エホバの証人研究

エホバの証人について真面目に研究するサイト

習慣と信条

習慣と信条 – 誕生日

エホバの証人は誕生日を祝いません。その理由を「聖書から論じる」という書籍では次のように述べています。

*** 論 304ページ – 305ページ 誕生日 ***
誕生日の祝いに関する聖書の記述は,それを好ましいものとして扱っていますか。聖書は誕生日の例をただ二つだけ記しています

創世 40:20‐22: 「さて,三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は……宴を催し,……献酌人の長を元の献酌人の地位に戻し……一方パン焼き人の長は杭に掛けられ(た)」。

マタイ 14:6‐10: 「ヘロデの誕生日が祝われていた時,ヘロデアの娘がその席で踊りを見せてヘロデをたいそう喜ばせた。それで彼は,何でも彼女の求めるものを与えると誓って約束した。そこで彼女は,母の指図のもとに,『バプテストのヨハネの首を大皿に載せて,ここでわたしにお与えください』と言った。王は……人をやって,獄の中でヨハネの首を切らせた」。

聖書の中に記されている事柄はみな,理由があって記されているのです。(テモテ第二 3:16,17)エホバの証人は,神の言葉が誕生日の祝いを好ましいものとしては記していない点に注目して,それを避けています。

聖書の中には誕生日の祝いについて記述されていますが、どちらの場面でも人が死んでいます。ものみの塔は、そのような不吉な出来事をエホバ神が意図的に聖書の中に記載されたと主張しています。

旧約聖書には600もの具体的な律法が記されています。エホバはなぜ誕生日を禁じる律法を記載されなかったのでしょうか?律法という明確な言葉で伝えることはできないのでしょうか?新約聖書では教える者のあるべき姿を次のように描写しています。

(コリント第一 14:9) …あなた方も,舌で,容易に理解できることばを出さないなら,何を話しているのかどうして人に分かるでしょうか。…

本当は誕生日が嫌いなのに、そのことを言葉で説明することができず、誕生日を不吉な出来事と結びつけて聖書の中に記載させ、ご自分の好みを人類に伝える、エホバはそのような神なのでしょうか?しかも「なぜ誕生日が嫌いなのか」という根本的な説明も行わずに聖書の記述を使って人々を教えているのです。そこから想像できるのは陰湿で自分の事を人前で表現することができないような暗いキャラクターを持つ神です。

屁理屈

協会はエホバの証人が誕生日を避ける理由として次の点も述べています。

*** 塔94 7/15 25 誕生日の祝いは死のつめあとを残す ***
クリスチャンは誕生日の祝いを避けます。それは,こうした慣行が個人に過度の重きを置くことになるからです。

本当に誕生日は「個人に過度の重きを置くことになる」のでしょうか?そのような種類の盛大な誕生日会を開くことは可能です。だからといってすべての誕生日を禁じる理由になるのでしょうか?「個人に過度の重きを置く」ことが罪になるのであれば、エホバの証人の個人が楽器を演奏する演奏会や、結婚披露宴、あるいは就職祝いなども一律に禁じるべきでしょう。なぜなら、それらも誕生日会と同じように「個人に過度の重きを置く」ことがあり得るからです。

そのような貧弱な根拠をもってくること自体が、協会が誕生日を禁止する確固たる根拠を何も持っていないことを示しています。

それ以外の聖書中の誕生日

「誕生日」という表現ではないものの、聖書の中には他にも二つの誕生日と関連があると思われる節が存在します。

(ホセア 7:5) 我々の王の日(ヘブライ語ヨーム)に,君たちは病にかかった―ぶどう酒ゆえの激しい怒りがある。彼はあざ笑う者たちと共に自分の手を引き寄せた。

(ヨブ 1:4‐5) そして,その息子たちは行って,自分の日(ヘブライ語ヨーム)に各々の家で宴会を催し,人をやって,その三人の姉妹をも招いて一緒に食べたり飲んだりした。5 そして,宴会の日が一回り巡ると,ヨブは人をやって彼らを神聖なものとするのであった。彼は朝早く起きて,彼らすべての数にしたがって焼燔の犠牲をささげた。これは,ヨブが,「もしかすると,わたしの息子たちは罪をおかし,その心の中で神をのろったかもしれない」と言ったからである。ヨブはいつもこのようにするのであった。

上記の二つの聖句はどちらもヘブライ語のヨームという言葉を使い、「王の日」あるいは「自分の日」と呼ぶ特別な日が設けられ、宴会が行われていたことが示されています。ヨブ記のほうは、家族を招いて行われる現代の誕生日とほぼ同じスタイルの行事を思い起こさせます。

ところが、上記の聖句のものみの塔協会の説明はとても不自然なものになっています。

*** 洞‐2 176ページ 誕生日 ***
ホセア 7章5節の「我々の王の日に」という表現は,イスラエルの背教した王の誕生日のパーティーが行なわれたことを示唆しているのかもしれず,君たちはその時,『ぶどう酒のゆえ』に「病にかかった」のかもしれません。一方,それは同様のお祭り騒ぎが行なわれた王の即位の記念日だったということも,それに劣らず十分あり得ることです。
ヨブの息子たちは『自分の日に各々の家で宴会を催した』時,自分たちの誕生日を祝っていたのだと考えるべきではありません。(ヨブ 1:4)この節の「日」は,ヘブライ語ヨームを訳したもので,日の出から日没までの時間帯を指しています。一方,「誕生日」は,ヨーム(日)とフッレデトという二つのヘブライ語から成る複合語です。「日」と人の誕生日とが区別されていることは,その両方の表現が出て来る創世記 40章20節で認められるでしょう。そこには,「さて,三日[ヨーム]目はファラオの誕生日[字義,「ファラオの誕生(フッレデト)の日(ヨーム)」]であった」とあります。それで,創世記 40章20節の場合に疑いなくそうであるように,ヨブ 1章4節が誕生日のことを述べていないのは確かです。どうやらヨブの7人の息子たちは家族の集まり(春の祭りまたは収穫の祭りかもしれない)を催し,その宴が1週間で一巡する際,各々の息子が「自分の日に」自分の家で宴会の主人役を務めたものと思われます。

上記の説明を要約すると以下のようになります。

  1. ホセア 7章5節は祝っていた人物がイスラエルの背教した王だから、それは誕生日パーティーかもしれない
  2. ヨブ 1:4は忠実なヨブが祝っていたのであるから、誕生日パーティーであるはずはない(*1)

このような推論の仕方は間違っています。そしてどちらの聖句も同じようにヘブライ語のヨームを用いているのに、あたかもヨブ記だけ例外であるかのような説明をするのは読者に対して誠実な態度ではありません。

(*1)協会はなぜかヨブ3:1でヨブ自身が述べている「自分の日(ヨーム)」という表現についてはヨブの誕生の日を指していることを認めている。

子どもたちへの精神的な影響

誕生日を祝うか祝わないか、誕生日にプレゼントをするかしないか、そのこと自体は子どもの成育に大きな影響はあたえないことでしょう。しかし懸念されるのは、子どもたちが自信をもって友達たちに説明することができないような論理で特定の行事を禁じているところです。子どもたちは学校の友達や先生に、そのような行事に参加しない理由を説明しなければならなくなります。子ども自身が禁止令の意図や根拠を理解することも出来ず、友達の誕生日会を断る際にものみの塔の主張の通りに「こうした慣行が個人に過度の重きを置くことになるから」出席しないと述べている姿を想像してください。

この他にも忠実なエホバの証人の子どもたちが説明をしなければならない点に以下のようなものがあります。

*** 学 16–17ページ 国旗敬礼,国歌および投票 ***
国歌および校歌
国歌は事実上,一種の賛歌もしくは音楽に合わせてささげられる祈りであることが少なくありません。…それに,今日の世界をすっかり分裂させてしまった国家主義的な誇りを支持する聖書的な根拠はありませんから,私たちは地上のどの国家を称揚する歌を歌うことにも加わりません。―使徒 17:26。ヨハネ 17:15,16。
国歌が演奏されるとき,普通,起立しさえすれば,その歌に表現されている感情を共にしていることを示せます。そのような場合には,証人たちの若者は席に座ったままでいます。
…私たちは,エホバ神を賛美する以外は,人間の組織や機関のどれに対しても賛美の歌は歌いません。
選挙によってゆだねられる役や立場
…その目的は若い人々を政治の仕組みに慣れさせることです。しかし,証人たちの若者は選挙による役を引き受けたり,投票で他の人を役に就けたりして学校の政治運動にかかり合うことはしません。ですから,ある役に指名されたり,あるいは選出されたりする場合には,巧みに辞退いたします。このようにして,人々がイエスを王にしようと望んだ時,その場を退いたイエスの手本に従います。―ヨハネ 6:15。
しかし,先生から任命される場合は別の事柄とみなします。ですから,もし,清掃,給食その他同様の活動で助力するよう任命されるなら,証人である若者たちはできる限り協力するよう励まされます。

 

*** 学 23–25ページ 課外活動 ***
スポーツ: …
組織化されたスポーツに参加すると,証人の若者は不健全な交わりにさらされるようになる場合がある,と私たちは考えています。私たちはまた,現代のスポーツの競争心―『勝つことがすべてではないまでも,勝つ以外にはない』という観念―は有害な影響を及ぼすものであると考えております。ですから,証人の若者たちが余分の娯楽の必要を感ずる場合,親は,仲間の信者と共に,そうです,「清い心で主を呼び求める人々と共に」そのような娯楽を求めるよう若い人たちを励まします。―テモテ第二 2:22。
応援団: 運動競技の試合で観衆を指揮して母校のために熱狂的な声援を送らせるのは応援団の務めです。応援団はまた,人々を励まして英雄崇拝を行なわせたり,人々を起立させて校歌を歌わせたりします。そして生徒たちは皆,一団となって校歌や応援歌を歌ったり,学校や個人をたたえる言葉を叫んだりします。エホバの証人はそうするのはふさわしいことではないと考えています。―ローマ 1:25。使徒 12:21‐23。
学校のクラブ活動: 同じ趣味を持つ生徒たちは学校のクラブの部員となって趣味を共にしたいと思うかもしれません。しかし,そのようなクラブはおもに社交的な活動の場となる傾向があります。そして,特定の生徒のグループとそのような活動を共にすると,不健全な影響にさらされる場合のあることが注目されています。そのような可能性を考えて,私たちは,学校のクラブ活動または部活動(課外クラブ)に加わる前に注意深く考慮しなければならないと感じております。

上記の引用文のもとになる「学校とエホバの証人」と題するブロシュアーは「私どもの子供たち」という表現を頻繁に使い、エホバの証人の親を持つ子ども達が無条件で従わなければならないルールを数多く記しています。

そのルールが例えば、友達をいじめないとか、友達に親切を示すとか、そのようなものであれば子どもたちも自信をもって説明することができるでしょう。しかし、そのルールに明確な道徳的規準もなく、聖書の適用もこじつけのようなものになっている場合、そのようなルールを説明しなくてはならない子どもたちは大変なストレスを感じるに違いありません。

 

 大人の都合

 

左の写真(クリックすると拡大します)は「天からのマナと誕生日の記録」という題の古い出版物です。C.T.ラッセルの時代から発行されていたこの書籍には仲間のクリスチャンの誕生日を記載する欄が用意されており、この記録は互いに誕生日プレゼントを交換したりメッセージカードを送ったりすることに活用されました。

皮肉なことにこの「天からのマナと誕生日の記録」の1907年版には以下のような前書が記されています。

天からのマナと誕生日の記録 1907年版

「マナ」の本の最初の版は、想像以上の成功を生み出しました。…ある人はこれらを誕生日プレゼントや祝日の贈り物のためにも利用しています。…わたしたちは、この版に直筆サインと誕生日の記録の附録を付けました。友たちのサインを毎日見るのは喜びですし、誕生日の日付を確認できるのはとても便利なことです。この本は生涯にわたって使用できるでしょう。そして毎年毎年活用できます。神聖なメッセージは決して古くはならないからです。

http://www.reachouttrust.org/articlePDFView.php?id=105

この本は生涯にわたって使用できるでしょう」という予告は果たされず、このときに絶賛されていた本は使われなくなりました。その理由は神が誕生日を好ましく思っていないことを発見したからです。

初期のエホバの証人の誕生日を祝う習慣は、友人たちへの感謝や関心を表わす行事として大切にされてきました。今日でも同じように友人への感謝を表すことや子供の成長を喜ぶ機会として誕生日が一般的に活用されています。ほとんどの場合、人を偶像視するようなものではなく、喜びを分かち合うささやかな機会となっているにすぎません。もちろん、人が誕生した日を特別な日と見るか見ないかは個人の自由です。まさに聖書が述べるとおりです。

(ローマ 14:5) …ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。おのおの自分の思いの中で得心していなさい。

もし神がおられるとするならば、親が子供の成長を喜んでささやかなプレゼントをしたり、家族で特別な食事を楽しむ様子を見て「人を偶像視する習慣」だとして憤られるような存在であるとはどうしても思えません。

 

記事の終わり

 

 

 

 

 

15 コメント

  1. 匿名

    エホバの証人は、同性愛に対してどのような態度をとって
    いますか?

    • JWSTUDY

      エホバの証人の機関誌には「ゲイを改めた」人の経験がのっていました。
      そして愛情の対象は男性なのに、本来は対象ではない「女性」と結婚したことがハッピーエンドとして書かれていました。
      エホバの証人は内面ではなく外面的な性に応じて、愛する対象を強制的に変えなくてはならないことになっています。

      以下、引用です。

      *** 塔74 11/15 680ページ 同性愛者はその生活を改めることができますか ***
      それは,エホバに仕えて生きるか,あるいはいつまでも『ゲイ』の生活を続けて死ぬかの問題でした。
      そのとき以来わたしは同性愛行為をきっぱりとやめました,と言えばたいへんりっぱに聞こえるでしょう。しかし,不幸なことに,そう言えばうそになります。その後わたしはまた逆もどりしました。が,あきらめませんでした。
      ・・・
      そのうちにわたしはりっぱなクリスチャン婦人と結婚しました。わたしたちはエホバのすばらしい結婚の取決めの中で,真の幸福と満足を享受しています。

  2. Shimizu Gin

    2年近くエホバの方と週1回私の家で聖書の話を中心に語り合って居りましたが、これ以上話しても聖書の理解が難しいですね、と言われ、それ以来会っていません。彼は祈った結果そう判断したそうです。私にはまだまだ多くの疑問点が有ったのですが、、、

    前置きが長くなりましたが、最近疑問に思うことがあります。

    創世記で神はアダムとエバの一組のカップルを創り。
    ノアの洪水の時にはノアの家族以外の人間を滅ぼしました。

    これらを事実と観るなら人間が殖える為にはその初期の段階で近親相姦を昰とみなす神の意図を感じざるを得ません。

    アダムとエバの時は堕落したとはいえ完全に近い状態でした。
    ノアの時代になればそれなりの世代を経て罪も蔓延して居たでしょう。とは言え、ノア以外にも善良な人も居た筈です。
    この事からも神の計画の中に近親相姦を良しとするプログラムを感じてしまうのです。

    そもそも近親相姦の是非などは堕落した人間の発想そのものなのでしょうか?。

    • JWSTUDY

      こんにちは。コメントありがとうございます。
      恐らく疑問に思われた点は、訪問していたエホバの証人の方が
      「当時は人間は完全に近かったので現代のような遺伝的な問題は起きなかったのです」
      と言われたと思います。

      しかし、ご指摘の通り、この返答の仕方は「道徳」に対する疑問を完全にスルーしています。

      聖書を読む限り「神の計画の中に近親相姦を良しとするプログラム」を認めざるを得ないのですが
      エホバの証人はその点について認めることを恐らく拒みます。

      • Shimizu Gin

        ご返信ありがとうございます。聖書の記述に完全に呪縛されていない率直な意見に好感を持ちます。私は聖書の言葉を真理と思って居りますが全てを示しているとは考えません。仏教の教えにも真理は有ると考えます。
        私は今、身体障がい者で仕事の現場から離れて居りますが、困って居る方には無償で大工仕事など請け負って居ります。決して金銭面で裕福とはいえませんが働く事の喜びは大きいのです。今迄訪問されて居たエホバの方とは聖書研究以外にも心情的に親密になっていたと感じ、手伝って欲しい仕事が有る旨を話したところ、一蹴されました。私の考え、行動など共感して下さって居たので話してみたのですが、。私も懇願した訳でもなく相手の方も冗談でしょ、みたいな雰囲気でした。伝道こそが絶対みたいな、その様なエホバの方が気の毒に思えます。パリサイ人そのものに見えてしまうののは私だけでは無いでしょう。
        エホバの証人にとって良き行いとは何ですか。?

        • JWSTUDY

          こんにちは。
          エホバの証人は聖書の伝道には積極的でも、信者以外の人と何か行動を共にすることにはとても消極的な態度を示します。
          それがたとえボランティア的な活動でもです。
          エホバの証人は「愛ある行動」を条件付きで行うことが多いのですが、今回の場合は相手が「世の人(信者以外をさす)」であるために、「愛」の示し方は伝道に時間を費やすことだけに絞られるようになったのだと思います。人柄は良い場合が多いですが、基本はパリサイ人と思っていたほうががっかりしないですみます。

  3. Shimizu Gin

    霊的食物について

    聖書では、神のみことば、とあります。まさしくそうでしょう。
    しかし、それだけでしようか?。人が肉体を維持する為の食べ物、身に纏う衣服、住む家、生活のあらゆる道具、思想、などなど、
    具体的には無農薬無肥料の作物、自然素材の木や紙や土や石で作る家や道具、、、電気、ガス、石油エネルギーに依存し過ぎない生活などなど、
    世界の状況を見るとエネルギー、経済の独占による貧困が発生しているのが現状ではないでしょうか。日本は恵まれた環境にあり当たり前の様な生活も私には異常に思えます。
    私は最近ガスを使わない生活を始めました。炭で全て賄っています。
    王国会館の礼拝に参加したとき、オホバの方と雑談の折公演の内容が霊的食物だったので私の考えを語った所、頑に神のみことばだけですと悟られました。別の方には私の考えは贅沢と一蹴。
    公演者は私の家に通って下さって居た方なのでこの件についても後日話したのですが判然としません。が、概ね私の意見に共感?だったのですが、、、
    霊的食物という聖書のことばの意味する意図は何なのでしょうか。

    • JWSTUDY

      「霊的食物」という言葉自体は聖書にはないので、宗教組織によって自由に定義することが可能なのが現状です。

      エホバの証人が述べる「霊的食物」は聖書の言葉というよりも、
      組織が提供する「教え」を指す場合が多いと思います。
      「思慮深い奴隷(統治体)が提供する霊的食物」というような用法です。
      これは、ものみの塔の定義の仕方ですので、それに合わせるしかないのではないでしょうか。
      その観点で信者は常に考えていますので、別の観点は通じないと思います。

  4. Shimizu Gin

    日曜の集会に行われるものみの塔研究について質問します。

    壇上に司会者と朗読する方が居り小冊子のテーマを項ごとに朗読して質問し、多くの方が手を挙げて指名された方が答えるのですが、読み上げた中に幾つかの答えがあり答える方は多少の言葉の使い方は変えても、ただ答えをなぞっているだけに思えます。
    何故、自分の言葉で自分の意見を述べないのでしょうか。
    聖書研究の折、この点を質問した所、私達もどうにかしたいと思っているんですよね、と、仰っていました。

    私が初めて日曜の集会に参加した時に感じた衝撃的な違和感でした。
    月に一度のペースで集会に参加して居たのですが、この違和感だけは拭いきれませんでした。このスタイルはどの会衆でも同じなのでしょうか。
    エホバの証人の方は変だと思われないのでしょうか。
    最初は変だと思いながらも、その内心地良くなってくるとか、、、
    中傷的な表現になってしまいますがマインドコントロールを感じます。
    ものみの塔研究は勉強の場なのでは無いのでしょうか?
    私が集会に足繁く通わなかった理由はこの点に有りました。

    • JWSTUDY

      ものみの塔研究に関して観察した件、ありがとうございます。
      まったくおっしゃる通りだと思います。

      わたしが、ものみの塔の歴史を調べて気が付いた点があるのですが、初期にはそれなりに自分で考えて意見を言い合うこともできたようですがJ.F.ラザフォードという二代目の会長が意図的にやり方を変えていきました。

      司会者が言われたという「私達もどうにかしたいと思っているんですよね」というのは個人の気持ちとしてそうなのかもしれませんが、組織としては変えるつもりはないと思います。

      現実的な見方をするならマインドコントロールの手法ということで間違いないと思います。
      証人たちは常に「これは協会の見解とあっているだろうか」と無意識に考える訓練を受けることになります。

  5. Shimizu Gin

    永遠の命についての質問。

    度々の質問に対し御返答感謝します。
    永遠の命については此れまで何年にも渡り複数の方と聖書研究の折話あってまいりましたが、結論が出せないで居ります。大方のエホバの証人の教義?、輸血問題など、一理有ると考えますが、永遠の命については理解出来ないで居ます。
    エホバの証人の方が永遠の命を望む理由に聖書の記述の他、具体的に沢山の知識や経験を得ることが出来ると言われます。限られた時間では無理だと。
    私は、沢山の知識、と言われたエホバの証人の方の返答にある疑問を感じ一本の動画を思い出しました。
    エホバの証人ブロードキャスト2015年1月、という動画ですが、エホバの証人が高等教育を拒否すべき理由に、ハルマゲドン後は医者や弁護士はいらない。大工や配管工を必要とする。という内容でした。私はこの動画を見て憤りを覚えた事を覚えています。むしろ物を作る者こそ豊かな教養を必要とすると感じるからです。今の終末に於いては、という前提の話だと思いますが、、、論点が少しズレましたが、、、
    死について少し、
    アダムとエバが罪を犯して死ぬ様になった、とあります。罪を犯す事が死を意味するのであれば、仮にアダムとエバが罪を犯さず人類が繁栄したとしても自由意思の有る人間にとって罪を犯す可能性は幾らでも有る筈です。であるなら常に人は死ぬ可能性が有るという事なのでは?。
    エホバの証人の説明では楽園後の人類は罪を犯さない。と有りますが、どうも納得がいきません。
    そもそも永遠に生きたいという考えが私には理解出来ません。限り有る命だからこそ輝いて精一杯生きたいと思うのではないでしょうか。
    地球上で最も硬いダイヤモンドでさえ物質的には炭素です。燃やせば灰になります。しかし物質的には消滅しません。この世のものは皆そうです。破壊と再生を繰り返します。そういう意味では永遠です。
    又、老いを経験出来ないという事は労わり、慈しみの心はどうなるのでしょうか。壮健な人達の中にもあるでしょうが、。
    病や苦しみ、悲しみの感情であっても私には愛おしく思うのです。病に掛からなければその様な人達の気持ちは理解出来ません。その様な感情全てが、良い事も悪い事も含めて人間だと考えます。
    善悪二元論的な考えには説明に無理があると思うのですが。
    エホバの証人の方は永遠の命については無条件に受け入れているだけで、命に関してあまり深く探求していない様に感じます。

    • JWSTUDY

      >エホバの証人の方は永遠の命については無条件に受け入れているだけで、命に関してあまり深く探求していない様に感じます。

      地上の楽園で永遠に生きる、という教理にはおっしゃる通り
      様々なツッコミどころがあります。

      永遠の命信仰は
      楽天的に生きる助けになることもあるとは思いますが
      失うものも多いと思います。

      有限の命について考えることは時に課題になる場合もありますが
      生物共通の宿命として受け入れて、その命に積極的に取り組むほうが
      正解だと思います。

  6. cult

    すべての記事を興味深く読ませていただきました。大変丁寧にまとめられており、また核心をついていらっしゃることにただただ感動しています。
    洞察の本や、古いものみの塔紙をひっぱりだしてきて、一つ一つ確認していきました。
    ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか。

    (*1)協会はなぜかヨブ3:1でヨブ自身が述べている「自分の日(ヨーム)」という表現についてはヨブの誕生の日を指していることを認めている。

    と書いていらっしゃいますが、こちらは、具体的にどの出版物に書かれていたのか、ソースはおわかりになりますでしょうか。教えていただければ幸いです。

    カレブさんが、大切な方を守るため、様々な研究をされているとどこかで読みました(ブログの方だったかもしれません)
    私は元二世です。いまだ組織に残っている家族に、気づいてほしい。まだ諦めてはいません。水面下で試行錯誤をしています。カレブさん、貴重な研究記事(JWぽい言い回しですね)をありがとうございます。

    • JWSTUDY

      コメントありがとうございます。
      以下、質問の件にお答えします。

      (*1)協会はなぜかヨブ3:1でヨブ自身が述べている「自分の日(ヨーム)」という表現についてはヨブの誕生の日を指していることを認めている。

      上記の件ですが、まず新世界訳聖書の「参照聖句」でも示されています。

      *** 引照聖句 ***
      (ヨブ 3:1) ヨブが口を開いて自分の日に災いを呼び求めたのは,その後のことであった。

      上記聖句の参照先聖句
      (エレミヤ 20:14) 14 わたしの生まれた日はのろわれよ! わたしの母がわたしを産んだ日は祝福されるな!

      出版物では幾つかあると思いますが

      *** 塔85 7/15 23ページ あなたは不満の精神に抵抗していますか ***
      自分の生まれた日に災いを呼び求めました。(ヨブ 3:1‐3)

      参考までに一般の聖書注釈書ではどのように説明されているか、いかに記します。

      アダム・クラークの注釈書
      Job 1:4 [Feasted in their houses, every one his day] It is
      likely that a birthday festival is here intended. When the
      birthday of one arrived, he invited his brothers and sisters to
      feast with him; and each observed the same custom.

      Job 1:5 When the days of their feasting were gone about] At the
      conclusion of the year, when the birthday of each had been
      celebrated, the pious father appears to have gathered them all
      together, that the whole family might hold a feast to the Lord,
      offering burnt-offerings in order to make an atonement for sins of
      all kinds, whether presumptuous or committed through ignorance.
      This we may consider as a general custom among the godly in those
      ancient times.

      「聖書全巻の注解」,ジェーミソン,フォーセット,およびブラウン共著
      Job 1:4 every one his day namely, the birthday (Job 3:1). Implying the love and harmony of the members of the family, as contrasted with the ruin which soon broke up such a scene of happiness.

      • cult

        カレブさん、さっそく返信ありがとうございます。
        塔85はたしか家にあると思うので、さっそく確認してみます。
        参照聖句、たしかに生まれた日とありますね。このことには気づかなかったのでしょうか。洞察の本の誕生日の記述がつくづく、支離滅裂の、苦し紛れの言い訳としか思えませんね。
        感謝いたします。また気になることがあったら、コメントさせてください。

コメントを残す