ログインしていません。

#926 2019年04月04日 00:35:41

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

連投いきます。アブラハムの神の限界は創造神を一体とするからかもしれないし、神は集合体かもしれない。
だからせっかくトピを立てたakameさんをいきなり否定からの不毛な議論はもたいなかったと思います。
聖書なんて、ここの掲示板に集まっている人はほんとは信じてないんじゃなかったんでしたか?だったら
教義を否定するトピなどいくらでも乱立しているのですから、このトピは有効利用されても良かったかもしれ
ません。だいたい私がここで熱く語っているのもおかしいんですが。修造じゃないし^^
複数の霊というと怪しさ満載ですが「集合知」というと、ほらいい感じでしょ。トピ主さんどこ消えました?
私は明日からほんとにちょっと書き込みしなくなりますが、少しはakameさんの話を聞いてみたいと思います。
「集合知」でね。さすがに複数の霊は「レギオン」感がしてまずいので。なんだったらakameさんが別トピたてて
くださったらそちらに行きます。私が立てても精神的に持たないので。なんか怖いんです。ギスギス感が。

#927 2019年04月04日 01:04:46

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

追記です

某教授は「脳量子論」を提唱しました。これについては「トンでもだ」という意見が多いです。あの教授も全否定。これについてはこの辺で。

問題は、元素が寄り集まり自発的に神経軸索を伸ばして接続先を選ぶという動作なんですよ。これが従来の物理学やアルゴリズムでは未解決なんです。元素が集まってるだけなら今でもできてるでしょ。これについてアイディアがあるんですけど、話し合う相手がいないし。

  「レギオン」は勘弁してください。「集合知」で。

#928 2019年04月04日 16:04:38

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

何かどうでも良くなりました。とりあえず食って仕事して寝ます。ごめんなさい。
私の書き込みでトピ汚しごめんなさい。

#929 2019年04月04日 19:50:59

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

さっき気づいて

>脳量子論

シセイさん

以前、私は意識に関係したことで、紹介したのですが、

https://youtu.be/9mozF-cfjQo

量子もつれと 集合知(神の集合体?)との関係

うーむ (u_u)

何か気づいたら書きますが、

少し旅に出ます。

#930 2019年04月04日 20:43:10

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

助け合うという感じで会話のキャッチボールができるといいですね。
討論は西洋の手法ですが、我々は東洋流で行けたらついていけます。
本当に深い話です。私はakameさんの時間を盗んでいるのかも
しれません。
https://www.youtube.com/watch?v=ewxmv2tyeRs

適切な歌ではありませんが、時間を盗んでいるので・・・

#931 2019年04月04日 21:22:02

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ご覧のように、気ままにやってますから、
盗まれた感はございません。

シセイさん、冴えてますねー

助け合う 東洋流 

ガッテン ( ̄^ ̄)ゞ

#932 2019年04月05日 16:39:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“集会に出席するのはどんな人ですか”で、主の記念式と集会に参加しない人は、謙遜さ,勇気,愛が足りないと脅かす内容です。」
「先週に引き続き、記念式の話ね。16節で終わりということで短い。」
「書くことがないのですよ。」

「おもしろいのは2節。“エホバが主に関心を持っておられるのは,出席者の数ではありません。人々がなぜ出席しているかということです。”とある。JWが重視するのは数字でしょう。いい数字を出すためには嘘だって平気というのがJWなのに。笑える。」
「記念式参加者の増加があまり期待できなくなったからじゃないですか。それで数ではなく参加する動機が重要と言い出した。」
「昨年のものみの塔1月号には、“2000万人ほどの人がキリストの死を記念することでしょう。世界中の人々を1つに結び合わせる素晴らしいイベントです。”と数を自慢していたよ。それに対する批判があったのかもね。」
「記念式はJWにとって、信者獲得の手段ですから、信者になりそうもない人は呼ばなくていいということじゃないですか。それが、数より動機ということの趣旨ですよ。」

「2018年の統計を見ると、全世界の最高伝道者数は、857万9909人で、記念式参加者数は、2032万9317人。その比は2.37。ひとりの伝道者が、平均1.37人を連れてきたことになる。」
「日本の場合は、最高伝道者数は21万2802人で、記念式参加者数は29万4296人で、その比は、1.38です。ひとりの伝道者が、平均0.38人連れてきたということです。日本では記念式は信者獲得の手段にはなっていませんね。」

「この記事は、なぜ集会に出席するのか、どのように説明しているの?」
「それを説明するキーワードが、謙遜さ,勇気,愛みたいです。」
「謙遜の中身だけれど、記事を読むと謙遜=無批判にJW の要求全てを受け入れること、としか読めないな。JWは謙遜ではないよ。3節に、“高慢な人は,何も教えてもらう必要などないと考えます。”とあるけれど、JWがほかの宗教に対してそういう態度をとっている。つまり高慢な人たちということ。」
「伝道中で、家の人から宗教関係の本を渡されることがあっても、模範的なJWはそれを拒否します。JWは他の宗教のどんな話にも耳を傾けることはしません。」
「エルサレム陥落の年代についても、歴史の専門家の見解を拒否し、素人判断で、前607年が正しいと、高慢にも言い張っているのがJWだ。」

「6節に、記念式に出席してから、集会に参加するようになった男性の話が出ています。彼のことを、“謙遜meekだったので,考えを変えることができたのです。”とありますが、meekは謙遜ではなくて柔和です。誤訳ですが、意図的でしょうね。」
「この人は、“とても腰の低い方a very humble man”とあるけれど、とても謙虚な人と普通は訳す。謙虚な、という言葉を使うと、謙遜さという変な言葉を使っていることがわかるので、“謙虚な”と訳したくないのだろう。」
「その後、“エホバが引き寄せられたに違いありません。”とあります。エホバが直接集会に来る人を引き寄せるのだそうです。それなら、なぜエホバはもっとそうしないのか、理解できません。」

「8節から勇気のことで、9節には、“定期的に集会に出席するには勇気が必要です。”とあります。」
「勇気というより、家族の反対など気にしない冷酷さと家族に与えている苦痛に対する鈍感さのことじゃないの。」
「8節で、イエス逮捕の場面について、“武器を持った群衆がやって来た時,前に進み出て自分がだれかを明らかにし,兵士たちに使徒たちを去らせるようにと言いました。(ヨハ 18:3‐8)”と書いてありますが、そう書いてあるのはヨハネだけで、他の福音書は違いますよ。」
「一部の弟子の剣による抵抗の後、マルコ14:50には、 “すると,[弟子たち]はみな彼を捨てて逃げて行った。”、マタイ26:56、“その時,弟子たちはみな彼を捨てて逃げて行った。”とある。」
「ルカ22章では、一部の弟子の剣による抵抗によって切り落とされた耳をイエスは癒したと他の福音書に書いていないことが出ています。その後どうなったかはペテロを除いて何も書かれていませんね。おそらく逃げたのでしょうね。」
「ヨハネの福音書以外は、弟子たちはイエスの逮捕を実力で阻止しようとしたが失敗し、イエスを見捨てて逃げたというストーリーだね。ヨハネだけが、イエスが弟子たちを意図的に去らせたということになっている。」
「ヨハネは弟子たちをかばって、こんなストーリーにしたんでしょうね。」
「弟子たちは、後のキリスト教の基礎となった人物だから、キリスト教を擁護するために、弟子たちを悪く書きたくないという動機は当然働くね。」
「マルコとマタイでは、“わたしは牧者を打つ。すると,群れの羊は散り散りになるであろう”というゼカリヤ13:7をイエスが引用して、弟子たちがイエスを捨てて逃げることを予言するのですが、これも弟子たちをかばっているわけですよね。」
「その部分は、弟子たちをかばうために後から付け加えたのかもしれない。マタイだと、これは預言者を通して語られたことが成就するためだった、などという解説がつくのが慣例なのに、弟子たちが逃げた後にそのような解説がないからね。」

「8節の下に、刑務所に入れられているJWを家族が手紙で励ますという数枚の写真が出ています。全世界で宗教上の理由で投獄されているJWは、0.01%もいないのに、自分たちは迫害されていると先週に引き続いてアピールしています。」
「殉教者コンプレックスという言葉がある。自分は神に選ばれた特別な人間だ、そのため周囲から迫害されるという信念を抱く人がいるんだ。このような人にとっては、自分が神から選ばれた特別な存在であることの証明が迫害しかないので、進んで迫害されたがる、あるいは殉教したがるという非合理で奇妙な行動に走ることになる。」
「JWも殉教者コンプレックスにとらわれているのですか?自己犠牲ばかりを要求する宗教で育った人は、殉教者こそ英雄というような思想に染まりやすいと思います。JWの中には迫害がおこって、投獄されたいと密かに思っている人もいると思います。」
「自分たちがいかに迫害されているかを自慢するような宗教は、かなりアブナイよ。近寄らない方がいいね。」

「12節からは愛です。“エホバとイエスを愛する人は,ぜひ集会に出席したいと願います。”とあります。」
「13節に、“エホバとイエスのために進んで犠牲を払うことによっても,お二方への深い愛を表わせます。”とある。危険な教えだね。犠牲を払うことを愛であると称賛している。このような教えが、信者を本当のニーズ(幸せになりたいなど・・・)を無視するように仕向け、宗教活動のために不必要に自分自身を犠牲にするようにさせる。」
「強制された自己犠牲のことを愛と呼ぶのはカルトだけです。」
「13節では、“わたしたちがエホバを深く愛し,頑張って集会に出席する姿を見て,うれしく思っておられるのです。(マル 12:41‐44)”と書いてあるけれど、聖書のどこにそんなこと書いてあるの?執筆者の創作でしょう。」
「引照聖句のマルコ12:41-44は、貧しいやもめの寄付の話で、集会とは何も関係ないですね。」
「それから15節に、“不活発になっている仲間を助けたいと思っています。(ガラ 6:10)そのような仲間を集会,特に記念式に出席するよう励ますことは,愛の表われです。”とある。最近集会に来ない人を連れてこいということだね。これが愛なの?」
「それは自分の得点稼ぎですよ。」
「カルトの特徴は簡単に辞められないこと。JWもいつまでもしつこく集会の参加を求めるわけだね。放っておくことができないようだ。」

「最後の16節で、“この体制の終わりが近づいている今,謙遜さと勇気と愛を保つため,集会に出席することが必要です。”とまとめていますが、なんとしてでも集会に出席させようとする本当の理由は何ですか?」
「集会で、繰り返しJWの教義を叩き込むためじゃないの。それから信者の組織に対する忠誠心を調べるため。」
「確かに集会に来ない人は忠誠心がないと評価できますね。」
「そして、信者を外部の世界から隔離するためだ。まず集会中は信者以外の人間とは接触できない。集会で、外の世界は悪であり、危険だと教え込み、外の世界と接触させないよう教え込む。」
「集会に出席するために、長年勤めていた職場をやめたという模範的とされるJWは、自分の居場所が、JWの集会しかなくなるわけですね。カルトが望む社会的孤立の完成です。」
「仕事は単にお金を得る手段ではない。仕事を通じて、人と知り合い、社会に貢献し、自分を成長させることができる。JWの言いなりになって、仕事をやめてしまうと、そのような可能性が奪われ、孤立し、JWという閉鎖的集団のなかで自分を押し殺して生きていくしかなくなる。」
「集会と仕事、どちらか選べと言われたら、仕事を選ぶべきですね。」
「そもそも、そんな圧力をかける宗教はまともじゃないね。」

#933 2019年04月11日 19:05:12

おもち
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

昔自分がやっていた単なる答え探しごときと比較するのも失礼な、
深い考察がなされ機知に富んだユーモアもさらりと入る予習に、いつも只々舌を巻くばかりです。

私事ですが、身体の衰えと体調の悪化に加え、長老たちの撲羊によって精神的にも追い詰められ、
集会に行くこと自体が困難になった母にこのJW少年シリーズを紹介してみたところ、
今ではすっかりJW少年がやってくるのを楽しみにするようになりました。

長期に亘って払われている、調査や執筆への注力に感謝致します。

#934 2019年04月12日 14:31:58

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“忠誠を保ちましょう!”で、ヨブのように、どんなにつらい目にあっても忠誠を保て、という内容です。今回も、わずか16節で終わるのがよい点です。」
「執筆者もやる気がないね。テーマを決めて、それに関係しそうな聖書中の人物を一人ないし二人とりあげて、私たちも見倣いましょう、そうすればエホバが豊かに祝福してくれます、みたいないい加減なことを書いて終わるという、よくあるパターンどおりの記事だ。惰性で仕事をしているね。」

「1節に、3人のJWが直面した問題が出ています。一人は学校行事参加問題、もう一人は、学校の友達の家に伝道に行くという問題、もう一人は、職場で違法行為を指示されたという問題。これにヨブの話を絡めるのですが、まったく見当違いなことを書いていると思います。」
「この記事では、学校で問題に直面した子ども自ら先生に説明している。なぜ親は何もしないの?親が学校の行事に参加しないよう強制しているわけでしょう。子どもに過重な負担をかけても気にしないJWの冷酷な体質が出ている。」
「本当は、子どもは行事に参加したいと思いますよ。親が怖いだけですよ。」

「2番目の問題も、子どもに過重な負担をかけている。自分がカルトの一員であることなど学校の友達に知られたくないと思うのが当然だ。その当然の感情を無視し、忠誠を保てなどと無理なことを子どもに押し付ける。子どもがかわいそうだ。」
「別のおとながその家に行けばいいんですよ。それぐらいの配慮がなぜできないのか、不思議です。」
「その友達は、1節に“エホバの証人のことをばかにしたことのある子です。”と書いてある。そもそも、そんな子の家に伝道に行く必要はないと思うよ。マタイ10:14で、“どこでも,人があなた方を迎え入れず,またあなた方の言葉を聴かない所では,その家またはその都市から出る際に,あなた方の足の塵を振り払いなさい。”とイエスは言っている。」
「当時の敬虔なユダヤ人は異邦人の土地を去るときに、汚れを落とすという象徴的行為として、足の塵を振り払うということをしていたわけですね。」
「聴かない所にはしつこく何度でも行きなさい、とイエスは言っていない。聴かないところから去りなさいと言っている。だから、エホバの証人をバカにしている家に行く必要はないよ。」

「3番目の労働問題は、初めの2つと同列には論じられませんよね。違法行為が関係しているわけですから。1節では、“首になることを覚悟のうえ”で断ったとありますが、そんな理由で解雇できますか?」
「アメリカの話だろう。アメリカでは簡単に首にできる。日本では法律上は、そう簡単に解雇できない。」
「5節によると、“3人とも(略)エホバを愛していたので,エホバを第一にした決定を下しました。忠誠を行動で示したのです。”と言っています。エホバへの愛ゆえに、学校行事を断り、友だちの家に伝道に行き、職場での違法行為を断った、としたいようですね。」
「初めの二つは人間が作ったJWの組織の基準だし、3つ目は違法行為をしないという市民として当然の行為なわけで、神様とは全く関係ないよ。」

「今週のテーマは忠誠なんですが、3節では、“クリスチャンにとって,忠誠とはエホバに心からの愛と揺るぎない 専心を示すことです。”といいながら、その後で、“聖書に出てくる忠誠という言葉は,完全で,つまりすべてがそろっており,傷も欠陥もないことを意味しています。”とあります。何かヘンですよ。別のことじゃないですか?」
「でも英語で読むとへんじゃないんだ。今週のタイトルはヨブ27:5の“わたしは息絶えるまで,自分の忠誠を自分から奪い去らない!”からきている。忠誠と訳された英語は、integrity。この単語は、高潔とか誠実という意味と完全無欠という二つの意味があるの。」
「それで、聖書で使われているのは後者の方ですと説明しているのですね。英語圏向けの文章ですね。」
「当然、このヨブ27:5は完全無欠の方の意味。ヨブが言いたいのは、自分は罪がないという主張を絶対取り下げないということ。」
「ということは、ヨブ24:5の日本語訳は誤訳なんですね。確かに、新共同訳では、“死に至るまで、わたしは潔白を主張する。”とありますね。」
「元のヘブライ語は、旧約聖書に5回でてきて、そのうち4回はヨブ記。新世界訳の日本語版はすべて“忠誠”と訳している。ヨブ記は、正しい人間がなぜ苦しむのかという問題を扱っているのだから、ヨブの忠誠ではなくて潔白とか無垢と訳すべき。翻訳者のレベルがわかるね。」

「7から9節で、ヨブの話を要約しているのですが、8節で、“サタンは冷酷な殺人者です。”と決めつけていますが、これはへんですよね。」
「以前も言ったけれど、ヨブ記のサタンは悪魔の名前ではなくて、役職をあらわす単語。70人訳では、“告発人”となっている。サタンは神様とは親しくお話をする関係で、すべて神の許可のもとに行動している。」
「排斥処分を受けていないわけですね。」
「それで、ヨブの子供を皆殺しにしても、神様から叱られることもない。サタンが殺人者なら、それを許可した神様は殺人の黒幕と呼ぶしかないね。聖書の中で、サタンが殺したのはヨブの子ども10人だけ。それに対して神様は無数の人を殺しているし、JWの教義によれば、間もなく人類の99.9%を虐殺する予定になっている。」
「旧約聖書は悪魔サタンとほとんど関係ないですよね。エデンの園の話だって、サタンではなくヘビですから。でも、悪魔サタンがどうのこうのというのは、JWの教義の中心ですから、今更変えられない。」
「サタンが出てくるのはゼカリヤ書と歴代誌。どちらもバビロン捕囚以降に書かれたもの。というわけで、ヨブ記もバビロン捕囚以降の作品と普通考えられている。」
「7節では、“ヨブは,イスラエル人がエジプトにいた時代の人で,際立った忠誠を示しました。”とあり、JWでは、かなりの大昔に書かれたとしているようですね。」
「ヨブ記は、初めと終わりが散文で、それ以外は韻文つまりは詩という構成。詩の部分はかなり古いかもね。」

「8節では、“そこでサタンは別の方法でヨブを攻撃しました。ヨブの3人の友人を使ったのです。”とあり、ヨブの友人がサタンの手先になっています。JW独自の解釈ですね。」
「ヨブの友人は、サタンの手先ではない。友人たちは、伝統的な因果応報論に則って、ヨブが苦しんでいるのは、ヨブに罪があるからだ、罪のない人がいるでしょうか、というその当時の常識的な主張をしているだけ。」
「それに対してヨブは、この記事の初めの聖句、“わたしは息絶えるまで,自分の忠誠を自分から奪い去らない!」(ヨブ 27:5)”と答えるのですが、これは誤訳で、新共同訳の、“死に至るまで、わたしは潔白を主張する。”のほうが正しい訳ですね。」

「11節からは、ヨブに見倣う3つの点が出ています。畏敬、従順、希望です。従順が面白くて、JWが大好きなポルノを取り上げています。13節には、“ヨブは毎日,エホバに従うよう懸命に努力しました。例えば,異性に対する行動に注意しました。(ヨブ 31:1を読む。)”とあります。」
「ヨブ記からこんな教訓を引き出すなんて、おかしいよ。ヨブ 31:1は、“契約をわたしは自分の目と結んだ。それゆえ,どうしてわたしは自分が処女に対して注意深いことを示すことができようか。”とあるけれど、これは昔から変な聖句と考えられてきた。」
「ヨブ31章は、ヨブと友人との対話の後、ヨブが長々と一人で語るという部分ですよね。29章で幸福であった時代を回想し、30章で、それが悲しみと恥に変わり、もはや死しかないと語り、31章で、にもかかわらず自分は潔白だと、16くらいの無実の誓いをするわけです。」
「31章は、“もし”で始まる誓いが長々と続く章ね。ところが31:1はそういう形式になっていない。なぜなのか?31:2-4と意味的につながらないのではないか?それから、女性問題に関する誓いは、31:9に、“もし,わたしの心が女に誘われ,わたしがわたしの友の入り口で待ち伏せしていたなら,わたしの妻が他人のために[臼を]ひくことをし,彼女の上にほかの人がかがみ込むように。”とあるのに、なぜ31:1でいきなり女性問題がでてくるのか?」
「女性問題だけ2回も取り上げるのはおかしいということですね。」
「これらの疑問に対する解決策は、“処女”と訳されている語は、女神像のことを指していて、その女神像を崇拝しないという誓いであると解釈すること。」
「裁き人2:13に“こうして彼らはエホバを捨て,バアルやアシュトレテの像に仕えるようになった。”とありますが、この“アシュトレテの像”が女神像ですね。」
「この女神像はイスラエルの発掘調査でもよく見つかっていて、普通の家庭にあったようだね。穀物豊穣の神様で、人気のある神様だったよう。」

「14節の“今日,多くの人はお金や物を 第一にしています。聖書の教えに従い,お金や物に対してバランスの取れた見方を持つ”という部分は、ヨブからの教訓としてはへんですよ。」
「ヨブが苦しみから解放された後、神様が最初にしてくれたのは、資産を2倍にしてくれたこと。富は神からの恵みというのが旧約の思想。JWと違って、神様は幸せな人生にはお金や物が必要なことは理解している。」

「15節では、ヨブは“最後にはエホバが報いてくださることを確信していました。”とあります。しかし、その根拠となる聖句はありません。ヨブは今の苦しみに耐えれば、最後はプラスになるといった計算などしていませんよ。」
「6:8,9で、ヨブは、“ああ,わたしの願いが実現し,わたしの望みを神がかなえてくださるとよいのだが。そして,神がすぐ事を運んで,わたしを砕き,み手を放って,わたしを断ってくださるとよいのだが”と言っている。これは、神様、私を殺してくれと言いう意味だよ。ヨブが望んでいたのは死ぬことによって苦しみから解放されることだ。」
「ヨブ記からわかるのは、神は不可解で、交渉も計算もできる相手ではないということですよね。」

#935 2019年04月18日 19:08:29

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

これ何気にエホバの証人の宇宙主権なんちゃらが崩壊する誤訳ですね。

聖書についての質問 さんの発言:

「それに対してヨブは、この記事の初めの聖句、“わたしは息絶えるまで,自分の忠誠を自分から奪い去らない!」(ヨブ 27:5)”と答えるのですが、これは誤訳で、新共同訳の、“死に至るまで、わたしは潔白を主張する。”のほうが正しい訳ですね。」

ヨブはヤハウェの脳内御前会議を知らず、「主は与え給い、奪い給う」と自己完結していて、裸で生まれ、裸でかえるだけ、と報いの打算もしていません。

そこにお友達が来て、君の苦しみには因があるのだよと妙に悟ったことを言うので、その流れでの発言だから普通に新共同訳が自然です。

#936 2019年04月19日 14:36:45

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週は、主の記念式があります。楽しみですね。それから、いつものように予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバに喜ばれる柔和な人になりましょう”で、JWは、つらく苦しいことが多いけれど、柔和な態度で耐えろ、という内容ですね。」
「なぜ柔和な態度で耐えないといけないの?」
「22節に、“エホバは間もなく,地上から悪い人たちを一掃されます。柔和な人たちだけが生き残るのです。”とあります。柔和でなければ殺されるからです。エホバは恐ろしいのです。」

「今週のタイトルは、ゼパニヤ2:3の、“地の柔和な者たち,……エホバを求めよ。……柔和を求めよ”からきているけれど、最近の聖書では柔和meekという言葉はあまり使われない。古風すぎる言葉なんだ。英語ではhumble(謙虚な、卑しい)が一番多い訳だろう。」
「そういえば、新しい新世界訳の聖書が配布されました。新しいのですと、“温厚な人たち”となっています。meekという古臭い単語を“温厚な”と訳し変えたわけですね。」
「新共同訳では、“苦しみに耐える”となっている。元のヘブライ語の意味が、貧しいとか虐げられたという意味なので、元の意味を生かした訳だね。」
「ヘブライ語のもとの意味は精神的な態度ではなく、社会的経済的に虐げられた人を指すのですね。この記事のタイトルも、エホバに喜ばれる“苦しみに耐える”人になりましょうという方が、記事の内容にあっています。」
「旧約聖書では人間の内面性に対する関心は薄い。重要なのは行動。“エホバを求めよ”だって、内面の問題ではなく、真の悔い改めを行動で表すことを意味している。」
「灰を頭から被るとか、わざと汚い服を着て断食するとかですね。」
「2節に出ている、詩編37:11の“しかし柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう。”の“柔和な者たち”はイスラエルを指す。周りの民族から攻撃され苦しみに耐えているイスラエルのことで、現代の柔和なJWのことではないよ。」
「今週の記事は、柔和あるいは“温厚な”の意味を勘違いした記事ということですね。」

「いつものとおり聖書中の登場人物を何人か挙げて、見倣いましょう、という内容で、初めはモーセだね。でも1節の“聖書は,モーセが「地の表にいるすべての人の中でとりわけ柔和な人物」だったと述べています。”の部分は主語がおかしいんじゃないの?」
「JWでは、引用元の民数記はモーセが作者としていますから、主語はモーセですよね。モーセが、自分のことであるモーセは一番柔和な人と書いているわけですから、へんですよ。」
「新世界訳だと昔風に柔和(温厚な)と訳しているけれど、新しい訳は謙虚としていることが多い。自分のことを世界一謙虚と書くのは謙虚じゃないということだよ。この部分は民数記の中でも解釈が難しいところ。」
「謙虚でも、柔和でもどちらでもいいのですが、モーセってそう人ですか?」
「そういう人じゃないね。それで、柔和ではなくて、“不幸な”という意味ではないかという説がある。元のヘブライ語に一文字加えると、不幸とか悲惨という意味の単語になる。その方が文脈にあうからだ。」
「どういう文脈かというと、民数記11章で、民が絶えず不平不満をいうので、モーセが完全に気力を失い、“わたしは,自分だけでは,この民すべてを担うことはできません。彼らはわたしには重すぎるのです。それで,もしわたしにこのようになさるのでしたら,どうぞわたしをいっそ殺してしまってください”と、死を願うところまで追いつめられ、12章で、身内のアロンとミリアムから妻のことなどで攻撃されます。本来味方になるべき二人から攻撃されて、モーセはもう黙っているだけです。反論もしません。その状況で、モーセは一番柔和な人ですという文が来るのです。確かに、一番不幸な人です、のほうが文脈にあっていますね。」
「後の時代の人間が一文字削除して、不幸から柔和に変えた。偉大なモーセが一番の不幸だと不都合だからね。」

「モーセとアロンとミリアムの対立は、8,9節で挿絵付きで取り上げられています。8節には、“モーセがクシュ人の女性と結婚したことを非難しました。”とあります。クシュ人は今で言うと何人に当たるのですか?」
「クシュはノアの息子ハムの長男の名前。クシュの息子がニムロデ。地名としてのクシュは伝統的にエチオピアを指すとされてきた。現在では、エジプトの南からスーダンにかけての地域、ヌビアを指すと考えられている。モーセの妻は黒い肌のアフリカ人ということ。」
「その黒い肌の妻にいちゃもんをつけたミリアムが罰として雪のように白い肌になる皮膚病になったというわけですね。神様もユーモアのセンスがありますね。」
「民数記12:10で、“ミリアムはらい病にかかって雪のように白くなった。”とあるけれど、らい病という訳は不適切だね。新しい訳では、“重い皮膚病”にしている。これはいいことだね。」
「肌が白くなる病気と言えばなんですか?」
「尋常性白斑、別名“しろなまず”というのがあるね。マイケル・ジャクソンがこの病気だったと検視報告にあるそうだ。でも挿絵から判断すると、尋常性疥癬(かいせん)だろうね。」
「ミリアムだけ罰せられて、アロンにはお咎めなしというのは、神様のいつものえこひいきですね。」
「神様に公平を期待するのが間違いなの。」

「3節に、柔和の語句説明があり、“柔和な人は他の人に優しく接し,気分を害されても穏やかさを保つ。”のだそうです。統治体には一人もいそうもない人ですね。気分を害されたら、排斥だ!とわめき散らしそうな人ばかりに見えます。そして、柔和であるためには、“謙遜,従順,温和,勇気”の4つが必要と書いていますね。」
「要するに、組織の理不尽な要求にも文句ひとつ言わずに従う人だね。こういうのを些末主義というんじゃないかな。些末なことをあれこれ要求するのは、信者をコントロールしようとするからだ。」

「7節からは、“柔和を保つのが難しい時”と題して、3つのことが出ています。最初は、“権限を与えられた時”だそうで、先ほどのモーセとミリアム・アロンの対立を取り上げていますね。」
「8節に、“人によっては,そんなことを言われたら,怒って仕返しするかも しれません。しかし,モーセは違いました。”とあるけれど、この時は、モーセはうつ状態で、しゃべる気力もなかったんだと思うよ。12:4に、“そこでエホバは急にモーセとアロンとミリアムに言われた。”とある。神様が急いで介入しないとまずいことになると思ったんだろうね。モーセの精神状態はそれほど悪化していたんだろう。」
「神様もたまにはいいところがあるじゃないですか。」
「9節に、“エホバは40年かけてモーセを教え”とあるけれど、聖書のどこにそんなこと書いてあるの?」
「モーセが神様に出会うのが出エジプト3章です。4章でエジプトに帰ります。この間に40年たったとは思えませんし、柔和になるような教育の場面もありませんね。」
「同じ9節に、“モーセは教訓を学び,優れた監督になりました。”とあるけれど、これには驚いた。」
「モーセは監督ですか?巡回監督ですね。それで40年間荒野を巡回したわけですね。」
「モーセが監督なら、イエスは支部長かな。統治体の下だね。」

「13節で、“わたしたちを不当に非難する人にも敬意を払い,温和に接します。”とあり、その下には、カート奉仕しているJWに向かって怒っている男性の写真があります。カート奉仕は、JW嫌いの人にしばしば攻撃されるという実態を踏まえているのでしょうね。YouTubeで、カートが滅茶苦茶に壊される映像がありました。統治体の命令は、要するに、路上でもめ事を起こすな、ということですね。」
「末端のJWが危険な目に合うのは、麻薬の販売とおんなじだ。通りで売る奴が一番危険な目にあいやすい。犯罪組織のボスの命令は、通りでもめ事を起こすな、商売に専念せよ、だよ。統治体の命令も同じだね。」
「カート奉仕に活路を見出そうとしている組織ですからね。一般市民ともめ事を起こされるのが一番困るのでしょう。それで、温和にふるまえという指示ですね。」

「15節からは、“ストレスを感じる時”で、イエスの例が出ているのですが、15節に、“イエスは,地上での最後の数か月間,極度のストレスにさらされました。”とあります。ひとつ前の号のものみの塔の“天で治める王について簡素な式から学べること”では、“イエスは不安を感じていたかもしれません。”と軽い扱いで、極度のストレスなんてことは何も言ってなかったんですけれどね。」
「JW流の記事の書き方だよ。テーマに合わせて、同じ人物同じ状況でも、まったく違うように書く。聖書はJWの教義を信者に教え込むための、単なる素材に過ぎない。」

「最後の23節で、“ゼパニヤ 2章3節に,「恐らくあなた方は……隠されるであろう」と述べられているのはなぜでしょうか。”と問いかけ、“エホバに守っていただくには努力が必要である,ということです。今,一生懸命に努力して柔和な人になり,エホバに喜んでいただけるようにすれば,「エホバの怒りの日」を生き残り,永遠に生きられるのです。”とあります。本当でしょうか?」
「ゼパニヤは、必ず守られるではなく、“恐らく”と言っているね。それは努力の必要性を訴えるためだって?いかにもJW的解釈だ。一生懸命組織の言うとおりに、伝道したり集会に出ていれば救われるという教義だからね。でも、そんな思想はゼパニヤにはないよ。救いは神が決めることで、人間にはわからない、だから“恐らく”としか言えない、そんな意味だよ。」
「新しい訳では、“恐らく”がありません。英文では、“Probably”があるのに。この単語を見落としたのか、意図的に無視したのか。後者であれば排斥処分ですよ。」

#937 2019年04月26日 14:42:25

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、平成最後で、“感謝を表わすべきなのはなぜですか”です。組織の偉い人に感謝し、王国会館の掃除をまじめにやれ、という内容です。」
「王国会館を高く売るためには、メンテナンスをしっかりしろということだろう。統治体に感謝を捧げようと言わないだけまだましだね。」
「でも、17節で、神に感謝するという部分で、“エホバは信仰を強めるために必要なものを豊かに与えてくださいます。例えば,集会や雑誌やウェブサイトを通して,大切なことを教えてくださいます。”とあります。ここでいうエホバは統治体のことですよ。」
「ゴマすり屋の執筆者が、初めは統治体と書いたけれど、それはまずいと言うことで、後でエホバに変えさせられたというところかな。」

「1節に10人のらい病人の話が出ています。イエスに治してもらったのに、感謝したのはサマリア人ひとりだけという話です。古い訳では、らい病なのに、この記事では“重い皮膚病”となっています。新しい訳に基づいているのですね。」
「英文は、leprosyでらい病だよ。それを翻訳者が勝手に変えた。統治体が承認した表現を、いくらその表現が不適当とわかっていても、翻訳者ごときが勝手に変えてはいけないはずだ。組織の上の決定には、間違っていても黙って従うというのが、正しいJWの生き方だろう。翻訳者は、統治体に逆らう分派主義者。」
「JWは、カルトらしく、差別的と言われようが、医学的に不正確と言われようが、らい病という言葉を連呼すべきですね。」

「10人のらい病人の話に戻すと、この話のテーマは感謝ではなく信仰だよ。この話の最後のイエスの言葉は、“あなたが良くなったのは信仰があったからです”。このサマリア人は、祭司の所に行かずに、イエスの“の足もとにうつ伏して感謝した。”これはイエスを崇拝している。」
「その後、イエスは、“神をたたえるために戻ってきたのは,この他国の人だけなのですか”と言いますが、イエスを崇拝することが、神をたたえることになるという意味ですか?」
「そうなんだけど、これはイエス自身の考えではなく、後のキリスト教の思想だろうね。」
「この話自体は史実というよりキリスト教の寓話ですよね。」
「イエスは、サマリア人のことを“この他国の人”とよんでいる。元のギリシャ語はallogenésで新約聖書ではここにしか出てこない単語だけれど、エルサレムの神殿で使われている有名な単語なんだ。」
「エルサレムの神殿で外国人はここから入ってはいけません、入ったら死刑と書かれたところがあったわけですが、そこで使われている外国人を指す単語ですね。」
「サマリア人は外国人なので、神殿では崇拝できなかった。ユダヤ人ではなく、その差別されているサマリア人が正しい崇拝場所を見つけたという逆説を表している。」
「ルカではイエスは人類の救い主ですから。それから、ルカの福音書ではキリスト=神という、いわゆる“高いキリスト論”になっているということですね。」
「そのような個所はルカの福音書の中にいくつかある。例えば、8:38、39. 悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出した後の場面。“しかしイエスはこう言って男を去らせた。  「家に帰り,神がしてくださった事を語り続けなさい」。男は去っていき,イエスがしてくれた事を町中で広めた。”ここで神=イエスになっている。イエスをたたえることは神をたたえることであるという理解だね。」
「“低いキリスト論”にこだわるJWとは違うということですね。」

「4節で、“エホバは様々な方法で感謝を表わし,手本を示しておられます。 その一つは,ご自分に仕える人に豊かに報いることです。(サム二 22:21。詩 13:6。マタ 10:40,41)”とあるけれど、ここに出ている聖句はどれも、感謝なんか示していないよ。“報い”を与えると書いているだけ。」
「神が人間に感謝するという発想は、意外ですね。そんなことありますか?」
「神様は、いい子にしていたらご褒美をあげるよ、悪い子だと殺す、といっているだけ。神様が人間に感謝したということが聖書のどこに書かれているのか教えて欲しいよ。」

「7節から、“感謝を表した人たち”が取り上げられます。最初はダビデなのですが、“真の崇拝の素晴らしさを認め,その気持ちを言葉や行動で表わしました。神殿建設 のために莫大な財産を投じました。”とあります。これって、王国会館建設にもっと寄付をしろということですよね。」
「7節の最後は、“彼らにどのように倣えるでしょうか。”だから、神様に感謝しているJWは、ダビデに倣って、もっと寄付しろということだろうね。ダビデは単なるならず者だと思うけどね。」

「11節に、感謝をあらわさなかった人として、エサウを取り上げています。“神聖な物事の価値を認識しませんでした。(略)エサウはたった1杯の煮物と引き換えに,長子の権を弟のヤコブに売ってしまいました。”この文は正しいですか?」
「ローマ9:11-13でパウロは、“誰が神に選ばれるかは,人の行いにではなく,招く方に懸かっている,ということが示されるよう,双子がまだ生まれておらず善も悪も行っていなかった時に,「兄が弟の奴隷になる」とリベカに告げられたのです。”と書いている。」
「パウロの見解では、エサウとヤコブが生まれる前に、二人の運命は決定されていたということですね。エサウを感謝知らずと、非難するのは無意味ですね。」
「この考えを拡大していくと、カルヴァン派の予定説、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められている、という教義になっていく。」
「JWは予定説には否定的ですね。しかし、神の予知能力は認めています。選択的に予知すると“洞察”の“予知,あらかじめ定める”に書いています。ご都合主義的見解ですね。」
「JWは、終末カルトにすぎないから、本格的なキリスト教神学をまともに論じる能力はないでしょう。“洞察”の記事でも、百科事典から引用しているぐらいだからね。高校生のレポートレベルということだよ。」

「14節以降は、誰に感謝すべきかを扱っています。最初は家族です。14節では、“妻に感謝している夫は,妻のりっぱな言葉や行動に気づくだけでなく,「立ち上がり,これを称賛」します。(箴 31:10,28)”とあります。箴言31章は、箴言の最後で、まとめの部分です。そこに妻をほめたたえる詩があるのは不自然です。聖書の思想は女性蔑視ですから。」
「箴言31:10—31は、箴言の最後を飾る詩で、各行はアルファベット順に並んでいる。内容は詩篇111とよく似ているのでそれをもとにしたんじゃないかな。初めの、31:10は、“有能な妻を誰が見つけられるだろうか。彼女はサンゴよりもはるかに貴い。”となっているから、優れた妻を賛美している詩のように見えるけれど、この妻は知恵の擬人化されたもの。知恵は女性名詞なので女性として描かれる。箴言は知恵文学というジャンルの本で、最後は擬人化された知恵を賛美して終わる。そういう構成なんだ。」
「新世界訳では、“さんご”ですが、新共同訳では、“真珠”です。どちらが正しいのですか?」
「もとのヘブライ語は意味がよくわからない単語なの。でも“さんご”はダメだね。ヨブ28:18に、“サンゴも水晶も言うまでもない。知恵は真珠よりも価値がある。”とある。真珠と訳されている単語は、箴言で“さんご”と訳されている単語。ヨブ28:18では、初めにさんごが出ているので、“さんご”とは訳せないから、ここでは真珠と訳している。何の統一性もない。新世界訳はダメだね。」
「真珠が正しいということですか?」
「ところが、哀歌4:7に、“サンゴよりも赤みがかっており”という表現があり、ここで“さんご”と訳された、意味不明の単語は、赤い何かだということがわかっていいる。最近の訳は赤い宝石である“ルビー”とすることが多い。」

「16節で、病気になった28歳の長老ホルヘの話が出ています。“思うように活動できず,会衆の責任も果たせなかったので,自分は役立たずだと感じていました。”とあります。この人にはJW としての自分しかないのですね。会衆の仕事なんてそんなに重要ですか?」
「子どもの時からJWとして育ち、多くの同年代の子どもはJWを辞めていくのに、ホルヘだけは、進学もせず、底辺の仕事をしながらJW活動に取り組み、長老になった。彼の人間としての価値はそれだけ。JWを取ったら何も残らない。落ち込むのは無理もない。」
「その若造長老に、ある人が感謝するのですが、“ここ数年の兄弟のお話がとても大きな助けになってきました。”というのです。もはや過去の人扱いです。それなのに、“涙があふれてきました。わたしが本当に必要としていた言葉でした。”と反応しています。ばかですね。」
「JWの会衆内は、妬みや嫉妬があふれていることを、ホルヘは理解していないのだろう。若造の長老の言うことなんか、本音では、みんな聞きたくないんだよ。病気になって、おとなしくなったので、喜んでいるだけだろう。」
「無知無学で、社会的経験もない若造の、筋書き通りの話しに誰が真剣に感謝などしますか?」
「ホルヘは病気のせいで、収入もなくなり、かなり落ち込んでいるようだ。こういう精神状態の時にカルトに入りやすい。心配するまでもなく、もうすでにカルトの一員か。」

「18節で、“王国 会館の清掃やメンテナンスに定期的に参加しましょう。会衆の音響機器などは大切に使ってください。”とわざわざ注意しています。無知なJW が手荒く扱って、壊すのでしょう。会衆によっては、男性は老人しかいないので、新しい機械は全く扱えないようです。」
「それでも女性には、その素晴らしい“特権”を与えないんだよね。JWでは女性の方が有能だろう。」

「19節は巡回監督とその妻に感謝しようという内容です。巡回監督の中には、蛇のように嫌われている人がいますから、わざわざ感謝の対象にしているのでしょう。」
「妻が旅行する奉仕をやめたがっていたら、支部から妻をねぎらう手紙が来て、“妻はその称賛の言葉に心を大きく動かされ”、それ以来やめようといわなくなったという話がでているけれど、JWって本当に北朝鮮並みの単純な人たちだね。偉い人から褒められて感激したんだ。その手紙を額に入れて飾っているかもね。」
「組織としては、手紙一つで、不満分子の態度をころりと変えられるのなら、安いものですね。」
「最後の3節には、聖書からの引用が一つもない。記事の内容は、聖書とは無関係ということだね。」

#938 2019年05月03日 23:14:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「連休中ですが、予習に来ました。次回のものみの塔は、“愛と公正 古代イスラエルにおいて”で、モーセの律法から、いくつかつまみ食いをして、今の組織を弁護する内容です。世界各地で問題化しているJWの児童の性的虐待について扱っていますね。」
「統治体のレットは、児童虐待は背教者のデマだと言っていたけれど、今頃になって、そんなウソは通用しないと判断したんだろうね。」
「“何を学ぶか*”では、“子どもたちを性的虐待から守るにはどうすればよいか,虐待の被害者をどのように助けられるかが取り上げられます。”とあります。」
「しかし、2節では、“モーセの律法 *を調べて,エホバがご自分に仕える人々をどれほど深く気遣っておられるかを考えましょう。”とある。的外れだね。人権思想のない古代の律法をありがたがっているから、JWは犯罪に鈍感なんだよ。」
「古代の律法をJWの長老マニュアルに見立てているんですよ。律法は愛と公正に基づいているように、今のJWも愛と公正だ、と言いたのですよ。」

「律法が愛と公正に基づいている?あくまでも男性の観点から見たら、そうかもしれないという程度だろう。」
「律法は、女性差別的ですし、子どもの教育や保護に関してはほとんど何も言っていませんよね。」
「6節に、“イスラエル人の夫が妻を親切に扱うことを願っておられました。”とあるけれど、古代イスラエルでは、一夫多妻が認められていたし、メカケを持つことも認められていたよ。女性からは離婚は言い出せない。また結婚に際しては、処女性は女性だけ求められて、男は売春婦といくら関係を持っていても問題視されない。これが、愛と公正の神の律法と言えるかな?男に都合がいいだけじゃないの。」
「処女性に関して、申命記22:13-21がひどい内容です。結婚後、妻のことが嫌になった夫は妻が処女でなかったと訴えることができるのです。処女の証拠があった場合、夫は罰金を払うだけです。なかった場合、妻はなんと死刑になります。愛と公正の律法などと決して言えませんね。」
「申命記の作者が医学的に無知な男だということがよくわかる。処女の証拠って、出血の跡のこと?処女だからと言って、性交後に出血するなんて決まっていない。しかも、出血の跡なんていくらでもごまかしがきくだろう。経血と区別なんかつかないだろうし。」
「処女膜という薄い膜があって、そこを突くと必ず出血すると古代人の乏しい知識で想像していたんじゃないですか。律法のもとに暮らした女性は不幸ですね。」
「同じ申命記22:28,29もひどいよ。男が未婚の女性を強姦した場合、娘の父にお金を払い、その娘と結婚するという内容だ。強姦の犯人にはそれ以上の刑罰はない。」
「こんな律法を、“愛と公正”とみなしているから、JWの性犯罪に対する見方が異常なのですね。」

「7節に、“律法を調べると,エホバが子どもたちの幸福を心から願っておられることも分かります。”とあるけれど、引用されている聖句は、そんなことは書いていない。」
「申命記6:6‐9が参照され、そこには“私が今日命じるこれらの言葉があなたの心に入っていなければなりません。あなたはその言葉を自分の子にしっかり教え”とあります。これは何を教え込むのですか?」
「その前の5節に、“あなたは,心を尽くし,力を尽くし,自分の全てを尽くして,あなたの神エホバを愛さなければなりません”とあるから、このことだろう。子どもの幸福とは直接は関係ないよね。」
「“親は子どもがエホバの律法を学んでエホバを愛するよう,あらゆる機会に助けなければなりませんでした。”とありますが、聖書は女性差別主義なので、教え込むのは当然、男の子だけですよね。JWはそのことには触れません。」
「律法において、女性は宗教儀式や教育から排除され、奴隷より少しましな存在という扱い。JWも古代の習慣にならって、女の子を集会に連れてくることを禁止したら?」
「女の子は喜びますし、性犯罪の犠牲にもなりにくくなりますね。」

「6節の下にある挿絵だけど、赤ちゃんがおむつをしているのはおかしいだろう。日本で、布おむつが普及したのは江戸時代と言われる。古代イスラエルで、おむつ用の布が手に入るわけがない。現代でも、貧しい国の子どもは下半身むき出しでいるよ。」
「下半身むき出しの挿絵だと、JWの中にいる小児性愛者を刺激するので、嘘だとわかっていながら、子どもにおむつをつけさせたんですよ。」
「この挿絵は、古代人の生活を美化しすぎだ。現代人から見れば、古代人の生活は不潔で、非衛生的で病気だらけだ。この赤ん坊が大人になれる確率はせいぜい50%だよ。」

「7節に、“親は,子どもを持ち物ではなく,エホバから与えられた大切な贈り物と見るべきでした。育児放棄や虐待など,あってはならないことでした。(詩 127:3)”とありますが、体罰問題について、完全に沈黙しているのがズルいですね。」
「箴言を見れば、体罰はどんどん行え、と書いてある。それを真に受けて、体罰で子どもを死なせたJW もいたよね。」
「JWと言えば、過酷な体罰で子どもを虐待する狂った宗教というイメージが出来上がっているわけですから、釈明するなり、あるいは開き直って、自分たちの正当性を主張するなりすればいいのに、何もしないで済まそうとしているところがズルいですね。」
「引照聖句の詩編127:3は、“子は神からの贈り物”とあるけれど、同じ詩編の137:8,9では、“バビロン,おまえはもうすぐ壊滅させられる。おまえが私たちに加えた仕打ちで,おまえに報いる者は幸せだ。 おまえの子供たちを捕まえて,岩にたたきつける者は幸せだ。”とある。最低の聖句だろう。狂信者としかいいようがない。」
「自分たちの子どもは大事にしても、敵の子どもは喜んで岩にたたきつけて殺す。これこそ旧約聖書の倫理ですね。」
「幸い、ユダヤ人は弱小民族で、いつもやられる方だったけどね。強大だったら、周囲の民族はどうなったんだろうね。」

「8節が6つある教訓の最初の教訓です。“親が子どもを愛することを願っておられます。子どもを虐待する親には責任を問われます。”とあります。問題はどう責任を問うのかなんですが、それについては何も言っていません。」
「教訓で一番おもしろいのは、15節にある3つ目で、“エホバに仕えると主張している人がエホバの規準を無視し,会衆のだれかに害を及ぼすとしても,それはエホバのせいではありません。(略)他の人に害を及ぼした人が悔い改めないなら,しかるべき時にその人の責任を問われます。”と、教訓というより、犯罪を隠ぺいしてきた組織の自己弁護になっている。”」
「会衆内での犯罪は誰の責任か明確にしていません。加害者の責任さえあいまいです。“悔い改めないなら”とありますから、悔い改めたら、犯罪者は責任も問われず、会衆内で野放しという可能性もあるわけです。悔い改めさえすれば、排斥処分にもならないようですね。普通の社会では考えられません。」
「“しかるべき時にその人の責任を問われます。”というのは、要するにエホバを待って、なにもしないというJW得意の問題解決法ね。」

「教訓4は、18節で、“エホバは,わたしたちが行なうことすべてに関心を持っておられます。(略)わたしたちが家にいる時に言うことや行なうことにも注目しておられるのです。”で、家庭で子どもにへんなことをするなというメッセージです。」
「子どもに対する性犯罪は、家庭で行われるケースが多い。アメリカで裁判になったJWによる子どもの性的虐待も家庭での犯罪というのがあった。」

「20節で、“訴えられた人には,だれが訴えているのかを知る権利がありました。(申 19:16‐19; 25:1)有罪 とされるためには,少なくとも2人の証人の証言が必要でした。”とあり、この古代のルールを相変わらず適用し続けるのですね。」
「JWの宗教裁判では、今までは性犯罪の被害者は加害者と同席させられることが多かった。これはおかしいと、非難されている。被害者は、その場合、加害者を恐れて本当のことが言えなくなる。2人の証人も、性犯罪では無理な要求で、これもおかしいと非難されている。しかし、改めるつもりはない。」
「2人の証人ルールに固執することの批判を踏まえて、“目撃証人が1人しかいない場合はどうでしたか。その人は処罰を免れられると考えるべきではありませんでした。エホバがご覧になっていたからです。”と言い訳を言っています。神が罰するそうです。」
「滅茶苦茶なことを言っているね。もしそうならすべての犯罪は人間が処罰する必要性はないということだよ。どんな犯罪も、すべて神が見ています、神が罰するでしょう、で終わりだ。警察も裁判所もいらないと主張したらいいよ。」

「教訓5は、21節で、“邪悪なことを行ないながら処罰を免れているように思える人がいるとしても,エホバはふさわしい時に必ずその人を処罰されます。”で、教訓6は、24節で、“エホバは,責任ある立場の人が自分の監督下にある人すべてを愛情深く気遣うことを望んでおられます。また性犯罪を憎み,すべての人,特に,非常に弱い立場にある人が保護され,公正に扱われることを願っておられます。”と、性犯罪者が会衆内で犯罪を行っているし、実質的な対策はなにも行われていないけれど、組織の公式見解は性犯罪を憎む、だから、なるべくそんなことはしないでね、というメッセージですね。」
「“責任ある立場の人”って、長老のことだよね。でも、JWの長老は、性的虐待の問題を適切に扱えるような知識もないし、訓練も受けていない。そんな長老が被害者を公正に扱うなんて期待できないだろう。」

「正面から、児童の性的虐待を取り上げ、謝罪するという気持ちがないから、聖書から教訓を得るといういつものJWスタイルの文章にして、間接的に児童の性的虐待を警告するということにしたのでしょうね。」
「古代の律法で見倣ってほしいことは、裁判の公開性だ。裁判は町の門など人が集まるところで行われた。それに対し、JWの宗教裁判は、密室で、議事録もないし、録音も許可されない暗黒裁判だ。公開性は教訓にはしないし、できないのだろう。」
「世界各地の本当の裁判で、JWは訴えられています。JWも児童の性的虐待について取り組んでいますと、弁解できるように、この記事は書かれただけで、本気でJWの裁判ごっこを変えようという気はないのですよ。」

#939 2019年05月04日 16:34:35

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

願っているだけで何もしないできない、「いつか罰する予定です」と信者に誌面で書いてもらうだけで、自分では何もしゃべれない偶像神。

悔い改めたかどうかなど、長老のさじ加減。

社会問題化する以前は「ちょっとしたいたずら」程度の扱いで、ジョナサンケンドリックがそうであったように、日本でも排斥になるケースはほとんどなし。

しかも見ている人がいるはずもない性犯罪で2人の証人ルールだから、自白がなければ排斥にできない。そのすべてが密室裁判(そこは旧約には倣わない)で公表せず通報もせず、性犯罪者からしたら「組織の評判」や「エホバの名」を人質に取れるので、ここまで徹底して匿ってくれる組織はなかなかありません。


こんな偽善的な裁判ごっこで「会衆を保護している」と主張するが、仮に排斥されても社会的には野放しで、会衆外の子どもがターゲットになる。

「自分の組織だけ守ればいいんですか?地域の子どもを守る責任は感じないんですか?」とオーストラリアの公聴会で尋問された長老は顔を真っ赤にして何度も返答に詰まってましたね。


それを知りつつ「家族の幸せのために聖書のアドバイスを~」と伝道するよう指導しているとは、どうしようもない連中です。

#940 2019年05月08日 07:06:41

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

アブラムがサライのことをエジプトで「妹と言ってくれ」といったことに対しサライは腹違いの妹なので
嘘を言っているのではないと反論されました。

異母妹という点について 聖書についての質問さん はどうお考えですか?

ある女性は「なんかキモい」といってましたがこれが自然な感情だと思います。

#941 2019年05月08日 14:43:40

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

新約聖書も大概。男は会衆の頭だとか、女は慎めとか。結局、聖書は初めから終わりまで
男尊女卑。イエスの言葉自体、癒やしを求めた女に対し、「小犬にエサを投げてやる」だの例えが酷すぎ。
イエスの足を女が髪で拭いたとかキモい。これを受け入れるとかM気質もいいとこ。

#942 2019年05月08日 16:38:46

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

#1011の万年研究生さんの質問にお答えします。

アブラムが、自分を守るために、妻に対して「妹と言ってくれ」と頼んだという話しですが、これは創世記12章(エジプト)と20章(ゲラル)にほぼ同じ話が出てきます。またイサクとリベカと登場人物が変わるのですが、26章にも同様の話が出ています。

同じ話が、登場人物、場所、状況を変えて複数出てくるのが創世記の特徴です。創世記は、複数の文書を寄せ集めてできたので重複が生じたと考えられています。12と26章はJ資料から、20章はE資料からと通常は考えられています。

12章のエジプト編では、アブラムは、「ちょっと聞いてほしい。あなたはとても美しい。だから,あなたを見たエジプト人は,『この人はあの男の妻だ』と言い,私を殺してあなたを生かしておくだろう。 それで,私の妹だと言ってくれないか。そうすれば,私は無事でいられる。あなたのおかげで,死なずに済むのだ」。と頼みます。

これは、妻が本当は妹ではないことを意味しています。妹ではないので、妹と言ってくれないかと頼む必要があるわけですね。

そのあとサライはファラオの家に招き入れられて、相当な高齢であるにもかかわらず、その美貌と肉体でファラオを喜ばしたのでしょう(聖書には何も書かれていませんが)、アブラムにご褒美がたくさん与えられます。ところが、ファラオの家では災厄がおこり、それが、なぜかファラオはサライのせいだと正しく理解し、アブラム一家をなぜか殺さずに、追放します。話としてはあまり練られていませんね。

この話では、アブラムが妻をファラオに差し出し、褒美をもらいます。これって売春行為のようなものです。にもかかわらず、神様はなんにもいいません。この話の道徳性は極めて低く、うまくエジプトのファラオをだまして、褒美をもらって逃げたことを自慢しています。

20章のゲラル編では話の要点は同じですが、細部が変えられていて、12章より道徳性に配慮したものになっています。ゲラルの王アビメレクは、サライを連れてこさせるわけですが、夢に神様が現れてアビメレクに警告します。夢でお告げをするというのはE資料が好む題材です。ここで神様の言うことは滅茶苦茶です。アビメレクはだまされた側なのに、「彼女を返さないなら,あなたもあなたの家の人たちも皆,必ず死ぬことになる」と神様に脅迫されるのです。

その後、アビメレクはアブラムを非難するのですが、アブラムは次のような弁解をします。「『ここの人たちには,神への畏れがない。だから私は,妻を奪おうとする人たちに殺されるだろう』。 それに,彼女は実際に私の妹なのです。私の父の娘であり,母が違うだけです。妹が私の妻になったのです。 それで,神に命じられて父の家族から離れ,旅を始めた時,私は彼女にこう言いました。『どこへ行くとしても,私のことを「兄です」と言ってくれないか。そうすることで,私への揺るぎない愛を示してほしい』」

これは本当なのでしょうか???? 本当に、ここの人たちは神の畏れがないの?いいえ、アビメレクは夢の中の神様のお告げを信じて、直ちにお告げ通り実行しました。アブラムは失礼な奴です。

また、旅を始めたとき、『どこへ行くとしても,私のことを「兄です」と言ってくれないか。』と言ったって?ここで初めて出てきた言葉だよ。

アブラムの言い訳で一番の問題は、「神に命じられて父の家族から離れ,旅を始めた時」という部分です。要するに、自分は神様から命じられたので仕方なく、各地を放浪して、おかげであちこちで危険な目にあっているのです、と泣き言をいっているのです。神様のせいにして、自分を守ろうとしている卑劣な男だ。

やっと、万年研究生さんの質問にかかわる部分となりました。以上の点を踏まえると、「彼女は実際に私の妹なのです。」と言うアブラムの主張は信用できるでしょうか? いいえ。私の意見は、これはアブラムの口からの出まかせです。この話でのアブラムは自己保身しか考えていない嘘つきのポン引き野郎です。

妻を妹と偽る話の要点は、うまく騙して異民族の王様に一杯食わしてやった、俺たちの祖先もなかなかやるね、ということです。そのため道徳性はあまり問題にしないのです。旧約聖書の話をありがたがって読んではいけません。


次に、異母妹と結婚することはキモイのか、についてです。

結婚の仕組みは、内婚制と外婚制の二つに分けることができます。内婚制は、自分の所属する特定の集団の中から結婚相手を見つけなくてはならないというもので、外婚性は、逆に自分の所属する集団の外に結婚相手を求めなくてはならないというものです。

聖書を見ると、両方の例がありますが、古代になればなるほど内婚制が強いようです。アブラハムは創世記24:3で「私の息子の妻を,私の周りに住んでいるカナン人の娘の中から選んではなりません。私の故郷,私の親族の所に行って,息子イサクのために妻を連れてくるのです。」といっています。これは内婚制が標準的だったことを示唆しています。

内婚制で一夫多妻制という社会では、他に適当な相手がいなければ、異母妹を妻にするということもそれほど不自然ではないと思います。現代のアラブ社会も内婚制で、いとこ同士の結婚がごく普通です。

内婚制は一族の財産が、一族以外の人間にわたらないようにするという側面があります。結婚の仕組みは経済的な要因に強く影響されるようです。

#943 2019年05月08日 16:49:22

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

質問さんすごく分かりやすく説明ありがとうございます

オフライン

#944 2019年05月08日 16:57:11

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書の不寛容さが戦争を引き起こす。新約も同じ。見なよ。黙示録なんぞ信じてるから
カルトが横行して。あれはどう読んでも当時の信者向け。

#945 2019年05月08日 17:17:21

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

シセイ さんの発言:

新約聖書も大概。男は会衆の頭だとか、女は慎めとか。結局、聖書は初めから終わりまで
男尊女卑。イエスの言葉自体、癒やしを求めた女に対し、「小犬にエサを投げてやる」だの例えが酷すぎ。
イエスの足を女が髪で拭いたとかキモい。これを受け入れるとかM気質もいいとこ。

女の頭は男となっていますが、仕える事は、人間としての本質が劣っている事を示しません。

同様に、イエスが父なる神に従う事も、何ら神としての本質が劣る事にはなりません。

ユダヤ人は異邦人を犬に例えていましたけれども、「子犬」と言われることにより、表現を柔らかくしていると思います^_^

足を髪で拭いたのも事実であれば仕方ないのではないでしょうか。

#946 2019年05月08日 17:27:27

シセイ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

女が聖書書かなかった時点で話にならない。来世に期待。akameさん。同意。

#947 2019年05月08日 17:33:21

仰天
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

シセイ さんの発言:

女が聖書書かなかった時点で話にならない。来世に期待。akameさん。同意。

復活後のキリストが最初に現れたのは女性の前です。

#948 2019年05月08日 19:16:15

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

わかりやすくまた丁寧な解説ありがとうございます。

内婚、外婚についても大変勉強になりました。
現代人の感覚でキモイでは何も勉強につながらないのですね。

ありがとうございました

#949 2019年05月08日 19:31:03

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

是非、他のトピにも出てください。

以前から思ってました。ここだけではもったいない ^ ^

#950 2019年05月08日 19:38:19

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

新トピなども期待します。♪

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