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#876 2018年06月22日 09:09:26

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

きっと傘地蔵ですね

古けりゃ何でも良いわけではないと思いますよ

駄作は駄作

#877 2018年06月23日 09:42:46

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

「動く」と「生きている」の間にはまだまだ壁がありそうですが、旧約時代の技術とは比べものになりませんね。

「生きている像」なら拝んでよいのか。

クローン人間が神にされちゃった映画ならありましたね。


キリストもある意味でヒューマノイドヤハウェなので、キリスト関連グッズは偶像ではないらしいです。

#878 2018年06月23日 11:35:32

通りすがり
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

それに、全知全能と標榜するわりには、律法・ルールを出す時点での未来の状況変化への対応がぜんぜんできてないずさんさと、不備だらけが目立ちますね。

血の問題もそう。輸血や分画の問題が起きることはエジプト時代にわかってたはずなんだから、信者の命と選択を迷わせないような規準くらい出すべきだったと小学生でも思いますよね。その割にレビ記なんか、「○○の場合はこうで、○○の場合はこうして、不測の場合はこうしなさい」、とか有り得ないケースまで“事前に想定”してるわけだから、なんかバランス悪い“神”と言わざるを得ない。

上位の権威の教理だって、未来には王政だけでなく、共産主義や民主主義も出てくることが予想できたのだから、未来の信者が判断に苦慮して無用に命を落とさないように事前に○○の場合は○○に…と保護すべきだったし、民主主義なんか主権者は国民(国民主権)なのだから、じゃあ、上位の権威である国民に従うのか、と、もやは文字通りには遵守できない。

インターネットもそう。未来にはみんなタブレットとスマホで情報を共有できるようになることが1世紀にわかっていて、「良いたよりのためにあらゆることを」活用するつもりだったのなら、そのことも預言に含めてたら、おーさすが!と先見の明に感心もしたのにと思います。

現実はむしろ逆で、戦争にしても、「国民が国民に敵対」するような戦争なんて古すぎてそんなものはなく、テロとの戦いや、反政府勢力との内戦が主流だし、そこからここへと広がるような疫病なんかなくて、むしろ、エイズでさえ克服されつつあるし、アルツハイマーやガン、脳心臓血管障害とかがメインだし、まったく未来が見えていない。

北の王と南の王も、そんな二極化の単純なせかいにはならず、グローバル化や経済圏による統治がすすみ、EUや条約機構などの複雑な連携の世界となっていて、“預言”のような世界観は未来というよりも、正直な気持ちで読めば、かなりの昔話に聞こえます。

犯罪にしても不道徳にしても、だんぜん現代のほうが安全で、セクハラだけで社会的に亡き者にされて罰せられる時代ってあったでしょうかね。だれも普段から剣を帯びず、むしろ6cm以上の刃物を持ってるだけで逮捕される時代です。

ほかにもいろいろありますが、要するにアブラハムの神には明らかに能力的な限界があることが明らかであり、こんな預言に我が命と人生をかけるのは本当に投資詐欺以下の下手な話で被害に遭うようなものです。

1914年に仮に全人類がニネベの人のように“改心”して、子供を持たずに“業”に専念していたとしたら、今、地球上にはヒトはひとりもいないことになりますよね。今のこの地球人が、不信者のおかげで成り立っているとでも説明するのでしょうか。

無能で崩壊した教理に、それでもあなたは全人生とあなたの可能性をささげるのですか?

#879 2018年06月23日 20:24:10

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

「キリストはヒューマノイドヤハウェ」とは言い得て妙ですね!
ついでにヤハウェのイメージがガラリと変わってしまいましたけれどね

オフライン

#880 2018年06月25日 17:14:09

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“励ましを与える神エホバに倣う”というもので、聖書からエホバやイエスの励ましの例を脈絡もなく書き連ねて、最後に、“今日,エホバの証人の統治体はベテル家族の成員,野外の特別全時間奉仕者,世界中の兄弟姉妹を励ましています。”と、統治体の役割をアピールして、統治体崇拝をますます強めようという内容ですね。」
「そんな話よりも、サッカーワールドカップの話をしたいな。」
「そういわずに、ものみの塔の話をしましょう。」
「最近の統治体のしていることを見ると、とても“世界中の兄弟姉妹を励ましています”とはいえない。嘘だろう。」
「そうですね。世界各地で王国会館を売り飛ばしていますし、ベテルで長年働いていた人たちを大量に放り出すし、家族を破壊する排斥制度を強化し、性的虐待を長年放置したうえ、いまだに謝罪も反省もせず、それを背教者の嘘だということで乗り切ろうとするなど、世界中の兄弟姉妹を少しも励ましていないですね。」
「統治体も自分たちの失態はわかっているから、統治体崇拝を強めようとしているんじゃないの。」
「ついて来られない信者は排斥処分にして、統治体に言いなりの信者だけで組織を固めようとしているみたいですね。これからますますカルト色が強まり、これまで以上に奇妙な宗教になっていくのですかね。」

「最初にコリント第二1:3,4が引用されているけれど、へんだね。」
「ものみの塔では、“神はすべての患難においてわたしたちを慰めて[または,励まして]くださ[います]”とありますが、新世界訳では、[または,励まして]なんて書いてないですね。」
「慰めると訳されているギリシャ語は励ますという意味もあるよ。しかし、“慰める”と訳した以上はそれに責任を持ってもらいたいね。励ますというテーマの記事を書くから、[または,励まして]なんて言葉を付け加えるのは不誠実だ。」
「自分たちの都合で聖書の翻訳を変えるのはJWでは普通ですから。新共同訳では、“慰める”です。どちらが正しいのですか?」
「“励ます”と訳している聖書はないでしょう。文脈からみて、“慰める”という意味でパウロは使っていると解釈するしかない。ところで、どんな聖書からの励ましの例がでているの?」

「エデンの園の話とノアの話がでていますね。JWのお気に入りです。その他には、ヨシュアやエフタの娘もでてきます。エフタの娘の話では、10節で、“エホバが勝利を与えてくださるなら,家に帰ったとき最初に迎えに来る者を幕屋で仕えさせると誓いました。”と聖書に書いてないことを平気で書いています。裁き人11:31には、“わたしはその者を焼燔の捧げ物としてささげなければなりません”としか書いていませんから。」
「JWは、エフタが娘を殺して捧げものにしたということを認めたくないんだ。しかし、ヨシュアが行ったとされる大規模な虐殺は少しも問題視していない。JWは、異教徒であれば皆殺ししてもいいけれど、仲間の娘一人の命は大いに気にするということだね。奇妙な倫理観だな。」

「その後、新約聖書の使徒たちの話に移り、そして18節に“1世紀の統治体は,指導の任に当たっている人たちや他のクリスチャンたちを励ましました。”と統治体へと話が移ります。」
「“1世紀の統治体”?そんなものは存在していないだろう。ひどい嘘だね。統治体なんて言葉は聖書のどこにもないよ。」
「そうでしょうね。聖書を読む限り、使徒たちは、一般信者を統治するなんてことはしていませんね。」
「19節で引用しているエルサレム会議について、“統治体は聖霊の導きを祈り求め,聖書をよく調べた後,割礼はもはや必要ないと決定しました。”と、ものみの塔にまるで見てきたように書いてあるけれど、使徒15:6には、“そこで使徒や年長者たちは,この件について調べるために集まった。”とある。相当数の人数がいたはずなんだ。しかも、問題になっているのは教義のことで、組織運営の話ではない。」
「使者派遣でも、15:22では、“使徒や年長者たち,また全会衆は,自分たちの中から選んだ人々を,パウロおよびバルナバと共にアンティオキアに遣わすことがよいと考えた。”とありますから、統治体の命令というよりは、全会衆の意志で使者派遣が決定されたようですね。」
「ペテロの演説の後の15:12を、新世界訳では、“すると,一同は沈黙してしまった。”としているけど、新共同訳では、“すると全会衆は静かになり”と訳している。全会衆と訳するのが普通なんだ。」
「“全会衆”と訳すると、エルサレム会議がJWの言うような統治体の会議とは言えなくなるので、“一同”と訳しているわけですね。しかし、15:22ではさすがにそのようなごまかしはできなかったので、突然“全会衆”という言葉が出てくるわけですね。新世界訳はダメですね。」

「そのほかには、使徒6章の例がある。食料の分配でもめたとき、使徒たちは、3節で“兄弟たち,あなた方の中から,霊と知恵に満ちた確かな男子七人を自分たちで捜し出しなさい。わたしたちがその人たちを任命してこの必要な仕事に当たらせるためです。”と言っている。」
「使徒たちが、俺たちは統治体だから、俺たちがお気に入りの中から7人を任命すると言ったのなら、JWの統治体は泣いて喜ぶのでしょうが、使徒たちは、そんな偉そうなことは言わずに、自分たちで決めて、なんですね。まったく統治していませんね。」
「新約聖書を読む限り、エルサレムにいた使徒たちが全ての信者たちを統制していたなんてことはない。各地の組織は、地元の年長者たちによって、独立性の高い運営が行われていたというのが実情に近いだろうね。そのため、異端との闘いがパウロの手紙の重要なテーマになっている。」
「通信や交通が発達した現在でさえ、地元の長老が独自のルールを設けたりしていますからね。古代ではなおさらでしょうね。」

「JWの統治体は、聖書的に何の根拠もない統治体を何とか権威付けようと必死だね。」
「JWの歴史を見れば、初めの頃は、会長の独裁体制で、ノア会長の時、いわばクーデターのような形で会長の権限を奪って、集団指導体制にした。それが統治体と呼んでいるものじゃないですか?」
「“良心の危機”に出ていたね。」

#881 2018年07月02日 17:04:01

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“「ますます」励まし合いましょう”で、互いに励ましあおう、特に開拓者、宣教者,巡回監督とその妻,支部事務所や遠隔翻訳事務所で奉仕する人たちを励まそう、という内容ですね。」
「18節に、“「ものみの塔」やjw.orgの記事を一緒に読むなら,兄弟姉妹はきっと元気づけられるでしょう。王国の歌を一緒に歌うこともできます。”とあるけれど、かえって気が滅入るよ。ビールを飲みながら、一緒にワールドカップの試合を応援するというのはどうかな。」
「人を励ます一番いい方法は、お金をあげることですよ。開拓者だろうが宣教者だろうが巡回監督だろうか、お金をあげれば、とても励みになります。」
「いいね。箴言17:8、“贈り物はその偉大な所有者の目に恵みを勝ち得る石。その人は自分の向かう所がどこであっても成功する。”これは賄賂のことを言っている。箴言21:14、“ひそかになされる贈り物は怒りを抑え,懐のわいろは強い激怒を[抑える]。”JWはどうしてこのようなすばらしい聖句を引用しないのだろう?」
「箴言もたまにはいいこと書いていますね。」

「今日のタイトルはヘブライ10:24,25からきているけど、JWはヘブライの著者をパウロと断定していている。何を根拠にそう考えるのかな。」
「“洞察”によると、パウロによって61年、ローマで書かれたとしています。その証拠として挙げているのは、西暦4世紀のなんとかという本ぐらいですね。JWは昔からの言い伝えを根拠にしているようですね。ヘブライ書自体には著者の名前は一切ないですからね。」
「西方教会で、ヘブライが新約聖書に加えられたのは4世紀。それまでは胡散臭いものとみられていた。新約聖書に加えられたのはパウロの著作とみなされ、使徒的権威を獲得したから。でも、現在、ヘブライがパウロの著作だと信じる学者はいない。」
「用語・文体・思想が、パウロのとは違いますよね。」
「例えば、パウロ得意の、“キリスト・イエス”というまるでキリストが苗字みたいな言い方が一回も見られずに、“イエス・キリスト”が3回でてくるだけ。」
「ヘブライ書というと、11:1の“信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です。”というのが有名ですが、パウロの思想とは違いますよね。」
「要するに、信仰とは神が約束したことは必ず神が実現すると確信する事だ、というのを、文学的に表現しているんだけど、パウロの思想とは違うね。」

「1節で、“エホバの日は西暦70年に来ました。ローマ人がエルサレムに対するエホバの裁きを執行したのです。”と、書いていますが、エホバがローマ人を用いて裁きを執行したなんて、聖書のどこにも書いていませんよね。」
「西暦70年のエルサレム包囲戦はとても悲惨なものだったようだ。驚いたことに、JWの見解では、それはエホバのせいなんだ。新バビロニア帝国によるエルサレム陥落と同一視しているようだけど、何に対する裁きなんだろうね。その時エルサレムにいた乳児や幼児はどんな罪を犯して、死ななくてはならなかったのか、JWの偉い人は教えてほしい。」

「エホバの日って、そもそも何ですか?」
「普通は、主の日というね。古代イスラエルでは、秋の収穫祭の日、つまりお祭りの日。それをアモスが、アモス書5:20、21で、“エホバの日は暗闇であって,光ではない。それは暗がりであって,明るさはない。そうではないか。  わたしはあなた方の祭りを憎み,[これを]退けた。”と書いて以来、意味が変わって、裁きの日のような意味になった。」
「裁きは、旧約聖書では、神が直接破壊・殺戮をもたらすか、外国の軍隊を使って破壊・殺戮が行われることですよね。」
「そうだね。ところがものみの塔で引用されているヨエル書では、イナゴの大群がやってくることになっている。なかなか神様も意表を突くね。」

「新約聖書では、エホバならぬ主の日はどういう意味ですか?」
「新約にはエホバという単語は出てこないから、エホバの日という表現はない。コリント第一1:8、では“わたしたちの主イエス・キリストの日”だし、フィリッピ1:6では、“イエス・キリストの日”という表現が使われて、キリストの臨在の日を意味している。というわけで、エホバの日が西暦70年というのは、JWならではの珍説だね。」

「2節で、ヨエル書とゼパニヤ書を引用して、“この預言はわたしたちの時代にも当てはまります。”と言っていますけど、本当ですか。」
「ヨエル書とゼパニヤ書は、当時のユダヤ人とエルサレムの指導者層が悔い改めることを説いたもの。悔い改めないと神様から罰が下るよ、という預言者のワンパターンの説教を主な内容にしたもので、現代人と何の関係もない。しかし、統治体はハルマゲドンが迫っているとJWに信じ込ませたいから、ヨエルとゼパニヤの滅亡予言は21世紀の我々のことを言っていると脅かすわけだ。」
「JWでは、励ましあうのも、終わりの日が近いからであって、お互いに対する愛と関心からではないというのがよくわかりますね。終わりの日が近いことがすべての動機になっている組織なんですね。」

「6節で、“ イザヤ 32:1,2を読む。イエス・キリストは「君」たち,つまり油そそがれた兄弟たちとほかの羊の長老たちを用いて,この難しい時代に落胆している人を励まし,支えています。”とあるけど、奇妙な解釈だね。」
「イザヤ32:1は、“見よ,ひとりの王が義のために治める。君である者たちは,まさに公正のために君として支配する。”というものです。JWでは、“君”とは、“油そそがれた兄弟たちとほかの羊の長老たち”のことなのですね。」
「そんな風に解釈しているのは、世界広しといえどもJWだけ。おめでたい人たちだ。」
「となりますと、同じ6節の“長老たちは兄弟たちの信仰に対する「主人」ではなく,喜びのための「同労者」として仕えています。”というのが変ですね。“君”たちは支配するとイザヤは言っていますからね。主人なんじゃないですか。」
「ひと月ほど前の記事の、“矯正 神の愛の証拠”や“懲らしめに聴き従って賢くなれ”では、長老は懲罰を与え、排斥する存在だった。ところが、ここでは一転して“同労者”なんだ。管理者じゃないの?」
「長老が裁判で訴えられて時に備えているのかも。長老には監督責任はないと逃げるためじゃないですか。」

#882 2018年07月09日 17:05:18

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“若い皆さん,目標を持っていますか”です。」
「今週は雨ばかり降っているね。英語版では、“Young People, Are You Focused on Spiritual Goals?”で、霊的な目標と言っているのに、日本語版では“霊的”が削除されている。日本語訳をした人は“霊的”が嫌いなようだ。よく省略するよ。」
「人生の目標のことと思って読むと混乱しますね。JWの中だけで通用するつまらない目標のことなのですね。今週の記事は訳がひどそうですね。」
「本文を無視して、自分で作文している。」
「例を挙げてくださいよ。」
「例えば3節。4つの文からなっているけれど、3つ目の文はこうだ。
And it means reaching out for spiritual goals.
エホバとの友情を築くうえで役立つ目標を決め,その目標に向かって頑張ることも大切です。」
「エホバとの友情なんて言葉は元の文にはなくて、勝手に付け加えたものなのですね。4節にも、“1つ目と2つ目の理由はエホバとの友情と関係があります。”と、エホバの友情という言葉が出てきますが、原文にはないわけですね。そもそも神との友情というのはキリスト教的な概念ですか?クリスチャンは父なる神よ、と祈るんじゃないですか?」
「神様はお友達にすぎないというのは、日本のJW独自の概念じゃないの。」

「7節に、若者が目標を持つべき3つ目の理由は、“早い時期に目標を持つと物事を決定しやすくなる,ということです。”とありますが、まったく理由になっていないと思います。より良い決定をすることが重要であって、決定がしやすいかどうかは重要ではないですよ。」
「JWとしては、何も知らない幼い時に決定させれば、うまく若者をコントロールできるから、早く決めたほうが良いといっているだけだろう。若者の幸福を願っている組織ではないよ。若者の幸福を願っているなら、重大なことを決めるのは、意思決定が可能な年齢になるまで待ちましょう。それまでは人生の選択肢を狭めないように、様々なことにチャレンジしてみましょう。大学に行っていろんなことを学びましょう、というはず。」
「JWは若者を組織の一員として利用したいだけなのがよくわかりますね。」

「今週の記事は、いろんな人の実例が多く出ています。ものみの塔のために犠牲を払った人たちの話です。美談に仕立て上げています。」
「若者の人生を、おかしな教義で、コントロールしようとするのはやめろよ、と言いたいね。8節に、“ダマリスはトップレベルの成績で高校を卒業しました。”とあるけれど、元の英文は、“ Damaris finished her basic schooling with top grades.”で、高校とは書いていない。basic schoolは普通義務教育のことじゃないかな。ダマリスの話は、嘘くさいね。法律家は不幸で、開拓者歴20年の何の技術も知識もないパートタイムの中年女性の方が幸せだという話だからね。」
「記事を読むと、ダマリスは法律家になれたのに、パートのおばさんで満足しているから偉いということみたいですね。でも、ダマリスが法律家になって、児童虐待の裁判でJW側の弁護活動をしてくれた方が組織のためになったんじゃないですか?」
「JWは有能で忠実な若者に、組織のお金で、弁護士資格を取らせていることは秘密でも何でもないだろう。真の宗教という割には、言っていることとやっていることが矛盾している。」

「12節ではルカの話が出ています。学校で証言したら、“先生は宿題として,「いじめっ子 を殴らずに撃退する」のホワイトボード・アニメを見るようにと言いました。”とありますが、どこの国の話でしょうね。アメリカではないでしょう。」
「アメリカだったら、親から激しい抗議がきて、その教師はすぐに停職処分だ。日本でも、教師がカルト宗教のアニメを見る宿題を出したことがわかれば、辞職に追い込まれる可能性がある。ルカの話は本当だとしたら、どこかの発展途上国の話じゃないかな。こんな話を模範例として持ち出しているということは、JWが常識を失っているということを示すね。」

「13節のカタリナの話も、普通の人から見たら非常識な話ですよ。カタリナは“職場の人たち全員に証言することを目標にしました。”とありますが、職場で宗教活動なんかしていいんですか?そんなことをしだしたら職場は混乱しますよ。」
「これも発展途上国の底辺の職場の話じゃないかな。JWという宗教はそういった人たちをターゲットにしているようだから。まともな職場で宗教活動をすれば当然問題視される。こんなことも統治体はわからないのかもね。末端の信者を反社会的な行為へと圧力をかけることはやめてほしいね。」

「16節のクリストフの話も何かおかしいです。スポーツクラブに入ったけれど、“そのスポーツがかなり過激で危険なことに気づきました。それで,改めて何人かの長老に相談し,聖書からアドバイスをもらいました。”とあるのですが、そのスポーツのことを実際にするまでそんなことに気づかないなんて、ありえないでしょう。」
「単にスポーツもだめだといいたいだけでしょう。具体的にどのスポーツがダメなのか指定すればいいのに、それはしない。ズルいやり方だ。」
「JWからすれば、スポーツする暇があったら伝道活動をせよ、なのでしょうね。」
「聖書からのアドバイスとはどんなものか具体的に知りたいけど、何も書いていないね。それから、長老が何の法的権限もないのに、他人の子どもの人生に介入することを模範的な例として挙げているのは反社会的だ。未成年の子供に対する親の権利を踏みにじっている。クリストフの親がJWでなければ、勝手に口出しするなともめるだろう。」
「JWは家族に不和を持ち込む宗教ですから。それは親の権利を無視することが一つの理由ですね。」
「今週のものみの塔は、JWの非常識さや反社会性がよくわかる内容だ。」

「今週の記事の最後の文は、“若い皆さん,これからもエホバに頼り,従ってください。そうすれば,いつまでも幸せな人生を送れるでしょう。”です。しかし、聖書からの引用はないです。」
「代わりに引用すると、伝道の書8:15、新共同訳では“それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって/飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の/日々の労苦に添えられたものなのだ。 ”要するに、若者よ、人生を楽しめと、いっている。それ以上の幸福はない、と言っているよ。」

#883 2018年07月10日 17:34:52

ラッピー
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

いつも「JW少年との 会話」と言うかたちで興味深い投稿を書いてくださり有難うございます。

現役30年近くになります。
組織が嫌いです。止められない事情があり辞めてません。
ですが、ものみの塔研究にはいつもうんざりしています。だいの大人が1時間かけてじっくり討議する内容だろうか、アホ臭すぎます。

特に先の日曜日の「若い皆さん、ー」の記事はホント胸くそ悪かったです。
若い人達のこと、本当に考えてないですよね。

何が、「そうすれば、いつまでも幸せな人生を送れるでしょう。」だか。

不幸な若者どれだけ輩出してきたか。
この私が目撃証人ですから。
本当、嘘つくの止めて欲しいです。

本当に若い人達を愛しているなら、聖書についての質問さんのおっしゃるように、
「人生の選択肢を狭めないように。」
「様々なことにチャレンジしよう  。」
「大学にいって色んなことを学びましょう。」
と言ってあげるべきです。

元居た会衆の長老は進路で悩んでいた息子に新聞の集金 の仕事を薦めました。何のために高専行ったのか。大学もNGでしたから。

子供が皆離れてしまったオバサン開拓者や子供のいない老夫婦、結婚してない開拓者などが活発に注解しておりましたが、
なんだかね。
頭が変になりそうです。この組織辞めたいんですが。
潰れてくれると有難い。

家にかえっても気分悪く、聖書についての質問さんがきっと今回の記事についてもupしてくれるだろうと待っていました。
有難うございました。

#884 2018年07月16日 16:05:05

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「暑いですね。今週のものみの塔は、“エホバは「耐え忍んで実を結ぶ」人たちを愛される”で、何の成果がなくても伝道活動を続けろと、やる気の低下している信者を駆り立てるものですね。」
「ワールドカップはフランスが優勝するのかな。えーと、初めにセルジョとオリンダというアメリカの80代の開拓者夫婦の話が出ているけれど、彼らはどうやって生活しているんだろうね。名前からいうと、中南米からの移民だろうけど、資産があるとは思えない。」
「エホバが支えてくださるのですよ。」
「彼らは、バス停で通行人に出版物を見せることしかやっていないよ。これがJWの誇る伝道活動なの? 1節で、“もう何十年も,こんなふうに王国について知らせ続けています。”とあるけれど、英文では、preachという単語が使われているが、使い方がおかしいね。」
「preachは、“説教をする”という意味ですね。出版物を見せるだけなら説教とは普通は言わないですよね。JW的な特殊な使い方なのでしょう。」
「5節には、“わたしたちも人々を深く気遣っているので伝道しています。”とあるよ。」
「これを読んだJWは苦笑しますよ。なんといっても時間を気にして伝道しています。」

「今週のテーマは、ルカ8章の種まき人のたとえの“実を結ぶ”ようだけど、実を結ぶことを、伝道活動をしてJWを増やすことと解釈しているみたいだ。そんな意味ではないでしょう。」
「特にJWを増やさなくてもいいみたいですよ。8節には、“クリスチャン各自が結ばなければならない実とは,新しい弟子のことではありません。”と書いています。9節には、“何を行なえば「実を結んでいる」ことになるでしょうか。神の王国の良い知らせを伝えることです。”とありますので、だらだらと時間をかけて伝道活動らしきものをしていれば実を結んでいることになる、というのがJWの解釈のようですね。」
「種まき人のたとえの解釈としては滅茶苦茶だね。11節では、“わたしたちの生み出す 実も新しい弟子ではなく新しい王国の種です。”と、いつのまにか実(fruit)を種(seed)にすり替えた議論をしている。実は食べて幸福感を味わうものだけど、種は次の季節に撒くもので、全然違うもの。実を種にすり替えたうえで、実を結ぶとは、王国の種をまくことつまり伝道することという滅茶苦茶な主張をしている。」
「まいたものを刈り取るというのが当時のいい方ですよね。まいたものを,またまくなんて聞いたことないです。JWの教義に合わせて聖書を解釈するといういつものパターンですね。」

「そもそも“何を行なえば「実を結んでいる」ことになるでしょうか”という問い自体がおかしい。そういう問題を扱ったたとえじゃないよ。ルカ8:15はこうある。“りっぱな土の上のものについていえば,これは,りっぱな良い心でみ言葉を聞いたのち,それをしっかり保ち,耐え忍んで実を結ぶ者たちです。”ここで示されているような人が実を結ぶ者たちだ、とルカは言いたいだけ。」
「同じたとえは、マルコ4章とマタイ13章にありますね。マルコ(20節)では、“りっぱな土にまかれた者とは,み言葉を聴き,好意をもってそれを迎え”とあるだけですが、マタイ(23節)では、“りっぱな土の上にまかれたもの,これはみ言葉を聞いて,その意味を悟る人のことです。”とあります。ルカとは違いますね。」
「マタイの力点は、み言葉を“理解する”ことにあり、ルカはどのような態度でみ言葉を聞くかに力点がある。マタイではイエスは新しいモーセとして、新しい掟を与える存在として描かれている。そのため、律法を理解するように、み言葉を正しく理解することが不可欠としている。それに対してルカは聞くことと心の性質、特に忍耐が強調されている。」

「この種まき人のたとえは、3つの福音書に出てくる数少ないたとえの一つですけれど、細部が異なるのはなぜなんですか?」
「この話は口伝えで初期のクリスチャンの間に広がっていたのだろう。人から人へ伝わるうちに細部は変わってくる。また、福音書の作者はそれぞれ異なる思想の持ち主で、自分の主張を強調するために意図的に細部を変えている。」
「マタイの話はマルコの話とよく似ていますが、マタイはマルコのたとえ話を元ネタにしているとみていいんですか?」
「普通はそう考えられている。ルカは、マルコを知っていたし、別の伝承も知っていたと考えられている。」

「種まき人のたとえはイエスが自ら解説している唯一のたとえですが、その解説はイエスらしくないです。要するに、悪い人といい人がいて、いい人の場合たくさん実を結ぶとけれど、ダメな人は神の国の良い便りを聞いても無意味だということです。これはある種の決定論ですし、人間差別ですよ。イエスの人間観とは違うと思います。」
「トマスの福音書というのがある。そこにも種まき人のたとえがあるのだけれど、イエスの解説はない。こちらの方がオリジナルに近いと考えられる。イエスの解説は、イエスの死後、初期キリスト教の困難な状況に合う形で付け加えられたものだろうね。たとえ話の内容と解説は一致しない点があるしね。」
「初期キリスト教の状況というのは、素晴らしいはずのキリスト教の教えがそれほど受け入れられず、迫害さえ招いているという困った状況のことですね。信者になぜそうなのかという説明がもとめられるわけです。」
「そういう状況を福音のパラドックスと言ったりする。そこで出てきたのが、福音を受け入れる側に問題があるという説明。教え自体がいかに素晴らしくても聴く側に問題があるので、教えは実を結ばないという説明だ。これを具体化したものが種まき人のたとえのイエスの解説部分ね。キリスト教にとってのご都合主義的説明だけど、キリスト教信者はそれで納得できるんじゃないかな。」
「福音のパラドックスなんて言う状況は、イエスの生きていた時代よりも初期キリスト教の時代の問題ですよね。のちの時代の人が、初期クリスチャン向けに、イエスが自ら回答するというという話を付け加えたというわけですね。そして、それをJWが悪用している。」

「このたとえでは、よい土地にまかれた種は最大100倍の実を生み出したことになっていますが、これって普通のことじゃないですか?稲の穂についている米粒って100個くらいはついていますよ。たとえの種は麦の種なんでしょうけど。」
「当時の文献をみると、100倍の収穫はよい収穫だけど、神の力による奇跡的な収穫というほどではないようだ。ここがこの例えの解釈の難しいところなんだ。なぜ1000倍にしなかったのだろうね。少なくとも、神の王国はハルマゲドンの戦いのような神が引き起こす最終戦争によってもたらされるという思想はなく、むしろ日常の活動の延長線上にあるといっているようだ。」

#885 2018年07月22日 22:06:30

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ユーフラテス沿いの古代メソポタミアでも100倍近い収穫は普通だったみたいですが、中世ヨーロッパでは5~6倍に留まっていたというデータもあるようです。


「死んで落ちゆく一粒の麦」ではなく土壌に問題がある、これを福音のパラドックスに重ねるのはいかにもキリスト教らしいですが、そういうところはJWもしっかり利用しますよね。

#886 昨日 16:44:35

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“「多くの実を結びつづけ」るべきなのはなぜですか”で、死ぬまで伝道を続けなさい、という内容です。」
「こんな暑い中でも、なぜ伝道しなければならないの?」
「最後の19節でこうまとめています。“わたしたちが伝道を続けるのは,エホバに栄光をもたらし,神の名を神聖なものにし,エホバとイエスへの愛を表わし,警告を与え,人々への愛を表わすためです。”」
「嘘だろう。伝道の目的は信者を増やすことでしょう。信者が増えれば寄付も増えるし、組織が拡大する。JWで自然死する人は毎年1%はいるだろうし、やめる人もかなりいるだろうから、現状維持だけでも、毎年相当数の新しい信者を獲得しなければならないからでしょう。」
「その真実が言えないので屁理屈をこねて、信者を伝道に駆り立てようとしているわけですよ。」

「JWの伝道の無意味さや滑稽さは、JW自身が一番よくわかっているでしょう。JWは、勝手に人の家にやってきては、100年も前から終わりの日が近いとフェイクニュースを流し続けてきて、しかもいまだに反省も謝罪もない。伝道が“エホバに栄光をもたらす”なんてことは今までなかったよ。」
「神の名をエホバと間違った仕方で呼んでいるのもJWだけですしね。“神の名を神聖にする”なんてこともないですよ。」

「8節に、警告を与えるために伝道するとあって、ノアの例が出ているが、おかしな内容だ。JWはノアの話が大好きなようだけど、神話に過ぎないノアの話を教義の根拠にしているようでは、まともな人からは相手にされないよ。」
「まあ、落ち着いて。そこでは、“大洪水前の伝道には,滅びについて警告することも含まれていたようです。”と、推測に過ぎないことを認めているじゃないですか。」
「もとの英文は、“His preaching work prior to the Flood evidently included a warning of coming destruction.”で、evidentlyは、この場合、“明らかに”と訳すべきだよ。“明らかに滅びについて警告することも含まれていたのです”と訳すべきところを、そうしなかったのは、翻訳者がJWの狂信ぶりを和らげたかったんだろう。」
「“聖書はノアを「伝道者」と呼んでいます。(ペテロ第二 2:5を読む。)”とありますが、正確には“義の伝道者”で、警告を伝えていたとは言っていませんね。警告を与えていたという根拠が、マタイ24:39、“洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在の時もそのようになるのです”らしいのです。」
「まず、“注意しませんでしたが”という訳はおかしい。新共同訳では、“何も気がつかなかった。”となっている。」
「JWの新世界訳だと、警告されたけれど無視したという意味にとれますが、新共同訳では、何も知らなかった、つまり警告はなかったということですね。」
「New international versionでは、“they knew nothing about what would happen”で、何が起こるか何も知らなかった、と訳している。これが標準的な訳だよ。そもそも、マタイの24章のこの部分は、36節の“その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も [知らず],ただ父だけが[知っておられます]。”が中心部分で、その例としてノアの洪水の話が、37から39節に出ているにすぎない。ノアの洪水を誰も知らなかったように、キリストの再臨も突然生じるといっているので、新世界訳のような訳は文脈無視で間違い。それから、臨在というのはJWの特殊用語ね。」
「“その日と時刻についてはだれも知りません。”という誰でもわかるイエスの言葉を無視して、間もなく来る、来ると100年いい続けているJWですからね。後の部分も自分たちに都合の良いように解釈しているわけですね。」

「10節で、“人々を愛しているので,あきらめずに伝道を続けます。”とあるけれど、同じ10節では、パウロとシラスが信仰に目覚めた牢番に、“2人は「主イエスを信じて頼りなさい。そうすれば救われます」と答えました。(使徒 16:25‐34)”と書いてある。パウロたちは、牢番に伝道をすれば救われますなんて言っていない。イエスを信じるだけで救われるんだよ。」
「そうですけど、その後の、11節では“牢番 は地震の後初めて心が変化し,助けを求めました。同様に,以前は王国の知らせに無関心だったものの,人生を揺るがす出来事を経験して,心が変化し,助けを求めるようになる人がいます。”と書いていまして、その話は、人の不幸に付け込めば伝道は成功するという、カルトらしい教訓話の実例らしいのです。」
「確かに、11節には、失業した人、離婚した人、重い病気の人はいいカモと書いてある。」
「いいカモとは書いていませんよ。“次にエホバの証人に会う時には,生まれて初めて聖書の話に耳を傾けるかもしれません。”とあるだけです。」

「14節で、“イエスはぶどうの木の例えを話した後,王国について知らせるなら,イエスと同じ喜びを味わえると述べました。(ヨハネ 15:11を読む。)”とあるけれど、珍解釈だね。伝道のことなんか一言も出てこない。」
「マルコ・マタイ・ルカのイエスは神の王国のことを述べ伝えていますが、ヨハネのイエスは、神の王国ではなく、自分自身のことを述べ伝えていますよね。」
「わたしは命のパンです(6;48)とか、わたしは世の光です(8:12)とか、わたしは○○であるという言い方が何度も出てくるのが特徴だ。」
「ギリシャ語だと、エゴー・エイミですね。ヨハネ15章では、イエスは、“わたしは真のブドウの木”と、自分自身について説教していますがどういう意味ですか?エゴー・エイミの7番目です。」
「“真のブドウの木”は偽物のブドウの木を前提にした言い方。偽物は何かというと、イスラエルのこと。旧約聖書ではイスラエルの民のことをブドウの木と何度も例えている。例えば、イザヤ5;7では、“万軍のエホバのぶどう園はイスラエルの家であり”とある。神はイスラエルを選んだが、期待された実を生み出すことはなかった。そこで、真のブドウの木であるイエスが地上にあらわれて、イスラエルではなく、イエスにとどまることによって、神の期待する実を生み出すことができるといいうこと。」
「イスラエルの民であることが救済につながるわけではなく、イエスに付き従うものだけが救済されるのだ、わかったかバカなユダヤ人どもめ、というメッセージなのですね。」
「まあ、そんな感じかな。ヨハネでは、イエスに敵対するものは、ユダヤ人とひとくくりにされていて、反ユダヤ主義が顕著だからね。」
「というわけで、今週のものみの塔も見当違いの聖書解釈満載でしたね。」

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