ログインしていません。

#801 2018年06月20日 08:31:18

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

(マサチューセッツよりライブ映像 本日のマリアちゃん)


「信者様ガ  お香を 焚いてくれマシタ  とりあえずいい香りはしますケド 発がん性物質を検出しましたノデ 消火シマス」



そしてお香めがけて目から水を噴出するマリアちゃん


信者A〈涙を流された! ありがたやー〉
信者B〈この水を浴びたらケガが治るかも! ありがたやー〉
信者C〈マリア様が私たちに代わって消火活動にあたられた これぞ神の恩寵だ〉

#802 2018年06月20日 22:56:21

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

そこへいくと日本のお地蔵さまは最先端を行きましたね

何しろ6体そろって「じょいやさ、じょいやさ」と掛け声をかけ、橇を引いて歩くのですから!

それがありがたいのも普段は何もしないからこそ。旧約の神は人間を救わない神ですから、偶像と張り合っていたのでしょうか…

オフライン

#803 2018年06月22日 09:09:26

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

きっと傘地蔵ですね

古けりゃ何でも良いわけではないと思いますよ

駄作は駄作

#804 2018年06月23日 09:42:46

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「動く」と「生きている」の間にはまだまだ壁がありそうですが、旧約時代の技術とは比べものになりませんね。

「生きている像」なら拝んでよいのか。

クローン人間が神にされちゃった映画ならありましたね。


キリストもある意味でヒューマノイドヤハウェなので、キリスト関連グッズは偶像ではないらしいです。

#805 2018年06月23日 11:35:32

通りすがり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

それに、全知全能と標榜するわりには、律法・ルールを出す時点での未来の状況変化への対応がぜんぜんできてないずさんさと、不備だらけが目立ちますね。

血の問題もそう。輸血や分画の問題が起きることはエジプト時代にわかってたはずなんだから、信者の命と選択を迷わせないような規準くらい出すべきだったと小学生でも思いますよね。その割にレビ記なんか、「○○の場合はこうで、○○の場合はこうして、不測の場合はこうしなさい」、とか有り得ないケースまで“事前に想定”してるわけだから、なんかバランス悪い“神”と言わざるを得ない。

上位の権威の教理だって、未来には王政だけでなく、共産主義や民主主義も出てくることが予想できたのだから、未来の信者が判断に苦慮して無用に命を落とさないように事前に○○の場合は○○に…と保護すべきだったし、民主主義なんか主権者は国民(国民主権)なのだから、じゃあ、上位の権威である国民に従うのか、と、もやは文字通りには遵守できない。

インターネットもそう。未来にはみんなタブレットとスマホで情報を共有できるようになることが1世紀にわかっていて、「良いたよりのためにあらゆることを」活用するつもりだったのなら、そのことも預言に含めてたら、おーさすが!と先見の明に感心もしたのにと思います。

現実はむしろ逆で、戦争にしても、「国民が国民に敵対」するような戦争なんて古すぎてそんなものはなく、テロとの戦いや、反政府勢力との内戦が主流だし、そこからここへと広がるような疫病なんかなくて、むしろ、エイズでさえ克服されつつあるし、アルツハイマーやガン、脳心臓血管障害とかがメインだし、まったく未来が見えていない。

北の王と南の王も、そんな二極化の単純なせかいにはならず、グローバル化や経済圏による統治がすすみ、EUや条約機構などの複雑な連携の世界となっていて、“預言”のような世界観は未来というよりも、正直な気持ちで読めば、かなりの昔話に聞こえます。

犯罪にしても不道徳にしても、だんぜん現代のほうが安全で、セクハラだけで社会的に亡き者にされて罰せられる時代ってあったでしょうかね。だれも普段から剣を帯びず、むしろ6cm以上の刃物を持ってるだけで逮捕される時代です。

ほかにもいろいろありますが、要するにアブラハムの神には明らかに能力的な限界があることが明らかであり、こんな預言に我が命と人生をかけるのは本当に投資詐欺以下の下手な話で被害に遭うようなものです。

1914年に仮に全人類がニネベの人のように“改心”して、子供を持たずに“業”に専念していたとしたら、今、地球上にはヒトはひとりもいないことになりますよね。今のこの地球人が、不信者のおかげで成り立っているとでも説明するのでしょうか。

無能で崩壊した教理に、それでもあなたは全人生とあなたの可能性をささげるのですか?

#806 2018年06月23日 20:24:10

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

「キリストはヒューマノイドヤハウェ」とは言い得て妙ですね!
ついでにヤハウェのイメージがガラリと変わってしまいましたけれどね

オフライン

#807 2018年06月25日 17:14:09

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“励ましを与える神エホバに倣う”というもので、聖書からエホバやイエスの励ましの例を脈絡もなく書き連ねて、最後に、“今日,エホバの証人の統治体はベテル家族の成員,野外の特別全時間奉仕者,世界中の兄弟姉妹を励ましています。”と、統治体の役割をアピールして、統治体崇拝をますます強めようという内容ですね。」
「そんな話よりも、サッカーワールドカップの話をしたいな。」
「そういわずに、ものみの塔の話をしましょう。」
「最近の統治体のしていることを見ると、とても“世界中の兄弟姉妹を励ましています”とはいえない。嘘だろう。」
「そうですね。世界各地で王国会館を売り飛ばしていますし、ベテルで長年働いていた人たちを大量に放り出すし、家族を破壊する排斥制度を強化し、性的虐待を長年放置したうえ、いまだに謝罪も反省もせず、それを背教者の嘘だということで乗り切ろうとするなど、世界中の兄弟姉妹を少しも励ましていないですね。」
「統治体も自分たちの失態はわかっているから、統治体崇拝を強めようとしているんじゃないの。」
「ついて来られない信者は排斥処分にして、統治体に言いなりの信者だけで組織を固めようとしているみたいですね。これからますますカルト色が強まり、これまで以上に奇妙な宗教になっていくのですかね。」

「最初にコリント第二1:3,4が引用されているけれど、へんだね。」
「ものみの塔では、“神はすべての患難においてわたしたちを慰めて[または,励まして]くださ[います]”とありますが、新世界訳では、[または,励まして]なんて書いてないですね。」
「慰めると訳されているギリシャ語は励ますという意味もあるよ。しかし、“慰める”と訳した以上はそれに責任を持ってもらいたいね。励ますというテーマの記事を書くから、[または,励まして]なんて言葉を付け加えるのは不誠実だ。」
「自分たちの都合で聖書の翻訳を変えるのはJWでは普通ですから。新共同訳では、“慰める”です。どちらが正しいのですか?」
「“励ます”と訳している聖書はないでしょう。文脈からみて、“慰める”という意味でパウロは使っていると解釈するしかない。ところで、どんな聖書からの励ましの例がでているの?」

「エデンの園の話とノアの話がでていますね。JWのお気に入りです。その他には、ヨシュアやエフタの娘もでてきます。エフタの娘の話では、10節で、“エホバが勝利を与えてくださるなら,家に帰ったとき最初に迎えに来る者を幕屋で仕えさせると誓いました。”と聖書に書いてないことを平気で書いています。裁き人11:31には、“わたしはその者を焼燔の捧げ物としてささげなければなりません”としか書いていませんから。」
「JWは、エフタが娘を殺して捧げものにしたということを認めたくないんだ。しかし、ヨシュアが行ったとされる大規模な虐殺は少しも問題視していない。JWは、異教徒であれば皆殺ししてもいいけれど、仲間の娘一人の命は大いに気にするということだね。奇妙な倫理観だな。」

「その後、新約聖書の使徒たちの話に移り、そして18節に“1世紀の統治体は,指導の任に当たっている人たちや他のクリスチャンたちを励ましました。”と統治体へと話が移ります。」
「“1世紀の統治体”?そんなものは存在していないだろう。ひどい嘘だね。統治体なんて言葉は聖書のどこにもないよ。」
「そうでしょうね。聖書を読む限り、使徒たちは、一般信者を統治するなんてことはしていませんね。」
「19節で引用しているエルサレム会議について、“統治体は聖霊の導きを祈り求め,聖書をよく調べた後,割礼はもはや必要ないと決定しました。”と、ものみの塔にまるで見てきたように書いてあるけれど、使徒15:6には、“そこで使徒や年長者たちは,この件について調べるために集まった。”とある。相当数の人数がいたはずなんだ。しかも、問題になっているのは教義のことで、組織運営の話ではない。」
「使者派遣でも、15:22では、“使徒や年長者たち,また全会衆は,自分たちの中から選んだ人々を,パウロおよびバルナバと共にアンティオキアに遣わすことがよいと考えた。”とありますから、統治体の命令というよりは、全会衆の意志で使者派遣が決定されたようですね。」
「ペテロの演説の後の15:12を、新世界訳では、“すると,一同は沈黙してしまった。”としているけど、新共同訳では、“すると全会衆は静かになり”と訳している。全会衆と訳するのが普通なんだ。」
「“全会衆”と訳すると、エルサレム会議がJWの言うような統治体の会議とは言えなくなるので、“一同”と訳しているわけですね。しかし、15:22ではさすがにそのようなごまかしはできなかったので、突然“全会衆”という言葉が出てくるわけですね。新世界訳はダメですね。」

「そのほかには、使徒6章の例がある。食料の分配でもめたとき、使徒たちは、3節で“兄弟たち,あなた方の中から,霊と知恵に満ちた確かな男子七人を自分たちで捜し出しなさい。わたしたちがその人たちを任命してこの必要な仕事に当たらせるためです。”と言っている。」
「使徒たちが、俺たちは統治体だから、俺たちがお気に入りの中から7人を任命すると言ったのなら、JWの統治体は泣いて喜ぶのでしょうが、使徒たちは、そんな偉そうなことは言わずに、自分たちで決めて、なんですね。まったく統治していませんね。」
「新約聖書を読む限り、エルサレムにいた使徒たちが全ての信者たちを統制していたなんてことはない。各地の組織は、地元の年長者たちによって、独立性の高い運営が行われていたというのが実情に近いだろうね。そのため、異端との闘いがパウロの手紙の重要なテーマになっている。」
「通信や交通が発達した現在でさえ、地元の長老が独自のルールを設けたりしていますからね。古代ではなおさらでしょうね。」

「JWの統治体は、聖書的に何の根拠もない統治体を何とか権威付けようと必死だね。」
「JWの歴史を見れば、初めの頃は、会長の独裁体制で、ノア会長の時、いわばクーデターのような形で会長の権限を奪って、集団指導体制にした。それが統治体と呼んでいるものじゃないですか?」
「“良心の危機”に出ていたね。」

#808 2018年07月02日 17:04:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“「ますます」励まし合いましょう”で、互いに励ましあおう、特に開拓者、宣教者,巡回監督とその妻,支部事務所や遠隔翻訳事務所で奉仕する人たちを励まそう、という内容ですね。」
「18節に、“「ものみの塔」やjw.orgの記事を一緒に読むなら,兄弟姉妹はきっと元気づけられるでしょう。王国の歌を一緒に歌うこともできます。”とあるけれど、かえって気が滅入るよ。ビールを飲みながら、一緒にワールドカップの試合を応援するというのはどうかな。」
「人を励ます一番いい方法は、お金をあげることですよ。開拓者だろうが宣教者だろうが巡回監督だろうか、お金をあげれば、とても励みになります。」
「いいね。箴言17:8、“贈り物はその偉大な所有者の目に恵みを勝ち得る石。その人は自分の向かう所がどこであっても成功する。”これは賄賂のことを言っている。箴言21:14、“ひそかになされる贈り物は怒りを抑え,懐のわいろは強い激怒を[抑える]。”JWはどうしてこのようなすばらしい聖句を引用しないのだろう?」
「箴言もたまにはいいこと書いていますね。」

「今日のタイトルはヘブライ10:24,25からきているけど、JWはヘブライの著者をパウロと断定していている。何を根拠にそう考えるのかな。」
「“洞察”によると、パウロによって61年、ローマで書かれたとしています。その証拠として挙げているのは、西暦4世紀のなんとかという本ぐらいですね。JWは昔からの言い伝えを根拠にしているようですね。ヘブライ書自体には著者の名前は一切ないですからね。」
「西方教会で、ヘブライが新約聖書に加えられたのは4世紀。それまでは胡散臭いものとみられていた。新約聖書に加えられたのはパウロの著作とみなされ、使徒的権威を獲得したから。でも、現在、ヘブライがパウロの著作だと信じる学者はいない。」
「用語・文体・思想が、パウロのとは違いますよね。」
「例えば、パウロ得意の、“キリスト・イエス”というまるでキリストが苗字みたいな言い方が一回も見られずに、“イエス・キリスト”が3回でてくるだけ。」
「ヘブライ書というと、11:1の“信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です。”というのが有名ですが、パウロの思想とは違いますよね。」
「要するに、信仰とは神が約束したことは必ず神が実現すると確信する事だ、というのを、文学的に表現しているんだけど、パウロの思想とは違うね。」

「1節で、“エホバの日は西暦70年に来ました。ローマ人がエルサレムに対するエホバの裁きを執行したのです。”と、書いていますが、エホバがローマ人を用いて裁きを執行したなんて、聖書のどこにも書いていませんよね。」
「西暦70年のエルサレム包囲戦はとても悲惨なものだったようだ。驚いたことに、JWの見解では、それはエホバのせいなんだ。新バビロニア帝国によるエルサレム陥落と同一視しているようだけど、何に対する裁きなんだろうね。その時エルサレムにいた乳児や幼児はどんな罪を犯して、死ななくてはならなかったのか、JWの偉い人は教えてほしい。」

「エホバの日って、そもそも何ですか?」
「普通は、主の日というね。古代イスラエルでは、秋の収穫祭の日、つまりお祭りの日。それをアモスが、アモス書5:20、21で、“エホバの日は暗闇であって,光ではない。それは暗がりであって,明るさはない。そうではないか。  わたしはあなた方の祭りを憎み,[これを]退けた。”と書いて以来、意味が変わって、裁きの日のような意味になった。」
「裁きは、旧約聖書では、神が直接破壊・殺戮をもたらすか、外国の軍隊を使って破壊・殺戮が行われることですよね。」
「そうだね。ところがものみの塔で引用されているヨエル書では、イナゴの大群がやってくることになっている。なかなか神様も意表を突くね。」

「新約聖書では、エホバならぬ主の日はどういう意味ですか?」
「新約にはエホバという単語は出てこないから、エホバの日という表現はない。コリント第一1:8、では“わたしたちの主イエス・キリストの日”だし、フィリッピ1:6では、“イエス・キリストの日”という表現が使われて、キリストの臨在の日を意味している。というわけで、エホバの日が西暦70年というのは、JWならではの珍説だね。」

「2節で、ヨエル書とゼパニヤ書を引用して、“この預言はわたしたちの時代にも当てはまります。”と言っていますけど、本当ですか。」
「ヨエル書とゼパニヤ書は、当時のユダヤ人とエルサレムの指導者層が悔い改めることを説いたもの。悔い改めないと神様から罰が下るよ、という預言者のワンパターンの説教を主な内容にしたもので、現代人と何の関係もない。しかし、統治体はハルマゲドンが迫っているとJWに信じ込ませたいから、ヨエルとゼパニヤの滅亡予言は21世紀の我々のことを言っていると脅かすわけだ。」
「JWでは、励ましあうのも、終わりの日が近いからであって、お互いに対する愛と関心からではないというのがよくわかりますね。終わりの日が近いことがすべての動機になっている組織なんですね。」

「6節で、“ イザヤ 32:1,2を読む。イエス・キリストは「君」たち,つまり油そそがれた兄弟たちとほかの羊の長老たちを用いて,この難しい時代に落胆している人を励まし,支えています。”とあるけど、奇妙な解釈だね。」
「イザヤ32:1は、“見よ,ひとりの王が義のために治める。君である者たちは,まさに公正のために君として支配する。”というものです。JWでは、“君”とは、“油そそがれた兄弟たちとほかの羊の長老たち”のことなのですね。」
「そんな風に解釈しているのは、世界広しといえどもJWだけ。おめでたい人たちだ。」
「となりますと、同じ6節の“長老たちは兄弟たちの信仰に対する「主人」ではなく,喜びのための「同労者」として仕えています。”というのが変ですね。“君”たちは支配するとイザヤは言っていますからね。主人なんじゃないですか。」
「ひと月ほど前の記事の、“矯正 神の愛の証拠”や“懲らしめに聴き従って賢くなれ”では、長老は懲罰を与え、排斥する存在だった。ところが、ここでは一転して“同労者”なんだ。管理者じゃないの?」
「長老が裁判で訴えられて時に備えているのかも。長老には監督責任はないと逃げるためじゃないですか。」

#809 2018年07月09日 17:05:18

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“若い皆さん,目標を持っていますか”です。」
「今週は雨ばかり降っているね。英語版では、“Young People, Are You Focused on Spiritual Goals?”で、霊的な目標と言っているのに、日本語版では“霊的”が削除されている。日本語訳をした人は“霊的”が嫌いなようだ。よく省略するよ。」
「人生の目標のことと思って読むと混乱しますね。JWの中だけで通用するつまらない目標のことなのですね。今週の記事は訳がひどそうですね。」
「本文を無視して、自分で作文している。」
「例を挙げてくださいよ。」
「例えば3節。4つの文からなっているけれど、3つ目の文はこうだ。
And it means reaching out for spiritual goals.
エホバとの友情を築くうえで役立つ目標を決め,その目標に向かって頑張ることも大切です。」
「エホバとの友情なんて言葉は元の文にはなくて、勝手に付け加えたものなのですね。4節にも、“1つ目と2つ目の理由はエホバとの友情と関係があります。”と、エホバの友情という言葉が出てきますが、原文にはないわけですね。そもそも神との友情というのはキリスト教的な概念ですか?クリスチャンは父なる神よ、と祈るんじゃないですか?」
「神様はお友達にすぎないというのは、日本のJW独自の概念じゃないの。」

「7節に、若者が目標を持つべき3つ目の理由は、“早い時期に目標を持つと物事を決定しやすくなる,ということです。”とありますが、まったく理由になっていないと思います。より良い決定をすることが重要であって、決定がしやすいかどうかは重要ではないですよ。」
「JWとしては、何も知らない幼い時に決定させれば、うまく若者をコントロールできるから、早く決めたほうが良いといっているだけだろう。若者の幸福を願っている組織ではないよ。若者の幸福を願っているなら、重大なことを決めるのは、意思決定が可能な年齢になるまで待ちましょう。それまでは人生の選択肢を狭めないように、様々なことにチャレンジしてみましょう。大学に行っていろんなことを学びましょう、というはず。」
「JWは若者を組織の一員として利用したいだけなのがよくわかりますね。」

「今週の記事は、いろんな人の実例が多く出ています。ものみの塔のために犠牲を払った人たちの話です。美談に仕立て上げています。」
「若者の人生を、おかしな教義で、コントロールしようとするのはやめろよ、と言いたいね。8節に、“ダマリスはトップレベルの成績で高校を卒業しました。”とあるけれど、元の英文は、“ Damaris finished her basic schooling with top grades.”で、高校とは書いていない。basic schoolは普通義務教育のことじゃないかな。ダマリスの話は、嘘くさいね。法律家は不幸で、開拓者歴20年の何の技術も知識もないパートタイムの中年女性の方が幸せだという話だからね。」
「記事を読むと、ダマリスは法律家になれたのに、パートのおばさんで満足しているから偉いということみたいですね。でも、ダマリスが法律家になって、児童虐待の裁判でJW側の弁護活動をしてくれた方が組織のためになったんじゃないですか?」
「JWは有能で忠実な若者に、組織のお金で、弁護士資格を取らせていることは秘密でも何でもないだろう。真の宗教という割には、言っていることとやっていることが矛盾している。」

「12節ではルカの話が出ています。学校で証言したら、“先生は宿題として,「いじめっ子 を殴らずに撃退する」のホワイトボード・アニメを見るようにと言いました。”とありますが、どこの国の話でしょうね。アメリカではないでしょう。」
「アメリカだったら、親から激しい抗議がきて、その教師はすぐに停職処分だ。日本でも、教師がカルト宗教のアニメを見る宿題を出したことがわかれば、辞職に追い込まれる可能性がある。ルカの話は本当だとしたら、どこかの発展途上国の話じゃないかな。こんな話を模範例として持ち出しているということは、JWが常識を失っているということを示すね。」

「13節のカタリナの話も、普通の人から見たら非常識な話ですよ。カタリナは“職場の人たち全員に証言することを目標にしました。”とありますが、職場で宗教活動なんかしていいんですか?そんなことをしだしたら職場は混乱しますよ。」
「これも発展途上国の底辺の職場の話じゃないかな。JWという宗教はそういった人たちをターゲットにしているようだから。まともな職場で宗教活動をすれば当然問題視される。こんなことも統治体はわからないのかもね。末端の信者を反社会的な行為へと圧力をかけることはやめてほしいね。」

「16節のクリストフの話も何かおかしいです。スポーツクラブに入ったけれど、“そのスポーツがかなり過激で危険なことに気づきました。それで,改めて何人かの長老に相談し,聖書からアドバイスをもらいました。”とあるのですが、そのスポーツのことを実際にするまでそんなことに気づかないなんて、ありえないでしょう。」
「単にスポーツもだめだといいたいだけでしょう。具体的にどのスポーツがダメなのか指定すればいいのに、それはしない。ズルいやり方だ。」
「JWからすれば、スポーツする暇があったら伝道活動をせよ、なのでしょうね。」
「聖書からのアドバイスとはどんなものか具体的に知りたいけど、何も書いていないね。それから、長老が何の法的権限もないのに、他人の子どもの人生に介入することを模範的な例として挙げているのは反社会的だ。未成年の子供に対する親の権利を踏みにじっている。クリストフの親がJWでなければ、勝手に口出しするなともめるだろう。」
「JWは家族に不和を持ち込む宗教ですから。それは親の権利を無視することが一つの理由ですね。」
「今週のものみの塔は、JWの非常識さや反社会性がよくわかる内容だ。」

「今週の記事の最後の文は、“若い皆さん,これからもエホバに頼り,従ってください。そうすれば,いつまでも幸せな人生を送れるでしょう。”です。しかし、聖書からの引用はないです。」
「代わりに引用すると、伝道の書8:15、新共同訳では“それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。 ”要するに、若者よ、人生を楽しめと、いっている。それ以上の幸福はない、と言っているよ。」

#810 2018年07月10日 17:34:52

ラッピー
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

いつも「JW少年との 会話」と言うかたちで興味深い投稿を書いてくださり有難うございます。

現役30年近くになります。
組織が嫌いです。止められない事情があり辞めてません。
ですが、ものみの塔研究にはいつもうんざりしています。だいの大人が1時間かけてじっくり討議する内容だろうか、アホ臭すぎます。

特に先の日曜日の「若い皆さん、ー」の記事はホント胸くそ悪かったです。
若い人達のこと、本当に考えてないですよね。

何が、「そうすれば、いつまでも幸せな人生を送れるでしょう。」だか。

不幸な若者どれだけ輩出してきたか。
この私が目撃証人ですから。
本当、嘘つくの止めて欲しいです。

本当に若い人達を愛しているなら、聖書についての質問さんのおっしゃるように、
「人生の選択肢を狭めないように。」
「様々なことにチャレンジしよう  。」
「大学にいって色んなことを学びましょう。」
と言ってあげるべきです。

元居た会衆の長老は進路で悩んでいた息子に新聞の集金 の仕事を薦めました。何のために高専行ったのか。大学もNGでしたから。

子供が皆離れてしまったオバサン開拓者や子供のいない老夫婦、結婚してない開拓者などが活発に注解しておりましたが、
なんだかね。
頭が変になりそうです。この組織辞めたいんですが。
潰れてくれると有難い。

家にかえっても気分悪く、聖書についての質問さんがきっと今回の記事についてもupしてくれるだろうと待っていました。
有難うございました。

#811 2018年07月16日 16:05:05

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「暑いですね。今週のものみの塔は、“エホバは「耐え忍んで実を結ぶ」人たちを愛される”で、何の成果がなくても伝道活動を続けろと、やる気の低下している信者を駆り立てるものですね。」
「ワールドカップはフランスが優勝するのかな。えーと、初めにセルジョとオリンダというアメリカの80代の開拓者夫婦の話が出ているけれど、彼らはどうやって生活しているんだろうね。名前からいうと、中南米からの移民だろうけど、資産があるとは思えない。」
「エホバが支えてくださるのですよ。」
「彼らは、バス停で通行人に出版物を見せることしかやっていないよ。これがJWの誇る伝道活動なの? 1節で、“もう何十年も,こんなふうに王国について知らせ続けています。”とあるけれど、英文では、preachという単語が使われているが、使い方がおかしいね。」
「preachは、“説教をする”という意味ですね。出版物を見せるだけなら説教とは普通は言わないですよね。JW的な特殊な使い方なのでしょう。」
「5節には、“わたしたちも人々を深く気遣っているので伝道しています。”とあるよ。」
「これを読んだJWは苦笑しますよ。なんといっても時間を気にして伝道しています。」

「今週のテーマは、ルカ8章の種まき人のたとえの“実を結ぶ”ようだけど、実を結ぶことを、伝道活動をしてJWを増やすことと解釈しているみたいだ。そんな意味ではないでしょう。」
「特にJWを増やさなくてもいいみたいですよ。8節には、“クリスチャン各自が結ばなければならない実とは,新しい弟子のことではありません。”と書いています。9節には、“何を行なえば「実を結んでいる」ことになるでしょうか。神の王国の良い知らせを伝えることです。”とありますので、だらだらと時間をかけて伝道活動らしきものをしていれば実を結んでいることになる、というのがJWの解釈のようですね。」
「種まき人のたとえの解釈としては滅茶苦茶だね。11節では、“わたしたちの生み出す 実も新しい弟子ではなく新しい王国の種です。”と、いつのまにか実(fruit)を種(seed)にすり替えた議論をしている。実は食べて幸福感を味わうものだけど、種は次の季節に撒くもので、全然違うもの。実を種にすり替えたうえで、実を結ぶとは、王国の種をまくことつまり伝道することという滅茶苦茶な主張をしている。」
「まいたものを刈り取るというのが当時のいい方ですよね。まいたものを,またまくなんて聞いたことないです。JWの教義に合わせて聖書を解釈するといういつものパターンですね。」

「そもそも“何を行なえば「実を結んでいる」ことになるでしょうか”という問い自体がおかしい。そういう問題を扱ったたとえじゃないよ。ルカ8:15はこうある。“りっぱな土の上のものについていえば,これは,りっぱな良い心でみ言葉を聞いたのち,それをしっかり保ち,耐え忍んで実を結ぶ者たちです。”ここで示されているような人が実を結ぶ者たちだ、とルカは言いたいだけ。」
「同じたとえは、マルコ4章とマタイ13章にありますね。マルコ(20節)では、“りっぱな土にまかれた者とは,み言葉を聴き,好意をもってそれを迎え”とあるだけですが、マタイ(23節)では、“りっぱな土の上にまかれたもの,これはみ言葉を聞いて,その意味を悟る人のことです。”とあります。ルカとは違いますね。」
「マタイの力点は、み言葉を“理解する”ことにあり、ルカはどのような態度でみ言葉を聞くかに力点がある。マタイではイエスは新しいモーセとして、新しい掟を与える存在として描かれている。そのため、律法を理解するように、み言葉を正しく理解することが不可欠としている。それに対してルカは聞くことと心の性質、特に忍耐が強調されている。」

「この種まき人のたとえは、3つの福音書に出てくる数少ないたとえの一つですけれど、細部が異なるのはなぜなんですか?」
「この話は口伝えで初期のクリスチャンの間に広がっていたのだろう。人から人へ伝わるうちに細部は変わってくる。また、福音書の作者はそれぞれ異なる思想の持ち主で、自分の主張を強調するために意図的に細部を変えている。」
「マタイの話はマルコの話とよく似ていますが、マタイはマルコのたとえ話を元ネタにしているとみていいんですか?」
「普通はそう考えられている。ルカは、マルコを知っていたし、別の伝承も知っていたと考えられている。」

「種まき人のたとえはイエスが自ら解説している唯一のたとえですが、その解説はイエスらしくないです。要するに、悪い人といい人がいて、いい人の場合たくさん実を結ぶとけれど、ダメな人は神の国の良い便りを聞いても無意味だということです。これはある種の決定論ですし、人間差別ですよ。イエスの人間観とは違うと思います。」
「トマスの福音書というのがある。そこにも種まき人のたとえがあるのだけれど、イエスの解説はない。こちらの方がオリジナルに近いと考えられる。イエスの解説は、イエスの死後、初期キリスト教の困難な状況に合う形で付け加えられたものだろうね。たとえ話の内容と解説は一致しない点があるしね。」
「初期キリスト教の状況というのは、素晴らしいはずのキリスト教の教えがそれほど受け入れられず、迫害さえ招いているという困った状況のことですね。信者になぜそうなのかという説明がもとめられるわけです。」
「そういう状況を福音のパラドックスと言ったりする。そこで出てきたのが、福音を受け入れる側に問題があるという説明。教え自体がいかに素晴らしくても聴く側に問題があるので、教えは実を結ばないという説明だ。これを具体化したものが種まき人のたとえのイエスの解説部分ね。キリスト教にとってのご都合主義的説明だけど、キリスト教信者はそれで納得できるんじゃないかな。」
「福音のパラドックスなんて言う状況は、イエスの生きていた時代よりも初期キリスト教の時代の問題ですよね。のちの時代の人が、初期クリスチャン向けに、イエスが自ら回答するというという話を付け加えたというわけですね。そして、それをJWが悪用している。」

「このたとえでは、よい土地にまかれた種は最大100倍の実を生み出したことになっていますが、これって普通のことじゃないですか?稲の穂についている米粒って100個くらいはついていますよ。たとえの種は麦の種なんでしょうけど。」
「当時の文献をみると、100倍の収穫はよい収穫だけど、神の力による奇跡的な収穫というほどではないようだ。ここがこの例えの解釈の難しいところなんだ。なぜ1000倍にしなかったのだろうね。少なくとも、神の王国はハルマゲドンの戦いのような神が引き起こす最終戦争によってもたらされるという思想はなく、むしろ日常の活動の延長線上にあるといっているようだ。」

#812 2018年07月22日 22:06:30

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ユーフラテス沿いの古代メソポタミアでも100倍近い収穫は普通だったみたいですが、中世ヨーロッパでは5~6倍に留まっていたというデータもあるようです。


「死んで落ちゆく一粒の麦」ではなく土壌に問題がある、これを福音のパラドックスに重ねるのはいかにもキリスト教らしいですが、そういうところはJWもしっかり利用しますよね。

#813 2018年07月23日 16:44:35

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“「多くの実を結びつづけ」るべきなのはなぜですか”で、死ぬまで伝道を続けなさい、という内容です。」
「こんな暑い中でも、なぜ伝道しなければならないの?」
「最後の19節でこうまとめています。“わたしたちが伝道を続けるのは,エホバに栄光をもたらし,神の名を神聖なものにし,エホバとイエスへの愛を表わし,警告を与え,人々への愛を表わすためです。”」
「嘘だろう。伝道の目的は信者を増やすことでしょう。信者が増えれば寄付も増えるし、組織が拡大する。JWで自然死する人は毎年1%はいるだろうし、やめる人もかなりいるだろうから、現状維持だけでも、毎年相当数の新しい信者を獲得しなければならないからでしょう。」
「その真実が言えないので屁理屈をこねて、信者を伝道に駆り立てようとしているわけですよ。」

「JWの伝道の無意味さや滑稽さは、JW自身が一番よくわかっているでしょう。JWは、勝手に人の家にやってきては、100年も前から終わりの日が近いとフェイクニュースを流し続けてきて、しかもいまだに反省も謝罪もない。伝道が“エホバに栄光をもたらす”なんてことは今までなかったよ。」
「神の名をエホバと間違った仕方で呼んでいるのもJWだけですしね。“神の名を神聖にする”なんてこともないですよ。」

「8節に、警告を与えるために伝道するとあって、ノアの例が出ているが、おかしな内容だ。JWはノアの話が大好きなようだけど、神話に過ぎないノアの話を教義の根拠にしているようでは、まともな人からは相手にされないよ。」
「まあ、落ち着いて。そこでは、“大洪水前の伝道には,滅びについて警告することも含まれていたようです。”と、推測に過ぎないことを認めているじゃないですか。」
「もとの英文は、“His preaching work prior to the Flood evidently included a warning of coming destruction.”で、evidentlyは、この場合、“明らかに”と訳すべきだよ。“明らかに滅びについて警告することも含まれていたのです”と訳すべきところを、そうしなかったのは、翻訳者がJWの狂信ぶりを和らげたかったんだろう。」
「“聖書はノアを「伝道者」と呼んでいます。(ペテロ第二 2:5を読む。)”とありますが、正確には“義の伝道者”で、警告を伝えていたとは言っていませんね。警告を与えていたという根拠が、マタイ24:39、“洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在の時もそのようになるのです”らしいのです。」
「まず、“注意しませんでしたが”という訳はおかしい。新共同訳では、“何も気がつかなかった。”となっている。」
「JWの新世界訳だと、警告されたけれど無視したという意味にとれますが、新共同訳では、何も知らなかった、つまり警告はなかったということですね。」
「New international versionでは、“they knew nothing about what would happen”で、何が起こるか何も知らなかった、と訳している。これが標準的な訳だよ。そもそも、マタイの24章のこの部分は、36節の“その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も [知らず],ただ父だけが[知っておられます]。”が中心部分で、その例としてノアの洪水の話が、37から39節に出ているにすぎない。ノアの洪水を誰も知らなかったように、キリストの再臨も突然生じるといっているので、新世界訳のような訳は文脈無視で間違い。それから、臨在というのはJWの特殊用語ね。」
「“その日と時刻についてはだれも知りません。”という誰でもわかるイエスの言葉を無視して、間もなく来る、来ると100年いい続けているJWですからね。後の部分も自分たちに都合の良いように解釈しているわけですね。」

「10節で、“人々を愛しているので,あきらめずに伝道を続けます。”とあるけれど、同じ10節では、パウロとシラスが信仰に目覚めた牢番に、“2人は「主イエスを信じて頼りなさい。そうすれば救われます」と答えました。(使徒 16:25‐34)”と書いてある。パウロたちは、牢番に伝道をすれば救われますなんて言っていない。イエスを信じるだけで救われるんだよ。」
「そうですけど、その後の、11節では“牢番 は地震の後初めて心が変化し,助けを求めました。同様に,以前は王国の知らせに無関心だったものの,人生を揺るがす出来事を経験して,心が変化し,助けを求めるようになる人がいます。”と書いていまして、その話は、人の不幸に付け込めば伝道は成功するという、カルトらしい教訓話の実例らしいのです。」
「確かに、11節には、失業した人、離婚した人、重い病気の人はいいカモと書いてある。」
「いいカモとは書いていませんよ。“次にエホバの証人に会う時には,生まれて初めて聖書の話に耳を傾けるかもしれません。”とあるだけです。」

「14節で、“イエスはぶどうの木の例えを話した後,王国について知らせるなら,イエスと同じ喜びを味わえると述べました。(ヨハネ 15:11を読む。)”とあるけれど、珍解釈だね。伝道のことなんか一言も出てこない。」
「マルコ・マタイ・ルカのイエスは神の王国のことを述べ伝えていますが、ヨハネのイエスは、神の王国ではなく、自分自身のことを述べ伝えていますよね。」
「わたしは命のパンです(6;48)とか、わたしは世の光です(8:12)とか、わたしは○○であるという言い方が何度も出てくるのが特徴だ。」
「ギリシャ語だと、エゴー・エイミですね。ヨハネ15章では、イエスは、“わたしは真のブドウの木”と、自分自身について説教していますがどういう意味ですか?エゴー・エイミの7番目です。」
「“真のブドウの木”は偽物のブドウの木を前提にした言い方。偽物は何かというと、イスラエルのこと。旧約聖書ではイスラエルの民のことをブドウの木と何度も例えている。例えば、イザヤ5;7では、“万軍のエホバのぶどう園はイスラエルの家であり”とある。神はイスラエルを選んだが、期待された実を生み出すことはなかった。そこで、真のブドウの木であるイエスが地上にあらわれて、イスラエルではなく、イエスにとどまることによって、神の期待する実を生み出すことができるといいうこと。」
「イスラエルの民であることが救済につながるわけではなく、イエスに付き従うものだけが救済されるのだ、わかったかバカなユダヤ人どもめ、というメッセージなのですね。」
「まあ、そんな感じかな。ヨハネでは、イエスに敵対するものは、ユダヤ人とひとくくりにされていて、反ユダヤ主義が顕著だからね。」
「というわけで、今週のものみの塔も見当違いの聖書解釈満載でしたね。」

#814 2018年07月27日 07:06:03

万年研究生
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Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さんへ

ひとつ質問があります、回答いただけると幸いです。

以前から気になっていたのですが新約の中にシェオルやハデスといったギリシャ神話由来と思われる
地名?が出てきます。
(旧約が多くの神話から影響を受けたように)
キリスト教とはいえギリシャ神話などからも影響を受けて聖書が編纂していったものなのでしょうか。

#815 2018年07月27日 13:55:49

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

万年研究生さんにお答えします。

******
新約の中にシェオルやハデスといったギリシャ神話由来と思われる地名?が出てきます。
*****

シェオルはヘブライ語ですね。ハデスはギリシャ語ですが、シェオルのギリシャ語訳として採用されただけで、意味は同じで、死後の魂のいる場所です。シェオルのもとの意味は、“尋ねる”とするのが有力説です。巫女や霊媒が死者に何かを訪ねる場所という意味です。シェオルは時代を経ると、死者を罰するところという意味がでてきます。

ギリシャ神話由来の言葉が出てくるのはペテロ第二2:4です。

“まさに神が,罪をおかしたみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで”

タルタロスはギリシャ神話では、ハデス同様神の名前でしたが、時代とともに、ハデスのさらに下にある神々を幽閉するところというような意味を持ちます。ペテロ第二の著者(ペテロではありません。)は、そのことを知っていいて、罪を犯したみ使いたちを閉じ込めておく場所に採用したのでしょう。ギリシャ神話からの借用といえるでしょう。

******
キリスト教とはいえギリシャ神話などからも影響を受けて聖書が編纂していったものなのでしょうか。
*****

これこそ聖書研究のテーマですね。難しい質問です。あえて答えると、新約聖書はギリシャ神話の影響はほとんど受けていないと思います。

一方、ギリシャ哲学からの影響は見て取れます。例えばヘブライ書です。

“しかしその[人たち]は,天にあるものの模型的な表現また影として神聖な奉仕をささげているのです。”8:5
“律法は来たるべき良い事柄の影を備えてはいても,事の実質そのものを[備えて]はいないので,”10:1

地上にあるものは天にあるものの“影”にすぎないという思想は、プラトンの洞窟の比喩で有名なイデア論そのものです。ヘブライ書の著者(パウロではありません。)は相当な知識人だということがわかります。ヘブライ書は後のキリスト教に大きな影響を与えていきます。

#816 2018年07月27日 14:46:11

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

丁寧にありがとうございます
認識が改まりました。
ずっと神話などの影響下にあるものと思っておりました。
むしろ哲学などの影響のほうが大きかったのですね。

#817 2018年07月30日 17:06:42

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“敵を知り,戦いに勝つ”で、孫子の兵法みたいなタイトルです。」
「台風のせいか、お疲れのようだね。最初の挿絵が不気味でいいね。ここに描かれているのは、政治家、車のセールスマン、カトリックの神父かな。これらがJWの敵なのね。敵を作って、戦えと扇動する。独裁者がよく使う大衆操作の方法だね。」
「本当の敵はサタンです。サタンがそれらの人を操っているといいたいのです。」
「今週はサタンがテーマのようだけれども、聖書に基づかないJW独自の主張が目立つ。3節の、“エホバがヘブライ語聖書にサタンやその活動について多くを記させなかったのは,サタンを過度に目立たせたくなかったからでしょう。”には笑えるね。まったくの見当違いの推測。」
「ヘブライ語聖書にサタンがほとんど出てこないのはなぜなんですか?」
「悪魔サタンという思想は、旧約聖書の時代にほとんどなかったからさ。そのような思想が出てくるのは黙示的世界観が一般化した時代以降なの。」
「黙示的世界観とは、世界が悪と善の戦いの場であるというような思想ですよね。それまではどのように世界を考えていたのですか?」
「神が全てを仕切っているという世界観だよ。よいことも悪いこともすべて神からくる。神は与え奪うとヨブも言っている通りさ。ヨブのように義人でも苦しむのが現実なので、そのように思想がリアリティを失い、紀元前2,3世紀ごろになると、かわりに、神はなぜか悪がこの世界を支配するのを許しているけれど、やがて神は悪を滅ぼし、理想郷が到来するという、思想にとってかわった。」
「その段階で初めて悪の代表が求められて、悪魔サタンの登場なんですね。サタンについての情報は主に新約聖書からのものですね。」

「7節には“サタンは偽りの宗教を通して,エホバについてのうそを広めています。”とあるけれど、他の宗教を悪魔呼ばわりするJWって身の程知らずだね。今まで何度も予言を外し、重要な教義もコロコロ変わるJWにこそ偽りの宗教というのがあてはまるだろう。」
「同じ7節には、“サタンは商業体制も使ってうそを広めています。たくさんのお金や物がなければ幸せになれない,と信じ込ませようとしています。”とありますが、そんなこと聞いたことないです。お金やモノと幸福はあまり関係ないと大多数の人は知っていますよ。」

「13節に、“神の組織が良いエンターテインメントと悪いエンターテインメントのリストを作ってくれるわけではありません。わたしたち各自が神の規準に沿って良心を訓練する必要があります。”とあるけれど、こういうのをダブルバインドっていうんだ。JWに多いね。」
「どういう意味ですか?自分で決めろといいつつ、実は、自分で決めるな、組織の命令に従えという、2つの矛盾する命令を同時に出しているからですか。」
「そうだね。自分で決めたら、それはJWにふさわしくないと否定される。長老に聞いたら、自分で決めてくださいといわれる。どうしたらいいんだ、ということになる。こういうことが繰り返され、その状況から逃れられないと、精神的に病む人があらわれる。」
「JWは、この種の文章は文字通りに受けとらず、常に裏を考えるという態度をとることになるわけですね。かわいそうなのは子どもですよ。子どもはこの種のダブルバインドな状況に対処するだけの知的能力がないですからね。」
「JWの母親は子どもを愛しているといいながら、残虐な体罰をしてきた。愛のメッセージを出しながら、同時に憎悪という矛盾するメッセージを出している。子どもは普通このような事態にどう対処していいかわからず混乱する。子どもは母親に依存して生きているので、母親との関係を解消することもできず、次第に病んでいくことになる。ハイはハイを意味しないのがJWだ。」

「16節の、“サタンと邪悪な天使たちには,ほかにもできないことがあります。聖書には,サタンや邪悪な天使たちが人の思いや心を読めるとは書かれていません。”という部分は笑えるんじゃないですか。」
「書かれていないことに基づいて推測をする、というおバカぶりには笑えるね。確かにサタンは人間の心を読むとは聖書のどこにもないけれど、だからといってそれができないということにはならない。それなら、サタンは日本語ができると聖書に書かれていないことをもって、サタンは日本語ができないと結論づけていいことになる。」

「邪悪な天使たちと訳されている英語は the demons です。デーモンって天使なんですか?」
「おかしな訳だ。デーモンは悪霊と新世界訳では訳している。デーモンは天使とは違う霊的存在として描かれている。悪霊が堕落した天使というのは一部のプロテスタントの教えだね。JWもそれを受け継いで知る。」
「聖書によると悪霊ってどんな存在ですか?」
「新約聖書に出てくる悪霊の主な活動は、人間を身体障害や病気にすることだね。イエスや弟子たちが、悪霊を追い出し、病気を治すという話は何度も出てくる。」
「古代では病気は悪い霊の仕業であるというのはごく普通の考えですね。古代ギリシャでは癲癇のことを神聖病と呼んで、てんかん発作を神的な作用によるとしていたのは有名ですよね。マルコ9章にも、明らかに癲癇と思われる少年をイエスが治癒する話が出ています。」
「しかし、その種の話は、医学の進んだ現代では受け入れがたいものになった。それで、悪霊の話はものみの塔もあまり触れないんだろう。」
「集会に来ないようになったJWが悪霊に取りつかれた、なんて話が出ていた方が面白いのに残念です。」

「このような記事を読むと、サタンを必要としているのはJWだとよくわかる。3つ目の挿絵の説明に、“サタンは政府からの禁令,学校の友達からの圧力,家族からの反対など,力を使って攻撃する。(14節を参照。)”とある。このような攻撃はJWの対応のまずさやおかしな教義が招いている面がかなりある。しかし、それらすべてはサタンのせいにすることによって、自分たちの責任を免れることができるんだ。JWにとって、サタンは本当に役に立っていると思うよ。」
「サタンが悪いのであって、私たちは何にも悪くありません、ですかね。」

#818 2018年08月03日 11:53:10

一応現役
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Re: アブラハムの神の限界

なんのことはない
中学生が書いたなろうラノベの主人公に
俺強ぇ〜最強設定をコテコテに盛った結果
お話があらゆる箇所で破綻
その手で最古の物です

#819 2018年08月06日 17:10:48

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“若い皆さん 悪魔にしっかり立ち向かいましょう”で、エフェソス6:10-17からの引用と若者の体験談が主な内容ですが、組織の規則に従い、伝道を一生懸命すればよいという、いつもと同じ話です。」
「暑い中、熱心だね。ローマ兵の挿絵がかっこいいね。でもこれはハリウッド映画をみて描いたんじゃないのかな。史実とは違うよ。挿絵にある鎧はロリカ・セグメンタタというものだけれど、高価で手間がかかるので、それほど一般的ではなかったと推測されている。」
「見た目がかっこいいので、映画ではローマ兵といえばこの鎧ですね。今週の記事を書いた人はかなりの軍事オタクですよ。」

「エフェソス6:11が引用されているけれど、“悪魔の策略”という単語に注目ね。パウロの本当の書簡では悪魔という単語は一度も出てこない。いつもサタンなの。」
「エフェソス4:27にも悪魔という単語は出てきますが、サタンという単語はエフェソスにはないですね。エフェソスが偽物のパウロ書簡だということの証拠の一つですか。」

「エフェソス6:12は、新世界訳では、“わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。”となっているけれど、“もろもろの政府”という訳では、まるで人間世界の話のようだ。11節で“悪魔の策略”に戦えと言っているのだから、12節も霊的な存在について言っている、ここで格闘する相手はすべて霊的な存在だよ。」
「新世界訳の脚注には、政府と訳した単語について“字義,「世の力ある者たち」。ギ語,コスモクラトラス。”とありますよ。」
「コスモクラトラスという単語は新約聖書ではここでしか出てこない単語で、どういう意味で使っているか,
はっきりしない。コスモは英語のcosmos(宇宙)の語源となったギリシャ語。“世の力のあるもの”というよりは、古代ギリシャの文献では、宇宙を支配している神々や霊的存在をさす単語だよ。」

「エフェソス2:2に“空中の権威の支配者”というのが出てくるのですが、またも、このような表現は聖書の中でここだけなのですが、どういう意味ですか?この部分です。“あなた方は,(略)また空中の権威の支配者,不従順の子らのうちにいま働いている霊にしたがって,一時はそうした[罪]のうちを歩んでいました。”」
「空中とは天と地の間の空間をさし、伝統的に悪霊の活動する空間とされている。空中の権威の支配者とは、悪霊を支配する霊的存在のこと。悪霊も人間社会のように支配し支配される階層的な組織を作っていると想定しているわけだ。」
「サタンのことのようですが、エフェソスの著者はサタンという単語は使わないのですね。」

「6:14の“真理の帯”を受けて、5節では、嘘をつくべきではないと書いてある。しかし、嘘の定義はなんだろうね。JWはしばしば教義を変更してきたけれど、あれは嘘じゃないんだよね。例えば、“世代”の解釈を“重なる世代”に変更した。それで何十年間も聖書からの真理であると言いふらしてきた“世代”の解釈は嘘だったとなるかと思えば、そうではないんだよね。」
「JWでは、光が増すとか新しい光がさすとか言いますけれど、嘘とはいいません。」
「ということは、JWでは、間違ったことを言っても、適当に言い訳を言えば、嘘にはならないということなので、嘘をつく方が難しいよ。」
「要するに、JWは嘘をつくな、などと偉そうに説教できる立場じゃないということですね。」
「それに神様は嘘に対して寛大だよ。アブラハムはエジプトに行ったときに、妻に、創世記12:13で、“どうか,わたしの妹だと言っておくれ。あなたによってわたしが無事でいられるようにするのだ。”という。自己保身のために嘘を言えと強要している。」
「そのあと、サライはエジプトの宮廷に連れていかれるのですが、12:17では、“そのときエホバはアブラムの妻サライのことでファラオとその家の者たちを大いなる災厄をもって撃たれた。”と、アブラハムは罰することなく、なぜかエジプト人たちに災厄をもたらすという不公平なことをしていますね。」
「神様は、嘘を言った方を罰するのではなく、嘘を信じた方を罰している。神は嘘つきの味方だ。」
「確かに神様は嘘を問題視しているとは思えませんね。」

「若い人のコメントがたくさん出ているけれど、どれも嘘くさいね。」
「JWの若者が、JWの出版物に書いてある以外の意見を持つなんて、ありえませんよ。そのような意見を持ったら背教者扱いですから。」
「操り人形でしかないJWの若者が自由に自分の意見を述べているように書かれているところが、一番の嘘だ。」

「10節には、“20歳のボーはこう言います。「学校の友達になかなか証言できませんでした。何となく恥ずかしかったんです。今考えると,どうして恥ずかしがっていたんだろう,と思います。今は友人たちに証言するのを楽しんでいます」。”とありますが、前半部分だけが本当でしょう。」
「学校の友達にバカげたJW の教義を話すことを恥ずかしく思ったというのは、その当時は、まだまともな精神状態だったということだね。例えば、間もなく終わりが来ると100年以上前からいっていること、世代の解釈が変わったこと、エルサレム陥落が紀元前607年と根拠もなく主張していること、などなど恥ずかしく思うのが正常だよ。」

「13節に出ているイーダの話は悲しくなりますね。“19歳のイーダは自分には価値がないという気持ちと闘っています。”とありますが、JWとして育ったことがその原因でしょう。幼い時から、たくさんの禁止事項を設けられ、さらに親に従え、エホバを愛せ、集会に出ろ、伝道しろ、などと無理な要求を押し付けられていれば、そうなりますよ。」
「イーダは一種のうつ病だね。その解決策が、集会に行って、注解する事だったというのが、信じられない。悪化するだけだろう。注解って、ものみの塔に書いてあることをオウム返しすることだろう。ある程度の知的レベルの人にはバカバカしくて、耐えられないことだよ。」

#820 2018年08月13日 17:27:53

聖書についての質問
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Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“わたしの王国はこの世のものではありません”で、政治にかかわるな、暴力に反対しろ、そして何も考えずに伝道しろ、という内容ですね。」
「JWには夏休みはないの?とにかく、この記事の隠された意図は何だろうね。」
「JWは政治的に無害ですよと、全世界の独裁者に向けてアピールしたいのだと思います。ロシアのように資産を没収されると困りますから。」
「独裁者によって信者が迫害を受けても、統治体としては気にしないなのだろうけど、資産没収は困るよね。」
「7節では、“わたしたちも自分たちの務めを理解していれば,政治的な独立運動を支持することはないでしょう。心の中でさえそうしないはずです。”とありますし、10節では、“不公正が見られても,ああすべきだとかこうすべきだと述べたりはしません。心の中でそう考えることもしません。”とあります。」
「卑屈なくらい、世界の独裁者にこびへつらっている。独立派を好きなだけ弾圧してください、公正な政治なんか必要ありません、と言っているのと同じだ。」
「そこまで言っていませんよ。でも、JWがこれから増えそうな国といえば、民主的な先進国ではなくて、中南米やアフリカの独裁国家なのでしょうね。」
「社会に関するすべての発言は政治的なの。政治に中立なんかないの。JWの政治的立場は、今の権力者を支持しますよ、という、現状肯定的主義だよ。反体制派から見ればJWの立場は敵なので、反体制派が権力を握れば弾圧の対象となることだってあるだろう。」

「政治的に中立ということなら、長い間、JWが国連に非政府組織として加盟していたことについて謝罪と責任者の処罰を実行してほしいです。国連を緋色の野獣とあれほど敵視しているわけですからね。」
「1992年から国連の準会員だったわけだけど、準会員ということは、国連の理想を共有し、国連の活動を支援することが求められる。JWは国連の支援団体だったわけだ。それが暴露されたのは2001年で、イギリスの新聞に取り上げられた。すると慌てて国連との関係を解消した。そして、国連の図書館を利用するために準会員になっただけですと嘘の弁明書を、そのイギリスの新聞に送ったんだ。」
「国連の図書館を利用するのは誰でもできるんですよね。すぐばれる嘘をつくのは頭が悪い証拠ですね。なぜ国連の準会員になったんですか?」
「アフリカや中南米などの国でJWが活動するとき、国連の準会員だと、地元の政府から許可を得やすいなど国連の権威をバックにするとなにかと得のようだ。政治的にうまく立ち回っているつもりでいたんだろうけど、国連とのかかわりが暴露されて、かなりのJWが組織に失望して辞めたようだね。」
「政治的中立性を保つために世界各地のJWが投獄されたり、悲惨な目にあっているのに、統治体は国連に加盟していた。自分たちは何にも反省も謝罪もせず、末端の信者には政治的に中立を保てと要求する。」
「ダメな組織とはそういうものさ。上に甘く下に厳しい。国連に加盟を申請していた1991年の9/8の“目覚めよ”では、“国際連合 ― より良い手段?”という記事では、“エホバの証人は,国際連合が非常に近い将来に,世界情勢の中で大きな役割を演じるようになることを確信しています。そうした事態の進展は,非常に興奮を誘うものであるに違いありません。”と、国連を持ち上げる記事を書いている。」

「3節に、“イエスが良い知らせを伝えていたユダヤ人の多くは,ローマからの独立を望んでいました。当時,熱心党と呼ばれる国家主義的なグループが人々の独立心をあおっていました。”とありますが、歴史的に正しいのですか?」
「正しくないよ。熱心党という党派が、66年にローマ帝国に対する独立戦争を引き起こし、70年にエルサレムが壊滅したあと、マサダ要塞に立てこもり、73年に全員自決したといわれているけれど、熱心党なるものは戦争の開始とともに出現したもので、その当時存在した様々な党派の総称のようなものと理解されている。」
「シカリ党なんて言うのもいましたね。つまり、イエスのいた時代に熱心党なる党派は存在していないということですね。ルカ6:15と使徒1:13に、新世界訳では“「熱心な者」と呼ばれるシモン”という訳ですが、新共同訳では、“熱心党と呼ばれたシモン”となっています。新世界訳の方がよいということですか?」
「訳としては、“熱心党と呼ばれたシモン”のほうが正しいけど、意味は宗教的に熱心な者だろうね。ペテロとよばれたシモンと区別するために、そう呼ばれたんだろう。ルカの福音書が書かれたのはイエスの死後から50年くらいたった後なのに、ルカは自分の時代とイエスの時代を混同しているのだろうね。」
「マタイ10:4とマルコ3:18の、“カナナイ人シモン”は“熱心党と呼ばれたシモン”のことですよね。」
「カナナイ人という訳は誤訳だね。英語版では、“Simon the Ca·na·naeʹan”となっている。カナナイ人という意味ではなく、アラム語で熱心党という意味だよ。カナナイ人シモンとあるので、ユダヤ人じゃないと誤解しているJWがたくさんいるんじゃないかな。でも、なぜここだけアラム語を使っているのかは謎だね。」

「イエスは本当に政治にかかわらなかったんでしょうか?マタイ10:34では、“わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。”とイエスは言っていますよ。」
「昔から、歴史上のイエスは本当は革命家だったのだという主張はよくある。しかし、現在の主な見解は、アルベルト・シュヴァイツァーの「イエス伝研究史」以来、歴史上のイエスは黙示思想的預言者だったというものだね。」
「黙示思想とは世界は善と悪の戦いの場で、最後に善が勝つというような思想ですよね。」
「歴史上のイエスは、今は悪の支配下にあるが、間もなく神が介入して、善なる国、つまり神の国を打ち立てる。その時は“人の子”とイエスが呼んだ宇宙的な審判者がやって来て、邪悪な者は滅ぼされ、正しきものは報われる。だから、人々は悔い改め、神の国の到来に備えなくてはならないと言っていたと推定される。」
「間もなく神の国が到来するので、イエスは政治運動にはかかわらなかったということですね。」
「イエスが処刑されたのち、復活したイエスに会ったと主張する人々が現れて、イエスは神に祀り上げられていき、イエスの教えとは無関係な教義がパウロのような追随者によって作られ、現在のキリスト教に至るわけだね。」
「その歴史の流れの末端にいるのがJWというわけですね。」

#821 2018年08月13日 18:10:26

mあたり
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Re: アブラハムの神の限界

ありがとう

#822 2018年08月22日 09:20:31

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

火曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“エホバとイエスのように,わたしたちも一つになる”で、人種的、民族的、社会的偏見を持つな、一致団結して伝道せよ、というような内容ですね。」
「こういう記事を学ばせるということは、偏見の強いJWが数多くいて、JW間で様々な問題が起きているのだろう。」
「JWは、自分たちは選ばれた人間だ、自分たちだけが真理を知っている、などカルト特有の思い上がった態度で、自分たち以外の人間を見下しているわけで、偏見の塊みたいな人たちですから。」
「JWは細かな階級制度のようなものを作り、競争させる。人物評価はいい加減なものなので、その運用は不公平極まりないものとなる。そのため、下の者は上のものを嫉妬したり、憎んだりする。派閥もできて、お互い悪口を言い合う。一致団結なんてことはないだろう。」

「偏見というと、根拠もなく特定の個人や集団に否定的な意見を持つこと、というような意味です。旧約聖書は、イスラエル以外の人間に対して偏見丸出しですよね。異民族だから皆殺しだ、みたいなことが当然のように書いてあります。今週の記事では、イエスの弟子たちが様々な偏見にとらわれていたとありますが、当時の律法がユダヤ人以外を差別していた事実を無視していますね。エホバが与えた律法が様々な差別を生み出していて、弟子たちはそれに忠実に従おうとしていただけですよ。」
「そうだけど、旧約聖書の律法が大好きなJWがそんなことを言えるはずもない。旧約聖書は差別や偏見の塊です、神が与えた律法が差別や偏見の原因です、そのためイエスは律法の本質が重要なのであって、細かいことは気にするなと教えていました、とは言えないだろう。」
「でも、最後の20節で、“先ほどのオーストラリアの姉妹はそう言います。聖書を学ぶことで大きく変化できました。こう述べています。「思いも心も新しくなりました。偏見や憎しみがみるみる消えていきました」。”とあります。聖書は世界に平和と一致を生み出すようですよ。」
「本当だったらいいのにね。」

「歴史的にみると、JWは偏見や差別に協力的ですよね。アメリカ南部では黒人差別がひどかったわけですが、その時、JWはその差別に反対するどころか迎合しています。初期のJWの出版物では、黒人を差別し、白人の優位を堂々と書いています。」
「昔、楽園が来たらエチオピア人の肌の色は白くなる、なんて言う記事があったよ。人種差別主義の組織でも、神は1919年に地上における代理人としてJWを選んでくれたわけなんでしょう。エホバという神は人種差別を容認するんだ。」
「1970年代になっても人種の異なる者同士の結婚に批判的な記事を書いていますね。1974年の3/1のものみの塔の“読者からの質問”で、“クリスチャンは,異人種との結婚が,自分の住む地域社会の中の人びとの,この王国宣明のわざに対する態度に深刻な悪影響をおよぼす恐れがあるかどうかを,ひとつの要素として考慮するでしょう。”として、偏見の強い地域では偏見と闘うのではなく、その偏見に合わせるべきだ、といっていますね。」
「1990年代まで続いた南アフリカの人種隔離政策だって、JWは協力的だった。」
「ところが、今では、アメリカでも白人のJWは3分の一くらいにまで落ち込んだようですね。白人優位の宗教として出発したJWも、いまでは中南米からの移民とアフリカ系からなる低学歴低所得者の人々の宗教となりつつあります。」
「それで、統治体もアフリカ系を一人入れたわけだ。」

「ところで、10節に、よきサマリア人のたとえが出ています。サマリア人はユダヤ人と対立していたので、現代だとユダヤ人とアラブ人のような関係ですよね。このたとえは、隣人とは誰かという質問に対してイエスが答えたものですが、答えになっていないような気がするのですが?」
「サマリア人は新約聖書の中ではとても好意的に描かれている。このたとえでもそうだね。律法学者は、愛する対象となる隣人は誰なのかと尋ねている。この場合、愛の対象としての隣人ね。ところが、イエスのたとえ話では、36節で、“これら三人のうちだれが,強盗に襲われた人に対して隣人になったと思いますか”尋ねる。隣人が、対象から主体へと変わっている。というわけで、このたとえは質問の直接的な答えになっていない。そこで、こう推測される。隣人とはだれかという問題とよきサマリア人のたとえは、元々は別々に存在していた。それをルカが福音書を書くに当たって、結び合わせた。しかし、もとは別のものだったので細部を検討すれば不自然な点がでてくる。」
「イエスのたとえ話の聞き手はユダヤ人ですよ。ユダヤ人が敵対しているサマリア人を助けるという話なら分かります。それが、サマリア人がユダヤ人を助ける話ですから、聞き手は半殺しにされた旅人の立場で聞くしかないわけです。もとは隣人愛とは関係のないたとえ話だった気がします。」
「テーマと内容に不一致が見られる。ルカ10章は別々の素材を編集して、一続きのはなしにしたという証拠だね。」

「12節に、イエスがサマリア人の女性とヤコブの泉で生きた水について語ったことを挿絵付きで取り上げています。会話の中では、井戸という言葉が使われていて、挿絵も井戸です。ヤコブの泉なんですか、井戸なんですか?」
「ヨハネ4:6では泉、4:11,12では井戸となっている。井戸なんでしょう。混乱を避けるためか、新共同訳では全部井戸と訳している。イエスはヤコブの井戸のそばに座ったと書かれていることから、ヤコブの井戸は昔から聖地になっている。今は東方正教会の建物の中にある。挿絵だけれど、水をくむ桶が木製のように描かれているのが史実に反するね。当時の一般的な水をくむ道具は、動物の皮で作った袋に木の棒を十字に組み合わせて口を広げたもの、ロープはヤギの毛を編んだものが使われたようだ。」

「12節で、使徒たちは、“イエスがサマリア人の女性を教えているのを見て驚きました。”とありますが、引照聖句のヨハネ4:27では“不思議に思うようになった”とあり、驚いたとはなっていないのです。」
「より新しい英語版新世界訳では“驚いた”になっているよ。日本語版が古くて間違っているんだね。新共同訳でも、“驚いた”とある。」
「新しい日本語訳が出ないままなので、日本語の聖句と英語版聖書をもとにしたものみの塔の記事と一致しない点が出てくるのですね。」
「でも、そんな細かなことに気づくJWはいないだろう。」

#823 2018年08月24日 16:04:33

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん、いつも面白いお話をありがとうございます。今週は近所のJW少年の来訪が遅かったようで、ちょっと心配していました。

さて、先週のお話に関連して教えていただきたいことがあります。

聖書についての質問 さんの発言:

「昔から、歴史上のイエスは本当は革命家だったのだという主張はよくある。しかし、現在の主な見解は、アルベルト・シュヴァイツァーの「イエス伝研究史」以来、歴史上のイエスは黙示思想的預言者だったというものだね。」
「黙示思想とは世界は善と悪の戦いの場で、最後に善が勝つというような思想ですよね。」
「歴史上のイエスは、今は悪の支配下にあるが、間もなく神が介入して、善なる国、つまり神の国を打ち立てる。その時は“人の子”とイエスが呼んだ宇宙的な審判者がやって来て、邪悪な者は滅ぼされ、正しきものは報われる。だから、人々は悔い改め、神の国の到来に備えなくてはならないと言っていたと推定される。」

このあたりは史実としてどのくらい確からしいのでしょうか?
根拠としてはどのようなものがあるのでしょうか?
総説のような読みやすい資料はありますか?

シュバイツァーは牧師の家庭の出身で、自身も神学者であり、自分の神学思想をアフリカの文化などより優れたものと考えていたようですが、キリスト教のフィルターを通すことなく、客観的にイエスを評価することができたのでしょうか?

キリスト教はイエスの死後につくられたものであり、20世紀のキリスト教を前提としてイエスを評価すると、歴史的事実の評価としては不正確になってしまうのではないかと思います。

よろしくお願いいたします。

オフライン

#824 2018年08月24日 16:12:34

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

Wikipediaによると、シュバイツァーの医学博士論文は「イエス・キリストの精神錯乱」ですって、面白そう!
でもフランス語だったらちょっと挫折しそう…

オフライン

#825 2018年08月25日 05:33:45

てつてつ
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

irisさん こんにちは アーマンさんのキリスト教成立のなぞを解く等が参考になるかもしれませんね

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