ログインしていません。

#776 2018年04月17日 16:51:37

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「創世記6:9 に戻りますが、正しい訳は“同時代”ですか、それとも“その世代”ですか?
ものみの塔では、終末予言の関係から”世代“という語には神経質になっていると思うのですよ。」

最近気になることがあり、マタイ24:34などで訳されている
「世代」という言葉がものみの塔発行の王国行間逐語訳ではどのような英単語が
ギリシャ語の単語の訳としてあてられているのか調べてみました。
それは「age」だったのです。
ギリシャ語の意味は知りませんが、普通に「age」というなら
「時代」という意味になり、世代とはずいぶん違うように思います。
ものみの塔は王国行間逐語訳を1969年と1985年に発行していますが、
それこそ現在の若い世代のJWたちはほとんど知らないでしょう。
Webでは無料でダウンロードできるところもありました。
JWが日ごろ使う新世界訳では意図的に誤訳している箇所でも、
王国行間逐語訳では正確な単語が割り当てられているところが不思議なところです。

組織にとっては都合悪いでしょうから、
現物を手に入れるのは難しいだろうと思いますが…。

オフライン

#777 2018年04月17日 22:27:38

鬼太郎
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ラハム兄弟 貴重な資料情報に感謝します。お恥ずかしいことに、generationと思い込んでいました。
ageでは、、、、それを 世代 に意訳でしたか、、、
JWの多くが1914年の年代と 世代に信仰を置いて人生と命を捧げたわけですから、、、、。

オフライン

#778 2018年04月18日 16:20:34

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

鬼太郎 さんの発言:

ラハム兄弟 貴重な資料情報に感謝します。お恥ずかしいことに、generationと思い込んでいました。
ageでは、、、、それを 世代 に意訳でしたか、、、

まったくのところ申し訳ありませんが、
鬼太郎さんの言う通りでした。
1969年版と1985年版を確認したところgenerationとなっていました。
何かを調べたときと記憶がごちゃ混ぜになり、勘違いしたようです。
これからはもっと注意深くしようと思います。
ほんとうに申し訳ありませんでした。

ただし、時代と訳出している日本語訳もありますので、
参考資料として「脱塔指南」トピックに記録しておこうと思います。

オフライン

#779 2018年04月18日 17:04:15

鬼太郎
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

丁寧にありがとうございます

オフライン

#780 2018年04月23日 16:35:29

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“霊的な人とはどんな人ですか”というものでした。」
「今日は暑いね。内容は聞かないでもわかる。組織に忠実で、一生懸命に奉仕活動をしている人だろう。霊的な人の現代のお手本として、13節のおしゃれな服をやめたブラジルの姉妹と、14節の高等教育をあきらめたフィリピンの姉妹が取り上げられているけど、ダサい服を着た低学歴の人が霊的な人なの?」」
「一応説明しますと、コリント第一2:14-16が引用されて、“霊的な人”と“物質の人”の違いを学び、良い手本から学ぶということで、ヤコブ、マリア、イエスの例が説明されます。世界各地の兄弟姉妹の例も出てきます。」

「コリント第一2:14に<しかし,物質の人は神の霊の事柄を受け入れません。>とあるけれど、“物質の人”という訳は変だよ。そこで使われているのは psuchikosで、“自然の、動物の、感覚の”という意味で、人間の高次な面ではなく低次な面を指すときに使う言葉。新共同訳では、“自然の人”と訳している。動物のように本能だけで生きている人というような意味であって、物質的な人ではない。新世界訳でも、この言葉は、ヤコブ3:15では、<それは上から下る知恵ではなく、地的、動物的、悪霊的なものです。>と、ちゃんと“動物的”と訳している。」
「“物質の人”という訳がおかしいですか。驚きました。となると、それ以降のものみの塔の記事も意味がなくなりますね。例えば、4節で、<「物質の人」つまり自分の欲望に従う人は,名声やお金を得ること,自分の権利を守ることばかり考えています。>とありますが、まったく的外れなわけですね。」
「コリント第一2:14-16の新世界訳は全然ダメ。14節の後半は、<また彼は[それを]知ることができません。それは霊的に調べるべき事柄だからです。>とあるけれど、“調べる”ではなく、“判断する”。ここでパウロが言いたいのは、福音は神の深い知恵であって、聖霊によって心を開かれたもののみがその真理を悟ることができるということ。」
「そうなんですか。新世界訳の15節では、<霊的な人は実にすべての事柄を調べますが,その人自身はいかなる人によっても調べられません。>となっていますが、ここも、“調べる”ではなく、“判断する”ですか?」
「そのとおり。ものみの塔は、“霊的な人”とは、聖書やものみの塔の出版物を“調べる”人と思っているようだけど、違うよ。パウロは、聖霊が働いている霊的な人はすべてを正しく判断できるのだ、と15節で言っている。」

「霊的な人の手本としてヤコブが取り上げられていますけど、おかしいですね。」
「ヤコブが霊的な人である根拠として、ものみの塔が10節で挙げているのは、兄のエサウに襲撃されそうになった時、祈ったということだよ。その時の状況は、エサウのほうがはるかに優勢で、ヤコブは対抗できそうにない、あとは神頼みというわけで、祈ったというお話。どこが霊的な人なの?」
「ヤコブは、騙し騙されるキャラクターですよね。」
「トリックスターというキャラクター。非倫理的なことをするにもかかわらず、魅力的で、罰せられることはなく最後は勝利する。模範とするようなキャラクターじゃないよ。ホセア12:2,3にはこうある。<ヤコブに対し,その歩み方にしたがって言い開きを求めるのである。その行ないにしたがって彼に返報を加えられる。 腹の中で彼は自分の兄弟のかかとをとらえ,またその活動力をもって神と闘った。>、またイザヤ43:27では、<あなたの父,最初の者は罪をおかし,>とあるけれど、これはヤコブを指していると解釈されている。」
「ヤコブは創世記の中では倫理的評価が下されていませんが、倫理観が進歩した後の預言者たちは、ヤコブは罪深い人間と評価しているわけですね。」
「ところが、ものみの塔はヤコブをお手本にしましょうといっているわけで、倫理観のなさがよくわかるね。」

「11節では、イエスの母、マリアが取り上げられています。ルカ1章にあるマリアの詩が引用されています。ものみの塔では、<マリアは神の言葉を深く愛し,ヘブライ語聖書の内容をよく知っていました。>と、持ち上げていますけど、あり得ないですよね。」
「それはマニフィカトという詩だね。この詩の最初がラテン語ではMagnificatで始まるから、そういわれている。サムエル第一のハンナの歌と似ている。詩編やマラキ書からの引用もある。というわけで、この詩を書いたのはかなりの知識人だね。イエスの母マリアは教育など受けていないだろうし、妊娠時の推定年齢は10代前半だから、この詩の著者ではない。」
「そんなに若いのですか?」
「当時のパレスティナでは女性は10代で結婚した。マリアはまだ未婚なので、最も可能性が高いのは10代前半。14歳という説が昔からあるね。」
「ということは、ルカが自分で書いたんじゃないですか?」
「詩の内容は、かなりイスラエル民族主義的なんだ。54節には、<[神]はご自分の僕イスラエルを助けに来てくださいました。>とあるし、55節ではアブラハムが出てくる。イエスは人類の救い主というのがルカの思想だから、ルカ的じゃない。キリスト教以前の作品かも。」

「 “ハンナの歌”のハンナは、旧約聖書のおなじみのパターンで、長い間子どもに恵まれなかった女性ですよね。エホバに祈ったら、サムエルという男の子が生まれたので、その時の気持ちを歌ったのが、“ハンナの歌”ですよ。ということは、マリアよりもバプテスマのヨハネを生むエリザベツと同じ状況です。エリザベツもかなり年を取っていたけれど、聖霊の力で妊娠したということになっています。本当にあれはマリアの詩なのですか?」
「昔から、エリザベツの詩という説はあるね。詩の内容は、ハンナの歌とかなり類似しているから、おなじ境遇のエリザベツの作であるとしたほうが自然だという考えね。それから1:56節が重要で、これは詩が終わった次の節なんだけど、<そしてマリアは彼女のもとに三月ほどとどまり,>とある。この詩がマリアが語っていたとするなら、“そして彼女はエリサベツのもとに・・・”となるはずだ。もとはエリザベツの詩だったものが、写本の過程でマリアに代えられた。それは、後にマリア崇拝が高まった影響じゃないかという推測。」

「ものみの塔らしく気持ち悪いのは、<また,結婚したばかりのマリアとヨセフは,イエスが生まれるまで性関係を持ちませんでした。2人が自分の欲望を満たすことよりもエホバのご意志に従うことを大切に思っていたことが分かります。(マタ 1:25)>という部分です。」
「お得意のエホバの意志の拡大解釈だね。マタイによると、天使はヨセフに夢の中で、マリアを妻に迎えろ、生まれた子はイエスと名付けよというだけで、性関係を持つな、とは言っていないよ。」

#781 2018年04月26日 01:38:50

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ラハムさん、こんにちは。

ラハム さんの発言:

その一方、新約聖書のほうではダビデを信仰の人として、好ましい扱われ方をしているように読めるだろうと思います。
ダビデの行動についてどのように解釈するのかは、聖書に対するそれぞれの人のスタンスによるのだということが、よく理解できました。

私は、新約聖書がダビデを信仰の人として好ましく扱っているという印象は持っていません。

ダビデの名は新約聖書のあちこちに出てきますが、単に「イエスはダビデの子孫である」と言っているだけのところがほとんどです。イエスを指して「ダビデの子」と繰り返し書かれているのは、キリスト教の物語では、メシアはダビデの子孫から出るという預言がイエスに成就したことになっているからです。

ヨハネによる福音書 7章40~42節
この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」

使徒言行録ではダビデ自身について言及されていますが、この部分も、イエスが(旧約)聖書に預言されているメシアであると主張するために、旧約の歴史(物語)を簡単におさらいしているだけです。ダビデが信仰の人であったかどうかは、新約聖書ではほとんど問題になっていないと思います。

ものみの塔はダビデについて「この名前はクリスチャン・ギリシャ語聖書の中に59回出て来ます。ヘブライ語聖書に登場する人物の中で,クリスチャンの聖書筆者がダビデよりも頻繁に言及しているのはモーセとアブラハムだけです」「ダビデは,戦場では苦難のもとで忍耐を示す闘士であり,勇猛果敢な指導者また司令官でありながら,自分の間違いを認めて由々しい罪を悔い改める謙遜な人,優しい同情や憐れみを示すことのできる人,真理と義を愛する人,そして何よりも自分の神エホバに全幅の信頼と確信を寄せる人でした」などと持ち上げていますが、新約聖書そのものはダビデをそのようには扱っていないと思います。

オフライン

#782 2018年04月30日 17:22:45

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“霊的な人として成長し続けましょう”でした。」
「現状に満足するな、もっと奉仕活動をせよ、という内容じゃないの?」
「ものみの塔8節によれば、霊的な人として成長し続けるためには、「自分を神の愛のうちに保ちなさい」の本を学ぶことが大切みたいです。」
「ものみの塔の本っていったい何年もつの?聖書研究の本の中には100年以上昔のものでも高く評価されているものがある。ものみの塔は真の宗教を自称しているのに、その出版物はすぐ廃棄処分されるよね。ものみの塔の真理は短命だよね。」
「まあ、そうですね。この本は10年もたたないうちに廃棄処分になると思いますよ。」
「そのほかには?」
「奉仕活動に関する目標を持ち、実現するよう努力せよ、JW以外と付き合うな、王国第一にせよ、けんかをするな、こんなところでしょうか。」

「ロバートの例が笑えるね。十代でバプテスマを受けたけど、真剣に取り組んでいなかった。ところが、結婚して、聖書クイズを妻としたら、妻のほうがはるかによくできた。」
「2節ではこうありますね。<自分が何も知らないことに気づかされました。妻の頭なんだからしっかりしなきゃ,と思いました>。それで改心するわけです。確かに笑えますね。クイズに負けて、真のJWになったなんて。」
「これは娯楽の少ないJWを楽しませるための記事じゃないよね。もっとましな話はないの?マタイ4章の悪魔がイエスを誘惑する場面を思い出してほしいな。悪魔は神殿の上から飛び降りろとイエスに行った後、<『[神]はあなたに関してご自分の使いたちに指図を与え,彼らはその手に載せてあなたを運び,あなたが石に足を打ちつけることのないようにする』と書いてありますから」>という。これは詩編91:11,12からの引用なんだ。」
「つまり、悪魔は聖書をよく知っているわけですね。」
「ものみの塔は雑誌や書籍を売ることによって稼いできた組織。だから信者にお勉強させたがる。でもね、聖書クイズ大会をしたら悪魔が優勝するよ。だから、ロバートの話は少しも感心しないね。ロバートは本当に間抜けな男。」
「ものみの塔の最後の節で、ロバートは、<エホバとの親しい関係を築いた結果,より良い夫また父親になることができました。満足感と幸福感を味わうこともできました>といっていますよ。」
「これは間抜けな男の単なる自己評価。そんなもの何の意味もない。妻の評価がないところを見ると、ロバートの妻はこんな男と結婚したことを後悔しているよ。」

「4節で、<わたしたちは,「思いを活動させる力において新たにされ」るよう勧められています。>とエフェソス4:23を引用していますが、訳がひどくて、意味が分からないですね。新共同訳では、<心の底から新たにされて、 >となっています。」
「この4節は訳した人はだいぶ苦労している。日本語の新世界訳は古くて、英語版と訳語がかなり違う。英語版では、<continue to be made new in [our] dominant mental attitude. 支配的な精神的態度において新しくされ続ける。>だけど、これをそのまま引用するわけにはいかない。日本人にはあくまで古い訳ですますしかない。そこで本文にはない、<「新たにされ」と訳されているギリシャ語には継続的な意味合いがあります。ですから,考え方を新しくする努力を続けなければなりません。>という文を勝手に付け加えて、英語版と合わせようとしている。」
「英語版ではcontinueが強調されているので、“続けなければなりません”と付け加えたのですね。」
「<「新たにされ」と訳されているギリシャ語には継続的な意味合いがあります。>と付け加えているけれど、ギリシャ語には現在進行形はないからね。日本語訳をした人はその点をわかっているのかな?」
「新しい日本語の新世界訳がでないことが問題の原因ですね。」
「信者数最大と思われるスペイン語やフランス語、ドイツ語も出てないでしょう。資金不足なのか、聖書を重視していないのか、訳に自信がないのか、どうなんでしょうね?」

「11節には、<わたしたちはヤコブに倣う必要があります。ヤコブは祝福を得るまで,あきらめずに天使と格闘しました。(創 32:26‐28)>と、またヤコブを取り上げています。創世記32章には、天使とは書いていませんよね。“ひとりのひと”と書いてあるだけです。」
「それを天使と解釈しただけだね。本来は川の守り神でしょう。夜、川岸に一人でいるヤコブに現れて、ヤコブと戦うが、あまり強くない。夜が明けそうになると、“行かせてほしい”とお願いする。これは天使じゃなくて、その土地の霊的な存在と考えたほうが話の内容に一致する。そのような存在だから日が昇ると帰らなくてはならない。」
「創世記32:30では、<顔と顔を合わせて神(elohim)を見たのに,わたしの魂は救い出された>と、ヤコブが格闘した相手が神となっていますが、川の守り神を指しているということですね。」
「そうだね。格闘の場面で“顔と顔を合わせた”なんて一言もないけれど。創世記では、神様はエルとヤハゥエがいる。本来別の存在だったけれど、後に同じ神を指すと解釈された。川の神もエローヒム(エルの複数形)と見なされている。」
「この話が聖書に取り入れられる過程で、今のような形に変えられたけれど、原始宗教の名残をとどめているというわけですね。」

「アブラハム、イサク、ヤコブの時代は、原始宗教の時代だよ。後の時代の宗教とは大きく違う崇拝の仕方が行われている。」
「創世記を読むと、アブラハムたちは、行くところ、行くところ、祭壇を築いていますね。また、アブラハムは木を植えて、祈っていますね。21:33では<彼はベエル・シェバにぎょりゅうの木を植え,その所で,定めなく存在される神エホバの名を呼び求めた。>とあります。」
「原始宗教の名残だね。ヤコブは、28:18で<朝早く起き,頭の支えとしてそこにあった石を取り,それを柱として立ててその上に油を注いだ。>とある。」
「ところが、申命記16:21、22では、<あなたは,自分のために造るあなたの神エホバの祭壇の近くに,自分の聖木としての木をいっさい植えてはならない。また,自分のために聖柱を立ててもいけない。それは,あなたの神エホバがまさに憎まれるものである。>とありますから、アブラハムたちは、後の時代だと背教者となるわけですね。」

#783 2018年05月07日 17:11:50

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“バプテスマ クリスチャンになるために必要”でした。早くバプテスマを受けろ、そうしないと命が危ないぞ、という内容です。4節には、<バプテスマを不必要に先延ばしにする人は,永遠に生きる見込みを失ってしまうかもしれません。>と脅かしています。」
「元の英文は、<A person who needlessly delays getting baptized endangers his prospects for everlasting life. >。“かもしれません”というあいまいな表現はない。はっきりと脅迫している。英文のほうが狂信的だね。それを日本語訳は和らげている。」
「永遠に生きる見込みを危険にさらします、というような訳でしょうか。」
「少し前に“若い皆さん・・・”という、同じような内容の記事があったよね。バプテスマのことを何度も取り上げて、圧力をかける作戦だね。この最初の写真が悲しいね。バプテスマを受けるのがたった3人で、そのうち2人は老人と子ども。」
「手前にもう一人ほんの一部だけ映っていますよ。でも3人もいれば、多いほうですよ。この3人は、4節によれば、<邪悪な世が終わる時に救われます。>」
「この3人中、若いほうの2人は10年以内に辞めるほうに賭けるね。」
「4節で、<ノアが大洪水を生き延びたように,バプテスマを受けた忠節な人たちは,邪悪な世が終わる時に救われます。(マル 13:10。啓 7:9,10)>とありますが、引用されているマルコと啓示の聖句はバプテスマと直接関係ないものですよね。」
「引用されていないけれど、コリント第一10:2,5にはこうあるよ。<みな雲と海とによってモーセへのバプテスマを受けました。・・・それにもかかわらず,彼らの大多数に対して,神はご自分の是認を表明されませんでした。彼らは荒野で倒されたのです。>」
「古代イスラエル人はエジプトから海を渡るというバプテスマの原型を受けたけれど、それは救いを保証するものではなかったという意味ですね。バプテスマのような儀式を行えば、それによって救われるというのは儀式を中心にした原始宗教ですね。」

「イエスのバプテスマについて、6節で<イエスは,神のご意志を行なうために自分を差し出したことの象徴としてバプテスマを受けました。(ヘブ 10:7)>とあるけれど、参照されているヘブライ10:7はバプテスマのことなんか書いていないよ。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた。これはキリスト教にとって、とても不都合なことなので、時代とともに、この事実をごまかそうとするようになる。」
「つまり、歴史上のイエスはヨハネの弟子として、活動を開始したが、ヨハネの逮捕後あるいは死後、独立していった。これが史実として一番ありそうなことになるわけですよね。でも、後のキリスト教からすれば、なかったことにしたい事実なわけですね。」
「初めに書かれた福音書であるマルコでは、<そのころのこと,イエスがガリラヤのナザレから来て,ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。>1:9 とヨハネがイエスにバプテスマを施したことを淡々と書いているのに、その10年以上後に書かれたマタイになると、ヨハネはイエスをとどめて、<私こそあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに>3:14 と、ヨハネのほうが格下であるかのようなセリフを言わせる。ルカだと、イエスはヨハネからバプテスマを受けていない。ルカでは、ヨハネは早々とヘロデに捕まって、<さて,民が皆バプテスマを受けていた時,イエスもまたバプテスマをお受けになった。>3:21 とある。イエス誰からバプテスマを受けたのだろうね。」
「最後に書かれた福音書のヨハネでは、もはやイエスはバプテスマを受けていませんね。福音書でもかなり違いますね。」
「キリスト論が違うから。イエスはどのような存在なのかという根本問題が各福音書で違うんだね。マルコではイエスは普通の人間として生まれたと考えている。マタイやルカは生まれた時から神の子。」
「ヨハネでは、神ですよね。」
「時間がたつにつれて、イエスは人間から神に格上げされていく。」

「JWがいつバプテスマを受けるべきかに関してものみの塔の記事は混乱しているように思えるのですが。」
「9,10節で、エチオピアの宦官とサウロの例を出して、すぐにバプテスマを受けたことを言っている。ところが、12節では、<バプテスマを受けるには,神と神の目的,救いのための神の取り決めについての正確な知識を得る必要があります。>という。また、<それに加え,集会に出席し,良いたよりを伝えて人々を弟子とする活動に定期的に参加することも必要です。>と、どんどんハードルを上げていく。」
「要するに、聖書の中のバプテスマの例では、特別な資格など求められていないのに、ものみの塔ではものみの塔の教義と規則を知っている必要があるわけですね。」
「エチオピアの宦官は、使徒8:36で、<ご覧なさい,水があります。わたしがバプテスマを受けることに何の妨げがあるでしょうか>というけれど、JWは、“まずこれとこれの本を読んで、伝道活動をしなければだめです。”と答えるんだろう。」
「そのあとエチオピアの宦官は悲しそうな顔をして去っていった、となるわけですね。」
「14節では、<バプテスマを受けるよう研究生に圧力をかけるべきではありません。>とあるけれど、この記事全体がバプテスマへの圧力そのものだろう。偽善的なところがよく出ている部分だね。」
「アリバイ作りですね。」

「16節に、<以前に別の宗教組織でバプテスマを受けていたとしても,改めてバプテスマを受ける必要があります。(使徒 19:3‐5を読む。)>とあるけど、別の教会で受けたバプテスマが有効だった時代がある。これも教義が変更された例だね。でも、これを正当化するために引用されている使徒19:3-5だけど、不適切だね。」
「ヨハネのバプテスマを受けた人がもう一度バプテスマを受けたという話ですよね。」
「ヨハネのバプテスマはキリスト以前の悔い改めの象徴としてのバプテスマだから、改めてイエスの名によるバプテスマを受けたというだけのこと。JW以外の教会はサタンの教会だから、JW以外のバプテスマは無効だ、とわかりやすく言えばいいのにね。」

「そもそもバプテスマは象徴ですよ。大事なのは信仰心ですよ。単に象徴に過ぎないものを実体そのものかのように過大評価するのは、おかしい気がします。」
「原始宗教なんだよ。象徴と象徴されるものの区別がつかないという点でね。輸血問題と似ている。血は命の象徴だという。そして輸血を拒否して子どもを死なせる。命よりもその象徴に過ぎない血を取り入れないことを重視した、原始宗教ならではの悲劇だ。」

#784 2018年05月14日 17:13:43

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、先週の続きで“親の皆さん,お子さんがバプテスマに向けて進歩するよう助けていますか”でした。内容は、言わなくてもわかりますよね。」

「2週続けて、早くバプテスマを受けろ、という圧力ね。4節に、< もちろん,幼児はバプテスマを受けることができません。でも聖書を調べると,子どもでも聖書の真理を理解し愛することができる,ということが分かります。>とある。幼児と訳されている元の語はinfantで、普通は2歳以下を指す。子どもと訳されている語は relatively young children(比較的幼い子ども)。統治体は3歳以上ならバプテスマを受けてよいと考えているんじゃないか。」
「それはないでしょう。溺死者が出ますから。2節に、<ある巡回監督たちは,クリスチャンの家庭で育った若者の中 に,10代後半や20代前半になってもバプテスマを受けていない人たちがいることを心配しています。>とありますから、ものみの塔としては10代半ばまでにはバプテスマを受けろ、という方針なのでしょね。統治体じゃなくて、“ある巡回監督たち”の発言にしているのは、得意の責任回避ですね」
「巡回監督って、使い捨ての無年金・無保険の低賃金中間管理者のこと?箴言22:15では、<愚かさが少年の心につながれている。懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す。>とある。若者は愚かなんだよ。彼らに必要なのはバプテスマじゃなくてむち棒でしょう。」
「ですから、12節に、<お恥ずかしい話ですが,子どもが排斥されるのが心配だったんです>と、ある親の言葉が引用されていますが、当然の心配ですよね。」
「それに対して、13節で、<バプテスマを受けていなければ,何をしてもエホバから責任を問われることはない,と考えるのは間違いです。>と、見当外れのことをいっているね。この親が気にしているのは、エホバじゃなくて組織のことさ。ばかげた排斥に関する規則を作れば、その対策として、末端の信者は子どもにはバプテスマを受けさせないようにするだけ。その何が問題なの。バプテスマの数を気にする統治体は、気に入らないだろうけどね。」
「全てのJWが統治体の言いなりではないですから。それなりに対策を考える。面従腹背は強圧的な組織のメンバーの常ですよね。」

「バプテスマについてあちこちから聖句を引用しているけれど、ほとんどがバプテスマとは関係のないものだね。バプテスマに関係している引用だと、使徒16:25-33だけど、正しく理解していないね。」
「牢番の話ですね。9節で、<牢番は比較的短い間に,聖書の真理に関する基本的な知識を得,学んだ真理に心を動かされてバプテスマを受けました。>とありますね。」
「“比較的短い間に”なんて嘘だよ。奇跡的な地震が起きたその夜の間にバプテスマを受けたんだ。9節に書いてあるように、当時、牢番は元兵士が成ることが多い。牢番は戦争のことは詳しいかもしれないが、聖書のことなんか何も知らないでしょう。」
「使徒16:33は、新世界訳では、<そののち彼は,夜のその時刻にふたりを連れて行ってそのむち跡を洗った。そして,彼もその[家の者]もひとり残らずすぐにバプテスマを受けたl。>とありますから、その夜に直ちにバプテスマを受けたとは読み取れませんけど。」
「訳がおかしい。新共同訳だと、<まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。>とある。こちらの方が状況をしっかりとらえている。さらに、牢番の家族もバプテスマを受けているけど、家族はいつ聖書のことを学んだの?彼らは、家族の頭である牢番に言われるがままに、バプテスマを受けただけでしょう。」
「家族の頭に合わせて家族全員が改宗した例はほかにありますか?」
「使徒10章にはコルネリオの家族が、使徒16:15では、ルデアの家族が、コリント第一16:15ではステファナの家族が、改宗している。これらの例から、バプテスマはその意思を示せば誰でも受けられたと考えられる。」

「ところで、牢番たちは、バプテスマをどこで受けたのでしょうか?川に行ったわけでもないですよね。」
「牢獄の敷地内に井戸があったのだろう。その水で、牢番たちは、まずパウロたちの傷を洗い、つぎにバプテスマを受けた。水につかるのではなく水を振りかけただけじゃないかな。」
「この話はフィリッピでの話です。パウロとシラス以外にもテモテやルカがいるはずなのですが、逮捕されたのはパウロとシラスだけです。なぜですか?」
「使徒16:20、21では、告発した男がこう言っている。<これらの男はわたしたちの都市をひどくかき乱しております。ユダヤ人でして, 我々ローマ人であれば,採用することも実施することも許されない習慣を広めています>。」
「ユダヤ人に対するローマ人の差別感や敵意がよくわかりますね。パウロやシラスはユダヤ人だから、投獄されたということですか。」
「たぶんそうだろう。テモテは半分だけユダヤ人で、ルカは異邦人。ユダヤ人とは異なる外見や服装をしていたのだろう。彼らは捕まっていない。ユダヤ人差別だね。」
「夜中に地震が起きて、戸が開き、牢番は囚人が逃げたと思い、自殺しようとします。なぜ牢番は死ぬ必要があるのですか?」
「当時のローマ法では、囚人を逃がした牢番は、その囚人と同じ刑罰を受けることになっている。大量の脱獄が起きたら、牢番はどうせ死刑だから、名誉ある死を選ぼうとしたということ。」

「ブロッサム・ブラントという人のことが出ているのですが、何か変だと思いませんか。1節では、彼女は1934年にバプテスマを受けたことになっています。最後の17節では、<バプテスマの前日の晩,父親は素晴らしいことをしました。ブロッサムは60年以上前のことを振り返り,こう言います。>とあります。現在は1934年から80年以上たっています。ということは、この話は今から20年以上前に語られたことになるのです。おそらく彼女は死亡しているのでしょうけど、なぜそんな古い話を持ち出すのでしょうか?理解できませんね。」
「“ブロッサム・ブラント”でオンラインライブラリーを検索してみるといいよ。」
「なんと、ものみの塔で、93年と01年に取り上げられています。1923年生まれなので、わずか12歳でバプテスマを受けたのですね。今週の記事は、最近のいい例がないので、過去のものみの塔の記事をもとに書いたということでしょうか。」
「引用であることを隠して、まるで、いま語られたかのように書いているのは、読者を惑わせるもので、ものみの塔らしいけれど、誠実な態度とは言えないね。」
「英語で検索すると、2012年に、自宅で亡くなっていますね。どんな死に方だったのか気になりますね。」

#785 2018年05月14日 22:34:46

翔子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

>「4節で、<ノアが大洪水を生き延びたように,バプテスマを受けた忠節な人たちは,邪悪な世が終わる時に救われます。(マル 13:10。啓 7:9,10)>とありますが、引用されているマルコと啓示の聖句はバプテスマと直接関係ないものですよね。」
>「バプテスマについてあちこちから聖句を引用しているけれど、ほとんどがバプテスマとは関係のないものだね。バプテスマに関係している引用だと、使徒16:25-33だけど、正しく理解していないね。」

聖書についての質問さんからそう指摘されて、研究記事の参照聖句を繋げて読んでみました。そうすると、本文のバプテスマ云々ではなく別の話題が書かれています。
とりあえず、主題は冒頭に掲載されているペテ一 3:21の省略なしの聖句(全文)だと思います。ヘンテコな省略、単語を抽出して繋ぎ合わせるのはNG!
「これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているのです。」(ペテ一 3:21)

#786 2018年05月15日 08:03:19

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

いつも思慮に富んだ考察ありがとうございます。

そもそも牢番が学んだ聖書とは何を指しているのかという疑問が研究中に頭に浮かびました。
旧約聖書を学ぶとイエスの教えについての知識が増えるわけでもないでしょうし。

またものみの塔にありました
「気遣いを示す」といった表現も失笑ものでした。

#787 2018年05月15日 09:23:58

翔子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/110 … :62-21:198
『徹底的な証し』第16章 124–132ページ
牢番は異邦人で聖書に通じていなかったので,クリスチャンになる前に聖書の基本的な真理を学んで受け入れる必要があります。それで,パウロとシラスは時間を取って「エホバの言葉を彼に」語ります。

万年研究生さん。
当時、存在した『聖書』といえばヘブライ語聖書ですから、「聖書の基本的な真理を学んで受け入れる」という解釈そのものが不思議です。

#788 2018年05月15日 10:23:34

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

翔子さん

返信ありがとうございます

「パウロとシラスはエホバの言葉を彼に語ります」という表現も何かおかしいですね。
イエスの言葉でないところは違和感をおぼえます。

#789 2018年05月15日 12:48:36

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

使徒言行録16章 29~33節(新共同訳)
看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。

看守と家族は「主(イエス)のことば」を聞いて洗礼を受けていますね。聖書ではないです。

今も昔もキリスト教徒にとって大切なのはイエスのことばであって、ものみの塔のトンデモ教義ではありません。

オフライン

#790 2018年05月15日 16:34:01

翔子
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

irisさん。
黒崎さんの註解によると、「主イエスを信ずる事が唯一にして完全なる救の途である。『何を為すべきか』の問に対して、律法の行為によらず信仰のみによりて義とせらるる事の真理を提唱せるもの」、「パウロ等は打傷より滴れる血潮すら洗わざるままにその傷の痛さをも忘れて獄守とその家族にイエスの福音を語った。神の愛とイエスの十字架について語ったのである」とのことです。
16章全体から考察しても、「(ヘブライ語)聖書の基本的な真理」ではなく、イエスの犠牲と死から復活について証言したと思います。しかしながら、創世記 3:15を「聖書の基本的な真理」とするなら、「エホバの言葉」でもよいかもしれませんね。

#791 2018年05月21日 17:21:14

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“兄弟姉妹をもてなすことが大切なのはなぜですか”でした。内容は、エホバの証人付き合い方ガイドラインといったものです。」
「ペテロ第一4:9が引用されているね。<愚痴を言うことなく互いを暖かくもてなしなさい> その当時から、もてなすことに関して愚痴が多かったことが分かって面白い。」
「もてなすのは信者同士という意味なのですか?2節では、<「もてなし」と訳されるギリシャ語には,「見知らぬ人に対する親愛の情あるいは親切」という意味があります。しかしペテロは「互いを」,つまりすでに知っていて交友がある人たちをもてなすよう勧めまし た。>と、書いていますが。」
「ここで使われているギリシャ語はphiloxenosで、文字通りだと、見知らぬものに対する愛という意味。ものみの塔の言うとおりだね。ところが、その後、奇妙なことに、ものみの塔では、何の根拠も示さずに<交友がある人たちをもてなすよう勧めまし た。>という結論になる。おかしいよ。もしそういう意味なら、違う単語を使う。」
「ということは、見知らぬ遠くから来たクリスチャンを暖かく迎えろ、お互い様だろう、という意味ですね。」
「1世紀には、ローマ帝国内には宿屋が整備されてきていたけれど、クリスチャンはそのような場所を避けて、同じクリスチャンの家に泊まることを好んでいたようだね。それで気になるのは挿絵の家。裕福すぎる。」
「本文では小さな家でも兄弟姉妹を泊めなさいとあるのですが、挿絵の家はそんなに裕福な家ですか?」
「中庭があってそれを取り囲む形で家が作られている。床は板石が引かれていて、柱は石柱、屋根は瓦。果物を置いている木製のテーブル。相当裕福なひとの家だね。内装は石灰塗料で板張りではないけれど。瓦屋根なのでローマ時代の家だね。」
「普通の家はどんなものなのですか?」
「基本的には一部屋しかない。マタイ5:15に、<人はともしびをともすと,それを量りかごの下ではなく,燭台の上に据え,それは家の中にいるすべての人の上に輝くのです。>とあるけれど、一部屋しかないから一つの灯ですべての人の上に照り輝く。床は土で、屋根は植物を編んだござと粘土。家畜と一緒に住んでいることも多い。」
「となると、ルカ13:15に、<偽善者たち,あなた方はそれぞれ安息日に自分の牛やろばを畜舎からほどき,[水を]飲ませに引いて行くのではありませんか。>というイエスの言葉があるのですが、“畜舎”はおかしいということですか?」
「そのとおり。普通の家に“畜舎”なんかないよ。新共同訳では、“飼い葉桶から解いて”とあるけど、こちらが正しい。」
「小さな家でも泊めなさいといいながら、裕福な家の挿絵をのせる。矛盾した2つのメッセージのうち、どちらのメッセージが本当のメッセージなんですか?混乱しますね。」

「ものみの塔で気になるのは、テモテ第一3:2の、<監督は,とがめられるところのない人で,(略)人をよくもてなし,>が、引用されていないこと。ものみの塔を読むと、一般信者がもてなすことを主に要求されている。上の立場にある人こそ一般信者をもてなせと、なぜ言わないの?統治体のメンバーは一年にどれくらいの人をもてなしているのか知りたいね。」
「それは無理な要求ですよ。でも、6節で、<2011年,統治体は米国のベテル家族の「ものみの塔」研究の開始時間を午後6時45分から午後6時15分に変更しました。なぜでしょうか。その時の発表によると,家族研究が早く終われば,その後の時間に互いをもてなしやすくなるからです。>と、30分開始時刻を早めたことを、統治体の偉大な功績と宣伝しています。そして、末端の信者には、14節で、<人をもてなす時間やエネルギーはないと感じるかもしれません。もしそうなら,今のスケジュールを見直す必要があるでしょう。>と、何十時間も奉仕活動をさせた上に、さらに人をもてなせと要求しているのです。」
「この記事を書いた人は、世渡り上手な奴だ。必要もないのに統治体にゴマをすっている。JWは信者に対してどれだけ要求するんだろうね。もてなしたい人がもてなせばよいのじゃないの。でも、元の英文は、it may be that you need to examine  your current schedule of activities.で、今のスケジュールを検討する必要があるかもしれません、と控えめな言い方をしていてるのに、日本語版では過度に要求的になっている。」

「ところで、ペテロ第一は西暦62から64年ごろペテロによって書かれたと1節でありますけれど、本当ですか?」
「ペテロは、皇帝ネロの時代、64年に殉教したとされるから、ペテロが書いたとすれば、死ぬ少し前の時期だろうということだろう。」
「しかし、作者はペテロではない。」
「ペテロ第一のギリシャ語は、教育水準の高い人間のギリシャ語。ガリラヤの漁師で、使徒4:13によると、<無学な普通の人>であるペテロが書いたものではありえない。」
「でも、5:12では、<わたしは,忠実な兄弟であるシルワノを通し,(略)あなた方に少しの[言葉]をもって[手紙を]書きました。>とありますから、ペテロの意を受けてシノワルがギリシャ語で書いたと見なせるのでは?」
「文章は細部が重要なので、仮にペテロが大雑把な指示をアラム語で出し、シノワルがギリシャ語で文章を書いたとすれば、著者はシノワルだね。もしそうなら、シノワルは自分のあいさつを付け加えるはず。ローマ16:22に、<この手紙を筆記した私,テルテオも,主にあってあなた方にあいさつをお送りします。>とあるようにね。しかし、それがない。それから、シノワルが自分のことを自分で“忠実な兄弟”などと書くはずがない。ところで、シノワルって、パウロと一緒に活動していたシラスのことね。」

「内容も、イエスと苦楽を共にしたペテロならではというものはないですよね。もしペテロが書いたのなら、自分の主張の正当性を裏付けるためイエスとの個人的関係を持ち出すと思うのです。」
「ペテロ第一2:22-24でイエスの死についてこうある。<彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした。 彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁く方に終始ご自分をゆだねました。> これは詩編53章からの引用なんだ。しかもギリシャ語に翻訳された70人訳からの引用。この作者はイエスの死について具体的なことは何も知らないから、旧約聖書から引用するわけだ。しかも、ヘブライ語は知らないからギリシャ語訳から引用。」
「1:1の、<イエス・キリストの使徒ペテロから>という部分がなければ、だれもペテロが書いたなんて思いませんよね。」

#792 2018年05月28日 17:07:28

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“矯正 神の愛の証拠”で、文句を言わずに排斥や特権削除などの懲戒処分を受け入れろ、という内容です。」
「もてなしの次は矯正ね。Disciplineを矯正と訳したのね。ヘブライ12:6が引用されているけど、そこでは“エホバは自分の愛する者を懲らしめられる”と“懲らしめ”と訳しているのに“矯正”としたのはなぜなのだろう。矯正とは、欠点を直して正しくすること、という意味だけど、矯正教育というと、犯罪者を矯正する教育のことをさす。」
「ものみの塔は、信者を潜在的な犯罪者として見なしているので、矯正でいいんじゃないですか。懲らしめというと罰を与えるという面が強調されすぎると思ったのでは?辞書によると、懲らしめとは、制裁を加えて二度としないと思わせることです。」
「懲らしめがいいよ。ものみの塔は懲らしめが大好きなんだから。1節で、箴言の1:2-7と4:11-13が参照されているけれど、新世界訳では、この2つの部分で懲らしめが4回出てくる。新共同訳では、懲らしめではなく“諭し”だし、口語訳だと“教訓”。英語の聖書では、instruction(教え)が多い。懲らしめにしているのは、ものみの塔だけだよ。懲罰好きの体質だね。」
「懲らしめでも矯正でもどちらにしても、ものみの塔の記事が言っているのは、会衆内の問題のある人になんらかの制裁を加えるということですよ。6節で、<矯正には,助言を与える以上のことが関係します。>と言ってから、具体例として特権の削除、排斥をあげています。本当に信者にやさしい宗教です。」

「引用されているヘブライ12:6は、クリスチャンがなぜ迫害で苦しむかという問題を扱った部分で、組織内での矯正問題とは無関係。完全な誤用。」
「そうなんですか。クリスチャンの迫害がテーマなんですか?」
「ヘブライ12:4-13は、迫害をどのように見なすべきかについての説教だね。」
「始まりの4節は、<そうした罪と闘う点で,あなた方はいまだかつて血に至るまで抵抗したことはありません。>とありますが、どういう意味ですか?」
「罪と戦うというのは、クリスチャンを迫害する罪びとたちと戦うという意味。血に至るまで抵抗したことはない、というのはまだ殉教者を出していないということ。ヘブライ書が迫害の初期に書かれたことがわかる。」
「とうことは、“エホバは自分の愛する者を懲らしめられる”というのは、迫害は、神の愛という意味ですか?」
「ヘブライのこの部分の面白いところは、迫害を神からきていると想定していること。」
「良いことはエホバ、悪いことはサタンのせいとするJWの発想とは違うわけですね。」
「そういう安直な二元論はここではない。神がこの世界のすべての原因と考えれば、苦しみも神からきていると考えざるを得ない。そのうえで、なぜ苦しむかというと、神の教育的配慮だといっている。だから、新世界訳のように“懲らしめ”と訳するのは誤訳で、新共同訳のように、“鍛える”と訳すべき。12章は、スポーツの比喩が多く使われているからね。」
「新世界訳でも、12:7は<あなた方が忍耐しているのは鍛練のためです。>と、“懲らしめ”と訳するのをやめていますね。」
「ものみの塔によく出てくる、12:11の<確かに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず,>というのは、懲戒処分のことではなくてクリスチャンゆえの迫害のことを言っている。懲らしめは誤訳だよ。」

「7節に、<エホバから矯正を受けた2人の人を取り上げ,矯正の大切さを考えましょう。1人はヒゼキヤ王の時代のシェブナです。もう1人は現代のグレアムという兄弟です。>とあるのですが、グレアムという男性はエホバから矯正を受けたことになっているので驚きました。グレアムは排斥され、不満に思っていたけれど、反省して、復帰したという話なのですが、一会衆の長老たちの決定をエホバの決定と信者に思い込ませようとしていますね。」
「14節に、<グレアムはやがて会衆のマイク係を割り当てられました。とても感謝していました。>とある。悲しくなる記事だね。一人前の男がマイク係という子どもでもできることを割り当てられて感謝する。信者をどこまで卑屈にすれば気が済むのだろうね。お前にはプライドはないのかとグレアムに問いたいね。」

「シェブナの話はどうですか?シェブナについて聖書に書かれていることは、はじめ高い地位にあったけれど、その地位から降ろされて、後に書記として登場することだけですが。」
「シェブナの短い話を無理やり教訓話にしようと、単なる推測で記事を書いている。“~でしょう。”とか、“かもしれません”で、文が終わっている。“そうじゃないかも”と言われたら、どう反論するの?反論を許さない組織だから、反論されることなど想定して文章を書いていない。だから、独りよがりの何の説得力もない文章になる。」
「推測で膨らませたシェブナの話から、3つの点が学べますといっていますが、説得力ないですね。ここでいう矯正とは、要するに、地位を奪う、特権を奪うということなんですね。」

「シェブナについて、イザヤ22:19-21が参照されている。その前と後が問題の部分なんだけど、ものみの塔はそこは避けているね。」
「前というと、18節の、<[神]はあなたを広い地のための球のように必ずしっかりと包む。そこであなたは死に>ですか?どういう意味ですか?」
「新世界訳ではわかりにくいけれど、シェブナはアッシリアに連れていかれて、そこで死ぬという予言。しかし、実現しなかった。」
「後の方の問題の部分というと、23節の、<わたしは彼を永続する場所に掛けくぎとして打ち込むであろう。彼はその父の家にとって必ず栄光の王座となる。>ですか?」
「そう。簡単に言うと、エリアキムを高い地位につけるという約束ね。ところが25節で、<永続する場所に打ち込まれるその掛けくぎは取り除かれ,それは切り倒されて落ち,それに掛かっている荷は切り断たれる。>と、あっさりそれを否定する。」
「ということは、24,25節は後世の加筆ということですか?」
「そうだろうね。エリアキムはその後没落したのだろう。それでつじつまを合わせようと加筆した。旧約聖書は、いろんな人が加筆しながら今の形になっている。よくあることだね。」

#793 2018年05月30日 17:39:58

忠野仁
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ものみの塔の記事って、推測が多いよね。そして、その推測に基づいて結論を導いている。これだと、どんな結論でも導くことが可能となってしまう。聖書に基づいているようで、実は基づいていない。読者は、このおかしな文章に気づかないのだろうか?

あと、論理のすり替えもたまに見受けられる。これは、よく読みこまないと気づかない。

#794 2018年06月04日 17:21:25

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“懲らしめに聴き従って賢くなれ”で、自分を矯正し、子どもを矯正し、長老が矯正しやすいように卑屈な態度をとるように、最後に、矯正を退けるなら悲惨な結果を招くぞと、脅かして終わりです。」
「そのタイトルは箴言8:22,23からの引用だけど、“懲らしめに聞き従え”というのは日本語として変だよ。“懲らしめに従え”でしょう。でも、ここで使われている動詞は“聞く”という意味なので、それを省略するわけにはいかないんだよね。」
「新共同訳では、”諭しに聞き従って知恵を得よ。”ですね。“諭し”だから”聞く”という動詞なわけで、“懲らしめ”とへんな訳をしたのがいけないわけですね。誤訳のつけですね。」

「 Self-disciplineという語が出てきているけど、“自分を矯正する”とへんな訳にしている。普通は“自己訓練”とか“修養”と訳する。自分を鍛えて、優れた人格を形成するように努めることだ。“自分を矯正する”と訳するとその意味が伝わらない。そのため、今週のものみの塔は訳が非常に不正確。責任者出てこい、と言いたいね。」
「例えば?」
「4節の、Self-discipline is an important part of that growth. を、“新しい人格を身に着けるためには,自分を矯正しなければなりません。”と訳している。原文無視だね。自分で作文している。一つ一つ指摘していったらきりがないけど。」

「1節で、ヤコブ1:5を引用して、<神から知恵をいただく方法の一つは,神の矯正を受け入れることです。>と続きます。ところがヤコブ1:5にはそんなことは何も書いていないのです。引用した聖句とものみの塔の主張が一致しないという例ですね。」
「今日のテーマは“懲らしめに聴き従って賢くなれ”だから、懲らしめと知恵を無理にでも結びつける必要があるのだろう。それが執筆者の力量不足でうまくいっていないわけだ。」
「賢いとか知恵があるとはどのような意味なのですか?」
「聖書の言う知恵は、人生の中でいろいろな選択に迫られたとき神と同じような選択ができることだね。実際的なもので、抽象的で理論的なものとは違う。そのようなものだから、ヤコブ1:5にあるように、<あなた方の中に知恵の欠けた人がいるなら,その人は神に求めつづけなさい。神はすべての人に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです>となる。それから、愚か者とは不信心な者という意味で、頭が悪いというようなことではない。」
「確かに旧約聖書を読んでも、神とは、宇宙の始まりとは、正義とは、悪とは、といった高度に抽象的で理論的な話は出てきませんね。」

「12,13節で、排斥された娘とその親の話が出ている。その親子は全く関係を断ったようだけど、おかしいね。家族は家族じゃないの?」
「JW.orgの“よくある質問”の、“エホバの証人でなくなった人を避けますか”では、“家族としてのきずなはかわりません。結婚関係,家族の愛情やかかわりは続きます。”と書いていますけど、それをものみの塔の記事で否定しているわけですね。JWによくある二枚舌です。」
「12節で“出版物を調べて,娘や孫と会うための口実を探しました。”とあるけれど、これもおかしいね。出版物って、決して頭が良いとは言えないJWが書いたものだよ。そんなものを調べるのではなくて聖書を調べるべきじゃないの。組織の奴隷だね。それから、孫にもあってはいけないの?排斥されたのは娘だよ、その子どもにもあってはいけないなんて、出版物に書いているの?」
「知らないですね。」
「夫のアドバイスが、“娘は自分たちの手を離れているのだから,エホバの取り決めを尊重しよう”と訳されているけれど、元の英文は、“our child was now out of our hands and that we must not interfere.”で、“子どもは今や私たちの手から離れているし、干渉すべきではない”だよ。“エホバの取り決めを尊重しよう”なんて言っていない。訳した人は干渉すべきと思っているんだろう。命がかかわっていますなどと、いってね。それで訳を変えた。統治体に対する不服従だね。」
「JWから離れた娘に干渉するな、と言ったのですか。この夫はJWの教義を本当は信じていませんね。JWの教義からしたら、戻ってくるようしつこく干渉するのが正しいと思いますけど。」
「そうだね。ペテロ第二3:9を引用して、“神は一人も滅ぼされないことを願っておられます。”と13節にある。干渉しなければ、排斥された子どもをどうやって救うつもりなの?JWの教義だと、排斥された人は滅ぼされるのでしょう。」

「18節で、“カインがアベルに激しい憎しみを抱いた時,神はカインにこう警告しました。「なぜあなたは怒りに燃えているのか。”とありますが、カインはアベルに憎しみをいだいたのですか?事件の発端は、エホバがカインの捧げものを理由もなく嫌ったからじゃないですか。それにもかかわらず、“なぜあなたは怒りに燃えているのか。”と間抜けなことを聞くエホバに怒りを感じたんじゃないですか?」
「カインは神様に怒りを感じたのだろう。カインの殺人もエデンの園の物語も原因を作ったのは神様。カインの話では、神様が捧げものを無視したのが発端だし、エデンの園では、神様が理由もなくへんな木を植えたのが物語の発端。そして、人間が悪いことをすると、エバに向かって神様は、“あなたがしたこの事はどういうことなのか”3:13といい、カインに向かっては、“あなたは何をしたのか。”4:10と同じように驚いている。神様は人間が悪事を働くとは予想していないかのようなんだ。神様は人間を全く理解していない。」
「カインとアベルの話は、エデンの物語と並行関係にありますが、こちらの方は全く後味が悪いですよ。エホバが非常に不公平だからです。アベルはあっさり殺され、子孫も残していない。一方殺人者のカインは神様の保護のもと、結婚をして子孫を残し、都市を建設し、それなりに充実した人生を送る。この話に正義や公平の感覚が欠けています。」
「現代人ならそう考えて当然だ。ひどい話だね。旧約聖書の神様に公平や正義を期待しても無駄だけど、この話に積極的な主張があるとすれば、神様のすることは不条理で理解しがたい、にもかかわらず人間は神様を信頼するしかないんだ、ということだろう。古代では無神論はあり得ないからね。」
「新約聖書では、アベルは信仰の人と描かれていますが、創世記にはそのようなことは一切書いてないですよね。」
「のちの時代の解釈だね。」

#795 2018年06月11日 17:09:41

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“本当の自由を得る”というもので、アダムとエバの物語を限りなく拡大解釈して、人間は神に従っている限り自由だけど、逆らったら自由じゃないと主張しています。そこから、現代の人間はJWの組織に従っている限り、将来自由になるが、逆らったら自由じゃないと主張したいようです。」
「自由について論じているわけだけど、大学1年生のレポートより下のレベルだね。引用しているのが、ワールドブック百科事典だよ。小学生みたい。それから、ある聖書学者の言葉。出典は不明。」
「信者に自由を認めず、髪形や服装にまで口出しし、奇妙な指示でも従え、と要求するJWが自由を論じるなんて、グロテスクですね。自由の価値なんて少しもわかっていない組織でしょう。」
「4節で、“アダムとエバは,今日の人々がなかなか得られない自由を楽しんでいたことが分かります。貧困,恐れ,圧制からの自由です。食べ物や仕事や病気や死について心配する必要はありませんでした。”とあるけど、ものみの塔が神の真の組織なら、なぜこのような自由を得られないのか、疑問に思ってほしいね。」
「JWには、貧困,恐れ,圧制からの自由はありませんし、食べ物や仕事や病気や死について心配はつきないでしょう。これらは、JWの教義がもたらしている面が大きいですよ。」

「ものみの塔の議論の組み立て方はストローマン(わら人形)論法だ。おかしいね。」
「ストローマンというのは、別名架空論法というものですね。実際には存在しない架空のおかしな主張を取り上げて、それを攻撃し、自分の主張が正しいと思わせる詭弁のことですね。」
「例えば2節、“多くの人は社会的,政治的な変化を求めて,反対運動やデモや暴動や革命といった手段に訴えています。”、5節では、“今日多くの人にとって本当の自由とは,結果を気にせず自分のしたいことを何でもすることです。”、10節では、“アダムはエホバからこの命令を与えられたことで,自分のしたいことをする自由を奪われた,と言う人がいます。そのように言う人は,自由意志と,何が良いことか悪いことかを決める権利を混同しています。”」
「多くの人はそのようなことをしていませんし、考えていませんね。ストローマンをでっちあげています。ものみの塔によく見られる論法ですね。」

「統治体は、多くの人は無制限の自由を求めて革命運動をしていると思っているようだね。現実と妄想の区別がつかないみたいだ。それにしてもアダムとエバの話が好きだね。旧約聖書では、エデンの園の物語について論じられることは一度もないし、アダムのことが引用されるのは、家系図を除くと、新世界訳では一度もない。新共同訳だとヨブ記31:33とホセア6:7だけだ。」
「旧約聖書の中では、エデンの話とかアダムがあーした、こうしたなんていうことは誰も関心を持っていないわけですね。アダムとエバのイラストですが、エバの眉毛って自然な眉毛に見えませんし、爪もきれいに誰かに磨いてもらっているみたいです。エバ専用の美容院があったのでしょうね。美容師はアメリカ人ですね。」
「アダムだって利用していたよ。髭が見事でしょう。アダムが木の実を持っているイラストには乳首が描かれている。アダムに乳首があるというのがJWの見解なんだ。生物学的にはない可能性の方が高いでしょう。」
「アダムは通常の人間のように子宮内での発生過程を経ずに、作られたので、乳首やへそといった不要なものは体にないということですよね。」

「9節で、創世記2:17の“善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである”というエホバの言葉が引用されています。でも、アダムとエバは実を食べたその日に死にませんでしたよね。アダムは930歳まで生きています。エホバは嘘をついたということですか?」
「神様が嘘つきじゃ困るでしょう。よくある解決策は「その日」と言う言葉を文字通りに解釈する必要はないとするもの。しかし、3:5「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」という蛇(サタンじゃないよ)の言葉なんだけど、原文は、ここでも「食べたその日に」なっていて、実際食べると「眼が開けた」のは、確かにその日なの。蛇の言葉は字義通り、神様の言葉は字義通りでなくてもいいというのは、筋が通らないよ。」
「「死ぬ」というのは「死ぬべき存在になる」という意味と解釈するのはどうでしょうか?不死じゃなくなるという意味とするのです。」
「しかし、「死ぬ」と言う単語が、旧約聖書の他の部分でそのように使われた例はない。さらに、その解釈が成立するためには、人間はもともと不死でなくてはならないけど、そうではない。命の木の実を食べたら不死になる可能性があったというだけ。」

「そうなんですか?12節で、“アダムとエバは神の指示を無視し,自分の望むとおりに行動しました。その結果,いわば墜落して,自分たちと子孫に罪と死をもたらしました。(ロマ 5:12)”と言っていますよ。参照されているロマ5:12を読むと、人間の不服従(罪)によって人間は死ぬ存在になった、それまでは不死だったとパウロは考えているようですけど。」
「 創世記3:22で「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」と神様は言って、人間をエデンから追放。これは、神様は人間を不死なものとして創造していないこと、禁止を破った時点でも人間は不死になりえたことを意味していると解釈できる。それで命の木の実を食べて不死にならないようエデンから追放し、ケルビムをおいて守らせた。人間がもともと不死だったら、命の木をなぜ置かなくてはならないの?神様は、いい子にしていたら不死にしてあげるつもりだったかもしれないけど、人間も他の動物と同じ死ぬ存在として創造したというのが、研究者の間では多数説になっている。」

「アダムとエバが禁断の木の実を食べたその日に死ななかったのは、エホバが自分の言ったことを忘れたからと考えるのはどうでしょうか?」
「それが一番いい答えかも。」

#796 2018年06月15日 17:55:51

ジョエル
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

~安息日を守るユダヤ人と原罪クリスチャンの会話~


「食べる『日』に『死ぬ』にはヘブライ語ではそれ以上も、それ以下の意味も、付け足しようがないよ。」

「神は自分の言った通りにしなかったことになるよ?」

「そうだよ。パウロもそうだけど、君たちクリスチャンは聖書を信じるとは言うが、創世記に書いてあることを解釈して押し付けるばかりで、ありのままに読めないのかい。」

「じゃあなんで言う通りにしなかったの?ユダヤ教ではどんな解釈なの?」

「人の解釈に意味も興味もないし、僕に聞かれても困るよ。あえて言うなら、神はunpredictable(気まぐれ)だからね。」


そういう答えもあるみたいです。

#797 2018年06月18日 17:11:52

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“自由の神エホバに仕える”というもので、最後の節に要点がこう書いてあります。“自由を誤用するのではなく,エホバにできる限り仕えるために用いましょう。” 要するに、自由があると思うなよ、組織の命令に従え、ということですね。」
「サッカーのワールドカップの試合の録画を見ようかなと思っていたところなんだけど。記事をざっと読むと、高等教育はダメ、贅沢するな、奉仕活動に専念せよ、建設プロジェクトに参加せよ、こんないつものメッセージがみられるね。となると、エホバは自由の神じゃなくて自由を認めない神だ。JWは北朝鮮国民程度の自由もないように思える。ところで、自由の神エホバなんてどこから来たんだろう?」

「2節に、“「エホバは霊です。 そしてエホバの霊のある所には自由があります」。(コリ二 3:17)”とありますよ。4節には、“「エホバの霊のある所」には自由があります。その自由を楽しむためには,「転じてエホバに向かう」必要があります。エホバとの親しい関係を持たなければならないのです。”と解説しています。」
「コリ二3章からきたの?そもそも新約聖書にエホバなんて出てこないよ。kyrios(主)をエホバと恣意的に訳しているのは新世界訳だけだよ。聖書の改ざんだ。パウロはエホバなんて関心はなくキリストについて論じているというのが、パウロの手紙を理解する上での大前提だから、それを否定してしまうと解釈は滅茶苦茶になる。」
「JWはキリスト教ではなくエホバ教という新種の宗教ですから。コリ二3章12節から18節がひとまとまりだと思うのですが、そこではベールを掛けたとか、ベールが取り除かれるとか、書いていますがどんな意味なのですか?」
「ここは出エジプト記34:29-35に対するパウロの注釈だね。モーゼと自分を対比しているわけだ。モーセはベールを掛けた、しかしパウロたちはそんなことはしないと。」
「出エジプト記のその部分は、モーセが神様と話をして帰ってきたら、顔から光が出ていて、それでベールを顔にかけたという部分ですよね。この部分がもとになって、モーセの彫刻には角があるようになったと聞いたことがあるのですが。」
「光を放つと訳されているqaranは角があるという意味がある。カトリックで使われていたラテン語の聖書はそう訳していた。そんなわけで、有名なミケランジェロのモーセ像にも2本の角がある。現在、角と訳している聖書はないでしょう。」

「そのベールがパウロ時代のユダヤ人の心にもあるとパウロは言ってから、コリ二3:14で、それは“キリストによって除き去られるもの”といっていますね。」
「そうだね。それを受けて3:16がきて、新世界訳だけが“エホバに向かうとき、ベールは取り除かれるのです。”とエホバが出てくる。」
「14節でキリストによって取り除かれるといっているわけですから、16節のkyrios(主)はエホバじゃ矛盾してしまうことに気づかないのですかね。キリスト以外ありえないでしょう。」
「当然、今日の聖句である3:17も、“エホバは霊です。 そしてエホバの霊のある所には自由があります”も、キリストのことを言っているのでエホバと訳してはダメね。というわけで、エホバが出てくる新世界訳をもとにした新約聖書の話は、でたらめだらけだ。読むのが苦痛だね。」

「ものみの塔の真ん中あたりからは、いつもの陰気なお説教ですね。」
「8節に、“広告業界は魅力的なタレントを使って,実際には必要のない物を買わせようとします。そのようなわなに掛かって自由を誤用することのないようにしましょう。”とあるけれど、広告業界の真似をしているのがJWという自覚がないみたいだね。JWの提供する宗教こそ必要のないものでしょう。」
「10節の“わたしたちの自由は相対的なものであり,どんな決定にもそれなりの結果が伴う,ということを忘れてはなりません。”というのもJWにこそ当てはまりますよね。JWになるという決定が、ひどい結果をもたらすことを忘れてはなりませんと書いて欲しいです。」
「13節もそうだよ。“今日,ほとんどの人たちは事物の体制の神に思いをくらまされ,宗教的,経済的,社会的に束縛されています。”とあるけれど、束縛されている度合いはJWの方が大きいでしょう。」
「8節の引照聖句のペテロ一2:16は、“自由の民らしくありなさい。ですが,あなた方の自由を,悪の覆いとしてではなく,神の奴隷として保ちなさい。”は、自由を誤用するなという意味なのですか?」
「ちがうよ。聖書の中で自由が語られるときは奴隷制を背景にしていることを理解する必要がある。“自由の民らしくありなさい”というのは、かりに奴隷であっても、クリスチャンなら自由の民らしく振舞いなさいという意味で、自由の誤用などという贅沢なことを問題視しているわけじゃない。ローマ帝国内の初期クリスチャンの状況はそんな生易しいものではないからね。」

「12節では、ノアの家族がまた登場しています。ノアの話はJWの大のお気に入りですね。」
「“箱船を建造し,自分たちと動物のための食糧を蓄え,人々に警告を与えたのです。”とあるけれど、創世記6章には、警告を与えたなんて書いていないよ。」
「ペテロニ2:5の“義の伝道者ノア”から来たんでしょうね。新共同訳では、“義を説いていたノア”と訳していますけど、JWとしてはなんとしてもノアが伝道したことにしたいわけですよ。いつもの教義優先ですね。」
「創世記6:13では、神様は、“いま,わたしは彼らを地と共に滅びに至らせる。”とはっきりノアに告げている。警告を与えて、悔い改めたものは船に乗せろ、なんて言う考えは神様にはない。あるのは皆殺し。」
「ノアの箱舟は余計な人間を乗せるスペースはないでしょう。聖書にある箱舟のサイズは、、動物たちを乗せるには狭すぎる一方、木造船として大きすぎるというどっちつかずのものです。神話だからどうでもいいんですけど。かりに伝道して、乗せてくれと言われたらどうするのでしょうね。困りますよ。神様の意志は全滅なんですから。余計な伝道活動などせず、黙々と箱舟を作ったと思いますね。」

#798 2018年06月19日 09:24:36

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「そもそも新約聖書にエホバなんて出てこないよ。kyrios(主)をエホバと恣意的に訳しているのは新世界訳だけだよ。聖書の改ざんだ。パウロはエホバなんて関心はなくキリストについて論じているというのが、パウロの手紙を理解する上での大前提だから、それを否定してしまうと解釈は滅茶苦茶になる。」
「JWはキリスト教ではなくエホバ教という新種の宗教ですから。」

初めはキリスト教だったのが、いつの間にか変異して新種エホバ教になりましたね。それでも環境に適応して生き延びているのですから立派なものです。

オフライン

#799 2018年06月19日 19:16:12

iris
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ものみの塔に引用されているコリント第二3章から

神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
(コリントの信徒への手紙二/3章6節)

霊よりも文字に仕え続けている人々が、世界中にどれほどたくさんの悲劇をもたらしてきたことでしょう…

正統に固執せず、多様な解釈を認めてきた仏教の圧勝です cry

オフライン

#800 2018年06月20日 08:16:22

さやか666
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

皆さんご存知かと思いますが 国民的な人気漫画ドラえもん

主人公?のロボット、ドラえもんはネズミが嫌いなんですね

ネットより引用します

***藤子・F先生は、メインキャラクターに苦手を設定しておくとそのキャラクターが活きて話が面白くなる、との考えを持っていた。犬嫌いという属性が有名となった『オバケのQ太郎』の成功が、藤子・F先生のその考えを確固たるものにしたのだろう。***


ではユダヤ人がヤハウエのキャラ設定するときに偶像嫌いにしたのは何故なのでしょうか、偶像嫌いキャラが明らかになった後でそのキャラクターが活きてストーリーが面白くなったでしょうか?それとも他の作品のパクリ?

「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる」


ヒューマノイドと呼ぶらしいですが口も耳も目も手も足も喉も鼻も 計測・通信・制御・機械・ソフトの技術で全てを克服した偶像を作れそうなんですけどね。


マサチューセッツあたりの教会でヒューマノイドマリアちゃん像作ったらどうでしょうか? 目から血を流すくらいじゃ話題性も乏しいでしょうから

クィック投稿

メッセージを書いて送信してください。

Board footer