ログインしていません。

#851 2018年04月13日 15:03:17

万年研究生
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問さん

丁寧に回答いただきありがとうございます。

いつも読ませていただいておりますがとても勉強になります。

#852 2018年04月15日 14:35:46

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「それでサウル王は別の娘ミカルの婚姻に際しては、
18:25で<フィリスティア人の百の包皮>でいいよといったわけですね。
日本風に言うと100人の首を取ってこい、
それで婚姻費用はなしにしてやるということですよね。
本当の狙いは戦死させることですが」
「ところが、ダビデはその条件をなぜか承諾し、
200人分の包皮を持ってきて、めでたくミカルと結婚している。
このダビデのどこが謙虚なんだろうね」
「敵の兵士の包皮を取るって、実際にはどのようにするのでしょうかね」
「これは史実ではないよ。まじめに考える必要はないよ」

聖書についての質問さん、
いつも読み越えのある説明をありがとうございます。

上記の部分ですが、
史実ではないので真面目に考える必要はない、
ということですが、どのような根拠でそういえるのでしょうか。

実のところ実際の出来事でないほうがわたしは安堵します。
ですが、現役のころからその記述のは当惑され続けていました。
ダビデがフィリステア人200人を殺害して、
手術まがいのことをし陰茎の包皮200人分を
サウルに差し出したということです。
ダビデはミカルを妻にするためそのようなことをしました。
現在の感覚からすると、一人の女性を妻にするため、
200人の男性を殺害したわけです。
彼らにも家族がおり、妻や子どもがいただろうと思います。
そうした残酷ともいえる行為をしていても、
ダビデは聖書の中で「義人」と呼ばれ、
エホバの目にかなう人物として評価されています。

ダビデは神殿を建設することを神に願いますが、
戦士として血を多く流したので、
それを認めてもらえなかったことが記録されています。
ダビデは果たして義人なのでしょうか。

この話を現役JW長老にしたところ、
彼は洞察の本のフィリステア人の項目を
コピーして持ってきたのです。
彼が言うにはフィリステア人は神の敵だから、
殺害してもいいんだということでした。

わたしはこれが非常に恐ろしい理屈だと思いました。
というのは、もしJW以外の宗教に属する人たちが、
JWは自分たちの宗教の神の敵だから、
自由に殺害してもいいんだと考えて、
実行したらどうでしょうか。
お互いを自分たちの神の敵として扱い、
殺戮を正当化しているようにしか思えません。

こうした疑問について非JWの牧師関係者にも質問したのですが、
はっきりした答えはありませんでした。

聖書についての質問さん並びにほかの方で、
この問題について正しい見方をご存じであれば、
ぜひ知らせていただきたいのですが…。

よろしくお願いします…。

オフライン

#853 2018年04月16日 17:02:07

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

ラハムさんの質問に2つだけお答えします。あとの質問は意味がよくわからないのです。

①    「史実ではないので真面目に考える必要はない、ということですが、どのような根拠でそういえるのでしょうか。」

ダビデが成り上がっていく過程がサムエル記第一に書かれているわけですが、サムエル記は、宗教的な歴史小説のようなもので、歴史書ではありません。歴史書としてみた場合、おかしな点がたくさんあります。例えば、有名なダビデとゴリアテの戦いの様子は、ダビデが生きていた時代よりずっと後の時代のものです。日本風に言えば、源氏と平氏の戦いの物語に数百年後の戦国時代の鎧兜と武器を身に着けた兵士が登場してきたようなものです。

サムエル記の目的は、ダビデ王朝の弁護です。ダビデは無法者で、脱走兵で、フィリスティア人の傭兵で、サウル王の死を利用して王位についただけの男なのですが、それを神によって選ばれた油注がれた王であり、その王朝は永遠に続くのだというふうに美化し、ダビデ王朝の正当性を主張するものです。

しかし、興味深いのはその弁護にあまり成功していないことです。サムエル記のダビデは戦いには強いが、モラルの欠けた日和見主義者にすぎません。サムエル記は、本来なら北朝鮮で指導者について描かれるような、政治的プロパガンダのはずですが、そうならず、歴史小説に似てきています。

②    「ダビデは神殿を建設することを神に願いますが、戦士として血を多く流したので、それを認めてもらえなかったことが記録されています。ダビデは果たして義人なのでしょうか。」

答えは、いいえです。目的達成のためには人殺しも平気な男です。

戦争行為のゆえに神殿建設を認められなかったというのは、列王記第一5:3に書いてありますが、サムエル記第二7章では、違うことが書いています。6節で神様は、<わたしは,イスラエルの子らをエジプトから連れ上った日より今日まで家に住んだことはなく,いつも天幕,すなわち幕屋の中で歩き回っていたのである。>といい、7節では<『あなた方はなぜわたしに杉の家を建てなかったのか』と言った言葉が一言でもあっただろうか>といいます。要するに神様はテントが好きだから、神殿はいらないよ、といっているのです。これは史実として神殿はソロモン時代にできたということがあって、なぜそうなのか、その説明として2通りあったことを示しています。列王記のほうが、道徳主義的で後世の歴史家(いわゆる申命記史家)の解釈でしょう。サムエル記では、宗教の連続性を重視して、従来のテントのままにしたという説明になります。こちらのほうが本来の説明だと思います。戦争が悪だなんていう思想は当時はありません。血を流したゆえに神殿建設ダメというのは、その当時の発想ではないでしょう。

#854 2018年04月16日 17:10:02

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“あなたはノア,ダニエル,ヨブのように,エホバをよく知っていますか”というもので、先週の続きですが、執筆者の妄想全開という内容でしたね。」
「正確なタイトルは、“あなたは統治体のように、エホバをよく知っていますか”だろう。それにしても、ノアってよくものみの塔にでてくるよね。」
「終末論が欠かせないものみの塔ですから、ノアの話はいろいろ利用しやすいのですよ。」

「ノアって、新約聖書では偉大な人物になっているけれど、実は創世記ではそうでもないよ。創世記6:9では、新世界訳では、<ノアは義にかなった人であり、同時代の人々の中にあってとがのない者となった。>となっているけれど、これは誤訳で、新共同訳にあるように、<その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。>と訳すほうが正しい。」
「“同時代(その世代)の”が一部にかかるのか、全体にかかるのか、の違いですね。」
「ノアは最低のダメな世代のなかでは偉い人だったというのがこの聖句の趣旨。別の世代だったらそれほどでもないよ、という言外の意味が含まれている。聖書以外の洪水物語の主人公はもっと活躍するけれど、ノアは従順なだけで何の個性もない。ところが、ノアを持ち上げまくっているものみの塔としてはそれでは困るので、あのような訳にしているのだろう。」
「確かに、洪水後のノアは単なる酔っ払いですね。世界の終わりを見たノアが、洪水には溺れなかったけれど、酒に溺れたというのが、不思議なくらいリアルな展開ですね。」
「ハルマゲドンの戦いで人類の99.9%が死ぬにもかかわらず、そのあと何もなかったかのように楽園で楽しそうにしているというものみの塔の想像図は、創世記よりもリアリティーがないことがわかるね。」

「創世記6:9 に戻りますが、正しい訳は“同時代”ですか、それとも“その世代”ですか?ものみの塔では、終末予言の関係から”世代“という語には神経質になっていると思うのですよ。」
「どちらでもいいと思うよ。でも出エジプト記1:6<ついにヨセフは死に,また彼のすべての兄弟とその世代のすべての者たちも[死んだ]。>の“世代”と訳している語と同じ単語だよ。」
「その聖句は、ものみの塔にはものすごい重要な聖句です。この聖句をもとに、二つの重なる世代という衝撃の珍説を導き出したのですから。ここで世代と訳しているのなら、創世記のほうでも、“同時代”ではなく“同じ世代”と訳すべきでしょうね。」
「そうすると”世代“は同時代の人々という意味になってしまって、重なれば80歳でも3歳でも同じ世代というものみの塔流の珍説が成立しなくなる。ここは世代以外の訳にしておく必要がある。教義に合わせて聖書を翻訳するというのはものみの塔の方針でしょう。」
「聖書よりも教義のほうが大事ですから。」

「3節に、<大切なのは,神についての正確な知識を得ることです。>とあるけれど、なぜそんなに知識を強調するのか理解できないね。」
「統治体は、最近のJWは、知識の点でだいぶ以前より見劣りする、と判断しているからじゃないですか?」
「でも、聖書に出てくる多くの人は正式な教育を受けたことなどないよ。彼らはその信仰心と勇気で神に選ばれている。女性はみんなそうだ。」
「旧約ではルツなんかそうですよね。ルツの子孫からダビデが生まれる。新約ではイエスの母マリアですね。」

「高度な教育を受けたとされた人はたいてい異教の地での教育だし。」
「モーセはエジプトで教育を受けたことになっていますし、今回取り上げられているダニエルはバビロンで教育を受けたことになっています。ダニエル1:4を見ると、<カルデア人の読み書きと国語>を教えられたようですね。カルデア人ってなんですか?」
「カルデア人については2通りの見方がある。ひとつはバビロニア人全体を指すという見方。もう一つは特殊な社会集団、つまり天文学や魔術や占いなどの専門知識をもった集団を指すという見方。保守的な人は前者で、そうでない人は後者の見方をとる。ダニエル5:11で、王妃がダニエルのことを、<魔術を行なう祭司,まじない師,カルデア人,占星術者たちの長>と呼んでいる。どういう人かわかるよね。」
「ダニエルが学んだのが、怪しげな魔術や占いに関する書物だったら、ものみの塔としては困ってしまいますよね。それはサタンのものだと教えているわけですから。」
「ダニエルは、王の夢の解釈や、壁に書かれた文字の解読をしているから、特殊な技能集団の教育を受けた一員とみなせるね。ダニエル1:5で、<三年のあいだ彼らを養い>とあるから、3年間教育受けたようだけど、バビロニアの文字はいわゆる楔形文字で数百の種類があって、それを覚えるだけでも3年では無理だろう。」

「13節で、ダニエルの6章が取り上げられていています。ダニエルが30日間王以外のものに祈ってはならないという王の禁令を破ってエルサレムの方向に向かって祈ったので、ライオンの穴に投げ込まれたけれど、なんともなかったという話です。」
「ところが、ダニエルを訴えた男たちは家族もろともライオンの穴に入れられて皆殺し。いかにも大昔のお話だね。まずこの時の王様は、メディア人ダリウス62歳となっている。そんな王様は歴史上存在しない。ダニエルは三人の高臣の一人とあるけれど、便宜的に高臣と訳されている役職(sarak)は歴史上存在しない。聖書外のダニエルの記録も一切存在しない。王以外のものに祈ってはならないというバカげた法律が作られたという記録もない。ダニエル書の1から6章は、歴史のように書かれたお話だよ。7章以降は予言のように書かれた歴史ね。」
「この王様はあり得ないくらいいい人ですよね。そして無力。」
「宮廷陰謀物語によくある人物設定。6章は、ダニエルの信仰が主題ではない。ダニエルは外国人でありながらバビロニアで異常な出世をした。それをねたむものがたくさんいて、陰謀を企てたけれども、神の力で守られたというお話。祈りはそのプロットの中での材料に過ぎない。このお話で重要なのは、悪いのは妬む家臣どもであって、王ではないという政治的メッセージ。ダニエル書は外国の支配に対して抵抗するのではなくて、積極的に貢献することによって、ユダヤ人の地位向上と信仰が守られるという立場で書かれている。そうしていればやがて神様が外国を打ち負かしてくれると信じているからだ。」
「ユダヤ人の多数派はそうではなくて、結局は武装闘争を選ぶわけですね。」

#855 2018年04月16日 18:31:30

out/loser
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

もしもノアが義にかなった人でなければ私達は全滅しているってことにならない???
ノアとノアの息子、妻、息子たちの妻、ノアを除いての「ノアの妻と息子たちの妻」はその当時の悪の対象にならなかったのか???ただ単に家族ぐるみのようにしか思えない。それにノアの箱舟は誰が舵をとったのか疑問です。

オフライン

#856 2018年04月17日 16:27:17

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

ダビデが成り上がっていく過程がサムエル記第一に書かれているわけですが、サムエル記は、宗教的な歴史小説のようなもので、歴史書ではありません。歴史書としてみた場合、おかしな点がたくさんあります。例えば、有名なダビデとゴリアテの戦いの様子は、ダビデが生きていた時代よりずっと後の時代のものです。日本風に言えば、源氏と平氏の戦いの物語に数百年後の戦国時代の鎧兜と武器を身に着けた兵士が登場してきたようなものです。

サムエル記の目的は、ダビデ王朝の弁護です。ダビデは無法者で、脱走兵で、フィリスティア人の傭兵で、サウル王の死を利用して王位についただけの男なのですが、それを神によって選ばれた油注がれた王であり、その王朝は永遠に続くのだというふうに美化し、ダビデ王朝の正当性を主張するものです。

しかし、興味深いのはその弁護にあまり成功していないことです。サムエル記のダビデは戦いには強いが、モラルの欠けた日和見主義者にすぎません。サムエル記は、本来なら北朝鮮で指導者について描かれるような、政治的プロパガンダのはずですが、そうならず、歴史小説に似てきています。

②    「ダビデは神殿を建設することを神に願いますが、戦士として血を多く流したので、それを認めてもらえなかったことが記録されています。ダビデは果たして義人なのでしょうか。」

答えは、いいえです。目的達成のためには人殺しも平気な男です。

聖書についての質問さん、
ダビデについて詳しい説明をありがとうございました。
旧約聖書に記述されている彼の物語を素直に読むのであれば、
聖書についての質問さんが説明してくださったとおりだと思います。

その一方、新約聖書のほうではダビデを信仰の人として、
好ましい扱われ方をしているように読めるだろうと思います。
ダビデの行動についてどのように解釈するのかは、
聖書に対するそれぞれの人のスタンスによるのだということが、
よく理解できました。

これからもよろしくお願いします。

オフライン

#857 2018年04月17日 16:51:37

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

聖書についての質問 さんの発言:

「創世記6:9 に戻りますが、正しい訳は“同時代”ですか、それとも“その世代”ですか?
ものみの塔では、終末予言の関係から”世代“という語には神経質になっていると思うのですよ。」

最近気になることがあり、マタイ24:34などで訳されている
「世代」という言葉がものみの塔発行の王国行間逐語訳ではどのような英単語が
ギリシャ語の単語の訳としてあてられているのか調べてみました。
それは「age」だったのです。
ギリシャ語の意味は知りませんが、普通に「age」というなら
「時代」という意味になり、世代とはずいぶん違うように思います。
ものみの塔は王国行間逐語訳を1969年と1985年に発行していますが、
それこそ現在の若い世代のJWたちはほとんど知らないでしょう。
Webでは無料でダウンロードできるところもありました。
JWが日ごろ使う新世界訳では意図的に誤訳している箇所でも、
王国行間逐語訳では正確な単語が割り当てられているところが不思議なところです。

組織にとっては都合悪いでしょうから、
現物を手に入れるのは難しいだろうと思いますが…。

オフライン

#858 2018年04月17日 22:27:38

鬼太郎
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

ラハム兄弟 貴重な資料情報に感謝します。お恥ずかしいことに、generationと思い込んでいました。
ageでは、、、、それを 世代 に意訳でしたか、、、
JWの多くが1914年の年代と 世代に信仰を置いて人生と命を捧げたわけですから、、、、。

オフライン

#859 2018年04月18日 16:20:34

ラハム
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

鬼太郎 さんの発言:

ラハム兄弟 貴重な資料情報に感謝します。お恥ずかしいことに、generationと思い込んでいました。
ageでは、、、、それを 世代 に意訳でしたか、、、

まったくのところ申し訳ありませんが、
鬼太郎さんの言う通りでした。
1969年版と1985年版を確認したところgenerationとなっていました。
何かを調べたときと記憶がごちゃ混ぜになり、勘違いしたようです。
これからはもっと注意深くしようと思います。
ほんとうに申し訳ありませんでした。

ただし、時代と訳出している日本語訳もありますので、
参考資料として「脱塔指南」トピックに記録しておこうと思います。

オフライン

#860 2018年04月18日 17:04:15

鬼太郎
メンバー

Re: アブラハムの神の限界

丁寧にありがとうございます

オフライン

#861 昨日 16:35:29

聖書についての質問
ゲストユーザー

Re: アブラハムの神の限界

日曜の夕方に近所のJW少年がやってきた。
「今週のものみの塔は、“霊的な人とはどんな人ですか”というものでした。」
「今日は暑いね。内容は聞かないでもわかる。組織に忠実で、一生懸命に奉仕活動をしている人だろう。霊的な人の現代のお手本として、13節のおしゃれな服をやめたブラジルの姉妹と、14節の高等教育をあきらめたフィリピンの姉妹が取り上げられているけど、ダサい服を着た低学歴の人が霊的な人なの?」」
「一応説明しますと、コリント第一2:14-16が引用されて、“霊的な人”と“物質の人”の違いを学び、良い手本から学ぶということで、ヤコブ、マリア、イエスの例が説明されます。世界各地の兄弟姉妹の例も出てきます。」

「コリント第一2:14に<しかし,物質の人は神の霊の事柄を受け入れません。>とあるけれど、“物質の人”という訳は変だよ。そこで使われているのは psuchikosで、“自然の、動物の、感覚の”という意味で、人間の高次な面ではなく低次な面を指すときに使う言葉。新共同訳では、“自然の人”と訳している。動物のように本能だけで生きている人というような意味であって、物質的な人ではない。新世界訳でも、この言葉は、ヤコブ3:15では、<それは上から下る知恵ではなく、地的、動物的、悪霊的なものです。>と、ちゃんと“動物的”と訳している。」
「“物質の人”という訳がおかしいですか。驚きました。となると、それ以降のものみの塔の記事も意味がなくなりますね。例えば、4節で、<「物質の人」つまり自分の欲望に従う人は,名声やお金を得ること,自分の権利を守ることばかり考えています。>とありますが、まったく的外れなわけですね。」
「コリント第一2:14-16の新世界訳は全然ダメ。14節の後半は、<また彼は[それを]知ることができません。それは霊的に調べるべき事柄だからです。>とあるけれど、“調べる”ではなく、“判断する”。ここでパウロが言いたいのは、福音は神の深い知恵であって、聖霊によって心を開かれたもののみがその真理を悟ることができるということ。」
「そうなんですか。新世界訳の15節では、<霊的な人は実にすべての事柄を調べますが,その人自身はいかなる人によっても調べられません。>となっていますが、ここも、“調べる”ではなく、“判断する”ですか?」
「そのとおり。ものみの塔は、“霊的な人”とは、聖書やものみの塔の出版物を“調べる”人と思っているようだけど、違うよ。パウロは、聖霊が働いている霊的な人はすべてを正しく判断できるのだ、と15節で言っている。」

「霊的な人の手本としてヤコブが取り上げられていますけど、おかしいですね。」
「ヤコブが霊的な人である根拠として、ものみの塔が10節で挙げているのは、兄のエサウに襲撃されそうになった時、祈ったということだよ。その時の状況は、エサウのほうがはるかに優勢で、ヤコブは対抗できそうにない、あとは神頼みというわけで、祈ったというお話。どこが霊的な人なの?」
「ヤコブは、騙し騙されるキャラクターですよね。」
「トリックスターというキャラクター。非倫理的なことをするにもかかわらず、魅力的で、罰せられることはなく最後は勝利する。模範とするようなキャラクターじゃないよ。ホセア12:2,3にはこうある。<ヤコブに対し,その歩み方にしたがって言い開きを求めるのである。その行ないにしたがって彼に返報を加えられる。 腹の中で彼は自分の兄弟のかかとをとらえ,またその活動力をもって神と闘った。>、またイザヤ43:27では、<あなたの父,最初の者は罪をおかし,>とあるけれど、これはヤコブを指していると解釈されている。」
「ヤコブは創世記の中では倫理的評価が下されていませんが、倫理観が進歩した後の預言者たちは、ヤコブは罪深い人間と評価しているわけですね。」
「ところが、ものみの塔はヤコブをお手本にしましょうといっているわけで、倫理観のなさがよくわかるね。」

「11節では、イエスの母、マリアが取り上げられています。ルカ1章にあるマリアの詩が引用されています。ものみの塔では、<マリアは神の言葉を深く愛し,ヘブライ語聖書の内容をよく知っていました。>と、持ち上げていますけど、あり得ないですよね。」
「それはマニフィカトという詩だね。この詩の最初がラテン語ではMagnificatで始まるから、そういわれている。サムエル第一のハンナの歌と似ている。詩編やマラキ書からの引用もある。というわけで、この詩を書いたのはかなりの知識人だね。イエスの母マリアは教育など受けていないだろうし、妊娠時の推定年齢は10代前半だから、この詩の著者ではない。」
「そんなに若いのですか?」
「当時のパレスティナでは女性は10代で結婚した。マリアはまだ未婚なので、最も可能性が高いのは10代前半。14歳という説が昔からあるね。」
「ということは、ルカが自分で書いたんじゃないですか?」
「詩の内容は、かなりイスラエル民族主義的なんだ。54節には、<[神]はご自分の僕イスラエルを助けに来てくださいました。>とあるし、55節ではアブラハムが出てくる。イエスは人類の救い主というのがルカの思想だから、ルカ的じゃない。キリスト教以前の作品かも。」

「 “ハンナの歌”のハンナは、旧約聖書のおなじみのパターンで、長い間子どもに恵まれなかった女性ですよね。エホバに祈ったら、サムエルという男の子が生まれたので、その時の気持ちを歌ったのが、“ハンナの歌”ですよ。ということは、マリアよりもバプテスマのヨハネを生むエリザベツと同じ状況です。エリザベツもかなり年を取っていたけれど、聖霊の力で妊娠したということになっています。本当にあれはマリアの詩なのですか?」
「昔から、エリザベツの詩という説はあるね。詩の内容は、ハンナの歌とかなり類似しているから、おなじ境遇のエリザベツの作であるとしたほうが自然だという考えね。それから1:56節が重要で、これは詩が終わった次の節なんだけど、<そしてマリアは彼女のもとに三月ほどとどまり,>とある。この詩がマリアが語っていたとするなら、“そして彼女はエリサベツのもとに・・・”となるはずだ。もとはエリザベツの詩だったものが、写本の過程でマリアに代えられた。それは、後にマリア崇拝が高まった影響じゃないかという推測。」

「ものみの塔らしく気持ち悪いのは、<また,結婚したばかりのマリアとヨセフは,イエスが生まれるまで性関係を持ちませんでした。2人が自分の欲望を満たすことよりもエホバのご意志に従うことを大切に思っていたことが分かります。(マタ 1:25)>という部分です。」
「お得意のエホバの意志の拡大解釈だね。マタイによると、天使はヨセフに夢の中で、マリアを妻に迎えろ、生まれた子はイエスと名付けよというだけで、性関係を持つな、とは言っていないよ。」

クィック投稿

メッセージを書いて送信してください。

Board footer