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#851 2018年10月12日 18:39:04

てつてつ
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Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深いかきこみありがとうございます テモテやテトスについてはアーマンさんも パウロが筆者ではない可能性が高いといってますね

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#852 2018年10月19日 16:59:57

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“惜しみなく与える人は幸福”で、惜しみなく伝道せよ、そうしたら幸福になれる、といった内容です。」
「元のタイトルは、“Generous Givers Are Happy People”で、generousを“惜しみなく与える”と訳するのはへんだよ。“たくさん(寛大に)与える人は幸福な人”でいいでしょう。惜しみなく与えると訳すると、全財産なくしてまでJWに尽くしましょうという方向へ誘導しようとしているかのようだよ。」
「日本語の翻訳者は、そういう方向に誘導したいのですよ。」

「初めの四角で囲まれた“どのように答えますか”という所で、3つの質問が出ているけれど、その初めの、“人間は惜しみなく与えるよう造られている,と言えるのはなぜですか。”という質問は、翻訳がへんなので、日本語版では本文の中に答えが見つけられないよ。」
「恐らく、①神は惜しみなく与える。②人間は神と似せて造られた。③だから人間は惜しみなく与えるよう造られた。こんな答えじゃないですか?」
「それは滅茶苦茶な論理展開だよ。そのような論理からどんな結論でも導き出せる。」
「確かに。例えば、①神は大量殺人をする。②人間は神と似せて造られた。③だから人間は大量殺人をするよう造られた。殺人の原因は神ということになりますよね。」
「人間は神と似せて造られたとしても、人間と神はどこが似ているのかは誰も知らない。創世記で使われている単語からすると、姿を似せて造った、中身は違うよ、という意味と思われる。」
「最初の問の答えは英語版には書いてあるのですか?」
「2節に、“ Why? Quite simply because Jehovah lovingly designed humans that way.”とある。エホバが愛情深くも人間をそのようにデザインしたからだそうだよ。この文は日本語版ではカットされている。翻訳者が、あまりにもくだらないと思ったんだろう。この主張にはなんの根拠もないからね。」

「今週のタイトルは、使徒20:35、“受けるより与えるほうが幸福である”からきているのですが、この聖句を見ると、JWは、また寄付か、ただ働きの要請かと嫌な気分になる思いますよ。」
「この聖句はパウロが誰に向けていっているかというと、使徒20:17で、“彼はミレトスから人をエフェソスに送って会衆の年長者たちを呼んだ。”とあることから、会衆の指導者に向けて語られた言葉なんだ。」
「パウロの別れの挨拶ですね。」
「そう。エフェソスの指導者たちに向けたパウロの遺言みたいもの。彼らに、信者の世話を頼むよ、申し訳ないけれど、物質的な見返りなしで頼むよ、私だってそうしたし、イエス様だって、“受けるより与えるほうが幸福である”とおっしゃっていたんだからね。そんな内容だよ。その言葉をJWは信者から搾取するために利用している。どんな宗教も悪人によって悪用されるのを避けることはできない、という実例だ。」
「つまり、この言葉を適用すべきなのは、まず統治体の老人たちということですね。それから伝道しろという話とは無関係ということですね。10節から、“ わたしたちは,良い知らせを伝えて人々を弟子とするという務めを神から与えられています。”と始まり、5節にわたり伝道の話が続きますが、この聖句とは無関係ということですね。」

「惜しみなく与えるということの根拠が乏しいと思ったのか、7節で、“惜しみなく与えるべき別の理由は,サタンがエデンの園で主張した事柄と関係があります。”とJW独特のエデンの園の神学を持ち出しています。」
「JWは本当にエデンの園の話を自分たちの教義の中心に据えていいいの?単なる神話だよ。」
「エデンの園で、サタンは何を言ったかというと、7節に、“神への従順よりも自分の利益を優先したほうが幸せになれる,という主張です。”とあります。嘘ですよね。」
「勝手にねつ造している。」
「創世記3章のヘビの発言は、“あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか”というエバに対する質問と“あなた方は決して死ぬようなことはありません。 その[木]から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです”の2度だけです。」
「それだけ。しかもヘビであってサタンじゃない。本来、それほど重要な話ではない。アダムに関心を持ったのは聖書の作者の中ではパウロだけ。イエスはアダムの罪について一言も触れていない。旧約聖書でもエデンの出来事に触れられることはない。エデンの園の出来事を人類史上の大事件に仕立て上げたのは、パウロ。」

「アダムが木の実を食べたので、人間は死ぬようになったというのが聖書の主張なのでは?」
「パウロ以外そんなことは言っていない。旧約聖書は、死や罪の問題に何度も触れているけれど、それがたった一つの出来事のせいだなんていう、単純な思想はない。それから、人間が全て罪びとという思想も旧約聖書にはないよ。」
「そうなんですか?パウロは、ローマ3:9で、“わたしたちはすでに,ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにあるとの告発をしたのです。”と書いた後、3:10-18で旧約聖書の詩編とイザヤ書から長々と引用していますよ。」
「パウロの引用はおかしいの。例えば、ローマ3:10で“義[人]はいない,一人もいない。”と詩編14編を引用しているけれど、詩編14:1には、“分別のない者は心の中で言った,”とあり、詩編14編は、実は愚か者の意見なんだ。それをパウロは真理であるかのように引用して、自分の全人類罪人説の根拠にしている。おかしいでしょう。パウロの旧約聖書理解は21世紀の我々から見るといろいろ問題がある。」

「そう言われて改めて詩編を見ると、詩編18:23では、“そして,わたしは[神]に対しとがのない者であることを実証し,わたしは自分のとがから身を守る。”とあり、ダビデの作とされる詩編26:6では、“エホバよ,わたしは全き潔白のうちにわたしの手を洗い,あなたの祭壇を巡ります。”とあります。詩編作者の多くが、自分はとががないとか、罪がないとか、潔白だ、とけっこう主張していますね。」
「すべての人が罪人じゃないと、イエスの死が全ての人の贖いという図式が成立しないでしょう。そこでアダムが罪を全人類に持ち込んだという、旧約聖書的には根拠のない説をパウロがでっちあげた。」

「18節で、“社会学の研究者たちも,人は与えると幸福になるということに気づいています。”とあります。引用元は不明というインチキ引用ですが。本当ですか?」
「引用元を明らかにしてくれないと何とも言えない。3つ引用しているけれど、一つの文章からではなく、3つ別々の所から取ってきたようだ。そのうちの一つ、他の人を助けることによって、“「人間が必要としている基本的な欲求が満たされる」からです。because it fulfills basic human needs.”は、Hopper,E.という社会学者ではない人の“Can Helping Others Help You Find Meaning in Life?”(他人を助けることは人生の意味を見出すのに役に立ちますか?)のこの段落からの引用だね。前半に完全に一致する部分がある。
Taken together, these two studies suggest that helping others is beneficial because it fulfills basic human needs—and that altruism may be especially important for strengthening our relationships and connecting us with others.
https://greatergood.berkeley.edu/articl … ng_in_life
「いろいろな所から、勝手に引用して、文章に仕立て上げているわけですね。これは一種のねつ造ですよね。だから引用元を挙げられない。」

「良きサマリア人のたとえが、6節にあるけれど、JWにとって隣人とはだれなのか問いたいね。自分たちの仲間のことなんじゃないの?」
「19節に、“神と隣人に惜しみなく与えるよう努力するなら,エホバを敬い,自分と他の人を幸福にすることができます。”とあるのですが、次の20節では、“あなたは他の人,特に兄弟姉妹に自分を与えるよう努力していることでしょう。”と続くのです。ということは、JWの隣人は、バプテスマを受けた人たちのようです。災害でも援助するのは仲間だけですから。」
「JWは良きサマリア人にはなれないことがよくわかる。」

#853 2018年10月26日 17:09:24

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“いつもエホバと共に働く”で、伝道に加えて、“家族や会衆の兄弟姉妹を助けること,人をもてなすこと,組織の様々なプロジェクトに協力すること”は、エホバと共に働くことなので、一生懸命やりなさい、という内容です。」
「信者に対する要求が過大すぎるよ。いつ休むの?神様だって休むんだよ。信者を忙しくさせて、考えさせないというのはカルト宗教の特徴だ。」
「レイモンド・フランズの「良心の危機」の302ページによると、統治体のメンバーは6週間程度の休暇がとれるようですね。休暇と外国訪問を合わせることも可能で、外国で派手なもてなしを受けながら、外国旅行を楽しむようですね。JWは統治体を見倣うべきですよね。」
「フランズは、そんなもてなしを受けながら、マタイ23:6の“また彼らは晩さんにおいては最も目立つ場所を,そして会堂では正面の座席を好み,”という聖句を思い出したものである、と書いているね。立派なクリスチャンなら良心が痛んで当然だ。」

「この記事のタイトルは、コリント一3:9の“わたしたちは神と共に働く者だからです。あなた方は耕されている神の畑,神の建物です。”からきているのですが、どういう意味ですか?」
「コリントの会衆はパウロが設立した。パウロが他の所へ去ったのち、アポロがやってきた。アポロはアレキサンドリア生まれのユダヤ人だけど、なかなかの人物で、会衆内で人気を得た。困ったことに、コリントの会衆は、パウロ派とアポロ派に分裂し、争うという状況になった。」
「コリント一1:12では、“「わたしはパウロに属する」,「いや,わたしはアポロに」,「わたしはケファに」,「わたしはキリストに」と言い合っている”とありますから、その他のグループも存在していたようですね。」
「そういう事態を受けて、党派的争いを厳しく叱っているのがコリント一の3章だ。パウロは、自分とアポロは同じ奉仕者であり、ただ役割が違うといっている。」
「パウロは植えて、アポロは水を注いだといっていますね。」
「しかし、成長させてくださるのは神だといっている。その点で、パウロとアポロは、“神と共に働く者”といえる。そして、“あなた方は耕されている神の畑,神の建物です。”とつづく。」
「要するに、ここでいう、“神と共に働く者”は、パウロとアポロのことで、意味を広くとっても会衆の指導者層のことですね。人をもてなしたり、建設業に携わることも“神と共に働く”ことだといっている、ものみの塔の記事はおかしいですね。」
「このものみの塔の写真も記事も、信者が王国会館建設でただ働きすることを求めているけれど、信者こそ“神の建物”なんだ。神様は何かを作れと命じたのは全人類の歴史の中で2回しかないよ。」
「ノアの箱舟とモーセに幕屋を作るように命じたのが、本当のエホバによる建設プロジェクトですね。それ以外は、エホバは何かを作れと命令したことはないですね。神殿は、幕屋じゃみすぼらしいと思ったダビデが作りたがっていただけです。エホバはそれを許さなかったのですが。ましてや、後で売却されるかもしれない王国会館建設がエホバと共に働くなんてことはあり得ません。」

「3節で、“エホバはわたしたちが家族を世話することを求めておられます。”とありますが、JWは宗教活動優先で家族を顧みないという批判を、気にしているということですか。」
「宗教活動優先は全てのカルト宗教の特徴だからね。批判されたときのアリバイのようなものじゃないかな。」
「排斥された家族についてどうすべきか、この記事では何も言っていません。JW独自の排斥制度が家族を破壊し、不幸を生み出しているという批判が様々な方面から出ているのですが、沈黙したままです。」
「外国では、子どもが排斥されてJWの家族がバラバラになるという映画も作られた。JWは家族を破壊する危険なカルトというイメージが多くの国で定着している。JWの家族はこんなに幸せという、カレブとソフィアの宣伝ビデオではそのイメージは覆せないね。」
「4節では、“親の皆さんは,子どもが目標を持って神に仕えるよう助ける”とあり、子どもを全時間奉仕や開拓者にせよ、といっています。“子どもが王国を第一にしていることが喜びだからです。”だそうです。子どもの喜びより親の喜び優先ですね。」
「まともな親なら子どもに全時間奉仕者とか開拓者になるようには絶対勧めないよ。聖書に全時間奉仕を目指せなんてどこにも書いていない。」
「5節で、“病気や老齢の兄弟姉妹や,家族を介護している兄弟姉妹の助けになれるかもしれません。”とありますが、高齢者が多く、若者が少ないというJWの年齢構成を知って、こんなことを書いているのですか。高齢者が多すぎるのですから、日常的に会衆内で助けるなんて無理ですよ。」

「もてなすことを強調していますが、一貫性がないですね。6節で、“「もてなすこと」と訳されている語には,「見知らぬ人たちへの親切」という意味があります。”といいながら、7節で、全時間奉仕者をもてなすようにと、巡回監督を家に泊め、自分はソファで寝たというオラフの例が出ています。巡回監督は見知らぬ人なのですね。」
「普通の社会では、利害関係のある人からもてなしてもらうことは職業倫理に反する行為だ。例えば、学校の教師が生徒の親からしょっちゅう饗応を受けていたら、その教師はやめるように注意されるよ。しかし、JWではその種の行為が禁止されるどころか、推進すべきとされるんだ。巡回監督などに関する倫理規定はあるの?無制限にお金やモノを受け取っていいの?」
「あれば公開してほしいですね。例に出ていたオラフは、巡回監督に気に入られ、すぐに長老になったんじゃないですか。箴言17:8、“贈り物はその偉大な所有者の目に恵みを勝ち得る石。その人は自分の向かう所がどこであっても成功する。”の実践です。」

「8節にある、エクアドルからスペインに移住したエシカの話は気の毒だ。」
「食べるものがなくて、神様に助けてと祈っていたら、そこへJWがやって来て、初めは雑誌、その後で食べ物を入れたかごを置いていったという話ですね。“神が祈りに答えてくださっていた”とありますが、どうでしょうか。よいことがあるとエホバね、という発想です。」
「エシカはスペインに移住し、JWと研究しているそうだけど、エシカがまず感謝すべきは、移住を認めてくれたスペイン政府にだよ。スペインで安定した生活をしているようだけど、それはエホバのおかげではない。」
「エシカの例は、JWも貧しい人に対する慈善活動を行えば信者が増えるかもしれないという例ですよ。」
「お腹のすいている人に食べ物ではなく、雑誌を渡すJW。この非常識さを反省している様子はないね。JWは終末カルトである以上、信者獲得に効果があるとしても慈善活動はしないと思う。慈善活動は、この世界がまだまだ続くことを前提とした活動だから。」

「12節で、“エホバと共に働く別の方法は,災害時に兄弟姉妹を助けることです。”、13節では、“難民として米国に来た兄弟姉妹を援助し,神と共に働く喜びを味わいました。”とあり、信者以外の人を助けることは神と共に働くことには含まれないようですね。」
「差別的な神様なんだろうね。災害時には、様々な宗教団体が救援活動を、信者であるかどうかにかかわらず行っている。いい宣伝になるし、これこそが隣人愛の実践と考えているからね。JWのように仲間内だけ手を差し伸べるというのは、まったく内輪の論理だけで動いていて、他者の評価を気にしないという点でカルト的だね。」
「災害の時、JWの被災者は一般の人の援助は受けるわけですが、JWは一般の人を助けないで、伝道のチャンスとして利用さえします。」

「16節で、“ベテル奉仕や建設奉仕を援助するために,テンポラリー・ボランティアやコミューターとして働けますか。”と問いかけています。ベテル奉仕者を大幅に削減していることや王国会館を世界規模で売却していることには沈黙です。」
「ベテル奉仕者の削減は費用削減と老人を追い出して、若い人に取り替えるためでしょう。王国会館の売却は、もう信者が増えることはないと見限ったということだね。」

#854 2018年11月02日 16:57:52

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“それを行なうときに,あなた方は幸福です”というもので、謙遜であれ、という内容です。謙遜であれば組織に疑問や不満を持つはずがないという前提のようです。パウロとバルナバ、エパフラス、シムイに挑発されたダビデの例が出ています。」
「一番謙遜さが必要なのは統治体の老人たちだろう。自分たちを聖書にある忠実で思慮深い奴隷で、必要な霊的食物を与えていると不遜なことを言っているんだからね。」
「カルトの指導者は、自分がいかに偉いかをアピールすることには熱心なものと、昔から決まっていますからね。」

「この記事のタイトルはヨハネ13:17からだけど、この記事の中では“行う”ことを強調するためにこの聖句を引用している。これはへんだね。これはどのような文脈で使われたかというと、イエスが弟子たちの足を洗い、13:14で“あなた方も互いに足を洗い合うべきです”と言って、13:17で、本当にそうしたらあなた方は祝福されるといっている。要点は、お互いに謙虚になれということだ。」
「確かに3から6節では、“知識を取り入れるだけでは不十分です。”と“行う”ことの重要性を強調していますね。」
「問題は、それがどんな行いかだね。3節で、ヨハネ4:34の“わたしの食物とは,わたしを遣わした方のご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです”を引用しながら、4節で、“イエスの「食物」には神の教えに従うことが含まれていました。”と、要するに従うことだけを強調している。」
「強調すべきは、“み業をなし終えること”の方ですよね。目的を達成することは大いなる喜びをもたらす。あたかもおいしい食べ物を食べたように。そういう意味なのに、服従を強調するのはいかにもJWらしいですね。」
「5節には、弟子たちは、“生涯中ずっと従う必要があったのです。”、6節では、“ずっと幸福でいるためには,エホバの教えに謙遜に従い続けなければなりません。”とあり、死ぬまで服従、死ぬまで組織の奴隷でなくてはいけないようだ。お互いに謙虚であれという聖句から変な結論になっている。JWって気の毒だね。」

「8節からパウロの謙遜さの例が出ていますが、謙遜さと関係する話なのですか?」
「取り上げられているパウロとバルナバの例は、使徒14章の話ね。ルステラというところで、歩けない人を歩けるようにしたということで、群衆が二人を神のように扱い、ゼウスの司祭まで出てきたけれど、それを止めさせたという話だ。」
「バルナバがゼウスという一番偉い神様とされたようですが、バルナバがパウロより威厳のある男だったからでしょうね。パウロは、ものみの塔の挿絵でも頭の禿げたさえない男として描かれています。」
「自分たちを神と誤解した群衆に、“わたしたちも,あなた方と同じ弱さを持つ人間です”と言ったことを謙遜さの現れとし、パウロを見倣おうと、11節に書いている。でも、自分を神と誤解したままにしておいたら、単なる詐欺師なわけで、謙遜だから正直に人間だと言った、というのはおかしな主張だね。」

「奇跡をおこなった話は新約聖書の中に何度も出てきますが、神と誤解されたというのはほかにありませんよね。なぜこういう誤解が起きたのでしょうか?」
「パウロの宣教より約50年前に書かれた本に、この地域でよく知られて伝説が出ている。ゼウスとへルメスが、人間の姿になって泊めてほしいと家々を回ったが、みんなに断られた。唯一、貧しい老夫婦が泊まらせてくれた。その後、二人の神は貧しい家を立派な寺院に変えて、老夫婦をその寺院の祭司にした。一方、泊めてくれなかった人の家はすべて破壊した。この伝説を知っていたリステラの人たちは、病人が癒される奇跡を見て、ゼウスとヘルメスが再び人間の姿でこの地にやってきたのだと誤解したのだろう。」
「それでゼウスとヘルメスなんですね。」
「でも、パウロもバルナバのこの伝説は知らなかったので、群衆が大騒ぎする理由がわからず当惑していた。そこへゼウスの司祭が犠牲にする牛を引っ張ってきたのを見て、これはまずいと判断して、群衆に“わたしたちも,あなた方と同じ弱さを持つ人間です”と叫んだというお話。謙遜さとはあまり関係ない話だろう。ものみの塔の執筆者はこの辺のことを知らないんじゃないかな。」
「9節に、“人々はパウロとバルナバをヒーロー扱いしました。”、“パウロとバルナバは人気の波に乗ろうとしましたか。”とありまして、古代人の神に対する怖れを、現代人が有名人に抱く憧憬の念と混同していますよ。」
「人々が騒いだのは神を見て喜んだというよりは、早く敬意をささげないと、どんな不幸に会うかと恐れているためで、人気スター扱いではない。ものみの塔の執筆者は全く理解していない。」

「12節で、エパフラスという極めてマイナーな人を挙げて、13節で、“エパフラスに倣い,会衆の兄弟姉妹のために祈ることができます。”とあります。エパフラスって何者ですか?」
「エパフラスは、新約聖書の中でコロサイに2回とフィレモンに1回、名前が出てくるだけ。問題は、コロサイはパウロのふりをした別人が書いたもので、その際、コロサイに真実性を持たせようと、フィレモンの状況設定を採用していることなんだ。」
「両者とも、パウロが獄中からテモテを共同発信者として手紙を送り、逃亡奴隷のオネシモを送りかえすという設定ですね。さらに最後の方で、挨拶を送る人が、エパフラス、アリスタルコ、マルコ、デマス、ルカと同じ人ですね。」
「エパフラスは、フィレモンに出ている人なので、コロサイでも同じ状況設定をしている以上エパフラスを出さざるを得なかっただけ、という可能性が高い。」
「となると、コロサイに書かれたエパフラスのことは信用性に欠けることになり、フィレモン23の“キリストにあって仲間の捕らわれ人であるエパフラスがあなたにあいさつを送っています。”だけが信頼できるエパフラス情報なんですね。」

「14節も奇妙なことが書いてある。“出エジプト記 32章11‐14節に記されているモーセとのやり取りに注目しましょう。(読む。)エホバはモーセの提案を必要としていませんでした。それでも,モーセの意見に進んで耳を傾けました。”とあるけれど、引用されている32:14には、“するとエホバはご自分の民に下すと言われた災いについて悔やまれるようになった。”とあるよ。初期の頃の神様は、しばしば後悔をするダメな神様なの。決して全知全能ではないんだ。だからモーセの提案は必要とされていたの。モーセが神様をなだめなければイスラエルの人は皆殺しになっていたよ。」
「例えば、サムエル一15:10、11で、“さて,エホバの言葉がサムエルに臨んで言った, 「わたしはサウルに王として治めさせたことをまさしく悔やんでいる。”とあります。エホバは初代の王をだれにするかという大問題で、自分のミスを認めていますね。エホバって適切な助言者がいないと、とんでもないことをしてしまう危ない神様ですよ。」

「16節に、ダビデがシムイに挑発されたけれど、感情を制御して、謙遜さを示したと書いていますが、ダビデの例は謙遜さの現れですか?」
「もちろん違う。サムエル二16章の話だね。シムイはダビデに16:8で、“お前は血の罪のある男だからだ!”と叫ぶ。ダビデは、16:10で、“エホバが彼に,『ダビデの上に災いを呼び求めよ!』と言われたのだ。”という。神様がシメイにそう言わせているとダビデは理解した。だからダビデはシメイをかまうなと部下に命令した。それだけの話なのに、この執筆者は詩編第3篇を持ち出して来てへんなことを言っている。」

「17節に、“不当な扱いを受けた時には,ダビデのように神に祈りましょう。エホバは聖霊を与え,耐え忍べるよう助けてくださいます。”とあります。的外れですね。」
「聖霊は旧約聖書にほとんど出てない。神様が聖霊を与えて誰かを助けたという例が旧約聖書にあるかな?」
「怪力サムソンの例はどうですか。ライオンが向かってきたときの話です。裁き人14:6では“ときにエホバの霊が彼に働きはじめた。そのため彼は,人が雄の子やぎを二つに裂くかのようにしてそれを二つに引き裂いた。”とあります。」
「エホバの霊であって、聖霊ではないよ。聖霊が大活躍するのは新約聖書。そこでは聖霊は天使のような人格を持った存在としてさえ描かれる。神の霊ではなく、神からの霊としての聖霊は、新約から出てくる新思想だよ。」
「要するに、ダビデと聖霊を結びつけるのは時代錯誤ということですね。」

#855 2018年11月02日 21:04:33

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深い書き込みありがとうございます

>「パウロの宣教より約50年前に書かれた本に、この地域でよく知られて伝説が出ている。ゼウスとへルメスが、人間の姿になって泊めてほしいと家々を回ったが、みんなに断られた。唯一、貧しい老夫婦が泊まらせてくれた。その後、二人の神は貧しい家を立派な寺院に変えて、老夫婦をその寺院の祭司にした。一方、泊めてくれなかった人の家はすべて破壊した。この伝説を知っていたリステラの人たちは、病人が癒される奇跡を見て、ゼウスとヘルメスが再び人間の姿でこの地にやってきたのだと誤解したのだろう。」

へーそーなんだ ほんとかなーと思い 聖書の注解見ましたらやっぱりそうでしたありがとうこざいました

オフライン

#856 2018年11月09日 16:04:50

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“互いを愛し,励ましましょう”で、信者に対する自殺対策、精神病対策が必要だという内容です。」
「暗い話だね。でも、その翌週は“「幸福な神」に仕える人は幸せ”というテーマで、エホバの民は幸せです、という内容なんだけど。」
「この記事でも、2節では、“エホバに仕える人たちは,純粋で自己犠牲的な愛を示し,固い絆で結ばれています。”と、幸せ宣言をしています。こんな素晴らしい組織は他にはないというのが公式見解ですよ。」
「確かに信者は自己犠牲的だけど、固い絆では結ばれてはいないよ。」
「遠い異国の地で若いJWが悲惨な最期を遂げても、本人が勝手にやっていることで組織としては関知しないという冷たいコメントで済ますだけですからね。」
「使徒8:2には、“敬虔な人々はステファノを埋葬所に運び,彼のことで大いに嘆き悲しんだ。”とある。ステファノは最初の殉教者だ。JWも敬虔な人々なら、同じようにすべきだね。」

「1節で、“イエスは弟子たちと過ごした最後の晩,「愛」とか「愛する」という言葉を30回近く使いました。”とありますが、ヨハネの福音書での話ですよね。」
「愛を繰り返すのがヨハネのイエスの特徴だね。マルコだと愛は全体で6回しか出てこない。しかも神を愛せとか隣人を愛せとか、旧約からの引用する形で使用することが多い。」
「ヨハネはなぜ愛を強調するんですか?」
「マルコのような福音書では、神の国が近づいたというのがイエスの主要なメッセージだった。ヨハネが書かれたのは90年ごろで、その時は、神の国はすぐには来ない、イエスの再臨は遠い先だと認識されるようになった。つまり、信者は終わりの日を待ち望むのではなく、地上でお互い助け合って生きていかねばならないと認識されるようになって、愛を強調するイエスになった。ヨハネのイエスは神の国が近づいたなどとは一度も言わないよ。ヨハネでは教会的キリスト教が目指されている。」
「無人島に流れ着いた人たちが、始めはすぐに助けが来ると思って、自分が船に乗れるかどうかしか考えなかったけれど、当分助けが来ないとわかって、生き延びるためにはお互い協力し合うことが必要だと思うようになった、というようなものですね。終末論にこだわるJWは、お互いに愛を育みようがないのですね。」

「3節で、“残念なことに,クリスチャンの中にも,苦しみに耐え切れずに命を絶った人がいます。”とあり、5節で、“今日,多くの兄弟姉妹が難しい状況に置かれ,愛や励ましを必要としています。”とあるのを見ると、JWの組織でさえ、JWの精神状態が悪化していることを理解しているのでしょうね。」
「しかし、その原因を正しく認識しているわけではないね。アメリカやヨーロッパでは、現在新しくJWになる人は移民が多い。JWの問題は移民問題でもあるという認識が必要でしょう。」
「そのことを統治体は認識してないかもしれませんね。新しい光はまだのようです。」
「欧米では、白人中流層はJWから減少し、移民が増加している。移民というのは、社会の中で孤立し、差別され、経済的に貧しい状態に追い込まれやすく、しかも移民先の文化に同化するよう強い圧力を受ける。こういった要素は精神障害のリスクファクターだ。」
「カルト特有の問題もありますよ。JWに改宗したら、社会の主流から孤立し、差別をうけるだけでなく、以前の仲間や親せきからも孤立し、差別を受けるわけです。」
「JWの会衆が、それに代わる温かい集団かというと、そうではないだろう。」
「JWは、ムチで子どもを痛めつけてきた宗教ですが、子ども時代の虐待も精神障害のリスクファクターじゃないですか?」
「普通はそう考えられる。幼児期に虐待を受けた人はうつ病になりやすく、自己破壊的な行動をとりやすく、結果として自殺に傾きやすい。」
「ハルマゲドンの教義はどうですか?子どものころから不気味な挿絵の本や雑誌を読まされて、強い恐怖を植え付けられているJWは結構いるんじゃないですか?」
「恐怖の条件付けだね。一度条件づけられた恐怖は消去できず、一生苦しむ。」
「エホバかサタンか、という二分法的思考はどうですか?」
「それもJWの特徴だけど、極端な二者択一思考をしてしまう人は、柔軟性に乏しく、生き方を極端に狭いものにしてしまう。」
「性的抑圧はどうですか?JWは禁欲主義を貫けという教えですよ。」
「それは精神障害とはあまり関係ないと思うけれど、反同性愛の教義はJWの中に確実にいる同性愛の人を苦しめ、自殺に追い込むものだ。」
「となると、移民や2世のJWは、精神障害のハイリスクグループといえそうですね。」

「11節で、“うつ病などを抱えている人には専門的な助けや治療が必要かもしれません。(ルカ 5:31)会衆の長老や他の成員は,自分が医療の専門家ではないことを認めています。でも,できることがあります。”とある。なぜもっと積極的に専門家の治療を受けるべきと言わないんだろう。精神的問題を抱えた人を自分たちの内部で処理しようしようという姿勢が強いね。」
「専門家の所に行けば、JWを辞めればよくなりますと言われて、本当に辞めちゃう人が出てくるので、ものみの塔では、それを強く勧められないのですよ。」
「冗談だろう?そうなると本当は必要なのに、適切な治療を受けていないJWがたくさんいることになる。」
「まじめなJWの中には、精神科に行くのはエホバの名に傷をつける行いだと思って、治療を受けない人がいますね。組織は、精神の病んだJWが問題を起こせば排斥すればいいと軽く見てますよ。」

「排斥で思い出したけれど、ものみの塔の2011年7月号、“あなたはエホバの明確な警告に留意しますか”で、背教者を精神病と差別しているよね。」
「6節に、“背教者たちは「精神的に病んで」おり,いわば他の人を自分たちの不忠節な教えに感染させようとしています。(テモ一 6:3,4)偉大な医師であるエホバは,彼らとの接触を避けるようにと言っておられます。”とありますね。ひどいですね。」
「そこに出ているテモテ一6:4を、“疑問をはさむことや言葉をめぐる論争で精神的に病んでいるのです。”と新世界訳は訳している。しかし、このような訳は他では見られない。新共同訳では、“議論や口論に病みつきになっています。”とある。このように訳するのが普通だ。英語ではunhealthyがよく使われ、新世界訳の英語版では、mentally diseasedはやめて、obsessedという語を使っているけれど、これも使われない表現だ。」
「新世界訳では、どうしても頭のおかしな人に仕立て上げたいのですね。」
「テモテの手紙の著者が、精神医学的な診断を下しているとは考えられない。それにもかわらず、新世界訳では、“精神的に病んでいる”と診断を下していることになっている。おかしいよ。そう訳しておいて、背教者たちは精神病と、ものみの塔の中で差別する。」

「13節以降、“どのように励ませるか”が書かれているのですが、精神的な問題を抱えた人を励ますのは、一番良くないことじゃないですか。」
「英語版では、“HOW TO BUILD UP OTHERS IN LOVE”で、励ますじゃないよ。日本語の訳者は“励ましは禁物”程度の常識も知らない無知な奴ということさ。」
「なぜ励ましはダメなんですか?」
「うつ病になる人はまじめで几帳面でがんばり屋が多く、さんざんがんばった挙げ句、うつ病になった。そんな人を励ますことは、まだ頑張りが足りないと非難しているように聞こえるだけ。だから励ましはやめろということ。」
「なるほど。5つのアドバイスが出ていますが、どうですか?」
「特に悪いことはないけれど、それ程役に立ちそうもないと思う。JWであるという現実を変えないで、会衆内で接し方を多少変えたところで効果は期待できないよ。」

「最後の20節にはパラダイスのことに触れています。パラダイスさえ来ればすべてが解決するというわけです。」
「逆に言うと、JWはそれ以外の解決策を何ももっていないということだね。」
「どうして箴言13:12、“延期される期待は心を病ませる。”を引用しないのでしょうね。楽園、楽園なんて虚しいことを言うから、JWの心が病むんですよ。」

#857 2018年11月16日 16:53:16

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“「幸福な神」に仕える人は幸せ”というもので、マタイ5章の“山上の垂訓”の話です。」
「前回とは打って変わって、1節は、“エホバの証人は幸福です。”で始まる。結構なことだね。グアテマラで死んだり、重傷を負ったJWも幸福なのかな?」
「しかし、2節では、“しかし今日,幸せでいることは簡単ではありません。”とあります。JWは幸福だけど、すぐ不幸になるようです。」

「4節から、マタイの山上の垂訓の八福の話になって、“自分の霊的な必要[または,神の導きが必要であること]を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。”とあるけれど、その中の[または,神の導きが必要であること]は、英文にはないよ。翻訳者が書き加えたもの。翻訳者のくせに聖書解釈までするんだ。驚いた。4節は翻訳というより作文。英文とはかなり違う。翻訳なんてつまらない仕事をやめて執筆者になりたいんだろうね。」
「この一節は、JWの解釈では、聖書の勉強をJWと一緒にする人のことを指しているようです。5節に、“神の導きが必要であることを認めている人は,聖書を学び,神の命令に従い,神への崇拝を生活の中で第一にします。その結果,いっそう幸せになります。”とあります。こんな解釈はへんですよね?」
「マタイの八福、8つの幸いについての話は、どう解釈していいのかは昔から論争になっている。この話の前の章の4:17で、“その時からイエスは伝道を開始して,「あなた方は悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と言いはじめられた。”とあり、5章から7章にかけて山の上で弟子たちに説教をする。その初めに八福の話が来る。」
「要するに、この八福の話は天の王国の到来に関連した話ということですね。」
「そう。“幸いだ”というのは、普段から幸福を感じるという意味ではないよ。この記事はそう解釈しているみたいだけど。八福の二つ目に“嘆き悲しむ人たちは幸いです。その人たちは慰められるからです。”あるけれど、そのようなことは滅多に生じない。」
「8つの幸いというのは、天の王国が到来したら、このようになりますという未来への約束ですね?」
「約束ないしは保障のようなもの。天の王国が来た時に、現在低められ、虐げられている人は、ご褒美を受けますという約束をイエスは説教の冒頭にぶちかました。それが八つの幸いの話だね。」

「それでは“自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。”は具体的にはどういう約束なんですか。」
「その意味は、自分は霊的には無価値な存在で神の恩寵にすがるしかないと認識している人に、天の王国が与えられるのであって、アブラハムの子孫だからとか、律法を守っているとか、神殿に寄付をしているとか、何か素晴らし事をしているからという理由で与えられるのではないということだろう。これは、当時の敬虔なユダヤ人にとっては刺激が強すぎる発言だね。」
「並行記事のルカ6:20では単に“貧しい人”となっています。ルカの方が、イエスが本当に言ったことじゃないですか?」
「普通はそう考えられている。イエスは単に貧しい人は幸いといった。それをマタイは“霊において”と一言付け加えた。ルカに比べると、マタイは元の資料をかなり変えて福音書を書いたと推測されている。」
「JWの解釈は、立派なことをした人が神の王国にいく、その立派な人たちは自分たちだとうぬぼれているわけで、“自分の霊的な必要を自覚している人”ではないですね。」

「5節で、“いつまでも幸せでいるためには,エホバとの関係を強める必要があります。使徒パウロはこう述べています。「主[エホバ]にあって常に歓びなさい。もう一度言います。歓びなさい!」(フィリ 4:4)”とありますが、パウロはエホバにあって喜びなさいなんて言っていませんよね。」
「何でもエホバに変えたがる新世界訳でも“主”となっている。これはキリストのことで、エホバにするのは文脈上無理があると判断したからだろう。それをものみの塔の執筆者が“主[エホバ]”と勝手に変えた。そもそもエホバといういい方が確認できるのは16世紀以降で、パウロがエホバなんて言葉を使うはずはない。」

「7節では、“嘆き悲しむ人たちは幸いです。その人たちは慰められるからです”を取り上げているけど、ここもへんなことを書いているね。何を嘆き悲しんでいるのかが問題。」
「天の王国が来た時に、自分の罪深さを認識して嘆き悲しむ人は慰められるという意味ですか?」
「恐らくそんな意味だろうね。イザヤ61:1~3を意識した一節とされることが多い。」

「8、9節で、“温和な気質の人たちは幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。”を取り上げています。温和ってどういう意味ですか?」
「温和と訳されているギリシャ語は定義するのは難しい。当時の使い方を見ると必ずしもいい意味とは限らない。軟弱とか奴隷根性というような意味で使われることもある。」
「この聖句は、詩編37:11“しかし柔和な者たちは地を所有し”の引用ですよね。」
「そう。そこで柔和と訳されているヘブライ語を調べてみると、その基本的な意味は、貧しくて苦しめられている、というような意味。そこから、忍耐強いとか従順とか謙虚といった意味が派生していった。ということは、温和とは、苦しみに会いながらも、仕返しをするとか暴力をふるったりせず、その苦しみを深遠な神の知恵の現れとして、受け止めるような態度を指すと考えられる。そのような人が天の王国を受け継ぐ。」
「地を受け継ぐとありますよ。」
「天の王国と言っても、死後に魂となっていく所という発想は当時のイエスにはない。天の王国と言っても地上に実現する王国をさす。」

「10から12節で、“憐れみ深い人たちは幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです。”を取り上げています。12節で、“憐れみ深い人が幸せなのはなぜでしょうか。与える幸福を味わえるからです。何よりも,エホバに喜んでいただけます。”とあります。バカですね。憐れみ深い人が幸せとは限らないことは、周りの人を見ればすぐわかりますよ。」
「10節で、憐れみについて“助けるために行動することが含まれます。”と書いてあるけれどJWの解釈だね。聖書の中で憐れみというのは第一に罪を許すことに関連した概念だ。他の人に親切にすることじゃないよ。」

「13から16節は、“心の純粋な人たちは幸いです。その人たちは神を見るからです。”を取り上げています。心が純粋とはどういう意味ですか?」
「外から見える敬虔さや儀式的な清さではなく、目には見えない心の純粋さが大事という意味だろう。このテーマはマタイの福音書の中に何度も出てくる。既成の宗教勢力に対してケンカを売っているんだよ。」
「イエスは価値の転換を図っているのですね。心の純粋な人はなぜ神を見るのですか?」
「この聖句は、詩編24:3,4を基にしているからだね。“だれがエホバの山に上ってゆき,だれがその聖なる所に立ち上がれるだろうか。それは,手が潔白で,心の清い者”とある。そこから心の清い人はエホバの山に行って、モーセのように神を見るというアイデアが生まれた。そして、マタイ5:8のような形になった。」

「八福の最後は、“人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき,あなた方は幸いです。”とあります。イエスのために迫害されている人は天の王国が来た時には幸いということなので、JWに当てはまりませんね。JWが迫害されているのはエホバのためですから。」
「エホバ教なんだからそうだよね。19節で、“今日のエホバの民も,イエスの名のために苦しんだり,厳しい試練に遭ったりする時,喜んで耐え忍んでいます。”と白々しい嘘を書いているよ。自分たちをエホバの民と呼んでいるんだから、迫害されたら、イエスの名ではなくエホバの名のためじゃないの?この記事を書いている人はそんなことにも気づかないんだね。」
「19節に出ている、強制収容所の体験談でも、エホバは3回出てきますが、イエスは一回も出てきません。迫害されているのはエホバのせいなので、残念ながらJWはイエスの約束の対象外ですね。」

#858 2018年11月16日 18:12:49

またい
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

平和ってどこにあるのかな?

#859 2018年11月21日 16:56:04

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

火曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習にいつもより早く来ました。次回のものみの塔は、“全能の神エホバは思いやり深い方”で、サムエルの召命、モーセの召命と出エジプトの話から、エホバの思いやりを見倣おう、というような内容です。」
「第1節に、“権力や影響力のある人は「威張り」散らすことが少なくありません。人々を抑圧することもあります。”は統治体への批判だね。驚いた。」
「違いますよ。」
「いつも思っていることがつい出てしまったんじゃないの。」

「初めは、サムエル第一3章にある、若いサムエルがエホバに呼ばれた時の話です。エホバが自分のことを明らかにしなかった事を拡大解釈して、エホバは若い人にも思いやりが深いという結論にもっていきます。」
「的外れ。どんな話かというと、夜中に、神様がサムエルに話しかける。サムエルは祭司のエリが呼んだと思って、エリの所に行くと、エリから呼んでいないよと言われる。それが3回繰り返される。3回繰り返すのは聖書の中によくあるパターンだ。3回目で、エリはサムエルを呼んだのは神様だと気づくというもの。この話のどこが思いやりがあるの?夜中に3回も少年を起こして何が楽しいの?」
「サムエルはエリに悪いお告げをしなければならない。いきなりそんなことをするのは少年のサムエルには荷が重いので、エホバが一芝居打って、エリに心の準備をさせた、だから思いやり深いと執筆者は言いたいようです。」
「神様は、4回目には、3:10によると、“それからエホバが来て立ち、先の時のように,「サムエル,サムエル!」と呼ばれた。”とある。声だけじゃなく姿も現した。初めからそうするのが、思いやりのある神様のすることだよ。」
「その後、6節から、打って変わって、JWの若者に、“あなたは内気で,大人に伝道することが苦手かもしれません。また,友達と違う行動をするのは恥ずかしいと思っているかもしれません。でも,エホバはあなたを助けたいと思っておられます。”と、エホバ自身かのようなことを言っています。」
「若い人が、詐欺まがいの伝道やJWであることを恥ずかしく思うのは当然だ。正常であればそう思うよ。もし、そのようなことを神様が強いているとすれば、思いやりがある神様ではない。」

「7節からは、モーセの召命物語についてです。モーセは神様といろんなことを交渉します。神様もモーセの要求をかなり呑みます。これを思いやり深いと執筆者は言っています。」
「説得力ないね。モーセはエジプトで大虐殺をおこなうわけだ。出エジプト4:21で、神様はモーセにこう言う。“行ってエジプトに戻った後,あなた方は,わたしがあなたの手にゆだねたすべての奇跡をファラオの前で実際に行なうように。わたしは,彼の心をかたくなにならせる。そのため彼は民を去らせないであろう。”」
「ファラオが民を去らせないので、そのたびにエホバは災厄を引き起こし、最後は長子を皆殺しするわけですが、ファラオが民を去らせなかったのは、エホバがファラオをマインドコントロールしていたからなんですね。ひどい神様ですね。」
「エジプト人を何だと思っているんだ、と神様に言いたいね。でも出エジプトの話はフィクションだから。エジプトを出たのは、12:37によると、“幼い者たちを別にして,徒歩で行く強健な男子は六十万人に上った。”とある。そんな大群がエジプトを出たなら、エジプト側に何らかの記録が残っているはずだけど、なにもない。そんな大群衆が荒野を40年間さまよったら、大規模な宿営の跡や大量の土器の散乱などの痕跡が残っているはずだけど、何もない。」
「砂漠なので、何十万人の排泄物も乾燥した状態で残ると思います。要するに、少数の奴隷の逃亡といった小さな事件を、後世の人が民族的な大事件に仕立て上げて、民族共通の記憶遺産にしたというわけですね。」
「ある人が、その体験は日本人の原爆体験に比べることができると言っている。原爆を体験した人は、日本人全体のほんの一部なんだけれど、原爆投下から何十年たっても、自分たちのことを唯一の被ばく国と称し、毎年原爆に関する儀式を行っている。ある出来事がある集団にとってどれほど重要かは体験した人の数では決まらないことがわかる。」

「11節からは、その出エジプトの話です。西暦前1513年とあたかも史実であるかのように書いていますね。イスラエル人の数は300万以上とあります。13節では、“あなたがその場にいたらどう感じるでしょうか。”と、出エジプトの話をまるで見てきたかのように書いていて、笑えます。」
「その当時のエジプトの総人口は300万人くらい。1世紀の時点で7~800万人くらい。イスラエル人300万はあり得ない数字。」
「出エジプト1章に、生まれてくるヘブライ人の男の子の殺害を命じるために、ヘブライ人の産婆をファラオが呼び出すという話が出ていますが、産婆の数はたった二人です。産婆の数からいうと、ヘブライ人の数はせいぜい数百人規模ですよ。」

「出エジプト西暦前1513年説は、聖書に出ている数字をJWが独自に解釈して出した年。JWの中だけでしか通用しない。」
「JWは、創世記15:13にある、アブラハムに向けてエホバが言った“あなたの胤は自分たちのではない土地で外人居留者となって,[その地の民]に仕えねばならず,その[民]は必ず四百年のあいだ彼らを苦しめるであろう。”を根拠にしているようですね。400年の始まりは、イサクが5歳の時にイシュマエルにいじめられたことだそうです。これが民族的な悲劇の始まりとは笑えます。その年が西暦前1913年で、そこから400年後ということで西暦前1513年という計算です。」
「それだと、出エジプト12:40の“エジプトに住んだイスラエルの子らのその居住[の期間]は四百三十年であった。”と、どうつじつまを合わせるの?ヤコブのエジプト移住から数えて、エジプトに430年間過ごしたのなら、イサク5歳の時から数えて400年たってもまだエジプトの奴隷という計算だよ。」
「そこでJWは、突然70人訳のテキストを採用するのです。70人訳では、カナンとエジプトの2か所に住んでいたのがあわせて430年となっているのです。アブラハムがカナンの地に来てから430年間ということで、つじつまを合わせるのです。」
「ご都合主義的だね。70人訳はヘブライ語のテキストの矛盾に気づいた訳者が、それを解消しようとして、加筆したものと考えられている。数字合わせのためだけに、聖書本文ではなく70人訳の方を採用するというのは、JWらしいね。12:40にある“イスラエルの子”はヤコブの子孫という意味だよ。アブラハムから数えるなんてありえない。」
「70人訳を採用すると、エジプトにいたのは215年になるそうです。215年で70人から300万人に増えたとまじめにJWは考えているのです。それが可能な数字か、示すべきですよ。」

「16節は現在のJWの教義がよくわかる箇所だね。初めの文は“エホバは今もご自分の民を世話しておられます。”だけど訳が悪い。英文は、“Jehovah cares for his  people as a group”で、エホバは彼の民を集団として世話しているとしている。個人ではなく集団なんだ。エホバはある集団に属しているかいないかで扱いを変えるという教義。」
「宗教は個人としてどう行動するかが重要と考えますよね。カルトは自分たちだけが特別に選ばれた集団で、自分たちに所属しているものだけが救われると考えます。」
「“近づく大患難”とあるけれど、原文は“the fast-approaching great tribulation”で、“急速に近づく大患難”なの。翻訳者は今さら終末論をあおるのが恥ずかしいのだろう。」
「翻訳者も多少は羞恥心があるようですね。」
「“エホバの民は将来,ゴグの攻撃を受けます。ファラオよりもはるかに強力な諸国家の連合体です。”とある。このゴグ=国家の連合体という解釈は、なんと2015年から。それまではサタン。出来立てのほやほやの教義だね。この珍妙な新解釈が正しいとなぜわかるの?これからも教義の変更は続くのだろう。楽しみだね。」

「最後の17節には、“エホバがご自分の民を親切で思いやり深く世話し,導き,救出された例はほかにもたくさんあります。そうした記述を読みながら,エホバのどんな特質が表われているかを深く考えましょう。”とありますが、エホバって思いやり深い印象はないですけど。」
「そうだね。残虐という印象だね。申命記25:11,12は、“男どうしがつかみ合いをすることがあり,一方の者の妻が近くに来て自分の夫を,それを打つ者の手から救い出そうとし,手を出してその者の陰部をつかんだ場合、あなたは彼女のその手を切断しなければならない。あなたの目は哀れんではならない。”とある。価値観のおかしい哀れみのない神様でしょう。」

#860 2018年11月21日 23:07:08

ちょっと失礼します
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

またいさんの柔らかい書き込みになごんでます。もっとコメントを読みたいです。
なんとなくまたいさんのコメントないかなあと思ってしまいます。でも、いいんですよ。
カレブさん、ラハムさんのコメントも読んでいてなるほどと思います。

#861 2018年11月22日 07:44:46

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深い記事ありがとうございます

>徒歩で行く強健な男子は六十万人に上った。”とある。そんな大群がエジプトを出たなら、エジプト側に何らかの記録が残っているはずだけど、なにもない。そんな大群衆が荒野を40年間さまよったら、大規模な宿営の跡や大量の土器の散乱などの痕跡が残っているはずだけど、何もない。

発掘された聖書という本にも 同じことが書かれていました 残念ながら出エジプトは神話だと思います

オフライン

#862 2018年11月23日 04:49:18

てつてつ氏に同じ
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

私も同じことを考えていた。
ローマ時代ブリテン島へ遠征した兵士とその家族の
使ったカエサルの肖像の硬貨や家具、おもちゃの類が
イギリスで発掘されている。太古の昔の貝塚でさえ
残っている。無線機や通信手段など無い時代にどうやって
300万人に一斉司令を伝えるのか、第一砂漠の荒野で40年300万に
どこから食料調達を行うのか?
300万と言えばてつてつ氏の地元の県の総人口の3倍である。
ほぼ大阪市の人口である。地区大会の7000人の出席者を
拡声器もPCも使わず口述だけで運営出来るかJWにさせて見ればいい。
出エジプトなどヤングマスクの詭弁と同様であろう。

#863 2018年11月29日 16:31:37

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

水曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“エホバに倣い,思いやりと親切を示しましょう”で、礼儀知らずのJWに人付き合いのマナーを教えるといった内容ですね。」
「最初の写真は、ピザを作っているJWの夫婦の様子なのだろうけど、キッチンを見ると、いい暮らしをしているようだね。」
「おしゃれなJWというイメージを植え付けたいのですよ。」
「でも、食卓にあるのはピザと飲み物だけ。貧しい食卓で、おしゃれじゃないよ。」

「1節の、“神の民は一つの家族です。互いを深く愛しています。”は、嘘でしょう。」
「グアテマラで若いJWが殺されても、会衆内では話題にさえしないし、日本支部は責任逃れに終始する。これは、JWが“一つの家族”ではないってこと。いくら自分たちは家族と言っても、現実がそれを否定してしまう。」

「3節で、ペテロ一3:7を踏まえて、“夫は「知識にしたがって」妻と共に住むよう勧められています。この表現は,「思いやりを示しつつ」とか「理解を示しつつ」とも訳せます。”とあります。それなら初めからそう訳せばいいんじゃないですか?」
「新世界訳は文字通りに訳するのを原則としているからだろう。文字通りに訳すると。“知識に従って”なんだよ。ところがそれでは意味がよくわからない。字義訳の問題点ね。この意味は、妻のことなど何も考えないで暮らすのではなく、妻の必要としていることは何かを十分知り、その知識に基づいて妻と暮らしなさいということ。一言でいうと、思いやりをもって暮らせということになる。それで、ほかの訳では、“思いやりをもってbe considerate”と訳している。そういう意味もあると辞書に書いているわけではなく、解釈すればそういうことだろうということ。解釈抜きの翻訳はない。」
「3:7ではその後に、“弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい。”と続きますが、どういう点で女性は弱い器なんですか?」
「文脈から判断すると、当時の女性の社会的立場や権利が弱いことを言っている。夫は女性が置かれている不利な社会的状況に敏感でありなさい、そうすることによって妻に敬意を払うことになる、というような意味だろう。」
「JWでは、女性は永遠に弱い器ですね。女だからといった理由だけで差別されています。」
「それはJWの性的虐待に対する内部での扱いが明るみに出た時点で、問題になっている。女性の性被害を審理する人たちが全員男性だなんてありえない、と非難されている。しかし、JWはそれを変えることを拒否している。どうなるか?」

「7節で、マルコ7章にある、イエスのいやしの話を取り上げています。人前でなく別のところに連れて行ってからいやしたのは、“その人は耳が聞こえないため,群衆の中で緊張していたと思われます。イエスはそれに気づいたのでしょう。”とあり、思いやりの例としているのです。執筆者の頭の悪さがよくわかりますね。」
「別の場所でいやしたのは、7:36で“そこで[イエス]は,だれにも言わないようにと彼らに言い渡された。”と説明してあるよ。理由は秘密にしたかったから。マルコ福音書の特徴は、イエスは自分がメシアであることを秘密にする点だ。これもその一例だね。」

「このマルコ7章のいやしの奇跡は、具体的ないやし方が書かれている点で面白いです。7:33,34に“ご自分の指をその人の両耳に入れ,つばをかけてから,彼の舌に触れられた。 そして,天を見上げて深く息をつき,「エファタ」,つまり「開かれよ」と言われた。”と書かれています。」
「これを読む限り、イエスのいやし方は当時の地中海世界でよくみられた方法と大差ない。盲人がローマ皇帝のつばでいやされたという話が当時の本に出ている。」
「天を見上げて深く息をついたのも、いやしのテクニックなんでしょうか?」
「天にいる神様と交信しているんだよ。真剣に祈って、思わず息をついた。そしてアラム語で“エファタ”とひとこと言う。とてもリアルだと思うね。」
「こんなことで病気が治ったんでしょうか?」
「病気を治すと称する人たちはいつの時代でもいて、それなりに信奉者がいる。イエスの敵対者も治癒の奇跡を非難していないので、このようなことは本当にあったんじゃないのかな。」

「8節に、“愛があれば,高齢の人や病弱な人が集会に出席したり伝道したりできるよう,進んで助けたいと思うことでしょう。”とありますが、そうは思いませんね。」
「愛があれば、高齢者や病弱な人はゆっくり家でくつろいでほしいと思うよ。なぜそんな人も無内容で退屈な集会や組織のプロパガンダに過ぎない伝道活動をしなくてはならないの?」
「それがJWの掟なんです。この掟を守らなければ、組織から捨てられるのです。」
「カルト宗教だね。カルト宗教は、あなたは救われましたとは決して言わない。だから、死ぬまで、組織に尽くさないといけない。」
「9節では、手紙や電話で奉仕活動をしている高齢者が模範的な例として取り上げられています。この人たちはベテルホームというところに住んでいる特別な人達ですよ。」
「ここで書かれていないことは、2016年以降、ベテル奉仕者の4人に一人は解雇されたこと。主に老人が対象になったようだ。これは効率重視といえる。働きぶりの悪い老人を若い元気な人に変えていくわけだから。」
「8節で、“会衆の主な特徴は,効率ではなく愛です。”と宣言しているんですが、やっていることは違うということですね。」
「効率重視は悪くはないよ。でも、そのために、何の資格もない、履歴書に書けるような職歴もない老人を、年金も退職金もなしに追い出すことは、愛ある組織のすることではない。」

「四角で囲って強調している“重い責任を持つ兄弟たちに思いやりを示す”とうのが面白いです。“写真を撮らせてほしいとしつこく頼んだり,許可なく写真を撮ってソーシャルメディアに投稿したり,聖書や本にサインしてもらおうとしたりします。” とイケナイ行動を指摘しています。」
「でも、このようなことを助長してきたのは統治体だ。映画スター気取りでサインしたり、写真に写ったりしている。ところが、いろいろな人が、フォトショップなどを使って統治体の写真を加工し、笑いものにしている。それが気に入らないんだろう。統治体は世界的有名人なんでしょう、それくらい我慢しろよ。」
「“有名人のように扱うのではなく,仲間の兄弟として接する”とありますが、大会などで紹介するときは必ず肩書を付けますよ。仲間の兄弟ではなく、組織内で高い地位にある人間として見られたいということです。」
「カルト信者は組織の外に出れば、ただの人以下。だから組織内の地位に執着する。組織も細かな階級制度を作り、地位を上げたり下げたりして、地位願望の強い信者をコントロールする。これはカルト宗教の特徴。」
「おそらく統治体としては、ちやほやされるのは統治体だけに限定し、巡回監督や支部委員程度に注目が集まるのは許せないのですよ。」

「13節からは、伝道のハウツーものだ。」
「そこに、“イザヤはイエスについてこう予告しました。「彼は砕かれた葦を折らず,薄暗い亜麻の灯心については,それを消すこともない」。(イザ 42:3)”とありますが、イザヤは本当にイエスのことを予言していたんですか?」
「引用されているのは、4つある“僕の歌”のひとつ。イザヤ42章は、“見よ,わたしがしっかりととらえているわたしの僕を! わたしの魂が是認したわたしの選んだ者を!”と始まる。問題は僕が誰かなんだけど、普通は、イザヤ自身をあらわしている、あるいはイスラエルを擬人化したもののどちらかととらえる。メシアどころかイエスのことを予言しているなんて言う説は問題外。旧約聖書には、処刑されて死ぬメシアを予言している部分はそもそもない。」

「14節で、“多くの人は将来の希望がなく,人を信用しません。”とあります。ただ単にJWを信用していないだけですよ。組織外の人に対する見方が歪んでいますね。」
「それは15節の開拓者の発言からもわかるよ。“区域の多くの人が内気”だそうだ。見知らぬ人の家に押しかけて独善的な話をするJWに比べれば、たいていの人は内気に見えるだろうけど、本当はおバカなJWに対してどう接していいかわからず困惑しているだけだよ。」

#864 2018年11月29日 18:35:31

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん いつも興味深い書き込みありがとう ございます

イザヤ書などの旧約のメシアについての予言とされるものについては

アーマンさんも ユダヤ人のメシア観はまったく違うもので後のキリスト教徒たちがイエスがメシアであるという結論ありきから導き出したものといってますね

自分は多分オウムの麻原もいつか将来弟子たちによって尊師は世を救おうとしていたのだが悪魔の反対によって非業の死を遂げさせられてしまう が実はそれは全人類を救うための犠牲の死だったのだという教理がつくられて神格化させられていくのだと思います 例えは悪いですが原理は同じかなと思います cry

編集者 てつてつ (2018年11月30日 06:55:39)

オフライン

#865 2018年12月07日 16:46:33

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“真実を語りましょう”で、JWには嘘つきが多いけれど、それはダメだよ、という内容です。」
「真実を語ろうということで、今までの偽情報や偽預言のことを謝罪するのかと思ったら、そんなことはないのね。真実を語るべきは、まず統治体だろう。いろいろ書いてあるけれど、言いたいことは15から18節のことなんだろうね。」

「15節は若い人に、表裏のある生活をするな、といっています。これは無理ですよ。JWは本音を言えば制裁を受けるわけで、どうしても偽善的になります。」
「16節では、正規開拓などの申込書は正直に書け、17節で、当局から逮捕されても仲間のことはしゃべるな、18節では、長老には仲間の悪行を密告しろ、とあるね。簡単に言うと、組織に都合の良い人間になれということだ。」
「18節では、“長老たちには事実を知る権利があります。悪行を犯した人がエホバとの関係を取り戻せるよう助けるためです。(ヤコ 5:14,15)”と書いています。長老は宗教裁判官というわけです。中世のキリスト教社会みたいです。」
「その根拠とされている、ヤコブ5:14,15だけど、“あなた方の中に病気の人がいますか。その人は会衆の年長者たちを自分のところに呼びなさい。そして,エホバの名において油を塗ってもらい,自分のために祈ってもらいなさい。”で始まる部分だよ。これは重い精神病の人について述べていると普通解釈される。長老による裁判の根拠となるものじゃない。」
「“長老たちには事実を知る権利があります”という主張の聖書的根拠はないということですね。」
「現代社会の価値観は他人に寛大であるべきというもの。ところがJWのようなカルトは、他人に対する寛容さはなく、常に他人を裁いている。その際、社会的規範は平気で無視する。プライバシーに対する配慮はない。」
「プライバシー権とは、私生活をみだりに公開されない権利ですよね。JWの誰かが、あるJWの隠しておきたいことを暴き、長老に密告した場合、法に触れる可能性がありますよ。」
「さらに、長老が、個人のプライバシーに関わるのに必要な高い人権意識と慎重さを有しているのか、という問題がある。JWの長老は、人権に対する配慮もなく、ろくに法律も知らないことが多い。宗教裁判官ごっこをする前に、自分が訴えられることに備えて、法律は勉強した方がよいよ。」

「1節で、嘘を発明したのが悪魔だ、最初の嘘つきは悪魔だ、といっています。嘘は悪魔が発明したものじゃないですよ。そもそも嘘って発明するものなんですか?」
「言語が発明された時点で嘘は存在しただろう。アダムが嘘をつけなかったとしたらチンパンジーよりも知能が低かったということだ。」
「チンパンジーは人や仲間をだましますよね。」
「人間に飼われているカンジという有名なボノボ(チンパンジーに近い種類のサル)がいる。カンジは、人間からキノコを食べることを禁じられている。毒キノコを食べるのを防ぐためだ。」
「エデンの園の話を思わせますね。」
「でも、カンジはキノコを見つけると素早く手でつかみ、こっそり手の中に隠し持つ。歩く速度や歩き方は少しも変えないので、人が一緒に歩いていても気づかない。カンジは人がよそ見をしている間に素早く口の中に入れてしまう。これって、人をだましているといえるだろう。類似の例はたくさんある。」
「チンパンジーが創造された時点で、お互いにだましあいをしていたということですね。」

「聖書の中で、初めに嘘をついたのは神様だよ。創世記2:17で、“善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである。”と神様は言ったけれど、アダムは食べた日に死ぬことはなく、900年以上も生きている。」
「ヘビの言ったことも嘘ではないですよ。決して死なないというのは命の木の実を食べれば実現します。神様は、そうさせないために人間をエデンから追放したんですよ。」
「そうだね。創世記3:22で、“さあ,人は善悪を知る点でわたしたちのひとりのようになった。今,彼が手を出してまさに命の木からも[実を]取って食べ,定めのない時まで生きることのないように ”と言って追放している。アダムがボノボのカンジ並みのズルさがあったら、善悪の木の実を食べたついでに、命の木から実をとって、食べていただろう。アダムもエバも3歳児並みの知能しかなかったようだね。」

「執筆者の無知ぶりは3節でもわかります。“しかし今日,人間はせいぜい「七十年」,「特別の力強さ」があっても「八十年」しか生きられません。”とありますが、日本女性の平均寿命は87.26歳、男性は、81.09歳です。80歳まで生きるのは普通のことです。」
「アメリカの統計(2016年で、男76歳、女81歳)がものみの塔の基準なんだろう。」

「9節が注目です。“Y・バタチャルジーは「なぜ人間は噓をつくか」という記事の中で,「噓をつくこと[は]人間の本性に深く根ざした特徴であることが明らかにな[った]」と述べています。”とあるのですが、異例なことに、ちゃんと引用元を明らかにしています。ナショナルジオグラフィック2017年6月号です。いつもは著者名も引用元も明らかにしないのに、驚きです。」
「勝手に引用すると抗議されるからじゃないかな。“同じ記事は,人々が大小様々なうそをつき,「他人だけでなく,友人や家族も平気でだます」とも述べています。”と、この記事が人間をひどい嘘つきと非難しているように書いてあるけれど、この記事の趣旨はそうじゃない。40ページにはこう書いてある。“こうした研究が示唆するのは、よく嘘をつく半面だまされやすいという人間の特徴が、現代ではとりわけ重大な意味を持つということである。”」
「著者は、人間はだまされやすい存在なので、詐欺やデマに気を付けるよう警告しているのですね。」
「52ページにはこうある。“自分の考えと会わない事実を突きつけられても、それに気づかない人がいます。あるいは、事実を無視したり、ばかにしたりする人、途方に暮れる人、さらには、自分の考えが覆されそうになると、むきになって反撃する人もいます。”」
「JWがまさしくそうですね。さすがにこの部分は引用できませんね。」
「執筆者は、嘘は人間の本性だと書いてある本を探していて、たまたまこの雑誌を見つけて、自分の考えを支持してくれる部分だけを引用している。こういう情報の探し方を確証バイアスという。」
「どんな奇妙な考えでも、なにがしかそれを支持してくれる情報を見つけることは可能なので、JWのように非常に奇妙な考えを抱いている人でも、自分の考えは正しいと思い込むことができるというわけですね。」

「11から13節は、使徒5章のアナニアとサッピラの話が出ていて、12節では、“悪意のあるうそをつき,悔い改めない人は,サタンと同様「火……の湖」に投げ込まれます。”と信者を脅迫しています。」
「アナニアとサッピラの話は使徒の中でも納得できない話の代表だ。二人は死ななくてはならないほどの悪人なの?人の財産を盗んだわけでもなく、不正直に金額を申告しただけだよ。収入を正しく申告していないJWなんか沢山いるでしょう。」
「日産の元会長のゴーンさんもそうですよね。巡回監督が信者からお金を貰っても税務署に収入として申告したなんてことは聞いたことないですね。」
「いきなり殺すのではなく、悔い改めるチャンスを与えるべき。それから、アナニアの死体をさっさとかたずけて、そのことを妻にも知らせない。そして妻のサッピラも直ちに死刑。死体もごみのようにさっさとかたずける。いやな話だ。」
「この話の趣旨は、使徒5:11に、“その結果,会衆全体,およびこの事について聞くすべての者に大いなる恐れが生じた。”とあるように、恐怖で信者を支配することなのでしょうね。」
「この話は旧約聖書の焼き直しだ。何か悪いことをすると、すぐ殺される。サタンは放置しているくせに、人間にはやたらと厳しい。矛盾しているよ。JWは疑問に思わないのかな。」
「ヨシュア記7章のアカンの話とよく似ていますね。敵からの略奪品をすべて神様にささげなくてはいけなかったのに、一部自分のものにしていたので、アカンの一族や家畜まで皆殺し、という話です。新約聖書では、夫婦だけが殺されていますので、神様も少し凶暴性が減ったんですね。」

#866 2018年12月07日 20:40:12

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん。

何時もながら、今回は特にjwのみならず、
「聖書の神」の不条理性の部分を浮き出しておられるように思います。

#867 2018年12月08日 11:03:04

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

新約も使徒行伝になると狂暴な話が出てきますが、その締めが、歴代のも塔うそつき執筆者も投げ込まれそうな火の湖です。

女性信者が目立ちすぎて正典から外されましたが、パウロとテクラの行伝にも、神が雹を降らせて大量殺人する旧約みたいな話があります。


聖書についての質問さんの解説しか読んでいませんが、JW信者対象の脅迫記事としては上手く書けていると思います。恐怖でカミングアウトする人の宗教裁判で忙しくなるんじゃないですか。

#868 2018年12月08日 11:11:28

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

イエスの王国は1000年で終わってしまうとJWの方々は信じているようです
ルカ1:33などは気にかけていないのかものみの塔などにもいくつか記事があります

*** 塔00 10/15 20ページ 神の王国は何を行なうか ***
王国の将来
18 王国は,エホバが地とそこに住む人々を完全にし,ご自分と和解させるために用いた副次的な政府です。
・・・・・以下略

読んでもなぜ終わるかがさっぱりわかりません。
聖書についての質問さん
千年王国について教えてください。

#869 2018年12月08日 17:12:25

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

みなさまこんばんは。

昨日たまたまテレビで、ダイアモンド博士の“ヒトの秘密”という番組を見ました。

昨日のテーマは集団虐殺でした。ナチスとか、ポル・ポト政権とか、集団虐殺の例はたくさんありますよね。
私は旧約聖書で自慢気に語られる虐殺を思い出してしまいました。この掲示板でよく話題になっていましたからね。

ダイアモンド博士の意見では、この残虐な行為は人間が動物から進化する中で引き継いできたものではないかということです。進化を否定しているはずの旧約聖書に、動物から引き継いだ習性を自慢気に記録しているのかもと思ったら、可笑しくなっちゃいました。

集団虐殺は、“us vs them”(我々対彼ら)という考え方が影響しているのだそうです。自分たちのグループさえよければOK!
某トランプさんとか、某○○さんとかが大好きな考え方では…?

現代人は「汝殺すなかれ」というルールを知っているから、殺人に対する罪悪感によって虐殺にブレーキがかかるというお話もありました。でも旧約の虐殺物語では“them”は殺してはいけない相手ではないのですよね。
同種であるヒト同士の殺し合い。動物の習性そのものに見えます。

オフライン

#870 2018年12月09日 11:37:21

akame
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

にしても

相変わらず、人の短絡性や有害性が際立つ事象が少なくないように感じます。

それを緩和する要もまた人にある訳ですが、

https://blog.fore-ma.com/?p=13

#871 2018年12月09日 16:26:19

三太郎
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

Irisさん こんにちは

このシリーズ7回目の「農業は人類に何をもたらしたのか」は、人類史における階級や格差は、農業と共に始まったという見方をしていました。私も同じような考えでしたから、興味深く見ていましたよ。

数年前、青森の三内丸山遺跡と佐賀の吉野ヶ里遺跡に行ったことがあります。この同じ大規模集落の決定的な違いは、防御施設としての環濠の有無です。
漁労狩猟採取の縄文遺構の三内丸山からは、集落を取り囲む環濠は見つかっていません。弥生遺構の吉野ヶ里から見つかったV字型の環濠は圧巻で、深さ3m以上、幅が6mもあり、どう見ても外敵から集落を守る為の施設であることは間違いないという感じでした。これは縄文時代には無かった大集団による戦闘が、既にこの時代には繰り広げられていたことを示すものです。実際、縄文期の殺傷人骨の出土例は、弥生期にに比べると圧倒的に少ない。

水稲稲作などの大規模農業によって爆発的に人口が増え、余剰の農産物が保管できるようになると、それを手に入れた者が富と権力を握るようになり、そこから階級や格差が生じたと考えられます。その後の支配権拡大の動きが戦闘に繋がっていったことは、想像に難くありません。

確かに農業には功罪がありますが、そうかといって今更、弓と槍もって山に入るわけにもいかないし。

狩猟採取か農業かという食料調達手段の問題よりも、問題の本質は食料調達後の人間の側にあるのでしょうね。

ちなみに、「農業は人類の原罪である」(コリン・タッジ著) なんていう本もあります。

#872 2018年12月10日 18:27:56

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

交配できない近種では、捕食対象をずらすなど上手くすみ分けるよう進化するケースも多いですが、哺乳類から霊長類にかけて社会性がある種ほど、同種間の殺害率が高いようです。


「殺すなかれ」ルールのあるヒトも大量殺戮のインパクトは強く、昔の史記にありがちですが、旧約も、動物でも人間でも(と)殺した数をむしろカサ増して誇示したり、びびらせたりします。

そんな昔話を脅しに使うしか能がない統治体も、信者を動物のように調教しているつもりなんでしょう。

#873 2018年12月14日 16:05:59

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

木曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「予習に来ました。次回のものみの塔は、“真理を教えましょう”で、色々なツールをうまく使って信者になりそうな人を捕まえよう、という内容です。」
「真理といっても、JWの教義のことでしょう。JWの教義は、聖書を読んでいるだけでは絶対思いつかない奇妙なものが結構あるから、特殊なツールが必要なのはよくわかるよ。」

「2節に、“皆,良い知らせの奉仕者です。宣教はとても大切な仕事です。「神と共に働[いて]」いるからです。(コリ一 3:9)”とあるけれど、嘘じゃないですか?」
「ものみの塔1988年3月15日号の“エホバを信頼しエホバと共に働く者として,奉仕する”という記事の中に、“「わたしたちは神と共に働く者……です」と述べました。(コリント第一 3:9)これらの言葉はいずれも,イエス・キリストの油そそがれた追随者によって,またそれらの追随者について語られたものです。しかし,この言葉は原則的に,神の真の僕たち全体に当てはまります。”とある。」
「JWの教義では、神と共に働くものは、本来は油注がれた人のことを指すのですね。つまり他の人は、本来は、神と共に働くものではないということです。信者を2つの階級に分けるのがJWのやり方です。神と共に働く油注がれた人はそうでない人よりも100倍は働くべきできです。」

「この記事は英語版とかなりニュアンスが違う。3節は、翻訳ではなく作文だよ。初めに“宣教ツールボックスとよばれているのはなぜでしょうか。”と問いかけているけれど、英語版では、“You may wonder why it is called a Teaching Toolbox and not a Preaching Toolbox. ”で、教育ツールボックスと呼び、宣教ツールボックスと呼ばないことを不思議に思うかもしれませんと言って、その後、宣教ではなく教育こそが今求められていると強調している。」
「つまり時間をかけるだけの宣教ではなく、研究生を見つけてバプテスマ受けさせてJWにする教育の重要性を強調したいので、Teaching Toolboxと呼ぶと、わざわざ説明しているのに、翻訳者はそれを無視して宣教ツールボックスと訳して、内容も勝手に変えている。排斥すべきですね。」
「これ以前に別の雑誌で“宣教ツールボックス”という言葉を既に使っているんだよ。今更変えられなかったんだろう。それから同じ3節で、“世の終わりが近づいている今”とあるけれど、英語版にはそんなことは書いていない。それから“聖書レッスン”というバカげたいい方は日本の言い方で、英語版では、“Bible  studies ”。」

「ツールボックスからの連想で、イエスが大工だったと1節にありますが、本当でしょうか?」
「マルコ6:3の故郷の人がイエスのことを“大工ではないか”と言ったという一節から、そうなっているけれど、並行記事のマタイ13:55では、“これはあの大工の息子ではないか。”となっている。イエスは、マルコ6:3では“マリアの息子”とも呼ばれているから、大工の息子の方が自然。しかもマルコの写本の中にはマタイと同じ表現をしているのもある。大工なのはヨセフだけかも。」
「大工と訳されているギリシャ語は、主に大工を指す単語ではないですよね」
「それは tektónという単語で、新約聖書には2回しか出てこないけれど、何かを建てる人あるいは職人を指す言葉。イエスの時代の大きな建物は石で作られていたので、石工かもしれない。ナザレ付近で発掘されたブドウ園には、石でできたフェンス、ブドウ絞り器や塔が発掘されている。」
「マルコ12:1に“また,[イエス]は例えで彼らにこう話し始められた。「ある人がぶどう園を設け,その周りに柵を巡らし,ぶどう搾り場のための大おけを掘り,塔を立て,それを耕作人たちに貸し出して,外国に旅行に出ました。”とあるのは、実際にあったブドウ園を想定したものなんですね。」
「柵、大桶、塔は木ではなく石でできている。これは考古学による発見。イエスのたとえには農業関連のものはあるけれど、大工関連のものはないのが気になるね。」

「1節では、“30歳の時に大工をやめ,もっと重要な宣教活動を始めました。”とあります。引用しているルカ3:23には、“およそ三十歳”と、あるわけで、30歳と決めつけるのはへんですよね。」
「ヨハネ8:57では、“あなたはまだ五十歳になってもいないのに,アブラハムを見たことがあるのですか”とある。これだとイエスは40代となる。この聖句を考慮に入れると、“およそ三十歳”は30代半ば過ぎくらいまで可能性がある」

「8節に、アメリカのレイとリンダの教会巡りの話が出ていますが、変わった夫婦ですね。“2つの条件に合った教会に通おうと決めました。まず,教会で何かを学べること,そして,教会のメンバーがきちんとした服装をしていることです。”とありますが、これは外見にこだわるJWを正当化するための話ですね。」
「教えの中身より外見を重視するなんてバカだね。その後、王国会館の“中に入ったレイは感動しました。みんな親しみ深く,きちんとした服装をしていました。”とある。レイは世間知らずの田舎者だ。カルトは、新しく来た人を熱烈に歓迎するということさえ知らないようだ。カルトに入ったばかりの頃は、歓迎されて幸福感を覚え、生活が充実しているかのように感じるのはよくあることだよ。保守的な老人の好みに合う集団が見つかって、彼らはそれなりに幸福なんじゃないかな。70代の老人だから失うべきものもそうないだろうし。」
「でも、このような老人の新規加入はJWにとって負担が増えるだけです。老人の場合、ゴールドカードを持っている資産家に限るべきですよ。」

「10節に、「神の王国とは何ですか」のパンフレットを使った、伝道の仕方が具体的に出ていて面白いね。」
「神の王国とは何か、3択式の質問をする。“天から支配する政府”が正解のようです。そして、ダニエル2:44とイザヤ9:6を読むとあります。この二つの聖句は、“天から支配する政府”のことを言っているとは思えませんけど。」
「“天から支配する政府”という教義は、1914年以降に作られた苦しまぎれの教義。組織の預言では、1914年にイエスが地上に表れて、それまでの古い体制を一掃して神の王国を地上に作るというものだったけれど、そんなことは生じない。それで、目には見えない天でつくられたことにしたわけ。預言がはずれたことの言い訳にすぎない。」

「ダニエル2:44は、パンフレットには、“天の神は決して滅びることのないひとつの王国を立てられます”とだけ引用されています。一部だけ切り取った不正引用ですよ。」
「この部分は、ネブカドネザルの夢の解釈をダニエルがしたという話の一部だ。王は4つの異なる材料からなる大きな像が石で粉々になるという夢を見た。それは次々起こる4つの王国を指し、4番目の王国はさらに分裂することを意味するとダニエルは解説する。そして、2:44が来る。」
「4番目の王国は、普通はアレキサンダー大王の王国のことと理解しますよね。」
「そうだね。2:44は、“そして,それらの王たちの日に,天の神は決して滅びることのないひとつの王国を立てられます。”とはじまる。JWのパンフレットでは初めの部分を省略している。」
「“それらの王たちの日”というのは、アレキサンダー大王死後の後継者たちが支配している時代ということですよね。これはダニエル書の実際の著者が生きていた時代で、その時代に、天の神の王国が地上にできるという預言ですね。これはユダヤ人の救済願望に過ぎないわけですが。」
「それをJW独自の教義の、1914年に設立したという天の王国のことを指しているとするんだからね。全く関係ないよ。」

「イザヤ9:6もパンフレットには、“わたしたちにひとりの男子が与えられた……。君としての支配がその肩に置かれる”と部分引用しています。キリストのことを指すという解釈ですよね。」
「キリスト教関係者はそう解釈するね。メシア預言とね。しかし、イザヤのメシアは偉大なカリスマ的指導者のことで、この世の終わりに現れて、善なる人を救うといった終末論的な救済者ではない。というわけで1914設立の天の王国とは関係ないよ。」
「JWの神の王国は、JWの頭の中にしか存在しない王国ということですかね。」
「神の王国について説明するのに、ダニエルとかイザヤといった旧約聖書を持ち出すあたりが、キリスト教ではないエホバ教の特徴が出ているけどね。」

#874 2018年12月15日 11:24:32

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

三太郎さん、こんにちは。

私はこのシリーズを見たのは前回が初めてでした。もっと前から見たかったです。

弥生時代に稲作が始まって貧富の差が生まれた…とはるか昔の中学時代に習った気がします。
動物も獲物をめぐって縄張り争いをしますが、農耕・牧畜の生活になって良い土地がより重要になり、戦闘も激しくなっていったのかも。

聖書でも「乳と蜜の流れる土地」が神さまの約束であり、奪い合いの対象でしたね。

オフライン

#875 2018年12月16日 06:31:10

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

irisさん こんにちは

>弥生時代に稲作が始まって貧富の差が生まれた…とはるか昔の中学時代に習った気がします

以前に読んだ漫画にそのようなことがかかれてました 完全に平等なのは原始共産主義社会だそうです でも無人島でロビンソンクルーソにでもならないかぎりそんな生活はできないですしユーチューブもみたいので自分には無理です cry  でもその共産主義のユートピアを作ろうとした結果が現代でもっとも多くの死者がでたというのは皮肉です

編集者 てつてつ (2018年12月16日 06:51:35)

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