2014年10月の始めに開催された ものみの塔聖書冊子協会の年次総会の様子が tv.jw.org で公開されています。

http://tv.jw.org/#video/VODProgramsEvents/pub-jwbam_E_201410_1_VIDEO

年次総会の中では幾つかの聖書解釈の変更を含む統治体の講話が含まれています。以下はそのうちの一つで統治体のデービッド・スプレーンが扱ったものです。

「予型」と「対型」について – Type and Antitype

デービッド・スプレーンは「予型と対型」という主題で話をしました。スプレーンは話の中で、今後統治体が「予型」と「対型」に関する教理の幾つかを変更していくことを予告しました。

「予型」と「対型」とは、例えば旧約聖書の中の特定の出来事(あるいは人物)が「ひな型」になり、それに対応した現代の出来事(あるいは人物や「級」)が存在するという教義の一種です。

ものみの塔はしばしばこの種の教義を上手に利用してきました。そのほとんどは組織の権威を守るための目的か、あるいは好意的に書かれていない聖書の記述を現代のキリスト教世界に当てはめて糾弾するために用いられています。

スプレーンは「予型」と「対型」に関する教義が間違っている場合があると述べます。しかし同時にすべての「予型」と「対型」に関する教理を捨てるつもりはないとも明言しました。

では、何を残して何を捨て去るのでしょうか?

捨て去るであろう過去の教理

スプレーンは「書かれている事柄を超えてはならない」と述べて、その基準が聖書の中にあるかのように説明しました。

しかし、本当に聖書が適用を明確にしているか否かで教理を捨てるかどうかを判断するのでしょうか?

ものみの塔はこれまでも幾度となく不要になった教理は捨ててきました。そして現時点で自分たちの権威を守るのに有利な教理や必要な教理はたとえ聖書に明確に書かれていない教理でも守り続けてきました。

今後、統治体がどのような不要な教理を捨てていくのかは時間がたつにつれて明らかになるでしょう。

しかし今まで組織が行なってきた教理の選別の歴史を振り返れば、今後捨てていく教理はある程度推測できます。

現在、かつてエホバの証人の中で重要であった「油そそがれた者(天的級)」と「大群衆(地的級)」の違いを強調することは、ほとんど意味をなさないどころか、かえって現在の組織の権威を強調する点で邪魔なものになりつつあります。

2014年以降、天的級は もはや「忠実で思慮深い奴隷級」ではないとされています。

かつて、ものみの塔は天に行く希望を持つクリスチャンを天的級、あるいは「忠実で思慮深い奴隷級」として大いに強調していました。塔81 6/1 27ページ では奴隷級は「圧倒的な信任状」を有しており、この級を認識することが地的級クリスチャンにとって大変重要なことであるとしていました。具体的な引用は以下のページからご覧ください。

*** 塔81 6/1 27ページ あなたは「忠実で思慮深い奴隷」を認識していますか ***
圧倒的な信任状
http://www.jwstudy.com/ja/overwhelming_credentials/

しかし、このような天的級と地的級クリスチャンの教理を強調することは現組織の体制を維持する面でほとんど意味をなしていません。それで上記のページに引用されていた数多くの旧約聖書の記述を天的級と地的級に適用する教理は捨て去られることが予想できます。

捨て去らない教理

一方、聖書が明確に語っていないにも関わらずエホバの証人の重要な教理として捨て去られることがないであろう聖書解釈もあります。

その一つはダニエル書のネブカドネザルに関連して成就した預言を「予型的」なものと解釈し、その預言が1914年を指し示すものとして適用する教えです。

ものみの塔 2014年11月号には以下の挿絵が掲載されました。 エホバの証人の1914年の教理はあらゆる点で根拠がありませんが、この挿絵で示されている年代計算もヘブライ語聖書の物語を「予型的」に解釈しているだけであることが示されています。

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これはヘブライ語聖書中の記述を自分たちの時代に当てはめる典型的な「予型」と「対型」の例です。まさに捨て去る対象になるべき教理に本来は入るはずです。

聖書自体は、ネブカドネザル王に関連するこの出来事に二重の預言的な意味があるとはしておらず、「このすべては王ネブカドネザルに臨んだ」と述べているにすぎません。

しかし統治体組織の権威の根拠になる1914年という年代を捨てるわけにはゆきません。それは1919年に統治体がキリストによって選ばれたという教えと直結するからです。

しかし、本来はこのような場面こそ「書かれている事柄を越えてはならない」という聖句を自ら当てはめる場面です。パウロは著書の中で自分たちが他の信者に対して「信仰に対する主人(コリント第二 1:24)」になるべきではなく、自分たちの権威を高めるために「書かれている事柄を越える(コリント第一 4:6)」ようなことがないようにと諭しているからです。

わたしたちも天の兵車についていけません

デービッド・スプレーンは話の最後に、巨大な天の兵車の幻(エゼキエル1章)に言及しこう述べました。

「最近は兄弟たちが『今は天の兵車についていくのが大変な時ですね』と述べるのをよく聞きます。

でも、わたしたちもそうなんです。統治体もそうなんです。

我々が兵車を操縦しているんじゃないんです。」

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スプレーンは上記のように述べ、統治体も天の兵車についていくのが大変なのだと告白します。まるでコロコロ方向を変える天の暴走兵車に統治体がついていかされているかのようです。

話が終わると会場の聴衆は大きな拍手をします。そして司会者のマーク・サンダーソンは「スプレーン兄弟、実にすぐれた講演を扱ってくださりありがとうございました」と述べて、統治体による最初の話を閉じました。

 

記事の終わり