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輸血拒否

輸血拒否 – 変更される教理

何かがおかしいと感じる時

noblood何かがおかしいと直感的に感じたものの、その疑念を振り払ってある事柄を信じたことはありますか?もしかしたら後になって間違っていたことに気づき、最初の直感が正しかったことを知るという経験をされたことがあるかもしれません。聖書の中の「血を避ける」という言葉を救命のための医療行為にも当てはめるというエホバの証人の教えを聞いた時に最初あなたは違和感を感じたかもしれません。例え死んでも輸血をしないということを「愛の神」が人間に要求しているという点に対して何かがおかしいと感じたのかもしれません。

現在のエホバの証人の見解は次の通りです。エホバの証人は「血を避けなさい」という言葉に調和して輸血を受け入れません。赤血球、白血球、血漿、血小板のような主要成分も受け入れません。主要成分をさらに分解すれば、それを受け入れるか受け入れないかは個人の良心的な判断になります。何か違和感を感じませんか?聖書は「血を避けなさい」と述べました。その成分をどれだけ細かく分解するかどうかで判断が変わるような趣旨の禁令なのでしょうか?聖書は「善悪の知識の木を食べてはならない」と命じられた話が創世記の中に記載されています。ではその実を四分の一にカットしたならどうでしょうか?四分の一は禁じられていても八分の一にカットされるなら良心の判断に委ねられると主張されるならどうでしょうか?何か違和感を感じませんか?もしあなたが違和感を感じられたのであれば、それは律法の背後にある意図をくみ取ろうとする精神をお持ちだからなのかもしれません。もしどうであれば、輸血拒否の立場は律法の背後にある意図を何か大きく誤解しているという可能性はないでしょうか?

この点については次回の記事で十分に解説したいと思います。ここではまず、協会の輸血に関するポリシーが将来変更される可能性があるかという点を先に考えます。

輸血が解禁になることはあるか

輸血が完全に良心上の問題になったとするならそれはエホバの証人にとっては大きな出来事となるでしょう。これまで輸血を伴う手術を受けることができなかった人や出産時や事故による大量出血の際に輸血を拒否して亡くなられた方が多くいるからです。輸血そのものに対する協会の見方が完全に変わることはあり得るでしょうか?協会はこれまで輸血拒否の立場を確固たる態度で保持してきたように見えるかもしれません。しかしこれまでの協会の見解の変更の歴史を見る限り、輸血拒否のポリシーそのものが間違いであったとして訂正されることは十分あり得ます。ここではそのことを示す二つの例を見てみましょう。

明確とされていた解釈が変更される

最初の例として協会がかつて1925年という年に関連して「聖書が確実かつ明確に示している」としていた解釈の例を考えます。輸血とは無関係な話に聞こえるかもしれませんが、協会が確実としてた聖書解釈をあっさり捨て去ることの一例として参考にしてください。

協会はかつて、1925年にアブラハム・イサク・ヤコブなどの古代の名士が復活し、油そそがれたクリスチャンがその年に天の報いを受けるということを教えていました。それがどれだけ確信を持って語られていたかは以下の一文からも理解することができるでしょう。

ものみの塔1924年7月15日号 (英文211頁)
1925年は確実かつ明確に聖書の中に示されている年である。それは1914年よりもさらに明確である。」
英語原文を拡大して見る

『現存する万民は決して死することなし』97頁
「以上見てきた通り、古い事物の体制、すなわちこれまでの世界はまさに終わりを迎えて消え去ってしまおうとしており、代わりに新しい体制がやって来ようとしている。そして1925年には、古代の忠実なる者たちが復活して再建が開始される。現在地上に生きている何百万もの人達が1925年にもまだ生きているであろう、と考えるのは理にかなっている。ということは、神の言葉に約束されていることに基づき、現存する万民は決して死することなし、という確実にして動かぬ結論に至らざるを得ないのである。」
英文原文を拡大して見る

このように絶対確実であると自信をもって語られていたことでさえ、これまで幾度となく解釈に誤りがあることがわかり訂正されてきました。それがどれほどあっさりと訂正されるかを知っておく必要があるでしょう。1925年に関しても、その年が過ぎ去ったあと、この教理はあっさりと訂正されました。この教えの最も強力な提唱者だったJ.F.ラザフォードは「愚かなまねをした」とベテル家族に告げたと言われています。(塔93 12/1 18ページ 17節)

しかし1925年から年月が経つうちに、どれだけ確信をこめて協会が1925年の教理を提唱していたか、そしてこれを聖書に基づく教えであると自信を持って語っていたかに関する話はどこかに消えてしまいます。そして50年ほど経った1976年の年鑑では次のように語られています。

*** 鑑76 145‐146ページ 第2部―アメリカ合衆国 ***
1925年となり,その年は過ぎました。しかし,イエスの油そそがれた追随者たちはひとつの級としてなお地上にいました。また,アブラハム,ダビデほか昔の忠実な人々は,復活して地の君たちになってはいませんでした。(詩 45:16)その時の様子をアンナ・マクドナルドは次のように回顧しています。「1925年は多くの兄弟にとって悲しい年でした。希望がくじかれたために,ある人々はつまずきました。『古代の名士たち』(アブラハムのような昔の人たち)の幾人かが復活するのを見ることができるという希望を持っていたのです。ひとつの『可能性』と見る代わりに,その人たちはそれが『確実なこと』として読み取り,中には,自分の愛する人が復活するかもしれないと期待して,その人たちのために仕度をする人もありました。わたし自身は,わたしを真理に導いてくださった姉妹からお手紙を受け取りました。それには,以前わたしに間違ったことを言って申し訳ない旨が書かれていました。

この時には1925年の話は人々が勝手に確実なこととして読み取り期待していたかのように語られています。そして「真理に導いてくださった姉妹」は自分の研究生に対して「間違ったことを言って申し訳ない」と言わなくてはならなくなったことが指摘されています。

あなたも将来輸血に関連する教理を協会があっさりと訂正した際には、自分の研究生に対して「間違ったことを言って申し訳ない」と言わなくてはならないのかもしれません。

似たような教理の訂正

年代に関する教理と医療上の教えを同列に解説するのは不公平と感じるでしょうか?ではもう一つ、輸血の事例とよく似た例について考えてみましょう。それは臓器移植に関する協会の見解についてです。協会はかつて臓器移植に関して以下のように教えていました。

*** 塔68 4/1 223 読者からの質問 ***
●医学研究のために遺体を提供すること、あるいは臓器の移植手術を受けることは、聖書の見地からさしつかえがありますか。-アメリカの一読者より
・・・それはすべての文明人が忌み嫌う人食いの行為です。・・・
エホバは人間が動物の肉を食べることを許されましたが、人の肉の場合それを食べるにしても、あるいは他の人からとられた器官あるいはからだの一部を移植するにしても、人食い的に人の肉を体内にとりいれて命を保たせる行為を許されませんでした。

聖書が人食いを禁じているということはだれもが納得する内容でしょう。しかしそれを医療の分野の臓器移植に当てはめ「人食い的行為」とすることは道理にかなっていると思いますか?

注目できるのは臓器移植を禁じていた期間には臓器移植の危険性を強調する記事、中には医学常識から外れる内容のものさえ躊躇することなく掲載されていたという点です。

心臓移植は心を変える (塔71 6/15)
心臓を移植され,心臓と脳とを連結していた神経を切断された患者が,手術後に感情面で深刻な問題を経験するのは意義深いことです。…一つ確かな点は,自分の心臓を失うことにより,何年にもわたってその中に築き上げられてきた”心”の能力,すなわち個性の面でその人をその人たらしめるのに資してきたものが取り去られてしまいます。

この記事は人が臓器移植を行うと人格や個性、さらに移植元の何年にもわたった経験さえも移植される主張しています。

このような話は臓器移植が解禁になってからは語られることはなくなり訂正されます。ちょうど輸血拒否が公式な見解である間は輸血の危険性が不必要に強調されるという点と比較することができるでしょう。

そして1980年になり臓器移植は解禁となります。その際の協会の説明文から多くの点を学ぶことができます。

*** 塔80 6/15 31ページ 読者からの質問 ***
● バプテスマを受けたクリスチャンが,角膜や腎臓など,人体の一部の移植を受けた場合,会衆は何らかの措置を取るべきですか。
ひとりの人間から別の人間へ人体の組織や骨を移植するかどうかは,エホバの証人各自が良心的に決定すべき問題です。中には,他の人間の組織や体の一部を幾らかでも受け入れることは人食い行為になる,と考えるクリスチャンもいるでしょう。そうした人々に言わせれば,その体細胞は受け入れる側の体の一部になって,その人を生かし,機能させてゆくという意図のもとに移植されます。そのように考える人は,移植は人肉を口から食べることと基本的には変わらないとみなします。…
今日の誠実なクリスチャンの中には,医学的に人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない,と考える人もいるでしょう。そのような人は,移植される体細胞が恒久的な意味で,受け入れる側の体の一部になるわけではない場合もある,と論じるでしょう。体細胞は七年ごとに入れ替わると言われており,移植される人体の部分も例外ではありません。また,食物を供するために”提供者”が殺されるわけではないので,臓器の移植は人食いとは異なる,との論議も出されるでしょう。

協会の見解が間違いであると考える誠実なクリスチャン

上にあげた1980年6/15のものみの塔の記事で注目に値するのは、当時臓器移植に関する協会の見解が間違っていると考える誠実なクリスチャン」がいたという点です。では今日でも輸血に関する協会の見解が間違っていると考えている誠実なクリスチャンがいるのでしょうか?もしかしたらそう考えている人は大勢いるのかもしれません。そのような点を思いに留めるなら以下の記事の内容はうなずける点があります。

*** 塔85 4/15 12–14ページ 15–16節 「ひそかに見ておられる」神に対して忠実でありなさい ***
さまざまな国の報告が示すところによると,エホバの証人は公には輸血を拒むが,個人的には,あるいは内心では,異なった考えを抱いているという誤った考えを持つ医師や病院当局者,判事などが時折見受けられるということです。
… 医師や判事は,他の宗教の人々が何らかの医療措置に異議を唱えても,その後“秘密裏に”それを受け入れるのを見てきたので,あなたを説得して血を受け入れさせようとするかもしれません。ある当局者は,ひそかに輸血することに同意したエホバの証人を知っているとさえ主張しました。万一そのようなことがあったとしたら,それはただエホバの証人と知り合いであるというだけの人に関係したものかもしれません。

この記事では医師たちが「エホバの証人は公には輸血を拒むが,個人的には,あるいは内心では,異なった考えを抱いている」という印象を持っていることが「誤った考え」とされていますが、臓器移植の例を考えるならば医師たちの持つ印象は間違っていないのかもしれません。わたしは「ひそかに輸血することに同意したエホバの証人」のことを裏表のある人だとは思いません。むしろある教理を間違っていると考える人々がいるにも関わらず、受け入れることを全員に強制する組織体制に対して大いに疑問を感じます。

上記のように輸血に関して内心疑問に感じているエホバの証人がいることを示す報告があるにも関わらず、その同じ記事の中では次のように語られています。

塔85 4/15 12ページ 14節
当面の結果がどんなものになろうとも神に従おうとするあなたの決意は,仲間のクリスチャンがそこにいるとき,一層強められることでしょう。

仲間のクリスチャンがいわば「励まし役」として医師と患者の近くにいれば、内心の疑問を表明することを未然に防ぐことができるのは確かなことなのでしょう。

このような状況を認識しているならロサンゼルス・タイムズのインタビューに答えた医師の次の言葉には重みがあると感じざるを得ません。

「人は輸血を選択するための助けが必要だ。威圧や恐れが関係しているかもしれないことを、医者は認識していなければならない」
ロサンゼルス・タイムズ 2007年1月17日

あなたはどのように感じますか?この問題は一人一人が真剣に考えなくてはならない問題だと思います。あなたの命だけではなく、あなたの家族の命も関係しているかもしれません。考えなくてはならないのは組織が何と述べているかではなく、聖書が血に関してどのような原則を述べているのかという点です。組織は臓器移植の時に聖書の原則を間違って適用していました。同じように輸血に関しても間違った適用が行われているということはないのでしょうか?

血に関連する聖句の解釈については次の記事で詳しく解説いたします。

聖句の意味に進む

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記事の終わり

1 コメント

  1. アバター

    匿名

    調べる術がないので疑問に思っているのですが、エホバの証人は僻地伝道も行っているのでしょうか?
    というのも、エスキモーとかイヌイット等と呼ばれている極北狩猟民族は、カリブーやアザラシを仕留めるとその場で解体し、血抜きなどせずそのまま食べます。時には凍らないうちにコップで血液をすくってそのまま飲みさえします。農業のできない地域では、動物の血液からビタミンやミネラルを摂取するしかないからです。そんな民族の住む地域に、「もっと南に移住して食生活を改めないとハルマゲドンで永遠に滅びますよ。」という彼ら独自の「良い知らせ」を携えて伝道しているのか関心があるのです。ちなみに、ものみの塔が設立されるはるか以前からの宣教師の活動により、今日彼らのほとんどはキリスト教徒だそうです。
    参考文献:本多勝一「カナダ=エスキモー」(朝日新聞社)、岸上伸啓「イヌイット」(中央公論新社)

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