エホバの証人研究

エホバの証人について真面目に研究するサイト

BC607年 補足資料

1914年 聖書の解釈

ものみの塔は1914年からイエスキリストの「臨在」が始まったと教えています。その根拠とされている聖句を見てみましょう。

土台となる聖句

まず土台になる聖句はこれです。

(ダニエル 4:14‐16) …「あなた方はこの木を切り倒し,その大枝を切り落とせ。その葉を振り落とし,その実をまき散らせ。獣をその下から,鳥たちをその大枝の中から逃げさせよ。15 しかし,その根株は地に残し,鉄と銅のたがを掛けて野の草の中に置け。天からの露によってそれをぬれさせ,地の草木の中でその分を獣と共にならせよ。16 その心を人の[心]から変わらせ,獣の心をそれに与えて,七つの時をその上に過ぎさせよ

これはネブカドネザルが夢のなかで見た幻で、その預言の成就として聖書は次のように説明しています。

(ダニエル 4:28) …このすべては王ネブカドネザルに臨んだ

しかし、ものみの塔はこのダニエルの預言には「わたしたちの時代に成就する」特別な意味が含まれていると説明します。ダニエル書の預言などを現代に適用するように解釈することは自由です。これまでどの時代にも人々は聖書の預言を自分たちの時代に合うように解釈してきました。(「それは我々の時代に成就する」を参照)しかし聖書の言葉に特別な意味が秘められていると考える前に次の点を自問してください。

  • これらの言葉の執筆者はそのような意図で書いたのであろうか?
  • 神がわたしたちに伝えたいと思うメッセージがある場合、それを幾通りにも解釈できるような言葉で伝えるだろうか?

その他の聖句

諸国民の定められた時

土台となるダニエル4章の聖句がネブカドネザルの時代よりも先の将来に関連した「予言」であることを示す根拠として以下の聖句が用いられます。

(ルカ 21:24) そして人々は剣の刃に倒れ,捕らわれとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです。

ものみの塔は上記の「諸国民の定められた時」がダニエル4章の「七つの時」と同一であると主張します。しかしイエス自身がダニエル4章と関連付けているわけではありません。そしてイエスが「諸国民の定められた時」という言葉を特定の長さの期間を念頭に置いて語られたという根拠もありません。「諸国民の定められた時」と訳されているギリシャ語は「定められた」という言葉を付けて訳す必要がある言葉ではありません。実際、新世界訳聖書も同じギリシャ語を別の多くの個所で単に「時」「時節」あるいは「時代」(マタイ16:3)、「季節」(マタイ21:34)と訳しています。他の日本語訳はルカ21:24を次のように訳しています。

ルカ 21:24

新改  人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。

新共同訳  人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」

口語  彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。

そしてこの言葉の文脈にも注目してください。文脈を見るとエスは「古代エルサレム(ネブカドネザル時代)の滅び」に言及していたのでなく、当時のエルサレムの滅びについて語られていたということがわかります。

(ルカ 21:20‐24) 20 「また,エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい。21 その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。[都]の中にいる者はそこを出なさい。田舎にいる者は[都]の中に入ってはなりません。22 なぜなら,これは処断の日であり,それによって,書かれていることのすべてが成就するのです。23 その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! その土地に非常な窮乏が,そしてこの民に憤りが臨むからです。24 そして人々は剣の刃に倒れ,捕らわれとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです。

イエスが「そしてエルサレムは」と述べられたとき、西暦70年のエルサレムの滅びを念頭に置いておられたと考えるのが自然です。そもそも、ものみの塔が主張するようにエルサレムが「諸国民に踏みにじられる」時の始まりを西暦前607年(実際の歴史と異なりますが)という年からに設定すること自体が不自然な解釈になります。この聖句の文脈を見る限り西暦70年に起きたローマ軍によるエルサレム破壊が「諸国民に踏みにじられる」出来事に相当します。

その日と時刻は誰も知りません

マタイは同じ内容を伝える際に「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も知りません」(マタイ 24:36)という言葉を付け加えました。もし西暦前607年から2520年をカウントして「イエスの臨在」が始まるのであればイエスはすでに1914年がその時になるということを知っていたことになります。

イエスはその日付を知っているのに「その日と時刻は知りません」と言ったのでしょうか?イエスは弟子たちに「ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです」と言われました。ものみの塔協会は「ずっと見張っていなさい」という言葉を聖書の預言に注意を払うことを指しているかのように説明してきました。しかしその言葉の要点は全く逆のものであると言えます。主がどの日に来るかを知らないからこそ、見張っている(つまり居眠りしないように)ことが促されているのです。

一年に対して一日

ものみの塔協会公式ウェブサイトには以下の記載があります。

民数記 14章34節エゼキエル 4章6節には,「一年に対して一日」という記述があり,これに基づいて計算すると,「七つの時」は2,520になります。

http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm

民数記 14章34節とエゼキエル 4章6節のいずれを見ても、ダニエル書4章の聖句と関連付けるような言葉は見当たりません。そこにはこうあります。

(民数記 14:34) あなた方がその地を探るのにかけた日数,それが四十日であったので,一年に対して一日,一年に対して一日として,あなた方は四十年のあいだ自分のとがに対する責めを負う。あなた方は,わたしから離されていることがどういうことかを必ず知るであろう。
(エゼキエル 4:6) そしてそれを完了しなければならない。 「また,二度目には,あなたは右を下にして横たわり,四十日の間ユダの家のとがを負わなければならない。わたしはあなたに一年に対して一日,一年に対して一日を与えたのである。

「一年に対して一日」という言葉が聖書のどこかにあるとしても、それをダニエル書の解釈に使う根拠にはなりません。もし、それを預言を解釈する基準に使うのであれば、ものみの塔はダニエル書の「千二百九十日」や「千三百三十五日」(ダニエル12:11,12)に関しても「一年に対して一日」という基準で説明すべきでしょう。

いたるところに問題のある聖書解釈が多くの人に受け入れられるのはなぜでしょうか?それは自分たちの時代に成就するという刺激的な考えがそこに含まれているからでしょう。ものみの塔はかつては多くの聖句を1874年や1878年といった年に当てはまるように解釈しました。それはその当時の人には大変説得力のあるものでした。しかしそれは理性的な解釈とは異なるものであったと後で気づくのです。

 

記事の終わり

 

 

3 コメント

  1. アバター

    ゆだ

    そもそもダニエル書の「高い木」はダニエル本人によって
    「その木はあなた(ネブカドネザル王)御自身です。」(ダニエル4:16~19)
    と解き明かされているのに、永遠に生きるの本では
    「ですから」という接続詞でこっそり 「神の支配権」という
    真逆の意味にすり替えられている ことが、こちらの記事で明らかにされています。
    http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/y1914.html

    ネブカドネザルはユダ王国(神の支配権)を滅ぼした張本人なので、
    「高い木」が「神の支配権」を表すわけがないですよね。

  2. アバター

    あかちゃん

    右に同じです。どうしても1914年に結びつけたいだけですね。私たちはだれも知らない事を、エホバ神だけがご存じな事を、イエスはそう聖書で語った事を、どうして「も塔」の方々は、教理として教え続けるのか。組織第一主義、神を代表すると自ら称する人々の裁きは、エホバはどうされるのでしょうか。楽しみですね。

コメントを残す