wt1973.2.1b

前回の記事:「第1部 1975年の話は本当でしょうか

人は誰しも間違いを犯します。自分も不完全な人間なのですから、他の人の不完全さを許容してこそ、良い人間関係というものが生まれます。しかし時に「人の不完全さ」という言葉はとても便利な言葉になり日和見的(一貫性がなく都合よく)に使われることが多くあります。では1975年に関連してエホバの証人の「組織」はどの程度の不完全さを見せていたのでしょうか?

 

追い打ちをかける不誠実な言葉

ものみの塔は1975年に対する期待を抱かせる言葉を1966年からどれだけ執拗に記事の中で連ねてきかは第1部で十分に示しました。1974年の時点でも「家や資産を売って」残された時間を過ごすことを推奨する言葉を記載しています。そのような状況の中で次の言葉を受け取ったとき耳を疑った人もいたことでしょう。

*** 塔75 1/1 27‐28ページ 「神の目的」に対する認識を深める ***
エホバの証人の出版物は,聖書の年代記述から考えて人間存在の満6,000年は1970年代の半ばに終わるということを示してきました。しかし,それらの出版物は,その時に終わりが来るとは一度も述べていませんそれにもかかわらず,この問題に関してかなりの個人的推測がなされてきました。

まるで勝手に人々が推測し始めたかのように読者に語っています。しかし「終わりが来る」と厳密に述べていなくても、組織が1970年代半ばに終わりが来ると考え、かつ読者にもそう考えるように勧めていたことは明確なのです。

そして1975年が過ぎ去りました。

1976年になると「ものみの塔」は次のように読者に語ります。

*** 塔76 10/15 632ページ 11節 確信を与える確かな根拠 ***
神に奉仕してきた人の中には,特定の日または特定の年に何か起こる,という間違った考えに従って生活の計画を立てた人たちがいるかもしれません。そしてそういう理由から,さもなければ注意を払ったであろう事柄を延期したり,怠ったりしてきたかもしれません。しかしその人たちは,この事物の体制の終わりに関する聖書の警告の要点を捕えそこない,聖書の年代記述は明確な日を示すと考えていました。

この記事を読む人の中には「家や資産を売って」1974年にお褒めの言葉をいただいていた人たちもいるのです。その人たちは「間違った考えに従って生活の計画を立てた人」と呼ばれました。主語は完全に「その人たち」になり、ものみの塔がさんざんそのような生き方をするよう励ましていたという事実はどこかに飛んで行ってしまっています。「その人たちは」「聖書の警告の要点を捕らえそこなった」と言うのです。

世界中で深刻な状況が出始めます。韓国では伝道者と家庭聖書研究の数が著しく減少します。そしてその頃に送られた協会からの手紙は、さらに失望に追い打ちをかけるような内容でした。

1977年4月4日付の協会の手紙
わたしたちは兄弟たちが自分の教えに注意深くあることを望みます。一部の人たちは1975年という日付をかなり重視していたようです。ですから,しっかりとした土台が築かれていなかったのです。」(鑑88 189‐190ページ 韓国)

韓国で人々がつまづいていたとしたら、それは「兄弟たち、あなた方の教えに問題があるから」と言われているようにも思える文面です。その時の状況を振り返って、エホバの証人の年鑑は次のように述べます。

*** 鑑88 189‐190ページ 韓国 ***
一部の聖書の教え手たちにより,ある日付が過度に強調されていました。新しくバプテスマを受けた人々の中には,一時的な感情で真理を受け入れた人も少なくありませんでした。長老たちの中にさえ1975年に望みをかけていた人がいたのです。

最初に「1975年に望みをかけていた人」は誰でしょうか?それはブルックリン本部のフレデリック・フランズではありませんでしたか?

  • 「聖書預言の最後の部分は、ここ何年かの間に成就するでしょう。」
  • 「若い人々はこの事物の体制の下で年配に達することは決してありません。」
  • 「聖書はこの腐敗した体制があと数年のうちに終わることを示しています。」

これらの「ものみの塔」の言葉を同じ調子で繰り返したら十分に「ある日付を過度に強調する」ことになりませんか?その責任の矛先を、ものみの塔の言葉を忠実に信じた韓国の信者たちに向けるのは正しいことでしょうか?

 

彼らが直面したもの

当時のエホバの証人が直面したものは何だったのでしょうか?単に「人につまづく」という問題でしたか?彼らは組織のトップが、どのように話し、どのように対応し、どのように言い訳をしてきたかを目にしました。組織にとどまり続ける人もいました。組織から離れる人もいました。わたしは後者の人たちを単純に「人につまづいた」人たちと呼べるのかどうか疑問に思います。なぜなら彼らは、この組織が「すべての持ち物をつかさどらせる」ためにキリストから任命された集団なのかを真剣に再吟味した人たちだと思うからです。それは誰もが吟味すべきことではないでしょうか?

ではそのときあなたならどのように考え、どのように行動したでしょうか?次の記事を読みながら考えてみてください。

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