ログインしていません。

#876 2018年12月16日 20:34:07

三太郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

irisさん こんばんは。

端折ったので少し要旨が伝わりづらかったかもしれません。

言いたかったのは、ダイヤモンド博士は大量虐殺の抑止力として中央政府の存在を挙げていましたので、族長制と推測される縄文社会より、クニとして成立していた弥生社会の方が、大きな争いが多かったのは何故なのかということです。弥生時代のクニは、税徴収をしていたようですので既に国家として成立していたとみていいと思います。そこで第6回で取り上げた農業にも要因があるのだろうということです。

それにしても、人間が虐殺に走る大きな要因としての“us vs them”の背後に、動物から引き継いだ獣性があるというのはどうなのかなと思いました。ゼロではないと思いますが。おそらく民俗学者の大半は反論するのではないでしょうか。

「美作騒擾」(みまさかそうじょう)という事件をご存知でしょうか。

1873年岡山県で、約3万人の農民が被差別部落を襲撃した事件です。
この事件で、被差別部落民が18人殺され、襲った側は15人が死刑、2万7千人が処罰されました。
これは日本の歴史から危うく消えそうになった事件でもあります。こんなことが明治時代の日本で実際にあったのですね。

http://gendainoriron.jp/vol.02/serial/se01.php

『美作騒擾記』の中に当時の生々しい記録が残されていますが、このリンク先の中でそれを転載した人も次のように述べています。

「パソコンのキーボードをたたき文章を転載するだけで、こちらの心が凍ってくる。人間はここまで残酷になれるのかという立ち振る舞いである。」

人間が人間に対してここまで残虐になれるというのは、獣性だけで説明しきれないような気がします。

この残酷性の深層には、「穢れ」の観念があるとする民俗学者は少なくないようです。
「穢れ」は仏教や神道だけの観念ではなく、それに相当する観念は世界中にみられ、その定義は未だに明確になっていません。非常に深い問題ですので、これ以上は扱えませんが、解明にはまだまだ時間がかかると思われます。

でも、これはたぶん獣性だろうというのがあります。
動物界で目と目を合わせることは、敵意・威嚇を意味するそうです。
昔はよくありました。すれ違いざまに目と目が合うと、ガンをつけた、ガンを飛ばしたとか言って喧嘩になることが。
これこそ獣性を引き継いだものだと思います。こういう連中は獣性が強いので動物に近いということになりますね。

#877 2018年12月18日 18:39:14

山のアザミ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

今晩は
このコーナーへの投稿が適切かどうかわかりませんが、
何名さまかが、ここにご意見述べられてらっしゃるから、私もここに書かせて頂きますね。
TVでダイヤモンド博士のシリーズを好んで見ていらっしゃる方々を知り、私も先週初めて見ました。
しかし、びっくりしました。破壊と文明、の題目で動物の絶滅の事など述べておられましが、気になったのは博士は何度か「進化を遂げた結果…」という言葉を使われていたことです。頭が混乱しました。進化を認める方がどうして、おびただしい動物に関しての見解をのべる事が可能なのでしょうか?
私はガッカリしました。
生命が「進化」と考える事は、生きる意味、価値が失われると、私は考えております。
どんなにエホバの証人を嫌っても、聖書は人が書いたものらしいと認めても、私は、聖書全てを否定しておりませんし、聖書には正に神の見解だと思われる箇所があることを認めています。
私は何回か、大怪我をし、その都度、大事に至らず助かって現在に至るのも、守ってくださる神がおられたから!と認めているんです。
また、私の実質年齢ももう若者ではありません。若い貴重な時期を例の組織で失ってはしまいましたが、まだまだ人生を諦めたりしませんよ。
様々な出来事を経験した今年ももう僅か。幾つかの希望や夢も消えたけど来年こそは、真に信頼し合える、新しいパートナーに出逢う希望や、新しい仕事見つけるなど、やはり、どこかの神に祈ります。(^з^)-☆

#878 2018年12月19日 00:29:24

山のアザミ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

もう一言

どんなに頭脳優秀であり、どれほど豊かな知識を持ち、大変なご苦労努力され今は確かな基盤を築き、どれほど雄弁な方であったとしても、生命は進化である、と主張する学者さんに共感するのであれば、その方が神を探求してきた長年の軌跡は何を意味するのでしょうね?例え間違った組織にかつては属したのであっても。神を認めたのでは無かったのですか?
私は、「生命は進化である。」と共感する方からは離れたいと感じます。その方への好意感情も冷めました。
その方の素晴らしい頭脳は神から頂いたものである事は確かなのに、それにさえ気付かないのにはガッカリしました。

今後はせいぜい、同じ興味をお持ちの方と交流されたら良いと思います。

#879 2018年12月19日 09:58:36

カレブ
Administrator

Re: アブラハムの神の限界

山のアザミ さん

おはようございます。興味深い書き込みありがとうございます。
一点よくわからないところがあったのですが以下の

>進化を認める方がどうして、おびただしい動物に関しての見解をのべる事が可能なのでしょうか?

という部分は、具体的にどんな意味でしょうか?

進化を認めるとどうして「おびただしい動物に関しての見解をのべる事」ができないと
感じられるのか、そのあたりを教えていただけますか?

オフライン

#880 2018年12月19日 13:13:35

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

わたしも不思議な主張だと思います。
JWをやめた人は現役時代と違う考えを持つよう変わってもよいと思います。
わたしもカレブさんと同じように山のアザミさんの考えを知りたいです…。

オフライン

#881 2018年12月19日 19:25:57

三太郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

山のアザミさん こんばんは。

個人的な見方になりますが、「進化 = 神は存在しない」の図式は成立しません。

聖書的創造論の最大の盲点は、「人間以外の生き物は人間のために存在する」というところにあります。
聖書は、あらゆる生き物は人間の私物であると言っているようなもので、この古い概念が色々な意味で障害や害悪をもたらしています。それと聖書って、新約がなかったらここまで広がってないと思います。

私は全ての生き物には霊が宿り、霊こそが本体であると信じるに至っています。もしかしたら、霊の進化が、肉体の進化を促しているのかもしれませんよ。

しかし、本当に神または神なる存在を信じている人にとっては、ぶっちゃけた話、どっちでもいいことかもしれませんね。
山のアザミさんが言っていることは、物理学者ボーアの言葉を借りれば、「神が何をなさるかを貴方が語るなかれ」なんです。時間はかかっても、いつかそれに気付いてください。

>どんなに頭脳優秀であり、どれほど豊かな知識を持ち、...

って、もしかして私のことですか?そう思ってらしたら、とんでもない勘違いです。
自分は脱塔後、可能な限り自らの感情を排し、過去の自らの信仰をブチ壊して、バカなりに様々な視点から考え、体系化したものを投稿してるだけです。
しかし、その努力は一定の成果を収めることができたと思っています。大先輩諸氏からは、お前などまだまだ甘ちゃんだといわれそうですが。

この掲示板の投稿者さんも、ご覧になっている皆さんも、各々が迷いつつも前進している姿が目に浮かびます。
神または神なる存在は、その過程を只只眺め、見守っているのではないでしょうか。

アザミ姉さん、人間止まったら終わりです。(^^♪

それから、あの番組は面白いのですが、突っ込みどころもたくさんあります。

持論があるなら、カレブさんやラハムさんの問いにも、ちゃんと答えてくださいね。

#882 2018年12月19日 20:44:12

死生観の者です
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

僭越ながら山のアザミさんの
>進化を認める方がどうして、おびただしい動物に関しての見解をのべる事が可能なのでしょうか?
とは、生物の多様性のことでしょうか。ダイアモンド博士の講義では、進化競争に負けた者は滅んで
当然と言っているように思えました。その主張だと多様性を否定することにつながるように思われます
が、南国の地においてもバナナとドリアンのように、バナナは人間に食べやすくなることで人間に愛され
受動的に繁殖を狙い、ドリアンは身を固くし、人間に食べづらくすることで攻撃的に繁殖を狙っている
ように(個人的見解ですが)多様性が地に満ちています。ダイアモンド博士の講義では、進化、選別が
行われて環境に適した者のみが生き残るという主張に私には思えましたので、博士の主張する進化論だけ
では今日の多様性は失われるかもしれません。進化論を否定はしません。ただ少し乱暴な講義だなと思います。

#883 2018年12月20日 13:55:55

山のアザミ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

皆さまこんにちは

私は世の仕事で毎朝4時起き、寝れない日もよくあり疲れ酷くて本当はあまり投稿したくなくなってます。
実際、私にお金と才覚と情熱があり、会社経営でもすれば、今のような最低賃金の、1日5キロ歩いてする労働者にならずに済んだのに!と考えるこの頃です。更に幾らか身体障害あるから辛いですね。

で、最近休み殆ど取れないから、今日のうちに
私に対する皆様のご質問等に 幾らかお答えなどしたいと考えます。
私の意見を気にしていただき、ありがとうございます。

まず、私、「進化」の言葉聞くと大変な嫌悪感抱きます。
かつて、ヒトラー率いるナチスは600万人ものユダヤ人を殺害し、その内100万人は子供だったようです。
ナチスは、適者生存に関するダーウィン進化論に基づいた社会ダーウィン主義の見解を採用したのです。
わかりやすく話せば、ドイツ人以外の人種は全て進化の過程で、劣ったつまり出来損ないの人間だから、地球上からドイツ人以外の全ての人種の絶滅を目論んでいたらしいです。
  恐ろしいことです。

地上の動物の種類は2011年度調べでは870万種とありました。
しかし、いや、3000万種はあると言う学者もおられるとか。哺乳類、昆虫、その他全ての生き物の多様性を思う時、では、逆に私から皆様に質問します。

それぞれ、一種類づつ見ても、いつ、どのような過程で、どう変化していったのか、なぜ変化(進化)する必要があったのか?

その生物の元は何だったか?

例えば、古代存在したマンモスは人間が食用のため、捉えて、絶滅させた、と言われてますが、ではその子孫と言われる現在の象さんはその時何処に居たのか?
第1、マンモスだって、いつ何からあれほど大きく進化する必要があったのか?
では現在の870万種の生物一つ一つの進化の過程を説明してもらいたいものです。きっと不可
能です!
やはり、人の頭脳では計り知れない創造者の存在無くして生物は存在しない筈です。

以上、この程度では皆様の私への質問に対する答えにならない事も承知しております。
私、酷い睡眠障害の為、睡眠不足で考えまとまらないので、また、体調良い時書きます。

     (*☻-☻*)

#884 2018年12月21日 01:44:21

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

三太郎さん、こんばんは。

三太郎 さんの発言:

言いたかったのは、ダイヤモンド博士は大量虐殺の抑止力として中央政府の存在を挙げていましたので、族長制と推測される縄文社会より、クニとして成立していた弥生社会の方が、大きな争いが多かったのは何故なのかということです。

中央政府が率先して大量虐殺を主導することもありますからね。
無法状態よりはマシということかと思います。

三太郎 さんの発言:

それにしても、人間が虐殺に走る大きな要因としての“us vs them”の背後に、動物から引き継いだ獣性があるというのはどうなのかなと思いました。ゼロではないと思いますが。おそらく民俗学者の大半は反論するのではないでしょうか。

賤民を差別することには「穢れ」の観念が影響していると思いますが、残虐な行為そのものはやはり三太郎さんのおっしゃる“獣性”によるものと私は思います。

「人間と進化は関係ない!!」とお考えの方には大変お気の毒ですが、中枢神経系の基本的な構成は脊椎動物に共通です。
ですから、私たちヒトも脊椎動物の一種として、お魚さんやカエルさん、はたまたスズメさんやお猿さんと同じ原始的な脳に支配されています。

原始的な脳の一部である扁桃体は、快・不快などの判断を行い、情動を引き起こします。
例えば、敵に気づいた瞬間に恐怖や嫌悪を感じ、即座に逃避行動や攻撃行動に移るのは、扁桃体の働きによるのです。

普通は「人間らしい」行動をするように働く前頭前野(最も高度に進化した新しい脳の領域)が扁桃体の働きを抑え込んでいるので、嫌な奴に出会ったからといって、いきなり殴りかかったりはしません。

しかし、前頭前野はストレスに弱く、不安が高まったりすると働かなくなって、扁桃体が暴走するままになってしまいます。

美作騒擾の16年前の渋染一揆では、地域の民衆が被差別部落民と共闘して差別を撤廃させています。このときには地域の民衆にいくらか余裕があり、前頭前野が「穢れ」を越える人間らしさを発揮させたのでしょう。

一方、美作騒擾のときは「旧来の身分的特権喪失にかわる経済的措置が講じられず、人々は貧困を余儀なくされた」とありますので、生活の苦しさと自分たちの地位を脅かされることへの不安から扁桃体が暴走し、残虐な事件を起こしたと考えることができます。

人々を操るのに最も効果的な方法のひとつは、不安を煽ることでしょう。不安が高まると人間らしさを生み出す前頭前野の機能が低下し、普通の判断や思考ができなくなります。
美作騒擾の際も、筆保卯太郎らが白装束の男を登場させ、人々の不安を高めることに成功しています。

哀しいかな人間の精神は肉の奴隷なのですね…

オフライン

#885 2018年12月21日 05:47:01

山のアザミ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

おはようございます

今、出勤前だから、朝は少し頭冴えてるのでお聞きしたかった事思い出しました。

三太郎さんは随分以前から事業起こされていて社長をされてるのですね、素晴らしい!
その名も三太郎商店とか?
商品は何を扱われていらっしゃるのですか?

やはり、お店とか始めるには、資金、人々の需要調べるとか準備も大変でしょうね。
私もこんな生活では希望持てないから、何か始めたいとも考えるので、三太郎さんの経験、ご苦労をお聞かせ下さい!
しかし、都会でないと会社経営は難しいかもしれないですね。… (_ _).。o○

#886 2018年12月21日 07:45:00

三太郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

山のアザミさん おはようございます

もしかして文字通りに受け取ってますか。
そうだとしたら、わかりづらくてすみません。

三太郎商店は例えを使いました。
私、普通のサラリーマンです。

・JW をやめる → 退職する
・精神的支柱がなくなる → 収入がなくなる
・それを満たす新しい宗教組織を探す → 転職先を探す
・自営業を始める → 自立。他の宗教組織などに入らず、自力で精神的支柱を探す。

ということでした。

#887 2018年12月21日 08:20:33

通りがかり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

三太郎さん お疲れ様です。

ここを読んでる大半は初めから理解してるんじゃないかな。
わかりやすい例えでしたよ。

#888 2018年12月21日 11:18:44

めぐママ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

三太郎さん、irisさんありがとうございます。
渋染一揆については、しってましたが、美作騒擾というのは初めて聞きましてなんとおぞましいことと思います。
県北を舞台にした横溝正史の怖いはなし、も実話を元にしたらしいです。
ダイアモンド博士の講義、移民問題について聞きました。シリーズをビデオに撮っていましたが、消してしまったので、詳しくはわからないですが、とにかく色々な角度から見ること大切だと思います。
生命の起源についても、スリランカに降った赤い雨の正体をめぐり様々な意見があるようです。
断定するのは、早いですね。
癌の免疫療法をめぐり様々あるやうですし。

でも血液、唾液の一滴から、早期に発見出来るのは朗報です。
特定疾患治療研究事業も、頑張って欲しいです。
孫娘を預かり疲れたくらいで、ヘコタレていた自分が、情けない。自分で買い物行けるのですから、感謝します。

オフライン

#889 2018年12月21日 12:46:31

通りかかる
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

では、引き続き近所のJW少年と質問さんの予習内容に
注意を払いましょう。

次のプログラムを扱ってくださる兄弟をご紹介します。パチパチパチパチ。

#890 2018年12月21日 17:32:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“指導者であるキリストを信頼する”で、組織は衰退しているが、組織を指導しているのは統治体ではなく、キリストなので、統治体に責任はない、組織の命令はキリストの命令なのだから文句があっても黙って従え、そんな内容です。」
「衰退しているとは言っていないよ。4節によると、“神の組織が速いスピードで前進している”といっている。しかし13節以降がこの記事の主なところだね。」
「13節では、” 組織上の調整の理由を十分に理解できない時,過去にキリストが人々をどのように導いたかを考えるとよいでしょう。”、15節で、“週末の野外奉仕のために少人数で集まるようになり,寂しく感じている人たちがいました。”、16節で、“支部事務所の人員の削減について聞き,今が本当に緊急な時だと感じました。”、17節で、“最近の様々な調整のメリットに目を向けましょう。”、18節で、“文書の印刷数が減り,費用が節約されています。”、19節で、“世界中のベテル家族の人数が減った”、とあり、組織の衰退を認める文章が散りばめられています。」
「それでどうするの?」
「21節に、“様々な変化を経験しても,王また指導者であるキリストを信頼し続けましょう。”とあります。これが答えです。この場合、キリストは統治体の別名ですが。」
「統治体のしたことは、新しい本部の建設、不動産の売却、とコストカット。有給の職員の首を切り、費用の掛かる印刷などを削減した。相当不満があるのだろう。その言い訳が今週の記事だね。」

「ヨシュアとパウロの例がでています。ヨシュアの話はどうですか?」
「ヨシュアのことだけど、この執筆者は根拠のない推測が多いね。ヨシュアが指導者に選ばれたことを、1節では、“突然の変化でした。”と書き、2節では、“民が自分の指導にどう応じるか不安に思ったでしょう。”と書いてある。そんなことはないよ。」
「申命記31:2-3で、モーセは全イスラエルに向かって、“わたしは今日百二十歳となった。わたしは出入りすることをもはや許されないであろう。(略) エホバが話されたとおり,ヨシュアがあなたの前に立って渡って行く。”と説明会をひらいて、きちんと後継者の指名をしていますよね。」
「突然の変化でもないし、ヨシュアが不安に思う理由もない。神様がついているんだから。」

「3節に、“天使を遣わしてヨシュアとイスラエル人を導きました。 この天使は,「言葉」である神の初子だったと考えられます。”とありますが本当でしょうか?」
「その根拠が示されていないね。5:13では、“エホバの軍の君chief of Jehovah’s army”と名乗っているよ。これがイエスなの?」
「ところが、ヨシュア6:2では、“次いでエホバはヨシュアにこう言われた。”とあって、いつのまにか天使からエホバに代っています。それで、5節で、“ヨシュア記にはエホバがヨシュアに話したという記述がありますが,実際には天使を通して話していたと思われます。”と言い訳を言っているのですね。」
「旧約聖書では神と天使の区別はいい加減なの。」
「それがわかるのは、出エジプト記3章ですね。3:2で、“エホバのみ使いが,いばらの茂みの中,火の炎のうちにあって彼に現われた。”あと、モーセはその茨に近づきます。すると、3:4では、“エホバは,彼が調べようとして立ち寄ったのをご覧になり,神はすぐにそのいばらの茂みの中から彼に呼びかけて「モーセ,モーセよ」と言われた。”と続きます。天使からいつのまにかエホバに代わっていますね。」
「創世記16章でも、ハガルがサライによっていじめられて、荒野へ逃げると、16:7で“エホバのみ使い”が現れ、ハガルに話しかける。ところが、16:13では、“そこで彼女は,エホバつまり自分に語りかけておられた方の名を,「あなたはご覧になる神です」と呼ぶようになった。”とある。主のみ使い=エホバと解釈するしかないよ。」

「エリコの町の攻略の話が出ているのですが、これは史実ではないですよね。」
「ヨシュア記全体が史実ではないとさえいえる。イスラエル人がヨシュアという一人の指導者に率いられて、ヨルダン川を渡り、カナンの地を軍事的に占領したという史実はない。ヨシュア記は、後世の人が作ったお話がほとんどだろう。エリコの町を7回まわって、大声を出したら、壁が崩れて、ラハブとその家族以外は皆殺しというのは、史実というより、聖戦思想に凝り固まった祭司が作ったお話だろう。」
「でもJWは史実と思っていますよ。8節の最後に注があって、“考古学者たちは,エリコの廃墟の中から大量の穀物を発見しました。このことから,エリコの攻囲期間は短く,食糧が尽きなかったことが分かります。”と、考古学者がヨシュアによるエリコ攻略を支持しているかのような印象を与えようとしていますね。」
「現代の考古学者で、ヨシュア記にあるような征服戦争があったと信じている人はいない。」

「9節は面白いです。ヨシュアの話を受けて“この記述から何を学べますか。”と問いかけます。その後、話はなぜか、電子機器のことになり、電子機器を使うよう勧められた時,なぜだろうと思った人たちもいます。でも今では,電子機器を使うメリットを理解しています。”となります。ヨシュアの話と何にも関係ない強引な展開です。」
「今週の記事は組織の自己弁護が目的なんだよ。今のJWはiPadを買わされて、それを使いこなさなくてはならない。高齢者を中心に相当不満があるということだろう。」

「10節から、パウロがエルサレムに出かけた話が出ています。しっかり、“統治体”という言葉も出てきます。もちろんその当時、中央集権的な権力機構なんてないわけですよね。歴史のねつ造ですね。」
「この記事の執筆者は、パウロとエルサレムの使徒たちとの関係を理解していないね。両者の間には深刻な対立があって、最後まで解決できなかったと考えられている。ガラテヤ書を読むとそうとしか理解できない。ただ“使徒たちの活動”は、使徒たちが一致団結して福音を広めていったということを主なテーマにしているので、そのような対立は意図的に省略されている。」
「ガラテヤ1:1でパウロは、“人々からではなく,人を通してでもなく,ただイエス・キリストと,[キリスト]を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって使徒とされたパウロ”といきなり書いているのですが、自分の使徒職はイエスと神によって任命されたもので、エルサレムにいる使徒たちから任命されたものじゃないから、彼らに従うことはないという宣言ですよね。人間の統治体が存在したなんてパウロが否定していますよ。」
「そしてガラテヤ2:11から、異邦人との食事を避けたペテロとの対立の話が出てくる。」
「そのことについては、2:14では、“良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいない”とペテロたちを罵倒していますよね。」
「もし1世紀に統治体があったとすると、ペテロはその主要なメンバーだよ。ということは統治体は、間違ったことをするし、その際はパウロに倣って、遠慮なく罵倒してよい、ということだね。」

「11節に、使徒21章の話を取り上げています。パウロがエルサレムを訪問した時に、“4人の人を神殿に連れて行って,儀式上の清めを行なうようにという指示です。パウロは「そんなことをする必要があるでしょうか。本当の問題は,ユダヤ人のクリスチャン が割礼についてきちんと理解していないことではありませんか」と言うこともできたでしょう。しかし,兄弟たちの一致を強めたいという長老たちの意向を尊重し,謙遜に指示に従いました。”とありますが、当時の状況を理解していない、見当はずれのことを書いていると思います。」
「当時のパウロは、ユダヤ人の伝統を否定する危険な教えを広めているとして、多くのユダヤ人に命を狙われていた。実際どうなるかというと、神殿でアジアから来たユダヤ人たちに捕まり、殺されそうになるものの、ローマ兵に救われた後、カエサリアに移送され監禁される。それでもユダヤ人たちはしつこくパウロを殺そうと付きまとったので、パウロはカエサルに上訴し、ローマに連れて行かれる。」
「そういう危険な状況なので、パウロを狙っている人たちの気持ちを和らげるために、神殿で4人の人に清めの儀式を行うという提案がなされたのですよね。ものみの塔の記事とは違って、パウロとしては喜んで参加したと思います。」
「神殿での儀式参加は、パウロの命を守るための一種の策略だった。でも効果がなかった。パウロがどう思ったかは何も書かれていなのでわからない。」
「それをパウロは“謙遜に指示に従いました。”という通俗的な教訓話にしてしまうのがJWなんですね。」

「18節は笑える。“キリストは組織の資金を賢く使いたいと思っておられます。ぜひ協力しましょう。”だって。イエスがいつから金の計算をするようになったの?」

#891 2018年12月21日 18:33:07

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

わたしも三太郎さんのお話はたとえだと思っていました。
でも、脱塔者には必要な精神態度を表現してくれていると思います。

オフライン

#892 2018年12月27日 12:48:39

横から失礼
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

新世界改訂版 英語の前書きにここ50年の間に英語が変わってきたので
現在の翻訳委員会は改訂版を書かざるを得なくなりましたって書いてあるよ
日本語の変化はそんな急には起きないだろうから改訂版の日本語は作らないだろうね
言語の変化が起こりにくいのならアラビア語がいいよ 1000年前の文書も
そのまま読めるよ 方言がないならロシア語がいいよ
全能の神さまはご意思を伝えるのにどうしてアメリカ英語を底本に
お選びになったのかな frendは単なる知り合いに変わってきたからかな?
エホバは友 はtrue frend  really frendって言わないからかな?
どうして創造の時に永遠に無くならなくて変化しない言語造らなかったのかな

#893 2018年12月28日 16:37:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“状況が変化しても平穏な気持ちを保つ”で、ベテル奉仕者や特別開拓者を辞めさせられても、泣き言などいわず宣教に打ち込めというもので、JWの非情さがよくわかる内容です。」
「もうすぐ正月だけど、JWは正月も年賀状も関係ないからいいね。先週に続いて組織の自己弁護だね。最初の写真はクビを言い渡された時の様子に見える。夫が妻の手を握りしめているのが笑える。妻が逆上して、“これからどうやって暮らせばいいんですか”と叫んだので、夫が妻を黙らせるために、手を握りしめたということだろう。」
「夫のほうが、気を失いそうになり思わず妻の手をつかんだ、と見えます。」
「この記事の終わりごろに、この夫婦の幸せそうな5枚の写真が出ている。行きついた先は、東南アジアのどこかの、電気も水道もない田舎のようだ。インターネットもないから、JWの真の姿をごまかせる地域だ。」
「東南アジアには、ベテルをクビになった人が、生活費が安いということで大量に流入しているようです。もちろん、必要の大きな所だからというのが表向きの理由です。」

「1節に、“ロイドとアレクサンドラは25年以上ベテルで奉仕していました。ですから,野外に割り当てられた時,とてもつらく感じました。”とある。JWの本音が出ていて面白い。野外に出て宣教活動なんかしたくないんだよ。そんなことは能無しのJWのすることなんだよ。俺たちベテル奉仕者はエリートなんだよ、という本音だね。」
「2節では、“思いがけない変化があると,不安になったりストレスを感じたりするかもしれません。”と自分たちでクビを切っておきながら、まるで人ごとのように言っているのが無責任なJWらしくていいです。」
「ベテルをクビになることを、“思いがけない変化”と呼ぶんだね。」
「2節のその後は、“変化を受け入れにくく感じる時,どうすれば気持ちを「なだめ,静め」られるでしょうか。”と続きます。ベテルの大量解雇を、単なる気持ちの問題として処理しようとしているのがわかりますね。その背景にある財政難とその原因については沈黙したままというのが、統治体の不誠実さをよく示しますね。」

「8節に、“ベテルで25年近く奉仕したフィリップとメアリーについて考えましょう。”とある。要するに25年間働いた挙げ句、追い出されたわけだ。その間にまともな思考力を失ったようで、9節で、フィリップは、“『十分に 耐え忍[び]喜んで辛抱する』必要があることに気づきました。”といっている。組織からひどい扱いを受けているのに、喜んで辛抱するそうだ。」
「これはコロサイ1:11からの引用ですね。」
「これはコロサイの手紙の本論に入る前の挨拶部分。新世界訳では、“また,あらゆる力をもって[神]の栄光ある強大さのほどにまで強力にされ,十分に耐え忍ぶ者,また喜んで辛抱する者となり,”となっている。この訳ではわかりにくいけれど、要するに、神があなた方に力を与えてくれて、“十分に耐え忍ぶ者,また喜んで辛抱する者”となれますように、という祈りなんだ。」
「それをまじめなフィリップは、信者に与えられた義務としてとらえて、必死に実行しようとしているのですね。痛々しいです。」

「またヨセフが取り上げられている。ヨセフはJWお気に入りのキャラクター、トップ3に入るね。この記事では、状況が変化しても平穏な気持ちを保った模範的な例として挙げられている。」
「ヨセフがその時どう思ったかを勝手に推測しています。11節で“エホバに祝福していただくため,ベストを尽くそうと決意しました。”とあります。勝手に内面を推測し“ベストを尽くそうと決意しました。”なんて、中東に住んでいた古代人を現代のアメリカ的な人物に仕立て上げています。子ども向け聖書物語のレベルです。」
「創世記は基本的に登場人物の内面は語らない。例えば、アブラハムがイサクを犠牲にするように言われたとき、アブラハムがどう感じたかは一切語られない。その語りのスタイルが重要なの。三流小説とは違う。」
「13節では、“わたしたちも,自分ではどうしようもない状況に置かれることがあります。しかし,辛抱強くあり,その中でベストを尽くすなら,エホバに祝福していただけます。”と、頑張ればなんとかなるという話にしています。」
「しかし、ヨセフが出世することになった最大の要因は夢の解釈能力で、その能力がなければ、一生牢屋暮らしだよ。ベストを尽くせば何とかなるという状況ではない。創世記が示しているのは、ヨセフはアブラハムの子孫が繁栄するという神の計画の重要なパーツだから、神はヨセフを助けたということ。神の計画とは無関係な人はベストを尽くそうが、神は何もしてくれないと考えた方がいいね。」

「3節に、“ヨセフは父親のヤコブから気に入られていました。そのため兄たちにねたまれ,17歳のころ奴隷として売られました。”とあります。誰が売ったのですか?創世記37:36では、“ミディアン人たちは彼をエジプトへ,ファラオの廷臣で護衛の長であるポテパルのもとに売った。”とありますが、一方、39:1では、“ヨセフはエジプトに連れて来られた。そして,ファラオの廷臣で護衛の長であるエジプト人のポテパルが,これをそこに連れ下ったイシュマエル人の手から買い取ることになった。”とあります。ミディアン人なのか、イシュマエル人なのかどっちなんですか?」
「ヨセフを売ったのはイシュマエル人でしょう。ミディアン人は、兄弟たちの犯罪をあいまいにするために後から挿入されたとみるべき。」
「ヨセフの物語でミディアン人が登場するのは、37:28で、“そのとき,人々,つまりミディアン人の商人たちがそばを通りかかった。そこで彼らはヨセフを水坑の中から引っ張り上げ,次いでヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。”とあります。」
「この中の“彼ら”は誰を指すかというと、ミディアン人のように思えるよね。ところが45:5で、ヨセフは、“わたしは皆さんの兄弟ヨセフ,あなた方がエジプトに売った者です。”と兄弟たちに言う。銀20枚で売ったのは兄弟たち。これは死刑に値する重大犯罪。それはまずいと言うことで、あとから誰かが“彼ら”のまえにミディアン人を挿入し、“彼ら”が兄弟ではなくミディアン人を指すように偽装した。さらに、つじつまを合わせるために、37章の最後にミディアン人が売りましたという文を付け加えた。」
「しかし、39:1は修正しなかったのですね。なぜですか?」
「旧約聖書は何回も付け加えられている。しかし、削除したり書き換えたりするのはよくないことと認識されていたと推測するしかないね。そのため矛盾や重複があちらこちらに見られるという結果になった。」

「14節から、フィリッポの例を出して、“状況が変化する時こそ,宣教に打ち込みましょう。”と言っています。何が起きても宣教活動のようです。」
「フィリッポは使徒8章の主人公。サマリア伝道とエチオピアの宦官の伝道の話ね。フィリッポは使徒でもないのに破格の扱いと言える。使徒たちはその後どうなったのかは何も“使徒たちの活動”には書かれていないけれど、フィリッポだけは例外だ。それは、フィリッポが、ルカの福音書と使徒たちの活動の情報源のひとつだったからではないかと推測されている。」
「使徒21:8,9におよそ20年後の様子が出ています。パウロのエルサレムへの旅の話の部分です。“次の日,そこを出てカエサレアに着き,あの七人の一人である福音宣明者フィリポの家に入って,そのもとに泊まった。この人には四人の娘がいたが,処女であり,預言をしていた。”とあります。」
「フィリッポはパウロの一行を泊めるぐらいの結構広い家に住んでいて、娘も4人もいる。幸せな生活を送っているようだ。貧乏で子どもも持てないJWとは大違いだね。」
「娘が“処女”というのは未婚という意味ですよね。そう訳せばいいのに。しかし“預言をしていた”というのはどういうことですか?」
「具体的にはよくわからない。コリント一11:5には、“だれでも,自分の頭を覆わないで祈ったり預言したりする女は,自分の頭を辱めることになります。”とある。初期のクリスチャンはその実態はよくわからないけれど預言というものをしていたことがわかる。」
「フィリッポはその後どうなるのですか?」
「エウセビオスの「教会史」に出ていて、フィリッポとその娘たちは今のトルコに移住したことが書いてある。60年代にキリスト教に対する迫害がパレスチナで強まったので逃げてきたようだ。娘たちはパピアスに初期の頃のエルサレムのクリスチャンの様子を伝えたともある。」
「エウセビオスは教会史の父と呼ばれる人で、パピアスは全5巻からなる「主の言葉」という本を書いた人ですよね。その本は断片しか残っていないわけですが。」

「17節に、“状況の変化を経験した多くの全時間奉仕者は,宣教に打ち込むことがバランスを保つ助けになったと述べています。”とある。これだと、宣教はJWの自己救済のための活動と言っているように聞こえる。それでいいの?」
「宣教はJW自身が精神的安定を得るために行う修行です。修行だから実際の成果なんか問題にならず、時間だけが問題にされるのですよ。」

#894 2019年01月04日 15:24:48

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“真理を買え。それを売ってはならない”で、JWの真理を買うために売り払ったものを一つ一つ数えて、その犠牲の大きさを思いだそう、ということです。」
「真理とはものみの塔の教義の別名なのね。コロコロ変わる教義を真理なんて呼ぶなんて、厚かましいね。買うより、“売ってはならない”の方に力点があるよ。」
「JWが辞めるのを少しでも減らしたいのでしょう。JWはカルトの中でも辞める率が高いほうだと思います。死ぬまでJWというのは、バプテスマを受けた人の中でどれくらいいるのでしょね。」
「辞めるのを減らすために、この記事では、JWであるためにどれだけ犠牲を払ったかを思い出させようとしている。こんなに犠牲を払ったのに、今辞めたらそれが無駄になると思わせる作戦だね。」

「今週のタイトルは、箴言23:23からですね。」
「これは箴言の第4部である22:17から24:34の中の聖句だ。これらの部分はエジプトの“アメンエムオペトの教訓”にそっくりなんだ。」
「アメンエムオペトは古代エジプトのファラオで、“アメンエムオペトの教訓”は、そのファラオが息子に教訓を与えるという形式の、30章からなる知恵文学の傑作とされているものですね。」
「22:17から21が、序文なんだけど、22:20は、新共同訳では、“わたしの意見と知識に従って三十句/あなたのために書きつけようではないか。”とある。30という数字が重要。“アメンエムオペトの教訓”も30章からなるからなんだ。これは、“アメンエムオペトの教訓”の影響を受けているということの証拠の一つなの。ところが、JWの新世界訳はどうかというと・・・。」
「“わたしはこれまでに助言と知識をもってあなたに書かなかったか。”です。30が出てきませんね。しかし、脚注では、“または,「わたしは三十の節(部分)で」。マソ本は明白でない。”と書いています。」
「おそらく、箴言のこの部分が、エジプト文学の影響を受けて書かれていることを隠蔽したいからだろう。箴言はソロモンが霊感を受けて書いたというのがJWの主張だからね。」
「箴言の22:17から24:34は、宮廷につかえる役人向けの教訓集と理解すればいいのですね。」
「そう。例えば、22:29は、“あなたは自分の仕事に熟練した人を見たか。その人は王たちの前に立ち,凡庸な人たちの前には立たない。”だけど、宮廷の役人向けということがよくわかるね。“アメンエムオペトの教訓”にも同じ意味のことが書いてある。」
「今週のタイトルである、“真理を買え。それを売ってはならない ― 知恵と懲らしめと理解を”は、真理の中身が、知恵と懲らしめと理解という意味でいいのですか?」
「そうだね。真理といっても、深遠なものではなく、実際的な知恵、ハウツーのことだ。旧約聖書は自分の生活と直接関係のない哲学的、科学的な問題には関心はほとんど示さない。」
「箴言のこの部分は、現代人とはあまり関係ないということですね。」

「5節では、“真理を買うのにもお金は要りません。でも,手に入れるためには努力が必要です。”とありますが、現金ではなく、タダ働きをすることで払えという意味ですよね。」
「タダ働き分を金額に直せば相当の額になる。他の宗教に比べて、JWであることは相当のコストがかかるよ。」
「6節に、“真理を買うためにどんな努力が必要でしょうか。5つの点を取り上げましょう。”とあります。最初は時間です。自由時間を与えないのはカルトの特徴ですね。」

「8節に、ニューヨークに留学していた真理子がJWになった話がでている。実は、留学先でカルトに入信する日本人は珍しくない。留学先で、言葉の問題や文化の違いで、孤独や不安に陥るからだ。そういった人が見ず知らずの外国人に親切にされて、孤独や不安感がやわらぎ、カルトにのめりこむ。真理子も日本にいたらJWに興味を持つことはなかったはずだ。英語版には、she followed a religious movement that started in Japan in the late 1950’s.と日本語版では訳されなかった情報が出ている。」
「1950年代後半に始まった宗教運動の信者だったんですね。創価学会のことでしょうか?」
「わからないね。日本語版では、“宗教を持っていましたが”と訳している。宗教って持つものなの?日本語としてへんだよ。」
「昔は留学する人はそれなりの覚悟をもち、外国生活に適性のある人が多かったわけですが、今では覚悟も適性もないのに旅行気分で出かけてしまい、孤独や不安に陥って、カルトに付け込まれるという人が増えたということでしょうか。」
「原文のMarikoに真理子という漢字をあてたのは、翻訳者のユーモアかな。」

「次は、お金と物です。真理を買うためには、お金や物を犠牲にしろ、です。9節には、“真理を買うために,お金になる仕事をやめた人もいます。漁師のペテロとアンデレはイエスから「人をすなどる者」になるよう勧められた時,「網を捨て」ました。(マタ 4:18‐20)”とあります。」
「ガラリヤ湖の漁師という仕事がどの程度の収入になったのか知らないけれど、たいしたものじゃないでしょう。ペテロたちの例は、お金になる仕事をあきらめた例と言えない。」
「マタイの話は、ルカとヨハネとは違いますよね。ルカ5章では、奇跡的な大漁を経験したのち、イエスの弟子になったとありますし、ヨハネ1章では、アンデレは漁師ではなく、バプテスマのヨハネの弟子で、ヨハネがイエスを見て、“見よ、神の子羊です”というのを聞いて、イエスについて行ったことになっていますね。」
「その後アンデレはシモンをイエスのところに連れてくる。つまり、マタイとヨハネでは全然違う。」
「この違いを、JWはどうつじつまを合わせているのでしょうね。」

「11節に、真理のためには、友人や親族を捨てろ、とある。JWになると人間関係が壊れることを認めているけれど、悪いのは周りの人間であって、“わたしたちは聖書の真理という規準に従って生きているのであり,分裂を引き起こそうとしているわけではありません。”と自分たちの責任じゃない、と宣言しているのがカルトらしい。」
「独自の教義を掲げて、周囲の人と問題を引き起こすのはJWなんですけどね。」

「11節に、“イエスは「実際,人の敵は自分の家の者たちでしょう」と述べました。(マタ 10:36)”とあるけれど、これは12使徒に言った言葉。しかし、使徒たちが家族に反対されたということは聖書に出てこない。イエスだって家族から反対されていないでしょう。JWが家族から反対されているからといって、この聖句を強調するのはどうかな。」
「コリント一9:5には、“わたしたちには,ほかの使徒や主の兄弟たち,またケファと同じように,姉妹を妻として連れて歩く権限があるのではありませんか。”とありまして、使徒たちはそれなりに幸せな家庭生活を営んでいるようです。」
「“姉妹を妻として”というのはへんな訳だね。“信者を妻として”だろう。新世界訳だって、英語版では”a believing wife“となっている。ケファつまりペテロのしゅうとめはイエスによって病気をいやしてもらいイエスに仕えるようになったと、マタイ8:14,15に書いてある。使徒たちの家族は協力的だ。」

「12節は笑えます。神の名をエホバと教えてもらって感激し、エホバの証人になったユダヤ人のアーロンの話がでていますが、現代で神の名をエホバと言っているのは、エホバの証人だけです。ものみの塔内部だけでしか通用しない真理です。」
「エホバという読み方は16世紀になって作られたもの。それ以前の人は、イエスもパウロもモーセもアブラハムもエホバなんていう名前は知らない。」

「さらに、真理を買うために、13節で、“神に喜ばれない考えや行ない。”、15節で、“聖書に反する慣行”をやめるようにとあります。あれこれと行動を制限するのもカルトの特徴ですね。」
「14節の、デビンとジャスミンの話は感動的だけれど、嘘くさい話だ。」
「二人は酒浸りの生活破綻者だったけれど、JWがやってきて、信者になり、立派な人になりました、という決まりきったパターンの話ですからね。」
「前半部分はいいよ。だれからも相手にされない鼻つまみ者が、善良そうな人に親切にされて感激しカルトに入信。よくある話だからね。でも日本語訳はこの辺を適当に訳しているのが残念だ。“まさか本当に家に来るとは思っていなかったのです。”は、“They had not expected the missionaries to care enough about them to come to their home.”だよ。“家に来るほど彼らのことを本当に気にかけているとは思わなかったのです。”でしょう。社会的に差別され孤立している自分たちのことを本当に気にかけてくれた、という体験がカルト入信のきっかけになるのは、刑務所の囚人の事例などよくあること。」
「翻訳ですが、“ジャスミンが酔って町を歩いていると”は、“道路を歩いていると”の間違いです。後で“村の人たち”とでてくるので、この人たちは町に住んでいるのか村に住んでいるのか、どちらなのかと混乱しました。」
「信じられないのが、その村の人の反応。“2人の変化は村の人たちに知れ渡り,多くの人が聖書を学ぶようになりました。”となる。いったいどこの村?それから、二人は酒をやめたとあるけれど、本当は、“they decided to give up alcohol”で、酒をやめることを決めただけだよ。アルコール依存症からはそう簡単には立ち直れない。」
「今頃は元に戻って、酒浸りかもしれませんね。」

#895 2019年01月05日 00:48:59

卓郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>>954 三太郎
Q「進化 = 神は存在しない」の図式は成立しません
同感だね。僕は学校の教科書を信じてるので進化論を信じてますが神を信じてます
死生観なんて歴史的や化学的に説明なんて出来る訳がない
歴史では1万年前はメソポタミア文明の縄文時代で弥生時代に繋がります。
「大洪水で縄文人が絶滅してノアの子孫達が日本に上陸して縄文土器を引き継ぎ弥生時代に成った」
↑こんな事を教えてるキリスト教系の大学は存在しません。
神道だって天照大神やスサノオ伝説が有りますけど歴史じゃなく古典や文学だとちゃんと解ってます。
死んだら神仏だって死生観を信仰するだけです
宗教は歴史や化学では無く死生観に過ぎないので、騙す騙さないは無い筈じゃない?
ものみの塔がどうのと人生の失敗を他人のせいにするのって根本的に勘違いしてたに過ぎない

>聖書的創造論の最大の盲点は、「人間以外の生き物は人間のために存在する」全ての生き物には霊が宿り本体であると信じるに至っています。

↑同感だね。聖書を矛盾に感じたなら大丈夫、既に神道を立派に信仰してる
刑事ドラマでこんなシーンを頻繁に見ませんか?
公園で遺体が見付かり「警部、指名手配中の○×です」。それでも刑事は遺体に仏として手を合わせる。
金田一少年の事件簿でも犯人が自殺病死した場合はお墓詣りして手を合わせます。仏の罪を糾弾しません
仏教神道では殺人犯でも死後は神仏に成るので罪人じゃないです
つまりハルマゲドンが定義上存在しない。信じる信じない以前の問題ですね。
世間ではこの仏教神道の死生観がスタンダードです。
ハルマゲドンが来ない事に苦しんでるなんて馬鹿丸出しです
死生観を変えて「死後は罪人じゃない」と考えれば、殺人犯が逃亡中に罪を償う事無く死亡しても不満じゃないでしょ?

#896 2019年01月11日 17:19:35

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“わたしはあなたの真理によって歩みます”で、JWをやめるな、続けろという内容です。」
「先週は真理を買えだったけれど、今度は真理を売るな、だね。驚いたのは7節の、“真理のうちを歩むには,エホバの言葉をすべて受け入れなければなりません。”という文。“すべて”を太字にして強調している。JWでは、エホバの言葉=組織の命令だから、要するに、組織の命令全てに従えということ。」
「考えてみると、恐ろしいですね。」

「2節が面白い。“自分の「買[った]」聖書の真理の「正確な知識」を返品したり「売っ[たり]」したいとは思いません。”とある。その理由が、“わたしたちは多くの時間を費やして真理を手に入れました。お金になる仕事をやめたり,考え方や行ないを変えたり,聖書に反する慣行をやめたりしたかもしれません。友人や親族との関係が変化した人もいます。”なんだ。」
「聖書の真理なるものを得るのに多くのコストがかかった。だから手放すべきではない、という主張ですね。少しも聖書的じゃありませんね。」
「つまり、JWであるために多くのことを犠牲にした。もしJWをやめれば、犠牲にした多くのことが無駄になる。無駄にしないためにはJWを続けるしかない。そう信者を誘導している。これは、ある行動がエスカレートするときによくある思考の偏りだ。」
「過去に投じたコストはJWを続けようがやめようが、もはや返ってこないということですね。過去に投じた費用にこだわるのではなく、それは忘れて、これからのことを決めるべきなのですよね。」
「例えるなら、高い入場料を払って講演会に来たけれど、あまりにつまらない。この場合は、途中で帰ると入場料が無駄になると思って、つまらない話をあと1時間も聞いてしまうのではなく、入場料はもう戻らないのでそれは忘れて、途中で出てきて、もっとましなことをするようにしたほうがいいということ。」
「当然合理的なのは、JWを途中でやめるほうですね。」
「そういうこと。これは埋没費用(sunk cost)の誤謬とよばれるもの。過去に投じた費用を重視して、無駄なことをし続けてしまう、あるいはエスカレートさせてしまうという誤りだ。」
「超音速旅客機コンコルドの開発やベトナム戦争の拡大がよく知られた例ですね。カルトの信者もその一つの例なんですね。」

「2節の最後で、“でも、犠牲をはるかに上回る祝福を得ることができました。”とあるけれど、“犠牲”という元の英文にない表現は思わず本音が出たという所かな。」
「元の英文は“the price we paid is small”で、支払ったものは少ないという意味で、“犠牲”という言葉は使っていません。犠牲というと、JWのために、不本意ながらいやいや自分の人生をあきらめました、というニュアンスが出ますね。模範的なJWなら、真理を知った喜びのあまり、すべてを捨てて、JWの生活を選びました、と笑顔でいうべきです。 」

「3節に、“イエスはりっぱな真珠を探し求める旅商人の例えを話しまし た。”とある。それはマタイ13:45,46に出ている。新世界訳だと、“天の王国はりっぱな真珠を探し求める旅商人のようです。”となっている。これはへんな訳だ。」
「この訳だと、天の王国=旅商人としか読めません。」
「新共同訳では、“天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を(略)”として、天の王国=旅商人という誤解を避けるよう工夫している。新世界訳はダメだな。」
「3節では、“イエスはこの例えで,神の王国の真理が,それを探し求める人にとってどれほど貴重かを教えました。”とありますが、イエスが教えたのは王国であって、王国の真理ではないと思います。微妙に言い換えていますね。」
「王国の真理というとJWの教義のことを指すんだろう。微妙な言いかえで、JWの教義は貴重であると、誘導したいんだよ。」
「しかし、この例えを真面目に受け取ると、商人は全てを売り払ってしまい、持っているものは真珠だけです。どうやって暮らすんですか?まるで、JWの真理以外何もないJWのような状態です。」
「そうだね。真珠を売るしかなくなるよ。元々イエスが言ったのは、天の王国は貴重な真珠のごとしといった、短いことわざのようなものだったと推定されている。それをマタイが今のような話に膨らませた。細部にこだわる必要はないと思う。」

「5節で、“残念ですが,今日でもある人たちは真理を手離してしまいました。聖句についての新しい理解を受け入れられなかった人や,重い責任を持つ兄弟の言動につまずいた人がいます。”とありますが、これはバカバカしい“世代”の解釈や、統治体のメンバーの問題発言や長老たちの性犯罪とその隠ぺい工作のことを言っているんですよね。」
「そうなんだろうけれど、石を置いた方より、その石につまづいた方が悪いというのがJWの理屈のようだね。英文では、“an adjusted understanding of a Bible passage”とあるから、新しい理解ではなく、修正された理解だよ。古い理解は修正される必要のあったガラクタということ。日本語訳はごまかしだ。」
「adjustは調整する、適合させるという意味です。真理と言いながら、時代とともに変わっていく。となると、それは真理ではないと結論付けるのが普通の人ですよ。にもかかわらず、JWは真理、真理と連呼する。面白いですね。」

「7節の最後で“どうすれば逆戻りしないようにできるかを考えましょう。”と言って、8節から、5つの項目にわたって、細々と指図しています。一言で言うと、JWの活動に無関係なことは、全てやめろという内容です。」
「問題は、逆戻りするとなぜいけないのかが説明されていないこと。JWの教義は十分知ったから、ほかのことを勉強することにして、何が問題なのかよくわからないね。」
「確かに、間もなく来るハルマゲドンの戦いで滅ぼされますという、得意の脅かしがないですね。永遠の命が滅びか、どちらを取るのですか、と狂信的な説教がないと、寂しいですね。JWも弱気になっているんですね。」
「あるのは、挿絵による印象操作だね。本当は退屈なJWの生活は明るい背景で描き、JWではない生活は暗い青を背景に描く。まるでやましいことをしているかのような印象を与えるためだ。」
「ハルマゲドンが100年後とすると、今生きている大人は、その前に死亡し、JWでなくても、ハルマゲドン後に楽園で復活するというのがJWの真理なわけです。JWとしてつまらない人生を送る理由がないですね。」
「JWはそれだけハルマゲドンがまもなく来るという偽教義に依存しているということね。その偽教義は1914年神の王国成立という偽教義に依存し、その偽教義はエルサレム滅亡前607年という偽歴史に依存している。」
「しかし、その全体は真理というのがJWのパラドックスです。」

「逆戻りすることはなぜいけないのかを説明する代わりに、13節以降では、“どうすれば真理のうちを歩み続ける決意を強められるでしょうか。”という問題を扱っている。JWであるためには決意させるしかないということだね。」
「損得を論じると、損ばかりになるので、損得を離れた、意志の問題ということにするわけですね。」
「14節で、“箴言 23章23節によると,真理に加え「知恵と懲らしめと理解」を買うことも大切です。”とある。この聖句はこうだよ。“真理を買え。それを売ってはならない ― 知恵と懲らしめと理解を。”真理の他に、最後の3つのものも、ついでに買えという意味ではない。ヘブライ語のもとの文は、“知恵と懲らしめと理解”が先に来て、次に、売るな、真理を買え、という語順。強調点は最初の3つ。だから文の先頭に来ている。最後の真理は初めの3つを指していると普通は解釈される。そんなことを知らない執筆者は、買えといっているのは、真理プラスおまけの3つというように理解したわけだ。」
「ものみの塔の読者の質問コーナーに手紙を書きます。」

「9節に、デマスなんて誰も知らない人が出ている。“1世紀のデマスは「事物の体制」を愛し,使徒パウロと共に奉仕するのをやめ てしまいました。(テモ二 4:10)”とある。」
「テモテ二4:10は、“デマスは今の事物の体制を愛してわたしを見捨て,テサロニケに行ってしまったからです。”とあります。アイオーナというギリシャ語を“事物の体制”と日本語にない言葉で訳していますが、へんですよね。」
「αἰῶναは字義的には“時代”。今の事物の体制ではなく、今の時代あるいは世界を愛してだろう。新共同訳では、“今の世を愛し”となっている。」
「なぜJWは単純な単語の訳に“事物の体制the system of things”なんて複雑な造語を当てているんですか?」
「JWの終末論の関係からじゃないかな。この世が終わるというより、この事物の体制が終わるといった方が強い印象を与える。例えば、マタイ24:3を“あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか”と訳している。新共同訳だと、“あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。”だよ。新世界訳の方が不正確でヘンだけどインパクトが強い。」

#897 2019年01月15日 00:07:22

三太郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

卓郎さん

今まで返信するつもりは更々無かったのですが、他のトピでも相変わらず意味不明なこと言ってるようですし、納得しているように思われるのもアレなので、このあたりで一言二言申し上げたいと思います。

卓郎 さんの発言:

死生観なんて歴史的や化学的に説明なんて出来る訳がない

その通りだと思いますが、誰かそんなことを言いましたか?

卓郎 さんの発言:

歴史では1万年前はメソポタミア文明の縄文時代で弥生時代に繋がります。
「大洪水で縄文人が絶滅してノアの子孫達が日本に上陸して縄文土器を引き継ぎ弥生時代に成った」
↑こんな事を教えてるキリスト教系の大学は存在しません。

意味不明。理屈が通っていません。キリスト教系の大学じゃなくても、そんなこと教えてないと思います。

卓郎 さんの発言:

神道だって天照大神やスサノオ伝説が有りますけど歴史じゃなく古典や文学だとちゃんと解ってます。

神道は、国家神道と原始神道に分けて考えるべきです。
私は、国家本位の立場に立った、本来の神道を利用した国家神道には全く興味がありませんが、大陸の影響を受ける前から存在していた日本人の神観念・民族的信仰などに見られる原始的な神道には大いに興味があります。

天照大神やスサノオ(素戔嗚)を始めとする記紀の神々は、架空か実在か、学者によって意見が分かれているのはご存知かと思います。私はそれに比定される人物が実在したのではないかと考える方ですね。
例えば、記紀の「出雲の国譲り神話」は、荒神谷遺跡の刃を起こした状態で整然と並べられた大量の銅剣や出雲の銅鐸文化が忽然と消えたこと、出雲大社は拝殿に立つと客神は正面を向いているのに、主祭神である大国主は何故か西向きに鎮座していること、本殿の真後ろにある摂社が素戔嗚を主祭神とする素鵞社であることなどは、実際に大きな政権交代があったことを窺わせます。現在の天皇家が奈良盆地に国家基盤を築く以前の本州の覇者は、スサノオ-ニギハヤヒの系統だったのではないか、などと考えています。また、初代神武天皇から第十代崇神天皇までのうち、第二代から九代までは欠史八代と言われ、架空説が主流ですが、実在論を提唱する安本美典などの学者の説を支持しています。

記紀神話は明らかに盛っていますが、核となる事実もあったのではないかという視点は、最近の歴史学の定石です。

卓郎 さんの発言:

仏教神道では殺人犯でも死後は神仏に成るので罪人じゃないです

殺生を禁ずる平安仏教と違って、浄土宗や浄土真宗は「南無阿弥陀仏」をひたすら唱えるだけで、誰でも極楽浄土へ行けると説きました。そのため、殺生を生業とする多くの武士の信仰を集めました。これを根拠に言っているのでしょうか?
一方で仏教は、善因善果、悪因悪果という因果の法則についても説いています。
「南無阿弥陀仏」の念仏や、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えるだけで殺人者が無罪になるのなら、警察は要らないと思いますね。

卓郎さん、同じ土俵で議論したいのであれば、他の人の投稿をよく読んで、少し頭の中を整理してからのほうがいいと思います。客席から騒ぐだけなら誰にでも出来ます。

#898 2019年01月18日 16:45:03

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバを信頼し,生き続ける”で、ハバクク書の前半部分を紹介して、エホバを待て、死ぬまでマテ状態で生きよ、という内容です。」
「エホバを待つ、というのはJW精神の中心だね。犬だっていつまでもマテの状態では我慢しないのに、JWは死ぬまでマテのまま、耐えるわけね。」
「老人施設にいるアジア系のおばあさんが祈っている写真と施設の職員にJWの冊子を見せている写真が使われています。このおばあさんはエホバを待ち続けて、今では孤独な施設暮らし。病気で、集会にも奉仕にも行ってないので、会衆から忘れ去られた存在になっているでしょう。きっと口癖は、“寂しい。”だと思います。」
「自分で選んだ人生だよ。それなりの充実感があったんじゃないかな。でも、施設内で宗教の勧誘をするのはやめてほしい。働く人からすれば迷惑だからね。」

「1節に、“こうした問題は,わたしたちが「終わりの日[の]対処しにくい危機の時代」に生きている証拠です。1日が過ぎるごとに,新しい世が近づいているのです。(テモ二 3:1)”とあります。JWの決まり文句のようなものですが、いつもと違いますね。」
「そうだね。まもなく終わりの日です、と言うのかと思ったら、“1日が過ぎるごとに,新しい世が近づいているのです。”とある。終わりの日が1000年後でも、1日過ぎれば1日近づく。つまり当たり前のことを述べているだけだ。」
「これって、終末論を維持するために統治体が行った、バカバカしい“世代”の解釈の変更に嫌気がしている執筆者の抵抗じゃないですか?」
「深読みしすぎ。でも、いつもと違うかもね。17節で、“終わりの日に生活するわたしたちは,ハバクク書から力を得られます。エホバは, ご自分に信仰と信頼を示す正しい人が永遠に生きると約束しておられます。”とある。もとの英文は、“The book of Habakkuk provides a powerful lesson for all of us living in these last days. Jehovah extends his promise of life to any righteous person who displays faith and trust in Him.”いつものとおりのいい加減な訳だけど、ちゃんと訳していないのはall of us“わたしたち全て”とany righteous person“すべての義人”。2つ目の文は、“エホバは、ご自分に信仰と信頼を示す全ての(any)正しい人に永遠に生きると約束を拡大(extends)しておられます。”」
「普通だったら、死ぬまで組織に忠実なエホバの証人だけが永遠の命というご褒美を得られるのです、書くべきところなのに、“信仰と信頼を示す全ての(any)正しい人”に約束を拡大していると書いているわけですね。こんなことを書いてこの執筆者は排斥処分にならないのでしょうか?」
「日本語の翻訳者は、この文をいい加減に訳することにより、本来持っていたニュアンスを無害なものに変えてしまった。翻訳者を排斥にすべき。」

「“洞察”の“ハバクク書”の所を見ると、“ハバククが預言した時期は,ソロモンがエルサレムに建てた神殿が西暦前607年に滅ぼされる前であったと思われます。”さらに、“恐らく,西暦前628年ごろにユダでその書を完成させたのでしょう。”とあります。本当は、ハバククというのは、いつの時代の人なんですか?」
「カルデア人の台頭(新バビロニア帝国)を前提にしているので、ヨシア王の子どものエホヤキム王の時代あたりで、前600年前後。エレミヤと同時代の人でしょう。」
「この辺の年代は、JWは607年問題のせいで、世界史の年代と全て20年ずれているのですよ。」
「ひとつ嘘をつくと、次から次へと嘘をつかなくてはならなくなるというわかりやすい例だね。」

「4節以降は、ハバククを見倣おうという、よくある内容の記事です。6節で、“ハバククは,友また父であるエホバを信頼し,祈りをささげました。自分の理解に頼って不安を抱えたままにするのではなく,エホバに気持ちを伝えたのです。わたしたちの良い手本です。”とあります。」
「ハバククの1章にある言葉は祈りというより、不平不満だよ。神義論(弁神論)の一種だよ。」
「神義論とは、世界における悪の存在が神の全能と善と正義に矛盾するものでないことを論じるものですよね。この世は悪がはびこっているのに、善であり全能の神はなぜそれを許しているのか、という問いに答えるための議論ですね。」
「基本的には神義論はうまくいかない。神の全能性と善性と現実の悪は、本来同時に成立しえない。」
「悪は存在するので、全能性か善性のどちらかが否定されるわけですね。全能なる宇宙の創造者にして善なる存在はありえない。」

「ハバククに戻ると、ハバククは1:3で、“有害な事柄をわたしに見させ,あなたが難儀をただ見ておられるのはどうしてですか。”と神に問うている。」
「それに対する神の答えは、1:6で“今わたしは,カルデア人を,無情で血気にはやる国民を起こすからである。”で、カルデア人を使ってユダヤ人を罰するというものです。ひどい神様ですね。別の方法はないのですか?」
「ハバククは再度問う。1:13で、“邪悪な者が自分より義にかなった者を呑み込んでいるのにただ沈黙しておられるのは[どうしてですか]。”とね。これは新バビロニア帝国が神の代理としてユダヤを罰するなら、神の代理人であるカルデア人が暴虐の限りを尽くしているのはなぜか、という疑問だ。」
「それに対するエホバの答えは、2:3で、“[この]幻はなお定めの時のためのものであり,終わりに向かって息をはずませてゆくからである。それを待ちつづけよ。それは必ず起きるからである。遅くなることはない。”ですね。エホバはハバククに5つの災いの幻を見せて、将来カルデア人も罰せられるから、それまで待てというものです。何かズレていますね。」
「つまり救済は今ではなく、将来に先延ばしされたということ。王国滅亡後、ユダヤ人は、将来に神が何かしてくださる、というのが唯一の希望になってくる。しかし、神は何にもしてくれないんだ。それで、ハバククからおよそ400年後、旧約聖書の最後に書かれたダニエル書でも、将来に期待して終わるしかない。ダニエル11:35では“こうしてついに終わりの時に至る。それはなお定めの時に臨むのである。”とハバクク2:3と同じことを言っている。」

「16節で、“ハバクク 2章4節の約束はとても重要です。使徒パウロは,エホバのこの約束を3回引用しました。”とあります。2:4は“義なる者は自分の忠実さによって生きつづける。”ですが、パウロの引用だと、“しかし義なる者 ― その者は信仰によって生きる”です。なぜ違うのですか?」
「パウロはヘブライ語の聖書からではなく、ギリシャ語の翻訳版(70人訳)から、引用しているから。パウロが読んでいた聖書は、今の人が読んでいる聖書とはかなり違うということ。聖書といっても何種類もあるし、書かれていることも違う。」
「新共同訳では、“神に従う人は信仰によって生きる。”です。忠実さによって生きるのか、信仰によって生きるのか、どちらなんですか?」
「新共同訳の方は、70人訳に合わせた訳。パウロの引用と違いが出ないようにするためだね。この場合は新世界訳の方がより忠実な訳。」
「護教的な配慮で訳が決まったという例ですね。となると、ハバクク2:4はどういう意味ですか?」
「実はわかりにくい。何に対して忠実なのかがはっきりしない。文脈からいうと、神がハバククに見させた幻に忠実でありなさいともとれるし、そうではなく、より一般的に律法に忠実であれ、あるいは神に忠実であれ、という意味ともとれる。」
「そのすべてを意味しているんじゃないですか?」
「そうかもね。でも、おそらく律法に忠実であれば生き続けるという意味だろう。」

「それでは、パウロの言う、“しかし義なる者 ― その者は信仰によって生きる”はどういう意味なんですか?」
「ハバククのもとの意味とは大違いだ。義人は信仰によって生きるので、律法によって義とされるのではない、信仰のみによって義とされると解釈した。」
「どういう意味ですか?」
「これは改宗した異邦人に割礼が必要かという論争があった。パウロは必要がないという立場で、その根拠としてハバクク2:4を引用している。律法ではなく信仰によって義とされるので、異邦人はユダヤ人と同じになる必要はないわけだ。初期クリスチャンにとっては大問題だったようだけど、現代人にはたいして関係ない話しだね。」
「パウロが文脈抜きに聖句を引用しているというのはわかりました。ハバクク2:4をなぜ3回も引用しているんですか。」
「パウロが使っていた70人訳では、義と信仰が一緒に出てくる聖句は2か所しかないんだ。ハバクク以外のは、創世記15:6で、“そこで彼はエホバに信仰を置いた。そして[神]は彼に対してそれを義とみなされた。”というアブラハムの話しなので、一般論として使えない。となると、ハバクク2:4を使い回すしかない。」

「最後の19節で、エホバとの関係を強める3つの方法が出ているのですが、その2番目が、“(2)エホバの言葉や組織からの指示に注意を払う。”なのです。エホバと組織が同列に挙げられているのがカルトらしいです。」
「組織の指示なんて、ハバククと何の関係もないよね。でもこの文を入れるよう統治体から指示されたんだろうね。」

#899 2019年01月25日 17:14:57

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“だれに考え方を形作られていますか”で、JW以外のものはすべてサタンなので、退けるようにというものですね。」
「カルトだね。白か黒の二分法的思考が目立つ。根拠のない決めつけや、極めてまれな極端なケースを持ち出して、何かを論証しようとする議論も多いね。信者以外ついて行けない。」

「1節でマタイ16:21‐23にある、ペテロがイエスに、“わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしをつまずかせるものです。”と叱られた話を取り上げています。挿絵もこの場面を描いています。新世界訳では、“[イエス]はペテロに背を向けて”とあり、挿絵もそうなっています。しかし、新共同訳では、“イエスは振り向いてペトロに言われた。”とあります。どちらが正しいのでしょうか?」
「元のギリシャ語は、向きを変える、というような意味で、ペテロに背を向けたのか、ペテロに顔を向けたのかは、解釈しだいだね。話すとき相手の顔を見るのが当然と多くの人は解釈する。新世界訳を作った人は、なぜか背中を向けたと解釈したということ。」
「でも、新世界訳では、その後イエスは、“わたしの後ろに下がれ”と言うのです。イエスが背を向けたのなら、ペテロはすでに後ろに下がっていることになりますよ。やはり、イエスはペテロの方を向いて言ったのだと思います。」
「この記事の挿絵はへんということだね。」
「イエスはペテロのことをサタンと呼びますが、ペテロにサタンが乗り移っているという意味なんですか?」
「違うでしょう。ペテロの発言は、イエスが間もなく死ぬという神の計画に反対するものなので、それはサタンと同じだよ、という意味で、ペテロのことをサタンと呼んだと解釈される。」

「5節に、“ある人たちは,だれの影響も受けたくないと思っています。「自分のことは自分で考える」と言います。「自分で決められるし,そうする権利がある」と考えるのでしょう。そのような人は,だれかにコントロールされることを望まず,自分らしく生きたいと願います。”とありますが、このような人がカルト教団が一番嫌う人なんですね。」
「自分のことは自分で決めるのは当たり前だよ。自分で決められるし、そうする権利があるのも当たり前のこと。現代社会は、正常な成人は自己決定権があり、その権利を他人が侵害することは犯罪だという前提で運営されている。これを否定すると、反社会的なカルトと認定される。」
「そんなJWでも、自分たちの都合次第で、自己決定権があると主張しますよ。輸血拒否などがその例です。医療に関しては患者の自己決定権を尊重せよと主張します。」
「しかし、JWは内部では自己決定権など無視する。典型的なダブルスタンダード。」
「海外で殺された日本人女性JWに対しても、自己資金で、自分の意志でいったので、組織は無関係と日本支部は主張していましたね。自己決定権を尊重する組織のようです。しかし、実態は違う。」
「外部に向かって語ることと内部の信者に向けて語られることが違う宗教組織は、危険なカルトと思わないとね。」

「6節で、“エホバの考え方に合わせることは,自分の考えや意見を全部捨てることではありません。”と自己弁護しています。」
「それはそうだ。組織が全てを決定することはできないからね。しかし、自己決定権は限りなく狭められることは間違いない。」
「集会に行かないという自由さえないです。集会に行かないと家族が誰も口をきいてくれなくなります。」
「6節で、“エホバは,わたしたちが聖書を調べ,善悪に関するご自分の考えに従うことを望んでおられます。”とある。でも、聖書の解釈は統治体の言うとおりに解釈しなくてはいけないので、結局、統治体の考えに従うことになる。」
「例えば、輸血の禁止から誕生祝の禁止までの各種禁止事項は、聖書に基づくかと言えば、そうではないですよ。いくつかの聖句から、勝手に推論しただけです。そのような禁止事項であっても、聖書に基づく判断として、信者に強制してくる。」
「7節で、親と子の例えをだして、親は子どもに色々教えるが、これは子どもの自由を奪うことではないという。その結果として、“愚かな決定をして後悔することはありません。問題に巻き込まれたり,つらい思いをしたりせずにすみます。”とある。これは、組織と信者との関係には当てはまらない。」
「JWの信者になると、“愚かな決定をして後悔しますし、不必要な問題に巻き込まれ,つらい思いをたくさんします。”からね。」

「9~13節で、エホバの考え方が優れている、と論じています。」
「エホバの考えと比較されるのが、“だれとセックスしても構わないと言う人もいます。”という極端な主張。これが2回も出てくる。この執筆者は、性的欲求不満のあまり性的な妄想にとらわれているよ。」
「だれとセックスしても構わないと思っている人がいるとすれば、精神的に病んでいる人ですね。」
「子どものとき性的虐待を受け続け、精神を病んでいるJWにもいるんじゃないかな。」
「10節には、“神の考えを受け入れるクリスチャンは,幸せな家族生活を送っています。”とありますが、この根拠は何も示されていませんし、排斥制度で苦しんでいるJWのことは無視です。」
「“世界中の兄弟姉妹との平和な関係も楽しんでいます。”とある。グアテマラで日本人JWが殺された事件があったけれど、地元のJWは適切な犯罪予防措置をしてくれたの?平和な関係を楽しんでいたといえるのかな。」

「13節のこの部分、“エホバはご自分の考え方をわたしたちに押しつけたりはされません。「忠実で思慮深い奴隷」も長老たちもそうです。”は、ちゃんと訳してほしかったね。」
「忠実で思慮深い奴隷は、“does not exercise control over the thoughts of individuals”といっています。個人の考えをコントロールしていません、という意味ですね。まったくの嘘ですね。雑誌、書籍やWEBなどを使って、絶えず信者をコントロールしようとしています。」
「これは訴訟対策だね。組織は何も命令していません、個人が勝手にやったことです、と弁解できるように、文章に残した。翻訳者もその辺のことを理解して、この文はキチンと訳さないとねだめでしょう。」

「14から19節は、世に形作られないようにするという内容で、禁止事項が色々出てきます。」
「おもしろいのは16節の、“世の考えとの接触をすべて避けることはできません。”という文。パリサイ的な発想だね。」
「パリサイ派は“清い”ということにこだわり、“汚れ”の原因となるものを徹底的に避けようとしました。JWも自分たち以外を汚れているとして、その接触を徹底的に避けよと言っていますね。」
「パリサイ派は律法を厳格に解釈することによって、自分たちが聖なる存在になると思っていた。JWも聖書の規則を厳格に解釈し、適用することによって、自分たちは神から選ばれる聖なる存在と思っている。」
「罪びとと一緒に食事をしていたイエスとは考え方が違いますね。」
「イエスは、人間を清いとか汚れているとか審査して、汚れていると判定された人を排除する、JWにそっくりな当時のパリサイ派的な人たちに対する抗議の意味もあって、意図的に罪びととされる人たちと食事をしたのだろうね。」

「16節には“伝道していても,間違った考えや教えに接することがあります。(略)イエスに倣い,サタンの考えをすぐに退けるべきです。”とあります。」
「伝道中に、児童虐待の裁判、排斥制度や外国で殺害された日本人JWなどについて質問されても、サタンよ、去れといって、逃げてくることを勧めているわけだね。」
「18節では、“ある人物を取り上げ,人生の目標や業績に関する世の考え方を推奨するドキュメンタリーがあります。「自分第一」や「家族第一」という考えが理にかなっていて,魅力的で,正しいと思わせようとする映画や本もあります。”とあって、これもダメです。」
「「自分第一」や「家族第一」というのもカルト宗教が嫌う思想の代表だからね。自分を捨てて、家族を捨てて、宗教に尽くす、という内容がJWお勧めなのは、よく理解できる。」

「20節の“基本的に言って,わたしたちの情報源は2つしかありません。エホバと,サタンの支配下にある世です。あなたはどちらに形作られていますか。”とあります。カルト宗教らしい文章です。JWは統治体の老人によって形作られているわけですが、彼らはエホバ?サタン?のどっちなんでしょうね。」

#900 2019年02月01日 16:45:16

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバの考えを自分のものにしていますか”で、お金について、服装や身だしなみ、ラップダンス、性的誘惑、他宗教への寄付、輸血、仕事と集会の優先順位について、組織の指示に従えという内容です。」
「ラップダンスって?」
「脚注によると、“ダンサー(セミヌードの場合が多い)が客のひざの上に乗って腰を動かすダンス”だそうです。」
「この説明では、よくわからないな。小学生が集会で、“ラップダンスって何?膝の上に乗ってどうして踊れるの?”って聞いたらどう説明したらいいんだろうね?」
「このスマートフォンの映像を見せればいいんですよ。見てください。よくわかりますよ。」

***3分後***

「よくわかった。タップダンスとはだいぶ違うね。12節で、“世界各地でラップダンスというみだらなダンスがはやっています。”とあるけれど、執筆者の妄想爆発というところだね。」
「脚注には、“状況次第では,性的不道徳として審理措置が取られるかもしれません。”とあります。アメリカのJWの間で、結構流行っているんですよ。」
「2人の目撃者がいなければ、問題にならないだろう。3人以上で行かなければいいんだよ。」

「最初の挿絵はイエス誕生の様子です。この時マリアは10代半ばという年齢と推定されるのでしたよね。」
「当時の女性の結婚年齢がそれくらい。挿絵のマリアは大人すぎる。」
「挿絵では男の子3人と女の子2人が描かれています。家族構成はこれでいいんですか?」
「マルコ6:3に、“これはマリアの息子,そしてヤコブ,ヨセフ,ユダ,シモンの兄弟の大工ではないか。それに彼の姉妹たちもわたしたちと一緒にここにいるではないか”から、イエスには4人の弟と数は不明の妹がいたとされる。描かれているのは、まだ4番目の弟が生まれる前の家族構成なんだろうね。」
「イエスの養父であるヨセフは影の薄い存在ですが、なぜですか?」
「早く死んだからだろう。ヨハネ19:26,27では、“イエスは,自分の母と,自分の愛する弟子がそばに立っているのをご覧になり,母にこう言われた。「婦人よ,見なさい,あなたの子です!」次に,その弟子に言われた,「見なさい,あなたの母です!」 それで,その時から,その弟子は彼女を自分の家に引き取った。”とある。イエスは自分の死後マリアの世話をするように弟子に言っている。マリアが未亡人だからと解釈するしかない。」
「7節に、“神は貧しい夫婦を選んでイエスを育てさせました。”とありますが、イエスやその兄弟たちは女手一つで育てられたんじゃないですか。そもそもヨセフは神に選ばれたわけじゃないですよ。選ばれたのはマリアで、たまたまその婚約者がヨセフだったというだけです。ヨセフは、神様から見ればどうでもいい存在なので、さっさと死なせたんじゃないですか。」
「面白い説だね。7節に“でもエホバにとって大切だったのは,神への崇拝を第一にする家族の中でイエスが成長することでした。”とあるけれど、おかしいことがわかる。それならなぜヨセフを早く死なせたの?とにかく、ヨセフすら神様は守ってくれなかったのだから、普通のJWは神様からの助けなんか期待するなよ、ということだね。」

「8節に、“エホバはわたしたちとの関係を一番大切に思っておられます。”とありますが、誤訳ですよね。」
「元の英文は、“Jehovah considers spiritual matters to be of supreme importance.”だから、霊的な事柄を一番大事に思っているわけで、私たちのとの関係ではない。神様は気に入らない人間は遠慮なく殺してきた。いつから人間の友達になったの?」

「10節に、“例えば,あなたの気に入っている服装や身だしなみが,会衆のある人たちに不快な思いをさせたり,不道徳な考えを抱かせたりするかもしれません。そのような場合,自分の好みを優先しますか。”とありますが、この文章は、統治体の老人が不快に思うから、タイトパンツはだめということを、言い換えただけです。外見は権力者の好みに合わせないといけない、JWには好きな服装や髪形をする権利はないということを、優しく言っているだけです。」
「外見にこだわっている割には、服装について規則を設けたりはしないのが統治体だ。個人の権利や自由を制限することに対して責任は取りたくないからだろう。責任は会衆の長老という末端の管理者に押し付ける。」

「14節で、JWお気に入りのヨセフがポテパルの妻の誘惑を退けた話が出ています。“携帯電話に,性的に露骨なメッセージや画像が送られてきたら,どうするでしょうか。エホバの考えを学んで自分のものにし,どう行動するかを前もって決めておきましょう。”とありますが、無理ですよ。統治体の性的妄想には付き合いきれませんね。」
「輸血のことなども、ありとあらゆる事態を前もって想定しておけ、とあるけれど、無理な要求だ。JWは人間は不完全だ、とよくいう。それなら不完全な人間でも実行可能なことを要求すべきだ。ところがいつも無理な要求ばかりだね。」
「実行できないような無理な要求をして、信者に罪悪感を抱かせ、もっと頑張らなくてはいけないと思い込ませるカルトの戦術です。」

「15節には、ダニエル書3章の話が出ています。3人のヘブライ人が、“ネブカドネザル王が建てた金の像を崇拝することをきっぱりと拒み,自分たちの立場を伝えました。”と、褒めたたえています。これはどの程度史実なんでしょうか?」
「ほぼ100%創作でしょう。ヨセフの話も、ダニエル書の話も、宮廷物語というジャンルの話の決まりきったストーリだ。1)宮廷につかえる恵まれた主人公がいる。2)主人公が危機に陥る。たいていは陰謀によって。3)主人公は死刑宣告あるいは投獄される。4)様々な理由で、主人公は解放される。5)主人公は前より高い地位に就く。メデタシメデタシ。このダニエル3章の3人の話も同じパターンだ。主人公たちは宮廷での出世を望むだけで、愛国者のくせに決して自分の国に帰らせてくれなんて頼まない。宮廷物語というジャンルだからだよ。」
「3人は、3:12では、“バビロンの管轄地域の管理”をしているのですが、ネブカドネザル王の初期という時代でこのようなことがあったのでしょうか?」
「征服した、反抗的な民族の人間を高官に登用するなんてことはありそうもない。3:2には様々な官職が列挙されているけれど、ペルシャ時代のもので、3:21に“マント,衣,また帽子その他の衣服を着けたまま縛られ,”とあるけれど、ここで使われている服に関する用語もペルシャ時代のもの。3:5には楽器が列挙されているけれど、3つはギリシャ語由来の名前で、西暦前2世紀のもの。物語の細部はバビロニア時代ではなくて、後のペルシャやギリシャ時代を背景にしている。書かれたのは西暦前2世紀ごろだろうね。」
「ネブカドネザル王の在位は西暦前605から562年なので、書かれた年代の400年くらい前のことを描いているのですね。著者が、バビロニアの官職や楽器名を知らなくても無理はないですね。」
「JWの出版物では、在位は西暦前624から582年と約20年ずれている。これはエルサレム陥落の年を20年ずらすというインチキを行っているから。」

「16節から、輸血拒否の話になるわけですが書き方がいやらしいです。」
「“わたしたちは皆,全血や血液の4つの主要成分の輸血を避けることを固く決意しています。”とある。いつJWはそういう決意表明をさせられたの?輸血拒否の教義はJWの教義の中でも最も有害で愚かな教義だ。血液の4つの主要成分なんて発想は非聖書的で、非科学的で、バカバカしい。」
「血漿、赤血球、白血球、血小板を血液の4つの主要成分としています。これはダメなんですが、これをさらに成分に分ければ輸血可能です。例えば、赤血球の主要成分であるヘモグロビンだけなら問題ないことになっています。統治体も、輸血禁止の教義を実質的に変更しつつあるということです。JWは、その暗黙のメッセージを受け取って、輸血を受けて自分の命を守ればいいのですよ。」

「聖書にある血を避けよというのは、食物として血を食べるなということで、輸血を禁止したものではないからね。」
「JWの出版物に、アルコールを飲むことを禁じられている人が血管にアルコールを入れてよいでしょうか、というたとえがあります。」
「血管にアルコールを入れるのは、アルコールを飲むことと目的、結果が同じだ。だからダメとなる。しかし、血を食べることと輸血は目的と結果が違う。輸血をアルコールを血管に入れることに例えるのではなく、アルコールで傷を消毒することに例えるべき。アルコール禁止の人でもアルコール消毒は問題ない。」
「聖書が言っているのは血を食べるなだから、本来なら、JWは、肉を食べる前には正統派ユダヤ教徒のように水に1時間肉をつけておくようにすべきです。」
「そんなことをしているJWはいないだろう。輸血ばかりにこだわり、本当は血を避けることを真剣に考えていない、いい加減な宗教というしかないね。」

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