意図を理解することの大切さ

scripture前回の記事「変わることはあり得るか?」の冒頭では輸血に関する協会の方針に違和感を感じる人がいるかもしれないことを指摘しました。そのように感じる人は臓器移植が禁止されていた時代の協会の説明を聞いても同じように違和感を感じたに違いありません。協会は臓器移植に関して、人食いを否定する聖書の原則を適応しました。確かに聖書は動物の肉を食することを人間に許可したものの、人間の肉を食べることを認めてはいません。とても明快な教えのようにも聞こえます。しかし推論の仕方が間違っていました。人間を殺して肉を食するは間違っていますが、それと臓器移植は倫理上重なる部分がありません。ここに重要な判断ミスがあります。つまり根拠とされている聖句の本来の意図を見失ってしまったのです。ではここで間違った解釈と正しい解釈の違いを振り返ってみましょう。

まずは間違っていた推論の部分を先に引用します。

1.間違った推論

*** 塔68 4/1 222 読者からの質問 ***
●医学研究のために遺体を提供すること、あるいは臓器の移植手術を受けることは、聖書の見地からさしつかえがありますか。-アメリカの一読者より
・・・それはすべての文明人が忌み嫌う人食いの行為です。・・・
エホバは人間が動物の肉を食べることを許されましたが、人の肉の場合それを食べるにしても、あるいは他の人からとられた器官あるいはからだの一部を移植するにしても、人食い的に人の肉を体内にとりいれて命を保たせる行為を許されませんでした

下線を引いた部分に注目してください。洪水後のノアに対して命じられた事柄に余分な一文が付け加えられています。神の禁令の意図が「命を保たせる行為」を禁じているかのような印象を与える言葉が追加されています。同じ記事の中で臓器移植に関して「この種の手術を受ける人は他の人の肉によって生きることになり、それは人食い的です。」とも述べられています。しかし大洪水後のノアに対して与えられた律法はそのような趣旨を持つものなのでしょうか?創世記9:2-6を読む限り、その言葉の意図は人の命を奪う行為を禁じることが目的のように思えます。それは結果として人食いを否定することになるかもしれませんが、それは律法が示唆する直接的な原則ではないのです。

そして1980年には正しい理解に近づきます。そこでは以下のように述べられています。

2.正しい推論

*** 塔80 6/15 31ページ 読者からの質問 ***
今日の誠実なクリスチャンの中には,医学的に人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない,と考える人もいるでしょう。そのような人は…食物を供するために”提供者”が殺されるわけではないので,臓器の移植は人食いとは異なる,との論議も出されるでしょう

そもそも臓器移植と人食いを比較することが間違ってはいますが、上記の「誠実なクリスチャン」(当時の協会の見解の間違いに気づいていた人たち)の推論はノアに与えられた律法に対する正しい推論が含まれています。ノアに与えられた命令は動物および人間の命を奪うという行為に関連しているという推論です。この例から、聖句の本来の意味を理解するならば正しい適用の仕方も見えてくるということがわかります。このことは血の問題に関連する解釈についても同じことが言えます。 輸血を行うために”提供者”が殺されるわけではないのです。ではその点を踏まえて幾つかの聖句を分析してみましょう。

 

血抜きが求められている理由

臓器移植を禁止する根拠となっていた聖句は血に関する禁令とも密接な関係があります。関連する聖句は以下のようになっています。

(創世記 9:3‐6) …生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。さらにわたしは,あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から,その兄弟である各人の手から,わたしは人の魂の返済を求める。だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。

この聖句には重要な原則が述べられています。それは動物を食物とするために屠る(ほふる)ことは許されているが、必ず血抜きをするようにということ、そして人を殺すことは許されないという原則です。では血抜きを求めている趣旨は何でしょうか?それは屠殺(とさつ)の際の血抜きが魂を神に返す(*1)という意味合いがあるからです。そのことは申命記の次の言葉にも表れています。しかしこれが求められるのは動物を殺すという行為が関係しているからであるということを忘れるべきではありません。

(申命記 12:15,16) 「いつでもあなたの魂がそれを渇望する時であれば,あなたはほふることができる。…ただし,血を食べてはならない。地の上に,それを水のように注ぎ出すべきである。

近代化された社会に生きるわたしたちは、聖書の血に関する記述を把握しづらいように思います。わたしたちが普段の食卓で食べる牛肉や豚肉はすでに加工された状態でスーパーマーケットの棚に並んでいます。その肉が元気に生きていた動物を屠殺する行為を経て出来ているということを意識することはあまりないでしょう。古代においては動物の肉を食べるときは自分か自分の家族がまず動物の命を奪うという行為を担いました。聖書の中に記述されている血に関する教えの意図はそのような立場の人のほうが容易に理解できたのではないかと思います。

血を食べないという律法の本来の意図を理解しているならば、屠殺した動物の肉を食することと医療上の目的で献血あるいは輸血することの違いを理解することができるに違いありません。

 *1 血を注ぎだすことは「魂を神に返す」という意味であるとする直接的な聖書の言葉はありません。ですから「水のように注ぎだす」という言葉は血抜きをすることを単に示しているだけとも考えることができます。いずれにしてもこれは動物を食用に殺すという行為に際して古代の人の多くの文化で見られる行為です。

献血+輸血が当てはまらない理由

聖書が動物を屠る(ほふる)際に血抜きを求めている点も、血を地の上に注ぎだすことを求めている点も共通点があります。それは動物の命を奪う事にともなう命令であるという点です。人や動物の命を奪い輸血用の血液を入手するということはありません。命を奪うこととは無関係で、むしろ救命のために行われる献血や輸血にこの禁令を当てはめることは不自然な適用になります。

協会は自分の血液であったとしても、それが自分の体から離れたら体に戻すことはできないとし、以下のような理由を説明しています。

*** 塔00 10/15 30-31  読者からの質問 ***
血液を採取し、貯蔵し、輸血することは、レビ記や申命記の言葉に真っ向から反します。血は貯蔵すべきではありません。注ぎ出す、言い換えると、神に返すべきなのです。

この点でも協会は、聖句の意図を理解していません。レビ記や申命記の聖句はすべて動物を殺す場合に関連して記述されています。それらの聖句の趣旨は、動物を食物とするために殺す場合、魂を意味する血は地に注ぎだすことによって神に返すべきであると考えられています。採血や献血などの医療行為のために血を貯蔵するかどうかは論点とは異なります。実際、怪我や月経で出血することはよくあることですが、モーセの律法の中で、それらの血を地に注ぎださなければならないという命令はどこにも見出すことができません。普通に出血した血は命が奪われたわけではないので、神に返すという宗教的な意味合いを含んでいないからです。

 

血が意味するもの

エホバの証人は「血は神聖なものである」という強い意識を持っているように思えます。それは、ものみの塔協会が輸血拒否に関連してそのような言葉使いをしばしば用いているからでしょう。例えば以下の記事ではレビ記を参照し次のように述べています。

*** 塔08 10/1 31ページ 信仰に支えられて悲劇に立ち向かうことができました ***
神はその律法をイスラエル国民に再び明示し,血は神聖なものであり,魂つまり命そのものを表わす,と説明なさいました。(レビ記 17:14)

確かにレビ記の中では「肉なるものの魂はその血である」と述べられています。しかしここでもやはり、動物を屠る事と関連して語られている言葉であることを思いに留めるべきです。血の一滴一滴が命を表しているわけではないのです。実際動物の体から血を完全に取り除くことはできません。ここでユダヤ人に求められていたのは動物を屠る際に血を注ぎだすという宗教的に意味ある行為であり、その要求に従うことにより、魂が神に属することを認めていることを示すことができたのです。(*2)

そしてレビ記のどこを見ても「血は神聖なものである」という記述はありません。逆に血に関しては汚れと関連して記述されている場合がほとんどです。生命維持に必要な血が貴重なものであることは言うまでもありませんが、体外に出た血液が「神聖なものである」とするような考え方は血に関する聖書の記述を理解することを逆に妨げるものとなっているように思えます。

むしろ血が象徴する「」は神聖なものとなりえます。創世記 9:3‐6の記述の要点の一つがまさにそのことでもあります。

 *2 サムエル第二 23:14-17で部下が命がけでとってきた水をダビデが飲まなかったのは彼らが自分の命を犠牲にしたも同然の状況を目の当たりにしていたからだと考えられます(歴代第一 11:16-19)。

禁令の意味を理解することが重要

「聖書から論じる」の本では輸血拒否の教えに異議を唱える人に対する模範解答の一つとして以下の例が挙げられています。

*** 論 311ページ 1節 血 ***
『あなたは,必要なら自分の命を危険にさらしてもよいと思うほどに奥様(ご主人)を愛しておられますか。……国のために自分の命を危うくすることを恐れない人たちもいて,そのような人たちは英雄とみなされるのではないでしょうか。しかし,この地上のだれよりも,またどんなものよりも偉大な方がおられます。それは神です。あなたは,神に対する愛,また神の支配権に対する忠節さのために必要なら進んで命を危うくするお気持ちがありますか』。(2)『ここで実際に問題点となっているのは,神に対する忠節さです。血を避けるようにと命じているのは,神の言葉なのです。(使徒 15:28,29)』

輸血拒否により命を危険にさらす人を、国のために自分の命を危うくする人にたとえています。本当に神が輸血拒否を求めておられるのでしょうか?そしてこの教えに疑念をいだき輸血を受け入れた人を「あいさつのことばをかけてもならない」人として扱うよう統治体を導いてきたのでしょうか?

イエスの時代に律法の背後にある意味を理解しない人がいました。そして求められている事とは無関係な律法を作り上げたのです。わたしはその人たちと輸血拒否の教理を作り上げた人たちとに重なるものを感じます。

(マタイ 12:1‐8) その季節のこと,イエスは安息日に穀物畑の中を通られた。その弟子たちは飢えを覚え,穀物の穂をむしって食べ始めた。 これを見てパリサイ人たちは彼に言った,「ご覧なさい,あなたの弟子たちは安息日にしてはいけないことをしています」。 イエスは彼らに言われた…『わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう

 

(マタイ 12:10‐12) すると,見よ,片手のなえた人がいた。それで彼らは,「安息日に[病気を]治すことは許されるだろうか」と[イエス]に尋ねた。彼を訴える理由を得ようとしてであった。 [イエス]は彼らに言われた,「あなた方のうち,一匹の羊を持っていて,それが安息日に穴に落ち込んだ場合,それをつかんで引き出さない人がいるでしょうか。 どう考えても,人は羊よりずっと価値のあるものではありませんか。

 

 

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記事の終わり