どうして興奮しちゃいけないんだい。興奮すべきことじゃあないか。

フレデリック・フランズ

1975年に人類の6000年の歴史が終わり、新しい世が始まるという期待を起こす見解が発表され、世界中のエホバの証人が興奮する中、その見解の発明者のフレデリック・フランズは上のように述べました。

フレデリック・フランズの甥のレイモンド・フランズは、その時の場面を次のように語っています。

1974年、ある日曜の夕方、私が妻と一緒に国内の講演旅行から戻ってくると、当時副会長だったおじが部屋にやってきた。妻はおじに向かって、その週末に私が行なった講演では1975年についてあまり興奮しないよう呼びかけたのですと言った。おじはすぐさま、「どうして興奮しちゃいけないんだい。興奮すべきことじゃあないか」と返した。
統治体のメンバーの中でも、この副会長こそが自分の書いたことについて、そしてそれに基づいて書かれたその他の記事について、一番心から納得しているように思った。

レイモンド・フランズ – 良心の危機 268頁

聖書を自己流に解釈するのは自由です。しかし、ものみの塔協会が自分たちの見解に対してとってきた態度は、聖書を解釈して、それを説明したということにとどまりません。以下のように、「エホバ神が・・・されるのは、全く適切なこと」「それは…神にとっても全くふさわしいことでありましょう」と述べています。

『神の自由の子となってうける永遠の生命』 28-30頁 1967年出版

信頼できるこの聖書年代表に従って言えば、人間創造以来六千年になるのは一九七五年のことです。そして人類歴史の第七の千年区分は、西暦一九七五年の秋に始まります。…

エホバ神がこの第七の千年期を休息と解放の安息の期間とし、全地の住民に自由をふれ示すための、大いなるヨベルの安息にされるのは、全く適切なことではありませんか。それは人類にとって全く時宜を得たことです。それはまた神にとっても全くふさわしいことでありましょう

ものみの塔協会が、神の名のもとに何かを語る時、それは本当に「神にとっても全くふさわしいこと」なのでしょうか?わたしには、次の聖句の述べられた言葉のほうが説得力があるように思えます。

(エレミヤ 23:21) わたしは預言者たちを遣わさなかった。だが,彼らは走った。わたしは彼らに語らなかった。だが,彼らは預言した。

 

記事の終わり