エホバの証人研究

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輸血拒否

輸血拒否 – 間違った土台

前の記事「聖句の意味」では、血を避けることの元々の意味について説明しました。本来の意図を間違えて適用してしまうとどのようなことが生じるでしょうか?それはちょうど家を購入したものの、後から家の土台に欠陥があることに気付くようなものです。家のいたるところにひび割れや歪みが出て、その度に壁紙を張り替えたり、建具の一部をカンナで削って調整して過ごします。しかし土台に欠陥があるため問題は解決しないのです。ものみの塔の輸血に関する教えも様々な調整を施しながら今日に至っていますが、常に論理的な矛盾に悩まされています。

理解の流れ

協会は医学の分野に関して様々な見解を述べてきました。それは多くの場合、聖書とは直接関係のない記事として提供されます。例えばワクチンに関する記事もそうです。協会は1923年には「ワクチンの詐欺」と題する記事を掲載しますが、この段階ではそれを聖書的な禁令とは位置づけていません。ところが1931年になると以下のような記載がされるようになります。

黄金時代 1931年2月4日293頁
ワクチン接種はノアに与えられた永遠の契約に違反している。

そしてワクチン接種に対する異常な反対は続きます。しかもワクチンによる危険性も減少し、その有益性が実証されているにも関わらずです。以下のような挿絵と共に非科学的なワクチン批判が続きます。

黄金時代 Golden Age 1932 Mar 30 p.409

当然エホバの証人は予防接種が義務付けられている国でもそれを拒否することになり。多くの問題を抱えるようになります。証人たちに予防接種の拒否を教えていた協会にも訴訟問題が降りかかる可能性が高くなりました。そして1952年12月15日号で予防接種に対する禁令は公式に解かれることになります。(参照:協会の思考パターン
興味深いのは上記のようなワクチン否定を続けながらも輸血に関してはノアの契約を適用するどころか、逆に自己犠牲的に輸血を施した人を称賛する記事が掲載されていることです。

慰め誌1940年12月25日号、英文19頁
Consolation 12/25/1940 page 19
In New York city a house wife in moving a boarder’s things accidentally shot herself through the heart with his revolver. She was rushed to a hospital, her left breast was cut around, four ribs were cut away, the heart was lifted out, three stitches were taken, one of the attending physicians in the great emergency gave a quart of his blood for transfusion, and today the woman lives and smiles gaily over what happened to her in the busiest 23 minutes of her life.
ニューヨークのある主婦が下宿生の持ち物を運んでいる途中に拳銃で自分の胸を撃ち抜くという事故がおきました。彼女は病院に搬送され、彼女の左胸が開けられ四つの肋骨を取り除き、心臓は持ち上げられ3箇所縫い合わされました。居合わせた医師の一人はその緊急性から1リットル近い血液を輸血のために提供しました。そして現在この女性は命をとりとめ、笑顔でこの人生で最も忙しかった23分間に起きた出来事を語っています。

中には輸血のために献血した人を称賛する内容とワクチン接種を否定する内容を同じページに掲載しているものさえあります。このような理解の流れを見るとノアの契約や他の聖句を医療の分野に当てはめることは現代のエホバの証人が当然のごとく考えるようなものではなかったことがわかります。そのような状況でしたが、輸血は1944年に禁止事項となります。しかも後にそれに違反するものは排斥に値するものとされるようになりました。一方ワクチンに関しては1952年に解禁となります。

不自然な説明

聖書が血に関して述べている本来の意図を把握しないで様々な解釈を作り上げてきた結果、様々な不自然な説明をしなくてはならなくなります。例えば動物の血を使用したワクチン注射は認めているにも関わらず輸血を拒否することについて協会は以下のような見解を述べています。

*** 塔62 2/1 91 読者からの質問 ***
輸血をうけること、あるいは輸血の代わりに血液の一部を体内に注入して、生命を支えることは正しくありません。・・・・・ワクチン注射の使用は、実際に人体を養うものでない・・・・・人体組織を汚すものに過ぎないと知るとき、クリスチャンは慰めを見出すでしょう。人間は血を食べてはならぬと神が言われたとき、神は、血によって体を養うことを特に禁じたのです

訴訟問題を恐れて解禁にしていた血液由来のワクチン注射を許可する言い訳として、聖書には書かれていない事柄、つまり「神は、血によって体を養うことを特に禁じたのです」という話を追加しました。自分たちの教理の変更にとっては都合のいい説明かもしれませんが、血に関する聖書の本来の意図を理解することからはさらに遠ざかる結果になります。

 

犠牲になる正しい理解

本来あるべき姿に組み合わさっていないジグソーパズルは、どこかに無理やりピースを当てはめても別の部分のピースが当てはまらなくなります。輸血に関する協会の理解も同じように、どこかを調整すると別のところが犠牲になるということが生じます。一つの例を見てみましょう。

協会は「聖書に対する洞察」の本でとても明解で道理にかなった次のような説明をしていました。

*** 洞‐2 180ページ 血 ***
申命記 14章21節では,自然に死んだ動物,あるいは獣によって引き裂かれた動物を外人居留者や異国の人に売ることは許されていました。ですから,そのような動物の血と,人が食物にするためにほふった動物のそれとは区別されました。(レビ 17:14‐16と比較。)

聖書は食用にするために意図的に殺した動物の肉と、自然に死んだ動物の肉を明らかに区別しています。そして自然死した動物を食べると「汚れたものになる」ため、特に祭司はいかなる理由によっても食べることは禁じられました。(エゼキエル 44:31)しかしその肉を外人居留者に食べさせてもよく、ユダヤ人がそれを食べても宗教上清めが必要な「汚れた」状態になるとだけ述べられています。(下の「律法による規定」を参照)  洞察の本の説明は理にかなっていますし、聖書が明確に述べている点と一致しています。

律法による規定

自然死した動物や野獣に殺された動物の肉は汚れたものとして扱われました。それを食べることは禁じられており、違反するものは汚れた者と見なされます。律法の規定により汚れからの回復が可能であるとしても、食べること自体が是認された行為であるわけではありません。

エゼキエル 4:14 は、死んだ家畜の肉を食べることが不名誉なことと見なされていたことを示しており、ユダヤ人たちがそのような肉を避けていたことが示されています。

参考になる聖句

(出エジプト記 22:31) 「また,あなた方はわたしに対して聖なる者となるべきである。野にある,野獣に裂かれた肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えるべきである。

(レビ記 11:39, 40) 「『さて,あなた方の,食用の獣のいずれかが死んだ場合,その死体に触れる者は夕方まで汚れることになる。 また,その死体の何かを食べた者は自分の衣を洗う。その者は夕方まで汚れた者とされなければならない。その死体を運び去った者は自分の衣を洗う。その者は夕方まで汚れた者とされなければならない。

(レビ記 17:15) [すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば,その地で生まれた者であれ外人居留者であれ,その者は自分の衣を洗い,水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。

(レビ記 22:8) 彼はまた,[すでに]死体となっていたものや野獣に引き裂かれたものを食べて汚れた者となってはいけない。わたしはエホバである。

(エゼキエル 4:14) それで,わたしは言った,「ああ,主権者なる主エホバよ! ご覧ください,わたしの魂は汚されたものではありません。わたしは若い時から今に至るまで,[既に]死体となったものも,引き裂かれた動物も食べたことはありません。また,わたしの口にいとわしい肉が入ったこともありません」。

しかし1983年のものみの塔にはこれとは異なる見解が次のように記載されています。

塔83 7/15 読者からの質問

■ 聖書に記されている血についての禁止条項は,人の手で殺されたものの血だけに当てはまり,自然死した動物の,血の抜かれていない肉や,生きた動物や人間の血には当てはまらないのではありませんか。
…自分たちの意見を提出するにあたってある人々は,申命記 14章21節は血の抜かれていない肉が人の手で殺された動物のものでなければ外国人にそれを食べることを許すものであると主張しました。そのような場合に,人は(命を象徴する)その血を神に返さなくてもよかったからです。レビ記 17章15節はその見解を支持しているかに思えるかもしれません。その聖句によると,その地で生まれたものであれ外国人であれ,「すでに死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを」食べた者は,自分の衣を『洗い……夕方まで汚れたものとされる』にすぎませんでした。ですから,人間の手で殺されたものでなければ,その血を食べることには実質的な罪科はないように思えるかもしれません。そのために,生きた被造物から血を採って,それを食物や輸血に使っても間違いではないと主張する人がいるわけです。
しかし,申命記 14章21節とレビ記 17章10,15節との根本的な相違は,動物がどのような死に方をしたかにあるのでしょうか。聖書的な答えをするならば,そうではないと言わなければなりません。

不思議なのは問題となっているのはレビ記17章15節だけではなく前後の聖句も関連しているのですが、なぜか引用がありません。雑誌の2ページ分を使って回りくどい説明をしながらなぜ問題となっている聖句は引用しないのでしょうか?レビ記 17:13-16を通して読めば、自然死した動物や獣に殺された動物(血抜きされていない)を食べることと、食用にするために動物を屠りながら血抜きをしないで肉を食べることとは区別されていることが明らかだからです。そこにはこうあります。

(レビ記 17:13-16) 「『だれでもイスラエルの子らに属する者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,食べてよい野獣または鳥を狩猟で捕らえた者がいれば,その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。14 あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。15 [すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば,その地で生まれた者であれ外人居留者であれ,その者は自分の衣を洗い,水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。16 しかし,それを洗わず,その身に水を浴びないのであれば,その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない』」。

ではなぜこの聖書の明確な理解を協会は退けるようなコメントを出す必要があるのでしょうか?それはこうした考えが、血を食べてはならないという命令が動物を屠る(ほふる)という行為と密接な関係があること、そして命を奪うという行為が前提にあるということが明確になってしまい、それは協会の輸血拒否の土台を根底から揺るがすことにもつながるからです。

協会は、聖書の明確な言葉に合わせて自分たちの理解を調整するという選択もできたはずですが、そうではなく自分たちの教理に合わせて聖書の意味を調整することを選びました。(洞察の本は1983年より後に発行されていますが、それ以前の「聖書理解の助け」の本の内容を引き継いでいるため上記の見解が記されていません)

 

血の唯一正しい用い方?

協会の出版物では輸血拒否の根拠を提示する目的で、「血の唯一正しい用い方」は犠牲を捧げるさいに用いることであるという考えを強調します。しかしその考えは正しいでしょうか?ユダヤ人は血を”用いて”犠牲を捧げていたのでしょうか?

聖書を普通に読む限り、血を祭壇に振りかけるということ自体が犠牲を捧げることになっていたのではなく、動物を屠ったという事実があるからこそ血に宗教的意味が生じていたということがわかります。

(レビ記 17:5-6) イスラエルの子らが自分の犠牲を,すなわち彼らが野原で犠牲としてささげるものを携えて来るためである。彼らはそれをエホバのもとへ,会見の天幕の入口の祭司のもとへ携えて来なければならない。彼らはそれをエホバへの共与の犠牲として犠牲にしなければならない。6 そして祭司はその血を,会見の天幕の入口にあるエホバの祭壇の上に振り掛け,また脂肪をエホバへの安らぎの香りとして焼いて煙にしなければならない。

 

では動物の血だけを祭壇に注ぎ、動物は生かしておくならどうでしょうか?それは血を用いて犠牲を捧げたことになりますか?明らかに動物を犠牲にしたからこそ、その血を注ぐことに意味が出ているのです。そして犠牲に関連する聖句を「血の唯一正しい用い方」の根拠にするのであれば、同じように「脂肪の唯一正しい用い方」という説明も付け加えるべきでしょう。なぜなら血の用い方とされる聖書の言葉の文脈で、「脂肪はすべてエホバのものである。……あなた方は脂肪も血もいっさい食べてはならない」(レビ 3:3‐17)と述べられているからです。

血は命の象徴であると述べるよりも、命を犠牲にしたことを象徴すると述べるほうがより正確でしょう。エジプトにおける「過ぎこし」で戸柱に羊の血を振り掛ける際、羊が「ほふられる」ことがあって初めて意味が出たのではなかったでしょうか?

(出エジプト記 12:5-7) あなた方のために,その羊はきずのない一歳の雄であるべきである。若い雄羊から,あるいはやぎの中から選んでもよい。6 そして,この月の十四日までそれをあなた方の下に守っておき,その後イスラエルの集会の者たちの全会衆は二つの夕方の間にそれをほふらねばならない。7 また彼らはその血を幾らか取り,自分がそれを食べる家の二本の戸柱とその戸口の上部にそれを掛けねばならない。

民数記の以下の聖句は、単に出血のことを述べていたのでしょうか?それは人の命を奪うことを意味していませんか?

(民数記 35:33) 「『こうしてあなた方は自分のいる土地を汚してはならない。血が土地を汚すのである。そして,土地に対しては,その上に流された血に関し,それを流した者の血による以外に贖罪はないのである。

キリスト教の基盤ともなるイエスの流された血は、イエスが人類のために死んだということに伴って意味があることとされているではないでしょうか?仮にイエスが大量の血を流しても命はとりとめていたならどうでしょうか?

(マタイ 26:27,28) また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。「あなた方はみな,それから飲みなさい。28 これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。

聖書が「血」を犠牲と関連付けていたとしても、それは「血の用い方」を指示するものではなく、犠牲を捧げた結果として「血」が流されたという事実を象徴的に用いていると考えるのが自然です。

実際聖書はキリストの「肉」を同じような意味合いで用いています(ヨハネ 6:51)。犠牲を捧げたことの象徴として「肉」が用いられていると言っても、それは「肉の正しい用い方」 を示すためではないのと同様です。

 

医療の教科書と一致した教理

エホバの証人は血の成分のうち、「血漿,赤血球,白血球,血小板」は受け入れません。どんな根拠があってこのような区分を設けているのでしょうか?

*** 塔04 6/15 22ページ 11節 生ける神の導きに従う ***
2001年の「救急医療」(英語)というテキストの「血液の組成」という見出しのもとには,「血液は,血漿,赤血球,白血球,血小板という成分によってできている」とあります。ですから,医学上の事実とも一致してエホバの証人は,全血の輸血も血液の四つの主要成分いずれかの輸血も拒みます。

なんと救急医療の教科書に主要成分と載せられているからなのです。

ではヘモグロビン、アルブミン、グロブリンはなぜ受け入れるのでしょうか?

「血を避けるようにとの命令は血液分画にも適用されるのでしょうか。明確なことは言えません。聖書は血液分画に関して具体的な指示を与えていないからです」。 (宣 06/11 3ページ)

ここで聖書が出てきました。しかし何を言っているのでしょうか?「聖書は血液分画に関して具体的な指示を与えていない」から明確にわからないと述べています。では逆に聞きます。協会はエホバの証人に血漿,赤血球,白血球,血小板を拒否するよう指示していますが、それらの成分については聖書が具体的な指示を与えているのですか

人の命を左右させるような教えを説きながら、聖書的根拠を示さないで線引きをする、そしてそれに従わないものを悔い改めないなら排斥処分にするという考えを正当化するどのような理由が存在するのでしょうか?

臓器移植との整合性 – 論理的な破たん

医師の中にはエホバの証人が臓器移植を普通に受け入れるということを聞いて驚かれる方がいます。宗教的な考えは理解できなくても直観的におかしいと感じたからでしょう。その感覚は決して間違っていません。どうしてそう言えるでしょうか?

エホバの証人は血抜きをしていない肉を食べません。そして輸血は血を体に入れることであるから口を通してであろうと体に直接入れるのであろうと原則は同じなので拒否するべきと考えます。では血抜きをしていない肉は食べることを拒否するのに、口を通さずに直接体内に血抜きをしていない臓器を入れることはなぜ拒否しないのでしょうか?(骨髄、腎臓、肝臓は血を作りだしたり濾過したりする臓器であり血の成分を多く含んでいる場合があります)

ものみの塔は次のように述べました。

*** 塔80 6/15 31ページ 読者からの質問 ***
今日の誠実なクリスチャンの中には,…食物を供するために“提供者”が殺されるわけではないので,臓器の移植は人食いとは異なる,との論議も出されるでしょう。

臓器移植を認める根拠として「提供者が殺されるわけではない」ということを含めるのであれば、同じく提供者が殺されるわけではない輸血にも同じ原則を当てはめるべきではないでしょうか?

 

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記事の終わり

 

2 コメント

  1. アバター

    ふわり

    初めまして、ふわりと言います。分画が良心の決定でokとなった時、臓器移植もokだし、金持ちの宗教だなあ。と思いました。分画をちょちょいと調整したら、血液になりました。てか?信者の命は不公平に扱うのですね。復活があるから大丈夫だと。子供のゲームと同じか?セルセバーも血液パックを体に繋いで増量するも、どこでも、誰でも出来るわけでない。ムチャブリってこのこと!

  2. アバター

    jex-g

    確かに、臓器提供が良くて輸血がダメな理由を明示していませんね。
    というか、できないでしょう。
    つまりその程度の理由で、これまで輸血拒否で何人もの命を奪ってきたわけです。
    とても参考になりました。ありがとうございます。

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