2013年の7月15日号の ものみの塔誌で,マタイ24章の「忠実で思慮深い奴隷」に関連する解釈が大きく変更されました。

(マタイ 24:45‐51)  「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。46 主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。47 あなた方に真実に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。 48 「しかし,もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,49 仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば,50 その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,51 最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。

「忠実で思慮深い奴隷」の変更

これまで「忠実で思慮深い奴隷」は西暦33年以降に主人の食物を委ねられた集合体としての油そそがれたクリスチャンであり,そのうちの「残りの者」が1919年に「キリストの王国の関心事」をつかさどるように任命されたとエホバの証人は教えられていました。

しかし2013年7月15日号のものみの塔で,1世紀のクリスチャンに「忠実で思慮深い奴隷」は存在していなかったという説明になりました。記事によると,忠実で思慮深い奴隷は1919年以降にものみの塔本部で指導者として働いている少人数の男性の一団であると説明されています。2013年現在は8人の男性が「統治体」として奉仕しており,彼らが唯一の「忠実で思慮深い奴隷」であると説明されています。

忠実で思慮深い奴隷の実態の変更

 

新しい説明

ものみの塔は,「忠実で思慮深い奴隷」に「召使いたちに食物を与えさせる」ための仕事が与えられたのは1世紀ではなく,1914年以降であるという新たな説明をしています。


21ページ4節


しかし,その例え話は本当に「終わりの日」の「預言」なのでしょうか?

もし,その例え話を預言とするならば,ルカ 12:42‐48 はどのように説明するのでしょうか?ルカ12章はマタイ24章と全く同じ内容の例え話が語られていますが,それは「終わりの日」の預言が語られるよりもずっと以前の場面として書かれています。ですから,これらの例え話を特定の年代から始まる「終わりの日」の「預言」として解釈しなければならないと主張する論理的な根拠はありません。

 

キリストの臨在期間中?

もしマタイ24章の「忠実で思慮深い奴隷」に仕事を委ねるための「一つめの任命」を 1914年以降に成就する預言として解釈するのであれば,マタイ24章や25章で語られている他の例え話もすべて1914年以降に成就する「預言」として扱うべきでしょう。例えば,マタイ25章に出てくる主人が「外国へ旅行に出るにあたり…自分の持ち物(タラント)をゆだねた」話(マタイ25:14)も同じように1914年以降に主人が外国に旅行に出てタラントを奴隷たちに委ねられたとして解釈すべきでしょう。

しかし,そもそも「外国へ旅行に出て」不在にする期間を示す例え話を「キリストの臨在」に関する預言に当てはめること自体が不自然ではありませんか?そのような解釈は聖書の他の個所や初期キリスト教教父の著作のどこにも存在せず,むしろ否定するものばかりです。(臨在の意味については別の記事に掲載します)

マルコ13章はマタイ24章の「並行記述」として知られている聖句ですが,そこでは「忠実で思慮深い奴隷」の例えの代わりに同じような意味合いの別の例えが記載されています。

(マルコ 13:33‐37) …ずっと見ていて,目を覚ましていなさい。あなた方は,定められた時がいつかを知らないからです。34 それは,自分の家を離れ,自分の奴隷たちに権威を与え,各々にその仕事を[ゆだね],戸口番には,ずっと見張っているようにと命令して,外国に旅行に出た人のようです。35 それで,あなた方は,家の主人がいつ来るか,一日も遅くなってからか,真夜中か,おんどりの鳴くころか,あるいは朝早くかを知らないのですから,ずっと見張っていなさい。36 彼が突然に到着して,あなた方の眠っているところを見つけることがないようにするためです。37 しかし,わたしがあなた方に言うことは,すべての者に言うのです。ずっと見張っていなさい」。

この聖句の「自分の家を離れ…外国に旅行に出た」ことを「キリストの臨在」の預言の成就と考えるのは自然なことでしょうか? 例え話の中で表現されている内容はキリストの「臨在」というよりもキリストの「不在」の期間を表すものです。

ですから,マタイ24:45~51の「忠実で思慮深い奴隷」の例えも含めて類似した例え話が記載されている目的はキリストが昇天してから再び到来するまでの間に仕事を委ねられたクリスチャンには「忠実さ」や「思慮深さ」が求められているという点を強調するためであると考えるのが自然です。

 

記事の終わり

 

[2013.08.13 全体が短くなるように編集しました]


関連記事

補足資料