という意味をもつ相互交換可能な語であり,同じ文脈でその二つの語が登場すれば聞き手は間違いなく同じ出来事を指すと解釈します。例えば「新幹線はいつ到着しますか?」「10時くらいには来ます」という会話があれば一つの出来事(到来)を指すと誰もが解釈するのと同じです。実際に1世紀当時にパルーシアがどのように解釈されていたのかは「パルーシアの用法」の中で説明されていますのでご覧ください。

根本的な間違い

パウロは「時と時期」について推測することができない理由について次のように述べました。

(テサロニケ第一 5:1‐2) さて,兄弟たち,時と時期については,あなた方は何も書き送ってもらう必要がありません。 エホバの日がまさに夜の盗人のように来ることを,あなた方自身がよく知っているからです。

パウロは上にあげたテサロニケ第一 5:2 で主の日が夜の盗人のように来るという点を指摘しています。そしてその教えはテサロニケのクリスチャンが十分理解している点であると述べています。

もしキリストの到来の年代があらかじめ予告できるようなものであるならば,それは「夜の盗人」のように来ることではなくなります。これはまさにマタイ24章の中で指摘されている点でもあります。

(マタイ 24:43‐44)  「しかし,一つのことを知っておきなさい。家あるじは,盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。

使徒 1:7 ではその時や時期を知ることが人の権限ではないことを伝えています。

(使徒 1:7) [イエス]は彼らに言われた,「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなた方のあずかるところではありません。

それで,1914年にキリストが臨在したという教えや,1919年という特定の年にキリストがニューヨークの一握りの男子を任命したという主張,さらには1914年から一世代,あるいは「重なる世代」で終わりが来る,という教えは根本部分な間違いがあります。

記事の終わり


 
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